
始めに
戦後民主主義は、欠陥体制としか言いようが無い。
日本は、第二次世界大戦に敗れて以来、常にアメリカの軍事・外交政策に従属し続けて来た。現在の日本は、世界第二位の経済力を持ち、経済大国と言われている国である。そのような国がどうして独自の外交も国家の防衛もできず、アメリカに追随しているのだろうか。世界には経済的にも軍事的にも日本より遥かに弱小であるにもかかわらず、独自の外交や国家の防衛を行っている国はいくらでもあるのが現実である。冷戦時代なら、ソビエトの強大な軍事力に対抗するためという説明ができるが、ソビエトが崩壊して冷戦が終わった後では、そのような説明は通用しない。
また、戦後の日本が独自の外交や国家の防衛ができないのは、戦後の政治家達が無能だからだと主張する人達が数多く存在する。しかし、政治家として無能な人物が国家の指導者になってしまうのは、何も戦後の日本に限ったことではない。世界には無能な政治家が指導する国などいくらでもある。指導者が無能なくらいのことで独自の外交や国家の防衛ができなくなってしまうと言うのなら、世界のほとんどの国が戦後の日本のようになっているはずである。結局、私には、戦後体制、あるいは戦後民主主義と呼ばれている第二次世界大戦後の日本の政治体制そのものに重大な欠陥あるとしか考えられないのである。
戦後の日本に国家の防衛ができないのは、結局、戦後の政治体制には戦争をする能力が無いからである。
戦後の日本に戦争ができない主な理由は、次の二つである。
第一の理由は、戦後の日本には国家の最高指導者が存在しないことである。
こう言うと、内閣総理大臣が居るではないかと反論されるであろう。しかし、私に言わせれば、日本の内閣総理大臣は、国家の最高指導者ではないのである。確かに、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」とあり、内閣総理大臣の権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。この日本国憲法の条文からすれば、法的には内閣総理大臣が日本の行政機関の最高責任者ということになる。そして、通常、行政機関の最高責任者が国家の最高指導者ということになっている。日本の内閣総理大臣に限らず、あらゆる国の指導者には、法によって定められた権限が与えられている。しかし、法的な権限だけでは国家や国民を指導することはできないのである。私の言う国家の最高指導者とは、国民を指導する政治的な力を持つ者のことである。
国民を指導する政治的な力とはどういうものなのか。
国家の安全保障上の危機など、非常事態に際しては、早急な意志決定が必要なこともある。また国民の世論が分列して混乱に陥るようなこともある。そういう場合、国家の指導者は、国民の意志を一つにまとめ、国民を一致団結させて危機に対処しなければならない。そのためには、国民を一致団結させるための強力な指導力やカリスマを備えた指導者が必要である。このような政治的な力を持った指導者が存在して、初めて国家の安全を守ることができるのである。それが国家の最高指導者なのである。ところが日本の内閣総理大臣には、国家の最高指導者と言えるようなような政治的な力が無いのである。だから内閣総理大臣は日本の最高指導者とは言えないのである。
内閣総理大臣や大統領といった役職に、国民を指導できるような政治的な力が備わっていなければ、軍事や外交上の重大な意志決定ができず、政治が麻痺してしまうこともある。このような状態では、最高指導者が存在しているとは言えない。いくら立派な軍隊があっても、戦争をすることを決定できないのでは使い物にならない。従って、最高指導者の存在しない国家には、安全保障は不可能なのである。
日本が第二次世界大戦に敗れる以前は、国家の最高指導者として天皇が存在していた。そして戦後体制の下では、天皇は「国家の象徴」となり、最高指導者ではなくなった。ところが、戦後の内閣総理大臣が国家の最高指導者の力を天皇から引き継いだというわけではない。結局、天皇が最高指導者でなくなった結果、戦後の日本には最高指導者が存在しなくなってしまった。そのため日本は、軍事・外交政策のような重大な意志決定ができない国になってしまった。その結果、日本の軍事・外交政策は、結局、アメリカに依存するしか無くなってしまった。これが第二次世界大戦後の日本の軍事・外交政策がアメリカに追随せざるを得ない理由の一つである。
戦後の日本に戦争ができない第二の理由は、戦争をしないことを国家の理念にしてしまっているということである。
いかなる国家体制も国家・国民を統合するための理念を持っている。現在の中国や旧ソビエトの共産主義、欧米諸国の自由主義や民主主義、イランやサウジアラビアにとってのイスラム教といった類のものである。もし、その国の国民が国家の掲げる理念を信用しなくなってしまったら、国家に対する国民の信頼が無くなり、国家・国民を統合することが不可能となり、最悪の場合は、国家体制が崩壊してしまうのである。
その典型的な例が、旧ソビエトの崩壊である。ソビエトにとっての国家の理念は共産主義であった。共産主義国家の理念を簡単に言えば、マルクスの理論に従って経済政策を行えば、国民が資本主義国家よりも物質的に豊かな生活ができるようになるということである。そして、米ソ冷戦時代のソビエトにとっての資本主義国家とはアメリカのことであった。つまり、いずれは国民生活の物質的な豊かさでソビエトがアメリカを追い越すということを国民が信じることによって、共産主義体制とソビエト国民との間の信頼関係が成り立ち、国家の統合と国民の団結が維持されていたのがソビエトの政治体制だったのである。しかし、ゴルバチョフが登場した頃には、このような共産主義神話を信じるソビエト国民は居なくなっていた。その結果、国家統合の理念を失ったソビエトの政治体制は崩壊するしかなくなってしまったのである。
また、中国ではケ小平が政治の実権を握った後、改革解放政策と称して事実上共産主義政策を改め、自由主義的な市場経済を導入した。ところが国家の理念としての共産主義は依然として堅持したままであった。ケ小平は明らかに共産主義経済は誤りであるという認識をしていた。しかし、だからと言って国家統合の理念としての共産主義まで否定してしまったら、中国も旧ソビエトのように国家が崩壊してしまうかもしれないのである。そこでケ小平は、社会主義市場経済と称して、市場経済が共産主義の理念に反しないという詭弁としか言いようのないことを言ってまで、共産主義の理念と共産主義体制を守ろうとしたのである。
日本の戦後体制における国家統合の理念は平和主義である。平和主義の理念を一口に言えば、日本はいかなる理由があろうとも戦争をしないということである。こういうことを国家の理念にしてしまっている以上、たとえ国民の生命や財産を守るためといえども戦争をすることは困難である。もし日本が本格的な戦争をすることが可能になったとしたら、それは戦後体制が消滅したことを意味するのである。この平和主義の理念を法律化したのが日本国憲法である。戦後の日本は、日本国憲法九条によって軍備の保有と武力行使を禁じられている。
本来、安全保障や危機管理といったものは、考え得る最悪の非常事態に対して、いかに対処すべきかと考えるのが基本である。ところが日本国憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と記されている。つまり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」最悪の非常事態など考えてはならないということである。これは明らかに安全保障や危機管理の否定である。そもそも日本国憲法は、アメリカ軍による日本の占領統治の下で作られたものである。その結果、日本国憲法は、アメリカ軍による日本の占領という状態を前提に機能するものになってしまったのである。アメリカ軍が日本を占領し、日本が独立国家ではない状態では、日本の安全保障はアメリカの役割なので、日本自身が安全保障について考える必要は無い。だから、日本政府も日本国民も「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」さえいれば平和は守られるということなのである。しかし、これは言い換えれば、日本国憲法の理想を守るためには、永久にアメリカによる軍事占領を続けてもらわざるを得ないということである。つまり日本国憲法の実態は、アメリカによるに日本占領法なのである。
最高指導者の不在と日本国憲法のために、第二次世界大戦後の日本は、独自の国家の防衛ができなくなってしまった。そこで戦後の日本の安全保障は、アメリカの政治力と軍事力に委ねる以外に無くなってしまったのである。そのため戦後の日本は、アメリカの軍事・外交政策に従属せざるを得なくなってしまったのである。要するに、第二次世界大戦後の日本は、アメリカの軍事力と政治力に頼らなければ成り立たないアメリカの保護国であり、独立国家ではないのである。
第二次世界大戦後の日本が平和国家などと言っていられるのは、所詮はアメリカの軍事的な保護下にあるからに他ならない。言い換えれば、戦後の日本では、本来ならば日本人が行わなければならない戦争を、アメリカが行っていたのである。その典型的な例が朝鮮戦争である。朝鮮半島は日本の安全保障にとって非常に重要な地域である。ここを日本にとって脅威となる国に支配されたら、日本の安全は脅かされることになる。だから戦前の日本は、朝鮮半島の支配権を巡って日清・日露と二度の戦争を行わざるを得なかったのである。第二次世界大戦の結果、アメリカが日本の防衛を担うことになった。その結果アメリカは、日本に代わって三度目の朝鮮半島の支配権を巡る戦争を行うことになってしまった。それが朝鮮戦争なのである。
日本の平和主義や戦後民主主義は、太平洋戦争など、過去の戦争の反省から生まれたということになっている。再び戦争の惨禍を招かないためには二度と戦争をしてはならないという反省に立ち、戦争を放棄して平和国家になったと言うのである。しかし、このような反省は、あくまで日本の防衛をアメリカが肩代わりすることを前提としたものである。平和主義だの平和国家だのと言ったところで、結局、日本の平和と安全を守るのはアメリカである。日本国民がいかに平和主義や戦後民主主義の継続を望んだとしても、アメリカが日本の防衛の肩代わりをやめてしまったら、平和主義も戦後民主主義も崩壊してしまう他はないのである。もしアメリカに日本の防衛ができなくなってしまったら、再び戦争の惨禍を招く危険を覚悟の上で、日本政府や日本国民自身が日本の防衛をするしか無くなってしまうのである。日本国憲法の理念も平和主義も、そして戦後民主主義も、アメリカが日本の防衛を肩代わりしている間の一時的な現象に過ぎないのである。
第一章 最高指導者とは何か
湾岸戦争とアメリカ大統領
話は湾岸戦争から始める。
1990年8月2日、イラク軍は突如クウェートへ侵攻し、これを制圧する。
これに対して国連安全保障理事会は、イラク軍の撤退を要求する決議をするが、イラクはこれを無視して占領を続ける。そして8月8日にイラクはクウェートの併合を宣言する。
このイラクの行為に対して8月25日、国連安全保障理事会は対イラク制裁限定武力行使決議を採択する。これを受けてアメリカのブッシュ政権は、ペルシャ湾岸に戦争のための兵員や物資の輸送と艦船の派遣を始めた。アメリカは五十万人という、ベトナム戦争以来の大軍をペルシャ湾に送り込んだのである。
そして11月29日、国連安全保障理事会は、1991年1月15日の期限までにイラク軍がクウェートから撤退しない場合、国連加盟国がイラクに対して武力行使をすることを認める決議をする。
この時のジャーナリズムの関心は、果たしてイラク軍は期限までに撤退するのか、そして撤退しなかった場合、アメリカをはじめとする多国籍軍は本当にイラクに対して武力行使を行うのかという点にあった。特に懸念されたのが、クウェートの武力解放ということになると、兵士同士の地上戦になるということであった。もしこれが長期化して多くのアメリカ兵が犠牲になるようなことになると、最悪の場合はベトナム戦争の二の舞になりかねない。
私は、この時、イラク軍が期限までに撤退しなくても、アメリカは武力行使を行わないだろうと考えていたのである。それは次のような理由である。
そもそも戦争をする為には、全国民の一致団結した支持が必要である。ところが当時のアメリカの世論は、対イラク戦争を巡って分裂状態にあった。戦争に賛成が45%であるのに対して、戦争に反対もしくは慎重な意見がやはり45%であった。政治が世論で動くアメリカでは、戦争を行う場合にも世論の支持が絶対に必要である。
そのよい例が第二次世界大戦の始まった時のことである。第二次世界大戦が始まる直前まで、アメリカ国民の大多数が参戦に反対だった。そもそもフランクリン・ルーズベルト大統領自身が、第二次世界大戦には参戦しないことを公約して大統領選挙に当選したのである。しかし、アメリカにとってのヨーロッパの戦局は、日増しに悪化する一方であった。ナチスドイツはヨーロッパ諸国を次々に征服し、イギリスは命からがらダンケルクから撤退するという始末であった。イギリスのチャーチル首相に要請されるまでもなく、アメリカは一刻も早く参戦してヨーロッパへ救援に駆けつけなければ、ヨーロッパどころか世界までがヒトラーによって征服されそうな状況であった。もしそのような事態になったら、アメリカの安全さえ危うくなってしまう。ルーズベルト大統領は焦った。しかし、アメリカは世論によって政治が動く国である。国民世論が参戦に反対である以上、ルーズベルト大統領としても、どうしようもなかった。そこへ突如、日本軍が真珠湾を攻撃して来た。その結果、アメリカの世論は一気に参戦支持に変わってしまった。これによって、ようやくルーズベルト大統領は開戦の決断が可能になったのである。
戦争は軍隊だけで行うことではない。戦争は国家・国民を挙げて行う一大事業である。国家が戦争を行う場合、国民の団結や支持は不可欠である。国民の団結を欠いた状態で戦争を行った結果、相手に対して圧倒的な軍事力や経済力を持ちながら、その力を十分に発揮できず、結局は敗れてしまった例がいくつもある。日露戦争の時のロシア帝国やベトナム戦争の時のアメリカがよい例である。日露戦争の時のロシア帝国は革命寸前の状態にあり、血の日曜日事件のような混乱が起こっていた。とても、国民が一致団結して日本と戦争ができるような状態ではなかった。その結果、ロシア帝国は、日本に対して圧倒的な軍事力や経済力を持ちながら戦争に敗れてしまったのである。また、最前線で戦っている兵士達にしてみれば、国民の一致団結した声援があってこそ命がけで国家のために戦おうという気持ちになれるのである。ところがベトナム戦争の時のアメリカ国民は、自国の兵士や国家に対して、声援どころか戦争反対の罵詈雑言を浴びせていたのである。これでは兵士達に祖国のために戦う気持ちなど起こるわけが無い。その結果アメリカは、北ベトナムに対して圧倒的な軍事力や経済力を持ちながら敗れてしまったのである。
私は、こういった過去の歴史的事実から、湾岸戦争も国民世論の一致団結した支持が十分得られていない状態で強行したら、ベトナム戦争の二の舞になるだろうと考え、それを恐れてブッシュ大統領は戦争を行わないだろうと予想したのである。
ところが結果は、全く私の予想しないものになってしまった。1991年1月17日、ブッシュ大統領は開戦を決断し、戦闘が始まってしまったのである。
その時、私にとって、開戦よりも遙かに驚くべきことが起こったのである。何と、開戦と同時にブッシュ大統領に対するアメリカ国民の支持率が89%にまではね上がったのである。つまり、それだけのアメリカ国民が開戦を支持したということである。
一体どうしてこのようなことが起こったのか。
それはアメリカ合衆国大統領の役職に備わっている強力なカリスマの力によって、アメリカ国民の意識が変えられてしまったからである。カリスマとは多くの人間を無意識のうちに従わせる力である。強力なカリスマを持った者が意志表明をすると、多くの人間が無意識の内にその意志を受け入れてしまうのである。つまり、実際は指導者のカリスマの力によって与えられた意志なのに、それを自分自身の考えによって決めた意志だと思い込んでしまうのである。これがカリスマの力である。
このような、大統領のカリスマの力によって国民の意識が変えられてしまうという事実は、湾岸戦争当時の私にとっては全く考えられないことであった。私は、改めてアメリカ合衆国大統領の恐るべき力を思い知らされたのである。また、私は、大統領のジョージ・ブッシュについては、カリスマや政治力に欠けた凡庸な政治家という評価をしていたのだが、湾岸戦争の結果、見直さざるを得なくなった。湾岸戦争を勝利に導いた要因としては、確かにブッシュ大統領個人の政治手腕もあった。しかし、湾岸戦争勝利の最大の要因は、アメリカ合衆国大統領の持つ強力なカリスマの力であったと言わざるを得ないのである。
私は、最高指導者の決断が国民の意識を変えるということを、湾岸戦争で初めて知ったのである。国家の最高指導者とは、国家にとっての重大な決断をすることによって国民の意識を変えることができる強力なカリスマや指導力を持った者のことを言うのである。最高指導者が存在しなければ、国家の危機に対処するのは不可能である。国家の危機に直面した時、世論が分列したり、国民が何をやってよいのか分からなくなり混乱したりしている時、最高指導者が断固たる決意を国民に示すことによって、国民の意志を一つにまとめ、国民と共に一致団結して危機に立ち向かわなければならない。こういうことができなければ、国家の危機に対処することは不可能である。
国家の危機でも、軍事力の行使が必要な場合は、国民の全面的な協力が必要である。軍人のように直接戦闘に参加しないまでも、後方支援には民間人の協力が必要な場合もある。軍事物資の輸送をすれば一般市民の道路の通行は制限される。傷病兵の治療のために民間の病院が使われることもある。勿論、国民は戦費の負担もしなければならないし、場合によっては空襲やゲリラ攻撃などにより一般国民が直接武力行使を受けることもあり得る。このような時に国民の考えが一致せず世論が分列していたら、国家としての秩序ある行動ができず混乱が起こり、危機に対処するどころではなくなってしまうのである。そこで最高指導者の断固たる決断とカリスマの力によって、国民の意志を一つにまとめ、全国民が一致団結して最高指導者と共に危機に対処しなければならないのである。それができなければ、いくら強力な軍隊を持っていても、まともな戦争はできないのである。軍隊は、国家の最高指導者と国民が団結して一体となった状況でのみ機能するものである。つまり、国家の危機が発生した時、いつでも国家と国民を一致団結させることができる体制が整っていてこそ国家の安全を守ることができるのである。そのために、国家には強力なカリスマを持った最高指導者の存在が必要不可欠である。要するに、国家の非常時における国民の一致団結とは、自然にできあがるものではなく、人為的に作られるものなのである。その国民の一致団結を人為的に作るための「装置」が国家の最高指導者なのである。
湾岸戦争から十二年後の2003年3月に息子のブッシュ大統領が始めたイラク戦争でも、湾岸戦争の時と同様のことが起こっている。イラク戦争開戦以前、ブッシュ大統領によるイラク戦争に対するアメリカ国民の支持率は56%だったのが、開戦後は72%へと上昇した。これは、このイラク戦争にアメリカと共に参戦したイギリスも同様であった。開戦以前は、ブレア首相が行おうとしていたイラク戦争への参戦に対して、イギリス国民のほとんどが反対し、支持する国民はほとんど居なかった。しかも、参戦に反対して辞任する閣僚まで現れた。更に、イラク戦争参戦を決定した議会決議の時、約百名もの与党労働党議員が参戦に反対するという有様であった。ところが、いざイラク戦争が始まると、戦争に対するイギリス国民の支持率は60%近くにまで上昇してしまったのである。つまり、イギリスの首相も、アメリカの大統領に匹敵する力を持っているのである。
ただし、いつでも湾岸戦争の時のようにうまくいくとは限らない。ベトナム戦争のような失敗例もある。ジョンソン大統領は1964年8月2日に起こったトンキン湾事件をきっかけに、北ベトナムに対する軍事力行使を始めた。これによってベトナム戦争は、本格的なものになった。この時点ではアメリカ国民の大多数は、戦争を支持していたのである。ところが、当初三ヶ月ほどで片が付くと予想されていたベトナム戦争は、何年たっても終わらず、戦況は泥沼状態に陥る。そこへもって、ジャーナリズムによってソンミ村の虐殺を始めとするアメリカ軍による残虐行為が報道され始める。するとアメリカ国民は、次第に戦争に懐疑的になり始め、ジョンソン大統領の指導力の低下もあって、ベトナム反戦運動が政治を揺るがすほど激化してしまった。その結果、ベトナム戦争は、政治的にも泥沼状態に陥ってしまった。そして遂に、超大国アメリカは、小国北ベトナムに敗れてしまったのである。このベトナム戦争の反省から湾岸戦争の時、ブッシュ政権は短期間で戦争を終わらせることに全力を挙げたのである。
日本が太平洋戦争で敗れた理由は、日本の経済力や技術力がアメリカに劣っていたからだという意見があるが、果たしてそのようなことが言えるのだろうか。経済力や技術力の優劣によって戦争の勝敗が決まると言うのなら、アメリカがベトナム戦争に敗れた理由をどう説明するのか。要するに、経済力や技術力は、戦争の勝敗を決定する要因の一つではあるが、決定的なものではないということである。超大国アメリカが小国北ベトナムに敗れたことがその証拠である。戦争には、軍事力や経済力の戦いという側面もあるが、同時に国家の指導者の政治力の戦いという側面もあるのである。いかに強大な軍事力や経済力を持った国家であっても、指導者が政治的に無力だったら、国家の力を十分に発揮できず、戦争に敗れてしまうこともある。その典型的な例がベトナム戦争なのである。
太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の戦略は、奇襲攻撃によってアメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えれば、アメリカ国民は戦意を喪失し、早期に日本との講和に応じるだろうというものであった。太平洋戦争の時のアメリカ大統領が、ベトナム戦争の時のジョンソンのような無能な指導者だったら、そのような結果になったかもしれない。しかし、太平洋戦争の時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、アメリカ史上最も強力な指導力を持つ大統領であった。ルーズベルト大統領の指導の下、アメリカ国民は、日本軍の真珠湾攻撃で大打撃を受けても戦意を喪失することは無く、最後まで一致団結して戦い抜き、日本に勝利することになったのである。日本は、アメリカの経済力や技術力に敗れる前に、ルーズベルト大統領の指導力と政治能力に敗れたのである。そしてベトナム戦争の時のアメリカは、ジョンソン大統領の政治能力の欠如によって北ベトナムに敗れてしまったのである。
天皇と明治国家
最高指導者の重要性は、徳川幕府の幕末以降の日本にも見ることができる。
1853年6月、アメリカのペリーは、軍艦四隻を率いて浦賀へ来港する。そして合衆国大統領の国書を持って上陸し、日本の開国を幕府に迫る。
更に翌年の1854年1月、今度は七隻の軍艦を率いてペリーはやって来た。そして圧倒的な武力を背景にして幕府に開国を迫る。これに対して、アメリカの武力に対抗する力の無い幕府は、しぶしぶ日米和親条約を結ぶ。この結果、鎖国政策は終わったが、同時に外国の力に屈してしまった幕府の権威は低下してしまった。
しかしアメリカはこれでも満足せず、1856年には総領事としてタウンゼント・ハリスを日本に派遣し、通商条約の締結を要求し、更なる開国を迫って来た。
一方、幕府は、今回もいやいやながらもアメリカの要求を受け入れようとした。ところが今回は、アメリカなどの外国勢力を軍事力で撃退すべきだと主張する攘夷派の大名などが、幕府の対米姿勢を弱腰と見なして反発し、開国に対して反対の声を挙げ始めた。この結果、幕府は窮地に陥った。開国をしなければ強大な武力を持つアメリカは何をするか分からない。万が一、戦争にでもなったら、軍事力など無いに等しい幕府は、ひとたまりもない。だからと言って、権威が落ちてしまった幕府には開国に反対する攘夷派の大名などを押さえつける力は無い。
ところが、頭をかかえる幕府の首脳に一つの策がひらめいた。それは天皇から開国の勅許を得ることである。
幕府の権威が落ち目なのに対して、天皇の権威は次第に高まりつつあった。幕府の言うことには従わない攘夷派の大名達も、天皇の権威には逆らえないだろうというのが幕府の読みであった。特に攘夷派の中心人物である前水戸藩主の徳川斉昭は、尊皇家として知られている人物である。天皇の勅許の前には、ひれ伏すしかないだろうと幕府は考えたのである。そこで幕府は、1858年1月に老中の堀田正睦を上京させ、朝廷に開国の勅許を申請する。一方、朝廷の側も幕府の申請通りに開国の勅許を出すつもりでいた。従って、何事も無ければ全てがうまくいくはずだったのである。
ところが事態は、幕府の予期せぬ結果になってしまう。ここで岩倉具視が登場する。幕府が天皇の権威を頼って来た今こそ、幕府を叩きのめす絶好の機会と考えた岩倉具視は、攘夷派の公家を数十名引き連れて御所に押しかけて、幕府に開国の勅許を出さないように朝廷に圧力をかけた。更に徳川斉昭も開国の勅許を出さないように朝廷に働きかけた。その結果、朝廷は幕府に対して、開国の勅許の申請を却下してしまったのである。
この事態は、幕府の混乱に拍車をかけることになった。その結果、いよいよ切羽詰まった幕府は、切り札と言うべき人物を起用する。幕府は、井伊直弼を大老に任命するのである。
井伊直弼が大老に就任した頃は、欧米列強が武力を背景に日本の開国を迫るのに対して、日本の国内では、開国を拒否して欧米列強を武力によって撃退すべきであるという尊王攘夷論が猛威を振るっていた。しかし、当時の日本には欧米の武力に対抗する力など全く無かった。従って、尊王攘夷論など、自国の力を全く理解していない者の空想論に過ぎないのである。
井伊直弼が大老に就任する以前の幕府の指導者達は、開国を迫る欧米の圧力と尊王攘夷論の板挟みにあい、右往左往するだけであった。これに対して井伊直弼は、開国に反対する者達に対して断固たる措置を断行する。徳川斉昭や山内容堂といった攘夷派の大名などを謹慎処分にし、吉田松陰や橋本左内らを処刑する。いわゆる安政の大獄である。そして尊王攘夷論を押し切って開国を決断し、勅許無しで1858年6月に日米修好通商条約の締結を強行する。これによって井伊直弼は欧米列強との武力衝突を回避して国家の危機を乗り切ったのである。しかし井伊直弼の決断は、尊皇攘夷派からは、朝廷の権威を無視する極悪非道な行為と見なされた。そのため、井伊直弼は、尊皇攘夷派の浪士によって桜田門外で暗殺されるはめになってしまった。そして、この井伊直弼の暗殺は、幕府の権威を更に低下させる結果となった。
孝明天皇は、1865年10月に開国の勅許を出したが、既に時代は幕末の動乱の最中であった。1866年12月、徳川慶喜が征夷大将軍に就任し、幕府の立て直しを図ったが、もはや幕府の権威の低下は止めようが無かった。やがて、1868年4月、江戸城の無血開城によって徳川幕府は名実共に滅亡してしまう。井伊直弼が、その指導力と決断力によって、武力を背景に開国を迫る欧米列強から国家の危機を救ったにもかかわらず、結局、徳川幕府を救うことはできなかったのである。
徳川幕府を打倒した薩摩や長州を始めとした勢力は、明治新政府を樹立した。その明治新政府は、徳川幕府の開国政策を受け継ぎ、文明開化と称して欧米の制度や技術や文化の積極的な導入を行った。ところが、この明治新政府の開国政策は、井伊直弼らによって行われた徳川幕府の開国政策とは違い、批判されることはほとんど無かった。つまり、明治維新以降、明治政府の指導者達を始めとした多くの日本人は、開国政策が正しいことを認め、これを受け入れて支持したのである。つまり、井伊直弼の決断の正しさは、宿敵であった薩摩や長州の指導者からさえ認められたということである。しかし、井伊直弼の功績は、幕末の時点では全く評価されなかった。それは、井伊直弼が開国の決断を行った時点では、まだ孝明天皇が開国を支持しておらず、開国の勅許を出していなかったからである。孝明天皇は、1865年10月に開国の勅許を出すことによって開国に同意し、それは、明治天皇にも受け継がれた。かつての勤王の志士や尊皇攘夷論者といえども、天皇の権威には逆らえない。だからほとんどの日本人が、明治政府の開国政策には反対しなかったのである。つまり、日本では、いくら正しい決定や政策であっても、正統な国家の最高指導者である天皇が反対したら正当化することができないのである。
日本の武家政治は、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから徳川慶喜が大政奉還を行うまで七百年近い歴史があったにもかかわらず、遂に正統な日本の国家体制になることは無かった。そのため、武家の棟梁である征夷大将軍は、最後まで正統な国家の最高指導者にはなれなかった。それは源頼朝が鎌倉幕府を開いた時には、既に天皇制が日本の正統な国家体制として確立され、日本の社会に定着していたからである。徳川将軍家は、徳川家康が覇権を確立して以来、二百年以上の間、日本の政治を支配していた。ところが実態は、徳川将軍家といえども武家の中の最有力者の一つに過ぎず、国家を統治する正統性など無かったのである。そのことが、開国を決定するために天皇に勅許を求めたことによって露見し、天下に知れ渡ってしまったのである。大老は、国家を統治する正統性の無い征夷大将軍の補佐役に過ぎない。従って、大老の井伊直弼に、国家にとって重大な決断をする権限などあるわけがない。その井伊直弼が、正統な最高指導者である孝明天皇の意向を無視して開国という重大な決断をしてしまった。だから桜田門外で殺されるはめになったのである。井伊直弼を直接殺したのは水戸や薩摩の脱藩浪士であったが、彼らにそうさせたのは、古代からの日本の政治にまつわる伝統や慣習なのである。日本に限らず、あらゆる国家には独自の伝統や慣習があり、そういったものによって国家の指導者は様々な制限を受けているのである。そのよい例が幕末の井伊直弼なのである。
幕末の政治が混乱した原因は、武家政治が国家の防衛には不向きな体制だったからである。武家政治が国家の防衛に不向きだった理由は、二つある。
第一の理由は、武家政治は日本の正統な国家体制ではなかったため、武家政治の指導者には防衛と外交の法的権限が無かったということである。
第二の理由は、武士が戦闘を行った場合、功績のあった者に対しては恩賞として領地を与えなければならなかったからである。恩賞として領地を与えるためには、戦闘に敗れた相手から領地を没収しなければならない。ところが、外敵に対する防衛戦争の場合は、たとえ戦闘に勝利したとしても、恩賞として与えるための領地を獲得することが極めて困難である。従って、恩賞としての領地がもらえないような防衛戦争は、武士にとっては極めて困難なのである。つまり、武士にできる戦争は、同じ日本の武士同士の領地争奪戦に限られるのである。
ただし、現実には、鎌倉幕府は、当時の世界帝国であったモンゴル帝国の襲来を二度も撃退することに成功している。鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができた理由は何なのか。
第一の理由は、モンゴル帝国との戦いの時は、徳川幕府の幕末ように、朝廷や大名が鎌倉幕府の軍事・外交政策に対して抵抗するようなことが無かったということである。鎌倉幕府には軍事・外交の権限が無かったが、朝廷には、軍事・外交の権限はあっても能力が無かった。そのため、幕府の行っている軍事・外交政策に反対しようが無かったのである。徳川幕府の幕末に、朝廷が幕府の外交政策に反対したのは、あくまで尊皇攘夷派の公家達の策謀によるものであって、普段は政治の実権を握っている幕府に軍事・外交政策を任せるしかなかったのである。また、モンゴル帝国の襲来の頃は、鎌倉幕府の最盛期であり、その権力は絶頂に達していたため、大名達も幕府の政策に反対できなかった。その結果、鎌倉幕府のモンゴル帝国に対する軍事・外交政策が混乱するようなことは無かったのである。
鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができた第二の理由は、最初のモンゴル帝国の襲来である1274年に起こった文永の役の時は、モンゴル軍は鎌倉幕府軍とわずか一日戦っただけで撤退してしまった結果、功績のあった武士達に対して恩賞として与える領地が少なくて済んだため、幕府はどうにか恩賞を与えることが可能だったことである。そのため、二度目のモンゴル帝国の襲来である1281年の弘安の役の時は、文永の役の時と同様に恩賞をもらえることを期待した多くの武士達が意欲的に戦ったため、モンゴル帝国を撃退することに成功したのである。ただし、弘安の役は文永の役とは違い、約二ヶ月に及ぶ長期戦となったため、恩賞として与える領地が足りなくなってしまった。そのため、功績のあった武士に恩賞としての領地を十分に与えることができなかったため、鎌倉幕府に対する武士達の信用が低下し、鎌倉幕府は弱体化して滅亡してしまったのである。従って、鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができたのは、日本史における例外であったと考えざるを得ないのである。
ところで、明治国家の最高指導者であった明治天皇が、最初から国家の最高指導者としての強大な力を持っていたわけではない。明治政府は、廃藩置県、廃刀令、秩禄処分といった政治の大改革を断行するが、これらの改革は、特権階級であった士族から、あらゆる特権を剥奪し、最終的には士族階級を消滅させる行為である。従って、日本中の士族階級の反発を呼ぶことは避けられなかった。特に、1871年の廃藩置県の時は、大久保利通や木戸孝允といった政府の指導者達も、特権を奪われる士族の反乱を恐れていた。この非常事態を乗り切るため、明治政府は西郷隆盛の力を頼ることとなった。本来なら、非常事態において国民を一つに団結させ、国家の秩序を維持するのは、最高指導者たる明治天皇の役割である。しかし、明治国家が成立したばかりの頃は、まだ天皇の最高指導者としての力は不十分であった。そこで明治政府は、明治維新の最大の功労者であり、強力なカリスマと指導力で薩摩・長州・土佐の八千人の兵からなる御親兵を率いる西郷隆盛の力を頼らざるを得なかった。明治政府は、西郷隆盛の政治力と軍事力で士族達の不満を押さえつけて廃藩置県を断行したのである。このように、明治政府が成立したばかりの頃の西郷隆盛は、明治天皇に代わって最高指導者の役割を代行していたのである。更に明治政府は、1873年には徴兵制を導入した。これによって士族は、軍事力を担う役割を奪われてしまった。ところがその後、西郷隆盛は、征韓論を巡る権力闘争に敗れて下野してしまう。すると、西郷隆盛という強力な指導者を失った明治政府は、指導力が低下してしまう。しかし、その後も明治政府は、廃刀令、秩禄処分、といった改革を次々と断行していった。こうした一連の改革の結果、多くの士族が失業者になってしまった。しかし、西郷隆盛という強力な指導者を失い指導力の低下した明治政府に、失業した士族の不満を押さえる力は無かった。その結果、失業した士族の反発から、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などといった反乱が相次ぐことになってしまった。そして西郷隆盛までが、薩摩の士族を率いて西南戦争を起こすに至ったのである。これに対して明治政府は、西郷隆盛の率いる薩摩軍を軍事力で打ち破ることに成功した。その結果、明治天皇の最高指導者としての権威とカリスマが確立され、明治国家は安定し始めるのである。これ以降、明治政府は、明治天皇の強力な権威とカリスマの力によって富国強兵政策を推進することになるのである。
明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、天皇は三代にわたり最高指導者として日本に君臨した。その間、軍事・外交上の重要政策は、最終的には天皇の裁可が無ければ決定できなかった。天皇の裁可が下る前の段階では、元老と呼ばれた人達や大本営政府連絡会議といった所で決定が行われた。しかし、元老や大本営政府連絡会議の決定は、国家の正式な決定ではなく、政府の実力者達の私的な合意に過ぎない。明治体制下の日本では、最高指導者である天皇の裁可があって初めて正式な国家の意志決定となるのである。そのため軍事・外交上の重要政策を決定する場合は、天皇の臨席の下に御前会議が開かれたのである。この御前会議こそ、国家の最高指導者としての天皇が権力の行使を行う場であった。
一部の学者や知識人達は、戦前の天皇は自ら意志決定を行ったことがほとんど無く、更に昭和天皇に関しては、自ら意志決定を行ったのは二・二六事件と終戦時にポツダム宣言を受諾した時だけであり、戦後の天皇と同様の形だけの存在であったと主張している。しかし、戦前の天皇が自ら意志決定を行ったことがほとんど無かったからと言って、天皇が権力を行使したことが無かったと考えるのは間違いである。なぜなら、戦前の日本では、天皇の裁可が無ければ国家としての重大な意志決定ができなかったからである。そして天皇の名において国民に発表しなければ、その重大な意志決定を国民に納得させることができなかったからである。
一般的に、権力の行使と言うと、法的権限の行使のことを言う場合が多い。しかし、国家の指導者が法的権限に基づいて重大な意志決定を行っても、国民がこれに従わなければ、その決定は意味が無くなってしまう。そのため、最高指導者のカリスマの力によって国民の意識を変えなければ、国民を国家の重大な意志決定に従わせることができない場合もあるのである。つまり、国家の重大な意志決定は、法的権限の行使と同時に最高指導者のカリスマの力を行使することによって始めて可能になるのである。要するに、カリスマの力も国家にとって重要な権力なのである。従って、カリスマの力の行使も権力の行使であり、法的権限の行使だけが権力の行使ではないのである。
戦前の日本では、国家の最高指導者としての天皇が持っているカリスマの力によって国民の意識を変えることができて、始めて国家の重大な意志決定に国民を従わせることができたのである。戦前の日本では、内閣総理大臣などの閣僚が法的権限の行使を担当し、天皇がカリスマの力の行使を担当していたのである。ところが学者や知識人の中には、法的権限の行使だけが権力の行使だと思い込んでいる人達がいるのである。そういう学者や知識人から見れば、法的権限の行使をすることがほとんど無い戦前の天皇は、あたかも形だけの存在にしか見えないのである。そこで彼らは、戦前の天皇が権力を持たない象徴的存在だったと主張しているのである。しかしカリスマが権力である以上、天皇が持つ強大なカリスマの力を行使することは、天皇の権力の行使だと考えざるを得ない。従って、戦前の日本における御前会議は、天皇が権力を行使する場と言えるのである。
戦後体制の指導者
日本では1885年に内閣制度が創設された。しかし、この時は、内閣を主催する内閣総理大臣といえども、あくまで天皇の補佐役に過ぎなかったのである。伊藤博文のような実力者が内閣総理大臣になったとしても、国家としての正式な意志決定には、やはり天皇の裁可が必要であった。
第二次世界大戦後の日本国憲法に記された議院内閣制は、イギリスの立憲君主制を手本にしているということになっている。そのイギリスの首相は、国家の中で一体どういう立場にあるのだろうか。
何度も言うように、軍事・外交上の重大な意志決定をすることが国家の最高指導者の役割である。従って、一体誰が軍事・外交上の重大な意志決定をしたかで、その国の最高指導者が誰なのか分かるのである。たとえば1982年のフォークランド紛争の例を見てみよう。アルゼンチン軍が突如、アルゼンチン沖のイギリス領フォークランド諸島を占領したのに対して、イギリスは空母機動部隊を派遣してフォークランド諸島を奪還することを決定する。これは、サッチャー首相の決断によって決まったのであり、戦前の日本のように、女王を招いてイギリス版御前会議を開いたわけではない。また、2003年に始まったイラク戦争へのイギリスの参戦も、ブレア首相がイギリス国民の反対を押し切って独断で決めたものである。このように、イギリスでは、戦争のような国家の重大な意志決定は首相が行うのである。従って、イギリスの首相は、国家の最高指導者であると言えるのである。つまり、イギリスの首相は、事実上の大統領なのである。
それでは、第二次世界大戦後の日本の内閣総理大臣は一体何なのか。日本国憲法の制定によって天皇は「象徴」となり政治の実権を失ったため、戦前の内閣総理大臣のような最高指導者たる天皇の補佐役ということはあり得ない。それでは、イギリスの首相のような事実上の大統領になったのだろうか。もし、戦後の日本の内閣総理大臣が最高指導者であるとすれば、国家の重大な意志決定に国民を従わせることができる強力な指導力とカリスマを持っていなければならない。果たして戦後の内閣総理大臣が、そのような力を持っているのだろうか。
一例として、日米安全保障条約が改定された時の岸信介総理大臣を見てみよう。
1951年に吉田総理大臣によってアメリカとの間に結ばれた日米安全保障条約の下では、アメリカによる日本の防衛の義務があるのか無いのかが定かではなかったため、憲法によって自衛権が制限されている日本にとって安全保障上の不安があった。また、アメリカ軍が日本の基地を使用する場合に日本政府の了解を得る必要が無かったため、日本の独立国家としての体面を保つ上で問題があった。そこで岸信介総理大臣は、この問題を解決するため日米安保条約の改定を決意し、1958年からアメリカとの交渉を始めた。
ところがこれに対して、日米が安全保障上の結びつきを強めることを、アメリカのアジア戦略に日本を巻き込む危険なものと考える社会党を始めとした野党勢力や総評などの労働団体は、日米安保条約改定阻止国民会議を結成し、岸政権の安保改定に対する反対運動を開始する。
一方、岸総理大臣は、1960年1月にアメリカとの間で安保条約の改定の調印を行った。そして1960年5月20日に、安保反対のデモが繰り広げられる中で、岸総理大臣は、新安保条約の批准を決定し、衆議院本会議で採決した。
そこで問題なのは、岸総理大臣による安保改定の決定により、安保条約に対する反対運動や世論がどうなったのかということである。何と、岸総理大臣の決定は、安保条約に対する反対運動を更に激化させる結果になってしまったのである。連日、数十万人のデモ隊が国会議事堂を取り囲み、安保反対と岸総理大臣の退陣を要求してデモを繰り広げた。挙げ句の果てに、与党の自由民主党の中からも岸総理大臣の退陣を求める声が出て来るという有様であった。この政治の混乱によって、予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が中止になってしまった。1960年6月19日、新安保条約は自然承認され成立した。しかし、岸総理大臣は、政治の混乱を収拾するため、遂に6月23日に辞意を表明するはめになってしまった。結局、岸総理大臣の決定は、安保条約に対する反対運動を激化させただけであり、国民の意識を変えることはできなかったのである。その後、岸総理大臣の退陣の後に内閣総理大臣に就任した池田勇人が所得倍増論を打ち出した結果、国民の目を政治から経済に向けさせることができた。これによって、国民に日米安保条約のことを忘れさせることに成功したため、とりあえず政治の混乱を収拾して、世論の分裂による国家の危機を乗り越えることができたのである。しかし、これによって安保条約反対の世論までが変わったわけではない。世論の分裂による体制の危機を乗り越えることができても、世論の分裂そのものが無くなったわけではないのである。日本国民は、自民党政権の手練手管によって手なずけられてしまっただけのことである。
岸総理大臣が日本国の最高指導者なら、安保改定の決定の結果、安保を巡る世論の分列は、ピタリと収まっていなければならない。つまり、日本の内閣総理大臣には、アメリカの大統領や戦前の天皇のような強力なカリスマや権威は備わっていないのである。だから岸総理大臣が意志決定をしても、国民の意識が変わることはなく、安保条約に対する国民の全面的な支持を得ることはできなかったのである。日米安保条約の改定により日本の経済発展の基礎を固めた岸信介は、確かに有能な政治家ではあったが、決して国家の最高指導者ではなかったのである。だから60年安保騒動は、安保条約を国民に受け入れさせるのではなく、池田内閣の所得倍増論によって国民の目を経済にそらして、安保問題を忘れさせることによって収拾するしかなかったのである。このように、結果として60年安保騒動の危機は乗り切ることができた。しかし、将来も国民世論の分裂の危機に対して、このような方法が通用するとは限らない。
一方、安保条約を巡る世論の分列と混乱は、その後も続くことになった。日米安保体制は、70年安保闘争や1995年の沖縄の米軍兵士による少女暴行事件、更に米軍基地の移転問題などを巡って動揺し続けたのである。国家の危機を乗り切るためには、やはり本当の意味での最高指導者が必要である。
もっとも、軍事・外交上の決定であっても、決定したことを実行するために国民の一致団結した協力を必要としないことならば、国民の間でどのような意見の対立があっても構わない場合もある。国民の一致団結した協力を必要とする決定とは、戦争のような国民の協力や負担を必要とする決定であり、そうでない決定なら世論が分列していても、外交上差し障りが無い場合もある。
たとえば、吉田茂総理大臣が太平洋戦争の終結のためのサンフランシスコ講和条約の締結をしようとした時、冷戦の影響でアメリカとソビエトの意見が対立した結果、ソビエトや中国を含めた全面講和が極めて困難になってしまった。そこで吉田総理大臣は、アメリカを始めとした自由主義諸国だけとの片面講和の締結を決定したのである。これに対して当時の日本のジャーナリズムや野党勢力は、ソビエトや中国を含めた全面講和を主張したため、吉田総理大臣の片面講和は、世論の支持が得られなかった。つまり、吉田総理大臣が片面講和の締結を決定しても、世論はこれを支持することは無かったのである。戦後最大の総理大臣とも言われる吉田茂にしても、国家の最高指導者と言えるような力は無かったのである。しかし、講和条約の締結に国民の協力や負担など特に必要ではない。そこで吉田総理大臣は世論や野党の反対を振り切って、片面講和であるサンフランシスコ講和条約に調印してしまったのである。
しかし、日米安保条約のような国家の安全保障に関わる重大な問題に関しては、国民の一致団結した支持が必要である。こういうことには、どうしても国民の協力、そして場合によっては負担や犠牲が必要だからである。さもなければ幕末の日本のように世論が分列して、非常事態に対処できなくなる恐れがあるからである。その一致団結した支持を国民からとりつけるためには、強力な最高指導者の存在が必要なのである。
戦後体制と安全保障
日本の戦後体制は、国家の非常事態というものを全く無視して作られたものである。日本の戦後体制を作ったのは第二次世界大戦後の日本に対するアメリカの占領政策の責任者であるマッカーサー元帥である。マッカーサーの日本に対する占領政策の目的は、日本を二度とアメリカの脅威にならない国にすることであった。そのためマッカーサーは、帝国陸海軍の廃止、日本国憲法の制定など、日本を軍事的に無力化する政策を次々と実行していった。
マッカーサーの日本を軍事的に無力化する政策の中でも、とりわけ重大なものが1946年に行われた日本国憲法の制定であった。日本国憲法の制定の目的は、日本の非武装化である。
日本国憲法の中でも、戦争放棄を定めた憲法九条には様々な解釈がある。
たとえば日本政府の解釈では、憲法九条は、いわゆる侵略戦争と集団的自衛権のみを禁じたものであって、自衛戦争まで禁じたものではないとされている。従って、自衛の範囲ならば軍備の保有と交戦権は認められると言うのである。
この日本政府の立場を支持する人達の憲法解釈の根拠になっているのが、いわゆる不戦条約である。1928年8月27日、アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外相ブリアンの提唱する不戦条約に、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、そして日本などの十五ヶ国がパリで調印した。この不戦条約は、提唱者の名前からケロッグ・ブリアン協定とも呼ばれている。この条約は、戦争を違法として戦争放棄をうたってはいるが、自衛のためならば軍備の保有も軍事力の行使も禁止してはいなかった。日本政府の憲法解釈を支持する人達の主張によると、日本国憲法九条は、このケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものだと言う。だから日本国憲法は、自衛のための軍備の保有ならびに軍事力の行使を禁止してはいないと言うのである。憲法九条一項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という条文だけなら、そのような解釈もできるかもしれない。しかし憲法九条二項には、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。もし、日本国憲法がケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものだとすれば、憲法九条二項は、自衛目的に限って軍備の保有と交戦権を認めるという趣旨の内容になっていなければならない。憲法九条二項は、明らかに自衛権を含めたあらゆる戦争を否定するものであり、ケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものとは全く考えられない。つまり憲法九条は、日本の非武装化を目的に作られたものであり、日本の防衛など問題にしてはいないのである。
更に、日本国憲法九条の解釈として、日本国憲法九条の目指すものは、軍事力を用いない安全保障であると主張する人達がいるが、これが間違いであることは、朝鮮戦争当時のマッカーサーの行動を見れば明らかである。1950年6月、北朝鮮が韓国に武力行使を開始して朝鮮戦争が勃発したのに対して、マッカーサーは、アメリカ政府の決定に従い、北朝鮮軍を撃退するため、アメリカ軍を朝鮮半島に派遣した。このことは、マッカーサーが、軍事力には軍事力で対抗するしかないという考え方の持ち主であることを明確に示しているのである。もしマッカーサーが軍事力を使わない安全保障なるものを日本国憲法に記したのだとすれば、日本国憲法を作った張本人であるマッカーサー自身が、その手本を日本国民に見せなければ筋が通らない。ところがマッカーサーが軍事力を使わないで朝鮮戦争を収拾しようとした形跡など全く無いのが現実である。また、そもそも日本国憲法の目指すものが、軍事力を用いない安全保障であるならば、その具体的な方法が憲法の中に記されていなければならないが、日本国憲法には、そのようなことは全く記されてはいない。前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」などと記されているが、これには何ら具体性が無い。また、一部の平和主義者は、軍事力を用いない安全保障の具体的な方法は、日本国民や日本政府が自分で考えて見つけるしかないと言っているが、それは無理なことである。なぜなら、軍事力を用いない安全保障の具体的な方法が見つかるまでの間の安全保障をどうするのかという問題があるからである。このことについても日本国憲法には何も記されていないのである。結局、日本国憲法の目指すものは、あくまで日本の非武装化であり、それ以外の何物でもないのである。
日本国憲法は、日本がアメリカの軍事占領下にあることを前提に作られたものである。日本国憲法九条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。この日本国憲法九条に記された内容は、日本国憲法が作られた当時の日本が置かれていた状況そのものであるとも言える。日本国憲法が作られた当時の日本は、アメリカ軍による占領下にあった。占領政策によって帝国陸海軍が解体され軍事力を全く持っていない以上、戦争は放棄せざるを得ない。アメリカ軍によって占領され、国家の独立を失っている以上、交戦権も無い。そのため、日本の安全保障は、占領しているアメリカ軍が責任を負うしかない。従って、占領下の日本では、日本の安全保障は日本政府の役割ではない。だからマッカーサーが日本国憲法を作るにあたり、日本の安全保障のことなど考える必要は全く無かったのである。つまり、日本国憲法は、将来、アメリカの軍事占領が終わり、日本が独立国家になった場合など全く想定してはいないのである。そのため、日本が表向き独立国家になっても、依然として占領時代と同様にアメリカに安全保障を依存せざるを得ないのである。従って、戦後体制下の日本の安全保障にとって、日米安保体制は生命線なのである。
日本国憲法九条は、戦後の日本の安全保障にとっての生命線である日米安保体制を脅かす存在でもある。1999年に成立した、いわゆる新ガイドライン法は、日本政府による憲法九条の解釈にも違反している。新ガイドライン法は、日本の周辺で戦争をしているアメリカに対して、日本政府による後方地域支援を行うことを定めた法律である。内閣法制局による憲法九条の解釈では、集団的安全保障は憲法違反であり、日本の戦争行為が許されるのは、日本の領土が他国から攻撃された場合に限るということになっている。しかし、それでは、日本が直接武力攻撃を受けている場合を除いて、アメリカが行っている戦争に対して武器弾薬や燃料の補給や輸送などの後方支援をすることは、憲法違反ということになってしまう。なぜなら後方支援が戦争行為であるということは、世界の常識だからである。そして戦争になれば補給活動に対する武力行使が行われるのも常識である。実際に第二次世界大戦中に日本の補給船がアメリカ軍の攻撃の対象になり、多くの犠牲者を出したのである。日本が直接武力攻撃を受けていない時にアメリカ軍に対して補給を行うのは、明確なる戦争行為であり、集団的自衛権の行使である。従って、いわゆる新ガイドライン法は、内閣法制局による憲法九条の解釈では憲法違反になってしまうのである。
この新ガイドライン法案が国会で審議されている時、審議の中で「後方支援は戦争行為であり、軍事行動と一体ではないのか。」という野党の質問に対して、小渕総理大臣を始めとした政府首脳が言い続けたことは、「戦争行為と後方支援は別であり、後方地域支援は憲法違反ではない。」ということであった。また、湾岸戦争の時も海部総理大臣が、後方支援は戦争行為ではないと言っている。これらの日本政府首脳の発言は、明らかに国際常識に反する詭弁である。要するに、後方支援が戦争行為であると認めてしまったら、周辺事態や湾岸戦争におけるアメリカ軍に対する後方支援が憲法九条に違反することを認めることになってしまうのである。だから日本政府は、後方支援は戦争行為ではないという詭弁を繰り返さなければならないのである。
日本政府は、自衛隊の存在を正当化するため憲法九条を拡大解釈して、専守防衛の範囲なら軍備の保有は合憲だと主張し、更に、日米同盟関係を正当化するために「後方支援は戦争行為ではない」と言って世界の軍事常識をねじ曲げている。このような行為は、子供騙しとしか言いようがない。このことが意味するのは、憲法の拡大解釈によって軍事情勢の変化に対処するというやり方には、既に限界が来ているということである。従って、日本の安全保障のためには、憲法九条は改正か廃止をするしかないことは明らかである。
ただし、憲法を改正しても、それだけで日本が独自の安全保障政策や外交ができるようになるわけではない。それは何度も言うように、国家の最高指導者の不在も戦後の日本が独自の安全保障政策や外交ができない理由だからである。
多くの人間は、軍隊さえあれば戦争ができると思い込んでいる。そして多くの日本人は、自衛隊が日本の安全を守ってくれると思っている。自衛隊が軍隊なのか、そうでないのかは、軍事の専門家の間でも意見が分かれているが、仮に自衛隊が本物の軍隊であるとしても、自衛隊に日本の安全を守る能力は無いのである。なぜなら、戦争は軍隊が行うことではなく国家が行うことであり、国家が戦争を行うためには戦争が可能な国家体制が整っていなければならないからである。第二次世界大戦後の日本には、その戦争が可能な国家体制が整っていないのである。
国家が戦争を行うためには、次の三つの要素が必要である。
第一の要素は当然、軍隊である。
第二の要素が後方支援である。軍隊が行うのは「戦闘」であり「戦争」ではない。「戦闘」は、兵器や軍事物資の補給や輸送、通信、傷病兵の治療などといった後方支援があって初めて可能になるのである。そして兵器や軍事物資の補給のためには、それを支える経済力が必要である。「戦争」とは、「戦闘」に加えて、後方支援など「戦闘」を維持するために必要な行為全体を言うのであり、それを行うのが国家である。軍隊は、国家の行う「戦争」の中の「戦闘部門」を受け持っているに過ぎないのである。
そして第三の要素が「精神的後方支援」とでも言うべき、国民の一致団結した戦争に対する支持である。そして何度も言うように、国民の一致団結のためには、強力なカリスマを持った最高指導者の力が不可欠なのである。
最高指導者の力が発揮できず、国民の一致団結した戦争に対する支持が十分に得られなかったため、軍事力や経済力では敵国に対して圧倒的な力を持ちながら、戦争に敗れてしまった例がいくつもある。日清戦争に敗れた清朝、そして既に述べたように、日露戦争に敗れたロシア帝国やベトナム戦争に敗れたアメリカなどがよい例である。日清戦争の頃の清朝と日露戦争の頃のロシア帝国は、革命が起こる寸前の状態にあった。そのため、清の皇帝もロシアの皇帝も、その指導力を十分に発揮することができず、日本との戦争に対して国民を団結させることができなかったため、戦争に敗れてしまったのである。そして清朝もロシア帝国も日本に敗れてから十数年後に革命によって崩壊している。最高指導者のカリスマと権威が失われた革命寸前の国家では、国民を戦争のために団結させることができないのである。また、ベトナム戦争の長期化によってアメリカ国民に厭戦気分が蔓延し、反戦運動が激化し、国民の団結が失われた結果、アメリカはベトナム戦争に敗れてしまった。つまり、ベトナム戦争当時のアメリカのように、大統領という最高指導者が存在しても、戦争指導を誤れば国民の団結が維持できなくなることもあるのである。ましてや、最高指導者が存在しない第二次世界大戦後の日本では、戦争など不可能である。
最高指導者が存在しなければ、国民の一致団結した戦争に対する支持が得られないどころか、場合によっては後方支援に対する協力さえ得られないかもしれないのである。後方支援には、民間人の協力が必要な場合もある。たとえば民間の船舶がその乗組員と一緒に軍事物資などの輸送に協力することを求められることもある。そういうことになれば、船舶の乗組員も直接戦争の犠牲になるかもしれない。戦時において、国民が一致団結できなければ、こういった後方支援のための一般国民の負担に対して国民から不満の声が挙がったり、協力を拒否されたりするような事態も起こりかねない。これでは国家の防衛など不可能である。
改憲論者の中には、憲法九条を改正すれば本格的な戦争ができると思い込んでいる人達が居るが、とてつもない誤りである。確かに憲法九条を戦争ができるような内容に改正すれば、法律上は戦争が可能になる。しかし、法律上可能であることと、実際にそれが可能であることは全くの別問題である。戦争は、「軍事力」に加えて後方支援を支える「経済力」、そして国民の団結を維持するための最高指導者の「指導力」の三つが一体となって始めて可能になるのである。国家に戦争をする能力が無ければ、戦闘部門である軍隊も機能しないのである。軍隊とは最高指導者を頂点とした国家の防衛体制の一部である。従って、最高指導者が存在せず、国家の防衛が可能な体制が整っていない戦後の日本が軍隊を持っていても、全く使い物にならないのである。従って、日本国憲法をどのように改正したところで、日本が独自に戦争ができるようになるわけではない。結局、戦後体制下の日本の防衛は、アメリカに依存するしかないのである。
最高指導者の不在が外交に支障をきたした例としては、北朝鮮による日本人拉致事件を挙げることができる。
日本政府は、1980年代後半には警察による捜査や亡命北朝鮮工作員の証言などから北朝鮮に多くの日本人が拉致されたことを知っていながら、なかなか事件の解決に動こうとはしなかった。しかし、たとえ日本政府や警察が、日本人が北朝鮮によって拉致されたことを示す動かぬ証拠を持っていたとしても、1980年代当時に日本政府が北朝鮮に対して拉致事件の解決を要求するのは無理であった。なぜなら、証拠を信じるか信じないかということは、結局、その証拠を出した人間を信じるか信じないかということだからである。1991年にソビエトが崩壊する前の日本では、共産主義を掲げる左翼勢力が言論界で大きな発言力を持っていた。左翼勢力にとっては「保守反動」の日本政府より、同じ共産主義の同志である北朝鮮の方が遥かに信用できるのである。たとえ日本政府が、北朝鮮によって日本人が拉致されたことを示す動かぬ証拠を出しても、北朝鮮政府が「でっち上げだ」とか言って抗議すれば、日本国内の左翼勢力や、その影響を受けているジャーナリストや国民が北朝鮮政府と一緒になって騒ぎ出し、世論が分裂してしまうのは目に見えていた。しかも、日本政府が北朝鮮による日本人拉致事件を外交問題にするとなると、北朝鮮政府と親密な関係にあった野党第一党の社会党やその支持者が猛反発して政治が大混乱する恐れもあった。これでは対北朝鮮外交など不可能である。国家が外交を行うためには、国民の一致した合意が必要な場合もある。国民世論が分裂した状態では、賛成派と反対派が足の引っ張りあいをして政治が混乱し、外交などできなくなってしまう場合もある。国民全体が一致団結して外交的要求をしてこそ、相手の国に対する強力な働きかけが可能になるのである。
ところが、1991年のソビエトの崩壊によって状況は一変する。共産主義の本家の崩壊によって、左翼勢力に対する国民の信用は一気に低下してしまう。その結果、左翼勢力の発言力も低下する。また、北朝鮮政府と親密な関係にあった野党第一党の社会党は、1993年の衆議院議員総選挙で惨敗して大幅に議席数を減らした後も、党の分裂や選挙の連敗によって更に議席数が減った結果、弱小政党社民党となり、政界における発言力がほとんど失われてしまった。これによって、日本政府が北朝鮮による日本人拉致事件を外交問題にしても、それに異議を唱える勢力が日本国内には存在しなくなり、拉致事件を解決するための外交に対する国民の一致した支持が得られるようになったのである。こうして日本政府が公式に拉致事件の解決を北朝鮮政府に要求することが可能になったのである。しかし、日本がまともな国家だったら、自国民が外国に拉致されるような事件が発覚すれば、直ちに行動を起こさなければならなかったはずである。日本政府が北朝鮮による日本人拉致事件を解決するための外交を始めるためには、結局、日本国内の親北朝鮮勢力の発言力が失われ、対北朝鮮外交に反対する声が無くなる時が来るのを待たざるを得なかったのである。
このように、日本政府が自国民の安全や人権を犯した国に対して、容易に行動が起こせなかったという事実が意味することは、戦後の日本が外交能力の欠如した欠陥国家だということである。外交を行うためには国民世論の一致した支持が必要な場合もある。そのためには、国民を一つに団結させるだけの強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が必要である。この点に関しては、戦争をする場合と全く同じことである。つまり、戦争が可能な国家体制と外交が可能な国家体制は全く同じものである。従って、戦争ができない国家には外交も容易にはできないのである。このため、日本政府は、拉致事件を解決するための外交を、なかなか始めることができなかったのである。
大統領制の本質
かつて、政治家や知識人、あるいは学者の間で、首相公選論なるものを論じることがはやったことがある。首相公選論者達は、内閣総理大臣を直接選挙で選ぶことによって国民の政治意識や政治に対する責任感が強まると同時に、内閣総理大臣の指導力も強まると主張していた。つまり、首相公選論者達は、アメリカの大統領選挙のように、内閣総理大臣を公選すれば、アメリカの大統領のような強力な最高指導者が日本に生まれると信じていたようである。要するに、首相公選論者達は、首相公選制度の導入によって実質的な大統領制を日本に成立させようと考えていたのである。
しかし、考えてみれば、たとえば日本の都道府県知事は直接選挙で選ばれているのに、アメリカの大統領のような強力なカリスマや指導力を持っているわけではない。更に、イギリスは、日本と同様に議院内閣制であり、イギリスの首相はアメリカの大統領のように公選されているわけではないのに、アメリカの大統領と同様の力を持つ国家の最高指導者である。つまり、最高指導者の指導力が強いか弱いかは、その選び方によって決まるわけではないのである。要するに、アメリカ大統領の強力な権力と大統領選挙制度との間には何の関係も無いのである。従って、日本の内閣総理大臣を直接選挙で選んだとしても、イギリスの首相のような実質的な大統領になれるわけではないのである。
それでは、アメリカ大統領は、一体どのようにして強力な指導力やカリスマを得ているのだろうか。
まず、強力な最高指導者に必要なのは、最高指導者としての正統性を確立することである。最高指導者としての正統性とは、なぜその人物が国家の最高指導者なのかという根拠である。最高指導者としての正統性が確立されていなければ、国民は誰の指導に従ってよいのかわからなくなり、政治が混乱して指導力が弱体化してしまうことがある。また、歴史上、世界の多くの国では、指導者の是非や権力の継承を巡る争いが激化した結果、国家が分裂して内乱になってしまったような例がいくらでもある。国家の最高指導者に正統性が確立されていないと、このような政治の混乱を招く可能性が高いのである。従って、最高指導者の強力な指導力を維持するためには、国家の最高指導者としての正統性をしっかりと確立して政治を安定させなければならないのである。
一般的な民主主義国家の理念では、民主主義国家の指導者は国民から支持され選挙で選ばれることによって正統性を確立していると言われている。ところがアメリカ大統領の場合は、最高指導者としての正統性は国民の支持ではなく、大統領に就任する過程の法律上の手続きによって確立されているのである。つまり、アメリカ大統領は、正統な法的手続きに従って大統領に就任したから正統な大統領なのだということである。
アメリカの大統領の正統性が法的な手続きによって確立されていることを示す例を挙げてみよう。
アメリカ大統領は在職中、死亡、又は何らかの理由によって職務が遂行できなくなり辞職した場合、副大統領が大統領に昇格するという制度になっている。ほとんどの副大統領は、大統領と共に大統領選挙を戦っているため、大統領と共に国民の支持を得たことになる。ところが、1974年8月9日にニクソン大統領がウォーターゲート事件の責任をとって辞任した後、副大統領から大統領へ昇格したジェラルド・フォードは、ニクソン大統領と共に大統領選挙を戦ってはいなかったのである。前副大統領のスピーロ・アグニューが州知事時代の収賄罪が確定したことを受けて副大統領を辞任した後、ジェラルド・フォードは、合衆国憲法の規定によりニクソン大統領の指名と上下両院の過半数の承認をもって副大統領に就任したのである。つまり、ジェラルド・フォードは、国民の支持によって副大統領や大統領に就任したのではないのである。従って、国民の支持が大統領の正統性の根拠だとすれば、ジェラルド・フォードは、正統な大統領ではないことになってしまう。
また、2000年の大統領選挙では、総得票数ではゴア候補がブッシュ候補に勝っていたにもかかわらず、アメリカ独特の大統領選挙制度のためにブッシュ候補が当選者となった。つまり、国民の支持ではゴア候補が勝利しても、法律上はブッシュ候補が勝利したということである。従って、アメリカ大統領を決定するのは国民の支持ではなく法律だということになるのである。更に、2000年の大統領選挙では、フロリダ州のブッシュ候補とゴア候補の得票数がほぼ同数で、他の州の集計結果が確定した後もなかなか集計結果が出ず、しかも、このフロリダ州の勝者が大統領選挙の当選者となるという状況だったため、なかなか当選者が決まらなかった。最後は、ブッシュ候補が僅差でフロリダ州を制し、大統領選挙の当選者となった。もし、国民の支持によってアメリカ大統領の正統性が確立されるとすれば、2000年の大統領選挙で当選したブッシュ大統領のように、僅差で当選した大統領の正統性は極めて怪しいことになってしまう。
このように、アメリカ大統領の正統性の根拠は、合衆国憲法の定める正統な法的手続きに従って大統領に就任したという点にあるのである。大統領選挙にしろ、副大統領からの昇格にしろ、合衆国憲法によって定められた大統領を決定する法的な手続きの一つなのである。大統領選挙を全く戦わず大統領に就任したジェラルド・フォードも、合衆国憲法の正統な法的手続きに従って大統領に就任した以上は、正統な大統領なのである。そして、大統領選挙に大差で当選しようが僅差で当選しようが、大統領選挙で勝利するという合衆国憲法の法的な手続きを経たことには変わりが無いのである。
次に、アメリカの大統領が、いかにして強力なカリスマの力を確立したのかを見てみよう。
既に述べたように、カリスマの力も法的権限と同様に国家を運営する上で必要不可欠な国家権力である。従って、法的権限を継承しただけでは国家の最高指導者は務まらないのである。ところが、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマの持ち主は、滅多に出現することが無いのが現実である。なぜなら、国家・国民を指導できるような強力なカリスマを持つためには、その源となる「神話」が必要だからである。アメリカの初代大統領であるジョージ・ワシントンは、「独立戦争の英雄」であり、「建国の父」である。これが彼の持つカリスマの源となる「神話」である。ところが、「建国の父」のような、強力なカリスマを持つための「神話」を得る機会に恵まれた指導者など、滅多に存在しないのが現実である。そのため、国家の最高指導者が務まるようなカリスマの持ち主が出現することは滅多に無いのである。それでは、一体どうすれば、強力なカリスマを持つための「神話」を得る機会の無かった者が、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持つことができるのだろうか。
ここで、カリスマというものについて説明する。
カリスマを持つのは、英雄や有名人のような特別な人間だけではない。実は、全ての人間がカリスマを持っているのである。ただ、一般庶民の持っているカリスマは、英雄や有名人の持つ強力なカリスマと比べると遙かに弱いというだけのことである。
人間を指導するということは、指導者の意志に多くの人間を従わせることである。多くの人間を指導する立場にある者には、一般庶民が持っているような弱いカリスマではなく、多くの人間を従わせることができる強力なカリスマが必要である。強力なカリスマを持った者が意志表明をすると、多くの人間が無意識のうちにその意志を受け入れてしまうのである。つまり、実際は指導者のカリスマの力によって与えられた意志なのに、それを自分自身の考えによって決めた意志だと思い込んでしまうのである。アメリカの大統領に限らず、多くの人間を指導する立場にある者は、このような強力なカリスマを持つことが必要不可欠である。そのため、指導的な立場にある者は、何らかの方法で強力なカリスマを獲得しなければならないのである。
強力なカリスマを獲得する方法としては、仕事などで功績を挙げたり、偉業を達成したりすることによって個人の持つカリスマを強化するという方法があるが、それに加えて、他者から強力なカリスマを継承するという方法もある。
カリスマを持つのは個人だけではない。家族や大学や企業のような人間集団がカリスマを持つ場合もある。そして人間が集団に所属すると、その集団からカリスマが与えられるのである。
たとえば、名家とか名門とか呼ばれるのは、強いカリスマを持った家族のことである。家族の一員に強いカリスマを持つ者が存在すると、その家族全体のカリスマも強まることになる。すると、その家に生まれた人間も、生まれると同時に強いカリスマが与えられることになる。これが俗に言う「親の七光り」である。この仕組によって何代にもわたって強力なカリスマを継承するのが名家とか名門とか呼ばれる一族なのである。
一流大学や一流企業とは、強いカリスマを持った大学や企業のことである。学生が一流大学に入学すると、その一流大学が持つカリスマが与えられる。一流大学の卒業生が優秀な人間と見なされる理由は、学校の成績が優秀だったからと言うよりも、むしろ一流大学から与えられた強いカリスマの力のためである。また、有名な一流企業に就職すると、社員は企業から強いカリスマを与えられる。そのため、一流企業に属しているだけで、その人間が立派な人間のように世間から思われてしまうのである。
また、カリスマにはマイナスのカリスマもある。たとえば、親が犯罪行為を行うと、子供までが犯罪者の如く扱われてしまう。企業が犯罪行為を行うと、犯罪行為に直接かかわっていない社員までが企業と同罪だと見なされてしまう。これは、親や企業からマイナスのカリスマを受け継いだ結果である。
人間は、自分の持っているカリスマを強めるために生きているとも言える。人間が成功者や有名人になったり出世したりすることを望むのは、そうすることによって自らのカリスマを強めたいからである。女性が成功者や有名人と結婚したがるのは、結婚することによって成功者や有名人の家族の一員となり、その家の持つ強いカリスマを与えられたいからである。学生が一流大学や有名企業に入りたがる理由の一つが、一流大学や有名企業の持つ強いカリスマを与えられたいからである。親が子供を一流大学や有名企業に入れたがるのは、子供の持つカリスマを強めることによって自分のカリスマも強めたいからである。
更に、カリスマを持つのは人間や人間の集団だけではない。大統領、総理大臣、あるいは社長といったような役職がカリスマを持つ場合もある。前任者から強力なカリスマを持った役職を継承すると、同時にその役職が持っているカリスマも前任者から継承することになる。そうすることによって、本来なら強力なカリスマを持つような資質や機会に恵まれない人間でも、強力なカリスマを持つことが可能になるのである。
これまで述べたことからすると、強力なカリスマを得るには次の二つの方法があることになる。
第一は、ジンギスカンやナポレオンやワシントンといった英雄のように、偉大な業績を挙げることによって「神話」を作り、自らのカリスマを強大化させるという方法である。
そして第二は、強力なカリスマを持った人物や人間集団から、その強力なカリスマを継承するという方法である。
いかなる国家であろうと、せっかく国民を指導するに足る強力なカリスマを持つ初代最高指導者が出現しても、その人物が死んだり最高指導者を辞めたりしてしまったら、国家から強力なカリスマを持った最高指導者は居なくなってしてしまう。そのようなことでは、国民を指導することができなくなり、国家の安全を守ることもできなくなってしまう。国家には国民を指導するに足る強力なカリスマを持つ最高指導者がどうしても必要である。そこで古今東西、多くの国家では、初代最高指導者のカリスマを、次の最高指導者に継承する体制を確立しているのである。
その体制の一つが君主制である。君主制とは、初代最高指導者のカリスマを継承する一族や子孫に最高指導者の地位を継承させることによって、強力なカリスマを持った最高指導者を半永久的に存続させる指導体制である。
そしてアメリカなどの国で採用されている大統領制も、初代最高指導者のカリスマを次の最高指導者に継承する体制であることには変わりがないのである。既に述べたように、大統領や総理大臣などの最高指導者の役職がカリスマを持つ場合もある。大統領制とは、強力なカリスマを確立して国家の最高指導者となった初代大統領のカリスマを、大統領の役職と共に次の大統領に継承させる体制である。強力なカリスマを持つ機会の無かった者が国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持つためには、前任者の持つ強力なカリスマを継承するしかないのが現実である。従って、アメリカ合衆国第二代大統領ジョン・アダムス以降の歴代大統領のカリスマは、初代大統領ジョージ・ワシントンから継承されたものなのである。
今日のアメリカの大統領は、国民の意識を変えてしまうような強大なカリスマを持っているが、初代大統領ジョージ・ワシントンの頃からこのような強大な力を持っていたわけではない。アメリカの大統領のカリスマは、大統領の指導力によって国家の危機を乗り切ったり戦争に勝利したりする度に強大化していったのである。その中でもとりわけカリスマの強大化に貢献したのが、第十六代大統領エイブラハム・リンカーンと第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトである。この二人の偉大な大統領が登場する前と後ではアメリカは大きく変質しているのである。
南北戦争が終結した1865年以前のアメリカは、国家の連合体に過ぎなかった。日本人が「州」と呼ぶカリフォルニア、テキサス、アーカンソーなどといった地方自治体は、本来は一つの独立国家である。つまり、本来のアメリカ合衆国とは、北米大陸版のEU(ヨーロッパ連合)とでも言うべきものであった。南北戦争が始まった時、南部十一州が独立してしまったが、十一州にしてみれば、国家の連合体からの離脱に過ぎないのである。南北戦争以前のアメリカの大統領は、国家を統合する力が極めて弱かったのである。つまり、南北戦争の終結以前のアメリカ合衆国は、国家の成立の途上にあったのである。
ところがリンカーン大統領の指導によって南北戦争が北部の勝利に終わり、アメリカが再統一された後は、合衆国から分離独立した州は、現在に至るまで一つも存在しなかった。それは、リンカーン大統領の指導力により合衆国が再統合された結果、連邦政府と大統領の力が強大化したからである。つまり、リンカーン大統領によって、初めてアメリカの大統領に国家を統合する力が確立されたのである。これによってアメリカ合衆国は国家体制が完成し、本当の意味での統一国家になったのである。言い換えれば、リンカーン大統領こそ本当の意味でのアメリカ合衆国の建国者であると言っても過言ではないのである。
次はフランクリン・ルーズベルト大統領の場合である。
第二次世界大戦後のアメリカは、世界の至る所で戦争を行ってきたが、第二次世界大戦以前はそうはいかなかった。第一次世界大戦に参戦してみた結果、悲惨な戦争を目の当たりにして、国内に厭戦気分が広がってしまった。しかも、伝統的なモンロー主義の影響も根強いものがあった。そのため、第二次世界大戦以前のアメリカの世論や議会は、国際紛争への介入には極めて消極的であった。そのためアメリカは、日本が中国へ攻め込もうが、ナチスドイツがポーランドやフランスへ攻め込もうが何もできなかった。せいぜい非難をしたり経済制裁をしたりするのが精一杯であった。やがて日本軍の真珠湾攻撃をきっかけに、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、日本やドイツに勝利して世界の覇者となる。するとアメリカは、一転して大統領の号令の下に世界中で積極的に軍事介入をするようになる。朝鮮戦争やベトナム戦争、そして湾岸戦争といった具合である。これはルーズベルト大統領の指導力により第二次世界大戦に勝利した結果、大統領のカリスマが強大化したため、世論や議会が大統領の軍事・外交政策に対して容易に反対できなくなった結果である。このルーズベルト大統領よって確立された大統領の強大な力が、現在の大統領にまで引き継がれているのである。
また、アメリカ合衆国憲法では、宣戦布告の権限は議会のみにあって、大統領には無いことになっている。ところが実際は、議会にも国民にも全く知らせず、大統領の決断だけで戦争を始めた例はいくらでもある。レーガン大統領が行ったグレナダ侵攻や、父親の方のブッシュ大統領が行ったパナマ侵攻などがそれである。つまり、憲法に記されてはいないことでも、一度それが前例となり積み重ねられていくと慣行となり定着してしまうのである。
こうしてアメリカの大統領制には、強大な権力とカリスマを継承する体制が確立されたのである。アメリカの大統領制は、国民が大統領にしたい人物を選ぶ選挙制度と、強大な権力とカリスマを大統領の役職と共に前任者から後任者へと継承する体制の上に成り立っているのである。だから、大統領の役職を引き継いだ人物がカリスマや指導力に欠けていても、大統領の役職に備わっている強大な権力とカリスマの力を駆使することによって最高指導者としての役割が務まるのである。もし、このような、強大な権力とカリスマを継承する体制が整っていない国で、カリスマや指導力が欠如した人物が最高指導者になってしまったら、最高指導者が不在の欠陥国家となり、国家の機能が麻痺し、国家・国民の安全を守ることができなくなってしまうのである。
カリスマの継承が必要なのは、無能な政治家が最高指導者になった場合だけではない。考えてみれば、リンカーンやフランクリン・ルーズベルトのような偉大な大統領といえども、大統領に就任したばかりの時は普通の大統領だったのである。大統領の在任中に偉大な功績を挙げた結果、後世の人々から偉大な大統領と言われるようになったのである。従って、偉大な最高指導者になる素質のある政治家といえども、やはり前任者からカリスマを継承しなければ最高指導者は務まらないのである。
ただし、今まで述べてきた最高指導者のカリスマを継承する体制は、あくまで国家の最高指導者にとって必要最低限度のものであって、これさえあれば国家の最高指導者が務まるわけではない。言うまでも無く、国家の防衛には、指導者の判断力や政治手腕といったものも必要である。第二次世界大戦当時の日本のように、国家の指導者達が判断を誤れば、戦争に敗れ国家の防衛が破綻してしまうこともある。特に、現在のアメリカ大統領は、同盟国の防衛や国際秩序の維持といった超大国としての役割も果たさなければならない。そのため、アメリカの大統領には、政治家としての卓越した能力が必要である。従って、大統領が前任者からカリスマを継承しただけでは、超大国アメリカの最高指導者は務まらないのである。たとえば、日本軍による真珠湾攻撃のように、直接自国の領土が攻撃されたような場合は、自衛戦争と言うことで容易に戦争を正当化できる。しかし、超大国としてのアメリカは、朝鮮戦争や湾岸戦争のようにアメリカの領土とは遠く離れた地域で戦争を行わなければならない場合もある。このような戦争を正当化するためには、戦争を行うことを国民に納得させるための優れた説得力や、戦争を勝利に導くための高度な判断力や政治手腕が必要である。同盟国の防衛や国際秩序の維持といった超大国としての役割のためには、一国の防衛の場合よりも遥かに高度な政治能力が必要になるのである。ところが、高度な政治能力があるか無いかということは、結局、政治家個人の能力の問題である。最高指導者のカリスマを継承する体制が確立されていても、超大国の最高指導者が務まるような高度な政治能力まで継承するわけではない。従って、アメリカの大統領がいくら強大なカリスマを前任者から継承したとしても、ベトナム戦争当時のジョンソン大統領のような政治能力が欠如した人物が大統領になり、政治的な判断を誤り、ベトナム戦争のような失敗を繰り返すようでは、戦争を正当化できなくなり、同盟国の防衛や国際秩序の維持が困難になってしまう可能性もあるのである。従って、超大国アメリカの大統領は、超大国の最高指導者にふさわしい卓越した政治能力を持った政治家でなければ務まらないのである。
カリスマを継承する体制が確立されていなければ最高指導者が不在となり、政治が不安定になったり、場合によっては国家が崩壊したりしてしまうような事態さえ起こりかねない。その典型的な例が、旧ユーゴスラビアである。
ユーゴスラビアは、1980年にチトー大統領が死去したのをきっかけに、民族間の対立が表面化し始める。そして1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニアといった各共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立に向かって動き出した。これに対して、セルビア人を中心としたユーゴスラビア連邦政府が独立を認めなかったことから、1992年になると遂に内戦が勃発してしまう。そしてボスニア・ヘルツェゴビナでは「民族浄化」、更にコソボ自治州ではアルバニア系住民が難民となって国外に流出するなどの悲劇が起こってしまった。
そもそも旧ユーゴスラビアの六つの共和国を一つにまとめていたのは、チトー大統領の強力なカリスマの力であった。そのチトー大統領の死去と共にチトー大統領のカリスマの力が失われてしまったことがユーゴスラビアの崩壊の原因なのである。チトー大統領は、第二次世界大戦中パルチザンを率いてナチスドイツと戦いユーゴスラビアを解放し、戦後は共産主義国家でありながらソビエトの衛星国とはならず自主外交を貫いた。このようにチトー大統領は、それなりに優れた指導者ではあったが、カリスマの継承の確立という国家体制にとって最も肝心なことを怠ってしまったため、彼の死後に国家が崩壊するという最悪の事態を招いてしまったのである。ユーゴスラビアの内戦に伴って生じた様々な悲劇に対して、セルビア人やユーゴスラビア政府の指導者達が国際社会から非難を浴びたが、真に非難されなければならないのは、カリスマの継承の確立ができず、国家の分裂の原因を作ってしまった故チトー大統領なのである。
アメリカの大統領制のように、前任者からカリスマを継承することによって、指導力やカリスマに欠ける人物でも国家の最高指導者が務まるような体制が確立されていなければ国家の安全保障は成り立たない。ところが現在の日本にはそのような体制は確立されていないのである。これが戦後の日本が最高指導者の存在しない欠陥国家である理由の一つである。日本の内閣総理大臣の役職にも、ある程度のカリスマは備わっているが、アメリカの大統領のように国民を指導できるような強力なものではない。更に、アメリカの大統領に匹敵するような強力なカリスマを持った政治家が日本に出現したことなど一度も無い。一部の言論人達は、戦後の日本に軍事・外交の能力が無いのは、内閣総理大臣に就任した政治家が、指導力や決断力や政治手腕といった国家の指導者としての能力に欠如しているからだと主張している。つまり、内閣総理大臣の職にある政治家個人の能力に問題があるから、まともな軍事・外交ができないと言うのである。勿論、国家の最高指導者には指導力、決断力、政治手腕といった能力は必要である。しかし、現実的に考えれば、世界中どこの国であっても、どのような政治体制であっても、国家の最高指導者が務まるような優れた能力を持った指導者が登場することなど滅多に無い。稀にあったとしても、その人物が最高指導者の地位にある時にだけ都合よく国家の危機が起きてくれるという保証など無い。国家の危機は、大多数の凡庸な最高指導者の在任中に起こる可能性の方が遙かに高いのである。従って、国家の安全保障を政治家個人の能力に依存するのは、あまりにも非現実的だと言わざるを得ないのである。結局、国家の危機に対処するためには、カリスマ、指導力、決断力、政治手腕といった最高指導者としての能力に欠けた人物が最高指導者になってしまっても、それを補う体制を整えておくしかないのである。その体制の一つが、アメリカの大統領制のようなカリスマを継承する体制なのである。
要するに、国家の最高指導者とは、選ばれるものではなく作られるものなのである。国家の最高指導者の大多数は、本来なら最高指導者など務まらない凡庸な政治家である。その凡庸な政治家に法的な正統性を与え、法的な権限を与え、カリスマを前任者から継承させ、最高指導者に作り上げるのである。これが「権力の継承」である。勿論、国家の最高指導者には、判断力や政治手腕といった能力も必要である。従って、「権力の継承」を行っただけでは、無能な最高指導者が出現してしまう場合もある。しかし、旧ユーゴスラビアのように、最高指導者が存在しなくなったことが原因で国家が崩壊するようなことが起こり得るのが世界の現実である。従って、たとえ「権力の継承」によって無能な最高指導者が出現してしまったとしても、最高指導者が存在しない欠陥国家になってしまうよりはましなのである。
日本の歴史と最高指導者
果たして、日本に大統領制が成立するのだろうか。
大統領制は、次のような段階を経て成立するものである。
第一段階では、「独立の父」「救国の英雄」と呼ばれるような偉大な政治的業績を挙げた指導者が、その業績を「神話」として強力なカリスマを確立して実質的な最高指導者となり、更に選挙などの法的手続きによって大統領などの法的な正統性のある最高指導者の地位を獲得して初代最高指導者となる。
第二段階では、その初代最高指導者のカリスマが、大統領などの最高指導者の役職と共に法の手続きに従って二代目以降後の後継者に継承され、更に、この仕組が慣習となり定着し、安定した最高指導者の権力が確立される。
ちなみに、私の言う大統領制には、アメリカやフランスの大統領のような、最高指導者が大統領を称している場合に限らず、イギリスの首相のような実質的な大統領制も含まれている。
既に述べたように、アメリカの大統領は、「独立戦争の英雄」である初代ジョージ・ワシントンのカリスマが歴代大統領に継承され、それが、リンカーンやフランクリン・ルーズベルトといった偉大な大統領らによって更に強化され今日に至っている。また、フランス第五共和制の大統領の場合は、第二次世界大戦中にフランスを軍事占領していたナチスドイツに対する開放闘争の英雄であるシャルル・ド・ゴール大統領のカリスマを、ポンピドゥー以降の歴代大統領が継承するものである。
日本に大統領制が成立するためにも、第一段階として政治家が何らかの偉大な政治的業績を挙げ、強力なカリスマを確立し、更に法的正統性のある最高指導者に就任しなければならない。ところが日本では、歴史上、天皇以外の者が法的正統性のある最高指導者に就任した前例が無いのである。
たとえば、平安時代の貴族の藤原氏は、天皇の外戚として摂政や関白に就任して強大な権力を振るった。いわゆる摂関政治である。しかし、藤原氏が独占していた摂政や関白は、国家の最高指導者の役職ではない。そもそも摂関政治は、天皇のカリスマや権力を藤原氏が利用することによって成立したものであり、藤原氏自体に天皇に匹敵するようなカリスマや権力があったわけではない。もし、藤原氏に天皇に匹敵するようなカリスマや権力あったならば、彼ら自身が天皇のような法的正統性のある国家の最高指導者に就任していたはずである。
そして、武家の棟梁である征夷大将軍も法的正統性のある最高指導者ではなかった。これが、徳川幕府の幕末の動乱が起こった根本的な原因である。徳川幕府がアメリカの圧力に屈して開国を決定しようとした時、天皇に勅許を出してもらわざるを得なかった理由の一つが、征夷大将軍は法的に正統な最高指導者ではないため、軍事・外交を行う法的権限が無かったことである。軍事・外交を行う法的権限は、法的に正統な最高指導者である天皇にあるため、幕府は天皇に勅許を出してもらわざるを得なくなってしまった。そのため、徳川家の征夷大将軍が法的正統性のある最高指導者ではないことが明確になってしまったのである。その結果、本来正統な最高指導者である天皇に政権を戻そうとする倒幕運動が活発になったのである。徳川将軍家の初代徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利し、二百六十年以上続いた安定政権の基礎を作った。しかし、これほどの功績を挙げても日本では法的正統性のある最高指導者にはなれないのである。
日本を再統一した豊臣秀吉や、関ヶ原の合戦に勝利して天下の実権を握った徳川家康のように、天下を実質的に統治している実力者といえども、法的正統性のある天皇から官職を与えられることによって始めて自らの権力を正当化できたのである。そのため、秀吉は天皇から関白太政大臣に任ぜられ、家康は天皇から征夷大将軍に任ぜられたのである。つまり、天下を実質的に統治している実力者といえども、天皇の力を借りなければ権力基盤を固めることができなかったのである。そして徳川幕府は、天皇の力を借りた勢力によって滅ぼされる羽目になってしまったのである。
その徳川幕府打倒の最大の功労者は、何と言っても西郷隆盛であろう。薩摩や長州といった倒幕勢力を結集し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、勝海舟との談判の結果、江戸城の無血開城を実現して明治新政府を打ち立てたのである。この明治新政府の指導体制は、世界に類の無い特異なものだと言わざるを得ない。なぜなら、もし日本が普通の国だったら、西郷隆盛は国家の最高指導者になっていても不思議ではないからである。世界の歴史を見れば、国家が独立したり革命などによって新しい国家が成立したりした場合、独立運動や革命の指導者がそのまま新しい国家の最高指導者になる場合が多いのである。アメリカの独立戦争の指導者だったワシントンは、アメリカの初代大統領に就任している。また、ガンジーと共にインドの独立運動を指導したネルーも、インドの初代首相に就任している。ロシア革命の指導者だったレーニンは、ソビエトの最高指導者となった。そして、蒋介石政権を打倒して中国に共産主義政権を樹立した毛沢東も、中国の最高指導者となったのである。ところが、日本の明治新政府の最高指導者は、明治維新の最大の功労者であった西郷隆盛ではなく明治天皇だったのである。既に述べたように、明治維新の中心人物である西郷隆盛は、明治新政府の成立後、廃藩置県などの政治改革に対する士族階級の反発を押さえるため、一時的に国家の最高指導者の役割を代行したことはあったが、法的に正統な最高指導者になることは無かったのである。なぜなら、明治新政府の法的に正統な最高指導者は、あくまで明治天皇であり、西郷隆盛は明治天皇の一臣下に過ぎなかったからである。明治維新の最大の功労者であり、強力な指導力とカリスマを持った偉大な政治家である西郷隆盛といえども、天皇制を否定することはできなかったのである。
このように、日本では、政治家が功績を挙げることによって法的に正統な最高指導者になるということは不可能であり、歴史的な事実として、そのようなことは前例が無いのである。要するに、日本には、政治家が偉大な功績を挙げることによって強力なカリスマを確立し、法的正統性のある最高指導者になるという伝統も文化も無いのである。これでは「初代大統領」など出現しようがない。勿論、「初代大統領」が出現したとしても、そのカリスマが後継者達に継承できるという保証は無い。ユーゴスラビアのチトー大統領のように失敗する可能性もある。これでは、どう考えても日本に大統領制が成立するとは思えないのである。
首相公選論を唱えていた人達は、国家というものは、法律や制度の上にのみ成り立っていると考えていたのである。つまり世界中のどこの国だろうと、アメリカと同じ法律や制度を作れば、アメリカと同じ国家ができあがると思い込んでいたのである。首相公選論を唱えていた人達の考えは、明らかに現実に反している。国家や最高指導者のあり方は、その国固有の伝統や文化の産物であり、法律や制度は枝葉末節の問題に過ぎないのである。
日本の政治家がいかなる功績を挙げても国家の最高指導者になれないのは、日本の最高指導者のあり方が世界の国々と比べて極めて特異なものだからである。
通常、国家の最高指導者とされている者には、次の二つ役割がある。
第一の役割が、「最高意志決定者」である。「最高意志決定者」は、国民全体を代表して軍事や外交政策などの国家の重大な意志決定を行う。
第二の役割が、「行政の責任者」である。「行政の責任者」は、行政機関の長として行政機関を指導し、更に、「最高意志決定者」の決定した政策や決断を実行し、問題が生じた場合は責任を負う。
既に述べたように、国家の最高指導者の権力は、国民を指導するに足る強力なカリスマと法的権限によって成り立っている。そして、強力なカリスマの力によって国民全体を指導するのが「最高意志決定者」であり、法的権限によって行政機関を指導するのが「行政の責任者」である。
世界のほとんどの国では、どのような国家体制であっても「最高意志決定者」と「行政の責任者」の役割は,一人の人物が兼ねているのが普通である。これに対して、戦前の日本の場合は、この二つの役割が天皇と内閣総理大臣によって分担されていたのである。すなわち天皇が国家の「最高意志決定者」であり、内閣総理大臣が「行政の責任者」だったのである。天皇は「最高意志決定者」として軍事や外交政策などの国家の重大な意志決定はするが、決定したことを実行することや、その結果に対して責任を負うことは無いのである。そして「行政の責任者」としての内閣総理大臣の役割は、天皇の決定した軍事や外交政策などを実行することと、行政機関の長として内政上の問題などについて行政機関を指導することであり、問題が生じた場合は責任を負うことである。国家の最高指導者の最大の役割は、軍事や外交のような国家にとっての重大な政策の意志決定をすることである。従って、「最高意志決定者」であった天皇が戦前の日本の最高指導者であったと言えるのである。
第二次世界大戦後の日本でも、内閣総理大臣が「行政の責任者」であることは戦前と変わりがないが、国家の重大な意志を決定する「最高意志決定者」になったわけではないのである。一方、戦前の日本で「最高意志決定者」であった天皇は、日本国憲法の規定によって「象徴」になってしまい、あらゆる政治的権限を失ってしまった。つまり、戦前の内閣総理大臣の「行政の責任者」としての権限は、戦後の内閣総理大臣にそのまま引き継がれているが、国家の重大な意志決定をする「最高意志決定者」としての天皇の権限を引き継ぐ役職が戦後の日本には存在しないのである。その結果、第二次世界大戦後の日本には最高指導者が存在しなくなってしまったのである。
一般的な常識では、「行政の責任者」のことを国家の最高指導者と言う場合が多い。また、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」と記され、更に内閣総理大臣の法的権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。日本国憲法に記された内閣総理大臣は、まさに「行政の責任者」である。従って、一般的な常識からすれば、日本の内閣総理大臣は、立派な最高指導者ということになってしまう。しかし、私の考えでは、強力なカリスマの力によって国民全体を指導する「最高意志決定者」として役割こそ、国家の最高指導者の真の役割である。そのため、私は日本の内閣総理大臣は、国家の最高指導者ではないと考えているのである。
この、「最高意志決定者」としての権限だけを持つ最高指導者と「行政の責任者」がそれぞれの役割を分担するという政治体制は、古代から日本に存在していたのである。そして、古代から最高指導者になる権利は天皇だけが持っているのに対して、「行政の責任者」は、その時代の実力者が就任するのである。すなわち、蘇我氏、摂関政治の藤原氏、鎌倉幕府執権の北条氏、足利将軍家、徳川将軍家といった実力者達が、歴代の「行政の責任者」である。そして、天皇は古代から何度も最高指導者としての実権を失ったり復権したりを繰り返して来たが、常に最高指導者としての正統性が失われることは無かったのである。
一方、最高指導者と「行政の責任者」を一人の人物に統合して、日本を普通の国に変えようという試みも、歴史上何度か行われたが、それを実行しようとした者は、いずれも惨めな失敗に終わっている。蘇我入鹿や藤原仲麻呂は、天皇に取って代わろうとしていたと言われているが、最後は殺されている。後醍醐天皇は、中国の皇帝のような専制君主になろうとしたが、建武の新政の失敗によって断念せざるを得なくなった。結局、天皇だけに最高指導者としての正統性があり、時の実力者が「行政の責任者」に就任するという体制が、日本の社会に定着してしまったのである。そのため、日本は、武家政治の時代や第二次世界大戦後のように、天皇が最高指導者としての力を失ってしまうと、国家の最高指導者は存在しなくなってしまうのである。そして、天皇以外の者の場合は、徳川家康や西郷隆盛のような傑出した指導者でも、法的には「行政の責任者」になるのが限界なのである。従って、第二次世界大戦後の日本の内閣総理大臣とは、「法的に正統な行政の責任者」なのである。
現代の世界には、最高指導者と首相が共に政治的権限を持っている国は数多くある。フランスの大統領と首相、ロシアの大統領と首相、タイの国王と首相などである。これらの国々の最高指導者と首相の関係は、共同統治者であって、戦前の日本の天皇と内閣総理大臣のように最高指導者と「行政の責任者」が分担されているわけではないのである。従って、もし首相が何らかの政治上の過ちを犯したら、最高指導者も連帯責任を取らされる場合があるのである。最高指導者と「行政の責任者」が別というのは、日本独特の政治体制なのである。
政治体制に限らず、一つの制度が伝統となり、その国の社会に定着すると、よほどのことがあっても無くならなくなってしまうことがある。たとえば、ヨーロッパの貴族制度は、イギリスのように法的に認められている国がある一方で、フランスやイタリアやドイツのように、革命や政変をきっかけにして法的には存在しなくなった国もある。ところが、ヨーロッパの貴族は、法的には存在しないことになっている国でも実態としては存在し、いまだに市民の尊敬を受けているのである。また、インドのカースト制度は、法律上は否定されているが、実態としては存在し続けていて、しばしばインドの社会問題として取り上げられることがある。このように、一つの制度が伝統となり、その国の社会に定着してしまうと、法律をどう変えようが、政変や革命が何回起ころうが、無くなることは無いのである。
貴族制度やカースト制度と同様に、特定の政治体制が、その国の社会に定着して伝統となり、法律をどう変えようが政変や革命が何回起ころうが、無くならなくなってしまった例がある。その典型的な例が、イギリスの議会制度と日本の天皇制である。イギリスの議会制度は十三世紀に成立して以来、七百年以上続いた歴史によって伝統となり、イギリスの社会に定着してしまった。イギリスの議会制度も日本の天皇制と同様に、長い歴史の中で何度も革命や政変や内乱といった事態に遭遇したが、結局、存在し続けたのである。つまり、イギリスの議会制度も日本の天皇制も、貴族制度やカースト制度と同様に伝統となり社会に定着してしまったのである。これが、天皇制が二千年近く続いた理由の一つである。
大統領制とは、選挙などの法的手続きに従えば、誰もが正統な国家の最高指導者に就任できる制度である。これに対して、天皇制の伝統が確立されている日本では、正統な国家の最高指導者になることは天皇にのみ許され、それ以外の者は、どれほど実力があろうと「行政の責任者」にしかなれないのである。そして、この天皇制は、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度のように社会に定着して、いかなる方法によっても変更できなくなっているのである。そのため、憲法を改正して首相公選制を導入したところで、結局、「行政の責任者」に就任するための法的手続きが変わるだけの結果になってしまうのである。従って、日本に大統領制は成立しないのである。
戦前の日本では、最高指導者として君臨する天皇と、「行政の責任者」である内閣総理大臣が、二つで一つとなって国家権力を形成していたのである。天皇が最高指導者であっても、「行政の責任者」ではないということは、すなわち、天皇によって決定されたことがいかなる結果を招いても、天皇に責任は無いということである。この、最高指導者と「行政の責任者」が分担されているという日本の政治体制の特異ぶりが最も極端な形で示されたのが、第二次世界大戦後に行われた日本の戦争責任者の追求の時である。
太平洋戦争の開戦は、昭和天皇の主催する御前会議によって決定された。内閣総理大臣を始めとした大臣は天皇の補佐役に過ぎず、開戦の決定のような国家の重大事を決定する権限は無いのである。開戦のような国家の重大事は、最高指導者たる天皇のみに決定権がある。従って、太平洋戦争の開戦が御前会議によって決定されたということは、太平洋戦争の開戦は、昭和天皇によって決定されたということである。
ただし、昭和天皇自身は日米開戦には反対だったとして、それを理由に昭和天皇には開戦の責任は無いと主張する人達もいる。しかし、日米開戦が昭和天皇の本意であろうとなかろうと、開戦のような国家の重大事は、最高指導者たる天皇のみに決定権がある以上、普通の国の常識から考えれば、昭和天皇こそ最大の戦争責任者ということになってしまう。日本以外の国なら、間違いなく昭和天皇は戦争責任を取らされていたはずである。日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国となったイタリアでは、国王のビットリオ・エマヌエーレ三世が、ムッソリーニ首相との共同統治の責任者として、敗戦の責任を取って退位させられ、王制そのものも廃止されてしまった。ところが日本では、天皇制の廃止も昭和天皇の退位も無かったのである。帝国陸海軍の最高司令官であり、大日本帝国の最高指導者であった昭和天皇は、常識的に考えれば最大の戦争責任者のはずである。その天皇の罪がGHQ(連合国最高司令官総司令部)から問われなかった最大の理由は、大多数の日本国民が昭和天皇の断罪に反対だったという点にある。日本国民からの昭和天皇の戦争責任を問う声がほとんど起こらなかったどころか、GHQに対して日本国民から寄せられた意見のほとんどが昭和天皇の罪を問うべきではないというものだった。この日本国民の意志に反して天皇の処罰などすれば、どのような政治的混乱が起こるか分からなかったのである。これは、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の原則が完全に日本の社会に定着していたということを明確に示しているのである。
一方、占領政策の責任者であったマッカーサーにしても、占領政策を成功させるためには、どうしても昭和天皇の協力が必要だった。一説には、マッカーサーはアメリカ大統領の地位を狙っていたとも言われている。そのためもあってか、マッカーサーは是が非でも占領政策を成功させなければならなかった。占領政策を成功させるために必要なのが協力者である。協力者は、占領側に協力的で、しかも被占領国民の支持が得られる人物でなければならない。そこでGHQが白羽の矢を立てたのが昭和天皇だったのである。敗戦という事態にもかかわらず、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の原則によって、国民から戦争責任が問われることが無かったため、国民の天皇に対する尊敬の念と天皇のカリスマが完全に失われることは無かったのである。そのためGHQは、アメリカの占領政策の協力者にふさわしい人物として昭和天皇を選んだのである。結局、占領政策の責任者であるマッカーサーも、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の原則を尊重せざるを得なかったのである。ただし、大日本帝国の最高指導者にして帝国陸海軍の最高司令官であった昭和天皇の罪が一切問われないと言うのでは、日本の戦争行為を批判し、再び天皇の名による戦争が行われることを恐れている中国やソビエトやオーストラリアといった国々の不満が収まらない。そこでマッカーサーは、事実上の昭和天皇の身代わりとして、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされた東条英機や広田弘毅といった元内閣総理大臣を含む七名を絞首刑に処し、更に、戦争の放棄を定めた日本国憲法を作ったのである。
言論人や政治学者の中には、天皇はイギリスの国王と同様の立憲君主なのだから戦争責任は無いなどと言う人達がいるが、名実共に最高指導者だった天皇と、政治的権限の全く無いイギリスの国王を同列に論ずるのは明らかに間違いである。そもそも立憲君主制と言っても様々な形態があるが、その中でイギリスの立憲君主制は、形の上では君主制であっても、実態は議会政治という政治体制である。議会政治では、国民から選挙によって選ばれた者のみが国家の指導者というのが原則である。従って、イギリスの立憲君主制で内閣総理大臣に任命されるのは、議会内の多数党の代表者でなければならない。ところが、太平洋戦争の開戦当時の内閣総理大臣であった東条英機は、議会内の多数党の代表者ではないどころか、議会政治家ですらない現役の軍人である。このような人物が内閣総理大臣に任命されたこと自体が、当時の日本がイギリスの立憲君主制とは異質の政治体制だった証拠である。
天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の原則も、天皇家が二千年近く続いて来た理由の一つである。諸外国の王朝の君主は日本の天皇とは違い、最高指導者と「行政の責任者」を兼ねている。従って、失政や敗戦などによって王朝の権威が低下すると、「行政の責任者」としての責任を取らされる形で王朝の交代や革命が起こってしまう場合がある。ところが日本の場合は、天皇の意志決定がどういう結果を招こうと、政治責任を取らされ交代させられるのは専ら「行政の責任者」であり、最高指導者の天皇自身に責任の追求が及ぶことは無いのである。だから日本では、王朝の交代や天皇制を否定する革命など起こりようが無いのである。
勿論、天皇や皇室といえども、何らかの形で自らの決定に対する責任を取らされたことはある。その一例が、鎌倉時代初期に起こった承久の乱の場合である。1221年、鎌倉幕府から朝廷に政治の実権を取り戻そうとした後鳥羽上皇は、執権の北条義時に対する追討令を発し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。これに対して鎌倉幕府は、北条泰時らの率いる軍勢を京に差し向け、朝廷側の軍勢を打ち破る。そして鎌倉幕府は、後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流にし、仲恭天皇を廃位にしたのである。また、第二次世界大戦の敗戦の結果、昭和天皇は天皇の地位を失うことは無かったが、政治の実権は失った。これも或る意味では責任を取らされたものと言える。しかし、いずれの場合も王朝の交代や天皇制の廃止にまでは至っていない。
この「決定者」であっても「責任者」ではないという戦前の天皇制のことを無責任体制などと言って批判する言論人が居る。しかし、無責任とは、責任を取る立場にあるにもかかわらず責任を取らないことを言うのであって、最初から責任を取る立場に無い戦前の天皇を無責任呼ばわりするのは間違いである。
民主主義国家と非常独裁制
民主主義国家については、一般的に次のように説明されている。
国家の最高指導者は権力の乱用などによって独裁者となり、国民の権利や自由を侵害するような行為を行う恐れがある。そのような独裁権力の行使から国民の権利や自由を守るためには、国家の最高指導者の権力を必要最小限度のものに制限し、国民の監視の下に置かなければならない。まず、国家の最高指導者にはカリスマのような国民の意識を変えるような強大な力は持たせない。そして、法的権限を法の執行権、立法権、司法権の三つに分割し、最高指導者には法の執行権のみを与える。更に、法を執行する最高指導者、立法府である議会、そして司法権を行使する裁判所にそれぞれ対等の力を与えて互いに監視させ、三者の中の一つが独走することを防ぐのである。これが三権分立であり、民主主義国家の根幹を成すものである。最高指導者が意志決定をする場合も、あらかじめ法によって定められた民主的手続きに従い、議会の承認を得なければならない。こうすることによって最高指導者を国民の代表である議会の監視下に置くのである。そして、国家の最高指導者を監視するのは、議会や裁判所だけではない。国民には言論の自由や思想の自由など様々な自由を与え、議会やジャーナリズムと共に最高指導者を監視するのである。このようにして国家の最高指導者が独裁者となることを防ぎ、国民の権利と自由を守るのである。おおよそこれが、一般的に民主主義国家とされているものである。
しかし、国家が存在する最大の理由は、国民の生命や財産を守ることである。そのため、国家の最高指導者には非常事態に対処するための強大な権力が必要である。非常事態においては、早急な意志決定と行動が必要な場合があり、民主的手続きなど行っている時間など無い場合もある。また、国家の重大な決定を巡って世論が分列して収拾がつかなくなる場合もある。このような場合に国民を一つに団結させて非常事態に対処するため、最高指導者には強力な指導力やカリスマの力が必要不可欠である。しかし、そうすると、最高指導者は突出した力を持つことになり、三権分立が破綻して独裁者になってしまう恐れがある。従って、国家と民主主義は矛盾することになってしまうのである。
一般的に言われている民主主義国家の理論からすれば、アメリカは一種の独裁国家ということになってしまう。なぜなら、現実に、アメリカの大統領には独裁的なところがあるからである。独裁とは、本来なら議会の承認による民主的手続きが必要な決定を、議会を抜きにして決定してしまうことである。たとえば、既に述べたように、アメリカの憲法の規定では、宣戦布告は議会のみが有する権限ということになっているが、レーガン大統領が行ったグレナダ侵攻や、父親の方のブッシュ大統領が行ったパナマ侵攻は、議会の承認を得ずに行われた戦争行為であり、客観的に見れば明らかに憲法違反であり独裁である。ところが、グレナダ侵攻やパナマ侵攻の時、レーガン大統領やブッシュ大統領に対して民主的手続きを経ていないといった非難の声は無かったのである。つまり非常事態における慣習として、大統領による戦争開始の権限が容認されているのである。要するに、これは一種の非常独裁制である。古代ローマにディクタトールという制度化された非常独裁制があったのに対して、アメリカの場合は非常時における独裁制を制度化せず、慣習として定着させることによって非常事態に対処しているのである。
民主主義の理論では、法の執行、立法、司法の三権が分立し、互いに力の均衡を取りながら監視し合い、それぞれが独走をしないように牽制し合うということになっているが、第二次世界大戦後のアメリカでは、大統領の権力が強大化し、他を圧倒する力を持ってしまっている。特に、大統領の軍事・外交に関する権力は、議会の力が及ばないくらい強大なものになってしまっている。第二次世界大戦後のアメリカでは、大統領が戦争の開始のような重大な決意を表明すると、これを世論も議会もジャーナリズムも無条件で支持するようになってしまったのである。一度、大統領の強大なカリスマの力が発動されると、議会政治家やジャーナリストといえども一人のアメリカ国民として大統領の指導に従わざるを得なくなってしまうのである。つまり、大統領のカリスマの力が行使されると、三権分立も議会政治も言論の自由も事実上停止してしまうのである。従って、国家の非常事態や戦争などの時、議会政治家やジャーナリズムに大統領の権力に抵抗する力は無いのである。第二次世界大戦後のアメリカ大統領は、軍事・外交上の権限に限って言えば、まさに独裁者なのである。ただし、大統領の決定といえども、ベトナム戦争やイラク戦争のように、後に失敗であることが明らかになれば、国民の支持を失い、世論や議会が反対するようになることもある。しかし、そのベトナム戦争やイラク戦争でさえ、開戦当初は国民や議会から全面的に支持されていたのが現実である。つまり、三権分立や民主的手続きといった民主主義の原則が通用するのは、あくまで平時の場合であって、非常事態に陥ったり戦争が始まったりして大統領の強大な権力が発動されると、全く通用しなくなってしまうのである。しかし、あまりにも強大な大統領の権力は、民主主義を形骸化させかねない。そこでアメリカでは、大統領が、その強大な権力を行使するのは、国家の非常事態のような、どうしても強力な指導力を必要とする場合に限定するという慣習を確立し、それを守ることによって民主主義を守っているのである。このように、アメリカの民主主義は、慣習上の非常独裁制の上に成り立っているのである。
ただし、この非常独裁制こそ、アメリカの議会やジャーナリズムが、ベトナム戦争やイラク戦争が始まることを止められなかった理由でもある。また、戦前の日本の議会やジャーナリズムが、満州事変や支那事変(日中戦争)、そして太平洋戦争が始まることを止められなかった原因として、軍国主義だのファシズムだのと言っている人達がいる。しかし、議会やジャーナリズムに戦争が始まることを止める力が無いのは、現代のアメリカだけではなく、戦前の日本を含めた多くの国家に共通のことである。つまり、国家の非常時に対処するためには独裁権力の行使が必要な場合があり、そのために非常時に議会政治や言論の自由が一時的に停止するのは当然のことだからである。また、何度も言うように、戦争は、国民の一致団結した支持があって初めて可能になるのである。従って、戦争が始まった時点では、既に国民の一致団結した支持が得られている場合が多いのである。また、イラク戦争が始まった時のイギリスのように、世論の反対を押し切って始められた戦争でも、一旦始まってしまえば国民の支持を得る場合もあるのである。そもそも戦争に限らず、何事であろうと、国民が一致団結して支持している行為に反対する者は、誰であろうと国民を敵に回しかねないのは当然のことである。従って、国民の支持によって成り立っている議会や、国民から新聞なり書物なりを買ってもらうことによって成り立っているジャーナリズムが、国民が支持している戦争に反対できないのは当然ことである。だから、議会やジャーナリズムに戦争が始まることを止めるのは困難なのである。
ただし、最高指導者の強大な力の行使を国家の非常事態に限定する非常独裁制を確立するのは、欧米のような民主主義国家にとっても極めて困難なことであり、長い歴史が必要である。既に述べたように、アメリカの大統領が今日のような強大な権力を確立したのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代である。アメリカの場合は、建国から百数十年という長い民主主義の歴史の中で非常独裁制が確立された後に、フランクリン・ルーズベルトという強大な力を持った最高指導者が出現したのである。だから、直ちに本格的な独裁国家になるようなことは無かった。これに対して、ナポレオンが登場した頃のフランスの第一共和制や、ヒトラーが登場した頃のワイマール共和国と呼ばれるドイツの共和制は、民主主義の歴史が浅かったため、非常独裁制は確立されていなかった。そのため、本格的な独裁者の出現を阻止できなかったのである。
フランスでは1789年7月に始まったフランス革命をきっかけにブルボン王朝が廃止され、第一共和制が成立した。しかし、フランス革命が自国へ波及することを恐れるヨーロッパ諸国が、1793年9月にイギリスを中心に第一次対仏大同盟を結成して攻勢に出たため、第一共和制は存亡の危機に立たされることになった。ここにナポレオンが登場し、戦争によって敵国を次々に打ち破り、1797年10月に第一次対仏大同盟を解体させる。しかし、イギリスを中心とする反フランスのヨーロッパ諸国は、1799年3月に第二次対仏大同盟を結成する。ナポレオンは、1799年11月にクーデターによって政治の実権を握り、第二次対仏大同盟に属するオーストリア軍を撃破する。そして1802年3月に、イギリスとの間にアミアンの和約を締結して第二次対仏大同盟を解体させた。こうしてナポレオンは、フランスを軍事的な危機から救い、国民的英雄となった。そして1804年5月、ナポレオンは国民投票の結果、圧倒的な国民の支持によって皇帝に即位し、独裁体制が確立されたのである。
1914年に勃発した第一次世界大戦は、1918年11月に起こったドイツ革命によって終了した。この革命によってドイツはホーエンツォレルン王家の帝政を廃止して共和制となった。ドイツの共和制は、1919年にドイツ共和国憲法制定のための議会がワイマールで開かれたことから、ワイマール共和国と呼ばれることになった。しかし、1929年10月にアメリカに始まった世界大恐慌によって、ドイツは失業率が40%を超える経済危機に陥ってしまった。ドイツ国民は、この悲惨な状況から国民を救ってくれる指導者の登場を望んだ。しかし、ワイマール共和国の議会政治家達には、この経済危機に対する有効な手立てが無かったため、国民の不満が増大していった。こういった状況の下で、1933年1月にヒトラーは首相に任命される。ヒトラーは大規模な公共事業や軍備拡大によって失業問題を解決した。更にヒトラーは、非武装地帯となっていたラインラントへ軍隊を進駐させるなどして、ドイツ国民が不満を抱いていたベルサイユ体制と呼ばれる第一次世界大戦後の国際秩序を破綻させた。こうしてヒトラーは、国民の支持を得て強大なカリスマを持つことになり、独裁権力を確立したのである。
始まって間も無いフランスの第一共和制も、ドイツのワイマール共和国も、アメリカのように独裁権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習は確立されてはいなかった。そして、ナポレオンやヒトラー自身も、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定しようとはしなかった。そのため、たちまち本格的な独裁国家になってしまったのである。それどころか、ナポレオンもヒトラーも、独裁権力を維持するために戦争を繰り返すことになった。長い歴史のある体制ならば、歴史と伝統によってカリスマの力が安定したものになり、容易にカリスマの力が失われることは無いのである。しかし、ナポレオンもヒトラーも、国民の支持を得て独裁権力を確立したものの、革命以前のブルボン王朝やホーエンツォレルン王家とは違い、歴史の無い不安定な体制であった。そのため、ナポレオンもヒトラーも独裁権力を維持するためには、戦争に勝ち続けることによってカリスマの力を強化し続けなければならなかった。ナポレオンもヒトラーも、このようにして独裁権力を守っていたのである。しかし、これが最終的にはフランスやドイツを敗北に導く結果になったのである。
フランスやドイツに限らず、国家が何らかの危機に陥ると、国民は、危機から国家や国民を救済してくれる指導者の出現を求めるようになり、それに答える形で「英雄」や「天才的指導者」と呼ばれるような強大なカリスマや指導力を持った指導者が登場することがある。ところが、場合によっては「英雄」や「天才的指導者」が、その強大なカリスマや指導力を背景にして、議会政治や言論の自由を停止させ、本格的な独裁政権を確立してしまうことがある。ナポレオンやヒトラーのような強大なカリスマと指導力を持った最高指導者の前では、民主主義や議会政治など全く無力なのである。従って、このような強大な力を持った指導者から民主主義を守るためには、アメリカのように最高指導者の強力な力の行使を国家の非常事態に限定する非常独裁制を確立することが必要不可欠なのである。
国家には、非常事態に対処するため、国民の意識を変えるような強力なカリスマ持った最高指導者が必要である。しかし、民主主義にとっては、そのような力を持った最高指導者は、いつ独裁者になるか分からない危険極まりない存在である。言い換えれば、民主主義にとっては、独裁者になり得るような最高指導者が存在したのでは、民主主義が消滅しかねないが、国家にとっては、独裁者になり得るような強大な力を持った最高指導者が存在しなければ、今度は国家が消滅しかねないのである。つまり、民主主義と国家とは互いに相反する矛盾した関係にあるのである。しかし、この矛盾を克服しないことには民主主義国家は成立しないのである。そして、民主主義と国家の矛盾を克服する唯一の方法が非常独裁制なのである。非常独裁制が確立されていない状況のままで、民主主義を掲げる政治体制が国家の非常事態に直面すると、国家のために民主主義を否定するのか、それとも民主主義のために国家を滅ぼすのかという二者択一を迫られてしまうのである。そして、第一共和制の下のフランス国民も、ワイマール共和国の下のドイツ国民も、国家のために民主主義を否定する選択をしてしまったのである。それがナポレオンやヒトラーの独裁体制を生み出したのである。
ただし、非常独裁権を行使しようとしても、国家の非常事に独裁者になり得るような強力な最高指導者が常に存在しなければ不可能である。従って、非常独裁権を行使するためには、アメリカの大統領制のように、強力なカリスマを継承する「権力の継承」が確立されていなければならない。つまり、非常独裁制と「権力の継承」の二つがそろって確立されて、初めて非常独裁制が機能するようになり、民主主義国家が完成するのである。
このように、民主主義国家とは、決して独裁権力の行使を否定するものではないのである。たとえば、世界で最も民主的といわれていた戦前のドイツのワイマール憲法でも、「公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるとき」 に大統領に非常独裁権を行使する権限が認められていたのである。ただし、ワイマール憲法下のドイツでは、アメリカの大統領制のように、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習も、強力なカリスマを継承する「権力の継承」も確立されていなかったため、非常独裁制が機能せず、ヒトラーの独裁政権の登場を招く結果になってしまったのである。要するに、フランスの第一共和制やドイツのワイマール共和国が、ナポレオンやヒトラーの独裁政権に取って代わられたのは、非常独裁制が確立されておらず、民主主義国家が未完成だったことが原因なのである。
アメリカ大統領の権力が、どのように行使されているのかを見れば分かるように、アメリカ人やアメリカ政府の言っている民主主義国家は、現実のアメリカとは全く違うのである。これまで述べたように、国家の最高指導者は、国家の安全保障にとって重要な役割を担っている。ところが、アメリカ人やアメリカ政府が言っている民主主義国家は、選挙や議会や三権分立といった制度だけで国家が成り立つことになっていて、最高指導者を中心とした安全保障体制という考えが完全に欠落しているのである。そのため、アメリカ人やアメリカ政府の指導に従って民主主義体制を作った国は、国家の防衛ができない欠陥国家になってしまうのである。その結果、アメリカに国家の安全保障を肩代わりしてもらうしか無くなってしまうのである。第二次世界大戦後の日本がアメリカの軍事的保護下に入らざるを得なくなったのも、ベトナム戦争の後、アメリカ軍が撤退した結果、南ベトナムが崩壊してしまったのも、アメリカ政府の指導に従って民主主義体制を作ってしまった結果なのである。従って、イラク戦争の後、アメリカ政府の指導によって作られたイラクの民主主義体制も日本の民主主義体制と同様に、アメリカの保護の下でしか成立しないものになってしまうだろう。非常時における独裁権力の行使が、国家の安全保障にとって必要不可欠である以上、独裁権力を完全に否定するような国家体制の理論は虚構に過ぎないのである。民主主義国家の成立とは、アメリカ人やアメリカ政府が脳天気に考えているような簡単なことではないのである。
最高指導者と国家の団結
国家は、その規模が大きくなればなるほど、より強力な最高指導者が必要になる。
国家の非常事には国民が一致団結して行動しなければならない。ところが国家は、そこで暮らす人間の数が多ければ多いほど、国民の一致団結が難しくなってしまうのである。
国民を一致団結させる手段としては、同じ国の国民としての仲間意識や連帯感、更に国家の最高指導者の指導力やカリスマの力がある。
国家の規模が大きく、そこで暮らす人間の数が多いほど多様な人間が存在することになる。そのため、個性の違い、考え方の違い、立場の違い、利害対立、地域対立などによって国民同士の摩擦も多いことになる。そして国によっては、他民族を支配したり積極的に移民を受け入れたりすることによって国家の規模を大きくした結果、民族、習慣、言語、宗教などが異なる更に多様な人間が国内に増え、それらの違いから生じる摩擦が国民としての仲間意識や連帯感の形成の妨げになることもある。そうなると、同じ国の国民としての仲間意識や連帯感だけでは国民を一致団結させることが困難になってしまう。そこで、国家の規模が大きくなり、国民が多様化するほど、国民を団結させる手段としての最高指導者の指導力やカリスマの力が重要になるのである。
また、国民を団結させる手段としては、宗教もある。国民全体が共に同じ神を信じる仲間として、異教徒に対して団結するのである。その一例が、ヒンズー教国家のインドとイスラム教国家のパキスタンである。しかし、この方法がうまく行くためには、大多数の国民が一つの宗教を信じていなければならない。国内に複数の宗教や宗派が混在していたら、かえって国民の分裂を招くことになってしまう。特にインドには多くのイスラム教徒が存在し、ヒンズー教徒との紛争が絶えない。更に、宗教によって国民を団結させるためには、敵対している国家が異教徒の国家でなくてはならない。ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタン、或いはユダヤ教のイスラエルとイスラム教のアラブ諸国といったようにである。このように、宗教によって国民を団結させることができるのは特殊な例である。
本来、民主主義や議会政治とは、古代ギリシャの都市国家のような人口にして数千から数万人程度の小規模な国家に適した体制である。なぜなら、国家の規模が大きくなればなるほど強力な指導者が必要になるからと言って、あまりにも強力な力を国家の指導者に与えてしまうと民主主義や議会政治が停止してしまう場合があるからである。
国家の最高指導者の役割は、国家の非常時に国民を団結させることであるが、これは言い換えれば、国家に最高指導者が必要なのは、最高指導者の力によって強要しなければ、非常時に国民を団結させることができないからだということになる。従って、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強要しなくても国民の団結が維持できるのであれば、最高指導者が存在しなくても国家が成り立つ場合もあるのである。
そのよい例の一つが古代共和政時代のローマである。ローマは、当初はギリシャ諸国と同様の都市国家から始まった。共和政時代のローマは、元老院を中心とした議会政治によって治められていた。そして、アメリカの大統領のような強力な最高指導者が存在せず、国家の団結は専らローマ市民の団結力に頼っていた。つまり、元老院を中心としたローマの議会政治は、ローマ市民の団結力だけで国家の団結を維持できることを前提にしたものである。
やがてイタリア半島を統一したローマは、カルタゴを相手に第一次から第三次に及ぶポエニ戦争を行い勝利した。ローマがポエニ戦争に勝利できたのは、まさにローマ市民の団結力によるものである。特に第二次ポエニ戦争では、カルタゴの武将ハンニバルによって、ローマ軍は紀元前216年のカンネーの戦いなど、多くの合戦に敗れてしまった。ハンニバルの戦略は、軍事力でローマを打ち破ることによって、都市の連合体であるローマの団結を失わせ、解体に追いやることであった。ところがローマの都市連合は、ハンニバルが何度ローマ軍を打ち破っても解体することは無かったのである。つまり、ハンニバルの天才的な軍事能力によっても、ローマ市民の団結力を失わせることはできなかったのである。これが紀元前202年のザマの決戦によるローマの逆転勝利につながったのである。第二次ポエニ戦争とは、ハンニバルの天才的な軍事能力とローマ市民の団結力の戦いであったと言える。そして最後にローマ市民の団結力がハンニバルを打ち破ったのである。
ローマは、ポエニ戦争に勝利した結果、地中海一体を支配する広大な国家になった。しかし、このことがローマの社会に様々な変化を起こし、同盟都市の反乱、剣闘士の反乱であるスパルタクスの乱、そしてマリウスやスラといった軍人のクーデターといった政治の混乱が相次いで起こることになった。このような政治の混乱が起こった原因の一つが、ローマが広大な領土と多くの被支配民族を持つ多様な国家となった結果、ローマ市民の団結力だけでは国家の団結が維持できなくなってしまったことである。しかもローマはポエニ戦争の後も、領土拡大によってガリア人やゲルマン人などの、ローマ市民という意識の低い更に多くの被支配民族を領内に抱え込むことになってしまった。その結果、強力な最高指導者が存在せず、小規模な都市国家しか統治できない元老院を中心にした共和政では、広大な領土と多くの被支配民を持つ多様な国家となったローマを統治することが困難になってしまったのである。
政治の混乱を終わらせ、大規模な国家になってしまったローマを効率よく統治するためには、強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が必要であるということに気がついたのが、カエサルとその後継者となったアウグストゥスである。カエサルとアウグストゥスは、帝政という強力なカリスマと指導力を持った指導体制を作り上げることによって、ローマの政治に安定をもたらした。しかし、その結果、元老院は政治の主導権を失い、共和政は形骸化してしまったのである。
これに対して、ギリシャの都市国家の場合は、アテネを始めとして、ほとんどが小規模な国家だったため、ローマ帝国の皇帝のような強力な指導者を必要とはしなかった。これが結果としてギリシャの民主主義や議会政治を守ったのである。
共和政時代のローマ人と同様に、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強要しなくても国民の団結が維持できる国が現在にも存在する。それがイスラエルである。
イスラエルは、日本やイギリスと同様の議院内閣制を採用している。イスラエルの議会は、リクード党と労働党が二大政党として国政を主導していた時代があったが、いずれも単独で議会の過半数を制したことが無かったため、歴代内閣は少数政党との連立を強いられてきた。そのため、イスラエルの首相の中には、少数政党との連立を維持するための政治的駆け引きに忙殺される者もあり、政治が停滞することがしばしばあった。そこでイスラエルは、首相にアメリカの大統領のような強力なカリスマと指導力があれば、政治の停滞も無くなるだろうと考え、1992年3月に首相公選制を導入し、実質的な大統領制に移行しようとした。しかし、既に述べたように、国家体制や最高指導者のあり方は、その国固有の歴史や文化によって決まるものであり、アメリカと同様の大統領制を導入すればアメリカの大統領のような強力な指導体制が出来上がるわけではない。イスラエルは首相公選制を導入したものの、首相に強力な指導力を与えることができなかったどころか、リクード党と労働党の二大政党が議席を減らしてしまったこともあって、ますます政治を停滞させる結果になってしまった。結局、イスラエルは、2001年3月に首相公選制を廃止してしまった。
このように、イスラエルの首相にはアメリカの大統領のような強力なカリスマや指導力があるわけではない。ところが、それにもかかわらず、いざ戦争となればイスラエル国民は一致団結して国家のために戦って来たのである。その強固な団結力と国防意識の高さで、四回にわたる中東戦争に勝利したのである。このイスラエル国民の団結力と国防意識の高さの第一の理由は、過去二千年にわたる流浪と迫害の歴史から、強固な国民の団結と自衛の必要性を理解せざるを得ないということである。そして第二の理由が、イスラエル国民の多数はユダヤ教徒であるため、同じユダヤ教徒として異教徒であるイスラム教徒のアラブ人に対して団結しているのである。イスラエルは、国民の団結力の強さに加えて、人口にして六百万人程度の比較的に小規模な国家ということもあって、アメリカの大統領のような強力なカリスマと指導力を持った最高指導者がいなくても、非常時における国民の団結を維持できるのである。しかし、イスラエルのような国は、特殊な例と考えざるを得ない。世界の大多数の国家は、強力な最高指導者がいなければ国民を団結させることができないのである。
今日の多くの民主主義国家は、人口の規模からすれば数千万人以上の大規模な国家である。到底、人口数千人から数万人程度の小規模な国家しか統治できない古代ギリシャ流の民主主義体制では国家は成り立たない。そこで、アメリカの大統領制のような強力な指導体制が必要になるのである。
法治国家と人治国家
欧米諸国や日本のように法治国家と呼ばれる国に対して、中国は俗に人治国家と呼ばれることもある。
人治国家とは、法の支配が確立されておらず、政治家や官僚などによる恣意的な判断や決定による統治が行われる国のことを言う。そしてそれは人権抑圧や腐敗政治の温床となるとされ、否定的に見られている。更に、人治国家と法治国家では、国民を統治する方法や最高指導者のあり方が全く違うのである。その違いは、人治国家と呼ばれる国に法の支配が確立されていないことに由来するのである。
法の支配が確立されるためには、その国の国民に法律に絶対服従する慣習が定着していなければならない。権力者に強制されなくても、国民が自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していなければ、法の支配が確立された国とは言えないのである。法の支配が確立された国とは、泥棒を禁じる法律があれば、警察などの国家権力に強制されなくても、大多数の人間が法に従い泥棒をしない国のことである。警察などの国家権力による強制は、ごく一部の法を守らない人間を取り締まるためにのみ必要なのである。
一方、法の支配が確立されていない人治国家は、法の力だけで国民を統治することはできない。勿論、人治国家にも法律はある。ところが、法に従う慣習が確立されていない人治国家では、泥棒を禁じる法律があっても、それだけで大多数の人間が泥棒をしないという保証は無いのである。法に従う慣習が確立されていない国家の国民は、違法な行為に対する罪悪感が希薄である。たとえば、中国における官僚による深刻な汚職の蔓延や、日本における中国人留学生などによる凶悪犯罪の原因は、いずれも中国人に法に従う慣習が確立されておらず、違法な行為に対する罪悪感が希薄であることにある。
2005年4月に中国各地で起こった反日デモの最中に行われた違法行為や、それに対する中国政府の態度も、中国が法治国家ではないことの証拠である。2005年4月9日、アメリカ国内の反日団体の呼びかけに答える形で、日本の国連常任理事国入りや尖閣諸島問題などに対して不満を訴える市民が、一万人規模のデモを北京で行った。これをきっかけに広東省など中国各地に反日デモが広がっていった。やがてデモ隊は暴徒化し、日本系のスーパーマーケットや日本料理店、そして日本大使館に対して投石や破壊行為などの違法行為を行うに至った。ところが中国政府は、自分達が批判の対象になることを恐れて、このような違法行為を止めさせようとはしなかった。アメリカ政府は、「中国は北京の外国公館に対する暴力を防ぐ責任がある。」と述べ、中国政府を非難した。4月15日になってようやく北京市や上海市などの公安当局が、無許可のデモや集会を禁止し、違反者を罰する意志を表明した。ところが、4月16日には上海で数万人規模のデモが発生し、暴徒化したデモ隊が日本系のコンビニエンスストアーや日本料理店、そして日本総領事館に対して投石や破壊行為を行い、遂には日本人が殴られて怪我をする事態にまで至ったのである。日本に対する不満を訴えるだけなら別に違法ではない。しかし投石、破壊行為、そして日本人に対する暴力は、明らかに違法行為である。中国人のデモ隊の叫んだスローガンの中に「愛国無罪」というものがあった。要するに、日本に対する不満を訴える行為も、投石や破壊行為などの違法行為も、共に「愛国」行為であって「無罪」であると言うのである。つまり、目的が正しければ、違法行為も許されるということである。これが意味するのは、中国人には自ら進んで法に従うという考えが無いことである。そしてデモ発生の当初、自分達が批判の対象になるのを恐れて違法行為を止めさせようとしなかった中国政府には、法治という考えが欠如しているのである。これらの出来事は、中国が法治国家ではないということを明確に示しているのである。
法の支配が確立されていない人治国家で法・秩序を維持するためには、警察や軍隊のような国家機関の力による強制が必要である。なぜなら、法治国家の国民が、法に従う慣習によって法に従うのとは違い、人治国家の国民が法に従うのは、警察や軍隊などによる武力の行使が恐ろしいからである。従って、人治国家が国民を法・秩序に従わせるためには、権力者は常に国民から恐れられていなければならないのである。人治国家は、国民が権力者を恐れなくなったら、国民を法・秩序に従わせることができなくなり、統治不能に陥ってしまうのである。このような事態に直面した場合は、人治国家の権力者は、武力を行使してでも国民に対して権力の恐ろしさを思い知らせなければならないこともある。その典型的な例が1989年6月4日に中国で起こった天安門事件なのである。こういった武力を使った統治の手法は、武断統治や強権政治と呼ばれている。
1989年4月15日、中国共産党の前総書記、胡耀邦が死去した。すると、学生運動に理解があると見なされていた胡耀邦の死を悼む学生や市民が続々と天安門前広場に終結し、追悼集会が開かれた。しかし、その集会は、次第に政府の役人や政治家の腐敗を糾弾し、中国の民主化を求める集会に変わっていった。
そして学生や市民は、遂に中国政府の指導者達を名指しで非難し始める。4月18日には「李鵬出て来い」と叫び始める。
5月13日には、一部の学生達がハンガーストライキを始める。5月17日には、天安門前広場に集まった学生や市民の数は百万人近くになる。そして李鵬首相や最高指導者のケ小平に対して辞任を要求するスローガンを叫び始める。
一方、中国政府の指導者達は、この事態に対処する方法を巡って意見が別れ、混乱し始める。5月18日に趙紫陽総書記は、学生らの行動に理解を示すような発言をし、ハンガーストライキをしている学生を訪れ説得しようとする。これに対して趙紫陽総書記に同行した李鵬首相は、学生や市民の行動を無視する態度を示す。
法の支配が確立された国ならば、学生や市民のデモくらいで国家体制が動揺することは無い。なぜなら法の支配に服従している者が法の範囲を越えた行動を起こすことは滅多にないからである。法の支配が確立された国の国民は、デモをするにも反政府活動をするにも、法・秩序の枠の中で行うのである。
しかし人治国家は違う。法に服従する慣習の無い人治国家の国民が徒党を組んだら何をするか分からないし、どんな混乱が起こるかも分からない。一度、法・秩序が混乱し始めたら、燎原の火の如く混乱が拡大する恐れもある。従って、人治国家の国民を治めるためには、権力者は武力で国民を恐れさせ、服従させなければならないのである。ところが天安門前広場に集まった学生や市民は、政府の力を恐れる様子も無く、民主化を求め、共産党や政府の首脳に非難の言葉を浴びせている。人治国家は、国民が国家権力を恐れていなければ、法・秩序も国家体制も維持できないのである。従って、人治国家にとって、政府の力を恐れない国民の出現は、政府が統治能力を失ったことを意味するのである。つまり、この時の共産党政権は、絶体絶命の危機に直面していたのである。
法の支配が確立されていない中国にとって、このような危機に対処する手段は、もはや武力弾圧しかない。武力行使によって事態を収拾すると同時に、国家権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって共産党政権の統治能力を回復させるのである。そこでケ小平は、学生や市民に対する武力弾圧を決意し、北京に二十万の軍隊を集結させる。そして6月4日、天安門前広場は中国軍によって制圧された。
こうして天安門事件の時の出来事を見ていると、一見すると強大に見える中国共産党の一党独裁体制が、実は弱体な体制であることが分かる。なぜなら、共産党一党独裁体制は、学生や市民が集まってデモを行ったくらいで動揺してしまうような軟弱な体制だからである。これと比べれば、日本の戦後体制の方がよほど強大であると言わざるを得ない。60年安保騒動を見れば分かるように、学生や市民のデモくらいで日本の国家体制が潰れる可能性など全く無いからである。もし、その可能性があったのならば、当時の岸政権は自衛隊に治安出動をさせていたはずである。安保騒動の混乱の責任を取って岸政権が退陣したと言っても、国家体制が消滅したわけでも自民党が政権を失ったわけでもない。これが人治国家と法治国家の違いなのである。つまり、人治国家の権威は非常に弱体なものであり、それを武力によって補うのが武断統治なのである。そのため、人治国家と武断統治は切っても切れない関係にあるのである。人治国家が一見して安定しているように見えても、それは国民が権力者の力を強いと思い込んでいる間の一時的な状態に過ぎないのである。逆に、人治国家の国民が権力者の力を弱いと思ったら、どのような政治や社会の混乱を起こすか分からないのである。従って、真の政治の安定とは、法の支配が確立された国、すなわち法治国家にのみあり得るのである。法の支配が確立されていない人治国家に真の政治の安定はあり得ないのである。
困ったことに、中国政府は、こういった武力によって人間を従わせる行為が、中国政府の統治が及んでいない地域、たとえば台湾などにも通用すると思い込んでいるのである。中国政府は1996年の台湾の総統選挙に対して、海軍による軍事演習やミサイル実験により軍事的圧力をかけた。更に2000年の総統選挙に対しては、朱鎔基首相が「どのような形でも台湾の独立を許すことは出来ない。われわれは武力行使を決して放棄していない。」と言って台湾の独立を望む勢力に対して脅しをかけた。しかし、これらの行為は、台湾の民衆には全く通用せず、中国政府にとって好ましくない人物を当選させる結果になってしまった。1996年の総統選挙では、中国政府が隠れ独立派と見なしていた李登輝総統が当選し、2000年の総統選挙では、台湾の独立を掲げる民主進歩党の陳水扁氏が当選してしまった。大陸の中国人とは違い、台湾には法の支配が存在する。ところが法の支配というものが理解できない中国政府の首脳は、台湾人も自分達と同じ中国人なのだから中国流の武断統治が通用すると思い込んでいるのである。
法の支配が確立されていない人治国家の政治体制を守るためには、最終的には武力に頼るしかない。ところが、その武力さえ頼りにならない場合もあることを歴史的な事実は示している。小さな武力しか持たない勢力が、圧倒的に強大な武力を持つ者を倒してしまうことが歴史上何度も起こっている。
そのよい例が中国共産党である。1921年7月1日、上海で中国共産党が結成された。しかし、この時の中国共産党は、わずか数十名の共産主義者の集まりに過ぎなかった。その後、中国共産党は、毛沢東の指導の下に国民党や日本軍に対してゲリラ戦を行いながら次第に力をつけていく。やがて毛沢東の率いる共産党は、圧倒的に強大な兵力を持つ国民党を台湾へ追い払い、中国大陸を制覇してしまうのである。
更に、権力を守る立場にある軍隊それ自体が、武力革命を起こすことさえあり得る。そのよい例が、辛亥革命の時の袁世凱である。
二十世紀に入ると、既に衰えていた清朝の権威は、政治の実権を握っていた西太后の死によって更に低下する。そして1911年10月10日の武昌蜂起をきっかけに、中国各地に、国民党を支持して清朝に抵抗する反乱が広がっていく。これに対して清朝は、軍閥の実力者の袁世凱に政治と軍事の実権を与え、事態に対処させることを決定する。そこで袁世凱は、反乱の武力制圧に乗り出す。ところが袁世凱は、勝手に反乱軍と停戦し、反乱軍の力を利用して皇帝の溥儀を退位させ、その一方で自分の持つ武力を背景に、国民党の臨時大総統に就任したばかりの孫文に取って代わり、自ら中華民国臨時大総統に就任する。こうして清朝は袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのである。
こういう事態を起こさないためには、人治国家には、強力な政治力とカリスマを持った最高指導者が君臨して、政治と軍事をしっかりと掌握していなければならないのである。もし西太后が生きていたら、袁世凱といえども勝手な真似はできなかっただろう。辛亥革命当時の清朝の権威は、ほとんど失われていた。しかも皇帝は、わずか六歳の宣統帝溥儀である。袁世凱を押さえる力などあるわけがない。
結局、法の支配が確立されていない人治国家は、武力を握る者だけが統治できるのである。つまり、中国のような人治国家では、軍を制する者が国家を制するのである。清朝が袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのは、清朝の皇帝が軍を制する力を失ってしまったからである。
中国のような人治国家にとって、軍の存在する目的は、暴力革命や国家の分列のような事態から国家体制や権力者を防衛することが第一であって、法治国家のように国民の生命・財産を外国の脅威から守ることは二の次なのである。天安門事件は、このことを世界に知らしめてしまったのである。
政権交代ができない国
法治国家の最高指導者は法に従って決定され、そして最後は法に従って最高指導者の地位を解任される。いかに強大な力を持った権力者といえども、法の手続きに従い解任されたら、ただの人になってしまう。これが法治国家の政権交代である。法治国家では、このようなことは当たり前である。ところが人治国家の政権交代は、法治国家とは全く違うのである。人治国家では、法の手続きに従って最高指導者になったとしても、その者に政治の実権があるとは限らないのである。
たとえばケ小平が健在だった頃の中国のことを考えて見ればよい。1993年以後、中国の法律上の最高指導者の役職は国家主席であり、2003年まで江沢民がその地位にあった。ところがケ小平が健在だった時は、事実上の最高指導者はケ小平であり、江沢民国家主席も李鵬首相も、実態はケ小平の家来の如き存在であった。重要な決定はすべてケ小平が行い、国家主席も首相もケ小平の決定に従うだけであった。ケ小平は、十数年間事実上の中国の最高指導者でありながら、法律上の最高指導者の役職に就いたことは一度もなかったのである。
また、清朝末期に事実上の女帝として中国に君臨した西太后も同じである。実の息子の同治帝や甥の光緒帝を形だけの皇帝に立て、政治の実権は西太后自身が握っていたのである。
人治国家では、しばしばこういうことが起こる。その理由は、人治国家では最高指導者と、その配下の役人や軍人との関係が、法治国家とは全く異なるからである。
法治国家の場合は、最高指導者と行政機関との関係は、法によって定められた上司と部下という関係で成り立っている。一部の側近を除けば、ほとんどの官僚や軍人は、首相や大統領の法律上の部下である。その部下達にとって、首相や大統領がいかに無能な人物であろうと、いかに気に入らない人物であろうと、正統な法の手続きに従って最高指導者に就任し、正統な法の手続きに従って行政上の命令が下される限りは、絶対服従しなければならない。つまり、法治国家の官僚は、大統領や首相といった法律上の制度に仕えているのであって、最高指導者個人に仕えているのではない。たとえばアメリカの官僚や軍人は、大統領の法律上の部下であっても、バラク・オバマの個人的な家来ではない。これに対して人治国家の場合は全く異なっている。人治国家の最高指導者と役人や軍人との関係は、本質的には主人と家来、または親分と子分といった個人的な人間関係で成り立っている。ケ小平が健在だった頃の中国の役人や軍人達は、ケ小平の家来か子分であっても、国家主席や首相の部下ではなかった。それどころか江沢民国家主席や李鵬首相自身がケ小平の実質的な家来になってしまっていた。イラクのサダム・フセイン大統領とイラクの役人や軍人との関係も同様だった。勿論、これは中国やイラクに限らず、世界の全ての人治国家に共通のことである。
主人と家来、或いは親分と子分という関係は、個人的な人間関係である。そしてその関係は自分の好みや都合で決めることである。家来や子分にとって、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であろうとなかろうと、自分自身がその人物の家来や子分であり続けようとする限り上下関係は続くのである。つまり、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であろうとなかろうと、主従関係には全く影響が無いのである。従って、ケ小平が法的に正統な最高指導者でなくても、ケ小平を自分の親分、或いは国家の最高指導者としてふさわしい人物だと思っている人達にとっては、法的な正統性とは関係無くケ小平が最高指導者なのである。そして、最高指導者としてふさわしい人物とは、毛沢東やケ小平のように、強力なカリスマと指導力を持った人物である。つまり、中国のような人治国家では、強力なカリスマと指導力を持った人物ならば、法的な正統性とは関係無く最高指導者になることが出来るということである。これが人治国家において、法律上の権力者と実際の権力者が別という場合がある理由である。
日本の徳川幕府も、人治国家のよい例である。徳川家康は、征夷大将軍の職を就任から二年二ヶ月で息子の秀忠に譲ってしまう。ところが征夷大将軍を辞職したはずの家康は、大御所様と呼ばれ、隠居城である駿府城から二代将軍秀忠の頭越しに様々な指令を出し、事実上の最高権力者として天下に君臨するのである。大坂冬の陣や大坂夏の陣も、家康は自ら陣頭指揮をしている。この時期の二代将軍秀忠は、家康の傀儡に過ぎなかった。家康を主君と仰ぐ三河武士にとって、家康が征夷大将軍であろうがなかろうが、自分達の主君であることには変わりがなかった。そこで譜代の家臣達のほとんどが、家康が死ぬまで家康個人を自分達の主君と仰ぎ続けたのである。二代将軍秀忠が名実共に征夷大将軍として天下に号令できるようになったのは、家康の死後のことである。その二代将軍秀忠も家康と同様に、存命中に嫡男の家光に征夷大将軍の職を譲り、大御所様と呼ばれ、事実上の最高権力者として君臨する。後に名将軍と呼ばれることになった三代将軍の家光も、秀忠の存命中はその傀儡の地位に甘んじていたのである。
ケ小平や徳川幕府の例で分かるように、人治国家では、権力者が政治力を保ったままで生きている間は、事実上政権交代ができないのである。このことが時と場合によっては、国家や国民に悲劇をもたらすことがある。つまり、権力者が政治力を保ったままで生きている間に政権交代を行おうとすれば、権力者を失脚させて政治力を失わせるか、さもなければ殺してしまうしかないからである。そのため、人治国家に政権抗争が起こると、血みどろの政権抗争に発展することが多いのである。また逆に、権力者も、自分に取って代わりそうな人物が現れたら、その者に、いつ権力や命を奪われるか分からないのである。このことが人治国家に身の毛もよだつような血生臭い権力闘争を引き起こすのである。
その一例が、旧ソビエトでスターリンが行った粛清である。スターリンが粛正によって多くの人間を抹殺したのは、旧ソビエトが法治国家ではなく人治国家だったからである。
スターリンが粛清を行った主な理由は次の二つである。
第一の理由は、前任者であったレーニンの「家来」の一掃である。
レーニンが死にスターリンが最高指導者になっても、かつてレーニンの「家来」だった者が多数政権内に残っていた。法治国家ならば前任者の部下だった者も、法の手続きに従い後任の最高指導者が就任すれば、その部下にならざるを得ない。しかし最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」という個人的な人間関係で成り立っている人治国家のソビエトでは、主だった軍人や官僚を全て最高指導者の「家来」にしてしまわなければ最高指導者の地位が確立できないのである。そのためにスターリンは、前任者レーニンの「家来」を一掃し、自分の息のかかった「家来」と入れ替えなければならなかった。その過程でスターリンは、多くの人間を抹殺してしまったのである。後のフルシチョフやブレジネフも、スターリンのように大量の犠牲者を出したわけではないが、やはり最高指導者に就任すると権力基盤を固めるために「家来」の入れ替えを行っている。
そして、スターリンが行った粛正の第二の理由が、自分に取って代わる可能性のある人物の一掃である。法の手続きによる政権交代が確立されていない人治国家の最高指導者は、自分に取って代わりかねないと思われる人物が現れたら、その者に、いつ最高指導者の地位や命を奪われるか分からない。だから最高指導者にしてみれば、自分からその地位を奪う可能性のありそうな人物は、前もって始末しておかなければ安心できないのである。そこでスターリンは、自分に取って代わって最高指導者になりそうな人物を一人残らず抹殺してしまったのである。
更に、共産党政権下の中国の例を見てみよう。
1959年4月に開かれた全国人民代表大会で、毛沢東は「大躍進」と呼ばれる経済政策の失敗の責任を取り国家主席を辞任し、新たに劉少奇が国家主席に選出された。劉少奇は、「大躍進」によって混乱した中国経済を立て直すため、ケ小平と共に市場経済を導入した経済政策を始める。
当時の国家主席は、中国における法律上の最高指導者の役職である。アメリカならば大統領に匹敵する地位である。法治国家ならば法律上の最高指導者の職を辞してしまったら、どんなに偉大な指導者もただの人になってしまう。ところが人治国家である中国ではそうはいかない。人治国家では法的な地位に一切関係なく、多くの人間から最高指導者だと思われている人物が最高指導者である。毛沢東が国家主席の職を失っても、毛沢東を自分達の最高指導者だと思っている軍人や官僚や国民が多数存在していた。その人達にとっての中国の最高指導者は依然として毛沢東であって、法律上の最高指導者である劉少奇国家主席ではないのである。
一方の新しい国家主席の劉少奇が江沢民のような非力な人物だったら、毛沢東の傀儡と化している所である。しかし劉少奇は政治家として、それなりに有能だったため、劉少奇を支持する勢力も少なからず存在していたのである。そのため、劉少奇もまた最高指導者となった。
この結果、中国は、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が並び立つことになってしまった。毛沢東は、もう一度たった一人の最高指導者として中国に君臨することを望んでいたため、何としても劉少奇とその支持勢力を葬り去りたかった。そこで毛沢東は、学生や市民を煽動して文化大革命と呼ばれる大衆運動を起こし、これを利用して劉少奇を始めとした政敵を攻撃して葬り去ろうとしたのである。やがて、毛沢東によって煽動された紅衛兵と称する学生らは、劉少奇やケ小平を大衆運動によって攻撃し始める。また、既に述べたように、中国のような人治国家では、軍を制する者が国家を制するのである。そこで毛沢東は、軍の実力者の林彪を味方にして、軍に対する影響力を強める。そして林彪は、1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者に指名される。一方、劉少奇は毛沢東との権力闘争に敗れ、あらゆる職から解任され、1969年11月に幽閉されていた建物の中で病死する。毛沢東によって殺されたのも同然である。
しかし、これで血生臭い抗争が終わったわけではない。今度は毛沢東と、その後継者に指名された林彪との間で確執が始まったのである。林彪にしてみれば、毛沢東の後継者に指名されたとは言え、毛沢東が健在である限り、自分が必ず権力者になれるという保証はどこにも無いのである。つまり、林彪が確実に権力を手にするためには、毛沢東を打倒するしかないのである。もはや毛沢東にとって林彪は危険な存在でしかなくなってしまった。そこで毛沢東は、林彪の追い落としを計った。一方、これを知った林彪は、毛沢東暗殺のクーデターを企て実行に移すが失敗してしまった。そして1971年9月13日、林彪は飛行機でソビエトに亡命しようとするが、飛行機がモンゴルで墜落して最期をとげる。
この事件の反省から、毛沢東が最終的に自分の後継者に指名したのが華国鋒である。華国鋒は、毛沢東の言いなりになるしかない無能な人物である。毛沢東は、華国鋒のような無能な人物ならば、自分に危害を加えることは無いと判断したのである。後にケ小平が後継者に指名した江沢民も、同じ理由で選ばれたとしか考えようがない。
要するに、中国のような人治国家では、国民から最高指導者にふさわしいと思われている人間の数だけ最高指導者が出現し、国家が分列してしまうのである。だから一旦権力を握った者は、自分以外にも最高指導者としてふさわしいと思われている者が存在する場合は、その者を抹殺してしまわなければ権力を安定させることができないのである。こうした中国の指導者達の権力闘争は、まるで三国志の世界の出来事である。つまり中国の権力のあり方は、三国志の時代と大して変わっていないのである。それは結局、中国に法の支配が確立されていないからである。法の支配が確立された国家の場合は、国民から最高指導者にふさわしいと思われている人物が何人いようと、最終的には一人しか最高指導者になれないように法律や制度が作られていて、それに従って最高指導者が決定されている。だから、法の支配が確立された国では、中国のようなことは起こらないのである。勿論、中国にも政権交代の仕組みを定めた法律や制度は存在するが、法律上の最高指導者と実質的な最高指導者が別である中国のような人治国家では、全く意味の無いことである。
国家と伝統・文化
中国の将来について考える上で最も重要な問題が次の二つである。
第一は、改革・解放政策は今後も続くのか。
第二は、中国に民主化は可能なのか。
これらの問題について私の考えを述べてみたい。
ケ小平が中国の政治の実権を握って以来、社会主義経済を事実上否定し、市場原理と自由競争と外国資本を導入して経済の活性化を計って来た。これが改革・解放政策である。
ケ小平が改革・解放の号令をかけて以来、中国の経済は順調に成長しているように見えていた。ところが1989年の天安門事件前後の数年間は、経済成長が失速して失業者が増大していた。天安門事件の時、天安門前広場に集まった人達の中には、失業に対する不安や不満からデモに参加した者も少なくなかった。
この中国の失業問題というのは、古代から国家を揺るがす重大な問題だったのである。中国のほとんどの王朝では、末期になると大規模な農民反乱が起こっている。秦の始皇帝の死後に起こった陳勝・呉広の乱を始めとして、黄巾党の乱、李自成の乱、太平天国の乱といった大規模な農民反乱によって、歴代王朝は国力を衰退させられ滅亡していった。これらの農民反乱に参加した者の大多数は、圧政による貧困や天災による不作、そして人口増加による失業などによって飯が食べられなくなった農民達である。彼らは最初のうちは、流民と呼ばれる小規模な徒党を組んで村々を襲い食料を奪い荒らし回っている。ところが、李自成や洪秀全といった傑出した指導者が出現すると、国中の流民が彼らの下に集まり大規模な反乱に発展するのである。
中国でこのような反乱が起こるのは、単に飯が食べられなくなったことだけが理由とは考えられない。なぜなら失業して飯が食べられなくなった者が多数出たとしても、国が滅亡するほどの反乱など起こらない国が世界には数多くあるからである。王朝を滅亡させるほどの農民反乱が歴史上何度も繰り返し起こる国など、中国以外には存在しないのである。従って中国の農民反乱は、中国固有の伝統であると考えざるを得ないのである。
歴代王朝と同様に、今の中国にとっても失業問題は国家の重大問題である。経済の失速による失業者の増加は、国家体制を危機に陥れかねないのである。天安門事件の後、一時、多くの外国資本が国外へ引き上げてしまったこともあり、中国の経済成長は鈍化してしまった。この事態に対して最高指導者のケ小平は、1992年の1月から2月にかけて広東省などの中国南部を視察し、経済成長の加速の必要性を説いて回った。いわゆる「南巡講話」である。これをきっかけにして中国経済は、再び成長し始める。その結果、中国は、失業者の増大による危機を免れることができたのである。しかし、これはケ小平のような強力なカリスマを持つ指導者だからできたことであって、誰にでもできることではない。現在の中国にはケ小平のような強力なカリスマを持つ指導者は存在しない。従って、もし今後、中国の経済成長が失速し、大量の失業者が出るようなことになったら、対処できなくなる可能性もある。そのような事態になったら、改革・解放政策どころか国家体制さえどうなるか分からないのである。
近年の中国は、「世界の工場」などと言われ、日本の製造業を脅かすような経済発展を遂げている。しかし、経済発展の恩恵にあずかっているのは、北京や上海や広州といった沿岸地域の大都市の住民達であって、中国の人口の七割以上を占める農民達は、依然として貧しい生活を強いられている。そして、あまりの貧しさのために農村で生活ができなくなった多くの農民達は大都市へ出稼ぎに行ってどうにか生計を立て、民工と呼ばれている。この民工と呼ばれる出稼ぎ農民の数は、一億人を超えると言われている。もし、中国の経済成長が行き詰まったら、多くの出稼ぎ農民が職を失うことになる。大都会での生活も行き詰まり、農村へ帰っても生活ができない農民達が一体どのような行動に走るのか、全く予想ができないのである。最悪の場合は、過去の失業した農民達のように、徒党を組んで暴動や反乱を起こしたりする可能性も無いとは言えない。いずれにしろ中国の改革・解放政策の将来は、楽観視できないのである。
次は中国の民主化について考えてみる。
結論から言ってしまえば、中国の民主化は不可能である。なぜなら民主主義国家は、法治国家を前提に成り立つものだからである。人治国家の中国に民主主義が成り立つわけがないのである。
人治国家の国民には法に絶対服従する伝統が無い。従って、法の力で国民を統治することが出来ない。だから武断統治によって国民を統治せざるを得ない。人治国家の国民が法に従う理由は、権力者の武力が怖いからである。従って、人治国家の国民を統治するためには、権力者は常に国民から恐れられていなくてはならない。もし、国民が権力者を自由に批判することができたら、国民は権力者を恐れなくなってしまう。そんなことになったら武断統治は不可能になり、人治国家の権力者は統治能力を失ってしまう。そこで人治国家は、国民が権力者や政治を自由に批判することを認めるわけにはいかないのである。
法に従う慣習がない中国国民に政治活動や結社の自由を認めたりしたら、かつて中国共産党が小さな結社から始まり、それがやがて強大化し、遂に強大な武力を持つ国民党政権を倒し権力を握ったように、何者かが中国共産党から権力を奪い取るきっかけになるかもしれない。そこまで行かなくても治安を乱すようなことをするかもしれない。だから人治国家の中国では政党や結社を自由に作る権利を認めるわけにはいかないのである。
アメリカの大統領制のように、選挙で最高指導者を選ぶためには、法に定められた手続きに従って最高指導者を決定する制度が確立されていなければならない。ところが中国のような人治国家では、法に定められた手続きに従った政権交代ができない。そのため文化大革命の時の中国では、毛沢東と劉少奇の二人が同時に国家の最高指導者となり、政治が混乱に陥ってしまった。また、ケ小平の時代には、法律上の最高指導者は江沢民なのに実質的な最高指導者はケ小平という事態になってしまった。これでは、選挙に当選して法律上の最高指導者になっても、実質的な最高指導者になれるという保証は無いことになってしまう。法の支配が確立されていない中国のような人治国家でアメリカのように大統領選挙を行っても、文化大革命の時のように前大統領が新大統領と同時に最高指導者となり、政治が混乱する恐れがある。更に、ケ小平の時代の中国のように、選挙で当選した法律上の大統領に政治の実権が無く、法的には国家の最高指導者ではない人物が実質的な最高指導者として国家に君臨するような事態も起こり得るのである。つまり、法の支配が確立されていない人治国家では、法の手続きに従い選挙によって国家の指導者を選ぶことは極めて困難なのである。
これでは、どう考えても、中国などの人治国家が民主主義国家になるのは不可能だと考えざるを得ないのである。
私の考えに対して、次のように反論する人がいるだろう。同じ中国人の国なのに台湾では民主化に成功したではないか。同じことがどうして大陸の中国人にできないと言えるのか。
それは中国と台湾とでは歴史が違うからである。台湾はかつて日本の植民地となり、約五十年間日本によって統治されていた。その間に日本流の法治国家が台湾に定着したのである。こうして台湾は法治国家になることができたのである。この結果、台湾では、形の上では議会制民主主義が成立することが可能になったのである。ただし、台湾の議会制民主主義が本物の民主主義かそうでないかは、これからの台湾の政治の動向を見てみないことには分からない。
植民地支配の結果として法治国家になったのは台湾だけではない。世界の法治国家のほとんどは、法治国家による植民地支配の産物である。インドやシンガポールが法治国家になったのは、イギリスの植民地政策の産物である。また、ヨーロッパ諸国が法治国家になったのは、古代にヨーロッパの大部分がローマ帝国の属州となり、法の支配を植え付けられた結果である。
中国に民主主義が成立しないのは、法治国家の伝統が無いというだけではなく、専制政治が伝統・文化となり中国の社会に定着してしまっているからでもある。中国の国家体制の基礎を作ったのは秦の始皇帝である。そして、秦が滅んだ後も漢を始めとした歴代の王朝によって、始皇帝が作った専制体制は受け継がれていった。その結果、二千年以上もの間、始皇帝流の統治が続き、これが中国の伝統・文化となり社会に定着してしまった。そのため、中国には民主主義の基礎が作られることなく今日に至っているのである。孫文によって起こされた辛亥革命は、皇帝と称する君主が中国に君臨することは否定したが、皇帝によって行われていた専制政治までは否定できなかったのである。
国家体制というものは、国家や民族の固有の伝統・文化の産物である。天安門事件以来、アメリカをはじめとした西側諸国は、中国に対して民主化や人権問題の改善を要求し続けているが、専制政治の伝統が定着してしまっている中国にそんなことをいくら要求しても無駄なことである。中国は、たとえ共産党政権が崩壊しても、新しく成立するのは秦の始皇帝以来の専制国家でしかない。法の支配の伝統・文化が確立されておらず、しかも秦の始皇帝以来の専制政治の伝統が社会に定着してしまっている中国に、法の支配の伝統を前提に成立する欧米の民主主義が成立するわけがないのである。アメリカ人は世界中の人間が自分達と同じ伝統・文化を持っていると錯覚しているのである。
中国と同様、専制政治の伝統・文化が存在するのがロシアである。今のロシアは、ソビエトの崩壊以来、法の支配や民主主義が成立したように見える。しかし、ロシアという国の歴史から考えると、果たして本当に欧米流の民主主義が成立したのか疑問である。
ロシアは、本来はギリシャ・ローマ以来のヨーロッパの伝統・文化を受け継ぐ国であった。ところが十三世紀にモンゴル人によって征服され、キプチャク汗国が成立する。キプチャク汗国は、ジンギスカン流の専制政治をロシアに持ち込んだ。やがて十五世紀にキプチャク汗国の支配下にあったモスクワ大公国がキプチャク汗国から領土と領民を奪い、モンゴル人の支配者をロシアから追い出して独立する。この時、モスクワ大公国は、キプチャク汗国から領土と領民だけではなく、その統治の手法まで受け継いでしまった。これがロシア流専制政治ツァーリズムの始まりである。
ツァーリズムは、イワン雷帝やピョートル大帝の時代に猛威をふるい、ロシアの社会に定着してしまう。やがてロシア革命によって社会主義国家ソビエト連邦が成立した後も、スターリン主義という形でツァーリズムが復活する。こうしてロシアは、ヨーロッパ的法治国家とアジア的専制政治という異なった伝統が同居する国になってしまったのである。ロシアにはヨーロッパ文化の伝統もあるので、法治国家も成立するが、その一方でツァーリズムの伝統も無くなったわけではない。ソビエトの崩壊以来、ロシアは西欧流の民主主義国家の装いをしているが、政治や経済の状況次第では、いつツァーリズムやスターリン主義のような専制政治が復活するか分からないのである。
権力の継承と政治の安定
何度も言うように、カリスマも権力であり、法的権限だけが権力ではない。国家体制が成立した当初の最高指導者の多くは、偉大な業績を挙げ「建国の父」「革命の指導者」「救国の英雄」などと言われ、多くの国民から尊敬され、強力なカリスマを持っている。国家の指導体制の基本は、このような初代最高指導者の強力なカリスマを後継者に継承することである。これがうまくいかなければ、最高指導者が不在の欠陥国家になってしまうのである。カリスマを後継者に継承することに失敗し、最高指導者が不在となってしまった国家では、国家の最大の役割である防衛や外交ができなくなってしまうどころか、最悪の場合は国家が崩壊してしまうこともある。アレキサンダー大王亡き後のアレキサンダー帝国、秦の始皇帝亡き後の秦帝国、そしてチトー大統領亡き後のユーゴスラビアなどが典型的な例である。国家体制と国家の機能を維持するためには、最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制を確立することが絶対に必要なのである。
最高指導者のカリスマを後継者に継承する手段が確立された指導体制として、主なものには次の二種類がある。第一が、血族間でカリスマが継承される君主制である。そして第二が、法の手続きによって最高指導者の役職と共にカリスマが継承される大統領制や議員内閣制の首相である。そして、既に述べたように、議員内閣制の首相は、実質的な大統領である。
君主制や大統領制以外で、最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制を確立した例としては、チベットのダライ・ラマ制がある。前任のダライ・ラマが輪廻転生した人物を見つけ出してダライ・ラマの後継者とするのである。言わば「輪廻転生制」である。ただし、ダライ・ラマ制は、極めて例外的な体制と考えざるを得ない。
更に、カリスマの継承の方法としては、古代中国の禅譲のように、前任の最高指導者の指名によって後継者を決定する方法もある。世界には、君主制も大統領制も成立せず、前任者の指名によって後継者を決定するしかなくなってしまった国がいくつもある。そのよい例が、旧ソビエトや現在の中国である。旧ソビエトや現在の中国は、共産主義を理想とする国家である以上、君主制はあり得ない。しかも、法治国家ではないため大統領制も成立しない。既に述べたように、旧ソビエトでスターリンが粛清と呼ばれる大量殺戮を行ったのも、中国で文化大革命のような政治の混乱が起こったのも、法治国家ではないため、法の手続きによる政権交代ができないことが原因である。従って、旧ソビエトや中国は、前任者が後継者を指名することによる政権交代を行うしかなかったのである。
君主制は、太古の昔から多くの国によって採用され、制度化されて来た。また、大統領制のような法の手続きによる権力の継承も、近代になって欧米で制度化され、多くの国によって採用されている。ところが、前任者が後継者を指名することによる政権交代が制度化されたという例はないのである。なぜなら前任者の指名による政権交代は、非常に不安定な政権交代の手段であり、失敗する例が多いからである。
前任者の指名による政権交代が失敗する最大の理由は、権力闘争である。前任者によって後継者に指名された人物が権力闘争に敗れ、権力の継承に失敗してしまった例が多くある。ソビエトのスターリンが後継者に指名したのがマレンコフという人物であるが、フルシチョフとの権力闘争に敗れて失脚してしまった。また、中国の毛沢東が後継者に指名した華国鋒も、ケ小平との権力闘争に敗れて失脚してしまった。
前任者の指名によって決定された最高指導者は、前任者によって後継者に指名されたことを根拠に自らの最高指導者の地位を正当化できる。これに対して、権力闘争に勝利して最高指導者になった者は、自らの最高指導者の地位を正当化する方法が無いのである。そのため、権力闘争に勝利することによって最高指導者となった者は、自らの最高指導者の地位を正当化するのに苦慮する羽目になってしまう。たとえば、ソビエトでレーニンの後継者となったスターリンにしろ、スターリンと最高指導者の地位を争ったトロツキーにしろ、レーニンから後継者に指名されてはいなかったのである。そこでこの二人は、自分がレーニンの後継者であることを正当化するため「一国社会主義国家論」や「世界革命論」を唱えて理論闘争を行い、自分こそレーニン思想の正統な継承者であると主張したのである。やがてスターリンは権力闘争に勝利して政治の実権を握ったものの、それでも自らの最高指導者の地位を正当化することに自信が持てなかった。そのため多くの政敵を粛清によって葬り去ることになったのである。こうしてスターリンは、どうにか最高指導者としての地位を固めることができたのである。
前任者から後継者に指名されなくても、スターリンやケ小平のように、強力な指導力やカリスマを持った人物なら、自らの力で最高指導者としての地位を確立できる場合もある。しかし、スターリンの後継者の地位を権力闘争によって勝ち取ったフルシチョフのような、指導力にもカリスマにも欠ける人物の場合は、最高指導者としての地位を確立するのは極めて困難である。しかもフルシチョフは、1956年2月に行ったスターリン批判によってスターリンのカリスマを否定してしまった。スターリンのカリスマを否定するということは、そのスターリンから引き継いだ自分自身のカリスマを否定することでもある。そして、カリスマも権力である以上、カリスマの否定は国家権力の否定である。フルシチョフのスターリン批判は、ソビエトの同盟諸国を動揺させることになり、ハンガリー動乱のような混乱を招く結果になってしまった。要するに、フルシチョフは最高指導者としての権力の確立に失敗したのである。
スターリンからのカリスマの継承に失敗し、強力な最高指導者を失ったフルシチョフ政権以後のソビエトは、実力者達の合議によって国家の意志決定をする集団指導制に移行していった。フルシチョフ以降のソビエトの意志決定は、ソビエトの実力者の集まりである政治局員の合議によって行われるようになったのである。ところが、集団指導制による意志決定には大きな問題がある。集団指導制による意志決定では、決定にかかわる実力者達の反感を買ったり意見が対立したりすると、合意を得るのが難しくなり、意志決定が行いにくくなってしまうのである。そのため、実力者達の利権を侵すような政治改革や重大な意志決定が困難になり、政治の停滞や腐敗を招くことになりがちである。つまり、政治改革を行おうとすると「抵抗勢力」を代表する実力者が反対して意志決定ができなくなり、政治の腐敗を一掃しようとすると「腐敗勢力」を代表する実力者が反対して意志決定ができなってしまうのである。つまり集団指導制は、集団的無責任を生じる危険性が高いのである。事実、ブレジネフ時代のソビエトは、ゴルバチョフも指摘したように腐敗と停滞の時代であった。ブレジネフ以降のソビエトは、経済が危機的な状況であるにもかかわらず、集団的無責任のために手を拱いているだけで何もできなかった。実力者達の利権を侵すような政治改革や重大な決断は、強力な最高指導者の決断と指導力によってのみ可能なのである。そこでゴルバチョフは、集団指導制を廃止して大統領制を導入し、強力な指導体制の下で改革を行おうとしたが、1991年のソビエトの崩壊によって失敗に終わってしまった。ソビエトは、集団指導制のために滅んだと言っても過言ではない。勿論、集団指導制にも、うまくいっていた例がある。古代ローマの元老院による議会政治は、まさに集団指導制である。しかし元老院による集団指導制も、ポエニ戦争の勝利をきっかけに国家の規模が巨大化すると機能しなくなってしまい、帝政に移行する結果になってしまった。人口が数千万人以上もあるような大規模な国家で、集団指導制が長続きした例は無いのである。
これらのことから、安定した政権交代を制度化した体制は、君主制と大統領制の二つしかないと言えるのである。つまり、安定した政権交代を制度化しようとしたら、君主制か大統領制のどちらか一方を採用するしかないということである。
ただ、君主制と言うと、現代の世界では何やら時代錯誤の遅れた体制のように思っている人が多い。しかし、世界には依然として多くの君主制国家が存在している。有史以来、人類が最初に作り上げた、カリスマを安定して後継者に継承させる指導体制が君主制である。この君主制の「発明」によって、人類は国家という大規模な人間集団を形成することに成功したのである。そして、君主という安定して継続する強力なカリスマを持った最高指導者の下で国家が建設され、文明が発展して来たのである。特に農耕文明は、灌漑や治水といった大規模な工事を行わなければならず、そのためにも強大なカリスマを持った最高指導者が必要だった。従って、君主制の成立は、農耕文明の成立には必要不可欠だったのである。
やがて、十八世紀から十九世紀にかけて欧米諸国で大統領制や立憲君主制、あるいは議院内閣制という新しい体制が「発明」された。大統領や議院内閣制の首相は、特定の一族から後継者が選ばれる君主制とは違い、属している一族や血筋とは関係なく後継者が選ばれ、法の手続きによって前任者から後継者にカリスマが継承される制度である。君主制では後継者が君主の一族に限られるため、しばしば「人材不足」が起こり、これが原因で政治が停滞したり混乱したりすることがある。これに対して、後継者が前任者の一族に限定されない大統領制や、実質的な大統領と言える議院内閣制の首相は、広く指導者の人材を集めることが可能であり、非常に合理的な体制のように思われ、世界中に普及して行ったのである。
しかし、大統領制や議院内閣制は、法の支配が確立された国家でなければ成立しない。かつて君主国だった世界の多くの国々で、欧米諸国の真似をして大統領制のような君主制ではない体制が作られた。ところが、法の支配が確立されていない国で君主制ではない体制を作ろうとすると、カリスマの継承に失敗するなどして様々な問題が起こるのである。既に述べたように、中国では、文化大革命の時代には毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が出現して政治が混乱したり、ケ小平の時代には法律上の最高指導者と実質的な最高指導者が違うという事態になったりしてしまった。そして、多くのアジアやアフリカ諸国では、クーデターや内戦などによって政情不安が続いている例も多い。これらの国の多くは、法の支配が確立されていないため、法の手続きによるカリスマの継承がうまくいかない国である。そのため、世界には、形式的には大統領制や議院内閣制を採用しているのに、実際は権力の世襲が行われ、実質的な君主国になってしまった国がいくつも存在するのである。
また、タイ王国は形式的にはイギリスと同様の立憲君主制ということになっているが、実態は専制君主制である。イギリスの君主は政治の実権の無い形式的な存在であり、首相が実質的な最高指導者である。ところが、タイの国王は名実共に最高指導者であり、首相は国王の補佐役に過ぎないのである。そのため、首相の力では国民を指導することも団結させることもできず、しばしば政治の混乱が起こり収拾できなくなることがある。そのような場合は、軍や国王が政治に介入して政治の安定を図るしかないこともある。これが、タイで何度も軍事クーデターが起こっている理由である。しかし、軍事クーデターのような違法な行為が何度も起こる国が法治国家であるわけが無い。タイにイギリスと同様の立憲君主制が成立しないのは、結局、タイに法の支配が確立されていないからである。
また、大統領制や立憲君主制の成立しない国があるのは、法の支配が確立されていないという理由だけではない。日本のように法の支配が確立されているにもかかわらず、大統領制や立憲君主制が成立しない例もある。既に述べたように、日本に大統領制や立憲君主制が成立しないのは、天皇制が国家に定着した結果、天皇以外の者が正統な国家の最高指導者になることができなくなってしまったからである。
このように欧米諸国以外の国々では、大統領制や議員内閣制がうまくいかない例が多いのである。しかし、大統領制や君主制以外に、安定したカリスマの継承をする制度は今のところ「発明」されてはいない。従って、大統領制や議員内閣制がうまく機能しない国では、政治体制の機能を復活させ政治を安定させるため、君主制を復活させたり、形式的に大統領制や議院内閣制を採用しながら、権力を世襲することによって実質的な君主国になってしまったりする例が増えると私は考えているのである。
実際に君主制を否定してしまった結果、政治が混乱して大変な悲劇が起こり、最後は君主制に戻らざるを得なくなった国がある。その典型的な例がカンボジアである。
カンボジアのシアヌーク国王は、1955年に退位し、父のスラマリットに王位を譲り、自らは首相に就任する。そして1960年にスラマリット王が崩御した後、シアヌークは国民投票によって国家の最高指導者となる。しかし、シアヌークはベトナム戦争の被害がカンボジアに波及するのを避けるために共産主義国家寄りの外交政策をとり、北ベトナムの軍事物資や兵士が自国領を通過することを認めたりした。そのため国内の右派勢力の反発を買い、1970年にはロン・ノル将軍がクーデターを起こしてシアヌークを失脚させてしまう。こうしてカンボジアの王制は、名実共に消滅してしまう。一方、シアヌークは、共産主義ゲリラのポル・ポトと手を組み、ロン・ノル将軍の政権に対抗する。やがてポル・ポト派は勢力を拡大し、1975年4月17日、首都プノンペンを制圧して共産主義政権を樹立することに成功した。
カンボジアの首相に就任したポル・ポトは、首都プノンペンを始めとした多くの都市住民を農村に強制移住させて農業に従事させる。そして農村を大規模に集団化することによって米などの食料の増産を計った。しかし、無理な計画に加えて元都市住民の農作業の不慣れもあって計画は失敗し、カンボジアは飢餓に見舞われることになってしまった。しかし、ポル・ポト首相は、この政策の失敗に懲りることもなく、カンボジアの農業生産量を四年で四倍にするという、更に無謀な経済政策を立案して実行に移したが、農業生産が増えるどころか更なる飢餓をもたらす結果になってしまった。
これらの経済政策の失敗は、全てポル・ポト首相の独断専行によるものである。ところがポル・ポト首相は、自分の過ちを反省するどころか、政策の失敗の責任を全て部下や現場の指導者達に押しつける。ポル・ポト首相は、経済政策の失敗の原因は共産党や農村に潜む裏切り者やスパイの妨害によるものだと決めつけ、彼らを処刑するように命令する。こうして百五十万人を超える犠牲者を出す大虐殺が始まったのである。
一体、なぜこのような暴挙が行われたのか。更にポル・ポト首相の周囲に居たポル・ポト政権の幹部達は、どうしてこのような行為を止められなかったのか。
あらゆる国家体制には、強力なカリスマを持った最高指導者が必要不可欠である。もし、ポル・ポト首相のカリスマが弱体化してしまったら、カンボジアの共産主義体制は崩壊してしまう。そうならないためには、是が非でもポル・ポト首相のカリスマを守らなければならない。ところがポル・ポト首相は、経済政策で明らかに過ちを犯してしまった。しかし、これを公に認めてしまったらポル・ポト首相のカリスマは弱体化してしまう。そこで共産主義政権を守るためには、何としてもポル・ポト首相が過ちを犯したことを認めるわけにはいかない。しかし、経済政策の失敗の責任は、誰かが取らなければならない。そこで多くのカンボジア国民が、裏切り者やスパイにでっち上げられて犠牲になってしまったのである。そして、ポル・ポト政権の幹部達も、自分達の地位を守るためには共産主義体制を守らなければならないため、ポル・ポト首相の暴挙を容認せざるを得なかったのである。
やがて1979年、ベトナムの軍事介入によりポル・ポト政権は崩壊した。その後十年を超える内戦を経て、1991年、和平協定が結ばれ内戦は終結した。そして1993年、新憲法の制定に伴い王制が復活することになり、シアヌークが再び国王となった。
千年以上の歴史を持つカンボジアの王制に備わったカリスマと比べれば、歴史など無いに等しい共産主義体制のポル・ポト首相のカリスマは弱体なものであった。その弱体なカリスマを守ろうと悪あがきをした結果が、百五十万人以上と言われているカンボジア国民の屍の山なのである。国家の安定には強力なカリスマの存在が不可欠であるが、強力で安定したカリスマを確立するのは容易なことではないし、時間もかかるのである。一旦確立されたカリスマを否定することは、その国の国民にとって途方もない損失なのである。カンボジア国民の悲劇は、そのことを我々に教えてくれたのである。
中国の権力者
中国では辛亥革命以来、君主制は否定されている。しかし、法の手続きによる政権交代もできない以上、中国に大統領制が成立しているとも言えないのである。
中国では、2002年11月5日に中国共産党の中央委員会で胡錦濤国家副主席が総書記に就任した。そして2003年3月15日に、胡錦濤総書記は、全国人民代表大会で江沢民に代わって国家主席に就任した。更に胡錦濤は、2004年9月19日に中国共産党第十六期中央委員会第四回総会で、江沢民に代わり軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席にも就任した。これによって胡錦濤は、中国共産党総書記、国家主席、そして中国共産党中央軍事委員会主席と、党、国家、軍の頂点に立つことになり、形式的には完全な中国の最高指導者となった。多くのマスコミは、これによって中国の政権交代が平穏に行われたと言っている。
しかし、権力の継承と言っても、法的権限だけ継承しても権力の継承とは言えないのである。国家の危機において国民を団結させることが可能な強大なカリスマが無ければ国家の最高指導者は務まらない。従って、法的権限と共に、国民を団結させることが可能な強力なカリスマも継承しなければ、本当の意味での権力の継承とは言えないのである。しかし、江沢民にしろ胡錦濤にしろ、かつての毛沢東やケ小平のような強力なカリスマを持っているわけではない。これでは国家の危機に遭遇しても中国国民を一つに団結させ、危機に対処するのは困難である。従って、江沢民も胡錦濤も真の最高指導者とは言えないのである。つまり、党則や法の手続きに従って中国共産党総書記や国家主席に就任しても、それだけで胡錦濤が中国共産党や国家の最高指導者になったとは言えないのである。
更に、胡錦濤が中国軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、それだけで中国軍を掌握したとは言えないのである。法治国家ではない中国では、法的な指導者になっても、それだけでは実質的な指導者になったとは言えない。このことは、軍に関しても同様なのである。かつて毛沢東やケ小平は、その強力なカリスマと指導力によって軍人達を子分と為し、軍を掌握していた。従って、軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、毛沢東やケ小平のような強力なカリスマと指導力が無ければ、中国軍を掌握できないのである。そして、何度も言うように、中国では軍を制する者が国家を制するのである。従って、軍を掌握できなければ真の最高指導者になったとは言えないのである。かつてケ小平は実質的な中国の最高指導者ではあったが、法律上の最高指導者である首相や国家主席に就任したことは一度も無かった。そのケ小平が実質的な中国の最高指導者だった理由の一つが、軍の実権を握る実質的な最高指導者として中国に君臨していたということである。つまり、軍の実権を握ることは、中国の最高指導者になるための必要条件なのである。しかし、毛沢東やケ小平のような強力なカリスマや指導力を持たない胡錦濤にそのようなことができるのか大いに疑問がある。従って、胡錦濤が中国の真の最高指導者になったとは考えられないのである。
ケ小平亡き後の中国は、スターリン亡き後のソビエトと同様に、強力な最高指導者の存在しない国である。従って、今後の中国も、スターリン亡き後のソビエトのような集団指導性に移行するかもしれないのである。そうなれば、中国もかつてのソビエトと同様の結末を迎える可能性がある。更に、強力な最高指導者の存在しない中国は、戦後体制下の日本ような、最高指導者が存在しない欠陥国家になっている可能性もある。
1989年の天安門事件の危機や、その後の経済の停滞は、実質的な最高指導者であるケ小平の力でどうにか乗り切ることができた。しかし、もし今後、中国に真の最高指導者が存在しない状況の下で政治や経済の危機が起こったら、それをきっかけに中国の共産党体制はソビエトと同様に崩壊するかもしれないのである。
更に、中国の指導体制が抱える重大な問題として、最高指導者の正統性の問題がある。
最高指導者の正統性とは、なぜその人物が国家の最高指導者なのかという根拠である。正統性は、最高指導者の地位を安定させるためには非常に重要なものである。なぜなら、最高指導者の正統性がはっきりしていないと、役人も軍人も、そして国民も、一体誰の指導に従ってよいのか分からなくなり、政治が混乱してしまう場合があるからである。その典型的な例が、中国で起こった文化大革命の時の混乱である。従って、政治の安定のためには、最高指導者の正統性の確立は必要不可欠なのである。
最高指導者の正統性の根拠には様々なものがあるが、その一つに法的な正統性がある。つまり、あらかじめ最高指導者になるための法的手続きが決まっていて、それに従って最高指導者に就任したことが正統性の根拠となるのである。アメリカの大統領制が、その典型的な例である。しかし、これは法治国家にのみ通用するものであって、法治国家ではない中国には通用しないのである。
また、その国の固有の政治体制が長い歴史の結果として国家の伝統となり定着したことが最高指導者の正統性の根拠となることもある。その典型的な例が、日本の天皇とイギリスの首相である。日本の天皇制やイギリスの議会制度は、長い時間をかけて日本やイギリスの政治に定着した結果、革命や政変や内乱が何度起ころうとも、消滅することがなくなってしまった。その結果、日本国民は天皇制が存在することを、そしてイギリス国民は議会制度が存在することを当然のことだと考えるようになった。このことが、日本の天皇制やイギリスの議会制度の正統性の根拠なのである。そしてイギリスの首相は、正統性のある議会の代表として内閣を組織して国家を指導しているのである。こうしてイギリスの首相は、国家の最高指導者としての正統性を確立しているのである。
ところが中国は、有史以来、国家の最高指導者が正統性を確立したことが一度も無かったのである。中国は、古代から王や皇帝といった君主によって統治されて来たが、常に政治の実権が君主にあったとは限らない。有力な臣下や外戚、そして君主の后や母親などが政治の実権を握ることもあったのである。そして、彼らや彼らの一族が新しい王朝を作ることも希ではなかったのである。このようなことが起こる原因の一つが、中国の歴代の最高指導者が正統性を確立できなかったことなのである。強大な権力を持っていた秦の始皇帝以降の皇帝といえども、確固とした正統性など無かった。だから古代より易姓革命やら皇位の簒奪やらが絶えることが無かったのである。これが西太后やケ小平が政治の実権を握ることができた理由の一つであり、同時に中国の政治が不安定な理由でもある。
中国では、秦の始皇帝に始まる帝政が二千年以上続いたが、1911年から1912年にかけて起こった辛亥革命によって、あっさりと否定されて消滅してしまった。つまり中国の帝政は、二千年以上の長い年月にわたって続いたにもかかわらず、中国の伝統となり正統性が確立されることは無かった。その結果、中国の歴代の皇帝達は、国家を統治する正統性を持つことができなかったのである。日本の武家政治も、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されて以来、七百年近く続いたが、明治維新によって否定されてしまった。日本の武家政治は、イギリスの議会政治と同じくらいの長さの歴史を持っていたにもかかわらず、日本の伝統となり正統性が確立されることは無かったのである。つまり、政治体制が国家の伝統となり正統性を確立することは、単に年月をかけただけでは不可能なのである。
日本の武家政治の指導者達は、政治能力やカリスマといった力はあっても、国家を統治する正統性は無かったのに対して、武家政治の時代の天皇は、政治能力やカリスマは失ったものの、国家を統治する伝統的な正統性は失っていなかった。そこで、武家政治の指導者達は、伝統的な正統性のある天皇から、征夷大将軍などの地位を与えられることによって、自らの権力を正当化していたのである。この、天皇と武家の関係と全く同じことが、帝政時代のローマの元老院とローマ皇帝の関係にも当てはまるのである。共和政時代のローマの元老院には、長く続いた共和政の歴史の結果、国家を統治する正統性が確立されていた。ところが帝政が成立すると、元老院は政治の主導権を皇帝に奪われてしまう。ところが元老院は、政治の主導権を失っても、依然として国家を統治する正統性を失ってはいなかったのである。一方、皇帝は、元老院に取って代わって政治の主導権を握ったにもかかわらず、国家を統治する正統性を持つことはできなかった。そこで歴代のローマ皇帝は、元老院の承認を受けることによって、自らの権力を正当化するしかなかったのである。
中国の歴代の権力者達は、政治能力やカリスマや権威を持つことができても、政治の安定に最も欠かせない正統性を持つことができなかった。それどころか、日本の武家政治の指導者やローマ皇帝のように、正統性を持つ者の力を借りて自らの権力を正当化することもできなかったのである。つまり中国は、正統性を持たない権力者達が、力ずくで民衆を支配して来た国なのである。そのため中国の民衆は、権力者の力が強大な時はおとなしく従っているが、権力者が無力と見ると、途端に従わなくなってしまうのである。これが中国の政治が不安定な根本的な理由なのである。
このように中国は、政治を安定させることが非常に困難なのである。天安門事件以降は、経済が順調に発展していることもあって、中国の政治は表面的には安定しているように見えるが、政情不安定の原因は、常に中国の政治に存在し続けているのである。
第二章 戦後民主主義とは何か
日本にとっての近代化
日本人の言う戦後民主主義は、欧米の民主主義とは全く異質なものである。日本は、民主主義国家ではないどころか、近代国家でさえないというのが私の考えである。そもそも、民主主義国家は、近代国家の一種である。従って、近代国家でない国は、決して民主主義国家ではあり得ないのである。そして、1946年に日本国憲法が制定されて以来、今日に至るまで依然として憲法改正ができないのも、日本が民主主義国家でも近代国家でもないからである。
まず、近代国家とは何かということから考えてみる。
近代国家とは、啓蒙主義という考え方に基づいて成立した国家のことである。啓蒙主義は、十七世紀頃のヨーロッパに出現し、十八世紀までに社会契約説などによって理論化された考え方である。
啓蒙主義を理論化した社会契約説によると、近代国家とは、おおよそ次のような考え方に基づく国家である。社会や国家は、人間の自由な意志に基づく社会契約によって成立したものである。だから、あらゆる制度や法律や習慣といったものは、人間の自由な意志に基づき、契約をやり直すことによって変えることができる。従って、国家体制や政治のあり方も人間の自由な意志によって変更できる。
ヨーロッパに近代国家が成立する以前の社会では、多くの人間が様々な伝統や習慣、あるいは因習や迷信といったものによってがんじがらめに縛られていて、合理的な社会や国家の改革など不可能だった。それが近代になり、啓蒙主義が社会へ浸透したことによって可能になったのである。
近代以前、特に問題だったのが、国家権力と宗教との関係である。
ユダヤ教やキリスト教やイスラム教といった一神教は、次のような考えの上に成り立っている。この世に存在する全てのものは創造主たる神によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに国家体制や社会や慣習や伝統といったものも神によって作られた神聖不可侵な創造物である。これを人間が神の許可も無く勝手に変更しようと考えるのは、神に対する冒涜に他ならない。
イスラム教には現代でもこの考え方が生きている。従って、宗教に抵触すると思われるような政治や社会の改革は困難なのである。一神教では神の意志は、預言者を通じて語られることになっている。預言者とは旧約聖書に登場するモーゼ、エレミヤ、イザヤ、或いはイスラム教の創始者のムハンマドなどである。ただし、イスラム教ではムハンマドは最後の預言者ということになっている。従って、神がムハンマドを通じて語った言葉は、神の最終的な意志であって、以後一切の変更は無いということである。その、神の言葉を記した教典がコーランである。従って、イスラム教徒は永久にコーランの教えに従わなければならないのである。そのため、イスラム教徒がコーランの教えと矛盾すると見なされるような近代的な改革を行ったり、法律や制度を作ったりするのは困難なのである。つまり、イスラム教の神は、近代的な改革を「許可」しないのである。そのため、イスラム教徒が多数を占める国家では近代化が停滞しているのである。
中世のヨーロッパでは、ローマ・カトリック教会が絶大な力を持っていた。ローマ・カトリック教会に君臨するローマ法王は、地上における神の代理人を称していた。そして、ヨーロッパ諸国の王や諸侯は、ローマ・カトリック教会の権威を恐れ服従していた。ところが1517年にマルチン・ルターによって開始された宗教改革をきっかけに、ローマ・カトリック教会の支配力は低下し始める。マルチン・ルターは、ローマ法王の権威を否定し、聖書のみが信仰のよりどころであると主張した。この考えを支持する人達は、プロテスタントと呼ばれることになった。このプロテスタントの主張は、ローマ・カトリックとの間に激しい宗教対立を引き起こし、フランスのユグノー戦争やドイツを主戦場にして戦われた三十年戦争などの宗教戦争を招く結果となった。これらの紛争を収拾するため、結果としてヨーロッパ諸国はプロテスタントを容認せざるを得なくなり、ローマ・カトリック教会は、権威の低下を余儀なくされた。
これらの宗教改革を発端として起こった一連の出来事の結果として、宗教がかかわるのは人間の内面の問題に限るべきであり、人間の外面を扱う政治とは別であるという考えが生まれたのである。これが近代国家の基本である政教分離である。更に、信仰の自由や内面の自由といった考えが確立され、ヨーロッパの社会は近代に向かって行ったのである。
やがて、十七世紀から十八世紀にかけて、ロックやルソーといった啓蒙思想家によって、社会契約説という形で啓蒙主義の理論が成立する。そして啓蒙主義とそれを理論化した社会契約説は、アメリカの独立革命やフランス革命を推進する理論となる。
こうして欧米人は、宗教や伝統的思考には関係なく、人間の自由な意志で国家、社会、制度、法律、習慣といったものを改革できると考えられるようになった。これが近代国家と呼ばれるものである。更に啓蒙主義の延長として、国家のあり方や政府の政策も、国民の自由な意志によって決定されなければならないという考えが生まれた。これが民主主義の基礎である主権在民という考えである。
近代以前のヨーロッパでは、何が正しく何が間違いなのかという判断は、宗教に委ねられていた。それを政治に関しては人間の自由な意志や理性に委ねることになったのが近代の始まりである。宗教は、神の教えに反するという理由であらゆる変革を否定する。だから近代化のためには、宗教の影響は政治から排除されなければならない。これが政教分離である。
この政教分離は、近代国家や民主主義国家の成立には必要不可欠である。なぜなら中世ヨーロッパのように、宗教が政治に影響を与えるようになってしまったら、国民ではなく、神が主権者になってしまうからである。従って、政治と宗教が一体化した宗教国家に民主主義などあり得ないのである。
イスラム教シーア派の宗教国家であるイランでは、1997年5月の大統領選挙に、政治の民主化や経済の改革・開放政策を主張するモハマド・ハタミが出馬した。当初ハタミ候補は劣勢と言われていたが、変革を望む都市住民などの圧倒的な支持を得て、保守派の候補を破ってイランの大統領に当選した。そして、2000年2月には国会の総選挙が行われ、ハタミ大統領の改革路線を支持する勢力が国会の議席の約70%を獲得して圧勝した。これを受けて、ホメイニ師のイスラム革命以来、イランと敵対関係にあったアメリカ政府は、イランが民主化へ向けて歩むことに期待する意志を表明した。しかし、イランが民主化への道を歩むのは容易なことではない。なぜなら、イランは「ウラマー」と呼ばれるイスラム法の法学者が政治を支配する宗教国家であり、欧米諸国のように政治と宗教が分離されている国ではないため、国民が主権者ではないからである。
主権とは国家の行政権を行使する権限のことであり、行政や国家のあり方を最終的に決定する権限を持つ者が主権者である。民主主義国家の理念では国民が主権者であり、政治家は主権者たる国民から選挙で選ばれることによって、行政権を行使する権限を国民から委託されたことになっている。つまり、民主主義国家では、政治家は主権者たる国民から選挙で選ばれることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。
ところが、イランのような宗教国家では、そうはいかないのである。宗教国家は、宗教の理論によって国家が成り立っている。イスラム教では、この世の全ては、創造主たる神の意志に従って成り立っていることになっている。この考え方からすると、国家や政治も神の意志に従わなければならないことになる。そうすると、国家や行政のあり方を最終的に決定するのも神ということになる。従って、理念の上では、イランのような宗教国家の主権者は神ということになるのである。主権在民ならぬ「主権在神」である。しかし現実には、神がこの世に現れて直接国家・国民を指導するということはあり得ない。そこで、主権者たる神の意志を政治に反映させるためには、神の教えに基づいて作られたイスラム法に基づいて国家を統治しなければならないことになるのである。そして、イスラム法に基づいて統治するということは、イスラム法の法学者が国家を統治するということである。これがイスラムの宗教国家イランの理念である。従って、イランにおける国家・国民の指導者はイスラム法の法学者達である。そして、現在イスラム法の法学者の頂点に君臨するのがホメイニ師の後継者のハメネイ師である。従って、ハメネイ師が宗教国家イランの最高指導者である。イスラムの宗教国家イランの法学者達は、唯一にして絶対の神の意志を政治に反映させることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。
ハタミ大統領は、2001年6月の大統領選挙で78%という高い得票率で再選された。しかし、ハタミ大統領は、その大統領選挙の最中、演説の中で「イスラム体制は堅持し、強化しなければならない。」と発言し、急進的な改革を否定せざるを得なかった。ハタミ大統領を始めとした改革派も、それを支持する国民も、法学者が政治を支配するイスラム体制までは否定できなかった。そのため、もし、ハタミ大統領の民主化や改革・解放政策がハメネイ師を始めとした法学者達に拒否されるようなことになったら、民主化も改革・解放政策も断念するしかなかったのである。言い換えれば、ハタミ大統領の進めていた民主化も改革・解放政策も、ハメネイ師ら法学者達の「お目こぼし」によって成り立っていたに過ぎないのである。国民から選挙で選ばれた者が国家・国民の指導者というのは、主権在民という考えが確立された国のことであって、イランのような「主権在神」の宗教国家では、政治家がいくら選挙で国民の高い支持を得たとしても、決して国家・国民の指導者ではないのである。イラン国民がハタミ大統領の民主化や改革・解放政策を支持したのは、15%を超える高い失業率など、経済の停滞に対する国民の不満によるものである。ハタミ大統領も国会議員も、国民の不満の代弁者であっても、決して国家・国民の指導者ではなかったのである。主権在民という考えの無い宗教国家では、国民に支持され選挙で選ばれたことなど、国家・国民を指導することを正当化する根拠とはなり得ないのである。
イランには護憲評議会という機関がある。護憲評議会は、イランの国会を監督する機関であり、国会の可決した法律を差し戻したり、大統領選挙や国会議員選挙の立候補者を事前に審査したりする権限などを持っている。護憲評議会に国会の可決した法律を差し戻されたら法律は成立しない。そして護憲評議会が大統領選挙や国会議員選挙の立候補希望者を審査した結果、「イスラム体制にふさわしくない」と判断すれば、大統領選挙や国会議員選挙に立候補できないのである。しかも、この護憲評議会を構成するのは、改革に反対する保守派の法学者である。つまり護憲評議会とは、保守派の法学者達の意のままにイランの政治を動かす保守派の牙城なのである。2000年の国会議員選挙では、改革派が国民の支持を得て圧勝した。ところが、改革派が主導する国会となったにもかかわらず、護憲評議会の抵抗によって政治の民主化や経済の改革のための法律がなかなか成立せず、改革は停滞し、経済は低迷したままであった。これが、かつて熱狂的に改革を支持したイラン国民の失望を買い、改革派は国民の支持を失ってしまった。その結果、2004年2月の国会議員選挙では、護憲評議会が多くの改革派の候補を審査によって排除したこともあって、改革派は惨敗して国会内の少数派に転じてしまった。更に2005年6月の大統領選挙では、保守強硬派と言われているアフマディネジャド氏が当選し、ハタミ大統領の改革路線の継承を訴えた候補は惨敗してしまった。これによってハタミ大統領の改革路線は、完全に挫折することになってしまったのである。護憲評議会なるものが存在することが意味するのは、イランには主権在民という考えが無いということであり、大統領も国会も単なるお飾りに過ぎないということである。神の名において政治が行われる宗教国家のイランに民主主義などあり得ないのである。民主主義国家というものは決してアメリカ人が考えているような普遍的なものではないのである。
戦前の日本の天皇は、現人神と言われていたが、そもそも、現人神とは何なのか。
一般的に神と呼ばれている者には二つの種類がある。
一つは、多神教の神である。日本の神話に登場する八百万の神々、古代ギリシャの神話に登場する神々、そしてヒンドゥー教の神々などである。
二つ目が、既に述べたような一神教の神である。ユダヤ教徒のエホバ、キリスト教のイエス・キリスト、そしてイスラム教徒がアッラーと呼んでいる神である。一神教の考え方は、この世に存在するものの全ては唯一の神によって作られ、更に、人間も人間社会も唯一の神によって作られ支配されているということである。そして全ての人間は、唯一の神が定めた規範に従って生きなければならないことになっている。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教もこの理論の上に成り立っている。
規範とは、人間が社会生活などをする上で最低限度守らなければならない原則であり、善悪の基準である。これが失われると多くの人間は、何が正しく何が間違いであるか判断できない無規範状態に陥り、社会が混乱してしまう。一神教の理論では、規範を作る権限は、唯一絶対の神のみにあり、人間には作る権限が無い。そして規範の多くは宗教の教典という形で存在している。キリスト教のバイブルやイスラム教のコーランといった物である。モーゼの十戒で知られるモーゼにしろ、イスラム教の創始者のムハンマドにしろ、神の作った規範を民衆に伝えるだけの預言者であって、彼ら自身が規範を作ったわけではない。そして規範を記した教典を書き換えることができるのも神だけである。そして、教典に書かれている内容が、人間にとっていかに不都合なものであっても、また不合理なものであっても、決して人間が神の許可もなく勝手に書き換えることはできないのである。とは言っても、現実に神が現れて教典の変更を指示するなどということはあり得ないので、宗教の教典の変更は事実上不可能である。人間による宗教の教典の変更など、考えること自体が神を冒涜する行為なのである。要するに、一神教の神とは、規範を作る権限を持った唯一の神のことである。
日本には古代より八百万の神々の神話が存在する。そういう意味では、日本は多神教の国である。しかし、戦前の天皇には、一神教の神との共通点も存在したのである。それはキリストやアッラーと同様に、規範を作る権限を持っていたということである。
戦前の日本で、現人神たる天皇によって作られた規範を記した「天皇教」の経典が、軍人勅諭と教育勅語である。
西南戦争の後、軍の実力者の山県有朋は、軍の統制を計る目的で、自らの名で軍の規範を定めたが、なかなか受け入れられなかった。そこで1882年に天皇の名で新たな軍人が守るべき規範が定められた。それが軍人勅諭 (陸海軍軍人に賜はりたる勅諭) である。天皇の名において定められた結果、やっと軍に規範を浸透させることができたのである。そして軍人は、軍人勅諭を覚えることが求められ、特に陸軍では、全ての将兵が軍人勅諭の全文を暗誦できることが求められていた。ただ、後になると軍人勅諭は神聖不可侵な規範となり、これを暗誦する時に読み間違えた青年将校が自殺するという事件までが起こってしまった。この事件は不幸な出来事ではあったが、軍人勅諭が神の定めた教典と化していたことを如実に示している。
教育勅語 (教育ニ関スル勅語) は、国民としての一般的な道徳観を、天皇が国民に呼びかける形で記した教育の規範である。教育勅語は、1890年に発布された後、文部省令などによって学校で式典が行われる場合に朗読されることになった。その後、教育勅語は、神聖なものとされるようになり、ほとんどの学校で奉安殿や奉安庫と呼ばれる施設で神聖な経典として保管されていた。
ただし、教育勅語が日本の学校教育にとって重要だったのは、教育勅語に記されている内容よりも、「勅語」という語句が示すように、教育勅語が現人神たる天皇の言葉であるという点にある。つまり、戦前の日本における教師の立場は、教育勅語に記された現人神たる天皇の言葉を、天皇に代わって生徒に教えるというものであった。要するに、戦前の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人なのである。従って、戦前の日本の生徒にとって、教師の言葉は現人神たる天皇の言葉であり、教師に逆らうのは現人神たる天皇に逆らうのと同じことだったのである。戦前の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人という特別な立場にあったからこそ、生徒から恐れ敬われ、教育者が務まったのである。こういうことを、教師に権威があると言うのである。このように、戦前の日本の教育は、「天皇教」の上に成り立っていたのである。ところが、この「天皇教」と教育勅語によって教師に権威を与える仕組みは、日本の第二次世界大戦の敗戦と共に失われてしまった。そして、戦後の日本では、「天皇教」と教育勅語に代わる、教師に権威を与える仕組みが確立されていないまま現在に至っているのである。つまり、戦後の日本の教師は、戦前の教師のような特別な立場を失い、普通のおじさんやおばさんになってしまったのである。これが戦後の日本の教師が恐れ敬われることがなくなってしまった原因である。こういうことを、教師の権威が失われたと言うのである。そして、教師の権威が失われたことが、学級崩壊など戦後の学校教育の様々な問題が解決できない根本的な原因なのである。
このように戦前の天皇は、軍人勅諭や教育勅語といった規範を天皇の名において作ることが可能だったのである。戦前の天皇は、国家の最高指導者であると同時に一神教の神に匹敵する力を持っていたことになる。一神教の神に匹敵する力を兼ね備えた最高指導者、それが現人神である。しかし、言うまでも無く、このような政治と宗教が一体化した国家は一種の宗教国家であり、近代国家ではない。
日本は明治維新以来、欧米から近代的な制度や技術を学び導入してきた。その結果として富国強兵政策に成功し、日清戦争ではアジア最大の清帝国を打ち破り、日露戦争ではイギリスと並ぶ帝国主義国家の双璧であるロシア帝国を打ち破った。また、戦艦大和や零戦といった兵器は、当時としては世界の一流品であった。こうして見ると、あたかも日本が近代化に成功したように見える。しかし、決して日本は近代国家になったわけではないのである。日本が近代化に成功したと言っても、それはあくまで技術や制度といったものに限られ、日本人の思考や国家のあり方までが近代化されたわけではないのである。
では、一体なぜ近代国家ではない日本が、近代的な改革に成功したのか。確かに日本は明治維新以来、数々の近代的な改革を行って来たが、それは欧米諸国のような啓蒙主義に基づく改革ではない。明治政府の改革は、現人神たる天皇の命令による改革である。イスラム国家に近代的な改革が困難なのは、神がそれを許可しないからであるのに対して、明治維新以降の日本で近代的な改革が可能だったのは、現人神たる明治天皇が近代的な改革を許可したからである。天皇という神が許可する限り、どんな大胆な改革も神を冒涜することにはならない。それどころか日本人にとって、現人神たる天皇が推進する近代的な改革に反対することこそ、神を冒涜する行為なのである。この現人神たる天皇の力によって日本人の意識が変化したことが、明治維新という大改革を推進する原動力となったのである。
日本の近代的な改革は、確かに欧米を手本としたものである。しかし、近代的な改革と言ってもその中身は欧米のものとは全く異なるものなのである。欧米諸国と日本の違いをたとえて言うなら、鳥とこうもりの違いと言える。こうもりは鳥のように自由に空を飛び回ることができるが、決して鳥になったわけではなく、進化の過程でたまたま鳥と同じような空を飛ぶ能力を身につけたに過ぎない。日本が近代的な改革が可能だったのは、たまたま歴史の過程で工業化や法治国家作ることなどが可能な伝統・文化が成立していたということであって、決して欧米のような近代国家になったわけではないのである。明治政府の改革は近代化ではなく、「近代的な改革」だったのである。
「大正デモクラシー」とは何だったのか
かつて、戦前の日本には、大正デモクラシーと呼ばれた時代があった。
1918年に長州藩閥出身の寺内正毅内閣が米騒動の責任をとって辞任すると、その後任の内閣総理大臣に就任したのが、平民出身で政友会総裁の原敬であった。これをきっかけに政友会の高橋是清、そして憲政会の加藤高明や若槻礼次郎などの政党を基盤にした内閣が成立するようになった。そして加藤高明の護憲三派内閣は、男子の普通選挙制を成立させるといった成果を一応残した。また、この時期には労働運動や社会主義運動も盛んになり、1919年には労働組合の全国組織である大日本労働総同盟友愛会が成立し、翌年の1920年には日本初のメーデーが行われた。そして吉野作造は民本主義を唱え、知識人や学生に大きな影響を与えた。
このように、この時期の日本の政治や社会の状況を見てみると、あたかも日本が西欧的な民主主義国家に近づいていたように見える。しかし、政党内閣は、疑獄事件や経済政策の失敗などもあって、国民の全面的な支持を得られなかった。そして、五・一五事件で犬養毅総理大臣が暗殺されたのをきっかけに、政党政治は終わってしまった。
戦前の日本で政党政治が定着しなかった根本的な理由は、何と言っても主権在民という考えが存在せず、現人神たる天皇だけが主権者であると考えられていたからである。社会主義運動も労働運動も、そして吉野作造の民本主義も、結局、現人神たる天皇だけが主権者であり最高指導者であるという日本国民の考え方を変えることができなかったのである。「デモクラシー」の理念の上では、政党政治の指導者は、主権者である国民から支持され選挙で選ばれることによって国家・国民の指導者としての地位を正当化していることになっている。つまり、理念の上では、政党政治の指導者は、主権者たる国民の代表ということになる。ところが主権在民という考えが無い国の場合、いくら公正な選挙で選ばれた政治家といえども国民の代表ではないのである。
戦前の日本に主権在民という考え方も「デモクラシー」も存在しなかったことを示すよい例が、田中義一総理大臣が辞任した経緯である。1927年4月、議会内第一党の政友会総裁田中義一は、内閣総理大臣に就任する。1928年6月、中国の満州に駐留する日本陸軍の関東軍は、自分達の意のままにならない軍閥の指導者の張作霖を殺害し、その混乱に乗じて満州を制圧しようと企てたが、結局失敗に終わってしまった。この「満州某重大事件」に対する野党民政党の追求の結果、陸軍は、事件は河本大作関東軍高級参謀らの犯行であったことを認めた。しかし陸軍と与党の政友会は、事件の真相究明にも、事件の首謀者であった河本大作らの処分にも反対した。そのため田中義一総理大臣は、河本大作に対する処分を停職という軽いものにとどめてしまった。この田中総理大臣の事件に対する処置に対して昭和天皇は、田中総理大臣を厳しく叱責し、辞任を迫った。その結果、進退きわまった田中総理大臣は、辞任する羽目になってしまったのである。
戦前の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、戦前の日本は、イギリス型の立憲君主制国家だったことになる。そしてイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在である。更に「デモクラシー」が存在する国家では、主権は国民にあり、議会は主権者たる国民の代表である。田中義一が議会内第一党の政友会の総裁であるということは、「デモクラシー」の理念からすれば、主権者たる国民が選挙によって田中義一を国民の代表に選んだということであり、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持ということになる。ところが、田中総理大臣は、昭和天皇に叱責され辞任を迫られたことによって、昭和天皇の支持を失ったことが明らかになり、その結果、辞任を余儀なくされてしまったのである。もし、戦前の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持なのだから、天皇にいくら辞任を迫られたところで辞任する必要など無いはずである。そもそも「デモクラシー」の存在する国家では、君主は形式上の存在なのだから、天皇は内閣総理大臣の決定に対して意見を言ったり辞任を迫ったりする立場には無いのである。つまり戦前の日本に「デモクラシー」が存在したならば、田中政権は昭和天皇から辞任を迫られたとしても、びくともしなかったはずである。田中総理大臣が天皇から辞任を迫られた結果、辞任せざるを得なくなったのは、戦前の日本の政党内閣を支えていたのは国民や議会の支持ではなく、天皇の支持だったということを意味するのである。従って、原敬から犬養毅に至るまで、政党政治家出身の内閣総理大臣といえども、天皇に支持され内閣総理大臣に任命されたことによって国家・国民を指導する立場を正当化していたのである。要するに、戦前の日本の内閣総理大臣は、国民や議会の代表ではなく、天皇の政界における代理人だったのである。国民に支持され選挙で選ばれた政友会や民政党といった政党の代表者といえども、内閣総理大臣や内閣の閣僚に就任した途端に、主権者たる天皇の代理人になってしまうのである。これが大正デモクラシーなるものの実体であった。戦前の日本の政党政治は、「デモクラシー」の「化けの皮」をかぶった似非デモクラシーに過ぎなかったのである。
戦前の政党政治の「化けの皮」が剥がされたのが、いわゆる統帥権干犯問題である。
1921年から1922年にかけて開かれたワシントン会議の中で海軍軍縮条約が調印された。これによって主要国は各国の主力艦を制限することになったが、補助艦については制限がなかったため、各国は争って補助艦の建造を行うようになった。そこで1930年1月21日から補助艦の制限をするための軍縮会議がロンドンで開かれた。日本の浜口内閣は、このロンドン軍縮会議に若槻礼次郎を全権代表とする代表団を送った。そして4月22日に調印された軍縮条約によって、日本は補助艦の量を対アメリカ比で69.75%に制限されることが決定した。浜口雄幸総理大臣は、国際協調と財政の逼迫を理由に、これを受け入れることを主張した。
ところが海軍や野党勢力などが、これに猛反対した。海軍は、大型巡洋艦で最低でも対アメリカ比70%は無ければ国防上安心できないと主張した。そして議会内の野党勢力では、1930年4月25日に政友会の鳩山一郎が「政府が海軍軍令部の国防計画を無視して軍縮条約を結んだのは、天皇の統帥権を干犯するものである。」と発言し、浜口内閣を攻撃した。これをきっかけに、いわゆる統帥権干犯論争が起こる。そして6月には、統帥権干犯を批判して加藤寛治海軍軍令部長が辞意を表明する。そして浜口総理大臣は、11月14日、統帥権干犯反対を唱える右翼結社の青年によって狙撃され重傷を負ってしまう。
「デモクラシー」の理念は、国民の自由な意志による政治の運営である。従って、戦前の日本に「デモクラシー」を実現させようと言うのなら、天皇や官僚、あるいは軍人といった、国民の意志では動かし難い者の政治的権限は制限し、政党内閣が政治の実権を掌握しなければならない。特に、最高指導者として強大な権限を持つ天皇は、可能な限り無力化しなければならない。ところが、政友会の鳩山一郎などの政治家達は、天皇の強大な権限の一つである統帥権を口実にして政党内閣の権限を制限しようとしたのである。それが統帥権干犯問題なのである。これは明らかに「デモクラシー」に逆行する行為である。統帥権干犯問題なるものが戦前の日本で起こった根本的な理由は、日本の社会には啓蒙主義と、それに基づく主権在民という考えが根を下ろしていなかったからである。主権在民という考えが定着している国では、政党の代表者によって構成されている内閣は国民の代表である。従って、軍部や官僚が、政党の代表者によって構成されている内閣をないがしろにするのは、国民の主権を踏みにじる行為であり、国民の怒りを招くことになる。しかし日本のように主権在民という考えが定着していない国では、いくら政党の代表者によって構成されている内閣が軍部などにないがしろにされても国民は一向に平気なのである。なぜなら主権在民という考えが無い国で、いくら公正な選挙を行ったとしても、選ばれた政治家は決して国家・国民の代表ではないからである。戦前の日本人や政治家に主権在民という考えがあったなら、国民の代表であるはずの政党の代表者によって構成されている内閣の力が、軍の統帥権に及ばないなどという考えが出てくるはずが無いし、出て来ても誰も支持しないはずである。つまり統帥権干犯問題が意味することは、戦前の日本人は、結局、誰も政党政治や主権在民といった考えを支持していなかったどころか、理解もしていなかったということである。
勿論、陸海軍の統帥権が天皇にあることは、大日本帝国憲法に明確に記されている。しかし、「デモクラシー」の考え方からすれば、陸海軍の統帥権が天皇にあることが理由で、内閣や議会が国防計画に対して一切の口出しができないと言うのであれば、大日本帝国憲法を改正するしかなかったことになる。そもそも「デモクラシー」とは、近代国家の理論である社会契約説の考え方を前提にして成り立つ体制である。社会契約説の考え方からすれば、憲法といえども、人間の自由な意志によって作られた法律の一つに過ぎないのである。ところが戦前の日本では、天皇以外の者が憲法改正を口にしてはならないとされていたため、憲法改正は事実上不可能だった。大日本帝国憲法の改正が不可能だったということは、すなわち、戦前の日本は、「デモクラシー」以前に近代国家ではなかったということになるのである。国民とその代表である議会が、国民の権利と利益のために自由に憲法改正ができないようでは、「デモクラシー」とは言えないのである。
統帥権干犯問題や1931年9月に始まった満州事変などをきっかけに軍部の発言力が増大し、やがて議会政党に代わって政治の主導権を握るようになり、国民もそれを容認してしまった。一体、戦前の日本国民は、いかなる理由で軍部が政治の主導権を握ることを許してしまったのか。
政党政治が確立された国では、国民の代表とは主権者である国民によって選挙で選ばれた議会政治家や最高指導者のことを言う。ところが主権在民という考えが存在しない戦前の日本では、選挙で選ばれた議会政治家といえども、必ずしも国民の代表とは言えないのである。つまり、国民の代表であるかないかということは、選挙で選ばれた人間であるかないかということとは関係無いのである。すなわち、戦前の日本人にとっての国民の代表とは、国民の利益になることをしてくれる者のことである。国民の利益になることさえしてくれるなら、国民の代表が議会政治家であろうと官僚であろうと軍人であろうと薩長藩閥であろうと一向にかまわないのである。従って、戦前の日本人にとっては、選挙で選ばれた議会政治家といえども、官僚や軍人や藩閥と並ぶ、国民の代表になり得る諸勢力の一つに過ぎなかったのである。
大正デモクラシーの頃、議会政党は国民の支持を得て発言力が大きくなり、政治の主導権を握った。ところが昭和になると状況が変わってしまう。1929年のアメリカに始まる世界恐慌は、当時の日本経済にも大きな影響を与え、昭和恐慌と呼ばれる経済不況を引き起こして国民生活を苦しめていた。この経済不況に対して、政党内閣である浜口内閣は経済政策に失敗したため、国民の政党政治に対する不信感が増大していった。これに加えて、度重なる政治家のスキャンダルや汚職事件の発覚が、国民の政党政治に対する不信感を更に増大させていった。一方、これに対して軍部は、日清・日露の両戦争において日本に勝利をもたらし、しかも昭和の時代に入ると無能で無責任な議会政党を尻目に、満州事変などの国家・国民のための「積極的な」行動を行っていると国民から思われるようになった。そのため、当時の国民は、議会政党ではなく軍部こそ国民の代表としてふさわしいと考えるようになってしまったのである。その結果、戦前の国民は、軍部の台頭を許してしまったのである。つまり、大正デモクラシーの頃、国民が政党政治を支持したのは、あくまで、国民の生活を守ってくれるなら支持する、あるいは、国民の利益になる政治をしてくれるなら支持するといったような条件付きの支持だったのである。ところが昭和になると国民は、議会政党はスキャンダルや汚職事件を起こすばかりで、経済不況に苦しむ国民のことなど少しも考えていないと思うようになってしまった。つまり、国民は、政党政治を支持する条件が満たされなくなったと思うようになってしまったのである。その結果、政党政治は国民の支持を失い、見放されてしまったのである。
これに対して、主権在民という考えが定着した国では、このようなことはあり得ない。選挙で選ばれた政治家や政党が、どんなに無能であっても、いくらスキャンダルや汚職事件を起こしても、選挙で選ばれた以上は国民の代表である。一方、国民の目から見ていかに有能で清潔に見えても、選挙で選ばれてはいない軍人や官僚に国民を代表する資格は無いのである。国民が政治家や政党の無能や腐敗が気に入らないのなら、次の選挙で政治家を落選させたり、政党の議席数を減らしたりするしかないのである。つまり、主権在民という考えが定着した国の国民は、特定の政治家や政党を支持するのをやめることはあっても、政党政治という議会政党が政治の主導権を握る体制そのものは無条件で支持するのである。戦前の日本人のように政党政治を条件付きで支持するようなことは、支持ではないのである。なぜなら、条件付きで支持された政党政治は、政治状況によっては、国民の支持を失い、政治の主導権を国民の代表ではない者達に奪われかねない不安定なものだからである。戦前の日本の政党政治とは、このようなものだったのである。
戦前の日本では、政治の中心は、現人神にして最高指導者である天皇であり、その天皇を補佐する政治勢力が、薩長藩閥から議会政党、そして軍部へと入れ替わったのである。これに対して、「デモクラシー」の国では、政治の中心は、あくまで選挙で選ばれた議会政党や最高指導者であり、軍人や官僚が政治を主導することなど、あり得ないのである。だから、戦前の日本には「デモクラシー」など存在しなかったと断言できるのである。
マッカーサーと戦後の日本
実は、日本国民に主権在民という考えが無いのは戦前も戦後も同じことなのである。戦後民主主義なるものは、欧米人の言う民主主義とは似ても似つかぬ代物なのである。
一般的には、第二次世界大戦に敗れた軍国主義の日本は、マッカーサーによる民主改革の結果、議会制民主主義の国家として生まれ変わったということになっている。しかし、私は、この点について大いに疑問を持っているのである。果たして、マッカーサーが本当に日本に民主主義をもたらしたのか。そして、そもそも日本人にとってマッカーサーとは何だったのか。考えてみる必要がある。
1945年8月15日、玉音放送によって、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏する決断をしたことが明らかになった。そして8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、コーンパイプをくわえて厚木基地に降り立った。9月2日に日本政府の代表者達は、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に署名する。ここに第二次世界大戦は、日本の降伏によって停戦した。そしてマッカーサーとGHQ(連合国最高司令官総司令部)による日本の占領統治が始まった。
1945年10月11日、マッカーサーは、婦人の解放、労働組合の保証、教育の自由化、圧制的な制度の廃止、経済の民主化を名目とした、いわゆる五大改革指令を出し、日本の政治・社会の改革に着手した。そして財閥解体、旧帝国陸海軍の廃止、政治犯の釈放、戦争責任者の逮捕、神道指令などを次々に実行した。
翌年の1946年2月になると、戦争にかかわった者に対する公職追放が行われ、5月からは、いわゆるA級戦犯に対する極東国際軍事裁判が始まる。更に11月3日には新憲法が公布される。1946年2月から第一次農地改革、1947年3月から1950年7月にかけて第二次農地改革が行われ、日本のほとんどの小作人が自作農になった。このようにマッカーサーは、矢継ぎ早に改革を押し進めていった。
しかし、不思議なのは、このようなマッカーサーによる急速な改革に対して、ほとんど反対の声が挙がらなかったことである。公職追放による弾圧を受けている指導者層は別にして、一般国民やジャーナリズムからは、何の反対の声も起こらなかったのは実に不思議である。なぜなら、このような急速な改革に対しては、批判や不満の声が挙がるのが普通だからである。明治維新の時は、明治新政府の急進的な改革に対する不満から、佐賀の乱、神風連の乱、そして西南戦争といった反乱が起こった。戦後でも中曽根内閣による行政改革に対して様々な「各論反対」の抵抗があった。そして、小泉内閣の構造改革に対しても「抵抗勢力」による抵抗が起こった。ところがどういうわけか、マッカーサーの急進的な改革に対しては、不満の声も抵抗も起こらなかったのである。
更に不思議なことがある。マッカーサーは「民主的な」改革を押し進める一方で、1945年9月19日には「日本に与える新聞紙規定」いわゆるプレス・コードを示し、占領軍に対する批判を制限し、更に22日にはラジオ・コードも出された。そして10月からは、あらゆる出版物に対する検閲を始める。これは明確な言論統制であり民主化に反するものである。マッカーサーの改革が日本を民主主義国家にするための改革だとしたら、明らかに矛盾である。ところが、これに対して日本のジャーナリズムは何の抵抗も反対もしていない。
それどころか、多くの日本国民やジャーナリズムは、マッカーサーのことを、日本に民主主義をもたらした解放者だの恩人だのと手放しで賛美したのである。そして国会は、1951年4月16日に「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行う。そしてマッカーサーがトルーマン大統領に解任され帰国する時には、二十万人もの日本人が見送った。
マッカーサーの改革が日本人に支持されているのは、マッカーサーの改革が理想的なものだったからだと言っている人達がいる。しかし、マッカーサーの政策や改革をよく検討してみると、農地改革以外は、ほとんどが失策や中途半端なものに終わっていることが分かるのである。
マッカーサーは、政治犯を釈放すると言って獄中の共産党員を釈放した。ところが本国アメリカでマッカーシー上院議員を中心とした人達による「赤狩り」が始まり、更に朝鮮戦争が勃発すると、一転して共産主義者に対する弾圧や公共機関からの追放を断行したのである。
労働組合運動を育てる目的で、マッカーサーの指示で1945年に労働組合法が制定された。ところがこれを契機に様々な職場で労働組合が結成されストライキが頻発し、やがて労働組合運動は、マッカーサーの予想を越えて過激化していった。そして遂に、共産党の指導で結成された全官公庁労組共同闘争委員会(共闘)はゼネラル・ストライキの決行を目指して行動し始める。共産党も共闘も、マッカーサーを解放者と考え、ゼネラル・ストライキを支持すると考えていたのである。しかし、これに対してマッカーサーは、1947年2月1日に予定されていたゼネラル・ストライキに対して中止の命令を出した。マッカーサーは決して解放者なんぞではなかったのである。
軍国主義の廃止・非軍事化の名の下に、マッカーサーは旧帝国陸海軍を廃止し、戦争放棄を定めた日本国憲法を制定した。ところが1948年に始まるソビエトによるベルリン封鎖や1949年10月に中国に共産党政権が成立したことなどによる共産主義の脅威の増大を受けて、マッカーサーは1950年1月1日の年頭の辞で、日本国憲法は自衛権を否定していないと発言するに至る。やがて朝鮮戦争が勃発すると、韓国を助けるために朝鮮半島へアメリカ軍を出動させざるを得なくなり、その結果マッカーサーは、日本の防衛に生じた空白を埋めるために1950年7月に警察予備隊を創設する命令を日本政府に対して出さざるを得なくなった。こうして一度日本の軍事力を廃止したマッカーサーは、自らの手で日本の再軍備を行う羽目になってしまったのである。
マッカーサーは、教育の民主化と称して、日本の教育制度を改革した。そして教育勅語の廃止、六・三・三・四制の導入などを行った。マッカーサーの教育改革の理念とされたのが教育の自由化や生徒の個性の尊重であった。ところが戦後の教育改革論議で常に叫ばれていたのが、まさに教育の自由化や生徒の個性の尊重なのである。もし、マッカーサーの教育改革が成功していたならば、戦後何十年たっても教育の自由化や個性の尊重などと叫び続ける必要は無かったはずである。
マッカーサーは、三井・三菱を始めとした財閥こそ日本軍国主義の基盤であったと考え、財閥解体を断行した。しかし財閥解体は、アメリカ本国の財界や政界の反対の声もあったことから不徹底な改革に終わってしまった。その結果、財閥は企業系列という形で復活してしまった。更に、財閥解体には、独占を排除することによって企業の自由な競争を促進するという目的もあったが、結果として全く逆のことが起こってしまった。経済官僚によって、経済の復興を理由に傾斜生産方式のような経済統制が行われ、官僚による経済統制が強化されていった。その結果、「日本株式会社」などと言われるほど、官僚による経済統制が強化されてしまったのである。解体された財閥は企業系列という形で復活したが、企業系列は、もはや官僚統制に従う「日本株式会社」の一部でしかなかった。
このように、マッカーサーの改革は、賛美できるようなものではないのである。
マッカーサーと日本国憲法
一体、日本人にとってマッカーサーとはいかなる存在なのか。この疑問は、日本の憲法について考えてみれば理解できるのである。
日本人の憲法に対する意識や考え方は異常である。日本人の憲法論争は、神学論争などと言われている。憲法は国家の基本法である。しかし、法律の一種であることには変わりが無い。法律ならば法律としての論争をすべきである。すなわち、国民の利益のためにはどのような政策を行うべきか。そして、その政策を実行するためには憲法を含めた法制度は今のままでよいのか。よくないとしたらどのような内容に改正すべきなのか。ざっとこのような論争が行われて然るべきである。
ところが日本人の政策論争は、憲法にぶつかると途端に奇妙な議論になってしまう。政策が憲法に抵触しそうになると、これは憲法上不可能だとか言って、思考が停止してしまうのである。
日本では、1947年5月3日に日本国憲法が施行されて以来、一度も改正されたことが無かった。そして、護憲論者と呼ばれる人達は、憲法改正について公の場で論ずることをタブー視したがる。日本国憲法の施行以来、自由な言論の府であるはずの国会で、憲法改正の議論をすることが長い間できなかった。2000年1月に、国会内に憲法についての議論をするための憲法調査会が設置されたが、これを作ろうとした時も、一部の野党から「憲法改正の恐れがある。」などと言われて危険視された。一体どうして憲法改正を「恐れ」なければいけないのか。日本人の憲法に対する考え方は、なんとも奇怪なものであると言わざるを得ない。
日本で憲法が改正できないのは、日本国憲法の改正条項が原因だと言っている人達が居る。衆参両院の三分の二の決議と国民投票の過半数の支持がなければ改正できないというのでは、事実上憲法改正は不可能だと言うのである。しかし現実は、日本国憲法が施行されて以来、国会での憲法改正の決議どころか、議論さえ行われたことが無いのである。大臣が憲法改正に関する発言をしただけで政治問題になるような有様である。このような状況では、仮に憲法が通常の法律と同じ手続きで改正できるものであったとしても、改正は不可能である。
日本人の憲法に対する態度は、どう考えても普通の国とは違う。世界中どこの国でも憲法は普通の法律と同様に議論されているし、憲法改正も何度も行われている。これはアメリカやドイツのような法治国家は勿論のこと、旧ソビエトや中国のような人治国家さえ同じことである。憲法の扱いに法治国家も人治国家も関係無いのである。
このように、日本人の憲法を扱う感覚は異常としか言いようがないのである。この日本人の異常な憲法感覚の正体は何か。そもそも、マッカーサーによる日本国憲法の制定以降、どうして今まで憲法改正ができなかったのか。この点について考えてみたい。
最初の日本の憲法である大日本帝国憲法は、伊藤博文や井上毅らがドイツの憲法を参考に草案を作り、1889年に明治天皇の名で発布された。ところが、この大日本帝国憲法は、第二次世界大戦の敗戦後の1946年まで五十七年間にわたり一度も改正されたことが無かった。しかし、改正されたことが無かったと言っても、大日本帝国憲法を運営する上で何の問題も無かったわけではない。
戦前の日本では、統帥権干犯問題が起きてから、軍部は憲法に定められた天皇の統帥権を盾にとって内閣や議会の軍に対する介入を拒否するようになってしまった。これが戦前の日本の議会政党が政治の主導権を失った一因であることは言うまでも無い。しかし、これに対して誰一人として、天皇の統帥権を定めた憲法の条項を改正しようとは考えなかった。一部の言論人は、戦前の日本で統帥権干犯問題が起きたのは、大日本帝国憲法に欠陥があったからだと言っている。大日本帝国憲法は、軍に関しては「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明確に記しているのに、内閣総理大臣と、その権限に関することについては何も記していないからだと言うのである。しかし、仮に統帥権干犯問題の原因が大日本帝国憲法の欠陥にあったのだとしても、憲法に欠陥があったこと自体が問題だと考えるべきではない。なぜなら、憲法に何らかの欠陥があったなら、改正すればよかったからである。つまり、憲法の欠陥のある個所を改正することができなかったことこそ問題にすべきなのである。なぜなら、憲法を含めたあらゆる法律や制度は、政治や社会の情勢の変化とにともない、実状に合わないものになってしまうのは、やむを得ないからである。いかに先見の明がある人間や天才であろうと、五十年も百年もの将来を予測し、いかなる事態が生じても適切に対処できる法律や制度を作るのは不可能である。従って、いかなる法律や制度も、時代や社会の変化と共に常に見直しを続け、問題が生じたら、その度に作り替えていくしかないのである。法律や制度とは、そういうものである。
また、憲法学者の美濃部達吉は、いわゆる天皇機関説を唱え、憲法解釈によって政党政治を正当化しようとした。美濃部達吉は、大日本帝国憲法に記された天皇と統治権に関する記述を 「統治権は法人たる国家に属し、天皇は法人たる国家の最高機関として、内閣などの機関から輔弼を受けながら国家人民のために統治権を行使する。」 と解釈した。この美濃部達吉の憲法解釈は、大正デモクラシーの時期には学界や官界での憲法解釈の主流となり、政党政治を理論的に支えていた。しかし1934年に天皇機関説は、これに反対する政治家や軍部によって排撃され、翌年の1935年には美濃部達吉は不敬罪で告訴され、貴族院議員の辞職に追い込まれてしまう。そして時の岡田内閣は国体明徴声明を出し、統治権は天皇にあることを明確にして美濃部達吉の憲法解釈を否定した。一体なぜ、美濃部達吉を始めとした当時の憲法学者達は、憲法解釈ではなく、憲法改正による政党政治の正当化を考えようとしなかったのか。
大日本帝国憲法が改正されなかった直接の理由は、憲法改正は天皇だけの権限であって、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはいけないと多くの日本人が考えていたからである。大日本帝国憲法の憲法発布勅語には、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」 「将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宣ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ粉更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」 とある。この文言は、解釈の仕方によっては、大日本帝国憲法は完全無欠なものであり改正の必要は全く無く、仮に改正の必要があるとしても、それは天皇だけの権限であると受け取ることもできる。
しかし、いかなる理由であろうと、憲法改正を禁止するような考えは近代国家の否定である。近代国家の原点である社会契約説によれば、国家は人間の自由な意志に基づく契約によって成立したものである。従って、国家は人間の自由な意志による契約をやり直すことによって変更できることになっている。ところが、戦前の日本人にはこのような考え方は全く理解できなかったのである。戦前の日本人の考え方によれば、国家は現人神たる天皇によって作られた神聖不可侵なものであり、これを国民の意志によって作り替えるなど、現人神たる天皇を冒涜する行為であり、断じて許されないということになるのである。本来、憲法は国家のあり方を定めた基本法である。ところが、戦前の日本人の考えでは、国家のあり方は、現人神たる天皇によってのみ決定されるものである。そのため、大日本帝国憲法は、現人神たる天皇の作った神聖不可侵な教典ということになってしまったのである。要するに、戦前の日本人は、大日本帝国憲法を一神教の教典と同じ感覚で理解していたのである。つまり、天皇がキリストやアッラーのような一神教の神であって、大日本帝国憲法がバイブルやコーランのような教典だったということである。こうして大日本帝国憲法は、軍人勅諭や教育勅語と同じく、神聖不可侵な天皇教の教典になってしまったのである。
宗教の教典の中身を変更できるのは神のみである。そのため、戦前の日本で神聖な教典と化した大日本帝国憲法を改正する権限を持つのは、現人神たる天皇のみということになってしまったのである。天皇教の教典と化した大日本帝国憲法を国民の意志によって改正する行為は、戦前の日本人にとって現人神たる天皇を冒涜する行為に他ならなかった。従って、大日本帝国憲法下の日本では、ほとんどの者が憲法改正など恐ろしくて口にも出せなかったのである。そのため、天皇が自ら改正を口にしない限り、憲法改正はできなくなってしまったのである。このため、キリスト教徒やイスラム教徒にバイブルやコーランの改正が不可能であるのと同様に、戦前の日本人にとって大日本帝国憲法の改正は、事実上不可能だったのである。これが戦前の日本で憲法改正ができなかった根本的な理由である。要するに、戦前の日本で憲法改正ができなかったのは、日本が天皇を神とする一神教の宗教国家であって、近代国家ではなかったからである。
ところが天皇以外は手を触れることが許されなかった神聖不可侵な大日本帝国憲法が、アメリカ軍の占領下でマッカーサーによって改正されてしまった。そしてマッカーサーが去った後は、誰にも日本国憲法を改正することができなくなってしまった。もし、アメリカ軍の占領下で憲法改正が可能だったのが、日本が近代国家になった結果だったとしたら、アメリカ軍の占領が形式的に終わった後の日本でも憲法改正が可能だったはずである。
特に憲法九条は改正されて然るべきである。憲法九条を普通に読めば、軍備の保有も交戦権も否定しているとしか読めない。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と明確に記している。常識的に考えれば自衛隊の存在は憲法九条と矛盾する。国家の安全保障を本気で考えるならば、当然改正を検討すべきである。日本が近代国家になっているなら、憲法といえども国民の自由な意志の上に存在する法制度の一つに過ぎないはずである。たとえ改正にまで至らなかったとしても、国会で憲法改正のための議論ぐらいは為されて当然である。国会で憲法に関する論議は何度も行われたことはあるが、いずれも憲法の解釈を巡る議論であって、改正のための議論ではない。自ら改憲論者と言っていた中曽根総理大臣でさえ、自分の在任中は憲法改正を行わないと言う有様であった。
日本国憲法が改正できなかった理由の一つに、護憲論者の存在がある。戦後の日本の社会で護憲論者が大きな発言力を持ち、国民や政治に多大な影響を与えていた。しかし、護憲論者の発言を聞いていると、国家や憲法といった制度は人間の自由な意志によって作られたものだという近代的な感覚が欠如していることが分かるのである。
護憲論者は、自分達が憲法改正に反対するのは、平和主義の理念を守るためだと言っている。ところが、現実は、自衛隊や日米安保体制といった護憲論者にとって憲法違反なものが、戦後の保守政権によって長い間維持されて来たのである。これらは、いわゆる解釈改憲によって正当化されているものである。そこで、平和主義者の中には、憲法九条を解釈改憲ができないような厳格なものに改正しようという意見もある。ところが護憲論者は、これに反対しているのである。つまり、護憲論者には、日本国憲法が自分達の言う平和主義の理念を守る手段として最適なものなのかどうかを検討して見ようという考えが無いのである。なぜなら、護憲論者の言うには、日本国憲法は完全無欠なものだということになっているからである。しかし、そもそも人間の作ったものは、法律にしろ、制度にしろ、技術にしろ、工業製品にしろ、完全無欠なものなどあり得ない。たとえ一見して完全無欠に見えたとしても、どこかに誤りや欠陥があるかもしれないのである。また、それが最初に作られた時には問題が無くても、時代が変われば問題が生じるかもしれないのである。だから人間の作ったあらゆるものは、常に見直しを続け、問題や欠陥が見つかり次第、直ちに作り直したり修正したりすることを繰り返さなければならないのである。これが近代的な考えである。もし、誤りも欠陥も全く無く、永久に作り直したり修正したりする必要が無いと考えられているものがあるとすれば、それは全知全能の神が作った神聖不可侵なものだと考えられているのと同じである。
また、平和主義の理念を守るために憲法改正に反対するのなら、平和主義の理念を記した前文と九条以外の条項の改正には反対する理由は無いはずである。ところが護憲論者は、前文と九条以外の条項の改正にも反対しているのである。その理由として護憲論者が言っているのは、前文と九条以外の条項といえども、一度改正されてしまえば、それが前例となり、結局、前文と九条も改正されてしまうからだと言うのである。つまり、護憲論者が目指すのは、憲法は改正できないものだという考えを国民に植え付けることによって、日本国憲法を国民の自由な意志で改正できないものにしようということなのである。これは明らかに、国家や憲法といった制度は人間の自由な意志によって作られたものだという近代的な考えを否定するものである。
普通、憲法改正に反対する場合は、誰かが作って提出した憲法改正案に対して反対するものである。ところが護憲論者は、憲法改正案が提出されているかいないかにかかわらず反対を続けているのである。つまり、護憲論者は、憲法改正という行為そのものに反対しているのである。要するに、護憲論者は、憲法とは一度作ってしまったら二度と改正してはいけないものだと言っているのである。護憲論者には、憲法は人間の自由な意志によって作られた制度だという近代的な感覚が無いのは明らかである。そして、改正論議をタブー視し、解釈を巡る論争のみを許すと言うのだから、護憲論者が日本国憲法を扱う感覚は、法律ではなく、バイブルやコーランのような宗教の教典としか考えようがないのである。
結局、護憲論者の言っていることは、日本国憲法は、神の作った経典の如く神聖不可侵であり、人間には手出しできないものだということである。そして、この考えは、第二次世界大戦後の長い間、大多数の日本国民や政治家に大きな影響を与えていた。その結果、憲法改正ができなかったのである。
要するに、戦後の日本国憲法も戦前の大日本帝国憲法と同じく、神聖不可侵な教典と化してしまっているのである。日本国憲法を宗教の教典という感覚でとらえている多くの日本人は、たとえ憲法の条文を一字一句改正するだけでも、或いは改正を考えるだけでも「平和憲法」の否定であり、戦後民主主義の否定だと思い込んでしまうのである。つまり戦後の日本人の憲法に対する感覚は、戦前と全く変わっていないのである。憲法の中身は変わっても、神の作った教典という戦前の大日本帝国憲法の性格は、そのまま戦後の日本国憲法に受け継がれてしまったのである。しかし、そうすると第二次世界大戦後でも、現人神たる天皇以外には憲法改正の権限が無いことになってしまう。ところが現実は、マッカーサーによって大日本帝国憲法は改正されてしまった。一体どうして天皇しかできないはずの憲法改正がマッカーサーに可能だったのか。
このことを考えるためには、日本国憲法制定の過程を見てみる必要がある。
マッカーサーの日本に対する占領政策の目的は、日本を二度とアメリカの軍事的脅威にならない国にすることであった。そこで、日本が軍事大国になれないように国家体制を作り替えなければならなかった。そのためには大日本帝国憲法の改正が必要であるとマッカーサーは考えた。
そこでマッカーサーは、当時の幣原内閣に対して憲法改正を要求した。ところが当時の日本政府の指導者達の考えは、大日本帝国憲法そのものには一切の誤りはなく、日本が敗戦に至る結果になったのは憲法の運営が間違っていたに過ぎないというものであった。従って、幣原内閣としては、憲法改正の必要は全く無いと考えていたのである。しかし、当時の日本政府には、占領軍の司令官として絶対的な権限を持つマッカーサーに抵抗する力は無かった。そこで幣原内閣は、仕方なく渋々と松本烝治国務大臣を委員長とする憲法改正のための調査会、いわゆる松本委員会を発足させた。その結果、松本委員会は憲法改正案の骨子をとりまとめたが、この松本案は、大日本帝国憲法の内容を根本的に変更するものではなかった。要するに、当時の日本政府の首脳達には、大日本帝国憲法下の天皇制国家と異なる国家体制など全く考えられなかったのである。これに対してマッカーサーは、GHQ独自の憲法改正案を作ることを思いついた。そこでマッカーサーは、ホイットニー、ケーディス、ハッシーといった部下達に命じて、憲法改正草案を極秘の内に作らせたのである。そして1946年2月13日に、GHQ独自の憲法改正草案が日本政府の首脳に示された。このマッカーサーの命令によって作られたGHQ独自の憲法改正案に対して、日本政府の首脳達は、ほとんど抵抗することができなかった。衆議院による憲法の審議の結果、多少の修正は為されたが、ほとんどGHQが作った草案通りの憲法ができあがってしまったのである。
大日本帝国憲法の改正は、マッカーサーが命令しない限り誰も行おうとはしなかった。大日本帝国憲法の改正は、マッカーサーのカリスマの力によって日本政府の要人を含めた多くの日本人の意識が変わってしまった結果、可能になったのである。勿論、日本国憲法の成立には、軍事力を背景にしたマッカーサーの強大な権力による強制があったということも事実である。しかし、日本国憲法がマッカーサーの強大な権力による強制によってのみ成立したならば、このような一方的な力の行使に対して国民の反発が起こってしかるべきである。民主主義国家では主権者ということになっている国民のみならず、政府や議会さえも知らない所で、しかも国民の代表とは言えないGHQによって国家の基本法である憲法の草案が作られたのである。そして、憲法草案が衆議院によって審査され、多少の修正がされたと言っても、これにかかわっている国会議員達は、常に、新憲法がマッカーサーとGHQの意向に反するものにならないように配慮していなければならなかった。この日本国憲法制定の全ての過程が国民に明らかになったのは、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が形式的に独立した後のことである。ところが日本国民は、議会制民主主義の理論からすれば、国民不在としか言いようのない憲法制定の過程を知っても、自分達の主権者としての立場が無視されていたことに怒りを表明したり、新たな国民自身による憲法の制定を政府に要求したりするといったことは全く行わなかったのである。つまり日本国民は、占領軍の司令官に過ぎないマッカーサーの主導によって、それも一般国民どころか日本政府の要人達さえ全く知らない内に憲法改正草案が作られたことを知っても、誰も新憲法の正当性に疑問を持たなかったのである。しかもマッカーサーによる憲法制定以降、日本国憲法の内容に異議を唱えたり、改正の必要を主張したりする勢力が、国政の場においても一般国民の間でも、大きな発言力を持つことは戦後の長い間無かったのである。つまり日本国憲法の制定は、マッカーサーによって決定され、日本政府も日本国民も、そのマッカーサーの決定をそのまま自分達の意志として受け入れてしまったということである。それどころか戦後の日本では、マッカーサーによって制定された日本国憲法を、あたかも神が作った宗教の教典の如く神聖不可侵なものとして崇める護憲論者が幅を利かせるようになり、事実上憲法改正は不可能になってしまったのである。これらの出来事は、戦前の大日本帝国憲法が明治天皇の名によって制定されて以来、改正ができなかったことと全く同じである。
護憲論者は、日本国憲法が二十一世紀の世界にも通用すると主張している。しかし、これは言い換えれば、マッカーサーは二十一世紀の世界がどのような状況になるのかを完璧に予見し、二十一世紀の世界で起こり得るあらゆる状況に対応できる憲法を作ったということになってしまうのである。普通の人間には五年先や十年先を予見することさえ困難である。二十年も三十年も先のことを予見することができる者がいるとすれば、よほどの天才である。ましてや日本国憲法が作られた1946年の時点で、百年以上先の世界の状況をマッカーサーが完璧に予見していたとすれば、それはまさに神の為せる業であったと言わざるを得ないのである。つまり、マッカーサーが二十一世紀の世界に通用する憲法を作ったとすれば、それはマッカーサーが全知全能の神に匹敵する能力を持っていたことになってしまうのである。要するに、護憲論者の主張は、マッカーサーの神格化に他ならないのである。勿論、護憲論者自身には、マッカーサーを神格化しているという認識は無いだろう。護憲論者は、日本国憲法を崇拝しながら、無意識の内にマッカーサーを神として崇拝しているのである。
日本人にとって憲法は神が作った宗教の教典であることは、戦前も戦後も同じことである。そして宗教の教典を改めることができるのは神のみである。従って、日本の憲法を改正できる者がいるとすれば、それは現人神ということになるのである。つまり、マッカーサーに憲法改正ができたということは、マッカーサーも天皇と同様の現人神だったからだと考えざるを得ないのである。言い換えれば、宗教の経典を作るのが神である以上、日本国憲法を宗教の経典として崇めれば、必然的に日本国憲法を作ったマッカーサーを神に祭り上げざるを得なくなるのである。要するに、マッカーサーは、実質的な天皇だったのである。このことが意味するのは、第二次世界大戦後の日本人は、依然として現人神信仰の伝統を失ってはいないということである。護憲論者とは、まさに現人神信仰の伝統の産物なのである。
戦後民主主義とは何か
第二次世界大戦後の日本の一般的な歴史観によれば、戦後の日本は、マッカーサーの改革によって議会制民主主義の国になったということになっている。しかし、議会制民主主義の国では、主権者ということになっている国民によって選挙で選ばれた政治家のみが国民の代表である。そして選挙で選ばれた国民の代表である政治家によって、国民の目に見える公開の場で議会制民主主義のルールに従った意志決定が行なわれて、初めて民主的な手続きと言えるのである。たとえ公正な選挙で選ばれた政治家といえども、国民には見えない密室で意志決定を行うのは、議会制民主主義のルールに反するのである。小渕総理大臣が脳梗塞で倒れた後、森喜郎が内閣総理大臣に決定された時、或るアメリカのジャーナリストが、内閣総理大臣の決定の過程が不透明であることを理由に、日本に民主主義は存在しないと断言したのがよい例である。日本国憲法の草案は、日本国民から選挙で選ばれてはいない人達が、しかも国民が全く知らない内に密室で作ったものである。従って、議会制民主主義の原則からすれば、マッカーサーの作った憲法に政治的な正当性など全く無いのである。言い換えれば、マッカーサーが作った憲法を正統な憲法と認めることは、選挙で選ばれていないマッカーサーを日本の正統な国民の代表と認めるのと同じことである。これは明らかに議会制民主主義を否定する行為である。日本国民に主権在民という考えがあったなら、このようなことは絶対にあり得ないはずである。
2007年5月14日に参議院本会議で憲法改正のための国民投票法案が可決された。ここに憲法改正のための国民投票法が成立した。法憲改正について定めた憲法九十六条よると、日本国憲法の改正は、衆議院と参議院の両院で議員総数の三分の二以上の賛成があって国会が発議し、国民投票を行い、過半数の賛成を得てなされるということになっている。国民投票法の制定によって、憲法九十六条に示されている憲法改正の是非を問う国民投票の具体的な手続きが定められ、更に、憲法九十六条の言う国民投票の過半数の賛成とは、有効投票数の過半数の賛成であることが定められた。そして、国民投票法では、衆参両院に憲法改正の原案を作成する権限を持った憲法審査会を設けることになった。これによって、ようやく日本国憲法の改正が法的に可能になったのである。しかし、本来、憲法改正は、憲法によって定められた国民の権利である。日本国憲法の制定から今日に至るまで、国民投票法が制定されなかったということは、その間、国民が憲法を改正する権利の行使が妨害されていたことになるのである。憲法とは、国家のあり方を定めた法律である。従って、憲法改正の権利とは、国民が国家のあり方を決定する権利なのである。
主権在民という考えの始まりである社会契約説によれば、国家は国民の自由な意志によって作られ、政治は国民の自由な意志によって行われることになっている。つまり主権在民とは、国民が政治に参加するだけではなく、国家のあり方まで決定する権利なのである。従って、国民が議会を通じて政治に参加するだけではなく、自由な意志によって国家のあり方まで決定できなければ主権在民とは言えないのである。つまり、日本国憲法の制定以来、2007年に至るまで国民投票法が制定されなかったということは、その間、国民の主権が否定されていたことになるのである。日本の政治家達が国民の主権を認めるなら、国民投票法は、日本国憲法の施行と同時に制定されなければならなかったのである。日本の政治家達は、国民の憲法改正の権利を妨害することによって、主権在民を否定していたのである。このような事態に対して、国民や言論人の中から批判の声がほとんど聞かれなかったのは、まさに、戦後の日本人が主権在民、そして民主主義を理解していない証拠なのである。つまり、戦後民主主義と呼ばれる政治体制には、主権在民という考えが無いのである。
多くの日本人は、議会制度や選挙制度のことを民主主義と言うのだと思い込んでいる。そのため、議会制度や選挙制度を受け入れただけで、民主主義が成立したと思い込んでいるのである。勿論、議会制度や選挙制度というものは、民主主義が成立するために必要な制度ではあるが、主権在民という考えこそ民主主義の根幹である以上、これを受け入れなければ、民主主義を受け入れたことにはならないのである。従って、戦後民主主義とは、本来の民主主義とは全く異なる奇怪な代物だと言わざるを得ないのである。
この奇怪な民主主義の正体は、一体何なのか。結論から言えば、それは形を変えた天皇制である。日本人の無意識の中に存在する国家のあり方は、戦前も戦後も一貫して変わってないのである。それは、日本国民は、現人神によって指導され、現人神によって作られた教典に基づいて統治されるというものである。戦前の日本における現人神は天皇であり、現人神たる天皇によって作られた教典が、軍人勅諭であり、教育勅語であり、大日本帝国憲法である。そして、戦後の日本における現人神はマッカーサーであり、その現人神たるマッカーサーによって作られた教典が日本国憲法なのである。
1946年1月1日、昭和天皇は、いわゆる人間宣言を行い、自ら現人神であることを否定した。その結果、建前では、日本は現人神たる天皇の統治する国ではなくなり、欧米流の議会制民主主義国家に生まれ変わったことになっている。そして国民が天皇に代わって主権者となり、天皇は国家の象徴となったことになっている。ところが日本人は、昭和天皇の人間宣言以降も、現人神が最高指導者であるという考えに変化がなかったのである。つまり、昭和天皇は人間宣言で、天皇が現人神であることは否定したが、日本が現人神の統治する国であるという日本の伝統までは否定できなかったのである。その結果、日本人は、アメリカの一軍人に過ぎないマッカーサーを、新たな最高指導者、そして現人神として受け入れてしまったのである。こうして占領軍の一司令官に過ぎないマッカーサーが実質的な天皇に「即位」してしまったのである。アメリカの占領中にマッカーサーによって行われた改革に対して、日本人が全く抵抗しなかったのは、マッカーサーが事実上の現人神たる天皇であったと考えなければ理解できないことである。更に、日本人がマッカーサーを解放者として迎え入れ賛美したのは、新天皇マッカーサーを崇拝するお祭り騒ぎに、国民を挙げて興じていたということである。
明治維新から第二次世界大戦の敗戦まで七十年以上の間、現人神たる天皇が国家に君臨した結果、日本の社会には、現人神という宗教的権威を持った者が国家を統治する伝統が定着してしまった。その結果、日本人は無意識のうちに、現人神でなければ最高指導者ではないと思い込むようになってしまった。マッカーサーのような外国の軍人でさえ、一度現人神になってしまえば国家の最高指導者なのである。そして、日本の政治家が、憲法に定められた民主的な手続きによって内閣総理大臣に就任しても、現人神ではない以上は最高指導者ではないのである。これも、内閣総理大臣が日本の最高指導者になれない理由である。
天皇制の伝統では、憲法の制定を含めて国家を作る行為は、神のみに許される行為である。そして、神によって作られることによって、初めて国家体制を正当化できるのである。言い換えれば、国家を作った者を神に祭り上げなければ、国家体制を正当化できないということである。そのため、日本人は戦後体制を正当化するためにマッカーサーを神に祭り上げなければならなくなってしまったのである。
内閣総理大臣は現人神ではないのだから最高指導者ではない。現人神の作った教典である憲法は、人間の意志では改正できない。このように、日本の社会に定着した天皇制の伝統は、国民が自由に自分達の最高指導者を選ぶ権利を否定し、国民が自由に国家の基本法である憲法を改正する権利を否定しているのである。つまり、天皇制の伝統は戦後の日本にも存在し、主権在民を否定し続けているのである。戦後民主主義と呼ばれる政治体制は、主権在民を否定する天皇制の伝統の上に成り立っているのである。しかし、主権在民を否定する民主主義などあり得ない。従って、第二次世界大戦後の日本が民主主義国家だなどと考えるのは幻想に過ぎないのである。
1951年4月、マッカーサーは、トルーマン大統領によって連合国最高司令官の地位を解任された。しかし、後任の連合国最高司令官に就任したリッジウェイ中将は、マッカーサーのようなカリスマや強烈な個性を持っていなかったため、現人神になることはなかった。そのため、日本は最高指導者の存在しない欠陥国家になってしまったのである。マッカーサーが実質的な天皇になった理由が、強大な軍事力を率いて日本を軍事占領して実質的な日本の支配者になったというだけのことであったなら、後任の連合国最高司令官に就任したリッジウェイ中将もマッカーサーのような実質的な天皇になっていたはずである。つまり、マッカーサーが実質的な天皇になってしまったのは、日本の天皇制の伝統とマッカーサーのカリスマや強烈な個性が噛み合った結果、偶然に起こった現象なのである。戦後民主主義の成立は、マッカーサーという特異な人物の存在抜きにはあり得なかったのである。
要するに、戦後民主主義とは、マッカーサーが戦前の日本から天皇制の伝統を引き継ぐことによって成立したマッカーサー天皇制なのである。日本国憲法は、現人神と化したマッカーサーが作ったマッカーサー教の教典である。このマッカーサーの作った日本国憲法を教典として崇め、絶対服従するのが戦後民主主義と呼ばれる政治体制の本質である。つまり、戦後民主主義の成立とは、天皇教からマッカーサー教への改宗なのである。戦前の日本が天皇教国家だったのに対して、戦後の日本はマッカーサー教国家である。そして平和主義者や護憲論者とって、マッカーサー教の教えの主たるものは、平和主義である。従って、平和主義者や護憲論者とっての日本国憲法とは、「平和教」の教典なのである。このように、日本の戦後民主主義とは、欧米流の議会制民主主義とは似ても似つかない代物なのである。
かくして日本に、民主主義とは名ばかりの似非民主主義国家が誕生したのである。森総理大臣は、「日本は天皇を中心としている神の国」と言ったが、私に言わせれば戦後の日本は、「マッカーサーを中心としている神の国」なのである。
平和運動と日本国憲法
戦後の日本には、様々な形の平和運動が存在する。戦争の悲惨さを語り継ぎ、二度と戦争の惨禍を繰り返さない運動とか、アメリカ軍や自衛隊の軍事行動や軍事施設に反対する運動などといったものである。これらの運動に参加している人達は、彼らなりの信念や正義感を持って行動していることは確かであろう。しかしながら、現在の世界の政治、あるいは軍事情勢は、平和運動家の信念や正義感が通用するようなものではない。軍事力を一切使わずに国家の安全を守ったり国際紛争を解決したりする方法が無い以上、平和運動家達が目指していることは、単なる絵に描いた餅に過ぎない。国家の安全を守るためにも、国際紛争を解決するためにも、軍事力は必要不可欠である。現実に現在の日本の平和を守っているのはアメリカの軍事力である。そして日本がアメリカの軍事力に依存しなければ国家の安全が守れないのは、マッカーサーが日本を戦争ができない欠陥国家に作り変えてしまったからである。そして、日本を戦争ができない国にすることを正当化するためにマッカーサーが作り上げた理念が平和主義であり、その理念に従って作られたのが日本国憲法である。そして日本国憲法は、戦後の平和運動家の教典となっているのである。
平和主義者や護憲論者が憲法改正を恐れるのは、日本国憲法が、現人神と化したマッカーサーが作った「平和教」の教典だからである。憲法を教典という感覚で理解している平和主義者や護憲論者にとっての憲法改正は、キリスト教徒やイスラム教徒がバイブルやコーランを人間の意志によって改正するのと同じことである。宗教の教典は、それに記された一言一句に至るまで神聖不可侵な神の言葉であり、神の創造物に過ぎない人間が手出ししてはならない神聖なものである。従って、人間の意志による教典の改正とは、教典の権威の否定であり、宗教を全面的に否定することを意味するのである。これと同様に、憲法を教典という感覚で受け入れている平和主義者や護憲論者にとって、憲法に一言一句といえども人間の手を加えることは、日本国憲法の全面否定であり、平和主義や戦後民主主義の消滅を意味するのである。平和主義者や護憲論者達は、理屈ではこのことが分からなくても、感覚的には分かっているのである。そこで憲法改正を恐れるのである。要するに、平和主義者や護憲論者達の言う憲法擁護とは、憲法の持つ宗教的権威を守ることなのである。つまり、日本の平和運動とは、政治運動でも市民運動でもなく、日本国憲法を教典とする「平和教」という宗教の布教活動なのである。
戦後の日本では、この「平和教」は、常に時代の流れに翻弄され続けて来た。それは、平和主義者の掲げる理論が、あまりにも現実離れし過ぎていたからである。その現実離れした理論を、いかにして現実の世界に適合させるかということが、彼らにとって大きな問題だった。
日本の平和主義者の理論は、日本国憲法に始まる。日本国憲法の前文に記されている「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という言葉を、平和主義者達は次のように解釈していた。
「戦争は、世界の全ての人間にとって、憎むべき残虐行為であり、許し難い犯罪行為である。そのため、世界の全ての人間は、平和を愛し、戦争の無い平和な世界を希望している。従って、世界のあらゆる国で、国民の意志が政治に反映されるようになれば、戦争は地球上から根絶され、恒久平和が達成される。」
ところが現実は、人類の歴史が始まって以来、戦争が地球上から無くなったことは一度も無かったのである。このことについて平和主義者達は、次のように説明していた。
「国民がいくら平和を希望していても、特定の国家の指導者が、国民の意志を政治に反映させず、国民の希望を無視して勝手に戦争を起こすのである。このような指導者を政治から排除すれば、戦争の無い平和な世界を希望している国民の意志が政治に反映されるようになり、戦争は根絶され、恒久平和が達成される。たとえば、第二次世界大戦の時は、ドイツやイタリアのファシスト、そして日本の軍国主義者が、国民の意志を政治に反映させず、平和を愛する国民の意志を無視して勝手に戦争を起こした。そして第二次世界大戦の結果、ドイツやイタリアのファシスト、そして日本の軍国主義者は打倒され消滅した。そして、ドイツもイタリアも日本も平和な国になった。」
しかし、「ファシスト」や「軍国主義者」が打倒された第二次世界大戦以降も、それ以前と同様に戦争が地球上から無くなることは無かった。中東戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争といった戦争が依然として続いていたのである。この事態を説明するために、日本の平和主義者達は、共産主義者の主張を取り入れてしまったのである。
「第二次世界大戦の結果、確かにドイツやイタリアのファシストや日本の軍国主義者は打倒され消滅したが、これで国民の意志を無視して勝手に戦争を起こす指導者が、あらゆる国の政治から排除されたわけではなかった。まだ地球上には、国民の意志を無視して勝手に戦争を起こす国家の指導者が存在している。それが、資本主義者である。これに対して共産主義者は、平和な世界の到来を希望する国民の意志を政治に反映させる勢力である。従って、アメリカや日本といった資本主義国家が打倒され、世界が共産主義者によって統一されれば、戦争は根絶され、恒久平和が達成される。」
この理論は、1960年代から70年代前半のベトナム戦争の頃は、多くの日本人から正しいように思われていた。ところが、1970年代の末に起こった共産主義国家ベトナムによるカンボジア侵攻と、その結果明らかになったポル・ポト共産主義政権によるカンボジア国民に対する大量虐殺、更に、共産主義国家ソビエトによるアフガニスタン侵攻によって、この理論は完全に破綻してしまった。平和主義の理論に共産主義者の主張を取り入れてしまったことは日本の平和運動にとって、まさに自殺行為だったのである。これ以降の平和運動家達は、理論抜きで、ただひたすら戦争の残虐さや恐ろしさを国民感情に訴える以外に、平和運動を行う方法が無くなってしまったのである。
そして、日本の平和運動に更なる打撃を与える事態が発生した。1994年6月、日本社会党の村山富市委員長が内閣総理大臣に担がれて自由民主党と連立政権を組んだ。この時、内閣総理大臣となった村山委員長は、それまで永年にわたって日本社会党が掲げていた非武装中立論を廃棄すると同時に、今まで批判し続けて来た日米安保体制と自衛隊を承認してしまった。これによって日本の政界では、平和運動の影響がほとんど消滅してしまったのである。
日本の平和運動に打撃を与える事態は更に続く。それが北朝鮮によって引き起こされた日本人拉致問題やミサイル発射問題、そして核兵器開発問題など、日本の安全保障を脅かす一連の行為である。2002年9月17日、小泉総理大臣は、北朝鮮の首都ピョンヤンを訪れて金正日と会談した。この時、金正日は、日本人拉致事件が北朝鮮政府によって引き起こされたものであったことを認めた。これによって日本国民は、日本のすぐ隣に、日本国憲法の言う「平和を愛する諸国民」とは正反対の国家が存在することを認識するようになってしまった。このことが平和運動の原点である「平和憲法」の権威を低下させることになってしまったのである。この後も平和運動は、平和運動家達によって続けられてはいるが、もはや日本の政治や社会に大きな影響を与えるものでは無くなってしまった。
日本人は、マッカーサーが日本国憲法を作って以来、憲法改正ができなかった。そして、かつては政治家が憲法改正を口に出すことすらはばかられた時代があった。ところが北朝鮮によって引き起こされた一連の行為が「平和憲法」の権威を低下させた結果、政治家達による憲法改正論議が活発になった。そのため、近年は、与党の自民党どころか、野党の民主党の中にも改憲論者が出現し始めている。更に、自民党は、2003年11月の衆議院議員の総選挙で、憲法改正を政権公約に掲げて選挙戦を戦った。そして2007年5月には、憲法改正のための国民投票法が成立した。つまり、北朝鮮によって引き起こされた日本人拉致事件などの行為が、結果として日本国憲法の宗教の教典としての権威を低下させてしまったのである。それが、憲法改正をタブー視する考えを否定することになったのである。
既に述べたように、戦前の日本で大日本帝国憲法の改正や改正の議論ができなかった理由は、現人神たる天皇の作った天皇教の経典である大日本帝国憲法を改正するのは、現人神たる天皇を冒涜する行為だったからである。言い換えれば、戦前の日本では、現人神たる天皇の権威によって大日本帝国憲法の宗教の教典としての権威が保たれていたのである。ところが、現在の日本には現人神は存在しない。従って、日本国憲法の改正を口に出したところで、神を冒涜するものではないのである。つまり、現在の日本には、戦前の天皇の権威ような、憲法が持っている宗教の教典としての権威を保つための手段が無いのである。従って、戦後の日本では、一度、憲法の宗教の教典としての権威の低下が始まったら、止まらなくなってしまうのである。
こうして、日本国憲法が持っていた宗教的権威が低下し、憲法を神聖不可侵な教典ではなく、単なる法律として扱う風潮が広がり始めたのである。もし、天皇やマッカーサーのような神の意志による憲法改正ではなく、人間の意志による憲法改正が実現すれば、日本国憲法が持っている宗教的権威が更に低下し、単なる国家の基本法と化す可能性が高いのである。
何度も言うように、近代国家の理論では、憲法といえども人間の自由な意志によって作られた制度の一つであり、人間の自由な意志によって作り変えられるはずである。つまり、近代国家においては、憲法は人間の道具に過ぎないのである。従って、憲法に何らかの問題があるなら、その問題のある個所を改正すれば済むことである。ところが、近代国家ではない日本では憲法改正は極めて困難である。そのため、大日本帝国憲法の制定以来、憲法上の問題が生じるたびに、統帥権干犯問題、天皇機関説問題、そして戦後の日本国憲法九条問題と、日本人は憲法に振り回され続けて来たのである。日本では、憲法が人間の道具ではなく、人間が憲法の道具になってしまっているのである。憲法上の問題が起こっても憲法改正ができないため、憲法解釈を変更するなどして、どうにか時代の変化に対応して来た。しかし、憲法解釈の変更による解釈改憲では、いずれは限界が来て、時代の変化に対応できなくなってしまうだろう。私に言わせれば、日本の憲法問題とは、憲法に問題があることではなく、問題があっても改正できないことなのである。
しかし、人間の意志による憲法改正が実現し、その結果として日本国憲法が持っている宗教的権威が更に低下し、単なる国家の基本法となれば、憲法は人間の道具となり、日本は近代的な国家へ一歩近づく可能性がある。しかし、それによって日本が本格的な近代国家になることはあり得ない。近年になって憲法改正論議が活発化した背景にあるのは、あくまで日本国憲法の宗教の教典としての権威が低下したことであり、宗教的権威によって国家が統治されるという伝統・文化までが変化したとは考えられないからである。なぜなら、第二次世界大戦の敗戦、そして大日本帝国の崩壊という重大な事態に直面しても、日本人の国家に対する伝統的な考え方に変化が無かったからである。伝統・文化なるものは、そう簡単には変化するものではないのである。
第三章 第二次世界大戦後の世界秩序
太平洋戦争とは何であったか
日本人は、太平洋戦争に関して誤った認識をしている。
多くの日本人は、太平洋戦争を次のように考えている。太平洋戦争は、1941年12月8日に日本軍の真珠湾攻撃に始まった。これに対してアメリカは反撃し、日本を打ち破り、1945年8月15日に日本の敗戦という結果で終わった。
この日本人の考えている太平洋戦争は、二つの点で間違っている。
第一の間違いは、太平洋戦争は、1941年12月8日から1945年8月15日の間だけ行われていたという点である。
第二の間違いは、太平洋戦争におけるアメリカの敵国は日本一国だったという点である。
そもそもアメリカは、太平洋戦争の遙か以前からアジアに勢力を拡大することを考えていた。その始まりが1853年のペリー艦隊の来日なのである。ペリー来日の目的は、日本をアメリカの船舶の燃料や食料の補給基地にすることであった。アメリカは、日本を足場にして中国を始めとしたアジア諸国と経済交流をするつもりでいたのである。そして1899年にアメリカは門戸開放宣言を行い、本格的に中国へ進出する意志を明らかにする。
一方、明治維新以後、日本は急速にヨーロッパの近代的な制度や技術を導入することに成功し、国力をつけ、日清・日露の両戦争に勝利して急速に政治・軍事の両面で力を拡大して行った。
アメリカは当初、アジアに対しては経済進出のみを考えていた。しかし日本の政治的・軍事的な台頭が、アメリカの中国を始めとしたアジアへの進出の妨げになって来たと考えるようになった。するとアメリカのアジアへの経済進出のためには、どうしても日本の政治力と軍事力を排除する必要が生じた。
日本の台頭を封じ込めるために、アメリカは1921年から1922年にかけて開かれたワシントン会議で、日本封じ込めのための政策を打ち出す。
まず、日・米・英・仏の太平洋における勢力を現状維持するための四ヶ国条約の締結と同時に日英同盟を破棄させ、日本のアジアにおける政治的な立場を弱めた。そして中国に関する九ヶ国条約の締結の結果、日本は、中国の山東省の権益などを放棄させられた。更に海軍軍縮条約によって、日本の主力艦隊をアメリカやイギリスに対して六割に制限してしまった。
このように太平洋戦争が始まる以前から、アメリカは政治的な手段によって日本に対して攻勢をかけていたのである。このワシントン会議こそ事実上の太平洋戦争の始まりと言ってよいだろう。
やがて1931年の満州事変をきっかけに、日本の中国に対する軍事的進出が本格化すると、中国への経済進出を進めていたアメリカとの対立が激化する。そのためアメリカは、経済的な利益を守るためには、日本を打倒してアジアに覇権を確立しなければならなくなってしまった。これが太平洋戦争勃発の直接の原因である。つまり、アメリカにとっての太平洋戦争とは、アメリカの経済的利益を守ることとアジアに覇権を確立することを目的とした戦争だったのである。
そして1945年8月15日に日本の降伏という形で太平洋戦争は終わったことになっている。しかし、この時終わったのは、日米間の戦闘行為であって、太平洋戦争そのものではない。なぜなら、戦争に勝利するとは、戦争目的を達成することである。戦闘行為に勝利しても、戦争目的を達成できない限り戦争に勝ったとは言えないのである。アメリカは、日本を軍事的に打倒することには成功したが、それだけではアジアに覇権を確立すると同時にアメリカの経済的利益を守るという戦争目的を達成することはできなかったのである。
中国では、アメリカが支援する蒋介石の率いる国民党と毛沢東の率いる共産党との間に内戦が起こり、その結果、国民党が敗れ、1949年10月には共産党政権が成立するという結果になってしまった。そもそも太平洋戦争が勃発した直接の理由は、日本の中国への軍事進出をアメリカが阻止しようとしたことである。アメリカによる中国への経済進出を確保するため、中国におけるアメリカの代理人と言うべき蒋介石の国民党政権を守るための戦争が太平洋戦争だったとも言えるのである。従って、中国での共産党政権の成立という事態は、一時的ではあるが、アメリカにとって太平洋戦争の敗北を意味するのである。
つまり、アメリカにとって日本との戦争は、太平洋戦争における第一ラウンドに過ぎなかったのである。そして、国民党と共産党の中国内戦は、第二ラウンドなのである。アメリカは、第一ラウンドでは戦争目的の一つである日本打倒に成功したが、第二ラウンドでは、アメリカの中国進出のための出先機関と言うべき国民党政権の防衛に失敗してしまった。戦争目的の達成をもって戦争の勝利とするならば、この時点でのアメリカは、太平洋戦争の敗戦国ということになってしまうのである。
そして太平洋戦争の第三ラウンドが朝鮮戦争である。朝鮮半島は、東アジアにおける軍事戦略の要衝である。それゆえ、かつて日本は、日清戦争・日露戦争と二度もこの地域の支配権をめぐって戦争をしなければならなかったのである。そのため、日本に代わり東アジアの覇権国となったアメリカにとっても、朝鮮半島を確保することが覇権を守るためには必要不可欠だった。従って、朝鮮戦争もアメリカの覇権のための戦争であり、太平洋戦争の延長と言える。朝鮮戦争は、中国の参戦もあってアメリカは苦戦を強いられたものの、最終的にはおおよそ三十八度線まで戦線を押し戻すことができたため、結果として引き分けに終わった。
しかし、アメリカの太平洋戦争は、まだ終わらなかった。ベトナム戦争という第四ラウンドが待っていたのである。ジョンソン大統領が本格的にベトナムへの軍事介入を初めてから、アメリカは泥沼の戦争に陥ってしまった。東南アジアの小国に過ぎない北ベトナムに苦戦するアメリカは、大国としての地位がぐらつき始める。それどころかアメリカは、社会や経済までが混乱し始める。そして国の内外でベトナム反戦運動が盛り上がり、アメリカ国民の政府に対する信用まで失墜してしまう。
この危機的状況を救うべく登場したのがニクソン大統領とキッシンジャーであった。ニクソン政権は、北ベトナムを支援している中国との国交を回復し、ベトナム戦争を終わらせた。しかも、このニクソン大統領とキッシンジャーの外交政策の成果は、ベトナム戦争を終わらせただけではない。中国との国交を回復した結果、太平洋戦争の目的の一つであった中国への経済進出が本格的に可能になったのである。
このように、アメリカにとっての日米間の太平洋戦争とは、アメリカがアジアに覇権を確立するための戦いの一局面に過ぎなかったのである。一般的に太平洋戦争が論じられる場合、この日米間だけの戦いを取り上げて論じられているのが現実である。しかし、アメリカの過去百数十年に及ぶアジアに覇権を確立するための戦いという側面からも太平洋戦争を考えなければ、太平洋戦争の本質は分からないのである。
太平洋戦争で日本に勝利した結果、アメリカは日本を含めたアジア諸国に対して覇権を確立し、多くのアジア諸国を「征服」してしまったのである。つまり太平洋戦争とは、結局、「アメリカ帝国」による日本を含めたアジア諸国に対する征服戦争だったのである。
ただし、太平洋戦争が「アメリカ帝国」の征服戦争だったという私の考えには、異論がある人もいるだろう。そもそも太平洋戦争は、軍事的には日本による先制攻撃から始まった戦争であり、アメリカは、祖国の防衛のためにやむを得ず戦争を始めたのである。それがどうして征服戦争なのかと。
ところが、過去の歴史には、太平洋戦争と同様に先制攻撃に対する防衛戦争から始まった戦争が、結果として征服戦争になってしまったという前例がある。その典型的な例が、古代ローマとカルタゴが戦った、第二次ポエニ戦争である。紀元前218年、カルタゴの将軍ハンニバルは、軍を率いてアルプス山脈を超えてローマへ侵入し、ローマ軍を次々に打ち破る。紀元前216年のカンネーの戦いでは、ローマ軍は、壊滅的な敗北をしてしまう。しかしハンニバルは、紀元前202年のザマの戦いでローマの将軍スキピオに敗れてしまう。これによって第二次ポエニ戦争は、ローマの勝利に終わった。この結果ローマは、第一次ポエニ戦争によって獲得した領土と合わせて地中海一帯に広がるカルタゴの植民地を全て獲得して地中海世界の征服者となり、帝国への道を歩み始めるのである。この第二次ポエニ戦争のことをローマの防衛戦争と言う人は居ないだろう。アメリカにとっての太平洋戦争は、まさに現代版のポエニ戦争と言えるのである。
一方、アメリカに敗れ敗戦国となった日本は、戦後民主主義というアメリカの保護が無ければ成り立たない政治体制が成立した結果、アメリカに従属するしか無くなってしまった。そして、アメリカの保護を法的に正当化する手段が日米安保体制である。日米安保体制は、事実上、アメリカによる日本の軍事占領の延長であり、これが続く限り日本はアメリカの被占領国でしかないのである。
つまり日本は、「アメリカ帝国」によるアジア征服戦争である太平洋戦争の一環として「アメリカ帝国」に征服され、その「属州」と化してしまったのである。かつて小泉総理大臣の対米外交のことをアメリカ従属外交と言ったり、また彼のことをアメリカの犬と言ったりする人達が居たが、戦後の日本が置かれた現実からすれば、やむを得ないことである。小泉総理大臣の対米外交を批判し、日本独自の外交を行えと言うことは、「アメリカ帝国」の「属州」である日本がアメリカから独立しろと言うことである。それは、「属州」である日本が「本国」であるアメリカに対して「反乱」を起こすことを意味する。言うまでも無く「属州」が反乱を起こせば「本国」としては、これを「鎮圧」するしかない。さもなければアメリカは「帝国」を維持できなくなり、超大国の地位を失ってしまうからである。つまり、日本がアメリカから自立するということは、すなわち「独立戦争」を行い、アメリカとの全面的な対決をするということである。しかし、そのようなことは、今の日本政府にとっても日本国民にとっても無理な話である。従って、いくら日本政府がアメリカ従属と言われようと犬と言われようと、「アメリカ帝国」の「属州」をやめるわけにはいかないのである。
アメリカの政治力と国際政治
アメリカは、第二次世界大戦に勝利した結果、超大国としての政治力を確立した。政治力とは、権力や軍事力などの力の行使を正当化する力のことである。そして、国際社会において大きな政治力を持った国家のことを大国と言うのである。
国際社会で起こった紛争を解決するためにはアメリカのような大国の政治力が必要である。国内で起こった紛争なら、法の手続きに従い権力が行使されれば問題は解決する。ところが国際社会で起こった紛争の場合は、そうはいかないのである。なぜなら国際社会で起こった紛争を解決しようにも、国際社会には国内法のような法律が無いからである。国際法というものが存在するが、これは紳士協定のようなもので、これを破ったからといって逮捕されるわけでも罰が与えられるわけでもない。要するに、国際政治の場では、紛争を解決するための明確な基準や強制力が無いのである。しかし、これでは国際社会の秩序は成り立たない。そこで国際社会では、大国と呼ばれる強力な政治力を持った国によって、武力衝突や領土問題などの国際紛争の解決が計られることになる。
戦争や領土の併合などをする場合も、たとえそれが、その国の国民にとって、いかに正当なものだとしても、大国が主導する国際社会が正当だと認めなければ、国際社会から孤立したり、侵略行為のレッテルを貼られたりする場合もある。そうならないためには大国と呼ばれる国の支持が必要になるのである。たとえば、1990年に勃発した湾岸戦争の時、イラクはクウェートを軍事占領して併合してしまったが、これはイラク国民の立場からすれば、本来クウェートはイラクの領土なのだから、併合は正当な行為ということになる。ところが、サダム・フセイン大統領は、大国アメリカの承認を経ないでクウェートの併合を行ってしまったため、国際社会から侵略行為と決めつけられ世界から孤立して、湾岸戦争でアメリカを始めとした多国籍軍の攻撃を受けるはめになってしまったのである。
更に、大国の承認が無ければ、自国の領土ですら保有することを正当化できなくなることもある。時と場合によっては、本来なら自国の領土であるはずの地域が、大国の合意によって他国の領土にされてしまうことも実際にあったのである。たとえばドイツは、第二次世界大戦に敗れた時、東部の東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンという三つの地域をアメリカ、イギリス、ソビエトの合意に従ってソビエトやポーランドに割譲せざるを得なくなってしまった。東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンという三つの地域は、十八世紀の末までにはプロイセン王国の領土となっており、日本人の感覚からすればドイツ固有の領土である。これをドイツが放棄させられたということは、日本が北海道を放棄させられたようなものである。また日本も、ヤルタ会談でルーズベルトとスターリンの密約によって、千島列島や南樺太をソビエトに割譲させられてしまった。一度、大国の合意によって領土の所有国が変更され、国際社会が他国の領土と認めてしまったら、その国の国民にとっては自国の固有の領土であっても、大国の主導する国際社会にとっては、他国の領土ということになってしまうのである。そして、大国の合意によって奪われた領土を武力によって奪い返そうなどとすると、自国民にとっては自衛戦争であっても、大国の主導する国際社会からは侵略戦争と見なされてしまうのである。その結果、その国は、世界から孤立してしまうのである。従って、今の日本も、うかうかしていると、千島列島どころか北海道や日本そのものまでが日本人の知らぬ間に、どこかの国の領土にされてしまう可能性もあるのである。そのようなことにならないためには、普段から北は北方四島や北海道から南は沖縄に至る領土が、日本のものであることをアメリカのような大国に認知させておかなければならない。それと同時に、万が一どこかの国が日本の領土を大国の合意によって奪い取ろうとする行動を起こそうとしたら、アメリカのような大国に阻止してもらわなければならないのである。このような大国による政治的な保護があって、初めて自国の領土の保有が正当化できるのである。
現在でも、チベットのように一民族がまるごと他国の支配下に組み入れられてしまっているにもかかわらず、国際社会から容認されている例はいくらでもある。従って、日本といえども北海道から沖縄に至る全ての領土が、永遠に日本人のものであり続けるという保証はどこにも無いのである。現在の日本の領土は、アメリカの政治力によって一時的に保障されているに過ぎないのである。
勿論、自国の政治力で自国の領土が保障できるのならば、それにこしたことはないが、残念ながら第二次世界大戦後の日本にはそのような政治力は無いのである。そこで戦後の日本が国際社会の中で生き残るためには、アメリカの政治力の保護下に入らざるを得ないのである。
このように、国際社会には、戦争行為や領土問題といった国際紛争を解決するための客観的な基準があるわけではない。国際紛争の正当性は、その時点での大国の合意によって決まってしまうのが現実である。しかも、その決定は、大国の利害や都合によって恣意的に行われてしまう場合がほとんどである。たとえば、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略戦争だとされているのは、あくまで戦勝国となったアメリカなどの大国が、そのように決定したからであって、日本やドイツが戦争中に何を行ったかなどということは関係ないのである。一般的には、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略戦争だとされている理由は、太平洋戦争が日本による先制攻撃によって始まったことや、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺などの残虐行為によるものだと思われている。しかし、よく考えてみれば、たとえば残虐行為は、戦勝国も行っているのである。その典型的な例は、何と言ってもアメリカ軍による広島や長崎に対する原爆投下であろう。たった二発の原子爆弾で二十万人近い人間が殺戮されたのである。これに対してアメリカは、数十万人のアメリカ兵の命を救うために必要だったなどと言っているが、仮にそれが事実であったとしても、アメリカは、理由さえあれば大量殺戮が許されると言っていることになるのである。そして、同じく戦勝国であったソビエトも、降伏したポーランドの将校達を虐殺したカチンの森の事件や、日本兵捕虜をシベリアに連行して、過酷な労働によって六万人も死なせてしまった日本兵のシベリア抑留問題を起こしている。
大国とは国際政治における審判である。しかし、スポーツの審判とは違い、プレイヤーが審判を兼ねているのである。従って、大国は、自国が関係する政治問題や戦争に関しては、自国に有利な判定を行ってしまうのが現実である。有史以来、戦争においていかなる残虐行為が行われても、戦争に勝ってしまえば、敗者に全ての責任をなすりつけることによって、その罪から逃れることが黙認されているのである。これは勝者の特権と言うべきものである。日本流に言えば、勝てば官軍、負ければ賊軍ということである。アメリカが広島・長崎への原爆投下の罪を問われることが無いのもこのためである。そしてこの勝者の特権が、戦争における残虐行為を引き起こす原因にもなっている。もし戦争に勝とうが負けようが罪は罪として問われるようになれば、戦争における残虐行為はかなり減るだろが、現実はそうはいかないからである。結局、これからも勝者が一方的に正義を主張できる時代が続くことになるのである。
戦後の日本では、侵略戦争という言葉の定義とは「自国の領土の防衛を超えた軍事行動」であると主張する人達が存在する。しかし、そのような定義をしてしまったら、第二次世界大戦後のアメリカの軍事行動は全て侵略戦争になってしまう。なぜならアメリカが第二次世界大戦後に行った戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など、いずれもアメリカの領土を遙かに超えた地域で行われているからである。更に、アメリカが日本に軍隊を駐留させていることそのものが、日本に対する侵略戦争ということになってしまう。もし日本政府が侵略戦争という言葉を「自国の領土の防衛を超えた軍事行動」などと定義してしまったら、同盟国であるアメリカの軍事行動のみならず、日米安保体制まで否定することになってしまう。結局、現実的に考えれば、侵略戦争という言葉の定義をすることは不可能なのである。
戦争を泥棒や殺人といった犯罪行為にたとえる者がいるが、これは大間違いである。泥棒や殺人といった行為は、法律上も社会通念上も違反行為であるという考え方が世界中ほとんどの国の社会で確立されている。これに対して戦争は、泥棒や殺人とは違い、国際紛争の解決のための正当な手段として国際社会に確立されているのである。従って平和主義者の言うように、地球上から戦争を廃絶することなどほとんど不可能である。泥棒や殺人が犯罪行為であり、反社会的な行為であるという認識が、世界の大多数の人間に共通しているにもかかわらず、撲滅することは不可能である。ましてや国際紛争の解決のための正当な手段であるという考えが国際社会に定着してしまっている戦争を無くすことなど、泥棒や殺人の撲滅よりも遙かに困難である。従って、もし戦争の撲滅が可能だとしたら、泥棒や殺人など、とっくの昔に無くなっているはずである。
戦争をたとえて言うならこういうことになる。通常の市民生活の中で他人を殴ったりしたら犯罪である。しかし、同じ他人を殴るのでも、ボクシングの試合中にボクシングの選手が相手の選手を殴るのは犯罪ではない。なぜなら、ボクシングにはルールがあり、試合に参加する者は、それを理解し納得した上で試合に臨んでいるはずだからである。ボクシングの試合で殴り合うのを犯罪行為だと考える者は、ボクシングという格闘技を理解していない人間である。独立国家を名乗るということは、国際政治という「格闘技」に参加することである。すなわち、独立国家を名乗った瞬間から、国際政治という「格闘技」が始まってしまうのである。従って、一度独立国家になってしまったら、いつ誰から戦争という「格闘」を挑んで来られるか分からないのである。独立国家を名乗る以上は、こういうことは覚悟していなければならない。どうしても戦争をやりたくない国家は、最初から独立国家になどなるべきではないのである。
多くの日本人が理解していないのは、国際政治のルールは、基本的には第二次世界大戦後もそれ以前と全く変わっていないということである。戦争や領土の併合それ自体は決して国際政治のルールに反するものではない。要は大国の承認という手続きを経ればよいのである。事実、ロシアや中国のように、現在でも多くの異民族を支配下に置いている国は世界中にいくらでもある。第二次世界大戦後の国際政治は、ルールが変わったのではなく、国際社会に戦争や領土の併合などを大国に認めさせることが難しくなったというだけのことである。帝国主義時代なら、国際政治を牛耳る欧米諸国も、世界中で植民地の獲得競争を行っていたため、他国が同じようなことを行っても比較的容易に認められた。ところが、第二次世界大戦後は、欧米諸国が植民地の獲得競争を止めて、ほとんどの植民地を独立国家として認めてしまった結果、新たな領土の獲得を認める理由が無くなってしまったのである。
既に述べたように、或る領土がどこの国に属するかとか、あるいは、軍隊を外国に送り込み、戦争をしたり軍隊を駐留させたりする行為が侵略行為にあたるかあたらないかというような判断は、その時代の大国とか覇権国とか呼ばれる国の政治力よって決定される。侵略行為という言葉には明確な定義が無いが、強いて定義するとすれば、国際社会の意志を決定する大国の承認を得ていない武力行使、または領土の所有ということになる。しかし、或る時点で大国であった国も、政治状況の変化によっては大国の地位を失うこともある。従って、特定の大国によって正当と認められた領土の獲得や戦争が、大国の地位が失われた結果、無効になってしまうということもあり得るのである。つまり、正当な武力行使、正当な領土の所有とされている行為も、政治状況の変化によっては侵略行為とされるようになってしまう可能性があるということである。
その一例が、日韓併合である。日本は、1905年に日露戦争に勝利して朝鮮半島に対する支配権を確立し、国際社会の承認の下、1910年に日韓併合が実現した。日韓併合が当時の国際社会から承認された理由としては、当時の世界は帝国主義時代であり、国際社会を牛耳る欧米諸国自体が、日本と同様の領土獲得に奔走していたため反対する理由が無かったということもあったが、それに加えて、日本が日露戦争に勝利した結果、政治力が強大化して欧米列強と並ぶ政治大国となり、自らの政治力によって領土の獲得や戦争を正当化できるだけの政治力を確立した結果でもあったのである。ところが第二次世界大戦の結果、日本は敗戦国となり、それまで獲得した植民地や利権を全て失い、更に政治力も失ってしまった。すると、今まで日本の政治力によって正当化されていた過去の領土の獲得や戦争を正当化することができなくなってしまった。その結果、日韓併合は侵略行為と言われるようになってしまったのである。
更に、ベトナム戦争後の南北ベトナムの統一と、湾岸戦争の時のイラクによるクウェートの併合を比べてみよう。ベトナム戦争が終結し、アメリカがベトナムから撤退した後、南ベトナムは北ベトナムによって武力併合されてしまった。当時、世界の多くの国は、同じベトナム人同士なのだから一つの国になるのは当然だと考えた。そして結果としてアメリカもこれを容認してしまった。しかし、同じ民族同士の国家ならば武力によって併合してもよいと言うならば、同じアラブ人の国家であるイラクによるクウェートの併合も容認しなければならないはずである。しかも旧南ベトナム地域から、ボートピープルと呼ばれる数十万人もの難民が出たように、併合された側の南ベトナムの人達は、決して南北ベトナムの統合など望んではいなかったのである。それにもかかわらず、北ベトナムによる南ベトナムの併合が世界から容認され、一方、イラクによるクウェート併合は、侵略行為とされてしまったのである。要するに、ベトナム戦争直後のアメリカは、ベトナム戦争の敗戦の結果、世界の大国としての政治力が一時的に低下していた。その結果、仮にアメリカが、北ベトナムによる南ベトナムに対する武力行使を侵略行為であると主張したとしても、世界に認めさせることができなかったのである。これに対して湾岸戦争の時のアメリカは、世界の大国としての政治力を回復していた。だからイラクの行動を侵略行為と決めつけ、これに武力制裁を加えることを世界に認めさせることができたのである。
ベトナム戦争の前例から考えれば、現在のアメリカといえども、いつまでも超大国でいられるという保証は無いのである。べトナム戦争で失態を演じたように、国際紛争の解決に失敗するなどして国際社会の信用を失い、政治力が低下するようなことが絶対に起こらないとは言えないのである。もし、そのようなことが起こったら、多くの日本国民がアメリカの政治大国としての能力に疑問を持つようになるかもしれないのである。最悪の場合は、アメリカの軍事行動の正当化が困難になり、日本国民が、アメリカ軍が日本に駐留していることを疑問視するようなことも起こりうるのである。そうなれば、日本政府は、日米安保体制を擁護することが困難になってしまうだろう。
要するに、アメリカがいくら強大な軍事力を持っていても、それを使うことを正当化するだけの強力な政治力が失われてしまったら、軍事力の行使を正当化することが困難になり、軍事力の行使ができなくなってしまうのである。つまり強大な軍事力を持っているだけでは軍事大国とは言えないのである。軍事大国とは、強力な軍事力を持っていると同時に、軍事力の行使を正当化するだけの強力な政治力を持った国のことである。たとえば、現在の日本の経済力や技術力からすれば、アメリカに次ぐ規模の軍事力や核兵器の保有さえも可能である。しかし、第二次世界大戦後の日本が実際にそのようなことを行おうとしたら、世界中から非難を浴びて孤立してしまうのは間違いない。なぜなら、戦後の日本には、強大な軍事力の保有や使用を国際社会に認めさせることができるような強力な政治力が無いからである。だから戦後の日本は、自国を防衛するだけの軍事力を持つことが経済的・技術的に可能であっても、それを正当化するだけの政治力が無いため、アメリカの政冶的・軍事的な保護を受けざるを得ないのである。だから、第二次世界大戦後の日本の安全保障には、日米安保体制が不可欠なのである。
ところで、日本には国連のような国際機関に世界秩序の維持の役割を期待している人達が居るが、それは国連に対する過大な期待である。なぜなら、国連は超大国アメリカの存在を前提に成り立っているからである。
そもそも国際紛争が起こっても、それが侵略行為であるかないかを判断するのはアメリカのような政治力を持った大国である。今日、国政政治において大国とされているのは、いずれも第二次世界大戦の戦勝国であり、国連の安全保障理事会の常任理事国でもあるアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアの五ヶ国である。国連は、これらの大国が同意しなければ、国際紛争の当事者に対する軍事制裁などを決定することができない制度になっている。更に、国連が軍事制裁などを決定したとしても、それを実行するのはアメリカなどの大国である。湾岸戦争の時のように、いくら国連決議という正当性を与えられても、アメリカのような強大な政治力と軍事力を持った国でなければ世界中で軍事行動を行うのは不可能である。戦後の日本のような政治力の無い国が、いくら国連決議を受けたところで軍事行動に加わるのは不可能である。つまり、アメリカが超大国としての強大な政治力を失うようなことになったら、国連も機能しなくなってしまうのである。
更に、日本の一部の政治家などが、国連に常備軍を設けて国際秩序の維持に当たるべきであるという主張をしていたことがある。しかし、結論から言ってしまえば、国連常備軍など無意味である。国家が戦争を行うためには最高指導者の力が必要不可欠である。ところが国連には、国家の最高指導者に匹敵するような力を持った指導者など存在しないのである。国連事務総長にアメリカの大統領のような強力なカリスマや指導力があるわけではない。従って、仮に国連常備軍なるものを作ったとしても、それを指導できるだけの力を持った指導者が存在しない以上、単なる金と人材の無駄遣いになってしまうのである。結局、国連の決定を実行する実働部隊の役割は、アメリカを始めとした大国にしか務まらないのである。
アメリカの政治力と戦後民主主義
日本の戦後民主主義は、アメリカの軍事占領下で作られたものである。本来、軍事占領は、国際法によって認められている正当な戦争行為である。しかし現実は、「侵略行為」というレッテルを貼られて否定されることがある。否定されている軍事占領の多くは、占領を行った国が敗戦国となった場合である。戦争に敗れることによって政治力を失い、自らの戦争行為を正当化できなくなった結果、軍事占領を含めた戦争行為の正当性が失われてしまい、その結果として「侵略行為」というレッテルを貼られて否定されてしまうのである。第二次世界大戦の敗戦国となった日本とドイツによる戦争中の軍事占領が「侵略行為」というレッテルを貼られて否定されているのが典型的な例である。逆に、戦勝国は、戦争に勝利することによって政治力が増大し、自らの戦争行為を正当化できるようになるのである。従って、アメリカによる第二次世界大戦後の日本に対する軍事占領が正当化されているのは、軍事占領が国際法によって認められている正当な戦争行為だからではなく、アメリカが第二次世界大戦の戦勝国だからなのである。
軍事占領は、国際法によって認められている正当な戦争行為ではあるが、正式に講和条約が結ばれ、法的に戦争が終結すれば、占領を止めて軍隊を撤退させなければならないことになっている。1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、翌年の4月に発効した。その結果、日本は法的には独立国家となった。ところがアメリカ軍は、サンフランシスコ講和条約と同時に調印された日米安全保障条約に基づいて、その後も日本に駐留を続けることになったのである。日本の戦後民主主義と呼ばれる政治体制は、アメリカによる軍事占領を前提に作られたものである。従って、戦後民主主義を維持するためには、アメリカによる軍事占領を続けてもらわざるを得ないのである。それを法的に正当化する手段が日米安全保障条約なのである。つまり、アメリカは、戦後民主主義と呼ばれる政治体制を作ることによって、日本を永久に軍事占領することが可能になったのである。しかし、軍事占領が戦争行為である以上、日本とアメリカの間では、実質的には今でも戦争状態が続いていることになるのである。
アメリカは、第二次世界大戦に勝利して強大な政治超大国となり、その強大な政治力によって日本に対する軍事占領を正当化しているのである。そしてアメリカは、強大な政治力によって正当化された軍事占領を背景にして、戦後民主主義と呼ばれる政治体制を作ったのである。つまり、第二次世界大戦後のアメリカ軍による占領政策も、その占領政策の延長である戦後民主主義も、そして日米安保体制に基づくアメリカ軍の日本への駐留も、超大国たるアメリカの強大な政治力によって正当化され、維持されているのである。
第二次世界大戦後のアメリカ軍による日本の占領や、日米安保体制に基づくアメリカ軍の日本への駐留を合法的で正当な行為と見るか、それともアメリカによる違法な戦争行為と見るかは、各個人の主観の問題である。しかし、個人の主観には政治情勢の変化が決定的な影響を与えるという事実を忘れてはならない。たとえば、第二次世界大戦中は、ほとんどの日本国民が国家や天皇のために戦争に協力していたが、敗戦とそれに続くアメリカ軍による占領という政治情勢の変化によって、日本国民は、平和ぼけと言われるほどの平和主義者に変身してしまった。また、戦後の日本の言論界で大きな影響力を持っていた社会主義のイデオロギーも、ソビエトの崩壊という政治情勢の変化によって影響力を失ってしまった。その結果、誰も社会主義を理想だなどとは思わなくなってしまった。これと同様に、もし将来、アメリカが超大国としての政治力を失うようなことになれば、アメリカ軍による戦後の日本に対する軍事占領が正当化できなくなり、アメリカの軍事占領下で行われた占領政策も、占領政策の延長である戦後民主主義も、そして日米安保体制に基づくアメリカ軍の日本への駐留も、正当性が失われ、違法な軍事占領、あるいは戦争行為と見なす人間が増え、「侵略行為」というレッテルを貼られて否定されてしまう可能性が高いのである。
かつて、東ヨーロッパ諸国の共産主義政権は、政治超大国たるソビエトの政治力によって正当化されて成り立っていた。そのため、ソビエトが崩壊して政治力を失いつつあった時、東ヨーロッパ諸国の共産主義政権は正当性を失い崩壊してしまったのである。これと同様に、アメリカが超大国としての政治力を失うようなことになれば、超大国アメリカの政治力によって成り立っている日本の戦後民主主義も、正当性を失い崩壊する可能性が高いのである。
戦勝国による世界支配
近年、アメリカの政治力にかげりが見え始めている。それが一番よく分かるのが核兵器を巡る国際情勢である。
1998年にはインドとパキスタンが相次いで核実験を行い、事実上の核保有国になってしまったが、アメリカはこれを阻止することができなかった。このことがアメリカの政治力の低下を明確に示しているのである。
核拡散防止条約(NPT)なるものは、結局は第二次世界大戦の戦勝五ヶ国、すなわちアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアによる核兵器の独占を正当化するための手段である。核兵器は、第二次世界大戦の戦勝国が国際政治の主導権を握り続けるための重要な政治的手段である。核兵器を保有することによって、非核保有国に対する軍事的優位を確立し、それを背景に国際政治の主導権を維持するのである。従って、戦勝五ヶ国以外の国の核保有を許してしまったのでは、戦勝五ヶ国の大国としての地位が危うくなりかねないのである。従って、アメリカがインドとパキスタンの核実験と核兵器の保有を阻止できなかったのは、明らかに失策である。
また、1995年にフランスが行った核実験と1996年に中国が行った核実験は、世界中から非難を浴びた。核兵器の保有は、国連の安保理常任理事国の地位と同じく、第二次世界大戦の戦勝国に与えられた特権である。中国とフランスの核実験に対して抗議や反発が起こったということは、すなわち、国際世論は、もはや第二次世界大戦の戦勝国の特権など認めなくなりつつあるということである。
アメリカは、2001年9月11日に起こった同時多発テロに対するアフガニスタンへの報復戦争の協力を得るため、インドとパキスタンに課していた核実験に対する制裁を解除してしまった。これは事実上インドとパキスタンの核保有を認めるものである。本来は第二次世界大戦の戦勝国にしか認めていなかった核保有を戦勝国以外の国に認めるということは、アメリカが自ら第二次世界大戦後の世界秩序を破壊する行為を行ってしまったということである。
これらの核兵器を巡る政治状況の変化が意味するのは、アメリカを含めた第二次世界大戦の戦勝五ヶ国の政治力が低下したということであり、第二次世界大戦後の秩序が崩壊に向かって動き出しているということである。
第二次世界大戦後の国際政治を、米ソ冷戦という側面からのみ見るのは大間違いである。このことも、やはり核兵器について考えてみればよく分かるのである。冷戦の理論によれば、ソビエトはアメリカの敵で、日本や西ドイツはアメリカの同盟国ということになっていた。ところが不思議なことに、アメリカは冷戦の敵であるソビエトが核兵器を保有することは容認していたのに、自由と民主主義といった理念を共有する同盟国であるはずの日本や西ドイツが核兵器を持つことを断固として認めようとはしなかったのである。これは一体どういうことなのか。
現在、核保有国であり、国連の安全保障理事会の常任理事国である五ヶ国は、いずれも第二次世界大戦の戦勝国である。第二次世界大戦後の国際政治は、この五ヶ国に支配されて来たのである。米ソの冷戦とは、あくまで戦勝国による世界支配を前提にした、アメリカとソビエトの政治的な主導権争いに他ならない。つまり米ソ冷戦とは、第二次世界大戦の戦勝国による世界支配という土俵の上で戦われた、限定的な政治抗争なのである。この冷戦という土俵に上がることが許されていたのは、戦勝五ヶ国だけであり、日本や西ドイツのような敗戦国が土俵に上がることは決して許されなかった。勿論、日本と西ドイツもアメリカの冷戦に協力していたのは事実だが、それは単なる下働きであって、正式な参加ではなかったのである。核兵器の保有が戦勝国にのみ認められた特権である以上、戦勝国ではない日本や西ドイツが核兵器を持つことを認めてしまったら、戦勝国による世界支配を否定することになってしまうのである。
冷戦とは、日本の自民党の派閥争いのようなものである。自民党の各派閥は、政治の主導権争いという点からみれば、確かにライバル同士である。しかし同時に、同じ政権与党の一員として日本の政治を主導する仲間同士でもある。従って、1993年に宮沢政権が崩壊した時の小沢一郎氏の一派のように、一部の派閥が与党から離脱して国会の議席が過半数割れをしてしまったら政権を失ってしまうのである。米ソの冷戦とは、戦勝五ヶ国という国際政治の「政権与党」内の派閥抗争なのである。その派閥抗争の結果、「ソビエト派閥」は抗争に破れて崩壊してしまった。冷戦という「派閥争い」の次元から見れば、確かにこれは「アメリカ派閥」の勝利である。しかし、同じ「政権与党」の仲間であるソビエトが消滅してしまった結果、第二次世界大戦の戦勝国という「政権与党」全体の力は衰えてしまったのである。その結果、アメリカを含めた第二次世界大戦の戦勝国が世界支配をする政治力も低下してしまったのである。
第二次世界大戦後の世界を江戸時代の日本にたとえるなら、アメリカ、ソビエト、中国といった戦勝国は、武士と同様の支配階級である。これに対して敗戦国の日本やドイツを含めた世界の大多数の国々は、百姓や町民と同じ被支配階級なのである。そして徳川幕府が武士階級のみに帯刀を許したように、第二次世界大戦後の世界では、戦勝五ヶ国のみに核兵器の保有が許されていたのである。ところがインドとパキスタンが相次いで核実験を行い、事実上の核保有国となり、アメリカがこれを容認してしまったということは、第二次世界大戦後の士農工商の「身分制度」が崩壊しつつあることを示しているのである。結局、冷戦の終結は、アメリカを始めとした第二次世界大戦の戦勝国による世界支配の終わりの始まりだったのである。
第二次世界大戦後の覇権体制
一般的には、冷戦の崩壊によってアメリカは唯一の超大国になったと言われている。そして、アメリカは冷戦という天下分け目の戦いに勝利して天下を取ったなどと言った言論人も居たが、果たしてそのようなことが言えるのだろうか。
たとえば、日本で天下分け目の決戦と言えば、関ヶ原の合戦である。一般的には徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利して徳川幕藩体制の基礎を固めたとされている。確かに結果としてそうなったのは事実である。しかし、1600年に徳川家康が関ヶ原で勝利してから、完全に覇権を確立した大坂夏の陣まで、実に十五年の年月を要したという事実も忘れるべきではない。
徳川家康が関ヶ原の勝者となった時点では、依然として天下の情勢は流動的であった。諸大名は次の戦争に備えて城の改築など防衛力の整備に躍起になっていた。そして加藤清正や福島正則のように、大坂城の豊臣秀頼を主君と慕う豊臣家恩顧の大名も存在していた。家康は、1603年に征夷大将軍に就任してからたったの二年余りで将軍職を世継ぎの秀忠に譲ってしまう。これは征夷大将軍の地位が徳川家だけのものであり、徳川家が天下の覇者であることを世に知らしめるための措置であるが、これは裏を返せば、当時の諸大名は依然として、必ずしも徳川家が天下の覇者になったとは思っていなかったということである。
このように、天下分け目の戦いに勝利しさえすれば、それだけで直ちに覇権が確立されるというわけではない。このことは一国のみならず、世界の秩序についても同じことが言えるのである。確かに第二次世界大戦に勝利した後のアメリカは、世界の覇者となり、超大国として世界秩序の維持をすることになった。しかしアメリカは、第一次世界大戦の戦勝国でもあったが、この時は、世界秩序の担い手になることに失敗してしまったのである。つまり、世界大戦に勝利しただけでは、必ずしも覇権国家になれるとは限らないのである。
第一次世界大戦を連合側諸国の勝利に導いたアメリカは、一旦は世界の覇者となった。アメリカのウィルソン大統領は、新たな世界秩序を作り、アメリカの覇権体制を打ち立てようとした。そのため、ウィルソン大統領は、第一次世界大戦中の1918年1月に国際連盟の設立を提言した。ウィルソン大統領が考えたのは、国際機関を設立し、その主導権をアメリカが握ることによって国際政治の主導権を確立するということだった。やがて1919年にベルサイユ条約によって国際連盟の設立が決定され、1920年1月に発足した。ところがアメリカは、孤立主義にこだわる議会の抵抗のため、国際連盟に加盟できなくなってしまった。既に述べたように、第二次世界大戦以前のアメリカの大統領は、戦後の大統領のような議会や世論を圧倒するような強力なカリスマや指導力を持っていなかった。そのため、戦前のアメリカの議会には、大統領の外交政策に抵抗することができたのである。アメリカが国際連盟に加盟できなくなってしまった結果、第一次世界大戦後の国際秩序の維持は、アメリカ抜きで行われることになってしまった。大国アメリカの参加しない国際秩序は、脆弱の一語に尽きる。これが結果として、第二次世界大戦の勃発の原因になってしまったのである。従って、ウィルソン大統領は、ヒトラーと同様に、第二次世界大戦を引き起こした最大の責任者と言えるのである。
第二次世界大戦が終わった後は、世界的な規模の戦争は起こっていない。それは言うまでもなく、アメリカ主導の国際秩序が維持されて来たからである。
国際秩序が維持されるためには、そのための仕組みが必要である。第二次世界大戦後の国際秩序を守ってきたのは、NATO(北大西洋条約機構)と日米安全保障条約という二つのアメリカ主導の軍事同盟である。しかし、この二つの軍事同盟が成立するためには、超大国ソビエトの脅威が必要であったことを忘れてはならない。
ソビエトの超大国の地位が確立されたのが、1945年2月にアメリカ・イギリス・ソビエトの首脳であるルーズベルト、チャーチル、スターリンによって行われたヤルタ会談である。一般的には、ヤルタ会談では、ドイツに対する戦後処理や国際連合の設立、そしてソビエトの対日参戦の密約などが決定されたということになっている。しかし、それ以上に重要なことは、この会談でスターリンがルーズベルトやチャーチルと全く対等に渉り合い、ソビエトがアメリカやイギリスとの対等な政治的地位を確立してしまったということである。
ルーズベルト大統領は、内政における政治家としては偉大な人物ではあったが、外交は不得意だったのである。ルーズベルト大統領は、早く戦争を終わらせることを考え、あせっていた。そのため、戦後のことまで深く考えが及ばず、チャーチル首相の警告にもかかわらず、スターリンに対して譲歩し、東ヨーロッパ諸国に対するソビエトの支配権を容認してしまったのである。その結果、ソビエトは、超大国の地位を獲得したのである。
本来、ソビエトという国は、超大国になるような力を持った国ではなかった。かつてソビエトは、計画経済によってアメリカに次ぐ世界第二位の経済力を持つ国になったと言われていた時代があったが、現在明らかになっているように、冷戦時代のソビエトの経済力は、日本や旧西ドイツに及ばなかったどころか、一説にはフランス以下だったとさえ言われている。しかも第二次世界大戦が終結しつつあった当時のソビエトは、独ソ戦によって工業地帯の大半が破壊され、大幅に生産力が落ちていたのである。ソビエトに第二次世界大戦が戦えたのは、アメリカから軍事物資や兵器の援助を受けていたからである。このような国が超大国の地位を獲得できた理由の一つは、アメリカから援助を受けていたとは言え、ソビエトはナチスドイツとの戦争で功績を挙げたということもある。しかし、ソビエトが超大国の地位を獲得できた最大の理由は、ヤルタ会談などでのスターリンによるアメリカとの外交上の駆け引きの結果だということである。言い換えれば、スターリンは、経済力の不足を自らの政治手腕で補うことによって、ソビエトの超大国の地位を獲得したのである。そういう意味では、スターリンは天才的な政治家だったと言える。こうして、政治力はあっても経済力の欠ける奇怪な超大国ソビエトができあがってしまったのである。
これに対して、ルーズベルトの亡き後、大統領に就任したトルーマンは、スターリンを甘く見ていたルーズベルトとは違い、ソビエトに対して常に強硬な外交政策を行った。1948年のソビエトによるベルリン封鎖に対して空輸で対抗して、スターリンに一歩も譲らなかったのがよい例である。そしてトルーマン大統領は、この奇怪な超大国を利用することによってアメリカが世界を支配する体制を作り上げたのである。
トルーマン大統領は、1947年3月にソビエト封じ込めのための外交方針であるトルーマン・ドクトリンを発表した。この中でトルーマン大統領は、共産主義体制は全体主義であると定め、ファシズムと同様に民主主義の脅威であるとした。トルーマン・ドクトリンは、本来は共産主義の脅威にさらされているギリシャとトルコを支援するための理念として打ち出されたものであるが、その後のアメリカのソビエトに対する封じ込め政策の基本理念となった。
第二次世界大戦の勝者となった後も、アメリカにはモンロー主義の伝統の影響が残っていた。そのためアメリカ国民は、依然として国際政治には無関心であった。ところがトルーマン・ドクトリンによってトルーマン大統領が国家としての明確な理念をアメリカ国民に示した結果、アメリカ国民の意識は一変した。湾岸戦争の時、ブッシュ大統領の決断が、アメリカの世論をイラク攻撃の全面的な支持に変えたのと同じように、トルーマン大統領の断固たる意志表明が、アメリカ国民の目を国際政治に向けさせたのである。
こうしてアメリカ国民のソビエト封じ込め政策への支持を得ることに成功したトルーマン大統領は、ソビエトの脅威に直面する自由主義国家を経済的、軍事的に支援して、ソビエトの膨張主義を封じ込める戦略を世界中で推進していった。トルーマン政権の世界戦略は、ソビエトの脅威から同盟国の安全を守ることを理由に、自由主義諸国をアメリカの経済体制や軍事的支配下に組み込んでしまうことである。この戦略に基づき、ヨーロッパに対しては、経済的にはマーシャル・プランの実行、軍事的にはNATO(北大西洋条約機構)の結成が行われた。これによってアメリカのヨーロッパに対する支配体制が確立された。更にアメリカは、日本に対してもヨーロッパと同様のことを行った。その結果、日米安全保障体制が成立した。こうしてアメリカ主導の世界秩序は確立されたのである。
一方のソビエトもアメリカと同様のことを行った。すなわちCOMECON(経済相互援助会議)とワルシャワ条約機構の設立である。ソビエトもこうして共産圏における支配体制を確立したのである。
ソビエトは、見せかけは恐ろしい軍事超大国である。アメリカは、この見せかけの軍事超大国ソビエトを利用することによって、世界にアメリカの覇権を確立したのである。一方のソビエトは、自国の力がアメリカに遙かに劣ることを知っているため、うかつにアメリカとその同盟国に手出しができなかった。ソビエトは、たまにアメリカに挑戦するような行動を起こしても、ベルリン封鎖やキューバ危機の時のように、アメリカが強い態度に出れば引っ込んでしまう。このようして第二次世界大戦後の平和は維持されて来たのである。トルーマン・ドクトリンのきっかけになったギリシャにおける共産主義勢力の活動にしても、ソビエトが直接関与していたわけではない。ソビエトは、トルーマン政権がアメリカの覇権体制を確立するために利用されたに過ぎなかったのである。さもなければ、せっかく第一次世界大戦に勝利しながら覇権体制を確立できず、二度目の世界大戦が勃発する原因を作ってしまったウィルソン大統領の二の轍を踏むことになりかねないからである。
ルーズベルト大統領は、ヤルタ会談でソビエトに超大国の地位を与えてしまうという失敗を犯したが、トルーマン大統領は、その失敗を逆手にとって利用することによって、アメリカによる世界秩序を確立したのである。こう考えると、トルーマンはスターリン以上の天才だったのかもしれない。
こうしてアメリカとソビエトを盟主とした二つの経済・軍事ブロックが世界を舞台に睨み合う国際秩序が成立したのである。この秩序によってアメリカとソビエトの超大国としての政治的地位が守られて来たのである。要するに、米ソ両超大国にとっての冷戦とは、自国の覇権国家の地位を守るための手段だったのである。米ソ両超大国は、第二次世界大戦後の世界を、冷戦という手段を使って共同統治していたのである。
ソビエトの崩壊の結果、冷戦は終わり、もはやロシアは超大国ではなくなった。しかし同時にもう一方の超大国アメリカも、ソビエトの脅威から同盟国を守ることを理由にして自由主義諸国をアメリカの主導する世界秩序に組み込むことが困難になってしまった。つまり、冷戦の終焉は、トルーマン大統領以来のソビエト封じ込め政策に基づくアメリカの覇権体制の終焉なのである。この結果、政治体制が崩壊したロシアのみならず、冷戦の勝者であるはずのアメリカの政治力までが低下してしまったのである。もし、ブッシュ大統領やクリントン大統領に、冷戦に代わる覇権体制を作ることができたなら、アメリカは冷戦の勝利者と言ってもよいだろう。しかし、現在の時点では、ソビエトの崩壊は第二次世界大戦後の国際秩序を弱体化させただけの結果になっているのである。
現在でもNATO(北大西洋条約機構)と日米安全保障体制は一応存在し続けているが、この二つの軍事機構は、あくまで冷戦時代のソビエトの軍事的脅威に対抗するために作られたものである。現在のアメリカがかろうじて超大国の地位を維持していられるのは、これらのトルーマン大統領が作り上げた冷戦時代の支配体制が、今のところは完全に失われてはいないからである。言い換えれば、現在のアメリカは、トルーマン大統領の遺した過去の遺産を食いつぶしているに過ぎないのである。トルーマン大統領の遺産が完全に失われる前に、トルーマン・ドクトリンに代わる新たな世界秩序の理念を作り上げることができなければ、アメリカは第一次世界大戦後のように覇権国家の地位を維持できなくなってしまうであろう。
アメリカの迷走
アメリカの超大国の地位が失われる前兆だろうか。近年、アメリカの軍事・外交政策が迷走しつつある。
既に述べたように、ブッシュ政権は、2001年9月11日の同時多発テロに対する報復のため、アフガニスタンのタリバン政権に対して軍事力を行使することを決定した。そしてブッシュ政権は、タリバン政権に対する軍事力行使の協力を得るため、インドとパキスタンの核実験に対する制裁措置を解除し、事実上両国の核兵器の保有を認めてしまった。これによって第二次世界大戦の戦勝国による核兵器の独占が崩壊してしまったのである。第二次世界大戦の戦勝国による世界支配体制を維持するため、戦勝五ヶ国は核兵器を独占することによって、非戦勝国に対する軍事的優位を確保して来た。ところが、ブッシュ大統領はインドとパキスタンの核兵器保有を容認することによって、この仕組みを崩壊させてしまったのである。これはアメリカを頂点とした第二次世界大戦の戦勝国による世界支配体制の終わりの始まりと言っても過言ではないだろう。この時からアメリカの迷走が始まったのである。
そして、更なる迷走がイラク戦争なのである。
イラク戦争の開戦以前、ブッシュ政権は、イラクが国連による大量破壊兵器査察に応じなければ武力で攻撃すると言っていた。ところがやがて、大量破壊兵器査察に応じるか応じないかにかかわらずイラクを攻撃すると言い出したのである。そして遂には、イラク攻撃の目的は、サダム・フセイン政権の打倒だと言い出す始末である。このようにブッシュ政権の主張するイラク攻撃の目的は、ころころと変わっていたのである。要するに、ブッシュ政権にとっては、イラクを攻撃する理由など何でもよかったのである。とにかくイラクを攻撃したくてたまらなかったのである。
戦争をするためには、明確な戦争目的が必要である。そして、明確な戦争目的があっても、直ちに戦争は行わず、その前に、戦争目的を達成するための外交努力を行わなければならない。その外交努力にもかかわらず戦争目的を達成できない場合、初めて戦争を行うか行わないかの検討に入るのである。そして、軍事行動を始める前に、あらかじめ国際社会からの軍事行動への支持を得ておかなければならない。これが軍事・外交政策の基本である。戦争に勝利するとは、戦争目的を達成することを言うのである。そして戦争目的を達成して戦争に勝利したと判断したら、直ちに戦争を止めなければならない。従って、明確な戦争目的が無ければ、勝利したのか、してないのか分からなくなってしまう。そのため、どの時点で戦争を止めてよいのかも分からなくなり、下手をすればベトナム戦争のような泥沼状態に陥ってしまうのである。また、国際社会の支持を得られない戦争とは、正当性の無い戦争である。正当性の無い戦争は、軍隊による殺人に過ぎない。
1991年に父親のブッシュ大統領が行った湾岸戦争におけるイラク攻撃は、戦争の手本のような戦争と言える。クウェートを占領しているイラク軍をクウェートから撤退させるという明確な戦争目的があり、しかも国際社会からの全面的な支持を得ることに成功した。そしてイラク軍をクウェートから撤退させるという戦争目的が達成されると、直ちに戦争を停止した。これによってアメリカは湾岸戦争に大勝利したのである。これに対して、息子のブッシュ大統領のイラク戦争は、父親のブッシュ大統領の湾岸戦争と比べると、戦争の手本とは程遠いものであったと言わざるを得ないのである。
イラク戦争が始まる前、ブッシュ政権がイラクに武力行使をする理由の一つとして挙げていたのが、イラクに大量破壊兵器が存在し、それがオサマ・ビン・ラディンのようなテロリストに渡るのを阻止するためというものであった。しかし、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)や国際原子力機関(IAEA)によるイラクに対する査察も、最後までイラクに大量破壊兵器が存在するという証拠を見つけることができなかった。しかも、イラクがオサマ・ビン・ラディンらのテロリストとかかわりがあるという証拠も全く示されなかった。従って、イラクの大量破壊兵器を武装解除するというブッシュ政権の主張する戦争理由には、何ら説得力が無かったのである。しかも、もともと政治的にアメリカと距離を置いていたフランスに加えて、アメリカの同盟国であるドイツやベルギーまでが、国連監視検証査察委員会や国際原子力機関による査察の継続を主張し、アメリカによる対イラク武力攻撃に反対し始めた。
2003年2月18日から19日の二日間わたり国連の安全保障理事会でイラク問題に対する公開討論が開かれた。この公開討論で意見表明をした六十ヶ国余りの国の中で、アメリカによるイラク攻撃に明確な支持を表明したのは、日本やオーストラリアなどの十ヶ国程度にとどまり、残りの大多数は反対の意志を表明した。その結果、アメリカの国際社会からの孤立が明確になってしまった。
トルコ政府は、アメリカ軍によるイラク北部からの攻撃のため、領土の通過を求められていた。ところが、2003年3月1日、トルコ議会は、アメリカ軍の国内駐留の承認を求めたトルコ政府案を否決してしまう。
そして、国連の安全保障理事会を構成する十五ヶ国の中でも、米英以外でイラク攻撃を積極的に支持したのは、スペインとブルガリアだけで、残りの十一ヶ国は反対か消極的な態度を示したため、アメリカは、武力行使決議に必要な賛成票の九票を確保することを断念する羽目になってしまった。その結果、ブッシュ大統領は、2003年3月17日、イラクに対する最後通告の中で「国連安全保障理事会は、その責任を全うしていない。」と述べ、国連安全保障理事会の決議なしでイラクに対する武力行使を行わざるを得なくなってしまった。
ブッシュ大統領は、2001年9月11日の同時多発テロ以来、「テロとの戦い」を冷戦時代の「共産主義との戦い」に代わる世界秩序の理念と定めた。そしてイラク戦争は、「テロとの戦い」を旗印にした戦争であったが、このように世界の多くの国々がアメリカによる武力行使に反対したのである。これによって、依然として「テロとの戦い」が「共産主義との戦い」に代わる世界秩序の理念になっていないことが明らかになったのである。つまり、依然として冷戦に代わる世界秩序は完成していないのである。
ブッシュ大統領は、2003年3月19日にイラクに対して開戦を宣言し、イラクに対する空爆を開始する。更に3月20日、米英軍は地上軍による戦闘を開始し、首都バグダッドに向けて行軍を始めた。途中、砂嵐によって戦線が膠着状態になったり、イラク民兵のゲリラ戦に手を焼いたりはしたが、4月4日にはバグダッド郊外のサダム国際空港を制圧し、首都バグダッドに到達した。そして4月9日、バグダッドは陥落し、サダム・フセイン政権は崩壊した。
サダム・フセイン政権が打倒されたことで、イラク戦争は軍事的には米英の勝利に終わった。しかし問題は、サダム・フセイン政権を打倒した後のことである。
アメリカがイラク戦争を正当化する理由の一つに、イラクに「自由と民主主義」を樹立することがあった。しかし、法の支配の伝統も民主主義の伝統も無いイラクに「自由と民主主義」が成立するとは考えられない。
既に述べたように、法の支配の伝統が存在しない国は、武断統治をするしかないのである。首都バグダッドが陥落し、サダム・フセイン政権が崩壊した直後から、バグダッド市民による略奪や強盗などの違法行為が始まった。個人の家や商店どころか、病院や博物館までが略奪の対象となり、医療器具や貴重な文化財までが略奪されてしまった。それまでイラク国民は、サダム・フセイン政権の武力と恐怖を背景にした武断統治によって法と秩序を守ることを強制されていた。ところがサダム・フセイン政権が崩壊した結果、法と秩序を守ることを強制する力が失われてしまった。そのため、略奪や強盗などの違法行為が横行する結果になったのである。これが法の支配の伝統が定着していない国の国民なのである。これに対して、法の支配の伝統が定着している国の国民とは、権力によって法や秩序を守ることを強制されなくても、自ら進んで法や秩序に従う慣習が定着している国民のことである。自由とは、法の支配の伝統が定着している国の国民にのみ与えることができるものである。イラク国民のような法の支配の伝統が確立されていない国の国民に対して自由を与えたら、法や秩序が混乱してしまうだけである。法の支配の伝統が確立されていない国の国民が法・秩序に従うのは、権力者が恐ろしいからである。従って、イラクのような法の支配の伝統が確立されていない国で法と秩序を維持するためには、権力者はサダム・フセインのように国民から恐れられていなければならないのである。そのためには武力と恐怖による支配、すなわち武断統治が必要不可欠なのである。当然、このような国に民主主義が成立するわけがない。
ヨーロッパ諸国に民主主義の伝統が確立されるまで、中世以来、数百年の年月がかかっている。その間、ヨーロッパ諸国では宗教戦争やら市民革命やらで、多くの人間の血が流されているのである。従って、もしイラクが数年で近代的な民主主義国家になったとしたら奇跡としか言いようがないのである。
アメリカがイラクを民主化すると言うのなら、法の支配の伝統をイラクに定着させなければならない。それができなければイラクの民主化は失敗し、アメリカは正義を失うことになる。結局、イラクに成立するのは、日本の戦後民主主義のような、形だけの民主主義に過ぎないのである。これでは、イラクに「自由と民主主義」を樹立するというイラク戦争の戦争目的は達成できないことになってしまう。そして、戦争目的が達成できなければ、たとえ軍事的に勝利しても、結果としては敗戦なのである。
また、既に述べたように、アメリカが言っている民主主義国家は、現実のアメリカとは違い、最高指導者を中心とした安全保障体制という考えが全く欠落している。従って、アメリカが言っている民主主義を受け入れてしまった国は、国家の防衛ができない欠陥国家になってしまう。そのため、第二次世界大戦後の日本のように、アメリカに国家の安全保障を肩代わりしてもらうしか無くなってしまうのである。従って、アメリカの指導によって作られたイラクの民主主義体制も日本の民主主義体制と同様に、アメリカの保護の下でしか成立しないものになるしかない。これでは、たとえイラクの民主化に成功しても、イラクを独立した民主主義国家に作り変えることには失敗したことになってしまう。
民主主義国家が成立するためには、法の支配の確立を始めとした様々な条件が必要である。従って、どこの国でも成立するものではない。つまり、民主主義国家に普遍性は無いのである。アメリカは、こういったことが分かっていないため、ベトナム戦争やイラク戦争のような失敗を繰り返すのである。
当初、ブッシュ政権のイラクに対する武力行使の大義名分であったのが、サダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有であった。ところが、アメリカによる必死の捜索にもかかわらず、遂にサダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有の証拠は発見されなかった。そして2004年10月6日、CIA(中央情報局)主導のイラク大量破壊兵器調査団は、イラク戦争開戦の2003年3月の時点で、イラクにはいかなる大量破壊兵器も存在しなかったという結論をアメリカ議会に提出した。これによってイラクに対する武力行使の大義名分であった、サダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有は、ブッシュ政権によるでっち上げだったことが明らかになったのである。
更に、アメリカによるイラクの占領統治で問題だったのが、テロリストやゲリラの攻撃である。ブッシュ大統領が2003年5月1日にイラクにおける大規模な戦闘の終結を宣言した後も、アメリカ兵やイギリス兵などに対するテロ攻撃が毎日のように起こり、一向におさまる様子が無いどころか、ますます激化し、死傷者は増える一方であった。そして遂に、人道支援活動を行っていた国連や赤十字国際委員会までがテロリストの攻撃を受けてしまった。そして、遂に国連はイラクから撤退してしまった。
2004年になっても、アメリカのイラク占領統治の混迷は深まる一方であった。かつてイラクのイスラム教シーア派は、イスラム教スンニー派のフセイン政権から弾圧されていたため、アメリカの占領統治には協力すると期待されていた。ところが、そのイスラム教シーア派までがアメリカを敵視するようになってしまった。2004年4月に入ると、イラク各地でシーア派の強硬派の指導者サドル師を支持する民兵組織のマフディ軍とアメリカ軍との間で武力衝突が発生した。更に、当初イラク戦争を支持していたスペインが、2004年3月11日にマドリードで起きたテロ事件をきっかけにイラクに駐留する部隊の早期撤退を決定した。これに続いてホンジュラスやドミニカなどもイラクからの撤退の意志を表明し、アメリカのイラク占領統治は動揺することになった。
イラクでは、2005年1月30日、憲法を制定して正統政府を樹立するための移行政府を作るため、国民議会選挙の投票が行われた。選挙結果を受け、国民議会は3月16日から政府の要人や閣僚を決定する過程に入ったが、宗派や民族の対立などが障害となり、人選は難航を極めた。4月28日、ようやくジャファリ首相の提出した閣僚名簿が国民議会によって承認され、イスラム教シーア派やクルド人などの各派からなる連立政権が発足し、正統政府を樹立するための移行政府が成立した。当初、国民の意志で選ばれた議会によって作られた政府の発足によって、イラクの治安が改善されることが期待されていたが、全く期待はずれの結果となった。その後も依然として、イスラム過激派によるテロリズムが止むことは無く、アメリカ兵や一般市民の犠牲者が出る状況が続いていた。そのため、開戦当初、ブッシュ大統領を熱烈に支持していたアメリカ国民も、一向に減らないアメリカ兵の死傷者や安定しないイラクの治安状況のため、次第にイラク戦争に対して懐疑的になり始めた。
2006年になり、イラク戦争の開戦から三年たった頃にはアメリカ兵の死者は二千数百人という数になり、アメリカ国内に厭戦気分が蔓延し始めた。そして2006年11月、イラク戦争が最大の争点となった中間選挙の結果、ブッシュ大統領の与党の共和党が上下両院で議席数が過半数割れをして、ブッシュ政権のイラク戦争が国民から失策と見なされ支持を失っていることが明らかになった。この選挙結果を受け、ブッシュ大統領は、イラク戦争推進の中心人物であったラムズフェルド国防長官を解任した。これは事実上、ブッシュ大統領がイラク戦争の失敗を認めたものである。
当初、イスラム過激派によるテロリズムは、アメリカ兵やイラク政府の要人を標的にしたものであったが、次第に、シーア派やスンニー派といった対立する宗派の民間人にまで標的が拡大していった。その結果、一部のアメリカのジャーナリズムまでが、イラクの状況を「内戦」と表現するようになってしまった。
ブッシュ政権は、イラクの治安を安定させるため、2007年1月からアメリカ兵のイラクへの増派を始めた。増派の規模は、約三万人に達した。これによって2007年の末にはテロリズムが減り、アメリカ兵やイラク市民のテロリズムによる犠牲者は半減した。しかし、イラク戦争がアメリカ国民の支持を失っている状況には変わりが無かったのである。
ブッシュ政権が、このイラク戦争の失点を挽回しようと焦ったことが、更なる失策を招く結果になってしまった。それが、対北朝鮮外交である。
アメリカにとって北朝鮮の核開発は、クリントン政権以来の外交問題であった。特に、北朝鮮が、2006年10月9日に核実験を行ったと発表したことは、朝鮮半島を含めた東アジア全体の安全保障にとって重大な問題と見なされていた。一方、金正日体制を温存することが最優先目的である北朝鮮は、アメリカを始めとした西側諸国から経済支援を引き出し、疲弊した経済を立て直して国民の支持を得なければならない。北朝鮮にとっての核開発は、アメリカなどの西側諸国から経済支援を引き出す交渉のための切り札である。そのため、北朝鮮は、日本、アメリカ、韓国、中国、ロシアと北朝鮮による六カ国協議など、北朝鮮の核問題を解決するための交渉の場で核放棄を迫られても、可能な限りアメリカから自国に有利な条件を引き出そうとして粘り、なかなか核放棄を実行しようとはしなかった。
これに対してブッシュ政権は、北朝鮮に核放棄を実行させるため、様々な手を打った。その一つが、北朝鮮に対する金融制裁の解除である。
ブッシュ政権は、2005年9月、中国のマカオにある北朝鮮の貿易決済や外貨取引に使われていた銀行「バンコ・デルタ・アジア」を「資金洗浄に関与した疑いの強い金融機関」に指定したため、「バンコ・デルタ・アジア」はアメリカの金融機関との取引が事実上できなくなり、取り付け騒ぎが起こった。マカオ当局は混乱を回避するため「バンコ・デルタ・アジア」内の北朝鮮関連口座を凍結した。すると、他の金融機関も北朝鮮との取引を避けたため、北朝鮮は大打撃をこうむった。これは、事実上の北朝鮮に対する金融制裁である。ブッシュ政権は北朝鮮に核放棄を促すため、2007年3月14日、この金融制裁を事実上解除することを発表したのである。しかし、それでも北朝鮮は、完全な核放棄を実行しようとはしなかった。
そして、北朝鮮の核実験の発表から一年近くたった頃、ブッシュ政権は六カ国協議で、核計画の「完全かつ正確な」申告と引き換えに、1983年のラングーン爆弾テロ事件や1987年の大韓航空機爆破事件を理由に北朝鮮に課していたテロ支援国家指定を解除するという条件を示した。この背景には、核兵器の拡散を防ぎたいということもあったが、任期が残り一年余りと迫ったブッシュ政権の、何とか功績を残したいとの焦りもあった。そして、2007年10月、六カ国協議は、北朝鮮が核計画の申告をすることで合意した。
そして2008年6月26日、北朝鮮は、六カ国協議の議長国の中国に核計画の申告書を提出した。しかし、北朝鮮の提出した核計画の申告書は、ウラン濃縮計画、核兵器開発の実態や核兵器の数、そして核兵器関連施設など、核兵器開発に関する情報が記されておらず、「完全かつ正確な」とは言えないものであった。しかも、北朝鮮が核兵器開発を止めるという保証があるわけでもない。それにもかかわらず、ブッシュ大統領は、「北朝鮮のテロ支援国家指定を四十五日後に解除する旨を議会に通告する。」と述べ、核計画の申告書が提出されたことに対する見返りとして、北朝鮮のテロ支援国家指定を解除することを決定したのである。その後、アメリカと北朝鮮の間で、核計画の申告書の内容を検証する方法を巡って意見が合わず、実際のテロ支援国家指定解除は予定の期日を過ぎてもなかなか行われなかったが、結局、2008年10月11日に北朝鮮のテロ支援国家指定は解除されてしまった。テロ支援国家指定が解除された結果、北朝鮮は、世界銀行からの融資やアメリカから経済援助を受けることが可能となった。これによって金正日体制は、更に温存される可能性が高まったのである。これは、何とかしてイラク戦争の失敗を挽回して功績を残したいと焦っているブッシュ政権の足元をじっくりと見て、したたかに交渉を重ねた北朝鮮の勝利であり、功を焦ったブッシュ政権の敗北である。
また、北朝鮮に対するテロ支援国家指定の解除の決定によって、日本にとって対北朝鮮外交の最大の課題である日本人拉致問題の解決の交渉をするための最大の切り札が失われてしまった。ブッシュ大統領は、「アメリカは北朝鮮による日本人拉致を決して忘れない。」などと述べたが、拉致被害者家族や日本人のブッシュ大統領に対する失望感を拭い去ることはできなかった。そもそも北朝鮮による日本人や韓国人の拉致がテロ行為であることは、アメリカ政府も認めていることである。そして現在でも、北朝鮮国内には依然として多くの拉致被害者が存在することは明らかである。つまり、依然として北朝鮮による拉致というテロ行為は続いているのである。それにもかかわらずブッシュ大統領は、北朝鮮のテロ支援国家指定を解除してしまったのである。これでは、ブッシュ大統領の掲げるテロとの戦いが頓挫してしまったものと見なされても仕方が無い。
このように、ブッシュ政権の軍事・外交政策は、迷走としか言いようが無いのである。
超大国の行方
本来、超大国とは、世界を制して一つに団結させる強力な政治力を持った国のことである。従って、世界を団結させることができず、イラク戦争で迷走し、対北朝鮮外交で敗北したアメリカを超大国と呼ぶことには疑問がある。アメリカは旧ソビエトとは違い、経済力や技術力では超大国と言える力を持っている。そのアメリカが、どうしてイラク戦争や対北朝鮮外交で超大国と言えるような力を発揮できなかったのだろうか。
国力と言うと、経済力や軍事力のような物理的な力だけを指して言う人達がいるが、これは大きな誤りである。なぜなら、国力というものは単に経済力や軍事力のような物理的な力だけで決まるものではなく、国家の指導者の政治や軍事の才能といったものも、国力を決定する上で重要な要素であることが歴史を見れば明らかだからである。
本来なら辺境の弱小勢力に過ぎなかった国家や民族が、政治や軍事に天才的な才能を持った指導者が登場した結果、巨大な帝国に発展した例が歴史上いくらでもある。その典型的な例がマケドニアとモンゴルである。ギリシャ世界の辺境国家に過ぎなかったマケドニアは、紀元前四世紀の後半にフィリッポス二世の才能によってギリシャ世界を統一し、フィリッポス二世の後継者となった息子のアレキサンダーの才能によってペルシャ帝国を征服して巨大なアレキサンダー帝国となった。また、抗争を繰り返していたモンゴルの諸部族は、十三世紀の始めにジンギスカンの才能によって統一された。そしてモンゴルは、金帝国やホラズムなどの強国を次々と撃破して世界帝国へと発展していった。アレキサンダーによって征服されたペルシャ帝国にしろ、ジンギスカンによって征服された金帝国やホラズムにしろ、軍事的にも経済的にもマケドニアやモンゴルに勝るとも劣らぬ強大な帝国だった。そのような国の征服を可能にしたのが、アレキサンダーやジンギスカンの政治と軍事の才能だったのである。
しかし、イギリスに始まった産業革命以降は、弱小勢力がマケドニアやモンゴルのように、天才的な指導者の才能だけで強大な帝国に発展することは不可能となった。資本主義経済と産業革命によって生み出される膨大な物量や優れた技術が、戦争の勝敗を決定する大きな要因になってしまったからである。たとえ天才的な指導者の才能で、経済力や軍事力に勝る強国を一時的に打ち破ることができても、征服するのは不可能である。しかし、だからと言って、国力を決定する上で指導者の政治や軍事の才能が全く無用になったわけではないのである。既に述べたように、アメリカやソビエトが超大国の地位を確立する過程で、フランクリン・ルーズベルトやトルーマン、そしてスターリンといった指導者達の政治能力が必要不可欠だったからである。しかし逆に、一旦超大国になっても、無能な指導者が政治や軍事で大きな失敗をした結果、政治的な地位が低下してしまう可能性もあるのである。従って、現在、唯一の超大国と言われているアメリカが、経済力や軍事力といった物理的な力を維持することができても、無能な指導者が政治や軍事で何か大きな失敗をして政治力が低下してしまったら超大国の地位を失う可能性があるのである。
第二次世界大戦の時、アメリカがナチスドイツと日本を同時に戦争で打ち破るほどの超大国となったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の政治能力の賜物であると言える。なぜなら、同じアメリカでも、ベトナム戦争の時は、ジョンソン大統領の無能のために小国北ベトナムに戦争で敗れるような弱小国になってしまったからである。つまり、アメリカの国力の強弱は、大統領の政治能力によって大きく左右されるのである。
既に述べたように、現在のアメリカ大統領の強大な力は、フランクリン・ルーズベルト大統領によって確立され、その後の大統領に継承されている。しかし、大統領に就任した者が前任者から継承するのは、カリスマや権威といった最高指導者を務めるために最低限度必要な力であって、政治手腕や判断力といった政治家としての能力は、大統領個人の能力に頼らざるを得ないのである。いくら強大なカリスマや権威を持っていても、政治的な判断を誤り、ベトナム戦争やイラク戦争のような失敗を繰り返すようでは、超大国の最高指導者は務まらないのである。つまり、超大国アメリカの大統領は、高度な判断力や政治手腕といった超大国の最高指導者にふさわしい能力を持った政治家でなければ務まらないのである。従って、前任者から大統領の力を引き継いだだけでは、アメリカ一国の防衛のような最低限度のことができる大統領にはなれても、フランクリン・ルーズベルトのような偉大な大統領や超大国にふさわしい大統領になれるわけではないのである。つまり、アメリカが第二次世界大戦に勝利して超大国になれたのは、フランクリン・ルーズベルト大統領やトルーマン大統領といった傑出した最高指導者の政治手腕や判断力によってもたらされた奇跡なのである。従って、傑出した大統領の存在しないアメリカには超大国と言えるほどの実力は無いのである。ブッシュ政権下のアメリカは、経済力や技術力といった力だけを取ってみれば世界を圧倒する力を持っていたが、指導者の政治的な能力を含めた総合的な力では、決して世界を圧倒する超大国とは言えなかったのである。つまり、超大国の指導者にふさわしい能力を持たない無能な大統領の君臨するアメリカを超大国だと考えるのは、単なる幻想なのである。従って、無能な大統領の君臨するアメリカにとって、超大国の地位を守るということは、超大国の力が幻想であることが、ばれないようにすることなのである。
かつてアメリカは、ベトナム戦争の敗北とニクソン大統領がウォーターゲート事件の責任をとって辞任したことによる政治の混乱と国家の権威の低下によって、超大国の力が幻想であることがばれそうになった。この時のアメリカは、国家の権威も大統領のカリスマの力も低下し、国民は自信を失い、政治も経済も低迷を続けていた。特に軍事面ではほとんど何もできない状態が続いていた。それを象徴する出来事が、南ベトナムの崩壊である。
1973年1月27日、パリでベトナム和平協定が調印された。これに基づきアメリカはベトナムから全ての軍を撤退させたが、その後も南北ベトナム間の戦闘はやむことは無かった。1975年になると北ベトナムは攻勢を強め、1975年4月30日には南ベトナムの首都サイゴンを陥落させる。こうして南ベトナムは崩壊してしまった。これに対して、アメリカのフォード政権も議会も、同盟国であった南ベトナムを助けようとはせず、南ベトナムを見殺しにしてしまったのである。その理由の一つは、当時のアメリカはベトナム戦争の敗戦と反戦運動の影響によって厭戦気分に陥り、もはや戦争をする気力を失っていたということもある。しかし、それ以上に大きな理由は、ベトナム戦争の敗戦とウォーターゲート事件によって引き起こされた政治の混乱の結果、国家の権威と大統領のカリスマの力が低下し、軍事・外交上の重大な意志決定をする能力が低下してしまったということである。
この時のアメリカの窮地を救ったのが冷戦だったのである。西側諸国には、ソビエトの軍事的脅威から西側諸国の安全を守ってくれる盟主が必要だった。そして、西側諸国の盟主が務まるような力を持った国は、結局、アメリカしか存在しなかった。そのため、西側諸国は、ソビエトの軍事的脅威に対してアメリカを中心に団結せざるを得なかったのである。これによってアメリカの超大国の地位は、かろうじて守られたのである。
アメリカの権威の低下と軍事政策の停滞した状況は、レーガン大統領の登場によって打破された。彼の持つカリスマの力と自信に満ちた態度が、アメリカ国民の自信を取り戻し、国家の権威や大統領のカリスマの力も復活するのである。そして軍事的にも、リビア爆撃やグレナダ侵攻をやってのける。こうして、ベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件以来、低下していたアメリカの権威と大統領のカリスマの力は復活したのである。その、レーガン大統領によって復活した大統領の強大な力は、そのまま父親の方のブッシュ大統領に継承されたのである。父親の方のブッシュ大統領が湾岸戦争の時に強大な力を発揮できたのは、ベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件によって失墜した大統領の力をレーガン大統領が復活させておいたからに他ならない。従って、レーガン大統領は、湾岸戦争勝利の陰の功労者と言ってもよいだろう。
ところが、レーガン大統領は、ソビエトを「悪の帝国」とののしり、軍拡競争を挑んだのである。これに対して、経済が破綻状態にあったソビエトは、耐えられなくなってしまった。そして、1991年、遂にソビエトは崩壊して冷戦が終了してしまう。その結果、アメリカは、超大国の地位を守る手段を失って迷走し始めることになってしまったのである。
息子の方のブッシュが大統領だった時代のアメリカは、冷戦という超大国の地位を維持する手段を失っていた上、大統領の凡庸な政治能力のため、超大国としての力を発揮することが困難であった。その結果、イラク戦争や対北朝鮮外交のような迷走をすることになってしまったのである。アメリカの指導者達が息子の方のブッシュ大統領のように政治や歴史を正しく認識せず、イラク戦争や対北朝鮮外交と同様の迷走を繰り返すようなら、遠からずアメリカは超大国の地位を失うであろう。そして、一度、超大国の地位を失ってしまったら、取り戻すのは極めて困難である。勿論、フランクリン・ルーズベルトのように強力なカリスマや指導力があり、トルーマンのように優れた外交能力のある大統領が登場すれば、アメリカは超大国の地位を取り戻すことができるかもしれないが、歴史を見れば分かるように、そのような指導者は滅多に登場するものではないのである。
日本がアメリカから自立する時
日本は、アメリカによるアジア征服戦争である太平洋戦争の一環として「アメリカ帝国」に征服され、その「属州」と化してしまった。しかし、アメリカが超大国としての政治的地位を維持している今の時点で、日本が「アメリカ帝国」から自立するのは極めて困難である。なぜなら、アメリカとしては、そう簡単に日本の自立を認めるわけにはいかないからである。
その理由の一つは、「アメリカ帝国」を維持するためである。「アメリカ帝国」の最大の非支配国である日本が自立してしまったら、「アメリカ帝国」は、弱体化してしまうからである。
そして、アメリカが日本の自立を認めるわけにはいかないもう一つの理由が、アメリカの安全保障のためである。日本軍による真珠湾攻撃は、今でもアメリカ人の記憶に深く刻まれている。日本に二度とアメリカに対する先制攻撃などさせてはならないというのがアメリカ人の強い決意である。しかし、日本が独立国家であれば、日本がアメリカの敵国となり、真珠湾攻撃と同様の先制攻撃を行う可能性があると考えざるを得ない。従って、日本がアメリカの敵となり先制攻撃を行うような事態が二度と起こらないようにするためには、結局、アメリカは日本を独立国家にするわけにはいかないのである。そのためには、日本を永久にアメリカに従属させるしかないのである。
安全保障や危機管理というものは、考え得る最悪の事態を想定し、それを防ぐための最善の方法は何なのかを考えるのが常識である。日本がアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国であるということは、アメリカに次ぐ軍事大国になる可能性があるということでもある。更に、日本は核兵器を開発する能力があると見なされているし、大陸間弾道ミサイルに転用可能なロケット技術も持っている。ということは、ワシントンやニューヨークが日本の核ミサイルの標的になる可能性もあるということである。可能性がある以上は、実際にそれを防ぐための手段を講じなければならない。今日の日米関係が良好なのは、日米安保体制によって事実上日本がアメリカの軍事占領下に置かれているため、日本がアメリカの軍事的脅威になることはあり得ないからである。しかし、もし、日本が自立してしまったら状況は一変する。日本が自立するということは、日本が独自に軍事・外交政策を決定するということである。それは言い換えれば、日本がアメリカと敵対するような軍事・外交政策を決定することも可能になるということである。安全保障政策の基本は、自国の安全を脅かす可能性のある国に対して備えるということである。いかに友好関係にある国家といえども、いつ敵国になるか分からないのが国際社会である。だから、友好国といえども、敵国になった場合に備えて軍備を整えておかなければならないのである。従って、日本がアメリカから完全に自立するようなことになった場合、日米関係がいかに良好であっても、アメリカは対日軍備を怠るわけにはいかなくなってしまうのである。そして、アメリカが対日軍備を行う以上、日本としても対米軍備を行わざるを得なくなってしまうのである。現在のアメリカは、イラク戦争開始までの経過を見れば分かるように、極めて好戦的な国である。一度アメリカが戦争をすると決意すれば、イラク戦争開戦時の大量破壊兵器疑惑のような、ありもしないような理由をでっち上げてでも戦争をしようとするのである。従って、アメリカが超大国としての政治的地位を維持している今の時点で日本がアメリカから自立しようとすれば、アメリカとの全面対決が避けられなくなってしまう可能性が高いのである。このような危険な軍事大国と軍事的に対立するのは自殺行為である。もし将来、日本がアメリカから自立する時が来るとすれば、アメリカが超大国の地位を失い、政治的にも軍事的にも日本を含めたアジアから手を引かざるを得なくなった場合に限るのである。
アメリカと同じく第二次世界大戦に勝利して大国となったイギリス、フランス、ロシア、中国は、その政治力を維持するに足る経済力や軍事力を持っていないため、国際社会でアメリカほど大きな発言力を持つことができない。このことから、大国の地位を維持するためには、経済力や軍事力も必要であることは明らかである。しかし、最も肝心なのが政治力である。日本のように、いくら経済力があっても政治力が無ければ、国際社会で大きな発言力を持つことはできないのである。経済力や軍事力は、大国の地位を維持するための必要条件ではあっても十分条件ではないのである。
おそらく、アメリカは、二十一世紀中は、経済的にも軍事的にも世界最強の国家であり続けるであろう。従って、もし二十一世紀中にアメリカが超大国の地位を失うようなことがあるとすれば、それはアメリカが何らかの政治的失敗をすることによって政治力が低下してしまう場合に限るのである。そして、超大国の地位を失う所まで政治力が低下した場合、アメリカは自国の防衛以上の戦争を正当化することはできなくなってしまう。つまり、日本軍による真珠湾攻撃以前のアメリカに戻ってしまうのである。そうなれば、アメリカはいくら強大な軍事力を持っていても、自国の領土を先制攻撃されない限り他国を攻撃することができなくなってしまうのである。アメリカがこのような状態になって始めて日本はアメリカから自立することが可能になるのである。従って、その時が来るまでは、日本政府はアメリカの「犬」を演じ続けるしかないのである。
終わりに
第二次世界大戦後の日本は、最高指導者が存在しないことと憲法の規定のため戦争ができないことによって、アメリカに保護されなければ成り立たない国になってしまったのである。
軍事・外交上の重大な意志決定をすることこそ、国家の最高指導者の最大の役割である。従って、最高指導者の存在しない戦後の日本は、軍事・外交政策の意志決定ができず、独自の軍事・外交政策を行うことが不可能になってしまった。そのため、軍事・外交政策は、アメリカに任せる他は無くなってしまったのである。しかし、これは言い換えれば、戦後の日本の軍事・外交政策を決定することは、事実上アメリカの大統領の役割だということである。従って、日本の事実上の最高指導者は、アメリカの大統領ということになってしまうのである。そして、アメリカの大統領が日本の最高指導者だとすれば、戦後の日本は事実上アメリカに併合されてしまっているということである。これでは、戦後の日本に独自の軍事・外交政策などできるわけが無い。
戦後の日本は、アメリカの軍事力と政治力の保護下にあり、国家の安全保障は日米安保体制に基づきアメリカに肩代わりをしてもらっているため、最高指導者が不在の不完全な国家体制でも、どうにか成り立っている。しかし、将来、何らかの理由で日米安保体制が消滅してアメリカの保護を受けられなくなり、本当の意味での独立国家にならざるを得なくなった場合は、このような不完全な国家体制では国家は成り立たない。
現在の時点でも日米安保体制が維持されているのは、今のところは一応、アメリカに超大国としての政治力があると見なされているからである。どのような国家であろうと、軍事力や経済力がいくらあろうと、力の行使を正当化できるような強力な政治力が無ければ、その力を十分に使いこなせないのである。ベトナム戦争の敗戦の後、一時的とは言え、アメリカの政治力が低下した結果、軍事・外交政策が停滞した時期があったのがよい例である。従って、イラク戦争や対北朝鮮外交のようなアメリカの迷走が今後も続くようなら、ベトナム戦争に敗れた時と同様にアメリカの政治力が低下して、軍事・外交政策が停滞する可能性があるのである。ただし、仮にそうなったとしても、その政治力の低下が一時的なものにとどまるのか、それとも長期的に続いて、アメリカが超大国の地位を失うところまで行ってしまうのかは今のところは分からない。ただ、過去の歴史を見れば、超大国や覇権国家なるものが、永久に続いたという例は無いのである。ペルシャ帝国、中国の秦、漢、唐帝国、ローマ帝国、モンゴル帝国、そして大英帝国など、歴史上、超大国や覇権国家と呼ばれた国はいくつもあった。これらの国は、一時期、強大な軍事力や政治力によって繁栄したが、結局、最後は弱体化して滅亡したり小国になったりしている。このような過去の歴史から考えれば、現在、超大国として世界に君臨するアメリカも、いずれはその地位を失う時がやってくる可能性が高いのである。従って、日本がいつまでも国家の安全保障をアメリカに肩代わりしてもらえる保証は無いのである。
2003年6月に、いわゆる有事関連法が成立したのは、北朝鮮による拉致問題や不審船問題などによって、日本国民が国家の安全保障に対して不安を持つようになったという背景があったからである。このことからも分かるように、日本国民は、安全保障が国家の最大の役割であることを理解しているのである。従って、日本国民が、国家の安全を守れないような国家体制を支持することはあり得ないのである。もし、アメリカによる日本の安全保障の肩代わりが無くなり、戦後民主主義では国家の安全が守れないということが明らかになれば、戦後民主主義は日本国民から見限られ、破綻するしかないのである。また、そもそも戦後民主主義と呼ばれる日本の政治体制は、超大国たるアメリカの政治力を背景に作られたものである。そのため、戦前の満州国が大日本帝国の政治力によって正当化されていたように、あるいは、かつての東ヨーロッパの共産主義体制が超大国ソビエトの政治力によって正当化されていたように、戦後民主主義は、超大国アメリカの政治力によって正当化されて維持されているのである。従って、アメリカが超大国と言えるような政治力を失えば、それだけで戦後民主主義は正当性を失い消滅する可能性が高いのである。
アメリカが超大国としての力を失い、戦後民主主義が消滅すれば、新たな国家体制を作らなければならない。そして、もはやアメリカに国家の安全保障を頼れない以上、国家の防衛は日本が独自に行わざるを得ない。従って、日本は、明治維新の時のように、国家の防衛が可能な強力な国家体制を作らざるを得なくなる。その結果、国家・国民を指導して軍事・外交上の意志決定ができる強力なカリスマを持った最高指導者が必要になるのである。
ただし、強力なカリスマを持った最高指導者が現れても、その強力なカリスマを安定して後継者に継承することができなければ、再び最高指導者が不在の欠陥国家になってしまうのである。そこで、強力なカリスマを安定して後継者に継承する指導体制が必要になるのである。世界には、強力なカリスマを安定して継承できる指導体制は、大統領制と君主制の二種類が存在する。ただし、日本の場合は、最高指導者が必要になっても、大統領制が成立することはない。その理由は、日本には天皇以外の者が最高指導者になることを否定する、独特の伝統・文化が存在するからである。
その伝統・文化の一つが、天皇以外の者は、「行政の責任者」になれても最高指導者にはなれないというものである。日本には、古代より、国家の最高指導者の役割のうち、国家の重大な意志決定をする「最高意志決定者」は天皇だけの役割であり、天皇以外の者は、いくら実力があっても、行政機関の長として行政を預かる「行政の責任者」にしかなれないという伝統が定着している。そのため、内閣総理大臣は、完全な国家の最高指導者にはなれないのである。これは、憲法を改正して大統領制を導入してみたところで、結果は同じことである。
ただし、日本の歴史上、正統な国家の最高指導者にはなれなかったが、実質的に国家の最高指導者に匹敵する存在になった例はある。その一例が、明治国家が成立したばかりの頃の西郷隆盛である。西郷隆盛が実質的な最高指導者に匹敵する存在になった理由は、明治初期の日本を武断統治していたことにある。明治初期の明治天皇は、国家の最高指導者としての力を十分に持っていなかった。更に、当時の日本は、まだ法の支配が十分に確立されていなかった。そのため明治初期の日本の政治は、極めて不安定な状況にあった。このような状況にあったにもかかわらず、明治政府は廃藩置県などの士族の特権を奪う改革を行わなければならず、改革に対する士族の不満から政治の混乱が起こる恐れがあった。そのため明治政府は、強力なカリスマと指導力で薩摩・長州・土佐の八千人の兵からなる御親兵を率いる西郷隆盛の力で士族達の不満を押さえつけて、廃藩置県などの政治改革を断行したのである。つまり明治政府は、西郷隆盛の強力なカリスマと指導力による武断統治下で政治改革を断行するしかなかったのである。
西郷隆盛が、明治初期の日本を武断統治することができる程の強力なカリスマと指導力を獲得した背景にあったのが、「乱世」である。かつて日本に武家政治が成立した理由は、本来は正統な日本の最高指導者である天皇が国家を統治する力を失い、しかも法の支配が確立されていなかったため、政治が混乱して「乱世」になってしまったためである。その「乱世」を武力によって平定して強力なカリスマを確立した武家の棟梁が征夷大将軍となり、天皇に代わって日本を統治したのが幕府と呼ばれる武家政治である。つまり幕府とは、日本の正統な最高指導者である天皇が、国家の最高指導者としての力を十分に持っておらず、しかも法の支配も確立されていないという状況の下で、武家の棟梁が国家の最高指導者の役割を代行するものである。従って、武家の棟梁であり幕府の長でもあった征夷大将軍は、「行政の責任者」であったと同時に、天皇の臨時代行でもあったということである。明治初期の日本は、天皇の最高指導者としての力が不十分であり、しかも法の支配も十分に確立されてはいなかったため、黒船事件に始まる「乱世」が完全に収まっていなかった。そこで、幕末の動乱を制した西郷隆盛が、強力なカリスマと武力を背景にして、一時的に日本を武断統治して、国家の最高指導者の役割を代行していたのである。つまり、この時の西郷隆盛の役割は、征夷大将軍と同じである。明治初期の日本は、「西郷幕府」の統治下にあったのである。
日本の武家政治は、基本的には中国の武断統治と同じである。中国は、歴史が始まってから今日に至るまで一度も法の支配が確立されたことは無かった。更に、皇帝を始めとした最高指導者達が正統性を確立したことも無かった。そのため中国の指導者達は、日本の武家政治の指導者と同様、乱世を武力によって平定した者が、強力なカリスマと武力を背景に最高指導者として国家に君臨して武断統治を行って来たのである。秦の始皇帝から毛沢東やケ小平に至るまで、これが歴代中国の指導者が国家を統治する方法である。武家政治の時代の日本も、古代から現代に至る中国も、法の支配が確立されておらず、強大なカリスマと武力を持った指導者がいなければ国家を統治できず「乱世」になってしまうという点では同じである。そして、日本の武家政治の指導者も歴代の中国の指導者も、国家を統治する正統性は無く、強大な武力とカリスマの力に頼って統治を行うしかなかったという点でも同じである。
現在の日本は、天皇の最高指導者としての力は失われているものの、明治維新以前の日本や中国とは違い、法の支配が確立されているため、戦国時代や幕末から明治初期のような「乱世」になることは無い。そのため、西郷隆盛のような乱世の英雄が登場して「幕府」のようなものを作り、実質的な最高指導者に匹敵する力を持つことはあり得ないのである。つまり、最高指導者としての正統性の無い者が実質的な最高指導者に匹敵する力を得て国家に君臨することは、明治維新以前の日本や中国のような、法の支配が確立されていない「人治国家」にのみ可能なことなのである。従って、欧米諸国や明治維新以後の日本のような、法の支配が確立されている国では、国家の最高指導者としての正統性が無い者が実質的な最高指導者として国家に君臨することなど、ほとんど不可能なのである。そのため、将来日本に最高指導者が必要な時が来たとしても、西郷隆盛のような実質的な最高指導者に匹敵する力を持った指導者が日本の中から出現する可能性は極めて低いのである。
更に、天皇以外の者が最高指導者になること否定する伝統・文化として挙げられるのが、現人神信仰の伝統である。天皇が日本の歴史の、どの時点で現人神となったのかは私にも分からないが、遅くとも明治維新の時点では現人神となっていた。そして、明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至る七十年以上の間、現人神たる天皇が国家に君臨した結果、日本人に現人神信仰の伝統が定着してしまった。その結果、本来、人の作った法律であるはずの憲法が神の作った神聖な教典と化す文化が成立してしまった。その文化が第二次世界大戦後の日本に護憲運動を出現させたのである。そして、その現人神信仰の伝統が、天皇以外の者が日本の最高指導者になることを阻んでいるのである。つまり、日本では、いくら強力で有能な指導者でも、現人神でなければ国家の最高指導者にはなれないのである。
ただし、天皇以外の者で、現人神となり実質的な天皇、そして実質的な日本の最高指導者となってしまった例外的な人物としてマッカーサーが存在した。マッカーサーが実質的な天皇になった理由の一つは、日本の現人神信仰の伝統とマッカーサーの強力な個性が噛み合った結果であるが、それだけでマッカーサーが実質的な天皇になることができたわけではない。日本が第二次世界大戦に敗れ、天皇のカリスマの力が低下して現人神としての力が失われた状況の下で、連合国最高司令官として強大なアメリカ軍を率いて日本を軍事占領し、実質的な支配者として日本に君臨していたこともマッカーサーが実質的な天皇になることができた理由である。日本の一政治家が、マッカーサーと同じことをするのは不可能である。従って、将来、日本の国内からマッカーサーのような人物が登場して実質的な天皇になってしまうようなことが起こる可能性はほとんど無いと考えざるを得ない。しかも、マッカーサーは、法的には単なる占領軍の司令官に過ぎなかったため、実質的な天皇ではあっても、法的な正統性のある最高指導者ではなかった。更に、マッカーサーの実質的な天皇としての権力を後継者に継承することができなかったため、日本は最高指導者の存在しない欠陥国家になってしまった。つまりマッカーサーは、法的な正統性の無い一代限りの天皇だったのである。最高指導者が常に存在しなければ国家は成り立たない以上、たとえ将来の日本にマッカーサーのような実質的な天皇が登場したとしても、結局は欠陥国家になってしまう可能性が高いのである。
幕末の動乱から明治維新の時期にかけて天皇の権威が復活した理由の一つが、国家の変革のためである。欧米の近代国家の原点である社会契約説の考え方は、国家や社会は、人間の自由な意志に基づく契約によって作られたものである以上、あらゆる国家や社会は、人間の自由な意思により、契約をやり直すことによって変更できるというものである。従って、近代の欧米人の考え方では、国家や政治のあり方も、人間の自由な意志によって決定できるということになる。ところが、日本人には近代の欧米人のような、人間が国家や政治のあり方を決めるという考え方が無いのである。国家のあり方は、神のような宗教的権威を持つ者が決定するというのが日本人の伝統的な考えである。従って、何らかの理由によって国家や政治体制が行き詰まり、今までとは違う全く新しい発想の国家を作らざるを得なくなり、変革を迫られた時、日本人には神が必要となるのである。黒船事件によって徳川幕府には国家を防衛する能力が無いことが明らかになり、日本を国家の防衛が可能な体制に作り替えることが必要になった。そこで新たな国家のあり方を決定する神として現人神たる天皇が必要となったのである。また、第二次世界大戦後の日本でも、アメリカによる軍事占領の下、戦後民主主義と呼ばれる政治体制が成立するためには、マッカーサーという神が必要だった。このように、日本に変革が起こる時、どうしても神が必要なのである。従って、もし将来、何らかの理由で、日本が今までとは違う全く新しい発想の国家を作らざるを得なくなった時、明治維新の時のように、現人神たる天皇が、新たな国家のあり方を決定するための神として登場する可能性があると考えざるを得ないのである。
現人神や宗教の教典のような宗教的権威によって国家が統治されるのが天皇制の伝統である。そして、戦前の天皇制も戦後民主主義も、天皇制の伝統に基づいた体制であることには変わりが無いのである。天皇制の伝統は、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度のように、どのように法律を変えても、革命が何度起こっても変更できないくらい強力に日本の社会に定着してしまっているのである。そのため、日本人には天皇制の伝統に基づいた国家体制しか作れないのである。
このように、日本では、天皇以外の者が正統性のある実質的な最高指導者になることが不可能なのである。従って、将来、日本にアメリカのような大統領制が成立することも、内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になることも不可能なのである。
明治維新以前の武家政治の時代、鎌倉幕府や徳川幕府といった武家政治の権威によって、天皇の権威は押さえつけられ、封じ込められていた。そのため、何らかの理由によって幕府の権威が低下すると天皇の権威が復活していたのである。鎌倉幕府が滅亡した結果、天皇の権威が復活し、後醍醐天皇が権力を掌握して建武の新政が始まった。また、黒船事件によって徳川幕府の権威が低下した結果、天皇の権威が復活して孝明天皇の幕府に対する発言力が増大した。その結果、やがて明治維新が起こり、天皇制国家が復活したのである。第二次世界大戦後の天皇の権威も武家政治の時代と同様に低下している。それは、超大国たるアメリカによって戦後民主主義に権威が与えられ、その戦後民主主義の権威によって天皇の権威が押さえつけられているからである。従って、超大国アメリカの権威が失墜すれば、戦後民主主義の権威も失われ、その結果として、過去の日本の歴史に見られるように天皇の権威が復活する可能性が高いのである。
これまで述べてきたような、日本の伝統的な最高指導者のあり方や過去の歴史から考えると、将来、日本に最高指導者が登場する場合、結局、戦前の日本のような天皇制が復活する可能性が極めて高いと考えざるを得ないのである。
結局、人間は、国家や民族固有の伝統・文化の枠の中でしか物事を理解することができないのである。そして国家体制というものは、国家や民族固有の伝統・文化の産物なのである。民主主義国家にしてみても、所詮は欧米固有の伝統・文化の産物であり、欧米とは異なる伝統・文化を持つ国や民族には通用しないのである。欧米の民主主義国家は、日本人の伝統・文化の枠を超えたものである。そのため、日本人は容易には理解できないのである。また、中国に民主主義国家の実現のために命がけで活動している人達が存在することは事実である。しかし、たとえ将来、彼らが政権を取ることがあっても、法の支配が確立されていない中国では、秦の始皇帝以来の専制政治が再来するしかないのである。結局、日本や中国が民主主義国家になれないのは、日本や中国の伝統・文化と、西欧の伝統・文化の産物である民主主義が噛み合わないからである。
世界の多くの国で民主主義国家が容易に成立しないのは、一般的に言われている民主主義国家それ自体にも問題があるからである。
一般的に言われている民主主義国家とは、国家の指導者によって引き起こされる権力の乱用から国民の自由や権利を守るための国家体制であり、その根幹を成すものが三権分立ということになっている。
三権分立は、次のように説明されている。まず、国家の最高指導者には、カリスマのような人間の意識を変えるような強大な力は与えない。そして、法的な権限を、法の執行権、立法権、司法権の三つに分割し、最高指導者には法の執行権のみを与える。更に、法を執行する最高指導者、立法府である議会、そして司法権を行使する裁判所にそれぞれ対等の力を与えて互いに監視させ、三者の中の一つが独走することを防ぐというものである。更に、国民には言論の自由や思想の自由など様々な自由を与え、主権者である国民自身も議会やジャーナリズムと共に最高指導者を監視するのである。一般的に言われている民主主義国家では、このようにして強大な力を持った独裁権力の出現を防ぎ、国民の自由と権利を守るということになっている。
ところが現実は、国家の防衛や非常事態に対処するためには、強大なカリスマを持った最高指導者の指導の下、国民が一致団結して行動しなければならないのである。従って、一般的に言われている民主主義国家では、国家の防衛や非常事態に対処することができないことになる。これでは国家とは言えない。
要するに、一般的に言われている民主主義国家とは、非現実的な空想の国家なのである。従って、これを実現しようとすると、様々な問題が起こるのである。そして最大の問題が、国家を防衛する能力や非常事態に対処する能力が無いことである。つまり、一般的に言われている民主主義国家の「設計図」には、国家を防衛する機能や非常事態に対処する機能が存在しないのである。フランス革命の指導者達も、ドイツのワイマール共和国を作った指導者達も、この一般的に言われている民主主義国家の「設計図」の欠陥に全く気がつかないまま、「設計図」に従って民主主義体制を作ってしまった。そのため、フランスの第一共和制もワイマール共和国も、政治の混乱や国家の非常事態に対して十分に対処できず、国民の信頼を失い崩壊してしまった。その結果、ナポレオンやヒトラーのような独裁者が登場することになった。一方、アメリカを始めとした、民主主義国家の確立に成功した国は、最高指導者のカリスマを継承する制度や慣習上の非常独裁制の確立など、一般的に言われている民主主義国家の「設計図」に「設計変更」を加えることによって民主主義国家を現実的なものにしていった。しかも、その「設計変更」は、長い時間をかけ、いくつもの戦争や国家の危機を体験し、多くの人命を犠牲にした結果として行われたものである。そのため、欧米諸国のように民主主義の伝統を持った国でも、現実的な民主主義国家は容易には成立しないのである。ところが、今日、世界で一般的に民主主義国家とされている国家体制の「設計図」は、「設計変更」された現実的な民主主義国家ではなく、「設計変更」される以前の「設計図」に基づく空想の民主主義国家なのである。つまり、世界の多くの人間は、現実的な民主主義国家が「設計変更」されたものであることに全く気がついていないのである。そして、欧米諸国が空想の民主主義国家を全世界に広めてしまった結果、民主主義国家と言う名の欠陥国家が世界中で粗製濫造されることになってしまったのである。
また、指導者を選ぶ選挙を行うためにも、国民に自由を与えるためにも、法の支配の確立が必要不可欠である。法の支配が確立されていない国では、法の手続きによる政権交代ができないため、選挙を行っても選ばれた者が国家の指導者になれるかどうか分からない。更に、法の支配が確立されていない国の国民には自ら進んで法・秩序に従う慣習が無いため、自由を与えたら犯罪行為が増加して治安が悪化したり、政治が混乱したりする可能性が高いのである。ところが欧米諸国は、日本のような法の支配が確立された国のみならず、法の支配が確立されていない多くのアジアやアフリカ諸国にまで空想の民主主義国家を広めようとした。そのため、欧米諸国の言う通りに民主主義体制を作ってしまった国の多くが、国家の機能の停滞や政治や社会の混乱に悩まされているのである。
一般的には、民主主義は世界の潮流であって、これからの世界の進むべき道であると思われている。しかし、よく考えて欲しいのは、かつては社会主義が世界の潮流であり進歩であり歴史の到達点であると思われていた時代があったということである。その頃の日本では、多くの言論人や文化人が社会主義者を称したり装ったりしていた。そうすることで自分が社会の進歩を先取りして、一般庶民を指導する存在だと思われたかったからである。ところがソビエトの崩壊以降は、誰も社会主義を世界の潮流だとも進歩だとも思わなくなってしまった。つまり社会主義が進歩的と思われていたのは、超大国であったソビエトの政治力の影響に過ぎなかったのである。これと同じことが、日本や中国のように、民主主義の成立する条件に欠ける国にとっての民主主義にも言えるのである。つまり、超大国であるアメリカの政治力が、日本に形だけの民主主義を「流行」させているに過ぎないのである。従って、もし将来、アメリカの国際社会における政治力が衰えるような事態になれば、民主主義が定着していない国々の民主主義は、ソビエト崩壊後の社会主義と同様に「流行遅れ」になってしまうであろう。
私は、日本の戦後民主主義の問題を指摘した。しかし、戦後の日本が戦後民主主義以外の道を歩むべきであったと言うことはできないのである。それは、第二次世界大戦後の世界秩序の中で日本が生き残っていくためには、アメリカの意向や世界戦略に従わざるを得なかったからである。なぜなら、戦後の日本にとってアメリカに逆らうことは自滅を意味するからである。第二次世界大戦の結果、アメリカ陣営に属することになったほとんどの国々は、否応なしにアメリカの唱える正義を受け入れざるを得なくなってしまった。アメリカの唱える正義によれば、日本を含めた世界の全ての国は、最終的には欧米流の民主主義国家にならなければいけないことになっている。従って、戦後の日本は、戦前の天皇制国家に戻ることも、共産主義国家になることも、超大国であるアメリカが容認しない以上、不可能だったのである。しかし、近代国家の伝統の無い日本には、民主主義国家など成立しない。そこで、第二次世界大戦後の日本がアメリカの支配する国際秩序に適応し、国民の利益を守るためには、欧米流の民主主義国家の「化けの皮」をかぶり、欧米諸国の価値観を受け入れたふりをするしかなかったのである。要するに、日本の戦後民主主義とは、欧米の民主主義国家を形だけ真似ただけの、一種の擬態に過ぎないのである。
結局、第二次世界大戦後の日本は、アメリカによって作られた、アメリカの保護国に過ぎないのである。自国の力で国家の安全を守ることができない以上、アメリカの政治的・軍事的保護が無くなった場合、戦後民主主義を維持することは不可能になってしまう。つまり、アメリカが超大国の地位を失い、日米安保体制が消滅した時、日本の戦後民主主義は、消滅するしかないということである。その時、戦後民主主義の甘い幻想は、崩壊するであろう。日本人は、このことを覚悟しておくべきである。
あとがき
私が政治に興味を持つようになったきっかけは、中学生の時の出来事だった。それは私が、或る第二次世界大戦後の世界の歴史に関するテレビ番組を見ていた時のことである。そのテレビ番組の中で、アメリカのアイゼンハワー大統領の経歴を述べていた。それを聞いた中学生だった私は、びっくり仰天してしまったのである。
それはこういうことである。
私がそれまで学校などで教えられていた民主主義とは、次のようなものだった。
「民主主義にとっての最大の脅威は、戦争である。戦争は多くの人間を殺傷し、平和と人権を蹂躙するものである。太平洋戦争中は、多くの日本国民が残虐な戦争に無理やり駆り出され、国家の名による戦争という殺人行為に従事させられ、しかも彼らの多くが戦死してしまった。戦争は自由や人権、そして地球よりも重い人命を否定する犯罪行為であり、これを抑止することこそ民主主義の究極の目的であり、戦争の無い国家こそ理想の国家である。そして戦争が国家による組織的な殺人行為だとすれば、旧日本帝国陸海軍の軍人のみならず、世界中の全ての軍人は人殺しであり、軍国主義者であり、民主主義にとって許すべからざる敵であり、断固として排除しなければならない。」
更に、私の聞いたところによれば、この民主主義は、敗戦後の日本人に、民主主義国家の先生であるアメリカが教えてくれたものだと言うのである。そこで私は当然、アメリカの民主主義も日本の民主主義と同じものだと考えていたのである。
ところが日本の民主主義の先生であるはずのアメリカで、民主主義を否定する行為が行われていたのである。アメリカ人は、人殺しであり、軍国主義者であり、民主主義にとって許すべからざる敵であり、断固として排除しなければならないはずの軍人を、こともあろうに民主主義国家であるはずのアメリカの大統領に選んでしまったのである。それが第三十四代アメリカ合衆国大統領アイゼンハワーなのである。そこで中学生だった当時の私は、びっくり仰天してしまったのである。
勿論、中学生当時の私が理解していた民主主義は、明らかに誤りである。欧米人の言う民主主義には、戦争をしない国家が理想の国家だなどという考えは無い。第二次世界大戦を勝利に導いたアイゼンハワー元帥は、アメリカ国民の英雄であり、多くのアメリカ国民から尊敬を集めていた。アメリカ人は決して人殺しだなんて思ってはいなかった。彼が大統領になったのは、アメリカ国民にとって歓迎すべきことであっても決して否定すべきことではなかった。しかし、中学生当時の私にとっては驚き以外の何でもなかったのである。中学生であった私は民主主義というものが何なのか全くわからなくなってしまったのである。ただ、はっきり分かったのは、日本人の言う民主主義とアメリカ人の言う民主主義は全く異なるものだということである。そして私は、日本人の言う民主主義とアメリカ人の言う民主主義の、一体どちらが本当の民主主義なのかと考え込んでしまったのである。もっとも、当時の私には結論は出せなかった。しかし、これをきっかけに私は戦後民主主義なるものに疑問を持ち始めるようになり、その結果、政治に興味を持つようになったのである。
民主主義の先生であるはずのアメリカが、弟子である日本に教えたのは、アメリカの民主主義とは全く異なる代物であった。第二次世界大戦後の日本は、「民主主義」が存在しないどころか「国家」でもないのである。国会の中で政治家が憲法改正の議論ができなかったことが戦後の日本に民主主義が存在しない証拠である。そして、内閣総理大臣に最高指導者と言えるような力が無く、事実上最高指導者が存在しないことが戦後の日本が国家ではない証拠である。結局、アメリカは、日本の民主化を口実にして、日本がアメリカに従属せざるを得ない体制を作り上げ、日本国民も安易にこれを受け入れてしまったのである。これがいわゆる戦後民主主義なのである。
本文の中で述べたように、私がこの「戦後民主主義の幻想」を書くきっかけになったのが湾岸戦争である。
ブッシュ大統領の戦闘開始の決断によって、それまで開戦を巡って分列していたアメリカの世論が一つにまとまってしまったという事実は、私にとって衝撃であった。ブッシュ大統領の指導力によって、二億五千万人のアメリカ国民が一匹の巨大な怪獣と化し、イラクに襲いかかる有様を目撃したのである。まさに、国家権力の恐るべき力を見せつけられたのである。それまで私は、自分なりに政治の勉強をした結果、政治に関しては、かなり物知りになったつもりでいたのである。ところが最高指導者の決断が世論や国民の意識を変えてしまうなどということは、どこの本にも書いてなかったし、どこの学者や評論家も言ってはいなかったのである。つくづく自分の勉強不足を思い知らされたのである。そこで最高指導者の決断と世論の関係について理解しようと、テレビ番組の評論家や学者の発言を聞いたり、本を読みあさったりしてみたが、誰もこの件について述べていないのである。そこで結局、自分で理解しようと試みて考えを巡らしてみたのである。その結論が、この「戦後民主主義の幻想」なのである。
また、国家の最高指導者について考えているうちに、日本の天皇制についての考え方も変わってしまった。当初、私も、いわゆる保守的言論人の言うように、戦前の天皇もイギリスの国王と同様の立憲君主だと思っていたのである。ところが、戦前の天皇制についてどうしても腑に落ちないことがあった。それが御前会議である。
イギリスの立憲君主制とは、形式的には君主制であっても、実態は議会制民主主義という体制である。君主は形だけの存在であり、最高指導者は議会による民主的な手続きによって選出された首相である。従って、国家の最終的な意志決定を行う場は、実質的な最高指導者である首相が主催する閣議のはずである。確かに戦前の日本でも、国家のほとんどの意志決定は閣議によって行われた。ところが、軍事・外交上の重要な意志決定が行われる場合、しばしば天皇の主催する御前会議なるものが開かれた。戦前の日本がイギリスと同様の立憲君主国家であるとすれば、国家の意志決定は、最高指導者たる首相の主催する閣議によって行われなければならない。従って、この御前会議なるものは全く不可解であると言わざるを得ないのである。イギリスの立憲君主制の論理からすれば、形だけの君主であるはずの天皇が、何ゆえ国家の命運にかかわるような重大な意志決定を行う会議を主催するのか。また、逆に言えば、日本と同じ立憲君主国家であるはずのイギリスでは、何ゆえ御前会議が開かれないのか。長い間、御前会議は、私にとって謎であった。結局、この御前会議は、天皇が戦前の日本の最高指導者であったと考えなければ理解できないのである。すなわち御前会議とは、最高指導者たる天皇が主催する、軍事・外交などの国家の重大な意志決定を行う場であったということである。そして、天皇が戦前の日本の最高指導者であったとすると、戦前の日本はイギリスの立憲君主制とは全く異質な政治体制だったことになるのである。
確かに知識人や学者の言うように、戦前の日本では、天皇が自ら進んで意志決定をすることは少なかった。また、古代から、天皇には臣下が合議によって決定したことには従うという伝統があった。しかし、多くの知識人や学者は、戦前の日本では、国家の重大な意志決定は、天皇の権威を借りなければできなかったという事実を見逃しているのである。戦前の天皇は、保守的言論人の言うようなイギリス流の立憲君主でも国家の象徴でもなかった。そして戦後の日本は、天皇を国家の象徴なるものにしてしまった結果、国家の重大な意志決定ができなくなり、その結果、国家の権威や機能が低下し、アメリカの保護国にならざるを得なくなってしまったのである。マッカーサーの行った政治改革のほとんどが失敗だったが、日本をアメリカの脅威にならない国にするという占領政策の目的は、結果として達成できたのである。
平成21年6月11日
著者自己紹介
氏名 宮本一也
性別 男
居住地 山梨県
生年月日 昭和37年3月3日
趣味 政治に関する本を読む
パソコン
愛車 トヨタのビッツ
好きな食べ物 ラーメン
「戦後民主主義の幻想」をお読み下さった皆様へ
「戦後民主主義の幻想」をお読みいただき、ありがとうございました。
この「戦後民主主義の幻想」は、当初は本として自費出版するつもりで書いていたものですが、予算の都合で無理であるということが分かったため、このようなインターネット上の発表に変更したという次第です。ちなみに、或る出版社に聞いたところ、この「戦後民主主義の幻想」は、本にすると240ページくらいになるのだそうです。
「戦後民主主義の幻想」は、最新の政治状況に基づいて、常に加筆・修正を行っております。一度お読みいただいた方も、またしばらくたってからお読みいただけると、また別の内容の「戦後民主主義の幻想」を読むことができます。
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