清里ペンションエストレリータ(小さな星)1年中クリスマスのお宿知っててね通信
地球にやさしく
このページは韮崎市在住で木工.木彫教室や注文製作などをされています、
坂上氏が発行されています“知っててね通信”を
原文のまま掲載しているものです。
"プロフィール"
坂上智彦  
1960年、東京に生まれる。
上智大学理工学部機会工学科卒業
  同大学院 修士課程卒業
大学院在学中、青年海外協力隊に参加。
リベリア共和国(西アフリカ)にて、理数科
教師として、2年間活動。
3年間のサラリーマン生活の後、都立職業専門校にて
木工を学び、現在、山梨県韮崎市自宅にて、
木工.木彫教室を開き、注文製作もする側ら、地域の
ボランティア活動や“知っててね通信”の発行、
こどもエコクラブ“みつばちクラブ”サポーターなど
幅広く、活動されています。
連絡先事務局
TELL&FAX 0551-23-5698
知っててね通信
第43号
『3月1日ビキニデ−』って?
3月1日は「ビキニデ−」。「ビキニ」という言葉は最近あまり聞きませんが、
「ビキニの水着」といえば、ちょっと前までは大胆な女性の水着として、
良く耳にした言葉です。あの水着が出た頃は、その大胆さに、世界中が
アッと驚いたそうです。しかしもう一つ、世界中がアッと驚いた事件が、
1954年3月1日に起きました。水着の方の「ビキニ」は実はその事件から
とった名前だったのです。
その事件のことをお話する前に、ある漁船のことを知っておいてください。
漁船の名前は「第七事代丸(ことしろまる)」。カツオをとる漁船でした。
1945年、日本は4年間に及ぶ大きな戦争に負けました。広島や長崎に原爆が落とされるなど、多くの市民も戦争の犠牲になりました。翌年の1946年6月、南藤藤夫さんという人が、ふるさとの和歌山県古座に戦地から帰ってきました。南藤さんは木の船を造る船大工でした。戦争から帰った南藤さんに、10月、船の注文が入りました。カツオ漁船の注文でした。久しぶりの船大工としての仕事に南藤さんは大張り切りでした。マツやスギ、ヒノキ、ケヤキの木がたくさん切られ、古座の造船所に運ばれてきました。100本もの木が、船を造るのに必要なのです。南藤さんも、他の船大工たちも、朝から晩まではたらき、1947年3月20日、船は出来上がりました。そのころの漁船としては大きい、100トン以上もある堂々とした木造船でした。
和歌山県を出た第七事代丸は、神奈川県の三崎という港を本拠地に、大活躍
しました。「カツオの一本づり」という、一本のさおでカツオをつぎつぎ釣り上げるやり方で、日本一の大漁でした。1947年から4年間、一位をとり続けたのです。その頃の日本は、まだ戦争の後で貧しく、食べ物も充分ではありませんでした。そんな中、栄養のたくさんあるマグロを食べるようにと国がすすめ、マグロの漁がさかんに行われるようになりました。第七事代丸も1953年、静岡県の焼津という港に移され、マグロをとる漁船に改造されました。名前も「第五福竜丸」とかわりました。
カツオとちがってマグロは、南のほうの遠い海でとれます。第五福竜丸も南の遠い海へ漁に出るようになりました。マグロ漁船に変わった第五福竜丸でしたが、マグロ漁でも大活躍でした。「はえなわ漁」というやり方で2メートルもあるマグロをたくさん捕りました。いつもいっぱいのマグロを氷づけにして、港に戻りました。1954年1月22日、第五福竜丸は23人の乗組員を乗せ、いつものように焼津の港を出て、南の海へと向かいました。乗組員は18才から39才までの、平均年齢25才という若い人たちでした。2月19日、アメリカのマーシャル諸島のビキニ環礁というところに着きました。さっそく漁を始めたのですが、このときはあまりマグロが捕れませんでした。おまけに漁に使う縄が切れたりして、何回はえなわをはっても、あまりとれませんでした。食料も燃料も無くなってきたため、1954年3月1日、第五福竜丸は最後の
はえなわをはりました。12回目でした。
( つづく )
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