6 関連資料より

@ 裁判資料 意見書 北村小夜



平成17年(行コ)第232号 日川高校「天皇の勅」損害賠償請求控訴事件

                意 見 書

                                    2006年2月25日
                                    東京都大田区仲六郷1−6−23−904 
                                                     北 村 小 夜
1 はじめに
 歌は、人々の心を癒し人々の暮らしを豊にします。が、時としてプロパガンダとして用いられ、旗とともに人の心を唆します。
 まさに日川高校の校歌は制作の時期からの天皇制教育普及の意図を持って作成されたものと思われます。
 私は旗と歌に唆されて軍国少女に育ち、親より教師より熱心に戦争をしました。戦後は天皇・国家のために費やした青春を取り戻そうと生きてきましたが、まだ果たせていません。日川高校の校歌の「天皇の勅」を失効させることは、私の青春を取り戻す過程でもあります。

2 軍国少女
 1925年11月21日、軍都といわれた福岡県久留米市で生れました。小学校入学直前、爆弾三勇士を称える旗行列に参加し日の丸の旗の波に魅せられました。1932年4月久留米市立南薫尋常小学校に入学しました。その学校には奉安殿と並んで「史跡・明治天皇行在所跡」なる建物がありました。1911年久留米地方陸軍大演習の際立ち寄ったところです。たまたま通り道にあり、できたばかりの校舎が新しかったからでしょうか。関係者は大変名誉な事として校歌にも詠み込まれていました。いつのまにか私は他の学校の子より忠義な子にならなければと思うようになっていました。小学校2年の暮、明仁が誕生しました。お祝いの会で北原白秋作詞の「皇太子様お生れなった」という歌のレコードにあわせて日の丸の旗を振って踊りを踊りました。
 以来軍国少女まっしぐら。出征兵士の見送り。英霊の出迎え、そして慰問文、鬼畜米英のポスターを描き続けました。
 婦徳の涵養を目的にした女学校を卒業する頃「この世で会えなかったら靖国で会いましょう。」と誓って、親しくしていた男性の友人が志願して海軍予備学生になりました。私は女でも靖国に行けるところを探し、日本赤十字社の救護看護婦養成所を経て中国にあった陸軍病院に派遣されれ、戦争と軍隊の実態も見、敗戦を迎え、一年間八路軍と行動を共にし1946年暮復員しました。
 ここで戦争の愚かさに気付き、教育の責任を感じ、改めて教師の道を選びました。1999年国旗・国歌法制定にあたっては、衆議院で「再び軍国少女をつくるな」と題して反対の公述をしました。

3 歌の責任
 戦前・戦中、修身は首位教科でした。すなわち全ての教科が修身的で忠君愛国を目指していました。
 そして音楽は修身の手段でした。
 たとえば唱歌(当時はそう呼びました)で調子よく「柴刈縄ない草鞋を作り…」と歌わせておいて、修身で「二宮金次郎がどんなに親孝行であったかを教えました。忠義の手本として修身で広瀬武夫の武勇と部下への思いやりを教えておいて「轟く砲音飛び来る弾丸」と歌い称えるのです。
 日川高校(旧日川中学 その前身は山梨県第二中学)の校歌が作られた時期は教育勅語による天皇制教育が確立する時期で、明治政府・文部省はすでに、祝日・大祭日儀式規定をつくり儀式と歌を結びつけ、「主トシテ尊王愛国ノ志気ヲ振起スルニ足ルへキ」祝日大祭日唱歌として、君が代、勅語奉答、一月一日、元始祭、紀元節、神嘗祭、天長節、等を発表(1893・8官報)していました。これを普及する媒体は小学生・中学生でした。これらの式には、たいてい校歌も加えられました。「旧日川中学」でも同様であった筈です。
 音楽が一つの目的の手段になった時、芸術ではなくなります。日本の教育の中で音楽が国民教化の具であったことは音楽文化にとって大変不幸なことです。
 一緒に歌ってきた式歌が追放されたにもかかわれず、なぜこの校歌は温存されたのでしょうか。多くの学校では戦後の教育課程の改訂を機に校歌を作り替えています。特に「旧日川中学、山梨県第二中学」の伝統を引くとは言え、学制が変わり新制の日川高校になったのです。なお衆・参両院で教育勅語の排除・失効を確認した好機でもあった筈です。
 日川高校は密かに天皇制教育の復活を目指して穏忍自重この日を待ってこの校歌を守ってきたのではなく、当たり前のように歌い続けられてきたことに恐ろしさを感じます。

4 歌の力
 歌は歌っていると身に付いてしまいます。
 今は変わっていますが、公害で有名になった四日市の塩浜小学校の旧校歌は
  港のほとりにならび立つ 科学に誇る工場は
  平和を護る日本の 希望の希望の光です
  塩浜小 塩浜小 塩浜小 僕たちは 明日を築きます
というものでした。学校の研究テーマは「公害に負けない体力つくり」でした。公害がひどくなり内外から批判を受ける中、卒業式を前に作詞者から歌詞の変更が申し出られたのですが、校内から歌い慣れた歌詞がいいと言う声が出てそのまま歌われたことがあります。
 私自身もすでに払拭した筈で言葉では決して言わない歌詞が生活の中でふと口をついて出てきて身に付いた歌のその力に驚くことがあります。
 戦争中、音楽は戦意高揚のためにのみ用いられました。情報局の平出英夫海軍大佐は音楽関係者を集めて「……音楽が軍需品であるという所以はそこにあるのであります。思うところに導く力をもっている音楽によって動もすれば、ひしがれむとする国民の気持ちを湧き立たせ、動揺せんとする気持ちを不動な構えに持直し持続させる。そこに音楽の強い力があるという風に私は思うのであります。」と、1941年7月28日「高度国防国家建設と音楽の効用」と題して講演しています。このことは、一段とエスカレートしていますが質的には明治政府の祝日大祭日唱歌制定の趣旨とかわりありません。

5 日川高校の校歌について
 日川高校で、「天皇の勅もち」と、すでに失効した「教育勅語」が校歌の内容として歌い続けられることは、明らかに違法違憲であるのみならず、生徒の学問の自由を犯すことになると思います。
 公立の学校の校歌の多くは、学校の環境と期待する人間像が謳い込まれ、校風の継承、学校集団への所属感、連帯感などを育成する教育的意義をもつといわれています。校歌については特別な規定はありませんが、生徒会活動や学校行事など特別活動に用いられるのですから、教育課程から自由ではあり得ないと思います。
 1989年学習指導要領改定以来、戦前と同様に、道徳教育の目標が各教科の上に示されるようになりました。同時に音楽科が道徳的(愛国的)になってきました。再び音楽の姿ではなく、一面のみが政策に利用されようとしています。
 このままでは日川高校の校歌がその魁の役割を果たします。
 一刻も早い廃止を望みます。

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