今では高原のリゾート地として多くの人に親しまれている清里ですが、その歴史はあまり知られていません。 最初に清里に人が移り住んだのは明治42年ころで、さほど昔の事ではありません。それまでは手つかずの自然 のままでした。ただ、それよりもっと大昔に、清里は「念場原」と言われていていましたが、「念場千軒」と言って (本当に1000軒もの家々があとは考えられないが)多くの人で栄えていたとも伝えられています。水 不足などからか、やがては誰も住み着かなくったなどの話があります。標高が高い夏の清里の涼しげな風は なんとも心地よく、誰もがすぐ移住したくなる衝動にかられるが、冬になると一変して厳しい寒 さが移り住んだ人を襲う恐ろしい所と認知されていたようです。そのためこの地には中々人が移り住みませんで した。それでも明治42年ころから昭和の初期にかけて、現在の樫山地区(清里の南の方の小さな部落)から一部の人 が移り住みました。彼らにしてみれば夢の新天地を求めて移住して来たのかもしれませんが、当時の清里は、言 わずと知れた厳しい冬が待ちかまえている手つかずの地ですから、彼らの移住はとても勇気のある行動だったと 言えるかも知れません。そして清里に来たそれらの人たちは「念場千軒」ならぬ「三軒屋」と呼ばれました。そ してそれから新たに入植者たちが移住してくるわけですが、そこには苦渋の移住事情があったのです。
ダムの底の村から来た開拓の人たち
昭和13年頃、東京都の水を確保すため小河内ダム(現在の奥多摩湖)の建設が行われました。その際ダムの底となっ た村の人達が代替地として清里に移住してきたのです。彼らはダムの犠牲になったあげく厳しい土地を開墾しなけ ればならないという過酷な現実に直面することになりました。清里は火山灰地で作物を作るのには適していませんでした。 貧しい開拓者たちに不作、冷害、水不足、食料不足さらには戦争突入と、つぎつぎと困難が襲いました。開拓者の子供たち は清里から6キロほどある樫山(かしやま)という地区までの急な坂道を歩いて集団通学しました。現在の樫山地区は過疎化が進み、 忘れ去られてしまいそうな小さな部落ですが、当時は清里よりも栄えていたわけで、学校では 「清里の貧しい移民だ!」などと言われ地元の子供達からいじめられることもあったようです。(現在は樫山の学校は 廃校となり、清里に新しく建設された小学校に樫山の子が通学するという当時と逆の状態になっています。) 奥多摩湖のダムの犠牲となって清里に来た開拓者たちを熱心に指導した人物がいました。安池興男という人です。山梨県の八ヶ岳開 墾事業として、安池興男氏はこの地に入り、事務所長として清里の開拓者たちを熱心に支援しました。 彼は自分の役人としての出世コースを断ってまで清里にとどまり、開拓者の人たちと共に清里の開拓に奮闘し、 時に私財をも提供するなど清里の開拓に尽力しました。国からの補助が乏しい中で始まった 開拓事業は困難を極めましたが、安池興男氏と彼を強く信頼してきた開拓者たちは必死に清里の荒地を開墾してゆきました。現在 清里八ヶ岳地区にある公民館は安池興男氏の「興」の字をとって 八ヶ岳興民館と付けられています。彼の存在はダムの底となった村から来た清里の開拓者たちにとって大きな存在であった ことがわかります。
興民館前に建てられた安池興男氏の記念碑(写真左) 安池興男の”興”の字から名前がつけられた興民館(写真右)
アメリカからやって来た「開拓の父」
清里には、もう一人有名な清里の開拓の指導者がいます。アメリカ、ケンッタッキー州出身の ポール・ラッシュです。彼は戦前から戦後にかけて、キリスト教の宣教と日本の青少年育成などの目的で清里で広大な開拓に取り組み ました。清泉寮(キープ協会)として知られている清里の観光名所は、彼が開墾した広大な牧場です。当時の日本の観点からは 考えられないほど大胆な大規模開拓で、彼のその熱い精神と生き様は地元の住民を含め多くの日本人に影響を与えました。ポール ・ラッシュはちょうど奥多摩湖のダムの犠牲となった開拓者たちと同じ時期の戦前から清里の地に入りました。時は日中戦争となり、 日本軍による中国侵略とアメリカで大きく報じられると、ポール・ラッシュの『日本のための資金集め』はアメリカで困難を極めました。 反日ムードが高まるアメリカでポールは「日本人は本来、温和で礼儀正しい民族だ。」と熱心に語り、日本におけるキリスト教の必要性などを 巧みに訴え、アメリカでの資金集めを推し進めました。しかし日米開戦に突入すると、米国人の中で最後まで日本に残っていたポールもアメリカへ強制送還させられました。 自分が愛した日本と生まれ故郷であるアメリカが戦いあうという悲しい現実がポール・ラッシュを襲うのでした。しかし、 終戦になると彼は再び清里に戻り開拓に取り組みました。寒さに強いジャージー種の牛の酪農などに成功し、多くの人に夢と希望を 与えました。現在でも清里はジャージー牛の酪農で有名です。 終戦直後、ポール・ラッシュの牧場は地域の小学校に毎日牛乳を届けました。当時まだ牛乳が乏しい日本において、 脱脂粉乳が主流という中、清里の子供たちは新鮮な生のミルクを飲むことができたのです。ポール・ラッシュと清里の開拓者たちとの 絆も強くなってゆきました。ポールが68歳の時、最初に建設された清泉寮が火事により全焼。落胆するポールに村人たちは自ら清泉寮再建の為の寄付を ポールに送りました。その中には日ごろ清泉寮のミルクを飲んでいた子供たちからの寄付も含まれていました。 毎年、清泉寮(キープ協会)で行われるイベント「カウンティ・フェア」には清里の多くの人たちが集いあいました。現在でも 毎年10月に清里最大のイベントとして行われています。日本人のように小柄だったこのアメリカ人は日本をこよなく愛し、そしてまた 多くの日本人からも愛される人となりました。 あまり知られてはいませんが、アメリカンフットボールを最初に日本に教えたのも彼であり、「アメリカンフットボ ールの父」とも言われています。 「Do your best and it must be first class.」彼が掲げたスローガンは今も清里の人々の心の支えとなり目標となっています。
清泉寮の広大な牧草地。右の写真は清泉寮の建物とポール・ラッシュの像(ポールが好きだった富士山の方を向いている)
ポールの交友は幅広く、吉田茂元首相、日本の皇族、世界の大富豪ロックフェラーなど著名な人々との交友もありました。しかし彼はどんな人 に対しても気さくで人懐っこい人であったそうです。ちなみに世界の大富豪ロックフェラーはハネムーンで清泉寮を訪れたことがあります。
この他にも
東京や横浜で空襲により被害にあった人々などが、県の清里開拓者募集になどにより入植するなど、 様々な背景の人々が清里へ移り住みましたが、初期の清里移住にはどの人にもそれぞれの困難や苦労があり、 そこにはそれぞれの人々のドラマがある事と思います。清里はその後、若者をターゲットにした観光戦略に乗り、多くのペンションが建ち、 駅前にはメルヘンチックなおみやげ物屋さんがたくさん建ちならびました。若者の人気雑誌に清里が紹介されるなどし、 バブルの最中の日本でたちまち清里大ブームとなりました。しかし、この清里が、かつては苦渋に満ちた開拓の地であった事はあまり知られていません。現在は一時の清里ブームから、少し落ち着きを取り戻した清里。 美しい八ヶ岳や富士山、広大な牧草風景が広がる豊かな高原リゾートとなっています。そんな清里を訪れた時にはふと 立ちどまって、この清里の地で奮闘した開拓の人たちの事を思ってみるのもいいかもしれません。
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