※ 以前いただいていたお便りを 意見D〜J として掲載します。

意見D 竹居治彦さんからのメッセージ  2004・1・28  
                                      旧制日川中第44回卒(東京在住)

 謹啓 緊急の世情のなか、勇気をもって立ち上がられたことに心からの敬意を表します。友人、白沢君のメッセージと関連の判例をお届けします。平沢君からの経由よりダイレクトにお送りした方が早いし、白沢君の気持ちを一刻も早く伝えたいのです。取り急ぎ案内まで。

意見E 白澤守さんからのメッセージ  2004・2月 旧制日川中第44回卒(埼玉県在住)

 前略 校歌が憲法と教育基本法に違反するとして、校歌指導やそのための学校運営費が違法支出であり、その返還を求めた提訴の記事が載った朝日新聞のコピーを竹居氏から戴きました。
 かねがね、「天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち…」の歌詞が主権在民の現憲法下でまかり通っていることに不快な思いをもっており、何故手付かずのまま放置してあるのか不思議でもあったので、今回の提訴に踏み切った河西さんらに賛意を込めて敬意を表するとともに、歌詞改訂への大きなアクションになるものと歓迎しております。
 同窓生として今まで何のアクションも起こさなかった不明を、内心忸怩として反省せざるを得ません。 
この歌詞は日川の恥部です。戦後60年、新憲法施行50数年を経て万余の同窓生に歌い継がれたとはいえ、何故、同窓生全体の問題意識として、日本の平和と民主主義の視点から問われなかったのか、問うたまま不問に付されてしまったのか、この歌詞が化石の如く生き残ったとしても、化石に息を吹き返させてはならないと思います。
時まさに、日本政府、自民・公明の与党は、憲法9条を踏みにじって自衛隊をイラクに派遣しました。それは人道支援の口実を振りまいているものの、ただブッシュへの忠誠の証しを示すことであり、それが国際貢献などと言い逃れても所詮、有事立法の制定、小泉首相の靖国神社への参拝、武器輸出の解禁、憲法改正のマニフェストなどの道程として、戦争の出来る国づくりの既成事実を積み上げているに過ぎません。
 こうした現状をみると、この提訴は単に同窓という枠にとどまらず、広く国民一般に戦争の問題を、平和のテーマを、憲法を守る問題を具体的に問いかけが出来る時宜を得たものであり、理解を得る有利な土壌が展開してきているのではないかと思います。原告団の支援の環が大きく広がることを願って止みません。
 同封の判例とその解説は、教育委員会が「君が代」のカセットを配布したことを問うて提訴したもので、地裁・高裁とも原告敗訴ですが、体制側の論理を検討する上で参考になるかと思います。
判例と法律雑誌をデジタル化している会社におりますので、今回の訴訟を進める上で参考にしたい文献が必要でしたら、可能な限り検索してみますので、お使い立てください。  草々

意見F 中村三郎さんからのメッセージ  2004・2・11 
                      旧制日川中第44回卒(東京在住)1929年生 元早稲田大学教員  

 このたび母校校歌にかかわる訴訟のこと、同期の竹居氏から教えられ、「訴状」ならびに『戦後五十年 天皇の勅』を読ませていただきました。感銘まことに深く、諸兄の不屈の闘魂、展開されている真摯な提言、達意の発言の数々に敬意をおぼえればおぼえるほどに、小生自身の今日までの怠慢をかえりみて忸怩たるものがあります。
 1945年、学徒動員先の平塚海軍火薬廠で敗戦を迎え、何が何やら判らなくなった当時のことは記憶に鮮明です。それから主権在民、戦争放棄の新憲法。こんなすごいものが世にありうるのか。これこそ人類の未来を開くものと歴史家トインビーが絶賛したと知ったのはずっと後になってからでした。いや追憶にふけっている場合ではありません。しかし母校が、同窓会が、日川の知性を疑われてもしかたがないような、これほど酷いことになっていようとは。迂闊でした。校歌を変えなかったこと即ち時流に屈しない反骨精神の表れ? 「どこかの国の偏執狂、習慣性靖国神社病患者なら悦びそうな、」悪しき日川の伝統でしょう。
 「戦争協力を恥じていない」などと神を怖れぬ発言をする同窓会理事がいて、校歌存続に鋭意活躍したらしいことを知り、思うのですが、変人扱いされながら、砂丘の、砂漠の緑化に力闘し続けてこられた老先輩遠山先生にたいしても恥ずかしいではありませんか。
 『戦後五十年』のシンポジウムの質疑応答のなかでも言われていたように、なにかがおかしいとか、腹が立つとか、思っているだけでは事は進まない。誰かが勇気を出して一石を投じ、そして皆で力を合わせていく、という初心に帰ってみて気づかされたのは、すでに石はこんなにもたくさん投じられたではないかということ。それなのに今日まで公の場で正面きっての対決議論が行われなかった摩訶不思議。どうも「日川共同体」は精神共同体ではなくて利益共同体に過ぎないのではないかとさえ思えてきます。
 「歴史観、価値観を異にする二つの世代が、意識の断層を乗り越えて…」などと説く田辺国男氏の言、折角ですが、抽象的なお題目を唱えているだけのように聞こえてくるのは空耳なのでしょうか。
 ひとつのイメージ … 横田基地。三重に張りめぐらされた有刺鉄線。高さ2メートルを越すフェンスの鈍い銀色。巡回する軍用犬。外の世界を拒絶する意思 …
 校歌存続派の発言における論理性の欠如。非思考型。判断停止症候群。故に説得性絶無。
 今回の提訴は、これまでの経過からして、まことにやむを得ざるものがあったであろうこと、理解できます。問題意識の共有の輪を拡げていくべく微力を尽くしたいと思いますが、先ずは己の心に聴いて、聞こえてきたところをメモしました。どうぞ、くれぐれもご自愛のほどを。

意見G 中村三郎さん(同上)からのメッセージ  2004年4月

 お元気のここと思います。早稲田の法学部の教授で憲法学者である浦田賢治氏に資料数点を送り、意見感想をとお願いしておきましたところ、同封のコピーのような丁寧な返書をいただきました。元気が湧きます。新しい校長さんへの手紙も文面を練っています。同級生らと署名集めを始めました。在山梨の女性OB(OG?)が声を挙げないものか? 

意見H 浦田賢治さんからのメッセージ(中村三郎氏宛ての返信)2004・4・6
                                  早稲田大学法学部教授・憲法学者(東京在住)
           
 冠省 
 3月18日付のお手紙と資料7点を拝受しておりました。ただいま全部に目を通しました。
 すでに、1996年に、「校歌を考えるシンポジウム」の基調報告者となっていた遠藤比呂通氏のことは、仄聞しておりました。東北大学を退職して現在大阪で弁護士活動を果敢に続けている由、承知しておりました。この学者・弁護士を得られて、まことに幸運だったのではなかろうかと感じました。
 「訴状」(2004年1月22日付)は、原告の方々が収集・提出された資料に基づき、しかも原告の方々のご意見によって作成されているのではなかろうか、と感じました。こうした行政訴訟では、原告の方々の事実調査及び法律論構成が重要であると承知しております。
 「答弁書」(2月17日)では、@「訴訟要件に関する答弁を保留する」とされ、A認否・反論は追って主張するとされていますので、4月12日には出ると了解いたしました。その後5月7日、11日と続きますので、ご活躍のほど切に願っております。
 かつて家永三郎氏が、周囲の知識人・弁護士たちの消極説を聞(聴)き、なお敢然と行政訴訟を提起されたときのことを想起しております。32年の長きに及んだこの教科書裁判が、憲法に生命を吹き込んだという成果のことも思い起こしております。どうぞ、法廷の内と外、この二つの空間をつなぎ、歳月を惜しまず、原告の方々や支援者の方々がご奮闘ありますよう、切望致します。ちなみに、「憲法改正広瀬試案」(昭和32)を発表した広瀬久忠氏を第2代同窓会長に擁した日川高校の校歌問題であってみれば、活動の舞台と“主役・脇役”は注目するに充分だと存じました。法廷で出す裁判官の判断もさることながら、裁判という形をとった市民運動の成果に期待するところ大なるものがあります。
 とりいそぎ、ご返事申し上げました。御清祥を念じ上げます。不一
 中村三郎先生                   浦田賢治

意見I 鈴木伸一さん(仮名)からのメッセージ 24歳 2004・5・4

 日川高校校歌を憲法違反だとする原告の皆さんの趣旨に賛成いたします。私は甲府一高の出身ですが、一高のオリエンテーションも日川高校と似たようなものでした。しかし、私が在学中に問題が発生して、その後応援団はやり方を緩和したという経緯があります。
 私はオリエンテーションは純然たる学校説明にとどめるべきだと思っています。丸々2時間不動の姿勢で立ち続けることを新入生に求めて、何の意味があるのでしょうか。高校生に対し無益な強制による指導を行なえば、結局は生徒の自主性の芽を摘み、離反を招くだけです。
 もうひとつ。この問題の核心は、やはり天皇という言葉に集約されるのではないでしょうか。私にはよくわからないところがあるのですが、日川の校歌問題のことを考えると、ウヨクという言葉を思い浮かべます。天皇を神さまだと教えられた昔の人々のことを考えます。ですから、裁判を通してこの問題を追及していくなら、感情的にならず、また個人攻撃にならないよう、客観的でだれにもわかる言葉で具体的に語ってもらいたいと思います。

意見J 学徒動員と「天皇の勅もち…」の校歌   2004年4月
                                        平沢欣吾(旧制日川中第43回卒)
 
  同じ日川の同時代のOBでも、「天地の正気甲南に」で始まる校歌3番の「天皇の勅もち」の歌詞について、「すでに定着しているものを、今ごろになっていきり立って変えようなんて言っても、どうなるものでもないじゃあないか」とか「たとえ、それが時代にそぐわないにしても、これまでそのまま続けられてきたのだからいいじゃないの」と触らぬ神に祟りなしで、無関心を装っている現状肯定の者が多いのはなぜかと考えてみた。
  旧制日川中最後の43・44回卒の「平塚会」のメンバーが「卒業50周年記念誌」として各自が記事を寄せて編集されたものがあるが、その中に校歌に関して書いたものがあるかどうかページをめくってみたが、誰も書いてはいなかった。
終戦直後の最上級生として、16歳の4年生のとき、戦後の民主化を断片的に吸収して、学園の民主化に乗り出し、そのリーダー役の一人であったS君が当時の思い出を語っているのが目に止まった。彼は三つの民主化事件?として書いている。
 1 教師3名排斥追放同盟休校
 2 甲府空爆被害教師の食糧援助運動
 3 試験反対白紙答案事件?
  実は私がこの3事件の中で関係したのは、最後の白紙答案の事件だけ。答案用紙が配られると、5分も経たないうちに、どやどやと教室から出たこと。教師が引き止めるにもかかわらず、教室が一階だったので、窓から飛び出した者もあったが、他の事件にはかかわることが出来なかった。それは父が出征していて、母一人の農業を手伝うために敗戦の年の5月、学徒動員先(平塚の海軍火薬工廠)から退学して家に戻り、戦後父が復員してきて、父の勧めで再び復学したのは同盟休校事件が終わった直後だったからである。
  私は1946年3月、大して勉強もしない敗戦直後の学校生活に魅力を失って、当時4年終了でも卒業できたので、卒業してしまった。この卒業式に校歌を歌ったかどうかははっきり覚えていない。敗戦となるまで戦争一色であり、小学校以来「教育勅語」によって天皇に忠誠を誓う臣民としてマインドコントロールされ、中学入学の昭和17年にはすでに太平洋戦争に突入していた。入学した日から学帽ではなく兵隊のような戦闘帽をかぶり、服も黒い学生服ではなく兵隊のようなカーキ色の国防服、脚には巻脚半をつけていた。登校前に家で巻き、帰宅するまで巻いていなければならなかった。
  教練の授業が週2回あり、配属将校から軍事訓練を指導された。1年生時代はまだまともに勉強できたが、2年生になると勤労奉仕で農家の手伝いに行かされた。英語は敵国語というので、英語を選択するクラスとしないクラスに分けられ、やがて3年の時には戦争はますます激しくなって、とうとう父親にも召集令状が来て、5月に出征。40歳だった。同級生で父親が出征したのは私だけだったようだ。そのときに退学すべきだったかもしれないが、できる限り母を手伝って頑張るからということで学校は続けた。すでに2年上の上級生は5年生になったとき学校を離れ、続いて4年生が勤労学徒動員で学校を離れて行った。われわれ3年生にもついに動員令がきて、9月に平塚にある海軍第二火薬廠に行くことになる。そのとき父が出征をしていて一人で農業をやらなければならない母の苦労を思い、動員に行かなくても済むように学校に願ったが聞き入れられず、仲間たちと行くことになった。
  話を元に戻すが、敗戦後再び学校に戻った私が、授業が再開された時に起こった同盟休校に加わらなかったのは、まだ復学していなかったからである。同盟休校とはいっても、敗戦で私たちの意識が様変わりしたわけではない。同盟休校をした際の全員の血判状なるものが、そもそも前近代的なものであったし、仲間の結束を固めるのに過去の知識に頼っていた。
 日本国憲法が実施されたのは1947年5月のことである。それは5年生に進んだ仲間たちが卒業してからであり、新しい歴史観に基づく歴史の勉強は新制高校になってからなので、当時の私たちの判断の物差しは、戦時中に学んだ歴史観に頼らざるを得なかったといえよう。だから「スメラミコトのミコトモチ」にあまり抵抗を感じることもなく、今日まで無関心で来てしまったといえる。
 その後大学に進学したり自ら進んで勉強するのでなければ、日本国憲法や戦後思潮について学ぶ機会は少なく、さもなければ、民主主義の時代とはいえ、多少の意識の変化はあっても、戦時中に受けた教育勅語に依拠した天皇制軍国主義教育が骨の髄まで染付いていて、いまだに拭い去られていないように思える。
  問題は、他の学校は新制高校が発足した1948年以降に校歌を刷新したのに、日川高校は変えなかったことである。私たちの頃、何かと比較対照したのは甲府中学(現在の甲府一高)である。ことの真相については私にはわからないが、当時同盟休校をしたのは甲府中学のほうが早く、それを知って日川でもと影響を受けたように聞いている。その一高はすでに皇国史観の校歌を替えている。そのことに戦中・戦後の学校生活を体験した私たちと同年の人たちがどのようにかかわりを持ったのは知らない。
  戦後、古い皮を脱ぎ捨てて、脱皮とか新生という言葉のもとに新たな希望を求めてよみがえろうとした時、伝統を誇張し、それに執着した当時の関係者やその周辺のOBたちの偏狭な思考を戦後半世紀以上経過した現在でも放置したままという事態は情けない。
 特に私たちは幼稚ながらも、血判まで押しての同盟休校という前代未聞の行動をもって、漠然だが新しいものを求め、古いものを断ち切ろうとした。その行為は一部の教師に向けるのではなく、「スメラキコトのミコトモチ」の校歌のように、天皇のために忠誠を尽くす赤子としての教育を押し付けた天皇制軍国主義に目を向けるべきであったはずである。
  今“天地の正気”で始まる校歌は、結束を固めるよりどころとして“日川魂”などと称して伝統を誇っているようだが、違和感を抱くOBは少なくないだろう。それに「歌う健児の精神は…」の“健児”は女子ではないはずで、男女共学の時代にはふさわしいとは思われない。まさに男子中心の軍国主義思想そのままであり、日川の女性OBなら“女性蔑視もはなはだしい”と怒っても当然と思うのだが。
  日川の校訓は校歌で歌われている「質実剛毅」である。私自身も質実剛毅に生きようとこれまでもつとめてきたつもりである。それは、他人に媚びへつらったり付和雷同することなく自立して、自己の信念を曲げることなく勇気をもって行動することだと信じてきた。校歌をめぐるOBたちの態度を見ると、決して質実剛毅には思えないのは私の偏見だろうか。
  私は戦後に生まれた高校に勤務した者だが、すでに60代となったOBたちの会に出席したことがあった。最後はみんなで「天皇の勅もち…」の校歌を歌っている。無理に解釈しなければ意味が通じないような校歌ではなく、誰でも素直に歌える校歌であってほしいものである。

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