芍薬塚(しゃくやく)
天正十(1582)年武田勝頼の軍は織田信長、徳川家康の連合軍に敗れ、新府城より岩殿山を目指して落ちていった。この時武田の臣渡辺加兵衛は主君勝頼の命により、密かに二歳になる幼主(芍薬姫)を自分の在所である鎮目村に匿った。しかし幼児の事とて日夜泣き明かし、翌天正十一年三月不幸にも病死してしまった。渡辺氏は自分の屋敷の一隅に葬り、芍薬の花を植えて標とした。その後文化四(1807)年に加兵衛の子孫が墓の荒廃を嘆かわしく思い、新たに石碑を造り、芍薬も株分けして現在地に改葬した。
高さ1m程の石碑
石碑の正面に「武性院殿斉理周哲大童子」と記してあり、芍薬姫と言われたのは、勝頼の息子で有ったろうと云われている。
高倉宮 ・ もどり
芍薬塚