宮本一也 著

始めに
戦後民主主義や戦後体制と呼ばれる日本の国家体制は、欠陥体制としか言いようが無い。
日本は、太平洋戦争に敗れて以来、常にアメリカの軍事・外交政策に従属し続けて来た。しかし、考えてみれば、世界には経済的にも軍事的にも日本より遥かに弱小であるにもかかわらず、独自の外交や防衛を行っている国はいくらでもあるのが現実である。現在の日本は、世界で最も経済力のある国の一つであり、経済大国とも呼ばれている国である。従って、戦後体制下の日本が独自の外交も国家の防衛もできない理由が、経済力を含めた国力の問題ではないことは明らかである。また、戦後体制下の日本が独自の外交や防衛ができないのは、政治家の無能が原因だと主張する人が数多く存在する。しかし、政治家として無能な人物が国家の指導者になってしまうのは、何も戦後体制下の日本に限ったことではない。世界には無能な政治家が指導する国などいくらでもある。国家の指導者が無能なくらいのことで独自の外交や防衛ができなくなると言うのなら、世界のほとんどの国が戦後体制下の日本のようになっているはずである。結局、私には、戦後民主主義や戦後体制と呼ばれている太平洋戦争後の日本の国家体制そのものに重大な欠陥があるとしか考えられないのである。
太平洋戦争後の日本に独自の外交や防衛ができないのは、戦後民主主義や戦後体制と呼ばれている国家体制に戦争を行う能力が無いからである。戦争を行う能力が無ければ、外交や国家の防衛は不可能である。国家の防衛のみならず外交にも戦争を行う能力が必要なのは、武力行使を前提にした外交を行わなければならない場合もあるからである。
戦後体制下の日本に戦争ができない主な理由は二つある。
第一の理由は、戦後体制下の日本には国家の非常時において国家や国民を指導する最高指導者の役職が存在しないということである。
日本人の多くは、内閣総理大臣が国家の最高指導者の役職だと思い込んでいる。しかし、私に言わせれば、日本の内閣総理大臣は国家の最高指導者の役職ではないのである。確かに、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」と記され、内閣総理大臣の権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。この日本国憲法の条文からすれば、法的には内閣総理大臣が行政機関の最高責任者ということになる。そして、通常、行政機関の最高責任者が国家の最高指導者ということになっている。日本の内閣総理大臣に限らず、あらゆる国家の指導者の役職には法的な権限が与えられている。しかし、法的な権限だけでは国家や国民を指導することはできないのである。私の言う国家の最高指導者の役職とは、国家の非常時に国民を指導できるような強力なカリスマを持った役職のことである。
国家の安全保障上の危機など、非常事態に際しては、早急な意志決定が必要なこともある。また、危機に対処する方法を巡って国論が分列して混乱に陥るようなこともある。そのような場合、国家の指導者は、国民の意志を一つにまとめ、国民を一致団結させて危機に対処しなければならない。そのため、国家には、非常時に国民を一致団結させることができる強力なカリスマを持った役職が必要である。それが国家の最高指導者の役職なのである。ところが日本の内閣総理大臣の役職には、国家の最高指導者の役職と言えるような強力なカリスマが備わっていないのである。そのため日本の内閣総理大臣には国家の最高指導者が務まらないのである。
内閣総理大臣や大統領といった国家の最高指導者とされている役職に、国民を指導して一致団結させることができる強力なカリスマが備わっていなければ、国家の安全保障上の危機に際して軍事・外交上の重大な意志決定ができず、政治が麻痺してしまうこともある。国家・国民を守るために戦争を行おうにも、国家の指導者が戦争を行うことを決定できなければ、いくら立派な軍隊があっても使い物にならない。このような状態では最高指導者の役職が存在しているとは言えないのである。従って、最高指導者の役職が存在しない国家には、安全保障上の危機などの非常事態に対処できないのである。
日本が太平洋戦争に敗れる以前の明治体制下では、国家の最高指導者の役職として天皇が存在した。そして戦後体制下では、天皇は「国家の象徴」となり、最高指導者の役職ではなくなった。ところが、戦後体制下の内閣総理大臣が国家の最高指導者としての役割を明治体制下の天皇から引き継いだわけではない。戦後体制下の日本は、天皇が最高指導者の役職ではなくなった結果、最高指導者の役職が存在しなくなってしまったのである。そのため、戦後体制下の日本は、軍事・外交政策のような国家にとって重大な政策の意志決定ができなくなり、その結果、軍事・外交政策をアメリカに依存するしか無くなってしまったのである。これが戦後体制下の日本の軍事・外交政策がアメリカに追随せざるを得ない理由の一つである。
戦後体制下の日本に戦争ができない第二の理由は、戦後体制下の日本は戦争を行わないことを国家統合の理念にしてしまっているということである。
いかなる国家体制も国家・国民を統合するための理念を持っている。現在の中国や旧ソビエトの共産主義、欧米諸国の自由主義や民主主義、イランやサウジアラビアにとってのイスラム教といったものである。
もし、国民が国家統合の理念を信用しなくなってしまったら、国家に対する国民の信頼が無くなり、国民を団結させることが困難になり、最悪の場合は国家体制が崩壊してしまうこともあるのである。
その典型的な例が、旧ソビエトの崩壊である。ソビエトにとっての国家統合の理念は共産主義であった。共産主義の理念を簡単に言えば、マルクスの理論に従って経済政策を行えば、国民が資本主義国家よりも物質的に豊かな生活ができるようになるということである。そして、米ソ冷戦時代のソビエトにとっての資本主義国家とはアメリカのことであった。つまり、いずれは国民生活の物質的な豊かさでソビエトがアメリカを追い越すということを国民が信じることによって、国家の統合と国民の団結が維持されて来たのがソビエトの国家体制であった。しかし、ゴルバチョフが登場した頃には、そのような共産主義神話を信じるソビエト国民は居なくなっていた。その結果、国家統合の理念を失ったソビエトの共産主義体制は崩壊するしか無くなってしまったのである。
また、中国ではケ小平が政治の実権を握った後、改革・解放政策と称して共産主義の理念に基づく経済政策を改め、自由主義的な市場経済を導入した。ところがケ小平は、国家統合の理念としての共産主義は堅持しようとした。ケ小平は明らかに共産主義経済は誤りだという認識をしていた。しかし、だからと言って、国家統合の理念としての共産主義まで否定してしまったら、中国も旧ソビエトのように共産主義体制が崩壊してしまうかもしれないのである。そこでケ小平は、社会主義市場経済と称して、市場経済が共産主義の理念に反しないと言う詭弁としか言いようのないことを言ってまで、共産主義の理念と共産主義体制を守ろうとしたのである。しかし、ケ小平の改革・解放政策は、経済的には中国に高い経済成長をもたらしたが、結果として国家統合の理念である共産主義の権威を低下させてしまった。そこで江沢民国家主席は、愛国主義と称する日本を敵視する思想を共産主義に代わる国家統合の理念にしようとして、中国の学生に愛国教育と称する反日教育を施した。しかし、これが2005年と2010年に胡錦濤政権を揺さぶった反日デモが起きた一因となってしまったのである。
戦後民主主義や戦後体制と呼ばれる国家体制下の日本における国家統合の理念は、平和主義である。平和主義の理念を一口に言えば、日本は、いかなる理由があろうと戦争を行わないということである。しかし、こういうことを国家統合の理念にしてしまっている以上、たとえ国民の生命や財産を守るためといえども本格的な戦争を行うことは不可能である。中国のケ小平が共産主義の理念を棚に上げて自由主義的な経済政策を導入したようには行かないのである。なぜなら本格的な戦争は、経済政策とは違い、国民に多大な負担や犠牲を強いるものだからである。
本格的な戦争を行うためには、国家が国民に対して戦争のために負担をしたり犠牲になったりすることを要求しなければならない。しかし戦後民主主義や戦後体制と呼ばれる国家体制下の日本は、戦争を行わないことを国家統合の理念にしてしまっているため、国民に対して本格的な戦争のための負担や犠牲を公然と要求することは不可能である。国家が国民に対して戦争のための負担や犠牲を要求するためには、国民が戦争のために負担をしたり犠牲になったりすることを正当化できる国家統合の理念が必要である。つまり、日本が本格的な戦争を行おうとするなら、平和主義の理念を否定して、戦争が可能な国家統合の理念を確立しなければならないのである。しかし、これは事実上、戦後民主主義を根本的に否定して、全く新しい国家体制を作ることであり、一種の革命である。従って、もし日本が本格的な戦争を行うことが可能になったとしたら、それは革命によって戦後民主主義が消滅して、全く別の国家体制が成立したことを意味するのである。
戦後民主主義における平和主義の理念を法律化したのが日本国憲法である。戦後体制下の日本は、日本国憲法によって軍備の保有と武力行使が禁じられていることになっている。
本来、安全保障や危機管理といったものは、考え得る最悪の非常事態に対して、いかに対処すべきかを考えるのが基本である。ところが日本国憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と記されている。つまり、世界の全ての国は、「平和を愛する諸国民」の国なのだから、戦争のような非常事態はあり得ない。だから、「公正と信義に信頼して」さえいれば、「われらの安全と生存を保持」することができるということである。これは明らかに安全保障の否定である。そもそも日本国憲法は、アメリカ軍による日本の占領統治下で作られたものである。その結果、日本国憲法は、アメリカ軍による日本の占領という状態を前提に機能するものになってしまったのである。つまり、アメリカ軍が日本を占領し、日本が独立国家ではない状態では、日本の安全保障はアメリカの役割なので、日本政府や国民が安全保障について考える必要は無い。だから、日本政府も国民も「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」さえいれば平和は守られるということなのである。しかし、これは言い換えれば、日本国憲法の理念を守るためには、永久にアメリカによる軍事占領を続けてもらわざるを得ないということである。つまり日本国憲法なるものの実態は、アメリカによるに日本占領法なのである。
最高指導者の不在と日本国憲法のために、戦後体制下の日本は、独自に国家の防衛や外交を行うことができなくなってしまった。そこで戦後体制下の日本の安全保障や外交政策は、アメリカの軍事力と政治力に委ねる以外に無くなってしまったのである。そのため戦後体制下の日本は、アメリカの軍事・外交政策に従属せざるを得なくなってしまったのである。要するに、戦後体制下の日本とは、アメリカの軍事力と政治力に頼らなければ成り立たない、事実上のアメリカの保護国であり、真の独立国家ではないのである。
日本の平和主義や戦後民主主義は、太平洋戦争など、過去の戦争の反省から生まれたということになっている。再び戦争の惨禍を招かないためには二度と戦争をしてはならないという反省に立ち、戦争を放棄して平和国家になったと言うのである。しかし、このような反省は、あくまで日本の防衛をアメリカが肩代わりすることを前提としたものである。平和主義だの平和国家だのと言ったところで、結局、日本の平和と安全を守るのはアメリカの役割である。日本国民がいかに平和主義や戦後民主主義の継続を望んだとしても、アメリカが日本の防衛の肩代わりをやめてしまったら、平和主義も戦後民主主義も破綻する他は無いのである。従って、もし何らかの理由でアメリカに日本の防衛ができなくなってしまったら、結局、再び戦争の惨禍を招く危険を覚悟の上で、日本政府や日本国民自身が日本を防衛するしか無くなってしまうのである。日本国憲法の理念も平和主義も、そして戦後民主主義も、アメリカが日本の防衛を肩代わりしている間の一時的な現象に過ぎないのである。
第一章 最高指導者とは何か
湾岸戦争とアメリカ大統領
私が国家の最高指導者の重要性を強く認識させられたのが湾岸戦争である。
1990年8月2日、イラク軍は突如クウェートへ侵攻し、占領下に置く。
これに対して国連安全保障理事会は、イラク軍の撤退を要求する決議をするが、イラクはこれを無視して占領を続ける。そして8月8日にイラク政府はクウェートのイラクへの併合を宣言する。
このイラクの行為に対して国連安全保障理事会は、8月25日に対イラク制裁限定武力行使決議を採択する。これを受けてアメリカのブッシュ政権は、ペルシャ湾岸へ戦争のための兵員や物資の輸送と艦船の派遣を始める。アメリカは五十万人という、ベトナム戦争以来の大軍をペルシャ湾に送り込んだのである。
そして11月29日、国連安全保障理事会は、1991年1月15日の期限までにイラク軍がクウェートから撤退しない場合、国連加盟国がイラクに対して武力行使をすることを認める決議をする。
この時のジャーナリズムや言論人の関心は、果たしてイラク軍は期限までに撤退するのか、そして撤退しなかった場合、アメリカは本当にイラクに対して武力行使を行うのかという点にあった。特に懸念されたのが、クウェートの武力解放となると、兵士同士の地上戦になるということであった。もし、これが長期化して多くのアメリカ兵が犠牲になるようなことになると、最悪の場合はベトナム戦争の二の舞になりかねないのである。
私はこの時、イラク軍が期限までに撤退しなくても、アメリカは武力行使を行わないであろうと考えていたのである。それは次のような理由である。
そもそも戦争をする為には、国民の一致団結した戦争への支持が必要である。ところが当時のアメリカの国民世論は、対イラク戦争を巡って分裂状態にあった。戦争に賛成が45%であるのに対して、戦争に反対もしくは慎重な意見がやはり45%であった。国民世論が政治に大きな影響を与えるアメリカでは、戦争を行う場合にも国民世論の支持が絶対に必要である。
そのよい例が、アメリカが第二次世界大戦に参戦した時のことである。アメリカが第二次世界大戦に参戦する直前まで、アメリカ国民の大多数が参戦に反対していた。そもそもフランクリン・ルーズベルト大統領自身が、第二次世界大戦には参戦しないことを公約して大統領選挙に当選したのである。しかし、アメリカにとってのヨーロッパの戦局は日増しに悪化する一方であった。ナチスドイツはヨーロッパ諸国を次々に征服し、イギリス軍は命からがらダンケルクから撤退するという有様であった。アメリカは一刻も早く参戦してヨーロッパへ救援に駆けつけなければ、ヨーロッパどころか世界までがヒトラーによって征服されそうな状況であった。もし、そのような事態になったら、アメリカの安全さえ危うくなってしまう。そのため、ルーズベルト大統領は焦っていた。しかし、アメリカは国民世論が政治に大きな影響を与える国である。国民世論が参戦に反対である以上、ルーズベルト大統領としても、どうしようもなかった。そこへ突如、日本軍が真珠湾を攻撃して来た。その結果、アメリカの国民世論は一気に参戦支持に変わってしまった。これによって、ようやくルーズベルト大統領は、第二次世界大戦への参戦の決断が可能になったのである。
戦争は軍隊だけで行うことではない。戦争は国家・国民を挙げて行う一大事業である。そのため、国家が戦争を行う場合は、戦争に対する国民の一致団結した支持が必要不可欠である。国民の団結を欠いた状態で戦争を行った結果、相手に対して圧倒的な軍事力や経済力を持ちながら、その力を十分に発揮できず、結局は敗れてしまった例がいくつもある。日露戦争の時のロシア帝国やベトナム戦争の時のアメリカがよい例である。日露戦争の時のロシア帝国は革命寸前の状態にあり、血の日曜日事件のような混乱が起きていた。とても国民が一致団結して日本と戦争ができるような状態ではなかった。その結果、ロシア帝国は、日本に対して圧倒的な軍事力や経済力を持ちながら戦争に敗れてしまったのである。また、最前線で戦っている兵士たちにしてみれば、国民の一致団結した声援があってこそ命がけで国家のために戦おうという気持ちになれるのである。ところがベトナム戦争の時のアメリカ国民は、自国の兵士や国家に対して、声援どころか戦争反対の罵詈雑言を浴びせていたのである。これでは兵士たちに祖国のために戦おうという気持ちなど起きるわけが無い。結局、アメリカは、北ベトナムに対して圧倒的な軍事力や経済力を持ちながら敗れてしまったのである。
私は、こういった過去の歴史的事実から、湾岸戦争も、国民世論の一致団結した支持が十分得られていない状態で戦争を強行すれば、ベトナム戦争の二の舞になるであろうと考え、それを恐れてブッシュ大統領は武力行使を行わないであろうと予想したのである。
ところが結果は、私の全く予想しないものになってしまった。1991年1月17日、ブッシュ大統領は開戦を決断し、戦闘が始まってしまったのである。
しかも、その時、私にとって開戦よりも遙かに驚くべきことが起きたのである。何と、開戦と同時にブッシュ大統領に対するアメリカ国民の支持率が89%にまではね上がったのである。つまり、それだけのアメリカ国民が開戦を支持したということである。
このように私が湾岸戦争の予想を間違えた理由は、当時の私が国家の最高指導者の役割を全く理解していなかったことにある。
湾岸戦争の開戦以前は開戦を巡って分裂状態にあったアメリカの国民世論が、開戦と同時に開戦支持に変わったのは、アメリカの最高指導者である大統領の役職に備わっている強力なカリスマの力によって、アメリカ国民の意識が変えられてしまったからである。カリスマとは、多くの人間を無意識のうちに従わせる力である。強力なカリスマを持つ者が意志表明をすると、多くの人間が無意識の内に、その意志を受け入れてしまうのである。つまり、実際はカリスマの力によって与えられた意志なのに、それを自分自身の考えによって決めた意志だと思い込んでしまうのである。これがカリスマの力である。このような、大統領のカリスマの力によって国民の意識が変えられてしまうということは、湾岸戦争以前の私にとっては全く考えられないことであった。この湾岸戦争で、私はアメリカ大統領の恐るべき力を思い知らされたのである。
ブッシュ大統領の決断によって戦闘が始まると、アメリカは圧倒的な軍事力によってイラク軍をクウェートから駆逐して勝利した。湾岸戦争以前、私は、大統領のジョージ・ブッシュについては、カリスマや政治力に欠けた凡庸な政治家という評価をしていたのだが、湾岸戦争の結果、見直さざるを得なくなった。湾岸戦争を勝利に導いた要因としては、確かにブッシュ大統領個人の政治手腕もあったが、最大の要因は、アメリカ大統領の役職に備わった強力なカリスマの力であったと言わざるを得ないのである。
私は、最高指導者の決断が国民の意識を変えるということを湾岸戦争で初めて知ったのである。国家の最高指導者とは、国家にとっての重大な決断をすることによって国民の意識を変えることができる強力なカリスマを持った指導者のことを言うのである。このような力を持った指導者が存在しなければ、国家の危機に対処することは不可能である。国家の危機に直面した時に、世論が分列したり、国民が何をやってよいのか分からなくなり混乱したりしている場合、最高指導者が断固たる決意を国民に示し、強力なカリスマの力によって国民の意志を一つにまとめ、国民と共に一致団結して危機に立ち向かわなければならない。こういうことができなければ、国家の危機や非常事態に対処することは不可能である。
国家の危機でも、特に軍事力の行使が必要な場合は、国民の全面的な協力が必要である。軍人のように直接戦闘に参加しないまでも、後方支援には民間人の協力や負担が必要な場合もある。一般道を使って軍事物資や兵員の輸送をすれば、一般国民の通行は制限される。傷病兵の治療のために民間の病院が使われれば、一般国民の患者が後回しにされることもある。勿論、国民は戦費の負担もしなければならない。更に、場合によっては空襲やゲリラ攻撃などにより一般国民が直接武力行使を受けることもあり得る。このような時に国民の考えが一致せず世論が分列していたのでは、国家としての秩序ある行動ができず混乱が起き、危機に対処するどころではなくなってしまうのである。そこで最高指導者の断固たる決断とカリスマの力によって、国民の意志を一つにまとめ、全国民が一致団結して最高指導者と共に危機に対処しなければならないのである。それができなければ、いくら強力な軍隊を持っていても、まともな戦争はできないのである。軍隊は、国家の最高指導者と国民が団結して一体となった状況でのみ機能するものである。つまり、国家の危機が発生した時、いつでも国家と国民を一致団結させることができる体制が整っていなければ、国家の危機に対処することはできないのである。そのため、国家には強力なカリスマを持った最高指導者の存在が必要不可欠なのである。要するに、国家の非常時における国民の一致団結とは、自然にできあがるものではなく、人為的に作られるものなのである。その、国民の一致団結を人為的に作るための手段として、国家には最高指導者が必要不可欠なのである。
湾岸戦争から十二年後の2003年3月に息子の方のブッシュ大統領が始めたイラク戦争でも、湾岸戦争の時と同様のことが起きている。イラク戦争開戦以前、イラク戦争に対するアメリカ国民の支持率は56%であったが、開戦後は74%へと上昇した。これは、このイラク戦争にアメリカと共に参戦したイギリスのブレア政権も同様であった。開戦以前は、イギリス国民の90%がブレア政権のイラク戦争への参戦に反対し、支持する国民は存在しなかった。ところが、いざイラク戦争が始まると、戦争に対するイギリス国民の支持率は60%近くにまで上昇したのである。つまりイギリスの首相は、アメリカ大統領に匹敵する力を持っているのである。
ただし、いつでも湾岸戦争の時のようにうまくいくとは限らない。ベトナム戦争のような失敗例もある。アメリカのジョンソン大統領は1964年8月2日に起きたトンキン湾事件をきっかけに、北ベトナムに対する軍事力の行使を始めた。これによってベトナム戦争は本格的なものになった。この時点では、アメリカ国民の大多数が戦争を支持していたのである。ところが、当初三ヶ月ほどで片が付くと予想されていたベトナム戦争は、何年たっても終わらず、戦況は泥沼状態に陥る。そこへもって、ジャーナリズムによってソンミ村の虐殺を始めとするアメリカ軍による残虐行為が報道され始める。するとアメリカ国民は次第に戦争に懐疑的になり始め、ジョンソン大統領の指導力の低下もあって、ベトナム反戦運動が政治を揺るがすほどに激化してしまった。その結果、ベトナム戦争は政治的にも泥沼状態に陥ってしまった。そして遂に、超大国アメリカは小国北ベトナムに敗れてしまったのである。このベトナム戦争の反省から、湾岸戦争の時、ブッシュ政権は短期間で戦争を終わらせることに全力を挙げたのである。
日本が太平洋戦争でアメリカに敗れた理由は、日本の経済力や技術力がアメリカに劣っていたからだという意見があるが、果たしてそのようなことが言えるのであろうか。経済力や技術力の優劣によって戦争の勝敗が決まると言うのなら、アメリカがベトナム戦争に敗れた理由をどう説明するのか。要するに、経済力や技術力は、戦争の勝敗を決定する要因の一つではあるが、根本的な要因ではないということである。戦争には軍事力や経済力の戦いという側面もあるが、同時に最高指導者の政治力の戦いという側面もあるのである。いかに強大な軍事力や経済力を持った国家であっても、最高指導者が政治的に無力であれば国家の力を十分に発揮できず、戦争に敗れてしまうこともある。その典型的な例がベトナム戦争なのである。
太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の戦略は、奇襲攻撃によってアメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えれば、アメリカ国民は戦意を喪失し、早期に日本との講和に応じざるを得なくなるというものであった。太平洋戦争の時のアメリカ大統領が、ベトナム戦争の時のジョンソン大統領のような無能な政治家であったら、そのような結果になったかもしれない。しかし、太平洋戦争の時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、アメリカ史上最も強力な指導力を持つ大統領であった。日本軍の真珠湾攻撃で大打撃を受けても、ルーズベルト大統領の指導の下、アメリカ国民は戦意を喪失することは無く、一致団結して戦い抜き、日本に勝利することになったのである。日本は、アメリカの経済力や技術力に敗れる前に、ルーズベルト大統領の指導力と政治能力に敗れたのである。そしてベトナム戦争の時のアメリカは、ジョンソン大統領の政治能力の欠如によって北ベトナムに敗れてしまったのである。
天皇と明治政府
最高指導者の重要性は、徳川幕府の幕末以降の日本にも見ることができる。
1853年(嘉永6年)6月、アメリカのペリーが四隻の軍艦を率いて浦賀へ来港する。そして軍事力を背景に、フィルモア大統領からの日本に開国を求める国書を幕府が受け取ることを要求する。これに対して幕府が国書を受け取ったため、ペリーは国書に対する返事を得るために翌年もう一度やって来ることを述べて帰国した。
そして、翌年の1854年(安政元年)1月、今度は七隻の軍艦を率いてペリーはやって来た。そして圧倒的な軍事力を背景に、幕府に対して開国を迫る。これに対してアメリカの軍事力に対抗する力の無い幕府は、仕方なく渋々と日米和親条約を結ぶ。この結果、鎖国政策は終わったが、アメリカの軍事力に対して戦うこともできず屈服した幕府の権威は低下してしまった。
しかしアメリカは、これでも満足せず、1856年(安政3年)には総領事としてハリスを日本に派遣し、通商条約の締結を要求し、更なる開国を迫って来た。
一方、幕府は、今回もいやいやながらもアメリカの要求を受け入れようとした。ところが今回は、前水戸藩主の徳川斉昭を始めとした、外国勢力を軍事力で撃退すべきだと主張する攘夷派の大名などが幕府の対米姿勢を弱腰と見なして反発し、開国に対して反対の声を挙げ始めた。この結果、幕府は窮地に陥った。開国をしなければ強大な軍事力を持つアメリカは何をするか分からない。もし戦争にでもなれば、軍事力など無いに等しい幕府はひとたまりもない。だからと言って、権威が低下してしまった幕府には開国に反対する攘夷派の大名などを押さえつける力は無い。
そこで幕府は、開国に反対する攘夷派を押さえつけるため、天皇から開国の勅許を得ることにした。幕府の権威が落ち目なのに対して、天皇の権威は次第に高まりつつあった。幕府の言うことには従わない攘夷派も、天皇の権威には逆らえないであろうというのが幕府の読みであった。そこで幕府は、1858年(安政5年)2月に老中の堀田正睦を上京させ、朝廷に開国の勅許を申請した。一方、朝廷では、関白の九条尚忠が開国の勅許を与えるべきだと主張した。これに対して、岩倉具視を始めとした八十八名の攘夷派の公家が御所に押しかけ、開国の勅許を出すことに反対して抗議した。また、徳川斉昭も開国に反対するように朝廷に働きかけていた。そして遂に、孝明天皇が開国に反対の立場を明確にしたため、幕府は開国の勅許を得ることに失敗し、政治の混乱に拍車をかけることになってしまった。
やがて幕府は、井伊直弼を大老に任命する。井伊直弼が大老に就任した頃は、欧米列強が軍事力を背景に日本の開国を迫るのに対して、日本の国内では、開国を拒否して欧米列強を軍事力で撃退すべきであるという尊皇攘夷論が猛威を振るっていた。しかし、当時の日本には欧米の軍事力に対抗できる軍事力など全く無かった。従って、尊皇攘夷論なるものは、自国の力を全く理解していない者の空想論に過ぎなかったのである。
アメリカ総領事のハリスに通商条約の締結を迫られた井伊直弼は、尊皇攘夷論を押し切り、勅許無しで1858年(安政5年)6月に日米修好通商条約の締結を強行し、更なる開国を行った。また、この頃、大名や有力者の間で、十三代将軍家定の後継者を巡り徳川慶喜を押す一派と徳川家茂を押す一派が対立していたが、井伊直弼は徳川慶喜を押す一派を押し切り、徳川家茂を次の将軍と決定した。そして井伊直弼は、開国に反対する者や、将軍家定の後継者問題で対立した者に対して安政の大獄と呼ばれる弾圧を行った。安政の大獄によって、徳川斉昭、徳川慶喜、松平春嶽、山内容堂といった大名などに対して蟄居や謹慎などの処分が行われ、更に吉田松陰や橋本左内らが処刑されたのを始めとして多くの武士や公家が処罰された。
こうして井伊直弼は、欧米列強との武力衝突を回避して国家の危機を乗り切ったのである。しかし、井伊直弼が朝廷の意向に反して開国を決断したことや安政の大獄による弾圧は、尊皇攘夷派からは極悪非道な行為と見なされた。そのため井伊直弼は、1860年(万延元年)3月に尊皇攘夷派の浪士によって桜田門外で暗殺されてしまった。そして、この井伊直弼の暗殺は、幕府の権威を更に低下させる結果となった。
開国の勅許は1865年(慶応元年)10月に出されたが、既に時代は幕末の動乱の最中であった。そして、1867年(慶応3年)10月には征夷大将軍の徳川慶喜が大政奉還を決断せざるを得なくなった。更に1868年(慶応4年)1月、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで薩摩と長州の連合軍に敗れ、4月には江戸城の無血開城によって徳川幕府は名実共に滅亡してしまう。井伊直弼が、その指導力と決断力によって、軍事力を背景に開国を迫る欧米列強から国家の危機を救ったにもかかわらず、結局、徳川幕府を守ることはできなかったのである。
一方、徳川幕府を打倒した薩摩や長州を始めとした勢力は、明治政府を樹立した。明治政府は、徳川幕府の開国政策を受け継ぎ、文明開化と称して欧米の制度、技術、文化などの積極的な導入を行った。ところが、この明治政府の開国政策は、井伊直弼らによって行われた徳川幕府の開国政策とは違い、批判されることはほとんど無かった。つまり、明治維新以降、明治政府の指導者を始めとした多くの日本人は、開国政策が正しいことを認め、これを受け入れたのである。つまり、井伊直弼の決断の正しさは、宿敵であった薩摩や長州の指導者からさえ認められたということである。しかし井伊直弼の功績は、幕末の時点では全く評価されなかった。それは、井伊直弼が開国の決断を行った時点では、まだ孝明天皇が開国を支持しておらず、開国の勅許を出していなかったからである。孝明天皇は、1865年(慶応元年)10月に開国政策に同意して開国の勅許を出した。そして、開国政策は明治政府にも受け継がれた。かつての勤王の志士や尊皇攘夷論者といえども天皇の権威には逆らえない。そのため、ほとんどの日本人が明治政府の開国政策には反対しなかったのである。つまり日本では、いくら正しい決定や政策であっても、正統な国家の最高指導者である天皇が認めなければ、正当化することができないのである。
日本の武家政治は、1192年(建久3年)に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから徳川慶喜が大政奉還を行うまで七百年近い歴史があったにもかかわらず、遂に日本の正統な国家体制になることは無かった。そのため、武家の棟梁である征夷大将軍は、最後まで正統な国家の最高指導者になることはできなかった。それは源頼朝が鎌倉幕府を開いた時には、既に天皇制が日本の正統な国家体制として確立され、日本の社会に定着していたからである。徳川将軍家は、徳川家康が覇権を確立して以来、二百六十年以上の間、日本の政治を支配して来た。ところが、徳川将軍家といえども実態は武家の最有力者の一つに過ぎず、国家を統治する正統性など全く無かったのである。このことが、開国を決定するために幕府が天皇に勅許を求めたことによって露見し、天下に知れ渡ってしまったのである。
武家政治の時代の日本では、本来は正統な最高指導者である天皇の権威やカリスマの力が低下し、事実上正統な最高指導者が存在しない状態が続いていた。そのため、国家の防衛は、実質的に日本を支配していた武家政治が行うしかなかった。
しかし、武家政治は本来、国家の防衛には不向きな国家体制であった。武家政治が国家の防衛に不向きであった理由は二つある。
第一の理由は、武家政治はもともと日本の正統な国家体制ではなかったため、武家政治の指導者には国家の防衛や外交を行うための法的権限が無かったことである。
第二の理由は、武士が戦闘を行った場合、功績のあった者に対して恩賞として領地を与えなければならなかったからである。恩賞として領地を与えるためには、戦闘に敗れた相手から領地を没収することによって、恩賞として与えるための領地を獲得しなければならない。ところが、外敵に対する防衛戦争の場合は、たとえ戦闘に勝利したとしても、恩賞として与えるための領地を獲得することが極めて困難である。従って、恩賞としての領地がもらえない防衛戦争を行うことは、武士にとっては極めて困難なのである。つまり、武士にできる戦争は、同じ日本の武士同士の領地争奪戦に限られるのである。
ただし、現実には、鎌倉幕府は当時の世界帝国であるモンゴル帝国の襲来を撃退することに成功している。鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができたのは、モンゴル帝国との戦いの時は、徳川幕府の幕末ように朝廷や大名が鎌倉幕府の軍事・外交政策に対して抵抗することが無かったからである。鎌倉幕府には軍事・外交を行う法的権限が無かったが、朝廷には、軍事・外交を行う法的権限はあっても能力が無かった。そのため、幕府の行っている軍事・外交政策に反対しようが無かったのである。徳川幕府の幕末に朝廷が幕府の外交政策に反対したのは、あくまで尊皇攘夷派の公家の策謀によるものであって、普段は政治の実権を握っている幕府に軍事・外交政策を任せるしかなかったのである。また、モンゴル帝国の襲来の頃は、鎌倉幕府の最盛期であり、その権力は絶頂に達していたため、大名も幕府の政策には反対できなかった。その結果、鎌倉幕府のモンゴル帝国に対する軍事・外交政策が混乱することは無かったのである。ただし、モンゴル帝国との戦いは防衛戦争であったため、敗れたモンゴルから領地を獲得できず、武士に恩賞として与えるための領地が確保できなかったため、功績のあった武士に対して十分な恩賞を与えることができなかった。そのため、鎌倉幕府に対する武士たちの信用が低下し、鎌倉幕府は弱体化して滅亡してしまったのである。
ところで、明治政府の最高指導者であった明治天皇は、最初から国家の最高指導者としての強大な力を持っていたわけではない。明治政府は、廃藩置県、廃刀令、秩禄処分といった政治の大改革を断行するが、これらの改革は特権階級であった武士から、あらゆる特権を剥奪し、最終的には武士階級を消滅させる行為である。従って、日本中の武士の反発を呼ぶことは避けられなかった。特に1871年(明治4年)の廃藩置県の時は、大久保利通や木戸孝允といった政府の実力者も、特権を奪われることに対する不満から武士の反乱が起きることを恐れていた。この非常事態を乗り切るため、明治政府は西郷隆盛の力を頼ることになった。本来なら、非常事態において国民を一つに団結させ、国家の秩序を維持するのは、最高指導者たる明治天皇の役割である。しかし、明治政府が成立したばかりの頃は、まだ明治天皇の最高指導者としての力は不十分であった。一方、西郷隆盛は、明治維新の最大の功労者であり、強力なカリスマと指導力で薩摩・長州・土佐の八千人の兵からなる御親兵を率いていた。明治政府は、西郷隆盛のカリスマの力と軍事力で武士たちの不満を押さえつけて廃藩置県を断行したのである。このように、明治政府が成立したばかりの頃の西郷隆盛は、明治天皇に代わって最高指導者の役割を代行していたのである。更に明治政府は、1873年(明治6年)には徴兵制を導入した。これによって武士は、軍事力を担う役割を奪われてしまった。ところがその後、西郷隆盛は征韓論を巡る権力闘争に敗れて下野してしまう。すると、西郷隆盛という強力な指導者を失った明治政府は指導力が低下してしまう。しかし、その後も明治政府は廃刀令や秩禄処分といった改革を次々と断行していった。こうした一連の改革の結果、多くの武士が特権を奪われてしまった。しかし、西郷隆盛という強力な指導者を失い指導力の低下した明治政府に武士たちの不満を押さえつける力は無かった。その結果、1876年(明治9年)には、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などといった武士の反乱が相次ぐことになってしまった。そして1877年(明治10年)には、西郷隆盛までが薩摩の武士を率いて西南戦争を起こすに至ったのである。これに対して明治政府は、西郷隆盛の率いる薩摩の武士を軍事力で打ち破ることに成功した。その結果、明治天皇の最高指導者としてのカリスマの力が確立され、明治政府は安定し始めるのである。これ以降、明治政府は明治天皇の強力なカリスマの力によって富国強兵政策を推進することになるのである。
明治維新から太平洋戦争の敗戦に至るまで、天皇は三代にわたり最高指導者として日本に君臨した。その間、軍事・外交上の重要政策は、最終的には天皇の裁可が無ければ決定できなかった。天皇の裁可が下る前の段階では、元老や大本営政府連絡会議によって決定が行われた。しかし、元老や大本営政府連絡会議の決定は国家の正式な決定ではなく、政府の実力者による私的な合意に過ぎなかった。明治体制下の日本では、最高指導者である天皇の裁可があって初めて正式な国家の意志決定となるのである。そのため、軍事・外交上の重要政策を決定する場合は、天皇の臨席の下に御前会議が開かれたのである。この御前会議こそ、国家の最高指導者としての天皇が権力を行使する場であった。
一部の学者や知識人は、明治体制下の天皇は自ら意志決定を行ったことがほとんど無く、更に昭和天皇に関しては、自ら意志決定を行ったのは二・二六事件と、太平洋戦争の終戦のためにポツダム宣言を受諾した時だけであり、戦後体制下の天皇と同様に形だけの存在であったと主張している。しかし、明治体制下の天皇が自ら意志決定を行ったことがほとんど無かったからと言って、天皇が権力を行使したことが無かったと考えるのは間違いである。なぜなら、明治体制下の日本では天皇の裁可が無ければ国家としての重大な意志決定ができなかったからである。そして重大な意志決定の内容を天皇の名において国民に発表しなければ、重大な意志決定を国民に納得させることができなかったからである。
一般的に、権力の行使と言うと、法的権限の行使のことを言う場合が多い。しかし、国家の指導者が法的権限に基づいて重大な意志決定を行っても、国民がこれに従わなければ、その決定は無効になってしまう。特に、戦争のような国民に多大な負担や犠牲を強いる決定に対しては、国民が反発して従わないような事態が起きる可能性もある。そのため、最高指導者のカリスマの力によって国民の意識を変えなければ、戦争のような国家の重大な意志決定に国民を従わせることができない場合もあるのである。つまり、国家の重大な意志決定は、法的権限の行使と同時に最高指導者のカリスマの力を行使することによって始めて可能になる場合もあるのである。要するに、最高指導者のカリスマの力も法的権限と同様に国家を運営する上で必要不可欠な国家権力なのである。従って、カリスマの力の行使も権力の行使であり、法的権限の行使だけが権力の行使ではないのである。
明治体制下の日本では、国家の最高指導者としての天皇が持っているカリスマの力によって国民の意識を変えることができて、始めて開戦の決定のような重大な意志決定に国民を従わせることができたのである。明治体制下の日本では、内閣総理大臣などの閣僚が法的権限の行使を担当し、天皇がカリスマの力の行使を担当していたのである。ところが学者や知識人の中には、法的権限の行使だけが権力の行使だと思い込んでいる者が数多く存在しているのである。そのような学者や知識人から見れば、法的権限の行使をすることがほとんど無い明治体制下の天皇は、あたかも形だけの存在にしか見えないのである。そこで彼らは、明治体制下の天皇が権力を持たない象徴的な存在であったと主張しているのである。しかし、カリスマの力が権力である以上、天皇が持つ強大なカリスマの力を行使することは、天皇による権力の行使であると考えざるを得ない。従って、明治体制下の日本における御前会議は、天皇が権力を行使する場であったと言えるのである。
戦後体制の指導者
日本国憲法に記された議院内閣制は、イギリスの立憲君主制を手本にしているということになっている。そのイギリスの首相は、国家の中で一体どのような立場にあるのか。
軍事・外交上の重大な意志決定をすることが国家の最高指導者の最も重要な役割である。従って、一体誰が軍事・外交上の重大な意志決定を行ったかで、その国の最高指導者が誰なのか分かるのである。たとえば1982年に起きたフォークランド紛争の時の例である。アルゼンチン軍が突如、イギリスが実効支配するアルゼンチン沖のフォークランド諸島を占領したことに対して、イギリスは空母機動部隊を派遣してフォークランド諸島を軍事力によって奪還することを決定した。これは、サッチャー首相の決断によって決まったのであり、戦前の日本のように女王を招いてイギリス版御前会議を開いたわけではない。また、2003年に始まったイラク戦争へのイギリスの参戦も、ブレア首相がイギリス国民の反対を押し切って独断で決めたものである。このようにイギリスでは、開戦のような国家の重大な意志決定は首相が行うのである。従って、イギリスの首相は国家の最高指導者であると言えるのである。つまり、イギリスの首相は事実上の大統領なのである。
明治体制下の日本では1885年(明治18年)に内閣制度が創設された。しかし、この時は、内閣を主催する内閣総理大臣といえども、形式的には天皇の補佐役に過ぎなかった。伊藤博文や山県有朋のような実力者が内閣総理大臣に就任しても、軍事・外交政策のような国家にとって重大な意志決定には、やはり天皇の裁可が必要であった。
それでは、戦後体制下の日本の内閣総理大臣は、一体何なのか。日本国憲法の制定によって天皇は「象徴」となり政治の実権を失ったため、明治体制下の内閣総理大臣のような最高指導者たる天皇の補佐役ということはあり得ない。それでは、イギリスの首相のような事実上の大統領になったのであろうか。もし、戦後体制下の日本の内閣総理大臣が国家の最高指導者であるとすれば、国家の重大な意志決定に国民を従わせることができる強力なカリスマを持っているはずである。果たして戦後体制下の内閣総理大臣が、そのような力を持っているのであろうか。
一例として、日米安全保障条約が改定された時の岸信介総理大臣を見てみよう。
1951年(昭和26年)に吉田茂総理大臣によってアメリカとの間に結ばれた日米安全保障条約の下では、アメリカによる日本の防衛の義務があるのか無いのかが定かではなかったため、自国を防衛する能力が無い戦後体制下の日本にとって安全保障上の不安があった。また、アメリカ軍が日本国内の軍事基地を使用する際に日本政府の了解を得る必要が無かったため、日本の独立国家としての体面を保つ上で問題があった。そこで岸信介総理大臣は、この問題を解決するため日米安全保障条約の改定を決意し、1958年(昭和33年)からアメリカとの交渉を始めた。
ところが、社会党を始めとした野党勢力や総評などの労働団体は、日本とアメリカが安全保障上の結びつきを強めることをアメリカのアジア戦略に日本を巻き込む危険なものと考えて日米安保条約改定阻止国民会議を結成し、岸政権の安保条約改定に対する反対運動を開始した。
一方、岸総理大臣は、1960年(昭和35年)1月にアメリカとの間で安保条約改定の調印を行った。そして5月20日に、安保反対のデモが繰り広げられる中で、岸総理大臣は新安保条約の批准を決断し、衆議院本会議で採決した。
そこで問題なのが、岸総理大臣による安保改定の決断により、安保条約に対する反対運動や世論がどうなったのかということである。何と、岸総理大臣の決断は、安保条約に対する反対運動を更に激化させてしまったのである。連日、数十万人のデモ隊が国会議事堂を取り囲み、安保反対と岸総理大臣の退陣を要求してデモを繰り広げた。挙げ句の果てに、与党の自由民主党の中からも岸総理大臣の退陣を求める声が出て来るという有様であった。この騒動によって、予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が中止になってしまった。1960年(昭和35年)6月19日、新安保条約は自然承認され成立した。しかし、岸総理大臣は政治の混乱を収拾するため、遂に6月23日に辞意を表明するはめになってしまった。結局、岸総理大臣の決断は、安保条約に対する反対運動を激化させ政治を混乱させただけであり、国民の意識を変えることはできなかったのである。やがて、岸総理大臣の退陣後に内閣総理大臣に就任した池田勇人が所得倍増論を打ち出した結果、国民の目を政治から経済に向けさせることができた。これによって国民に日米安保条約のことを忘れさせることに成功したため、とりあえず政治の混乱を収拾して世論の分裂による国家の危機を乗り越えることができたのである。しかし、これによって安保条約反対の世論までが変わったわけではない。世論の分裂による国家の危機を乗り越えることができても、世論の分裂そのものが無くなったわけではなかったのである。日本国民は、自民党政権の手練手管によって手なずけられてしまっただけのことである。
岸総理大臣が国家の最高指導者なら、安保条約改定の決断の結果、安保を巡る世論の分列は、すみやかに収まっていたはずである。つまり、戦後体制下の内閣総理大臣の役職にはアメリカ大統領や明治体制下の天皇のような強力なカリスマが備わっていないのである。だから岸総理大臣が安保条約改定の決断をしても国民の意識が変わることはなく、安保条約に対する国民の全面的な支持を得ることはできなかったのである。日米安保条約の改定により日本の経済発展の基礎を固めた岸信介は、確かに有能な政治家ではあったが、決して国家の最高指導者ではなかったのである。だから60年安保騒動は、安保条約を国民に受け入れさせるのではなく、池田内閣の所得倍増論によって国民の目を経済にそらして安保問題を忘れさせることによって収拾するしかなかったのである。このように、結果として60年安保騒動の危機は乗り切ることができた。しかし、将来も国民世論の分裂による危機に際して、このような方法が通用するとは限らない。
一方、安保条約を巡る世論の分列と混乱は、その後も続いた。日米安保体制は、70年安保闘争や1995年(平成7年)の沖縄のアメリカ軍兵士による少女暴行事件、そして沖縄のアメリカ軍普天間基地の移転問題などを巡って動揺し続けたのである。
ただし、軍事・外交上の決断に国民の一致団結した支持を必要とするのは、それを実行するためにはどうしても国民の協力や負担を必要とする場合である。従って、たとえ軍事・外交上の決断であっても、それを実行するために国民の協力や負担を特に必要としない場合は、国民の間で、どのような意見の対立や世論の分列があっても構わない場合もある。
たとえば、吉田茂総理大臣が太平洋戦争の終結のためのサンフランシスコ講和条約の締結を行おうとした時、冷戦の影響でアメリカとソビエトの意見が対立した結果、ソビエトなど共産主義諸国を含めた全面講和の締結が極めて困難になってしまった。そこで吉田総理大臣は、アメリカを始めとした自由主義諸国だけとの片面講和の締結を決断したのである。これに対して当時の日本のジャーナリズムや野党勢力は、全面講和の締結を主張したため、吉田総理大臣の片面講和は世論の支持が得られなかった。つまり、吉田総理大臣が片面講和の締結を決断しても、世論はこれを支持することは無かったのである。戦後最大の総理大臣とも言われる吉田茂にしても、国家の最高指導者と言えるような力は無かったのである。しかし、講和条約の締結に国民の協力や負担など特に必要ではない。そこで吉田総理大臣は、世論や野党の反対を振り切って、1951年(昭和26年)9月に片面講和であるサンフランシスコ講和条約に調印したのである。
戦後体制の安全保障
戦後民主主義や戦後体制と呼ばれている太平洋戦争後の日本の国家体制は、国家の非常事態や安全保障といったものを全く無視して作られたものである。日本の戦後体制を作ったのは太平洋戦争後の日本に対するアメリカの占領政策の責任者であるマッカーサー元帥である。マッカーサーの日本に対する占領政策の目的は、日本を二度とアメリカの軍事的な脅威にならない国にすることであった。そのためマッカーサーは、帝国陸海軍の廃止、日本国憲法の制定など、日本を軍事的に無力化する政策を次々と実行していった。
マッカーサーによる日本を軍事的に無力化する政策の中でも、とりわけ重大なものが1946年(昭和21年)に行われた日本国憲法の制定である。日本国憲法の制定の目的は、日本の非武装化である。
日本国憲法の中でも、戦争放棄を定めた憲法九条には様々な解釈がある。
たとえば日本政府の憲法解釈では、憲法九条は、いわゆる侵略戦争と集団的自衛権のみを禁じたものであって、自衛戦争まで禁じたものではないとされている。従って、専守防衛の範囲ならば軍備の保有と交戦権は認められると言うのである。しかし、もし日本国憲法が自衛戦争を認めているとすれば、憲法九条二項の、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」という条文をどう解釈するのか。憲法九条二項は、明らかに自衛権を含めたあらゆる戦争を否定するものである。従って、日本国憲法は日本の非武装化を目的に作られたものであり、日本政府による国家の防衛など全く問題にしていないと考えざるを得ないのである。
日本政府の憲法解釈を支持する人たちの主張の根拠になっているのが、いわゆる不戦条約である。1928年8月27日、アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外相ブリアンの提唱する不戦条約に、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、そして日本などの十五ヶ国の代表がパリで調印した。この不戦条約は、提唱者の名前からケロッグ・ブリアン協定とも呼ばれている。この条約は、戦争を違法として戦争放棄をうたってはいるが、自衛のためならば軍備の保有も軍事力の行使も禁止してはいなかった。日本政府の憲法解釈を支持する人たちの主張によると、日本国憲法九条は、このケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものだと言う。だから日本国憲法は、自衛のための軍備の保有ならびに軍事力の行使を禁止してはいないと言うのである。憲法九条一項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という条文だけなら、そのような解釈もできるかもしれない。しかし憲法九条二項には、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。もし、日本国憲法がケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものだとすれば、憲法九条二項など存在しないはずである。従って、日本国憲法がケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものとは考えられないのである。
更に、日本国憲法九条の解釈として、憲法九条が目指すのは軍事力を使わない安全保障であると主張する人たちがいるが、これが間違いであることは、朝鮮戦争当時のマッカーサーの行動を見れば明らかである。1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮が韓国に対して武力攻撃を開始して朝鮮戦争が勃発した。これに対して、アメリカのトルーマン大統領は、極東アメリカ軍に対して出動を命令し、朝鮮半島における軍事行動の指揮権をマッカーサーに与えた。更に、国連安全保障理事会の決議によりアメリカを主力とする国連軍が組織されたことを受け、トルーマン大統領はマッカーサーを国連軍総司令官に任命した。こうして朝鮮戦争におけるアメリカ軍と国連軍の最高責任者となったマッカーサーは、北朝鮮軍を韓国から撃退するため、アメリカを主力とする国連軍を朝鮮半島に派遣したのである。このマッカーサーの行為は、マッカーサーが軍事力には軍事力で対抗するしかないという考えの持ち主であることを明確に示しているのである。もし、マッカーサーが軍事力を使わない安全保障なるものを日本国憲法に記したのだとすれば、日本国憲法制定の責任者であるマッカーサー自身が、その手本を日本政府や国民に見せなければ筋が通らない。ところが、マッカーサーが軍事力を使わないで朝鮮戦争を収拾しようとした形跡など全く無いのが現実である。これでは、軍事力を使わない安全保障と言われても、日本政府も国民も何を行ってよいのか全く分からない。また、一部の平和主義者は、軍事力を使わない安全保障の具体的な方法は、日本政府や国民が自分で考えて見つけるしかないと言っているが、それは無理なことである。なぜなら、軍事力を使わない安全保障の方法が見つかるまでの間の安全保障をどうするのかという問題があるからである。このことについて日本国憲法には何も記されていないのである。日本国憲法の目指すものは、あくまで日本の非武装化であり、日本の安全保障など全く問題にしてはいないのである。
日本国憲法に戦争の放棄が記された背景には、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)当時の日本がアメリカの軍事占領下にあったということもある。日本国憲法九条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。この日本国憲法九条に記された内容は、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)当時の日本が置かれていた状況そのものであるとも言える。日本国憲法が作られた当時の日本は、アメリカによる占領政策によって帝国陸海軍が解体され軍事力を全く持っていないため、戦争は放棄せざるを得ない。また、アメリカ軍によって占領され国家の独立を失っているため、交戦権も無い。結局、日本の安全保障は、日本を軍事占領しているアメリカ軍が責任を負うしかない。従って、日本国憲法が作られた当時の日本では、日本の安全保障は日本政府の役割ではなかったのである。
更に、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)は、米ソ冷戦が激化する前であり、まだ共産主義勢力の脅威が深刻な問題にはなっていなかったため、ほとんど誰も共産主義勢力が日本の安全保障の脅威だという認識をしていなかった。
これらの理由によって、マッカーサーが日本国憲法を作るにあたり、日本の安全保障のことなど考える必要は全く無かったのである。つまり日本国憲法は、共産主義勢力が日本の安全保障の脅威になった場合や、日本が独立国家になった場合など全く想定してはいないのである。そのため、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本が形式的に独立国家になった後も、依然として占領時代と同様にアメリカに安全保障を依存せざるを得ないのである。従って、戦後体制下の日本の安全保障にとって、日米安保体制は生命線なのである。
日本国憲法九条は、戦後体制下の日本の安全保障にとっての生命線である日米安保体制を脅かす存在でもある。
1999年(平成11年)に成立した、いわゆる新ガイドライン法は、日本政府による憲法九条の解釈にも違反している。新ガイドライン法は、日本の周辺で戦争をしているアメリカ軍に対して日本政府による武器弾薬や燃料の補給や輸送などの後方支援を行うことを定めた法律である。内閣法制局による憲法九条の解釈では、集団的自衛権の行使は憲法違反であり、日本の戦争行為が許されるのは、日本の領土が他国から攻撃された場合に限るということになっている。しかし、それでは、日本が直接武力攻撃を受けている場合を除いて、アメリカが行っている戦争に対して後方支援をすることは憲法違反になってしまう。なぜなら、後方支援が戦争行為であることは世界の常識だからである。そして戦争になれば補給活動に対する武力行使が行われるのも常識である。実際に太平洋戦争中に日本の補給船がアメリカ軍の攻撃の対象になり、多くの犠牲者を出したのである。日本が直接武力攻撃を受けていない時にアメリカ軍に対して補給を行うのは明確なる戦争行為であり、集団的自衛権の行使である。従って、いわゆる新ガイドライン法は、内閣法制局による憲法解釈では憲法違反になってしまうのである。
この新ガイドライン法案が国会で審議されている時、審議の中で野党議員の「後方支援は戦争行為であり、軍事行動と一体ではないのか。」という質問に対して、小渕総理大臣を始めとした政府首脳が言い続けたことは、「戦争行為と後方支援は別であり、後方支援は憲法違反ではない。」ということであった。また、湾岸戦争の時も海部総理大臣が、後方支援は戦争行為ではないと言っている。これらの日本政府首脳の発言は、明らかに国際常識に反する詭弁である。要するに、後方支援が戦争行為であると認めてしまったら、周辺事態や湾岸戦争におけるアメリカ軍に対する後方支援が憲法九条に違反することを認めることになってしまうのである。だから日本政府は、後方支援は戦争行為ではないという詭弁を繰り返さなければならないのである。
日本政府は、自衛隊の存在を正当化するため憲法九条を拡大解釈して、専守防衛の範囲なら軍備の保有は合憲だと主張し、更に、日米同盟関係や新ガイドライン法を正当化するために「後方支援は戦争行為ではない」と言って世界の軍事常識をねじ曲げている。このような行為は、子供騙しとしか言いようがない。このことが意味するのは、憲法の拡大解釈によって軍事情勢の変化に対処するというやり方には無理があるということである。そのため改憲論者は、日本が軍事情勢の変化に対応するためには、日本国憲法を改正すべきだと主張している。
また、改憲論者の中には、日本が国家として自立するためには日本が独自の安全保障政策や外交ができるようになる必要があり、そのためにも日本国憲法は改正すべきだと主張している人たちが居る。しかし、憲法を改正しても、それだけで日本が独自の安全保障政策や外交ができるようになるわけではない。なぜなら、国家の最高指導者の不在も、戦後体制下の日本が独自の安全保障政策や外交ができない理由だからである。
多くの人間は、軍隊さえあれば戦争ができると思い込んでいる。そして多くの日本人は、自衛隊と言う名の軍隊が日本の安全を守ってくれると思っている。しかし、自衛隊に日本の安全を守る能力は無いのである。なぜなら、戦争は軍隊が行うことではなく国家が行うことであり、国家が戦争を行うためには国家の防衛体制が確立されていなければならないからである。戦後体制下の日本には、国家の防衛体制が確立されていないのである。
国家の防衛体制を確立するためには、次の三つの要素が必要である。
第一の要素は、言うまでもなく軍隊である。
第二の要素が、後方支援と、それを支える経済力である。軍隊が行うのは戦闘であり、戦争ではない。戦闘は、武器弾薬や燃料などの補給や輸送、通信、傷病兵の治療などといった後方支援があって初めて可能になる。そして後方支援を行うためには、後方支援を支えることが可能な経済力が必要である。戦争とは、戦闘に加えて、後方支援など戦闘を継続するために必要な行為全体を言うのであり、それを行うのが国家である。軍隊は国家が行う戦争の中で、戦闘部門を受け持っているのである。
そして、国家の防衛体制を確立するために必要な第三の要素が、国民に戦争を一致団結して支持させ協力させることが可能な強力なカリスマを持った最高指導者の存在である。
最高指導者の力が発揮できず、国民の一致団結した戦争に対する支持が十分に得られなかったため、軍事力や経済力では敵国に対して圧倒的な力を持ちながら戦争に敗れてしまった例がいくつもある。日清戦争に敗れた中国の清朝、日露戦争に敗れたロシア帝国、そしてベトナム戦争に敗れたアメリカなどがよい例である。日清戦争の頃の清朝と日露戦争の頃のロシア帝国は、革命が起きる寸前の状態にあった。そのため、清の皇帝もロシアの皇帝も、その指導力を十分に発揮することができず、日本との戦争に対して国民を団結させることができなかったため、戦争に敗れてしまったのである。そして清朝もロシア帝国も日本に敗れてから十数年後に革命によって崩壊している。最高指導者のカリスマの力が失われた革命寸前の国家では、国民を戦争のために一致団結させることはできないのである。また、ベトナム戦争の長期化によってアメリカ国民に厭戦気分が蔓延し、反戦運動が激化し、国民の団結が失われた結果、アメリカはベトナム戦争に敗れてしまった。つまり、ベトナム戦争当時のアメリカのように、大統領という最高指導者が存在していても、戦争指導を誤り戦況が悪化して国民の支持を失うようなことになれば、国民の団結が維持できなくなることもあるのである。ましてや、最高指導者が存在しない戦後体制下の日本には、戦争など不可能である。
最高指導者が存在しなければ、戦争に対する国民の一致団結した支持が得られないどころか、場合によっては後方支援に対する協力さえ得られないかもしれないのである。後方支援には、民間人の協力や、場合によっては犠牲が必要なこともある。たとえば、民間の船舶が、その乗組員と一緒に兵器や軍事物資などの輸送に協力することを求められることもある。民間の船舶の乗組員といえども、軍事物資の輸送のような戦争行為を行えば、攻撃を受け犠牲になる可能性がある。戦時において国民が一致団結できなければ、こういった後方支援のための一般国民の負担や犠牲に対して国民から不満の声が挙がったり、協力を拒否されたりするような事態も起きかねない。これでは戦争など不可能である。
日本国憲法さえ改正すれば、戦後体制下の日本が、戦争をすることが可能な国家になると思い込んでいる改憲論者の考えは、明らかに誤りである。国家が戦争をするためには、「軍事力」に加えて後方支援を支える「経済力」、そして非常時において国民を一致団結させる「最高指導者のカリスマの力」が必要である。この「軍事力」と「経済力」と「最高指導者のカリスマの力」の三つが一体となって機能するのが国家の防衛体制である。軍隊は、あくまで国家の防衛体制の一部である。従って、国家の防衛体制が確立されていなければ、軍隊は機能しないのである。つまり、最高指導者が存在しないため国家の防衛体制が確立できない戦後体制下の日本が、いくら強力な軍隊を持っていても、全く使い物にならないのである。従って、戦後体制下の日本では、日本国憲法をどのような内容に改正しても、日本が独自に国家の防衛を行うことは不可能なのである。結局、戦後体制下の日本の防衛は、アメリカに依存するしかないのである。
また、外交を行う場合も、戦争を行う場合と同様に最高指導者の力が必要な場合がある。外交において最高指導者の力が必要なのは、軍事力を背景にした外交を行う場合だけではない。外交政策を行うために国民世論の一致団結した支持が必要な場合にも最高指導者の力が必要である。最高指導者の不在によって、政府の外交政策に対する国民世論の一致団結した支持が得られないために外交政策が停滞してしまった例がある。それが、北朝鮮が起こした日本人拉致事件を解決するための日本政府による対北朝鮮外交である。
日本政府は、1980年代後半には、警察による捜査や韓国へ亡命した元北朝鮮工作員の証言などから、北朝鮮に多くの日本人が拉致されたことを知っていながら、なかなか事件の解決に動こうとはしなかった。それは、たとえ日本政府や警察が、日本人が北朝鮮によって拉致されたことを示す動かぬ証拠を持っていたとしても、1980年代当時の日本政府が北朝鮮に対して拉致事件の解決を要求するのは無理なことであったからである。なぜなら、証拠を信じるか信じないかということは、結局、その証拠を出した人間を信じるか信じないかということだからである。1991年(平成3年)にソビエトが崩壊する以前の日本では、共産主義を掲げる左翼勢力が言論界で大きな発言力を持っていた。左翼勢力にとっては「保守反動」の日本政府より、同じ共産主義の同志である北朝鮮の方が遥かに信用できるのである。たとえ日本政府が、北朝鮮によって日本人が拉致されたことを示す動かぬ証拠を出しても、北朝鮮政府が「でっち上げだ」とか言って抗議すれば、日本国内の左翼勢力や、その影響を受けているジャーナリストや国民が北朝鮮政府と一緒になって騒ぎ出し、世論が分裂してしまうのは目に見えていた。しかも日本政府が、北朝鮮が起こした日本人拉致事件を外交問題にするとなると、北朝鮮政府と親密な関係にあった野党第一党の日本社会党や、その支持者が猛反発して政治が大混乱する恐れもあった。これでは対北朝鮮外交など不可能である。国家が外交を行うためには国民の一致した合意が必要な場合もある。国民世論が分裂した状態では、賛成派と反対派が足の引っ張りあいをして政治が混乱し、外交などできなくなってしまう場合もある。国民全体が一致団結して政治的要求をしてこそ、相手の国に対する強力な働きかけが可能になるのである。
やがて、1991年(平成3年)のソビエトの崩壊によって状況が一変する。共産主義の本家の崩壊によって左翼勢力に対する国民の信用は一気に低下してしまう。その結果、左翼勢力の発言力も低下する。また、北朝鮮政府と親密な関係にあった日本社会党は、1993年(平成5年)の衆議院議員総選挙で惨敗して大幅に議席数を減らした後も、党の分裂や選挙の連敗によって更に議席数が減った結果、弱小政党社民党となり、政界における発言力が大幅に低下してしまった。これによって、日本政府が拉致事件を外交問題にしても、それに異議を唱える勢力が日本国内には存在しなくなり、拉致事件を解決するための外交に対する国民の一致した支持が得られるようになったのである。こうして日本政府が公式に拉致事件の解決を北朝鮮政府に要求することが可能になったのである。しかし、もし日本がまともな国家であったなら、自国民が外国の行政機関によって拉致されるような事件が発覚すれば、直ちに行動を起こしていたはずである。日本政府が拉致事件を解決するための外交を始めるには、結局、日本国内の親北朝鮮勢力の発言力が失われ、対北朝鮮外交に反対する声が無くなる時が来るのを待つしかなかったのである。
このように、日本政府が自国民の安全や人権を犯した国に対して、容易に行動が起こせなかったという事実が意味することは、戦後体制下の日本が外交能力の欠如した欠陥国家であるということである。外交を行うためには国民世論の一致した支持が必要な場合もある。そのためには、国民を一つに団結させる強力なカリスマを持った最高指導者が必要である。この点に関しては、戦争を行う場合と全く同じである。つまり、戦争が可能な国家体制と外交が可能な国家体制は全く同じものなのである。従って、戦争ができない国家には外交も容易にはできないのである。このため、戦後体制下の日本政府は、拉致事件を解決するための外交を始めるのに時間がかかってしまったのである。
アメリカの大統領制と権力の継承
かつて、政治家や知識人、あるいは学者の間で、首相公選論なるものが論じられたことがあった。首相公選論者の主張は、内閣総理大臣を直接選挙によって選ぶべきだと言うことである。ただ、一口に首相公選論者と言っても、首相公選制を導入すべきだと言う理由には様々なものがあった。内閣総理大臣を直接選挙で選ぶことによって国民の政治意識や政治に対する責任感が強まると主張する者が居る一方で、首相公選制の導入によって、日本に実質的な大統領制を導入すべきだと主張する者も居た。
実質的な大統領制の導入を主張する首相公選論者によると、国民が直接内閣総理大臣を選べば、国民は自らの意志で自分たちが希望する者を内閣総理大臣に選ぶことになる。そして、国民が自らの意志で内閣総理大臣を選ぶと、内閣総理大臣に強い正統性を与えることになり、それによって内閣総理大臣に強いカリスマや指導力が与えられると言うのである。
実質的な大統領制の導入を主張する首相公選論者が手本にしていたのが、アメリカの大統領選挙制度である。ただし、アメリカ大統領選挙における一般投票は、国民が大統領選挙人を選ぶ選挙であり、アメリカ大統領を直接選ぶのは大統領選挙人である。つまり、アメリカ大統領選挙は、形式的には国民に選ばれた大統領選挙人が大統領を選ぶ間接選挙なのである。ただし、実際に一般投票で国民が投票するのは大統領候補者の名前である。また、大統領選挙人になる者は、あらかじめ自分がどの大統領候補者を支持するのかを約束している。そして、アメリカのほとんどの州では、最も多くの票を集めた大統領候補者が、各州に割り当てられた数の全ての大統領選挙人に、自分を支持すると約束している者を選ぶという仕組みになっている。そして、ほとんどの州で、大統領選挙人は、支持すると約束した大統領候補者に投票する法的な義務は無いが、実際は支持すると約束した候補者とは別の候補者に投票することはほとんど無いため、事実上、国民による一般投票の結果が、そのまま大統領選挙の結果になっている。従って、アメリカ大統領選挙は、形式的には間接選挙であっても、実質的には直接選挙と言えるのである。
実質的な大統領制の導入を主張する首相公選論者は、内閣総理大臣を直接選挙によって選べば、内閣総理大臣がアメリカ大統領のような強いカリスマを持った最高指導者になると信じていたのである。しかし、考えてみれば、たとえば日本の都道府県知事は、有権者による直接選挙によって選ばれているのに、アメリカ大統領のような強いカリスマを持っているわけではない。また、イギリスは日本と同じ議院内閣制であり、イギリスの首相は日本の内閣総理大臣と同じく国会議員によって選ばれているにもかかわらず、アメリカ大統領と同様の力を持つ国家の最高指導者である。つまり、最高指導者のカリスマの力が強いか弱いかは、その選び方によって決まるわけではないのである。要するに、アメリカ大統領の強いカリスマと大統領選挙制度との間には何の関係も無いのである。従って、日本の内閣総理大臣を直接選挙で選んでも、イギリスの首相のような実質的な大統領になれるわけではないのである。
それでは、一体どのようにして、アメリカ大統領は、国家の最高指導者が務まるような強いカリスマを得ているのであろうか。
カリスマの力も法的権限と同様に国家を運営する上で必要不可欠な国家権力である。従って、法的権限を継承しただけでは国家の最高指導者は務まらないのである。ところが、国家の最高指導者が務まるような強いカリスマの持ち主など、滅多に登場することが無いのが現実である。なぜなら、国家・国民を指導できるような強いカリスマを持つためには、その源となる「神話」が必要だからである。アメリカの初代大統領であるジョージ・ワシントンは「独立戦争の英雄」であり「建国の父」である。これが彼の持つ強いカリスマの源となる「神話」である。ところが、「独立戦争の英雄」のような、強いカリスマを持つための「神話」を得る機会に恵まれた指導者など、滅多に存在しないのが現実である。しかし、それでは国家の最高指導者が務まるような強いカリスマの持ち主が登場することは滅多に無いことになってしまう。一体どうすれば、強いカリスマを持つための「神話」を得る機会が無かった者が、国家の最高指導者が務まるような強いカリスマを持つことができるのであろうか。
ここで、カリスマについて説明する。
カリスマを持つのは、英雄や有名人のような特別な人間だけではない。実は、全ての人間がカリスマを持っているのである。ただ、一般庶民の持っているカリスマは、英雄や有名人の持つ強いカリスマと比べると遙かに弱いのである。
人間を指導するということは、多くの人間を指導者の意志に従わせることである。多くの人間を指導する立場にある者には、一般庶民が持っているような弱いカリスマではなく、多くの人間を従わせることができる強いカリスマが必要である。強いカリスマを持った者が意志表明をすると、多くの人間が無意識のうちに、その意志を受け入れてしまうのである。つまり、実際は指導者のカリスマの力によって与えられた意志なのに、それを自分自身の考えによって決めた意志だと思い込んでしまうのである。アメリカ大統領に限らず、多くの人間を指導する立場にある者は、このような強いカリスマを持つことが必要不可欠である。そのため、指導的な立場にある者は、何らかの方法で強いカリスマを確立しなければならないのである。
強いカリスマを確立する方法としては、仕事などで功績を挙げたり、偉業を達成したりすることによって個人の持つカリスマの力を強めるという方法があるが、それに加えて、他者から強いカリスマを継承するという方法もある。
カリスマを持つのは個人だけではない。家族や大学や企業のような人間集団がカリスマを持つ場合もある。そして人間が集団に所属すると、その集団からカリスマが与えられることになる。
たとえば、名家とか名門とか呼ばれる一族は、強いカリスマを持った一族のことである。一族の中に強いカリスマを持つ者が登場すると、その一族全体のカリスマも強まることになる。すると、その一族に生まれた人間も、生まれると同時に強いカリスマが与えられることになる。これが俗に言う「親の七光り」である。この仕組みによって何代にもわたって強いカリスマを継承するのが名家とか名門とか呼ばれる一族なのである。
一流大学や一流企業とは、強いカリスマを持った大学や企業のことである。学生が一流大学に入学すると、その一流大学が持つ強いカリスマが与えられる。一流大学の卒業生が優秀な人間と見なされる理由は、学校の成績が優秀であったからと言うよりも、むしろ一流大学から与えられた強いカリスマの力のためである。また、有名な一流企業に就職すると、社員は企業から強いカリスマを与えられるため、一流企業に勤めているだけで、その人間が立派な人間のように世間から思われてしまうのである。
また、カリスマにはマイナスのカリスマもある。たとえば、親が犯罪行為を行うと、子供までが犯罪者の如く扱われてしまう。企業が犯罪行為を行うと、犯罪行為に直接かかわっていない社員までが企業と同罪だと見なされてしまう。これは、親や企業からマイナスのカリスマを受け継いだ結果である。
更に、カリスマを持つのは人間や人間集団だけではない。大統領や首相と言った国家の役職や、社長や専務と言った企業の役職などがカリスマを持つ場合もある。前任者から強いカリスマを持った役職を継承すると、同時に、その役職が持っている強いカリスマも前任者から継承することになる。こうすることによって、本来なら強いカリスマを持つような資質や機会に恵まれない人間でも強いカリスマを持つことが可能になるのである。
人間は、自分の持っているカリスマを強めるために生きているとも言える。人間が出世したり成功者や有名人になったりすることを望むのは、そうすることによって自らのカリスマを強めたいためである。学生が一流大学や有名企業に入りたがる理由の一つが、一流大学や有名企業の持つ強いカリスマを与えられたいためである。親が子供を一流大学や有名企業に入れたがるのは、子供の持つカリスマを強めることによって自分のカリスマも強めたいためである。このように、自分の持っているカリスマを強めたいという人間の欲望が、社会や経済や国家を活性化して発展させるための大きな原動力になっているのである。
これまで述べたことからすると、強いカリスマを得るには、次の二つの方法があることになる。
第一は、チンギス・ハーンやナポレオンやワシントンと言った英雄のように、偉大な業績を挙げることによって「神話」を作り、その「神話」によって自らのカリスマの力を強めるという方法である。
そして第二は、強いカリスマを持った人物や人間集団から、その強いカリスマを継承するという方法である。
いかなる国家であろうと、せっかく国民を指導するに足る強いカリスマを持つ初代最高指導者が登場しても、その人物が死んだり最高指導者を辞めたりしてしまったら、強いカリスマを持った最高指導者が国家に存在しなくなってしてしまう。それでは、国民を指導することができなくなり、国家の非常事態に対処することができなくなってしまう。国家には国民を指導するに足る強いカリスマを持つ最高指導者が必要不可欠である。そこで古今東西、多くの国家では、最高指導者の強いカリスマを次の最高指導者に継承する体制を確立しているのである。
最高指導者の強いカリスマを次の最高指導者に継承する体制の一つが君主制である。君主制とは、初代最高指導者の強いカリスマを継承する一族や子孫に最高指導者の役職も一緒に継承させることによって、強いカリスマを持った最高指導者を存続させる体制である。
そして、アメリカなどの国で採用されている大統領制も、最高指導者の強いカリスマを次の最高指導者に継承する体制の一つである。大統領や首相と言った最高指導者の役職がカリスマを持つ場合もある。大統領の役職が持つカリスマは、偉大な業績を挙げて強力なカリスマを確立した初代大統領個人が持っていたカリスマが、大統領の役職が持つカリスマとなったものである。そして、初代大統領のカリスマを持った大統領の役職を、法の手続きに従って後継者に継承する体制が大統領制なのである。アメリカ大統領の役職が持つカリスマは、初代大統領ワシントン個人が持っていたカリスマが、アメリカ大統領の役職が持つカリスマとなったものである。つまり、アメリカ合衆国第二代大統領ジョン・アダムズ以降の歴代大統領のカリスマは、ワシントンが持っていたカリスマが、大統領の役職と一緒に歴代大統領に継承されたものなのである。
このように、強いカリスマを得る機会の無かった者が、国家の最高指導者が務まるような強いカリスマを持つ方法は、前任者の持つ強いカリスマを継承するしかないのが現実である。
今日のアメリカ大統領は、国民の意識を変えてしまうような強力なカリスマを持っているが、初代ワシントンの頃からこのような力を持っていたわけではない。アメリカ大統領のカリスマの力は、大統領の指導力によって国家の危機を乗り切ったり戦争に勝利したりする度に強大化していったのである。その中でも、とりわけカリスマの力の強大化に貢献したのが、第十六代大統領エイブラハム・リンカーンと第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトである。この二人の偉大な大統領が登場する前と後では、アメリカは大きく変質しているのである。
南北戦争が終結した1865年以前のアメリカは、国家の連合体に過ぎなかった。日本人が「州」と呼ぶヴァージニア、テキサス、カリフォルニア、フロリダなどといった地方自治体は、本来は一つの独立国家である。つまり、本来のアメリカ合衆国とは、北米大陸版のEU(ヨーロッパ連合)とでも言うべきものであった。南北戦争が始まった時、南部十一州が独立してしまったが、南部十一州にしてみれば、国家の連合体からの離脱に過ぎないのである。このように、南北戦争以前のアメリカ大統領は、国家を統合する力が極めて弱かったのである。つまり、南北戦争以前のアメリカ合衆国は、国家の成立の途上にあったのである。
ところがリンカーン大統領の指導によって南北戦争が北部の勝利に終わり合衆国が再統一された後は、合衆国から分離独立した州は、現在に至るまで一つも存在しなかった。それは、リンカーン大統領の指導力により北部が勝利して合衆国が再統合された結果、大統領のカリスマの力が強大化したからである。つまり、リンカーン大統領によって、初めてアメリカ大統領に国家を統合する力が確立されたのである。これによってアメリカ合衆国は国家が完成し、本当の意味での統一国家になったのである。言い換えれば、リンカーン大統領こそ、本当の意味でのアメリカ合衆国の建国者であると言っても過言ではないのである。
次はフランクリン・ルーズベルト大統領の場合である。
第二次世界大戦後のアメリカは、世界の至る所で戦争を行ってきたが、第二次世界大戦以前は、そうはいかなかった。第一次世界大戦に参戦してみた結果、悲惨な戦争を目の当たりにしてアメリカ国内に厭戦気分が広がってしまった。しかも、伝統的なモンロー主義の影響も根強いものがあった。そのため、第二次世界大戦以前のアメリカの世論や議会は、国際紛争への介入には極めて消極的であった。そのため当時のアメリカは、日本が中国へ攻め込もうが、ナチスドイツがポーランドやフランスへ攻め込もうが軍事介入など不可能であり、経済制裁を行ったり日本やドイツに敵対する国に軍事支援を行ったりするのが精一杯であった。やがて日本軍の真珠湾攻撃をきっかけにアメリカは第二次世界大戦に参戦し、日本やドイツに勝利して世界の覇者となる。するとアメリカは、一転して大統領の号令の下に世界中で積極的に軍事介入をするようになる。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そしてイラク戦争といった具合である。これはルーズベルト大統領の指導力によってアメリカが第二次世界大戦に勝利したことにより、大統領のカリスマの力が強大化した結果、世論や議会が大統領の軍事・外交政策に対して容易に反対できなくなったためである。このルーズベルト大統領よって確立された大統領の強大なカリスマの力が、現在の大統領にまで継承されているのである。
こうしてアメリカの大統領制には、強大なカリスマと、それを継承する体制が確立されたのである。その結果、アメリカ大統領は、アメリカの最高指導者の役職となったのである。アメリカの大統領制は、国民が大統領にしたい人物を選ぶ選挙制度と、強大なカリスマを大統領の役職と共に前任者から後任者へと継承する体制の上に成り立っているのである。従って、大統領の役職を引き継いだ人物が、最高指導者が務まるようなカリスマや指導力に欠けていても、大統領の役職に備わっている強大なカリスマの力を駆使することによって、最高指導者としての役割が務まるのである。もし、このような、カリスマを継承する体制が確立されていない国で、カリスマや指導力が欠如した人物が最高指導者の役職に就いてしまったら、最高指導者が不在の欠陥国家となり、国家の機能が麻痺し、国家・国民の安全を守ることができなくなってしまうのである。
カリスマの継承が必要なのは、無能な政治家が最高指導者になった場合だけではない。考えてみれば、リンカーンやフランクリン・ルーズベルトのような偉大な大統領といえども、大統領に就任したばかりの時は普通の大統領であった。大統領の在任中に偉大な功績を挙げた結果、後世の人々から偉大な大統領と言われるようになったのである。従って、偉大な最高指導者になる素質のある政治家といえども、やはり前任者からカリスマを継承しなければ最高指導者は務まらないのである。
ただし、これまで述べてきた最高指導者のカリスマを継承する体制は、あくまで国家の最高指導者にとって最低限度必要なものであって、これさえあれば国家の最高指導者としての役割が完全に務まるというわけではない。言うまでも無く、国家の防衛には指導者の政治手腕や判断力といったものも必要である。最高指導者がいくら強力なカリスマを持っていても、太平洋戦争当時の日本のように国家の指導者が判断を誤れば、戦争に敗れ国家の防衛が破綻してしまうこともある。
更に、現在のアメリカ大統領は、国際秩序の維持や同盟国の防衛といった超大国としての役割も果たさなければならない。そのためアメリカ大統領には、国際秩序を維持するための外交政策を成功させ、同盟国を守るための戦争を勝利に導くことができる高度な政治手腕や判断力が必要である。ところが、高度な政治手腕や判断力があるか無いかということは、結局、政治家個人の能力の問題である。最高指導者のカリスマを継承する体制が確立されていても、超大国の最高指導者が務まるような高度な政治手腕や判断力まで継承するわけではない。従って、アメリカ大統領がいくら強力なカリスマを前任者から継承しても、ベトナム戦争当時のジョンソン大統領のような政治能力が欠如した人物が大統領になり、政治的な判断を誤り、ベトナム戦争のような失敗を繰り返すようでは、国際秩序の維持や同盟国の防衛が困難になり、超大国としての役割が果たせなくなってしまう可能性もあるのである。
カリスマを継承する体制が確立されていなければ、最高指導者が不在となり、政治が不安定になったり、場合によっては国家が崩壊したりしてしまうような事態さえ起きかねない。その典型的な例が、旧ユーゴスラビアである。
ユーゴスラビアは、1980年にチトー大統領が死去したことをきっかけに、民族間の対立が表面化し始める。そして1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニアといった各共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立に向かって動き出す。これに対してセルビア人を中心としたユーゴスラビア連邦政府が独立を認めなかったことから、1992年になると遂に内戦が勃発してしまう。そしてボスニア・ヘルツェゴビナでは「民族浄化」、更にコソボ自治州ではアルバニア系住民が難民となって国外に流出するなどの悲劇が起きてしまった。
そもそも旧ユーゴスラビアの六つの共和国を一つにまとめていたのは、チトー大統領が持つ強力なカリスマの力であった。そのチトー大統領の死去と共にチトー大統領のカリスマの力が失われてしまったことがユーゴスラビア崩壊の原因である。チトー大統領は第二次世界大戦中、パルチザンを率いてナチスドイツと戦いユーゴスラビアを解放し、戦後は共産主義国家でありながらソビエトの衛星国とはならず自主外交を貫いた。このようにチトー大統領は強力な指導者ではあったが、カリスマを継承する体制を確立するという国家にとって最も肝心なことを怠ってしまったため、彼の死後、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持った指導者が存在しなくなり、そのために国家が崩壊するという最悪の事態を招いてしまったのである。ユーゴスラビアの内戦に伴って生じた様々な悲劇に対して、セルビア人やユーゴスラビア政府の指導者が国際社会から非難を浴びたが、真に非難されなければならないのは、カリスマを継承する体制を確立できず、国家の分裂の原因を作ってしまった故チトー大統領なのである。
アメリカの大統領制のように、前任者から強力なカリスマを継承することによって、指導力やカリスマに欠ける人物でも国家の最高指導者が務まるような体制が確立されていなければ国家の非常事態に対処できない。ところが現在の日本には、そのような体制は確立されていないのである。これが戦後体制下の日本が最高指導者の存在しない欠陥国家である理由の一つである。
国家の最高指導者とは、選ばれるものではなく、作られるものなのである。国家の最高指導者の大多数は、本来なら最高指導者など務まらない凡庸な政治家である。その凡庸な政治家に法的な権限を与え、強力なカリスマを前任者から継承させ、最高指導者に作り上げるのである。これが「権力の継承」である。勿論、国家の最高指導者には、判断力や政治手腕といった能力も必要である。従って、「権力の継承」を行っただけでは、無能な最高指導者が出現してしまう場合もある。しかし、旧ユーゴスラビアのように、最高指導者が存在しなくなったことが原因で国家が崩壊するようなことが起き得るのが世界の現実である。従って、たとえ「権力の継承」によって無能な最高指導者が出現してしまったとしても、最高指導者が存在しない欠陥国家になってしまうよりはましなのである。
また、最高指導者の強力な力を維持するためには、最高指導者としての法的な正統性を確立することも必要である。最高指導者としての法的な正統性とは、なぜその人物が国家の最高指導者なのかという法的な根拠である。最高指導者としての法的な正統性が確立されていなければ、国民は誰の指導に従ってよいのかわからなくなり、政治が混乱して指導者の指導力が弱体化してしまうことがある。また、歴史上、世界の多くの国では、権力の継承や指導者の善し悪しなどを巡る争いが激化した結果、国家が分裂して内乱になってしまったような例がいくらでもある。国家の最高指導者に法的な正統性が確立されていないと、このような政治の混乱を招く可能性が高いのである。従って、最高指導者の強力な指導力を維持して政治を安定させるためには、国家の最高指導者としての法的な正統性をしっかりと確立しなければならないのである。
一般的な民主主義国家の理念では、民主主義国家の指導者の正統性は、国民から支持され選挙で選ばれることによって確立されているということになっているが、現実は違うのである。多くの民主主義国家では、正統な法的手続きに従って最高指導者の役職に就任したことが最高指導者としての正統性の根拠となっているのである。この点に関しては、アメリカ大統領の場合も同様である。すなわち、合衆国憲法の定める正統な法的手続きに従って大統領に就任したことが、正統なアメリカ大統領であることの根拠なのである。
アメリカ大統領の正統性が、国民の支持ではなく、法的な手続きによって確立されていることを示す例を挙げてみよう。
アメリカの大統領制は、大統領が在職中、死亡、又は何らかの理由によって職務が遂行できなくなり辞職した場合、副大統領が大統領に昇格するという制度になっている。ほとんどの副大統領は大統領と共に大統領選挙を戦っているため、大統領と共に国民の支持を得たことになる。ところが、1974年8月9日にニクソン大統領がウォーターゲート事件の責任を取って辞任した後、副大統領から大統領へ昇格したジェラルド・フォードは、ニクソン大統領と共に大統領選挙を戦ってはいなかったのである。前副大統領のスピーロ・アグニューが、州知事時代の収賄罪が確定したことを受けて副大統領を辞任した後、ジェラルド・フォードは合衆国憲法の規定により、ニクソン大統領の指名と議会の上下両院の過半数による承認によって副大統領に就任したのである。つまり、ジェラルド・フォードは、国民の支持によって副大統領や大統領に就任したのではないのである。従って、もし、国民の支持が大統領の正統性の根拠だとすれば、ジェラルド・フォードは正統な大統領ではないことになってしまう。
また、2000年の大統領選挙では、フロリダ州のブッシュ候補とゴア候補の得票数がほぼ同数で、他の州の集計結果が確定した後も、なかなか集計結果が出ず、しかも、このフロリダ州の勝者が大統領選挙の当選者になるという状況であったため、なかなか当選者が決まらなかった。最後は、ブッシュ候補が僅差でフロリダ州を制し、大統領選挙の当選者となった。もし、国民の支持によってアメリカ大統領の正統性が確立されるとすれば、2000年の大統領選挙で当選したブッシュ大統領のように、僅差で当選した大統領の正統性は極めて怪しいことになってしまう。更に、2000年の大統領選挙では、総得票数ではゴア候補がブッシュ候補に勝っていたにもかかわらず、アメリカ独特の大統領選挙制度のためにブッシュ候補が当選者となった。つまり、国民の支持ではゴア候補がブッシュ候補に勝っていたにもかかわらず、法の手続きによってブッシュ候補が大統領選挙に勝利したということである。従って、アメリカ大統領を決定するのは国民の支持ではなく法律であると言えるのである。
このようにアメリカ大統領の正統性の根拠は、合衆国憲法の定める正統な法的手続きに従って大統領に就任したという点にあるのである。大統領選挙にしろ、副大統領からの昇格にしろ、合衆国憲法によって定められた大統領に就任するための法的手続きの一つなのである。大統領選挙を全く戦わず大統領に就任したジェラルド・フォードも、合衆国憲法の定める正統な法的手続きに従って大統領に就任した以上は、正統な大統領なのである。そして、大統領選挙に大差で当選しようが僅差で当選しようが、大統領選挙で勝利するという合衆国憲法の定める法的な手続きを経たことには変わりが無いのである。
ただし、法的手続きに従って決定された大統領も、民主主義国家の理念の上では国民に支持されることによって正統性を与えられていることになっている。
日本の最高指導者
果たして、日本に大統領制が成立するのであろうか。
大統領制は、次のような段階を経て成立するものである。
第一段階では、「建国の父」「救国の英雄」と呼ばれるような偉大な政治的業績を挙げた指導者が、その業績を「神話」として強力なカリスマを確立し、更に選挙などの法の手続きに従って大統領などの正統な最高指導者の役職に就任して初代最高指導者となる。
第二段階では、初代最高指導者の強力なカリスマが、大統領などの最高指導者の役職と共に法の手続きに従って二代目以降の後継者に継承され、更に、この仕組みが慣習となり定着し、安定したカリスマを継承する体制が確立される。
アメリカ大統領は、独立戦争の英雄である初代ジョージ・ワシントンのカリスマが歴代大統領に継承され、それがリンカーンやフランクリン・ルーズベルトといった偉大な大統領らによって更に強化され今日に至っている。また、フランス第五共和制の大統領の場合は、第二次世界大戦中はナチスドイツとの戦いを指導し、戦後はアルジェリア問題を解決したシャルル・ド・ゴール大統領のカリスマを、ポンピドゥー以降の歴代大統領が継承するものである。
ちなみに私の言う大統領には、アメリカやフランスの大統領のように最高指導者が大統領を称している場合に限らず、イギリスの首相のような実質的な大統領も含まれている。
日本に大統領制が成立するためにも、第一段階として政治家が何らかの偉大な政治的業績を挙げ、強力なカリスマを確立し、法の手続きに従って正統な最高指導者の役職に就任しなければならない。ところが日本では、古代より天皇のみが正統な最高指導者の役職であり、皇室の人間のみが天皇の地位に就くことができるという体制が確立されている。そのため、たとえ国家の最高指導者が務まるような実力を持った政治家が存在しても、皇室以外の人間が正統な国家の最高指導者に就任することは不可能であった。
たとえば平安時代、有力貴族の藤原氏は、天皇の外戚として摂政や関白に就任して権力を振るった。いわゆる摂関政治である。藤原氏が独占していた摂政や関白は、国家の最高指導者の役職ではない。摂政は最高指導者たる天皇の臨時代行であり、関白は最高指導者たる天皇の補佐役に過ぎない。摂関政治は、藤原氏が天皇のカリスマや権力を利用することによって成立したものであり、藤原氏自体に天皇に匹敵するようなカリスマや権力があったわけではない。
そして、武家政治の征夷大将軍も国家の最高指導者の役職ではない。これが、徳川幕府における幕末の動乱が起きた根本的な原因である。徳川幕府がアメリカの圧力に屈して開国を決定しようとした時、天皇に勅許を出してもらわざるを得なかった理由の一つが、征夷大将軍は正統な最高指導者ではないため、軍事・外交政策を決定する法的権限が無かったことである。軍事・外交政策を決定する法的権限は、正統な最高指導者である天皇のみにあるため、幕府は天皇に勅許を出してもらわざるを得なくなってしまった。そのため、徳川家の征夷大将軍が正統な最高指導者ではないことが明確になってしまった。その結果、正統な最高指導者である天皇に政権を戻そうとする倒幕運動が活発になったのである。徳川将軍家の初代徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利し、二百六十年以上続いた安定政権の基礎を作った。しかし、これほどの功績を挙げても、日本では正統な国家の最高指導者にはなれないのである。
日本を再統一した豊臣秀吉や、関ヶ原の合戦に勝利して天下の実権を握った徳川家康のように、天下を実質的に統治している実力者といえども、天皇から関白、太政大臣、征夷大将軍といった官職を与えられることによって始めて自らの権力を正当化することができたのである。つまり、天下を実質的に統治している実力者といえども、正統な最高指導者である天皇の力を借りなければ、権力を正当化して権力基盤を固めることができなかったのである。そして徳川幕府は、天皇の力を借りた勢力によって打倒される羽目になってしまったのである。
徳川幕府打倒の最大の功労者は、何と言っても西郷隆盛であろう。薩摩や長州といった倒幕勢力を結集し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、勝海舟との談判の結果、江戸城の無血開城を実現して明治政府を打ち立てたのである。この明治政府の国家体制は、世界に類の無い特異なものであると言わざるを得ない。なぜなら、もし日本が普通の国なら西郷隆盛は国家の最高指導者になっていても不思議ではないからである。世界の歴史を見れば、国家が独立したり革命などによって新しい国家体制が成立したりした場合、独立運動や革命の指導者が、そのまま新しい国家の最高指導者になる場合が多いのである。アメリカの独立戦争の指導者であったワシントンは、アメリカの初代大統領に就任している。ロシア革命の指導者であったレーニンはソビエトの最高指導者となった。蒋介石政権を打倒して中国に共産主義政権を樹立した毛沢東も、中国の最高指導者となった。そして、ガンジーと共にインドの独立運動を指導したネルーも、インドの初代首相に就任している。ところが日本の明治政府の最高指導者は、明治維新最大の功労者の西郷隆盛ではなく明治天皇であった。西郷隆盛は、明治政府の成立後、廃藩置県などの政治改革に対する武士階級の反発を押さえるため、一時的に国家の最高指導者の役割を代行したことはあったが、正統な最高指導者になることは無かったのである。なぜなら、明治政府の正統な最高指導者は、あくまで明治天皇であり、西郷隆盛は明治天皇の一臣下に過ぎなかったからである。つまり、明治維新の最大の功労者であり、強力な指導力とカリスマを持った偉大な政治家である西郷隆盛といえども、天皇制を否定することはできなかったのである。
このように、日本では、政治家が功績を挙げることによって正統な最高指導者に就任することは不可能であり、歴史的な事実として、そのようなことは前例が無いのである。要するに日本には、偉大な功績を挙げることによって強力なカリスマを確立した政治家が、正統な最高指導者に就任するという伝統も文化も無いのである。これでは初代大統領など出現しようがない。
日本の政治家がいかなる功績を挙げても国家の最高指導者になれないのは、伝統的な日本の最高指導者のあり方が、世界の国々と比べて極めて特異なものだからである。
国家の最高指導者とされている者には、次の二つ役割がある。
第一の役割が、国家・国民を代表して軍事・外交政策などの国家の重大な意志決定を行い、強力なカリスマの力によって国民が軍事・外交政策に従うように指導することである。
そして第二の役割が、行政機関の長として慣習や法的権限などに従って役人や官僚と呼ばれる人たちを指導する「行政の責任者」としての役割である。
世界のほとんどの国では、どのような国家体制であっても、国家の最高指導者は「行政の責任者」の役割を兼ねているのが普通である。これに対して、日本の場合は、古代から国家の最高指導者と「行政の責任者」の役割を分担するという国家体制が存在していたのである。そして、古代から最高指導者になる権利は天皇だけが持っているのに対して、「行政の責任者」は、その時代の実力者が就任するのである。「行政の責任者」に就任した実力者は、蘇我氏、摂関政治の藤原氏、鎌倉幕府執権の北条氏、足利将軍家、徳川将軍家といった人たちである。更に、聖徳太子や中大兄皇子、そして院政における上皇のように、皇室の人間が「行政の責任者」に就任することもあった。そして、天皇は古代から何度も最高指導者としての実権を失ったり復権したりを繰り返して来たが、常に最高指導者としての正統性が失われることは無かったのである。その結果、天皇だけに国家の最高指導者としての正統性があり、時の実力者が「行政の責任者」に就任するという国家体制が日本の社会に定着することになったのである。これが天皇制の伝統である。天皇制の伝統が社会に定着した結果、日本は、武家政治の時代や戦後体制下のように、天皇の役職が最高指導者としての力を失ってしまうと、法的に正統な国家の最高指導者の役職は事実上存在しなくなってしまうのである。そして、皇室以外の人間の場合は、徳川家康や西郷隆盛のような傑出した指導者でも、「行政の責任者」になるのが限界なのである。
明治体制下の日本で内閣制度が制定されて以降は、国家の最高指導者と「行政の責任者」の役割が、天皇と内閣総理大臣によって分担されていた。天皇は国家の最高指導者として軍事・外交政策などの国家の重大な意志決定は行うが、決定したことを実行することや、その結果に対して責任を負うことは無い。そして「行政の責任者」としての内閣総理大臣の役割は、天皇の決定した軍事・外交政策を実行することと、行政機関の長として内政上の政策や問題などについて行政機関を法的権限によって指導することであり、更に、最高指導者である天皇が決定した軍事・外交政策を含めた、あらゆる政策について、問題が生じたり失敗したりした場合は責任を負うことである。
戦後体制下の日本でも、内閣総理大臣が「行政の責任者」であることは明治体制と変わりがない。ところが、明治体制下の日本で国家の最高指導者であった天皇は、日本国憲法の規定によって「国家の象徴」となり、あらゆる政治的権限を失ってしまった。しかし、内閣総理大臣が天皇に代わって国家の最高指導者になったわけではない。つまり、明治体制下の内閣総理大臣の「行政の責任者」としての権限は、戦後体制下の内閣総理大臣にそのまま引き継がれているが、国家の最高指導者としての天皇の権限を引き継ぐ役職が戦後体制下の日本には存在しないのである。
一般的な常識では、「行政の責任者」のことを国家の最高指導者と言う場合が多い。また、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」と記され、内閣総理大臣の法的権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。日本国憲法に記された内閣総理大臣は、まさに「行政の責任者」である。従って、一般的な常識からすれば、戦後体制下の日本の内閣総理大臣は立派な最高指導者ということになる。しかし、私の考えでは、国家の非常時において強力なカリスマの力によって国民全体を指導することこそ、国家の最高指導者が行う本来の役割である。そのため私は、戦後体制下の日本の内閣総理大臣は国家の最高指導者ではないと考えているのである。
戦後体制下の日本の内閣総理大臣は、「行政の責任者」の役職であっても、国家の最高指導者の役職ではない。そして、明治体制下の日本において最高指導者の役職であった天皇は、戦後体制下では「国家の象徴」となり、国家の最高指導者の役職ではなくなった。こうして、戦後体制下の日本には最高指導者の役職が存在しなくなったのである。従って、たとえ国家の最高指導者にふさわしい能力を持った政治家が存在したとしても、最高指導者の役職が存在しないのでは、最高指導者に就任しようがないのである。こうして、戦後体制下の日本は、最高指導者が不在の欠陥国家になってしまったのである。
現代の世界には、最高指導者と首相が共に政治的権限を持っている国は数多くある。フランスの大統領と首相、ロシアの大統領と首相、タイの国王と首相などである。これらの国々の最高指導者と首相の関係は共同統治者であって、明治体制下の日本の天皇と内閣総理大臣のように最高指導者と「行政の責任者」が分担されているわけではない。従って、もし、首相が何らかの政治上の過ちを犯したら、最高指導者である大統領や国王も「行政の責任者」として連帯責任を取らされる可能性があるのである。最高指導者と「行政の責任者」が別というのは日本独特の国家体制なのである。
ところで、国家体制に限らず、一つの制度が伝統となり、その国の社会に定着すると、たとえどのようなことが起きても、その制度が無くならなくなってしまうことがある。たとえばヨーロッパの貴族制度は、イギリスのように法的に認められている国がある一方で、フランスやイタリアやドイツのように、政変や革命をきっかけにして法的には存在しなくなった国もある。ところがヨーロッパの貴族制度は、法的には存在しないことになっている国でも実態としては存在し、市民の尊敬を受けているのである。また、インドの伝統的な身分制度であるカースト制度は、法律上は否定されているが、実態としては存在し続けていて、しばしばインドの社会問題として取り上げられることがある。このように、一つの制度が伝統となり、その国の社会に定着してしまうと、法律をどう変えようと、政変や革命が何回起きようと、無くなることは無いのである。
貴族制度やカースト制度と同様に、特定の国家体制が伝統となり、その国の社会に定着し、法律をどう変えようと政変や革命が何回起きようと無くならなくなってしまった例がある。その典型的な例が、イギリスの議会制度と日本の天皇制である。イギリスの議会制度は十三世紀に成立して以来、七百年以上続いた歴史によって伝統となり、イギリスの社会に定着した。イギリスの議会制度も日本の天皇制と同様に、長い歴史の中で何度も政変や内乱や革命といった事態に遭遇したが、結局、存在し続けたのである。つまり、イギリスの議会制度も日本の天皇制も、貴族制度やカースト制度と同様に伝統となり社会に定着したのである。これが、天皇制が二千年近く続いた理由の一つである。
大統領制とは、選挙などの法的手続きに従えば、誰もが正統な国家の最高指導者に就任できる制度である。これに対して、天皇制の伝統が定着している日本では、正統な国家の最高指導者の役職は天皇のみであり、皇室の人間のみが天皇になることができる。そして、皇室の人間以外の者は、どれほど実力があろうと、どれほど功績を挙げようと、内閣総理大臣のような「行政の責任者」にしかなれないのである。そして、この天皇制の伝統は、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度のように日本の社会に定着して、いかなる方法によっても変更できなくなっているのである。そのため日本では、憲法などの法制度を改正して大統領制や首相公選制を導入したところで、結局、「行政の責任者」に就任するための法的な手続きが変わるだけの結果になってしまうのである。従って、日本にはアメリカのような大統領制も、イギリスの首相のような実質的な大統領制も成立しないのである。もし、日本に大統領制が成立するのなら、明治維新の時に西郷隆盛を初代大統領とする大統領制が成立していたはずである。しかし、天皇制の伝統がそれを許さなかったのである。
首相公選制の導入によって実質的な大統領制を導入すべきだと主張していた人たちは、国家というものは法律や制度の上にのみ成り立っていると考えていたのである。つまり、世界中どこの国であろうと、アメリカと同じ法律や制度を作れば、アメリカと同じ国ができあがると思い込んでいたのである。彼らの考えは、明らかに現実に反している。国家や最高指導者のあり方は、その国固有の歴史や伝統の産物であり、法律や制度は枝葉末節の問題に過ぎないのである。
明治体制下の日本では、最高指導者として君臨する天皇と「行政の責任者」である内閣総理大臣が二つで一つとなって国家権力を形成していたのである。そして、天皇が最高指導者であっても「行政の責任者」ではないということは、すなわち、天皇によって決定されたことが、いかなる結果を招いても、責任を取るのはあくまで「行政の責任者」であり、天皇が責任を問われることは無いということである。この最高指導者と「行政の責任者」が分担されているという日本の国家体制の特異性が示されたのが、太平洋戦争後に日本の戦争責任者の追求が行われた時である。
太平洋戦争の開戦は、昭和天皇の主催する御前会議によって決定された。内閣総理大臣を始めとした大臣は形式的には天皇の補佐役に過ぎず、開戦の決定のような国家の重大事を決定する権限は無いのである。開戦のような国家の重大事は、最高指導者たる天皇のみに決定権がある。従って、太平洋戦争の開戦が御前会議によって決定されたということは、太平洋戦争の開戦は昭和天皇によって決定されたということである。ただし、昭和天皇自身は日米開戦には反対であったとして、それを理由に昭和天皇には開戦の責任は無いと主張する人たちも存在する。しかし、日米開戦が昭和天皇の本意であろうとなかろうと、開戦のような国家の重大事は最高指導者たる天皇のみに決定権がある以上、普通の国の常識から考えれば、昭和天皇こそ最大の戦争責任者ということになってしまう。日本以外の国なら、間違いなく昭和天皇は戦争責任を取らされていたはずである。日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国となったイタリアでは、国王のビットリオ・エマヌエーレ三世が、ムッソリーニを首相に任命して独裁的な権力を行使することを容認し、イタリアを敗戦国にした責任を取らされて退位させられ、王制そのものも廃止されてしまった。ところが日本では、天皇制の廃止も昭和天皇の退位も無かったのである。大日本帝国の最高指導者であり帝国陸海軍の最高司令官であった昭和天皇は、常識的に考えれば最大の戦争責任者であるにもかかわらず、戦争責任がGHQ(連合国最高司令官総司令部)から問われなかった最大の理由は、大多数の日本国民が昭和天皇の断罪に反対していたことである。この日本国民の意志に反して天皇の処罰などをすれば、どのような政治的混乱が起きるか分からなかったのである。天皇制の伝統では、敗戦のような政治的失敗の責任を取るのは「行政の責任者」の役割であって、最高指導者たる天皇の役割ではない。これが、日本国民が昭和天皇の断罪に反対した理由である。このことは、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の伝統が日本の社会に定着していることを明確に示しているのである。もし、日本が太平洋戦争に敗れたと同時に天皇制の伝統も消滅していたら、天皇制はイタリアの王制と同様に廃止されていたはずである。つまり、「国家の象徴」となり政治の実権を失ったとは言え、戦後体制下の日本でも天皇制が存続していることが、天皇制の伝統が消滅していない証拠なのである。
一方、占領政策の責任者のマッカーサーにしても、占領政策を成功させるためには、昭和天皇の協力がどうしても必要であった。一説には、マッカーサーはアメリカ大統領の地位を狙っていたとも言われている。そのためもあってか、マッカーサーは是が非でも占領政策を成功させなければならなかった。占領政策を成功させるために必要なのが協力者である。協力者は、占領する側に協力的で、しかも被占領国民の支持が得られる人物でなければならない。そこでマッカーサーとGHQが白羽の矢を立てたのが昭和天皇であった。敗戦という事態にもかかわらず、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統によって、国民から戦争責任が問われることが無かったため、国民の天皇に対する尊敬の念と天皇のカリスマが完全に失われることは無かったのである。そこでマッカーサーとGHQは、アメリカの占領政策の協力者にふさわしい人物として昭和天皇を選んだのである。結局、占領政策の責任者であるマッカーサーもGHQも、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統を尊重せざるを得なかったのである。ただし、大日本帝国の最高指導者にして帝国陸海軍の最高司令官であった昭和天皇の罪が一切問われないというのでは、日本の戦争行為を批判し、再び天皇の名による戦争が行われることを恐れている中国、ソビエト、オーストラリアといった国々の不満や不安が収まらない。そこでマッカーサーは、戦争の放棄を定めた日本国憲法を作り、更に、事実上の昭和天皇の身代わりとして、極東国際軍事裁判で有罪とされた東条英機や広田弘毅といった元内閣総理大臣を含む七名を絞首刑に処したのである。
天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統それ自体も、天皇制が二千年近く続いて来た理由の一つである。諸外国の王朝の君主は日本の天皇とは違い、最高指導者と「行政の責任者」を兼ねている。そのため、失政や敗戦などによって王朝の権威が低下すると、君主が「行政の責任者」としての責任を取らされる形で王朝の交代や革命が起きてしまう場合がある。ところが日本の場合は、天皇の意志決定がどういう結果を招こうと、政治責任を取らされて交代させられるのは専ら「行政の責任者」であり、最高指導者の天皇自身に責任の追求が及ぶことは、ほとんど無いのである。だから日本では、王朝の交代や天皇制を否定する革命など起きようが無いのである。
ただし、天皇や皇室の人間といえども、何らかの形で自らの決定に対する責任を取らされたことはある。その一例が、鎌倉時代初期に起きた承久の乱の場合である。1221年(承久3年)、鎌倉幕府から朝廷に政治の実権を取り戻そうとした後鳥羽上皇は、鎌倉幕府執権の北条義時に対する追討令を発し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。これに対して鎌倉幕府は、北条泰時らの率いる軍勢を京に差し向け、朝廷側の軍勢を打ち破る。そして鎌倉幕府は、後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流に処し、仲恭天皇を廃位にしたのである。また、太平洋戦争の敗戦の結果、昭和天皇は天皇の地位を失うことは無かったが政治の実権は失った。これも或る意味では責任を取らされたものと言える。しかし、いずれの場合も王朝の交代や天皇制の廃止にまでは至っていない。
言論人や政治学者の中には、天皇はイギリスの国王と同様の立憲君主なのだから戦争責任は無いと言っている人たちがいるが、名実共に最高指導者であった天皇と、政治的権限の全く無いイギリスの国王を同列に論ずるのは明らかに間違いである。そもそも立憲君主制と言っても様々な形態があるが、その中でイギリス型の立憲君主制は、形の上では君主制であっても実態は議会政治という国家体制である。近代の議会政治では、国民から選挙によって選ばれた議会政治家のみが国家・国民の指導者というのが原則である。従って、イギリス型の立憲君主制の下で首相に任命されるのは、議会内の多数党の代表者でなければならない。ところが、太平洋戦争の開戦当時の内閣総理大臣であった東条英機は、議会内の多数党の代表者ではないどころか議会政治家ですらない現役の軍人である。このような人物が内閣総理大臣に任命されたこと自体が、当時の日本がイギリス型の立憲君主制とは全く異なる国家体制であった証拠である。
民主主義国家と非常独裁制
民主主義国家については、一般的に次のように説明されている。
民主主義とは、国家の最高指導者が独裁者となることを防ぐことを目的に作られた国家体制である。独裁とは、強力なカリスマを持った最高指導者の下、国民の権利や自由を制限することであり、そのために最高指導者が、憲法や法律によって定められた議会の承認による手続きが必要な権力の行使を、議会の承認無しで行ったり、憲法や法律に違反する権力を行使したりすることである。このような独裁権力の行使から国民の権利や自由を守るためには、最高指導者が独裁者とならないような歯止めが必要である。そのためには国家の最高指導者の権力を必要最小限度のものに制限し、国民の監視の下に置かなければならない。まず、国家の最高指導者にはカリスマの力のような、国民の意識を変えるような強大な力は持たせない。そして法的権限を法の執行権、立法権、司法権の三つに分割し、最高指導者には法の執行権のみを与える。更に、法を執行する最高指導者、立法府である議会、そして司法権を行使する裁判所にそれぞれ対等の力を与えて互いに監視させ、三者の中の一つが独走することを防ぐのである。これが三権分立であり、民主主義国家の根幹を成す仕組みである。最高指導者が権力の行使や法律の制定を行う場合も、法律によって定められた議会の承認などの民主的な手続きに従わなくてはならない。こうすることによって最高指導者を国民の代表である議会の監視下に置くのである。更に、国家の最高指導者を監視するのは議会や裁判所だけではない。国民には言論の自由や思想の自由など様々な自由を与え、議会やジャーナリズムと共に最高指導者を監視するのである。このようにして国家の最高指導者が独裁者となることを防ぎ、国民の権利と自由を守るのである。
これが、おおよそ一般的に民主主義国家とされているものである。
しかし、国家が存在する最大の理由は、国民の生命や財産を守ることである。そのため国家の最高指導者には非常事態に対処するための強大な権力が必要である。非常事態においては早急な意志決定と行動が必要な場合があり、議会の承認による民主的な手続きなど行っている余裕など無い場合もある。また、国家の重大な決定を巡って国論が分列して収拾がつかなくなる場合もある。このような場合に国民を一つに団結させて非常事態に対処するため、最高指導者には強力な指導力やカリスマの力が必要不可欠である。しかし、これでは、最高指導者は突出した力を持つことになり、三権分立が破綻して独裁者になってしまう恐れがある。従って、国家と民主主義は矛盾することになってしまうのである。
一般的に言われている民主主義国家の理論からすれば、アメリカは一種の独裁国家ということになってしまう。なぜなら、現実にアメリカの大統領には独裁的なところがあるからである。
アメリカには、国家の危機を大統領の独裁的な権力の行使によって乗り切って来た歴史がある。その一例がリンカーン大統領である。1861年に始まる南北戦争の最中、リンカーン大統領は何度も独裁的な権力を行使した。たとえば、アメリカ合衆国憲法の第一条第八項には「陸軍を募集し、維持すること。」と「海軍を創設し、維持すること。」は、連邦議会の権限であると記されているが、リンカーン大統領は、連邦議会を差し置いて大統領権限で志願兵の募集や陸海軍正規兵の増員を行ったのである。また、リンカーン大統領は、合衆国政府軍の軍事行動に対する妨害行為に対処するため、大統領権限によって人身保護令の特権を停止した。人身保護令の特権とは、個人が権力よって身体を拘束されても、裁判所がそれを法的に不当な行為であると判断すれば、権力は、すみやかに拘束された個人を釈放しなければならない制度である。確かに憲法の第一条第九項には、「人身保護令の特権は、反乱または侵略に際し公共の安全上必要とされる場合のほか、これを停止してはならない。」とあるが、リンカーン大統領が人身保護令の特権を停止した時点では、多くの者が人身保護令の特権を停止する権限は連邦議会のみにあるという憲法解釈をしていたのである。そもそも人身保護令の特権は、権力が個人の身体を不当に拘束する行為から個人の自由や権利を守るための制度である。つまり、リンカーン大統領は、個人の自由や権利を守ることよりも、南北戦争に勝利して「人民の人民による人民のための政治」を守ることの方を優先したのである。
このような独裁的な権力を行使した大統領はリンカーンだけではない。憲法の第一条第八項には宣戦布告の権限は連邦議会にあることが定められているが、実際は大統領が連邦議会を差し置いて戦争を始めた例が数多くある。たとえば、レーガン大統領が行ったグレナダ侵攻や、父親の方のブッシュ大統領が行ったパナマ侵攻は、連邦議会による宣戦布告無しで始められた戦争行為であり、客観的に見れば明らかに憲法違反であり独裁である。ところが、グレナダ侵攻やパナマ侵攻の時、レーガン大統領やブッシュ大統領に対して憲法違反、あるいは民主的な手続きを経ていないと言ったような非難の声は無かったのである。つまり、アメリカでは、非常時に際して大統領による独裁的な権力の行使が繰り返された結果、非常時に限って大統領が独裁権力を行使する慣習が定着したのである。古代ローマにディクタトールという制度化された非常独裁官制があったのに対して、アメリカの場合は非常時における独裁権力の行使を制度化せず、慣習として定着させることによって非常事態に対処しているのである。
民主主義の理論では、法の執行、立法、司法の三権が分立し、互いに力の均衡を取りながら監視し合い、それぞれが独走をしないように牽制し合うということになっているが、第二次世界大戦以後のアメリカでは、大統領の権力が強大化し、他を圧倒する力を持ってしまっているのである。特に国家の非常事態や戦争における大統領の権限は、議会の力が及ばないくらい強大なものになってしまっている。第二次世界大戦以後のアメリカでは、大統領が戦争の開始のような重大な決意を表明すると、これを議会も世論もジャーナリズムも無条件で支持するようになってしまったのである。言い換えれば、一度、大統領の強大なカリスマの力が発動されると、議会政治家やジャーナリストといえども一人のアメリカ国民として大統領の指導に従わざるを得なくなってしまうのである。つまり、大統領の強大なカリスマの力が行使されると、三権分立も議会政治も言論の自由も事実上停止してしまうのである。従って、国家の非常事態や戦争などの時、議会政治家やジャーナリズムに大統領の権力に抵抗する力は無いのである。第二次世界大戦以後のアメリカ大統領は、国家の非常事態や戦争における権限に限って言えば、まさに独裁者なのである。ただし、大統領の決定といえども、ベトナム戦争やイラク戦争のように、後に失敗であることが明らかになれば、国民の支持を失い大統領の指導力が低下し、議会や世論が反対するようになることもある。しかし、そのベトナム戦争やイラク戦争でさえ、開戦当初は議会や国民から全面的に支持されていたのが現実である。つまり、三権分立や民主的手続きといった民主主義の原則が通用するのは、あくまで平時の場合であって、非常事態に陥ったり戦争が始まったりして大統領の強大な権力が発動されると全く通用しなくなってしまうのである。しかし、あまりにも強大な大統領の権力は、民主主義を形骸化させかねない。そこでアメリカでは、大統領が、その強大な権力を行使するのは、国家の非常事態や戦争のような、どうしても強力な指導力を必要とする場合に限定するという慣習を確立し、これを守ることによって民主主義を守っているのである。このようにアメリカの民主主義は、慣習上の非常独裁制の上に成り立っているのである。
また、この慣習上の非常独裁制は、イギリスにも存在する。2003年にブレア首相がアメリカと共にイラク戦争に参戦しようとしたのに対して、当時のイギリス国民の90%がイラク戦争への参戦に反対し、しかもブレア首相の与党である労働党の下院議員やブレア政権の閣僚にもイラク戦争への参戦に反対する者が居るという状況であった。それにもかかわらずブレア首相がイラク戦争への参戦を決断したのは、まさに非常独裁権の行使である。ブレア首相がイラク戦争への参戦を決断した結果、ブレア政権の閣僚も議会もブレア首相の決断に従った。そして、イギリスがアメリカと共にイラク戦争を始めた結果、イラク戦争への参戦に反対していたイギリス国民も、60%近くがイラク戦争の支持へと意識が変わってしまった。イギリスのイラク戦争への参戦は、形の上では閣僚や議会の承認を得てはいるが、ブレア首相が参戦を決断した時点で事実上参戦は決まってしまったのである。閣僚も議会も国民も、ブレア首相の非常独裁権に従ったに過ぎないのである。
しかし、この非常独裁制こそ、アメリカの議会やジャーナリズムがベトナム戦争やイラク戦争が始まることを止められなかった理由でもある。つまり、国家の非常事態に対処するためには独裁権力の行使が必要な場合があり、その結果として、議会政治や言論の自由が一時的に停止してしまうからである。また、戦争は国民の一致団結した支持があって初めて可能になる。従って、戦争が始まった時点では、既に戦争に対する国民の一致団結した支持が得られている場合が多いのである。更に、イラク戦争が始まった時のイギリスのように、国民世論の反対を押し切って始められた戦争でも、一旦始まってしまえば国民の支持を得る場合もあるのである。そもそも戦争に限らず、何事であろうと、国民が一致団結して支持している行為に反対する者は、誰であろうと国民を敵に回しかねないのは当然のことである。従って、国民の支持によって成り立っている議会や、国民から新聞なり書物なりを買ってもらうことによって成り立っているジャーナリズムが、国民が支持している戦争に反対できないのは当然ことである。だから、議会やジャーナリズムに戦争が始まることを止めることは困難なのである。明治体制下の日本の議会やジャーナリズムが、満州事変や支那事変(日中戦争)、そして太平洋戦争が始まることを止められなかった原因として、軍国主義だのファシズムだのと言っている人たちが居るが、議会やジャーナリズムに戦争が始まることを止める力が無いのは、現代のアメリカだけではなく、明治体制下の日本を含めた世界の多くの国家に共通のことであり、軍国主義もファシズムも関係無いのである。
ただし、最高指導者の強大な力の行使を国家の非常事態に限定する非常独裁制を確立することは、欧米のような民主主義国家にとって極めて困難なことであり、長い歴史が必要である。アメリカ大統領が今日のような強大な権力を確立したのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代である。アメリカの場合は、建国から百数十年という長い民主主義の歴史の中で非常独裁制が確立された後に、フランクリン・ルーズベルトという強大な力を持った最高指導者が出現したため、直ちに本格的な独裁国家になるようなことは無かった。これに対して、ナポレオンが登場した頃のフランスの第一共和政や、ヒトラーが登場した頃のワイマール共和国と呼ばれるドイツの共和政は、民主主義の歴史が浅かったために非常独裁制は確立されていなかった。そのため、本格的な独裁者の出現を阻止できなかったのである。
フランスでは1789年7月に始まったフランス革命をきっかけにブルボン王朝が廃止され第一共和政が成立した。しかし、フランス革命が自国へ波及することを恐れるヨーロッパ諸国が1793年3月にイギリスを中心に第一次対仏大同盟を結成して攻勢に出たため、第一共和政は存亡の危機に立たされることになった。ここにナポレオンが登場し、軍事力によって敵国軍を次々に打ち破り、1797年10月にオーストリアとの間でカンポ・フォルミオの和約を締結して第一次対仏大同盟を解体させた。しかし、イギリスを中心とする反フランスのヨーロッパ諸国は、1799年3月に第二次対仏大同盟を結成した。ナポレオンは、1799年11月にクーデターによって政治の実権を握り、第二次対仏大同盟に属するオーストリアの軍を撃破した。そして1802年3月にイギリスとの間にアミアンの和約を締結して第二次対仏大同盟を解体させた。こうしてナポレオンは、フランスを軍事的な危機から救い、国民的英雄となった。そして1804年5月、ナポレオンは国民投票の結果、圧倒的な国民の支持によって皇帝に即位し、独裁体制を確立したのである。
1914年に勃発した第一次世界大戦は、1918年11月に起きたドイツ革命によって終了した。この革命によってドイツはホーエンツォレルン王家の帝政を廃止して共和政となった。ドイツの共和政は、1919年にドイツ共和国憲法制定のための議会がワイマールで開かれたことから、ワイマール共和国と呼ばれることになった。しかし、1929年10月にアメリカに始まった世界大恐慌によって、ドイツは失業率が40%を超える経済危機に陥ってしまった。ドイツ国民は、この悲惨な状況から国民を救ってくれる強力な指導者の登場を望んだ。しかし、ワイマール体制下の議会政治家には、この経済危機に対処する有効な手立てが無かったため、国民の不満が増大していった。こうした状況の下で、1933年1月にヒトラーは首相に任命された。ヒトラーは大規模な公共事業や軍備拡大によって失業問題を解決した。また、ヒトラーは、ベルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントへ軍隊を進駐させるなどして、ドイツ国民が不満を抱いていたベルサイユ体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序を破綻させた。こうしてヒトラーは、国民の支持を得て強大なカリスマを持つことになり、独裁権力を確立したのである。
フランスやドイツに限らず、国家が何らかの危機に陥ると、国民は危機から国家や国民を救済してくれる指導者の登場を求めるようになり、それに答える形で「英雄」や「天才的指導者」と呼ばれるような強大なカリスマと指導力を持った指導者が登場することがある。ところが、場合によっては「英雄」や「天才的指導者」が、その強大なカリスマと指導力を背景にして議会政治や言論の自由を停止させ、本格的な独裁政権を確立してしまうことがある。ナポレオンやヒトラーのような強大なカリスマと指導力を持った最高指導者の前では、三権分立や議会政治など全く無力なのである。従って、このような強大な力を持った指導者から民主主義を守るためには、アメリカやイギリスのように独裁権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習を定着させ、非常独裁制を確立することが必要不可欠なのである。しかし、始まって間も無いフランスの第一共和政も、ドイツのワイマール体制も、アメリカやイギリスのような非常独裁制は確立されてはいなかった。そして、ナポレオンやヒトラー自身も、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定しようとはしなかった。そのため、たちまち本格的な独裁国家になってしまったのである。そして、ナポレオンもヒトラーも、独裁権力を維持するために戦争を繰り返すことになったのである。長い歴史のある国家体制ならば、歴史と伝統によってカリスマの力が安定したものになり、容易にカリスマの力が失われることは無い。しかし、ナポレオン政権もヒトラー政権も、国民の支持を得て独裁権力を確立したものの、革命以前のブルボン王朝やホーエンツォレルン王家とは違い、歴史も伝統も無い不安定な国家体制であった。そのため、ナポレオンもヒトラーも、独裁権力を維持するためには、戦争に勝ち続けることによってカリスマの力を強化し続けなければならなかった。ナポレオンもヒトラーも、このようにして独裁権力を守っていたのである。
国家には、非常事態に対処するため、国民の意識を変えるような強力なカリスマ持った最高指導者が必要である。しかし民主主義にとっては、そのような力を持った最高指導者は、いつ独裁者になるか分からない危険極まりない存在である。言い換えれば、民主主義にとっては、独裁者になり得るような最高指導者が存在したのでは、民主主義が消滅しかねないが、国家にとっては、独裁者になり得るような強大な力を持った最高指導者が存在しなければ、今度は国家が消滅しかねないのである。つまり、民主主義と国家とは互いに相反する矛盾した関係にあるのである。しかし、この矛盾を克服しないことには民主主義国家は成立しないのである。そして、民主主義と国家の矛盾を克服する唯一の方法が非常独裁制の確立なのである。民主主義を掲げる国家体制が、非常独裁制が確立されていない状態のままで、国家が崩壊しかねないような重大な非常事態に直面すると、国家のために民主主義を否定するのか、それとも民主主義のために国家を滅ぼすのかという二者択一を迫られてしまうような場合もある。そして、第一共和政の下のフランス国民も、ワイマール体制下のドイツ国民も、国家のために民主主義を否定する選択をしたのである。それがナポレオンやヒトラーの独裁体制を生み出したのである。
ただし、たとえ独裁権力の行使を国家の非常時に限定する慣習が確立されていたとしても、国家が非常事態に陥った時、必ず独裁権力を行使できるような強力な最高指導者が登場するとは限らない。従って、非常独裁制を完全なものにするためには、アメリカの大統領制のように、「権力の継承」を行う体制を確立することによって、強力なカリスマを持った最高指導者を常に存在させておかなければならないのである。ワイマール体制下のドイツのドイツ共和国憲法(ワイマール憲法)では、「公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるとき」に大統領には、意見表明の自由、集会の自由、結社の自由などを停止する権限が認められていた。これは法制化された非常独裁制である。しかし、ワイマール体制下のドイツでは、アメリカの大統領制のような「権力の継承」を行う体制が確立されていなかったため、非常独裁制はうまく機能しなかった。つまり、「権力の継承」を行う体制が確立されていなければ、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持った指導者が常に存在するとは限らないため、国家の危機において非常独裁権を行使しようとしても、かならずしも国民が一致団結して国家の指導者に従うとは限らないのである。そのため、ワイマール体制下のドイツが世界大恐慌による経済危機に対処するためには、結局、ヒトラーの登場を待つしかなかったのである。しかも、ワイマール体制下のドイツでは独裁権力の行使を非常時に限定する慣習が確立されていなかったため、ヒトラーは本格的な独裁者になってしまったのである。つまり、「権力の継承を行う体制」と「独裁権力の行使を非常時に限定する慣習」がそろって確立されて、初めて非常独裁制が完全に機能するようになるのである。
選挙や議会や三権分立といった制度に加えて、非常独裁制が確立されて初めて民主主義国家は完成するのである。つまり、フランスの第一共和政やドイツのワイマール体制がナポレオンやヒトラーの独裁政権に取って代わられたのは、非常独裁制が確立されていなかったために民主主義国家が未完成であったことが原因なのである。
このように現実の民主主義国家は、決して独裁権力の行使を否定してはいないのである。ところが、ほとんどのアメリカ人やイギリス人は、自国の非常独裁制の存在を全く認識していない。そしてアメリカ政府もイギリス政府も、非常独裁制について何も言っていない。しかし、アメリカの大統領やイギリスの首相が、実際どのように権力を行使しているのかを見れば分かるように、現実のアメリカやイギリスの民主主義体制は、アメリカ人やイギリス人が言っている民主主義体制とは明らかに違っている。国家の最高指導者は、国家の防衛体制において非常に重要な役割を担っている。ところが、アメリカ人やイギリス人が言っている民主主義国家は、選挙や議会や三権分立といった制度だけで国家が成り立つことになっていて、最高指導者を中心とした国家の防衛体制という考えが完全に欠落している。そのため、アメリカ人やイギリス人の言う通りに民主主義体制を作った国は、国家の防衛ができない欠陥国家になってしまう。その結果、アメリカに国家の防衛を肩代わりしてもらうしか無くなってしまうのである。太平洋戦争後の日本がアメリカの軍事的保護下に入らざるを得なくなったのも、ベトナム和平協定によってアメリカ軍が南ベトナムから撤退した結果、南ベトナムが崩壊してしまったのも、アメリカ政府の指導に従って民主主義体制を作ってしまった結果なのである。従って、イラク戦争の後、アメリカ政府の指導によって作られたイラクの民主主義体制も日本の民主主義体制と同様に、アメリカの保護の下でしか成立しないものになってしまっていると考えざるを得ない。国家の非常事態に対処するためには、非常時における独裁権力の行使が必要不可欠である以上、独裁権力を完全に否定するような国家体制の理論は虚構に過ぎないのである。
国民の団結力
国家の最高指導者の役割は、国家の非常時に国民を団結させることであるが、これは言い換えれば、国家に最高指導者が必要なのは、最高指導者の力によって強制しなければ非常時に国民を団結させることができないからだということになる。従って、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時に国民が団結できるのであれば、最高指導者が存在しなくても国家が成り立つ場合もあるのである。
その典型的な例が共和政時代のローマである。共和政時代のローマは、元老院を中心とした議会政治によって治められていた。そして、アメリカ大統領のような強力な最高指導者が存在せず、非常時における国家の団結はローマ市民の団結力のみに頼っていた。つまり、元老院を中心としたローマの共和政は、ローマ市民の団結力だけで非常時における国家の団結が成り立つことを前提としたものなのである。
やがてイタリア半島を統一したローマは、カルタゴを相手に第一次から第三次に及ぶポエニ戦争を行い勝利した。ローマがポエニ戦争に勝利できたのは、まさにローマ市民の団結力によるものである。この三度にわたるポエニ戦争の中でも、とりわけローマ市民の団結力が発揮されたのが第二次ポエニ戦争である。
そもそもローマという国家は、首都ローマを中心にして、ローマ市民権を与えられた都市、ローマ市民による植民都市、ローマ市民権を持たない同盟都市など、様々な形態の諸都市との連合によって成り立っていた。第二次ポエニ戦争でカルタゴ軍を指揮した武将であるハンニバルの戦略は、軍事力でローマ軍を打ち破ることによってローマ市民の団結力を失わせ、ローマと諸都市との連合を解体に追いやることであった。第二次ポエニ戦争の初期には、ハンニバルの天才的な軍事能力のために、ローマ軍は紀元前216年のカンネーの戦いなど、多くの合戦に敗れてしまった。しかし、ローマがカンネーの戦いに大敗した後、一部の都市がローマとの連合から離反したものの、ローマと諸都市との連合が完全に解体することは遂に無かったのである。つまり、ハンニバルの天才的な軍事能力によって何度ローマ軍を打ち破っても、結局、ローマ市民の団結力を失わせることはできなかったのである。これが紀元前202年のザマの決戦によるローマの逆転勝利につながったのである。第二次ポエニ戦争とは、まさにハンニバルの天才的な軍事能力とローマ市民の団結力の戦いであったと言える。そしてローマ市民の団結力が最後にハンニバルを打ち破ったのである。
ローマはポエニ戦争に勝利した後、征服戦争を繰り返した結果、地中海一帯を支配する広大な国家になった。しかし、この頃になると、元老院を中心とした共和政の統治能力が低下し、同盟都市の反乱や剣奴の反乱であるパルタクスの乱といった戦乱が発生した。また、ローマ軍は、徴兵された市民によって成り立っていたが、ローマの領土が広大になった結果、兵の従軍期間が長期化するようになったため、徴兵された兵が職業と兵役の両立が困難になり、士気が低下し、ローマ軍の軍事力が弱体化してしまった。そこで、執政官となったマリウスが徴兵制を廃止して募兵制を導入した。ところが、その結果、軍の司令官と兵の間に主従関係が成立し、兵が軍の司令官の実質的な私兵となっていった。そしてマリウスやスラなどの軍人が、私兵化した兵を率いて軍事力によって権力を争うようになったため、ローマの政治は混乱に陥った。更に、領土の拡大によって多くの民族を征服した結果、ローマは、ガリア人やゲルマン人などのローマ市民という意識の低い被支配民族を領内に数多く抱え込むことになってしまったため、もはやローマ市民の団結力だけでは非常時における国家の団結が維持できなくなってしまった。これらの問題のため、強力な最高指導者が存在しない、元老院を中心とした共和政では、ローマを統治することが困難になってしまったのである。
政治の混乱を終わらせ、多様な国家になってしまったローマを非常時に団結させるためには、強力なカリスマを持った最高指導者が必要であるということに気がついたのがユリウス・カエサルである。カエサルは、ガリア地方を平定した後、政敵となったポンペイウスを武力によって打倒して強力なカリスマを確立し、終身独裁官に就任した。しかしカエサルは、ブルータスら共和政擁護論者によって暗殺されてしまう。その後、カエサルの後継者となったアウグストゥスが初代ローマ皇帝となり、強力なカリスマを持った最高指導者が統治する国家体制を確立した。アウグストゥスが確立した帝政は、ローマの政治に安定をもたらした。しかし、その一方で元老院は政治の主導権を失い、共和政は形骸化してしまった。
同じ国の国民としての仲間意識や連帯感といったものも非常時に国民を一致団結させる手段である。しかし、古代のローマのように征服戦争を繰り返すことによって多くの異民族を支配下に置いたり、近代のアメリカのように積極的に移民を受け入れたりすることによって、民族、人種、宗教、言語、習慣などが異なる多様な人間が国内に増え、それらの違いから生じる摩擦が、国民としての仲間意識や連帯感の形成の妨げになることもある。そうなると、同じ国の国民としての仲間意識や連帯感だけでは非常時に国民を一致団結させることが困難になってしまう。そこで、国民が多様化すればするほど、国民を団結させる手段として、ローマ皇帝やアメリカ大統領のような強力な最高指導者の力が必要になるのである。
共和政時代のローマ人と同様に、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時における国民の団結が維持できる国が現在にも存在する。それがイスラエルである。
イスラエルは、日本やイギリスと同様の議院内閣制を採用している。かつてイスラエルの議会政治には、リクード党と労働党が二大政党として国政を主導していた時代があったが、いずれも単独で議会の過半数を制したことが無かったため、歴代内閣は少数政党との連立を強いられて来た。そのため、イスラエルの首相の中には、少数政党との連立を維持するための政治的駆け引きに忙殺される者もあり、政治が停滞することがしばしばあった。そこでイスラエルは、首相にアメリカ大統領のような強力なカリスマや指導力があれば、政治の停滞も無くなるであろうと考え、実質的な大統領制に移行しようとして、1992年3月に首相公選制を導入した。しかし、国家体制や最高指導者のあり方は、その国固有の歴史や文化によって決まるものであり、アメリカと同様の大統領制を導入すればアメリカ大統領のような強力なカリスマを持った最高指導が現れるというわけではない。イスラエルは首相公選制を導入したものの、首相に強力なカリスマや指導力を与えることができなかったどころか、リクード党と労働党の二大政党が議席を減らしてしまったこともあって、ますます政治を停滞させる結果になってしまった。結局、イスラエルは、2001年3月に首相公選制を廃止してしまった。
このようにイスラエルの首相は、アメリカ大統領のような強力なカリスマを持っているわけではない。ところが、それにもかかわらず、いざ戦争となればイスラエル国民は一致団結して国のために戦って来たのである。イスラエルは、国民の強固な団結力と国防意識の高さのため、四度にわたる中東戦争など、多くの戦争を戦い抜くことができたのである。
イスラエル国民が、このように団結力が強く国防意識が高い理由の一つには、過去二千年にわたる流浪と迫害の歴史から、強固な国民の団結と国防の必要性を理解せざるを得ないということがある。これに加えて、イスラエル国民の多数はユダヤ教徒であるため、同じユダヤ教徒として異教徒であるイスラム教徒のアラブ人に対して団結しているという理由もある。
非常時に国民を一致団結させるためには、イスラエルのように、宗教によって国民を団結させるという方法もある。国民全体が共に同じ宗教を信じる仲間として、異教徒に対して団結するのである。従って、宗教によって国民を団結させるためには、敵対している国が異教徒の国でなくてはならない。ユダヤ教のイスラエルとイスラム教のアラブ諸国、或いはヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタンといったようにである。ただし、宗教によって国民を団結させるという方法がうまく行くためには、大多数の国民が一つの宗教を信じていなければならない。インドには多くのイスラム教徒が存在し、ヒンズー教徒との間に紛争が絶えない。インドのように、国内に複数の宗教や宗派が混在していたら、かえって国民の分裂を招くことになってしまう場合もある。従って、宗教によって国民を団結させることができる国は特殊な例である。
共和政時代のローマ市民やイスラエル国民のように強固な団結力があれば、アメリカ大統領のような強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなくても非常時における国民の団結を維持できる場合もある。しかし、共和政時代のローマやイスラエルのような国は稀な存在である。世界の大多数の国では、強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなければ、非常時に国民を団結させることができないのが現実である。
法の支配が確立されていない国家
欧米諸国や日本のように法治国家と呼ばれる国に対して、中国は俗に人治国家と呼ばれることがある。人治国家とは法の支配が確立されていない国家のことであり、法によって定められた手続きではなく、政治家や官僚などによる恣意的な決定や判断によって統治されている国家のことを言う。そして、それは人権抑圧や腐敗政治の温床になるとされ、否定的に見られている。更に、法治国家と法の支配が確立されていない国家とでは、国民を統治する方法や最高指導者のあり方が全く違うのである。
法の支配とは、権力の行使や政策の意志決定が、法によって定められた手続きに従って行われることである。そして、法の支配が確立されるためには、国家の指導者や官僚のみならず、一般国民にも、自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していなければならない。なぜなら、国家の指導者や官僚が法の手続きに従って行政を行おうとしても、国民が自ら法・秩序に従わないなら、国家の指導者は国民に対して警察や軍などの国家機関を使って、力ずくで法・秩序に従うことを強制するしかなくなってしまうからである。これでは法の支配ではなく、暴力の支配になってしまう。つまり、権力者に強制されなくても官僚や国民などの大多数の人間が自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していなければ、法の支配が確立された国家とは言えないのである。法の支配が確立された国家とは、泥棒を禁じる法律があれば、警察などの国家機関に強制されなくても大多数の人間が法に従い泥棒をしない国家のことである。警察などの国家機関による強制は、ごく一部の法を守らない人間を取り締まるためにのみ必要なのである。
法の支配が確立されていない国家の人間は、違法な行為に対する罪悪感が希薄である。たとえば、中国における政治家や官僚による汚職の蔓延の原因も、中国人には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していないため、違法な行為に対する罪悪感が希薄であることにある。
また、2005年4月に中国各地で起きた反日デモの最中に行われた法・秩序に反する行為や、それに対する中国政府の態度も、中国が法治国家ではないことを示している。中国では、2005年4月9日、アメリカ国内の反日団体の呼びかけに答える形で、日本の国連常任理事国入りや尖閣諸島の領有権問題などに対して不満を訴える市民が、北京で一万人規模のデモを行った。これをきっかけに中国各地に反日デモが広がっていった。やがてデモ隊は暴徒化し、日本系のスーパーマーケットや日本料理店、そして日本大使館に対して投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為を行うに至った。ところが中国政府は、自分たちが批判の対象になることを恐れてデモ隊による法・秩序に反する行為を止めさせようとはしなかった。アメリカ政府は、「中国は北京の外国公館に対する暴力を防ぐ責任がある。」と述べ、中国政府を非難した。4月15日になってようやく北京市や上海市などの公安当局が無許可のデモや集会を禁止し、違反者を罰する意志を表明した。ところが4月16日には上海で数万人規模のデモが発生し、暴徒化したデモ隊が日本系のコンビニエンスストアーや日本料理店、そして日本総領事館に対して投石や破壊行為を行い、遂には日本人が殴られて怪我をする事態にまで至った。日本に対する不満を訴えるだけなら法・秩序に反する行為ではない。しかし投石、破壊行為、そして日本人に対する暴力は、明らかに法・秩序に反する行為である。中国人のデモ隊が叫んだスローガンの中に「愛国無罪」というものがあった。つまり、日本に対する不満を訴える行為も、投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為も、共に「愛国」行為であって「無罪」だと言うのである。要するに、自分たちが正しいと考える目的のためなら法・秩序に反する行為も許されるということである。これが意味することは、中国人には自ら進んで法・秩序に従うという考えも、法・秩序に反する行為に対する罪悪感も無いということである。そして、デモ発生の当初、自分たちが批判の対象になることを恐れて違法行為を止めさせようとしなかった中国政府には、法治という考えが欠如しているのである。これらの出来事は、中国には法の支配が確立されておらず、法治国家ではないことを明確に示しているのである。
この中国の反日デモ騒動で注意しなければならない点は、法・秩序に反する行為を行った人たちが、普通の中国人であるということである。民衆による集団的な法・秩序に反する行為は、法治国家とされている国でも起きている。2005年の10月末にフランスの首都パリの郊外で移民系の市民による暴動が起き、これがフランス全土に拡大して11月の中旬まで続いた。また、2011年8月にはイギリスの首都ロンドンで移民系の市民が始めた暴動がイギリス各地の都市に拡大し、一部の移民系ではない若者たちまでがこれに加わった。これらの暴動の中心となったのは、いずれも移民やその子孫といった、普通のフランス市民やイギリス市民とは異質な伝統や文化を持っている人たちである。フランスやイギリスで暴動を始めた人たちの祖先や移民の出身国には、自ら進んで法・秩序に従う伝統が無いため、その伝統や文化を受け継いでいる彼らにも自ら進んで法・秩序に従う伝統が無いのである。しかも彼らの多くは、低所得で失業率も高く、自分たちは社会から差別されていると考え、日頃から社会に対して不満を持っている人たちである。つまり、フランスやイギリスで暴動を起こした人たちは、法的にはフランスやイギリスの市民であっても、伝統や文化の面では普通のフランス人やイギリス人とは異質な人たちなのである。これに対して、中国で起きた反日デモの最中に法・秩序に反する行為を行った人たちは、中国の伝統や文化を受け継ぐ普通の中国人なのである。つまり、フランスやイギリスのような法治国家とされている国で集団的な法・秩序に反する行為を行う可能性が高いのは、移民系市民のようなごく一部の者であるのに対して、中国のような法の支配が確立されていない国家では、大多数の普通の市民が集団的な法・秩序に反する行為を行う可能性が高いのである。ただし、イギリスの暴動では、移民系ではない普通の市民の若者たちがこれに加わったが、これはイギリス社会の荒廃の現れであり、もし、今後このようなことが拡大するようなら、イギリスは法治国家とも文明国とも言えない国になってしまうであろう。
中国のような法の支配が確立されていない国家の国民には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していないため、たとえ泥棒を禁じる法律があっても、それだけで大多数の人間が泥棒をしないという保証は無いのである。そのため、法の支配が確立されていない国家で法・秩序を維持するためには、警察や軍などの国家機関によって、国民が法・秩序に従うことを力ずくで強制せざるを得ないのである。つまり、法の支配が確立されていない国家の法・秩序は、暴力の支配によって成り立っているのである。このような統治の方法は、武断統治や強権政治と呼ばれている。これは中国のみならず、アジアやアフリカ諸国に見られる独裁政権も同様の体制である。
法治国家の国民が、自ら進んで法・秩序に従うのとは違い、法の支配が確立されていない国家の国民は、警察や軍などによる武力の行使が恐ろしいから法・秩序に従うのである。従って、法の支配が確立されていない国家の権力者が国民を法・秩序に従わせるためには、権力者は常に国民から恐れられていなければならないのである。つまり、法の支配が確立されていない国家は、国民が権力者を恐れなくなったら、国民を法・秩序に従わせることが困難になり、統治不能に陥ってしまうのである。このような事態に直面した場合、法の支配が確立されていない国家の権力者は、国民に対して武力を行使してでも権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって、統治能力を回復させなければならないこともある。その典型的な例が、1989年6月4日に中国で起きた天安門事件なのである。
1989年4月15日、中国共産党の前総書記の胡耀邦が死去した。すると、学生運動に理解があると見なされていた胡耀邦の死を悼む学生や市民が続々と天安門前広場に集まり、追悼集会が開かれた。しかし、その集会は、次第に政府の官僚や政治家の腐敗を糾弾し、中国の民主化を求める集会に変わっていった。
やがて学生や市民は、共産党や政府の指導者を名指しで非難し始めた。4月18日には「李鵬出て来い」と叫び始めた。
4月21日には十万人を越す学生や市民が天安門前広場に集まり、民主化を求めるデモを行った。
5月13日には一部の学生がハンガーストライキを始めた。
5月17日には天安門前広場に集まった学生や市民の数が百万人近くになった。そして李鵬首相や最高指導者のケ小平に対して辞任を要求するスローガンを叫び始めた。
5月19日には趙紫陽総書記がハンガーストライキをしている学生を訪れ、ハンガーストライキをやめるように説得した。
法治国家ならば、学生や市民のデモくらいで国家体制が動揺することは無い。なぜなら法の支配に服従している者が、法の枠を越えた行動を起こすことは滅多に無いからである。法治国家の国民は、デモをする場合も反政府活動をする場合も法・秩序の枠の中で行うのである。
しかし、法の支配が確立されていない国家は違う。自ら進んで法・秩序に服従する慣習の無い人間が集まって徒党を組んだら、何を始めるか分からないし、どんな混乱が起きるのかも分からない。一度、法・秩序が混乱し始めたら、燎原の火の如く混乱が拡大する恐れもある。従って、法の支配が確立されていない国家の国民を治めるためには、権力者は武力によって国民を恐れさせ、服従させなければならないのである。ところが天安門前広場に集まった学生や市民は、権力者を恐れる様子も無く、民主化を求め、共産党や政府の首脳に非難の言葉を浴びせたり辞任を要求したりしている。法の支配が確立されていない国家は、国民が権力者を恐れて服従していなければ、法・秩序も国家体制も維持できないのである。従って、法の支配が確立されていない国家にとって、権力者を恐れない国民が出現することは、権力者が統治能力を失ったことを意味するのである。つまり、この時の共産党政権は、絶体絶命の危機に直面していたのである。
法の支配が確立されていない中国にとって、このような危機に対処する手段は、もはや武力弾圧しかない。武力行使によって事態を収拾すると同時に、国家権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって共産党政権の統治能力を回復させるのである。そこでケ小平を始めとした中国の指導者は、学生や市民に対する武力弾圧を決意し、5月20日に戒厳令を敷いた。そして6月4日、天安門前広場は中国軍によって制圧された。
こうして天安門事件の時の出来事を見ていると、一見すると強大に見える中国共産党の一党独裁体制が、実は弱体な体制であることが分かる。なぜなら、共産党一党独裁体制は、学生や市民が集まってデモを行ったくらいで動揺してしまうような軟弱な体制だからである。これと比べれば、日本の戦後民主主義の方がよほど強大だと言わざるを得ない。60年安保騒動を見れば分かるように、学生や市民のデモくらいでは、日本の国家体制が潰れる可能性など無いからである。もし、その可能性があったならば、当時の岸政権は自衛隊に治安出動をさせていたはずである。安保騒動の混乱の責任を取って岸政権が退陣したと言っても、国家体制が消滅したわけでも自民党が政権を失ったわけでもない。これが法の支配が確立されていない国家と法治国家の違いなのである。つまり、法の支配が確立されていない国家の権威は非常に弱体なものであり、武断統治には弱体な権威を武力によって補うという側面もあるのである。そのため、法の支配が確立されていない国家と武断統治は切っても切れない関係にあるのである。法の支配が確立されていない国家が一見して安定しているように見えても、それは国民が権力者の力を強いと思い込んで恐れている間の一時的な状態に過ぎないのである。逆に、法の支配が確立されていない国家の国民が権力者の力を弱いと思い恐れなくなったら、どのような政治や社会の混乱を起こすか分からないのである。従って、法の支配が確立されていない国家に、真の政治の安定はあり得ないのである。
困ったことに、中国政府は、こういった武力によって人間を従わせる行為が、中国政府の統治が及んでいない地域、たとえば台湾などにも通用すると思い込んでいるのである。中国政府は1996年の台湾の総統選挙に対して、海軍による軍事演習やミサイル実験により軍事的圧力をかけた。更に2000年の総統選挙に対しては、朱鎔基首相が「どのような形でも台湾の独立を許すことはできない。われわれは武力行使を決して放棄していない。」と言って台湾の独立を望む勢力に対して脅しをかけた。しかし、これらの行為は、台湾の民衆には全く通用せず、中国政府にとって好ましくない人物を当選させる結果になってしまった。1996年の総統選挙では、中国政府が隠れ独立派と見なしていた李登輝総統が当選し、2000年の総統選挙では、台湾の独立を掲げる民主進歩党の陳水扁候補が当選してしまった。大陸の中国人とは違い、台湾には法の支配が存在する。ところが、法の支配というものが理解できない中国政府の首脳たちは、台湾人も自分たちと同じ中国人なのだから中国流の武断統治が通用すると思い込んでいるのである。
法の支配が確立されていない国家の国家体制を守るためには、最終的には武力に頼るしかない。ところが、その武力さえ頼りにならない場合があることを歴史的な事実は示している。
たとえば、小さな武力しか持たない勢力が、やがて強大化し、圧倒的に強大な武力を持つ者を倒してしまうこともある。そのよい例が、中国における共産党政権の成立である。中国共産党は1921年7月1日に上海で結成されたが、この時の中国共産党は、わずか数十名の共産主義者の集まりに過ぎなかった。その後、中国共産党は、毛沢東の指導の下で国民党や日本軍に対してゲリラ戦を行いながら次第に力をつけていく。やがて毛沢東の率いる中国共産党は、圧倒的に強大な兵力を持つ国民党を台湾へ追い払い、共産党政権を成立させたのである。
更に、権力を守る立場にある軍隊の指導者が武力革命を起こすことさえある。そのよい例が、辛亥革命の時の袁世凱である。
中国では、二十世紀に入ると、既に衰えていた清朝の権威が、政治の実権を握っていた西太后の死によって更に低下した。そして1911年10月10日の武昌蜂起をきっかけに辛亥革命が始まった。革命は中国各地に広がり、十四の省が清朝から独立してしまった。これに対して清朝は、軍閥の実力者の袁世凱を内閣総理大臣に任命して政治と軍事の実権を与え、革命勢力の武力制圧を命じた。
一方、革命勢力は、1912年1月1日に中華民国臨時政府を成立させ、孫文が臨時大総統に就任した。しかし、軍事力では袁世凱の率いる清朝の軍には勝てないと考えた孫文は、1月22日、宣統帝溥儀の退位を条件に臨時大総統の職を袁世凱に譲るという声明を発表した。これを受けて袁世凱は清朝を裏切り、清朝に圧力をかけて宣統帝溥儀の退位を迫った。その結果、2月12日、遂に宣統帝溥儀は退位し、清朝は滅亡した。これを受けて2月13日、孫文は臨時大総統を辞任した。そして3月10日、袁世凱は臨時大総統に就任した。こうして清朝は、袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのである。
このような事態を起こさないためには、法の支配が確立されていない国家には強力なカリスマと政治力を持った最高指導者が君臨して政治と軍事をしっかりと掌握していなければならないのである。もし西太后が生きていたら、袁世凱といえども勝手なことはできなかったであろう。辛亥革命当時の清朝の権威は、ほとんど失われていた。しかも皇帝は、わずか六歳の宣統帝溥儀である。袁世凱を押さえる力などあるわけがない。
結局、法の支配が確立されていない国家は、武力を握る者だけが国家を統治できるのである。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国家では、軍を制する者が国家を制するのである。清朝が袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのは、清朝の皇帝が軍を制する力を失ってしまったからである。
中国のような法の支配が確立されていない国家にとって、軍の存在する第一の目的は、暴力革命や国家の分列のような事態から国家体制や権力者を守ることであって、法治国家のように国民の生命・財産を外国の脅威から守ることは二の次なのである。天安門事件は、このことを世界に知らしめてしまったのである。
権力の継承ができない国家
法治国家の最高指導者は、法に従って最高指導者の役職に就任し、同時に前任者から全ての権力を継承する。そして最後は法に従って最高指導者の役職を解任され、同時に全ての権力が後継者に継承される。いかに強大な力を持った権力者といえども、法の手続きに従い解任されたら、何の権力も持たない、ただの人になってしまう。これが法治国家の権力の継承である。法治国家では、このようなことは当たり前である。ところが法の支配が確立されていない国家では、法治国家のような権力の継承は不可能なのである。法の支配が確立されていない国家では、たとえ法の手続きに従って最高指導者の役職に就任したとしても、その者に政治の実権があるとは限らないのである。
たとえばケ小平が健在であった時の中国のことを考えて見ればよい。1993年以降、中国における法律上の最高指導者の役職は国家主席であり、2003年まで江沢民がその役職にあった。ところがケ小平が健在であった時は、事実上の最高指導者はケ小平であり、江沢民国家主席も李鵬首相も、実態はケ小平の家来の如き存在であった。重要な決定はすべてケ小平が行い、国家主席も首相もケ小平の決定に従うだけであった。ケ小平は十数年間事実上の中国の最高指導者でありながら、法律上の最高指導者の役職に就任したことは一度もなかったのである。
また、清朝末期に事実上の女帝として中国に君臨した西太后も同じである。実の息子の同治帝や甥の光緒帝を形だけの皇帝に立て、政治の実権は西太后自身が握っていたのである。
中国のような法の支配が確立されていない国家では、しばしばこういうことが起きる。その理由は、法の支配が確立されていない国家では最高指導者と、その配下の官僚や軍人との関係が、法治国家とは全く異なるからである。
法治国家の場合、最高指導者と官僚や軍人との関係は、法によって定められた上司と部下という関係で成り立っている。一部の側近を除けば、ほとんどの官僚や軍人は、大統領や首相の法律上の部下である。部下たちにとって大統領や首相が、いかに気に入らない人物であろうと、いかに無能な人物であろうと、正統な法の手続きに従って最高指導者に就任し、正統な法の手続きに従って行政上の命令が下される限りは絶対服従しなければならない。つまり法治国家の官僚や軍人は、大統領や首相といった法律上の制度に仕えているのであって、最高指導者個人に仕えているのではない。たとえば、アメリカの官僚や軍人は、大統領の法律上の部下であっても、バラク・オバマの個人的な家来ではない。これに対して、法の支配が確立されていない国家の最高指導者と官僚や軍人との関係は、主人と家来、または親分と子分といった個人的な主従関係で成り立っているのである。ケ小平が健在であった時の中国の官僚や軍人は、ケ小平個人の家来か子分であっても、国家主席や首相の部下ではなかった。それどころか江沢民国家主席や李鵬首相自身がケ小平の実質的な家来になってしまっていたのである。
主人と家来、或いは親分と子分といった関係は、個人的な主従関係である。そして、その関係は、自分の好みや都合で決めることである。家来や子分にとって、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であろうとなかろうと、自分自身がその人物の家来や子分であり続けようとする限り、主従関係は続くのである。つまり、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であろうとなかろうと、主従関係には全く影響が無いのである。従って、ケ小平が法的に正統な最高指導者でなくても、ケ小平を自分の親分、或いは国家の最高指導者としてふさわしい人物だと思っている官僚や軍人や国民にとっては、法的な正統性とは関係無くケ小平が最高指導者なのである。そして、法の支配が確立されていない国家において最高指導者としてふさわしい人物とは、毛沢東やケ小平のように強力なカリスマと指導力を持った人物である。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国家では、強力なカリスマと指導力を持った人物ならば、法的な手続きや正統性とは関係無く、実質的な最高指導者になることができるのである。逆に、たとえ法の手続きに従って法的に正統な国家の最高指導者に就任しても、江沢民のようなカリスマにも指導力にも欠ける人物では、実質的な国家の最高指導者にはなれないのである。
法治国家では、大統領や首相のような法的に正統な最高指導者の役職に就任しなければ最高指導者になれないのに対して、法の支配が確立されていない国家では、最高指導者にふさわしい実力さえあれば、法的に正統な最高指導者の役職に就任しなくても実質的な最高指導者になることが可能なのである。これが法的に正統な最高指導者の役職に就任していない西太后やケ小平が実質的な最高指導者になることができた理由である。
中国のような法の支配が確立されていない国家では、西太后、毛沢東、ケ小平といった強力なカリスマを持った個人に仕えるという考えはあっても、法治国家の大統領や首相に仕える官僚や軍人のように、法律上の制度に仕えるという考えは無いのである。これが意味することは、中国のような法の支配が確立されていない国家では、皇帝、国家主席、首相といった役職は、法律上の制度ではなく、単なる肩書きに過ぎないということである。アメリカなどの法治国家で採用されている大統領制は、カリスマを持った役職が前任者から後継者に継承される制度である。しかし、役職がカリスマを持つのは、法治国家の大統領や首相のように、役職が法律上の制度である場合のことである。従って、役職が単なる肩書きに過ぎない、法の支配が確立されていない国家では、毛沢東やケ小平といった個人がカリスマを持つことはあっても、国家主席や首相といった役職がカリスマを持つことは無いのである。そのため法の支配が確立されていない国家では、法治国家のように国家主席や首相といった役職と一緒に、後継者にカリスマを継承させることができないのである。従って、中国のような法の支配が確立されていない国家では、法治国家のような大統領制は成立しないのである。
徳川幕府の時代の日本も、法の支配が確立されていない国家のよい例である。徳川家康は、征夷大将軍の役職を就任から二年二ヶ月で息子の秀忠に譲ってしまう。ところが征夷大将軍を辞職したはずの家康は、大御所様と呼ばれ、隠居城である駿府城から二代将軍秀忠の頭越しに様々な指令を出し、事実上の最高権力者として天下に君臨するのである。そして大坂冬の陣や大坂夏の陣も、家康は自ら陣頭指揮をしているのである。つまり、この時期の二代将軍秀忠は、家康の傀儡に過ぎなかったのである。家康を主君と仰ぐ三河武士にとって、家康が征夷大将軍であろうとなかろうと自分たちの主君であることには変わりがなかった。そこで家臣のほとんどが、家康が死ぬまで家康個人を自分たちの主君と仰ぎ続けたのである。二代将軍秀忠が名実共に征夷大将軍として天下に号令できるようになったのは家康の死後のことである。その二代将軍秀忠も家康と同様、存命中に息子の家光に征夷大将軍の役職を譲り、大御所様と呼ばれ、事実上の最高権力者として君臨するのである。後に名将軍と称えられた三代将軍の家光も、秀忠の存命中は、その傀儡の地位に甘んじていたのである。つまり、武家政治における征夷大将軍の役職は、中国の皇帝や国家主席と同じく、単なる肩書きに過ぎなかったのである。また、幕末には徳川慶喜が征夷大将軍の役職を朝廷に返上し、大政奉還が実現したが、大政奉還の後も依然として徳川慶喜は事実上の武家の棟梁であり、徳川幕府は実質的に存続していたのである。つまり徳川慶喜が肩書きに過ぎない征夷大将軍の役職を失ったところで、徳川幕府が消滅したわけではなかったのである。そのため、薩摩や長州といった倒幕勢力が日本に本格的な変革を起こすためには、武力によって徳川慶喜を打倒するしか無かったのである。
中国や徳川幕府の例で分かるように、法の支配が確立されていない国家では、最高権力者が政治力を保ったままで生きている間は、事実上権力の継承ができないのである。このことが、時と場合によっては、国家や国民に悲劇をもたらすことがある。なぜなら、権力者が政治力を保ったままで生きている間に権力の継承を行おうとすれば、権力者を失脚させて政治力を失わせるか、さもなければ権力者を殺してしまうしかないからである。また、逆に権力者も、自分に取って代わりそうな人物が現れたら、その者に、いつ権力や命を奪われるか分からないのである。そのため、法の支配が確立されていない国家に権力闘争が起きると、身の毛もよだつような血みどろの闘争に発展することが多いのである。
その一例が、旧ソビエトでスターリンが行った粛清と呼ばれる政治弾圧である。ソビエトの独裁者スターリンは、粛清によって数多くの人間を殺害したり強制収容所や刑務所に送り込んだりした。粛清の犠牲者は、幹部を含めた共産党員、軍人、そして文化人や一般市民にも及んだ。粛清によって殺された人間の数は、数百万人とも言われている。スターリンがこのような大量殺戮を行った理由は、自らの権力を守るために自分に敵対すると思われる勢力を抹殺することである。これに加えて、スターリン自身の猜疑心が強く残忍な性格や、ロシア独特のツアーリズムと呼ばれる専制政治の伝統も粛清の背景にあった。更に、ソビエトが法の支配が確立されていない国家であったこともスターリンが粛清を行った理由である。
法の支配が確立されていない国家は、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような主従関係で成り立っている。レーニンが死にスターリンが最高指導者になっても、かつてレーニンの「家来」であった者が政権内に数多く残っていた。法治国家ならば前任者の部下であった者も、法の手続きに従い後任の最高指導者が就任すれば、その部下にならざるを得ない。しかし、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような主従関係で成り立っている、法の支配が確立されていない国家であるソビエトでは、主だった共産党幹部や軍人や官僚を最高指導者の「家来」に替えてしまわなければ最高指導者の地位を確立できないのである。そのためにスターリンは、前任者レーニンの「家来」を一掃し、自分の息のかかった「家来」と入れ替えなければならなかった。その過程でスターリンは多くの人間を抹殺してしまったのである。
また、法の支配が確立されていない国家では、法の手続きによる権力の継承が確立されていないため、国家の最高指導者は、自分に取って代わりかねないと思われる人物が現れたら、その者に、いつ最高指導者の地位や命を奪われるか分からない。だから最高指導者にしてみれば、最高指導者の地位を奪う可能性のありそうな人物は、前もって始末しておかなければ安心できないのである。そこでスターリンは、自分に取って代わって最高指導者になりそうな人物や、その人物を支持する人たちを一人残らず抹殺してしまったのである。
更に、共産党政権下の中国の例を見てみよう。
1959年4月に開かれた全国人民代表大会で、毛沢東は「大躍進」と呼ばれる経済政策の失敗の責任を取り国家主席を辞任し、新たに劉少奇が国家主席に選出された。劉少奇国家主席は「大躍進」によって混乱した中国経済を立て直すため、ケ小平と共に市場経済を導入した経済政策を始めた。
当時の国家主席は、中国における法律上の最高指導者の役職である。アメリカならば大統領に匹敵する地位である。法治国家ならば、法律上の最高指導者の職を辞してしまったら、どんなに偉大な指導者も、ただの人になってしまう。ところが法の支配が確立されていない国家である中国では、そうはいかない。法の支配が確立されていない国家では法的な地位に一切関係なく、多くの人間から最高指導者だと思われている人物が最高指導者である。毛沢東が国家主席の職を失っても、毛沢東を自分たちの最高指導者だと思っている共産党員、軍人、官僚、そして国民が多数存在していた。その人たちにとっての中国の最高指導者は依然として毛沢東であって、法律上の最高指導者である劉少奇国家主席ではないのである。
一方の新しい国家主席の劉少奇が江沢民のような非力な人物であったら、毛沢東の傀儡と化している所である。しかし劉少奇は、政治家として、それなりに有能であったため、劉少奇を支持する勢力も少なからず存在していたのである。そのため、劉少奇もまた最高指導者となった。この結果、中国は、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が並び立つことになってしまった。つまり、劉少奇が国家主席に就任した結果、中国は分裂国家になってしまったのである。
一方、毛沢東は、もう一度たった一人の最高指導者として中国に君臨することを望んでいたため、何としても劉少奇と、その支持勢力を葬り去りたかった。そこで毛沢東は、学生や市民を煽動して文化大革命と呼ばれる大衆運動を起こし、これを利用して劉少奇を始めとした政敵を攻撃して葬り去ろうとした。やがて毛沢東によって煽動された紅衛兵と呼ばれる学生らは、劉少奇やケ小平を大衆運動によって攻撃し始めた。また、中国のような法の支配が確立されていない国家では、軍を制する者が国家を制するのである。そこで毛沢東は、軍の実力者の林彪を味方にして軍に対する影響力を強めた。やがて林彪は、1969年4月の第九回中国共産党大会で毛沢東の後継者に指名された。一方、劉少奇は毛沢東との権力闘争に敗れ、あらゆる職から解任され、1969年11月に幽閉されていた建物の中で病死した。
しかし、これで血生臭い抗争が終わったわけではない。今度は、毛沢東と、その後継者に指名された林彪との間で確執が始まったのである。
1969年3月に中国とソビエトの国境の珍宝島で中国軍とソビエト軍の武力衝突が起きたことをきっかけに、毛沢東はソビエトの脅威を実感するようになり、ソビエトに対抗するため、かつて敵視していたアメリカに接近しようとした。これに対して林彪は、中国にとって最大の敵はアメリカであるという立場であった。この対外政策での立場の違いが、毛沢東と林彪の確執の始まりと言われている。
1970年8月から9月にかけて開かれた第九期中央委員会第二回総会で、林彪とその一派は毛沢東を天才と持ち上げ、国家主席に就任するように求めた。これに対して毛沢東は、自分が国家主席に就任することを辞退すれば、林彪が国家主席に就任するつもりではないかと疑った。
そもそも林彪にしてみれば、毛沢東の後継者に指名されたとは言え、毛沢東が健在である限り、自分が必ず権力者になれるという保証はどこにも無いのである。つまり、林彪が確実に権力を手にしようとするなら、毛沢東を打倒するしかないのである。従って、毛沢東にしてみれば、林彪は自分の権力や命を脅かす危険な存在でしかないのである。林彪を危険視する毛沢東は、林彪とその側近の粛清に乗り出した。
やがて、毛沢東が林彪を「極右」と批判したことをきっかけに、林彪と、その側近たちは、自分たちの身に危険が迫っていることを感じ、毛沢東を殺して権力を奪うクーデターを計画した。しかし、クーデター計画が事前に毛沢東に漏れたため、計画は失敗してしまった。そして林彪は飛行機でソビエトに亡命しようとするが、1971年9月13日、飛行機がモンゴルで墜落して死亡した。
この事件の反省から、毛沢東が最終的に自分の後継者に指名したのが華国鋒である。華国鋒は毛沢東の言いなりになるしかない無能な人物である。毛沢東は、華国鋒のような無能な人物ならば自分に危害を加えることは無いと判断したのである。
中国のような法の支配が確立されていない国家では、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者の数だけ最高指導者が出現し、国家が分列してしまう可能性があるのである。だから一旦権力を握った者は、自分以外にも最高指導者としてふさわしいと思われている者が存在する場合は、その者を抹殺してしまわなければ権力を安定させることができないのである。こうした中国の指導者たちの権力闘争は、まるで三国志の世界の出来事である。つまり、中国の権力のあり方は、三国志の時代と大して変わっていないのである。それは結局、中国に法の支配が確立されていないからである。法の支配が確立された国家は、法律や制度が、一人の人間しか最高指導者になれないように作られ、それに従って最高指導者が決定されているため、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者が何人いようと、国家が分列するようなことは起きないのである。勿論、中国にも権力の継承の仕組みを定めた法律は存在するが、法律上の最高指導者と実質的な最高指導者が別人であるようなことが起きる中国では、安定した権力の継承を保障するものではない。
国家と伝統・文化
中国の将来を考える上で最も重要な問題が次の二つである。
第一は、改革・解放政策は今後も続くのか。
第二は、中国に民主化は可能なのか。
これらの問題について私の考えを述べてみたい。
ケ小平が中国の政治の実権を握って以来、社会主義経済を事実上否定し、市場原理と自由競争と外国資本を導入して経済の活性化を計って来た。これが改革・解放政策である。
この改革・解放政策を維持するためにも、そして国家体制を維持するためにも、中国の指導者が最も警戒しなければならないことが国民の失業問題である。なぜなら、中国にとって失業問題は、古代から国家を揺るがす重大な問題であったからである。
中国のほとんどの王朝では、末期になると大規模な農民反乱が起きている。秦の始皇帝の死後に起きた陳勝・呉広の乱を始めとして、黄巾の乱、李自成の乱、太平天国の乱といった大規模な農民反乱によって、歴代王朝は国力を衰退させられ滅亡していった。これらの農民反乱に参加した者の大多数は、圧政による貧困や天災による不作、そして人口増加による失業などによって飯が食べられなくなった農民である。彼らは最初のうちは、流民と呼ばれる小規模な徒党を組んで村々を襲い、食料を奪い、荒らし回っている。ところが、李自成や洪秀全といった傑出した指導者が出現すると、国中の流民が彼らの下に集まり大規模な反乱に発展するのである。
ただし、王朝を滅亡させるほどの農民反乱が歴史上何度も繰り返し起きる国は、中国以外には存在しない。中国に繰り返し農民反乱が起きる理由の一つには、中国人には自ら進んで法・秩序に従う慣習が確立されていないということもあるが、それだけでは説明にならない。なぜなら、世界には、国民に自ら進んで法・秩序に従う慣習が確立されていないにもかかわらず、失業して飯が食べられなくなった者が多数出たとしても、国が滅亡するほどの反乱など滅多に起きない国が数多くあるからである。要するに、中国に繰り返し農民反乱が起きる根本的な理由は、失業した農民による反乱が中国の伝統になっているからだと考えざるを得ないのである。つまり、人民に飯を食べさせることができないような無能な指導者は、武力を行使してでも打倒して、人民に飯を食べさせることができる有能な指導者と取り替えなければならないという考えが中国人の伝統になってしまっているということである。そのため、中国の指導者と国家体制を守るためには、指導者が人民に飯を食べさせることができないような無能な人物だと思われることは、何としても避けなければならないのである。従って、中国の指導者にとって、大量の失業者を出すことは自殺行為なのである。
歴代王朝と同様に、現在の中国にとっても失業問題は国家の重大問題である。経済の失速による失業者の増加は、国家体制を危機に陥れかねない。1989年の天安門事件の後、一時、多くの外国資本が国外へ引き上げてしまったこともあり、中国の経済成長は鈍化してしまった。この事態に対して最高指導者のケ小平は、1992年の1月から2月にかけて広東省などの中国南部を視察し、経済成長の加速の必要性を説いて回った。これが、「南巡講話」である。これをきっかけにして中国経済は再び成長し始める。その結果、中国は失業者の増大による経済や国家体制の危機を免れることができたのである。しかし、これはケ小平のような強力なカリスマを持つ指導者だからこそできたことであって、誰にでもできることではない。現在の中国にはケ小平のような強力なカリスマを持つ指導者は存在しない。従って、今後、もし中国の経済成長が失速し、大量の失業者が出るような事態になれば、対処できなくなる可能性もある。そうなったら、改革・解放政策どころか国家体制さえどうなるか分からないのである。
近年の中国は、「世界の工場」などと言われ、日本の製造業を脅かすような経済発展を遂げている。しかし、経済発展の恩恵にあずかっている人たちがいる一方で、中国の人口の約六割を占める農民の中には依然として貧しい生活を強いられている人たちも数多く存在する。そして、あまりの貧しさのために農村で生活ができなくなった農民の多くは、仕事のある都市などへ出稼ぎに行って生計を立て、民工と呼ばれている。この民工と呼ばれる出稼ぎ農民の数は、二億人近いと言われている。もし、中国の経済成長が行き詰まるようなことになれば、民工を始めとした多くの中国人が職を失うことになる。その時、出稼ぎ先での生活に行き詰まり、農村へ帰っても生活ができない農民たちが一体どのような行動に走るのか全く予想ができない。最悪の場合は、過去の失業した農民のように、徒党を組んで暴動や反乱を起こす可能性も無いとは言えない。いずれにしろ中国の改革・解放政策の将来は楽観視できないのである。
次は中国の民主化について考えてみる。
結論から言ってしまえば、中国の民主化は不可能である。なぜなら民主主義国家は、法治国家を前提に成り立つものだからである。法の支配が確立されていない中国に民主主義国家が成り立つわけがないのである。
たとえば、中国政府が国民の言論の自由を認めないのも、中国が法治国家ではないからである。中国のような法の支配が確立されていない国家の国民には自ら進んで法・秩序に服従する伝統が無いため、法の力で国民を統治することができない。だから武断統治によって国民を統治せざるを得ない。法の支配が確立されていない国家の国民が法に従う理由は、権力者の武力が怖いからである。従って、法の支配が確立されていない国家の国民を統治するためには、権力者は常に国民から恐れられていなくてはならない。もし、法の支配が確立されていない国家の国民が権力者や政治を自由に批判することができたら、国民は権力者を恐れなくなってしまう。そのようなことになったら武断統治は不可能になり、権力者は統治能力を失ってしまう。そのため、中国のような法の支配が確立されていない国家は、国民が権力者や政治を自由に批判することを認めるわけにはいかないのである。
自ら進んで法・秩序に服従する伝統が無い国家の国民は、国民の不満や怒りを招くような情報に接しただけで暴動や破壊行為のような法・秩序を否定する行動に走りかねない。だから、中国のような法の支配が確立されていない国家では、国民が自由に情報の発信をすることを認めるわけにはいかないのである。そのため、中国のような法の支配が確立されていない国家では、治安や社会の安定を維持するために国家権力による情報統制が必要なのである。
自ら進んで法・秩序に服従する伝統が無い中国国民に政治活動や結社の自由を認めたら、かつて中国共産党が小さな結社から始まり、やがて強大化し、遂には強大な武力を持つ国民党政権を倒して権力を握ったように、何者かが共産党政権から権力を奪い取るきっかけになるかもしれない。そこまで行かなくても、治安を乱すようなことをするかもしれない。だから中国では、政党や結社を自由に作る権利を認めるわけにはいかないのである。
アメリカの大統領制のように、選挙で最高指導者を選ぶためには、法に定められた手続きに従って権力の継承をする制度が確立されていなければならない。ところが中国のような法の支配が確立されていない国家では、法に定められた手続きに従った権力の継承ができないのである。そのため文化大革命の時の中国では、毛沢東と劉少奇の二人が同時に国家の最高指導者となり、政治が混乱に陥ってしまった。従って、法の支配が確立されていない中国でアメリカのように大統領選挙を行っても、前大統領と新大統領が同時に最高指導者となり政治が混乱する恐れがある。また、ケ小平の時代には、法律上の最高指導者は江沢民なのに、実質的な最高指導者はケ小平という事態になってしまった。これでは選挙に当選して法律上の最高指導者になっても、実質的な最高指導者になれるという保証は無いことになってしまう。つまり、選挙によって大統領を選んでも、選挙で当選した法律上の大統領に政治の実権が無く、ケ小平が政治の実権を握っていた頃の中国のように、法的には国家の最高指導者ではない人物が、実質的な最高指導者として国家に君臨するような事態も起き得るのである。従って、法の支配が確立されていない国家では、選挙によって国家の指導者を選ぶことは極めて困難なのである。
これらの理由のため、中国などの法の支配が確立されていない国家が民主主義国家になるのは不可能だと言わざるを得ないのである。
私の考えに対して、次のように反論する人もいるであろう。同じ中国人の国なのに台湾では民主化に成功したではないか。同じことがどうして大陸の中国人にできないと言えるのか。
それは中国と台湾とでは歴史が違うからである。台湾はかつて日本の植民地となり、約五十年間日本によって統治されていた。その結果、日本によって法の支配の伝統が台湾に植え付けられ定着したのである。こうして台湾は法治国家になることができたのである。この結果、台湾では、形の上では議会制民主主義が成立することが可能になった。ただし、台湾の議会制民主主義が本物の民主主義なのかそうでないかは、将来にわたって台湾の政治の動向を見てみなければ分からない。
植民地支配の結果として法治国家になったのは台湾だけではない。世界の法治国家のほとんどは、法治国家による支配の産物である。インドやシンガポールが法治国家になったのは、イギリスの植民地政策の産物である。また、ヨーロッパ諸国が法治国家になったのは、古代にヨーロッパの大部分がローマ帝国の属州となり、法の支配を植え付けられた結果である。
学者や言論人の中には、議会制度の設立や選挙の実行といった、欧米諸国の言う民主化を行うことによって法治国家になると言っている者が存在する。しかし、たとえばアフガニスタンやイラクでは、アメリカの軍事介入以降、議会制度が設立され、大統領選挙や議会選挙が何度も行われているが、一向に法治国家になる様子が無いのが現実である。アフガニスタンでは依然としてタリバンによるゲリラ活動が続いている。そしてイラクでは依然としてテロリズムが続き、多くの市民が犠牲になっている。アフガニスタンやイラクが欧米諸国の言う民主化によって法治国家になっていれば、アフガニスタンではタリバンのゲリラの多くが自主的にゲリラ活動を停止し、イラクではテロリズムが沈静化しているはずである。要するに、民主化によって法治国家になるのではなく、法治国家になった結果として民主化が可能になるのである。
中国に民主主義が成立しないのは、法治国家の伝統が無いというだけではなく、専制政治が伝統・文化となり中国の社会に定着してしまっているからでもある。中国の国家体制の基礎を作ったのは秦の始皇帝である。中国では、始皇帝が法治主義による統治を始めたということになっているが、始皇帝の法治主義は、近代の法治国家のような国民が自らの意志で法・秩序に従う法治主義ではなく、権力者が力ずくで国民を法・秩序に従わせる法治主義であり、専制政治と呼ぶべきものである。そして、秦が滅んだ後も、漢を始めとした歴代の王朝によって、始皇帝が作った専制政治は受け継がれていった。その結果、約二千年にわたって始皇帝流の専制政治が続き、これが中国の伝統・文化となり社会に定着してしまった。そのため中国は、法の支配といった民主主義の基礎が作られることが無いまま今日に至っているのである。孫文が指導した辛亥革命は、皇帝と称する君主が中国に君臨することは否定したが、皇帝によって行われていた専制政治までは否定できなかったのである。
国家体制というものは、国家や民族固有の歴史や伝統・文化の産物である。天安門事件以来、欧米諸国は、中国に対して民主化や人権問題の改善を要求し続けているが、専制政治の伝統が定着してしまっている中国に、そのようなことをいくら要求しても無駄なことである。中国は、たとえ共産党政権が崩壊しても、新しく成立するのは秦の始皇帝以来の専制国家でしかない。法の支配の伝統・文化が確立されておらず、しかも秦の始皇帝以来の専制政治の伝統が社会に定着してしまっている中国に、法の支配の伝統を前提に成立する欧米流の民主主義国家が成立するわけがないのである。欧米諸国は、中国人を含めた世界の全ての人間が、自分たち欧米人と同じ伝統・文化を持っていると錯覚しているのである。
中国と同様、専制政治の伝統・文化が存在するのがロシアである。今のロシアは、ソビエトの崩壊以来、民主主義が成立したように見える。しかし、ロシアという国の歴史から考えると、果たして本当に欧米流の民主主義が成立したのか疑問である。
ロシアは、本来はギリシャ・ローマ以来のヨーロッパの伝統・文化を受け継ぐ国であった。やがて十三世紀になると、ロシアはモンゴル人によって征服され、キプチャク汗国が成立した。キプチャク汗国は、チンギス・ハーン流の専制政治をロシアに持ち込んだ。やがて十五世紀にキプチャク汗国の支配下にあったモスクワ大公国が、キプチャク汗国から領土と領民を奪い、モンゴル人の支配者をロシアから追い出して独立した。この時、モスクワ大公国は、キプチャク汗国からチンギス・ハーン流の専制政治まで受け継いでしまったのである。これがロシア流専制政治であるツァーリズムの始まりである。やがてツァーリズムは、イワン雷帝やピョートル大帝の時代に猛威をふるった。更に、ロシア革命によって社会主義国家ソビエト連邦が成立した後も、スターリン主義という形でツァーリズムが復活して、粛清という名の殺戮が行われることになった。こうしてロシアには、専制政治の伝統・文化が定着してしまったのである。ソビエトの崩壊以来、ロシアは西欧流の民主主義国家の装いをしているが、政治や経済の状況次第では、いつツァーリズムやスターリン主義のような専制政治が復活するか分からないのである。
カリスマの継承と政治の安定
カリスマも国家にとって重要な権力であり、法的権限だけが権力ではない。国家体制が成立した当初の最高指導者の多くは、偉大な業績を挙げ「建国の父」「革命の指導者」「救国の英雄」などと言われ、多くの国民から尊敬され、強力なカリスマを持っている。国家体制の成立と安定のために絶対に必要なのが、このような初代最高指導者の強力なカリスマを最高指導者の役職と共に後継者に継承する体制を確立することである。これがうまくいかなければ、最高指導者が不在の欠陥国家になってしまうのである。カリスマを後継者に継承することに失敗し、最高指導者が不在となってしまった国家では、国家の最大の役割である国家の防衛や非常事態に対処することができなくなってしまうどころか、最悪の場合は国家が崩壊してしまうこともある。アレクサンドロス大王亡き後のアレクサンドロス帝国、秦の始皇帝亡き後の秦帝国、そしてチトー大統領亡き後のユーゴスラビアなどが典型的な例である。国家体制と国家の機能を維持するためには、最高指導者のカリスマと役職を後継者に継承する体制を確立することが絶対に必要なのである。
最高指導者のカリスマと役職を後継者に継承する体制として、主なものには次の二種類がある。第一が、同じ一族や血族間で最高指導者のカリスマと役職が継承される君主制である。そして第二が、法の手続きによって最高指導者のカリスマと役職が継承される大統領制、そして実質的な大統領制である議員内閣制の首相である。
君主制や大統領制以外で、最高指導者のカリスマと役職を後継者に継承する体制を確立した例としては、チベットのダライ・ラマ制がある。前任のダライ・ラマが輪廻転生した人物を見つけ出してダライ・ラマの後継者とするのである。言わば「輪廻転生制」である。ただし、ダライ・ラマ制に類するような体制はチベット以外には存在しないため、ダライ・ラマ制は極めて特殊で例外的な体制と考えざるを得ない。
更に、最高指導者のカリスマと役職を後継者に継承する方法としては、古代中国の禅譲のように、前任の最高指導者の指名によって後継者を決定する方法もある。世界には、君主制も大統領制も成立しないため、前任者の指名によって後継者を決定することが試みられた例がいくつもある。旧ソビエトや共産主義体制下の中国も、その例と言える。旧ソビエトや共産主義体制下の中国は、共産主義を理想とする国家である以上、君主制はあり得ない。しかも、法治国家ではないため大統領制も成立しない。旧ソビエトでスターリンが粛清と呼ばれる大量殺戮を行ったのも、中国で文化大革命のような政治の混乱が起きたのも、法治国家ではないため、法の手続きによって最高指導者のカリスマと役職を継承することができないことが原因の一つである。そこで旧ソビエトや中国では、前任者が後継者を指名することによる最高指導者のカリスマと役職の継承が試みられたのである。
ところが、前任者が後継者を指名することによって最高指導者のカリスマと役職を継承する方法は、非常に不安定な方法であり、失敗した例が多のである。失敗した理由の一つが権力闘争である。前任者によって後継者に指名された人物が権力闘争に敗れた結果、最高指導者のカリスマと役職の継承に失敗してしまうのである。ソビエトのスターリンが後継者に指名したマレンコフは、フルシチョフとの権力闘争に敗れて失脚してしまった。また、中国の毛沢東が後継者に指名した華国鋒も、ケ小平との権力闘争に敗れて失脚してしまった。
前任者の指名によって決定された最高指導者は、前任者によって後継者に指名されたことを根拠に自らの最高指導者の地位を正当化できる。これに対して、権力闘争に勝利して最高指導者となった者は、自らの最高指導者の地位を正当化する方法が無いのである。そのため、権力闘争に勝利することによって最高指導者となった者は、自らの最高指導者の地位を正当化することに苦慮する羽目になってしまう。たとえば、ソビエトでレーニンの後継者となったスターリンにしろ、スターリンと最高指導者の地位を争ったトロツキーにしろ、レーニンから後継者に指名されてはいなかったのである。そこで、この二人は、自分がレーニンの後継者であることを正当化するため「一国社会主義論」や「世界革命論」を唱えて理論闘争を行い、自分こそレーニン思想の正統な継承者であり、レーニンの後継者としてふさわしいと主張したのである。やがてスターリンは権力闘争に勝利して政治の実権を握ったものの、それでも自らの最高指導者の地位に不安があったため、多くの政敵を粛清によって葬り去ることになったのである。こうしてスターリンは、どうにか最高指導者としての地位を固めることができたのである。
前任者から後継者に指名されなくても、スターリンやケ小平のように、もともと強力なカリスマや指導力を持っている人物なら、自らの力で最高指導者としての地位を確立できる場合もある。しかし、スターリンの後継者の地位を権力闘争によって勝ち取ったフルシチョフのような、カリスマにも指導力にも欠ける人物の場合は、最高指導者としての地位を確立するのは極めて困難である。しかもフルシチョフは、1956年2月に行ったスターリン批判によってスターリンのカリスマを否定してしまった。フルシチョフがスターリンのカリスマを否定することは、スターリンから継承したはずの自分自身のカリスマを否定することでもある。そして、カリスマも国家にとって重要な権力である以上、カリスマの否定は国家権力の否定である。フルシチョフのスターリン批判は、ソビエトの同盟諸国を動揺させることになり、ハンガリー動乱のような混乱を招く結果になってしまった。要するに、フルシチョフは最高指導者としての地位の確立に失敗したのである。
スターリンからのカリスマの継承に失敗し、強力な最高指導者を失ったフルシチョフ政権以降のソビエトは、有力者たちの合議によって国家の意志決定を行う集団指導制に移行していった。ところが、集団指導制による意志決定には大きな問題がある。集団指導制による意志決定では、決定にかかわる有力者たちの反感を買ったり意見が対立したりすると、合意を得るのが難しくなり、意志決定が行いにくくなってしまう。そのため、有力者たちの利権を否定するような政治改革や重大な意志決定が困難になり、政治の腐敗や停滞を招くことになりがちである。つまり、政治改革を行おうとすると「抵抗勢力」を代表する有力者が反対して意志決定ができなくなり、政治の腐敗を一掃しようとすると「腐敗勢力」を代表する有力者が反対して意志決定ができなくなってしまうのである。つまり集団指導制は、集団的無責任を生じる危険性が高いのである。事実、フルシチョフ政権の後のブレジネフ政権時代のソビエトは、ゴルバチョフも指摘したように腐敗と停滞の時代であった。ブレジネフ政権以降のソビエトは、経済が悪化して危機的な状況であるにもかかわらず、集団的無責任のために手を拱いているだけで何もできなかった。有力者たちの利権を否定するような政治改革や重大な決断は、最高指導者の強力な指導力と決断によってのみ可能である。そこでゴルバチョフは、大統領制の導入によって指導力を強化して改革を行おうとしたが、1991年にソビエトが崩壊したことによって失敗に終わってしまった。ソビエトは集団指導制のために滅んだと言っても過言ではない。
ただし、集団指導制にも、うまくいっていた例がある。古代ローマの元老院による議会政治は、まさに集団指導制である。ただし、元老院による集団指導制は、ローマ市民の団結力だけで国家の非常時における団結が維持できるため、強力な最高指導者を必要としないということを前提とした制度である。そのため、征服戦争による領土の拡大の結果、多くの異民族を支配するようになり民族構成が多様化すると、ローマ市民の団結力だけでは国家の非常時における団結が維持できなくなったため、元老院による集団指導制は機能しなくなり、ローマの国家体制は帝政に移行する結果になったのである。
これまで述べたことからすると、安定した最高指導者のカリスマと役職の継承を制度化しようとすれば、君主制か大統領制のどちらか一方を採用するしかないと言えるのである。
ただし、君主制と言うと、現代の世界では、何やら時代錯誤の遅れた国家体制のように思っている人が多い。しかし、数は減ったとは言え、世界には依然として君主制国家は存在している。人類が最初に作り上げた、最高指導者のカリスマと役職の継承を安定して行うことができる体制が君主制なのである。この君主制の「発明」によって、人類は安定した強力なカリスマを持った最高指導者の下で、国家という大規模な人間集団を形成することが可能になったのである。そして、この強力な最高指導者の下で文明が発展して来たのである。特に農耕文明は、灌漑や治水といった大規模な工事を行わなければならず、そのためにも強力なカリスマを持った最高指導者が必要であった。従って、君主制の成立は、農耕文明の成立と発展には必要不可欠であったと言えるのである。
ただし、君主制には多くの欠点があることも事実である。君主制は、最高指導者の地位に就ける者が君主の一族に限られるため、しばしば「人材不足」が起き、無能な人物が君主になってしまうことが多く、これが原因で政治が停滞したり混乱したりすることがある。また、最高指導者の地位が特定の一族によって独占されるため、国家権力が私物化されやすく、君主や君主の一族の都合や利益のために権力が乱用されることがある。更に、君主の地位は終身制である場合が多いため、長期政権となり、政治腐敗の蔓延や権力者の堕落といった事態を招きやすい。
このような多くの欠点を抱えた体制であるにもかかわらず、古代から近代に至るまで、世界の大多数の国が君主制国家であった。その理由は、近代になって大統領制や議院内閣制が「発明」される以前は、君主制は国家の最高指導者のカリスマを、もっとも確実に継承できる体制であったからである。最高指導者のカリスマの力は、国家権力が成立するためには必要不可欠である。従って、最高指導者のカリスマの継承に失敗することは、国家権力の消滅を意味するのである。そして、国家権力の消滅は政治を混乱させ、最悪の場合は国家を滅亡の危機に追いやってしまうことさえある。従って、最高指導者のカリスマの継承には国家の存亡がかかっていると言っても過言ではないのである。つまり、最高指導者の「人材不足」が起きようと、国家権力が私物化されようと、政治が腐敗堕落しようと、カリスマの継承に失敗して国家権力が消滅してしまうよりはましだということである。
やがて、十八世紀から十九世紀にかけて欧米諸国で大統領制や議院内閣制という新しい体制が「発明」された。大統領制や、実質的な大統領と言える議院内閣制の首相は、出自に関係なく幅広く人材を集めることが可能なため、「人材不足」が起きにくいと思われている。また、指導者を選挙で選んだり、議会制度を設けたりすることによって、国家権力の私物化や政治の腐敗堕落を防ぐことができると思われている。そのため、大統領制や議院内閣制は、非常に合理的な体制と見なされ、世界中に普及していったのである。
しかし、大統領制や議院内閣制には、法の支配が確立された国家でなければ成立しないという難点がある。かつて君主国であった国の多くが、欧米諸国の真似をして大統領制などの君主制ではない体制を作った。ところが、法の支配が確立されていない国で君主制ではない体制を作ろうとすると、カリスマの継承に失敗するなどして様々な問題が起きるのである。中国では、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が出現して政治が混乱した。そして、多くのアジアやアフリカ諸国では、クーデターや内戦などによって政情不安が続いている例が多い。これらの国の多くは、法の支配が確立されていないため、法の手続きによる最高指導者のカリスマと役職の継承がうまくいかない国である。そのため世界には、形式的には大統領制や議院内閣制のような君主制ではない体制を採用しているのに、実際は権力の世襲が行われ、実質的な君主国になってしまった国がいくつも存在するのである。
その実質的な君主国の典型的な例が北朝鮮である。北朝鮮では、1974年2月に金日成の長男の金正日が金日成の後継者に決定した。そして、1994年7月に金日成が死去した後、金正日は北朝鮮の最高指導者となった。そして、2010年9月には金正日の三男の金正恩が金正日の後継者に決まった。
なぜ北朝鮮では、権力の世襲が行われるのか。そもそも北朝鮮以外の共産主義国家では、権力の継承にともなうカリスマの継承が成功した例が無い。カリスマの継承をする体制は、事実上、大統領制と君主制の二種類しかないが、ソビエトや中国では大統領制も君主制も成立しないためカリスマの継承ができない。一方、北朝鮮は、アメリカや韓国との間で常に軍事的な緊張を強いられている。しかも北朝鮮は、深刻な経済危機からなかなか脱することができず、国民の不満が充満している。つまり北朝鮮は、軍事的な緊張や経済的な危機が日常化しているのである。国家の危機に対処するためには国民を一致団結させることが可能な強力なカリスマを持った最高指導者が常に存在しなければならない。従って、国家の危機が日常化している北朝鮮にとって、強力なカリスマを持った最高指導者の不在によって国家の危機に対処できなくなるような事態は、直ちに国家体制を滅亡させかねない。従って、北朝鮮の国家体制を存続させるためには、何としてもカリスマの継承を成功させ、強力なカリスマを持った最高指導者が不在という事態を阻止しなければならないのである。しかし、ソビエトや中国と同様に法治国家ではない北朝鮮に大統領制は成立しない。そのため、北朝鮮がカリスマの継承を成功させるためには、実質的な君主制を導入するしかないのである。これが、北朝鮮で権力の世襲が行われている理由である。
北朝鮮では2011年12月17日に、最高指導者の金正日が死去した。しかし、金日成から金正日への権力の継承が、金正日が後継者に決定されてから二十年という長い年月をかけて用意周到に行われたものであったのに対して、金正日が死んだ時は金正恩が後継者に決定されてからわずか一年三ヶ月しかたっていない。従って、金正恩が金正日と同様に権力を継承して北朝鮮の最高指導者の地位を確立できるという保障は無いのである。これまで北朝鮮は、金正日が金日成から継承した強力なカリスマの力で北朝鮮国民の不満を押さえつけることによって国家体制を維持して来た。しかし、もし金正恩がカリスマと最高指導者の地位の継承に失敗し、北朝鮮の最高指導者の地位を確立できなかったら、金日成のカリスマが消滅し、国民の不満を押さえつけることができなくなってしまう。その結果、北朝鮮は統治不能に陥り、国家体制が維持できなくなる可能性がある。
また、タイ王国は、形式的にはイギリスと同様の立憲君主制ということになっているが、実態は専制君主制である。イギリスの君主は政治の実権の無い形式的な存在であり、首相が実質的な最高指導者である。ところが、タイの国王は名実共に最高指導者であり、首相は国王の一臣下に過ぎないのである。そのため、首相の力では国民を指導することも団結させることもできず、政治の混乱が起きて収拾できなくなることがある。そのような場合は、軍や国王が政治に介入して政治の安定を図るしかないこともある。これが、タイで何度も軍事クーデターが起きている理由である。しかし、軍事クーデターのような違法な行為が何度も起きる国が法治国家であるわけが無い。タイにイギリスと同様の立憲君主制が成立しないのは、結局、タイに法の支配が確立されていないからである。
また、大統領制や立憲君主制の成立しない国があるのは、法の支配が確立されていないという理由だけではない。日本のように法の支配が確立されているにもかかわらず、大統領制や立憲君主制が成立しない例もある。日本では天皇制の伝統が国家に定着した結果、皇室以外の者が法的に正統な国家の最高指導者になることができなくなってしまったため、大統領制や立憲君主制が成立しないのである。
このように欧米諸国以外の国々では、大統領制が成立しない例が多いのである。しかし、君主制や大統領制以外に、安定した最高指導者のカリスマと役職の継承を行う体制は今のところ「発明」されてはいない。従って、大統領制が成立しない国々では、国家の機能を維持して政治を安定させるために、君主制を復活させたり、権力を世襲することによって実質的な君主国になったりする例が増えると私は考えているのである。
中国の最高指導者
中国では辛亥革命以来、君主制は否定されている。そして中国は、法の手続きによる最高指導者のカリスマと役職の継承ができないため、大統領制が成立しているとも言えないのである。
中国では、2002年11月5日に中国共産党の中央委員会で胡錦濤が江沢民に代わって総書記に就任した。そして2003年3月15日に、胡錦濤は全国人民代表大会で江沢民に代わって国家主席に就任した。更に胡錦濤は、2004年9月19日に中国共産党第十六期中央委員会第四回総会で、江沢民に代わり、軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席にも就任した。これによって胡錦濤は、中国共産党総書記、国家主席、そして中国共産党中央軍事委員会主席と、党、国家、軍の頂点に立つことになり、形式的には完全な中国の最高指導者となった。これによって、一般的には、平穏に中国の権力の継承が行われたと思われている。
しかし、権力の継承と言っても、法的権限だけ継承しても権力の継承とは言えないのである。国家の非常事態において国民を団結させることが可能な強力なカリスマが無ければ国家の最高指導者は務まらない。従って、法的権限と共に、国民を団結させることが可能な強力なカリスマも継承しなければ、本当の意味での権力の継承とは言えないのである。しかし、江沢民にしろ胡錦濤にしろ、かつての毛沢東やケ小平のような強力なカリスマを持っているわけではない。これでは国家の非常事態に遭遇しても、中国国民を一つに団結させて非常事態に対処するのは困難である。従って、江沢民も胡錦濤も、真の最高指導者とは言えないのである。つまり、党則や法の手続きに従って中国共産党総書記や国家主席に就任しても、それだけで胡錦濤が中国共産党や国家の最高指導者になったとは言えないのである。
更に、胡錦濤が中国軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、それだけで中国軍を掌握したとは言えないのである。法治国家ではない中国では、法律上の指導者になっても、それだけでは実質的な指導者になったとは言えないが、このことは、軍に関しても同様なのである。かつて毛沢東やケ小平は、その強力なカリスマと指導力によって軍人たちを「子分」と為し、軍を掌握していた。従って、軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、毛沢東やケ小平のような強力なカリスマと指導力が無ければ、中国軍を掌握できないのである。そして中国は、軍を制する者が国家を制する国である。従って、軍を掌握できなければ中国の最高指導者になったとは言えないのである。かつてケ小平は、実質的な中国の最高指導者ではあったが、法律上の最高指導者である首相や国家主席に就任したことは一度も無かった。そのケ小平が実質的な中国の最高指導者であった理由の一つが、軍の実権を握る実質的な最高指導者として中国に君臨していたことである。つまり、軍の実権を握ることは、中国の最高指導者になるための必要条件なのである。しかし、毛沢東やケ小平のような強力なカリスマや指導力を持たない胡錦濤に、軍の実権を握ることができるのか大いに疑問がある。従って、胡錦濤が中国の真の最高指導者になったとは考えられないのである。
1989年の天安門事件の危機や、その後の経済の停滞は、実質的な最高指導者であるケ小平の力でどうにか乗り切ることができた。しかし、もし今後、中国に真の最高指導者が存在しない状況の下で政治や経済の危機が起きたら対処することができず、その結果、中国の共産主義体制はソビエトと同様に崩壊するかもしれないのである。
更に、中国の国家体制が抱える重大な問題として、最高指導者の法的な正統性の問題がある。
国家の最高指導者の地位を安定させるためには、最高指導者の法的な正統性を確立する必要がある。最高指導者の法的な正統性を確立するとは、あらかじめ最高指導者に就任するための正統な法的手続きが決まっていて、それに従って最高指導者に就任することによって最高指導者の地位を確かなものにすることである。その典型的な例がアメリカの大統領制である。しかし、これは法の手続きによって意志決定が行われる法治国家にのみ可能であり、法の支配が確立されておらず、法の手続きとは無関係に意志決定が行われる中国では不可能である。最高指導者の法的な正統性が確立されていなければ、政治家も、官僚も、軍人も、そして国民も、誰の指導に従ってよいのか分からなくなり、政治や社会が大混乱に陥ってしまうこともある。その典型的な例が文化大革命による中国の混乱である。
中国は、古代から王制や帝政といった君主制が続いて来たが、常に政治の実権が君主にあったとは限らない。有力な臣下や外戚、そして君主の母親や后などが政治の実権を握ることもあった。そして、彼らや彼らの一族が新しい王朝を作ることも希ではなかった。このようなことが起きる原因は、中国は法治国家になれなかったため、歴代の君主が法的な正統性を確立できなかったことである。強大な権力を持っていた秦の始皇帝以降の皇帝といえども、法的な正統性など無かったのである。だから易姓革命や皇位の簒奪が絶えることが無かったのである。
中国は四千年の歴史の間、権力者が国家を統治する法的な正統性を確立できなかったため、歴代の権力者たちは、法ではなく、武断統治という、力ずくで民衆を権力者に従わせる方法で統治するしか無かった。そのため中国の民衆は、権力者の力が強大な時は、おとなしく従っているが、権力者が無力と見ると、途端に従わなくなってしまうのである。このことは、現在の中国も全く同じである。これが中国の政治や社会が不安定であることの根本的な原因である。
中国に限らず、法治国家ではない国は、指導者の法的な正統性を確立できない。多くのアジア・アフリカ諸国で政情不安が続いている最大の理由は、法治国家ではないことであり、その結果として国家の指導者の法的な正統性を確立できないことである。そして、法治国家ではない国は、中国と同様に民衆を武断統治するしか無いのである。
しかし武断統治は、民衆が国家権力を強大だと思い恐れていなければ成立しない。逆に民衆が国家権力を軟弱だと思い恐れなくなったら武断統治は破綻してしまう。この武断統治の軟弱さをさらけ出したのが、2011年に起きた「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の政変である。アラブ諸国も中国と同様に法の支配が確立されていない国家であり、武断統治が行われている。そしてチュニジアで、2010年12月に26歳の男性が警察官の不正に抗議して焼身自殺した事件をきっかけに大規模な反政府デモが起き、ベンアリ政権は動揺した。やがて2011年1月14日にベンアリ大統領が国外へ脱出したため、ベンアリ政権は崩壊した。このチュニジアの政変をきっかけに、アラブ諸国の民衆は、長期にわたり武断統治を行っている指導者に対して辞任を求める行動を一斉に起こした。エジプトでは2011年1月25日からムバラク大統領の辞任を求める暴動が始まった。そして2月11日にムバラク大統領の辞任が発表され、30年間続いたムバラク政権は崩壊した。リビアでは、2011年2月15日に東部のベンガジでカダフィ大佐の辞任を求める大規模な反政府デモが起きた。これをきっかけに反カダフィ勢力が武装蜂起したため、リビアは内戦状態になった。そして8月23日に反カダフィ勢力が首都トリポリを制圧したため、カダフィ政権は崩壊した。また、シリアやイエメンなどの国では、政府の軍や治安機関が民衆のデモ隊と衝突して多くの死傷者を出している。このように、権力者による武断統治を恐れて従っていたアラブの民衆は、チュニジアの政変によって武断統治の軟弱さを知り、一斉に立ち上がったのである。ただし、中国と同様に法の支配が確立されていないアラブ諸国は、何度政変や革命によって権力者が打倒されても、結局、最後は武断統治に戻ってしまうしか無いのである。
中国やアラブ諸国のように法の支配が確立されていない国は、政治や社会を安定させることが非常に困難なのである。中国では天安門事件以降、経済が順調に発展していることもあって、政治や社会は表面的には安定しているように見えるが、中国の政治や社会が混乱する原因は常に存在し続けているのである。従って中国は、いつ何をきっかけに、どのような政治や社会の混乱が起きるのか全く分からないのである。
近代の欧米諸国や明治維新以降の日本のような、法の支配が確立された国家では、最高指導者としての法的な正統性が無ければ、名実共に最高指導者になることはできない。最高指導者としての法的な正統性が無い者が、実質的な最高指導者や、それに匹敵するような権力を持つのは、中国やアラブ諸国、そして武家政治の時代の日本のような、法の支配が確立されていない国家にのみ起き得ることである。
第二章 戦後民主主義とは何か
近代国家の成立
日本の戦後民主主義は、欧米の民主主義とは全く異質なものである。日本は欧米人の言う民主主義国家ではないどころか、近代国家でさえないというのが私の考えである。そして、日本国憲法が制定されて以来、今日に至るまで依然として憲法改正ができないのも、日本が民主主義国家でも近代国家でもないからである。
一般的に近代国家が成立する条件とされているのは、法の支配の確立、国民の自由や基本的人権の保障、個人主義の尊重、政教分離といったものである。また、資本主義経済の確立や進歩主義といったものを近代国家が成立する条件に加える人もいる。このように近代国家が成立する条件とされているものはいくつもあるが、最も重要なのが十七世紀から十八世紀頃のヨーロッパに出現した社会契約説や啓蒙主義と呼ばれる考えである。
社会契約説とは、おおよそ次のような考えである。社会、国家、法律、制度といったものは、本来、人間の自由な意志に基づく社会契約によって成立したものであるから、既存の社会、国家、法律、制度が人間の自由や権利を犯すような不利益なものなら、これを人間の自由な意志に基づく社会契約をやり直すことによって変更することができる。
そして啓蒙主義とは、人間の理性を絶対的に信用し、人間の理性に基づいて伝統や習慣や迷信と言ったものにとらわれず合理的に国家や人間社会を見直そうという考えである。
近代国家が成立する以前のヨーロッパの社会では、多くの人間が様々な伝統や習慣、あるいは因習や迷信と言ったものによってがんじがらめに縛られていたため、合理的な社会や国家の改革など不可能であった。それが近代になり、社会契約説や啓蒙主義が社会へ浸透したことによって可能になったのである。
近代以前、特に問題であったのが政治と宗教の関係である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教は、次のような考えの上に成り立っている。この世に存在する全てのものは創造主たる神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに国家、社会、慣習、伝統といったものも神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。人間が、これらを神の許可も無く勝手に変更しようと考えるのは、神を冒涜するものである。そして一神教では、神の意志は預言者を通じて語られることになっている。預言者とは、神の言葉を民衆に伝える役割を神から託された人間である。旧約聖書に登場するモーゼ、エレミヤ、イザヤ、或いはイスラム教の創始者のムハンマドなどが主な預言者である。ただしイスラム教では、ムハンマドは最後の預言者ということになっているため、神がムハンマドを通じて語った言葉は神の最終的な意志であって、以後一切の変更は無いということになる。その、神の言葉を記した教典がコーランである。従って、イスラム教徒は永久にコーランの教えに従わなければならないのである。そのため、イスラム教徒がコーランの教えと矛盾すると見なされるような法律や制度を制定することは困難なのである。つまり、イスラム教徒の考えでは、神は近代的な改革を許可していないのである。そのため、イスラム教徒が多数を占める国の多くは、近代的な改革が停滞しているのである。こういったことは、中世ヨーロッパの社会も同様であった。
中世ヨーロッパの社会には、ローマ・カトリック教会が君臨していた。ローマ・カトリック教会の長であるローマ法王は、地上における神の代理人を称し、絶大な力を持っていた。そして、ヨーロッパ諸国の王や諸侯は、ローマ・カトリック教会の権威を恐れ服従していた。ところが1517年にマルチン・ルターによって開始された宗教改革をきっかけに、ローマ・カトリック教会の支配力は低下し始めた。マルチン・ルターは、ローマ・カトリック教会の権威を否定し、聖書のみが信仰のよりどころであると主張した。この考えを支持する人たちは、プロテスタントと呼ばれることになった。このプロテスタントの主張は、ローマ・カトリックとの間に激しい宗教対立を引き起こし、フランスのユグノー戦争やドイツを主戦場にして戦われた三十年戦争などの宗教戦争を引き起こす結果となった。これらの紛争を収拾するため、結果としてヨーロッパ諸国はプロテスタントを容認せざるを得なくなり、ローマ・カトリック教会は権威の低下を余儀なくされた。
これらの宗教改革を発端として起きた一連の出来事の結果として、プロテスタントやローマ・カトリックに、宗教がかかわるのは人間の内面に限るという考えが確立され浸透していった。これを信仰の内面化と言う。この信仰の内面化をきっかけに、信仰の自由、内面の自由、思想の自由、そして個人主義といった考えが確立され、ヨーロッパの社会は近代に向かっていったのである。
そして、十七世紀から十八世紀にかけて、ロックやルソーなどの思想家が登場し、社会契約説や啓蒙主義が成立する。こうしてヨーロッパ人は、宗教や伝統的思考とは関係なく、人間の自由な意志で国家、社会、制度、法律、習慣といったものを改革できると考えられるようになったのである。これが近代国家と呼ばれる国家の理念である。更に、社会契約説や啓蒙主義から主権在民という考えが生まれた。主権在民とは、国家体制や政府の政策は、国家の主権者である国民の自由な意志によって決定されなければならないという考えであり、民主主義国家の基本理念である。やがて社会契約説や啓蒙主義は、アメリカの独立革命やフランス革命などの市民革命を推進する理論となる。
近代以前のヨーロッパでは、何が正しく何が間違いなのかといった判断は、宗教に委ねられていたが、それを政治に関しては人間の自由な意志や理性に委ねることになったのが近代の始まりである。もし、宗教が政治に介入するようになったら、中世ヨーロッパのように、宗教が政治を支配するようになり、中世の社会に逆戻りしてしまう。そこで、近代国家を守るためには、政治と宗教が互いの領域に介入しないという原則が必要になる。これが政教分離である。
この政教分離は、近代国家や民主主義国家の成立には必要不可欠である。キリスト教やイスラム教のような一神教は、神の教えに反するという理由であらゆる変革を否定する。従って、近代国家や民主主義国家が成立するためには、一神教の影響は政治から排除されなければならない。そして、中世ヨーロッパのように一神教が政治を支配するようになってしまったら、国民ではなく神が主権者となり、近代国家も民主主義国家も崩壊してしまう。従って、一神教と政治が一体化した宗教国家が近代国家や民主主義国家になることはあり得ないのである。
一神教と政治が一体化した宗教国家の一例として、イランを見てみよう。
イランでは1979年にイスラム教シーア派の法学者であるホメイニ師の指導によってイスラム革命が起きた。イランは、この革命によって王制を廃止し、イスラム教シーア派の法学者が政治を主導する宗教国家となった。
1997年5月、イランの大統領選挙に、政治の民主化や経済の改革・開放政策を主張するハタミ師が出馬した。当初ハタミ候補は劣勢と言われていたが、変革を望む都市住民などの圧倒的な支持を得て、保守派の候補を破ってイランの大統領に当選した。そして、2000年2月には国会の総選挙が行われ、ハタミ大統領の改革路線を支持する勢力が国会の議席の約70%を獲得して圧勝した。これを受けて、ホメイニ師のイスラム革命以来、イランと敵対関係にあったアメリカ政府は、イランが民主化することに期待する意志を表明した。しかし、イランの民主化は容易なことではない。なぜなら、イランはイスラム法学者が政治を主導する宗教国家であり、欧米諸国のように政治と宗教が分離されていないため、国民が主権者ではないからである。
主権とは国家の行政権を行使する権限のことであり、行政や国家のあり方を最終的に決定する権限を持つ者が主権者である。民主主義国家の理念では国民が主権者であり、政治家は主権者たる国民から選挙で選ばれることによって、行政権を行使する権限を国民から委託されたことになっている。つまり理念の上では、民主主義国家の指導者は、主権者である国民から選挙で選ばれることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。
ところがイランのような宗教国家では、そうはいかないのである。宗教国家は、宗教の理論によって国家体制が成り立っている。イスラム教では、この世の全ては創造主たる神の意志に従って成り立っていることになっている。この考え方からすると、国家や政治も神の意志に従わなければならないことになる。そうすると、国家や政治のあり方を最終的に決定するのも神ということになる。従って、理念の上では、イランのような宗教国家の主権者は神ということになるのである。主権在民ならぬ「主権在神」である。しかし現実には、神がこの世に現れて国家や国民を指導するということはあり得ない。そこで、主権者たる神の意志を政治に反映させるためには、神の教えに基づいて作られたイスラム法に従って国家を統治しなければならないことになる。そして、イスラム法に従って国家を統治するということは、イスラム法の法学者が国家を統治するということである。これがイスラム教の宗教国家であるイランの理念である。従って、イランにおける国家・国民の指導者はイスラム法の法学者なのである。イランのイスラム法学者は、イスラム法に基づいた政治を行うことによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。そして、ホメイニ師の死後、イランの最高指導者となったのが、イスラム法学者のハメネイ師である。
ハタミ大統領は、2001年6月の大統領選挙で78%という高い得票率で再選された。しかし、ハタミ大統領は、その大統領選挙の最中、演説の中で「イスラム体制は堅持し、強化しなければならない。」と発言し、急進的な改革を否定せざるを得なかった。ハタミ大統領を始めとした改革派も、それを支持する国民も、イスラム法学者が政治を支配するイスラム体制までは否定できなかった。そのため、もし、ハタミ大統領の民主化や改革・解放政策が、ハメネイ師を始めとしたイスラム法学者たちに拒否されたら、民主化も改革・解放政策も断念するしかなかったのである。国民から選挙で選ばれた政治家が国家・国民の指導者というのは、主権在民という考えが確立された国のことであって、イランのような「主権在神」の宗教国家では、政治家がいくら選挙で国民の高い支持を得たとしても、決して国家・国民の指導者ではないのである。イラン国民がハタミ大統領の民主化や改革・解放政策を支持したのは、15%を超える高い失業率など、経済の停滞に対する国民の不満によるものである。ハタミ大統領も改革派の国会議員も、国民の不満の代弁者であっても、決して国家・国民の指導者ではなかったのである。主権在民という考えの無い宗教国家では、国民に支持され選挙で選ばれたことなど、国家・国民を指導することを正当化する根拠とは、なり得ないのである。
イランには護憲評議会という機関がある。護憲評議会はイランの国会を監督する機関であり、国会の可決した法律を差し戻したり、大統領選挙や国会議員選挙の立候補者を事前に審査したりする権限を持っている。国会の可決した法律を護憲評議会に差し戻されたら法律は成立しない。そして護憲評議会が、大統領選挙や国会議員選挙の立候補希望者を審査した結果、「イスラム体制にふさわしくない」と判断すれば、大統領選挙や国会議員選挙に立候補できないのである。しかも、この護憲評議会を構成するのは、改革に反対する保守派のイスラム法学者である。つまり護憲評議会とは、保守派のイスラム法学者が意のままにイランの政治を動かす、保守派の牙城なのである。2000年の国会議員選挙で改革派が国民の支持を得て圧勝した結果、イランの国会は改革派が主導することになった。ところが、護憲評議会の抵抗によって改革のための法律がなかなか成立せず、改革は停滞し、経済は低迷したままであった。これが、かつて熱狂的に改革を支持したイラン国民の失望を買い、改革派は国民の支持を失ってしまった。その結果、2004年2月の国会議員選挙では、護憲評議会が多くの改革派の候補を審査によって排除したこともあって、改革派は惨敗して国会内の少数派に転じてしまった。更に2005年6月の大統領選挙では、保守強硬派と言われているアフマディネジャド氏が当選し、ハタミ大統領の改革路線の継承を訴えた候補は惨敗してしまった。これによってハタミ大統領の改革路線は、完全に挫折することになってしまったのである。護憲評議会なるものが存在することが意味するのは、イランには主権在民という考えが無いということであり、国会は単なるお飾りに過ぎないということである。神の名において政治が行われる宗教国家のイランに、近代国家や民主主義国家の成立などあり得ないのである。
日本の近代的な改革
明治体制下の日本の天皇は、現人神と言われていたが、そもそも、現人神とは何なのか。
一般的に、神と言われているものには二つの種類がある。
一つは、多神教の神である。日本の神話に登場する八百万の神、古代ギリシャの神話に登場する神々、そしてインドのヒンドゥー教の神々などである。
そして、もう一つが一神教の神である。ユダヤ教徒がエホバと呼び、キリスト教徒がイエス・キリストと呼び、イスラム教徒がアッラーと呼んでいる神である。一神教の考えは、この世に存在する全てのものは、創造主たる神の意志によって作られ、更に、人間も人間社会も創造主たる神の意志によって作られ支配されているということである。そして全ての人間は、創造主たる神が定めた規範に従って生きなければならないことになっている。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教も、この理論の上に成り立っている。
規範とは、人間が社会で生きる上で最低限度守らなければならない原則であり、善悪の基準である。これが失われると多くの人間は、何が正しく何が間違いであるか判断できない無規範状態に陥り、社会が混乱してしまう。一神教の理論では、規範を作る権限は、創造主たる神のみにあり、人間には作る権限が無い。そして規範の多くは宗教の教典という形で存在している。キリスト教のバイブルやイスラム教のコーランといった物である。モーゼの十戒で知られるモーゼにしろ、イスラム教の創始者のムハンマドにしろ、神の作った規範を民衆に伝えるだけの預言者であって、彼ら自身が規範を作ったわけではない。そして、規範を記した教典は、神のみが書き換えることができる。従って、教典に書かれている内容が、人間にとっていかに不都合なものであっても、いかに不合理なものであっても、決して人間が神の許可もなく勝手に書き換えることはできないのである。従って、教典の内容の変更は事実上不可能なのである。人間の意志による教典の内容の変更など、考えること自体が神を冒涜する行為なのである。要するに、一神教の神とは、この世に存在する全てのものを作った創造主であると同時に、規範を作る権限を持った神のことである。
日本は、古代より八百万の神の神話が存在する多神教の国である。更に、日本には奈良時代の頃から神仏習合の慣習があり、一つの神や宗教を絶対的に信仰するという伝統は無い。従って、日本は一神教の国ではない。しかし、明治体制下の天皇には一神教の神との共通点もあったのである。それはキリストやアッラーと同様に、規範を作る権限を持っていたということである。つまり現人神とは、政治的な権限と同時に、規範を作るという宗教的な権限も兼ね備えた国家の最高指導者のことである。
明治体制下の日本で、現人神たる天皇によって作られた規範を記した経典が、軍人勅諭(正式には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)と教育勅語(正式には「教育ニ関スル勅語」)である。
1878年(明治11年)、明治政府と軍の実力者である山県有朋は、軍の統制を計る目的で、自らの名で軍人訓誡という文書を軍人の規範となるべきものとして発布したが、軍人たちは、なかなかこれを受け入れようとはしなかった。なぜなら、山県有朋にいくら政治的な実力があっても、所詮は一人の人間であり、人間に規範を作る権限など無いからである。そこで1882年(明治15年)、新たに明治天皇の名で軍人勅諭が、軍人の守るべき規範として発布された。軍人勅諭は、前文で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と述べ、天皇が軍の最高司令官であること示し、本文では軍人の守るべき徳目として、忠節、礼儀、武勇、信義、質素を説いている。そして帝国陸海軍の将兵は軍人勅諭を覚えることが求められ、特に陸軍では全ての将兵が軍人勅諭の全文を暗誦できることが求められていた。軍人勅諭の背景には現人神たる天皇の強大な権威があったため、軍人たちは軍人の守るべき規範として受け入れざるを得なかったのである。こうして軍人勅諭は日本の軍人の神聖な経典となったのである。
教育勅語は、国民としての一般的な道徳観を、天皇が国民に呼びかける形で記した教育の規範である。教育勅語は、1890年(明治23年)に発布された後、文部省令などによって学校で式典が行われる時に朗読されることになった。その後、教育勅語は神聖なものとされるようになり、ほとんどの学校で奉安殿や奉安庫と呼ばれる施設で神聖な経典として保管されていた。
ただし、教育勅語が明治体制下の日本の学校教育にとって重要であったのは、教育勅語に記されている内容よりも、「勅語」という語句が示すように、教育勅語が現人神たる天皇の言葉であるという点にある。明治体制下の日本における教師の立場は、教育勅語に記された現人神たる天皇の言葉を、天皇に代わって生徒に教えるというものであった。つまり、明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人なのである。従って、明治体制下の日本の生徒にとって、教師の言葉は現人神たる天皇の言葉であり、教師に逆らうのは現人神たる天皇に逆らうのと同じことであった。明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人という特別な立場にあったからこそ、生徒から恐れ敬われ、教育者が務まったのである。こういうことを教師に権威があると言うのである。このように、明治体制下の教師の権威は、現人神たる天皇の権威の上に成り立っていたのである。ところが、この現人神たる天皇の権威と教育勅語によって教師に権威を与える仕組みは、太平洋戦争の敗戦と共に失われてしまった。そして戦後体制下の日本の学校教育は、教師に権威を与える仕組みが失われたままで現在に至っているのである。つまり、戦後体制下の日本の教師は、明治体制下の教師のような権威を失い、普通のおじさんやおばさんになってしまったのである。これが戦後体制下の日本の教師が生徒から恐れ敬われることがなくなってしまった理由である。こういうことを教師の権威が失われたと言うのである。そして戦後体制下の日本では、教師の権威が失われたことが、学級崩壊などの学校教育上の様々な問題を引き起こしているのである。
明治体制下の日本では、公然と軍人勅諭や教育勅語の内容を批判したり、内容の変更を主張したりすることはできなかった。それは、現人神たる天皇の名において発布された軍人勅諭や教育勅語の内容を批判するのは、現人神たる天皇を冒涜する行為であったからである。こうして軍人勅諭と教育勅語は、明治体制下の日本の社会で、現人神たる天皇によって作られた経典として国民から神聖視される存在となったのである。このように明治体制下の天皇は、一神教の神と同様に、自らの名において軍人勅諭や教育勅語のような規範を作る権限を持っていたのである。
明治体制下の日本は、天皇を神とする宗教によって国民が守るべき規範が定められていた天皇教国家であった。このように明治体制下の天皇は、国家の最高指導者としての政治的な権限に加えて、宗教的な権限も兼ね備えていたのである。しかし、このような政治的な権限と宗教的な権限が一体化した国家体制を持つ国家は一種の宗教国家であり、近代国家とは言えない。
日本は明治維新以来、欧米から近代的な制度や技術を学び、導入して来た。その結果として富国強兵政策に成功し、日清戦争ではアジア最大の清帝国を打ち破り、日露戦争では、帝国主義の大国であるロシア帝国を打ち破った。また、戦艦大和や零戦といった兵器は、当時としては世界の一流品であった。こうして見ると、あたかも日本が近代化に成功したように見える。しかし、日本は決して近代国家になったわけではない。日本が近代的な改革に成功したと言っても、それはあくまで技術や制度といったものに限られ、日本人の思考や国家のあり方までが近代的になったわけではない。
では、一体なぜ、近代国家ではない日本が近代的な改革に成功したのか。確かに日本は明治維新以来、様々な近代的な改革を行って来たが、それは欧米諸国のような社会契約説や啓蒙主義に基づく近代的な改革ではない。明治政府の改革は、現人神たる天皇の命令による近代的な改革である。イスラム国家や中世のヨーロッパ諸国に近代的な改革が困難なのは、神がそれを許可しないからであるのに対して、明治維新以降の日本で近代的な改革が可能であったのは、現人神たる天皇が近代的な改革を許可したからである。天皇という神が許可する限り、どんな大胆な改革も神を冒涜することにはならない。それどころか日本人にとっては、現人神たる天皇が推進する近代的な改革に反対することこそ、神を冒涜する行為なのである。この現人神たる天皇の力によって日本人の意識が変化したことが、明治維新という大改革を推進する原動力となったのである。
「大正デモクラシー」とは何であったか
かつて、明治体制下の日本には、「大正デモクラシー」と呼ばれた時代があった。
1918年(大正7年)に長州藩閥出身の寺内正毅総理大臣の内閣が米騒動の責任をとって辞任すると、後任の内閣総理大臣に就任したのが議会政治家であり政友会総裁である原敬であった。これをきっかけに政友会の高橋是清、そして憲政会の加藤高明や若槻礼次郎といった議会政治家による政党内閣が成立し、議会政治が行われた。そして加藤高明の護憲三派内閣は、男子の普通選挙制を成立させるといった成果を一応残した。そして、この時期には労働運動や社会主義運動も盛んになり、1919年(大正8年)には労働組合の全国組織である大日本労働総同盟友愛会が成立し、翌年の1920年(大正9年)には日本初のメーデーが行われた。また、吉野作造は民本主義を唱え、知識人や学生などに大きな影響を与えた。
このように、この時期の日本の政治や社会の状況を見ると、あたかも日本が西欧的な民主主義国家に近づいていたように見える。しかし、議会政治は、疑獄事件や経済政策の失敗などもあって、国民の全面的な支持を得られなかった。そして、五・一五事件で犬養毅総理大臣が暗殺されたのをきっかけに議会政治は終わってしまった。
明治体制下の日本で議会政治が定着しなかった根本的な理由は、何と言っても主権在民という考えが存在せず、現人神たる天皇だけが主権者だと考えられていたからである。吉野作造の民本主義も、そして社会主義運動も労働運動も、結局、現人神たる天皇だけが主権者であり最高指導者であるという日本国民の考えを変えることができなかったのである。「デモクラシー」の理念の上では、議会政治の指導者は、主権者である国民から支持され選挙で選ばれることによって国家・国民の指導者としての地位を正当化していることになっている。つまり理念の上では、議会政治の指導者は、主権者たる国民の代表ということになる。ところが主権在民という考えが無い国の場合、選挙で選ばれた議会政治家といえども、必ずしも国民の代表とは言えないのである。
明治体制下の日本に主権在民という考えも「デモクラシー」も存在しなかったことを示すよい例が、田中義一総理大臣が辞任した経緯である。
1927年(昭和2年)4月、若槻礼次郎総理大臣の退陣の後、衆議院第二党である政友会の田中義一総裁が内閣総理大臣に就任した。そして1928年(昭和3年)2月に衆議院議員の総選挙が行われた結果、田中義一総理大臣の与党の政友会は、衆議院第一党となった。
1928年(昭和3年)6月、中国北方の満州を拠点とする軍閥の指導者である張作霖が、乗っていた列車ごと爆破されて死亡するという事件が起きた。やがて河本大作関東軍高級参謀らが、この事件の首謀者とされた。しかし、陸軍と与党の政友会の幹部が、事件の真相究明にも、事件の首謀者とされた河本大作らの処分にも反対したため、田中総理大臣は河本大作に対する処分を停職という軽いものにとどめてしまった。この田中総理大臣の事件に対する処置に対して、昭和天皇は田中総理大臣を厳しく叱責し、辞任を迫った。その結果、進退きわまった田中総理大臣は辞任する羽目になってしまったのである。
もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、明治体制下の日本は、イギリス型の立憲君主制国家であったことになる。そしてイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在である。更に「デモクラシー」が存在する国家の理念では、主権は国民にあり、議会は主権者たる国民の代表である。田中義一が衆議院第一党の政友会の総裁であるということは、「デモクラシー」の理念からすれば、主権者たる国民が選挙によって田中義一を国民の代表に選んだということであり、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持ということになる。ところが、田中総理大臣は、昭和天皇に叱責され辞任を迫られたことによって、昭和天皇の支持を失ったことが明らかになり、その結果、辞任を余儀なくされてしまったのである。もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持なのだから、天皇にいくら辞任を迫られたところで辞任する必要など無いはずである。そもそも「デモクラシー」の存在するイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在なのだから、天皇は内閣総理大臣の決定に対して意見を言ったり辞任を迫ったりする立場には無いのである。田中総理大臣が昭和天皇から辞任を迫られた結果、辞任せざるを得なくなったのは、明治体制下の日本の政党内閣を支えていたのは国民や議会の支持ではなく、天皇の支持であったことを意味するのである。従って、原敬から犬養毅に至るまで、議会政治家出身の内閣総理大臣といえども、天皇に支持され内閣総理大臣に任命されることによって国家・国民を指導する立場を正当化していたのである。要するに、明治体制下の政党内閣は、国民や議会の代表ではなく、天皇の政界における代理人であったということである。つまり、国民に支持され選挙で選ばれた政友会や民政党といった議会政党の代表者といえども、内閣総理大臣や閣僚に就任した途端に、主権者たる天皇の代理人になってしまうのである。これが「大正デモクラシー」なるものの実体であった。明治体制下の日本の議会政治は、「デモクラシー」の化けの皮をかぶった似非デモクラシーに過ぎなかったのである。
明治体制下の「デモクラシー」の化けの皮が剥がされたのが、統帥権干犯問題である。
1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて開かれたワシントン会議の中で海軍軍縮条約が調印された。これによって各国の主力艦を制限することになったが、補助艦については制限が無かったため、各国は争って補助艦の建造を行うようになった。そこで補助艦の建造を制限するため、1930年(昭和5年)1月21日からロンドン軍縮会議が開かれた。日本の浜口内閣は、このロンドン軍縮会議に若槻礼次郎を全権代表とする代表団を送った。そして4月22日に調印された軍縮条約によって、日本は補助艦の量を対アメリカ比で69.75%に制限されることが決定した。浜口雄幸総理大臣は、国際協調と財政の逼迫を理由に、これを受け入れることを主張した。
ところが海軍や野党勢力などが、これに猛反対した。海軍は、大型巡洋艦で最低でも対アメリカ比70%は無ければ国防上安心できないと主張した。そして、議会内の野党勢力では、1930年(昭和5年)4月25日に政友会の鳩山一郎が「政府が海軍軍令部の国防計画を無視して軍縮条約を結んだのは、天皇の統帥権を干犯するものである。」と発言し、浜口内閣を攻撃した。これをきっかけに統帥権干犯論争が起きる。そして6月には、統帥権干犯を批判して加藤寛治海軍軍令部長が辞意を表明する。そして浜口総理大臣は、11月14日、統帥権干犯反対を唱える右翼結社の青年によって狙撃されて重傷を負ってしまう。
「デモクラシー」の理念は、国民の自由な意志による政治の運営である。従って、明治体制下の日本に「デモクラシー」を実現させようと言うのなら、天皇や官僚、あるいは軍人といった、国民の意志では動かし難い者の政治的権限は、なるべく制限し、国民の代表である議会政党の代表者によって構成されている政党内閣が政治の実権を掌握しなければならない。特に、最高指導者として強大な権限を持つ天皇は、可能な限り無力化しなければならない。ところが、海軍や政友会の鳩山一郎などの議会政治家は、天皇の強大な権限の一つである統帥権を口実にして政党内閣の権限を制限しようとしたのである。これが統帥権干犯問題なのである。これは明らかに「デモクラシー」に逆行する行為である。統帥権干犯問題なるものが明治体制下の日本で起きた根本的な原因は、日本の社会には主権在民という考えが定着していなかったことである。主権在民という考えが定着している国では、政党内閣は国民の代表である。従って、政党内閣をないがしろにするのは、国民の主権を踏みにじる行為であり、国民の怒りを招くことになる。しかし、明治体制下の日本のように主権在民という考えが定着していない国では、いくら政党内閣が軍部などにないがしろにされても、国民は一向に平気なのである。なぜなら主権在民という考えが無い国では、いくら公正な選挙を行ったとしても、選ばれた政治家は必ずしも国家・国民の代表ではないからである。明治体制下の日本人や議会政治家に主権在民という考えがあったなら、国民の代表であるはずの政党内閣の力が、軍の統帥権に及ばないなどという考えが出て来るはずが無いし、出て来ても誰も支持しないはずである。つまり、統帥権干犯問題が意味するのは、明治体制下の日本人の多数が、主権在民という考えを支持していなかったどころか、理解もしていなかったということである。
勿論、陸海軍の統帥権が天皇にあることは、大日本帝国憲法に明確に記されている。しかし、「デモクラシー」の考えからすれば、陸海軍の統帥権が天皇にあることが憲法に記されているという理由で政党内閣や議会が国防計画に対して一切の口出しができないと言うのであれば、憲法を改正するしかなかったことになる。そもそも「デモクラシー」とは、近代国家の理論である社会契約説の考えを前提にして成り立つ国家体制である。社会契約説の考えからすれば、憲法といえども、人間の自由な意志によって作られた法律の一つに過ぎないのである。従って、日本が近代国家なら、大日本帝国憲法の改正は可能であったはずである。ところが実際は、明治体制下の日本では天皇以外の者が憲法改正を口にしてはならないとされていたため、憲法改正は事実上不可能であった。大日本帝国憲法の改正が不可能であったということは、すなわち、明治体制下の日本は、「デモクラシー」が存在しなかったどころか、近代国家でさえなかったということを示しているのである。国民と議会が、国民の権利と利益のために自由に憲法改正ができないようでは「デモクラシー」とは言えないのである。
統帥権干犯問題や1931年(昭和6年)9月に始まった満州事変などをきっかけに軍部の発言力が増大し、やがて議会に代わって政治の主導権を握るようになり、国民もそれを許してしまった。一体いかなる理由で日本国民は、軍部が政治の主導権を握ることを許してしまったのか。
主権在民という考えが確立された国では、国民の代表とは、主権者である国民によって選挙で選ばれた議会政治家や最高指導者のことを言う。ところが主権在民という考えが存在しない明治体制下の日本では、選挙で選ばれた議会政治家といえども、必ずしも国民の代表とは言えないのである。つまり明治体制下の日本人にとって、国民の代表であるかないかは、選挙で選ばれた政治家であるかないかとは関係が無いのである。すなわち、明治体制下の日本人にとっての国民の代表とは、国民の利益になる政治を行ってくれる者のことである。つまり、国民の利益になる政治さえ行ってくれるのなら、国民の代表が議会政治家であろうと官僚であろうと軍人であろうと薩長藩閥であろうと一向にかまわないのである。要するに、明治体制下の日本人にとっては、選挙で選ばれた議会政治家といえども、官僚や軍人や藩閥と並ぶ、国民の代表候補の一つに過ぎなかったのである。
「大正デモクラシー」の頃、議会政党は国民の支持を得て発言力が大きくなり、政治の主導権を握った。ところが昭和になると状況が変わってしまう。1929年(昭和4年)のアメリカに始まる世界大恐慌は、当時の日本経済にも大打撃を与え、昭和恐慌と呼ばれる経済不況を引き起こして国民生活を苦しめていた。この経済不況に対して、政党内閣である浜口内閣は経済政策に失敗したため、国民の議会政治に対する不信感が増大していった。これに加えて、度重なる政治家のスキャンダルや汚職事件の発覚が、国民の議会政治に対する不信感を更に増大させていった。これに対して軍部は、日清・日露の両戦争において日本に勝利をもたらし、しかも昭和の時代に入ると無能で無責任な議会政治家を尻目に、満州事変などの国家・国民のための「積極的な」行動を行っていると国民から思われるようになった。そのため、当時の国民は、議会政党ではなく軍部こそ国民の代表としてふさわしいと考えるようになったのである。その結果、国民は軍部の台頭を許してしまったのである。
つまり、「大正デモクラシー」の頃、国民が議会政治を支持したのは、あくまで、国民の生活を守ってくれるなら支持する、あるいは、国民の利益になる政治を行ってくれるなら支持するといったような条件付きの支持なのである。ところが昭和になると国民は、議会政党はスキャンダルや汚職事件を起こすばかりで、経済不況に苦しむ国民のことなど少しも考えていないと思うようになってしまった。つまり国民は、議会政治を支持する条件が満たされなくなったと思うようになったのである。その結果、議会政治は国民の支持を失い、見放されてしまったのである。つまり、主権在民という考えが定着していない明治体制下の日本では、議会政治家や民政党・政友会といった政党が支持を失っただけではなく、「デモクラシー」の理論からすれば、主権者たる国民の代表によって行われているはずの議会政治そのものまでが国民の支持を失ってしまったのである。
主権在民という考えからすれば、国民は、選挙で選ばれた政治家や政党が、どんなに無能であっても、いくらスキャンダルや汚職事件を起こしても、選挙で選ばれた以上は国民の代表だと考えなければならない。そして、国民の目から見て、いかに有能で清潔に見えても、選挙で選ばれてはいない軍人や官僚に国民を代表する資格は無いと考えなければならない。更に、国民が政治家の無能や腐敗が気に入らないのなら、次の選挙で政治家を落選させたり、政党の議席数を減らしたりするしかない。つまり、主権在民という考えからすれば、国民は、特定の政治家や政党を支持しなくなることはあっても、議会政治そのものは無条件で絶対の支持をしなければならないのである。明治体制下の日本の議会政治のような、条件付きで支持された議会政治は、政治状況によっては国民の支持を失い、議会政治家以外の何者かに政治の主導権を奪われかねない不安定な議会政治なのである。つまり、国民の議会政治に対する無条件で絶対の支持が無ければ、議会政治も「デモクラシー」も成り立たないのである。
「デモクラシー」が存在する国では、政治の中心は、あくまで選挙で選ばれた議会政治家や最高指導者であり、軍人や官僚が政治を主導することなど、あり得ないのである。これに対して明治体制下の日本では、政治の中心は現人神にして最高指導者である天皇であり、天皇を補佐する政治勢力が、薩長藩閥から議会、そして軍部へと入れ替わったのである。だから、明治体制下の日本には「デモクラシー」など存在しなかったと断言できるのである。
マッカーサーの占領政策
一般的には、太平洋戦争に敗れた軍国主義国家の日本は、マッカーサーによる改革の結果、民主主義国家として生まれ変わったということになっている。しかし私は、この点について大いに疑問を持っているのである。私に言わせれば、戦後体制下の日本も明治体制下の日本と同様に主権在民という考えは存在せず、民主主義国家ではないのである。一体、マッカーサーが作った戦後民主主義とは何なのか。そして、そもそも日本人にとってマッカーサーとは何者であったのか。考えてみる必要がある。
1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送によって、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏する決断をしたことが明らかになった。そして8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、コーンパイプをくわえて厚木基地に降り立った。9月2日に日本政府の代表者たちは、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に署名する。ここに太平洋戦争は、日本の降伏によって停戦が成立した。そして、マッカーサーとGHQ(連合国最高司令官総司令部)による日本の占領統治が始まった。
1945年(昭和20年)10月11日、マッカーサーは、婦人の解放、労働組合の保証、教育の自由化、圧制的な制度の廃止、経済の民主化といったことを名目とした、いわゆる五大改革指令を出し、日本の政治・社会の改革に着手した。そして財閥解体、旧帝国陸海軍の廃止、政治犯の釈放、戦争責任者の逮捕、神道指令などを次々に実行した。
翌年の1946(昭和21年)年2月になると、戦争にかかわった者に対する公職追放が行われ、5月からは、A級戦犯容疑者とされた者に対する極東国際軍事裁判が始まった。更に11月3日には日本国憲法が公布される。1946年(昭和21年)2月から第一次農地改革、1947年(昭和22年)3月から1950年(昭和25年)7月にかけて第二次農地改革が行われ、日本のほとんどの小作人が自作農になった。このようにマッカーサーは、矢継ぎ早に改革を押し進めていった。
しかし、不思議なのは、このようなマッカーサーによる急速な改革に対して、ほとんど反対の声が挙がらなかったことである。公職追放による弾圧を受けている指導者層は別にして、一般国民やジャーナリズムから何の反対の声も起きなかったのは実に不思議である。なぜなら、このような急速な改革に対しては、批判や不満の声が挙がるのが普通だからである。明治維新の時は、明治政府の急進的な改革に対する不満から、佐賀の乱、神風連の乱、そして西南戦争といった反乱が起きた。戦後体制下でも、中曽根内閣による行政改革に対して様々な「各論反対」の抵抗があり、小泉内閣の構造改革に対しても「抵抗勢力」による抵抗が起きた。ところがどういうわけか、マッカーサーの急進的な改革に対しては、不満の声も抵抗も起きなかったのである。
更に不思議なことがある。マッカーサーは「民主的な」改革を押し進める一方で、1945年(昭和20年)9月19日には「日本に与える新聞紙規定」いわゆるプレス・コードを示し、占領軍に対する批判を制限し、更に22日にはラジオ・コードも出された。そして10月からは、あらゆる出版物に対する検閲を始めた。これは明確な言論統制であり、民主化に反するものである。マッカーサーの改革が日本を民主化するための改革だとしたら、明らかに矛盾である。ところが、これに対して日本のジャーナリズムは何の抵抗も反対もしていないのである。
それどころか、多くの日本国民やジャーナリズムが、マッカーサーのことを日本に民主主義をもたらした解放者だの恩人だのと手放しで賛美したのである。そして国会は、1951年(昭和26年)4月16日に「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行う。そしてマッカーサーがトルーマン大統領に解任され帰国する時には、二十万人もの日本人が見送った。
日本人がマッカーサーの改革や政策に反対しなかったのは、マッカーサーの改革や政策が理想的なものであったからだと言う人たちが居る。しかし、マッカーサーの改革や政策をよく検討してみると、農地改革のように、ある程度成功したものもあったが、その一方で、失策や中途半端な結果に終わっているものも多いのである。
軍国主義の廃止・非軍事化の名の下に、マッカーサーは旧帝国陸海軍を廃止し、戦争放棄を定めた日本国憲法を制定した。ところが1948年(昭和23年)にソビエトによって始められたベルリン封鎖や、1949年(昭和24年)10月に中国に共産党政権が成立したことなどによる共産主義の脅威の増大を受けて、マッカーサーは1950年(昭和25年)1月1日の年頭の辞で、「日本国憲法は自衛権を否定していない。」と発言するに至る。やがて朝鮮戦争が勃発すると、韓国を助けるため、日本に駐留しているアメリカ軍を朝鮮半島へ出動させざるを得なくなり、その結果、日本の防衛に生じた空白を埋めるため、マッカーサーは1950年(昭和25年)7月に日本政府に対して警察予備隊を創設する命令を出さざるを得なくなった。こうして、一度日本の軍事力を廃止したマッカーサーが、自らの手で日本の再軍備を行う羽目になったのである。
マッカーサーは、政治犯を釈放すると言って1945年(昭和20年)10月に獄中の日本共産党員を釈放した。これによって共産党は合法的に活動できるようになった。釈放された共産党員は、マッカーサーを解放者と称えた。しかし、日本国内の労働運動における共産党の活動が活発になると、労働運動が激化してしまった。更に、1948年(昭和23年)に始まったベルリン封鎖により米ソの冷戦が激しさを増し、1949年(昭和24年)に中国で共産主義政権が成立すると、共産主義勢力の拡大に対する脅威が増大した。するとマッカーサーは、一転して共産党と、その支持者に対する弾圧を開始したのである。1950年(昭和25年)6月6日には、日本共産党中央委員会全員と機関紙「アカハタ」幹部の追放、そして共産党による集会やデモを禁止する指令が出された。更に、6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、新聞などのジャーナリズムや民間企業の労働者の共産党支持者に対する追放を始めた。そして、9月1日からは、行政機関や公共事業の労働者に対しても同様のことを始めた。これに対して、共産党も労働組合も、何の抵抗もできなかった。
労働組合運動を育てる目的で、1945年(昭和20年)12月にマッカーサーの指示で労働組合法が制定され、1946年(昭和21年)から施行された。マッカーサーは、日本に民主主義を定着させるためには、労働運動を確立することが必要だと考え、労働組合運動の拡大を容認していた。その結果、様々な職場で労働組合が結成された。ところが、労働組合運動は、マッカーサーの予想を越えて過激化していった。多くの職場で賃上げを要求してストライキが頻発し、経済と国民生活に打撃を与えるようになってしまった。しかも、労働組合には、日本共産党の影響を強く受けているものが多かった。1946年(昭和21年)11月、官公庁の労働組合が、全官公庁労組共同闘争委員会(全官公庁共闘)を結成した。全官公庁共闘は、吉田茂総理大臣が労働運動を行っている労働者のことを「不逞の輩」と呼んだことに反発して、1947年(昭和22年)2月1日からのゼネストの決行を目指して行動を始めた。そして1月29日、全官公庁共闘は共産党の指導によって、「吉田内閣打倒・民主人民政府樹立」の声明を出した。共産党も全官公庁共闘も、マッカーサーを解放者と考え、ゼネストを支持すると考えていたのである。しかし、1月31日にマッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない。」と述べ、ゼネストに対する中止命令を出さざるを得なくなった。その結果、共産党も全官公庁共闘も、ゼネストを中止せざるを得なくなり、全官公庁共闘は解散した。共産党や労働組合にとって、マッカーサーは決して解放者などではなかったのである。
マッカーサーとGHQは、三井・三菱を始めとした財閥による独占的な経済支配が日本の軍国主義を招いたと考え、財閥解体を行った。財閥解体によって、財閥の創業者の一族と、その持株会社による財閥系企業の支配は解体され、財閥系企業は独立させられた。そして、1947年(昭和22年)4月に財閥の復活を阻止するため、独占禁止法を成立させた。更に、マッカーサーとGHQは、財閥系以外の大企業も解体しようとして、1947年(昭和22年)12月に過度経済力集中排除法を成立させた。ところが1948年(昭和23年)になって米ソの冷戦が激化し始めたため、アメリカ政府がマッカーサーとGHQに対して、日本を「反共の防壁」とするために、占領政策を、日本の産業を復興させる方向に変えるように迫った結果、過度経済力集中排除法に基づいて解体する大企業の数を大幅に減らさざるを得なくなった。また、もともと財閥解体には、アメリカ本国の財界や政界から反対の声があった。更に、独占禁止法も1949年(昭和24年)以降、企業による独占に対する規制を緩める方向に徐々に改正されていった。これらの理由によって、財閥や大企業の解体は不徹底なものになってしまった。その結果、やがて高度経済成長期になると、財閥は企業系列という形で復活するのである。
このように、マッカーサーの改革や政策は一貫性を欠き、とても理想的と言えるようなものではなかったのである。
マッカーサーと日本国憲法
一体、日本人にとってマッカーサーとは、いかなる存在なのか。この疑問は、日本の憲法について考えてみれば理解できるのである。
日本人の憲法に対する意識や考え方は異常である。日本人の憲法に関する議論は、神学論争などと言われている。憲法は国家の基本法ではあるが、法律の一種であることには変わりが無い。憲法が法律ならば、法律としての議論をすべきである。すなわち、国家・国民の利益のためにはどのような政策を行うべきか。そして、その政策を実行するためには憲法を含めた法制度は今のままでよいのか。よくないとしたらどのような内容に改正すべきなのか。ざっとこのような議論が行われて然るべきである。ところが日本人の政策論争は、憲法にぶつかると途端に奇妙なものになってしまう。政策が憲法に抵触しそうになると、これは憲法上不可能だとか言って思考が停止してしまうのである。
日本国憲法は、1947年(昭和22年)5月3日に施行されて以来、一度も改正されたことが無かった。そして、護憲論者と呼ばれる人たちは、憲法改正について公の場で議論することをタブー視したがる。日本国憲法の施行以来、自由な言論の府であるはずの国会で、憲法改正の議論をすることが長い間できなかった。2000年(平成12年)1月に、国会内に憲法についての議論をするための憲法調査会が設置されたが、これを作ろうとした時も、一部の野党から「憲法改正の恐れがある。」などと言われて危険視された。一体どうして憲法改正を「恐れ」なければいけないのか。日本人の憲法に対する考え方は、なんとも奇妙なものであると言わざるを得ない。
日本人の憲法に対する態度は、どう考えても普通の国とは違う。世界中どこの国でも憲法改正は通常の法律の改正と同様に議論され、何度も憲法改正が行われている。これはアメリカやドイツのような法治国家は勿論のこと、旧ソビエトや中国のような法の支配が確立されていない国家さえ同じことである。
日本で憲法改正ができないのは、日本国憲法の改正条項が原因だと言っている人たちがいる。衆参両院の三分の二の決議と国民投票の過半数の支持がなければ改正できないというのでは、憲法改正は事実上不可能だと言うのである。しかし現実は、日本国憲法が施行されて以来、日本の国会では、憲法改正の決議どころか議論さえ行われたことが無いのである。大臣が憲法改正に関する発言をしただけで政治問題になるようなこともあった。このような状況では、たとえ日本国憲法が通常の法律と同じ手続きで改正できるものであっても改正は不可能である。世界には、日本と同様に憲法改正に高い障壁を設けている国はいくつもあるが、そういった国々でも憲法改正は何度も行われているのが現実である。従って、日本国憲法の改正条項が、憲法改正ができない原因だとは全く考えられないのである。
このように、日本人の憲法の扱い方は、世界の国々とは全く違うのである。この日本人の特異な憲法に対する態度の原因は何なのか。そもそも、マッカーサーによる日本国憲法の制定以来、どうして今まで憲法改正ができなかったのか。この点について考えてみたい。
最初の日本の憲法である大日本帝国憲法は、伊藤博文や井上毅らがドイツの憲法を参考に草案を作り、1889年(明治22年)2月に明治天皇の名で発布された。大日本帝国憲法は、施行されてから太平洋戦争に敗れた1945年(昭和20年)までの間、一度も改正されたことが無かった。しかし、改正されたことが無かったと言っても、大日本帝国憲法を運営する上で何の問題も無かったため、改正の必要が無かったということではない。
明治体制下の日本では、統帥権干犯問題が起きてから、軍部は憲法に定められた天皇の統帥権を盾にとり、内閣や議会が軍の行動に対して介入することを拒否するようになった。これが当時の日本の議会が政治の主導権を失った一因であることは言うまでも無い。しかし、これに対して誰一人として、天皇の統帥権を定めた憲法の条項を改正しようとは考えなかった。一部の学者や研究者の中には、明治体制下の日本で統帥権干犯問題が起きたのは、大日本帝国憲法に欠陥があったからだという意見がある。その欠陥とは、大日本帝国憲法は、軍に関しては「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明確に記しているのに、内閣総理大臣と、その権限に関しては何も記していないことだと言うのである。しかし、仮に大日本帝国憲法に欠陥があり、それが原因で統帥権干犯問題が起きたのだとしても、憲法に欠陥があったこと自体が問題であったと考えるべきではない。なぜなら、憲法に何らかの欠陥があったなら、改正すればよかったからである。つまり、仮に憲法に欠陥があったとしても、欠陥のある個所を改正できなかったことこそ問題にすべきなのである。なぜなら、憲法を含めた、あらゆる法律や制度は、政治や社会の情勢の変化にともない実状に合わないものになってしまうのは、やむを得ないからである。いかに先見の明がある人間や天才でも、五十年も百年もの将来を予測し、いかなる事態が生じても適切に対処できる法律や制度を作ることなど不可能なことである。従って、憲法を含めた、いかなる法律や制度も、時代や社会の変化と共に常に見直しを続け、問題が生じたら、その度に作り替えていくしかないのである。法律や制度とは、こういうものである。
また、憲法学者の美濃部達吉は、いわゆる天皇機関説を唱え、憲法解釈によって議会政治を正当化した。美濃部達吉は、大日本帝国憲法に記された天皇の統治権に関する記述を「統治権は法人たる国家に属し、天皇は法人たる国家の最高機関として、内閣などの機関から輔弼を受けながら国家人民のために統治権を行使する。」と解釈した。この美濃部達吉の憲法解釈は、「大正デモクラシー」の時期には学界や官界での憲法解釈の主流となり、議会政治を理論的に支えていた。しかし、1934年(昭和9年)に天皇機関説は、これに反対する政治家や軍人によって排撃され、翌年の1935年(昭和10年)に、美濃部達吉は不敬罪で告訴され、貴族院議員を辞職させられてしまった。そして、時の岡田内閣は国体明徴声明を出し、統治権は天皇にあることを明確にして美濃部達吉の憲法解釈を否定した。しかし、一体なぜ、美濃部達吉を始めとした当時の憲法学者たちは、憲法解釈ではなく、憲法改正による議会政治の正当化を考えようとしなかったのか。
明治体制下の日本で大日本帝国憲法が改正されなかった直接の理由は、多くの日本人が、憲法改正は天皇だけの権限であって、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはいけないと考えていたからである。しかし、いかなる理由であろうと、憲法改正を否定するような考えは近代国家の否定である。
近代国家の原点である社会契約説によれば、国家は人間の自由な意志に基づく契約によって成立したものだということになっている。従って、国家は人間の自由な意志による契約をやり直すことによって変更できるということになる。ところが明治体制下の日本人には、このような考えは全く理解できなかったのである。明治体制下の日本人の考えによれば、国家は現人神たる天皇によって作られた神聖不可侵なものであり、これを国民の意志によって作り変えることは、現人神たる天皇を冒涜する行為であり、断じて許されないということになるのである。本来、憲法は国家のあり方を定めた基本法である。ところが、明治体制下の日本人の考えでは、国家のあり方は現人神たる天皇によって決定された神聖不可侵なものであるため、国家のあり方を定めた大日本帝国憲法は、現人神たる天皇が作った神聖不可侵な教典ということになってしまったのである。要するに明治体制下の日本人は、大日本帝国憲法を一神教の教典と同じ感覚で理解していたのである。つまり、天皇がキリストやアッラーと同じく規範を作る権限を持った神であって、大日本帝国憲法がバイブルやコーランのような教典であったということである。こうして大日本帝国憲法は、軍人勅諭や教育勅語と同じく、神聖不可侵な天皇教の教典になってしまったのである。
宗教の教典に書かれた内容を変更できるのは規範を作る権限を持った神のみである。そのため、明治体制下の日本で神聖な教典と化した大日本帝国憲法を改正する権限を持つのは、現人神たる天皇のみということになってしまったのである。明治体制下の日本人にとって、天皇教の教典と化した大日本帝国憲法を人間の意志によって改正する行為は、現人神たる天皇を冒涜する行為に他ならなかった。従って、明治体制下の日本では、ほとんどの者が憲法改正など恐ろしくて口にも出せなかったのである。そのため、天皇が自ら改正を口にしない限り、憲法改正はできなくなってしまったのである。その結果、キリスト教徒やイスラム教徒にバイブルやコーランの改正が不可能であるのと同様に、明治体制下の日本人にとって大日本帝国憲法の改正は、事実上不可能になってしまった。これが明治体制下の日本で憲法改正ができなかった理由である。
ただし、本来は国家の基本法であるはずの憲法が宗教の経典と化す伝統・文化が日本に成立したのは明治維新以降であり、明治維新以前は、そのような伝統・文化は存在しなかった。たとえば徳川幕府は諸大名の統制のため、1615年(元和元年)に二代征夷大将軍の徳川秀忠の名によって諸大名が守るべき十三条からなる基本的な法令を定めた。これが武家諸法度の始まりである。武家諸法度は、徳川幕藩体制の憲法と言ってもよいものである。しかし武家諸法度は、大日本帝国憲法とは違い、何度も征夷大将軍の名によって改正されている。つまり徳川幕府は、武家諸法度を大日本帝国憲法のような宗教の経典としての扱いをしなかったのである。言い換えれば、徳川幕府は、徳川家の征夷大将軍を明治維新以降の天皇のような現人神としては扱わなかったということである。徳川幕府の創立者である徳川家康は、東照大権現と呼ばれ日光や久能山などの東照宮に神として祭られているが、神と言っても明治維新以降の天皇のような現人神ではなく、あくまで八百万の神の一人に過ぎないのである。もし、明治維新以降の天皇が現人神ではなかったら、大日本帝国憲法も軍人勅諭も教育勅語も、宗教の経典としての扱いはされず、武家諸法度のように何度も改正されていたはずである。
明治体制下の日本人にとって天皇以外は手を触れることが許されなかった神聖不可侵な大日本帝国憲法は、アメリカ軍の占領下でマッカーサーによって改正されてしまった。そしてマッカーサーが去った後は、誰にも日本国憲法を改正することができなくなってしまった。もし、アメリカ軍の占領下で憲法改正が可能であった理由が、日本が近代国家になった結果であったとしたら、アメリカ軍の占領が形式的に終わった後の日本でも憲法改正が可能であったはずである。しかし、戦後体制下の日本で憲法改正の必要性を主張した政権はいくつもあったが、実際に憲法改正に着手できた政権は一つも無かった。戦後体制下の日本が近代国家になっているなら、憲法といえども国民の自由な意志の上に存在する法制度の一つに過ぎないことになる。従って、たとえ改正にまで至らなくても、国会内で憲法改正の議論ぐらいは為されて当然である。
戦後体制下の日本で日本国憲法が改正できなかった理由の一つに、護憲論者の存在がある。戦後体制下の日本の社会では、護憲論者が大きな発言力を持ち、国民や政治に多大な影響を与えていた。しかし、護憲論者の発言を聞いていると、国家や憲法といった制度は、人間の自由な意志によって作られたものだという近代的な感覚が欠如していることが分かるのである。
護憲論者は、自分たちが憲法改正に反対するのは平和主義の理念を守るためだと言っている。ところが現実は、自衛隊や日米安保体制といった護憲論者にとっては憲法違反なものが、戦後体制下の保守政権によって長い間維持されて来たのが現実である。これらは、いわゆる解釈改憲によって正当化されているものである。そこで、平和主義者の一部には、憲法九条を解釈改憲ができないような厳格なものに改正しようという意見がある。これに対して護憲論者は邪道だと言って反対しているのである。つまり護憲論者には、日本国憲法が自分たちの言う平和主義の理念を守る手段として本当に最適なものと言えるのか検討して見ようという考えが無いのである。なぜなら護憲論者の考えでは、日本国憲法は史上最高の憲法であり、完全無欠なものだということになっているからである。
しかし、そもそも人間の作ったものは、法律にしろ、制度にしろ、技術にしろ、工業製品にしろ、完全無欠なものなどあり得ない。たとえ一見して完全無欠なものに見えたとしても、どこかに誤りや欠陥があるかもしれないのである。また、それが最初に作られた時には問題が無くても、時代が変われば問題が生じるかもしれないのである。だから人間の作ったあらゆるものは、常に見直しを続け、問題や欠陥が見つかり次第、直ちに作り直したり修正したりすることを繰り返さなければならないのである。もし、誤りも欠陥も全く無く、作り直したり修正したりする必要が永久に無いと考えられているものがあるとすれば、それは全知全能の神が作った神聖不可侵なものだと考えられているのと同じである。
また、平和主義の理念を守るために憲法改正に反対するのなら、平和主義の理念を記した前文と九条以外の条項の改正には反対する理由が無いはずである。ところが護憲論者は、前文と九条以外の条項の改正にも反対しているのである。その理由として護憲論者が言っていることは、前文と九条以外の条項といえども、一度改正されてしまえば、それが前例となり、結局、前文と九条も改正されてしまうからだということである。つまり護憲論者が言っていることは、憲法改正の前例を作らせないことによって、日本国憲法は改正できないものだという考えを国民に植え付けて、日本国憲法を国民の自由な意志で改正できないものにしようということなのである。これは明らかに、国家や憲法といった制度は人間の自由な意志によって作られたものだという近代国家の理論を否定する考え方である。
このように護憲論者には、憲法は人間の自由な意志によって作られた制度であり、人間の自由な意志によって作り変えることが可能だという近代的な感覚が無いのは明らかである。そして、憲法改正論議をタブー視し、憲法解釈を巡る論争のみを認めると言うのだから、護憲論者は、日本国憲法を法律ではなく、バイブルやコーランのような宗教の教典として扱っているとしか考えようがないのである。要するに、護憲論者が言っていることは、日本国憲法は神の作った経典の如く神聖不可侵であり、人間が改正してはいけないものだと言っているのと同じである。そして、この考え方は、戦後体制下の日本の政治家や国民に大きな影響を与えていたのである。
結局、戦後体制下の日本人の憲法に対する感覚は、明治体制下の日本人と全く変わっていないのである。つまり、戦後体制下の日本国憲法も、明治体制下の大日本帝国憲法と同じく、神聖不可侵な教典と化してしまっているのである。その結果、憲法改正ができなかったのである。日本国憲法を宗教の教典と同じ感覚でとらえている戦後体制下の日本人は、たとえ憲法の条文を一字一句改正するだけでも、或いは改正を考えるだけでも、「平和憲法」の否定であり、戦後民主主義の否定だと思い込んでしまうのである。憲法の中身は変わっても、神の作った教典という明治体制下の大日本帝国憲法の性格は、そのまま戦後体制下の日本国憲法に受け継がれてしまったのである。しかし、そうすると、太平洋戦争後も現人神たる天皇以外には憲法改正の権限が無いことになってしまう。ところが現実は、マッカーサーによって大日本帝国憲法は改正されてしまったのである。一体どうして天皇しかできないはずの憲法改正がマッカーサーに可能であったのか。
このことを考えるためには、日本国憲法制定の過程を見てみる必要がある。
マッカーサーの日本に対する占領政策の目的は、日本を二度とアメリカの軍事的脅威にならない国にすることであった。マッカーサーは、この目的を達成するためには大日本帝国憲法を改正する必要があると考えた。そこでマッカーサーは、当時の幣原内閣に対して憲法改正を要求した。ところが幣原内閣の考えは、大日本帝国憲法そのものには一切の誤りはなく、日本が敗戦に至る結果になったのは、憲法の運営の方法が誤っていたに過ぎないというものであった。そのため幣原内閣は、憲法改正の必要は全く無いと考えていたのである。しかし、当時の日本政府には、占領軍の司令官として絶対的な権限を持つマッカーサーに抵抗する力は無かった。そこで幣原内閣は、仕方なく渋々と松本烝治国務大臣を委員長とする憲法改正のための調査会として、いわゆる松本委員会を発足させた。やがて、松本委員会は憲法改正案の骨子をとりまとめたが、この松本案は、大日本帝国憲法の内容を根本的に変更するものではなかった。要するに、当時の日本政府の首脳には、大日本帝国憲法下の天皇制国家とは異なる国家体制など全く考えられなかったのである。これに対してマッカーサーは、GHQ独自の憲法改正案を作ることを思いついた。そこでマッカーサーは、ホイットニー、ケーディス、ハッシーといった部下に命じて、憲法改正草案を極秘の内に作らせた。そして1946年(昭和21年)2月13日に、GHQ独自の憲法改正草案が日本政府の首脳に示された。このマッカーサーの命令によって作られたGHQ独自の憲法改正草案に対して、日本政府の首脳は全く抵抗することができなかった。GHQの憲法改正草案は、衆議院による審議の結果、多少の修正は為されたが、ほとんどGHQが作った草案通りの憲法ができあがってしまったのである。
日本政府の首脳は、マッカーサーが命令しない限り大日本帝国憲法の改正を行おうとはしなかった。しかも、大日本帝国憲法下の天皇制国家と異なる国家体制など全く考えられなかった。つまり、大日本帝国憲法の抜本的な改正は、マッカーサーの強力なカリスマの力によって日本政府の首脳を含めた多くの日本人の意識が変えられた結果、可能になったのである。勿論、日本国憲法の成立には、超大国アメリカの政治力と軍事力を背景にしたマッカーサーの強大な権力による強制があったことも事実である。しかし、日本国憲法が単に強大な権力による強制によってのみ成立したのなら、そのような一方的な権力の行使に対しては日本の指導者や国民の反発が起きていたはずである。
日本国憲法制定の過程は、民主主義国家の根幹と言うべき主権在民を否定するものである。民主主義国家では主権者ということになっている国民のみならず、政府や議会さえも知らない所で、しかも国民の代表とは言えないGHQによって国家の基本法である憲法の草案が作られたのである。しかも、憲法改正草案が衆議院によって審査され、多少の修正が為されたと言っても、これにかかわっている国会議員は、マッカーサーの強大な権力の下で、常に新憲法がマッカーサーとGHQの意向に反するものにならないように配慮していなければならなかったのである。つまり、日本国憲法の制定の過程には、日本の政治家や国民の意志が反映される余地はほとんど無かったのである。この日本国憲法制定の過程が国民に明らかになったのは、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が形式的に独立した後のことである。ところが日本国民は、議会制民主主義の理論からすれば国民不在としか言いようがない憲法制定の過程を知っても、自分たちの主権者としての立場が無視されていたことに怒りを表明したり、新たな国民自身の手による憲法の制定を政府に要求したりするといったことは全く行わなかったのである。つまり日本国民は、占領軍の司令官に過ぎないマッカーサーの主導によって、それも一般国民どころか日本政府の首脳さえ全く知らない内に憲法改正草案が作られたことを知っても、誰も日本国憲法の正当性に疑問を持たなかったのである。しかもマッカーサーによる憲法制定以降、日本国憲法の内容に異議を唱えたり、改正の必要を主張したりする勢力が、国政の場においても一般国民の間でも、大きな発言力を持つことは無かったのである。つまり日本国憲法の制定は、マッカーサーによって決定された結果、日本政府も日本国民も、そのマッカーサーの決定を、そのまま自分たちの意志として受け入れてしまったということである。それどころか戦後体制下の日本では、マッカーサーによって制定された日本国憲法を神聖不可侵な教典として崇める護憲論者が大きな発言力を持つようになり、事実上憲法改正は不可能になってしまったのである。これらの出来事は、明治体制下の大日本帝国憲法が明治天皇の名において制定されてから太平洋戦争に敗れるまでの間、一切の改正ができなかった状況と全く同じである。従って、マッカーサーが大日本帝国憲法を改正して日本国憲法を制定できたのは、マッカーサーが明治天皇と同等の力を持っていたからだと考えざるを得ないのである。
戦後民主主義とは何か
戦後体制下の日本の一般的な歴史観によれば、マッカーサーの改革によって戦後体制下の日本に議会制民主主義が成立したということになっている。しかし、議会制民主主義の理念では、主権者である国民によって選挙で選ばれた政治家のみが国民の代表である。そして、選挙で選ばれた国民の代表である政治家によって、国民の目に見える公開の場で、議会制民主主義の原則に従った意志決定が行なわれて、初めて民主的な手続きと言えるのである。たとえ公正な選挙で選ばれた政治家といえども、国民には見えない密室で意志決定を行うのは議会制民主主義の原則に反するのである。2000年(平成12年)4月2日に小渕総理大臣が脳梗塞で倒れた後、森喜郎が内閣総理大臣に決定された時、或るアメリカのジャーナリストが、内閣総理大臣を決定する過程が不透明であることを理由に、日本に民主主義は存在しないと断言したのがよい例である。
日本国憲法の草案は、日本国民から選挙で選ばれてはいないマッカーサーとGHQが、日本国民が全く知らない内に密室で作ったものである。そして、その草案が、ほとんどそのまま日本国憲法になってしまったのである。従って、事実上日本国憲法は、マッカーサーとGHQが密室で作ったものと言えるである。つまり、議会制民主主義の理念からすれば、マッカーサーとGHQが作った憲法に正当性など無いのである。言い換えれば、マッカーサーとGHQが作った憲法を正統な憲法と認めるのは、選挙で選ばれていないマッカーサーとGHQを正統な国民の代表と認めるのと同じである。これは明らかに、議会制民主主義と主権在民を否定するものである。戦後体制下の日本に議会制民主主義が成立し、日本国民に主権在民という考えがあったなら、日本国民は、このような主権在民を否定するようなことは絶対認めないはずである。
2007年(平成19年)5月14日に参議院本会議で、憲法改正の手続きを定めた国民投票法案が可決され成立した。そして2010年(平成22年)5月18日には、国民投票法によって三年間凍結されていた憲法改正原案の国会への提出が可能になった。これによって、ようやく日本国憲法の改正が法的に可能になったのである。しかし本来、憲法改正は、憲法によって定められた国民の権利である。日本国憲法の制定から2007年(平成19年)に至るまで、憲法改正のための法的な手続きを定めた法律が制定されていなかったということは、その間、国民が憲法を改正する権利が否定されていたことになるのである。憲法とは、国家のあり方を定めた基本法である。従って、国民が憲法を改正する権利とは、国民が国家のあり方を決定する権利なのである。
主権在民という考えの始まりである社会契約説によれば、政治は国民の自由な意志によって行われ、国家は国民の自由な意志によって作られることになっている。つまり主権在民とは、国民が政治に参加するだけではなく、国家のあり方まで自由に決定する権利なのである。従って、国民が議会を通じて政治に参加するだけではなく、自由な意志によって国家のあり方まで決定できなければ主権在民とは言えないのである。つまり、日本の政治家が日本国憲法の制定以来、2007年(平成19年)に至るまで憲法改正のための法的な手続きを定めた法律を制定せず、憲法改正が法的に不可能であったということは、その間、政治家によって、国民が国家のあり方を自由に決定する権利が否定されていたことになるのである。つまり、それは、日本国民が政治家によって主権在民を否定されていたということである。このような行為に対して、国民や言論人から政治家に対する批判の声が起きることは全く無かったのである。これはまさに、戦後体制下の日本人が主権在民という考えを理解していない証拠なのである。つまり、戦後民主主義と呼ばれる国家体制には主権在民という考えが無いのである。
多くの日本人は、民主主義とは議会制度や選挙制度のことであると思い込んでいる。そのため、議会制度や選挙制度を受け入れただけで、民主主義が成立したと思い込んでいるのである。勿論、議会制度や選挙制度は、民主主義が成立するために必要な制度ではあるが、主権在民という考えこそ民主主義の根幹である以上、これを受け入れなければ、民主主義を受け入れたことにはならないのである。従って、戦後民主主義とは、欧米人の言う民主主義とは全く異なる奇怪な代物であると言わざるを得ないのである。
ところで、人間が、考え、発言し、行動する場合、自ら意識して行っている場合がある一方で、当の本人が全く自覚していない無意識に基づいて行っている場合もある。つまり、時と場合によっては、本人が全く自覚していない無意識に基づく行いがあらわになることもあるのである。それは、人間の行動や考え方を最終的に決定するのは無意識だからである。意識の上で考えていることと無意識の中で考えていることが矛盾した場合、人間は、無意識の方に従ってしまう。そのため、意識の上で行おうとしていることと実際に行っていることが違うようなことが起きる場合もある。そして、本人が全く自覚していない無意識に基づく行いは、伝統や文化、あるいは民族や国家といったものに様々な形で影響を与えているのである。
日本人の意識の上では、マッカーサーの改革によって明治体制が消滅して戦後体制が成立した結果、日本が民主主義国家に生まれ変わったということになっている。ところが実際は、明治体制から戦後体制に変わっても、日本人の無意識の中に存在する伝統的な国家のあり方は全く変わっていないのである。それは、「日本国民は現人神によって指導され、現人神によって作られた教典に基づいて統治される。」というものである。明治体制下の日本における現人神は天皇であり、現人神たる天皇によって作られた教典が、軍人勅諭であり、教育勅語であり、大日本帝国憲法である。そして、戦後体制下の日本における現人神はマッカーサーであり、現人神たるマッカーサーによって作られた教典が日本国憲法なのである。つまり、日本人の無意識の中には現人神を信仰する伝統が定着していて、今でも日本人の考え方や行動に決定的な影響を与えているのである。
日本人の無意識の中に定着した現人神を信仰する伝統の表れの一つが、日本の政治家による憲法改正作業が一向に進まないことである。日本の政治家の多数が日本国憲法の改正が必要であると考える改憲論者である。ところが、意識の上で憲法改正が必要であると考えていても、無意識の中の現人神を信仰する伝統が憲法改正を拒否するのである。現人神を信仰する伝統において、憲法は現人神が作った神聖な経典であり、これを人間の手によって改正するという行為は、現人神を冒涜する野蛮な行為である。つまり、改憲論者の政治家が意識の上で憲法改正が必要であると考えていても、無意識の中では、憲法改正は神聖な憲法を冒涜する野蛮な行為であると考えているため、結局、無意識に従って憲法改正を拒否してしまうのである。これが、日本の政治家による憲法改正作業が一向に進まない理由である。
更に、護憲論者の言動にも現人神を信仰する伝統が表れている。護憲論者は、日本国憲法が二十一世紀の世界にも通用すると主張している。しかし、これは言い換えれば、マッカーサーは二十一世紀の世界がどのような状況になるのかを的確に予見し、二十一世紀の世界で起き得るあらゆる状況に対応できる完璧な憲法を作ったということになってしまうのである。普通の人間には五年先や十年先を予見することさえ困難である。二十年も三十年も先のことを予見することができる者がいるとすれば、よほどの天才である。ましてや日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)の時点で、百年以上先の世界の状況をマッカーサーが的確に予見していたとすれば、それはまさに神の為せる業と言わざるを得ないのである。つまり、マッカーサーが二十一世紀の世界に通用する憲法を作ったとすれば、それはマッカーサーが全知全能の神にも匹敵するような能力を持っていたことになってしまうのである。しかも現実は、1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発した結果、世界の全ての国が、かならずしも日本国憲法前文の言う「平和を愛する諸国民」ではないことが明らかになった。更にマッカーサーは、1950年(昭和25年)7月に憲法九条を棚に上げて日本政府に対して自衛隊の前身である警察予備隊の創設を命じざるを得なくなった。つまり、1946年(昭和21年)2月にGHQが憲法改正草案を出してから五年もたたないうちに、日本国憲法の内容に誤りのあることが明らかになってしまったのである。これは、マッカーサーが、将来を予見する能力が普通の人間と全く同じであったことを意味するのである。それにもかかわらず、護憲論者はマッカーサーの作った憲法が二十一世紀の世界に通用すると信じているのである。これは、護憲論者が無意識の中で日本国憲法を全知全能の神たるマッカーサーが作った宗教の経典として信仰しているとしか考えようが無いのである。要するに、日本国憲法が二十一世紀の世界にも通用するという護憲論者の主張は、マッカーサーの神格化に他ならないのである。勿論、護憲論者自身にはマッカーサーを神格化しているという意識は無い。護憲論者は、日本国憲法を教典として信仰しながら、無意識の中でマッカーサーを全知全能の神として信仰しているのである。
日本人にとって憲法が神の作った宗教の教典であることは、明治体制下でも戦後体制下でも同じことである。そして、宗教の教典を作ることができるのは規範を作る権限を持った神のみである。つまり、マッカーサーに宗教の経典たる日本国憲法を制定することができたのは、マッカーサーが天皇に取って代わって現人神になったからである。言い換えれば、日本国憲法を宗教の経典として信仰すれば、必然的に、日本国憲法を作ったマッカーサーを明治体制下の天皇と同様の現人神に祭り上げることになるのである。そして、イスラム教徒にとってコーランを信仰することとアッラーを信仰することが一体であるのと同様に、日本人が憲法を神の作った宗教の教典として信仰することと現人神を信仰することは一体の関係にあるのである。従って、戦後体制下の日本人は、依然として無意識の中では現人神を信仰する伝統を失ってはいないと言えるのである。要するに、護憲論者とは、日本人の無意識の中に存在する現人神を信仰する伝統が生み出した者なのである。
1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇は、いわゆる人間宣言を行い、自ら、天皇が現人神であることを否定した。その結果、建前では、日本は現人神たる天皇が統治する国ではなくなり、欧米流の議会制民主主義の国家に生まれ変わったことになっている。そして国民が天皇に代わって主権者となり、天皇は国家の象徴となったことになっている。ところが日本人は、昭和天皇の人間宣言以降も、無意識の中では現人神が最高指導者であるという考えに変化がなかったのである。つまり、昭和天皇は人間宣言によって天皇が現人神であることは否定したが、日本が現人神の統治する国であるという国家のあり方までは否定できなかったのである。その結果、日本人は、アメリカの一軍人に過ぎないマッカーサーを天皇に代わる新たな現人神として受け入れてしまったのである。
アメリカの占領中にマッカーサーによって行われた改革に対して日本人が全く抵抗できなかったのは、天皇に代わって現人神となったマッカーサーの力に日本人が完全に屈服していたからである。更に、日本人がマッカーサーを解放者として賛美したのは、現人神たるマッカーサーを崇拝するお祭り騒ぎに国民を挙げて興じていたということである。
明治維新から太平洋戦争の敗戦まで七十年以上の間、現人神たる天皇が国家に君臨した結果、日本人の無意識の中に、現人神という宗教的な力を持った者が国家を統治する伝統が定着してしまった。そして、この伝統は、太平洋戦争の敗戦と、それに続くアメリカによる占領統治という衝撃を受けても変わることは無かったのである。つまり、天皇以外の者は正統な最高指導者になれない天皇制の伝統と同様に、この現人神を信仰する伝統も日本の社会に定着し、いかなる手段によっても変更できなくなっているのである。その結果、日本人は無意識のうちに、現人神でなければ最高指導者ではないと思い込むようになってしまったのである。マッカーサーのような外国の軍人さえ、一度現人神になってしまえば実質的な最高指導者なのである。ただし、マッカーサーといえども、天皇ではない以上、実質的な最高指導者であっても正統な最高指導者ではない。また、日本の政治家が、憲法に定められた民主的な手続きに従って内閣総理大臣に就任しても、現人神ではない以上、最高指導者ではないのである。つまり、現人神を信仰する伝統も、内閣総理大臣が日本の最高指導者になれない理由なのである。
現人神の作った教典である日本国憲法は人間の意志では変更できないため、国民も政治家も憲法改正ができない。国民から選ばれた政治家の代表である内閣総理大臣といえども現人神ではないため、国家の最高指導者ではない。このように、日本人の無意識の中に定着した現人神を信仰する伝統は、国民が自由に憲法を改正する権利を否定し、国民が自由に自分たちの最高指導者を選ぶ権利を否定しているのである。つまり、現人神を信仰する伝統は、明治体制下の日本人から戦後体制下の日本人に受け継がれ、主権在民を否定し続けているのである。戦後民主主義と呼ばれる国家体制は、現人神を信仰する伝統という、主権在民を否定する伝統の上に成り立っているのである。しかし、主権在民を否定する民主主義などあり得ない。従って、戦後体制下の日本を民主主義国家であると考えるのは幻想に過ぎないのである。
1951年(昭和26年)4月、マッカーサーはトルーマン大統領によって連合国最高司令官の役職を解任された。そしてマッカーサーの後任の連合国最高司令官に就任したのがリッジウェイ中将である。しかし、このリッジウェイ中将なる人物は、日本人に対してマッカーサーのような強烈な印象を残すことは無かった。そして日本国民はリッジウェイ中将に対してマッカーサーに対して行ったような、お祭り騒ぎに興じる事も無かった。つまりリッジウェイ中将は、マッカーサーのようなカリスマや強烈な個性を持っていなかったため、現人神になることは無かったのである。そのため、戦後体制下の日本は最高指導者が存在しない欠陥国家になってしまったのである。マッカーサーが現人神になった理由が、超大国アメリカの強大な政治力と軍事力を背景に日本を軍事占領することにより、マッカーサーが実質的な日本の支配者になったというだけのことであったなら、後任の連合国最高司令官に就任したリッジウェイ中将もマッカーサーのような現人神になっていたはずである。つまり、マッカーサーが現人神になってしまったことは、マッカーサーが超大国アメリカの政治力と軍事力を背景に日本の支配者になった上で、日本人の現人神を信仰する伝統とマッカーサーのカリスマや強烈な個性が噛み合った結果、偶然に起きた現象なのである。戦後民主主義の成立は、マッカーサーという特異な人物の存在抜きには、あり得なかったのである。
現人神と化したマッカーサーが作った教典である日本国憲法を崇め、絶対服従するのが戦後民主主義と呼ばれる国家体制の本質である。つまり、明治体制下の日本が天皇教国家であったのに対して、戦後体制下の日本はマッカーサー教国家なのである。要するに、戦後民主主義の成立とは、天皇教からマッカーサー教への改宗なのである。また、平和主義者や護憲論者にとって、マッカーサー教の教えの主たるものは平和主義である。従って、平和主義者や護憲論者にとっての日本国憲法は、「平和教」の教典なのである。このように日本の戦後民主主義とは、欧米の議会制民主主義とは似ても似つかぬ代物なのである。
こうして日本に、民主主義とは名ばかりの似非民主主義国家が誕生したのである。かつて森総理大臣は、「日本は天皇を中心としている神の国」と言ったが、私に言わせれば戦後体制下の日本は、「マッカーサーを中心としている神の国」なのである。
平和運動と日本国憲法
戦後体制下の日本には、様々な形の平和運動が存在する。戦争の悲惨さを語り継ぎ、二度と戦争の惨禍を繰り返さない運動とか、アメリカ軍や自衛隊の軍事行動や軍事施設に反対する運動などといったものである。これらの運動に参加している人たちは、彼らなりの信念や正義感を持って行動していることは確かであろう。しかし世界の現実は、平和運動家の信念や正義感が通用するようなものではない。軍事力を全く使わずに国家の安全を守る方法や、軍事力を全く使わずに国際紛争を解決する方法が無い以上、平和運動家が目指していることは、単なる絵に描いた餅に過ぎない。国家の安全を守るためにも、国際紛争を解決するためにも、軍事力は必要不可欠である。現実に戦後体制下の日本の平和を守っているのはアメリカの軍事力である。そして戦後体制下の日本がアメリカの軍事力に依存しなければ国家の安全が守れないのは、マッカーサーが日本を戦争ができない欠陥国家に作り変えてしまったからである。そして、日本を戦争ができない国家にすることを正当化するためにマッカーサーが作り上げた理念が平和主義であり、その理念に従って作られたのが日本国憲法である。そして日本国憲法は、戦後体制下の平和運動家の教典になっているのである。
平和主義者や護憲論者が憲法改正を恐れるのは、日本国憲法が、現人神と化したマッカーサーが作った「平和教」の教典だからである。憲法を教典という感覚で理解している平和主義者や護憲論者にとっての憲法改正は、キリスト教徒やイスラム教徒がバイブルやコーランを人間の意志によって書き換えるのと同じことである。宗教の教典は、それに記された一言一句に至るまで神聖不可侵な神の言葉であり、神の創造物に過ぎない人間が手出しすることは許されない。従って、人間の意志による教典の改正とは、教典の権威の否定であり、宗教を全面的に否定して消滅させることを意味するのである。これと同様に、日本国憲法を「平和教」の教典という感覚で受け入れている平和主義者や護憲論者にとっては、一言一句といえども日本国憲法に人間の手を加えることは、「平和教」の教典たる日本国憲法の全面否定であり、平和主義や戦後民主主義を消滅させることを意味するのである。平和主義者や護憲論者は、理屈ではこのことが分からなくても、感覚的には分かっているのである。そこで彼らは憲法改正を恐れるのである。要するに、平和主義者や護憲論者の言う憲法擁護とは、日本国憲法が持つ宗教的な権威を守ることなのである。つまり、日本の平和運動とは、政治運動でも市民運動でもなく、日本国憲法を教典とする「平和教」という宗教の布教活動なのである。
日本国憲法が神聖不可侵な「平和教」の経典と化した結果、長い間日本では憲法改正がタブー視されて来た。ところが2000年代の一時期、憲法改正論議が活発になったことがあった。そのきっかけになったのが北朝鮮によって引き起こされた日本人拉致問題やミサイル発射問題、そして核兵器開発問題など、日本の安全保障を脅かす一連の行為である。
2002年(平成14年)9月17日、小泉総理大臣は、北朝鮮の首都平壌を訪れて最高指導者の金正日と会談した。この時、金正日は、日本人拉致事件が北朝鮮政府によって引き起こされたものであったことを認めた。これによって日本国民は、日本のすぐ隣に、日本国憲法の言う「平和を愛する諸国民」とは正反対の国家が存在することを認識するようになってしまった。このことが平和運動の原点である「平和憲法」の権威を低下させることになったのである。
北朝鮮によって引き起こされた一連の出来事が「平和憲法」の権威を低下させたことによって、日本国憲法が持っていた宗教的権威が低下し、憲法を神聖不可侵な教典ではなく、単なる法律として扱う風潮が広がり始めた。それが、憲法改正をタブー視する考えを否定することになり、その結果、一時期、政治家による憲法改正論議が活発になったのである。自由民主党は、2003年(平成15年)11月の衆議院議員の総選挙で、憲法改正を政権公約に掲げて選挙戦を戦った。更に自由民主党は、2005年(平成17年)10月に「新憲法草案」と称する憲法改正案を発表した。そして2007年(平成19年)5月14日には、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立した。
しかし、それでも日本の憲法改正は容易なことではない。憲法改正を主張したことがある政治家は数多く存在し、憲法改正案を発表したことがある政治家や政党も存在する。それにもかかわらず、2007年(平成19年)5月に国民投票法が成立した以降は、憲法改正論議は低調になり、それ以来、憲法改正論議は、ほとんど進展していない。2010年(平成22年)5月18日には、国民投票法によって三年間凍結されていた憲法改正原案の国会への提出が可能になったが、それでも憲法改正論議が活性化することは無かった。また、国民投票法によって衆参両院に憲法審査会が設置され、そこで憲法改正原案が審査されることになっているが、国民投票法が成立してから四年以上過ぎた2011年(平成23年)10月21日になって、ようやく最初の憲法審査会が開かれ、11月18日になって初の議論が行われるという有様であった。結局、憲法改正論議が一時的に活発化した背景にあったのは、日本国憲法が持つ宗教の教典としての権威が一時的に低下したことであり、宗教的な権威によって国民が統治されるという日本人の伝統・文化までが変化したわけではなかったのである。考えて見れば、太平洋戦争の敗戦、そして大日本帝国の崩壊という衝撃的な事態に直面しても、日本人の国家に対する伝統的な考えに変化は無かったのである。伝統・文化なるものは、そう簡単に変化するものではないのである。
第三章 第二次世界大戦後の国際秩序
太平洋戦争とは何であったか
日本人は、太平洋戦争について誤った認識をしている。
多くの日本人は、太平洋戦争を次のように考えている。太平洋戦争は、1941年(昭和16年)12月8日に日本軍の真珠湾攻撃に始まった。これに対してアメリカは反撃し、日本を打ち破り、1945年(昭和20年)8月15日に日本の敗戦という結果で終わった。
この日本人の考えている太平洋戦争は、二つの点で間違っている。
第一の間違いは、太平洋戦争は、1941年(昭和16年)12月8日から1945年(昭和20年)8月15日の間だけ行われていたという点である。
第二の間違いは、太平洋戦争におけるアメリカの敵国は、日本一国だけであったという点である。
そもそもアメリカは、太平洋戦争が勃発する遙か以前からアジアに勢力を拡大することを考えていた。その始まりが1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の来日である。ペリー来日の目的は、日本をアメリカの船舶の燃料や食料の補給基地にすることであった。アメリカは、日本を足場にして中国を始めとしたアジア諸国と経済交流をするつもりでいたのである。そしてアメリカは1899年に門戸開放宣言を行い、本格的に中国へ進出する意志を明らかにする。
一方、日本は明治維新以来、急速にヨーロッパの近代的な制度や技術を導入することに成功し、国力をつけ、日清・日露の両戦争に勝利して急速に政治・軍事の両面で力を拡大していった。
アメリカは当初、アジアに対しては経済進出のみを考えていた。しかし日本の政治的・軍事的な台頭が、アメリカの中国を始めとしたアジアへの進出の妨げになって来たと考えるようになった。そこで、アメリカのアジアへの経済進出のためには、どうしても日本の政治力と軍事力を封じ込める必要が生じた。
日本の台頭を封じ込めるために、アメリカは1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて開かれたワシントン会議で、日本を封じ込める政策を実行した。
まず、日・米・英・仏の太平洋における勢力の現状維持のために四ヶ国条約を締結し、同時に日英同盟を破棄させ、日本のアジアにおける政治的な立場を弱めた。そして、日本の中国進出を抑制するために、中国の主権尊重、中国市場参入の門戸開放と機会均等を定めた九ヶ国条約を締結した。日本は、九ヶ国条約に基づいて中国と条約を結び、山東省の権益の多くを返還した。更に、海軍軍縮条約によって、日本の主力艦隊をアメリカやイギリスに対して六割に制限した。
このように太平洋戦争が始まる以前から、アメリカは政治的な手段によって日本に対して攻勢をかけていたのである。このワシントン会議こそ、事実上の太平洋戦争の始まりと言ってよいだろう。
やがて、1931年(昭和6年)の満州事変をきっかけに、日本の中国に対する軍事的進出が本格化すると、中国への経済進出を進めていたアメリカとの対立が激化する。そのためアメリカは、経済的な利益を守るためには、日本を打倒してアジアに覇権を確立しなければならないと考えるようになった。これが日本とアメリカの間に戦争が勃発した直接の原因である。つまり、アメリカにとっての太平洋戦争とは、アジアに覇権を確立してアメリカの経済的利益を守ることを目的とした戦争であった。
そして1945年(昭和20年)8月15日に日本の降伏という形で太平洋戦争は終わったことになっている。しかし、この時終わったのは、日本とアメリカの間の戦闘行為であって、太平洋戦争そのものではない。なぜなら、戦争に勝利するとは、戦争目的を達成することだからである。戦闘行為に勝利しても、戦争目的を達成できない限り戦争に勝利したとは言えないのである。アメリカは、日本を軍事的に打倒することには成功したが、それだけではアジアに覇権を確立してアメリカの経済的利益を守るという戦争目的を達成することはできなかったのである。
中国では、アメリカが支援する蒋介石の率いる国民党と毛沢東の率いる共産党との間に内戦が起き、その結果、国民党が敗れ、1949年10月には共産党政権が成立するという結果になってしまった。そもそも日本とアメリカの間の戦争が勃発した直接の理由は、日本の中国への軍事進出をアメリカが阻止しようとしたことである。アメリカによる中国への経済進出を確保するため、中国におけるアメリカの代理人と言うべき国民党政権をアメリカが守ろうとしたために始まった戦争が太平洋戦争であったとも言えるのである。従って、中国での共産党政権の成立という事態は、一時的ではあるが、アメリカにとって太平洋戦争の敗北を意味するのである。
つまり、アメリカにとって日本との戦争は、太平洋戦争における第一ラウンドに過ぎなかったのである。そして、国民党と共産党の中国内戦は、第二ラウンドなのである。アメリカは、第一ラウンドでは戦争目的の一つである日本の軍事的な打倒に成功したが、第二ラウンドでは、アメリカの中国進出のための代理人と言うべき国民党政権の防衛に失敗してしまったのである。
そして、太平洋戦争の第三ラウンドが朝鮮戦争である。朝鮮半島は、東アジアにおける軍事戦略の要衝である。それゆえ、明治体制下の日本は、日清戦争・日露戦争と二度もこの地域の支配権を巡って戦争を行わなければならなかったのである。そのため、日本に代わり東アジアの覇権国となったアメリカにとっても、朝鮮半島を確保することは覇権を守るためには必要不可欠であった。従って、朝鮮戦争もアメリカの東アジアにおける覇権のための戦争であり、太平洋戦争の延長と言える。朝鮮戦争は、中国の参戦もあってアメリカは苦戦を強いられたものの、最終的にはおおよそ三十八度線まで戦線を押し戻すことができたため、結果として引き分けに終わった。
しかし、アメリカの太平洋戦争は、まだ終わらなかった。ベトナム戦争という第四ラウンドが待っていたのである。ジョンソン大統領が本格的にベトナムへの軍事介入を初めてから、アメリカは泥沼の戦争に陥ってしまった。東南アジアの小国に過ぎない北ベトナムに苦戦するアメリカは、超大国としての地位がぐらつき始めた。それどころかアメリカは、社会や経済までが混乱し始めた。そして、国の内外でベトナム反戦運動が盛り上がり、アメリカ国民の政府に対する信用までが失墜してしまった。
この危機的状況からアメリカを救うべく登場したのがニクソン大統領とキッシンジャーであった。ニクソン政権は、北ベトナムを軍事的に支援している中国との国交を回復してベトナム戦争を終わらせた。そして、中国との国交を回復した結果、アメリカは太平洋戦争の目的の一つであった中国への経済進出が本格的に可能になったのである。
このように、アメリカにとって、日本とアメリカの間の太平洋戦争とは、アメリカがアジアに覇権を確立するための戦いの一局面に過ぎなかったのである。一般的に太平洋戦争が論じられる場合、日本とアメリカの間の戦いのみを取り上げて論じられているのが現実である。しかし、アメリカの過去百数十年に及ぶアジアへの経済進出と覇権を確立するための戦いという側面からも太平洋戦争を考えなければ、太平洋戦争の本質は分からないのである。
アメリカの日本に対する軍事的な戦いは日本の敗戦によって一応終わったが、これでアメリカの日本に対する戦いが全て終わったわけではなかった。アメリカにとって、日本に対する軍事的な戦いの終わりは、新たな戦いの始まりであった。それは、日本が二度とアメリカと戦えないように日本の軍事力を封じ込める戦いである。アメリカは、日本に対するマッカーサーの占領政策によって戦後民主主義と呼ばれる国家体制を成立させた結果、日本を戦争ができない国にすることに成功した。更に、日米安保体制を成立させることによって日本をアメリカの軍事的保護下においた結果、日本が自衛のために自ら戦争を行う必要を無くした。日本は、戦争ができない国家体制である戦後民主主義を守るためには、日米安保体制を守らざるを得ない。そして日本は、日米安保体制を守るため、アメリカに従属せざるを得ない。つまり、戦後民主主義と日米安保体制を日本に守らせることによって日本をアメリカに従属させ続けることが、太平洋戦争後の日本に対するアメリカの戦いなのである。
太平洋戦争で日本に勝利した結果、アメリカは日本を含めたアジア諸国に対して覇権を確立し、多くのアジア諸国を「征服」したのである。一方、敗戦国となった日本は、戦後民主主義と日米安保体制が成立した結果、アメリカに従属するしかなくなってしまった。つまり日本は、太平洋戦争の結果として「アメリカ帝国」に征服され、その「属州」と化してしまったのである。かつて小泉総理大臣の対米外交のことをアメリカ従属外交と言ったり、また彼のことをアメリカの犬と言ったりする人たちが居たが、太平洋戦争後の日本が置かれた現実からすれば、やむを得ないことである。小泉総理大臣の対米外交を批判し、日本独自の外交を行えと言うことは、「アメリカ帝国」の「属州」である日本がアメリカから独立しろと言うことである。それは、「属州」である日本が「本国」であるアメリカに対して「反乱」を起こすことを意味する。言うまでも無く、「属州」が反乱を起こせば「本国」としては、これを「鎮圧」するしかない。さもなければアメリカは「帝国」を維持できなくなり、超大国の地位を失ってしまうからである。つまり、日本がアメリカから自立するということは、「独立戦争」を行い、アメリカとの全面的な対決をするということである。しかし、そのようなことは、今の日本政府にとっても日本国民にとっても無理なことである。従って、いくら日本政府がアメリカ従属と言われようと犬と言われようと、直ちに「アメリカ帝国」の「属州」をやめるわけにはいかないのである。
アメリカの政治力と国際政治
アメリカは、第二次世界大戦に勝利した結果、超大国としての政治力を確立した。政治力とは、国家権力や軍事力などの力の行使を正当化する力のことである。そして、国際社会において大きな政治力を持った国のことを大国と言うのである。
国際社会で起きた武力衝突や領土問題などの紛争を解決するためには、アメリカのような大国の政治力が必要である。国内で起きた紛争なら、法の手続きに従い権力が行使されれば問題は解決するが、国際社会で起きた紛争の場合は、そうはいかないのである。なぜなら、国際社会で起きた紛争を解決しようにも、国際社会には国内法のような法律が無いからである。国際法というものが存在するが、これは紳士協定のようなもので、これを破ったからと言って逮捕されるわけでも罰が与えられるわけでもない。要するに、国際政治の場では、紛争を解決するための明確な基準や強制力が無いのである。しかし、これでは国際社会の秩序は成り立たない。そこで国際社会では、大国と呼ばれる強力な政治力を持った国によって、武力衝突や領土問題などの国際紛争の解決がなされることになる。
戦争や領土の併合などをする場合も、たとえそれが、その国にとって、いかに正当な行為であっても、大国が主導する国際社会が正当と認めなければ、国際社会から孤立したり侵略行為のレッテルを貼られたりする場合がある。そうならないためには、大国と呼ばれる国の承認が必要になるのである。
たとえば、1990年に勃発した湾岸危機の時、イラクはクウェートを軍事占領して併合してしまったが、これはイラクの立場からすれば、本来クウェートはイラクの領土なのだから、併合は正当な行為ということになる。ところが、イラクのサダム・フセイン大統領は、大国アメリカの承認を経ないでクウェートの併合を行ってしまったため、アメリカを頂点とする国際社会から侵略行為と決めつけられ、世界から孤立して、湾岸戦争でアメリカを始めとした多国籍軍の攻撃を受けるはめになってしまったのである。
更に、大国の承認が無ければ、実効支配している自国の領土すら、保有することを正当化できなくなることもある。本来なら自国の領土であるはずの地域が、大国の合意によって他国の領土にされてしまったことも実際にあったのである。たとえばドイツは、第二次世界大戦に敗れた時、東部の東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンという三つの地域をアメリカ、イギリス、ソビエトの合意に従ってソビエトやポーランドに割譲させられてしまった。東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンは、十八世紀の末までには、後にドイツを統一するプロイセン王国の領土となっており、日本人の感覚からすればドイツ固有の領土である。これをドイツが他国へ割譲させられたということは、日本が北海道を他国へ割譲させられたようなものである。また日本も、ヤルタ会談でのルーズベルトとスターリンの密約によって、千島列島や南樺太を放棄させられてしまった。一度、大国の合意によって領土を所有する国が変更され、国際社会が他国の領土と認めてしまったら、その国の国民にとっては自国の固有の領土であっても、大国の主導する国際社会にとっては、他国の領土ということになってしまうのである。そして、大国の合意によって奪われた領土を大国の承認も無く武力によって奪い返そうとすると、自国民にとっては自衛戦争であっても、大国の主導する国際社会からは侵略戦争と見なされてしまうのである。その結果、その国は世界から孤立してしまうのである。従って、今の日本も、うかうかしていると、千島列島どころか北海道や日本そのものまでが日本人や日本政府の知らぬ間に、どこかの国の領土にされてしまう可能性もあるのである。こういったことを防ぐためには、普段から、北は北方四島や北海道から南は沖縄に至る領土が日本のものであることをアメリカのような大国に認知させておかなければならない。それと同時に、万が一どこかの国が日本の領土を大国の合意によって奪い取ろうとする行動を起こそうとしたら、アメリカのような大国に阻止してもらわなければならない。このような、大国による政治的な保護があって、初めて自国の領土の保有が正当化できるのである。
現在でも、チベット人やウイグル人のように一民族がまるごと他国の支配下に組み入れられてしまっているにもかかわらず、国際社会から容認されている例はいくらでもある。従って、日本といえども北海道から沖縄に至る全ての領土が、永遠に日本人のものであり続けるという保証はどこにも無いのである。現在の日本の領土は、アメリカの政治力によって一時的に保障されているに過ぎないのである。勿論、自国の政治力で自国の領土が保障できるのならば、それにこしたことはないが、残念ながら第二次世界大戦後の日本にはそのような政治力は無いのである。そこで第二次世界大戦後の日本が国際社会の中で生き残るためには、アメリカのような大国の保護下に入らざるを得ないのである。
このように、大国が戦争の是非を判定したり、各国の領土を保障したりすることによって国際社会は成り立っているのである。もし大国が、戦争の是非の判定や、各国の領土の保障ができなくなったら、各国が戦国時代の戦国大名のように軍事力によって勝手に領土の奪い合いを始めるような事態も起き得るのである。つまり、大国と呼ばれる国が、その地位を失うようなことになったら、国際秩序が失われ、国際社会は崩壊してしまうのである。
国際社会には、戦争行為や領土問題といった国際紛争を解決するための客観的な基準があるわけではない。国際紛争の正当性は、その時点での大国の合意によって決まってしまうのが現実である。しかも、その決定は、大国の利害や都合によって恣意的に行われてしまう場合がほとんどである。たとえば、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略戦争だとされているのは、あくまで、戦勝国となったアメリカなどの大国が、そのように決定したからであって、日本やドイツが戦争中に行った行為とは関係ないのである。一般的には、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略戦争だとされている理由は、太平洋戦争が日本による先制攻撃によって始まったことや、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺などの残虐行為によるものだと思われている。しかし、よく考えてみれば、たとえば残虐行為は戦勝国も行っているのである。その典型的な例は、何と言ってもアメリカ軍による広島と長崎に対する原爆投下であろう。たった二発の原爆によって二十万人近い人間が殺戮されたのである。原爆投下についてアメリカは、数十万人のアメリカ兵の命を救うために必要であったなどと言っているが、仮にそれが事実だとしても、アメリカは、理由さえあれば大量殺戮が許されると言っていることになるのである。そして、同じく戦勝国であったソビエトも、降伏したポーランドの将校を虐殺したカチンの森の事件や、日本兵捕虜をシベリアに連行して、過酷な労働によって五万人以上も死なせてしまった日本兵のシベリア抑留問題を起こしている。
大国とは国際政治における審判である。しかし、スポーツの審判とは違い、選手が審判を兼ねているのである。従って、大国は、自国が関係する政治問題や戦争に関しては、自国に有利な判定を行ってしまうのが現実である。人類の歴史が始まって以来、戦争において、いかなる残虐行為が行われても、戦争に勝ってしまえば、敗者に全ての責任をなすりつけることによって、その罪から逃れることが黙認されているのである。これは勝者の特権と言うべきものである。日本流に言えば、勝てば官軍、負ければ賊軍ということである。アメリカが広島と長崎への原爆投下の罪を問われることが無いのも、このためである。結局、これからも勝者が一方的に正義を主張できる時代が続くことになるのである。
戦後体制下の日本には、侵略戦争という言葉の定義は「自国の領土の防衛を超えた軍事行動」であると主張する人たちが存在する。しかし、そのような定義をしてしまったら、第二次世界大戦後のアメリカの軍事行動は全て侵略戦争になってしまう。なぜなら、アメリカが第二次世界大戦後に行った主な戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争など、いずれもアメリカの領土を遙かに超えた地域で行われているからである。更に、アメリカが日本に軍隊を駐留させていることそのものが、日本に対する侵略戦争ということになってしまう。もし、侵略戦争という言葉を「自国の領土の防衛を超えた軍事行動」などと定義してしまったら、日本の同盟国であるアメリカの軍事行動のみならず、日米安保体制まで否定することになってしまう。結局、現実的に考えれば、侵略戦争という言葉の定義をすることは不可能なのである。
国際政治のルールは、基本的には第二次世界大戦後も、それ以前と全く変わっていない。戦争や領土の獲得それ自体は、決して国際政治のルールに反するものではない。要は大国の承認という手続きを経ればよいのである。事実、現在もロシアや中国のように、多くの少数民族を支配下に置くことを認められている国は世界中にいくらでもある。第二次世界大戦後の国際政治は、ルールが変わったのではなく、戦争や新たな領土の獲得などを大国に認めさせることが難しくなったというだけのことである。帝国主義時代なら、国際政治を牛耳る欧米の大国も世界中で植民地の獲得競争を行っていたため、比較的容易に新たな領土の獲得を欧米の大国に認めさせることができた。ところが第二次世界大戦後は、欧米の大国が、ほとんどの植民地を独立国家として認め、植民地の獲得競争をやめてしまった結果、新たな領土の獲得を欧米の大国が認める理由が無くなってしまったのである。
或る領土がどこの国に属するか、あるいは、軍隊を外国に送り込み、戦争をしたり軍隊を駐留させたりする行為が侵略行為にあたるかあたらないかという判断は、その時代の大国や覇権国家と呼ばれる国の政治力よって決定される。侵略行為という言葉には明確な定義は無いが、強いて定義するとすれば、「国際社会の意志を決定する大国の承認を得ていない武力行使、または領土の所有」ということになる。しかし、或る時点で大国であった国も、政治状況の変化によっては大国の地位を失うこともある。従って、特定の大国によって正当と認められた領土の獲得や戦争が、その大国の地位が失われた結果、無効になってしまうこともあり得るのである。つまり、正当な武力行使、正当な領土の所有とされている行為も、政治状況の変化によっては侵略行為とされるようになってしまう可能性があるということである。
その一例が、日韓併合である。日本は、1905年(明治38年)に日露戦争に勝利して朝鮮半島に対する支配権を確立した。そして、国際社会の承認の下、1910年(明治43年)に日韓併合が実現した。日韓併合が当時の国際社会から承認された理由としては、当時の世界は帝国主義時代であり、国際政治を牛耳る欧米諸国自体が、日本と同様の領土獲得に奔走していたため、反対する理由が無かったということもあったが、それに加えて、日本が日露戦争に勝利した結果、政治力が強大化して欧米列強と並ぶ政治大国となり、自らの政治力によって領土の獲得や戦争を正当化できるだけの強力な政治力を確立した結果でもあったのである。ところが第二次世界大戦の結果、日本は敗戦国となり、それまで獲得した植民地や利権を全て失い、同時に政治力も失ってしまった。すると、今まで日本の政治力によって正当化されていた過去の領土の獲得や戦争を正当化することができなくなってしまった。その結果、日韓併合は侵略行為と言われるようになってしまったのである。
更に、ベトナム戦争後の南北ベトナムの統一と、湾岸危機の時のイラクによるクウェートの併合を比べてみよう。1973年1月27日にパリで調印されたベトナム和平協定に基づき、アメリカ軍がベトナムから撤退した。そして、1975年に南ベトナムは北ベトナムによって武力併合され、ベトナム戦争は終結した。当時、世界の多くの国は、同じベトナム人同士なのだから、南北ベトナムが一つの国になるのは当然だと考えた。そして、結果としてアメリカもこれを容認してしまった。しかし、同じ民族同士の国家ならば武力によって併合してもよいと言うのなら、1990年の湾岸危機の時、同じアラブ人の国家であるイラクによるクウェートの併合も容認しなければならなかったはずである。しかも旧南ベトナム地域からボートピープルと呼ばれる数十万人もの難民が出たように、併合された側の南ベトナムの人民は、必ずしも北ベトナムとの統合を望んでいたわけではなかったのである。それにもかかわらず、北ベトナムによる南ベトナムの併合が世界から容認され、一方、イラクによるクウェート併合は、侵略行為とされてしまったのである。要するに、ベトナム戦争直後のアメリカは、ベトナム戦争の敗戦の結果、世界の大国としての政治力が一時的に低下していたのである。その結果、仮にアメリカが、北ベトナムによる南ベトナムに対する武力行使を侵略行為であると主張したとしても、世界に認めさせることができなかったのである。これに対して湾岸危機の時のアメリカは、世界の大国としての政治力を回復していたため、イラクの行動を侵略行為と決めつけ、これに武力制裁を加えることを世界に認めさせることができたのである。
ベトナム戦争の前例から考えれば、現在のアメリカといえども、いつまでも超大国でいられるという保証は無いのである。べトナム戦争で失態を演じたように、国際紛争の解決に失敗するなどして国際社会の信用を失い、政治力を失うようなことが起きる可能性もある。もし、そのようなことが起きたら、アメリカの軍事行動を正当化できなくなり、その結果として日本にアメリカ軍が駐留していることを日本国民が疑問視するようなことも起き得るのである。そのような事態になったら、日本政府は日米安保体制を擁護することが困難になり、アメリカの保護によって成り立っている戦後民主主義は動揺することになってしまう。
要するに、アメリカがいくら強大な軍事力を持っていても、それを行使することを正当化できる強力な政治力が失われてしまったら、軍事力の行使を正当化することが困難になり、軍事力が行使できなくなってしまう可能性があるのである。つまり、強大な軍事力を持っているだけでは軍事大国とは言えないのである。軍事大国とは、強力な軍事力を持っていると同時に、軍事力の行使を正当化できる強力な政治力を持った国のことである。たとえば、現在の日本の経済力や技術力からすれば、アメリカに次ぐ規模の軍事力や核兵器を保有することも可能である。しかし、第二次世界大戦後の日本が実際にそのようなことを行おうとしたら、世界中から非難を浴びて孤立してしまうのは間違いない。なぜなら、戦後体制下の日本には強大な軍事力の保有や使用を国際社会に認めさせることができるような強力な政治力が無いからである。つまり戦後体制下の日本は、自国の防衛ができるような強力な軍事力を持つことが経済的・技術的に可能であっても、それを正当化できるような強力な政治力が無いために、アメリカの政冶的・軍事的な保護を受けざるを得ないのである。これも、戦後体制下の日本の安全保障に日米安保体制が不可欠な理由である。
日本には、国連のような国際機関に国際秩序を維持する役割を期待している人たちが居るが、それは国連に対する過大な期待である。なぜなら、国連は超大国アメリカの存在を前提に成り立っているからである。そもそも国際紛争が起きても、それが侵略行為であるかないかを判断するのはアメリカなどの大国である。更に、国連が軍事制裁などを決定しても、それを実行するのは、やはりアメリカなどの大国である。湾岸戦争の時のように、いくら国連決議という正当性を与えられても、アメリカのような強大な政治力を持った国が中心にならなければ、武力行使は不可能である。つまり、アメリカが超大国としての強大な政治力を失うようなことになったら、国連も機能しなくなってしまうのである。
アメリカの政治力と戦後民主主義
戦後体制下の日本人が信じている戦後民主主義のイデオロギーによると、第二次世界大戦は日本やドイツなどの枢軸国による侵略戦争であり、日本は侵略戦争を反省し、戦争を放棄して平和国家になったということになっている。しかし、そもそも侵略戦争という言葉には客観的な定義は無い。現在、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略戦争であったと考えられている理由は、第二次世界大戦に勝利して強大な政治力を確立したアメリカをはじめとした戦勝国が、第二次世界大戦は日本やドイツなどの枢軸国による侵略戦争であったと決定し、その決定を戦勝国の強大な政治力を背景にして日本人を含めた世界中の人間に受け入れさせているからである。従って、もしアメリカをはじめとした第二次世界大戦の戦勝国が政治力を失うようなことになれば、日本人を含めた多くの人間が、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略戦争であったという考えを受け入れる理由が無くなってしまうのである。そうなれば、日本は、侵略戦争を反省して平和国家になる理由が無くなってしまうことになる。つまり、アメリカをはじめとした第二次世界大戦の戦勝国が政治力を失うようなことになれば、戦後民主主義のイデオロギーは正当性を失い消滅してしまうのである。そうなれば、戦後民主主義や戦後体制と呼ばれる国家体制も正当性を失い消滅することになる。
そもそも戦後民主主義は、アメリカの軍事占領下で行われた占領政策によって作られた国家体制である。本来、軍事占領は、国際法によって認められている正当な戦争行為である。しかし現実は、軍事占領を行った国が敗戦国となったような場合、軍事占領が侵略行為というレッテルを貼られて否定されることが多い。つまり、戦争に敗れることによって政治力を失い、自らの戦争行為を正当化できなくなった結果、軍事占領を含めた戦争行為の正当性が失われ、その結果として侵略行為というレッテルを貼られて否定されてしまうのである。第二次世界大戦の敗戦国となった日本とドイツによる戦争中の軍事占領が侵略行為というレッテルを貼られて否定されているのが典型的な例である。逆に、戦勝国は、戦争に勝利することによって政治力が増大し、自らの戦争行為を正当化できるようになる。従って、アメリカによる第二次世界大戦後の日本に対する軍事占領が正当化されているのは、軍事占領が国際法によって認められている正当な戦争行為だからではなく、アメリカが第二次世界大戦の戦勝国となり強大な政治力を確立した結果なのである。
軍事占領は、国際法によって認められている正当な戦争行為ではあるが、正式に講和条約が結ばれて法的に戦争が終結すれば、占領をやめて軍隊を撤退させなければならないことになっている。1951年(昭和26年)9月に日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、翌年の4月に発効した。その結果、日本は法的には独立国家となった。ところがアメリカ軍は、サンフランシスコ講和条約と同時に調印された日米安全保障条約に基づいて、その後も日本に駐留を続けることになったのである。日本の戦後民主主義と呼ばれる国家体制は、アメリカによる軍事占領を前提に作られたものである。従って、戦後民主主義を維持するためには、アメリカによる軍事占領を続けてもらわざるを得ないのである。そして、アメリカによる軍事占領の継続を法的に正当化する手段が日米安全保障条約なのである。つまりアメリカは、戦後民主主義と呼ばれる国家体制を作ることによって、日本を永久に軍事占領することが可能になったのである。しかし、軍事占領が戦争行為である以上、日本とアメリカの間では、実質的には今でも戦争状態が続いていることになるのである。
アメリカは、第二次世界大戦に勝利して強大な政治超大国となり、その強大な政治力によって日本に対する軍事占領を正当化しているのである。そしてアメリカは、その強大な政治力によって正当化された軍事占領を背景にして占領政策を行い、戦後民主主義と呼ばれる国家体制を作ったのである。つまり、第二次世界大戦後のアメリカ軍による占領政策も、その占領政策の延長である戦後民主主義も、そして日米安保条約に基づくアメリカ軍の日本への駐留も、全て、超大国たるアメリカの強大な政治力によって正当化され、維持されているのである。
第二次世界大戦後のアメリカ軍による日本の占領や日米安保条約に基づくアメリカ軍の日本への駐留を合法的で正当な行為と見るか、それともアメリカによる侵略行為と見るかは、各個人の主観の問題である。しかし、個人の主観には政治情勢の変化が決定的な影響を与えるという事実を忘れてはならない。たとえば、第二次世界大戦中は、ほとんどの日本国民が国家や天皇のために戦争に協力していたが、敗戦とそれに続くアメリカ軍による占領という政治情勢の変化によって、日本国民は、平和ぼけと言われるほどの平和主義者に変身してしまった。また、第二次世界大戦後の日本の言論界で大きな影響力を持っていた社会主義のイデオロギーも、ソビエトの崩壊という政治情勢の変化によって影響力を失ってしまった。その結果、誰も社会主義国家を理想だとは思わなくなってしまった。これと同様に、もし将来、アメリカが超大国としての政治力を失うような政治情勢の変化が起きれば、アメリカ軍による日本に対する軍事占領が正当化できなくなり、アメリカの軍事占領下で行われた占領政策も、占領政策によって戦後民主主義と呼ばれる国家体制を作ったことも、そして日米安保条約に基づくアメリカ軍の日本への駐留も、全て正当性が失われ、違法な行為と見なす人間が増え、侵略行為というレッテルを貼られて否定されてしまう可能性が高いのである。
かつて、東ヨーロッパ諸国の共産主義政権は、超大国たるソビエトの政治力によって正当化されて成り立っていた。そのため、ソビエトが崩壊して政治力を失いつつあった時、東ヨーロッパ諸国の共産主義政権は正当性を失い崩壊してしまったのである。これと同様に、アメリカが超大国としての政治力を失うようなことになれば、超大国アメリカの政治力を背景に成り立っている日本の戦後民主主義も、正当性を失い崩壊する可能性が高いのである。
第二次世界大戦後の覇権体制
一般的には、ソビエトの崩壊によってアメリカは唯一の超大国になったと言われている。ある言論人は、アメリカは冷戦という天下分け目の戦いに勝利して天下を取ったなどと言ったが、果たしてそのようなことが言えるのであろうか。
たとえば、日本で天下分け目の戦いと言えば、関ヶ原の合戦である。一般的には徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利して徳川幕藩体制の基礎を固めたとされている。確かに結果としてそうなったのは事実である。しかし、1600年(慶長5年)に徳川家康が関ヶ原で勝利してから、完全な覇権を確立した大坂夏の陣まで、実に十五年の年月を要したという事実も忘れるべきではない。徳川家康が関ヶ原の勝者となった時点では、依然として天下の情勢は流動的であった。諸大名は、次の戦争に備えて城の改築など防衛力の整備に躍起になっていた。そして加藤清正や福島正則のように、大坂城の豊臣秀頼を主君と慕う豊臣家恩顧の大名も存在していた。家康は1603年(慶長8年)に征夷大将軍に就任してから、たったの二年余りで将軍職を息子の秀忠に譲ってしまう。これは、征夷大将軍の職が徳川家だけのものであり、徳川家が天下の覇者であることを諸大名に知らしめるための措置であるが、これは裏を返せば、当時の諸大名は、依然として、必ずしも徳川家が天下の覇者になったとは思っていなかったということである。
このように、天下分け目の戦いに勝利しさえすれば、それだけで直ちに覇権が確立されるというわけではない。このことは一国のみならず、世界の秩序についても同じことが言えるのである。確かに第二次世界大戦に勝利した後のアメリカは、世界の覇者となり、超大国として国際秩序を維持することになった。しかしアメリカは、第一次世界大戦の戦勝国でもあったが、この時は国際秩序の担い手になることに失敗してしまったのである。
第一次世界大戦を連合国側の勝利に導いたアメリカのウィルソン大統領は、新たな国際秩序を作り、アメリカの覇権体制を打ち立てようとした。そこでウィルソン大統領は、第一次世界大戦中の1918年1月に国際連盟の設立を提言した。ウィルソン大統領が考えた戦略は、国際機関を設立し、その主導権をアメリカが握ることによって国際政治の主導権を確立するというものであった。やがて1919年にベルサイユ条約によって国際連盟の設立が決定され、1920年1月に発足した。ところがアメリカは、議会や国民世論の反対によって国際連盟に加盟できなくなってしまった。これは、第二次世界大戦以前のアメリカ大統領が、第二次世界大戦後の大統領のような議会や世論を圧倒するような強力なカリスマを持っていなかったため、軍事・外交政策を議会や世論に認めさせることが困難であったためである。アメリカが国際連盟に加盟できないため、アメリカ抜きで国際秩序を維持することになった結果、第一次世界大戦後の国際秩序は極めて脆弱なものになってしまった。これが結果として、第二次世界大戦勃発の一因となってしまったのである。このように、世界大戦に勝利しただけでは、必ずしも覇権国家になれるとは限らないのである。
第二次世界大戦後は、世界的な規模の戦争は起きていない。それは言うまでもなく、アメリカ主導の国際秩序が維持されて来たからである。
国際秩序が維持されるためには、そのための仕組みが必要である。第二次世界大戦後の国際秩序を守ってきたのは、NATO(北大西洋条約機構)と日米安全保障体制という二つのアメリカ主導の軍事同盟である。しかし、この二つの軍事同盟が成立するためには、超大国ソビエトの脅威が必要であったことを忘れてはならない。
ソビエトの超大国の地位が確立されたのがヤルタ会談である。1945年2月にアメリカの大統領ルーズベルト、イギリスの首相チャーチル、そしてソビエトの独裁者スターリンが、ソビエト領内のヤルタで第二次世界大戦後の国際秩序について話し合った。一般的には、ヤルタ会談では、ドイツの分割占領、ポーランドの国境線の変更、国際機関としての国際連合の設立、そしてソビエトの対日参戦などが決定されたということになっている。しかし、それ以上に重要なことは、この会談でスターリンがルーズベルト大統領と全く対等に渉り合った結果、ソビエトがアメリカと対等な政治的地位を確立してしまったということである。
本来、ソビエトという国は、アメリカと並ぶような超大国になる力を持った国ではなかった。ソビエトは、計画経済によってアメリカに次ぐ世界第二位の経済力を持つ国になったこともある。しかし、アメリカに次ぐ経済力と言っても、ヤルタ会談が行われた頃のソビエトの経済力は、アメリカの二割程度であった。しかもソビエトは、第二次世界大戦中、主要な工業地帯がナチスドイツに占領されたり破壊されたりしたため、兵器や軍事物資を十分に生産することができなかった。ソビエトがナチスドイツと戦えたのは、アメリカやイギリスから兵器や軍事物資の援助を受けていたからである。このような国が超大国の地位を獲得できた理由の一つには、兵器や軍事物資の援助を受けていたとは言え、ソビエトはナチスドイツとの戦いで功績を挙げたということもある。しかし、ソビエトが超大国の地位を獲得できた最大の理由は、ヤルタ会談でスターリンがアメリカのルーズベルト大統領と対等に渉り合うことができたからである。
ルーズベルト大統領にとってヤルタ会談における最大の目的は、スターリンからソビエトの対日参戦の約束を取り付けることであった。ヤルタ会談が行われた頃は、第二次世界大戦が終わりに近づいていたとは言え、アメリカは依然として日本との戦いに大きな犠牲を強いられて苦戦していた。この時、まだソビエトと日本の間では、戦争が始まってはいなかった。そこで、アメリカの犠牲を減らすためには、どうしてもソビエトの対日参戦が必要であった。一方、スターリンは、このアメリカの苦境を見抜いていた。しかもルーズベルト大統領は、ソビエトをナチスドイツに代わる新たな脅威と考えていたチャーチル首相とは違い、スターリンと共産主義体制を甘く見ていたため、スターリンやソビエトと協調して行ける信じていた。これらの理由からルーズベルト大統領はソビエトとの友好関係を考え、スターリンとの交渉で譲歩を重ねたのである。このためスターリンは、ルーズベルト大統領と対等に渉り合うことができたのである。つまりルーズベルト大統領は、スターリンに手玉に取られていたのである。ルーズベルト大統領は、内政における政治手腕や、戦争において国民を団結させる能力には優れていたが、外交は不得意であったと言わざるを得ない。
こうしてスターリンは、ソビエトの経済力の不足を自らの政治手腕で補うことによって、ソビエトの超大国の地位を獲得したのである。そういう意味では、スターリンは天才的な政治家であったと言える。こうして、政治力はあっても経済力の欠ける奇怪な超大国ソビエトができあがってしまったのである。
ところが、ルーズベルト大統領の亡き後、アメリカ大統領に就任したトルーマンは、スターリンと共産主義体制を甘く見ていたルーズベルトとは違い、ソビエトに対して常に強硬な外交政策を行った。1948年のソビエトによるベルリン封鎖に対して空輸で対抗して、スターリンに一歩も譲らなかったのがよい例である。トルーマン大統領は、この奇怪な超大国を利用することによって、アメリカが世界を支配する体制を作り上げたのである。
トルーマン大統領は、1947年3月12日にアメリカの議会で行った演説の中で、ソビエト封じ込めのための外交方針であるトルーマン・ドクトリンを発表した。この中でトルーマン大統領は、共産主義体制は全体主義体制であるとして、次のように述べた。「圧政に縛られない諸国民の平和的発展を保障する」ことが、アメリカ外交の目的であると述べた上で、「全体主義体制を強制しようとする侵略行動に抵抗して自由な諸制度と国家の独立を保持しようとする自由国民を我々が進んで助けねば、我々の目的は実現できまい。」と述べ、共産主義の脅威にさらされているギリシャとトルコに対する経済支援の必要性を議会に訴えた。このトルーマン・ドクトリンは、その後のアメリカのソビエトに対する封じ込め政策の基本理念となった。
トルーマン・ドクトリンが表明される以前のアメリカ国民は、ソビエトや共産主義に対抗するために経済的な負担をしたり海外へアメリカ兵を送ったりすることには消極的であった。ところがトルーマン大統領がトルーマン・ドクトリンによって国家としての明確な外交理念をアメリカ国民に示した結果、アメリカ国民の意識は一変した。湾岸戦争の時、ブッシュ大統領の決断がアメリカの世論をイラク攻撃への全面的な支持に変えたのと同じように、トルーマン大統領の断固たる意志表明がアメリカ国民のソビエトや共産主義に対する対抗意識を盛り上げることになり、対ソビエト封じ込め戦略に対する支持を得ることができたのである。その結果、「共産主義との戦い」が、アメリカの外交政策の基本理念となったのである。
こうしてアメリカ国民のソビエト封じ込め政策への支持を得ることに成功したトルーマン大統領は、ソビエトの脅威に直面する自由主義国家を経済的・軍事的に支援することによってソビエトの膨張主義を封じ込める戦略を世界中で推進していった。トルーマン政権の世界戦略は、ソビエトの脅威から同盟国の安全を守ることを理由に、自由主義諸国をアメリカの経済体制や軍事的支配下に組み込んでしまうことである。この戦略に基づき、西ヨーロッパに対しては、経済的には経済復興を名目にマーシャル・プランを実行し、軍事的にはNATO(北大西洋条約機構)の結成が行われた。これによってアメリカの西ヨーロッパに対する支配体制が確立された。またアメリカは、日本に対しても経済復興のための援助を行い、更に日米安全保障条約を締結した。こうして、「共産主義との戦い」を理念としたアメリカ主導の国際秩序が確立されたのである。
一方のソビエトは、アメリカに対抗してCOMECON(経済相互援助会議)とソビエト主導の軍事同盟であるワルシャワ条約機構を設立した。こうしてソビエトも東ヨーロッパの共産圏における支配体制を確立したのである。
ソビエトは、見せかけは恐ろしい軍事超大国である。アメリカは、この見せかけの軍事超大国ソビエトを利用することによって、世界にアメリカの覇権を確立したのである。一方のソビエトは、自国の力がアメリカに遙かに劣ることを知っていたため、うかつにアメリカと、その同盟国に手出しができなかった。ソビエトは、たまにアメリカに挑戦するような行動を起こしても、ベルリン封鎖やキューバ危機の時のようにアメリカが強い態度に出れば引っ込んでしまう。このようして第二次世界大戦後の国際秩序は維持されて来たのである。
ルーズベルト大統領は、ヤルタ会談でソビエトに超大国の地位を与えてしまうという失敗を犯したが、トルーマン大統領は、その失敗を逆手にとって利用することによってアメリカ主導の国際秩序を確立したのである。こう考えると、トルーマン大統領はスターリン以上の天才であったのかもしれない。
こうしてアメリカとソビエトを盟主とした二つの経済・軍事ブロックが世界を舞台に睨み合う国際秩序が成立したのである。この国際秩序を維持するためには、米ソ両超大国間の対立と緊張が必要であった。それが冷戦である。つまり、米ソ両超大国にとっての冷戦とは、自国の覇権国家の地位を守るための手段であったと言える。米ソ両超大国は、冷戦という手段を使って第二次世界大戦後の世界を共同統治していたのである。
現在でもNATOと日米安全保障体制は一応存続しているが、この二つの軍事同盟は、あくまで冷戦時代のソビエトの軍事的脅威に対抗することを名目にして作られたものである。現在のアメリカが、かろうじて超大国の地位を維持していられるのは、これらのトルーマン大統領が作り上げた冷戦時代の遺産が、今のところは完全に失われてはいないからである。
アメリカとヨーロッパ諸国と日本にとって共通の軍事的脅威であるソビエトが消滅しても、NATOと日米安全保障体制が無くならない理由の一つには、NATOと日米安全保障体制には、軍事同盟以外の存在理由があるからである。それは、第二次世界大戦の戦勝五ヶ国であるアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアにとって共通の敵国であるドイツと日本を軍事的に封じ込めるためである。戦勝五ヶ国にとっては、ドイツと日本は今でも潜在的な軍事的脅威である。そのため、NATOと日米安全保障体制の軍事同盟としての意味が無くなっても、ドイツと日本を軍事的に封じ込める手段としては、依然として意味を持ち続けているのである。ただし、アメリカやヨーロッパ諸国が、このことをあからさまに言うわけにはいかない。従って、NATOと日米安全保障体制を今後とも維持するためには、「共産主義との戦い」に代わる新たな国際秩序を維持するための理念が必要なのである。
戦勝国の政治力
ソビエトが崩壊して冷戦が終わった後、アメリカを始めとした第二次世界大戦の戦勝国の政治力が低下している。それを示すよい例が、1998年にインドとパキスタンが相次いで核実験を行って事実上の核保有国になったことをアメリカが阻止できなかったことである。
核兵器は、第二次世界大戦の戦勝五ヶ国であるアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアが国際政治の主導権を握り続けるための重要な政治的手段である。そして、核拡散防止条約(NPT)なるものは、戦勝五ヶ国が核兵器を独占することを正当化する手段である。戦勝五ヶ国は、核兵器を独占することによって非核保有国に対する軍事的優位を確立し、それを背景に国際政治の主導権を維持して来たのである。従って、戦勝五ヶ国以外の国の核保有を許してしまったのでは、戦勝五ヶ国の大国としての地位が危うくなりかねないのである。従って、アメリカがインドとパキスタンの核実験と核兵器の保有を阻止できなかったのは、明らかに失策である。
更に、アメリカのブッシュ政権は、2001年9月11日に起きた同時多発テロに対するアフガニスタンへの報復戦争の協力を得るため、インドとパキスタンに課していた核実験に対する制裁を解除してしまった。これは事実上、インドとパキスタンの核保有を認めるものである。本来は第二次世界大戦の戦勝国にしか認めていなかった核兵器の保有を戦勝国以外の国にも認めるということは、アメリカが自ら第二次世界大戦後の国際秩序を破壊してしまったということである。
また、1995年にフランスが行った核実験と1996年に中国が行った核実験は、世界中から非難を浴びた。核兵器の保有は、国連の安保理常任理事国の地位と同じく、第二次世界大戦の戦勝国に与えられた特権である。中国とフランスの核実験に対して抗議や反発が起きたということは、国際世論は、もはや第二次世界大戦の戦勝国の特権など認めなくなりつつあるということである。
これらの核兵器を巡る政治状況の変化が意味するのは、アメリカを含めた第二次世界大戦の戦勝五ヶ国の政治力が低下したということであり、第二次世界大戦後の国際秩序が崩壊に向かって動き出しているということである。ソビエトの崩壊の結果、冷戦は終わり、もはやロシアは超大国ではなくなった。しかし、その結果アメリカは、ソビエトの脅威から同盟国を守ることを理由にして自由主義諸国をアメリカの主導する国際秩序に組み込むことが難しくなってしまった。そのため、国家体制が崩壊したロシアのみならず、冷戦の勝者であるはずのアメリカの政治力までが低下してしまったのである。結局、アメリカとソビエトは、冷戦のライバル同士であったのと同時に、共に第二次世界大戦後の国際秩序を主導する仲間同士でもあったのである。
第二次世界大戦後の世界を徳川時代の日本にたとえるなら、アメリカ、ソビエト、イギリスといった戦勝国は、武士と同様の支配階級である。これに対して敗戦国の日本やドイツを含めた世界の大多数の国々は、百姓や町民と同じ被支配階級なのである。そして徳川幕府が武士階級のみに帯刀を許したように、第二次世界大戦後の世界では、戦勝五ヶ国のみに核兵器の保有が許されていたのである。従って、アメリカがインドとパキスタンの核兵器の保有を認めてしまったことは、第二次世界大戦後の士農工商の「身分制度」が崩壊しつつあることを示しているのである。結局、冷戦の終わりは、アメリカを始めとした第二次世界大戦の戦勝国による世界支配の終わりの始まりであったと言える。
アメリカの迷走
ブッシュ政権がインドとパキスタンの核兵器の保有を認めてしまったことが、アメリカの軍事・外交政策が迷走する始まりとなった。
これに続く更なる迷走が、ブッシュ政権が2003年3月に始めたイラク戦争によってイラクのサダム・フセイン政権を打倒したことである。なぜなら、アメリカがサダム・フセイン政権を打倒したことは、アメリカの利益と矛盾するからである。
1979年にイランにイスラム教シーア派の法学者であるホメイニ師の指導によって革命が起きた結果、イランはシーア派のイスラム原理主義国家となった。そしてイランは、イランと同じくイスラム教シーア派の住民が存在する国々に対して「革命の輸出」を行おうとした。一方、ペルシャ湾をはさんでイランの対岸に位置するアラブ産油国の多くは、イスラム教スンニー派が主導する政権ではあるが、シーア派の住民も少なからず存在するため、イランによる「革命の輸出」はアラブ産油国の安定を脅かすことになり、更には、アメリカの石油利権をも脅かすことになった。そのため、スンニー派主導の政権であるイラクのサダム・フセイン政権は、イランを中心としたシーア派のイスラム原理主義勢力の脅威からスンニー派のアラブ産油国を防衛してアメリカの石油利権を守るための防波堤となった。それゆえ、1980年に始まったイラン・イラク戦争の時、アメリカはサダム・フセイン政権を積極的に支援したのである。イラク戦争は、アラブ産油国とアメリカの石油利権を守るための防波堤であるサダム・フセイン政権をアメリカが自ら破壊する行為である。しかもイラクでは、サダム・フセイン政権が打倒された後に行われた議会選挙の結果、もともと人口の上で多数派であるシーア派がイラク議会とイラク政府の主導権を握ることになった。そして2011年12月14日にオバマ大統領がイラク戦争の終結を宣言し、12月18日にはイラクに駐留するアメリカ軍の撤収が完了した。しかし、このアメリカ軍のイラクから撤退によって、シーア派主導のイラクは、同じシーア派のイランに接近して、シーア派のイスラム原理主義勢力の影響下に入る可能性もあるのである。つまり、結果としてイラク戦争は、イランを中心としたシーア派のイスラム原理主義勢力の拡大に手を貸して、アラブ産油国の安定とアメリカの石油利権を更に脅かす結果になりかねないのである。それゆえ、イラク戦争はアメリカの迷走と言えるのである。
また、イラク戦争を開始した過程でも、アメリカは迷走していた。
イラク戦争の開戦以前、当初ブッシュ政権は、イラクが国連による大量破壊兵器査察に応じなければ武力で攻撃すると言っていた。ところがやがて、大量破壊兵器査察に応じるか応じないかにかかわらずイラクを攻撃すると言い出したのである。そして遂には、イラク攻撃の目的は、サダム・フセイン政権の打倒であると言い出す始末である。このように、ブッシュ政権の主張するイラク戦争の目的は、ころころと変わっていたのである。要するに、ブッシュ政権にとっては、イラクを攻撃する理由など何でもよかったのである。とにかくイラクを攻撃したくてたまらなかったのである。
本来、戦争を行うためには明確な戦争目的が必要である。そして、明確な戦争目的があっても直ちに戦争は行わず、その前に戦争目的を達成するための外交努力を行わなければならない。その外交努力にもかかわらず戦争目的を達成できない場合、初めて戦争を行うか行わないかの検討に入るのである。そして、軍事行動を始める前には、あらかじめ国際社会から軍事行動への支持を得ておかなければならない。これが軍事・外交政策の基本である。戦争に勝利するとは、戦争目的を達成することである。そして、戦争目的を達成して戦争に勝利したと判断したら、直ちに戦争を止めなければならない。従って、明確な戦争目的が無ければ、勝利したのか、してないのか分からなくなってしまう。そのため、どの時点で戦争を止めてよいのかも分からなくなり、下手をすればベトナム戦争のような泥沼状態に陥ってしまうのである。また、国際社会の支持が得られない戦争は、正当性の無い戦争である。正当性の無い戦争は、国家と軍隊による殺人行為に過ぎない。
1991年の湾岸戦争における、父親の方のブッシュ大統領が行ったイラク攻撃は、戦争の手本のような戦争と言える。クウェートを占領しているイラク軍をクウェートから撤退させるという明確な戦争目的があり、しかも国際社会からの全面的な支持を得ることに成功した。そして、イラク軍をクウェートから撤退させるという戦争目的が達成されると、直ちに戦争を停止した。これによってアメリカは湾岸戦争に大勝利したのである。これに対して息子の方のブッシュ大統領のイラク戦争は、父親の方のブッシュ大統領の湾岸戦争と比べると、戦争の手本とは程遠いものであったと言わざるを得ないのである。
イラク戦争が始まる前、ブッシュ政権がイラクに武力行使をする理由の一つとして挙げていたのが、イラクに大量破壊兵器が存在し、それがオサマ・ビン・ラディンのようなテロリストに渡るのを阻止するためというものであった。しかし、UNMOVIC(国連監視検証査察委員会)やIAEA(国際原子力機関)によるイラクに対する査察も、最後までイラクに大量破壊兵器が存在するという証拠を見つけることができなかった。しかも、イラクがオサマ・ビン・ラディンらのテロリストとかかわりがあるという証拠も全く示されなかった。従って、イラクの大量破壊兵器を武装解除するというブッシュ政権の主張する戦争理由には、何ら説得力が無かったのである。しかも、もともと政治的にアメリカと距離を置いていたフランスに加えて、アメリカの同盟国であるドイツやベルギーまでが、UNMOVICやIAEAによる査察の継続を主張し、アメリカによる対イラク攻撃に反対し始めた。
2003年2月18日から19日の二日間わたり、国連の安全保障理事会でイラク問題に対する公開討論が開かれた。この公開討論で意見表明をした六十ヶ国余りの国の中で、アメリカによるイラク攻撃に明確な支持を表明したのは、日本やオーストラリアなどの十ヶ国程度にとどまり、残りの大多数は反対の意志を表明した。その結果、アメリカの国際社会からの孤立が明確になってしまった。
そして、国連安全保障理事会を構成する十五ヶ国の中でも、アメリカとイギリス以外でイラク攻撃を積極的に支持したのは、スペインとブルガリアだけで、残りの十一ヶ国は反対か消極的な態度を示したため、アメリカは武力行使決議に必要な賛成票の九票を確保することを断念する羽目になってしまった。その結果、ブッシュ大統領は2003年3月17日、イラクに対する最後通告の中で「国連安全保障理事会は、その責任を全うしていない。」と述べ、国連安全保障理事会の決議なしでイラクに対する武力行使を行わざるを得なくなってしまった。
ブッシュ大統領は、2001年9月11日の同時多発テロ以来、「テロとの戦い」を冷戦時代の「共産主義との戦い」に代わる国際秩序の理念と定めた。そしてイラク戦争は、「テロとの戦い」を旗印にした戦争であったが、このように世界の多くの国々がアメリカによる武力行使に反対したのである。これによって、「テロとの戦い」が「共産主義との戦い」に代わる国際秩序の理念にはなっていないことが明らかになったのである。つまり、依然としてソビエト封じ込め戦略に代わる国際秩序の理念は完成していないのである。
ブッシュ大統領は、2003年3月20日にイラクに対して開戦を宣言し、イラクに対する空爆を開始した。更に3月21日、アメリカ軍とイギリス軍は地上軍による戦闘を開始し、首都バグダッドに向けて行軍を始めた。途中、砂嵐によって戦線が膠着状態になったり、イラク民兵のゲリラ戦に手を焼いたりはしたが、4月4日にはバグダッド郊外のサダム国際空港を制圧し、首都バグダッドに到達した。そして4月9日、バグダッドは陥落し、サダム・フセイン政権は崩壊した。
しかし、サダム・フセイン政権が崩壊した後も、アメリカの迷走は続いたのである。
サダム・フセイン政権が打倒されたことで、イラク戦争は軍事的にはアメリカとイギリスの勝利に終わった。しかし問題は、サダム・フセイン政権を打倒した後のことである。
アメリカがイラク戦争を正当化する理由の一つに、イラクに「自由と民主主義」を樹立することがあった。しかし、法の支配の伝統も民主主義の伝統も無いイラクに「自由と民主主義」が成立するとは考えられない。つまり、イラクのように法の支配が確立されていない国家は、結局、武断統治をするしかないのである。
首都バグダッドが陥落し、サダム・フセイン政権が崩壊した直後から、バグダッド市民による略奪や強盗などの法・秩序に反する行為が始まった。個人の家や商店どころか、病院や博物館までが略奪の対象となり、医療器具や貴重な文化財までが略奪されてしまった。それまでイラク国民は、サダム・フセイン政権の武力と恐怖を背景にした武断統治によって法・秩序を守ることを強制されていた。ところがサダム・フセイン政権が崩壊した結果、法・秩序を守ることを強制する力が失われてしまった。そのため、略奪や強盗などの法・秩序に反する行為が横行する結果になったのである。これが法の支配が確立されていない国家の国民なのである。これに対して、法の支配が確立されている国家の国民には、権力によって法・秩序を守ることを強制されなくても、自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着している。自由とは、法の支配が確立されている国家の国民にのみ与えることができるものである。イラク国民のような法の支配が確立されていない国家の国民に自由を与えたら、法・秩序が混乱してしまうだけである。法の支配が確立されていない国家の国民が法・秩序に従うのは、権力者の力が恐ろしいからである。従って、イラクのような法の支配が確立されていない国家で法・秩序を維持するためには、権力者はサダム・フセインのように国民から恐れられていなければならないのである。そのためには武力と恐怖による支配、すなわち武断統治が必要なのである。当然、このような国家に民主主義が成立するわけがない。アメリカがイラクを民主化すると言うのなら、イラクに法の支配を確立しなければならない。それができなければイラクの民主化は失敗し、アメリカは正義を失うことになる。
ヨーロッパ諸国に民主主義の伝統が確立されるまで、中世以来、数百年の年月がかかっている。その間、ヨーロッパ諸国では宗教戦争や市民革命によって多くの人間の血が流されているのである。従って、もしイラクが数年で近代的な民主主義国家になったとしたら奇跡としか言いようがないのである。結局、イラクに成立したのは、アメリカの力によって支えられている、形だけの民主主義国家だと考えざるを得ない。これでは、イラクに自由と民主主義を樹立するというイラク戦争の戦争目的は達成できないことになってしまう。そして、戦争目的が達成できなければ、たとえ軍事的に勝利しても、結果としては敗戦なのである。
当初、ブッシュ政権は、サダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有を、イラク戦争を正当化するための大義名分としていたが、アメリカによる必死の捜索にもかかわらず、遂にサダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有の証拠は発見されなかった。そして2004年10月6日、CIA(中央情報局)主導のイラク大量破壊兵器調査団は、イラク戦争開戦の2003年3月の時点で、イラクには、いかなる大量破壊兵器も存在しなかったという結論をアメリカ議会に提出した。これによってイラク戦争の大義名分であったサダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有は、ブッシュ政権によるでっち上げであったことが明らかになったのである。
アメリカによるイラクの占領統治において大きな問題であったのが、テロリストやゲリラの攻撃である。ブッシュ大統領が2003年5月1日にイラクにおける大規模な戦闘の終結を宣言した後も、アメリカ兵やイギリス兵などに対するテロ攻撃が毎日のように起き、一向に収まる様子が無いどころか、ますます激化し、死傷者は増える一方であった。そして遂に、人道支援活動を行っている国連や赤十字国際委員会までがテロリストの攻撃を受けてしまった。そして、国連はイラクから撤退してしまった。
2004年になっても、アメリカのイラク占領統治の混迷は深まる一方であった。かつてイラクのイスラム教シーア派は、イスラム教スンニー派のサダム・フセイン政権から弾圧されていたため、アメリカの占領統治には協力すると期待されていた。ところが、そのイスラム教シーア派までがアメリカを敵視するようになってしまった。2004年4月に入ると、イラク各地でシーア派の強硬派の指導者サドル師を支持する民兵組織のマフディ軍とアメリカ軍との間で武力衝突が発生した。更に、当初イラク戦争を支持していたスペインが、2004年3月11日にマドリードで起きたテロ事件をきっかけにイラクに駐留する部隊の早期撤退を決定した。これに続いてホンジュラスやドミニカなどもイラクからの撤退の意志を表明したため、アメリカのイラク占領統治は動揺することになった。
イラクでは、憲法を制定して正統政府を樹立するための移行政府を作るため、2005年1月30日に国民議会選挙の投票が行われ、4月28日にイスラム教シーア派やクルド人などの各派からなる連立政権が発足した。当初、国民に選ばれた議会によって作られた政府の発足によって、イラクの治安が改善されることが期待されていたが、全く期待はずれの結果となった。連立政権が成立した後も依然としてイスラム過激派によるテロリズムが止むことは無く、アメリカ兵や一般市民の犠牲者が出る状況が続いていた。そのため、開戦当初、ブッシュ大統領を熱烈に支持していたアメリカ国民も、一向に減らないアメリカ兵の死傷者や安定しないイラクの治安状況のため、次第にイラク戦争に対して懐疑的になり始めた。
2006年になり、イラク戦争の開戦から三年たった頃には、アメリカ兵の死者は二千数百人という数になり、アメリカ国内に厭戦気分が蔓延し始めた。そして2006年11月、イラク戦争が最大の争点となった中間選挙の結果、ブッシュ大統領の与党の共和党が上下両院で議席数が過半数割れをしたため、イラク戦争がブッシュ政権の失策と見なされて国民の支持を失っていることが明らかになった。この選挙結果を受け、ブッシュ大統領は、イラク戦争推進の中心人物であったラムズフェルド国防長官を解任した。これは事実上、イラク戦争が失敗であったことをブッシュ大統領が認めたものである。
当初、イスラム過激派によるテロリズムは、アメリカ兵やイラク政府の要人を標的にしたものであったが、次第にシーア派やスンニー派といった、対立する宗派の民間人にまで標的が拡大していった。その結果、一部のアメリカのジャーナリズムまでが、イラクの状況を「内戦」と表現するようになってしまった。
ブッシュ政権は、イラクの治安を安定させるため、2007年1月からアメリカ兵のイラクへの増派を始めた。増派の規模は、二万二千人に達した。これによって2007年の末にはテロリズムが減り、アメリカ兵やイラク市民のテロリズムによる犠牲者は半減した。しかし、イラク戦争がアメリカ国民の支持を失っている状況には変わりが無かった。
ブッシュ政権が、このイラク戦争の失点を挽回しようとして焦ったことが、更なる失策を招く結果になってしまった。それが対北朝鮮外交である。
アメリカにとって北朝鮮の核開発は、クリントン政権以来の外交問題であった。特に、北朝鮮が2006年10月9日に核実験を行ったと発表したことは、朝鮮半島を含めた東アジア全体の安全保障にとって重大な問題と見なされていた。一方、金正日体制を温存することが最優先目的である北朝鮮は、アメリカなどの国から経済支援を引き出し、疲弊した経済を立て直して国民の支持を得なければならない。北朝鮮にとっての核開発は、アメリカなどの国から経済支援を引き出す交渉を行うための切り札でもある。そのため北朝鮮は、日本、アメリカ、韓国、中国、ロシアと北朝鮮による六カ国協議など、北朝鮮の核問題を解決するための交渉の場で核放棄を迫られても、可能な限りアメリカから自国に有利な条件を引き出そうとして粘り、なかなか核放棄を実行しようとはしなかった。
これに対してブッシュ政権は、北朝鮮に核放棄を実行させるため、様々な手を打った。その一つが、北朝鮮に対する金融制裁の解除である。
ブッシュ政権は2005年9月、中国のマカオにある、北朝鮮の貿易決済や外貨取引に使われていた銀行「バンコ・デルタ・アジア」を「資金洗浄に関与した疑いの強い金融機関」に指定したため、「バンコ・デルタ・アジア」はアメリカの金融機関との取引が事実上できなくなり、取り付け騒ぎが起きた。マカオ当局は混乱を回避するため「バンコ・デルタ・アジア」内の北朝鮮関連口座を凍結した。すると、他の金融機関も北朝鮮との取引を避けたため、北朝鮮は大打撃をこうむった。これは事実上の北朝鮮に対する金融制裁である。ブッシュ政権は北朝鮮に核放棄を促すため、2007年3月14日、この金融制裁を事実上解除することを発表したのである。しかし、それでも北朝鮮は、完全な核放棄を実行しようとはしなかった。
そして、北朝鮮の核実験の発表から一年近くたった頃、ブッシュ政権は六カ国協議で、核計画の「完全かつ正確な」申告と引き換えに、1983年のラングーン爆弾テロ事件や1987年の大韓航空機爆破事件を理由に北朝鮮に課していたテロ支援国家指定を解除するという条件を示した。この背景には、核兵器の拡散を防ぎたいということもあったが、任期が残り一年余りと迫ったブッシュ政権の、何とか功績を残したいとの焦りもあった。そして2007年10月、六カ国協議は、北朝鮮が核計画の申告をすることで合意した。
そして2008年6月26日、北朝鮮は六カ国協議の議長国の中国に核計画の申告書を提出した。しかし、北朝鮮の提出した核計画の申告書は、ウラン濃縮計画、核兵器開発の実態や核兵器の数、そして核兵器関連施設など、核兵器開発に関する情報が記されておらず、「完全かつ正確な」とは言えないものであった。しかも、北朝鮮が核兵器開発を止めるという保証があるわけでもない。それにもかかわらず、ブッシュ大統領は、「北朝鮮のテロ支援国家指定を四十五日後に解除する旨を議会に通告する。」と述べ、核計画の申告書が提出されたことに対する見返りとして、北朝鮮のテロ支援国家指定を解除することを決定したのである。その後、アメリカと北朝鮮の間で、核計画の申告書の内容を検証する方法を巡って意見が合わず、実際のテロ支援国家指定の解除は予定の期日を過ぎてもなかなか行われなかったが、結局、2008年10月11日に北朝鮮のテロ支援国家指定は解除されてしまった。テロ支援国家指定が解除された結果、北朝鮮は世界銀行からの融資やアメリカから経済援助を受けることが可能になった。これによって北朝鮮の国家体制は、更に温存される可能性が高まったのである。これは、何とかしてイラク戦争の失敗を挽回して功績を残したいと焦っているブッシュ政権の足元をじっくりと見て、したたかに交渉を重ねた北朝鮮の勝利であり、功を焦ったブッシュ政権の敗北である。
また、北朝鮮に対するテロ支援国家指定の解除の決定によって、日本にとって対北朝鮮外交の最大の課題である日本人拉致問題の解決の交渉をするための最大の切り札が失われてしまった。ブッシュ大統領は、「アメリカは北朝鮮による日本人拉致を決して忘れない。」などと述べたが、拉致被害者家族や日本人のブッシュ大統領に対する失望感を拭い去ることはできなかった。そもそも北朝鮮による日本人や韓国人の拉致がテロ行為であることは、アメリカ政府も認めていたことである。そして北朝鮮のテロ支援国家指定が解除された時点でも、北朝鮮国内には依然として多くの拉致被害者が存在していたことは明らかである。つまり、依然として北朝鮮による日本人や韓国人の拉致というテロ行為は続いていたのである。それにもかかわらずブッシュ大統領は、北朝鮮のテロ支援国家指定を解除してしまったのである。これでは、ブッシュ大統領の掲げる「テロとの戦い」が頓挫してしまったものと見なされても仕方が無い。
このように、ブッシュ政権が行った軍事・外交政策は、迷走としか言いようが無いのである。
超大国の行方
本来、超大国とは、世界を制して一つに団結させる強力な政治力を持った国のこと言うのである。従って、世界を団結させることができず、イラク戦争で迷走し、対北朝鮮外交で敗北したアメリカを超大国と言うことには疑問がある。
ソビエトという共通の敵の消滅によって、同盟国を団結させることが難しくなったことも、アメリカが超大国としての政治力が低下した理由である。しかしアメリカは、かつてのソビエトとは違い、依然として経済力や軍事力といった面では圧倒的な国力を持っている。その国力を国際政治の場で十分に発揮できないのは、同盟国共通の敵が消滅したという理由だけではない。
国力と言うと、経済力や軍事力のような物理的な力だけを指して言われることが多いが、それは大きな誤りである。なぜなら、国力というものは単に経済力や軍事力のような物理的な力だけで決まるものではなく、国家の指導者の政治や軍事の才能といったものも国力を決定する上で重要な要素であることが歴史を見れば明らかだからである。
本来なら辺境の弱小勢力に過ぎなかった国家や民族が、政治や軍事に天才的な才能を持った指導者が登場した結果、巨大な帝国に発展した例が歴史上いくらでもある。その典型的な例が、マケドニアとモンゴルである。ギリシャ世界の辺境国家に過ぎなかったマケドニアは、紀元前四世紀の後半にフィリッポス二世の才能によってギリシャ世界の覇者となった。そして、フィリッポス二世の後継者となった息子のアレクサンドロスの才能によってペルシャ帝国を軍事力で征服して巨大な帝国となった。また、十三世紀の始め、抗争を繰り返していたモンゴルの諸部族は、チンギス・ハーンの才能によって統一された。そしてモンゴルは、金帝国やホラズムなどの強国を軍事力で次々と撃破して世界帝国へと発展していった。アレクサンドロスによって征服されたペルシャ帝国にしろ、チンギス・ハーンによって撃破された金帝国やホラズムにしろ、軍事的にも経済的にもマケドニアやモンゴルに勝るとも劣らぬ強国であった。そのような国を軍事力で打ち破ったり征服したりすることを可能にしたのが、アレクサンドロスやチンギス・ハーンの政治と軍事の才能であった。
ただし、イギリスに始まった産業革命以降は、マケドニアやモンゴルのように、弱小勢力が天才的な指導者の才能によって強大な帝国に発展することは不可能になった。それは、資本主義経済と産業革命によって生み出される膨大な物量や優れた技術が、戦争の勝敗や国力を決定する大きな要因になってしまったからである。たとえ天才的な指導者の才能で、経済力や軍事力に勝る強国を一時的に打ち破ることができても、征服するのは不可能である。しかし、だからと言って、国力を決定する上で、指導者の政治や軍事の才能が全く無用になったわけではない。なぜなら、アメリカやソビエトが超大国の地位を確立する過程で、フランクリン・ルーズベルトやトルーマン、そしてスターリンといった指導者の政治能力が必要不可欠であったからである。しかし、有能な指導者の力によって超大国となった国も、無能な指導者が登場して政治や軍事で大きな失敗をした結果、政治力が低下してしまう可能性もあるのである。従って、現在、唯一の超大国と言われているアメリカが、経済力や軍事力といった物理的な力を維持することができても、無能な指導者が政治や軍事で何か大きな失敗をして政治力が低下してしまったら、超大国の地位を失う可能性もあるのである。
第二次世界大戦の時、アメリカがナチスドイツと日本を同時に戦争で打ち破るほどの超大国となったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の政治能力の賜物であったと言える。なぜなら同じアメリカでも、ベトナム戦争の時は、ジョンソン大統領の無能のために小国北ベトナムに戦争で敗れるような弱小国になってしまったからである。つまり、アメリカの国力の強弱は、大統領の政治能力によって大きく左右されるのである。
現在のアメリカ大統領の強大な力は、フランクリン・ルーズベルト大統領によって確立され、その後の大統領に継承されている。しかし、大統領に就任した者が前任者から継承するのは、あくまで大統領のカリスマや国家の権威といった最高指導者を務めるために最低限度必要な力であって、政治手腕や判断力といった政治家としての能力は、大統領個人の能力に頼らざるを得ないのである。いくら強大なカリスマや権威を持っていても、政治的な判断を誤り、ベトナム戦争やイラク戦争のような失敗を繰り返すようでは、超大国の最高指導者は務まらないのである。そのため、超大国アメリカの大統領は、高度な判断力や政治手腕といった超大国の最高指導者にふさわしい能力を持った政治家でなければならない。従って、前任者から大統領のカリスマや国家の権威といった力を引き継いだだけでは、アメリカ一国の防衛のような最低限度のことができる大統領にはなれても、フランクリン・ルーズベルトのような偉大な大統領や超大国にふさわしい大統領になれるわけではないのである。つまり、アメリカが第二次世界大戦に勝利して超大国の地位を確立できたのは、フランクリン・ルーズベルト大統領やトルーマン大統領といった傑出した最高指導者の政治手腕や判断力によってもたらされた奇跡なのである。従って、傑出した大統領の存在しないアメリカには超大国と言えるほどの実力は無いのである。つまり、ジョンソンや息子の方のブッシュのような無能な大統領が指導するアメリカは、経済力や技術力といった力に限れば圧倒的な力を持っていても、指導者の政治的な能力を含めた総合的な力では、決して世界を制する超大国ではないのである。要するに、無能な大統領が指導するアメリカは、超大国と言えるほどの実力が無いにもかかわらず、超大国の地位にしがみついているに過ぎないのである。
かつてアメリカは、ベトナム戦争の敗北とニクソン大統領がウォーターゲート事件の責任をとって辞任したことによる政治の混乱と国家の権威の低下によって、超大国としての政治力が低下してしまった。この時期のアメリカは、国家の権威も大統領のカリスマの力も低下し、国民は自信を失い、政治も経済も低迷を続けていた。軍事・外交上の意志決定には、最高指導者の強力なカリスマの力が必要である。ところが、ニクソン大統領が辞任した後のアメリカは、政治の混乱によって大統領のカリスマの力が低下した結果、軍事・外交上の意志決定ができなくなったため、軍事面では、ほとんど何もできない状態が続いていた。それを象徴する出来事が、ベトナム戦争が終わった後の南ベトナムの崩壊である。
アメリカはベトナム和平協定に基づき、ベトナムから全ての軍を撤退させたが、その後も南北ベトナム間の戦闘がやむことは無かった。そして1975年になると北ベトナムは攻勢を強め、1975年4月30日には南ベトナムの首都サイゴンを陥落させる。こうして南ベトナムは崩壊してしまった。これに対して、アメリカのフォード政権も議会も、同盟国であった南ベトナムを助けようとはせず、南ベトナムを見殺しにしてしまったのである。その理由の一つは、当時のアメリカはベトナム戦争の敗戦と反戦運動の影響によって厭戦気分に陥り、もはや戦争をする気力を失っていたということもある。しかし、それ以上に大きな理由は、ベトナム戦争の敗戦とウォーターゲート事件によって引き起こされた政治の混乱によって国家の権威と大統領のカリスマの力が低下した結果、軍事・外交上の重大な意志決定を行う力が低下してしまったということである。
この時期のアメリカの窮地を救ったのが米ソ冷戦であった。西側諸国には、ソビエトの軍事的脅威から西側諸国の安全を守ってくれる盟主が必要であった。そして、西側諸国の盟主が務まるような力を持った国は、結局、アメリカしか存在しなかった。そのため西側諸国は、ソビエトの軍事的脅威に対してアメリカを中心に団結せざるを得ず、NATOや日米安全保障体制といったアメリカを中心とした軍事同盟が維持されたため、アメリカの超大国の地位は守られたのである。
アメリカの権威の低下と軍事政策の停滞した状況は、レーガン大統領の登場によって打破された。レーガン大統領の自信に満ちた態度が、アメリカ国民の自信を取り戻し、国家の権威や大統領のカリスマの力も復活する。そして軍事的にも、グレナダ侵攻やリビア爆撃をやってのける。こうして、ベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件以来、低下していた国家の権威と大統領のカリスマの力は復活したのである。そのレーガン大統領が復活させた大統領の強大な力は、そのまま父親の方のブッシュ大統領に継承されたのである。父親の方のブッシュ大統領が湾岸戦争の時に強大な力を発揮できたのは、ベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件によって失墜した大統領の力をレーガン大統領が復活させておいたからに他ならない。従って、レーガン大統領は、湾岸戦争勝利の陰の功労者と言える。
一方でレーガン大統領は、ソビエトを「悪の帝国」とののしり軍拡競争を挑んだ。これに対して、経済が破綻状態にあったソビエトは耐えられなくなってしまった。そして1991年、遂にソビエトは崩壊して冷戦が終了してしまった。その結果、アメリカは、唯一の超大国になったが、同時に冷戦という超大国の地位を守る手段を失ってしまったのである。
息子の方のブッシュが大統領であった時代のアメリカは、冷戦という超大国の地位を守る手段が失われたこととブッシュ大統領の凡庸な政治能力のため、超大国としての力を低下させてしまった。その結果、イラク戦争や対北朝鮮外交のような迷走をすることになってしまったのである。
そして、更にアメリカの超大国としての力を低下させかねないのがオバマ大統領である。
2011年12月にオバマ大統領がイラク戦争の終結を宣言し、イラクからのアメリカ軍の撤収が完了した。しかし、イラク国内では依然としてテロリズムや、スンニー派やシーア派といった宗派間の対立などの政治を不安定化させかねない事態が収まってはいない。また、イラク議会は隣国のイスラム原理主義国家のイランと同じイスラム教シーア派が政治の主導権を握っているため、アメリカ軍の撤収によってイラクに対するアメリカの影響力が減少し、それに代わってイランの政治的な影響力が増大する可能性がある。そのようなことが起きれば、イラクもイランと同様のイスラム原理主義国家になり、イスラム教シーア派のイスラム原理主義の力が増大し、シーア派の住民が居住するアラブ産油国の安定を脅かす可能性もある。従って、アメリカ軍のイラクからの撤収は、イラクにとどまらず中東全域に混乱を引き起こす可能性があるのである。こういったことは、当然アメリカも承知しているはずである。それにもかかわらずオバマ大統領がイラクからアメリカ軍を撤収させるのは、超大国たるアメリカの役割を放棄するものだと言わざるを得ない。要するに、アメリカは超大国の役割を担うことを拒否し始めたのである。従って、イラクからのアメリカ軍の撤収もアメリカの迷走と言わざるを得ないのである。
アメリカの指導者が、今後も息子の方のブッシュ大統領やオバマ大統領のような迷走を繰り返すようなら、遠からずアメリカは超大国の地位を失うであろう。そして、一度、超大国の地位を失ってしまったら、取り戻すのは極めて困難である。なぜなら、再び超大国の地位に就くためには、フランクリン・ルーズベルトのように強力なカリスマや指導力があり、トルーマンのように優れた外交能力のある大統領が登場する必要があるからである。しかし、歴史を見れば分かるように、そのような指導者が登場するのは極めて稀なことである。
また、アメリカが唯一の超大国になってしまったことそれ自体も、アメリカの超大国としての力を低下させた一因である。当初、第二次世界大戦後の国際秩序は、ヤルタ会談に参加したアメリカ、イギリス、ソビエトの三つの超大国によって維持されることになっていた。しかしイギリスは、第二次世界大戦が終わった直後からインドを始めとした植民地が独立し始めたため、大英帝国が崩壊して超大国としての政治力が失われた結果、国際秩序を維持する役割から脱落してしまった。そしてソビエトも1991年に崩壊してしまったため、結局、国際秩序の維持は、唯一の超大国となったアメリカだけの役割となってしまった。その結果、国際秩序を維持する重責がアメリカ一国にのしかかることになったため、アメリカに無理を強いることになり、力の低下に拍車をかけることになったのである。
日本がアメリカから自立する時
日本は太平洋戦争に敗れた後、アメリカに従属することになった。しかし、アメリカが超大国としての政治力を維持している今の時点では、日本がアメリカから自立するのは極めて困難である。なぜならアメリカとしては、そう簡単に日本の自立を認めるわけにはいかないからである。
アメリカが日本の自立を認めるわけにはいかない理由の一つは、超大国の地位を維持するためである。超大国とは世界を制する国である。そして、世界を制するためには世界の主要国をアメリカに従属させなければならない。アメリカに従属する世界の主要国の中でも最大の国が日本である。従って、日本がアメリカから自立してしまったら、アメリカの超大国の地位は揺らいでしまうのである。
そして、アメリカが日本の自立を認めるわけにはいかないもう一つの理由が、アメリカの安全保障のためである。日本軍による真珠湾攻撃は、今でもアメリカ人の記憶に深く刻まれている。日本に真珠湾攻撃のようなアメリカに対する先制攻撃など、二度とさせてはならないということがアメリカ人の強い決意である。しかし、日本が独立国家であれば、日本がアメリカの敵国となり、真珠湾攻撃と同様の先制攻撃を行う可能性があると考えざるを得ない。従って、日本がアメリカの敵となり先制攻撃を行うような事態が二度と起きないようにするためには、結局、アメリカは日本を独立国家にするわけにはいかないのである。そのためには、日本を永久にアメリカに従属させるしかないのである。
安全保障や危機管理というものは、考え得る最悪の事態を想定し、それを防ぐための最善の方法を考えるのが常識である。日本が世界で有数の経済大国であるということは、世界で有数の軍事大国になる可能性があるということでもある。そして、日本は核兵器を開発する能力があると見なされ、更に大陸間弾道ミサイルに転用可能なロケット技術も持っている。従って、ワシントンやニューヨークなどのアメリカの主要都市が日本の核ミサイルの標的になる可能性もあるということである。可能性がある以上は、実際にそれを防ぐための手段を講じなければならない。現在、日本がアメリカの軍事的脅威にならないのは、日米安保体制によって日本が事実上アメリカの軍事占領下に置かれているためである。しかし、もし日本が自立してしまったら状況は一変する。日本が自立するということは、日本が独自に軍事・外交政策を決定するということである。そしてそれは、日本がアメリカと敵対するような軍事・外交政策を選択することも可能になるということである。安全保障政策の基本は、自国の安全を脅かす可能性のある国に対して備えることである。いかに友好関係にある国といえども、いつ敵国になるか分からないのが国際政治の現実である。だから、友好国といえども、敵国になった場合に備えて軍事力を整えておかなければならないのである。従って、日本がアメリカから完全に自立するようなことになった場合、日本とアメリカの関係がいかに良好であっても、アメリカは対日軍備を怠るわけにはいかなくなってしまうのである。そして、アメリカが対日軍備を行う以上、日本としても対米軍備を行わざるを得なくなってしまうのである。
従って、もし、日本が現在のアメリカから自立しようとすれば、アメリカは、軍事力の行使も含めた、あらゆる手段を使って、それを阻止しなければならないのである。そのため、アメリカとの軍事対決が避けられなくなってしまう可能性が高いのである。現在のアメリカは、イラク戦争が始まるまでの経過を見れば分かるように、極めて好戦的な国である。一度アメリカが戦争を行うと決意すれば、イラク戦争開戦時の大量破壊兵器疑惑のような、ありもしないような理由をでっち上げてでも戦争を行おうとするのである。日本が現在のアメリカのような好戦的な軍事大国と軍事的に対決するのは自殺行為である。従って、日本が現在のアメリカから自立するのは、ほとんど不可能なのである。
もし将来、日本がアメリカから自立する時が来るとすれば、それは日本がアメリカから自立しようとしても、アメリカが日本に対して容易に軍事力の行使ができなくなった場合に限るのである。自国の防衛以外の理由で他国に対して軍事力を行使するためには、それを正当化できる強力な政治力が必要である。もし何らかの理由でアメリカが国際社会やアメリカ国民からの信用を失い、自国の領土を防衛する場合しか他国に対して軍事力の行使ができなくなる所まで政治力が低下してしまったら、アメリカは同盟国の防衛や国際秩序の維持といった理由で他国に対して軍事力を行使することが不可能になり、超大国の地位を失ってしまう。アメリカがこのような状態になって、初めて日本はアメリカから自立することが可能になるのである。従って、その時が来るまでは、日本政府はアメリカの「犬」を演じ続けるしかないのである。
終わりに
日本の最高指導者と天皇制
軍事・外交上の重大な意志決定をすることが、国家の最高指導者の役割である。従って、最高指導者が存在しない戦後体制下の日本は、軍事・外交政策の意志決定ができず、その結果、独自の軍事・外交政策を行うことが不可能になってしまったのである。戦後体制下の日本は、アメリカの軍事力と政治力の保護下にあり、国家の安全保障は日米安保体制によってアメリカに肩代わりをしてもらっているため、最高指導者が不在の不完全な国家体制でも、どうにか国家が成り立っている。しかし、将来、何らかの理由で日米安保体制が消滅してアメリカの保護を受けられなくなり、独立国家にならざるを得なくなった場合は、このような不完全な国家体制では国家が成り立たないのである。
現在の時点でも日米安保体制が維持されているのは、今のところは一応、日本国民や国際社会が、アメリカに超大国としての政治力があると見なしているからである。軍事力や経済力がいくらあっても、どのような体制の国家であっても、力の行使を正当化できるような強力な政治力が無ければ、その力を十分に使いこなせないのである。ベトナム戦争の敗戦の後、一時的とは言え、アメリカの政治力が低下した結果、軍事・外交政策が停滞した時期があったのがよい例である。従って、アメリカが、ブッシュ政権やオバマ政権のような迷走を今後も続けるようなら、ベトナム戦争に敗れた時と同様にアメリカの政治力が低下して、軍事・外交政策が停滞する可能性があるのである。ただし、仮にそうなったとしても、その政治力の低下が一時的なものにとどまるのか、それとも長期的に続いてNATOや日米安全保障体制が機能しなくなり、超大国の地位が失われる所まで政治力が低下してしまうのか、今のところは分からない。ただ、過去の歴史を見れば分かるように、超大国や覇権国家なるものが永久に続いた例は無いのである。歴史上、超大国や覇権国家と呼ばれた国はいくつもあった。ペルシャ帝国、ローマ帝国、中国の秦、漢、唐帝国、モンゴル帝国、そして大英帝国といった国々である。これらの国々は、一時期、強大な軍事力や政治力によって繁栄したが、結局、最後は弱体化して滅亡したり小国になったりしている。このような過去の歴史から考えれば、現在、超大国として世界に君臨するアメリカも、いずれはその地位を失う時がやってくる可能性が高いのである。従って、日本がいつまでも国家の安全保障をアメリカに肩代わりしてもらえる保証は無いのである。
2003年(平成15年)6月に、いわゆる有事関連法が成立したのは、北朝鮮による拉致問題や不審船問題などによって、日本国民が国家の安全保障に対して不安を持つようになったという背景があったからである。このことからも分かるように、日本国民は、安全保障が国家の最大の役割であることを理解しているのである。従って、日本国民が国家・国民の安全を守れないような国家体制を支持することは、あり得ないのである。従って、もし、アメリカによる日本の安全保障の肩代わりが無くなり、戦後民主主義では国家・国民の安全が守れないということが明らかになれば、戦後民主主義は日本国民から見捨てられ、破綻するしかないのである。
また、そもそも戦後民主主義と呼ばれる国家体制は、超大国たるアメリカの政治力を背景に作られたものである。そのため、太平洋戦争以前の満州国が大日本帝国の政治力によって正当化されていたように、あるいは、ソビエト崩壊以前の東ヨーロッパ諸国の共産主義体制が超大国ソビエトの政治力によって正当化されていたように、戦後民主主義は超大国アメリカの政治力によって正当化されて維持されているのである。従って、アメリカが超大国としての政治力を失えば、それだけで戦後民主主義は正当性を失い消滅する可能性もあるのである。
もし、アメリカが超大国としての政治力を失い戦後民主主義が消滅すれば、日本は新たな国家体制を作らざるを得なくなる。そして、もはやアメリカに国家の安全保障を頼れない以上、国家の防衛は日本が自ら行わざるを得なくなる。従って、日本は明治維新の時のように、国家の防衛が可能な強力な国家体制を作らざるを得なくなるのである。そして国家の防衛のためには、国家の非常時において国民一致団結させ、軍事・外交上の意志決定に国民を従わせることができる強力なカリスマを持った最高指導者が常に存在する必要がある。そのためには、強力なカリスマを前任者から後任者へと安定して継承できる体制が必要である。世界には、強力なカリスマを安定して継承できる体制として、大統領制と君主制の二種類が存在する。しかし、日本の場合は、最高指導者が必要になっても大統領制が成立することはない。その理由は、日本には天皇以外の者が最高指導者になることを否定する独自の伝統・文化が存在するからである。
その伝統・文化の一つが、天皇以外の者は、行政機関の長である「行政の責任者」になることはできても、正統な国家の最高指導者になることはできないというものである。明治体制下の日本でも戦後体制下の日本でも、内閣総理大臣は「行政の責任者」の役職であり、国家の最高指導者の役職ではない。従って、たとえ国家の最高指導者にふさわしいと思われる政治家が存在していても、その政治家が「行政の責任者」である内閣総理大臣に就任したところで、国家の最高指導者になったとは言えないのである。これは、憲法を改正して大統領制や首相公選制を導入してみたところで結果は同じことである。
ただし、日本の歴史上、正統な国家の最高指導者にはなれなかったが、実質的な国家の最高指導者に匹敵する存在になった人物は何人も存在する。その一人が、明治政府が成立したばかりの頃の西郷隆盛である。西郷隆盛が実質的な最高指導者に匹敵する存在になった理由は、明治初期の日本を武断統治していたことにある。明治初期の明治天皇は、国家の最高指導者としての力を十分に持っていなかった。しかも、当時の日本は、まだ法の支配が十分に確立されていなかった。そのため明治初期の日本の国家体制は、極めて不安定な状況にあった。このような状況にあったにもかかわらず、明治政府は廃藩置県や廃刀令などの武士の特権を奪う改革を行わなければならず、改革に対する武士たちの不満から政治の混乱が起きる恐れがあった。そのため明治政府は、西郷隆盛の強力なカリスマの力と、彼の率いる八千人の兵からなる御親兵の武力で武士たちの不満を押さえつけて、廃藩置県などの政治改革を断行したのである。
西郷隆盛が明治初期の日本を武断統治することができるような強力なカリスマを獲得した背景にあったのが、乱世である。かつて日本に武家政治が成立した理由は、本来は正統な日本の最高指導者である天皇が国家を統治する力を失い、しかも法の支配が確立されていなかったため、政治が混乱して乱世になってしまったためである。その乱世を武力によって平定して強力なカリスマを獲得した武家の棟梁が征夷大将軍となり、天皇に代わり日本を武断統治したのが武家政治や幕府と呼ばれる国家体制である。つまり武家政治とは、日本の正統な最高指導者である天皇が国家の最高指導者としての力を十分に持っておらず、しかも法の支配も確立されていないという状況の下で、武家の棟梁が国家の最高指導者の役割を代行するものである。従って、武家の棟梁であり幕府の長でもあった征夷大将軍は、「行政の責任者」であったのと同時に、天皇の臨時代行でもあったということである。明治初期の日本は、天皇の最高指導者としての力が不十分であり、しかも法の支配も十分に確立されていなかったため、黒船事件に始まる乱世が完全に収まってはいなかった。そこで、幕末の動乱を制した西郷隆盛が、強力なカリスマと武力を背景にして、一時的に日本を武断統治して、国家の最高指導者の役割を代行していたのである。つまり、この時期の西郷隆盛の役割は、征夷大将軍と同じである。明治初期の日本は「西郷幕府」の統治下にあったのである。
日本の武家政治は、基本的には中国の武断統治と同じである。中国は、歴史が始まってから今日に至るまで、一度も法の支配が確立されたことは無かった。更に、皇帝を始めとした最高指導者が国家を統治する正統性を確立したことも無かった。そのため中国の指導者は、日本の武家政治の指導者と同様、乱世を武力によって平定した者と、その後継者が、強力なカリスマと武力を背景に最高指導者として国家に君臨して武断統治を行って来たのである。秦の始皇帝から毛沢東やケ小平に至るまで、これが歴代中国の指導者が国家を統治する方法である。武家政治の時代の日本も、古代から現代に至る中国も、法の支配が確立されておらず、強大なカリスマと武力を持った指導者が存在しなければ国家を統治できず乱世になってしまうという点では同じである。そして、日本の武家政治の指導者も歴代の中国の指導者も、国家を統治する正統性は無く、強大な武力とカリスマの力にのみ頼って統治するしかなかったという点でも同じである。
太平洋戦争後の日本は、天皇の最高指導者としての力は失われているものの、中国や明治初期以前の日本とは違い、法の支配が確立されているため、戦国時代や幕末から明治初期のような乱世になる可能性は無い。そのため、西郷隆盛のような乱世の英雄が登場して幕府のようなものを作り、実質的な最高指導者に匹敵する力を持つようなことが起きる可能性は低いのである。そもそも西郷隆盛のような国家の最高指導者としての正統性の無い者が、実質的な最高指導者に匹敵する力を得て国家・国民を指導することは、中国や明治初期以前の日本のような、法の支配が確立されていない国家にのみ可能なことである。従って、近代以降の欧米諸国や明治初期より後の日本のような、法の支配が確立されている法治国家では、大統領や天皇のような正統な最高指導者の役職に就任しなければ国家・国民を指導できないのである。つまり、明治初期より後の日本は法治国家であるため、たとえ西郷隆盛のような乱世の英雄が登場しても、法的に正統な最高指導者の役職に就任しなければ実質的な最高指導者にはなれないのである。しかも日本は、天皇のみが法的に正統な国家の最高指導者の役職であるという伝統が確立されているため、日本の歴史上、法的に正統な最高指導者の役職は、天皇以外には存在したことが無かった。そのため、天皇以外の者が法的に正統な最高指導者になることは不可能なのである。従って、将来日本に最高指導者が必要な時が来たとしても、天皇以外の者が最高指導者になったり実質的な最高指導者に匹敵する存在になったりするようなことが起きる可能性は、ほとんど無いのである。
更に、天皇以外の者が最高指導者になること否定する伝統・文化として挙げられるのが、現人神を信仰する伝統である。
天皇は、明治維新の頃から現人神となった。そして、明治維新から太平洋戦争の敗戦に至る七十年以上の間、現人神たる天皇が日本に君臨した結果、日本の社会に現人神を信仰する伝統が定着してしまった。その結果、日本では、いくら強力で有能な指導者でも、現人神になれなければ国家の最高指導者にはなれなくなってしまったのである。
天皇以外の者で現人神となったのはマッカーサーだけである。マッカーサーが現人神となった理由の一つは、日本人の現人神を信仰する伝統とマッカーサーの強烈な個性が噛み合った結果であるが、それだけでマッカーサーが現人神になることができたわけではない。日本が太平洋戦争に敗れ、天皇のカリスマの力が低下して現人神としての力が失われた状況の下で、超大国アメリカの強大な政治力と軍事力を背景に連合国最高司令官として日本に君臨していたこともマッカーサーが現人神になることができた理由である。つまり、マッカーサーが現人神となったのは、日本人の現人神を信仰する伝統、そして日本の敗戦、更に超大国アメリカの力を背景にしたマッカーサーという強烈な個性を持った人物による占領統治といった、いくつもの要因が重なった結果、偶然に起きた出来事であったと言える。従って、日本の一政治家がマッカーサーと同じことをするのは、ほとんど不可能である。そのため、将来の日本に天皇以外の者が現人神として君臨する可能性は極めて低いと考えざるを得ない。従って、現人神を信仰する伝統も、天皇以外の者が日本の最高指導者になることを阻んでいると言えるのである。
幕末の動乱から明治維新の時期にかけて天皇の権威が復活した理由の一つが、国家体制の変革のためである。欧米の近代国家の原点である社会契約説の考えは、国家や社会は、人間の自由な意志に基づく契約によって作られたものである以上、あらゆる国家や社会は、人間の自由な意志により契約をやり直すことによって変更できるというものである。従って、近代の欧米人の考えでは、国家や政治のあり方は、人間の自由な意志によって決定できるということになる。ところが、明治維新以降の日本人には近代の欧米人のような、人間が国家のあり方を自由に決定するという考えが無いのである。明治維新以降は、国家のあり方は現人神という宗教的権威を持つ者が決定するという考えが日本人の無意識の中に定着してしまっている。従って、明治維新以降の日本人は、何らかの理由によって既存の国家体制が行き詰まり、今までとは違う全く新しい発想の国家体制を作らざるを得なくなった時、現人神が必要となるのである。黒船事件によって徳川幕府には国家を防衛する能力が無いことが明らかになり、日本の国家体制を国家の防衛が可能なものに作り替えることが必要となった。そこで新たな国家体制を決定するため、現人神たる天皇が登場し、明治維新が起きたのである。また、太平洋戦争後の日本でも、アメリカによる軍事占領の下、戦後民主主義と呼ばれる国家体制を成立させるため、マッカーサーという現人神が必要であった。このように明治維新以降の日本人は、国家体制に変革が起きる時、どうしても現人神が必要になるのである。従って、もし将来、何らかの理由で、日本が今までとは違う全く新しい発想の国家体制を作らざるを得なくなった時、明治維新の時のように、現人神たる天皇が新たな国家体制を決定するために登場する可能性があるのである。
現人神や宗教の教典のような宗教的権威によって国家が統治されるのが現人神を信仰する伝統である。そして、明治体制下の天皇制も戦後民主主義も、現人神を信仰する伝統に基づいた国家体制であることには変わりが無いのである。日本人の現人神を信仰する伝統は、太平洋戦争の敗戦や、それに続くアメリカの占領統治という衝撃的な事態に陥っても揺らぐことが無いほど、強く日本の社会に定着しているのである。そのため、明治維新以降の日本には、現人神を信仰する伝統に基づいた国家体制しか成立しないのである。
このように、明治維新以降の日本では、天皇以外の者が正統性のある実質的な最高指導者になることは不可能なのである。従って、将来、日本にアメリカのような大統領制が成立することも、内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になることも不可能なのである。
独立国家としての日本の国家体制は、明治時代に、古代より続いていた天皇制の伝統に加えて法の支配や現人神を信仰する伝統が加わった形で確立された。国家が自立するためには国家の防衛が可能な国家体制が必要である。そして国家の防衛が可能な国家体制には、国家の非常時に国民を一致団結させることが可能な強力なカリスマを持った指導者、すなわち最高指導者が必要不可欠である。更に、明治時代以降の日本のような法の支配が確立された国家では、最高指導者としての法的な正統性がある者のみが、正統な国家の最高指導者になることが可能であり、征夷大将軍のような国家を統治する法的な正統性が無い役職にある者が実質的な最高指導者になることはあり得ない。そして古代より続いてきた天皇制の伝統においては、天皇だけが法的な正統性がある最高指導者の役職である。従って、明治以降の日本では、天皇以外の者が、最高指導者としての実質的な力と正統性を兼ね備えた最高指導者になることはあり得ないのである。更に、明治維新以降の日本には、現人神を信仰する伝統が確立されている。つまり、明治時代以降の日本における独立国家としての国家体制は、現人神たる天皇が最高指導者として君臨する国家体制、すなわち明治体制以外は成立しようがないのである。明治体制は、明治時代に完全に日本の社会に定着してしまったため、明治時代以降の日本は、独立国家になるためにも、独立国家を維持するためにも、明治体制を継承するしかないのである。
太平洋戦争後の日本では、明治体制は消滅したのではなく、超大国アメリカの政治力によって封じ込められて、一時的に機能を停止させられているに過ぎないのである。そして、明治体制が一時的に機能を停止させられている状態の下で、超大国アメリカの政治力を背景にして、戦後民主主義や戦後体制と呼ばれている国家体制が維持されているのである。従って、アメリカが超大国としての政治力を失った時、戦後民主主義は消滅するしかないのである。その時、日本が独立国家になることが可能になるのである。
虚構の民主主義
世界の多くの人間は、民主主義と呼ばれる国家体制について、二つの誤った認識をしている。
誤った認識の第一は、民主主義は独裁者の存在と独裁権力の行使を否定しているということである。
一般的に言われている民主主義国家は、国家の指導者によって引き起こされる権力の乱用から国民の自由や権利を守るための国家体制ということになっている。まず、国家の最高指導者には人間の意識を変えるような強力なカリスマは持たせない。そして法的な権限を、法の執行権、立法権、司法権の三つに分割する。そして、法を執行する最高指導者、立法府である議会、そして司法権を行使する裁判所にそれぞれ対等の力を与えて互いに監視させ、三者の中の一つが独走することを防ぐ。更に、国民やジャーナリズムには言論の自由や思想の自由など様々な自由を与え、議会と共に最高指導者を監視するのである。一般的に言われている民主主義国家では、このようにして強大な力を持った独裁権力の出現を防ぎ、国民の自由と権利を守るということになっている。
ところが現実は、非常事態に対処する場合や国家の防衛のためには、強力なカリスマを持った最高指導者の指導の下、国民が一致団結して行動しなければならないのである。従って、一般的に言われている民主主義国家では、非常事態に対処することや国家の防衛ができないことになる。これでは国家とは言えない。つまり、一般的に言われている民主主義国家とは、非常事態に対処する能力や国家を防衛する能力が無い、非現実的な虚構の国家なのである。
たとえて言うなら、一般的に言われている民主主義国家の「設計図」には、非常事態に対処する機能や国家を防衛する機能が存在しないということである。フランス革命の指導者たちも、ドイツのワイマール共和国を作った指導者たちも、この一般的に言われている民主主義国家の「設計図」の欠陥に全く気がつかないまま、「設計図」に従って民主主義国家を作ってしまったのである。そのため、フランスの第一共和政もドイツのワイマール共和国も、国家の非常事態に対して十分に対処できず、国民の信用を失い崩壊してしまったのである。その結果、ナポレオンやヒトラーのような独裁者が登場することになったのである。
一方、アメリカやイギリスなどの民主主義国家の確立に成功した国は、一般的に言われている民主主義国家の「設計図」に「最高指導者のカリスマを継承する体制」や「慣習上の非常独裁制」といった「設計変更」を加えることによって国家の非常事態に対処することを可能にし、民主主義国家を現実的なものにしていったのである。しかも、その「設計変更」は、長い時間をかけ、いくつもの戦争や国家の危機を経験し、多くの人命を犠牲にした結果として行われたものである。そのため、欧米諸国のような民主主義国家の伝統・文化を持った国でも、現実的な民主主義国家は容易には成立しないのである。ところが、今日、世界で一般的に民主主義国家とされている国家は、「設計変更」された現実的な民主主義国家ではなく、「設計変更」される以前の虚構の民主主義国家なのである。つまり、世界の多くの人間は、アメリカやイギリスなどの現実の民主主義国家が、「設計変更」されたものであることに全く気がついていないのである。そして、欧米諸国が虚構の民主主義国家を世界中に広めてしまった結果、民主主義国家と言う名の欠陥国家が、世界中で粗製濫造されることになってしまったのである。
「設計変更」された民主主義国家は、平時における独裁権力の行使を禁じているだけであって、非常時に限った独裁権力の行使は認めているのである。そして、非常時に限るとは言え、独裁権力の行使を認めているということは、独裁者の存在を認めているということなのである。従って、民主主義は独裁者の存在と独裁権力の行使を否定しているという認識は虚構に過ぎないのである。
民主主義についての誤った認識の第二は、民主主義国家には普遍性があるということである。つまり、世界中どこの国にも民主主義国家は成立するという認識は、明らかな誤りである。
アメリカは、世界中の国に対して民主主義国家になることを要求している。そして、アフガニスタンやイラクを、軍事力を背景に民主主義国家に作り変えようとした。しかし、このようなことは極めて無謀な行為であると言わざるを得ない。ヨーロッパ諸国の民主主義国家は、中世以来、数百年という長い年月をかけて、宗教改革や市民革命といった変革を経て、信仰の内面化、内面の自由、社会契約説、啓蒙主義、法の支配、政教分離など、様々な民主主義国家が成立するために必要な伝統・文化が確立された結果として成立したものである。アメリカの場合は、もともとアメリカを建国した人々が宗教改革を経たイギリス人の一部であったため、アメリカ人自身が宗教改革を行う必要は無かった。そして、アメリカのイギリスからの独立戦争が、同時に市民革命でもあった。しかし、アフガニスタンやイラクに限らず、世界には宗教改革や市民革命が起きたことが一度も無いため、民主主義国家が成立するために必要な伝統・文化が確立されていない国が数多く存在するのが現実である。従って、アメリカが、宗教改革や市民革命が起きたことが無い国を民主主義国家にすると言うのなら、まず十六世紀のヨーロッパでマルチン・ルターが始めたような宗教改革から始めなければならなかったことになる。しかし、実際にアメリカが民主化と称して世界各地で行っていることは、アフガニスタンやイラクのような、民主主義国家が成立するために必要な伝統・文化が確立されていない国で、宗教改革も市民革命も抜きにして、いきなり憲法や選挙制度や議会制度といったものを作るという行為である。このような歴史も現実も無視した行為が失敗するのは当然のことである。要するに、アメリカ人は、民主主義国家の成り立ちを全く理解していないのである。
民主主義国家が成立するために特に重要なのが法の支配の確立である。たとえば、政治家や国家の最高指導者などを選ぶための選挙を行う場合、法の支配が確立されていない国では、法の手続きによる権力の継承ができないため、選挙を行っても選ばれた者が国家の指導者になれるかどうか分からないのである。更に、軍事クーデターなどによって選挙結果が否定されるようなこともある。また、国民に自由を与える場合も、法の支配が確立されていない国の国民には自ら進んで法・秩序に従う慣習が無いため、自由を与えたら犯罪行為が増加して治安が悪化したり、政治が混乱したりするような場合が多いのである。ところが欧米諸国は、日本のような法の支配が確立された国のみならず、法の支配が確立されていない多くのアジアやアフリカ諸国にまで民主主義国家を広めようとしているのである。そのため、欧米諸国の言う通りに民主主義国家を作ってしまった国の多くが、国家の機能の停滞、あるいは政治や社会の混乱といった事態に悩まされているのである。
結局、人間は、国家や民族固有の伝統・文化の枠の中でしか物事を理解することができないのである。そして国家体制は、国家や民族固有の伝統・文化の産物なのである。民主主義国家にしてみても、所詮は欧米固有の伝統・文化の産物であり、欧米とは異なる伝統・文化を持つ国や民族には容易に通用しないのである。民主主義国家を作ることは、欧米の伝統・文化を導入することであり、それに成功した国や民族のみが民主主義国家を作ることが可能なのである。欧米の民主主義国家は、日本人の伝統・文化の枠を超えたものであるため、日本人には容易に理解できないのである。また、中国には民主主義国家の実現のために命がけで活動している人たちが存在する。しかし、たとえ将来、彼らが政権を取ることがあっても、法の支配が確立されていない中国では、秦の始皇帝以来の専制政治を継承するしかないのである。結局、日本や中国が民主主義国家になれないのは、西欧の伝統・文化の産物である民主主義と日本や中国の伝統・文化が噛み合わないからである。従って、民主主義国家に普遍性があるという認識も、虚構に過ぎないのである。
このように、欧米諸国の掲げる民主主義国家とは、かつてソビエトが掲げていた社会主義国家と同様の虚構なのである。そして、イラク戦争を見れば分かるように、アメリカ自身が、その虚構に踊らされているのである。
一般的には、民主主義は世界の潮流であって、これからの世界の進むべき道であると思われている。しかし、思い出してほしいのは、ソビエトの崩壊以前、世界の多くの人間が、社会主義のことを世界の潮流であり進歩であり歴史の到達点であると思っていたという事実であり、ソビエトが崩壊すると、ほとんどの人間が社会主義のことを世界の潮流だとも進歩だとも思わなくなってしまったという事実である。つまり、社会主義が進歩的であると思われていたのは、超大国であったソビエトの政治力の影響に過ぎなかったのである。これと同じことが、日本のような、民主主義国家が成立するために必要な伝統・文化が欠けている国にとっての民主主義にも言えるのである。つまり、日本における民主主義とは、超大国であるアメリカの政治力が、日本に形だけの民主主義を流行させているに過ぎないのである。従って、もし将来、アメリカの超大国としての政治力が低下するような事態になれば、日本の民主主義はソビエト崩壊後の社会主義と同様に流行遅れになってしまうであろう。
私は、日本の戦後民主主義の問題点を指摘したが、第二次世界大戦後の日本が戦後民主主義以外の道を歩むべきであったと言うつもりは無い。それは、第二次世界大戦後の国際秩序の中で日本が生き残っていくためには、アメリカの意向や世界戦略に従わざるを得なかったからである。なぜなら、第二次世界大戦後の日本にとってアメリカに逆らうことは自滅を意味するからである。第二次世界大戦の結果、アメリカ陣営に属することになったほとんどの国は、否応なしにアメリカの唱える正義を受け入れざるを得なくなってしまった。アメリカの唱える正義によれば、日本を含めた世界の全ての国は、最終的には欧米流の民主主義国家にならなければいけないことになっている。従って、第二次世界大戦後の日本は、明治体制下のような天皇制国家になることも、共産主義国家になることも、超大国であるアメリカが容認しない以上は不可能であった。しかし、近代国家の伝統の無い日本には欧米流の民主主義国家など成立しない。そこで、第二次世界大戦後の日本がアメリカの支配する国際秩序に適応し、国民の利益を守るためには、欧米流の民主主義国家の「化けの皮」をかぶるしか無かったのである。つまり、日本の戦後民主主義とは、欧米流の民主主義国家を形だけ真似ただけの擬態の民主主義国家に過ぎないのである。
平成23年12月29日
著者自己紹介
氏名 宮本一也
性別 男
居住地 山梨県
生年月日 昭和37年3月3日
趣味 政治に関する本を読む
パソコン
愛車 トヨタのビッツ
好きな食べ物 ラーメン
「戦後民主主義の幻想」を読んで下さった皆様へ
「戦後民主主義の幻想」を読んでいただき、まことにありがとうございました。
この「戦後民主主義の幻想」は、当初は本として自費出版するつもりで書いていたものですが、予算の都合で無理であるということが分かったため、このようなインターネット上の発表に変更したという次第です。ちなみに、或る出版社に聞いたところ、この「戦後民主主義の幻想」は、本にすると240ページくらいになるのだそうです。
「戦後民主主義の幻想」は、最新の政治状況に基づいて、常に加筆・修正を行っております。一度お読みになられた方も、しばらくたってから読んでいただけると、また別の内容の「戦後民主主義の幻想」を読むことができます。
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