宮本一也著


戦後民主主義の幻想






                             始めに



 第二次世界大戦後の日本は、欠陥国家としか言いようが無い。
 日本は、第二次世界大戦に敗れて以来、常にアメリカの軍事・外交政策に従属し続けて来た。現在の日本は、世界第二位の経済力を持ち、経済大国と言われている国である。そのような国がどうして独自の外交も国家の防衛もできず、アメリカに追随しているのだろうか。世界には経済的にも軍事的にも日本より遥かに弱小であるにもかかわらず、独自の外交や国家の防衛を行っている国はいくらでもあるのが現実である。冷戦時代なら、強大なソビエトの軍事力に対抗するためという説明ができるが、ソビエトが崩壊して冷戦が終わった現在では、そのような説明は通用しない。また、戦後の日本が独自の外交や国家の防衛ができない理由として、戦後の政治家達の無能を主張する人達が数多く存在するが、政治家として無能な人物が国家の指導者になってしまうのは、何も戦後の日本に限ったことではない。世界には無能な政治家が指導する国などいくらでもある。指導者が無能なくらいのことで独自の外交や国家の防衛ができなくなってしまうと言うのなら、世界のほとんどの国が戦後の日本のようになってしまっているはずである。結局、私には、戦後の日本の国家体制そのものに重大な欠陥あるとしか考えられないのである。
 国家の最大の役割は、国家の防衛である。ところが、戦後の日本政府には、その最大の役割を果たすことが不可能なのである。その原因は、戦後体制下の日本には戦争をする能力が無いため、国家の防衛ができないからである。
 戦後の日本に戦争が出来ない主な理由は、次の二つである。
 第一の理由は、戦後の日本には国家の最高指導者が存在しないことである。
 こう言うと、内閣総理大臣が居るではないかと反論されるであろう。しかし私に言わせれば、日本の内閣総理大臣など国家の最高指導者ではないのである。確かに、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」とあり、内閣総理大臣の権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。この日本国憲法の条文からすれば、法的には内閣総理大臣は、日本の行政機関の最高責任者ということになる。そして、通常、行政機関の最高責任者が国家の最高指導者ということになっている。しかし私の考えでは、行政機関を指導する法的権限を持っているだけでは、国家の最高指導者とは言えないのである。私の言う国家の最高指導者とは、国民を指導する力を持つ者のことである。日本の内閣総理大臣に限らず、あらゆる国の指導者には、法によって定められた権限が与えられている。しかし、法的な権限だけでは国家や国民を指導することはできないのである。
 そもそも国民を指導するとはどういうことなのか。国家の安全保障上の危機などの非常事態に際しては、早急な意志決定が必要なこともある。また国民の世論が分列して混乱に陥るようなこともある。そういう場合は、最高指導者の決断や指導力によって国民の意志を一つにまとめ、国民を団結させて危機に対処しなければならないのである。こういうことができる者が存在しなければ、国家の安全を守ることはできないのである。そのため、国家の最高指導者は、国民の意志を一つにして一致団結させるための強力な指導力やカリスマを備えていなければならない。それが国家の最高指導者というものである。ところが日本の内閣総理大臣には、そのような力は無いのである。だから内閣総理大臣は最高指導者とは言えないのである。
 国民を指導する力を持った最高指導者が存在しなければ、軍事や外交上の重大な決定ができず、政治が麻痺してしまうこともある。いくら立派な軍隊があっても、そもそも戦争をすることを決定できないのでは無意味である。従って、最高指導者の存在しない国家には、安全保障は不可能なのである。
 日本が第二次世界大戦に敗れる以前は、国家の最高指導者として天皇が存在していた。そして戦後体制の下では、天皇は「国家の象徴」となり、最高指導者ではなくなった。ところが、戦後の内閣総理大臣が国家の最高指導者の力を天皇から引き継いだというわけではないのである。結局、天皇が最高指導者でなくなった結果、戦後の日本には最高指導者が存在しなくなってしまったのであるのである。そのため日本は、軍事・外交政策のような重大な意志決定ができない国になってしまった。そのため日本の軍事・外交政策は、結局、アメリカに依存するしか無くなってしまったのである。これが第二次世界大戦後の日本の軍事・外交政策がアメリカに追随せざるを得ない理由の一つなのである。日本が最高指導者不在なのは、言論人や学者達が言っているような指導者個人の能力の問題ではなく、戦後の日本の国家体制の欠陥によるものである。
 戦後の日本に戦争ができない第二の理由は、戦争をしないことを国家の理念にしてしまっているということである。
 いかなる国家体制にも国家・国民を統合するための理念を持っている。現在の中国や旧ソビエトの共産主義、欧米諸国の自由主義や民主主義、イランやサウジアラビアにとってのイスラム教といった類のものである。もし、その国の国民が国家の掲げる理念を信用しなくなってしまったら、国家と国民の信頼関係が無くなり、国家体制は崩壊してしまうのである。
 旧ソビエトの崩壊がよい例である。ソビエトにとっての国家の理念は共産主義であった。共産主義国家の理念を簡単に言えば、マルクスの理論に従って経済政策を行えば、国民が資本主義国家よりも物質的に豊かな生活が出来るようになるということである。米ソ冷戦時代のソビエトにとっての資本主義国家とはアメリカのことであった。つまり、いずれはソビエトが国民生活の物質的な豊かさでアメリカを追い越すということをソビエト国民が信じることによって、共産主義体制とソビエト国民との間の信頼関係が成り立ち、国家の統合と国民の団結が維持されていたのである。しかし、ゴルバチョフが登場した頃には、そのような神話を信じるソビエト国民は居なくなっていた。その結果、国家統合の理念を失ったソビエトは崩壊するしかなくなってしまったのである。
 また、中国ではケ小平が政治の実権を握った後、改革解放政策と称して事実上共産主義政策を改め、自由主義的な市場経済を導入した。ところが国家の理念としての共産主義は依然として堅持したままである。ケ小平は明らかに共産主義経済は誤りであるという認識をしていた。しかし、だからと言って国家統合の理念としての共産主義まで否定してしまったら、中国も旧ソビエトのように国家が崩壊してしまうかもしれないのである。そこでケ小平は、社会主義市場経済と称して、市場経済が共産主義の理念に反しないという詭弁としか言いようのないことを言ってまで、共産主義の理念と共産主義体制を守ろうとしたのである。
 日本の戦後体制の国家統合の理念は平和主義である。平和主義の理念を一口に言えば、日本はいかなる理由があろうとも戦争をしないということである。こういうことを国家の理念にしてしまっている以上、たとえ国民の生命や財産を守るためと言えども武力を行使することは困難である。もし日本が本格的な戦争をすることが可能になったとしたら、それは戦後体制が消滅したことを意味するのである。この平和主義の理念を法律化したのが日本国憲法である。戦後の日本は、憲法九条によって軍備の保有と武力行使を禁じられている。
 本来、安全保障や危機管理といったものは、考え得る最悪の非常事態に対して、いかに対処すべきかと考えるのが基本である。ところが日本国憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と記されている。つまり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」最悪の非常事態など考えてはならないということである。これは明らかに安全保障や危機管理の否定である。そもそも日本国憲法は、アメリカ軍による日本の占領統治の下で作られたものである。その結果、日本国憲法は、アメリカ軍による日本の占領という状態を前提に機能するものになってしまったのである。アメリカ軍が日本を占領し、日本が独立国家ではないという状態では、日本の安全保障はアメリカの役割なので、日本自身が安全保障について考える必要は無い。だから、日本政府も日本国民も「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いさえすれば平和は守られるということなのである。しかし、これは言い換えれば、日本国憲法の理想を守るためには、永久にアメリカによる軍事占領を続けてもらわざるを得ないということなのである。つまり日本国憲法の実態は、アメリカによるに日本占領法なのである。
 最高指導者の不在と日本国憲法のために、第二次大戦後の日本は、独自に国家の防衛が出来なくなってしまった。そこで戦後の日本の安全保障は、アメリカの政治力と軍事力に委ねる以外に無くなってしまったのである。そのため戦後の日本は、アメリカの軍事・外交政策に従属せざるを得なくなってしまったのである。要するに、第二次世界大戦後の日本は、アメリカの軍事力と政治力に頼らなければ成り立たたないアメリカの保護国であり、独立国家ではないのである。
 第二次大戦後の日本が平和国家などと言っていられるのは、所詮はアメリカの軍事的な保護下にあるからに他ならない。言い換えれば、戦後の日本では、本来ならば日本人がしなければならない戦争を、アメリカがしていたのである。その典型的な例が朝鮮戦争である。朝鮮半島は日本の安全保障にとって非常に重要な地域である。ここを日本にとって脅威となる国に支配されたら日本の安全は脅かされることになる。だから戦前の日本は、日清・日露と朝鮮半島の支配権を巡って二度の戦争をせざるを得なかったのである。第二次世界大戦の結果、アメリカが日本の防衛を担うことになった。その結果アメリカは、日本に代わって三度目の朝鮮半島の支配権を巡る戦争をすることになってしまった。それが朝鮮戦争なのである。
 日本の平和主義や戦後民主主義は、太平洋戦争を始めとした過去の戦争の反省から生まれたということになっている。再び戦争の惨禍を招かないためには二度と戦争をしてはならないという反省に立ち、戦争を放棄して平和国家になったと言うのである。しかし、このような反省は、あくまで日本の防衛をアメリカが肩代わりすることを前提としたものである。平和主義だの平和国家だのと言ったところで、結局、日本の平和と安全を守るのは、アメリカの軍事力なのである。要するに、アメリカが日本の防衛を肩代わりすることになっているので、日本は自ら戦争をしなくてもよいというのが日本の平和主義の実体なのである。日本国民がいかに平和主義や戦後民主主義の継続を望んだとしても、アメリカが日本の防衛の肩代わりをやめてしまったら、平和主義も戦後民主主義も崩壊してしまう他はないのである。従って、もしアメリカに日本の防衛ができなくなってしまったら、再び戦争の惨禍を招く危険を覚悟の上で、日本政府や日本国民自身が日本の防衛をするしか無くなってしまうのである。日本国憲法の理念も平和主義も、そして戦後民主主義も、アメリカが日本の防衛を肩代わりしている間の一時的な現象に過ぎないのである。





        第一章 最高指導者とは何か



    
           湾岸戦争とアメリカ大統領

 話は湾岸戦争から始める。
 1990年8月2日、イラク軍は突如クウェートへ侵攻し、これを制圧する。
 これに対して国連安全保障理事会は、イラク軍の撤退を要求する決議をするが、イラクはこれを無視して占領を続ける。そして8月8日にイラクはクウェートの併合を宣言する。
 このイラクの行為に対して8月25日、国連安全保障理事会は対イラク制裁限定武力行使決議を採択する。これを受けてアメリカは、ペルシャ湾岸に戦争のための兵員や物資の輸送と艦船の派遣を始める。アメリカは五十万人という、べトナム戦争以来の大軍をペルシャ湾に送り込んだのである。
 そして11月29日、遂に国連安全保障理事会は1991年1月15日を期限としてイラクに対する武力行使を国連加盟国に認めることを決議する。
 この時のジャーナリズムの関心は、果たしてイラク軍は期限までに撤退するのか、そして撤退しなかった場合、アメリカをはじめとする多国籍軍は本当にイラクに対して武力行使をするのかという点にあった。特に懸念されたのが、クウェートの武力解放ということになると、兵士同士の地上戦になるということであった。もしこれが長期化して多くのアメリカ兵が犠牲になるようなことになると、最悪の場合は、ベトナム戦争の二の舞になりかねない。
 私は、この時、イラク軍が期限までに撤退しなくても、アメリカは武力行使を行わないであろうと考えていたのである。それは次のような理由である。
 そもそも戦争をする為には、全国民の一致団結した支持が必要である。ところが当時のアメリカの世論は、対イラク戦争をめぐって分裂状態にあった。戦争に賛成が45%であるのに対して、戦争に反対もしくは慎重な意見がやはり45%であった。政治が世論で動くアメリカでは、戦争を行う場合にも世論の支持が絶対に必要なのである。そのよい例が太平洋戦争の始まった時のことである。アメリカの世論は、太平洋戦争が始まる直前まで、ほとんどのアメリカ国民が参戦に反対という状況であった。そもそもフランクリン・ルーズベルト大統領自身が、第二次世界大戦には参戦しないことを公約して大統領選挙に当選したのであった。しかし、アメリカにとってのヨーロッパの戦局は、日増しに悪化する一方であった。ナチスドイツはヨーロッパ諸国を次々に征服し、イギリスは命からがらダンケルクから撤退するという始末であった。イギリスのチャーチル首相に要請されるまでもなく、アメリカは一刻も早く参戦してヨーロッパへ救援に駆けつけなければ、ヨーロッパどころか世界までがヒトラーによって征服されそうな状況であった。もしそのような事態になったら、アメリカの安全さえ危うくなってしまう。ルーズベルト大統領は焦った。しかし、アメリカは世論によって政治が動く国である。世論が参戦に反対である以上、ルーズベルト大統領としてもどうしようもなかった。そこへ突如、日本軍が真珠湾を攻撃してきた。その結果、アメリカの世論は一気に参戦支持に変わってしまった。これによって、ようやくルーズベルト大統領は開戦の決断が可能になったのである。
 戦争は軍隊だけで行うことではない。戦争は、全ての国家・国民を挙げて行う一大事業である。国家が戦争を行う場合、国民の団結や支持は不可欠である。国民の団結を欠いた状態で戦争を行った結果、相手に対して圧倒的な国力を持ちながら、その力を十分に発揮できず、結局は敗れてしまったという例がいくつもある。日露戦争の時のロシア帝国やベトナム戦争の時のアメリカがよい例である。日露戦争の時のロシア帝国は革命寸前の状態にあり、血の日曜日事件のような混乱が起きていた。とても、国民が一致団結して日本と戦争ができるような状態ではなかった。その結果、ロシア帝国は、日本に対して圧倒的な国力を持ちながら戦争に敗れてしまったのである。また、最前線で戦っている兵士達にしてみれば、国民の一致団結した声援があってこそ命がけで国家のために戦おうという気持ちになれるのである。ところがベトナム戦争の時のアメリカ国民は、自国の兵士や国家に対して、声援どころか戦争反対の罵詈雑言を浴びせていたのである。これでは兵士達に祖国のために戦う気持ちなど起きるわけが無い。その結果アメリカは、北ベトナムに対して圧倒的な国力を持ちながら敗れてしまったのである。
 私は、こういった過去の歴史的事実から、湾岸戦争も国民世論の一致団結した支持が十分得られていない状態で強行したら、べトナム戦争の二の舞になるだろうと考え、それを恐れてブッシュ大統領は戦争を行わないであろうと予想したのであった。
 ところが結果は全く私の予想しないものになってしまった。1991年1月17日、ブッシュ大統領は開戦を決断し、戦闘が始まってしまったのである。
 その時、私にとって、開戦よりも遙かに驚くべきことが起きてしまった。何と、開戦と同時にブッシュ大統領に対するアメリカ国民の支持率が89%にまではね上がったのであった。つまり、それだけのアメリカ国民が開戦を支持したということである。
 一体どうしてこのようなことが起きたのか。
 それはアメリカ合衆国大統領の役職に備わっている強力なカリスマの力によって、アメリカ国民の意識が変えられてしまったからである。カリスマとは多くの人間を無意識のうちに従わせる力である。強力なカリスマを持った者が意志表明をすると、多くの人間が無意識の内にその意志を受け入れてしまうのである。つまり、実際は指導者のカリスマの力によって与えられた意志なのに、それを自分自身の考えによって決めた意志だと思い込んでしまうのである。これがカリスマの力である。
 このような、大統領のカリスマの力によって国民の意識が変えられてしまうという事実は、当時の私にとって全く考えられないことであった。私は改めてアメリカ合衆国大統領の恐るべき力を思い知らされたのである。また、私は、大統領のジョージ・ブッシュについては、カリスマや政治力に欠けた凡庸な政治家という評価をしていたのだが、湾岸戦争の結果、見直さざるを得なくなった。湾岸戦争をアメリカを含めた多国籍軍の勝利に導いた要因としては、確かにブッシュ大統領個人の政治手腕もあった。しかし、湾岸戦争勝利の最大の要因は、アメリカ合衆国大統領の持つ強力なカリスマの力であったと言わざるを得ない。
 私は、最高指導者の決断が国民の意識を変えるということを、湾岸戦争で初めて知ったのであった。国家の最高指導者とは、国家にとっての重大な決断をすることによって国民の意識を変えることができる強力なカリスマや指導力を持った者のことを言うのである。国民の意識を変えるだけの強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなければ、国家の危機に対処するのは不可能である。国家の危機に直面した時、世論が分列したり、国民が何をやってよいのか分からなくなり混乱している時、最高指導者が断固たる決意を国民に示すことによって、国民の意志を一つにまとめ、国民と共に一致団結して危機に立ち向かわなければならない。こういうことができなければ、国家の危機に対処することは不可能である。国家の危機、とりわけ軍事力の行使が必要な場合は、国民の全面的な協力が必要である。軍人のように直接戦闘に参加しないまでも、後方支援には民間人の協力が必要な場合もある。軍事物資の輸送をすれば一般市民の道路の通行は制限される。傷病兵の治療のために民間の病院が使われることもある。勿論、国民は戦費の負担もしなければならないし、更に、場合によっては空襲やゲリラ攻撃などにより一般国民が直接武力行使を受けることもあり得る。このような時に国民の考えが一致せず世論が分列してしてたら、国家としての秩序ある行動がとれず混乱が起き、危機に対処するどころではなくなってしまうのである。そこで最高指導者の断固たる決断とカリスマの力によって、国民の意志を一つにまとめ、全国民が一致団結して最高指導者と共に危機に対処しなければならないのである。それができなければ、いくら強力な軍隊を持っていても、まともな戦争はできないのである。軍隊は、国家の最高指導者と国民が団結して一体となった状況でのみ機能するものなのである。つまり、国家の危機が発生した時、いつでも国家と国民を一致団結させることができる体制が整っていてこそ国家の安全を守ることができるのである。そのために、国家には強力なカリスマを持った最高指導者の存在が必要不可欠なのである。要するに、非常時における国民の一致団結とは、自然に出来上がるものではなく、人為的に作られるものなのである。その国民の一致団結を人為的に作るための「装置」が国家の最高指導者なのである。
 湾岸戦争から十二年後の2003年3月に息子のブッシュ大統領が始めたイラク戦争でも、湾岸戦争の時と同様のことが起こっている。イラク戦争開戦以前、ブッシュ大統領によるイラク攻撃に対するアメリカ国民の支持率は56%だったのが、開戦後は72%へと上昇した。これは、このイラク戦争にアメリカと共に参戦したイギリスも同様であった。開戦以前は、ブレア首相のイラク攻撃参戦に対して、イギリス国民のほとんどが反対し、支持する国民はほとんど居なかった。しかも、参戦に反対して辞任する閣僚まで現れた。更に、イラク攻撃参戦を決定した議会決議の時、約百名もの与党労働党議員が参戦に反対するという有様であった。ところが、いざイラク戦争が始まると、イラク攻撃に対するイギリス国民の支持率は60%近くにまで上昇してしまったのである。つまり、イギリスの首相も、アメリカの大統領に匹敵する力を持っているのである。
 ただし、いつでも湾岸戦争の時のようにうまくいくとは限らない。ベトナム戦争のような失敗例もある。ジョンソン大統領は1964年8月2日に起きたトンキン湾事件をきっかけに、北ベトナムに対する軍事力行使を始めた。これによってベトナム戦争は、本格的なものになった。この時点ではアメリカ国民の大多数は、戦争を支持していたのである。ところが当初三ヶ月ほどで片が付くと予想されていたベトナム戦争は、何年たっても終わらず、戦況は泥沼状態に陥る。そこへもってジャーナリズムによってソンミ村の虐殺を始めとするアメリカ軍による残虐行為が報道され始める。するとアメリカ国民の世論は、次第に戦争に懐疑的になり始め、ジョンソン大統領の指導力の低下もあって、ベトナム反戦運動が政治を揺るがすほど激化してしまった。その結果、ベトナム戦争は、政治的にも泥沼状態に陥ってしまったのである。そして遂に、超大国アメリカは、ベトナム戦争に敗れてしまったのである。このベトナム戦争の反省から湾岸戦争の時、ブッシュ政権は短期間で戦争を終わらせることに全力を挙げたのである。
 日本が太平洋戦争で敗れた理由は、日本の経済力や技術力がアメリカに劣っていたからだという意見があるが、果たしてそのようなことが言えるのだろうか。経済力や技術力の優劣によって戦争の勝敗が決まると言うのなら、アメリカがベトナム戦争に敗れた理由をどう説明するのか。要するに、経済力や技術力は、戦争の勝敗を決定する要因の一つではあるが、決定的なものではないということである。超大国アメリカが弱小国北ベトナムに敗れたことがその証拠である。戦争は、軍事力の戦いという側面もあるが、同時に国家の指導者の政治力の戦いという側面もあるのである。いかに強力な軍事力を持っていても、国家の指導者が無力だったら、その力を十分に発揮できず、敗れてしまうこともある。その典型的な例がベトナム戦争なのである。
 太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官であった山本五十六の戦略は、奇襲攻撃によってアメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えれば、アメリカ国民は戦意を喪失し、早期に日本との講和に応じるであろうというものであった。太平洋戦争の時のアメリカ大統領が、ベトナム戦争の時のジョンソンのような無能な指導者だったら、そのような結果になったかもしれない。しかし、太平洋戦争の時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、アメリカ史上最も強力な指導力を持つ大統領であった。ルーズベルト大統領の指導の下、アメリカ国民は、日本軍の真珠湾攻撃で大打撃を受けても戦意を喪失することは無く、最後まで一致団結して戦い抜き、日本に勝利することになったのである。日本は、アメリカの経済力や技術力に敗れる前に、ルーズベルト大統領の指導力と政治能力に敗れたのである。そしてベトナム戦争の時のアメリカは、ジョンソン大統領の指導力と政治能力の欠如によって北ベトナムに敗れてしまったのである。


                      
天皇と明治国家

 最高指導者の重要性は、徳川幕府の幕末以降の日本にも見ることができる。
 1853年6月、アメリカのペリーは、軍艦四隻を率いて浦賀へ来港する。そして合衆国大統領の国書を持って上陸し、日本の開国を幕府に迫る。
 更に翌年の1854年1月、今度は七隻の軍艦を率いてペリーはやって来た。そして圧倒的な武力を背景にして幕府に開国を迫る。これに対して、アメリカの武力に対抗する力の無い幕府は、しぶしぶ日米和親条約を結ぶ。この結果、鎖国政策は終わったが、同時に外国の力に屈してしまった幕府の権威は、がた落ちになってしまった。
 しかしアメリカはこれでも満足せず、1856年には総領事としてタウンゼント・ハリスを日本に派遣し、通商条約の締結を要求し、更なる開国を迫って来た。
 一方、幕府は、今回もいやいやながらもアメリカの要求を受け入れようとした。ところが今回は、アメリカなどの外国勢力を軍事力で撃退すべきだと主張する攘夷派の大名などが、幕府の対米姿勢を弱腰と見なして反発し、開国に対して反対の声を挙げ始めた。この結果、幕府は窮地に陥った。開国をしなければ強大な武力を持つアメリカは何をするか分からない。万が一、戦争にでもなったら、軍事力など無いに等しい幕府は、ひとたまりもない。だからといって権威が落ちてしまった幕府には、開国に反対する攘夷派の大名などを押さえつける力は無い。
 ところが、頭をかかえる幕府の首脳に一つの策がひらめいた。それは天皇から開国の勅許を得ることである。
 幕府の権威が落ち目なのに対して、天皇の権威が次第に高まりつつあった。幕府の言うことに従わない攘夷派の大名達も、天皇の権威には逆らえないだろうというのが幕府の読みであった。特に攘夷派の中心人物である前水戸藩主の徳川斉昭は、尊皇家として知られている人物である。天皇の勅許の前には、ひれ伏すしかないだろうと幕府は考えたのである。
 そこで幕府は、1858年1月に老中の堀田正睦を上京させ、朝廷に開国の勅許を申請する。一方、朝廷の側も幕府の申請通りに開国の勅許を出すつもりでいた。従って、何事も無ければ全てがうまくいくはずだったのである。
 ところが事態は、幕府の予期せぬ結果になってしまう。
 ここに岩倉具視が登場する。幕府が天皇の権威を頼ってきた今こそ、幕府を叩きのめす絶好の機会と考えた岩倉具視は、攘夷派の公家を数十名引き連れて御所に押しかけて、幕府に開国の勅許を出さないように圧力をかけた。更に徳川斉昭も朝廷に対して開国の勅許を出さないように働きかけた。その結果、朝廷は、開国の勅許の申請を却下してしまったのである。
 この事態は、幕府の混乱に拍車をかけることになった。その結果、いよいよ切羽詰まった幕府は、最後の切り札と言うべき人物を起用する。幕府は、井伊直弼を大老に任命するのである。
 井伊直弼が大老に就任した頃は、欧米列強が武力を背景に日本の開国を迫るのに対して、日本の国内では、開国を拒否して欧米列強を武力によって撃退すべきであるという尊王攘夷論が猛威を振るっていた。しかし、当時の日本には欧米の武力に対抗する力など全く無かった。従って、尊王攘夷論など、自国の力を全く理解していない者の空想論に過ぎないのである。
 井伊大老の登場する以前の幕府の指導者達は、開国を迫る欧米の圧力と尊王攘夷論の板挟みにあい、右往左往するだけであった。これに対して井伊大老は、開国に反対する者達に対して断固たる措置を断行する。徳川斉昭や山内容堂といった攘夷派の大名などを謹慎処分にし、更に吉田松陰や橋本左内らを処刑する。いわゆる安政の大獄である。そして尊王攘夷論を押し切って開国の決断をし、勅許無しで1858年6月に日米修好通商条約の締結を強行する。これによって井伊大老は欧米列強との武力衝突を回避し、とりあえず国家の危機を乗り切ったのである。しかし井伊大老の決断は、尊皇攘夷派からは、朝廷の権威を無視する極悪非道な行為と見なされてしまった。その結果、井伊大老は、桜田門外で尊皇攘夷派の浪士によって暗殺されるはめになってしまった。そして、この井伊大老の暗殺は、幕府の権威を更に低下させる結果となり、幕府を滅亡に追いやってしまった。井伊大老が、その指導力と決断力によって、武力を背景に開国を迫る欧米列強から国家の危機を救ったにもかかわらず、結局、徳川幕府を救うことはできなかったのである。
 開国の勅許は1865年10月になってやっと出されたが、既に時代は幕末の混乱の最中であった。翌年、徳川慶喜が征夷大将軍に就任して幕府の立て直しを図ったが、もはや幕府の権威の低下は止めようが無かった。そして1868年4月、江戸城の無血開城によって徳川幕府は名実共に滅亡する。
 ところがこの後、実に奇妙なことが起こる。そもそも薩摩や長州を始めとした倒幕派は、尊皇攘夷、つまり開国に反対し、諸外国に対して武力で対抗することを旗印にして幕府を倒したのである。その薩摩や長州によって作られた明治新政府が、何と、幕府の開国政策を受け継いで、更なる開国を押し進めたのである。尊皇攘夷の旗印からすれば、新政府の樹立と同時に鎖国を始めなければ筋が通らない。多くの勤王の志士達は、尊皇攘夷のために死んでいったのである。新政府の政策は彼らに対する裏切行為ではないのか。こう考えるのが道理というものである。ところが不思議なことに、新政府の開国政策に対して異議を唱える者はほとんどいなかったのである。ましてや、井伊大老を暗殺した浪士のように、開国を進めたことを理由に新政府の首脳を暗殺しようとした者など一人もいなかったのである。一体これはどういうことなのか。
 それは、天皇が開国を認めたからである。孝明天皇は、1865年10月に開国の勅許を出すことによって開国に同意したのである。そして開国は、明治天皇にも受け継がれたのである。勤王の志士や尊皇攘夷論者と言えども、天皇の権威には逆らえない。だから誰にも明治政府の開国政策に反対できなかったのである。一方、井伊大老の開国の決断が支持されなかった理由は、その時点では、まだ孝明天皇が開国を支持しておらず、開国の勅許を出していなかったからである。
 井伊大老の決断の正しさは、現代では多くの者から認められている。そして、倒幕以前は尊皇攘夷を唱え、開国に反対していた薩摩や長州の指導者達が、政権を取った途端に開国に転向してしまったということは、宿敵であった薩摩や長州の指導者からさえ、井伊大老の決断の正しさは認められたということである。井伊直弼は、指導力といい、決断力といい、指導者としては非の打ち所のない人物であった。しかし、この井伊直弼の功績は、幕末の時点では全く評価されなかったのである。つまり日本では、いくら正しい決断であっても、天皇の権威に反してしまったら、その正当性を失ってしまうということなのである。
 日本の武家政治は、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから徳川慶喜が大政奉還を行うまで七百年近い歴史があったにもかかわらず、遂に正統な日本の国家体制になることは無かったのである。そのため、武家の棟梁である征夷大将軍は、最後まで正統な国家の最高指導者にはなれなかったのである。それは源頼朝が鎌倉幕府を開いた時には、既に天皇制が日本の正統な国家体制として確立されていたからである。徳川将軍家は、徳川家康が覇権を確立して以来、二百年以上の間、日本の政治を支配していた。ところが実態は、徳川将軍家と言えども武家の中の最有力者の一つに過ず、国家を統治する正統性など無かったのである。そのことが、開国を決定するために天皇に勅許を求めたことによって露見し、天下に知れ渡ってしまったのである。国家を統治する正統性の無い征夷大将軍の補佐役に過ぎない大老の井伊直弼に、国家にとって重大な決断をする権限などあるわけがない。その井伊直弼が、正統な最高指導者である孝明天皇の意向を無視して開国という重大な決断をしてしまった。だから桜田門外で殺されるはめになったのである。井伊大老を直接殺したのは水戸や薩摩の脱藩浪士であったが、彼らにそうさせたのは、古代からの日本国家の政治にまつわる伝統・文化なのだ。日本に限らず、あらゆる国家には独自の伝統・文化や慣習があり、そういったものによって国家の指導者は様々な制限を受けているのである。そのよい例が幕末の井伊大老なのである。
 幕末の政治の混乱の原因は、武家政治が国家の防衛には不向きな体制だったからである。その理由の一つは、既に述べたように、武家政治が日本の正統な国家体制ではなかったため、武家政治の指導者には外交と防衛の法的権限が無かったということであるが、それだけではない。
 武士が戦闘を行った場合、功績のあった者に対しては恩賞として領地を与えなければならない。そして、恩賞として領地を与えるためには、戦闘に敗れた相手から領地を没収しなければならない。ところが、外敵に対する防衛戦争の場合は、たとえ戦闘に勝利したとしても、恩賞として与えるための領地を獲得することが極めて困難である。従って、恩賞としての領地がもらえないような防衛戦争は、武士にとっては極めて困難なのである。つまり、武士にできる戦争は、同じ日本の武士同士の領地争奪戦に限られるのである。
 ただし、現実には、鎌倉幕府は、当時の世界帝国であったモンゴル帝国の襲来を神風が吹いたという幸運もあって、二度も撃退することに成功している。鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができたのはなぜか。
 第一の理由は、モンゴル帝国との戦いの時は、徳川幕府の幕末の時のように、朝廷や大名が鎌倉幕府の軍事・外交政策に対して抵抗するようなことが無かったということである。鎌倉幕府には軍事・外交の権限が無かったが、一方の朝廷には、軍事・外交の権限はあっても能力が無かった。そのため、幕府の行っている軍事・外交政策に反対しようが無かったのである。徳川幕府の幕末に、朝廷が幕府の外交政策に反対したのは、あくまで尊皇攘夷派の公家達の策謀によるものであって、普段は政治の実権を握っている幕府に軍事・外交政策を任せるしかなかったのである。また、モンゴル帝国の襲来の頃は、鎌倉幕府の最盛期であり、その権力は絶頂に達していたため、大名達も幕府の政策に反対できなかった。その結果、鎌倉幕府のモンゴル帝国に対する軍事・外交政策が混乱するようなことは無かったのである。
 第二の理由は、最初のモンゴル帝国の襲来である1274年の文永の役の時は、モンゴル軍は鎌倉幕府軍とわずか一日戦っただけで撤退してしまった結果、功績のあった武士達に対して恩賞として与える領地が少なくて済んだため、幕府はどうにか恩賞を与えることが可能だったことである。そのため、二度目のモンゴル帝国の襲来である1281年の弘安の役の時は、文永の役の時と同様に恩賞をもらえることを期待した多くの武士達が意欲的に戦ったため、モンゴル帝国を撃退することに成功したのである。ただし、弘安の役は文永の役とは違い、約二ヶ月に及ぶ長期戦となったため、恩賞として与える領地が足りなくなってしまった。そのため、功績のあった武士に恩賞としての領地を十分に与えることができなかった。これに対する武士達の不満が政治の混乱を引き起こし、鎌倉幕府は弱体化して滅亡してしまったのである。従って、鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができたのは、日本史における例外であったと考えざるを得ないのである。
 ところで、明治国家の最高指導者であった明治天皇が、最初から国家の最高指導者としての強大な力を持っていたわけではない。明治政府は、廃藩置県、廃刀令、秩禄処分といった政治の大改革を断行するが、これらの改革は、特権階級であった士族から、あらゆる特権を剥奪し、最終的には士族階級を消滅させる行為である。従って、日本中の士族階級の反発を呼ぶことは避けられなかった。特に、1871年の廃藩置県の時は、大久保利通や木戸孝允といった政府の指導者達も、特権を奪われる士族の反乱を恐れていた。この非常事態を乗り切るため、明治政府は西郷隆盛の力を頼ることとなった。本来なら、非常事態において国民を一つに団結させ、国家の秩序を維持するのは、最高指導者たる明治天皇の役割である。しかし、明治国家が成立したばかりの頃は、まだ天皇の最高指導者としての力は不十分であった。そこで明治政府は、明治維新の最大の功労者であり、強力なカリスマと指導力で薩摩・長州・土佐の八千人の兵からなる御親兵を率いる西郷隆盛の力を頼らざるを得なかったのである。明治政府は、西郷隆盛の政治力と軍事力で日本を事実上の軍事占領下に置くことによって士族達の不満を押さえつけて廃藩置県を断行し成功させたのである。従って、明治政府が成立したばかりの頃の西郷隆盛は、実質的な最高指導者に匹敵する存在だったと言えるのである。要するに、西郷隆盛は、明治天皇に代わって最高指導者の役割を代行していたのである。更に明治政府は、1873年には徴兵制を導入した。これによって士族は、軍事力を担う役割を奪われてしまった。ところがその後、西郷隆盛は、征韓論に敗れて下野してしまう。すると、西郷隆盛という強力な指導者を失った明治政府は、指導力が低下してしまう。しかし、その後も明治政府は、廃刀令、秩禄処分、といった改革を次々と断行していった。これらの一連の改革の結果、多くの士族が失業者になってしまった。しかし、西郷隆盛という強力な指導者を失い指導力の低下した明治政府に、失業した士族の不満をおさえる力は無かった。その結果、失業した士族の反発から、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱などといった反乱が相次ぐことになってしまった。そして西郷隆盛までが、薩摩の士族を率いて西南戦争を起こすに至ったのである。これに対して明治政府は、西郷隆盛の率いる薩摩軍を軍事力で打ち破ることに成功した。その結果、明治天皇の最高指導者としての権威とカリスマが確立され、明治国家は安定し始めるのである。これ以降、明治政府は、明治天皇の強力な権威とカリスマの力によって富国強兵政策を推進することになるのである。
 明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、天皇は三代にわたり最高指導者として日本に君臨した。その間、軍事・外交上の国家にとって重大な行為は、最終的には天皇の裁可が無ければ決定できなかった。天皇の裁可が下る前の段階では、元老院や大本営政府連絡会議といった所で決定が行われた。しかし、元老院や大本営政府連絡会議の決定は、国家の正式な決定ではなく、政府の実力者達の私的な合意に過ぎないのである。明治体制下の日本では、最高指導者である天皇の裁可があって初めて正式な国家の意志決定となるのである。そのため軍事・外交上の国家の重要政策を決定する場合は、天皇の臨席の下に御前会議が開かれたのである。この御前会議こそ、国家の最高指導者としての天皇の権力の行使の場なのである。
 一部の学者や知識人達は、戦前の天皇は自ら意志決定を行ったことがほとんど無く、更に昭和天皇に関しては、自ら意志決定を行ったのは二・二六事件と終戦時のポツダム宣言の受諾の時だけであり、戦後の天皇と同様の形だけの存在であったと主張している。しかし、戦前の天皇が自ら意志決定を行ったことがほとんど無かったからと言って、天皇が権力を行使したことが無かったと考えるのは間違いである。なぜなら、戦前の日本では、天皇の裁可が無ければ国家としての重大な意志決定ができなかったからである。そして天皇の名において国民に発表しなければ、その重大な意志決定を国民に納得させることができなかったからである。
 普通、権力の行使と言うと、法的権限の行使のことを言う場合が多い。しかし、国家の指導者が法的権限に基づいて重大な意志決定を行っても、国民がこれに従わなければ、その決定は意味が無くなってしまう。そのため、最高指導者のカリスマの力によって国民の意識を変えなければ、国民を国家の重大な意志決定に従わせることができない場合もあるのである。つまり、国家の重大な意志決定は、法的権限の行使と同時に最高指導者のカリスマの力を行使することによって始めて可能になるのである。要するに、カリスマの力も国家にとって重要な権力なのである。従って、カリスマの力の行使も権力の行使であり、法的権限の行使だけが権力の行使ではないのである。
 戦前の日本では、国家の最高指導者としての天皇のカリスマの力によって国民の意識を変えることができて、始めて国家の重大な意志決定に国民を従わせることができたのである。戦前の日本では、内閣総理大臣などの閣僚が法的権限の行使を担当し、天皇がカリスマの力の行使を担当していたのである。ところが学者や知識人の中には、法的権限の行使だけが権力の行使だと思い込んでいる人達がいるのである。そういう学者や知識人から見れば、法的権限の行使をすることがほとんど無い戦前の天皇は、あたかも形だけの存在にしか見えないのである。そこで彼らは、戦前の天皇が権力を持たない象徴的存在だったと主張しているのである。しかしカリスマが権力である以上、天皇が持つ強大なカリスマの力を行使することは、天皇の権力の行使だと考えざるを得ない。従って、戦前の日本における御前会議は、天皇の権力の行使の場と言えるのである。学者や知識人の中には、戦前の天皇がイギリスの国王のような立憲君主であったなどと言っている者がいるが、とんでもない誤りである。
 最高指導者としての天皇の存在の重要性を示す出来事としては、太平洋戦争の終戦の時のいきさつがよい例である。太平洋戦争の末期、日本の敗北が決定的となり、日本政府の中に終戦工作を画策する動きが出始める。しかし、終戦工作に当たって最大の問題だったのが、アメリカに対する徹底抗戦を叫ぶ軍部の強硬派をどうしたら納得させることができるかということである。そこで木戸幸一内大臣らによって考え出された案が、昭和天皇の御聖断によって降伏を決定するということである。つまり軍部の強硬派を天皇の権威によって押さえつけるということである。
 1945年の8月6日の広島、8月9日の長崎へと原爆投下が行われた。更に日本政府が講和条約の仲介役を期待していたソビエトが対日参戦を決定し、満州へ攻め込んで来た。これらの事態によって日本は、ポツダム宣言を受諾し、降伏せざるを得ないことが必至の状勢となった。しかし、それにもかかわらず、阿南陸軍大臣や梅津参謀総長といった軍部の首脳は降伏に反対し続けたため、8月10日の御前会議で昭和天皇が御聖断を下して、ようやくポツダム宣言の受諾が決定したのである。
 もっとも、軍の首脳にしてみても、降伏がやむを得ないことは分かっていたが、当時の軍部の状況は、降伏という言葉を迂闊に口に出したら、クーデターさえ起きそうなほど緊迫していたのである。実際に、8月14日には、降伏に反対する一部の陸軍の軍人達が、玉音放送を止めさせ降伏を阻止しようとして、皇居や日本放送協会の建物を占拠するというクーデター未遂事件を起こしている。
 結局、最高指導者たる天皇の権威とカリスマの力によらなければ、軍部の降伏に反対する勢力を押さえつけることが出来なかったのである。更に、昭和天皇が自らの声で終戦を国民に呼びかけた玉音放送によって、初めて国民に降伏という重大な決定を納得させることができたのである。つまり、戦争を始めるにも終えるにも、最高指導者としての天皇の権威とカリスマが必要不可欠だったのである。アジアの各地で戦っていた日本軍は、昭和天皇自身の声によって日本の降伏を知った結果、直ちに戦闘を停止した。これが軍人や政治家の声だったら素直に戦闘を停止したとは考えられない。


     
             戦後体制の指導者

 日本では1885年に内閣制度が創設された。しかし、内閣を主催する内閣総理大臣と言えども、この時はあくまで天皇の補佐役に過ぎなかったのである。伊藤博文のような実力者が内閣総理大臣になったとしても、国家としての正式な決定には、やはり天皇の裁可が必要であった。
 第二次世界大戦後の日本国憲法に記された議院内閣制は、イギリスの立憲君主制を手本にしているということになっている。そのイギリスの首相は、国家の中で一体どういう立場にあるのか。
 何度も言うように、軍事・外交上の重大な決定をするのが国家の最高指導者の役割である。従って、一体誰が軍事・外交上の重大な決定をしたかで、その国の最高指導者が誰なのか分かるのである。
 たとえば1982年のフォークランド紛争の例を見てみよう。1982年4月3日、アルゼンチン軍が突如、アルゼンチン沖のイギリス領フォークランド諸島を占領した。そしてアルゼンチンのガルチエリ大統領は、フォークランド諸島(アルゼンチン名マルビナス諸島)がアルゼンチン領であることを宣言した。これに対してイギリスは、空母機動部隊を派遣し、フォークランド諸島を奪還することを決定するのである。これは、サッチャー首相の決断によって決まったのであり、戦前の日本のように、女王を招いてイギリス版御前会議を開いたわけではない。従って、イギリスの首相は、国家の最高指導者であると言えるのである。言い換えれば、イギリスの首相は、事実上の大統領なのである。
 それでは、第二次世界大戦後の日本の内閣総理大臣は一体何なのか。日本国憲法の制定によって、天皇は「象徴」となり、政治の実権を失ったため、戦前の内閣総理大臣のような最高指導者たる天皇の補佐役ということはあり得ない。それでは、イギリスの首相のような事実上の大統領になったのだろうか。もし、戦後の日本の内閣総理大臣が最高指導者であるとすれば、重大な決断をすることによって国民の意識を変えるだけの強力な指導力とカリスマを持っていなければならない。果たして戦後の内閣総理大臣が、そんな力を持っているのだろうか。
 一例として、日米安全保障条約の改定の時の岸信介総理大臣を見てみよう。
 1951年に吉田総理大臣によってアメリカとの間に結ばれた日米安全保障条約の下では、アメリカによる日本の防衛の義務があるのか否かが定かではなかったため、憲法によって自衛権が制限されている日本にとって安全保障上の不安があった。また、アメリカ軍が日本の基地を使用する場合に日本政府の了解を得る必要が無かったため、日本の独立国家としての体面を保つ上で問題があった。そこで岸信介総理大臣は、この問題を解決するため日米安保条約の改定を決意し、1958年からアメリカとの交渉を始めた。
 ところがこれに対して、日米の安全保障上の結びつきの強化を、アメリカのアジア戦略に日本を巻き込む危険なものと考える社会党を始めとした野党勢力や総評などの労働団体は、日米安保条約改定阻止国民会議を結成し、岸政権の安保改定に対する反対運動を開始する。
 一方、岸総理大臣は、1960年1月にアメリカとの間で安保条約の改定の調印を行った。そして60年5月2日に安保反対のデモが繰り広げられる中で、岸総理大臣は、新安保条約の批准を決断し、衆議院本会議で採決した。
 そこで問題なのは、岸総理大臣による安保改定の決断により、安保条約に対する反対運動や世論がどうなったのかということである。何と、岸総理大臣の決断は、安保条約に対する反対運動を更に激化させる結果になってしまったのである。連日、数十万人のデモ隊が国会議事堂を取り囲み、安保反対と岸総理大臣の退陣を要求してデモを繰り広げた。挙げ句の果てに、与党の自由民主党の中からも岸総理大臣の退陣を求める声が出てくるという有様であった。この政治の混乱によって、予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が中止になってしまった。そして遂に、政治の混乱を収拾するため、岸総理大臣は、辞職するはめになってしまったのである。結局、岸総理大臣の決断は、安保条約に対する反対運動を激化させただけであり、国民の意識を変えることはできなかったのである。その後、岸総理大臣の退陣の後に内閣総理大臣に就任した池田勇人が所得倍増論を打ち出した結果、国民の目を政治から経済に向けさせることができた。これによって、国民に日米安保条約のことを忘れさせることに成功したため、とりあえず政治の混乱を収拾して、世論の分裂による国家の危機を乗り越えることができたのである。しかし、これによって安保条約反対の世論までが変わったわけではない。世論の分裂による体制の危機を乗り越えることができても、世論の分裂そのものが無くなったわけではないのだ。日本国民は、自民党政権の手練手管よって手なずけられてしまっただけのことである。
 岸総理大臣が日本国の最高指導者なら、安保改定の決断の結果、安保を巡る世論の分列は、ピタリと収まっていなければならない。つまり、日本の内閣総理大臣には、アメリカの大統領や戦前の天皇のような強力なカリスマや権威は備わっていないのである。だから岸総理大臣が決断しても、国民の意識が変わることはなく、安保条約に対する国民の全面的な支持を得ることは遂にできなかったのである。日米安保条約の改定により日本の経済的発展の基礎を固めた岸信介は、確かに有能な政治家ではあったが、決して国家の最高指導者ではなかったのである。だから60年安保騒動は、安保条約を国民に受け入れさせるのではなく、池田内閣の所得倍増論によって国民の目を経済にそらして、安保問題を忘れさせることによってしか収拾することができなかったのである。このように、結果として60年安保騒動の危機は乗り切ることができた。しかし、将来も国民世論の分裂の危機に対して、このような方法が通用するとは限らない。一方、安保条約を巡る世論の分列と混乱は、その後も続くことになった。日米安保体制は、70年安保闘争や1995年の沖縄の米軍兵士による少女暴行事件、更に米軍基地の移転問題などをめぐって動揺し続けたのである。国家の危機を乗り切るためには、やはり本当の意味での最高指導者が必要なのである。
 もっとも、軍事・外交上の決定であっても、解決にあたって国民の一致団結した協力を必要としないことならば、国民の間でどのような意見の対立があっても構わない場合もある。国民の一致団結した協力を必要とする決定とは、戦争のような国民の協力や負担を必要とする決定であり、そうでない決定なら世論が分列していても、外交上差し障りが無いのである。
 たとえば、吉田茂総理大臣が太平洋戦争の終結のためのサンフランシスコ講和条約の締結をしようとした時、冷戦の影響でアメリカとソビエトの意見が対立した結果、ソビエトや中国を含めた全面講和が極めて困難になってしまった。そこで吉田総理大臣は、アメリカを始めとした自由主義諸国だけとの片面講和の締結を決断したのである。これに対して当時の日本のジャーナリズムや野党勢力は、ソビエトや中国を含めた全面講和を主張したため、吉田総理大臣の片面講和は、世論の支持が得られなかった。つまり、吉田総理大臣が片面講和の締結を決断しても、世論は片面講和を支持することは無かったのである。戦後最大の総理大臣とも言われる吉田茂にしても、国家の最高指導者と言えるような力は無かったのである。しかし、講和条約の締結に国民の協力や負担など特に必要ではない。そこで吉田総理大臣は世論や野党の反対を振り切って、片面講和であるサンフランシスコ講和条約に調印してしまったのである。
 しかし、日米安保条約のような国家の安全保障に関わる重大な問題に関しては、国民の一致団結した支持が必要である。こういうことには、どうしても国民の協力、そして場合によっては負担や犠牲が必要だからである。さもなければ幕末の日本のように世論が分列して、緊急事態に対処できなくなる恐れがあるからだ。その一致団結した支持を国民からとりつけるためには、強力な最高指導者の存在が必要なのである。


     
            戦後体制と安全保障

 日本の戦後体制は、国家の非常事態ということを全く無視して作られたものである。日本の戦後体制を作ったのは太平洋戦争後の日本に対するアメリカの占領政策の責任者のマッカーサー元帥である。マッカーサーは、上司であるトルーマン大統領から「日本を二度とアメリカの敵国にしない」という使命を受け、帝国陸海軍の廃止、日本国憲法の制定など、日本を軍事的に無力化する政策を実行していった。
 マッカーサーの日本を軍事的に無力化する政策の中でも、とりわけ重大なものが1946年に行われた日本国憲法の制定であった。日本国憲法の制定の目的は、日本の非武装化である。
 日本国憲法の中でも、戦争放棄を定めた憲法九条には様々な解釈がある。
 たとえば日本政府の解釈では、憲法九条は、いわゆる侵略戦争と集団的自衛権のみを禁じたものであって、自衛戦争まで禁じたものではないとされている。従って、自衛の範囲ならば軍備の保有と交戦権は認められると言うのである。この日本政府の立場を支持する人達の憲法解釈の根拠になっているのが、いわゆる不戦条約である。1928年8月27日、アメリカの国務長官ケロッグとフランスの外相ブリアンの提唱する不戦条約に、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、そして日本などの十五ヶ国がパリで調印した。この不戦条約は、提唱者の名前からケロッグ・ブリアン協定とも呼ばれている。この条約は、戦争を違法とし戦争放棄をうたってはいるが、自衛のためならば軍備の保有も軍事力の行使も禁止してはいなかった。日本政府の憲法解釈を支持する人達の主張によると、日本国憲法九条は、このケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものだと言う。だから日本国憲法は、自衛のための軍備の保有ならびに軍事力の行使を禁止してはいないと言うのである。憲法九条一項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という条文だけなら、そのような解釈もできるかもしれない。しかし憲法九条二項には、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。もし、日本国憲法がケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものだとすれば、憲法九条二項は、自衛目的に限って軍備の保有と交戦権を認めるという趣旨の内容になっていなければならない。憲法九条二項は、明らかに自衛権を含めたあらゆる戦争を否定するものであり、ケロッグ・ブリアン協定を受け継ぐものとは全く考えられない。つまり憲法九条は、日本の非武装化を目的としたものであり、日本の防衛など問題にしてはいないのである。
 更に、日本国憲法九条の解釈として、日本国憲法九条の目指すものは、軍事力を用いない安全保障であると主張する人達がいるが、これが間違いであることは、朝鮮戦争当時のマッカーサーの行動を見ていれば明らかである。1950年6月、北朝鮮が韓国に武力行使を開始して朝鮮戦争が勃発したのに対して、マッカーサーは、アメリカ政府の決定に従い、北朝鮮軍を撃退するため、アメリカ軍を朝鮮半島に派遣した。このことは、マッカーサーが、軍事力には軍事力で対抗するしかないという考え方の持ち主であることを明確に示しているのである。もしマッカーサーが軍事力を使わない安全保障なるものを日本国憲法に記したのだとすれば、日本国憲法を作った張本人であるマッカーサー自身が、その手本を日本国民に見せなければ筋が通らない。ところがマッカーサーが軍事力を使わないで朝鮮戦争を収拾しようとした形跡など全く無いのが現実である。また、そもそも日本国憲法の目指すものが、軍事力を用いない安全保障であるならば、その具体的な方法が憲法の中に記されていなければならないが、日本国憲法には、そのようなことは全く記されてはいない。前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」などと記されているが、これには何ら具体性が無い。また、一部の平和主義者は、軍事力を用いない安全保障の具体的な方法は、日本国民や日本政府が自分で考えて見つけるしかないと言っているが、それは無理なことである。なぜなら、軍事力を用いない安全保障の具体的な方法が見つかるまでの間の安全保障をどうするのかという問題があるからである。このことについても日本国憲法には何も記されていないのである。結局、日本国憲法の目指すものは、あくまで日本の非武装化であり、それ以外の何物でもないのだ。
 日本国憲法は、日本がアメリカの占領下にあることを前提に作られたものである。日本国憲法九条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。この日本国憲法九条には、日本国憲法の作られた当時の日本の置かれた状況をそのまま記しているという側面もあるのだ。日本国憲法の作られた当時の日本は、アメリカ軍による占領下にあった。帝国陸海軍が解体され軍事力を全く持っていない以上、戦争は放棄せざるを得ない。アメリカ軍によって占領され、国家の独立を失っている以上、交戦権も無い。そのため、日本の安全保障は、占領しているアメリカ軍が責任を負うしかない。つまり、日本国憲法九条とは、アメリカ軍による日本の占領状態を法制化したものとも言えるのである。占領下の日本では、日本の安全保障は、占領しているアメリカの責任であり、日本政府の役割ではないのだ。だからマッカーサーが日本国憲法を作るにあたり、日本の安全保障のことなど考える必要は全く無かったのである。つまり日本国憲法は、将来日本が独立国家になった場合など全く想定してはいないのである。そのため、日本が表向き独立国家になっても、依然として占領時代と同様にアメリカに安全保障を依存せざるを得ないのである。従って、戦後の日本の安全保障にとって、日米安保体制は生命線なのである。
 日本国憲法九条は、戦後の日本の安全保障にとっての生命線である日米安保体制を脅かす存在でもある。1999年に成立した、いわゆる新ガイドライン法は、明らかに憲法九条に違反している。新ガイドライン法は、周辺事態に対処すべく戦争をしているアメリカに対して、日本政府による後方地域支援を行うことを定めた法律である。内閣法制局による憲法九条の解釈では、集団的安全保障は憲法違反であり、日本の武力行使が許されるのは、日本の領土が他国から攻撃された場合に限るということになっている。しかし、それでは、日本が直接武力行使を受けている場合を除いて、アメリカが行っている戦争に対して武器弾薬や燃料の補給や輸送などの後方支援をすることは、憲法違反ということになってしまう。なぜなら後方支援が戦争行為であるということは、世界の常識だからである。そして戦争になれば補給活動に対する武力行使が行われるのも常識である。実際に第二次世界大戦中に日本の補給船がアメリカ軍の攻撃の対象になり、多くの犠牲者を出したのである。日本が直接武力攻撃を受けていない時にアメリカ軍に対して補給を行うのは、明確なる戦争行為であり、集団的自衛権の行使である。従って、いわゆる新ガイドライン法は憲法違反なのである。
 この新ガイドライン法案が国会で審議されている時、審議の中で「後方支援は戦争行為であり、軍事行動と一体ではないのか。」という野党の質問に対して、小渕総理大臣を始めとした政府首脳が言い続けたことは、「戦争行為と後方支援は別であり、後方地域支援は憲法違反ではない。」ということであった。また、湾岸戦争の時も海部総理大臣が、後方支援は戦争行為ではないと言っている。これらの日本政府首脳の発言は、明らかに国際常識に反する詭弁である。要するに、戦争物資の補強や輸送といった後方支援が戦争行為であると認めてしまったら、周辺事態や湾岸戦争におけるアメリカ軍に対する後方支援が憲法九条に違反することを認めることになってしまうのである。だから日本政府は、後方支援は戦争行為ではないという詭弁を繰り返さなければならないのである。
 日本政府は、自衛隊の存在を正当化するため、憲法九条の拡大解釈をして専守防衛を主張し、日米同盟関係を正当化するために「後方支援は戦争行為ではない」と言って世界の軍事常識をねじ曲げている。はっきり言って、このような行為は、子供騙しとしか言いようがないのである。このことが意味するのは、憲法の拡大解釈によって軍事情勢の変化に対処するというやり方には、既に限界が来ているということである。従って、日本の安全保障のためには、憲法九条は改正か廃止をするしかないことは明らかである。
 ただし、憲法を改正しても、それだけで日本が独自の安全保障政策ができるようになるわけではない。それは何度も言うように、国家の最高指導者の不在も戦後の日本が独自の安全保障政策や外交ができない理由だからである。
 多くの人間は、軍隊さえあれば戦争ができると思いこんでいる。そして多くの日本人は、自衛隊が日本の安全を守ってくれると思っている。自衛隊が軍隊か否か、軍事の専門家の間でも意見が分かれているが、仮に自衛隊が本物の軍隊であったとしても、自衛隊に日本の安全を守る能力は無いのである。なぜなら、戦争は軍隊が行うことではなく国家が行うことであり、国家が戦争を行うためには国家の防衛が可能な国家体制が整っていなければならないからである。第二次世界大戦後の日本には、その国家の防衛が可能な国家体制が整っていないのである。
 戦争は、次の三つの要素が存在しなければ不可能である。
 第一は当然、軍隊である。
 そして第二が後方支援である。軍隊が行うのは「戦闘」であり「戦争」ではない。「戦闘」は、兵器や軍事物資の補給や輸送、通信、傷病兵の治療などといった後方支援があって初めて可能になるのである。そして兵器や軍事物資の補給のためには、それを支える経済力が必要である。「戦争」とは、「戦闘」に加えて、後方支援など「戦闘」を維持するために必要な行為全体を言うのであり、それを行うのが国家である。軍隊は、国家の行う「戦争」の中の「戦闘部門」を受け持っているに過ぎないのだ。
 そして第三の要素が「精神的後方支援」とでも言うべき、国民の一致団結した戦争に対する支持である。そして何度も言うように、国民の一致団結のためには、強力なカリスマを持った最高指導者の力が不可欠なのである。最高指導者の力が発揮できず、国民の一致団結した戦争に対する支持が十分に得られなかったため、軍事力や経済力では敵国に対して圧倒的な力を持ちながら、戦争に敗れてしまった例がいくつもある。日清戦争に敗れた清朝、そして既に述べたように日露戦争に敗れたロシア帝国やベトナム戦争に敗れたアメリカなどがよい例である。日清戦争の頃の清朝と日露戦争の頃のロシア帝国は、革命が起こる寸前の状態にあった。そのため、清の皇帝もロシアの皇帝も、その指導力を十分に発揮することができず、日本との戦争に対して国民を団結させることができなかったため、戦争に敗れてしまったのである。そして清朝もロシア帝国も日本に敗れてから十数年後に革命が起き崩壊している。革命寸前の状態では、とても国民の団結どころではないのである。また、ベトナム戦争の長期化によってアメリカ国民に厭戦気分が蔓延し、反戦運動が起き、国民の団結が失われ、アメリカはベトナム戦争に敗れてしまった。つまり、ベトナム戦争の時のアメリカのように、大統領という最高指導者が存在しても、戦争指導を誤れば国民の団結は維持できなくなることもあるのである。ましてや、最高指導者が存在しない第二次世界大戦後の日本では、戦争など到底不可能なのだ。
 最高指導者が存在しなければ、国民の一致団結した戦争に対する支持が得られないどころか、場合によっては後方支援に対する協力さえ得られないかもしれないのである。後方支援には、民間人の協力が必要な場合もある。たとえば民間の船舶がその乗組員と一緒に軍事物資などの輸送に協力することを求められることもある。そういうことになれば、船舶の乗組員も直接戦争の犠牲になるかもしれない。また、傷病兵の治療のために民間の病院が使われれば、民間人の患者の治療が後回しにされるかもしれない。戦時において、国民が一致団結できなければ、こういった後方支援のための一般国民の負担に対して国民から不満の声が挙がったり、協力を拒否されたりするような事態も起こりかねないのだ。これでは国家の防衛など到底不可能である。
 改憲論者の中には、憲法改正さえすれば戦争ができると思い込んでいる人達がいるが、とてつもない誤りである。確かに憲法を改正すれば、法律上は戦争が可能になる。しかし、法的に可能であることと、実際にそれが可能であることは全くの別問題である。戦争は、「軍事力」に加えて後方支援を支える「経済力」、そして国民の団結を維持するための最高指導者の「指導力」の三つが一体となって始めて可能になるのである。国家に戦争をする能力が無ければ、戦闘部門である軍隊も機能しないのである。軍隊とは最高指導者を頂点とした国家の防衛体制の一部なのである。従って、最高指導者が存在せず、国家の防衛が可能な体制が整っていない第二次世界大戦後の日本が軍隊を持っていても、全く使い物にならないのである。従って、日本国憲法をどのように改正したところで、日本が独自に戦争ができるようになるわけではないのである。結局、戦後の日本の防衛はアメリカに依存するしかないのである。
 最高指導者の不在が外交に支障をきたした例としては、北朝鮮による日本人拉致問題を挙げることができる。
 1980年代には、日本の警察は、北朝鮮に多くの日本人が拉致されたことに関して、或る程度の証拠をつかんでいながら、なかなか問題解決に動こうとしなかった。このことに対して、警察や日本政府に不信感を持っている人達がいる。しかし、たとえ警察や日本政府が、日本人が北朝鮮によって拉致されたことを示す動かぬ証拠を持っていたとしても、1980年代当時に日本政府が北朝鮮に対して拉致問題の解決を要求するのは無理であった。なぜなら、証拠を信じるか否かということは、その証拠を出した人間を信じるか否かという問題だからである。1991年にソビエトが崩壊する前の日本では、共産主義を掲げる左翼勢力が言論界で大きな発言力を持っていた。左翼勢力にとっては「保守反動」の日本政府より、同じ共産主義の同志である北朝鮮の方が遥かに信用できるのである。日本政府が、北朝鮮によって日本人が拉致されたことを示す動かぬ証拠を出しても、北朝鮮政府が「でっち上げだ」とか何とか言って抗議すれば、日本国内の左翼勢力やその影響を受けているジャーナリストや国民が北朝鮮政府と一緒になって騒ぎ出し、世論が分裂してしまうのは目に見えていた。しかも、日本政府が北朝鮮の拉致問題を公表するとなると、北朝鮮政府と親密な関係にあった野党第一党の社会党やその支持者が猛反発して政治が大混乱する恐れもあった。これでは対北朝鮮外交など不可能である。外交には、国民の一致した合意が必要である。国民世論が分裂した状態では、賛成派と反対派が足の引っ張りあいをして、とても外交どころではなくなってしまうのである。国民全体が一致団結して外交的要求をしてこそ、相手の国に対して強力な働きかけが可能になるのである。
 ところが、1991年のソビエトの崩壊によって状況は一変する。共産主義の本家の崩壊によって、左翼勢力に対する国民の信用は一気に低下してしまう。その結果、左翼勢力の発言力も低下する。更に、北朝鮮政府と親密な関係にあった野党第一党の社会党が選挙で大敗し、小政党社民党を残して消滅してしまう。これによって、日本政府が北朝鮮による日本人拉致問題を公の場で取り上げても、それに異議を唱える勢力が日本国内には存在しなくなり、拉致問題の解決に対する国民の一致した支持が得られるようになったのである。こうして日本政府が公式に北朝鮮による日本人拉致問題の解決を北朝鮮政府に要求することが可能になったのである。
 まともな国家なら、自国民が拉致されるような事態が発覚すれば、直ちに行動を起こさなければならない。ところが、北朝鮮による日本人拉致問題に対して日本政府が行動を開始するためには、結局、日本国内の親北朝鮮勢力が消滅して、対北朝鮮外交に反対する声が無くなる時が来るのを待たざるを得なかったのである。このように、日本政府が自国民の安全や人権を犯した国に対して、容易に行動が起こせなかったという事実が意味することは、戦後の日本が外交能力の欠如した欠陥国家だということである。外交を行うためには国民世論の一致した支持が必要な場合もある。そのためには、国民を一つに団結させるだけの強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が必要である。この点に関しては、戦争をする場合と全く同じことである。つまり、戦争が可能な国家体制と外交が可能な国家体制とは全く同じものなのである。従って、戦争ができない国家には外交も容易にはできないのである。このため、北朝鮮による日本人拉致問題の解決のための外交は、なかなか進展しなかったのである。


                      
大統領制の本質

 かつて、政治家や知識人、あるいは学者の間で、首相公選論なるものを論じることがはやったことがある。つまり、内閣総理大臣を直接選挙で選ぶべきだと言うのである。しかし私は、この首相公選論なるものには疑問を持っている。
 首相公選論を主張していた人達は、首相公選によって国民の政治意識や責任感が強まると同時に、内閣総理大臣の指導力も強まると主張していたのである。どうやらアメリカの大統領選挙のように、内閣総理大臣を公選すれば、アメリカの大統領のような強力な最高指導者が日本に生まれると信じていたらしい。要するに、首相公選論者達は、首相公選制度の導入によって、実質的な大統領制を日本に成立させようとしていたのである。しかし、考えてみれば、たとえば、日本の都道府県知事は直接選挙で選ばれているのに、アメリカの大統領のような強大なカリスマや指導力を持っているわけではない。更に、イギリスは、日本と同様に議院内閣制であり、アメリカの大統領のように公選されているわけではない。それにもかかわらず、イギリスの首相は、アメリカの大統領と同様の力を持つ国家の最高指導者である。つまり、最高指導者の指導力が強いか弱いかは、その選び方によって決まるのではないのである。要するに、アメリカ大統領の強大な権力と大統領公選制との間には何の関係も無いのである。従って、日本の内閣総理大臣を公選したところで、イギリスの首相のような実質的な大統領になれるわけが無いのである。
 首相公選論者の主張は、おおよそ次のようなものであった。すなわち、現在の日本の議員内閣制度では、国民は国会議員を通じて間接的に内閣総理大臣を選ぶことによって内閣総理大臣に正統性を与えている。しかし、これでは国民の意志が十分に反映されないため、内閣総理大臣に与える正統性は弱い。これに対して直接内閣総理大臣を選べば、国民は自らが希望する人物を選ぶことが可能になるため、内閣総理大臣に強い正統性を与えることになる。更に、強い正統性を与えることによって、内閣総理大臣に強い指導力やカリスマが与えられることになる。
 この首相公選論者の主張は、次の二つ点での誤っている。
 第一の誤りは、国民の支持が指導者に正統性を与えるという点である。確かに、民主主義の理念の上では選挙によって指導者に正統性が与えられることになっているが、現実の正統性は、国民の支持ではなく法律上の手続きによって与えられているのである。
 アメリカ大統領の正統性が、大統領選挙で国民の支持を得ることによって確立されるという首相公選論者の主張は、明らかに現実に反している。もし、大統領選挙における国民の支持によってアメリカ大統領の正統性が確立されるとすれば、副大統領から昇格した大統領には正統性が無いことになってしまう。また、2000年の大統領選挙では、フロリダ州のブッシュ候補とゴア候補の得票数がほぼ同数で、他の州の集計結果が確定した後もなかなか集計結果が出ず、しかも、このフロリダ州の勝者が大統領選挙の当選者となるという状況だったため、なかなか当選者が決まらなかった。最後は、ブッシュ候補が僅差でフロリダ州を制し、大統領選挙の当選者となった。もし、国民の支持によってアメリカ大統領の正統性が確立されるとすれば、2000年の大統領選挙で当選したブッシュ大統領のように、僅差で当選した大統領の正統性は極めて怪しいことになってしまう。しかし、副大統領から昇格した大統領にしろ、僅差で当選した大統領しろ、アメリカ国民が大統領の正統性について疑問を持つようなことは無かったのが現実である。しかも2000年の大統領選挙では、総得票数ではゴア候補がブッシュ候補に勝っていたにもかかわらず、アメリカ独特の大統領選挙制度のためにブッシュ候補が当選者となったのである。つまり、国民の支持ではゴア候補が勝利しても、法律上はブッシュ候補が勝利したということである。従って、アメリカ大統領を決定するのは国民の支持ではなく法律だということになるのである。更に、国民の支持が大統領に正統性を与えるのだとすると、たとえば2004年の大統領選挙の例では、ブッシュ候補に投票した国民はブッシュ候補に大統領としての正統性を与えたことになるが、同時に対立候補のケリー候補に投票した国民は、ケリー候補に大統領としての正統性を与えたことになってしまう。つまり、ブッシュ候補に投票した国民にとっては、ブッシュ大統領が正統な大統領だが、ケリー候補に投票した国民にとっては、「ケリー大統領」が正統な大統領ということになってしまう。これでは、大統領選挙の度にアメリカは分裂国家になってしまうことになる。従って、国民の支持が大統領に正統性を与える選挙制度などあり得ないのである。アメリカ大統領の正統性の根拠は、国民の支持ではなく、大統領を決定する過程の法律上の手続きなのである。つまり、正統な法律上の手続きに従って大統領に就任したという点に大統領の正統性の根拠があるのである。大統領選挙にしろ、副大統領からの昇格にしろ、アメリカ合衆国憲法によって定められた大統領を決定するための法律上の手続きの一つなのである。そして、大統領選挙に大差で当選しようが僅差で当選しようが、大統領選挙で勝利するという法律上の手続きを経たことには変わりが無いのである。
 首相公選論者の第二の誤りは、指導者に強力な正統性を与えると、同時に強力な指導力やカリスマも与えられるという点である。既に述べたように、大統領当選者の正統性は法律上の手続きによって与えられるのである。しかし、法律上の手続きは、大統領当選者に対して正統性を与えても、指導力やカリスマまでは与えないのである。正統性の強弱と指導力やカリスマの強弱は全くの別問題なのである。それでは、アメリカ大統領は、一体どのようにして強大な指導力やカリスマを得ているのだろうか。
 既に述べたように、カリスマの力も法的権限と同様に国家を運営する上で必要不可欠な国家権力である。従って、法的権限を継承しただけでは国家の最高指導者は務まらないのである。ところが、国家の最高指導者が務まる程のカリスマの持ち主など滅多に出現することが無いのが現実である。なぜなら、国家を指導できるような強力なカリスマを持つためには、その源となる「神話」が必要だからである。アメリカの初代大統領であるジョージ・ワシントンは、「独立戦争の英雄」であり、「建国の父」である。これが彼の持つカリスマの源となる「神話」である。ところが、「建国の父」のような、強力なカリスマを持つための「神話」を得る機会に恵まれた指導者など、滅多に存在しないのが現実である。そのため、国家の最高指導者が務まる程のカリスマの持ち主が出現することは滅多に無いのである。それでは、一体どうすれば、強力なカリスマ持つための「神話」を得る機会の無かった者が、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持つことができるのだろうか。
 実はカリスマというものは、人から人へと継承することができる場合もあるのだ。
 既に述べたように、カリスマとは、多くの人間を無意識のうちに従わせる力である。強力なカリスマを持った者が意志表明をすると、多くの人間が無意識のうちにその意志を受け入れてしまうのである。つまり、実際は指導者のカリスマの力によって与えられた意志なのに、それを自分自身の考えによって決めた意志だと思い込んでしまうのである。これがカリスマの力である。そもそも、人間を指導するということは、指導者の意志に多くの人間を従わせることである。従って、アメリカの大統領に限らず、多くの人間を指導する立場にある者は、カリスマを持つことが必要不可欠なのである。そのため、指導的な立場にある者は、何らかの方法でカリスマを獲得しなければならないのである。
 カリスマを持つのは、英雄や有名人のような特別な人間だけではない。実は、全ての人間がカリスマを持っているのである。ただ、一般庶民の持っているカリスマは、英雄や有名人の持つ強力なカリスマと比べると遙かに弱いというだけのことである。
 また、カリスマを持つのは個人だけではない。家族や大学や企業のような人間集団がカリスマを持つ場合もある。たとえば、名家とか名門とか呼ばれるのは、強いカリスマを持った家族のことである。一流大学や一流企業とは、強いカリスマを持った大学や企業のことである。そして人間が集団に所属すると、その集団からカリスマが与えられるのである。あらゆる人間は、生まれると同時に生まれた家の持つカリスマが与えられる。また、大学に入学するとその大学が持つカリスマが学生に与えられる。そして会社に入社すると、その会社の持っているカリスマが社員に与えられる。家族の一員に強いカリスマを持つ者が存在すると、その家族全体のカリスマも強まることになる。すると、その家に生まれた人間も、生まれると同時に強いカリスマが与えられることになる。これが俗に言う「親の七光り」である。また、学生が一流大学に入学すると、その一流大学が持つカリスマが与えられる。一流大学の卒業生が優秀な人間と見なされる理由は、学校の成績が優秀だったからと言うよりも、むしろ一流大学から与えられたカリスマの力のためである。また、有名な一流企業に就職すると、社員は企業から強いカリスマを与えられる。そこで一流企業に属しているだけで、その人間が立派な人間のように世間から思われてしまうのである。
 また、カリスマにはマイナスのカリスマもある。たとえば、親が犯罪を犯すと、子供までが犯罪者の如く扱われてしまう。企業が犯罪を犯すと、犯罪行為に直接かかわっていない社員までが企業と同罪だと見なされてしまう。これは、親や企業からマイナスのカリスマを受け継いだ結果である。
 人間は、自分の持っているカリスマを強めるために生きているとも言える。人間が成功者や有名人になることや出世することを望むのは、そうすることによって自らのカリスマを強めたいからである。女性が成功者や有名人と結婚したがるのは、結婚することによって成功者や有名人の家族の一員となり、その家の持つ強いカリスマを与えられたいからである。学生が一流大学や有名企業に入りたがるのは、一流大学や有名企業の持つ強いカリスマが欲しいからである。親が子供を一流大学や有名企業に入れたがるのは、子供の持つカリスマを強めることによって自分のカリスマも強めたいからである。
 更に、カリスマを持つのは人間や人間の集団だけではない。大統領、総理大臣、あるいは社長といったような役職がカリスマを持つ場合もある。前任者から強力なカリスマを持った役職を継承すると、同時にその役職が持っているカリスマも前任者から継承することになる。そうすることによって、本来なら強力なカリスマを持つような資質や機会に恵まれない人間でも、強力なカリスマを持つことが可能になるのである。
 これまで述べたことからすると、強力なカリスマを得るには次の二つの方法があることになる。
 第一は、ジンギスカンやナポレオンなどの英雄のように、自ら偉大な業績を挙げることによって「神話」を作り、強力なカリスマを得るという方法である。
 そして第二は、強力なカリスマを持った人物や人間集団から、その強力なカリスマを継承するという方法である。
 いかなる国家であろうと、せっかく国民を指導するに足る強力なカリスマを持つ最高指導者が出現しても、その人物が死ぬか失脚してしまえば、国家から強力なカリスマを持った指導者は居なくなってしてしまう。それでは国家の安全を守ることはできなくなってしまう。国家には国民を指導するに足る強力なカリスマを持つ最高指導者がどうしても必要である。そこで古今東西、多くの国家では、最初に強力なカリスマを持つことに成功した人物のカリスマを、次の最高指導者に継承する体制を確立しているのである。
 その一つが君主制である。君主制とは、最初に強力なカリスマを持つことに成功した人物のカリスマを継承する一族や子孫に最高指導者の地位を継承させることによって、強力なカリスマを持った最高指導者を半永久的に存続させる指導体制である。
 そしてアメリカなどの国で採用されている大統領制も、最初に強力なカリスマを持つことに成功した人物のカリスマを次の最高指導者に継承する制度であることには変わりがないのである。既に述べたように、大統領や総理大臣などの最高指導者の役職がカリスマを持つ場合もある。大統領制とは、強力なカリスマを確立して国家の最高指導者となった初代大統領のカリスマを、大統領の役職と共に次の大統領に継承させる体制である。強力なカリスマを持つ機会の無い者が国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持つには、前任者の持つ強力なカリスマを継承するしかないのが現実である。従って、アメリカの第二代大統領ジョン・アダムス以降の歴代大統領のカリスマは、初代大統領ジョージ・ワシントンから継承されたものなのである。
 今日のアメリカの大統領は、国民の意識を変えてしまうような強大なカリスマを持っているが、初代大統領ジョージ・ワシントンの頃からこのような強大な力を持っていたわけではない。アメリカの大統領の権力とカリスマは、大統領の指導力によって国家の危機を乗り切ったり、戦争に勝利したりする度に、強大化していったのである。その中でもとりわけ権力とカリスマの強大化に貢献したのが、第十六代大統領エイブラハム・リンカーンと第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトである。この二人の偉大な大統領が登場する前と後ではアメリカは大きく変質している。
 南北戦争が終結した1865年以前のアメリカは、単なる国家の連合体に過ぎなかった。日本人が「州」と呼ぶカリフォルニア、テキサス、アーカンソーなどといった地方自治体は、本来は一つの独立国家である。つまり、本来のアメリカ合衆国とは、北米大陸版のEU(ヨーロッパ連合)とでも言うべきものであった。南北戦争が始まった時、南部十一州が独立してしまったが、十一州にしてみれば、単なる国家の連合体からの離脱に過ぎないのである。南北戦争以前のアメリカの大統領は、国家を統合する力が極めて弱かったのである。つまり、南北戦争の終結以前のアメリカ合衆国は、国家の成立の途上にあったのである。
 ところがリンカーン大統領の指導によって南北戦争が北部の勝利に終わり、アメリカが再統一された後は、合衆国から分離独立しようとした州は、現在に至るまで一つも存在しなかった。それはリンカーン大統領の指導力により合衆国が再統合された結果、連邦政府と大統領の力が強大化したからである。つまり、リンカーン大統領によって、初めてアメリカの大統領に国家を統合する力が確立されたのである。これによってアメリカ合衆国は国家体制が完成し、本当の意味での統一国家になったのである。言い換えれば、リンカーン大統領こそ本当の意味でのアメリカ合衆国の建国者であると言っても過言ではないのである。
 次はフランクリン・ルーズべルト大統領の場合である。
 第二次世界大戦後のアメリカは、世界の至る所で戦争を行ってきたが、第二次世界大戦以前はそうはいかなかった。第一次世界大戦に参戦してみた結果、悲惨な戦争を目の当たりにして、国内に厭戦気分が広がってしまった。しかも、伝統的なモンロー主義の影響も根強いものがあった。そのため、第二次世界大戦以前のアメリカの世論や議会は、国際紛争への介入には極めて消極的であった。そのためアメリカは、日本が中国へ攻め込もうが、ナチスドイツがポーランドやフランスへ攻め込もうが何もできなかった。せいぜい非難をしたり経済制裁をしたりするのが精一杯であった。やがて日本軍の真珠湾攻撃をきっかけに、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、日本やドイツに勝利して世界の覇者となる。するとアメリカは、一転して大統領の号令の下に世界中で積極的に軍事介入をするようになる。朝鮮戦争やベトナム戦争、そして湾岸戦争といった具合である。これはルーズベルト大統領の指導力により第二次世界大戦に勝利した結果、大統領の権力とカリスマが強大化したため、世論や議会が大統領の軍事・外交政策に対して容易に反対できなくなった結果である。このルーズベルト大統領よって確立された大統領の強大な力が、現在の大統領にまで引き継がれているのである。
 また、アメリカ合衆国憲法では、宣戦布告の権限は議会のみにあって、大統領には無いことになっている。ところが実際は、議会にも国民にも全く知らせず、大統領の決断だけで戦争を始めた例はいくらでもある。レーガン大統領の行ったグレナダ侵攻や父親の方のブッシュ大統領の行ったパナマ侵攻などがそれである。つまり憲法に記されてはいないことでも、一度それが前例となり積み重ねられていくと、それが慣行となり定着してしまうのである。
 こうしてアメリカの大統領制には、強大な権威とカリスマを継承する仕組みが確立され伝統となったのである。アメリカの大統領制は、国民が大統領にしたい人物を選ぶ選挙制度と、権威とカリスマを大統領の役職と共に前任者から後任者へと継承する伝統の上に成り立っているのである。だから、大統領の役職を引き継いだ人物が、カリスマや指導力といった最高指導者としての資質に欠けていても、大統領の役職に備わっているカリスマの力を駆使することによって最高指導者としての役割が務まるのである。もし、このような、権威とカリスマを継承する仕組みが整っていない国で最高指導者としての能力が欠如した人物が最高指導者になってしまったら、最高指導者が不在の欠陥国家となり、国家の機能が麻痺し、国家の安全を守ることができなくなってしまうのである。
 日本の内閣総理大臣の役職にも、ある程度のカリスマはあるが、アメリカの大統領のように国民を指導できる程のものではない。また、個人的にアメリカの大統領に匹敵するような強力なカリスマを持った政治家が日本に出現したことなど一度も無い。一部の言論人達は、日本の内閣総理大臣に軍事・外交の能力が無いのは、決断力や指導力といった国家の指導者としての能力の欠如が原因だと主張している。つまり、内閣総理大臣の職にある政治家個人の能力に問題があるから、まともな軍事・外交ができないと言うのである。しかし、歴代の日本の内閣総理大臣に、それらの言論人達の言うような軍事・外交の能力あった者が一体何人存在したと言うのか。仮に言論人達の言うような能力を持った政治家が内閣総理大臣に就任することがあったとしても、その人物が内閣総理大臣である時にだけ都合よく国家の危機が起きてくれるという保証など、どこにもないのだ。国家の危機は、大多数の凡庸な内閣総理大臣の時に起こる可能性の方が遙かに高いのである。従って、国家の安全保障を政治家個人の能力に依存するのは、あまりにも非現実的だと言わざるを得ないのである。結局、国家の危機に対処するためには、カリスマや指導力といった最高指導者としての力に欠けた人物が最高指導者になってしまっても、それを補う仕組みを国家体制に整えておくしかないのである。そのためには、アメリカの大統領制のように、本来カリスマを持たない人物でもカリスマを継承できる体制が確立されていなければならないのである。
 カリスマの継承が必要なのは、無能な政治家が最高指導者になった場合だけではない。考えてみれば、リンカーンやフランクリン・ルーズベルトのような偉大な大統領と言えども、大統領に就任したばかりの時は普通の大統領だったのである。大統領の在任中に偉大な功績を挙げた結果、後世の人々から偉大な大統領と言われるようになったのである。従って、偉大な最高指導者になる素質のある政治家と言えども、やはり前任者からカリスマを継承しなければ最高指導者は務まらないのである。
 ただし、一国の最高指導者ならば、最高指導者のカリスマや権威を継承する体制さえ確立されていれば、自国の防衛のような国家の最高指導者としての最低限度の役割は務まる。しかし、現在のアメリカは、同盟国の防衛や国際秩序の維持といった、超大国としての役割も果たさなければならないのである。同盟国の防衛や国際秩序の維持といった行為には、高度な判断力や政治手腕が必要である。ところが、判断力や政治手腕があるか無いかということは、結局、政治家個人の能力の問題なのである。最高指導者のカリスマや権威を継承する体制が確立されていても、前任者から継承するのは、あくまで一国の最高指導者が務まるカリスマや権威であって、超大国の最高指導者が務まるような高度な判断力や政治手腕まで継承するわけではない。従って、前任者から大統領の力を継承しただけでは、一国の最高指導者として最低限度の役割が務まる大統領にはなれても、超大国の最高指導者が務まる大統領になれるわけではないのである。従って、アメリカの大統領がいくら強大なカリスマや指導力を前任者から継承したとしても、ベトナム戦争の時のジョンソン大統領のような政治的な能力が欠如した人物が大統領になり、判断を誤ってしまったら、同盟国の防衛や国際秩序の維持ができなくなってしまう可能性もあるのである。つまり、アメリカ一国のための大統領ならば誰でも務まるが、超大国アメリカの大統領は、高度な判断力や政治手腕といった超大国の最高指導者にふさわしい能力を持った政治家でなければ務まらないのである。
 カリスマを継承する体制が確立されていなければ最高指導者が不在となり、政治が不安定になったり、場合によっては国家が崩壊してしまうような事態さえ起こりかねない。その典型的な例が、旧ユーゴスラビアである。
 ユーゴスラビアは、1980年にチトー大統領が死去したのをきっかけに、民族間の対立が表面化し始める。そして1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニアといった各共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立に向かって動き出した。これに対して、セルビア人を中心としたユーゴスラビア連邦政府が独立を認めなかったことから、1992年になると遂に内戦が勃発してしまう。そしてボスニア・ヘルツェゴビナでは「民族浄化」、更にコソボ自治州ではアルバニア系住民が難民となって国外に流出するなどの悲劇が起きてしまった。
 そもそも旧ユーゴスラビアの六つの共和国を一つにまとめていたのは、チトー大統領の強力なカリスマの力であった。そのチトー大統領の死去と共にチトー大統領のカリスマの力が失われてしまったのがユーゴスラビアの崩壊の原因なのである。チトー大統領は、第二次世界大戦中パルチザンを率いてナチスドイツと戦いユーゴスラビアを解放し、戦後は共産主義国家でありながらソビエトの衛星国とはならず自主外交を貫いた。このようにチトー大統領は、それなりに優れた指導者ではあった。しかしチトー大統領は、カリスマの継承の確立という国家体制にとって最も肝心なことを怠ってしまったため、彼の死後に国家が崩壊するという最悪の事態を招いてしまったのである。ユーゴスラビアの内戦に伴って生じた様々な悲劇に対して、セルビア人やユーゴスラビア政府の指導者達が国際社会から非難を浴びたが、真に非難されなければならないのは、カリスマの継承の確立ができず、国家の分裂の原因を作ってしまった故チトー大統領なのである。
 アメリカの大統領制のように、カリスマを継承することによって、最高指導者としての資質に欠ける人物でも国家の最高指導者が務まるような体制が確立されていなければ国家は成り立たない。ところが現在の日本にはそのような体制は確立されていないのである。これが戦後の日本が最高指導者不在になってしまった理由の一つである。首相公選論者達の言うように内閣総理大臣を公選したところで、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持った内閣総理大臣がもともと存在しない日本で、アメリカの大統領のように前任者から最高指導者としての力を継承することなど不可能である。従って、たとえ首相公選制が成立したとしても、結局は内閣総理大臣を選出する手続きが変わるだけであって、内閣総理大臣の指導力やカリスマが強まるわけではないのである。内閣総理大臣を公選しても、最高指導者としての強力な指導力やカリスマを与えることができなければ、最高指導者を選んだことにはならないのである。強力な指導力やカリスマを与えることができない首相公選制は、アイドルの人気投票のようなものである。
 要するに、国家の最高指導者とは、選ばれるものではなく作られるものなのである。国家の最高指導者の大多数は、本来なら最高指導者など務まらない凡庸な政治家である。その凡庸な政治家に最高指導者としての正統性を与え、法的な権限を与え、カリスマや権威を前任者から継承させ、最高指導者に作り上げるのである。この仕組みがうまく機能しなければ、最高指導者が存在しない欠陥国家になってしまうのである。


                   
日本の歴史と最高指導者

 果たして、日本に大統領制が成立するのだろうか。
 大統領制は、次のような段階を経て成立するものである。
 第一段階では、「独立の父」「救国の英雄」と呼ばれるような偉大な政治的業績を挙げた指導者が、その業績を背景に強力なカリスマと権威を確立して実質的な最高指導者となり、更に選挙などによって大統領などの法的に正統性のある最高指導者の地位を獲得して初代最高指導者となる。
 第二段階では、その初代最高指導者のカリスマと権威が、大統領などの最高指導者の役職と共に、法の手続きに従って二代目以降後の後継者に継承される伝統が確立され、安定した政治体制が成立する。
 ちなみに、私の言う大統領制には、アメリカやフランスの大統領のような、最高指導者が大統領を称している場合に限らず、イギリスの首相のような実質的な大統領制も含まれている。
 既に述べたように、アメリカの大統領は、「独立戦争の英雄」である初代ジョージ・ワシントンのカリスマと権威が歴代大統領に継承され、それが、リンカーンやフランクリン・ルーズベルトといった偉大な大統領らによって更に強化され今日に至っている。また、フランスの第五共和制の大統領の場合は、第二次世界大戦中のナチスドイツに対する開放闘争の英雄であるシャルル・ド・ゴール大統領のカリスマと権威をポンピドゥー以降の歴代大統領が継承するものである。
 日本に大統領制が成立するためにも、第一段階として政治家が何らかの偉大な政治的業績を挙げ、強力なカリスマと権威を確立し、更に法的正統性のある最高指導者に就任しなければならない。ところが日本では、歴史上、天皇以外の者が法的正統性のある最高指導者に就任した前例が無いのだ。
 たとえば平安時代の藤原氏の摂関政治にしてみても、天皇のカリスマや権威を利用することによって成立したものであり、藤原氏自体に天皇に匹敵するようなカリスマや権威があったわけではない。藤原氏が独占していた摂政や関白も、国家の最高指導者の役職ではない。藤原氏に天皇に匹敵するようなカリスマや権威あったならば、彼ら自身が天皇のような法的正統性のある国家の最高指導者に就任していたはずである。
 そして武家の棟梁である征夷大将軍も法的正統性のある最高指導者ではなかった。これが、徳川幕府の幕末の動乱の根本的な原因である。徳川幕府がアメリカの圧力に屈して開国を決定しようとした時、天皇に勅許を出してもらわざるを得なかった理由の一つが、征夷大将軍は法的に正統な最高指導者ではなかったため、軍事・外交を行う法的権限が無かったことにある。軍事・外交を行う法的権限は、法的に正統な最高指導者である天皇にあるため、幕府は天皇に勅許を出してもらわざるを得なくなってしまった。そのため、徳川家の征夷大将軍が法的正統性のある最高指導者ではないことが明確になってしまったのである。その結果、本来正統な最高指導者である天皇に政権を戻そうとする討幕運動が活発になったのである。徳川家の征夷大将軍が法的正統性のある最高指導者になれなかったのは、初代徳川家康が徳川将軍家の法的正統性を確立できなかったからである。しかし、徳川家康は決して無能な指導者ではない。関ヶ原の合戦に勝利し、三百年近く続いた安定政権の基礎を作った功績は偉大なものである。しかし、これほどの功績を挙げても日本では法的正統性のある最高指導者にはなれないのである。
 日本を再統一した豊臣秀吉や、関ヶ原の合戦に勝利して天下の実権を握った徳川家康のように、天下を実質的に統治している実力者と言えども、法的正統性のある天皇から官位を与えられることによって始めて自らの権力を正当化できたのである。そのため、秀吉は天皇から関白太政大臣に任ぜられ、家康は天皇から征夷大将軍に任ぜられたのである。つまり、天下を実質的に統治している実力者と言えども、天皇の力を借りなければ権力基盤を固めることができなかったのである。そして徳川幕府は、天皇の力を借りた勢力によって滅ぼされる羽目になってしまったのである。
 その徳川幕府打倒の最大の功労者は、何と言っても西郷隆盛であろう。薩摩や長州といった倒幕勢力を結集し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、勝海舟との談判の結果、江戸城の無血開城を実現して明治新政府を打ち立てたのである。この明治新政府の指導体制は、世界に類の無い特異なものだと言わざるを得ない。なぜなら、もし日本が普通の国だったら、西郷隆盛は明治新政府の最高指導者になっていても不思議ではないからである。世界の歴史を見れば、国家が独立したり革命などによって新しい国家が成立したりした場合、独立運動や革命の指導者がそのまま新しい国家の最高指導者になる場合が多いのである。アメリカの独立戦争の指導者だったワシントンは、アメリカの初代大統領に就任している。また、ガンジーと共にインドの独立運動を指導したネルーも、インドの初代首相に就任している。ロシア革命の指導者だったレーニンは、ソビエトの最高指導者となった。そして、蒋介石政権を打倒して中国に共産主義政権を樹立した毛沢東も、中国の最高指導者となったのである。ところが、日本の明治新政府の最高指導者は、明治維新の最大の功労者の西郷隆盛ではなく明治天皇だったのである。既に述べたように、明治維新の中心人物である西郷隆盛は、明治新政府の成立後、廃藩置県などの政治改革に対する士族階級の反発を押さえるため、一時的に国家の最高指導者の役割を代行したことはあったが、法的に正統な最高指導者になることは無かったのである。なぜなら、明治国家の法的に正統な最高指導者はあくまで明治天皇であり、西郷隆盛は明治天皇の一臣下に過ぎなかったからである。明治維新の最大の功労者であり、強力な指導力とカリスマを持った偉大な政治家である西郷隆盛といえども、天皇制を否定することはできなかったのである。
 このように、日本では、政治家が功績を挙げることによって法的に正統な最高指導者になるということは不可能であり、歴史的な事実として、そのようなことは前例が無いのである。要するに、日本には、政治家が偉大な功績を挙げることによって強力なカリスマや権威を確立し、法的正統性のある最高指導者になるという伝統も文化も無いのである。これでは「初代大統領」など出現しようがない。勿論、「初代大統領」が出現したとしても、そのカリスマと権威が後継者達に継承できるという保証は無い。ユーゴスラビアのチトー大統領のように失敗する可能性もある。これでは、どう考えても日本に大統領制が成立するとは思えないのである。
 首相公選論を唱えていた人達は、国家というものは、法律や制度の上にのみ成り立っていると考えていたのである。つまり世界中のどこの国だろうと、アメリカと同じ法律や制度を作れば、アメリカと同じ国家が出来上がると思い込んでいたのである。首相公選論を唱えていた人達の考え方は、明らかに現実に反しているのである。国家や最高指導者のあり方は、その国固有の伝統や文化の産物であり、法律や制度は枝葉末節の問題に過ぎないのである。
 日本の政治家がいかなる功績を挙げても国家の最高指導者になれないのは、日本の国家の最高指導者のあり方が世界の国々と比べて極めて特異なものだからである。
 そもそも国家の最高指導者には、次の二つ役割がある。
 第一の役割が、国民全体を代表して軍事や外交政策などの国家の重大な意志決定を行う「最高意志決定者」である。
 第二の役割が、行政機関の長として「最高意志決定者」の決定した政策や決断を実行し、問題が生じた場合は責任を取る「行政の責任者」である。
 既に述べたように、国家の最高指導者の権力は、国民を指導するに足る強力なカリスマと法的権限によって成り立っている。つまり、強力なカリスマの力によって国民全体を指導するのが「最高意志決定者」であり、法的権限によって行政機関を指導するのが「行政の責任者」である。
 世界のほとんどの国では、どのような国家体制であっても「最高意志決定者」と「行政の責任者」の役割は,一人の人物が兼ねているのが普通である。これに対して、戦前の日本の場合は、この二つの役割が天皇と内閣総理大臣によって分担されていたのである。すなわち天皇が国家の「最高意志決定者」であり、内閣総理大臣が「行政の責任者」だったのである。天皇は「最高意志決定者」として軍事や外交政策などの国家の重大な意志決定はするが、決定したことを実行することや、その結果に対する責任を負うことは無いのである。そして「行政の責任者」としての内閣総理大臣の役割は、行政機関の長として、天皇の決定した軍事や外交政策などの国家の重大な決定を実行することと、その実行した結果に対して責任を負うことである。そして、戦前の内閣総理大臣は、軍事や外交政策のような国家の重大な意志決定を行う権限は持っていなかったが、内政上の決定など、軍事や外交政策以外のことは自ら決定し、実行していたのである。国家の最高指導者の最大の役割は、軍事や外交のような国家にとっての重大な問題の意志決定をすることである。従って、「最高意志決定者」であった天皇が戦前の日本の最高指導者であったと言えるのである。
 第二次世界大戦後の日本でも、内閣総理大臣が行政機関の長として国家の決定したことを実行する「行政の責任者」であることは戦前と変わりがないのだが、国家の重大な意志を決定する「最高意志決定者」になったわけではないのである。一方、戦前の日本で「最高意志決定者」であった天皇は、日本国憲法の規定によって「象徴」になってしまい、あらゆる政治的権限を失ってしまった。つまり、戦前の内閣総理大臣の「行政の責任者」としての権限は、戦後の内閣総理大臣にそのまま引き継がれているが、国家の重大な意志決定をする「最高意志決定者」としての天皇の権限を引き継ぐ役職が、戦後の日本には存在しないのである。その結果、第二次世界大戦後の日本には最高指導者が存在しなくなってしまったのである。
 一般的な常識では、「行政の責任者」のことを国家の最高指導者と言う場合が多い。また、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」と記され、更に内閣総理大臣の法的権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。日本国憲法に記された内閣総理大臣は、まさに「行政の責任者」である。従って、一般的な常識からすれば、日本の内閣総理大臣は、立派な最高指導者ということになってしまう。しかし、私の考えでは、強力なカリスマの力によって国民全体を指導する「最高意志決定者」として役割こそ、国家の最高指導者の真の役割である。従って、私には日本の内閣総理大臣は、国家の最高指導者とは言えないのである。
 この「最高意志決定者」である最高指導者と「行政の責任者」が別という政治体制は、古代から日本に存在したのである。古代より最高指導者になる権利は天皇のみが持っているのに対して、「行政の責任者」は、蘇我氏、摂関政治の藤原氏、鎌倉幕府執権の北条氏、足利幕府、徳川幕府といった具合に、その時代の実力者が就任するのである。この間、天皇は何度も政治の実権を失ったり復権したりを繰り返して来たが、常に最高指導者としての正統性が失われることは無かったのである。
 一方、最高指導者と「行政の責任者」を一人の人物に統合して、日本を「普通の国」に変えようという試みも、歴史上何度か行われたが、それを実行しようとした者は、いずれも惨めな失敗に終わっている。蘇我入鹿や藤原仲麻呂は、天皇に取って代わろうとしていたと言われているが、失敗して殺されている。後醍醐天皇は、中国の皇帝のような専制君主になろうとしたが、建武の新政の失敗によって断念せざるを得なくなった。結局、天皇のみに最高指導者としての正統性があり、時の実力者が「行政の責任者」に就任するという体制が、日本の社会に定着してしまったのである。そのため、武家政治の時代や第二次世界大戦後のように天皇が権威を失ってしまうと、国家の最高指導者は存在しなくなってしまうのである。そして、天皇以外の者の場合は、徳川家康や西郷隆盛のような傑出した指導者でも、法的には「行政の責任者」になるのが限界なのである。従って、第二次世界大戦後の日本の内閣総理大臣とは、「法的に正統な行政の責任者」なのである。
 現代の世界には、最高指導者と首相が共に政治的権限を持っている国は沢山ある。フランスの大統領と首相、ロシアの大統領と首相、タイの国王と首相などである。これらの国々の最高指導者と首相の関係は、共同統治者であって、戦前の日本の天皇と内閣総理大臣のように「最高意志決定者」と「行政の責任者」が分担されているわけではないのである。従って、もし首相が何らかの政治上の過ちを犯したら、最高指導者も連帯責任を取らされる場合があるのである。「最高意志決定者」と「行政の責任者」が別というのは、日本独特の政治体制なのである。
 政治体制に限らず、一つの制度が伝統となり、その国の社会に定着すると、よほどのことがあっても無くならなくなってしまうことがある。たとえばヨーロッパの貴族制度は、イギリスのように法的に認められている国がある一方で、フランスやイタリアやドイツのように、革命や政変をきっかけにして法的には存在しなくなった国もある。ところが、ヨーロッパの貴族は、法的には存在しないことになっている国でも実態としては存在し、いまだに市民の尊敬を受けているのである。また、インドのカースト制度は、法律上は否定されているが、実態としては存在し続けていて、しばしばインドの社会問題として取り上げられることがある。このように、一つの制度が伝統となり、その国の社会に定着してしまうと、法律をどう変えようが、政変や革命が何回起ころうが、無くなることは無いのである。
 貴族制度やカースト制度と同様に、特定の政治体制が、その国の社会に定着して伝統となり、国家や民族が存在し続ける限り、法律をどう変えようが政変や革命が何回起ころうが、無くならなくなってしまった例がある。その典型的なものが、イギリスの議会制度と日本の天皇制である。イギリスの議会制度は十三世紀に成立して以来、七百年以上続いた歴史によって伝統となり、イギリスの社会に定着してしまった。イギリスの議会制度も日本の天皇制と同様に、長い歴史の中で何度も革命や政変や内乱といった事態に遭遇したが、結局、存続し続けたのである。つまり、イギリスの議会制度も日本の天皇制も、貴族制度やカースト制度と同様に社会に定着してしまったのである。これが、天皇制が二千年近くの間続いた理由の一つなのである。
 大統領制とは、選挙などの法的手続きに従えば、誰もが正統な国家の最高指導者に就任できる制度である。ところが日本では、天皇だけが国家の最高指導者になることができ、それ以外の者は、どれほど実力があろうと「行政の責任者」にしかなれないという天皇制の伝統が定着してしまっているのである。従って、憲法を改正して首相公選制を導入したところで、結局、「行政の責任者」に就任するための法的手続きが変わるだけの結果になってしまうのである。従って、日本には大統領制は成立しないのである。
 戦前の日本では、「最高意志決定者」たる最高指導者として君臨する天皇と、その天皇によって決定された国家の意志を実行する「行政の責任者」である内閣総理大臣が、二つで一つとなって国家権力を形成していたのである。天皇が最高指導者であっても、「行政の責任者」ではないということは、すなわち、天皇によって決定されたことがいかなる結果を招いても、天皇に責任は無いということである。この「最高意志決定者」と「行政の責任者」が分担されているという日本の政治体制の特異ぶりが最も極端な形で示されたのが、第二次世界大戦後の日本の戦争責任者の追求の時である。
 太平洋戦争の開戦は、昭和天皇の主催する御前会議によって決定された。既に述べたように、内閣総理大臣を始めとした大臣は天皇の補佐役に過ぎず、開戦の決定のような国家の重大事を決定する権限は無いのである。開戦のような国家の重大事は、最高指導者たる天皇のみに決定権がある。従って、太平洋戦争の開戦が御前会議によって決定されたということは、太平洋戦争の開戦は、昭和天皇によって決定されたということである。
 ただし、昭和天皇自身は日米開戦には反対だったとして、それを理由に昭和天皇には開戦の責任は無いと主張する人もいる。しかし、日米開戦が昭和天皇の本意であろうとなかろうと、開戦のような国家の重大事は、最高指導者たる天皇のみに決定権がある以上、普通の国の常識から考えれば、昭和天皇こそ最大の戦争責任者ということになってしまう。日本以外の国なら間違いなく、昭和天皇は戦争責任を取らされていたはずである。日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国となったイタリアでは、国王のビットリオ・エマヌエーレ三世が、ムッソリーニ首相との共同統治の責任者として、敗戦の責任を取って退位させられ、王制そのものも廃止されてしまった。ところが日本では、天皇制の廃止も昭和天皇の退位も無かったのである。帝国陸海軍の最高司令官であり、大日本帝国の最高指導者であった昭和天皇は、常識的に考えれば最大の戦争責任者のはずである。その天皇の罪がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から問われなかった最大の理由は、大多数の日本国民が昭和天皇の断罪に反対だったという点にある。日本国民からの昭和天皇の戦争責任を問う声がほとんど起きなかったどころか、GHQに対して日本国民から寄せられた意見のほとんどが昭和天皇の罪を問うべきではないというものだった。この日本国民の意志に反して天皇の処罰などすれば、どのような政治的混乱が起きたか分からなかったのである。これは、天皇は「最高意志決定者」であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の原則が完全に日本の社会に定着していたということを明確に示しているのである。
 一方、占領政策の責任者であったマッカーサーにしても、占領政策を成功させるためには、どうしても昭和天皇の協力が必要だった。一説には、マッカーサーはアメリカ大統領の地位を狙っていたとも言われている。そのためもあってか、マッカーサーは是が非でも占領政策を成功させなければならなかったのである。占領政策を成功させるために必要なのが協力者である。協力者は、占領側に協力的で、しかも被占領国民の支持が得られる人物でなければならない。そこでGHQが白羽の矢を立てたのが昭和天皇だったのである。敗戦という事態にもかかわらず、天皇は「最高意志決定者」であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の原則によって、国民から戦争責任が問われることが無かったため、国民の天皇に対する尊敬の念と天皇のカリスマが完全に失われることは無かったのである。そのためGHQは、アメリカの占領政策の協力者にふさわしい人物として昭和天皇を選んだのである。結局、占領政策の責任者であるマッカーサーも、天皇は「最高意志決定者」であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の原則を尊重せざるを得なかったのである。ただし、大日本帝国の最高指導者にして帝国陸海軍の最高司令官であった昭和天皇の罪が一切問われないと言うのでは、日本の戦争行為を批判し、再び天皇の名による戦争が行われることを恐れている中国やソビエトやオーストラリアといった国々の不満が収まらない。そこでマッカーサーは、事実上の昭和天皇の身代わりとして、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされた東条英機や広田弘毅といった元内閣総理大臣を含む七名を絞首刑に処し、更に、戦争の放棄を定めた日本国憲法を作ったのである。
 言論人や政治学者の中には、天皇はイギリスの国王と同様の立憲君主なのだから戦争責任は無いなどと言う人達がいるが、名実共に最高指導者だった天皇と、政治的権限の全く無いイギリスの国王を同列に論ずるのは明らかに間違いである。そもそも立憲君主制とは、形の上では君主制であっても、実態は議会政治という政治体制である。議会政治では、国民から選挙によって選ばれた者のみが国家の指導者というのが原則である。従って、立憲君主制で内閣総理大臣に任命されるのは、議会内の多数党の代表者でなければならない。ところが、太平洋戦争の開戦当時の内閣総理大臣であった東条英機は、議会内の多数党の代表者ではないどころか、議会政治家ですらない現役の軍人である。このような人物が内閣総理大臣に任命されたこと自体が、当時の日本が立憲君主制ではなかった証拠である。
 天皇は「最高意志決定者」であっても「行政の責任者」ではないという、この天皇制の原則も、天皇家が二千年近く続いて来た理由の一つである。諸外国の王朝の君主は、日本の天皇家とは違い「最高意志決定者」と「行政の責任者」を兼ねている。従って、失政や敗戦などによって王朝の権威が低下すると、「行政の責任者」としての責任を取らされる形で王朝の交代や革命が起きてしまう場合があるのである。ところが日本の天皇家の場合は、天皇の意志決定がどういう結果を招こうと、政治責任を取らされることはないのである。政治責任を取らされ交代させられるのは専ら「行政の責任者」であり、「最高意志決定者」の天皇自身に責任の追求が及ぶことは無いのである。だから日本では、王朝の交代や天皇制を否定する革命など起こりようが無いのである。勿論、天皇や皇室と言えども、何らかの形で自らの決定に対する政治的な責任を取らされたことはある。その一例が、鎌倉時代初期に起きた承久の乱の場合である。1221年、鎌倉幕府から朝廷に政治の実権を取り戻そうとした後鳥羽上皇は、北条義時追討令を発し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。これに対して鎌倉幕府は、北条泰時らの率いる軍勢を京に差し向け、朝廷側の軍勢を打ち破る。そして鎌倉幕府は、後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流にし、仲恭天皇を廃位にしたのである。また、第二次世界大戦の敗戦の結果、昭和天皇は天皇の地位を失うことは無かったが、政治の実権は失った。これも或る意味では戦争責任を取らされたものと言える。しかし、いずれの場合も王朝の交代や天皇制の廃止にまでには至っていない。この「決定者」であっても「責任者」ではないという戦前の天皇制のことを無責任体制などと言って批判する言論人がいる。しかし、無責任とは、責任を取る立場にあるにもかかわらず責任を取らないことを言うのであって、最初から責任を取る立場に無い戦前の天皇を無責任呼ばわりするのは間違いなのである。


     
          民主主義国家と非常独裁制

 民主主義国家については、一般的に次のように説明されている。
 国家の指導者は権力の乱用などによって独裁者となり、国民の権利や自由を侵害するような行為を行う恐れがある。そのような独裁権力の行使から国民の権利や自由をを守るためには、国家の指導者の権力を必要最小限度のものに制限し、国民の監視下に置かなければならない。まず、国家の指導者にはカリスマや権威と言った国民の意識を変えるような強大な力は持たせない。そして、法的権限を法の執行権、立法権、司法権の三つに分割し、最高指導者には法の執行権のみを与える。更に、法を執行する最高指導者、立法府である議会、そして司法権を行使する裁判所にそれぞれ対等の力を与えて互いに監視させ、三者の中の一つが独走することを防ぐのである。これが三権分立であり、民主主義国家の根幹を成すものである。最高指導者が意志決定をする場合も、あらかじめ法によって定められた民主的手続きに従い、議会の承認を得なければならない。こうすることによって最高指導者を国民の代表である議会の監視下に置くのである。そして、国家の指導者を監視するのは、議会や裁判所だけではない。国民には言論の自由や思想の自由など様々な自由を与え、議会やジャーナリズムと共に最高指導者を監視するのである。このようにして国家の指導者が独裁者となることを防ぎ、国民の権利と自由を守るのである。これが、一般的に民主主義国家とされているものである。
 しかし、国家の存在する最大の理由は、国民の生命や財産を守ることである。そのため、国家の最高指導者には非常事態に対処するための強大な力が必要である。非常事態においては、早急な意志決定と行動が必要な場合があり、民主的手続きなど行っている時間など無い場合もある。また、国家の重大な決定をめぐって世論が分列して収拾がつかなくなる場合もある。こういう場合に国民を一つに団結させて非常事態に対処するため、最高指導者には強力な指導力やカリスマの力が必要不可欠なのである。しかし、そうすると、最高指導者は突出した力を持つことになり、三権分立が破綻して独裁者になってしまう。従って、国家と民主主義は矛盾することになってしまうのである。
 これまで述べたことからすると、アメリカは一種の独裁国家ということになってしまう。実際、アメリカの大統領には独裁的なところがある。独裁とは、本来なら議会の承認による民主的手続きが必要な決定を、議会を抜きにして決定してしまうことである。たとえば、既に述べたように、アメリカの憲法の規定では、宣戦布告は議会のみが有する権限ということになっているが、レーガン大統領の行ったグレナダ侵攻や父親の方のブッシュ大統領の行ったパナマ侵攻は、議会の承認を得ずに行われた戦争行為であり、客観的に見れば明らかに憲法違反であり独裁である。ところが、グレナダ侵攻やパナマ侵攻の時、レーガン大統領やブッシュ大統領に対して民主的手続きを経ていないといった非難の声は無かったのである。つまり非常事態における慣習として、事実上の大統領による戦争開始の権限が容認されているのである。要するに、これは一種の非常独裁制である。古代ローマにディクタトールという制度化された非常独裁制があったのに対して、アメリカの場合は非常時における独裁制を制度化せず、慣習として定着させることによって非常事態に対処しているのである。
 民主主義の理論では、法の執行、立法、司法の三権が分立し、互いに力の均衡を取りながら監視し合い、それぞれが独走をしないように牽制し合うということになっている。しかし第二次世界大戦後のアメリカでは、大統領の権力が強大化し、他を圧倒する力を持ってしまっているのである。特に、大統領の軍事・外交に関する権力は、議会の力が及ばないくらい強大なものになってしまっている。第二次世界大戦後のアメリカでは、大統領が開戦の決定などの重大な決意を表明すると、世論も議会もジャーナリズムもこれを無条件で支持するようになってしまったのである。一度、大統領の強大なカリスマの力が発動されると、議会政治家やジャーナリストと言えども一人のアメリカ国民として大統領の指導に従わざるを得なくなってしまうのである。つまり大統領のカリスマの力が行使されると、三権分立も議会政治も言論の自由も事実上停止してしまうのである。従って、国家の非常事態や戦争などの時、議会政治家やジャーナリズムに大統領に抵抗する力は無いのである。第二次世界大戦後のアメリカの大統領は、軍事・外交上の権限に限って言えば、まさに独裁者なのである。つまり、三権分立や民主的手続きと言った民主主義の原則が通用するのは、あくまで平時の場合であって、非常事態に陥ったり戦争が始まったりして大統領の強大な力が発動されると全く通用しなくなってしまうのである。しかし、あまりにも強大な大統領の権力は、民主主義を形骸化させかねない。そこでアメリカでは、大統領がその強大なカリスマの力を行使するのは、国家の非常事態や軍事・外交など、どうしても強力な指導力を必要とする場合に限定するという慣習を確立し、それを守ることによって、かろうじて民主主義を守っているのである。このように、アメリカの民主主義は、慣習上の非常独裁制の上に成り立っているのである。
 ただし、この非常独裁制こそ、アメリカの議会やジャーナリズムが、ベトナム戦争の開戦を止められなかった理由でもある。また、戦前の日本の議会やジャーナリズムが、満州事変やシナ事変(日中戦争)、そして太平洋戦争を止められなかった原因として、軍国主義だのファシズムだのと言っている人達がいる。しかし、議会やジャーナリズムに戦争を止める力が無いのは、現代のアメリカだけではなく、戦前の日本を含めた多くの国家に共通のことなのである。つまり、国家の非常時には独裁権力の行使が必要であり、そのために非常時に議会政治や言論の自由が停止するのは独立国家ならば当然のことだからである。また、何度も言うように、戦争は、国民の一致団結した支持があって初めて可能になるのである。従って、戦争が始まった時点では、既に国民の一致団結した支持が得られている場合が多いのである。また、イラク戦争の時のイギリスのように、世論の反対を押し切って始まった戦争でも、一旦始まってしまえば国民の支持を得る場合もある。そもそも戦争に限らず、何事であろうと、国民が一致団結して支持している行為に反対する者は、誰であろうと国民を敵に回しかねないのは当然のことである。従って、国民の支持によって成り立っている議会や、国民から新聞なり書物なりを買ってもらうことによって成り立っているジャーナリズムが、国民が支持している戦争に反対できないのは当然ことである。だから、議会やジャーナリズムが戦争を止めることは不可能なのである。
 ただし、国家の最高指導者の強大な力の行使を国家の非常事態や軍事・外交に限定する非常独裁制を確立するのは、欧米のような民主主義国家にとっては極めて困難なことであり、長い歴史が必要である。既に述べたように、アメリカの大統領が今日のような強大な権力を確立したのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代である。アメリカの場合は、建国から百数十年という長い年月をかけて民主主義が成熟し、非常独裁制が確立された後で、フランクリン・ルーズベルトという強大な力を持った最高指導者が出現したのである。だから、直ちに本格的な独裁国家になるようなことは無かったのである。これに対して、ナポレオンが登場した頃のフランスの第一共和制や、ヒトラーが登場した頃のワイマール共和国と呼ばれるドイツの共和制は、民主主義国家の歴史が浅く、未成熟な状態にあっため、非常独裁制が確立されていなかったのである。そのため、本格的な独裁者の出現を阻止できなかったのである。
 フランスでは1789年7月に始まったフランス革命をきっかけにブルボン王朝が廃止され、第一共和制が成立した。しかし、フランス革命の波及を恐れるヨーロッパ諸国は、国王ルイ十六世の処刑を理由に、イギリスを中心に対仏大同盟を結成して攻勢に出たため、第一共和制は存亡の危機に立たされることになった。ここにナポレオンが登場し、敵国を次々に打ち破り、フランスを軍事的な危機から救い、国民的英雄となった。そして1804年5月、ナポレオンは国民投票の結果、圧倒的な国民の支持によって皇帝に即位した。こうしてナポレオンの軍事独裁体制が成立したのである。
 1914年に勃発した第一次世界大戦は、1918年11月に起こったドイツ革命によって終了した。この革命によってドイツはホーエンツォレルン王家の帝政を廃止して共和制となった。ドイツの共和政は、1919年8月にドイツ共和国憲法制定のための議会がワイマールで開かれたことから、ワイマール共和国と呼ばれることになった。しかし、1929年10月にアメリカに始まった世界大恐慌によって、ドイツは失業率が40%を超える経済危機に陥ってしまった。ドイツ国民は、この悲惨な状況から国民を救ってくれる指導者の登場を望んだ。しかしワイマール共和国の議会政治家達には、この経済危機に対して有効な手立てが無かったため国民の不満が増大していった。こういった状況の下でヒトラーは、1933年1月に首相に任命されるのである。ヒトラーは大規模な公共事業や軍備拡大によって失業問題を解決した。更にヒトラーは、非武装地帯となっていたラインラントへ軍隊を進駐させるなどして、ドイツ国民が不満を抱いていたベルサイユ体制と呼ばれる第一次世界大戦後の国際秩序を破綻させた。こうしてヒトラーは、国民の支持を得て強大なカリスマを確立して独裁者となったのである。
 フランスやドイツに限らず、国家が何らかの危機に陥ると、国民は危機から国家や国民を救済してくれる指導者の出現を求めるようになり、それに答える形で「英雄」や「天才的指導者」と呼ばれるような強大なカリスマや指導力を持った指導者が登場することがある。ところが、場合によっては「英雄」や「天才的指導者」が、その強大なカリスマや指導力を背景にして、議会政治や言論の自由を停止させ、本格的な独裁政権を確立してしまうことがある。ナポレオンやヒトラーのような強大なカリスマと指導力を持った最高指導者の前では、民主主義など全く無力なのである。従って、このような強大な力を持った指導者から民主主義を守るためには、アメリカのように最高指導者の強力な力の行使を非常事態や軍事・外交に限定する非常独裁制が必要なのである。従って、非常独裁制の確立は、民主主義国家を守るためには必要不可欠なのである。
 ところが、始まって間も無いフランスの第一共和制にもドイツのワイマール共和国にも、アメリカのような非常独裁制は存在しなかった。そして、ナポレオンやヒトラー自身も、最高指導者の強力な力の行使を非常事態や軍事・外交に限定しようとはしなかったのである。そのため、たちまち本格的な独裁国家になってしまったのである。それどころか、ナポレオンもヒトラーも、独裁政権を維持するために戦争を繰り返すことになったのである。長い歴史のある体制ならば、伝統によってカリスマや権威が安定したものになり、容易にカリスマや権威が失われることは無いのである。しかし、ナポレオンもヒトラーも、国民の支持を得て独裁権力を確立したものの、革命以前のブルボン王朝やホーエンツォレルン王家とは違い、歴史の無い不安定な体制であった。そのため、ナポレオンもヒトラーも独裁権力を維持するためには、戦争に勝ち続けることによってカリスマや権威を強化し続けなければならなかったのである。ナポレオンもヒトラーも、このようにして独裁政権を守っていたのである。しかし、これが最終的にはフランスやドイツを敗北に導く結果になったのである。
 国家には、非常事態に対処するため、国民の意識を変えるような強力なカリスマと権威を持った最高指導者が必要である。しかし、民主主義にとっては、そのような力を持った最高指導者は、いつ独裁者になるか分からない危険極まりない存在である。言い換えれば、民主主義にとっては、独裁者になり得るような最高指導者が存在したのでは、民主主義が消滅しかねないが、国家にとっては、独裁者になり得るような強大な力を持った最高指導者が存在しなければ、今度は国家が消滅しかねないのである。つまり、民主主義と国家とは互いに相反する矛盾した関係にあるのである。しかし、この矛盾を克服しないことには民主主義国家は成立しないのである。そして、民主主義と国家の矛盾を克服する唯一の方法が非常独裁制なのである。非常独裁制が確立されていない状況のままで、民主主義を掲げる体制が何らかの非常事態に直面すると、国家のために民主主義を否定するのか、それとも民主主義のために国家を滅ぼすのかという二者択一を迫られてしまうのである。そして、第一共和制の下のフランス国民も、ワイマール共和国の下のドイツ国民も、国家のために民主主義を否定する選択をしてしまったのである。それがナポレオンやヒトラーの独裁体制を生み出したのである。
 ただし、非常独裁制を確立しようにも、そもそも国家の非常事に独裁者になりうるような強大な最高指導者が常に存在しなければ不可能である。そのためには、アメリカの大統領制のように、強力なカリスマと権威を継承する体制を確立しなければならないのである。つまり非常独裁制と強力なカリスマと権威を継承する体制の二つがそろって確立されて、初めて民主主義国家は完成するのである。つまり、フランスの第一共和制がナポレオンの独裁体制に取って代わられたのも、ドイツのワイマール共和国がヒトラーの独裁体制に取って代わられたのも、民主主義国家の未完成が原因だったのである。
 要するに、現実の民主主義国家は、独裁権力を制限はしても、決して否定はしていないのである。アメリカの大統領が行っていることを見れば分かるように、アメリカ人やアメリカ政府の言っている民主主義国家は、現実のアメリカの民主主義国家とは全く違うのである。これまで述べたように、国家の最高指導者は、国家の安全保障にとって重要な役割を担っているのである。ところが、アメリカ人やアメリカ政府が言っている民主主義国家は、選挙や議会や三権分立といった制度だけで国家が成り立つことになっていて、最高指導者を中心とした安全保障体制という考えが完全に欠落しているのである。そのため、アメリカ人やアメリカ政府の指導に従って民主主義体制を作った国は、国家の防衛ができない欠陥国家になってしまうのである。その結果、アメリカに国家の安全保障を肩代わりしてもらうしか無くなってしまうのである。第二次世界大戦後の日本がアメリカの保護下に入らざるを得なくなったのも、ベトナム戦争の後、アメリカ軍が撤退した結果、南ベトナムが崩壊してしまったのも、アメリカ政府の指導に従って民主主義体制を作ってしまった結果なのである。従って、イラク戦争の後、アメリカ政府の指導によって作られたイラクの民主主義体制も日本の民主主義体制と同様に、アメリカの保護の下でしか成立しないものになってしまうであろう。非常時における独裁権力の行使は、国家にとって必要不可欠である以上、独裁権力を完全に否定するような国家体制の理論は、虚構に過ぎないのである。現実の民主主義国家の成立とは、アメリカ人やアメリカ政府が脳天気に考えているような簡単なことではないのである。


                  
最高指導者と国家の団結

 国家は、その規模が大きくなればなるほど、より強力な最高指導者が必要になる。それは次のような理由である。
 既に述べたように、国家の非常事態には国民が一致団結して行動しなければならない。ところが国家は、そこで暮らす人間の数が多ければ多いほど、国民の一致団結が難しくなってしまうのである。
 国家に限らず、あらゆる人間集団を団結させる手段には、次の二種類がある。第一の手段は、その集団が持っている仲間意識や連帯感である。そして第二の手段が、集団の指導者の指導力やカリスマの力である。ところが、集団内の人数が多くなればなるほど、仲間意識や連帯感は希薄になってしまうのである。その理由は、集団内の人数が多くなればなるほど、お互いに顔も名前も全く知らない「赤の他人」の数が増加することになり、仲間意識や連帯感の形成に必要な親近感が感じられない人間が増えてしまう。更に、集団内の人数が多くなればなるほど、様々な個性を持った人間や利害の異なる人間が増え、考え方の違いや立場の違いなどによって集団内の人間同士の摩擦が増加してしまう。更に国家の場合は、政策によって、他民族を支配したり、積極的に移民を受け入れたりすることもある。その結果、民族、習慣、言語、宗教などの異なる人間が国内に増え、それらの違いから生じる摩擦が、国民としての仲間意識や連帯感の形成の妨げになることもある。これらの理由によって、集団内の人数が多くなればなるほど、仲間意識や連帯感が希薄になり、仲間意識や連帯感に頼った団結が困難になってしまうのである。そこで集団内の人数が多くなったり多様化したりすればするほど、集団を団結させるための手段としての指導者の持つ指導力やカリスマの重要性が増すのである。そのため、国家も規模が大きくなればなるほど、より強力な最高指導者が必要になるのである。
 勿論、最高指導者以外にも国民を団結させる手段はある。たとえば、国民を団結させる手段としては、宗教もある。国民全体が共に同じ神を信じる仲間として、異教徒に対して団結するのである。その一例が、ヒンズー教国家のインドとイスラム教国家のパキスタンである。しかし、この方法がうまく行くためには、大多数の国民が一つの宗教を信じていなければならない。国内に複数の宗教や宗派が混在していたら、かえって国民の分裂を招くことになってしまう。特にインドには多くのイスラム教徒が存在するため、ヒンズー教徒との間に紛争が起きている。更に、宗教によって国民を団結させるためには、敵対している国家が異教徒の国家でなくてはならない。ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタン、或いはユダヤ教のイスラエルとイスラム教のアラブ諸国といったようにである。このように、宗教によって国民を団結させることができるのは特殊な例である。
 本来、民主主義や議会政治とは、古代ギリシャの都市国家のような人口にして数千から数万人程度の小規模な国家に適した体制である。なぜなら、国家の規模が大きくなればなるほど強力な指導者が必要になるのであるが、あまり強力な力を国家の指導者に与えてしまうと民主主義や議会政治が停止してしまう場合があるからである。
 国家の最高指導者の役割は、国家の非常時に国民を団結させることであるが、これは言い換えれば、国家に最高指導者が必要なのは、最高指導者の力によって強要しなければ、非常時に国民を団結させることができないからだということになる。従って、もし、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強要しなくても国民の団結が維持できるのであれば、最高指導者が存在しなくても国家が成り立つ場合もあるのである。
 そのよい例の一つが古代共和制時代のローマである。ローマは、当初はギリシャ諸国と同様の都市国家から始まった。共和制時代のローマは、元老院を中心とした議会政治によって治められていた。そして、アメリカの大統領のような強力な最高指導者が存在せず、国家の団結は専らローマ市民の団結力に頼っていた。
 やがて、第一次から第三次に及ぶポエニ戦争でカルタゴに勝利した結果、ローマは地中海一帯を支配する広大な国家となってしまった。ローマがポエニ戦争に勝利できたのは、まさにローマ市民の団結力によるものである。特に第二次ポエニ戦争では、カルタゴの武将ハンニバルによって、ローマ軍は紀元前216年のカンネーの戦いなど、多くの合戦に敗れてしまった。ハンニバルの戦略は、軍事力でローマを打ち破ることによって、都市の連合体であるローマの団結を失わせ、解体に追いやることであった。ところがローマの都市連合は、ハンニバルが何度ローマ軍を打ち破っても解体することは無かったのである。つまり、ハンニバルの天才的な軍事能力によっても、ローマの団結を失わせることはできなかったのである。これが紀元前202年のザマの決戦によるローマの逆転勝利につながったのである。第二次ポエニ戦争とは、ハンニバルの天才的な軍事能力とローマ市民の団結力の戦いであったと言える。そして最後にローマ市民の団結力がハンニバルを打ち破ったのである。
 ところが、ポエニ戦争以降のローマでは、同盟都市の反乱、剣闘士の反乱であるスパルタクスの乱、そしてマリウスやスラといった軍人のクーデターといった事件が相次いで起こることになった。これらの政治の混乱の原因の一つとして、カルタゴという共通の敵が消滅してローマ市民の危機意識が低下した結果、団結力が低下し、それまで蓄積されていた矛盾が一気に噴出したということも考えられる。しかし、より根本的な政治の混乱の原因は、ポエニ戦争に勝利して地中海一帯のカルタゴの植民地を全て獲得し、広大な領土と多くの被支配民族を持つ国家となった結果、ローマ市民としての団結力だけでは国家の団結が維持できなくなってしまった結果ということである。しかもローマは、その後の領土拡大によって、ガリア人やゲルマン人などのローマ市民という意識の無い多くの被支配民族を更に領内に抱え込むことになってしまった。その結果、小規模な都市国家しか統治できない元老院を中心にした共和制では、広大な領土と多くの被支配民を持つ国家になってしまったローマを統治することが困難になってしまったのである。
 政治の混乱を終わらせ、大規模な国家になってしまったローマを効率よく統治するためには、強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が必要であるということに気がついたのが、カエサルとその後継者となったアウグストゥスである。カエサルとアウグストゥスは、帝政という強力なカリスマと権威を持った指導体制を作り上げることによって、ローマに政治の安定をもたらした。しかし、その結果、元老院は政治の主導権を失い、共和制は形骸化してしまったのである。
 これに対して、ギリシャの都市国家の場合は、アテネを始めとして、ほとんどが小規模な国家だったため、ローマ帝国のような強力な指導者を必要とはしなかったのである。これが結果として民主政治を守ったのである。
 古代ローマ人と同様に、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強要しなくても国民の団結が維持できる国が現在にも存在する。それがイスラエルである。
 イスラエルは、日本やイギリスと同様の議院内閣制を採用していた。そのイスラエルの議会は、リクード党と労働党が二大政党として国政を主導していた時代があったが、いずれも単独で議会の過半数を制したことが無かったため、歴代内閣は少数政党との連立を強いられてきた。そのためイスラエルの首相の中には、少数政党との連立を維持するための政治的駆け引きに忙殺される者もあり、政治が停滞することがしばしばあった。そこでイスラエルは、首相にアメリカの大統領のような強力なカリスマと指導力があれば、政治の停滞も無くなるだろうと考え、1992年3月に首相公選制を導入し、実質的な大統領制に移行しようとした。しかし、既に述べたように、国家体制や最高指導者のあり方は、その国固有の歴史や文化によって決まるものであり、アメリカと同様の大統領制を導入すればアメリカの大統領のような強力な指導体制が出来上がるわけではない。イスラエルは首相公選制を導入したものの、首相に強力な指導力を与えることができなかったどころか、リクード党と労働党の二大政党が議席を減らしてしまったこともあって、ますます政治を停滞させる結果になってしまった。結局、イスラエルは、2001年3月に首相公選制を廃止してしまった。
 このように、イスラエルの首相にはアメリカの大統領のような強力なカリスマと指導力があるわけではない。ところが、それにもかかわらず、いざ戦争となればイスラエル国民は一致団結して国家のために戦って来たのである。その強固な団結力と国防意識の強さで、四回にわたる中東戦争に勝利したのである。このイスラエル国民の団結力と国防意識の強さの第一の理由は、過去二千年にわたる流浪と迫害の歴史から、強固な国民の団結の必要性を理解せざるを得ないということがある。そして第二の理由が、イスラエル国民の多数はユダヤ教徒であるため、同じユダヤ教徒として異教徒であるイスラム教徒のアラブ人に対して団結しているのである。イスラエルは、国民の団結力の強さに加えて、人口にして六百万人程度の比較的に小規模な国家ということもあって、アメリカの大統領のような強力なカリスマと指導力を持った最高指導者がいなくても、非常時における国民の団結を維持できるのである。しかし、イスラエルのような国は、特殊な例と考えざるを得ない。世界の大多数の国家は、強力な最高指導者がいなければ国民を団結させることはできないのである。
 今日の多くの民主主義国家は、人口の規模からすれば数千万人以上の大規模な国家である。到底、人口数千人から数万人程度の小規模な国家しか統治できない古代ギリシャ流の民主主義体制では国家は成り立たない。そこで、アメリカの大統領制のような強力な指導体制が必要になるのである。


     
           最高指導者の存在の重み

 日本人には、国家の最高指導者の存在の重みというものが全く分かっていない。かつて細川政権が佐川急便による不正献金疑惑で揺れていた時、アメリカ在住の某日本人大学教授が次ような意味のことを言った。「もし、細川総理大臣が不正献金疑惑の責任を取って辞めたら、同じようにホワイトウォーター疑惑で揺れているクリントン大統領に対しても、日本の細川総理大臣に習って辞任すべきであるという声がアメリカ国民から起こるであろう。」しかし、結果は、細川総理大臣は辞めてしまったのに対して、クリントン大統領は、弾劾審議にかけられながらも辞任することは遂に無かった。アメリカ国民の大多数は、クリントン大統領の辞任を望むことなど全く無かったのである。このことは、まさに、日本の内閣総理大臣とアメリカ大統領とは、国家における立場が全く違うことを示しているのである。
 ホワイトウォーター疑惑や女性問題など、数々のスキャンダルにもかかわらず、アメリカ国民がクリントン大統領の辞任を望まなかった理由には、クリントン大統領の辞任に伴う政治的混乱によってよって、当時の好調なアメリカ経済を台無しにしたくはなかったということもあった。しかし、最大の理由は、アメリカの大統領は、国家の最高指導者であるからだということである。国家の最高指導者は、全国民の生命と財産を守るという重大な役割を国民から託されている重要人物である。そのような人物をスキャンダルくらいで簡単に辞めさせるわけにはいかないのだ。これに対して、スキャンダルで辞任した日本の総理大臣なんて何人いるか分からない。このことも、日本の内閣総理大臣が国家の最高指導者では無いことを示す証拠の一つと言えるのである。これがアメリカの大統領と日本の内閣総理大臣の違いなのである。言ってしまえば、腐っても鯛、スキャンダルまみれでも大統領は大統領なのだ。ウォーターゲート事件によるニクソン大統領の辞任は、例外中の例外なのだ。つまり最高指導者の存在を体験したことが無い戦後生まれの日本人には、国家の最高指導者の重みが全く分からないのだ。例のアメリカ在住の某日本人大学教授を含めた多くの日本人は、アメリカの大統領をアメリカの内閣総理大臣だと錯覚しているのである。
 ニクソン大統領を辞任に追いやったウォーターゲート事件は、本来は大統領が辞任するほどの事件ではない。「ニクソン再選委員会」というグループに雇われた五人の男達が、民主党の本部に盗聴器を仕掛けようとした事件に、ニクソン大統領自身がかかわっていたのではないかという疑惑に発展したという事件である。この程度のことで、なぜ大統領が辞任しなければならなかったのか。
 ニクソンが辞任を余儀なくされたのは、事件そのものよりも、事件に対するニクソンの態度に問題があったのである。事件の捜査の責任者のコックス特別検察官を解任するなどして捜査を妨害したことや、公開された秘密録音テープの中のニクソンの下品な言葉などが、ニクソンの大統領としての資質や人格に対してアメリカ国民から疑問を持たれ、大統領にふさわしくないと見なされてしまったのである。大統領らしく堂々と振る舞うことができたなら、ニクソンは辞任することなどなかったはずである。
 政治的決定をすることは最高指導者の重要な役割であるが、国家の権威や最高指導者のカリスマの力を守ることは、それ以上に重要なことである。なぜなら国家の権威や最高指導者のカリスマの力がしっかりと確立されていなければ、重大な政治的決定などできなくなってしまうからである。従って、ウォーターゲート事件に対する対応を誤り、辞任を余儀なくされ、結果として国家の権威も大統領のカリスマの力も低下させてしまったニクソンは、大統領の器ではなかったと言わざるを得ないのである。
 ウォーターゲート事件の時のニクソン大統領とは全く違う対応をしたのが、イラン・コントラ疑惑の時のレーガン大統領である。イラン・コントラ疑惑とは、レーガン政権がアメリカ兵の人質と交換にイランに売った武器の代金を、ニカラグアの反政府組織のコントラに議会の承認も得ずに横流ししたという事件である。事件の責任者としてレーガン大統領は、議会やマスコミの批判を浴びた。ところがレーガン大統領は、ウォーターゲート事件の時のニクソン大統領とは違い、大統領らしく堂々と振る舞っていた。事件について議会やマスコミに聞かれても「忘れてしまった」とかなんとか言って臆する所がなかったのである。まるで大統領のやることに文句があるかと言わんばかりの態度であった。このレーガン大統領の態度に対して、議会もマスコミも大統領の権威に圧倒されたのか、次第に批判の声が弱まってしまった。やがて、いつの間にか国民もイラン・コントラ疑惑のことなど忘れてしまった。こうしてレーガン政権を揺るがせたイラン・コントラ疑惑は、うやむやの内に終わってしまったのである。
 ベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件によるニクソン大統領の辞任により、アメリカは、国家の権威も大統領のカリスマの力も低下し、国民は自信を失い、政治も経済も低迷を続けることになってしまった。特に軍事面ではほとんど何もできない状態が続いていた。それを象徴する出来事が、南ベトナムの崩壊である。1973年1月27日、パリでベトナム和平協定が調印された。これに基づきアメリカはベトナムから全ての軍を撤退させる。ところが、1975年3月10日、北ベトナムは和平協定を破り、南ベトナムへの侵攻を開始する。そして翌月の4月30日には首都サイゴンが陥落し、南ベトナムは崩壊してしまう。これに対して、当時のフォード政権もアメリカ議会も、同盟国であった南ベトナムを助けようとはしなかった。北ベトナムは一方的に和平協定を破ったのだから、アメリカが南ベトナムを助けるために派兵することを正当化するのは可能である。それにもにもかかわらず、フォード政権も議会も、同盟国であった南ベトナムを見殺しにしてしまったのである。その理由の一つは、当時のアメリカはベトナム戦争の敗戦と反戦運動の影響によって厭戦気分に陥り、もはや戦争をする気力を失っていたということもある。しかし、それ以上に大きな理由は、ベトナム戦争の敗戦とウォーターゲート事件に伴なう政治の混乱の結果、国家の権威と大統領のカリスマの力が低下し、軍事・外交上の重大な意志決定をする力が低下してしまったと言うことである。当然、北ベトナムもそのことを見越して、南ベトナムへの侵攻を決定したのである。
 このような軍事政策の停滞した状況を打破したのがレーガン大統領である。彼の持つカリスマと自信に満ちた態度が、アメリカ国民の自信を取り戻し、国家の権威や大統領のカリスマの力も復活するのである。そして軍事的にも、リビア爆撃やグレナダ侵攻をやってのける。こうして、ニクソンの辞任以来、低下していたアメリカの権威と大統領のカリスマは復活したのである。その、レーガン大統領によって復活した大統領の権威とカリスマは、そのまま次のブッシュ大統領に継承されたのである。ブッシュ大統領が湾岸戦争の時に強大な力を発揮できたのは、ウォーターゲート事件とベトナム戦争の敗戦によって失墜した大統領の権威とカリスマをレーガン大統領が復活させておいたからに他ならない。従って、レーガン大統領は、湾岸戦争勝利の陰の功労者と言ってもよいだろう。


                      法治国家と人治国家

 欧米諸国や日本のように法治国家と呼ばれる国に対して、中国は俗に人治国家と呼ばれることもある。人治国家と法治国家はどう違うのか。
 人治国家とは、法の支配が確立されておらず、政治家や官僚などによる恣意的な判断や決定による統治が行われる国のことを言う。そしてそれは人権抑圧や腐敗政治の温床となるとされ、否定的に見られている。そして、人治国家と法治国家では、国民を統治する方法や最高指導者のあり方が全く違うのである。その違いは、人治国家と呼ばれる国に法の支配が確立されていないことに由来するのである。
 法の支配が確立されるためには、その国の国民に法律に絶対服従する慣習が定着してければならない。権力者に強制されなくても、国民が自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していなければ、法の支配が確立された国とは言えないのである。法の支配が確立された国とは、泥棒を禁じる法律があれば、警察などの国家権力に強制されなくても、大多数の人間が法に従い泥棒をやらない国のことである。警察などの国家権力による強制は、ごく一部の法を守らない人間を取り締まるためにのみ必要なのである。国民に法律に絶対服従する慣習が定着した国でなければ、真の法治国家とは言えないのである。
 一方、法の支配が確立されていない人治国家は、法の力だけで国民を統治することはできないのである。勿論、人治国家にも法律はある。ところが、法に従う慣習が確立されていない人治国家では、泥棒を禁じる法律があっても、それだけで大多数の人間が泥棒をやらないという保証は無いのだ。法に従う慣習が確立されていない国家の国民は、違法な行為に対する罪悪感が希薄である。たとえば、中国における官僚による深刻な汚職の蔓延や、日本における中国人留学生などによる凶悪犯罪の原因は、いずれも中国人に法に従う慣習が確立されておらず、違法な行為に対する罪悪感が希薄であることにある。
 2005年4月に中国各地で起こった反日デモの最中にデモ隊が行った行為や、それに対する中国政府の態度も、中国が法治国家ではないことの証拠である。2005年4月9日、アメリカ国内の反日団体の呼びかけに答える形で、日本の国連常任理事国入りや尖閣諸島問題などに対して不満を訴える市民が、一万人規模のデモを北京で行った。これをきっかけに広東省など中国各地に反日デモが広がっていった。やがてデモ隊は暴徒化し、日本系のスーパーマーケットや日本料理店、そして日本大使館に対して投石や破壊行為などの違法行為を行うに至った。ところが中国政府は、自分達が批判の対象になるのを恐れて、このような違法行為を止めさせようとはしなかったのである。アメリカ政府は、「中国は北京の外国公館に対する暴力を防ぐ責任がある」と述べ、中国政府を非難した。4月16日になってようやく北京市や上海市などの公安当局が、無許可のデモや集会を禁止し、違反者を罰する意志を表明した。ところが、4月17日には上海で数万人規模のデモが発生し、暴徒化したデモ隊が日本系のコンビニエンスストアーや日本料理店、そして日本総領事館に対して投石や破壊行為を行い、遂には日本人が殴られて怪我をする事態にまで至ったのである。日本に対する不満を訴えるだけなら別に違法ではない。しかし投石、破壊行為、そして日本人に対する暴力は、明らかに違法行為である。中国人のデモ隊の叫んだスローガンの中に「愛国無罪」というものがあった。つまり、日本に対する不満を訴える行為も、投石や破壊行為などの違法行為も、共に「愛国」行為であって「無罪」であると言うのである。これが意味するのは、中国人には自ら進んで法に従うという考えが無いということである。そしてデモ発生の当初、自分達が批判の対象になるのを恐れて違法行為を止めさせようとはしなかった中国政府には、法治という考え方が欠如しているのである。これらの出来事は、中国が法治国家ではないということを明確に示しているのである。
 法の支配が確立されていない人治国家で法・秩序を維持するためには、警察や軍隊のような国家機関の力による強制が必要である。法治国家の国民が、法に従う慣習があるために法に従うのに対して、人治国家の国民が法に従うのは、警察や軍隊などによる武力の行使が恐ろしいからなのである。従って、人治国家の権力者が国民を法・秩序に従わせるためには、権力者は常に国民から恐れられていなければならないのである。もし国民が権力者を恐れないような態度を示した場合、人治国家は国民を法・秩序に従わせることができなくなり、統治不能に陥ってしまうのである。このような事態に直面した場合、人治国家の権力者は、武力を行使してでも国民に対して権力の恐ろしさを思い知らせなければならないこともあるのだ。その典型的な例が1989年6月4日に中国で起こった天安門事件なのである。こういう武力を使った統治の手法は、武断統治とか強権政治とか呼ばれている。
 1989年4月15日、中国共産党の前総書記、胡耀邦が死去した。すると、学生運動に理解があると見なされていた胡耀邦の死を悼む学生や市民が続々と天安門前広場に終結し、追悼集会が開かれた。しかし、その集会は、次第に政府の役人や政治家の腐敗を糾弾し、中国の民主化を求める集会に変わっていった。
 そして学生や市民は、遂に中国政府の指導者達を名指しで非難し始める。4月18日には「李鵬出て来い」と叫び始める。
 5月13日には、一部の学生達がハンガーストライキを始める。5月17日には、安門前広場に集まった学生や市民の数は百万人近くになる。そして李鵬首相や最高指導者のケ小平に対して辞任を要求するスローガンを叫び始める。
 一方、中国政府の