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城跡にて
城跡の曲輪のへりを歩きながら考えている。数百年前に積まれた石垣には苔がまだ
らに張り付いている。僕は歴史とはなにかを考えざるをえない。こうして、この石垣
が積まれたことに対する歴史家の表現には僕はいささかも魅力を感じられない。思い
起こすべきである。射るような日差しと油蝉の声に照りつけられながら、岩を動かし
ていた工夫たちの姿を。あるいは彼らが感じていたその石垣への価値や、石垣の未来
への想いを。
歴史を知ろうとする者に常に欠けている態度は、自らが歴史家であるという意識を決して捨て去らないことである。現在の情勢を歴史として眺めるのは、いつも未来の自分は客観的だと信じている者たちによってである。そして彼らの評価が当事者たちにとっておおよそ的を外したものであることは、経験に照らしてみればよくわかる。
僕はいつも変わらないものを眺めていたいと思う。それは遥かな祖先が感じていた心持をそのままに、感じていてみたいと思うからである。しかしそれは非常に難しい。仮象された世界にあまりにも多くの時間を浸り過ぎた僕たちの脳は、その仮象の町並みの中でしか咲かせられない感性の花を、創造と名付けては喜んでいる。それは定められたものを破壊し続けるという悲しい性のゆえでもある。人々の意思の力は、無数の気根を出して絡み合う蔓のように複雑に交錯し、その複雑性のなかに新たに整合性を認めようとしてもがいている。一体、この石垣を積んでいた誰がこの事態を予測しえただろうか。
古城の朽ちた土塀の前に立っている僕に、終わらない枝葉のような前提条件が姿を現しては、吹き寄せる風がそれらを空気の流れの中に霧消させてゆく。自身がこれほど矛盾をはらんだ存在であることに、この石垣を積んだ彼らは気づいていたのか、あるいは。いや、現代が多くの問題について前の時代よりも進んだ次元に立っているという考えは捨てるべきだ。蔓を渡しただけの吊橋を、巨大な鉄筋製の陸橋と並べるのは、全く誤った価値観である。既知のものにいかに知恵という、言葉による表現に馴染まないより指先感覚的なものを絡めて、未知のものを知りえたかである。先人達は仮象の世界を生きる術を知らなかったため、あるいは仮象の世界でさえ精神の力で構築する程、意思が強靭であったため、より思索は知恵をまとった、奥行きのあるものに達していたはずである。私たちは惜しげもなくその知恵を捨て、過去に埋められた過ちを多くの犠牲の上に掘り返しては耕している。それが定めなのかどうかは知らぬ。確かなことは、現代という時代は史上最も、あるべき姿を忘れている時代であるということである。
僕は門跡の前に立った。僕は否定しない。季節がめぐることへの、この懐かしい匂いのする胸のふくらみを。ここに門があった時代にも、それが焼け落ち、あるいは朽ち果てた後も、多くの者がこの門をくぐったはずである。その地は変わらない。足もとで咲きそうな菫も変わらない。いまだ白銀の山々も。果たして、人も同様に変わらないものであるか、僕は逡巡している。そして今もこの門跡をくぐれずにいる。 |
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幸福
もしも幸福を心から感じられる一番の場所を問われたら、私は初冬の雑木林の陽だまりを答えるだろう。奥秩父や御坂、大菩薩あたり、のびやかに南へくだる尾根からはようやく落ちきった木の葉の間に、白く光る南アルプスが見えるだろう。もちろん目の前には端正な富士も見える。富士山の均整な左右の裾野はなにか人の心を律するものがあるらしい。少し高みにでて展望が得られたなら、眼下に広がる甲府盆地の街並みに、人々がいかに肩を寄せ合って生きているのかがわかるだろう。そしてこの国の土地の多くが傾斜のある落葉樹であることを感謝するだろうと思う。空は高く、青く澄んでいる。降り積もった落ち葉はそろそろ水気を失われ、かさかさと乾いた実に平和を感じさせる良い音がする。檀香梅や葉団扇楓はいくぶん色を残しているかもしれない。少し得意げに楢と小楢の違いを教えてあげてもいい。わざと落ち葉の吹き溜まりを歩いてみると、自然と楽しい気持ちになると思う。徐々に日向が移ろってきたところに腰を下ろして耳を澄ませると、もしかしたら落ち葉の下で持ち上がっていた霜柱が、ゆっくりと溶け始める微かな音が聞こえるかもしれない。それは落ち葉同士が擦れあう、その場の雰囲気ともとれる音だが、確かにお日様の動きとともに聞こえる音である。朴の木の下は何か事件でもあったかのように大きな落ち葉が乱雑に散らかっている。その上をどんなに静かに歩こうとしてもバリバリと音がしてしまう。落っこちない程度の露岩でもあったら攀じ登ってみるのも楽しい。一風違った景色が見られるかもしれない。菖蒲の種を集めてみたり、姥百合の種は風に飛ばしてみたり。気に入った場所があればそこを目的地にしてしまってもいい。落ち葉に寝そべり日差しに目を細め、蜜柑の皮をむく。あたりは意外に乾燥しているので思いのほか喉が渇いている。妻のおにぎりを頬張り、祖母の漬物をつまみ、りんごも忘れずにひとつ持ってくるといい。そのうちに二時半から三時にかけて、ふっと風の肌触りが変わる瞬間がある。それが感じられたら持ってきた上着を一枚羽織って、またカサカサと歩き始めよう。夕焼けがわかる頃には車に戻りたい。うちで熱い風呂に入りたいと思う。そういうのが今の私の幸福であります。 |
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写真
写真というものの芸術性に気づかせてくれる一枚の写真に出会った。いまだにその一枚が写真であったのか、それとも精密に描かれた水彩画であったのかわからないでいるが、今となってはどちらでもかまわないでいる。
それはチシマキキョウという日本の高山に比較的良く見られる植物の写真である。高山という限られた厳しい環境に生きる植物が、その短い夏を花に込めていっせいに謳歌するさまが非常に美しいのはよく知られている。それは現代人が悲劇を愛するのによく似ている。そういったストーリー性を我々が好ましく思うのは、風土から来る血流だろう。これは数世代程度が生活を変えたところで失われるものではない。
チシマキキョウという花は高山植物の多くがそうであるように、その葉の小ささにはふさわしくないほどの大きな花をつける。そしてその花はみずからの重みに耐えかねてやや下方に向けて咲く。
花弁から萼には肉眼でよく見えるほどの産毛が細やかに生え、おそらくその重たくみずみずしい花を守っている。
僕には、美しさよりも、花というもののグロテスクなまでの強さを感じさせる花である。様々の花に混ざって存在感のある花である。いや、その写真を見たときから、その一枚の写真が僕をそんな気にさせていた。それはシャッターを切ったカメラマンの持つ意思であったかも知れない。あるいは僕の意識の中のチシマキキョウを越えた、見事なその大株の花つきであったのかも知れない。あるいは本当にキキョウそのものの持つ意思であったのかも知れない。そんなことはわからない。
そうして今は、白い花崗岩の砂礫に映える鮮やかな紫が残像になっている。単純なことである。事物の持つ本質が人に語りかける。いや違う。本質は別に語りかけてはこない。本質は事物の中でただ存在している。そしてそのすぐ脇で、右往左往している人たちが本質を探している。特殊な能力はいらない。曇ったガラスを拭う術を知っている人だけがそれを感じている。 |
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秋の日
まるでなにかに祝福されているかのような紅葉だった。そして思い出したように風が吹き、小道の錦秋の絨毯になお降り積もった。僕はこのときほど静かにも溢れだしてくるものを感じたことはなかった。僕らの感情の端緒がこのとき始まったような気がした。色彩がいかに胸のうちを彩ってきたかを。生きることの哀しみが尽くせぬときがあったとしても、それ以上の、大きな深い感情のまえにいることを。古い石畳の縁に苔が花を咲かせている。そのうえに紅い楓が、そっと置かれたように落ちる。夕陽がさし、墓石の影がのび、お堂の茅葺きに生える芒はようやく枯れはじめた。
秋の夕暮れを猿が見つめている。 |
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花
僕には長い間、花の美しさがわからなかった。花の名はいろんな人に教わったし、どの花のどんな風情を褒めればよいかも随分習ったし、自然の造形色彩の妙なのには感心もしていたが、美しさという非具象な観念になるともういけなくて、とりあえず人がきれいだという花をきれいだというようにしていた。
ひところ人の手伝いで園芸市場に出入りしていたことがあり、いろんな愛玩用といえる園芸品目もだいぶん覚えた。あれは毎年の新種があって、ペチュニアだのデージーだの花弁のふちが波打ったのや二色に咲き分けるのやなにしろ奇抜であった。また山野草も見た。こんなものよくぞ増やしたと思うものや、最初は山から根こそぎ掘って来たにちがいないというものもあった。園芸種にたいして山野草こそ美しいという人や、山から掘ってきたのが明らかでより不自然だという人もあった。僕は元来理論とは単純であるほどよいと思っていたから、こねくった新たな美しさも、またそれを美しいと思いながら目を伏せて歩くのもいやだったので、面倒だからとにかく敬遠していた。君子危うきに近寄らず。花の美しさというものはなく、ただ美しい花があるだけだというのは小林秀雄の捨セリフだ。
だがこの春変わった経験をして、そんな議論も心配もみんな吹き飛んでしまった。僕は遭難し行方不明になった知人を探して、仲間とともにある大きな川を右往左往した。詳しいことは書かない。とにかく僕と仲間はもしかしたらまだ生きているかもしれないその人を探して、残雪と強い陽光と蒸せるような新緑の色彩の中を歩き回った。自分よりもはるかに強靭な生命力を感じさせたその人が少なくとも帰ってこなくなった場所としたら、僕としては物足りないくらいに悲壮感はなかった。あたりにはフキやコゴミが萌えそめ、僕らは彼ほどの人でも山で死んでゆくという胸を押さえる不安を晴らすために、夜は山菜を囲んで陽気に振舞った。
結局知人は見つからず、上流で僕らがザックカバーを見つけ、下流で彼のものと思われるザックが発見された。おそらく彼は今大きな雪渓の下にいて、しばらくは見つからない。梅雨に入れば奔流とともに流されてしまうだろう。僕らは谷の底から、吊橋のうえから、黒部の側壁を点々と彩るムラサキヤシオの花を見上げていた。僕は今まであんなに美しい花の色を見たことはなかった。あたりは残雪と陽光と新緑でいっぱいであった。言葉で言ってしまえば、赤と紫の中間くらいの色である。 |
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映画の話
丸三日間、眠る時間をのぞいて映画を見続けていたことがある。それはおそらく、修行時代に若者がしばしば感じる事実が理由であるかもしれない。すなわち既成の価値観のいずれの中にも自らの存在意義が見出せないそのときである。すべての人が目指すところの仕事はやはり創造性にある。このためだけにこそ人はしばしば安定した生活を喜んで捨てる。むろんそれは、常識が見出せない、あるいははじめは本人すら予感でしかない、微妙な感情の起伏であったりする。その感情の根本にあるものはなにか。それに値する言葉があるとするならば、それは詩であり、劇である。人は自らの感情の萌芽を詩と認識し、それを劇へと育て上げることを欲しているのである。そして現代におけるそれの一番簡単な認識方法は映画を見ることである。悲劇に涙し、喜劇に拍手を贈りたいという欲望が、人の本質にはあると思う。
以上が映画を三日間見続けたことへの言い訳である。ごく単純なハリウッド映画は自分自身が予想以上に単純であったことを教えてくれるし、社会派の作品は世間の価値観と自分のそれがどれくらいずれているかを教えてくれる。恋愛映画を観ればきっと恋愛がしたくなるし、悲劇を観れば自ら主人公のつもりになって涙をこらえる。いたずらな興奮に酔いしれる現代人であることを承知で言えることがあるとすれば、様々な感情の機微を映画という物語を通して追体験できる人間は、実生活におけるときに映画よりも劇的な事実に対して、冷静に自己を客観視しつつ対処できるのではないかということである。そして物事を独断することをしない。それは映画のなかの物語の展開を、決して事前に聞きたくないことに似ている。さらには映画が事実よりも面白いので少しさびしい気もする。 |
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死期
現代技術のほとんどは、一部の突出した人々の発見と研究の成果であることは間違いないと思う。文明のひとつの不可欠な要素は「分業」であって、各人が己の食い扶持を心配していれば、「職業」は存在しなかった。自身が一度も関わったことのない技術の恩恵に浴しながら、一方で考えるのは、やはり本来的には自立した、あるいは自律した人間でありたいということである。そしてたとえそれが叶わなくとも(おそらくそれは叶わない)、歩みを続けなければならないと思う。考え、そして均整を保つこと。みずからに連なるものについて、深く知ること。そして未来への責任を感じること。これらのことだけできっと人生の予定はすべて埋まるはずである。もし若干の時間が余ったとしたら、美について考えながら歩く散歩に当てられようというものだ。
我が家の飼い犬が姿を消してひと月が過ぎた。毎日飯を持っていたアルミの皿も、腹に敷いていた座布団も、今もまだそのままにされている。十数年。もらわれてきたとき自分はまだ小学生だった。大勢の人からよく可愛がられた犬だった。吠えもせず媚びもせず、利口で従順だった。「犬が先か、オレが先か」とつぶやいて、いつも自分のおかずを残して呉れていた祖父も三年前に他界した。「犬も悲しい顔をするんだ」と祖母が言っていたのを思い出す。おそらく私の父にとっては、私といるよりも多くの時を犬と過ごしてきただろう。朝に夕にエサを与え、顔を撫で、なにやらと話しかけ。ときに放した犬が迷ったときにはあちこちを大声で呼んで探しまわった。種を蒔いたばかりの畑を走り回ってくれた。逃げた鶏を追い回してくれた。多くの客の顔を見分け、連れだって森を案内する利口な犬だった。
死期を悟ったのかもしれない。前月には皮膚病が完治したところであった。耳も悪く、歯も傷んでいたようだった。あれから父は随分とあちこちを探し回ったようだが、ついに諦めたらしい。客間の机の上には犬の写真を集めたアルバムが作られておいてある。次の犬を探して来いとはまだ言ってこない。引き窓のレールの隅には毛玉がまだ残っている。いつも寝そべっていた場所にはいまだ物が置かれずに、幾多の思い出を漂わせたままにいる。私にはアルバムを開く気持ちが今も湧いてこない。 |
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顔
顔は面である。「顔にあらわれる」という。人がもし自らの心の深奥をはかりかねているとしたら、人は人以上に顔であると言える。幸いにも未だ、自身それとは知らずに、自分が写る映像というものを見たことがない。あれはどんな気持ちがするのだろう?そして自分は自分以外の誰も自分を見ていないとき、いったいどんな顔をしているのだろう。あるいはむしろ、見られることを意識していない自分などありうるのであろうか。
俗に四十を過ぎたら男は顔に責任を持たねばならぬらしい。我が家の祖母は近く九十になるが、いわく、顔を見れば人がわかる、と。毎月来るお客の名前すら覚えないくせに、あるいはだからこそ、この発言には力がある。年寄りは直感で生きている。思うにもはや、人間関係において小細工を弄するのが面倒になっているのである。頑固になっているわけでもない。先が短いからである。先が短ければ、人間いくつだろうと思うままに生きようと思うだろう。そしてこの非常に勝手な生き方が、ある意味で先の長い者の迷惑になり、またある意味では先を穿ち過ぎた表現になる。たとえば客の目の前で放屁して知らん顔でいる、料理に鼻水が垂れても味付けだと主張する、何回教えてもルッコラをズッコラと呼ぶ、お土産の内容で財布の中身を勘定する、顔つきや仕草で酒の量から家庭状況まで察してしまう、お店で不味いものを聞こえるように不味いと言ってしまう、などなど。
正直者はいい顔をしている。そしてたいていある程度の、働かねば食っていけないくらいの貧乏である。なぜなら権益を守ることに汲々とするのが下手で、かつ嫌なのである。必要以上の貯蓄は災いのもとだと思っている。人に妬まれるくらいなら当然得るべき権利も放棄してしまう。しかし正直者ばかりでは世の中うまく回っていかない。水戸黄門も大岡越前も必要ない。
ニュートンが重力を認識して以来、今や宇宙に人が常駐する時代である。それに引き換え、人間の利益への闘争状態というのは有史以前からなんら変わっていないのは不思議だ。富を平等に分配するシステムは、遺伝子を組み替えてクローンを作りだすよりは単純そうに見えるのは素人考えだろうか。いや、そもそも富とはなにか?、平等とはなにか?問題は筆者の手に負えなくなってきた。たぶん世界は現代が考えているよりはるかに混沌としているに違いない。一見システマティックに見せているだけだ。 |
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九輪草
九輪草という花はみんな知っていると思います。梅雨の少し前くらいに、渓流沿いのそれこそ水飛沫を浴びるようなところに咲く花です。学名はプリムラ・ジャポニカ。紅紫色の花を数段にも重ねて輪生させるのが、その名の由来です。僕はある峠の上で、二重稜線になっている窪みのなかにこの花を見つけたことがあります。折りしも台風が過ぎ去った跡で、あたりには生々しい倒木がたくさん見られました。おもしろいことに稜線の窪地には完全に水が溜まっており、あたかも小さな池になっていたのです。その池の中にこの九輪草が幾株も咲いていた。その隣りにはコバイケイソウも。僕は二色の花が水の中で揺られているのを見て、なにか不思議の世界の住人になっているように感じました。それを誰かに見せたいとも思いましたが、そんなときはたいてい独りだったりするものです。写真を撮ろうかとも思いましたがそれも止めにしました。写真に収めることで、この不意の感情が色褪せてしまうのを恐れたからです。この不思議な美しさはきっと僕の心に残るだろうことを思い、その場を後にしました。今はそのときの気持ちを思い出しながらこの文章を綴っています。こんな風にいつかの記憶や、そのときの気持ちを訪ねてみるのが今の自分自身の持つ存在感に繋がっている。そんな気がするこの頃です。 |
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雲
人に勧められて、気象予報士という資格を取ってみようかと思い、勉強を始めた。が、すぐに止めた。長らく忘れていた体系的な学問に、もはや頭がついてゆかぬ。低気圧や前線が近づけば天気が悪くなるのは子供でもわかる話だ。山登りというのは失われて久しい人間性への回帰だと思っている。学問に頼って己の感性を捨てるのは本末の転倒だろう。以上は劣等生の言い訳の典型だが。
以来、空をよく見るようになった。山では未だ文明の力ではなす術を知らない気象という物理が、平地よりも格段に顕著に現れる。それらは文明の非力の象徴のようなあの天気図という濁ったフィルムを通して眺めていたのでは、ついに気づけないままに終わるだろう。自然の豊穣。現代においてこれほどに不確定な明日が残っているのは本当にうれしいことだ。例えば私は寛政の頃の農民になった気持ちで空を眺める。ひとつの風が頬を吹き抜ける長さを比べてみる。雨粒がコアジサイの葉を揺らす具合で雨雲の大きさをはかる。ウラジロナナカマドの葉に載った朝露で今朝の冷え込み程度を知る。私たちが感じずにいた現象の多さは、すなわち文明を妄信した人間の愚かさに他ならない。それらは非常に言葉や数値にしにくい。言葉は物事を鮮やかに切り取り過ぎるので、本来全体として相関して現れる気象のような現象の表現には適さない。
険悪なゴルジュ(両岸を浸食されて切り通し状になった沢の地形)を越えて、瀞にそった草地で岩魚を上げ、虫の多いのに無心になる努力をしながら露天で寝ていたら、夜半、突然の雷雨に見舞われた。先ほど釣り糸を垂れていた大岩がみるみるうちに水流に埋まり、まだ燻っていた焚火の炭が濁流に飲み込まれてしまった。私たちは豪雪で弓なりに曲がった岸辺のミズキにすがってそれを眺めていた。先ほど眠っていた砂地は、濁流が運んできた流木が渦になっている。
急激に増えた水はまた、急激に引いていき、私たちが再び歩き出す頃には水底の石が見えるまでになった。
「岩魚はみんな流されてしまいましたかね?」
「下のゴルジュに網でも張っておいたらなあ。」 |
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小さな庭で。
昨年の秋に家を出て一応一家を構えた。長屋の村営住宅ではあるが、それでも猫の額ほどの庭がついている。先住者は庭に無頓着だったと見えて、周辺で見られるあらゆる雑草が繁茂していたが、ある日雑草嫌いな義母がやってきて、すべてきれいに引き抜いていってしまった。あとには土に埋まっていた小石が山になっていた。どうやらここの土壌は急ごしらえに造成されたものらしく、水を吸っては非常に硬くなる赤土であった。この小さな庭に何を植えるべきかしばし考えるうちに冬が来た。窓から庭に雪が降り積むのを眺めながら、春になったら嫁の好きな花でも植えようと思った。
春になり父と一緒に軽トラックで一台分の泥を庭に入れた。畑の土を入れるべきか悩んだが、雑草の種の少ない、また数十年撹拌されていない荒地の土を選んだ。赤く湿った粘土質の土に、いかにも黒いつやのある土をかぶせていくと、庭の隅にはいくつか雑草と思えない葉があるのに気づいた。隣家から侵入したナデシコ科の園芸種と、半野生化したタイム、ペパーミントなどであった。これら先住者の権利を尊重することにして丁寧に泥を寄せると、庭というよりなかなか立派な畑に見えてくる。三月とはいえあくる日には早速二十日大根と春菊の種を蒔いた。これでは家を出る前と変わりがなく、やはり私はサラダとおひたしが好きなのであった。
匂いのある植物が好きである。匂いの美醜は問わない。壇香梅の淡い梅の香り、黒文字のすがすがしさ。ことに雨の日、風に散らずたゆたう小梨の甘い香り。山蕗をかじり漉油をちぎる指の匂い、ニワトコのえぐさも、鹿の糞溜に漂う獣臭さも。初夏の雑木林に蒸せるような栗の花、這松のヤニの胸をつく青さ、伊吹麝香草、白玉の木。そして針葉樹林の苔と腐葉土の匂い。
最初にラベンダーを植えた。頂部に花の集まる最近の品種だろうと思う。次にローズマリー、これは清里では冬を越せないからだ。タイツリソウ、ルピナス、我が家の愛犬を尊重してブルーデージー、チェリーセージ、野草類ではKさんからいただいた桔梗、吾亦紅、擬宝珠、松虫草など。これにサラダ用のバジル、イタリアンパセリ、ミニトマト、きゅうりなどが入り、結果的にかなり乱雑な、庭とも畑とも呼べぬものになった。今はもう種を拾ってきた姫向日葵が蕾を結んでいるし、キンレンカは柵を飛び出している。一輪しか咲かなかったバラも少しづつ葉を伸ばしてきた。いつかの二十日大根と春菊は横倒しになって花を咲かせている。これからこの庭がどんな風に変わってゆくのか考えてみる。世話人は植えっぱなしだからである。時折申し訳程度に草を抜いてはいるが、いずれそれも追いつかなくなるだろう。この地に合うものだけが残ればいい。しかし繁茂しすぎるものは容赦なく剪定しよう。ベランダから久しぶりに庭を眺めるのが楽しみでならない。 |
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反論
先日、人を連れて山を歩いており、なにかを説明しようと思って、野の花を一輪手折ったところ、周囲にいた中年の男性に、国立公園内でわずかでも自然を傷つけることは慎んでいただきたいと諭された。それに対する明確な反論は用意していたものの、私が受けた苛立ち以上のものを、その人が受けるかと思うと、黙っておいた。正義を信奉する人間はまこと強いものである。正義を疑わぬ人間のかたくななることは。
私の祖父は新聞記者だった。異常なまでの知識への欲求と、権力や正義に対して悪辣な皮肉を吐き続けた人だった。私が自分なりに祖父から教わったと思うことがいくつかあるが、すなわち、人の口はほとんどの場合事実を伝え得ないということであり、また耳に心地よい表現のみが優先されるということである。言葉に隷属する我々が、概念の飛び交う戦場を駆け回っているのだから、世間が喧騒なのは当たり前である。私のようなものでさえ、このような問題に話が及んでくると、本来乱雑な文章が、次第に扇情的に統一されてくるのが感じられて恐ろしい。言葉は真に魔物である。
結論だけ言わせていただく。無論沈黙に如くはなし。それは解っているが、聖人が汗水になって山など歩くものか。私が拙い知識から説明しようとするところは、花の形が面白いとか、色が素敵だとか、こいつは茹でて食べられるだとか、下らぬことではあるけれども、しかし事実そんな下らぬことを知ることによって、私は自然の尊さを肌で感じるのだ。触りもしないものの価値などどんな高級な人間にだって解るものか。山菜も採らぬ連中が、平然と山を削って道路を作るのはどういうわけだ。思索に基づかないうわべだけの理念なぞ、犬に食わせてしまえ。 |
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自然に入る心
春の渓谷で、澄んだ水が磨かれたナメの床を滑ってゆく。ハウチワカエデの若芽のすがすがしさは、胸を洗い、いったいどのような顔料があるとしてもキャンバスに、この色をのせることはできないだろう。カツラのさびた色も、川床に散りばめられた石英に射抜かれた水のあおさも。木漏れ日があたりの若緑色に染まっている。
このような、僕らが、苔むした倒木を越えて、沢の水の尽きるような、なにか物事の始まりのような場所へ帰ってゆきたいと感じる。誰もいない森の中で、自らを演じていた自分を疑ってみよう。まこと多くの僕らの悩みが、僕ら自身を籠の外においていたずらに膨らんでしまった。森の中には、僕らがそうあってほしいと望むような、法則への意志はないし、かといって事物は時の流れに逆らって停止しているでもない。いや、自然と名づけられるものに僕らの世界観を投影するのはもうやめにしよう。僕らはただそれを叙述するように心がけよう。けれども、揺すられた心の陰を慕って、少しだけ感傷的な表現は許してもらおう。沢に水が流れることと同じくらいに、僕らの心には詩が必要なのだから。
なんといっても僕らが自然に入ろうとする心は、僕らが存在のはかなさに触れてしまったときにこそ膨らんでしまっている。心は、本当は、眼前を彩る虹のような表現の異郷を求めている訳ではないのだ。それは様々な、ときに、より小さな出来事にもっともらしく人間の情感を当てはめるよりも、全体としていて、直感的で、あるいは霊気のようで、誇大でもない卑小でもない人の輪郭を与えられるということである。そこでは僕らは何を受け取ってもかまわないのだ。しかしそこでは、寛容がみせる威厳の凛々しさを知らねばならない。それは人が誰でも知りうるものである。また同時に多くの人が受け継ぐことを放棄してしまったものでもある。 |
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チャルメルソウ
春の渓流沿いではコチャルメルソウの花が満開である。と言ってみたところで満開のその花に気づく人は少ない。造形の妙というべきか。羽状に深裂する花弁は、花弁というには華美から遠く離れたところにいる。普通赤みを帯びた淡黄緑色と表現されるが、なんだか細工仕掛けのような、造り時計の部品のような花である。中央の萼の中にはつかず離れず五つの雄しべが、雌しべを取り囲んでおり、直立した花茎にややうつむきがちに、螺旋状に互生する。裂開した果実が楽器のチャルメラに似るからという説明も当を得たようでそうでもない。果実の頃は気づいたためしがないからである。僕はこの花が、人の目を楽しませるようなひらひらとした花弁を持たされて、山野草店に並ぶ姿を見たいとは思わない。僕は幾たびか、この花が二輪草にカメラを構える足に踏みつけにされているのをみた。だがおよそこの花は嫉妬の念とは無縁である。いや、僕たちが擬人的に花に託す念とは無縁である。この花が、ミズゴケやネコノメソウなどの陰湿な仲間たちとともに春の深まりの中にいるのを、賑やかしい街の寄せ植えから離れて、どんなに平静な心持で眺めたか知れない。雪解けの水はいまだ冷たい。しかし背に当たる陽ざしのやわらかなことはどうだ。 |
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無関係と関係
アルパインクライミングでは相棒が登る間、自分は身動きとれない狭いテラスに半身になって確保をする。すんなりとロープが伸びるうちはいいが、上で苦労をしているときに限って下では眠くなったり、まったく関係ないことを考えていたりする。しかし意外なことではあるが、これほど手持無沙汰でかつ、ロープは握っている義務があり、こういった妙な時間は日常生活ではあまり得られないものだ。思い浮かぶのは下らぬことばかりだが、音楽には間奏が、写真には背景が必要なように、時間が雲に乗って流れてゆくのを見ているのもまた楽しいのである。このとき、この断崖で、恐怖と戦うものと、時間を眺めているものと。まこと山が教えてくれるものは計り知れない。
僕が地衣類という妙な連中の存在を知ったのもこんな時間のなかでである。菌類と藻類の共生である彼らは、おおよそ三つに分けられる外見をしていて、どこに分類すべきなのかわからないのもいる。多くは岩や木に張り付くだけで空気中から水分を摂り、光合成もしているが、体に役割の明瞭な部分がなく、知らない人が見ればただの模様だろう。色や形は実に様々で、鮮やかな原色のもの、長いひげ状のもの、うつわ上の器官を持つもの、それらは創造力というものの芽生えを感じさせる。彼らがどんなきっかけでこの地に移り住み、また多様に共生して村を育み、そして僕がそれについて思案しているのはなんともおもしろい関係である。彼らの存在を多くの人に紹介したい気もするが、彼らの営みの飾り気のない巧みさに気づく人は少ないかも知れない。だがおよそ信仰心のない僕に、なんとなく、真実とか永遠とか、そういった心の奥底を支える抽象の概念を与えてくれるのは君たちなのだ。
仲間たちの多くは僕がかくもいい加減な無関係なことを考えている確保者であることに不安の念を感じるかな。僕はこういった平和な思考が、そのナッツの効き具合や、そのホールドの確かさにも関係している気がしてならない。決められた因果が支配する真実なんて、退屈だと思わないか。 |
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考えないヒント
我々は思わず、物事を考える。思わずというのは知らず識らずのうちにという意味である。考えるとはどういうことか。子供には論理に沿えという。大人には論理を導けという。科学者には論理をつくれと。幸いに自然や社会は今日もまだ、定則を見出しがたいに不思議に満ちており、混沌を遠ざけ、法規を愛する人々を飽きさせない。だがそれらの一見、我々を魅了する理論が我々を安心させるのと同じだけ、我々に新たな不安を思い出させる。薄暗がりに光をあてれば影ができる。書物は増え、速さが距離を縮めはしたが、世界は決して広がってもいないし、まして小さくなってもいない。
我々は、考え「させられて」いるのである。諸原因は前へ進行し、結論に収縮するのである。人のイメージほど占領されやすく、また移ろいやすいものはない。時間軸に一定の方向があるのを実際に見た人はいない。適応に進化を見、摩擦や抵抗のない世界で真理を証明するのはすべてイメージのなせる業である。我々はイメージの虜であるという点で、ライオンの武器がその牙であり、ウサギが信ずるものは長い耳であるのと同程度に動物なのである。自分を人間だと思っているサルを、残念ながら笑うことはできない。
ではあなたは複雑系の信奉者か。その質問は複雑系の趣旨にマッチしない。しいて言えば私は日本人である。ここで例によって話が一気に俗っぽくなる。だが聞きかじった書物の切れ端を披露しあうのは徒労だろう。落ち葉が散るのを見るとき、人は何を思うか。落ち葉の落下経路を計算しようとは考えぬし、複雑系的現象だからといって諦めたりもしないだろう。だがなんとなくもの哀しかったりはする。こんな話になったのは、一家を構えたら、月々の請求書が一冊のファイルになり、様々な人たちが将来の不安を煽り、厄介な出来事を解決する度に新たな火種が飛んでくるのに辟易したからだ。人生を複雑にしたくて所帯をもったわけじゃないのだが。イメージを捨て不安からも期待からも自由になるには、なるたけ厳しい冬の山がいいようです。ただし恐怖を忘れてはなりませんが。 |
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文明はすなわち道具のことか。今日の道具には部品が多すぎるようである。道具は発想を呼び、発想は新たな道具を創る。タイムマシンの部品はすでにそろっているように思う。ところが発想がついてこない。のこぎりを引かず包丁を研がないものにどうして発想を思えようか。人は所詮人である。機能だけが優先されるものに、人の、例えば感傷的なメロディーに心ゆくまで浸りたいというような、曖昧で、衝動的な、イメージへの欲求には応えられぬ。瞬時の利便を求めた玩具的道具がどれほど考えるものの感性をおとしめるか。およそ生涯の諸問題には鋭利な刃物が一丁あれば事足りる。腕は二本しかない。そして大切なことは、考える精神もまた一塊しかないことである。そして指を使え。指も使わずに頭が使えるか。出所は一緒である。経験を蓄積する場所も構造も一緒である。使わぬ道具に錆が浮かぶ。
以上、チェーンソーの歯を研ぎながら考えた。本当は構造が一義的な刃物が好きだ。鉈、斧、鍬、鎌。もはや鋸で木を切ることはない。それほどに心を追われた人間にどうして今以上、考えを深くすることができようか。歪んだ精神を両断するような刃物を、真綿のような晦渋な苦悩で包むような、そういう人に憧れたりもする。 |
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最近オーナーは留守をしがちだ。地域の長に祭り上げられたうえ、あちこちへ漬物やトナカイなんかを売って歩いている。もっと本業に精を出すべきだというと、おまえに物を売る悦びはわかるまいときた。じゃあいっそテキ屋になっちまえと言うとまんざらでもないらしい。どうも寅さんに憧れているみたいだ。そういえば、寅次郎はあんな商売をしているが、その筋で刃傷沙汰になった話は聞かない。テキ屋ってのは半分やくざなんだろう。しかし仕入れだとか陣取りで随分苦労するだろう。土地の人間と揉め事になったりしないんだろうか。そんな話をしていた。
ところで今回の話の主役はやはりおばあさんだ。オーナーがいない。お客さんもいないからオレは仕事に出る。おばあさんは普通の年寄りと違って、夜遅く、朝遅い。起きたら半熟卵にヤーコンサラダ、インスタントコーヒーに秘蔵の蜂蜜を入れて飲む。自家製ヨーグルトに自家製ジャム。ずれる入れ歯に苦しみながらよく噛む。食べた後はもちろん排泄だが、ズボンを下ろすのに十分ぐらいかかる方だ。そんなわけで鶏に餌をやりに行くのは昼に近い。オーナーは鶏より早起きだから、これは相当な時差といえる。おばあさんに言わせれば目を白黒して餌に飛びついてくるそうだ。そこで鶏小屋の扉を閉め忘れたりなんかすれば一大事だ。
ここからはおばあさんの回想。案の定閉め忘れた扉から鶏たちが逃亡。時は今とばかりに畑を荒らし、林へ遊びに行く。オーナーもオレも居ないから狼狽したばあさんはやっぱりデージーを放す。混乱は頂点に達する。
そこへ来たのがリネン屋の兄さんだ。茶髪でちょっとモテそうな、なんといおうかまあ今風な兄さんだ。背中の曲がったよちよち歩きのばあさんが必死になって鶏を追いかけている。犬は走って、やっぱり鶏を追いかけている。見るに見かねて兄さんも一緒に追いかけてくれた。だけど鶏ってのは意外に足が速く、捕まえるのにコツがいる。我が家を知る読者はこの光景を想像してみてほしい。
結局兄さんは一時間近く鶏を追いかけていたそうだ。まあどこも暇だったんだろうからよかったんだろう。次に来たときにお礼を言っておいたら、笑っていた。笑うほかなかったろうと思う。 |
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思い出が、いつも美しいのはなぜだろう。僕らにとってつらかった過去は必ず、少しだけ色付けされて、今日の笑い話にされている。今はもう、人生の意味を問う気概も色褪せてしまったが、僅かにも降り積んだ経験が淡い陰となって、それが歩むべき道筋のように見えてきた。ああ、黙々とあの尾根を登り続けているあの頃の自分が見えるようだ。僕はいったい、なにを考えていたのだろう?
思えば心はいつも揺れていた。幾多の人間らしい感情の起伏に、訪れる悲しみへの予感に、草花がゆれるように。かつて僕は驚きを求めていた。だが僕は今、驚くことを避けている。心に聳えていた山は、今はないのである。秋の空がなにより一番きれいだと思う。
雪渓にテントを張っていたんだが、夜中に用足しに出たら、吹けばばらばらと落ちそうな星空だ。星の形はわからぬからぼんやり眺めていたら、立て続けに星が流れた。こいつは流れるぞと思ってなんとはなし心構えをしたら、次のが流れた瞬間に思わず願い事をした。直後に気がついて俺はなにを願ったのだろうかと思い出したら、ずっと幸せに暮らせますように、と口走ったのを、口が、憶えている。こりゃおれもいよいよ、やきがまわった、今度の選挙は自民党に入れようかと思った。寝袋にもぐって思ったんだが、果たしておれはいま幸せなんだろうかと考えた。おれは価値観なんて相対的なもんだと思ってるから、恒常的な不安だの悩みだのがなければ幸福感もありえないと思ってる。愛すべき家族、やりがいある仕事、悩みを悩む暇、それ以外は幸せには必要ないんじゃないですか。こうしておれは幸せなんだという結論に達したが、安物買いのこのテントの結露からくる恒常的な不快はどうだ。 |
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おばあさんの苦難
おばあさんが今年で米寿を迎えた。老いてなおますます盛んである。今年はおばあさんにとっては苦難の年になった。長年にわたり五百円玉(ときに東京オリンピック記念コイン)を貼り付けて押さえていた脱腸がいよいよ引っ込まなくなってきた。引っ込まない間は実に気持ちが悪い。
鼠形ヘルニアはおもに男の病気だ。力仕事で腹をいきむことが度重なると、腸がそれを包む袋からはみ出すのである。おばあさんはそいつを、出ると押さえてはだましだましやってきた。だけど最近は引っ込むのにずいぶん時間がかかってきた。なんでも脱腸は数時間以上続くとそこから腐り始めて来るそうだ。そう医者に脅されながらもひとえに体にメスを入れることが恐ろしいためにどうにか自分でごまかしてきた。だが今回ばかりはそうも行きそうにない。
おばあさんは娘時代看護婦をしていた。傷痍軍人の手術を日に何遍もこなしたというからつわものだ。とにかく戦前の医学知識に無茶苦茶なドイツ風?医学用語を交えて、そこに経験からくる民間療法が複雑に絡み合って医者を攻め立てるので、大抵の、特に若い医者なんかは馬鹿にして歯牙にもかけない。そして何よりもアロエを信仰している。虫刺され、擦り傷はともかく、火傷も、肌荒れも全部アロエである。共鳴する信者も多かったが、足にできた静脈瘤や打ち身、捻挫、そして風邪に対しても、アロエをミキサーで刻み、小麦粉で練って団子にして、患部やおでこに貼り付けるあたりから、さすがにだんだん信者が少なくなっていった。おばあさんに言わせれば、信じるものにしか効かないそうだ。
そんなおばあさんが医者に手術を宣告されたときのその恐怖を想像してみて欲しい。ぼくはおばあさんもいよいよ年貢の納め時が来たと思った。八十八歳で、麻酔、開腹手術、術後安静、を経験すればまず、大半の年寄りが体力を大幅に無くすに違いない。しかし切らずに治す道はないのである。しかも手術宣告の翌々日が術日である。おばあさんは腹をさすりながら言った。まな板の鯉。悪いことに術日は僕が英国へ出国する日であった。急に決まったことなので今さら予定は変えられぬ。こうして僕がシベリア上空を航行中、おばあさんは銀色に光る手術台の上にその体を乗せることになった。(つづく) |
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雨をめぐる断章
なにが美しいのかはよくわからないが、実際に美しいものは知っているつもりでいる。そしてそれを守ろうとは思わない。美しいものははかない。はかないものは尽くせない。
山にはまだたくさんの詩が残っている。残念なことだが、貧しくなったのは山ではなく僕たちの心だ。踏み跡を離れて、霧のかかる森の深い方へ分け入ってゆくことがどれほど、僕たちが忘れかけていた原始の感情を思い出させてくれるだろう。僕は思う。人の心は、きっとこの森よりも深く、霧よりも手探りで、ときおり露は雫となって流れ落ちる。
言葉を信じすぎてはいけないと、それを教えてくれたのは山だったように思う。だが僕たちはついに言葉に縛られる。はじめにあった無を考えるとき、物事はいつもひとつの蜃気楼だ。だがそこに現れる感情というものの種は誰が蒔くのだろう?きのうの夕焼けが懐かしく、今朝の朝焼けが悲しいほど静かなのは。探し物は、探し物自身だ。
なにかを当たり前に思ってはいけないと、それを教えてくれたのも山だったように思う。僕たちは驚きを迷いを隠さなくてもいい数少ない動物なんだ。そして僕たちは温暖で湿潤な暮らしを好む日本人の末裔である。草木が世代を重ねても変わらぬ姿であるように、人は何百年では変われはしない。僕は遺伝子を尊重する。古いものは胸に響く。時間はネジで巻くことができない。時間と時計の和解は容易ではなさそうだ。(賢二) |
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日陰の部屋
僕の部屋は西向きの斜面に伏せて置いたような十畳間で、窓からは見えるのはカラマツの乾いた肌や、ちょっと陰鬱なモミの葉っぱばかりだ。部屋の縁を取るように、おばあさんが山から失敬してきたウバユリが実生で増えていて、春先に大好きなおひたしにして食べるミツバが今はもう、白い小さな花を点々と咲かせている。雨が続くと部屋の畳にはうっすらとカビが生え、陰気といえば陰気な部屋だが、住めば都というのは本当なんだと最近になって思うようになった。いつかイングランドの田園で見た捨てられた水車小屋に、言い知れぬ哀愁を感じたことがある。自然の中でものの滅んでゆく様は本当に素敵だ。やがて僕が住まなくなる頃にはこの部屋も、蔓をまとい、虫が宿り(今だって充分虫のお宿だ)、苔が静かに繁殖してゆくんだろう。遠くでホトトギスの声がしている。
雨の朝、ことに霧のかかる朝は窓を開け放して、霧が部屋に入ってくるのを待ってみよう。布団の中で、木々の葉に満ちては落ちる雫の音に耳を傾けるのだ。それはステレオから流れる音に比べれば少し退屈かもしれない。だけどどうだい?森と同じ霧を吸い、それが胸の中で滴になることを思うとなんだか心に淡く、染み入ってゆくような気持ちがしないかい。
夜を陰影深く演出するのはたくさんの節足動物たちだ。彼らの多くは光を求めて集まるさまになんとなく悲愴な感じがして敬遠されがちだが、その姿、形が人間の美意識、あるいは恐怖感を刺激するのは実に不思議だ。蛾の鱗粉を集めてガラスの瓶に詰めたらきっとなにかの高貴な粉末に見えるだろうし、蚊の仲間の繊細な体の構造はその吸血の悪事を補って余りある。部屋の四隅にはいつもいろんな蜘蛛が黙って仕事をしていて、時々僕のほうを睨んではまたそれを続けている。落ちている蝿の亡骸をその罠に引っ掛けてやるとしばらくは見ぬ振りをしていたが後で見ると、丁寧に仕込みをして表に干してあった。連れ立ったカマドーマの夫婦の均整な筋肉美とその跳躍力には、進化する生命の崇高さすら感じる。ただし無断で僕の寝顔をふんずけて行くのは遠慮してほしいが。
降り続いた雨がやみ、ヒヨドリの声が響き始め、僕の部屋にも弱い日差しが差し込もうとしている。不本意な土地に植えられた更紗のドウダンは相変わらず痩せてうつむき加減だが、葉の緑は雫を光らせて美しい。山椒の雌株もようやく実をつけようとしている。さあ雨上がりだ。しっとりと濡れていよいよ鮮やかなコアジサイを見に裏山の散策へ行こう。(賢二) |
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カエルの話
沢登りの楽しさをなにに例えたらよいだろう。今までいくつの滝を越え、ナメを歩き、淵をへつってきたか知れないが、そのたびに水が流れるってことの意味を考えずにはおれなかった。時間を埋めるであろうあらゆる現象のうちで、水が流れるということほど胸に迫るものはなかった。今しも思い出されるのはさんさんとナメを滑りきた流れが忽然と壺へ落ちゆく刹那である。水面を射す淡い若葉に染まれた光である。
君は壮大な自然を愛するだろう。轟然たる瀑布、屹立する峻峰、あるいは天上の湖水、懸垂する氷河。だが僕は平凡な家庭を愛するのと同じくらいに、凡庸な自然を愛せずにはおれない。奇異なものに心を奪われてしまう分だけ、真実が見つけ難く思われるのだ。そんな風な気持ちで通いなれた道を歩いてもよいだろう?静かな岸辺に立って淡い波のように訪れる問いかけに耳を傾けてみるのだ。
もうずいぶんとナメを歩いてきた。水はまだナメに騙されたみたいに絶えず床を滑ってくる。あそこに見える流れのくびれにかかった倒木に腰を下ろそうじゃないか。足を流れに浸したままぼんやり上流の方を眺めておったらなにか流れてくる。石じゃないと思われるのはしぶきを上げないからだ。すべるように流れてくる。小さな淵にもぐってしまったが、あっ、また流れてくる。差しかかる小枝に当たったときに足が動いてようやくそれがカエルであるのがわかった。あっという間に僕の横を流れすぎていった。
カエルがナメを滑ってゆくほどおもしろい光景があったろうか。もちろん僕はザックを投げ出して、来た路を取って返した。時々小さな淵に落ち込んでは見失ったが少し泳いでまた滑って行く。僕は彼を写真に収めるためのカメラを携えたが、ただでさえ滑りやすいナメを走ってゆくもんだから苔を踏むときなんかけっこう怖い。もう少しで3mくらいの滝が近づいてるからそれまでに捕まえようと考えたが早いのなんの。さっと滝をダイブして釜へまっ逆さまになったのを見て、南無三、急いで釜に降り立った。
カエルが泡と共に浮き上がってきたのはちょっとしてからだ。まさか土左衛門になっちゃいないかと思ったが、そもそもカエルが溺れるはずなく、浮かんでいるところを捕まえたらそれこそ泡食って逃げようとした。カエル属の判別は出来かねるが後で調べたらカエルは5科8属23種!もいるそうだからわかるわけない。少なくとも標高2000mに近い山の中でカエルがナメを滑ってくるなんてことがありえようか。
写真に収めて放してやったら気持ちよさそうにまた花崗岩のナメの上を流れていった。考えてみればこの奥秩父の碧い流れの中を、千畳に続くナメの上を、岩をかすめながら滑ってゆくのがどんなに気持ちよいことか。僕がカエルだったらきっとそうする。どれだけ上流まで跳ねて登るのも厭わないだろう。(賢二) |
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ムシトリスミレ
ぬめる逆層の滝を腹ばいになって乗っ越したらまだ雪渓が残っていて驚いた。叩いたってびくともしないから安心して歩いてゆくと、二俣の先からだんだん傾斜が増してきやがって緩い雪壁ぐらいになってきた。上のカールで使おうと思っていたアイゼンを渓流足袋に付けてみたが、滑ってしまってうまくゆかない。はなから水線にこだわってないので早々に尾根へ逃げようと見渡せば、あたりは結構な傾斜の草付きだ。
さてどうするか。
とりあえずあそこに見えるハンノキまで行っちまえばなんとかなるだろう。ザックを捨ててロープだけ背に巻きつけて登り始めるとやっぱりやめようかってくらい悪い。行けず戻れず思案してるとなんだか何かに見られてるような気配を肩越しに感じる。ちょっと背伸びして覗いてみるとやっぱりムシトリスミレがこっちを見ていた。
人間界にもずるい奴は多いがムシトリスミレのずるさときたら別格だ。根生する葉っぱはネタネタしていて、小さな無邪気な羽虫なんかが舞い降りたらひとたまりもない。縁は内側に反り返る念の入れようだ。そこからひゅっとした茎が上がってきてスミレの出来損ないみたいな扁平な唇形花が、世の禍事などどこ吹く風ですかって顔をして揺れてやがる。おれは悪い奴は嫌いだが、狡い奴はもっと嫌いなんだゾ。
しかし君はどうして、数ある植物の大勢がまっとうに生きているというのに敢えて、こんなに湿っぽいところで、善良な昆虫たちを餌食にして暮らしてゆかねばならないか。君の体内には感情のない消化粘液しか流れていないのか。僕は君の悪事の弾劾を怯みはしないが同時に、世になんと必要とされる悪が多いか心得ているつもりだ。ここは見ぬ振りをして通り過ぎよう。しかし今はここで身体窮まっているんだ。
そのときなんとなく僕はムシトリスミレの邪悪な心に、悲しみの影を見たような気がした。現実が人に悪を選ばせるのも事実だ。さてぼんやりしてないでこの窮地を突破せねばなるまいぞ。シュルントに滑り落ちてしまうのはごめんだ。(賢二) |
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ある公募形式の山行に参加して、北陸の里山に登ってきた。そこで出会った初老の女性は、僕の山に対する価値観のなかに、春の空をけぶるような霞を掛けてしまった。
文明の恩恵を受ける僕たちは、何事にもその意味を問わずにはおれない。人とは信じることをやめたもののことだと思っていた。僕たちの精神は借り物の藁の束を束ねただけのものに喩えられる。だけれども人は藁にこよりをかける。そのこより方という一見アーティフィシャルな抽象概念が人を人たらしめてると思うか。僕はそうは思わない。
西洋では疑うものが人である。東洋では人は疑わない。僕は信じることを欲する。
僕は女性の後ろを歩いた。あたりはカタクリが巧みに花弁を反らしはじめ、雪割草が濃淡の微妙を春風に泳がせていた。
美しいものは人の心を和ませる。だが現実はそれ以上である。美は創造するものではない。なぜなら僕たちはすでに、美しいものを知っているから。
女性の歩みは確かである。彼女は三日に一度、必ずこの山に登る。四十年間続けて。僕はその他の山には興味がないか聞いてみたら、彼女は年に一度富士山に登る。二十数年続けて。それ以外には登らない。
おそらく彼女はsightseeingの意味を理解しない数少ない日本人の一人だと思われる。明治以来、日本語は言葉や構文が増えすぎた。古来僕たちの祖先は僕たちの使うよりもずっと少ない数の言葉で暮らしてきた。ゆえに言葉の無い、概念だけの意味があちこちをふわふわと浮遊していた。そしてそれを肯定する手段は、信じるしかないのである。だから八百万神なのである。
彼女はこの山と富士山の存在を信じていたに違いない。それは僕たちが山に生える植物を愛でたりするのとは本質的に違うものだ。山は彼女を見つめている。彼女は山を信じている。僕には日本人がますますわからなくなった。(賢二) |
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僕たち自由業者は週末クライマーではないから、簡単に言えば気の向いたときに山へ行くし、逆に行く気がなければ仕事ばっかりして自分自身の山には縁がなくなる。普段に時間や約束事に縛られることが少ないせいか、計画だとか報告だとかにはずぼらになりがちだ。基本的には車に乗って、空色を眺めながら行く先は決まるのである。僕の場合、地図や道具は一切合財常時車に詰め込んである。
だけどいざ山へ向かう気持ちも道すがら出勤ラッシュにつかまったりして目的地までたどり着く前に近場の山に吸い寄せられて敗退してしまうことも多い。先だってもバイパスの信号の列に恐れをなして近場の藪に逃げ込んだ。こんなときはなるたけ植林の薄いところ、堰堤のなさそうなところを選ぶわけだが、はっきりいってそんなところ地図を眺めて探し出すのだって骨が折れる。いよいよずぼらも極みに達すると地図も磁石も放り出してテキトウに分け入ってゆくのである。
こんなこと書けば人間嫌いの辺鄙人に思われかねないが、どうしてザックにはいざというときのロープとガチャだけはくっつけてあって、山に溶け込んで自然に帰ってしまうような高尚な考えなんか毛頭無い。社会の片隅のおこぼれを預かって姑息に生きてゆくつもりであるのが悲しい。そんな自己矛盾を恐れずに、観念論に背を向けて、僕は僕の末端にある手足という道具になってみようとするのだ。
尾根を少し外れると、風の音を聞きながら風の当たらないところがある。落ち葉が何層にも積もっており、少し掘ればしっとりと濡れているのだが一番上の層はよく乾燥している。僕は時間が経っても日の陰らないところを選んで腰を下ろした。木の根、枝の先、向かいの尾根、遠くの山並み、空、僕は今までいくつの場面でこの構図を眺めてきたのだろう。世界はもっと違った別の姿を見せてもよいはずだった。だけど今までも、これからも、山は同じ構図をとり続ける。僕自身にももっと違ったあり方、さまざまな経験がありえたろう。沢が山を下り、尾根を作るように、僕は僕であり続けるのだ。
僕は山でとりとめのない感慨にふけるのが好きだが、時々本を持ってゆくこともある。気持ちのよいところで本を開く。しばらくは至極よい気持ちで集中して読む。やがて日が当たるので日をさえぎるようにして本をかざす。本は日に縁どられて紙が暗くみえる。目は光のギャップに耐えられず強く明けられない。やがておだやかな眠気が波打つように迫ってくる。そして本は僕の顔に伏せられるのである。本の紙面はひんやりとしていて気持ちがよく、今こそ本の真実の役目が存分に発揮されているのではないかと思える。 (賢二) |
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薄がさらさらと鳴る土手は霜柱も立たぬほど乾いていた。
よく踏まれた登山道には落ち葉や小石が浮かんだまま凍っている。除けようとした野茨があばれて素手に白い線を描いた。こんな朝、僕は手袋をせずに強く指先を握ったり閉じたりして歩く。やがて手は血流を思い出すのである。僕は指先に軽くしびれる生の力を感じることができる。
冬が訪れようとしていた。僕は冬を恐れる。そしておなじくらいに冬を求める。人の心を縛る厳しい寒さが理性を作り出したという説に僕は賛成したい。鋭利な空の青さ、裸木のみせる寂しさ、水が凍る音、それは混沌を拒む単純だろう。僕たちは単純なものを愛せずにはおれない。水は微細な間隙を縫って流れ、岩をも砕きながら凍るのである。 (賢二) |
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| 何気ない幸福に満たされた日常がある。ささやかな傷口がそれに陰影を与える。人が厳しいものに触れたときの慄きが美しいものに見えた。冬が近づいている。日の光が落葉松の影を長く後ろへ伸ばしていた。厳しきものに謙虚な気持ちで端然と立ち向かいたいときは、水楢を割ることにしている。倒されて間もない水楢の、肌の折り目正しさ、その割面の潔さを愛さずにはおれない。人の世の雑念に満ちた一振りはむしろ打ち砕かれてしまうように、水楢の幹はついに何も残さず割れるのである。乾いた、底抜けに明るい音を響かせて割れるのである。引き絞るように充実した肉も、幾年の冬を耐えた皮も。一瞬の輪廻の断絶。 薪は炎を包まれやがて灰になる。この間まで生きていた水楢を、私が一片の薪に変え、そして今灰になるのである。煙が冬の空に消える。 (賢二) |
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この間クラックを登っていたときのことだ。相棒のNが快調にロープを伸ばしている。こっちは下でビレイしていたんだが何しろ昼下がりの陽だまりとあってやけに眠くなってきた。Nは核心でムーブを探っている。背後の渓流では晩にできた氷の壊れる音。頭の上からは落葉松がさらさらと降ってくる。なんだかNが登るほどに秋が深まってゆくようだった。岩の向こうは何本か雑木が曲がって生えていて、空の青さは底が知れない。
Nが足を突っ込んでいた岩の割れ目から何かの葉っぱがこぼれて来た。その葉っぱがうまく風を受けたのか葉脈を軸にしてくるくると回ってなかなか落ちてこない。Nそっちのけで葉っぱをじっと見ていた。ゆらりゆらりと行く手を変えて、とにかく信じられないくらいに長い間空中を散歩している。沢、僕、クラック、葉っぱ、N、木、空が一直線に並んだはずだ。Nはいよいよ核心でジャミングを保持して固まっている。時は止まっているんじゃないか?
そのときNが何か驚いたように揺れた。
「どうした?」
「コウモリがクラックからこっちを見ている、、。」
コウモリだってこんな陽気なら日向に出てくるんだろう。 (賢二) |
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おおよそもろい岩を登るときには、バランスってものを身に沁みて考えるだろう。掴んだ岩が剥がれるか、つま先立った足の指が滑り落ちるか、重力は大変偉大だ。僕たちが一縷の望みをもってすがりつくのはバランスである。バランス!まさしくあの滝のかすかな凸角を掴んだ僕の指先からはバランスという白い煙が立ち昇るようだった。
重力は私だって生まれたてから知ってるが、万物の持つ引力を最初に理性をもって認識したのはニュートンには違いない。経験則が積み上げられた人類の叡智は膨大だ。しかしそれをはるかに凌駕する精緻さで織り成された、現象とか存在とはいったい何なのか。生物学の進化論は信じたってよさそうだが、化学や物理学に進化する法則はまさかあるまい。認識するものとされるものの間にある暗黒の距離は、極まった永遠だ。空間の概念があり、その上なぜ物と物は接することができるのか。化学的に分解されうる生命とは何なのか。あまりにランダムに複雑系へと進行する現象に意思はあるのか。(賢二) |
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なんでも人間は考える動物であるらしいから、いろいろと考えては計画を練ったりしてみるが、大抵の場合予期せぬ出来事に遭遇して頓挫してしまう。すなわちそれら予期せぬ出来事を減らすべく人は考えるのであろうが、なかなか詰め将棋みたいな気の利いた回答なんかそんなにない。そんなことが繰り返されたのでなんだか馬鹿馬鹿しくなって、ひとつ座禅でも組んで無の境地に浸ってやろうとも考えたが、残念なことに座禅をしているときこそ、座禅の意味を考えずにはおれなかった。
何にしたって人は何事かを考えずにはじっとしてられないのだ。煮詰まってきたときには思いっきり無茶苦茶に幸福なことを考えるのは楽しい。たとえば、エベレストのてっぺんで下界を見下ろしながら塩のきいたおにぎりとキュウリの浅漬けを頬張るとか、、。なんだ、君の幸福はそんなことかいなどと言うなかれ。幸福は、まったく満たされた心理状態だそうな。まったく憂いのない、満ち足りた、平穏な、、。そんなのは棺桶の中とたいして変わらなんではないか。
結局たぶん人はこんな風に考えている。ああ、明日からまた慌しい日々が自分を待っているが今日一日だけは自分の大好きな山に登って自分だけの時間をのんびりと贅沢に過ごそう。それ以上望みはしない。そんなささやかなことが自分にとってこの上ない幸福なのだから。
そんなことを思いながらひとりで雪の尾根をじりじりあがっていった。天気はよく、風も心地よい。アイゼンもよく効く。きっと振り返ったら最高の景色がひろがっているはずだが、もったいないから頂上まで振り返らずに行くのだ。もう少しの辛抱だ。もう少し、もう少し。 やったー、頂上だー。はーーー、、、、。 あっ、今一瞬だけ、何も考えずに無上の幸福に浸れた!!(賢二) |
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お役所作成の環境教育要綱なるものを目にする機会があって、どんなものかとのぞいてみたところ、森林の環境に対する機能だとか、河川の生態系だとか、間伐の作業方法まで書かれてあった。こいつは随分よくできていると感心していたが、読み終わったときのなんとも言えぬ違和感が気になった。果たしてこのような因果論は必ずしも成立するとは限らんのである。
物事には原因と結果があると現代人は信じているが、文化人類学的にみてそれらは近代の西欧で確立された地方的な一概念に過ぎない。現象がひとつなのではなく、観点が無限なのである。子供に対して、現象を説明するのはたぶんあまり意味がない。人の心を揺り動かすには、美しい真理よりも、混沌とした現実のほうが有効なのである。畑の脇に六畳ほどの片屋根の道具置き場を作りながらそんな風に思った。
ちくしょう、ぴったり図ったはずの枠板はなんで垂直にならんのだ。(賢二) |
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今年の五月に祖父が亡くなったことは前に述べた。あれから祖父の死について何度か想いをめぐらせたものの、ついぞまとまった文章にできなかった。だらだらと祖父の思い出語りになることを怖れた。
そんなとき、曲折を経て、祖父の墓を山梨の地に建てることが決まった。祖父は函館にいる兄弟から離れて独り東京で所帯を持ち、やがて祖母の清里移住とともに山梨と東京の二重生活が続いた。ゆえに我が家は菩提寺や先祖の墓を持たない。祖父という人は相当な年金を支給されていたが、遺産らしいものは何も残さなかった。遊興や交際費、そして莫大な量の古本に化けてしまった。
墓を手弁当で作ってしまおうと言い出したのは誰だったか。いはく墓穴を掘る云々。おもしろいと思った。みずから入るべき墓はみずからの手で掘りたまへ。生前祖父は冗談の端々に自らの死を挟みいれた。その祖父は今さらさらとした骨になって壺の中にいる。意外や太い骨を持っていた祖父は壺の中に入りきらなかった。葬儀屋は実に手際よくそいつを押し込んだ。骨は乾いた音を立ててさらさらとした粉になるようだった。
Y氏は洋食の料理人であるが、冬には樵になる、大工になる、土建屋になる、芸術家になる。氏の工房は、明日にでも家が建てられるような調子になっている。
「旦那ひとつ墓でも作りませんか。」
「墓なんか掘ると早くお呼びがかからない?」
「墓石屋だってちゃんと食ってますよ。」
「カモフラージュってわけか、、。」
「、、?。」
翌週私は墓場の一画で穴を掘り始めた。近隣には線香と生花をお供えした。特にお隣は土葬で少しばかり地面が陥没しているという、なかなか気のおけない場所である。眺めはいい。甲府盆地へ南アが迫り、行く末には富士が霞んでいる。いい天気であった。Y氏が基礎板を持って現れた。
「楽しい?」
「俺だって山で落ちて死んじまえばこの中に入ると思えば親しみも湧きますねえ。なかなか哲学的な仕事だと思う。」
「しかしいい土だなあ。」
「周りに大根でも蒔きますか。」
「墓場の大根はちょっといただけねえなあ。」
氏の仕事は全く素人離れしたもので極めて精緻であり、道具の準備、材料の仕入れも素晴らしく計画的で実に勉強になった。詳しい内容は省略するが、私たちが汗を流して作ったお墓は、こじんまりと落ち着いて、他にはないようなちょっと個性的なお墓になった。野花でも周りに植えたくなるようだった。
墓石には将棋を愛した祖父が冗談によく語った「歩」の文字を刻んでもらった。夕焼けに照らし出された優しい色合いの御影石は、これから自らの背に刻まれてゆくだろう未来に想いを馳せているようであった。Y氏がつぶやいた。
「おじいさん喜んでるよ。俺も自分の墓こんな風に作ろう、、。」
「そんときは手伝いましょう。今度は息子君も一緒ですか。」
「夕焼けがきれいだなあ。」
私たちのお墓は最初の夕暮れを迎えようとしていた。(賢二) |
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K山からS岳を経てY峠へ抜ける尾根が気になっていた。K山までは一度歩いており、その先は強靭な笹で覆われていた。植林帯を越えれば樹林の中に愛すべきかすかな踏跡を辿れるにちがいない。晩秋のK山登山口には早くもハンター達の車が何台かあった。
このところ仕事や研修、仲間との登攀山行が続いており、久しぶりのひとり歩きであった。ひとりで山と対峙する心構えを忘れてしまいそうだった。明け方に家を出る。出発前の焦り、歩き出してからの不安、期待、みな久しぶりのものだった。
生活における自分の弱さを実感する日々であった。見失ってしまったもの、気づけずに通り過ぎてしまったものを静かに思い返さねばならない。左右の谷を隔てる尾根を探して歩くことや、すっきりとした視界に遥かなる山々の連なりを感ずることは、いつも私に自己の輪郭を知らしめてくれた。人はときとして覚える敬虔な気持ちを忘れてはならないと思った。
K山で一息つくと、自分は勇敢だと自らに言い聞かせながら、猛烈な笹藪に突入した。ときに笹は背丈をゆうに越え、またときには獣のにおいが鼻をついた。遠くで銃声が聞こえる。付近は鹿による植林への獣害が多く、傾斜の少ない地形はハンター達の格好のフィールドであるらしい。
不意にかなり近くで銃声がし、咄嗟に笹の中へ身を沈めた。かなり近いと改めて思った。気を取り直してザックから真っ赤なウインドブレーカーを出し、笛を首に下げて数歩歩き出したその時だった。私の右手二十メートルくらいで二発鳴り、今度は腰が半分抜けたようになった。足がすくんだ。数日前に見た戦争映画のシーンが浮かんできた。ここでさらに驚くべきことが起こった。前方がガサガサしたと思うと、かなり大きい雌鹿が私の目の前にへ走ってきた。私は息が止まるほどに驚いたがもっと驚いたのは先方だった。彼女の目は確かに恐怖の色で私の目を見据えた。そしてすぐさま斜めに私を跳び越えて藪の中へ消えていった。
その場で腰が砕けたようになってどれくらい経ったか知れない。下手に笛を吹いても余計に悪かろうと思ってじっとしていた。おそるおそる立ち上がってまた歩き出すと、沢のほうに降りてゆくハンターの後姿が見えた。猟犬はまだ解禁になっていないのか静かだった。彼らの散弾銃はこの日幾頭の鹿をしとめたのだろう。
笹を抜けると所々展望も得られ、やがて予想通り樹林帯になった。獣道を選びながら数ピークを越えるとS岳頂上は素晴らしい展望であった。白い石灰岩が敷き詰められ、その縁には伊吹麝香草の群れが、胸を吹き抜けるようなすがすがしい匂いをはなっていた。おそらく年に十人も頂上を踏むものはいないのだろう。N岳の稜線が、K岳の雄姿が今までに知らぬ角度で迫りくる。フランスパンとチーズと少しのワインで乾杯をした。
ややわかりづらい二重稜線といくつかの顕著なピークを越えてY岳に登り、Y峠へ立った。遥か越えてきた山並みと、峠までかすかに辿りついた晩秋の風に吹かれながら、心は溢れるようであった。もうすぐこの峠も雪で埋まるだろう。今日、私がはるばるO湿原からY峠まで来たことは誰も知らない。S岳ではいくつかの迷いや後悔を風に放ってきた。午後の日差しは斜めに、すでにいくぶんオレンジを帯びて頬を照らしていた。帰ろう。夕日に背を押されるようにして峠を下りはじめた。(賢二) |
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「烏骨鶏顛末」
K氏は山の師匠であり、山野草の大家でもあり公私にわたって非常にお世話になっている。さる伝手からK氏が烏骨鶏をもらうことになった。そんなものもらってもどうしようもないはずの氏であるが、氏には人が何か物をあげたくなるような独特の魅力がある。さて、もらってから考えたのか、最初からうちを当て込んでもらったのかは知らぬが、真っ白な烏骨鶏の雄を小脇に抱えて氏はうちにやってきた、らしい。らしいというのは、たまたま私はその場に居合わせなかった。雄鶏は我が家にはお呼びではないが、さりとて無碍にも断れず、オーナーは鶏小屋の離れにある、いじめられっこのピーターの小さな小部屋にピーター共々そいつを入れておいた。
翌朝私が起きて外であくびをしていると、数年前に雄鶏が死んで以来の「コケコッコー!!」が聞こえるではないか。見れば鶏冠は赤、頬は銀青に垂れ、足元は水かきのあたりまで紫白の長毛がたなびいている。こいつは立派なもんだと感心してかたわらで菜っ葉をひっぱっているばあさんに聞いたらかくかくしかじか。K氏のくれるものといえば洋物の高級チーズとか、なんとかいう有名な羊羹とか、、。さては烏骨鶏のなかでもなかんずく値のつくようなのに違いない、そこらで餌をつついている卵生むだけのずぼらなやつ等とはわけがちがうわ、早速よしなに愛玩して進ぜようとて扉を開けた瞬間であった。
奇声と羽ばたきと同時にあとも言えぬ間に彼は飛び去った。すわやと思いてそばにある熊手とコンテナを抱えて後を追ったが、きやつの逃げ足のべらぼうに速いことといったら、空いた口がふさがらぬ。交互の足に両羽の飛翔力が加わって鳴きながら森の方へすっ飛んでいった。しかもばあさんが何を勘違いしたか犬を放しやがった。烏骨鶏は私と犬の両者に追われて完全に森の中に紛れ込んだ。
完全に見失い、K氏に申し訳が立たぬと思いながら帰ってくると、外から戻ってきたオーナーが、狐の餌だあとかなんとか言って笑っていた。何であんなのがいると教えなかった、あんなに足が速いと分かっていたら扉など開けぬじゃないかとなじったが後の祭り。
悲嘆にくれてベッドメークをしていた。迂闊に扉を開けたのが失敗だった。悔しい。もはや戻ってくることはあるまい。実に悔しい。
ところがばあさんがおもてでなにやら騒いでいる。さてはと思いて飛び出すと森の縁でやつがしゃがんでいるではないか。オーナーがぶつぶつ言いながら近づいている。俺が回り込むから森へ逃がすな!!やつも気がついて森の方へ走る走る。いや、半分飛んでいる。とにかく速い。こちらも全力で走った。ところが急にやつがしゃがみこんだ。オーナーいわくスタミナ切れか。私が接近して掴まんとするとまたもやするり抜けた。馬鹿!!足を掴め!!そこへ困ったことに再びデージーが走ってきた。なんてこった、ばあさんか!!こうして二人と一羽、一匹は森の中を縦横に駆けずり回った。
ようやくうちの方へ追い出したところで力尽きたのか今度こそすっかりとしゃがみこんだ。ここで改めてオーナーの鶏飼育二十余年の経験を目の当りにすることになった。ぶつぶつ言いながら近づくと、普段からは考えられぬ電光石火の捨て身で倒れ込むと同時に烏骨鶏の片足をば引っつかんだ。雄叫びが辺りに響き渡った。
彼を捕まえたのが私はとにかくうれしくてしょうがなかった。朝晩に眺めては独り笑みを噛み殺した。彼はいまだに懐いてこない。毎朝首を前に少しかがめて、腹の底から良い声で鳴くのである。(賢二) |
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台風一過の快晴の夜明けに勇んで増富へ車を飛ばしたものの、目指す枇杷窪沢へ取り付く林道の発見に戸惑ってひどい目にあった。某山岳地図は一般の登山道以外の林道や、地名は所々いい加減である。くわえて周辺は砂防堤をつくるための林道があちこちで工事中だったり放りっぱなしだったりでまこと閉口する。いつもながらこれら程度の沢になぜ何基もの砂防堤が必要なのか全く疑問である。おそらく工事のための工事だろうが、土建頼みの行政はとうに限界であろう。一本手前の林道から入って小さな橋を渉ると相当な悪路になり、四駆に切り替えたハイラックスでもかなり手強かった。そしてカーブを曲がると崩落にぶつかり、崖っぷちをバックで入口まで戻るという恐怖を味わうことになった。思えばこれが今山行のクライマックスであった。横着せずに最初から林道は歩くべきである。
正しい取り付きを発見したときには沢沿いにも日が差し込んでいた。沢は全体的に荒れていた。唯一の滝らしい15mも登ることができたが源頭からの草付がやや悪い。
千代の吹上に飛び出すと富士山がきれいだった。
歩き慣れた路をぶらぶら下りながら大日岩で昼寝をした。八丁平を抜けて瑞牆の東尾根へ入ると石楠花がかなり濃い。かすかな踏み跡らしきものは昔の登山道を証明している。鋸岩の手前にて懸垂一回。支点を作る際、石楠花に眼鏡を弾かれてつるがどこかへ行ってしまった。テープを耳まで縛り付けて瑞牆山頂へたどり着くと先着が妙な顔をしていた。わけを話したらなんとなく仲良くなってしまった。関西の御夫婦だった。結局山荘まで御一緒してしまい車まで送っていただいた。Hさんありがとうございました。(賢二) |
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この秋から我が生まれ育った町は北杜市という名の下に合併することとなった。昨年は中巨摩に南アルプス市なるものが生まれ、先日は甲斐市、笛吹市などが誕生した。
時代は確実に変わってゆくと思う。南アルプス市に巨大なショッピングモールができたと聞いて早速新しい物好きなおばあさんを連れて出かけてみた。建設途中の中部横断道をくぐってさくらんぼ畑が急に途切れたかと思うと、多数の大型店が集まっており駐車場は約千台。ホームセンター、スーパーマーケットはもとより本屋、靴屋、スポーツ用品から薬、眼鏡などなんでもござれである。なかでもおばあさんご希望のユニクロを初めて覗いてみて驚いた。老若男女がこぞって棚の上をひっくり返している。
驚いたのは自分自身についてである。実は着物など自ら買いに行ったことなどなく、ほとんど兄弟のものや母が買ってきたもので、ほかは作業着やスポーツ用品を適当にあわせていた。そんな人間にとってもユニクロは楽しかった。必要なものを買い求めるのではなく、純粋にショッピングを楽しむという気持ちをはじめて理解した。
ここ数年の中小地方都市の変遷はすさまじいと思う。まずすべてがバイパス化した。駅前商店街の解体はほぼ完全に終了し、自動車産業のますますの隆盛とともに道路は徹底的に拡幅された。大型店が林立し、合理性を追求され尽くしたモノは格段に安くなった。こうなるとほとんどアメリカである。
フランスの地方都市ではマクドナルドのボイコット運動が盛んだそうである。わが国には守るべき文化や産業はもはや残されていないようだ。現在の姿に一抹の寂しさを感じる者は、一方でそれを望んだ者でもある。いったい私たちはどのような未来に向かってゆくのか。この街の景色はどんな風に変わるのか。完成された理想の暮らしはどこにあるのか。そんなことを思いながら冬物のフリースを何枚か買った。(賢二) |
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| 祖父のこと
祖父のことを書こうと思う。祖父が亡くなったのは五月の末、その週の山行では早くも石楠花が綻んでいたのを憶えている。私と父はちょうどその前日に四ツ谷の病院に祖父を見舞った。雪ヶ谷で一人暮らしをしている妹と一緒だった。もっとも父は年明けに祖父が山梨で入院し、やがて四ツ谷に移ってから何度上京を繰り返したか知れない。山梨への帰途調布あたりだったろうか、伯父から容態の若干の悪化を告げられた。父は引き返すかどうか迷ったように見えた。私にはその時までにはまだ時間があるのではないかと思えた。少なくとも今日見た祖父の目はよく動いていた。(賢二)
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山に行けぬときには夕食を出し終わってから密かにSTEPへと車を飛ばすのである。
オーナーのS氏は小さくて細くて、歴戦のクライマーとはとても思えない。氏とは数回岩場でも御教授を乞うたがその軽やかさ、あるいは度胸ときたら、実に私をたじろがせる。氏はとても優しい顔立ちをされている一児の母であるがその言葉の厳しさは、私には鬼のように思える。
氏に言わせると私のクライミングはてんでなっていないらしい。無論断然に経験が浅い私はそれを逆手にとって反論する。
「そんなんじゃあいずれ登れなくなるよ」
−「具体的に言ってください」
「無駄が多い、、」
−「そんなことは知っています、だから努力している」
「努力の方向が違う」
−「だからどうしろと」
「そんなのは自分で考えなきゃ身につかない、、、」
−「とりあえず登れなくなったら考えます」
「それじゃあ遅いわよ」
−「、、、」
氏とはあまり話がかみ合わないと思う。だが私は氏を尊敬する。氏が私をどう思っているかは知らぬが、ある程度気にはかけてくれる。ただなぶっているようにも見える。とにかく私は早く上手くなりたい一心である。気合だけで登ってゆくしかない。 |
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小さな沢を渉ろうとしていた。水は右手から流れてくる。そして淡く苔のかかった石で立ち止まってふっと我に返るのである。川はいつも流れて行くばかりである。岸辺にヒメウツギの花がかかる。渉り始めて半ば、なすすべもなく沢のしぶきを浴びていた。
その日は考え事をするため山に入った。考えたとて結論の出るといった性質のものではなかったが、山を歩き、たくさんの木々とすれ違い、岩肌を手のひらに感じずにはおれなかった。人の心を彩るものはいったい何であろうか。
黙々と山道を歩いた。歩いていることを忘れるほどに、夢中に歩くことが好きだ。そして開かれた風景は突然人を驚かせる。地面はかくも凹凸に満ちている。沢ははるか悠久に地を削るのである。もうここは空と接している。
稜線に出ると急に雲が湧いてきた。最近では雲はもはや私を悲しませなくなった。想いを馳せてみたまえ、雲の通り過ぎる稜線を私が歩いてくる。山での意識の主体は必ずしも私ではないことを知るようになった。山は私を謙虚にさせ、また自信を与え、事物を深く認識させてくれる。
(つづく) |
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| 「野鳥探訪」No.3
いよいよ大谷氏のカメラが様々な野鳥を捕らえ始めた。
メジロ。鳴いてはいない。
ジェーイジェーイと騒いでいるのはカケス。
ヒヨドリは知っている。鋭い声でピーヨピーヨ。
野原のほうからピイーピイーと声が飛んでいる。オオタカが来たらしい。オオタカなどの猛禽類も狩をするために出かけてくる森であったとは、、、。翌日大谷氏は一人でオオタカの巣を発見することになる。後日中日新聞に載るのかもしれない。そのほかトンビ、ノスリ、イヌワシも訪れたという。
体育館のほうからフィーフォーフィーと耳に伝わってくる。大谷氏のカメラを担ぐ足が早足になり目は空を飛ぶ鳥に移るや否や「イカルもいますね」あの鳴き声はやはりイカルだったか。
森の小道を戻りすがら雉の羽が一枚落ちているのを見つけた。氏は雉がオオタカに捕まり運ばれるときに散った羽毛ではないかと推理する。
私には狐か野良に襲撃されたように思える。我が家の鶏も今まで幾度と鳴く狐にやられてきた。多分この周辺をくまなく調べれば雉の羽が大量に散乱する場所があるのではないか、、、。
托卵の話もあった。ホトトギスの仲間には托卵するものが多い。
カッコウ:オオヨシキリ・モズ・ホオジロ・オナガ
ホトギス:ウグイス
ツツドリ:センダイムシクイ
ジュウイチ:オオルリ・コルリ托卵を済ませた親鳥たちは子供たちが育つのを監視しながら過ごし、巣立ちをする時期になると南へ渡る時期が来たと判断して連れて帰るらしい。
今回名古屋の大谷氏指導していただいた探鳥コースは、私にとって野鳥への関心、さらには裏の森への興味が飛躍的に高まったといえる。
たとえば一本の白樺の木が枯れかかっているとする。途中に大きな丸い穴が開いている。アカゲラが開けたものだろう。木の根元に鋸屑がつもるようであったらコゲラが木の周囲を満遍なくつついて枯れ始めた白樺にたかる虫たちを捕らえようとしている、といった筋書きが読める。
大谷氏に問う。「オオタカの営巣のために巨大開発がストップされることがありますが、、、」「オオタカなどの猛禽類は森の食物連鎖の頂点にいる生き物です。オオタカが去れば餌となる小鳥たちが増えて個体数のバランスが崩されます」
野鳥談義の締めはやはりいつか見てみたい鳥たちのことだ。
アカハラ:キョロンキョロンチリリ
早朝の高原の明るい林にさえずりを響かせる。
クロツグミ:キョロイキョロイキョコキョコ
最高の歌手という
ノビタキ:ヒーヒョーヒョロリー
野鳥の本の表紙を飾る黒と白のコントラスト
ノゴマ:キョロリキョロリキーキョロリ
赤い喉が特徴
キビタキ:ホイヒーロオシツクツク
センダイムシクイ:チョピチョピ
しり上がりにさえずる
ミソサザイ:小さな鳥。複雑な歌を長く続ける
ヤブサメ:シシシシ
これらの野鳥たちにこの森で出会うかよその山で出会うか楽しみである。(英士)
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| 「野鳥探訪」No.2
「この森にはアカゲラガ多そうですね。午前中森に響くぐらい木を打ち続けているのはアオゲラで一回り体が大きい。おそらくこの森で2羽か3羽くらい住んでいるのでしょう。」野鳥の縄張りはなんと大きいのだろう。
今回の野鳥探訪で最大の成果はアカゲラを熟知したことである。アカゲラが森の高い繁みをめぐっている。こちらを観察しているのかもしれない。
大谷氏の話も見事である。静かな語り口は決して知識を押し付けたりひけらかしたりはしない。こちらが質問したら答えましょうというスタンス、思い出せないときは忘れていることを素直に表し、しばらくして思い出すと答えてくれる。
アカゲラで上を注目しているとミズナラの大木に地味な鳥がへばりついて上へ上へと登り始めた。「コゲラですよ」鳴きもせず我々のことを気にも留めずに虫を探しているようだ。鳴き声はギーと飛びながら鳴くという。シジュウカラと仲のよい鳥と書いてある。
森の小川にかかる木橋を渡ると木の間越しに自然の家の建物が見える。フィーフォーフィーと気持ちのよい声が聞こえた。姿は見えないがどうやら独りで鳴いている。大谷氏に「イカルではないでしょうか。」と恐る恐る尋ねる。「イカルかもしれないがイカルを見ていない。オオルリとも思える。」「三鳴鳥といわれるオオルリですか。」私の浅学のうちでもオオルリのコバルトブルーは確かに記憶に残っている。オオルリのメスらしきが高い梢にとまったのを大谷氏の望遠カメラがとらえた。やはりオオルリがいるのか。(英士)
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| 成田英士新連載 「野鳥探訪」No.1
春にしては異例の暑さとも言える四月下旬のある日、まんてん星に隣接する県営林に分け入った。先導役は名古屋から宿泊に来た大谷氏、P.P.Mのピーターのような口髭を生やしたもの静かな語り口の人物。
ツイピン、ツイピンと木漏れ日とともに聞こえる声がある。「シジュウカラです」と口髭氏。「カラの仲間は多いようですね。シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、ヤマガラ、ゴジュウカラ」私の知るのはシジュウカラとヤマガラのみ。
シジュウカラは白地に黒の洋ネクタイ、ヒガラはただのチョウネクタイという。先日のガイドクラブ研修山行ではゴジュウカラはクイークイーと鳴くことを知ったばかりだ。
森を100メートル進んだあたりでヒヨドリくらいの大きさの鳥が中上段で羽ばたいて黒い影を地面に残して飛び去った。「アカゲラです」キツともキョツともピーとも聞こえる鋭い鳴き声が特徴。「アカゲラ、コゲラ、アオゲラ、クマゲラ。日本に住む代表的な四種のキツツキの仲間です。」(英士)
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有機農業とは有機的思考を持った農業だと思っている。そもそも有機的でないものは農業とは呼べない。レタス畑はレタス工場になりかねない。
誰だって安全で新鮮で美味しい野菜が食べたい。そんなものは人間らしい実に短絡的なエゴイズムである。人はただ物を食べるのではない。その物にまつわる背景を、文化を食べる。農薬、化成は使わないはいいが、ビニールハウスにビニールマルチで、ガソリンを消費して都内まで運びきれいにビニール包装されたトマトを真冬に食べて美味しかった。これが果たして有機的かどうか。
端的にいって市場経済は巨大な無駄の体系である。それが合理化を叫び続けるのは滑稽ではないか。いいものを安く、は今でこそ技術革新があっていいが、そのうち人間の創造力が技術に追いつかなくなろう。そんなに合理的に生きたいならばそれこそ無駄に車に乗るな、道を作るな、草を食え。
この国の常識はいつも偽善的である。誰もが正義を愛している、、、と思っている。さんざ自然を壊しておきながら、立派な「自然ふれあいセンター」の類はあちこちある。開発されすぎてもはや歴史の面影はまったくないが「ふるさとパーク」なるものは実に充実している。「ふるさと自然破壊センター」がないのはまったく不思議だ。
とはいえこの文を書いているPCも、普段乗り回している車もなくてはならない。ペンション経営もまさしく合理化が叫ばれるべきだ、、、。人の世は常に矛盾に満ちている。そういえばこのHPも「自然とふれあおう」がテーマに近い。(賢二) |
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久しぶりに夜行車内泊日帰りの強行軍になった。川辺の街灯の下で就寝。向う岸は水が張られたばかりの水田であった。春の月をよく映していた。蛙の声を聞いていると母の郷里を思い出す。
四時半にはすでに明るく、五時に犬に吠えられ起床。登山口を見つけてから朝食となった。朝日が背後から差し込み、向かいの山々が浮かび上がる。川縁のわずかな緩斜に張り付いたようなこの村の空は狭いが、空虚さを感じさせない愛すべき空である。目指すS岳ははるか山の彼方にて見えない。
山を無心で歩けたらいい。山の風景に美はないと思っている。それは認識以前の調和である。山に対するあらゆる感情は風景にとっては異物である。無心で歩くとき人は確かに風景になっている。
一度でよいから存分に森で迷ってみたいと思う。地図も持たず磁石も持たず。未踏の原始林をあてどもなく彷徨う。しかし目的を持たぬなら人は迷わないだろう。目的を捨てる境地には程遠いようだ。
一箇所だけ雪のついた渡りがあった。ピッケルを持ってきてよかった。
稜線に出ると、繁殖期の雷鳥を見た。雷鳥の鳴き声を初めて聞いた。岩燕が凄い速さで飛び交っている。
山頂ではずっとぼんやりしていた。本当にぼんやりしていただけだ。なにかしようとは思うのだが、それにはあんまり山の雰囲気は無窮すぎた。(賢二) |
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久しぶりの単独行となった。
K岳の北を流れる沢にはかつて登山道がついていた。O峠まで車道が通じた結果、踏跡は絶えて久しい。昭和30年代から切り開かれたらしい古い林道にはハンノキやらダケカンバやらが森を作りはじめていた。
東沢を合わせたところで、雪解け水は小さな中洲を縁どっている。石つたいに渉ると鳥たちがいっせいに飛び立った。上流には滝が見える。空はかすんでいる。雲は眠ったように流れている。
現象は無限にあると思う。そしてそれに与えうる表現も。表現しがたい不思議な想いにとらわれるのはこんなときである。いくつもの倒木をくぐり、小さな滝の泡沫を眺め、不意に流れが大きく弧を描いた。
川が流れる。一粒一粒の水は流れざるをえなかったように思う。しかし川はみずから「流れる」。静止している水を見たものはいないのである。
K岳頂上は北面の展望には恵まれていないが、山頂直下にて北面は大きく開けていた。見渡す山々のほとんどすべてに足跡を残してきたはずであるが、この角度における展望ははじめてであった。
頂上に出て唐突に富士を仰いだ。山の先輩J氏は本日富士で高所トレーニング中である。J氏のこと、J氏の目指す北米最高峰を想いながら熟睡してしまった。
主稜線をしばらく東へ歩いた後藪尾根を勇んで下った。突然やけにはっきりした踏跡を見つけてびっくりした。獣道だった。彼らにとって沢から沢へ越える主要道だと想われた。もはや足跡などつかぬほどに踏み固められており、今にも鹿の群れが走ってきそうなほどであった。たどってみようとしたがやめにした。(賢二) |
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| ある一日のこと |
雪解けの林道を走っていた。轍が深まり、陽だまりは沼のようになっている。もうしばらく車を返す場所を探していたが、斜面を削り取って固めただけの道であるため、安心できるところがなかなか見つからなかった。不意に落石を避けて山側へハンドルを切ったとき、車体の腹部は道の凸部にすっかり乗り上げ、車輪は虚しく泥を跳ね上げるばかりになった。
近頃はあまり物事を急がなくなった。それは山が教えてくれたものと自分では解釈している。往々にして、急いだところで大切な見るべきものを見落とした。あるいはなにものも見落とすまじと気負ったところで、一抹の思慮の断片とて得られぬこともあった。むしろまったく予想外の窮地に陥ったときに一層、自己の存在感や自然の営為の強さといったものが確かなものとなって迫ってくるのだった。
数キロ四方に民家を見ない山中でのことだった。人のほとんど入らぬ小さな沢を溯行しようと思って、思いがけず地図にも載らない朽ちかかった林道に吸い込まれていったのだった。「迷えば一本」の山の掟にしたがって、陽だまりの土手で横になった。目指す山並みは遙か霞んでいる。小鳥が戯れている。かたくつぼんだ草の芽がわずかに頭をもたげている。障害となった落石は音も無くたたずんでいる。それは美しい景色ではなかった。しかし忘れ去られた人工物を覆いつつむように在りつづけるこれらの光景に、ひとつの詩の世界に紛れ込んだ想いがした。しばし見惚れていた。
窮地に陥ったときはいつも、同じようなことが頭に浮かぶらしい。自分がこんなにも行き詰まっているときにいったいあの人たちは何をしているだろうか。普段まったく記憶に現れぬような幼い頃の出来事や、名前も忘れてしまったような知人の顔が思い当たるのもこんなときである。状況はかなり悪かった。手元にあるのは非常用のジャッキだけだった。ピッケルでわずかづつ土を削り、枯木や潅木を集めてはタイヤの下に敷いたが擦りあげるばかりで一向に効かなかった。やむおえずかなり歩いて古い飯場らしき残骸を見つけ、錆びたトタンの破片を運んだ。こんなにも夢中になって仕事をしたのは久しぶりだった。
ようやく脱出したときにはすでに日が傾き始めていた。驚くほどの満足感と心地よい疲労感だった。道具さえあればというやるせなさとともに、それによって思いがけぬ充実した時間を味わっていた。一日損したという気分を感じないのがうれしかった。少し先で車を返し、今日一日を過ごしたこの何気ない場所を改めて眺めてみた。懸命に泥と格闘した人間を忘れたようにその場所はただ夕日を受けている。しかし今日という一日において、確かにその人間がひとつの風景に溶け込んでいたような気がしてならない。(賢二) |
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| 2月13日 |
| 天女山から入る。天ノ河原からは踏跡なく苦しむ。雪は例年よりは少ないがやや重いか。快晴の空を反映して幾分青味がかかっている。前三ツからは強風。千切れ雲がすごい速さで飛んでゆく。三ツ頭でようやく雪が締まってくる。赤岳が美しい。権現沢は雪のためさらに彫が深くなったように見える。最後の登りで一ヶ所だけ吹きだまりの嫌なトラバース。山頂はさらに強風。先へ行きたいが今日は日帰り日程のため引き返す。鹿の足跡を追いかけながらのんびり下った。風のあたらぬ陽だまりでは少し昼寝もできた。見慣れた山並みを、牧場を、街をじっくりと眺めた。(賢二) |
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| 2月8日 |
まんてん星にとって本当に大切だった方が先日、亡くなられました。祖母や父母はもとより、僕たち兄弟のことも小さい頃から可愛がってくれた方でした。最後に清里に来られたのは昨年の秋でした。冗談のように御自身の死について語っておられたことが思い出されます。あるいはそれを予感されていたのかもしれません。それほどに何事においても折り目の正しい高潔な方でした。
どうか安らかにお眠り下さい。 (まんてん星) |
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| 続き |
歩き始めたら落ちたことなど早くも忘れた。ストックの先端柄を失くして行きつ戻りつしていたら猪の親子が目の前を横切った。首ばかり太くて前のめりに歩いて行くのがいかにも愚鈍に見えたので、ピッケルを手に後を追わんとしたが辺りの地面が連中によってきれいに開墾されているので恐れをなした。無風快晴随分暑いので水ばかり飲んでいたら冬だからと思って一本しか持たなかったので早くもなくなった。先は長いと思って仕方なくコンロを出して雪を溶かしていたら確か春鳴くような奴が勘違いして盛んに呼んでいる。とぼけたのもいたもんだ、はてあいつはなんて名だったかと思ってポケット図鑑を引っ張り出したはいいが、野鳥図鑑なんてのはツピーツピーとかケキョケキョとかカタカナで書いてあるもんだからいつ見てもさっぱり分からぬ。おまけにこっちは眼が悪いから腹の模様など見えたものではない。そうして毎度結局あいつは詩人Aだとか中嶋さんだとかガチャガチャ太郎だとかに落ち着く。彼氏の名も考えてやらねばなるまい。
相当歩いたが右も左もあんまり単調な植林が続くのでいよいよ嫌になって久しぶりに出会った天カラの根元で大分休んだ。人間というのは実に飽きることに長けている。願わくば読み切った本やありふれた日常にも、その一文一動作が新たなる発見に満ち溢れていたらと思うが、残念ながら我らの頭脳は情報を集めては切り取ってゴミ箱に投げ込むことしかできぬらしい。とまれ人々はそれこそが文明の本質であると反論するだろう。しかしながら人と情報の立場が逆転し、スイカのてっぺんだけつまみ食いしてゆくような現代の風潮に足をすくわれるくらいなら理性なぞ名もない山に捨てちまおうかとも思うのである。実際そんな風にして言葉になる以前の感情で直接胸に響いてくるような経験を何度かしたことがある。しかしそういった感情は当然ながら狙っては見つからぬ。見つかっては忘れる。
少し歩き出したら日が赤くなってきた。目指す三国峠が遙か先に見える。あきらめて梓山へ向かって尾根を下った。ところがこいつがひどかった。身長を越す笹薮に腐った雪が載っていた。北岳の肩に日が沈み、飛んでいる雲だけが真っ赤に染まっている。すっかり暮れた扇平山から猛スピードで適当に下ったら地図にない林道の側壁から落ちそうになった。林道から下は川上村の松茸林、塵ひとつ見えぬ赤松の純林ですがこいつは本当は入るとひどく怒られますからご注意下さい。レタス畑に降り立って、携帯がないので民家で電話を借りたらおばあさんが親切な方でお茶をご馳走してくれた。このおばあさんは川上生まれの川上育ちで昔のことを愉快に語ってくれてそのことも書きたいのだがまぶたが重いので後日、、、。(賢二) |
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| 1月28日 |
ようやく雪が積もったのが随分うれしくて、この間新しく買ったスノーシューを試してみんと思って、近くで雪がたくさん着いていそうな、それでいて未だ歩いたことのない尾根を探した。そしたら昨年中にやり遂げようと思ってできず終わった川上の三国峠、御陵山の間にけりをつけて川上全周を完成させたらばさぞ気分が良かろうと思って早速国道を飛ばした。川上に入ると快晴の空に男山は相変わらず雄々しくて、ばあさんならば気味の悪い声で歌いだすところだなあとおかしかった。馬越峠まで入ると車の回収が危ぶまれたが一人だから後先なぞ考えるなと己に言い聞かして勝手にゲートを開けてずんずん進んでいった。そしたら上からも一台猟師風なのが降りてきてすれ違いざま運転手が何か言おうとしたが、捕まっては面倒なのでサングラスにアクセルを吹かして昔大弛で出会った林道暴走族のふりをして逃げだした。ライトバンの暴走族もちと珍しいかなと思った。
新雪の中新品のスノーシューを装着して我ながら颯爽と歩き出したはいいが、この新兵器はパタパタと乾いた雪を撒き散らすばかりで要領を得なかった。店頭では随分格好よく見えたものだが、実戦になるとそいつがひどく鈍重なものに思えてきたので仕方なしザックに縛り付けた。巨大送電線の下をくぐって御陵山に飛び乗るとちょうどそこから天狗にかけての尾根上できれいに雲が切れているのを知った。自分が雲を操っているようにも思えて実に面白く、送電線に縄かけて御座山の方までターザンみたいに滑ってやろうかと思った。そしたらば雲を後を追いかけてくるだろうか。
大門峠へ向けて歩き出したがこの間にある1783m地点にて実に貴重というべき体験をした。いつかはこうなることを知ってはいたがいざなってみると実に開いた口がふさがらぬとはこのことだ。
てっぺんにたどり着いてあたりを窺うと遙か眼下において峠の下にトンネルを掘っている連中が見えた。どうせ聞こえぬと思って悪態ついてから下ろうとすれば、またえらく岩が痩せているのでいったん巻いてから再び岩に乗ろうとした。そこにはちょうどうるさいぐあいに松の枝が張り出しており、そいつを力で押しまげて一歩を踏み出したらいきなり折れやがった。バランス崩したときにはすでに時遅く、おまけに次の一歩が雪でスリップ、あっという間に前方の石楠花の中へ前のめりに飛び込んだ。
最初に思ったのは右膝が少し痛むが他はなんともないようなので安心した。約4m、一回転してザックから落ちたから青い空が良く見えた。不覚にも膝の辺りがすこし震えていた。しばらくそのままで随分感慨が深かった。とうとう落ちた。これがアルプスだったらまさしくおれは死んでいた。そろそろおれの山狂いも廃業かなとも思ったりした。しかし死んだら死んだことには気づかぬし、はなから半分死ぬのを覚悟で山に来てるのだから別段驚くにはあたらぬわと思って、わけの分からぬ鼻歌を歌いながらそこを脱出した。もっともこれはその後に考え出した負け惜しみかも知れぬ。とにかくそのときは空も山も工事の音もひどく虚ろに思えていた。
しばらくわざと無心になってぼんやり口を開いていたが、やっぱりおれはおれなのだと思い直して再び歩き出した。膝が痛むので見たら大分赤く滲んでいたが放っておいた。痛いとかなんとかの気持ちなどまったく忘れてしまったようだった。 (次回に続く)(賢二) |
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| 1月20日 |
ある不思議の念にとらわれて山野を彷徨している。それはルリビタキが飛び立った後の枝の揺れぐあいのような、今こうしているうちにも時を向かえて倒れゆくシラビソの巨木のような、私の知りえぬすべての事象についてである。
羚羊は珍しく人を恐れない動物である。ある沢の出会いで、雄の羚羊に遭遇したことがあった。流れの音にさえぎられ、対岸の藪の中で動いている互いの存在に気づいた時にはすでに驚くほどの近さだった。それはほとんど同時だったように思う。そして彼も私も一歩だけ後ずさりをした。私たちはともに山を旅する小さな生きもの同士だった。同じだけの恐怖と、同じだけの興味を抱いて。
迷中の尾根で、朽ちた倒木から石楠花の幼生がいっせいに実生しているのを見た。彼らはみな一様に首をかしげるようだった。光を遮っていた雲が通り過ぎると、木漏れ日が彼らの傾きに沿って差し込んだ。倒木の上は舞台のようだった。
厳冬の夜、あまりの静けさに目を覚ました。無数に舞い降りる雪の結晶が私の眠るテントに降り積もっていた。なんだか暖かいので払い落とさずにいた。雪に埋まっている自分が思われておかしかった。時の流れが信じられなかった。
車のバックミラーに、今降りてきたばかりの山の姿が写っている。あの尾根も、あの谷も、さっきは頂上から見ていた。けれど今の私にはそれが夢だったように思える。私は知らない。山のことをほとんど知らない。しかしなぜか山は、私のことを知っている。そんな気がする。
雲が厚くなってきた。今晩は雪になるだろう。(賢二) |
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| 1月15日 |
山仕事の手伝いで数日間、間伐や薪割りをしていた。仕事を終えた日の夜中、急に歯が痛んで眠れなかった。次の日歯医者に行くと早速削られた。力任せに薪を割り続けたのがいけなかった。それから一週間歯痛のために塗炭の苦しみを味わうことになった。歯痛は炎症を呼び微熱が続いた。食欲がなくなり、ぼんやりした意識の中、胃が空のままに歯痛の痛み止めを飲んだら、今度は猛烈に腹が痛んだ。冷汗があふれ、呼吸に苦しむ段になってさすがに参ってしまい、深夜に病院に担ぎこまれることになった。ところがこの緊急入院が一番いけなかった。医者は急性のなんとか炎かもしれぬと言って鼻に管を入れた。何しろ恥ずかしながら初めての経験でものすごくむせた。だいたい腹は空なのだから胃液が少し出ただけだった。驚くべきは21の頑健な若者に一晩で点滴が4本!!も注入された。朝になったら腹痛はどこかに消え、歯痛だけが残った。管は抜くときもひどくむせた。それから五つの検査をして、さらに看護婦は五本目の点滴をつけようとするから勘弁してくれといった。口論しているうちに医者が来て、異常ないから帰れと言われた。クライマックスは精算のときに訪れた。請求書には2万4千円とあった。ベット代には保険は効かぬのかと尋ねれば、効いてでこの値段だそうな。レントゲン一枚3千円、点滴は一本4千円、二日扱いになり、深夜料金もついた。飲みもせぬ薬代もついた。結局一泊二日で8万!!近くなった。食べたのはお粥一杯だけ。実にありがたい福祉国家様様である。われわれ宿泊業がひとり7千円もらうのにどれだけ苦労するかかのK病院は知っていようか?今後は、腹が裂けても、足がもげても病院には行くまいと胸に誓った。だけども明日は歯医者の日だ。人間の弱さよ。
精算の際、懸命にくいさがる母の姿には胸が痛んだ。後で返そうとしたがどうしても受け取らなかった。母へ、今後ともよろしく。(賢二) |
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| 1月4日 |
新年初山行は九時半廻目平から始まった。快晴。雪少なく風穏やか。小川山登山道は人の踏跡なく獣の足跡があちこちを歩き回っている。
十二時十分に小川山山頂より信州峠を目指して道無き県境尾根へ入った。尾根上倒木の根元付近、日光を求めて石楠花が密生している。常緑で堅く、無数の這枝を張り巡らせるこの密林にいったん入るならば体力の消耗は必至である。山梨側は斜面がとぼけており、南斜なので藪が若干濃い。信州側の急斜をなぞりながら歩く。
コメツガの巨木の根元で休む。目の前の倒木はさらに太い。その脇には円柱状に注ぐ日光を浴びていくつかの幼木がいっせいに上を目指している。遙かなる森の営みには胸がつまる。
松ネッコ付近やや地形難読か。獣道乱れる。尾根歩きというよりも、分水嶺をなぞるという意識がよいだろう。かたや太平洋へ、かたや日本海へ。
遠くばかりを眺めようとすると、眼前の枝を忘れる。眼を突かれてしばしうずくまる。猟師の鉄砲が聞こえるとさすがに気分がよくない。真っ赤なザックカバーで、笛を吹きながらゆく。地上での苦闘をよそに空はどこまでも青い。
1915から南へ下る。展望良く、瑞牆の岩壁が手に取るよう。いずれ瑞牆の西尾根もやらねばなるまい。萱ダワのやや手前から山梨側は雑木林になった。ミズナラやミズキが懐かしく思えた。林道に出て三時をだいぶ回った。信州峠までは二時間はかかろうか。あきらめて南沢へ下った。(賢二) |
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| 12月23日 |
年賀状の宛名書きを逃げ出したのが十一時。こんなときは増富方面へ向かうのが定石であり、あのあたりまで行けばたいてい登りたい山に出会うことができる。途中ぴかぴかで薄っぺらのベニヤに五里山入口と書いて電柱にかけてあった。名前とだいたいの場所は知っているが行ったことはない。
沢沿いを歩き始めてしばらくするとテープはなくなり薄く雪をかぶった踏み跡だけになった。地図を持ってこなかったので、鹿らしき足跡をたどっていったが、それも途中で見失い、適当に登っていくとピークに着いた。例の同じ看板で向山とある。またまた尾根らしきを適当に下ってなんとか平とでも言いそうなところに出た。立派なモミがあった。一見百五十年は下るまい。ザックを捨てて登ってゆくとこれが相当に高い。樹冠まで三メートルというところで主幹が分かれていたのであきらめた。東のほうに顕著なところが見え隠れするのであそこまで行ってみよう。奇岩を右手にかわしてしばらく行くと五里山に出る。五里山というのは複数の山群を言うらしいがここには例の看板がかかっていた。さらに東にもここより高そうなところがあったので行ってみた。展望良く千代の吹上が圧倒する。下りもまたでたらめに間伐帯を行った。
帰ってみて地図をよく眺めたが、実見と地形図は照合できなかった。結局どこへ行ったのやらいまいちわからないままだ。(賢二) |
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| 12月16日 |
快晴。十二月とは思えぬ暖かさ。午後のお歳暮作りから逃げ出して信州峠へ向かう。(今年のお歳暮は赤カブ漬け、花豆甘納豆、今年初めて作った注目野菜ヤーコンなどでした。)信州峠は、清里がまだ未開の原野だった頃甲斐の国から佐久へ抜ける重要な峠だった。小海線、141号開通後は旧道となったが、近年になりほぼ舗装化された。人々が荷を背負い、馬に揺られて峠を越えた往時がしのばれる。当時のこの小さな峠に立ち、人々は何を思ったろう。
雑木林を登って横尾山にとりつく。草原に出ると展望は申し分ない。小ピークをいくつか越えて山頂。今日は浅間も見える。さらに進めば豆腐岩に至る。岩上には凍結破砕作用によってできたと思われる不思議な侵食の跡。木賊の頭は展望良し。直進すればスキー場の真上に出る。引き返して下りきったところが木賊の大ダル。いくつか登り返して槍。瑞牆、金峰の展望台としてここに勝るところはないだろうと思われる。下って三ッ沢の大ダルは尾根広く踏み跡薄く、南の尾根へ迷い込みやすい。丸山(三ッ沢の頭)付近で樫山峠への道を分ける。このあたりから県境沿いに金網が張られている。何回か登り返せばどんどん飯盛山が近くなる。残照烈風の頂上に着いたのが三時半。平沢へ下りる。母に迎えに来てもらった。(賢二) |
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| 12月10日 |
ふと顔をあげると、まったく見知らぬ山並みがそこにある。驚いて本来そこに見えるべき稜線を思い出すならば、それは山の向う側からのっそりと這い上がってきた雲の連なりであることに気がつくだろう。僕はいつの日も想う。かっちりと引き締まった岩稜に、リズムよく手足をかけてゆくような調子で雲の峰に迫ってゆくことができたなら、どんなにか新しい幸福を感じるだろう。そして雲は刻々と形を変えながら移動してゆく。ひとひらの高積雲とともに尾根を離れ、付近の雲を転々と渡り歩き、真っ白な入道雲に足場を切りながら攀じゆく。小さな鞍部には駒草が首をゆすっているだろうし、ゆったりと眼下を旅行くレンズ雲はいまだ人に知られない原生林を乗せているだろう。無限に連なる景色は、あるいは僕が哀しくも育んできた心を吸いとってしまうかもしれない。頂を極めたときには、いったいどんな風が吹いているだろう?
すべての山には頂上がある。頂上は空に接している。空には頂上がない!!
頂を恋焦れるような、拝み奉るような、あるいはすこしだけ厭いたいような、そんな人の心を、山はいささかも気にかけない。山は僕たちの知り得ない時の流れによって、骨身を削られ、ときに鼓動を高めるだろう。そして今日もまた、切り立った岩稜に、小鳥の鳴き声に、森の静けさに想いを馳せた人たちが、山肌を見つめながらゆっくりと登っていく。たとえ僕たちの生が瞬間の出来事だったとしても、見よこの足跡は永遠の記憶に他ならない。(賢二) |
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| 12月3日 |
| 徳和の乾徳山登山口についたのは六時半を少し回ったところだった。徳和川を左手に林道を歩き出した。今日はかなりの距離を歩くことになるはずだった。もっと奥まで車を入れることはできたが、車高の低い乗用車に雨上がりの悪路を進ませることは気が引けた。やがて左手に西奥山窪を分け、さらにすすめば林道は途絶え、淡い踏み跡をたどる。水量はやはり多く途中片足を濡らすことになった。枝沢をいくつか分けると笹薮に入り、急登になって少し苦労することになった。大ダオで最初の休憩。快晴の空に富士が霞んでいる。乾徳山の後姿が見える。緩やかな尾根歩きとなり、半分走りながら歩いた。トサカを経てゴトメキの分岐で左手に遠見山、烏ノ尾根を分ける。やや下って白檜平には立派な林道がついている。奥千丈を越えたあたりでようやく雪に出会った。12月とは思えぬ暖かさが眠気を誘ったが先を急いだ。北奥千丈山頂は風は強いが雪は浅かった。国師まで足を伸ばしてから往路を戻った。大ダオに着いたのが二時半。黒金、乾徳も歩けそうだったが、眠気には勝てず気がついたら薄暗くなっていた。沢に出るとさらに暗く、両足が水につかったのでやけになって水の中を歩いた。車に戻ると後始末に苦労した。(賢二) |
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| 11月22日 |
まんてん星は東側が島崎牧場の牧草地で大きく開けている。見渡せば正面に飯盛山がたおやかなピークをつくり、同じ尾根の右側に虎刈り模様の丸山がある。そのもうひとつ向こうから瑞牆山がこちらを眺めていて、さらに一段向こう最奥で金峰山が霊岩五丈岩も凛々しく構えている。このいつも見ている山というのが曲者である。
朝起きる。玄関をでて伸びをしながら向かいの山を眺めて今日の天気をうかがう。お客さんに聞かれればここぞとばかりに浅学をひけらかす。愛するものに自己の感情を投影するのは人間のよくやる手である。
たとえばオーナーは毎朝にわとりや犬と話をしている。誰も起きていなくてもいつも独りであれをやっていると思うと不気味だ。おばあさんに至っては野菜の顔をみて心が通じあうまでは半人前だと訓戒をたれる。豆にも菜っ葉にも土にまでも顔があるらしい。
ところがである。金峰山はこっちを見ている。瑞牆山には顔がある。これはやはりそう思うものにとっては真実なのである。ことに金峰山には五丈岩が乗っており、これが清里中どこへ行ってもよく見える。それは頼もしくもあり、なんだか悪いことはできないなといった心境にさせる。間違いなくあの岩はこっちを見ている。
こっちから向こうが見えるということは、向こうからこっちが見えるということだ。五丈岩のてっぺんからまんてん星を見つけてやればこのじれったいような気持ちも少しは治まろうか。それにはまず快晴の一日が必要である。それから少しばかり有能な双眼鏡が。
その良き日がとうとう明日訪れることになった。山頂をいったん白くした雪は消えてしまった。列島は一日高気圧に覆われる。水晶峠を経由するクラシックなルートを選んだ。甲府方面からのいにしえの信仰登山の道である。これは正しく巡礼に他ならない。
巡礼らしく朝まだきから歩き出さんと思いきや、寝過ごして日が昇ってから林道をとぼとぼやりはじめた。地図よりもはるか先まで林道は続いていた。造林記念碑を経て広大なカラマツの植林帯へ入った。峠を越えて御堂ミコノ沢で給水し、原生林への中の水晶峠を抜けると御堂沢沿いに御室小屋に至る。今は利用者が少なくなったようであちこち荒れている。奇岩が立ち並ぶ尾根に取り付くとその最奥に五丈岩が見える。富士が怖いほどに美しかった。振り向くとその美しさが壊れてしまいそうで、ひたすら前をみて登った。十一月下旬とは思えぬ陽気だった。汗を流してハイマツをくぐり抜けると五丈岩の根元に出た。
快晴だった。八ツ、南アはもちろん木曾、北ア、浅間の煙も見えた。東には遥かに奥秩父が連なっている。富士はほとんど美しさが極まっているように思えた。かの岩に登って早速わがまんてん星を探した。かなり小さいが双眼鏡など無くとも肉眼でもはっきりと確認できた。赤い屋根がよく見えた。あそこからこちらを見ている自分が見えるようだった。そしてまた明日になればそうしているだろう。それでいいのだ、それでいいのだとなんだか強く思えてくるのだった。帰路初めて山に手を合わせている自分に気がついた。(賢二) |
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| 11月15日 |
十時過ぎ毛木平に車を置いて歩き出した。昨日は少し雨が降った。上は雪だったかも知れない。源流の方は先日歩いたので十文字峠に向かった。五里観音を後にして八丁坂をのんびり登った。去年来たときは薪のボッカがあったが、今年はなかった。坂の頭付近からは霧に包まれており、峠に近づくにつれ凝結して針葉樹の葉の上で今しも雪に変わるようだった。
峠は静寂の中で小屋の煙突から少し煙が昇っていた。薪を背負っていたならば堂々と小屋の戸もたたけようが、手ぶらでは迷惑となるばかりだろう。展望も望めぬようなので甲武信はやめて三国尾根に道をとった。所々石楠花が花芽をつけていた。来年の梅雨時にはまた登山者を慰めてくれるだろう。霧には石楠花がよく似合う。
十文字山を越えると小ピークをいくつか経て弁慶岩に至る。その向こうには梓白岩。左手の指を痛めてはいたが登らずにはおれなかった。弁慶岩の上で弁当をつかった。尾根上に突然現れるこの岩は大分脆くなってきている。長い年月をかけて現在に至ったのだろうが、その上で今握り飯を噛んでいると思えばなんともおかしい。けれどもそれはどの山にしてもそうであろうし、無論里でも都会のビルの屋上にしても同じことには違いない。あらゆる場所において今という時が一直線にならんでいる。そして今において起こることに我々は当然だとか偶然だとか言い争うが、それこそ当然に今とは違う「今」がこの場所で存在すると考えられる。可能性は未来において、そして過去においても無限に広がっているように思える。
脱線した。武州側が若干見えた。遠く霞んでいるのは両神山だろうか。いずれはこの尾根をつたってあそこまで行きたいものだ。新三国峠から、林道を嫌って植林帯から二本木沢を駆け下った。途中藪になり、日も暮れかかった。片足を沢に突っ込み、やっと車道に出た。車に戻ったころには日はとっぷり暮れていた。(賢二) |
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| 10月20日 「釜無川と鋸岳」 |
北巨摩に生まれ育った人間にとっては、実は赤岳よりも甲斐駒ヶ岳の方が馴染みがあるのかもしれない。広大な八ヶ岳の裾野に暮らせば判ることではあるが、天女山や牛首山といった前衛の山に阻まれて、赤岳や権現はどこでも眺め得る山ではないのである。そして大抵の人々はいつも南の方を向いて生活している。職場もショッピングセンターも甲府盆地へ近づくほどに大きくなる。20号にしても141号にしても中央線にしても、もっとも存在感を示すのは甲斐駒ヶ岳なのである。
そんな甲斐駒から右へ目を移せば、若干標高は落とすものの、ギザギザとした稜線が天にかじりつこうとしている。これらのピーク群を総称して鋸岳と呼び、南ア随一の険悪な岩場として名高い。壮年期を過ぎもはや老いるのみの山容は崩落が激しく、尾根は痩せこけ、なにか悲壮感すら漂っている。昨年は甲斐駒より第二高点を越え、大ギャップまでいったところでやむなく引き返した。単独でしかも山は晩秋であり雪が舞っていたのをよく覚えている。
かつて毎年のように氾濫を繰り返す釜無川を鎮めるために武田信玄は工夫を凝らした堤防を作ったという。その釜無川の源頭はこの鋸岳の北面に突き上げる。現在はこの沢の奥深くまで砂防ダム建設の工事が入っており、この道を利用して横岳峠へ出れば昨年のルートよりは大分労少なくして第一高点に立つことができる。しかしそのためには工事のために設けられたゲートから林道を延々三時間四十分歩かなければならない。夜明けと共に歩き始めたが、やがて工事車両が次々と砂塵を巻き上げて追い越していった。この谷はかつて見た中で最も哀れな谷である。巨大な鉄筋砂防ダムが約十体、壁は塗り固められ小さな沢はつぶされ、ダンプカーが往来していた。二度とこの道は歩くまいと思った。登山路にはいりエンジン音が聞こえなくなると急に元気が出てきた。沢から離れると急登になり、ダケカンバを抜けてひょっこり横岳峠へ出る。仙丈のカールがよく見え、北岳が雲に隠れようとしていた。針葉樹の所々にたたずむナナカマドの赤が眼に沁みた。やがて三角点ピークに立つと目指す第一高点が見えた。ついに来たかと一服し、コケモモの実をいくつか口に放り込んだ。岩場はさすがに険悪であるが、風が吹きっさらしの長野県側から樹林のある山梨県側へ吹いていたので助かった。ガレ沢の突き上げをいくつか越えて、頂上へたどり着いた。甲斐駒の白い肌が心から美しいと思った。山頂の岩を撫でていると緊張は薄れ、鋸と名付けられた山にも不思議と親しみがわいてくるのだった。
追記 帰りも工事道を行くと思うとうんざりしたが、親切な工事の方が乗せてくれた。複雑な心境だったが、三時間この道を歩くのはさすがにつらかった。その方は十社以上ある請負の中の現場監督のひとりだということで、いろいろなことを教えて下さった。この工事が国の発注であること、北海道から大勢の出稼ぎ労働者が来ていること、五十年も続く工事で崩落と復旧を繰り返していること、現場の人間でさえも大小何十体ものダムの必要を疑問に思っていること、、、。
公共事業の必要性はわかる。住人にも業者にもそれは必要である。しかし本来仕事とは何なのか。仕事のための仕事によって無惨にも切り開かれるものはどうなるのか。平常な人間であるならば故郷の山河の美しい景観を守りたいと思うのが当然ではないのか。人間同士が分かり合えないということは実に悲しいことではある。(賢二) |
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| 10月16日 「鞍掛山とカラマツ林」 |
山梨百名山日向山は北面を風食された花崗岩に覆われた異貌の山として有名であるが、同じ稜線上甲斐駒を目指して西へひた歩くとちょうど馬の背中に乗りかかったような鞍掛山がある。ここまで来るとだいぶ静かであり、鞍掛沢に流れ落ちる水の音が遙かに聞こえてくる。鋸岳へ向かってさらに歩を進めると大岩山というピークに至るのであるが、この間今ではあまり見かけなくなったカラマツの原生的な林の中をくぐり抜けて行く。この尾根をたどって甲斐駒へ向かうルートがかつて存在していたことを知り今日はその下見に来たのであるが、あいにく同じ稜線を通ってぼんやりとした雲が里へ下りて行くところだった。八丁尾根をたどる道を確かめたところで引き返して、カラマツ林の奥深いところに入り込むと、最も年をとったようなのを探してその根元で飯を食べていた。耳を澄まして遠くの滝の音をたどっていると、時に哀しい鹿の鳴き声が聞こえてくるのだった。あたりを五色に染め上げているであろう風景は見えはしない。その見えはしない絢爛のただ中でひとり佇んでいるというイメージは、我ながら美しく愉快なものに思えた。弁当をしまい、立ち上がって歩き出そうとするその時だった。上空の雲が流れ、突如として日が射し込み、あたりがいっせいに明るくなった。あたりは未だ霧に包まれているのだが、その光は燃えるようなカラマツの葉を照らしだし、水蒸気に反射して、実に表現しがたい不思議な雰囲気になった。そしてゆるやかな風が吹き込むと、無数の葉がきらきらと光りながら、くるくると回転しながら地面へ落ちて行くのだった。
うちへ帰るとポケットに葉がたまっていた。何とはなしに集めたそれを放りなげた。哀しい鹿の声が思い出されるのだった。(賢二) |
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| 10月8日 「おばあさんときのこ」 |
おばあさんときのこの関係を知るお客さんは多いと思う。おばあさんはきのこを心から愛している。
ご存知の通りまんてん星の北面は県営の森林となっている。三十数年前おばあさんは開拓間もない時代の清里に移り住んだ。まだ141号が砂利道だったというからひと昔前の話だ。東京に長く暮らしていたため山のことなど知る由もなかった。秋になると下の牧場のおばあさんが裏山にかごをしょって入って行く。それを見たうちのおばあさんがこっそり後をつけると、かごには沢山のきのこが。年上だったそのおばあさんの足腰が弱まるとまんてん星おばあさんの時代が始まった。清里中を駆け回り、果ては松茸を求めて牛首山まで行ったこともあると言うから驚く。(おばあさんは表現が極端な時があるので素直には信じがたい。)
ところがである。今年はきのこが出ないのだ。やはり気候の影響だと思われる。(きのこも三十年毎年同じ婆さんに採られるので嫌になったのかも知れぬ。)広く歩き回ってよく探せばあるのだが、おばあさんはさすがに近年機動力がなくなってきている。毎日のように手ぶらで帰り、ついには山に入ることすらなくなった。おばあさんの嘆きは深く、さすがにかわいそうになってきた。
そんなわけで今日はきのこ遠征に出かけた。目指すはおばあさんにとって山菜の聖地である男山。往年には、日が沈むまでタラの芽を採り歩いたという思い出の場所である。おばあさんはなぜかほっかぶりで手ぬぐいをかぶった。よその土地だからということらしい。よけい怪しいと僕が言ったがやめなかった。
きのこにはいろんな種類があるが、おばあさんにとって見るべき所はただ一点、食えるか食えぬかである。名前なんかどっちだっていいのだ。きのこは不思議な生き物で、日当たり、傾斜、樹種、土質、時間など実に微妙な関係の中で生活している。おばあさんはさすがに経験からきのこの住みかを見つけだした。ほっかぶりでいつもより素早く歩くその様がおかしかった。僕の方があちこち動き回るのだが、おばあさんより収穫は少なかった。地面を這って落ち葉をめくっているおばあさんを見ていると、とても楽しそうだった。そういえばおばあさんときのこはよく似た格好をしていると思った。きのこは晩の味噌汁になった。(賢二) |
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| 10月4日 「北八ッ彷徨」 |
紅葉が山を下り始めている。春には新緑を追いかけるようにして山に入った。あの頃山へ萌え上がっていった若芽が、今は枝を離れようとしている。
自分でも少しおかしいのではないかと思うほどに、いつの間にか山が好きになってしまった。一時期自分の存在というものが非常に稀薄に感じられる時があった。山に登り始めたのもその頃だったように思う。悠久の時をかけて彫刻されてゆく山の姿を見ていると、存在というものが真に胸に響いてくるような気がしていた。そして自分の生に対するもどかしさが、哀しくも又いとおしいものに思えてくるのだった。あの頃、山に登ることは自分自身に登ることだったのかもしれない。
秋の空はどこまでも突きぬけてしまったような深い色をしている。その空を縁取る稜線があまりに鮮やかで、雲が近づきかねているように見えた。山は確かに僕を呼んでいるのだ。地図を引っぱり出し、気がついたら藪をかき分け、沢を渡ろうとしていた。やがて原生林へ入る。原生林を支配するのは、静寂ではなく、調和である。巨木の根元に腰を下ろし、見上げた幹の行方をたどる。苔を撫でながら、鼓動に耳を澄ましていた。なにを考えていたのか、あるいはなにも考えていなかったのか。絶えず自分自身であり続けることは難しいと思う。時にこうして深い森に佇んで、木漏れ日に照らし出されていたくなるのだ。つづく(賢二) |
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| 9月24日 「赤かぶ」 |
夏の繁忙期が終わる頃ホットしていると、そろそろ赤かぶの種をまくぞォと近所のヤスオ君から声がかかる。そうだ。ジャガイモの収穫した跡地を直ちに耕起して、赤かぶの種をまくことが決まっていたっけ。
話を戻すと、今年のようやく冬越しをしたかなと思う頃、私を含めて非農家の3人が農家のヤスオ君を巻き込んで赤かぶをつくり、にわかの漬物やをしようかなという気になっていたのである。
この赤かぶの本名は「仙台赤かぶ」という。お仲間の一人佐藤氏が青森の出身者で、昔から冬の食材としてたしなんで来たこと、このかぶを東北に似た冷涼な清里でつくり、紅赤色の鮮やかな口にさっぱりとした甘い酢漬けの漬物に仕立てたいと発願したことに始まる。
畑づくりは3人にとって決して素人といえない。
例の佐藤氏はキャビンを3棟所有し貸別荘業をするかたわら、染織家の奥さんのためにベニ花を栽培し、サクラの花を膨大に集める野外活動を旺盛にして来た経験をもつ。
もうひとりの久保氏は脱サラ農家志望のパターンで清里に移住し、小さな学習塾と翻訳業を営みながら、けっこう広い面積を耕作して多種な野菜をつくり消費者との直販も手がける活動家である。
もちろん私はまんてん星のホームページにしっかりと掲載してあるように、農業ペンションの経営者であります。
要するに半農半業という公約数をもつ三人なのである。(英士) |
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| 9月24日 |
久しぶりに東京へ行って来た。あんまり山にいてきれいな空気ばかり吸っていていたら今度は吐く毒がなくなってしまう。きれいすぎるのも精神の衛生上よくないと思い、たいした用事もないが出張費をオーナーに出させた。窓から見える箱庭みたいな家の群を眺めていたら、都会人が実に不幸に思えてきた。しかしながら皆が自分のように年中遊んでいたら国は成り立たないだろうし、都会人がいなければまんてん星だって成り立たぬ。そんなわけで感謝の念を胸一杯に新宿駅に下り立った。
一日中山を歩いてもたいした疲れは感じないが、新宿駅あたりを二三時間歩くだけでかくも疲れるのは非常に不思議だ。とはいえたまには都会の空気もいいものだ。そびえ立つビルディングも流れ行く雑踏も、落ち着いて眺めればじつに情緒的だ。しかし残念ながら我々が腰を据えるような喫茶店は、むしろ喫茶工場といった感じだ。おまけにコーヒーの名前は横文字ばかりでさっぱり内容が知れない。おそるおそる普通のアイスコーヒーみたいなものはあるかと聞けば、なんのことはない隅っこにちゃんとあるじゃないか。ばかばかしい。
相変わらず忙しそうな東京人を見るたびに思うことがあるのだが、なにもかもが便利になったこの時代に、それによって節約されたはずの時間はいったいどこへ消えたのか。料理も洗濯も情報検索もボタンひとつだし、新宿から清里までたった二時間ではないか。時代が変わったというより、人間が変わっていないのだ。つまるところ文科省のいう「ゆとり」というものを日本人は最も恐れているに違いない。そんなものはわざわざ作らなくたってそこらじゅうに転がってる。非合理なことをいかに知的に悠々とこなすかに、我ら人間の尊厳はかかっているだ。
そんなわけでおばあさん、また明日から僕は悠然と山に登ろうと思っています。いくら愚痴愚痴言われても一向に気にかかりませんよ。(賢二) |
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| 9月18日 |
| 九月になってからやけに天気の良い日が続いている。高原には爽やかな涼風が吹き始めており、客足もまたずいぶん涼しい。夏の余韻をかすかに残して移りゆく季節は、旅情を感じさるに十分であろうと思うのだが、最近では旅情という言葉すら滅んでしまったらしい。平凡な日常を抜け出して、過ぎゆくものを懐かしみ、やがて訪れるものを想うには、どうしたって静けさの中に分け入りたくなるだろうに、相も変わらず一斉に休み、人混みの観光地を目指し、再び一斉に働きだすのが日本人は好きらしい。旅行雑誌をめくれば、今の時期どこそこの何が旨くて、この道を通り、あの滝を見て、そしてこの温泉に入れ、、。だいいち観光地という呼び方がよくない。都会の人間ありきの商売だから必然迎合的になる。単によそへ行き金を落とすだけなら運送屋だってできる。とは嘆くもののこちらも零細な観光業者であり今日もお客を待っている。しかし来ないものは来ないのだから山にでも登るより仕方がない。おばあさん曰く山登りなんて時間を捨ててわざわざ疲れに行って何が楽しいかと。そんな小言もなにもかもリュックサックに詰め込んでいると今度は母から電話がかかる。こちらは山登りでは味方だが、弁当にぎってやるから一緒に連れてゆけと言う。結局桃太郎の猿にでもなったような気分で浅間山にとりついた。ああ堀辰雄も立原道造もこの道を歩いたろうかなどと想うには母親のおしゃべりがうるさすぎた。いったい中年の女性のよくしゃべることといったら実に驚嘆する。山頂付近はまさしく鬼ヶ島の様相であり、浅間の現火口は噴煙を上げていた。きびだんごを食べ、向かいの鋸岳へ歩き始めたら桃太郎はクロマメノキ<アサマブドウ>の実を摘んで行くから待てという。あまり天気が良いので昼寝をして待っているとカモシカがこっちを伺っていた。木の実を投げてやったが無視して去っていった。ようやく歩き始め蛇骨岳、黒斑山を経て草すべりを下った。またもカモシカに出くわしたがちらりとこちらを見ただけで悠々と歩いていった。母は終始木の実を食べ続けていた。下痢するぞと脅しても便秘だから望むところだとくる。泥水のような温泉につかりながら、なんだかよくわからない一日だと思った。桃太郎は実際鬼だったに違いない。(賢二) |
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| 8月29日 |
| 今日は天気がよい。急に思い立ち、飯盛山から横尾山へ向かう。飯盛山はあまりに近いため、ほとんど登らない。頂上からまんてん星が遠望できる。山に登ることは下界を見下ろすことであるが、自分の小さな生活が見えるときには、なかなか複雑な心地ではある。横尾山へ向かうとすぐに踏跡は薄くなり、そのうちに消えた。あちこちに車の通う峠ができたために現在はほとんど使われていないらしい。そのため詳細な地図を持たずに出てきた。やがて背の高い茅が生い茂り、灌木が行く手をふさぐ。可憐なはずの野草もどこかよそよそしい。横尾山に最近登ったことで油断していたのがいけなかった。ひとつ尾根を見誤ったまま、谷へ降りた。長く藪をこぎ続けたため心細くなってきた。小さな川に沿って取っつきを探した。川が消え沼地のようになり、時に足が沈む。クルミの根は盛り上がり、大きなシダ植物が群生している。細く高い声の妙な鳥が鳴いた。住んでいる鳥も変わるのだろうか。尾根筋と浅く明るい谷しか通らない一般の登山道とは違った空気だった。靴を濡らしながら、とりあえず尾根にたどり着いたものの、展望はなかった。ここにきて、引き返そうと思った。尾根を清里の方角へしばらく向かうと、かすかな踏跡がみえ、飯盛山が意外に近くに見えた。思ったほどに進んではいなかった。やがて道を読み違えていたことを知った。地図と踏み跡がないとき、登山者はこんなにも無力なのだと思った。それもよく知るはずの土地で。アルプスを語る前にもっと里の山を歩こうと思った。傷だらけで風呂に入れなかった。(賢二) |
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| 8月25日 |
| 今日は少し遠出をし、塩山から大菩薩峠へ登ろうと思った。奥まで車で入れば一時間半だが、国道沿いからぼちぼち歩きはじめた。やがていつもより照葉樹の多い森に入った。日光がブナの葉に揺られながら淡く差し込んでいた。ブナの木肌が美しいと思った。時に車道が頭上を通るのにはさすがに閉口した。日川峠は広い駐車場になっており、自然を守れといった意味の看板が立っていた。静かな道を選んで、石丸峠へ向かった。ダムの上流へでるとカラマツの植樹林だった。しばらく笹を踏みながら登ると、南西の方角に視界が開けた。見慣れない大菩薩、御坂の山系が広がっていた。夏の花たちが競うように咲いていた。明るい斜面で昼寝した。すっかり山での昼寝が癖になってしまった。主要コースと合流すると急に人が増えた。犬を連れてるのもいる。峠には有名な小屋があり、おみやげを売っていた。頂上は展望はないが、針葉樹の原生林を保っていた。下りは丸川峠へ向かう道を使った。冬にまた来ようと思った。(賢二) |
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| 8月22日 |
| 夏が帰ってきた。今日は久しぶりに山へ行った。実に一ヶ月ぶりだ。まず敷島の太刀岡山の急登を詰める。途中ハサミ岩をよじ登った。正面に茅ヶ岳がいつもと違った形に見える。頂上を過ぎ、尾根を北へ向かった。鬼頬山を越え八丁峠に至る。このあたりは古い火山だそうでどの山も鋭い。黒富士までピストンしてから升形山の山頂で昼寝をした。赤トンボがたくさん飛んでいた。これから里に下りて行くのだろうか。大きなカラスアゲハが二匹、ゆったりと舞っていた。他の小さな蝶たちと違って、あまり羽ばたかずに飛ぶのに感心した。入道雲の向こうに淡く富士が見えた。敷島の古火山群は、忽然と姿を現した富士をどんな思いで眺めたことだろう。曲岳を経由して観音峠にでた。雷が出なくて良かった。(賢二) |
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| 8月17日 |
| 今年の夏はもう終わってしまったのだろうか。毎夜清里は霧がかかる。結局お盆のあいだは一日も晴れなかった。キュウリもナスもほとんど実をつけない。トウモロコシも生育不良だ。確か春先の長期予報では例年通りの猛暑になると言っていた。気象庁は公然と詐欺をやっているような気がする。予報が外れて謝罪したという話も聞かない。しかし自然にとってすべてが悪いということはないのだろう。裏の山には早くもキノコが顔を出している。キノコにすれば待望の年かもしれない。生態系というのはそんなもので、なるべくしてなるようにできている。いたずらに慌てるのは人間だけであり、作物の病気に怯え、農薬を振り、米の買いだめの勧誘が来る。人間は思慮深そうに見えて実に短絡的だと思う。生態系における種や個体は、あらゆる状況をすべて受け入れている。その上に巧妙な工夫で、自らを変化させて適応する。相も変わらぬ人間は、訪れる問題を真に受け入れもせず、解決するでもなく、単に破壊するだけなんだろう。以上、最近仕入れた生態学の知識から、自分なりの経験をふまえて。(賢二) |
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| 8月6日 |
| 八月になりようやく暑くなってきました。予約帳も徐々に埋まってきたようです。毎年この季節になると思うことではありますが、忙しくなるに連れ、お客さんとの会話が少なくなってゆくのはとても寂しいことです。我々はこの季節に年間の約半分に近い収入をあげます。当然夏のシーズンに客室の稼働率をあげることが宿泊業にとって至上の命題です。しかし長引く不景気の影響で私たちは考えが大分変わってきたような気がします。それは一時期の頃のように、宿泊業で儲けをあげるのが果たして可能であり、必要であるのかという疑問が浮かぶことです。単に都会の人間の避暑地として利用される時代は終わったのだと思います。そんな意味から言うと、必ずしも不景気は忌み嫌うものでもないようです。生活の規模は縮小されていきますと、当然暇というものができます。私たちの場合ですと、畑を耕したり、山登りをしたりということになります。人間にはやはり自然というものが必要なのだと思います。それは開発すべきものでも、またことさらに保護すべきものでもない、生活の場としてあるべきものなのかなという気がします。さて、明日から甲子園が始まります。いよいよ夏本番です。風鈴の音を聞きながら一服のさいの雑考でした。(賢二) |
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| 7月30日 |
| 七月はまったく晴れなかったような気がする。毎晩のように霧が出た。山も見えなかった。去年は、甲斐駒も北岳も梅雨の間に行ったのに。今日はお客さんと一緒に蛍を見に行った。長雨で今年はどうかと思われたが、去年と同じ場所で数匹見ることができた。淡い黄緑の光を放っていた。手に取ってみると意外なほどに明るかった。普段、電灯の下に暮らしている僕たちはあまり光のことを意識しない。かすかに強弱を変えて点灯する蛍を見ていると、何か光の本質を感じるようだった。闇と光は連続しているのだろう。懐中電灯をしばし消して、みんなで見ていた。やがて手のひらの蛍は上の方へ舞い上がっていった。お客さんも喜んでくれたようだった。(賢二) |
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| 7月22日 |
今年の梅雨は長い。一ヶ月、赤岳が姿を見せない。あるいは冷夏になるのかもしれない。なかなか山へ行けない。半日だけの晴れ間を得て、横尾山へ出かけた。奥秩父の西端部にあり、山梨百名山に名を連ねている。
山頂付近はキンバイソウ、シナノナデシコ、ヤナギランなど、夏の花が美しい。蜂や蝶が忙しそうだった。瑞牆山の岩稜だけがわずかに見えた。(賢二) |
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| 7月14日 |
| 今日はおじいさんとおばあさんの結婚60周年。昭和18年の今日、愛知の田舎から一升瓶と鶏一羽を背負って東京に出て来たばかりのおばあさんは、おじいさんに連れられて明治神宮に詣でた。四畳半一間きりの新居におばあさんは驚いた。間もなくおじいさんは招集され、おばあさんは疎開先で長男(僕のおじさん)を生んだ。以後60年、同い年の二人は、今年で85才。互いに張り合って生きてきた。二人は今も、互いの陰口を僕にたたく。(賢二) |
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| 7月10日 |
梅雨空の下、小楢山に登る。南麓から1300mまで林道を歩き、分岐に至る。直登を「母恋し道」、横尾根回りを「父恋し道」という。「父恋し道」には石仏が散在する。如来、地蔵、明王など、風化してわからないものもある。巨石に地蔵が並び、苔が寄せている様は、時を忘れさせる。
山頂は静かで、オダマキやキンポウゲが咲いていた。眺望は得られなかった。深い霧の中を下った。どこかで治水工事の音がしていた。(賢二)

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| 7月6日 |
春、畑の隅に積んでおいた堆肥を掘ると、かぶと虫の幼虫がたくさん顔を出した。おばあさんはかぶと虫が大好きで、それから何度も堆肥をかき回しては眺めていた。6月半ば頃、皆さなぎになっていたのが、先週からもぞもぞと動き出し、皮を脱ぎ始めた。僕は放してやれと言ったが、おばあさんは全部飼うと言ってゆずらない。かぶと虫用のエサを買いに行き、巣箱を作った。そんなわけで、かぶと虫、たくさんいます。子供さんたち、見に来てください。(賢二) |
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