返信W 良心が発する「否(ノン)」の声
中村三郎先生(旧制日川中学44回卒)への返信
河西久(原告・日川高17回卒)
「無批判盲信の時代」への反省
前回は「動員学徒諸氏へ」と題する先生への返信で、同級会の席で先生の校歌に対する異論がブーイングを受けた話をとりあげました。異論を唱える者が身内の者たちから排除されるという事例は、山本校長が受けた「小突き事件」に象徴的に示されています。「天皇の勅」を称える校歌に異論を唱える者は、たとえその人が大学の名誉教授であっても現役の校長であっても排除の対象となるのです。こう書くと、日川の戦後史は一貫して異論を拒む教育環境であったかのように思えますが、先生も同窓会誌等でご存知のように、校歌問題が1985年に公になる前、つまり校歌に権限をもつ現職校長が異論を唱えるまでは、さまざまな形の異論がそれなりに受け入れられていました。
同窓会誌(1976年)には、「われら力よわき者なりしも ――否(ノン)と言うこと――」のタイトルで先生の文章が掲載されています。
「(前略)あの頃(戦時中―筆者)は無批判盲信の時代だった、と今更らしく言うつもりはないが、批判したり、否定したりする真に根元的な精神の姿勢を僕らは学んでいなかった。(中略)今日必要とされるのは盲目的信従でもなく、偽りの覚醒でもなく、状況への私心なき憤り、その憤りを抑えた静かな拒否の精神ではないか。31年前のあの頃を振り返って、とらえどころのない混沌のなかから僕らがすくいとることのできる、これは一滴である。当時の僕らは無知で無力な世代だった。が、知りすぎて無気力になる愚かしさは幸い持たずにすんだ。だから僕らは自らを其の拒絶の精神へと鍛えあげるのでなければならない。拒絶すること、『否(ノン)』と言うことはけっして容易なわざではない。(後略)」(『同窓だよ!』14号)
過去の同窓会誌において、伝統校である日川高校の「盲目的信従」や「偽りの覚醒」に対してこれほど真摯に批判した人がいたでしょうか。先生はさらに、「教育の行き詰まりと破局的な状態」から脱するための方策として、「まずもって教師が教育の本質について強固な意識をもち視野のせまい誤った教育要求に対しては自信と勇気と英知と心情を以て『否(ノン)』と答えるようにならなければならない」と教師たちに呼びかけています。仲間内での付和雷同を諌め、教育者としての良心の声を大切にするよう促したこの文章は、同じ教育環境で学んだ私たちに大きな勇気を与えてくれました。同窓会誌上で発せられた先生の「否(ノン)」の叫びは、「無批判盲信の時代」に対する自省の声であり、また、恩を中核とする身内意識と衝突した良心の叫びではないかと私は考えています。
「恩のシステム」と個人の良心
たしかに私たちは、戦後も歌い続けられてきた戦意高揚の校歌に対し「否(ノン)」の声をあげました。以来紆余曲折を経ながら20余年の月日が経ちましたが、2005年に東京高裁は、「日川高校校歌の歌詞が日本国憲法の精神に沿うものであるかについては異論がありうる」、「十分な議論が必要である」との判断を示しました。これを受けて私たちは、校歌に権限をもつ市川校長や校歌を擁護する同窓会長に対して議論の場の設定を求めてきましたが、今もって何の回答もありません。
日本国憲法下の公立高校でありながら、なぜ日川高校は司法が促す議論ができないのでしょうか。日本はほんとうに民主主義の国なのでしょうか。「日本は成熟した民主主義国である」と言い切った政治家がいますが、日本が西洋の国とは「国情のちがう国」であることを認める政治家は多く、当然国情がちがえば民主主義の成熟度に差が出てくることが考えられます。アメリカのCNNは民主主義について、
「Democracy means different things in different nations.(国が違えば民主主義の内容にも差が出てくる)」と最近繰り返し放映しました。また、アメリカのある学者は、「民主主義とは闘い続けるものだと考えている」と述べて、民主主義が完結した概念ではないことを強調しています。個人の尊厳は民主主義の基本に位置するものですが、都市生活者はともかく、日本の伝統的な共同体では個人の意見は「我を張る」とか「我を通す」と否定的に受け取られています。たしかに外見的には民主主義国の装いはしているものの、個人の意思を抑えお上の意思に従うよう躾けられる国柄は、相変わらず「臣民民主主義の国」であると言わざるを得ません。
「臣民民主主義国」日本を特徴付ける重要な価値として、恩を中核とする「身内意識」があげられます。恩はタテの関係で貫かれており、両親の恩、先祖の恩、親戚の恩、「わが師の恩」、先輩の恩、地域社会の恩、皇恩・・・と私たちは子どもの頃から目に見えないこの「恩のシステム」の中で育ってきました。その意識は記憶のひだに深く刻まれ、行動をこまかく規定しているばかりでなく、私たちはある行為が報恩に反するどうかを見きわめる鋭敏な感覚を備えています。「おかげまさで」という言葉と報恩行為は「システム」のあらゆる段階で美化され、その行為に対してさまざまな恩賞が用意され、そこでは批判精神や懐疑の精神は育つ余地がありません。父母を敬愛するという自然な行為が国家の道徳として取り込まれているのです。
宣戦布告の日、高村光太郎は、父母の恩に発する心情が天皇を護るという心情へ変化する機微について詩にこう書きました。
「(前略)天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと、
あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもろう。(後略)
「真珠湾の日」の題をもつこの詩は、日本人が心にもつ「恩のシステム」が自動機械のように作動を始めるのがわかります。システムの頂点にいる天皇陛下を守るために、またその国土を護るために、子ども・おじいさん・父・母・祖先のイメージが総動員されています。そこには状況に対する冷徹な分析はなく、ただ条件反射的に「身をすてて陛下をまもろう」という行為だけが求められています。たくさんの戦争詩を書いた「明治人」の高村光太郎は戦後「暗愚小伝」を書き、花巻郊外の山小屋でひとり農耕自炊の生活に入ったと伝えられていますが、一方「無批判盲信の時代」に日本の政治の中枢にいた人々の多くは、戦争責任追及から逃れるためにこの「恩のシステム」の中に身を隠し、「偽りの覚醒」を演出しながら戦後を生きたのです。先生ご指摘の「偽りの覚醒」の内実について、さらに究明が必要であると考えています。
個人の良心に従った山本校長
さて「恩のシステム」についてですが、これを否定的に感じる日本人は圧倒的に少数だと思います。何かを成し遂げた人が「恩返しをしたい」と考えるのは日本人にとって自然な感情であり、そこには「否(ノン)」は建前上存在しません。前述のように、戦前・戦中の日本人は自動機械でしたから、たとえ自国民が何百万人が死ぬ結果になっても上位の決定は「良かれと思ってなされた行為」であり、下位の者はこれに「否(ノン)」と言うことができませんでした。戦後63年経過しても、日本人に被害感情しか残らないのは、父母、おじいちゃん、ふるさと、そして天皇陛下の名誉を護ろうとする「恩のシステム」が働いているからだと思います。
しかしながら、たとえ人間としての良心が「恩のシステム」と衝突するにせよ、「否(ノン)」の叫びを余儀なくされる人は必ず出てきます。日川高校校歌問題にかかわった人々の中から、キリスト教徒として、また科学者として、個人の良心に忠実であろうとしたふたりについて書いてみたいと思います。ひとりは山本昌昭校長です。もうひとりは小出昭一郎先生ですが、後述します。
山本校長は日川中学第40回(1944年3月卒)の卒業生であり、先輩・後輩関係を重視する校風に育ちました。山本校長の兄の育勇氏は陸軍航空兵大尉として重慶爆撃に参加し、「空爆九十回の勇士」、「落行くの翼から敵一機を撃墜す」などと戦時中に新聞紙上で称えられた日川中学卒のヒーローでした。1940年6月16日に重慶で「散華」したことで、東條英機陸軍大臣(当時)より「人生有限名無儘」の色紙が贈られ、そこでは滅私奉公した臣下の命が称えられています。そのような兄に対して校長は、1942年6月20日発行の追悼録の中で、「兄上に捧ぐ」と題してこう書いています。
「(兄が)年若くして戦死した事は不幸であるが、その最後を立派に飾って散華した軍人として是以上幸福な事はなかったらう。こんなことを書いてゐると、天で兄が笑って話し掛けて來るやうな氣がする。」
兄の育勇氏は日川中学の卒業であり、「天皇の勅」の校歌を聞きながら戦場に赴き皇国に殉じた「質実剛毅」の人でした。弟の山本校長も同じ日川中学で学び、軍人として「散華」した兄を誇りとしていました。その後山本校長は敬虔なキリスト教徒になりましたが、兄への愛情や報恩の気持ちとキリスト教徒としての個人の良心は矛盾なく並存していたと思います。報恩と個人の良心の狭間でゆれる校長の胸中について、山本校長はこう書いています。
「この三月(1985年)、名門日川の校長を拝命したとき、感激の中にもある種の心配がよぎった。伝統校なるが故に、種々当惑する問題にも出会うだろう。その時どうしたらよいか。このとき、すぐ頭を突いて出て来た言葉は、旧約聖書イザヤ書30章の21節だった。それはこうだ。『あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで<これは道だ、これに歩め>という言葉を耳に聞く。』私はこの言葉を信じ、聖書の神の加護を念じた。」
山本校長は、校長として赴任する際、すでに「当惑する問題」の発生を予見していたことがわかります。「当惑する問題」のひとつが「小突き事件」でした。小突いたのは「恩のシステム」であり、小突かれたのは「個人の良心」でした。
皇国に身を捧げた天国の兄は、母校の校長となった弟のことをどう思っているのでしょうか。重慶で「散華」した育勇氏は、2006年10月25日、日中戦争中の重慶無差別爆撃の責任を問う裁判が東京地裁で始まったことを知っているかもしれません。報道によれば、抗日拠点であった重慶への爆撃は5年続き、中国側の記録で2万人を超す死傷者が出たと言われています。重慶爆撃のヒーローであった育勇氏は嘆いているでしょう。「俺たちは無批判盲信の時代に生きていたのだ」と。そして、個人の良心に従って生きることのできる弟を、またその時代を、きっと羨望のまなざしで見つめていると思います。
「勲二等」を辞退した科学者
つぎに、小出昭一郎先生のことにふれます。小出先生には17人の原告(すべて山梨県民)のひとりとして「日川高校校歌訴訟」に参加していただきました。小出先生は東大名誉教授・山梨大学学長・山梨県立短大学長を歴任された方で、私は先生が代表世話人をしている「山梨平和を語る会」で親しくお話を伺う機会がありました。小出先生のことで忘れられないのは、「語る会」の席上で「勲二等受賞の内示を断った」という話を直接本人から聞いたときでした。それは仲間うちの話でした。「こんな賞をもらうとみなさんに笑われますから」、小出先生は小声でそう言いました。「語る会」のような世のしがらみとは無縁の集団だからこそ言える裏話だと思っています。
小出先生が「勲二等」を辞退するということはどういうことなのでしょうか。恩賞が欲しくて画策までする人がいると聞く中で、このような学者もいるのだと不思議な気持ちになりました。「勲二等辞退」という「(否(ノン)」の声は科学者の良心が言わせたものにちがいありません。先生は科学者として、叙勲制度に象徴される「恩のシステム」などには何の関心もないのだと思いました。
物理学者であり反原発運動にも積極的に取り組んでいた小出先生は、日川高校校歌問題にも積極的にかかわってくださいました。2000年8月6日に「語る会」が送付した「日川高校の校歌に関する意見と質問」で先生はこう書いています。
「(前略)戦後、日本は民主主義国となり、政党の名にも『民主』をつけたものが多いのは、この体制を維持しようという決意の現われだと思われます。その日本に過去の軍国主義の遺物のような時代錯誤的校歌が残っていて、それを改めることがタブーになっているというのは何故でしょうか。全く理解できません。今の世界に通用しない『伝統』への郷愁にしては執着が強すぎて、偏屈という印象さえ受けます。日川高校は来年創立百周年を迎えると聞いております。校歌問題を解決し、この一つの大きな節目を、21世紀にふさわしく世界に誇れる『日川高校』として迎えるべきではないでしょうか。(後略)」
私は小出先生や「語る会」の仲間を案内して、日川高校の校長室を訪れたことがありました(2000・10・2)。当時の木藤校長に公開質問状を手渡し、校歌についていろいろ訊ねましたが、校長は「校歌問題は解決済み」だとし、校歌の中の「天皇の勅」は教育勅語のことを指すのかと言う質問に対しては「ノーコメント」の回答しか戻ってきませんでした。小出先生の質問をなんとかかわそうとする母校の校長を見て、同窓生として悲しい思いをしたことは今も忘れません。 (2008・7・15)
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