犬目の兵助
 
 天保4年の飢饉に続いて、天保7年(1836)も春からの天候不順の雨続きで、再び飢饉がやってきて、食糧不足に郡内(山梨県の富士吉田市、都留市、大月市、南都留郡、北都留郡の地域を指す)の人々を悩まし、草の根、木の皮までも食べ尽くす有様であった。餓死者は日を追って増加しました。救済方を代官所に願い出たり、国中からの米の移送を訴え手が、ラチがあかず、犬目の兵助と下和田の武七を頭取とした、郡内人は結集して、笹子峠を越えて、熊野堂(春日居町)の小川奥右衛門を襲撃しました。世に言う甲州一揆です。この時点で、一揆側にはならず者も加わり、甲州騒動の様相に発展したので、郡内勢は引き上げてきました。
 しかし、当局の追及はきびしく、武七は自首しますが、兵助は逃亡の旅に出ました。
 兵助は、妻の「理ん」に罪が及ぶのを防ぐために離縁状を出し、長い間逃亡生活を続け、その間の日記を残しています。
 知らない土地で、苦難を続けての旅であり、しかも逃亡という特異な旅です、故郷に残した妻と子の夢も記され、一泊の礼にそろばんや文字を教え、開平(平方根)や開立(立方根)を解くそろばんまで教えています。暖かい季節には野宿もしました。
 その後、木更津に隠れすみ、年老いてから犬目に帰ってきたですが、兵助の遺品である、旅日記と離縁状が、兵助の生家である、水田屋(奈良尚文氏)に保管されています。
兵助の逃走経路

兵助の離縁状
離縁状のこと

字が達筆すぎて読めないですね、これを現代風にすると、次の通りです。

一、里んと申す女を周助殿の世話(仲人)で女房に貰ったが、このたび私の心にあわないので、子供を添えて離縁いたしますが、今後どなたに縁付こうとも一言の申し分も言いません、離縁状かくのごとし   八月  四方津村 お里ん殿   犬目村  兵助     


天保の飢饉と郡内騒動

天保の飢饉に至るまでの経過に、次のような変災があったことは見逃すことはできない。
●文政5年(1822)の西日本におけるコレラ病の流行。
●文政6年の全国的な干ばつ。
●文政7年九州・関東の風雨洪水。
●文政8年関東・東北諸国約半作。
●文政11年東海道筋の出水、九州大雨死者1,000人九州平均約4割。
●文政12年村々に米粒が散乱するほどの方策。江戸大火。
●天保元年(1830)3月集団参宮の波がまず阿波に起こり、瞬く間に、淡路、紀伊から畿内・東海・中部・北陸へと広がった。幕藩領主は一時的な宗教的陶酔とみて放任した。耕作・収穫の放棄や地主・富農への食酒の強要など一揆的要素をはらんだ地方もあった。しかし、この狂乱がおさまると、反動的に大都市の市況の不振は顕著となり、貧民・浮浪者の数も増加した。この年諸国の作柄はよくない。天保元年・2年とも諸国の作柄は不良であった。


この内容は、吉岡氏による「歴史からこぼれた話」及び上野原町史から引用をしました。

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