4 意見交流  
  これまでいただいメール、おたより、それに対しての返信を基本的に順次掲載します。意見を交流していきたいと考えています。


@ 金谷一郎さんからのメール


 
ホームページ早速見せていただきました。日川高校・校歌で4件目にヒットしまし た。これまでの経緯と問題点の要旨が良く分かる内容だと感じました。Eメールだけ でなく,読者からのコメントと河西さんたちからの回答が公表されるしくみがあると 更なる進展の可能性が出てくるのかなと感じました。      金谷

A 淡路克浩さんからのメール
                          
 河西久様
 ご無沙汰しております。関ブロ集会が終わった後風邪で寝てしまい今日に至りまし た。何か一言ということでしたので下記のような駄文をとりあえず書きました。ご笑覧ください。

 2007年暮れ12月28日山梨県石和温泉で開催された高生研関ブロ集会で、私 は「日川高校校歌問題を考える」(「校歌問題」と略す)という交流会に出席しました。
 「校歌問題」は,かって何年頃だったでしょうか高生研機関誌『高校生活指導』に同校の卒業生・平沢欣吾氏が取り上げましたが、そのとき以来のことになります。
 あらためて話を直接聞くと、それは単なる校歌問題にとどまらない、人間の精神的自由に関する問題と人格的自立を迫害するというカルト的側面を持つ問題だと直感しました。私は20数年以上も前になりますが、近隣の高校に勤務していたことがあります。 そのときに話題となっていたのは新入生に対する応援指導のあり方でした。一年生を長時間座らせ,上級生による「日川魂」を注入するという旧軍隊の内務班を思わせるシゴキです。人間性=人間らしさを徹底的に解体するという過酷なもののようでした。 問題なのは、そのシゴキに長時間耐え抜くと奇妙な悦楽の世界が訪れるという倒錯した精神状況です。今ではそうした応援練習はなくなったと思いますが、校歌問題が未解決ということはこうしたカルト的精神がその背後に今もくすぶりつづけていると思わざるを得ません。「スメラミコト」の問題とカルトとはメンコの裏表のことだと痛感したのです。  2008年1月11日 
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浦和大学短期大学部 淡路 克浩


B 一高校教師から

河西 久 様
 本年もよろしくお願い申し上げます。
 私は、昨年の高生研関ブロ集会の交流会で、河西さんに質間した者です。不躾な質問で、やや誤解を招いたところもあったと思いますし、また失礼に及んだところもあったかと思いますので、改めて私が質問したかったこと(というより、主張したかったこと)を整理して申し上げたいと考え、お手紙を差し上げる次第です。私は日頃から河西さんの行動には敬意を持っており、私がその立場におかれたら、河西さんほどの徹底した行動はとれなかったであろうと思っています。それを前提として申し上げたいと存じますので、突然この手紙を差し上げたことともどもご海容いただきたく存じます。
 私が、「なぜ校歌を問題にするのか」と質問したのは、同窓生が校歌を問題とする場合は「愛校心」にもとづいて問題とすべきではないのか、そういう形式をとるべきではないかと主張したかったからです。校歌のそれ自身の是非を憲法という視点から検討するのではなく、現代を生きる日川高校生(即ち後輩)が、その歌を歌うことによって現代を生きる勇気が与えられるのか、その歌は21世紀を生きる日川高校生にふさわしいのか、という点から問題にされねばならないと考えるからです。両者は結局一致するとも考えられますが、提起の仕方により同窓生への影響は大きく異なると思います。決して歴史認識から出発すべきではないと考えます。要するに現代の校歌はどうあるべきかとポジィティブに提起すべきであって、この歌詞では憲法上許されないという形のネガティブな提起はすべきでないと考えます。この視点に立つとき、伝統だからという主張は、それは一部の同窓生の利己的な懐古趣味であって決して本来の愛校心によるものではない、現在の日川高校生が未来に羽ばたくためには利益にならない、という主張がはじめて可能となるはずです。
 ところが、「ほんとうの愛校心はだれが持っているのか」という同窓生間の、或いは生徒・教員間の愛校心の争奪戦とすべきところ、校歌の歌詞に批判的な外部の者が加わることによって、さらに裁判という校外に存在する司法権力の使用をはかろうとしたことにより、校内・同窓会内の問題から、校外のものがよってたかって日川高校にダメージを与えようとしているとうけとられる状況に変質しているのでないでしょうか。外部のものによって日川高校が包囲されているという図式です。このような状況の中で河西さんたちの運動に加担することは、日川高校に対する裏切りであるという意味を持つようになり、河西さんたちから運動への協力を求められることは、とても「困る」という事態に至っています。内部の愛校心問題から、外部の歴史認識を問題とする勢力と日川高校・同窓会内部の愛校心勢力の対抗に問題が変質している以上、河西さんたちの運動への協力はそのように位置づけざるを得なくなっているのです。        
 一人であっても、「歴史認識上、正しいことは正しい」と主張しなくてはならないし、実際そのような場面はあります。しかし、果たしてこれをすべての人に要求できるでしょうか。現実の状況は、これはすべての人に「戦士」であることを求めることと同様な意味をもっています。河西さんたちの運動への参加は何だか踏み絵を踏むような(踏まないような?)決断を求められるように思います。
 考えを充分整理しきれていないのですが、私たちの運動は誰でもできる大衆的なものでなければならないと思います。失礼な言い方ですが、河西さんたちの運動の展開の仕方は、味方を孤立させ、敵を団結させるような面があるのではないかと思えます。それは「歴史認識」を問題とすることに象徴されています。
 大半の同窓生にとっては「天皇の勅」という歌詞は大きな意味をもっていないと私には思えます(現実に同窓生に戦前のような天皇主義者が多いとは想像できません。田辺国男元同窓会長であっても同様ではないでしょうか。現実社会でこのような特殊な天皇主義を振り回すものは異端者であり、通常の社会生活を送ることは出来ないでしょう。)問題は、たいした意味を持っていない校歌の歌詞に異を唱える者は、日川高校に汚らわしい非難を投げつけ、日川高校の存在意義を否定する愛校心に欠ける者たちである、というイメージが共有されているらしいことではないでしょうか。本来は天皇主義を主張する者たちが孤立し、それを批判するものが大多数となるべき状況が、全く逆になっていることは、地域の特殊性があるでしょうが、河西さんたちの運動がボタンを掛け違えているところがあるのではないでしょうか。
 私は事態の推移と困難の状況の発生の理由を以上のように捉えています。外部から見ているので、とんちんかんなところも多いと思いますし、事態の本当の姿が見えていないかもしれません。
 現在の校歌の歌詞が、戦後変更されなかったことは驚くべきことです。これは地域的な特性にもよるのでしょぅか。国会議員の広瀬久忠の反動的な役割も大きかったと思いますが(この影響は全国的なものであると思います)、田辺国男が同様な主張を持っていたとは思えません。また地域や同窓会が天皇主義で凝り固まっているとは到底思えません。現在、もし一部の政治家に連なる同窓生を中心とした地域支配システムのようなものが、それは暴力的なものを含むようですが、存在しているとしても、日川高校校歌の歌詞の改定によってそのシステムが致命的な打撃を受けるとも思えません。おそらく、そのシステム自体も既に天皇主義から離れて現代化して存続しているのではないでしょうか。
 ほかに気づいたことですが、日川高校の校歌練習の在り方は、旧制中学の伝統を引く高校などでは同様なことが程度の差はあれ行われていたと思います。これは、天皇制イデオロギーの注入というより、旧制高校の伝統をまねたものではないでしょうか。この旧制高校(恐らく寮)で行われていた「ストーム」という新入生の歓迎儀式は、もともとはイギリスなどの名門校の寮で行われていた儀式を模倣したものと思われます(ここでもリンチに近いものであったようです)。ようするに自分たちの仲間となるための儀式で、エリート集団の心情的結束を固めるためのものであったのが、日本の新制高校まで影響を残したというわけです。新制高校はエリートのためのものではないし、女子も入学しています。女子にとっては大いに迷惑でしょう。白川高校で激しい形で残ったのは、日川高校生が地域でエリートとして処遇されたことと対応しているのではないでしょうか。
 以上が、私の主張したかったことを整理したものです。思い違いなども多いと思います。ご容赦ください。
                                                    2008年1月16日   
C 返信T 淡路克浩 様  <「地獄の一週間」について>

 メールうれしく拝見しました。先生のメールは、後述の「一高校教師」からの手紙とともに、石和に出かけていった私にとって大きな収穫となりました。このようなかたちでメールをいただければ、返信のかたちでホームページへ書くことが可能になり、議論の形式に近づいて行きます。
 当日は現役の高校の先生方からいろいろな質問を受け、「日川高校校歌問題」とは何かについて、幾分なりとも理解していただけたのではないかと思っています。交流会の会場において、先生から今回「議論の場」に掲載させていただいた内容の話をしていただきましたが、きょうは返信として、「地獄の一週間」とよばれる日川高校のオリエンテーションについてふれてみたいと思います。
 まず最初に、「地獄の一週間」という呼び方は、「外部」の人が名づけたのではなく、学校側の表現であることをあきらかにしておきたいと思います。『百年誌』はこの行事について、「生徒会役員と応援団が中心となって、新入生に対し、高校生の心構えを教え込むこの行事は生徒に強いインパクトを与えてきた。オリエンテーションの中に、もっとも日川らしさが凝縮しているのである」と書き、さらに、 「オリエンテーションを終えた生徒は精神的に一皮剥けて、はじめて真の日高生の仲間入りをすることになった。やっている時は苦しいが、やりおおせた満足感があるという声が多くの生徒から寄せられてきた。」と、生徒たちの声を伝え、その心理にふれています。
 「精神的に一皮剥ける」とか「真の日高生」になるとは一体どういうことなのでしょうか。なぜ「地獄の一週間」が必要なのか、そこにどのようなねらいがあるのでしょうか。インターネットを覗くと、ある学校ではオリエンテーションは2日間だけで、上級生・下級生が対面方式であいさつをかわす事例が紹介されています。なぜ日川は一週間でなければならないのでしょうか。
 日川のオリエンテーションについては何度もテレビで放送されているので、山梨県民なら知らない人はいないでしょう。いくつかある中で私が忘れられないのは、1987年にNHKが放映した「15歳の荒行」という番組です。番組名から想像できるように、NHKは日川高校が新入生に課すこの行事を肯定的に描いていましたが、内容を見た私は唖然としました。私が生徒だったときも校歌指導の理不尽さを感じましたが、その番組をみたときは怒りに変わりました。人権侵害という言葉が浮かんできました。体育館に正座をさせられた坊主頭の男子生徒は身じろぎもせず、真剣なまなざしで壇上を見上げ、女生徒の多くは泣いていました。家族にさえ、あれほど頭から怒鳴られることはないでしょう。残念ながら、その番組はビデオにとってありません。しかし、その番組を見ながら、私は新入生の態度に奇妙な変化を感じたのです。
 最初は恐怖心を隠さなかった女生徒たちですが、数日後には応援団長の指示通りにできるようになります。そして、必死の表情は最初と変わりませんが、少し安堵の表情が見えてきます。「地獄の一週間」が終わりに近くなると、弱々しくみえた生徒たちに自信の表情が浮かぶようになります。応援団長の指示通りに動けるようになるからです。最初恐怖と憎しみの対象にしか見えなかった応援団長が、次第に「日川魂」を体現するリーダーとして見えるようになります。オリエンテーションが終了し新入生が体育館を退場するとき、団長はこう語りかけます。「みんな、よくがんばった。これで君らは日川の一員だ」と。声をかけられた女生徒の多くは涙を流します。これは解放感と感激が入りまじった涙であり、私はこれを「日川人」になるための通過儀礼だと思っていますが、上級生の励ましを得て困難な修行をやり終えるときかつて味わったことのないような高揚感を覚え、強い連帯意識がめばえてくるのです。しかし、卒業者たちの多くは「地獄の一週間」をなつかしさを込めて語りますが、その感想は一様ではありません。二人の卒業生の報告を聞いてみましょう。
「私の場合オリエンテーションで実際に一番印象に残っているのは、校歌の練習中にいきなり殴られたことでした。(略)歌詞の内容が良いか悪いかはともかくとして、入学早々の生徒たちをいきなり暗い場所に連れて行き、正座させ、緊張の極にいる生徒に大声を出させる。ああいうやり方がいいのかどうか。あれは昔の軍隊の新兵教育そのものだと思います。」
   (萩原敬 高24回 1972年卒 『シンポジウムの記録』)
 「(総合選抜制度のために)日川を希望していない生徒が入学しているのに、校歌の説明もせず、ただ紙切れ一枚を配り、『オリエンテーションの時に歌えなかったらえれえことになるど』と脅し口調で言うわけです。(略)オリエンテーションも真っ暗闇の中で正座をして、両手を挙げ集団で意味もわからないまま校歌を斉唱し、歌えない者は前に出させるという光景は、今話題になっているオウム真理教の修業の姿と重なる部分があるのではないかと思います。(略)日川高校の校歌やオリエンテーションはマインド・コントロールそのものだと言って過言ではないと思います。」(大村祐司 〔高校3年〕高48回卒 1996年卒『シンポジウムの記録』1996年)

 萩原氏は「地獄の一週間」を「昔の軍隊の新兵教育」にたとえています。旧日本軍の新兵教育においては、表向きは陸海軍とも私的制裁は禁じられていましたが、実際は「精神注入棒」というリンチ専用の道具がどこでも見られたと言われています。『日本軍隊用語集』(寺田近雄)は「理屈ぬきで海軍精神を注入する」この「精神注入棒」ついて書いています。
 「カラスと呼ばれた新兵が海兵団にビクビク入ってくる、あるいは愛国の情に燃えた紅顔の少年志願兵が予科練として練習航空隊に入ってくると、待ち受けているのがこの精神棒で、ことあるごとに整列させられ、思いきり尻を叩かれる。(略)はじめは海軍精神の痛さに泣いた新兵たちも、昇進して上級者となるとにわかにこれを肯定し、被害者が一転して加害者になって、この悪習は伝統化していった。この痛みはいつのまにかマゾヒズムのようになって、戦後平和が到来してもう叩かれることもなくなると、妙に陶酔した表情でこの精神棒の味を語るようになる。」(236頁)
 この描写は日川高校のオリエンテーションを彷彿とさせます。理屈ぬきで「日川精神」を注入され、「地獄の1週間」を味わったはずの新入生が上級生になると一転して彼らは新入生に対する加害者となり、恐ろしい上級生に変わるのです。まさに伝統化した日川の悪習といわなければなりません。
 2年ほどまでのことですが、YBS(山梨放送)が製作した「いきいき!夢キラリ」という番組が放送されたことがありました。私がもっているのはそのビデオで、「創立105年の日川高校」とありますので、2006年のことだと思います。
 まず、「日川は変わった」というナレーションが入ります。応援団のきびしさで団員が減り、今は3人しかないと言います。男子生徒は運動部へ入部し、団長は3年続けて女生徒だそうですが、顧問の先生は団員が少ない理由として、「応援団のきびしい練習が第一印象にある」と語っています。「地獄の一週間」初日の画面には十数人の男子生徒の姿が映し出されますが、彼らは協力依頼を受けて応援団員役に応じた生徒たちで、本物の応援団員ではありません。
 4月に団長の「初仕事」が始まります。「学らん」を着ている女生徒の団長姿は、男子生徒そのものです。例によって、先輩たちにせきたてられた新入生たちが息を切らしながら体育館に飛び込んできます。「1年生が自分を見直すために会場を暗くするのが伝統です」とのナレーションが流れます。相変わらず暗くしていることがわかりますね。目が暗闇に慣れてくるころ団長が入場し、男子の団長さながらの方言をまじえた口調で話し始めます。
 「これから応援練習を始めるわけだが、その前におまんとうに(君たちに)言っておきたいことがある。おまんとうは先生や先輩に会ったとき、きちんとあいさつをしてるだか(しているのか)! 朝先輩や先生に会ったとき、きちんとあいさつしてるだか! 朝先生や先輩に会ったときは、「おはようございます!」(「協力をお願いした男子生徒の声」)、校内で先生や先輩に会ったときは「こんにちは!」(「同」)、放課後先生や先輩に会ったときは「さようなら!」(「同」)。このようにきちんとあいさつするように。いいな。「返事!」(「同」)「はい!」
  「リーダーを見てろ!」「はい!」
  「何してた! はっきり言え!」。「返事!」「はい!」。
  「やれ!」「ちゃんと見てただか!」
 罵声だけは相変わらずですが、今では叩いたり蹴ったりはしないようです。アナクロニズム(時代錯誤)の校歌を歌い続けている高校のアナクロニズムの行事だと思うのは私だけでしょうか。一時代前のオリエンテーションでは、会場の正面には大きな日の丸が垂れ下がっていましたが、この画面には映っていません。番組の最後にディレクターは、「バンカラ応援団は時代遅れかもしれない」としながらも、「個人が尊重される時代、みんなでまとまってひとつのことをやることのむずかしさを教えてくれた」と締めくくっています。文字で書けばこれだけのことで何の問題もないようにみえますが、この「地獄の一週間」が規律や団体精神の涵養と深くかかわっていることは理解できます。このオリエンテーションについて第23代山本校長は東京高裁に提出した「山本元校長証言」の中で、こう語っています。聞き手は遠藤比呂通代理人です。
 代理人  「これは学校の方針として職員会議で決議して、いわば職員会議にかけて、校長が学校行事としてオリエンテーションをやっているわけですよね。(略)まさに日川魂というか、日川教育の中核にあると、こう考えてもよろしいんでしょうか。」
 証人  「そんな感じがしました。従ってその一週間後、まあこれを地獄の一週間といいますが、それを済ませた生徒の態度は入学以前、入学当初と比べると、がらっと変わりますから、たしかに、そういう効果はあったと思います。」
 この行事で大事なことは、この行事に校長以下の教職員が許可を与えているという点です。新入生たちは「地獄の一週間」の応援団の理不尽な行為が学校のお墨付きを得ていることをよく知っています。ある年のことですが、この暗黙の了解事項をよく理解してない新入生がいました。彼はプロレスラーのような体格をもっていました。上級生の理不尽さに「頭にきた」彼は横柄に振舞う応援団の一人を物陰に連れて行って、ボコボコにしまったというのです。上級生に手を出した新入生は、応援団員全員から呼び出しを受けたわけではなく、逆にその「質実剛毅の反骨精神」ゆえに、先輩たちから一目置かれる存在になったという話を聞いたことがあります。
 屈強な体格の持ち主である新入生は「質実剛毅の日川人」として畏敬されることになりましたが、応援団員を「ボコボコ」にできないふつうの生徒たちの心理はどのように変化するのでしょうか。
 私が関心をもつのは、戦後も「天皇の勅」を称える校歌を手放さなかった日川高校の校歌教育と、「教学聖旨」(1879年)との関係です。このあたりについては山住正己氏が『教育勅語』の中で書いています。
 「教育勅語発布に先立つ1880年代に、注入を排し、心性開発を目指すペスタロッチ主義の教授法が輸入され、大いに宣伝された。しかしそれより先に教学聖旨では、仁義忠孝の心を、他の考えが先入主とならぬうちに、『脳髄ニ感覚セシムル』必要を説き、進んでこれを具体化し、絵図や写真を活用する直観的教授的な方法まですすめられていた」(125頁)。
 私は今後「地獄の一週間」と「日川教育」の関係についての研究がなされる場合、「ペスタロッチの教授法」と明治天皇が「教学聖旨」で示した「脳髄ニ感覚セシムル」教授法との比較をしてみる必要があると思っています。ペスタロッチが目指した教育とは、子どもが自らつよく生きようとする気持ちを信頼したもので、子どもの資質を自然と調和させることを強調した教授法だといわれています。「天皇の勅」を校歌にもつ日川高校の「地獄の一週間」とは、「脳髄ニ感覚」させる教育勅語下の教授法と同じではないでしょうか。そのメカニズムについては、この「議論の場」を通じて専門家たちのご意見をお聞きしたいと思っています。
 最後に一つ付け加えたいと思います。それは日川高校は「文部省も不思議がる」学校と自画自賛した校長がいたことです。『百年誌』に「日川高校詩」を載せ「須く期すべし神州第一の黌」と書いた第16代近藤百之校長がその人ですが、『同窓だよ』20号で「日川教育」についてこう述べています。
 「42年、3年頃の大学の後をうけての高校騒ぎ、特に普通科高校長は心配なさった様である。(略)わが日川高校は微動だもしなかった。朝の校長訓話で、『お前たちはなぜやらないのか、たまには校長室でも占拠したらどうかね。つきあいという事もあるよ。もしやる時は条件が一つある。一番強いゲバ棒とヘルメットを校長先生専用と書いて持って来てくれ。私は先頭に立ってやる』 生徒全員ただ笑うのみ。生徒会長が言った。『日川は他の学校の真似はしません』と。事実その通り。その頃、文部省でも不思議がって注目し、教育実態、学校管理を聞かせてくれと頼んで来た。」(『同窓だよ』20号 8頁 1982年)
 淡路先生、先生への返信として日川高校のオリエンテーションについて短い文章を書いてみました。「地獄の一週間」について原告たちは、この行事と「子どもの権利条約」との関連についても関心を向けており、専門家による多面的な検証の必要性を感じています。その意味で、今後も先生のお考えをお示しいただけたらうれしく思います。   (2008・2・18) 河西 久

D 返信U  「一高校教師」 様  <ネガティブなのはだれか>

 先生、ごていねいなお手紙ありがとうございました。読ませていただきながら、私は「一高校教師」からのこの手紙に誠意を感じました。現役の高校教師が何はともあれ反応してくれたという事実に誠意をみたのです。振り返ってみると、校歌擁護派である同窓会はもちろん、山梨県の小・中・高の教員の方々からも「日川高校校歌問題」に対する反応はほとんどありませんでした。日頃名前を聞く教職員組合を訪れて理解を求めても、困惑の態度を示されるのがいつものことでした。今回の裁判に関わった中には教員もいましたが、多くの教員の方々は「天皇の勅もち」の校歌に疑問を持ちながらも、沈黙を続けなければならない事情があるようです。
 先生のお手紙を読んでいろいろなことを考えさせられました。いくつかを述べてみたいと思います。まず第一に申し上げたいことは、先生が「校歌に批判的な外部の者」とか、「校外のものがよってたかって」というような表現を使っている部分です。
 すでにホ−ムページ上で書いたことですが、日川高校校歌に異論を申し立てているのは日本国憲法や教育基本法をはじめとする法的規定であって、私たちが独自の論法を根拠に申し立てているわけではありません。東京高裁も「歌詞が日本国憲法の精神に沿うものであるかについては異論があり得る」と言っているのです。そのような声に対し学校は議論を拒否してきましたし、日川高校の設置者である前山梨県知事は一審段階において、校歌に歌われる「天皇の勅」が教育勅語であるか否かについては「不知」と、まるで部外者であるかのような回答を寄せています。日川高校の設置者として「異論がありうる」とか「調査中」というのではなく、「知らない」「わからない」と答えているのです。
 先生への返信としてはっきり申し上げたいことは、山梨県の高校教師である先生は「日川高校校歌問題」の直接の当事者であるということです。教師には異動がありますから、来年は日川高校に異動になるかもしれません。そうなれば、先生は4月の入学式からはじまる年間行事の中で「天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今」と生徒に歌わせたり歌わなければならなくなったりする可能性があります。先生はこの校歌に対する態度をあきらかにしなければならなくなるのではないでしょうか。どういう表情をして歌ったらいいのか。直立不動で歌うのか、沈黙して歌わないのか、あるいは歌っているふりをするのか、判断を迫られます。また生徒から校歌の意味を聞かれれば、答えなければなりません。校歌に疑問をもちながらも何らかの思惑や圧力があって沈黙を守るというならば、先生はこの校歌のタブー化に手を貸すことになります。 
 仮に先生が校長に対し、伝統のシンボルとあがめられている日川高校校歌についての考えを聞くとしたら、どのような回答が返ってくるのでしょうか。校長は顔をしかめるか、不快感を示すでしょう。説明は一切しないでしょう。そうなると、先生にとって居心地の悪い職場になるでしょうね。こうして、多くの先生方が異動を繰り返すことで山梨の教育を取り巻く空気はますます堅苦しいものとなり、自由にものを言える環境は狭まっていくのです。
 第二番目に申し上げたいことは、現市川今朝則校長の「生徒は歌詞の意味を意識していない。単にフレーズとして歌っている。」との発言についてです。この発言を先生はどう思われますか。これは「日川教育」にかかわっている先生方にとって重大な意味をふくんでいます。注意したいことは、「生徒は歌詞の意味を意識していない。」という校長発言は、教育現場の責任者の発言としては適切ではないことはもちろんですが、歴史的にみれば不適切だとは言えないことはないのです。戦前・戦中を記憶する支配者側からみれば、儀式において臣民(教師や生徒)が厳粛に天皇を称える校歌を歌うことが重要なのであって、必ずしも意味内容を理解することは必要ではないのです。1879年の教学聖旨が「脳髄ニ感覚」させることが重要な手段だとしたように、「意味を理解すること」は二義的なことにすぎないのです。戦前・戦中の教育においては、教師が命じたことを生徒が命じられたとおりに行うところに重点が置かれていました。これに関連して、『山梨日日新聞』に載った記事(1995・10・19)を参考にしてみましょう。登場する中村氏は日川高校がある山梨市の現市長です。
 「中村照人県議(自民・山梨)は18日、『すめらみこと(天皇)のみこと(勅)もち…』と歌い継いできた県立日川高の校歌改定論争について、『戦後もこの校歌を歌ってきたからといって、皇国史観を植え付けられたわけではないし、伝統ある校歌として自然体で歌ってきたつもり。個人的には、歌詞の一部分だけ取り上げて改定云々というのは、いかがなものかという気がする』と感想をもらした。中村県議は同窓会副会長の一人でもあるが、『君が代』にしても反対してきた政党(社会党)が容認する時代。果たして今変える必要があるだろうか』と、『戦後50年』でにぎやかになった改定論争を歓迎したくない様子。」
 中村氏は「皇国史観を植え付けられたわけではない」と述べてはいるものの、「地獄の一週間」とよばれるオリエンテーションの場で校歌を叩き込まれた記憶はあるはずです。校歌の説明がないまま暗い密室状態の体育館で校歌練習を強制されるという形式は日川の伝統であり、基本的に今も変わっていません。繰り返しますが、生徒は意味がわからなくでも不動の姿勢で「天皇の勅」を称える校歌を歌うことさえできれば、支配者たちの意図は実現されることになるのです。
 同窓会や歴代校長らは、「天皇の勅」を称える戦前につくられた校歌が、日本国憲法の精神との間で齟齬をきたしていることは十分認識しています。中村氏も日本国憲法下の政治家です。校歌の歴史的な意味を理解し、現憲法にそぐわないことを理解していても、それを明言するはずはありません。発言すれば校歌の改定につながりかねないし、保守派としての政治的結束にも影響が出てくるからです。加藤正明現同窓会長の「教育勅語ではなく、国民の幸せや世界平和を願う天皇陛下の言葉と考えればいい」という認識も地域の政治性と無関係ではないでしょう。
 山梨は親分・子分の関係が色濃く残る保守的な地域です。学校や同窓会は「日川高校校歌は合法である」という言い方はできないことを知っています。「伝統の校歌だから変えない」というだけです。山梨では生活レベルにおいてはいまだに「世間の論理」がまかり通っています。世間というのは暗黙の了解で成り立っていますから、彼らは時と場所をうまく使い分けます。公的には「歌詞の一部だけ取り上げて改定云々というのはいかがなものか」とトーンを下げる一方で、暗黙の了解が通用する身内においては、「全国でも稀有な校歌」であると豪語するのです。
 第三に申し上げたいことは、先生がお手紙の中で、「日川高校校歌問題」を提起し訴訟に持ち込んだ私たちの行動を「ネガティブ」なものと書いておられる点です。1985年に「日川高校校歌問題」を最初に取り上げたのは、山本昌昭第23代校長でした。現職の校長でした。山本校長は内部の人間として内部の人々に対して問題提起を行いました。この山本校長の行動は「ネガティブ」なものだったのでしょうか。私は日川の出身であり上下関係を重視する日川の校風で育った人間ですから、いくら正論とはいえ、地位や立場をわきまえずに自発的に声をあげるというような勇気はありませんでした。校歌に権限を持つ校長だからこそ山本氏は、「校長の責務」として声をあげたのです。私にしてみれば、結果的に、雲の上の人のような存在の校長に従って歩いていけばよいことになりました。
山本校長は、教職員にはもちろん、同窓会にも何度か手紙を出して議論の場を設けるよう働きかけました。しかし、校長を積極的にサポートする先生は現れなかったのです。結果は「校長小突き事件」でみたとおりです。山本校長が「ネガティブ」だったのか、山本校長の声に反応しなかった先生方や生徒たちが「ネガティブ」だったのか、議論を拒否する学校や同窓会が「ネガティブ」なのか、一体、だれが「ネガティブ」なのでしょうか。山本校長は立場上原告にはなりませんでしたが、毎回裁判に出席しました。校長の行動は強い愛校心の発露であると私は思っていますし、私自身の行動も自らの良心と愛校心に基づいたものであることをあきらかにしておきたいと思います。
 以上、先生のお手紙への返信として書かせていただきましたが、回答として不十分なものであることは承知しています。問題はあまりに深く多岐にわたっています。今後いろいろの人々の声をお聞きしながら、このホームページ上の「議論の場」で意見交換をしていきたいと考えています。お手紙ありがとうございました。          (2008・2・18)  河西 久

 ※ 以前いただいていたお便りを 意見E〜J として掲載します。

E 竹居治彦さんからのメッセージ  2004・1・28  
                                      旧制日川中第44回卒(東京在住)

 謹啓 緊急の世情のなか、勇気をもって立ち上がられたことに心からの敬意を表します。友人、白沢君のメッセージと関連の判例をお届けします。平沢君からの経由よりダイレクトにお送りした方が早いし、白沢君の気持ちを一刻も早く伝えたいのです。取り急ぎ案内まで。

F 白澤守さんからのメッセージ  2004・2月 旧制日川中第44回卒(埼玉県在住)

 前略 校歌が憲法と教育基本法に違反するとして、校歌指導やそのための学校運営費が違法支出であり、その返還を求めた提訴の記事が載った朝日新聞のコピーを竹居氏から戴きました。
 かねがね、「天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち…」の歌詞が主権在民の現憲法下でまかり通っていることに不快な思いをもっており、何故手付かずのまま放置してあるのか不思議でもあったので、今回の提訴に踏み切った河西さんらに賛意を込めて敬意を表するとともに、歌詞改訂への大きなアクションになるものと歓迎しております。
 同窓生として今まで何のアクションも起こさなかった不明を、内心忸怩として反省せざるを得ません。 
この歌詞は日川の恥部です。戦後60年、新憲法施行50数年を経て万余の同窓生に歌い継がれたとはいえ、何故、同窓生全体の問題意識として、日本の平和と民主主義の視点から問われなかったのか、問うたまま不問に付されてしまったのか、この歌詞が化石の如く生き残ったとしても、化石に息を吹き返させてはならないと思います。
時まさに、日本政府、自民・公明の与党は、憲法9条を踏みにじって自衛隊をイラクに派遣しました。それは人道支援の口実を振りまいているものの、ただブッシュへの忠誠の証しを示すことであり、それが国際貢献などと言い逃れても所詮、有事立法の制定、小泉首相の靖国神社への参拝、武器輸出の解禁、憲法改正のマニフェストなどの道程として、戦争の出来る国づくりの既成事実を積み上げているに過ぎません。
 こうした現状をみると、この提訴は単に同窓という枠にとどまらず、広く国民一般に戦争の問題を、平和のテーマを、憲法を守る問題を具体的に問いかけが出来る時宜を得たものであり、理解を得る有利な土壌が展開してきているのではないかと思います。原告団の支援の環が大きく広がることを願って止みません。
 同封の判例とその解説は、教育委員会が「君が代」のカセットを配布したことを問うて提訴したもので、地裁・高裁とも原告敗訴ですが、体制側の論理を検討する上で参考になるかと思います。
判例と法律雑誌をデジタル化している会社におりますので、今回の訴訟を進める上で参考にしたい文献が必要でしたら、可能な限り検索してみますので、お使い立てください。  草々

G 中村三郎さんからのメッセージ  2004・2・11 
                      旧制日川中第44回卒(東京在住)1929年生 元早稲田大学教員  

 このたび母校校歌にかかわる訴訟のこと、同期の竹居氏から教えられ、「訴状」ならびに『戦後五十年 天皇の勅』を読ませていただきました。感銘まことに深く、諸兄の不屈の闘魂、展開されている真摯な提言、達意の発言の数々に敬意をおぼえればおぼえるほどに、小生自身の今日までの怠慢をかえりみて忸怩たるものがあります。
 1945年、学徒動員先の平塚海軍火薬廠で敗戦を迎え、何が何やら判らなくなった当時のことは記憶に鮮明です。それから主権在民、戦争放棄の新憲法。こんなすごいものが世にありうるのか。これこそ人類の未来を開くものと歴史家トインビーが絶賛したと知ったのはずっと後になってからでした。いや追憶にふけっている場合ではありません。しかし母校が、同窓会が、日川の知性を疑われてもしかたがないような、これほど酷いことになっていようとは。迂闊でした。校歌を変えなかったこと即ち時流に屈しない反骨精神の表れ? 「どこかの国の偏執狂、習慣性靖国神社病患者なら悦びそうな、」悪しき日川の伝統でしょう。
 「戦争協力を恥じていない」などと神を怖れぬ発言をする同窓会理事がいて、校歌存続に鋭意活躍したらしいことを知り、思うのですが、変人扱いされながら、砂丘の、砂漠の緑化に力闘し続けてこられた老先輩遠山先生にたいしても恥ずかしいではありませんか。
 『戦後五十年』のシンポジウムの質疑応答のなかでも言われていたように、なにかがおかしいとか、腹が立つとか、思っているだけでは事は進まない。誰かが勇気を出して一石を投じ、そして皆で力を合わせていく、という初心に帰ってみて気づかされたのは、すでに石はこんなにもたくさん投じられたではないかということ。それなのに今日まで公の場で正面きっての対決議論が行われなかった摩訶不思議。どうも「日川共同体」は精神共同体ではなくて利益共同体に過ぎないのではないかとさえ思えてきます。
 「歴史観、価値観を異にする二つの世代が、意識の断層を乗り越えて…」などと説く田辺国男氏の言、折角ですが、抽象的なお題目を唱えているだけのように聞こえてくるのは空耳なのでしょうか。
 ひとつのイメージ … 横田基地。三重に張りめぐらされた有刺鉄線。高さ2メートルを越すフェンスの鈍い銀色。巡回する軍用犬。外の世界を拒絶する意思 …
 校歌存続派の発言における論理性の欠如。非思考型。判断停止症候群。故に説得性絶無。
 今回の提訴は、これまでの経過からして、まことにやむを得ざるものがあったであろうこと、理解できます。問題意識の共有の輪を拡げていくべく微力を尽くしたいと思いますが、先ずは己の心に聴いて、聞こえてきたところをメモしました。どうぞ、くれぐれもご自愛のほどを。

H 中村三郎さん(同上)からのメッセージ  2004年4月

 お元気のここと思います。早稲田の法学部の教授で憲法学者である浦田賢治氏に資料数点を送り、意見感想をとお願いしておきましたところ、同封のコピーのような丁寧な返書をいただきました。元気が湧きます。新しい校長さんへの手紙も文面を練っています。同級生らと署名集めを始めました。在山梨の女性OB(OG?)が声を挙げないものか? 

I 浦田賢治さんからのメッセージ(中村三郎氏宛ての返信)2004・4・6
                                  早稲田大学法学部教授・憲法学者(東京在住)
           
 冠省 
 3月18日付のお手紙と資料7点を拝受しておりました。ただいま全部に目を通しました。
 すでに、1996年に、「校歌を考えるシンポジウム」の基調報告者となっていた遠藤比呂通氏のことは、仄聞しておりました。東北大学を退職して現在大阪で弁護士活動を果敢に続けている由、承知しておりました。この学者・弁護士を得られて、まことに幸運だったのではなかろうかと感じました。
 「訴状」(2004年1月22日付)は、原告の方々が収集・提出された資料に基づき、しかも原告の方々のご意見によって作成されているのではなかろうか、と感じました。こうした行政訴訟では、原告の方々の事実調査及び法律論構成が重要であると承知しております。
 「答弁書」(2月17日)では、@「訴訟要件に関する答弁を保留する」とされ、A認否・反論は追って主張するとされていますので、4月12日には出ると了解いたしました。その後5月7日、11日と続きますので、ご活躍のほど切に願っております。
 かつて家永三郎氏が、周囲の知識人・弁護士たちの消極説を聞(聴)き、なお敢然と行政訴訟を提起されたときのことを想起しております。32年の長きに及んだこの教科書裁判が、憲法に生命を吹き込んだという成果のことも思い起こしております。どうぞ、法廷の内と外、この二つの空間をつなぎ、歳月を惜しまず、原告の方々や支援者の方々がご奮闘ありますよう、切望致します。ちなみに、「憲法改正広瀬試案」(昭和32)を発表した広瀬久忠氏を第2代同窓会長に擁した日川高校の校歌問題であってみれば、活動の舞台と“主役・脇役”は注目するに充分だと存じました。法廷で出す裁判官の判断もさることながら、裁判という形をとった市民運動の成果に期待するところ大なるものがあります。
 とりいそぎ、ご返事申し上げました。御清祥を念じ上げます。不一
 中村三郎先生                   浦田賢治

J  鈴木伸一さん(仮名)からのメッセージ 24歳 2004・5・4

 日川高校校歌を憲法違反だとする原告の皆さんの趣旨に賛成いたします。私は甲府一高の出身ですが、一高のオリエンテーションも日川高校と似たようなものでした。しかし、私が在学中に問題が発生して、その後応援団はやり方を緩和したという経緯があります。
 私はオリエンテーションは純然たる学校説明にとどめるべきだと思っています。丸々2時間不動の姿勢で立ち続けることを新入生に求めて、何の意味があるのでしょうか。高校生に対し無益な強制による指導を行なえば、結局は生徒の自主性の芽を摘み、離反を招くだけです。
 もうひとつ。この問題の核心は、やはり天皇という言葉に集約されるのではないでしょうか。私にはよくわからないところがあるのですが、日川の校歌問題のことを考えると、ウヨクという言葉を思い浮かべます。天皇を神さまだと教えられた昔の人々のことを考えます。ですから、裁判を通してこの問題を追及していくなら、感情的にならず、また個人攻撃にならないよう、客観的でだれにもわかる言葉で具体的に語ってもらいたいと思います。


K 学徒動員と「天皇の勅もち…」の校歌   2004年4月                                                           平沢欣吾(旧制日川中第43回卒)
 
  同じ日川の同時代のOBでも、「天地の正気甲南に」で始まる校歌3番の「天皇の勅もち」の歌詞について、「すでに定着しているものを、今ごろになっていきり立って変えようなんて言っても、どうなるものでもないじゃあないか」とか「たとえ、それが時代にそぐわないにしても、これまでそのまま続けられてきたのだからいいじゃないの」と触らぬ神に祟りなしで、無関心を装っている現状肯定の者が多いのはなぜかと考えてみた。
  旧制日川中最後の43・44回卒の「平塚会」のメンバーが「卒業50周年記念誌」として各自が記事を寄せて編集されたものがあるが、その中に校歌に関して書いたものがあるかどうかページをめくってみたが、誰も書いてはいなかった。
終戦直後の最上級生として、16歳の4年生のとき、戦後の民主化を断片的に吸収して、学園の民主化に乗り出し、そのリーダー役の一人であったS君が当時の思い出を語っているのが目に止まった。彼は三つの民主化事件?として書いている。
 1 教師3名排斥追放同盟休校
 2 甲府空爆被害教師の食糧援助運動
 3 試験反対白紙答案事件?
  実は私がこの3事件の中で関係したのは、最後の白紙答案の事件だけ。答案用紙が配られると、5分も経たないうちに、どやどやと教室から出たこと。教師が引き止めるにもかかわらず、教室が一階だったので、窓から飛び出した者もあったが、他の事件にはかかわることが出来なかった。それは父が出征していて、母一人の農業を手伝うために敗戦の年の5月、学徒動員先(平塚の海軍火薬工廠)から退学して家に戻り、戦後父が復員してきて、父の勧めで再び復学したのは同盟休校事件が終わった直後だったからである。
  私は1946年3月、大して勉強もしない敗戦直後の学校生活に魅力を失って、当時4年終了でも卒業できたので、卒業してしまった。この卒業式に校歌を歌ったかどうかははっきり覚えていない。敗戦となるまで戦争一色であり、小学校以来「教育勅語」によって天皇に忠誠を誓う臣民としてマインドコントロールされ、中学入学の昭和17年にはすでに太平洋戦争に突入していた。入学した日から学帽ではなく兵隊のような戦闘帽をかぶり、服も黒い学生服ではなく兵隊のようなカーキ色の国防服、脚には巻脚半をつけていた。登校前に家で巻き、帰宅するまで巻いていなければならなかった。
  教練の授業が週2回あり、配属将校から軍事訓練を指導された。1年生時代はまだまともに勉強できたが、2年生になると勤労奉仕で農家の手伝いに行かされた。英語は敵国語というので、英語を選択するクラスとしないクラスに分けられ、やがて3年の時には戦争はますます激しくなって、とうとう父親にも召集令状が来て、5月に出征。40歳だった。同級生で父親が出征したのは私だけだったようだ。そのときに退学すべきだったかもしれないが、できる限り母を手伝って頑張るからということで学校は続けた。すでに2年上の上級生は5年生になったとき学校を離れ、続いて4年生が勤労学徒動員で学校を離れて行った。われわれ3年生にもついに動員令がきて、9月に平塚にある海軍第二火薬廠に行くことになる。そのとき父が出征をしていて一人で農業をやらなければならない母の苦労を思い、動員に行かなくても済むように学校に願ったが聞き入れられず、仲間たちと行くことになった。
  話を元に戻すが、敗戦後再び学校に戻った私が、授業が再開された時に起こった同盟休校に加わらなかったのは、まだ復学していなかったからである。同盟休校とはいっても、敗戦で私たちの意識が様変わりしたわけではない。同盟休校をした際の全員の血判状なるものが、そもそも前近代的なものであったし、仲間の結束を固めるのに過去の知識に頼っていた。
 日本国憲法が実施されたのは1947年5月のことである。それは5年生に進んだ仲間たちが卒業してからであり、新しい歴史観に基づく歴史の勉強は新制高校になってからなので、当時の私たちの判断の物差しは、戦時中に学んだ歴史観に頼らざるを得なかったといえよう。だから「スメラミコトのミコトモチ」にあまり抵抗を感じることもなく、今日まで無関心で来てしまったといえる。
 その後大学に進学したり自ら進んで勉強するのでなければ、日本国憲法や戦後思潮について学ぶ機会は少なく、さもなければ、民主主義の時代とはいえ、多少の意識の変化はあっても、戦時中に受けた教育勅語に依拠した天皇制軍国主義教育が骨の髄まで染付いていて、いまだに拭い去られていないように思える。
  問題は、他の学校は新制高校が発足した1948年以降に校歌を刷新したのに、日川高校は変えなかったことである。私たちの頃、何かと比較対照したのは甲府中学(現在の甲府一高)である。ことの真相については私にはわからないが、当時同盟休校をしたのは甲府中学のほうが早く、それを知って日川でもと影響を受けたように聞いている。その一高はすでに皇国史観の校歌を替えている。そのことに戦中・戦後の学校生活を体験した私たちと同年の人たちがどのようにかかわりを持ったのは知らない。
  戦後、古い皮を脱ぎ捨てて、脱皮とか新生という言葉のもとに新たな希望を求めてよみがえろうとした時、伝統を誇張し、それに執着した当時の関係者やその周辺のOBたちの偏狭な思考を戦後半世紀以上経過した現在でも放置したままという事態は情けない。
 特に私たちは幼稚ながらも、血判まで押しての同盟休校という前代未聞の行動をもって、漠然だが新しいものを求め、古いものを断ち切ろうとした。その行為は一部の教師に向けるのではなく、「スメラキコトのミコトモチ」の校歌のように、天皇のために忠誠を尽くす赤子としての教育を押し付けた天皇制軍国主義に目を向けるべきであったはずである。
  今“天地の正気”で始まる校歌は、結束を固めるよりどころとして“日川魂”などと称して伝統を誇っているようだが、違和感を抱くOBは少なくないだろう。それに「歌う健児の精神は…」の“健児”は女子ではないはずで、男女共学の時代にはふさわしいとは思われない。まさに男子中心の軍国主義思想そのままであり、日川の女性OBなら“女性蔑視もはなはだしい”と怒っても当然と思うのだが。
  日川の校訓は校歌で歌われている「質実剛毅」である。私自身も質実剛毅に生きようとこれまでもつとめてきたつもりである。それは、他人に媚びへつらったり付和雷同することなく自立して、自己の信念を曲げることなく勇気をもって行動することだと信じてきた。校歌をめぐるOBたちの態度を見ると、決して質実剛毅には思えないのは私の偏見だろうか。
  私は戦後に生まれた高校に勤務した者だが、すでに60代となったOBたちの会に出席したことがあった。最後はみんなで「天皇の勅もち…」の校歌を歌っている。無理に解釈しなければ意味が通じないような校歌ではなく、誰でも素直に歌える校歌であってほしいものである。

L 返信V 日川高校校歌を擁護する動員学徒諸氏へ
                    中村三郎先生(旧制日川中44回卒)への返信
                                            河西久(原告・日川高17回卒)

「そのような主張は駅前でやれ!」
  以前頂いた電話の中で先生は、「裁判支援に対する同級生(平塚会)の反応が鈍い」との話をされました。2004年4月19日、石和で行われた同級会(平塚会)の席で先生が「日川高校『天皇の勅』校歌訴訟」への支持を訴えたところ、「そのような主張は駅前でやれ」という罵声が飛んだという話を伺いました。これは「校歌がいやなら同級会から出て行け」といっているに等しい言葉です。
それを聞いた私は「敗戦後の学園民主化のために血判状をつくり、同盟休校まで行った動員学徒の歴史認識も例外ではないのだ」と思わざるをえませんでした。「天皇の勅」に苦しめられたはずの人々が「天皇の勅」に対して拒否反応がないのは、日本人一般の戦後感に通じるものあります。敗戦後の長い歴史において、同級生たちの間で一度でも民主主義について、また個人の自由や尊厳について意見交換がなされていたならば、事態はまったくちがっていたでしょう。少なくとも、「中村の意見を聞いてみようではないか」という声が上がっていたはずです。
先生は日川中学時代に級長を務めた秀才(『日川高校物語』)でした。「戦後60年」を目前にした同級会の席で校歌への異論が出されたということは、同級生たちにとっては晴天の霹靂であったにちがいありません。「なんで今さら」と思ったことでしょう。「伝統の校歌に異論を唱えるなんて、とんでもないやつだ」と思った人もいたかもかもしれません。結局、早稲田大学名誉教授である先生の提案は同級生たちによって封じられたということになります。

「百年に校歌がひとつ春の風」
  「平塚会」のメンバーの一人であり、神奈川県平塚市にあった「第二海軍火薬廠」へ動員学徒として送られた経験をもつ俳人の広瀬直瀬氏(日川中44回卒)は、「百年に校歌がひとつ春の風」と題する句を同窓会誌上(1993年)に載せ、戦前・戦後を通じて変わらぬ校歌をもつ母校を称えています。また、同じ動員学徒として神奈川県寒川の相模海軍工廠に向かった日川中42回卒のS氏は、『百年誌』349頁に『学徒動員の歌』と題して次のような文章を載せました。
「私たちは控所(講堂兼体育館)で学徒動員の歌をならい、校歌をうたい、応援歌をどなり、オールメン拍手を気違いのようにやって気勢をあげ、生産戦線への参加の決意をあらたにしました。その夜、多くの同級生がしたように私も遺書をかき、爪をきり、髪の毛を同封して机の引き出しにいれました。翌朝、日下部駅に集合し、みんなの歓呼の声に送られて私達は神奈川県寒川の相模海軍工廠にむかいました。(中略)人生僅に20年、その半分は寝てくらす…と。やけになりがちの当時の世相でしたが、日中健児はよく勉強しました。(中略)伝統ある日川中学校の歴史のなかで、私達はまったく不遇な卒業生だったと思います。」
  S氏は「まったく不遇な卒業生だった」と回想していますが、文章の最後は「私たちはこの灰色だった日中(日川中)時代に限りない愛着をもつと同時に『質実剛毅』に徹した、母校の校風を誇りにしています」と締めくくっています。S氏は、「不遇な卒業生」となることを余儀なくされた原因を追究しようとはしません。学年や動員場所はちがいますが、広瀬氏とS氏がみせた動員学徒の心理には共通なものがあるようです。
 動員学徒たちにとって、校歌は青春時代のシンボル的存在でした。そこでは肯定的感情だけが前面に出されます。その校歌が自分たちに塗炭の苦しみを与えた元凶であるとの否定的感情は出てきません。「天皇の勅」や敗戦に対する否定的感情は、「時代に翻弄された」とか「時代の荒波」などという抽象的な表現に置き換えられます。否定的感情を封印し、肯定的感情だけを前面に押し出して歩んできたのが動員学徒の戦後ではなかったでしょうか。

イペリット爆弾の製造
  日川中の4年生が勤労学徒として入廠したのは、1944年7月17日のことでした。横須賀海軍工廠と相模海軍工廠に100名ずつ、また3年生は同年9月30日に平塚にある第二海軍火薬廠へ配属されました。平沢欣吾氏(旧制日川中43回)は「山梨県民の会ニュース第10号」上で、平塚の第二海軍工廠へ配属され火薬の製造に携わったと書いています。一方毒ガス弾は相模海軍工廠で製造されたようです。動員先で彼らを待っていたのは火薬、毒ガス、あるいは手榴弾などを製造する「各種のガスの充満する最悪の環境」(『百年誌』88頁)でした。同誌にはイペリット爆弾を製造する工場内のようすが記録されています。
「相模工廠は化学兵器の製造を主とし、寒川組のうち約20名は『イペリット』爆弾の製造に従事した。3人ずつが工員の指導を受け、毎日5個ずつ60キロ弾にガス液の筒と火薬を装填し、パラフィンを流し込み、これを固定して組み立てる作業だった。(中略)作業については緘口令が布かれ、工事は同廠より離れ兵隊の監視つきであった。ガス液が皮膚につくとただれ、ガスにやられた喉は痛み大きな声は出ない。そのために弱った体を点呼の時に先生から軟弱だと怒られ情けなかったと言う。特に第2工場は最悪で、工員たちの顔色はどす黒く、咳は止まらず、血痰を吐く悲惨な状況であった。3ヵ月毒ガス弾造りをして静岡の豆陽中と交替した。このガス弾は「6番1号陸用爆弾」と称し、600トンが生産された。後にこの生産に従事した工員等の提訴が認められ、平成11年6月、国はこれを認め、同年10月動員学徒としては54年目に救済認定を受けた」。
  これはイペリット爆弾を製造した側、つまり旧制日川中学側の記述です。その一方で、戦後になって戦時中に日本軍が運び込んだイペリット爆弾で死傷者が出て裁判になっている事実があります。場所は中国です。2003年9月、東京地裁が日本政府に対し「毒ガス中国遺棄」に賠償を命ずる判決を下したことは、ご記憶かと思います。原告は13人の中国人でした。
報道によると、猛毒のイペリットなどの毒ガスが詰まった化学兵器は、日本政府の推計では、中国の黒竜江省や吉林省を中心に70万発が埋まっているといわれています。しかし実態は不明で、中国側は200万発と推定しているようですが、いずれにしても旧日本軍が中国大陸に運び込んだものでした。私は中国人被害者の証言を読み、彼らに被害を与えた毒ガス弾は日川中の動員学徒が製造したものではないかとの疑念を抱かずにはいられませんでした。

手渡された青酸カリ
  1945年8月15日、アジア・太平洋戦争は敗戦という結果に終わりました。当時のようすについて、『日川高校物語』340頁にはこう書かれています。
  「平塚で終戦を迎えた4年生たちは、17日ごろには、それぞれ故郷に帰ってきた。持ち物はただリュックサック一つ。それに『米軍が相模湾から上陸するから万一のときに…』と手渡された青酸カリ一包ずつもって…。しかしこの青酸カリも必要なく9月の新学期から授業をはじめた」と書かれています。青酸カリを手渡したのは海軍の関係者だったのでしょうか、それとも学校関係者だったのでしょうか。その青酸カリは誰の責任で、どのように回収されたのでしょうか。ぜひとも証言を得たいと思います。当時の校長は萩原右三郎(第10代 在任1944年3月〜1946年3月)でした。この校長は敗戦の約1年前、相模海軍工廠から感謝状を受けています。
  「聖戦茲ニ三歳国家興亡ノ岐ル秋ニ当リ貴校生徒一同ガ当初緊急増産丸戦工事ニ多大ノ寄与ヲセラレシニ対シ深甚ナル敬意ト感謝ノ意ヲ表シ候、昭和19年10月15日 相模海軍工廠第二火工部長海軍技師理学博士箕作秋吉 山梨県立日川中学校長 萩原右三郎殿」(『日川高校物語』336頁)
  現在も日川高校に残るというこの感謝状にある日付は、先生方が動員されて間もない頃の日付です。その萩原校長の敗戦後の第一声は意外なものでした。校長は全校生徒を前に、「みんなに苦労をかけたが、こうした結果になってしまった。これからは本来の目的である勉学に励んでほしい」と訓示しました。校長は「学校報国隊」隊長として学徒動員を命じた文部大臣や地方長官に対する責任や重圧は感じても、隊員である生徒に対する責任という意識は希薄でした。人命が最も軽視された時代でした。昨日まで「決戦」を叫んだ校長が明確な弁明もないまま「勉学に励むように」と訓示したわけですから、生徒たちの間で割り切れない思いが噴出したのは当然だったといえます。

石森山事件と答案白紙事件
  平塚の兵器工場から日川中学に戻った生徒たちの不満の矛先は、昭和天皇や東条英機首相を頂点とする軍国主義体制に向けられることはありませんでした。また、戦意高揚の役割を担った校歌や萩原校長に向けられることもありませんでした。十代半ばを過ぎたばかりという彼らの年齢を考えれば、彼らの怒りが身近な「軍国教師」に向けられたのは当然の成り行きといえるでしょう。彼らの憤懣を端的に表現するのは、「死地へ赴くことを得々と説いた教師が、なんで今さら『勉強しろ』といえるかといって息巻き、新時代の息吹をいち早く感じ取ったものたちは、学園の民主化をとなえて立ち上がった」(『日川高校物語』)という部分です。ストライキの先頭に立っていたのが級長を務めていた中村三郎、つまり先生でした。先生たちは近くの石森山にこもって気勢をあげ、先生が代表になって、@三教師の排斥 A学園の民主化 B動員先などで処分を受けた生徒の処分取り消しと復学の3点を要求しました。血判状の末尾には、「以上二百十名、四年生一同 昭和二十年十月二十五日」と記されています。その血判状のなかに「中村三郎」の名前があることを、私は日川高校の歴史を紹介したビデオのなかで確認しています。
  日川中学の生徒たちが血判まで押して行動を起こしたという意味で、私はこの敗戦直後の「学園民主化闘争」は日川高校の戦後史において重要な意味をもっていると思います。生徒たちは民主主義についてはよく理解できなかったかもしれないが、皇国教育のいい加減さや理不尽さには気づいていました。校長や教師たちに生徒たちと正面から議論する勇気があれば、日川の戦後史はまったく違った方向に向かっていた可能性があります。しかし、教育者として自責や贖罪の気持ちを吐露しつつ、生徒たちの怒りや苦しみを共有しようとした教師はいなかったのです。

戦争を語れなかった教師たち
  「白紙答案事件」をふくむ「民主化闘争」の結果、ターゲットになった3教師は学校を去りました。事態を収拾するために当局が相談した結果、処分を伴わない転勤を命じたのかもしれません。一方、生徒の中からも18人の処分者を出しました。自ら責任についての弁明をなすべき地位にいた萩原校長は職を辞することもなく、翌年3月までその地位にとどまっています。生徒の中に処分者が出たということは、萩原校長が生徒の動きを単なる校則違反としてしか受け止めていなかったことを示しています。
 萩原校長の後任は小林定雄校長(第11代 在任1946年3月〜1950年3月)でした。小林校長について『日川高校物語』は、「ストライキ、白紙事件とすさびきった生徒たちを、かつての平和な時代の生徒たちの姿に引き戻した功績は第11代校長小林定雄の力によるところが大きい」と書いています。しかし、小林校長は前任者の萩原校長と同様、「民主化」を求める生徒の動きに反応できるタイプの教師ではありませんでした。
  「敗軍の将、兵を語らず。谷村工商から日川中学に来た私は、東条さんのことも、萩原右三郎先生のことも、教育勅語のことは勿論のこと、日本の将来のことも語らなかった。一校の校長として真に申しわけない一ヵ年がすぎた。しかし、その間、戦争のない文化国家なんてありっこはない。日本の歴史、世界の歴史を見て戦争はその時代の行きづまりであり、次への躍進の段階であると信じていたからであった。」(『同窓だよ』第3号 1965)
  この文章を読むと、全国の学校が皇国史観の校歌を改変しようとしていた動きの中で、小林校長が「天皇の勅」を称える校歌を手付かずのままにしたのは不思議ではありません。小林校長が赴任する二ヶ月前には昭和天皇の「人間宣言」があり、11月3日には日本国憲法の公布、翌年3月31日には教育基本法が、そして、5月3日には日本国憲法が施行されました。これらの歴史的な出来事やその意義について生徒に何も語らなかったというのです。小林校長は、前任校の谷村工商に在任中の1943年に、「山崎魂に学ぶもの」と題する論考を「山梨教育」に載せています。
「日本人の血の中に流れるものを代表してくださった吾が郷土の山崎保代部隊長に感謝すと共に、普門寺の門前にある吾が校の生徒教養に如何に活用するか目下考究中なり。(郷土教育上永久に学ばねばならぬが故に)」
  山崎部隊長とは部下将兵150人の先頭に立ちアッツ島で玉砕した軍人で、日川中の第6回生でした。山崎大佐の「玉砕」を「郷土教育上永久に学ばねばならない」と信じていたその教師が、萩原校長の後任として日川高校の校長となったのです。あれから58年が経ちました。日川高校校歌を擁護する動員学徒諸氏には、敗戦直後の「民主化闘争」についてもう一度振り返っていただきたいと思います。
(2004年5月)

【追記】 この「中村先生への返信」は、「『天皇の勅』失効確認を求める山梨県民の会ニュース」に掲載した3通の手紙を「ホームページ」用に再構成したものです。(筆者 2008・6・22)


M 返信W 良心が発する「否(ノン)」の声
                     中村三郎先生(旧制日川中学44回卒)への返信
                                         河西久(原告・日川高17回卒)

「無批判盲信の時代」への反省
 前回は「動員学徒諸氏へ」と題する先生への返信で、同級会の席で先生の校歌に対する異論がブーイングを受けた話をとりあげました。異論を唱える者が身内の者たちから排除されるという事例は、山本校長が受けた「小突き事件」に象徴的に示されています。「天皇の勅」を称える校歌に異論を唱える者は、たとえその人が大学の名誉教授であっても現役の校長であっても排除の対象となるのです。こう書くと、日川の戦後史は一貫して異論を拒む教育環境であったかのように思えますが、先生も同窓会誌等でご存知のように、校歌問題が1985年に公になる前、つまり校歌に権限をもつ現職校長が異論を唱えるまでは、さまざまな形の異論がそれなりに受け入れられていました。
同窓会誌(1976年)には、「われら力よわき者なりしも ――否(ノン)と言うこと――」のタイトルで先生の文章が掲載されています。
  「(前略)あの頃(戦時中―筆者)は無批判盲信の時代だった、と今更らしく言うつもりはないが、批判したり、否定したりする真に根元的な精神の姿勢を僕らは学んでいなかった。(中略)今日必要とされるのは盲目的信従でもなく、偽りの覚醒でもなく、状況への私心なき憤り、その憤りを抑えた静かな拒否の精神ではないか。31年前のあの頃を振り返って、とらえどころのない混沌のなかから僕らがすくいとることのできる、これは一滴である。当時の僕らは無知で無力な世代だった。が、知りすぎて無気力になる愚かしさは幸い持たずにすんだ。だから僕らは自らを其の拒絶の精神へと鍛えあげるのでなければならない。拒絶すること、『否(ノン)』と言うことはけっして容易なわざではない。(後略)」(『同窓だよ!』14号)
過去の同窓会誌において、伝統校である日川高校の「盲目的信従」や「偽りの覚醒」に対してこれほど真摯に批判した人がいたでしょうか。先生はさらに、「教育の行き詰まりと破局的な状態」から脱するための方策として、「まずもって教師が教育の本質について強固な意識をもち視野のせまい誤った教育要求に対しては自信と勇気と英知と心情を以て『否(ノン)』と答えるようにならなければならない」と教師たちに呼びかけています。仲間内での付和雷同を諌め、教育者としての良心の声を大切にするよう促したこの文章は、同じ教育環境で学んだ私たちに大きな勇気を与えてくれました。同窓会誌上で発せられた先生の「否(ノン)」の叫びは、「無批判盲信の時代」に対する自省の声であり、また、恩を中核とする身内意識と衝突した良心の叫びではないかと私は考えています。

「恩のシステム」と個人の良心
  たしかに私たちは、戦後も歌い続けられてきた戦意高揚の校歌に対し「否(ノン)」の声をあげました。以来紆余曲折を経ながら20余年の月日が経ちましたが、2005年に東京高裁は、「日川高校校歌の歌詞が日本国憲法の精神に沿うものであるかについては異論がありうる」、「十分な議論が必要である」との判断を示しました。これを受けて私たちは、校歌に権限をもつ市川校長や校歌を擁護する同窓会長に対して議論の場の設定を求めてきましたが、今もって何の回答もありません。
日本国憲法下の公立高校でありながら、なぜ日川高校は司法が促す議論ができないのでしょうか。日本はほんとうに民主主義の国なのでしょうか。「日本は成熟した民主主義国である」と言い切った政治家がいますが、日本が西洋の国とは「国情のちがう国」であることを認める政治家は多く、当然国情がちがえば民主主義の成熟度に差が出てくることが考えられます。アメリカのCNNは民主主義について、
「Democracy means different things in different nations.(国が違えば民主主義の内容にも差が出てくる)」と最近繰り返し放映しました。また、アメリカのある学者は、「民主主義とは闘い続けるものだと考えている」と述べて、民主主義が完結した概念ではないことを強調しています。個人の尊厳は民主主義の基本に位置するものですが、都市生活者はともかく、日本の伝統的な共同体では個人の意見は「我を張る」とか「我を通す」と否定的に受け取られています。たしかに外見的には民主主義国の装いはしているものの、個人の意思を抑えお上の意思に従うよう躾けられる国柄は、相変わらず「臣民民主主義の国」であると言わざるを得ません。
  「臣民民主主義国」日本を特徴付ける重要な価値として、恩を中核とする「身内意識」があげられます。恩はタテの関係で貫かれており、両親の恩、先祖の恩、親戚の恩、「わが師の恩」、先輩の恩、地域社会の恩、皇恩・・・と私たちは子どもの頃から目に見えないこの「恩のシステム」の中で育ってきました。その意識は記憶のひだに深く刻まれ、行動をこまかく規定しているばかりでなく、私たちはある行為が報恩に反するどうかを見きわめる鋭敏な感覚を備えています。「おかげまさで」という言葉と報恩行為は「システム」のあらゆる段階で美化され、その行為に対してさまざまな恩賞が用意され、そこでは批判精神や懐疑の精神は育つ余地がありません。父母を敬愛するという自然な行為が国家の道徳として取り込まれているのです。
  宣戦布告の日、高村光太郎は、父母の恩に発する心情が天皇を護るという心情へ変化する機微について詩にこう書きました。

「(前略)天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと、
あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもろう。(後略)
 
  「真珠湾の日」の題をもつこの詩は、日本人が心にもつ「恩のシステム」が自動機械のように作動を始めるのがわかります。システムの頂点にいる天皇陛下を守るために、またその国土を護るために、子ども・おじいさん・父・母・祖先のイメージが総動員されています。そこには状況に対する冷徹な分析はなく、ただ条件反射的に「身をすてて陛下をまもろう」という行為だけが求められています。たくさんの戦争詩を書いた「明治人」の高村光太郎は戦後「暗愚小伝」を書き、花巻郊外の山小屋でひとり農耕自炊の生活に入ったと伝えられていますが、一方「無批判盲信の時代」に日本の政治の中枢にいた人々の多くは、戦争責任追及から逃れるためにこの「恩のシステム」の中に身を隠し、「偽りの覚醒」を演出しながら戦後を生きたのです。先生ご指摘の「偽りの覚醒」の内実について、さらに究明が必要であると考えています。

個人の良心に従った山本校長
  さて「恩のシステム」についてですが、これを否定的に感じる日本人は圧倒的に少数だと思います。何かを成し遂げた人が「恩返しをしたい」と考えるのは日本人にとって自然な感情であり、そこには「否(ノン)」は建前上存在しません。前述のように、戦前・戦中の日本人は自動機械でしたから、たとえ自国民が何百万人が死ぬ結果になっても上位の決定は「良かれと思ってなされた行為」であり、下位の者はこれに「否(ノン)」と言うことができませんでした。戦後63年経過しても、日本人に被害感情しか残らないのは、父母、おじいちゃん、ふるさと、そして天皇陛下の名誉を護ろうとする「恩のシステム」が働いているからだと思います。
  しかしながら、たとえ人間としての良心が「恩のシステム」と衝突するにせよ、「否(ノン)」の叫びを余儀なくされる人は必ず出てきます。日川高校校歌問題にかかわった人々の中から、キリスト教徒として、また科学者として、個人の良心に忠実であろうとしたふたりについて書いてみたいと思います。ひとりは山本昌昭校長です。もうひとりは小出昭一郎先生ですが、後述します。
山本校長は日川中学第40回(1944年3月卒)の卒業生であり、先輩・後輩関係を重視する校風に育ちました。山本校長の兄の育勇氏は陸軍航空兵大尉として重慶爆撃に参加し、「空爆九十回の勇士」、「落行くの翼から敵一機を撃墜す」などと戦時中に新聞紙上で称えられた日川中学卒のヒーローでした。1940年6月16日に重慶で「散華」したことで、東條英機陸軍大臣(当時)より「人生有限名無蓋」の色紙が贈られ、そこでは滅私奉公した臣下の命が称えられています。そのような兄に対して校長は、1942年6月20日発行の追悼録の中で、「兄上に捧ぐ」と題してこう書いています。
「(兄が)年若くして戦死した事は不幸であるが、その最後を立派に飾って散華した軍人として是以上幸福な事はなかったらう。こんなことを書いてゐると、天で兄が笑って話し掛けて來るやうな氣がする。」
兄の育勇氏は日川中学の卒業であり、「天皇の勅」の校歌を聞きながら戦場に赴き皇国に殉じた「質実剛毅」の人でした。弟の山本校長も同じ日川中学で学び、軍人として「散華」した兄を誇りとしていました。その後山本校長は敬虔なキリスト教徒になりましたが、兄への愛情や報恩の気持ちとキリスト教徒としての個人の良心は矛盾なく並存していたと思います。報恩と個人の良心の狭間でゆれる校長の胸中について、山本校長はこう書いています。
  「この三月(1985年)、名門日川の校長を拝命したとき、感激の中にもある種の心配がよぎった。伝統校なるが故に、種々当惑する問題にも出会うだろう。その時どうしたらよいか。このとき、すぐ頭を突いて出て来た言葉は、旧約聖書イザヤ書30章の21節だった。それはこうだ。『あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで<これは道だ、これに歩め>という言葉を耳に聞く。』私はこの言葉を信じ、聖書の神の加護を念じた。」
  山本校長は、校長として赴任する際、すでに「当惑する問題」の発生を予見していたことがわかります。「当惑する問題」のひとつが「小突き事件」でした。小突いたのは「恩のシステム」であり、小突かれたのは「個人の良心」でした。
  皇国に身を捧げた天国の兄は、母校の校長となった弟のことをどう思っているのでしょうか。重慶で「散華」した育勇氏は、2006年10月25日、日中戦争中の重慶無差別爆撃の責任を問う裁判が東京地裁で始まったことを知っているかもしれません。報道によれば、抗日拠点であった重慶への爆撃は5年続き、中国側の記録で2万人を超す死傷者が出たと言われています。重慶爆撃のヒーローであった育勇氏は嘆いているでしょう。「俺たちは無批判盲信の時代に生きていたのだ」と。そして、個人の良心に従って生きることのできる弟を、またその時代を、きっと羨望のまなざしで見つめていると思います。

「勲二等」を辞退した科学者
  つぎに、小出昭一郎先生のことにふれます。小出先生には17人の原告(すべて山梨県民)のひとりとして「日川高校校歌訴訟」に参加していただきました。小出先生は東大名誉教授・山梨大学学長・山梨県立短大学長を歴任された方で、私は先生が代表世話人をしている「山梨平和を語る会」で親しくお話を伺う機会がありました。小出先生のことで忘れられないのは、「語る会」の席上で「勲二等受賞の内示を断った」という話を直接本人から聞いたときでした。それは仲間うちの話でした。「こんな賞をもらうとみなさんに笑われますから」、小出先生は小声でそう言いました。「語る会」のような世のしがらみとは無縁の集団だからこそ言える裏話だと思っています。
  小出先生が「勲二等」を辞退するということはどういうことなのでしょうか。恩賞が欲しくて画策までする人がいると聞く中で、このような学者もいるのだと不思議な気持ちになりました。「勲二等辞退」という「(否(ノン)」の声は科学者の良心が言わせたものにちがいありません。先生は科学者として、叙勲制度に象徴される「恩のシステム」などには何の関心もないのだと思いました。
物理学者であり反原発運動にも積極的に取り組んでいた小出先生は、日川高校校歌問題にも積極的にかかわってくださいました。2000年8月6日に「語る会」が送付した「日川高校の校歌に関する意見と質問」で先生はこう書いています。
  「(前略)戦後、日本は民主主義国となり、政党の名にも『民主』をつけたものが多いのは、この体制を維持しようという決意の現われだと思われます。その日本に過去の軍国主義の遺物のような時代錯誤的校歌が残っていて、それを改めることがタブーになっているというのは何故でしょうか。全く理解できません。今の世界に通用しない『伝統』への郷愁にしては執着が強すぎて、偏屈という印象さえ受けます。日川高校は来年創立百周年を迎えると聞いております。校歌問題を解決し、この一つの大きな節目を、21世紀にふさわしく世界に誇れる『日川高校』として迎えるべきではないでしょうか。(後略)」
  私は小出先生や「語る会」の仲間を案内して、日川高校の校長室を訪れたことがありました(2000・10・2)。当時の木藤校長に公開質問状を手渡し、校歌についていろいろ訊ねましたが、校長は「校歌問題は解決済み」だとし、校歌の中の「天皇の勅」は教育勅語のことを指すのかと言う質問に対しては「ノーコメント」の回答しか戻ってきませんでした。小出先生の質問をなんとかかわそうとする母校の校長を見て、同窓生として悲しい思いをしたことは今も忘れません。 (2008・7・15)


N HPへのメール

From: takei
Sent: Sunday, December 28, 2008 12:00 PM

Subject: 天地の正気

何もわからずに送信させていただきます。
私は日川高校出身ですが・・・実は入学するまで日川を崇拝してはいませんでした(他の児とは違い)
だけれども、その私があえて言わしていただきます。
「天地の正気」は永遠です。

高校なんて大学に行くための予備校みたいなもんでしかない、
何で義務教育でもないのにそんなに拘束されなければならないの?
とか、ちょっと変な学生だったかもしれません。

今般の世の中は今の日川の校歌に批判する・・・
何でもかんでも批判する・・・
風潮が多すぎて
腐った人間(自衛隊に極力批判だけをし政権を取れば容認する。)の
たわごとは無視するしありませんよね。

腐った人間は無視するしかないのかなと思いますので
日本のために「天地の正気」を守りましょう!!

天地生気永遠なれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


O メール・天地の正気への返信

 takei さん、レスが遅くてすみません。メールでのご意見を寄せていただきありがとうございました。意見が同じということではないようですが、違う意見もあってこその議論だと思いますので、その意味で歓迎しています。
 まあ、何でもかんでも反対しているわけでもありませんし、腐った人間のたわごとのつもりもありません。日本のためにこそ思い切って変わらなければならないこともあると思っております。「天地の正気」を守ることがどうして日本のためになるのか、どう思われているのですか?お聞かせいただけると議論がすすんでいくのではないかと思います。
(事務局 佐野公保  ちなみに私は日川同窓生ではありませんが、山梨で生まれた山梨県民です。ラグビーなどで日川高校が出場していると他の高校の場合と同じように応援しています。その時に、こういう校歌であることが、引っ掛かります。)
                            

P 「先が見通せなかった日川高校」と言われても仕方ない
                                    佐野公保
 TOPページに一部載せさせていただいた新潟県立村上高校校歌の歌詞、前身の村上中学校の時はこんなふうになっていました。

 豊栄昇る朝日子の 光はいよよ輝きて 
 昭和の御代の国民は 東亜盟主の任重し

 我ら健児が活動の 舞台は広し五大州 
 安逸の夢をむさぼりて  栄華に酔わむ時ならず
   (以下略)

  それが、
 
 豊栄昇る朝日子の 光はいよよ輝きて 
 真理を求めたゆみなき  我らが使命 果たしなむ

 若き我らが活動の 舞台は今や開かれむ 
 安逸の夢をむさぼりて  栄華に酔わむ時ならず
   (以下略)
 
 としたのです。説明を要しません。「東亜盟主」、「五大州」が問題であったことを明確に理解していたからです。やや迎合的であったかも知れないとしても、自分たちの世代の責任をある意味果たし、後の世代に問題を残しませんでした。結果としてやはり「先見の明」があったと言えるのではないでしょうか。

 それに比して、日川高校の場合は、その機を失したのです。「天皇の勅もちて 勲したてむ」ということを問題だと思いたくなかったのでしょう。そうしてきたことの責任も取りたくなかったのでしょう。後の世代にも「天皇の勅もちて 勲したてむ」と押しつけたかったのでしょう。押しつけられた後の世代は、ある意味格好悪いことなってしまいました。それでも、その問題の解決は今の世代の若者たちによって解決されるしかありません。なのに、同窓会などが、つまり、責任をもってなすべきことをしてこなかった世代が、過去にこだわっては未だに後の世代に委ねることができないのは全体のあり方として「老害」としか思えません。若い世代を信頼し、「これからを生きる君たちで考えよ。」と言うしか、なすべき事をなさなかった老いた世代の責任のとりようはないのではないでしょうか。
「日川は特別」だなどということは、その外にある者たちからみたら陳腐な思い上がりでしかないのです。もちろん、心ある日川に関係する方々はそのことをよく知っているのです。


山梨県立日川高校生は今も校歌で「天皇の勅」と歌わせられ続けている
                                          
佐野公保(教員 裁判原告)

 北村さんの連続講座第2回は、「『音楽』歌い継がれる戦争の歌」をテーマに、「戦前 〜 唱歌は修身の手段であった」「いま 〜 音楽は道徳(愛国心)の手段である」として語られた。
まさしく音楽は人を唆し、「軍需品」として大きな「戦果」をあげた。つまりは、多くの戦争の加害者、そして被害者をつくるのに役立ったのである。学校で歌わさせられたはもちろん唱歌だけではない。その一つが校歌である。今でも何かというと「伝統ある」などといって変えることへの抵抗は多いが、そのくせ「戦意昂揚のために」などとご都合主義で勝手に変えたりする。戦時中には殆どの校歌はそのようにされていたのではないか。山梨県立日川高校、当時の日川中学の校歌もそのような校歌であった。特に三番の歌詞は、
「質実剛毅の魂を/染めたる旗を打ち振りて/天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち/勲(いさお)したてむ時ぞ今」と歌わせており、まさに当時の生徒を戦争に唆し、何人もの軍人も輩出させ、戦争を遂行させ、多くの「戦果」も上げさせたのだ。
 そうした校歌は、戦後殆どが、それは見境いなくではなく、民主主義の原理からして、日本国憲法に基づき新しく作られたり、変えられたりした。
 昨年亡くなったノンフィクション作家本田靖春は死ぬ間際まで書き続けたと言われる『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)の中で、敗戦時に在学した都立千歳高校の校歌が、「校歌はこのままでよいのか」の問題提起から最終的に三番(赤く清く 誠ひとすじ/友垣を かたく結びて/身と心 きたえし修めむ/大君の しこの御楯と)の削除で決着がつけられたことを書いている。「生徒たちにはいっそ校歌を変えてしまおうという意見が強かった中で、学校側は辛うじて面目を保った恰好だが、純然たる思想の対決に敗れたのだから、権威は完全に失墜した。絵空事でない民主主義を学んだ。」と言っている。(それにしても、どちらの校歌も同じような歌であることがよくわかる。)
 戦後の民主主義の出発において確かにそれを学ぶ機会になり得るテーマであったはずなのだが、日川高校では、もちろんそうした動きはあったのだが、逆にそれを変えさせないとする力の方が強かったということのようだ。結果として、どう考えても日本国憲法の規定に反するのだが、全く変えられることなく歌い続けられてきてしまったのである。しかもそれは、戦前さながらの生徒会応援団が暗闇の中でたたき込むというマインドコントロールとしてそのまま続けられてしまったのであった。
 戦後60年になろうとする2004年、その何年も前からのシンポジウムなどでの卒業生らの訴え、そして県民としての監査請求を経て、とうとう日川高校「天皇の勅」校歌損害賠償請求として裁判で争われることになった。
そもそも山梨県監査委員が「憲法判断は司法に属する」と言って判断を逃げたのを受けたはずなのに、一審甲府地裁は、その憲法に関わる判断、天皇の勅の判断をするのが怖かったのであろう、逃げに逃げてその判断には触れないまま請求を棄却した。控訴審東京高裁には、北村さんの「歌は軍需品とされた」という意見書も、在職中に校歌を変えようとして圧力を受け出来なかった元日川高校校長の模擬証人尋問のテープの提出なども行い、「天皇の勅」校歌が「日本国憲法」にてらしてどうなのかの判断を求めた。
 2006年5月17日、東京高裁の判決は、損害賠償の請求については一審と同様に認めなかったが、「天皇の勅」校歌について、歌詞の内容は「国民主権、象徴天皇制を基本原理の一つとする憲法の精神に沿うかについては異論があり得る」「教育課程に取り入れるかについては十分な議論が必要」との判断を示した。
 私たちはこの判断を一定の評価をし上告はせずに判決は確定したのだが、実際には日川高校の校歌はその内容も扱いも何ら変えられてもいない。
 裁判の中でも、戦後の教育は日本国憲法、教育基本法に基づき、天皇の勅=教育勅語は失効排除されたのだと主張したのだが、しかし、その教育基本法は、今や変えられてしまっている。まるで、校歌の中で「天皇の勅」が堂々と謳われかねない状況になりかねない。
一方で新自由主義を席捲させて人々をバラバラにしたうえで支配をしようと、今また「唱歌」を歌わせては心に入り込もうとしている。校歌や君が代でますます心を支配しようとしている。
 現在、我々は真っ正面から日川高校校長に、この憲法判断を受け、議論をして、日本国憲法に沿うようにすることを求めている。被害を受けているのは子どもたちである。「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っているんです。」(校長談)などとして歌わせ続けてはならない。

 
本稿は「戦争は教室から始まる―元軍国少女・北村小夜が語る」(編集「日の丸君が代」強制に反対する神奈川の会 現代書館発行)掲載文です。(2007年)

     
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