返信V 日川高校校歌を擁護する動員学徒諸氏へ
中村三郎先生(旧制日川中44回卒)への返信
河西久(原告・日川高17回卒)
「そのような主張は駅前でやれ!」
以前頂いた電話の中で先生は、「裁判支援に対する同級生(平塚会)の反応が鈍い」との話をされました。2004年4月19日、石和で行われた同級会(平塚会)の席で先生が「日川高校『天皇の勅』校歌訴訟」への支持を訴えたところ、「そのような主張は駅前でやれ」という罵声が飛んだという話を伺いました。これは「校歌がいやなら同級会から出て行け」といっているに等しい言葉です。
それを聞いた私は「敗戦後の学園民主化のために血判状をつくり、同盟休校まで行った動員学徒の歴史認識も例外ではないのだ」と思わざるをえませんでした。「天皇の勅」に苦しめられたはずの人々が「天皇の勅」に対して拒否反応がないのは、日本人一般の戦後感に通じるものあります。敗戦後の長い歴史において、同級生たちの間で一度でも民主主義について、また個人の自由や尊厳について意見交換がなされていたならば、事態はまったくちがっていたでしょう。少なくとも、「中村の意見を聞いてみようではないか」という声が上がっていたはずです。
先生は日川中学時代に級長を務めた秀才(『日川高校物語』)でした。「戦後60年」を目前にした同級会の席で校歌への異論が出されたということは、同級生たちにとっては晴天の霹靂であったにちがいありません。「なんで今さら」と思ったことでしょう。「伝統の校歌に異論を唱えるなんて、とんでもないやつだ」と思った人もいたかもかもしれません。結局、早稲田大学名誉教授である先生の提案は同級生たちによって封じられたということになります。
「百年に校歌がひとつ春の風」
「平塚会」のメンバーの一人であり、神奈川県平塚市にあった「第二海軍火薬廠」へ動員学徒として送られた経験をもつ俳人の広瀬直瀬氏(日川中44回卒)は、「百年に校歌がひとつ春の風」と題する句を同窓会誌上(1993年)に載せ、戦前・戦後を通じて変わらぬ校歌をもつ母校を称えています。また、同じ動員学徒として神奈川県寒川の相模海軍工廠に向かった日川中42回卒のS氏は、『百年誌』349頁に『学徒動員の歌』と題して次のような文章を載せました。
「私たちは控所(講堂兼体育館)で学徒動員の歌をならい、校歌をうたい、応援歌をどなり、オールメン拍手を気違いのようにやって気勢をあげ、生産戦線への参加の決意をあらたにしました。その夜、多くの同級生がしたように私も遺書をかき、爪をきり、髪の毛を同封して机の引き出しにいれました。翌朝、日下部駅に集合し、みんなの歓呼の声に送られて私達は神奈川県寒川の相模海軍工廠にむかいました。(中略)人生僅に20年、その半分は寝てくらす…と。やけになりがちの当時の世相でしたが、日中健児はよく勉強しました。(中略)伝統ある日川中学校の歴史のなかで、私達はまったく不遇な卒業生だったと思います。」
S氏は「まったく不遇な卒業生だった」と回想していますが、文章の最後は「私たちはこの灰色だった日中(日川中)時代に限りない愛着をもつと同時に『質実剛毅』に徹した、母校の校風を誇りにしています」と締めくくっています。S氏は、「不遇な卒業生」となることを余儀なくされた原因を追究しようとはしません。学年や動員場所はちがいますが、広瀬氏とS氏がみせた動員学徒の心理には共通なものがあるようです。
動員学徒たちにとって、校歌は青春時代のシンボル的存在でした。そこでは肯定的感情だけが前面に出されます。その校歌が自分たちに塗炭の苦しみを与えた元凶であるとの否定的感情は出てきません。「天皇の勅」や敗戦に対する否定的感情は、「時代に翻弄された」とか「時代の荒波」などという抽象的な表現に置き換えられます。否定的感情を封印し、肯定的感情だけを前面に押し出して歩んできたのが動員学徒の戦後ではなかったでしょうか。
イペリット爆弾の製造
日川中の4年生が勤労学徒として入廠したのは、1944年7月17日のことでした。横須賀海軍工廠と相模海軍工廠に100名ずつ、また3年生は同年9月30日に平塚にある第二海軍火薬廠へ配属されました。平沢欣吾氏(旧制日川中43回)は「山梨県民の会ニュース第10号」上で、平塚の第二海軍工廠へ配属され火薬の製造に携わったと書いています。一方毒ガス弾は相模海軍工廠で製造されたようです。動員先で彼らを待っていたのは火薬、毒ガス、あるいは手榴弾などを製造する「各種のガスの充満する最悪の環境」(『百年誌』88頁)でした。同誌にはイペリット爆弾を製造する工場内のようすが記録されています。
「相模工廠は化学兵器の製造を主とし、寒川組のうち約20名は『イペリット』爆弾の製造に従事した。3人ずつが工員の指導を受け、毎日5個ずつ60キロ弾にガス液の筒と火薬を装填し、パラフィンを流し込み、これを固定して組み立てる作業だった。(中略)作業については緘口令が布かれ、工事は同廠より離れ兵隊の監視つきであった。ガス液が皮膚につくとただれ、ガスにやられた喉は痛み大きな声は出ない。そのために弱った体を点呼の時に先生から軟弱だと怒られ情けなかったと言う。特に第2工場は最悪で、工員たちの顔色はどす黒く、咳は止まらず、血痰を吐く悲惨な状況であった。3ヵ月毒ガス弾造りをして静岡の豆陽中と交替した。このガス弾は「6番1号陸用爆弾」と称し、600トンが生産された。後にこの生産に従事した工員等の提訴が認められ、平成11年6月、国はこれを認め、同年10月動員学徒としては54年目に救済認定を受けた」。
これはイペリット爆弾を製造した側、つまり旧制日川中学側の記述です。その一方で、戦後になって戦時中に日本軍が運び込んだイペリット爆弾で死傷者が出て裁判になっている事実があります。場所は中国です。2003年9月、東京地裁が日本政府に対し「毒ガス中国遺棄」に賠償を命ずる判決を下したことは、ご記憶かと思います。原告は13人の中国人でした。
報道によると、猛毒のイペリットなどの毒ガスが詰まった化学兵器は、日本政府の推計では、中国の黒竜江省や吉林省を中心に70万発が埋まっているといわれています。しかし実態は不明で、中国側は200万発と推定しているようですが、いずれにしても旧日本軍が中国大陸に運び込んだものでした。私は中国人被害者の証言を読み、彼らに被害を与えた毒ガス弾は日川中の動員学徒が製造したものではないかとの疑念を抱かずにはいられませんでした。
手渡された青酸カリ
1945年8月15日、アジア・太平洋戦争は敗戦という結果に終わりました。当時のようすについて、『日川高校物語』340頁にはこう書かれています。
「平塚で終戦を迎えた4年生たちは、17日ごろには、それぞれ故郷に帰ってきた。持ち物はただリュックサック一つ。それに『米軍が相模湾から上陸するから万一のときに…』と手渡された青酸カリ一包ずつもって…。しかしこの青酸カリも必要なく9月の新学期から授業をはじめた」と書かれています。青酸カリを手渡したのは海軍の関係者だったのでしょうか、それとも学校関係者だったのでしょうか。その青酸カリは誰の責任で、どのように回収されたのでしょうか。ぜひとも証言を得たいと思います。当時の校長は萩原右三郎(第10代
在任1944年3月〜1946年3月)でした。この校長は敗戦の約1年前、相模海軍工廠から感謝状を受けています。
「聖戦茲ニ三歳国家興亡ノ岐ル秋ニ当リ貴校生徒一同ガ当初緊急増産丸戦工事ニ多大ノ寄与ヲセラレシニ対シ深甚ナル敬意ト感謝ノ意ヲ表シ候、昭和19年10月15日 相模海軍工廠第二火工部長海軍技師理学博士箕作秋吉 山梨県立日川中学校長 萩原右三郎殿」(『日川高校物語』336頁)
現在も日川高校に残るというこの感謝状にある日付は、先生方が動員されて間もない頃の日付です。その萩原校長の敗戦後の第一声は意外なものでした。校長は全校生徒を前に、「みんなに苦労をかけたが、こうした結果になってしまった。これからは本来の目的である勉学に励んでほしい」と訓示しました。校長は「学校報告隊」隊長として学徒動員を命じた文部大臣や地方長官に対する責任や重圧は感じても、隊員である生徒に対する責任という意識は希薄でした。人命が最も軽視された時代でした。昨日まで「決戦」を叫んだ校長が明確な弁明もないまま「勉学に励むように」と訓示したわけですから、生徒たちの間で割り切れない思いが噴出したのは当然だったといえます。
石森山事件と答案白紙事件
平塚の兵器工場から日川中学に戻った生徒たちの不満の矛先は、昭和天皇や東条英機首相を頂点とする軍国主義体制に向けられることはありませんでした。また、戦意高揚の役割を担った校歌や萩原校長に向けられることもありませんでした。十代半ばを過ぎたばかりという彼らの年齢を考えれば、彼らの怒りが身近な「軍国教師」に向けられたのは当然の成り行きといえるでしょう。彼らの憤懣を端的に表現するのは、「死地へ赴くことを得々と説いた教師が、なんで今さら『勉強しろ』といえるかといって息巻き、新時代の息吹をいち早く感じ取ったものたちは、学園の民主化をとなえて立ち上がった」(『日川高校物語』)という部分です。ストライキの先頭に立っていたのが級長を務めていた中村三郎、つまり先生でした。先生たちは近くの石森山にこもって気勢をあげ、先生が代表になって、@三教師の排斥 A学園の民主化 B動員先などで処分を受けた生徒の処分取り消しと復学の3点を要求しました。血判状の末尾には、「以上二百十名、四年生一同 昭和二十年十月二十五日」と記されています。その血判状のなかに「中村三郎」の名前があることを、私は日川高校の歴史を紹介したビデオのなかで確認しています。
日川中学の生徒たちが血判まで押して行動を起こしたという意味で、私はこの敗戦直後の「学園民主化闘争」は日川高校の戦後史において重要な意味をもっていると思います。生徒たちは民主主義についてはよく理解できなかったかもしれないが、皇国教育のいい加減さや理不尽さには気づいていました。校長や教師たちに生徒たちと正面から議論する勇気があれば、日川の戦後史はまったく違った方向に向かっていた可能性があります。しかし、教育者として自責や贖罪の気持ちを吐露しつつ、生徒たちの怒りや苦しみを共有しようとした教師はいなかったのです。
戦争を語れなかった教師たち
「白紙答案事件」をふくむ「民主化闘争」の結果、ターゲットになった3教師は学校を去りました。事態を収拾するために当局が相談した結果、処分を伴わない転勤を命じたのかもしれません。一方、生徒の中からも18人の処分者を出しました。自ら責任についての弁明をなすべき地位にいた萩原校長は職を辞することもなく、翌年3月までその地位にとどまっています。生徒の中に処分者が出たということは、萩原校長が生徒の動きを単なる校則違反としてしか受け止めていなかったことを示しています。
萩原校長の後任は小林定雄校長(第11代 在任1946年3月〜1950年3月)でした。小林校長について『日川高校物語』は、「ストライキ、白紙事件とすさびきった生徒たちを、かつての平和な時代の生徒たちの姿に引き戻した功績は第11代校長小林定雄の力によるところが大きい」と書いています。しかし、小林校長は前任者の萩原校長と同様、「民主化」を求める生徒の動きに反応できるタイプの教師ではありませんでした。
「敗軍の将、兵を語らず。谷村工商から日川中学に来た私は、東条さんのことも、萩原右三郎先生のことも、教育勅語のことは勿論のこと、日本の将来のことも語らなかった。一校の校長として真に申しわけない一ヵ年がすぎた。しかし、その間、戦争のない文化国家なんてありっこはない。日本の歴史、世界の歴史を見て戦争はその時代の行きづまりであり、次への躍進の段階であると信じていたからであった。」(『同窓だよ』第3号 1965)
この文章を読むと、全国の学校が皇国史観の校歌を改変しようとしていた動きの中で、小林校長が「天皇の勅」を称える校歌を手付かずのままにしたのは不思議ではありません。小林校長が赴任する二ヶ月前には昭和天皇の「人間宣言」があり、11月3日には日本国憲法の公布、翌年3月31日には教育基本法が、そして、5月3日には日本国憲法が施行されました。これらの歴史的な出来事やその意義について生徒に何も語らなかったというのです。小林校長は、前任校の谷村工商に在任中の1943年に、「山崎魂に学ぶもの」と題する論考を「山梨教育」に載せています。
「日本人の血の中に流れるものを代表してくださった吾が郷土の山崎保代部隊長に感謝すと共に、普門寺の門前にある吾が校の生徒教養に如何に活用するか目下考究中なり。(郷土教育上永久に学ばねばならぬが故に)」
山崎部隊長とは部下将兵150人の先頭に立ちアッツ島で玉砕した軍人で、日川中の第6回生でした。山崎大佐の「玉砕」を「郷土教育上永久に学ばねばならない」と信じていたその教師が、萩原校長の後任として日川高校の校長となったのです。あれから58年が経ちました。日川高校校歌を擁護する動員学徒諸氏には、敗戦直後の「民主化闘争」についてもう一度振り返っていただきたいと思います。
(2004年5月)
【追記】 この「中村先生への返信」は、「『天皇の勅』失効確認を求める山梨県民の会ニュース」に掲載した3通の手紙を「ホームページ」用に再構成したものです。(筆者
2008・6・22)