諏訪番所跡
上野原町上野原26番地
昭和45年(1970)3月20日町指定
旧甲州街道を西に進み、小淵(藤野町)から境川に下って、さらに急こうばいの坂を上りきると、上野原台地の最東端、諏訪地内に出る。ここに、昔、「諏訪(境川)番所」があった。
現在このあたりは、道の舗装や掘り割り工事が進み、まわりに建物が多くなって、かなり開発された。道の北側は自動車教習所になっているが、コースの東はずれにある桜の古木(夜泣き桜)の前付近に、番所の柵(さく)が立てられていた。
建物は、道路の南側に位置し、平屋で、縦面積約133平方メートル(約40.25坪)。
建物の東側に小屋と土蔵が並び、南東側に便所小屋が立てられ、さらに、裏側と西側にあわせて約231平方メートル(約2畝10歩)程の野菜畑があった。この場所は、五街道の一つである甲州街道にあり、甲斐国の表玄関にあたる重要地点であった。
番所や関所は、国境や交通上の要所に設けられ、会場や海、湖の主要地点にもおかれている。平時は、通行人やその荷物、輸送品などの検査や取り締まりが行われた。また、ひとたび合戦になると、厳重に門が閉ざされ、防備にあたるという機能を持っていた。
武田信玄の時代(1521〜1573)には甲斐国内に常番7、非常番17,合わせて24関が設けられた。諏訪番所もこの24関の一つに数えられていた。また当町内には、このほか新町の花井、つずり原三二山、西原の藤尾にもあったが詳細な記録はない。
また戦国時代には、甲州街道は建設されていなかった。しかし、桂川北岸の道は開かれていたようである。永禄年間(1558〜70)、武田は小仏峠を開さくして、北条の八王子滝山城を攻めたといわれ、この時の道が後の甲州街道の道筋として改修されたものと推測される。
特にこの道筋が当町のどこを通っていたか不明確な点が多い。とくに相甲の国境付近については諸説があり、今後の研究を待つところである。いずれにしても、これが当時の上野原の主要道路で、相模の北条に対して台地城のどこかに番所を設けて、たえず監視していた。
江戸時代に入ってから五街道の制がしかれ、2代将軍秀忠(1579〜1633)のとき、甲州街道が建設された。このころから諏訪番所の所在が記録に現れ始め、諏訪神社付近に設置されてあったことは確かである。
甲州街道は、江戸と甲府を結ぶ主要道路。その中間点にある当地は、国境にも接し、甲斐の東の入り口に位置する重要拠点であったため、重要視された。
ところが、諏訪神社前の場所では適当でないため、宝永4年(1707)に諏訪の東はずれに移されたものである。
当時の上野原では人気がおだやかでなく、ぶっそうなため、通行人を取り締まるばかりでなく厳重に守りを固める必要があるが、番所が諏訪神社の前では不都合であるから、境川と相模川の合流点の上、第2段丘上の最東端に移したということである。
この番所では日常どのような取り締まりや検査がされてたのだろうか。その取締規則によると、常時2人の番人がいて、朝6時から門を開き、夕方6時には閉じた。通行人や物資の取り締まりの上で、とくに「入り鉄砲」(いりでっぽう)と「出女」(でおんな)が厳重な対象となった。「入り鉄砲」というのは鉄砲が江戸に持ち込まれることをいい、当時、もっとも強力でもっとも新しい武器である鉄砲が、倒幕などの陰謀に使われることをおそれての処置であった。
「出女」というのは、本来、江戸から諸国へ女性が出ていくことをいい、当時、参勤交代の関係で、江戸の大名屋敷に人質として住まわせてある大名の妻子が逃げ出すのを防ぐために取り締まったものである。しかし、諏訪番所の場合、これと逆の立場であった。すなわち、甲斐から江戸へ出る女性を対象とした。享保9年(1724)から甲斐の国は幕府の直轄となり、江戸から甲府へ勤番として旗本が派遣された。この旗本の妻女たちが、甲府住まいをきらって江戸へ逃げるのを防いだものである。
そのころ関東の西部でもっとも厳しかった関所は「小仏」であったが、それよりひとまわり規模の小さい「諏訪番所」もかなり調べが厳重だったといわれる。
こうして、関所と番所は、徳川300年の維持に非常に役立ったが、その反面、一般交通の発展に障害となったことは確かである。
諏訪番所は、境川地内に合ったことから「境川番所」、「境川口留番所」、あるいは、上野原村に1カ所だったことから「上野原番所」などといわれているが、どれが正式な名称だったかわからない。
明治の初めに全国の関所は廃止されたが、それに伴い、この番所も明治2年(1869)に廃止された。その後、役宅は、代々上番人を勤めてきた山内家の所有となった。
明治13年(1880)、明治天皇御巡幸のとき、この建物で小休止し、着依を召し替えた。
明治18年、この建物は男爵渋沢栄一の所有となり、東京の飛鳥山の渋沢邸の別園に移された。この別園は、古風で格調の高い名園であったが、特にこの建物が中心的存在で、当時発行された『名園50種』(近藤正一著)の中に次のように紹介されている。

左手は常磐木が生い茂った小山のような丘で、その半腹にかやぶき屋敷の古雅な一棟の家がある。入口が割合に低く、棟梁(むねはり)のがんじょうな様子から手おので削り成した柱などの純朴なことは決して尋常な建物とは見えない。執事の月岡君の話にこの建物は元、甲州にあって信玄が関所に用いて数百年の星霜を経たものをここに移したとだとか。勝手に構われた囲炉裏(いろり)、その上に下げたるところからの竹の自在があたかも黒うるしで塗ったごとく燻(いぶ)ったのまで、当時のままに保存されたるのは、ことにおもしろい。

その後、この建物は小泉策太郎の手に渡り、伊豆に運ばれたが、建設されたかどうかは不明である。このように建築上、歴史上貴重な建造物が町外に流出したことは、まことに残念なことである。
現在、番所の跡は秦吉之助(上野原町上野原3442)の所有となり、一面に草が生い茂って、昔をしのぶ影もない。

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