お玉井戸
旧甲州街道を上野原から西に下り、大椚を過ぎて野田尻に入る手前に長峰の池がある。
野田尻が宿場として栄えていたころ、この池はいつも薄汚れの水をたたえ、池のはたにある形の良い大きな松がほどよく調和していて、まことに風趣に満ちていたと伝えられている。今では、中央高速自動車道の工事でこの池も埋まってしまい、街道の「古池や かわずとびこむ 水の音」という芭蕉の句碑が風雨に変色してわずかに往時をしのばせている。
昔、野田尻の「えびす屋」という宿屋に「お玉」という美しい女中がいた。お玉は近在の若者たちのあこがれの的となり、大勢の若者がお玉をひと目見ようと集まって、えびす屋は時ならぬ大きなにぎわいを呈したものであるが、中でもひときわ目だつ美しい若者が夜ごとに通い、やがて、お玉はこの若者と恋に陥り、夜な夜な2人で語り明かすようになった。ところが、夜更けておう瀬から帰ってくるお玉を見ると、いつもびっしょり全身がぬれているので、不思議に思った主人が訳を聞いた。すると、お玉は、彼女の恋人が実は長峰の池の主であることを打ち明けた。
そして、「もうこのお屋敷にお仕えすることが出来なくなるので、どうかお暇をいただきたい」と泣いて頼んでくるのだ。主人は大いに驚いたが、わが子のようにかわいがっていたお玉のことだけに、なかなか承知しなかった。
しかし、あまりの懇願にとうとう折れ「御前がそれほどまでにいうんなら仕方がない。仕合わせにお暮らし」といって、涙ながらに暇を出した。
お玉は深く感謝して「この野田尻は水が足りなくて大変困っていますが、私のわがままの償いとして、これから水に困ることのないよう、お望みの場所にきれいな水を出してさし上げましょう」といった。そして、主人の望みの場所を聞くと、その日の内に姿を消してしまった。
あくる日、主人が自分の指定した所に行ってみると、はたして、そこに澄んだ水がこんこんと湧き出ていた。その後、ここに井戸が掘られ、「お玉井戸」と呼ばれるようになった。
なお、お玉自身が池の主の龍神(りゅうじん)であったという説もある。

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