日本におけるふたご研究の歴史     井上英二


 今日,この標題に掲げました「ふたご研究の歴史」ということでありますが,実はこれを標題とした後で少々後悔を致しました。と言いますのは,いろいろ身辺の事情がありまして,「歴史」などという大上段な標題を掲げるほど体系的に調べる余裕がありませんでした。従って,このような題をつけましたけれども,今日の内容は「日本から見た,ふたご研究の回顧」といったようなエッセイ的なものを何分間かに渡ってお話申し上げることで,私の責めを果したいと思うのであります。

 ただ今たいへん身に余る御紹介をいただいたのですが,その中で昭和55年に東大を定年退官したということがございました。それから間もなく7年になります。現職の頃は,しょっちゅう講義をしたり講演をしたりして色々な方にお話をする機会は沢山あった訳でございますが,定年になりますとそういう機会はだんだん減ってまいりまして,頭もサビついてきますし,舌の方もサビついて来ます。自分でももどかしいほど言葉が出て来ないので,どうも健忘失語になったんではないかと思うようなことがしょっちゅうございます。大変お聞き苦しい話をすることになると思いますけれども,何卒御勘弁を願います。

 さて,もうひとつ標題でお断りしておかなければなりませんことは,「日本における」と書いてございますけれども,日本での研究が諸外国の研究と独立に行なわれたわけではありません。従って外国での研究の発展も,重要な点は触れないわけにはまいりません。その点も御了解いただきたいと思います。

 早速本題にはいりたいと思いますが,もう皆さんよく御承知のことも述べなければならないのでありますけれども,「ふたご研究」の創始者とされている人は,イギリスのSir Francis Galtonであります。この人は1822年に生まれまして,1911年に亡くなりました。大変長生きをした人であります。この人はCharles Darwinの親戚でありまして,Galtonのたしか母親と,Darwinの父親とが半きょうだい,すなわちGaltonの母親とDarwinの父親の父,すなわちGaltonとDarwinからみて「おじいさん」が共通であります。このおじいさんは,多分2回結婚したんだろうと思います。めかけとは書いてありませんので(笑)。それで半きょうだいが生まれた,その半きょうだいの子どもどうしがDarwinとGaltonであります。GaltonはDarwinの「種の起源」などに大変影響されたようであります。

 1865年頃,Galtonが40何才かのころでありますが,その頃から彼は,才能とか知能などの遺伝といったようなことの研究を始めまして,幾つかの論文を書いているのであります。「イギリスの自然科学者」などという本・論文を書いております。これは自然科学の才能が家系的に現れる,などということを書いたものであります。すなわち,才能とか知能とかいったそういうものが遺伝的な根拠を持っているという,そういう大変初歩的と言ってはGaltonに失礼になるかも知れませんが,素朴な研究を始めていたのであります。

 1875年になりまして,Galtonは初めてふたごに関しての論文を書きました。その論文のコピーを,私はイギリスに行きました時にもらって来まして会場の後ろにおいてありますので,御覧いただきたいと思います。その論文には,英語で申しますとThe history of twins, as a criterion of the relative powers of nature and nurture という標題がついております。「氏と育ちの比較的な力を評価するためのふたごの歴史」という,このような論文を書いたわけであります。この論文の内容は,質問紙 questionnaireをいろいろなふたごに出しまして,どんな病気をしたかとか,どんなところが似ているかとかいったようなことを集めて,それをひとつの論文にしたわけであります。これが,ふたごというものが「氏と育ち」nature and nurture,今の言葉で言えば遺伝と環境ということになりますが,そういうものの問題を解決するひとつの手段になるということを初めて指摘したものでありまして,これ以前にそういうことを指摘した人は知られておりません。すなわちこのことから,Galtonがふたご研究の創始者とされているのであります。

 なお1875年には,現代の遺伝学はまだ誕生しておりません。Johann Gregor Mendelがエンドウ豆の実験を致しまして,その成果を現在のチェコのBrnoというところの自然科学の集まりで口演したのが1865年であります。今のGaltonが論文を書きましたのが,それから10年後であります。このMendelの報告はその翌年1866年に雑誌に印刷されておりますけれども,誰も注目をしなかったということが知られているのであります。後で申しますけれども,このMendelの法則は1900年になって初めて世に認められたものでありまして,1865年〜75年のこのあたりはまだMendelの発見は全く知られていなかった。当然Galtonも現在の遺伝学というものは知らなかったに違いないのであります。

 これは少し余談になりますけれども,このGaltonあたりから人間の遺伝ということが問題になってきました。しかし遺伝子,Mende1は要素(Elemente)ということばで呼んだのでありますが,そういうものが遺伝を司っているということはGaltonは想像もしなかったに違いないのであります、後に20世紀になってからも,このGalton一派の遺伝の考えは要素的なものの考え方ではなくて,ちょうど一人の人間が父親と母親に似るのは,2種類の溶液を混ぜるようなものだというような考えであったと指摘されているのであります。これを混合説と申します。言い換えますと,遺伝というものは遺伝子という要素的なものの働きによるんだということがMendelの仕事の一番基本でありますけれども,そういうことはGaltonは予想もしなかった。それで20世紀にMendelの法則が世の中に出るようになりましてからしばらくの間,このGalton一派の混合説とMendel学派とが大変な論争をやるのであります。結局はもちろんMende1学派が勝つのでありますけれども,Mendel遺伝学の考え方と違った流れが,もう既にこの時代のイギリスにあったということであります。

 なおこのGaltonの遺言によって,ロンドンのUniversity Collegeの中に優生学のDepartmentが作られ,優生学の教授というものができました。Galtonは人間を遺伝的に改良しようというような考えを持っていたようであります。これがその後の優生学のひとつの基礎になった。現在では,このような優生学なんていうことを本気になって考えている人はまずいないと言ってよいのでありますけれども,当時のヨーロッパにはそういう考えがかなりあったし,20世紀になってからもしばらくの間はそういう考えがかなり支持を得ていたという,そういう事実があります。

 なお,もうひとつGaltonの業績として忘れてはならないのは,いわゆる生物統計学というものの創始者であるというふうに考えられている点であります。私達は相関係数というものをしょっちゅう使います。いろいろな量的な形質を扱う遺伝学では相関係数を使いますが,これを考案したのはGaltonであります。そういうふうに,生物現象を数値的に扱う,統計的に扱うということを始めた人としても知られております。すなわちGaltonは,ふたご研究の創始者であり,優生学の創始者であり,かつ生物統計学の創始者であったという,非常に優れた人であったわけであります。

 このGaltonが,どういう動機からふたごに興味を持ったかということは,十分よくわかってはいないのでありますけれども,1875年にこのHistory of twinsの論文を書く前に,いくつかのふたごに関しての本を読んでいたようであります。その本の内容は,私は自分では見たことがないのでありますが,それを紹介したものによりますと,ふたごというもの自体に関することが書いてある。そしてふたごを見ることによって,昔から問題になっている「氏と育ち」のいろいろな問題が解けるだろうと,そこまで考えついたのはGaltonであります。

 すなわちこの段階でちょっと整理をしてみますと,ふたごの研究と申しましても大きく分けて2つの流れがあります。そのひとつは「ふたご自身」と申しますか,ふたごという現象についての研究,そういう流れであります。もうひとつは,ふたごを用いて「氏と育ち」あるいは「遺伝と環境」の研究を行なう,この2つの流れがあるわけでありまして,Galton自身もこの2つに注目したと考えられるわけであります。後者の「ふたごを通して遺伝と環境の解析をする」という研究方法を,ふたご研究法twin study methodというわけであります。

 先ほど申しましたように,遺伝学に関してのMendelの発見は,彼が1865年に口頭で発表し翌年印刷されたのでありますが,これは世に埋もれておりました。1900年になって,3人の遺伝学者がMendelの法則が正しいということを自分達の実験で確かめて相次いでそのことを発表し,一躍このMende1の業績が有名になったのであります。このできごとをMendel法則の再発見と呼んでおりまして,これが現代の遺伝学の誕生の年となっております。遺伝と環境の問題ですから,当然遺伝学との密接な関係がふたご研究にはあるわけでございます。

 その後の流れで,いくつか代表的なものを申し上げたいと思います。

 1900年にMendelの法則が再発見されて,遺伝学が出発した。そこで,人間の遺伝学もこの時から出発したと言っていいのであります。1920年ぐらいまで,ふたごに関しての研究にどういうものがあったかということをいくつか申し上げてみますと,まず1901年にWeinbergという人が,ふたごの出産の遺伝に関しての論文を発表しております。Mendelの法則再発見の翌年であります。このWeinbergという人はドイツの精神科医であります。精神科の医者でありながら,数学に興味があったらしいんですね。

 あとふたつWeinbergは有名な仕事をやっておりまして,そのひとつは,これはやっぱりふたごに関係することですが,現在Weinbergの鑑別法と呼ばれているのものを考案したことであります。これは,ある集団でふたごの性の組み合わせ,これには男・男,男・女,女・女の3種類あるわけですが,その数から一卵性のふたごと二卵性のふたごの比を推定するというもので,その方法を初めて考え出したのがこのWeinbergであります,現在から考えればこれは至って簡単なことなのでありますが,当時としてはこれは画期的なことでありまして,現在でもこのWeinbergの鑑別法は使われております。

 もうひとつ,Weinbergが数学的なことでひとつの仕事をしましたのは,遅発性の疾患,たとえば分裂病なんかが一番いい例でありますけれども,その遅発性の疾患の罹病率を推定する方法を考え出したのであります。これはお考えになってもすぐわかるでしょうけれども,1才児の集団をとって分裂病が何人いるかと調べてみても,これは1人もいないわけです。従って、その集団の中での分裂病の罹病率は0ですね。しかし分裂病というのは,10才過ぎてから12〜3才から20才ぐらいまでの間が一番よく起こります。後でももちろん起こりますけれど。そうしますといろいろな人類集団の中で,分裂病がどのくらいあるかということを推定する時に,成人してからの大人の集団で調べればいいんですけれども,そうしますと死亡率が高かったりしますと実際の罹病率より低く出てくるわけですね。そういう病気はたくさんあるわけで,たとえば糖尿病だってそうですし,結核だってそうです。いくらでもそういう病気はあるわけです。そういう遅発性疾患の罹病率を推定する方法を考えたのがWeinbergであります。これをWeinbergの簡便法と言っておりますが,これは現在でも疫学あるいは遺伝疫学で使われている方法であります。これがWeinbergの話であります。

 もうひとつ1920年代までのふたごに関する仕事として非常に重要なのは,これは人間のふたごではなくてアルマジロの四つ仔なんですが,アメリカのNewmanという生物学者が1917年に「ふたごの生物学Biology of Twins」という本を書きました。Newmanは,中南米にいるアルマジロのあるひとつの種,これは多胎をいつでも産むので有名だったんですが,それの発生学を調べました。たくさん論文を書いているのですが,それをまとめて本にしたのであります。

 さっきから一卵性とか二卵性とか申しておりますが,人間のふたごに一卵性と二卵性の二種類があるということは,まず疑いのないことであります。しかし,これは誰もその発生を見た人はいないのであります。色々な間接的な証拠から,2種類のふたごがあるということを推定するのであります。そのひとつの重要な根拠が,このアルマジロの発生についての所見であります。すなわち動物における多胎の発生から類推して,人間にもそれがあるという考えが一般に認められている,ということであります。

 さて1920年代までの仕事は,もちろんこの他にたくさんあるんでありますけれども,最も有名な,あるいは重要だと私が考えておりますのは,今のWeinbergの仕事とNewmanの仕事であります。

 1920年代になりますと,一卵性のふたごと二卵性のふたごを診断する,卵性診断の方法が実用化されるようになりました。それまではあまりそういうことが一般化していなかったのであります。すなわちGaltonはもちろんそうでありますが,「似ているふたご」と「似ていないふたご」ぐらいの漠然とした分別をしていたわけであります。

 1924年に,オランダの皮膚科医Siemensという人が,一卵性と二卵性を鑑別する方法を考え出しました。これは,現在では日本語で「多元的類似診断法」と呼ばれております。multidimensionalであります。二卵性のふたごでも,あるひとつの遺伝形質をとると似ていることがいくらでもあるんですね。これは同胞,すなわちきょうだい程度の遺伝子の共通性があるからです。たとえばふたりともA型の血液型であるということもあるし,O型であることもある。そういうふうに似ていることはいくらでもあるわけです。ですから,あるひとつの遺伝形質をとって一卵性か二卵性かを鑑別しようと思うと,二卵性のふたごを誤って一卵性と鑑別する可能性が大きいわけです。ですからそういう形質をたくさんとりまして,二卵性のふたごを誤って一卵性と診断する確率を0に近づける方法が多元的類似診断法であります。当時は人類遺伝学がまだ十分に発達しておりませんでした。それでSiemensは様々な人類学的な形質を使って,この鑑別をやったのであります。Siemensは皮膚科の先生だったので,特に皮膚であるとか,毛髪,そういうものの特徴を重要視して一卵性,二卵性の区別をやりました。それで,すぐ御想像いただけるように,ヨーロッパ人ですからブロンドもいればブリューネットもいる,黒いのもいる。目玉も青いのもいれば茶色のも黒いのもいる。ということで,一卵性ふたごではそれらはみな同じになるけれども二卵性では違うことがある。特にSiemensはそういう色素に重点を置いて鑑別をしたのであります。ですから,Siemensの方法は別名「色素診断」などと呼ばれました。

 Siemensと一緒に仕事をしましたのが,ドイツの,これは内科医から人類遺伝学者になった人だと思いますが,von Verschuerであります。これは岡嶋道夫先生の先生ですね。岡嶋先生はこのVerschuerのところに留学をなさったのであります。1925年ぐらいから,VerschuerはSiemensと一緒にこの卵性診断ということをやって,かなり正確な方法を完成に近いまでに作り上げたのであります。私達も最初はその方法を使いました。ただし日本人は,みんな髪の毛は黒いしブロンドはまずいませんから色素診断は使えないわけです。それでそのままSiemensとVerschuerの方法を使うことはできなかったのであります。

 ただこの方法の非常な難点は,大変な経験を要するということです。いきなりふたごを連れてこられて,SiemensとVerschuerの方法で一卵性か二卵性か区別しろと言われてもまずできません。たくさんのふたごを見ていて,初めてできるのであります。このことは,ある方法でその似かたを数量化しますと2つの山ができることからもわかります。よく似ている人の山と似ていない人の山であります。その間に移行型の人がごく少数でてきますけれども,かなりはっきりしたbimodalな山ができます。ということで,実際SiemensとVerschuerの方法で卵性診断をやった人ならば,そういう経験はみんな持っているわけで,かなり正確にできるものであります。

 これによって,先ほど申しましたtwin study method,ふたご研究法というものが初めて根拠を得た。それまでは一卵性か二卵性かはかなり漠然としたもので,これはよく似てるから遺伝的に等しいんだろう,ぐらいのところでやっていたのが,少し科学的と言いますか,客観的な根拠を持つようになったと言えるのであります。

 それでいよいよこのあたりから,日本の研究にはいるのでありますけれども,1920年前後から第二次大戦終了まで,いわゆる戦前戦中の時代でありますが,文献を調べてみますと日本での研究は結構たくさんあります。私が調べた範囲で一番古い報告は,1917年に出ておりました。それ以前にも,たとえば「品胎の実験」とかいうものがありますけれども,これは産科あるいは助産婦の立場からの報告でありまして,1917年になりますと,いわゆる「ふたご研究」らしいものが現れてきます。その後は著者の名前はとてもたくさんあって申し上げられませんが,どのような研究が日本で行なわれたかと申しますと,まず出産の統計があります。頻度の問題であります。それから皮膚紋理,主として指紋であります。それから血液型,それからいろいろな心理形質。この時代に既にそういう報告があります。それから歯科の関係の様々な形質。それから循環機能,身体計測のような人類学的な形質。その他の人類学的な形質,たとえば「つむじ」。つむじがどちらに巻いているかとか,どこにあるかというような問題であります。こういうものが1910年代の終わりから,戦前の日本でかなりたくさん発表されています。

 それで,この時代の日本で代表的ないくつかの研究を申し上げなければならないのですが,そのひとつは1926年の「心理学研究」という雑誌の第1巻に出ている論文であります。小保内虎夫という先生が「双生児による心的遺伝の研究」という論文を書いておられます。1926年と言いますと,今のSiemens,Verschuerの仕事が出た直後でありますから,かなり早い時期であると言ってよろしいかと思います。小保内虎夫という先生は,昔の東京文理大,現在の筑波大,その前の東京教育大学の心理学の教授でありまして,私も個人的に存じあげていましたがもう亡くなられました。このかなり早い時期に,心理形質が遺伝と環境によってどのように作り上げられるか,という問題を取り上げられているのであります。もちろん現在からみれば,これは歴史的な価値ということになろうかと思います。

 あと3人,この時代に忘れてはならない先生がおられるのですが,そのひとりは,駒井卓先生。彼は京都大学の動物学の教授でありまして,私もよく存じあげておりましたが,もう亡くなられました。1926年頃から,福岡五郎という人と一緒にふたごの研究を次々に発表なさいました。そのうちのひとつが1937年の「日本人の双生児の研究」という単行本で,この会場の後ろに置いてございます。

 その他にこの駒井先生の仕事で有名なのは,ふたごの出産頻度の研究報告であります。駒井先生が出産頻度の研究をなさるまでは,病院におけるふたご出産の報告などというものがあったのです。けれども,当時は出産を病院でやるという習慣は一般的でなかった。自宅出産が大部分であったと思われます。これは産婦人科の先生,吉田先生などに伺えば正確なことがわかると思いますけれども,どうもそういうことらしかった。戦前のことであります。そこで駒井先生は産婆にquestionnaireを送って,産婆からの回答によってふたごの出産頻度,その地域差,一卵性と二卵性の頻度といったようなものをお調べになったのであります。産婆なんかにそんなものを出したって正確なデータなどは得られないだろうと,実は私は思っていたんでありますけれども,後でちょっと申しますけれども,戦後出生届が改正されてから出産頻度を私どもが調べた結果では,実は駒井先生のデータはきわめて正確でした。びっくりしたことがございます。

 その他,この駒井・福岡両氏は,ふたごの卵性診断であるとか,あるいは指紋であるとか,それから心理形質,そのようなものも調べております。彼らは心理学者ではありませんでしたけれども,そのようなものも調べております。それから御承知の方もあるでしょうけれども,特に一卵性のふたごではmirror imageという現象が時々ございます。日本語では「鏡像現象」と言っておりますが,たとえば片一方のふたごの左右差がある。たとえば右に何かがあるというような場合に,相手のふたごの左にそれがある。ちょうど鏡に移したような関係でその特徴が片側に出る。こういう現象でありますが,こういうものも駒井先生はお調べになっておられます。

 それからもうあと2人,この時代でどうしても名前を忘れてならない方のうちのひとりは,谷口虎年という先生であります。この先生は解剖学者でありまして,東京女子医大の解剖学の教授から,慶応大学医学部の解剖学の教授にお移りになった方で,もちろん故人であります。この先生は,双胎胎児の形態学的研究を教室員と一緒に次から次へと,非常に膨大な数の研究をされました。おそらく何百編という論文を教室員とともにお書きになったのであります。たとえば血管の走行はどうなっているかとか,腎臓の形態はどうなっているかとか,そういう解剖学的な研究であります。ただし,その一卵性・二卵性の鑑別は,胎児,死亡した胎児でありますからできない。そういう欠陥はありますけれども,とにかく微に入り細を穿った研究であります。これは,1941年に「ふたごの解剖学」というドイツ語の本にある程度おまとめになりました。これも会場の後ろに置いてございます。これはドイツ語でヨーロッパにも出たわけですが,あるドイツ人に間接的に聞いたのですけれども,大変感心をして,これほど念を入れた研究は日本人でなければできないという、そういう評価が一般的であったと聞いております。この先生の仕事は,そういう意味で大変高く評価されるものであります。

 それから,この時代にもうひとり忘れてはならない先生は,これは私の先生でありますが,吉益修夫という先生であります。この先生は精神科の御出身でありますけれども,晩年は犯罪精神医学の御専門でありました。1941年に,犯罪を犯したふたごの研究をなさいました。これは非常にユニークな研究でありまして,当時ドイツを中心に7つぐらいこの犯罪のふたごの研究が出ていて,犯罪というのは運命であるというようなことが当時一般に信じられていたのであります。ドイツ語で申しますと,Verbrechen als Schicksal,「運命としての犯罪」などといわれ非常に有名になりました。そういう本もできました。ところで吉益先生のデータの中には一卵性のふたごの中で,ひとりがきわめて敬虔な牧師,その相手が常習の犯罪者,そういう人を扱うております。これはきわめておもしろいことであります。私はもちろん,そのふたごを見たわけではありませんが,吉益先生の論文を読んでみますと,そのふたりは言わば非常に意志の弱い人達で,環境に順応してしまう。簡単に申しますとそういうことになります。それで片一方の方は大変敬虔な家庭に育ち,片一方の方はそうでない家庭に育った。それでその通りになってしまったというものであります。それで意志が弱いという点では共通している,しかしそこには大変大きな環境の影響がある,ということを指摘されたという点で,当時世界的に有名になった論文・業績であります。これは,その後,戦後になって追跡の報告をなされておりますが,最初の報告がありましたのが1941年であります。

 なおこの他,吉益先生は「てんかん」であるとか,精神薄弱のふたごの研究もなさいました。

 それから戦前の昭和17年になりまして,私のもうひとりの先生の内村祐之先生が中心になりまして,私の先輩の岡田敬蔵先生,前の松沢病院の院長であります。それから諏訪望先生,前の北海道大学の精神科の教授でありました。そういう方々が中心になりまして,双生児集団という方法を使った人間の性格,まあ人格と言ってもいいんですが性格Characterの研究をお始めになった。これが昭和17年(1942年)であります。これは実はドイツの心理学者のGottschaldtの研究がその刺激になったのであります。これはどういうことであるかというと,ふたごを集めてきて一緒にキャンプみたいな生活をするわけです。その中でいろいろな心理実験をやったり,あるいは日常生活を観察したりして,性格というものが一卵性のふたごではどのように似ているか,二卵性のふたごではどのように似ているか,あるいは似ていないかということから始めまして,遺伝と環境の作用を調べるという方法であります。実は,戦後私が一番最初にやりましたふたごの研究も,その継続なのであります。

 内村先生がそういうことをなさいまして,私は卒業したのは戦中なんでありますが,戦後兵隊から帰ってきて,そして内村先生が「ふたごをやってみろ」と言われる。私は「ふたごなんて,そんな変なものやったって,おもしろくも何ともない」と思ったのですが,まあ内村先生がそう言われるので,昔のことですから,今の若い人は教授に言われたって言うことを聞かないんだろうと思いますけれど,当時の我々は純朴ですから(笑),教授に言われればそうしなければいけないのかと思う。だけどふたごなんて見たこともないし,いったい何になるのかとだいぶ悩んだのであります。それでしょうがないから,東京都の学校に手紙を出しまして,どんなふたごがいるかということを報告してもらって片っぱしから学校を訪問して見て歩いた。そんなところから私はふたご研究というものを始めたのであります。ところがやってみたらだんだんおもしろくなってしまって,とうとう抜けられなくなってしまったというのが,私の裏話しであります。

 さて,この戦前戦中の時代の外国における研究はもちろんいろいろなものがたくさんあるわけでございますが,主な研究をいくつか御紹介しておきますと,1927年にBauerというドイツの人でありますが,ふたごの間で皮膚の交換移植をやりました。これは現在免疫学が非常に発展をいたしましたけれども,これはそのひとつの根拠になっている実験であります。皮膚を人に移植いたしましても,これはつきません。脱落してしまいます。そのたったひとつの例外が一卵性のふたごなんです。これは遺伝子が全く等しいですから,相手の皮膚をもらっても自分の皮膚と区別ができない。それで生着をするわけです。そして交換移植,ふたりで皮膚を交換して移植するわけですが,それが成功した。そういうことを初めて報告したのが,1927年のBauerの報告であります。

 それから1928年には,アメリカの児童心理学者のGesellという人が,Thompsonという人とふたりでco-twin controlという方法を使った研究を発表いたしました。co-twinというのは「ふたごの相手」という意味であります。co-twin controlというのは,これはなかなかうまい言葉を考え出したものだと思いますけれども,ふたごの相手の方に一定の操作を加えて,それでそのふたりの比較をするという,こういう方法であります。それで,GesellとThompsonがやったのは,たった1組の一卵性ふたごの子どもであります。小さい子で,まだ生後1年未満であったと思います。その一卵性のふたごの片一方に運動の訓練をするわけです。たとえば階段を昇る訓練とか,いろんなことをやる。そうすると,もしその運動機能の発達が環境によって非常に大きく左右されるものであれば,訓練をした方がずっと先に伸びるはずですね。そういう仮説を立てまして訓練をしたわけです。ところで実際にそれをやってみますと,片一方が歩けるようになると,もう片方の訓練していない方もちゃんと歩けるようになる,ということを報告したのが,このGesellとThompsonであります。GesellとThompsonの研究は,たった1組のふたごでありますけれども,人間の発達,彼らがみた限りの発達は遺伝的に規制されている,そういう結論にならざるを得なかったのであります。これは1928年であります。

 それから1937年に,先ほどのBiology of Twins,あのアルマジロの本を書いたNewmanが,他の2人の人と一緒にある本を書きました。これも後ろに出してありますけれども,一卵性のふたごで片一方がヨーロッパ,片一方がアメリカで育ったといったような人を集めまして,それだけ違う環境にあるのになおよく似ているという,簡単に言えばそういうことを書いた本であります。これは非常に有名な本であります。これは別居のふたごを初めて克明に観察した最初の報告と言っていいと思います。

 それからもうひとつちょっと逆上りますが,1935年にドイツの産婦人科医のSteinerという人が,一卵性のふたごには絨毛膜が2個のものもあるということを報告しております。この時代から絨毛膜とふたごの卵性の関係が,明らかになってまいりました。それまでは,絨毛膜1個は一卵性,絨毛膜が2個のふたごは全部二卵性と考えられていたのでありますが,そうではない。一卵性の場合には,絨毛膜が1個の場合と2個の場合の2種類があるということを初めて指摘したのはSteinerで,1935年であります。それで,この事実はふたごの研究家はよく知っていたのでありますけれども,こんなことを言うと怒られるかも知れませんが,日本の産婦人科の教科書や助産婦の教科書には,戦後,1960年近くまで,一卵性の絨毛膜は1個と書いてありました。これは,ずい分昔の考えがそのまま載っていたわけであります。

 1941年にEssen-Mollerというスウェーデンの精神科の先生,これはまだ健在で,私も非常に親しい人で,分裂病のふたごの研究で非常に有名な仕事をやった人でありますが,「ふたごの経験的卵性診断法」という本を書いたのが1941年であります。先ほど申しましたように,Siemens,Verschuerの方法は,遺伝だか何だかわからないような,例えば髪の毛の色だとか,目玉の色だとか,そういうものをたくさん調べて,大変よく似ているものを一卵性,似てないものを二卵性とした,大変経験的主観的な方法であります。Essen-Mollerは,Bayesの定理を使った「一卵性である確率」,「二卵性である確率」を計算する方法を考え出したのであります。これがEssen-Mollerの方法と言われているのでありますが,その後の卵性診断は原理的にはEssen-Mollerの方法を使うようになりました。すなわち,たとえばABOの血液型であるとか,その他の血液型であるとか,そういった遺伝形質をたくさん調べまして,それで一卵性である確率,二卵性である確率を計算するのであります。この時代のヨーロッパ,アメリカにおける研究で重要なのは,以上のようなものであります。

 時間が迫ってまいりましたので,戦後のことを簡単に触れますが,1948年に,先ほどお話がありましたように東京大学の教育学部の附属学校が発足いたしました。これは,もとの官立の東京高等学校であります。東京高等学校が解散いたしまして,東京大学教育学部附属中学校となったのであります。間もなく高校もできました。その時私の聞いたことによりますと,教育学上の問題を研究する実験校である,という名目で発足し,そのためにふたごを入学させるという方針をお立てになって,現在まで続いているのであります。

 初めは,ある一定の地域から無選択に,抽選でふたごを入学させていたのであります。第1年度の昭和23年は8組,中学2年に3組,1年に5組だったと思いますが,その時の卵性診断は私ひとりでやりました。ほとほと忙しかったものです。これはたちまち有名になりまして,東大の附属へ行くとふたごは優先的に入れる。確かに優先的に入れるわけです。一般の方は40倍とか50倍の競争率です。これはなぜそうかと言いますと,余計なことですけれども東大の教育学部の附属にはいっていると,東大の大学にそのまますっと行かれると思ったんじゃないかと思うんですけれども(笑),大変な倍率で,ところがふたごの方は数倍なんですね。しかもふたごで何組かを取るわけですが,抽選で落ちてしまったのが,またもう一ぺん一般の方と同じ抽選ができるというので有名になりまして,大変な人数が押しかけたんです。昭和24年はたしか60組ぐらいが押しかけました。その時は12組しか取らなかったんですけれども,私のおりました狭い脳研究所の中で検査をやった記憶がございます。

 1949年から東京大学双生児研究会というものを発足させました。これは全く任意な研究会でありましたが,ここで共同研究を始めたのであります。どんな教室が関係したかと申しますと,法医学教室,岡嶋先生が当時いらっしゃいましたが,そこでは血液型とか皮膚紋理とかの検査をしていただきました。それから,内科,人類学教室,解剖学教室,文学部の心理学教室,教育学部の教育心理,それから医学部の整形外科,脳研究所,そういったところの関心のある研究者が集まって,同一のふたごを各方面から調べるということをしたのであります。みんなで集まってデータを交換したようなこともあります。

 これも余談になりますが,ある時,一卵性か二卵性か非常にむつかしいケースがございました。そこで皆さんに集まっていただいて,これは一卵性か二卵性かということで,各方面からのデータを集めたんです。先ほどのSiemens,Verschuerの方法でやりますと,みんな一卵性か二卵性か,見当がつくわけです。そういった討論会のようなものをやったことがございました。そうしますとある人が,「これは間違いなく一卵性だ」と言いますし,別の人が「これは間違いなく二卵性だ」という。そういうふうにやって,めいめいが自分の関心で同一のふたごを観察し,それを集めるという,そういう共同作業をやったわけであります。それで歯の形態でありますが,この歯冠の形態を中心に見ておられた方があるわけですが,その先生はもう亡くなった先生ですけれども大変厳密な見方をなさる先生で,全く知識なしにそのふたごの歯の印象だけを見て,これは一卵性とか二卵性とか診断なさるわけですね。それで私どもがやった卵性診断と比較してみますと,ほとんど99%ぐらい一致します。それで歯の形態というものがいかに有用かということがわかるのでございますけれども,ある時その先生が,1組のふたごで上顎は一卵性,下顎は二卵性と言われる。あれにはまいりました(笑)。まあそういうことはあるわけですね,下顎だけに差が出てくるということが。それは最終的にどうしたかはちょっと忘れてしまいましたけれども,多分一卵性にしたんだろうと思いますが,これは裏話でございます。

 時間がございませんのであと少し端折りますけれども,1951年からこの東京大学双生児研究会が母体となりまして,文部省の科学研究費をもらって双生児研究班というものを組織いたしました。これは中断した年度もありましたけれども,前後10年間継続いたしました。文部省もこの研究は大変高く評価してくれたのであります。それで双生児研究班における研究業績を中心に集めたのが,先ほどちょっと話にありました「双生児の研究1,2,3」でありまして,これも後ろに置いてございます。

 私自身は,先ほど申しました岡田先生,諏訪先生の後を継ぎまして,双生児集団における性格研究というようなことを始めました。その時には,別居したふたごを集めたというような記憶がございます。それから,卵性診断の安上がりな方法の開発であるとか,あるいは頻度の調査,これは先ほどちょっと申しましたけれども駒井先生のデータがいかに正しいかということを追試,追認したのであります。これを一緒にやってくれた人が,現在の遺伝学研究所所長の松永博士と,それから亡くなりましたけれども高木正孝先生であります。あるいは御存知かも知れませんけれども,高木先生は東大の心理学科を出られましてドイツに留学しておられました。ドイツのふたごの研究のメッカである,ベルリンのDahlemという研究所にしばらくおられた方であります。先ほどちょっと申しました岡嶋先生の先生のVerschuerも,また双生児集団の研究を始めたGottschaldtも,いずれもこのベルリンDahlemの研究所にいた人であります。高木先生もそこにおられたのであります。

 この後私がやった仕事としては,てんかんであるとか,分裂病であるとか,神経症であるとか,脳波とかであります。それからco-twin controlを使った薬の効果の実験であるとか,これは精神遅滞児の発育を促す薬でありまして,ある種のかたちの精神遅滞児,まあ精神薄弱児というほどひどくはないが少し遅滞した,そういう子どもに明らかに効果がありました。残念ながら現在この薬は発売中止になっております。

 それから外国で,この頃どんな傾向であったかということをちょっとだけ申しますと,先ほどの国際双生児研究協会,これは1974年に発足いたしまして,この年に第1回の双生児研究の国際会議が行なわれたのであります。その時のProceedingなどは今泉先生がお持ちになって,後ろに置いてありますから御覧いただきたいのですけれども,これの中心人物はLuigi Geddaというイタリーの先生でありました。現在80何才かになっておられます。この先生が,ヴァチカンのバックがありまして,今の法王の前の前の法王だと思いますけれども,個人的な友人でありまして,そういう関係でおそらくお金もヴァチカンから出たんではないかと我々想像しておりますが,大変な金持ちらしい。それでローマに,Johan Gregor Mende1と名前をつけた,ふたごの研究所を作りました。私は行ったことはございません。これはふたごだけの研究所でございます。最近,5年程前になるでしょうか,その分室となる新しい研究所を,イスラエルのイエルサレムにつくりました。これは今泉先生が行ったことがおありかと思いますけれども,私は行ったことはございません。このLuigi Geddaという人はイタリーにおけるふたご研究の中心人物でございまして,そのお弟子さんたちに何人かのふたご研究の専門家があります。

 先ほど岡嶋先生が,私のことを日本のGeddaなんておっしゃったんですけれども,似ても似つきません。第一私よりもずっと「じいさん」であります(笑)。私なんかもしょっちゅう悪口を言っていますけれど,この人は金を持っているためでしょうか,第2回の国際人類遺伝学会を主催したんであります。これは1961年であります。その時私も機会があって行くことができたんでありますが,とにかく大変派手でありまして,博物館を借り切ってレセプションをやる。いらしたことのある方もおありでしょうけれども,ローマ郊外にあるティボリという噴水で有名な公園がございますけれども,それを借り切りまして,そこでもレセプションをやるんですねえ,まあびっくりいたしました。行ってみましたら,大きいのから小さいのまでふたごが20組くらいずらっと並んで我々を迎えてくれる。「見せ物みたいなことをして」なんて悪口を言っていたんですけれども,そういう人であります。

 なお,このGeddaが中心になりまして,Acta Geneticae Medicae Gemellologiaeという雑誌を発刊しております。これは確か1952年から発刊しているのではないかと思いましたけれど,いくつかその雑誌が後ろに出ておりますので御覧ください。Geneticae 遺伝学,Medicae 医学,Gemellologiae 双生児学ですね,そういうActaであります。

 戦後の双生児研究の発展は大変なものでありまして,それをひとつひとつ挙げておりましたらとても何時間あっても足りませんので,この辺で切り上げたいと思いますけれども,ひとつふたつ,ちょっと最後に時間を拝借して付け加えておきたいと思いますことは,最近では組み換えDNAその他で,人間の遺伝子が我々の手に眼前に見えるようになっているということは皆さん御承知だと思うんですが,しかしその遺伝子DNAレベルでわからないような人間の個体差,形質というものはたくさんあるのでございます。特にひとつの遺伝子だけでなくて,たくさんの遺伝子が協同して働くような人間の複雑な個体差というものの分析には,依然としてこの「ふたご研究」が有力であるということは当分変わらないと思います。病気の中でも,そういうものはたくさんあるわけでございます。たとえば糖尿病であるとか,先ほどから申し上げております精神分裂病であるとか,あるいは結核みたいな感染症でさえそうであります。そういうものはたくさんの遺伝子と,そして特定のいくつかの環境との相互作用によって発症するものでありまして,そういうものはDNAの一箇所を調べたってわかりっこありません。やはりこのふたごのようなものを使って見当をつけて,そこからさらに深く入って行くという,そういうstrategyがどうしても必要でございまして,そういう意味でふたごの研究というのはきわめて有効であろうと思います。

 それから,もうひとつ時間を拝借してつけ加えておきたいと思いますことは,私の経験から,たとえばある実験手段がある。心理学で言えば何かを診断するテストがあったとします。それをふたごに使って,ふたごの性格なり人格の一面を調べるという,こういう方法が一般には行なわれております。これは心理学だけではありません。たとえば医学的な検査でも同様であります。その結果,一卵性ではこのくらい似ている,二卵性ではこのくらい似ているというデータは簡単に出てまいります。そういう種類のデータはもう山のように出ております。しかし問題は,そういうことをやりましても,たとえば人間の心理的な特徴の基本は何かというようなことは,それだけでは全くわかりません。私は悪口を申しまして,そういう研究は数字の羅列に過ぎないということを言いましたら,それで世界的に有名な心理学者がそれ以来私の顔を見ると逃げるようになったと(笑),まあそのようなことはございますが,まあこれは余談ですけれども,私の経験では,そういうものを実際やってみて,どういうデータが出てくるかということを見ることも確かに必要なんですが,とにかくふたご自体の行動ならば行動,あるいは特徴なら特徴というものを御覧になる,ということがきわめて有効であるということであります。すなわち,ある形質がふたごでどのように似ているか,ということではなくて,ふたごで似ているものは何か,という逆の発想であります。これは実は非常に有効でありまして,私どもは人間の行動の基本となるようなものを,それである程度見当をつけたと実は思っているのであります。

 これから益々活発に,この研究をお進めになることを望みますけれども,その時に是非,でき上がったものをふたごで調べるということの他に,ふたごでいったい何が似ているかということの目をもって御覧いただくということが,本当の学問の基本を築き上げて行く上に,非常に大事だというふうに痛感をしている次第であります。

 大変長い時間御静聴をいただきまして,ありがとうございました。


後 記
 この原稿は1987年1月17日に東京大学山上会館で開かれた双生児研究会創立総会における,井上英二先生の御講演を記録したものでございます。井上先生には,再三御校閲の労を賜わりました。ここに記しまして,厚く御礼申し上げます。

 なお、本稿は論文として、「遺伝」 41(6):47-52, 1987に掲載されています。