問題追及
開き直る学校・同窓会 同窓生・原告 河西久
1 日川高校校歌と高裁判決
「天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち 勲立てむ時ぞ今」― 1916年(大正5年)に制定された山梨県立日川高校校歌3番の歌詞である。国会議員で勲一等の田辺国男同窓会長(在任1977年~2003年・名誉会長・2005年死去)は、1980年の同窓会誌(1頁)にこう書いている。
■「わが母校日川は、来年、創立80周年を迎える、という長い歴史の中で、創立当時から校章・校歌・校風を全く変えずに通している、全国稀有の存在です。『文武両道』『質実剛毅』という伝統的な教育方針が今日なお抵抗なく堅持されており、そこに脈々として日川魂が受け継がれてきました。それを、われわれ日川人は、なによりも誇りとしています。(略)もし『新しい』ことのみが尊ばれ、『古い』ものが頭から否定される論法からすれば、わが日川は、かたくなに古い伝統を守り続けている、アナクロニズムの権化のそしりをまぬがれないでしょう。しかし、質実剛毅の校風が、80年の歴史の変遷に耐えて、今日なお生き続けているということは、たとえ時代が如何に変わろうとも、『良いものは良いのだ』という、高い評価と強い支持を得ているからに他ならないと思うのです。(後略)」
たとえ「アナクロニズム(時代錯誤)の権化」と言われようとも伝統の校歌・校章・校風を守っていこう、そう同窓会長は呼びかけている。そして、たとえ校歌が日本国憲法と齟齬をきたすにしても「良いものは良い」のであり、これを死守しようと訴えている。これが日川伝統の「反骨精神」らしい。
ここでは法治国家の公務員としての規範意識は希薄である。同窓会主導の校歌の「死守宣言」ともとれる発言である。山本昌昭第23校長が現職校長として問題提起したのが1985年。その主張に共鳴した私たちの動きが訴訟に発展したのが2004年。その間の約20年という歳月は、田辺同窓会長の在任期間とほぼ重なっている。
国会議員でもあった同窓会長は、日川高校校歌がアナクロニズムであることを認識していた。また国会議員として、「天皇の勅」(詔勅)が日本国憲法によって失効となり、国会においても、排除・失効の決議がなされていることも知っていた。国会決議は失効・排除の理由として、
■「これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。」
と明記している。
「日川高校校歌問題」の核心は、日本国憲法をはじめとする法的規定で排除・失効している「天皇の勅」を公立高校の生徒に歌わせることが許されるのかということである。2006年5月17日東京高裁は、校歌指導に支出された公費の損害賠償は棄却したものの、つぎのような判決を下した。
■「本件歌詞が国民主権、象徴天皇制を基本原理の一つとする日本国憲法の精神に沿うものであるのかについては異論がありうる。」
■「本件歌詞を含む本件校歌指導を教育課程に取り入れることの当否についても、十分な議論が必要」
この判決が下されたとき、メディアの多くは簡単に「原告敗訴」の文字を紙面に載せた。しかし、「山梨日日新聞」だけが「実質勝訴」と報じている。「日川高校校歌問題」の本質を知る地元の新聞ならではの分析だった。私たちが最高裁に上告しなかった理由の一つは、この校歌の処遇についてはまず議論が必要だと考えていたからである。国会決議が手続きを経て詔勅の排除・失効を決議したように、「天皇の勅」を称える校歌も手続きを踏み、論理的に公教育の場から排除されなければならないと考えていた。校歌を残すにしても排除するにしても、なぜこの校歌が問題なのか、議論を尽くすことが日本国憲法の精神であると思っていたからだ。
しかしながら、状況は現校長や新同窓会長の時代になっても変わらない。変えないことが伝統だからである。校長や同窓会長は甲府地裁提訴の段階でこう述べている。
■「教育勅語を歌いこんだという根拠はなく、歌詞は象徴天皇だと解釈している。」 (鶴田正樹第30代校長『朝日新聞』2004・1・24)
■「教育勅語でなく、国民の幸せや世界平和を願う天皇陛下の言葉と考えればいい。」(『産経新聞』2004・1・23 加藤正明同窓会長 在任2003年~ 元山梨県教育長)
また、市川今朝則現校長は高裁判決が下された後こうも述べている。
■「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っているんです。」 (『朝日新聞〔全国版〕』2006・8・8)
これらの発言は、校歌改廃の権限をもつ校長や日川教育に強い影響力をもつ同窓会が、校歌問題については「すでに決着済み」(木藤勇興第29代校長の言葉)と言っているように聞こえる。提訴時に新聞紙上で紹介された日川高校2年生女子(17)の言葉は印象的だ。
■「時代にそぐわない表現があるとも思うが、(学校や同窓会など)大人が議論して結論を出すべき問題だ。」(『山梨日日新聞』2004・1・23)
日本国憲法をはじめとする法的規定が存在するかぎり、日川高校校歌について議論を求める声は、これからも続くだろう。校長や教師を含む関係者たちは、高裁判決を真摯に受け止め議論を始めるべきだ。(2007・10・22)
2 “神州第一の高校を目指しなさい”
『百周年記念誌』に掲載された「神州第一の黌」
戦後の日川高校関係の文献で「神州」の文字はこれが初出であろう。「神州」の文字を含む「日川高校詩」は、2001年11月3日発行の『百周年記念誌』(以下『百年誌』)上に掲載された。近藤百之第16代校長(在任1966・4~1970・3)の作であり、編集長は加藤正明現同窓会長(元山梨県教育長)である。
日川高校詩 近藤百之
文武切磋弟与兄 文武切磋す 弟と兄と
質実剛毅鉄石盟 質実剛毅 鉄石の盟
君不見故新脈々伝其粋 君見ずや故新脈々として其の粋を伝ふるを
須期神州第一黌 須く期すべし 神州第一の黌
『百年誌』は、この詩を書いた近藤校長の「日川の教育方針」あるいは教育論について、「時代を超えた至言」と賛美している。「ここまで書くとは・・・」、それが私の正直な感想だった。この詩がそれから3年後の提訴への引き金であることを明らかにしておきたい。
「日川創立百周年」にあたる2001年は、日川高校が「神州第一の高校」を目指すことを宣言した年として、また、日本国憲法を超える価値をもつ教育機関としての誇りを刻んだ年として記録されるだろう。日川高校の教師たちは、この表現にどう反応したのだろうか。彼らは「神州第一の高校」の教師であることを自認しているのか、それとも反論できない重圧下に置かれているかのどちらかだ。
「創立百周年」前年の2000年5月、森喜朗首相は「日本は天皇を中心とする神の国」だとするいわゆる「神の国発言」を行った。これは「与党内にも懸念」(『朝日新聞』2000・5・17)を生じさせるほどのインパクトを持っていた。しかし、「日川人」たちは動じなかったにちがいない。「懸念」を感じていれば「神州」の表現は自粛していただろう。むしろ「神の国発言」は、「天皇の勅もち・・・」の校歌への追い風とみなされたのではなかったか。
「校歌改定を求める声を一蹴!」
「日川高校校歌問題」は、『百年誌』上では完全に無視されている。そこには、学校と同窓会の双方が校歌に異論を唱える声を「一蹴した」(42頁)と書かれている。
「明治期まで歴史を遡ることのできる高等学校の中で、戦中戦後を通し校章・校歌をそのまま受け継いでいる高校は、全国で20余校程度はあるようだ。本校では、昭和23年(1948年)4月、新制高校発足後、ときに校歌の改定を求める声もあったが、学校や同窓会はそれを一蹴して今日に至った。」
1985年以来続いている私たちの「議論を求める声」はまったく無視されていることがわかるだろう。「一蹴」の表現は、議論の対極にある表現である。校歌に異論を唱えているのは「ほんの一部の人々」(田辺前同窓会長)ではなく、日本国憲法をはじめとする法的規定である。だから議論すべきだ、という主張は通らない。高裁が「歌詞が憲法の精神に沿うかは異論があり得る」と判決を下しても、「何事に対しても異論はあり得る」(市川今朝則現校長発言)と開き直る校風である。この市川校長発言は、提訴時の校長や同窓会長のコメントと同じ論理であり、あまりに恣意的と言わなければならない。
■「教育勅語を歌いこんだという根拠はなく、歌詞は象徴天皇だと解釈している。」(鶴田正樹第30代校長・『朝日新聞』2004・1・24)
■「教育勅語ではなく、国民の幸せや世界平和を願う天皇陛下のお言葉と考えればいい。」(加藤正明第5代同窓会長・『産経新聞』2004・1・23)
校歌に歌われる「天皇の勅」は教育勅語である
「日川高校校歌問題」の取り扱いには慎重さが必要だ。校歌改定への意欲を明らかにした現職校長が恫喝される教育環境である。その一件も含め、順次報告したいと考えている。まず必要なのは、日川高校校歌に歌われる「天皇の勅」が教育勅語であるとの証言だ。戦前・戦中に「日川教育」を受けた人々の声である。
■「本校の特色は校歌の示すところの質実剛毅、吾人の使命は教育勅語の趣旨に則って国家有用の材となること、この精神に躍動する本校生徒は今後幾多の歴史的の推移はあろうとも断じて、不健全なる思想に惑はされずに真面目に日本帝国の前途を思ふ覚悟が無ければなるまい。」(教諭 池田哲三・『学友会報』32号・昭和10年3月・『百周年記念誌』318頁)
■「質実剛毅で始まる節の中に出てくる『天皇の勅もち』のところです。(略)私ははっきり言いました。これは具体的には教育勅語の奉戴であると。明治23年発布以来大正昭和にかけて半世紀余り、日本の教育はこれによって体系化され、進展し、日本の発展をみることができた。そして一旦緩急あれば義勇公に奉じて、事実われわれの先輩をはじめ同級生や後輩が血を流してきた。〔後略〕)(町田茂雄第18代校長の回想・旧制日川中27回卒・『同窓会誌』19号26頁・1981年。
町田校長の在任中〔1972年~1974年〕、生徒総会あるいは臨時総会の席上、生徒会長からの校歌に関する質問に答えて)
■「そもそも『天皇の勅もち・・・』とは明治天皇の下し賜うた『教育勅語』を履(ふ)み行うとの意であ(る)。(略)当時吾々は日中の教室で教わり今も承知していることである。」(庄司元敬・旧制日川中37回卒・『同窓会誌』34号 67頁1996年)
■「日川高校歌三番の歌詞にある『天皇の勅』とは何を指すのかというに、この校歌制定の時代背景からして、『教育勅語』であることは明らかである。」(山本昌昭第23代校長・旧制日川中40回卒・『百年誌』211頁)
(2007・11・15)
3 山本校長提言と「小突き事件」
『日川図書館だより』(1985年)で校歌問題を提言
山本昌昭氏(第23代日川高校校長)は旧制日川中学(中40回)の出身である。山本氏にとって、1985年は運命の年と言っても過言ではないだろう。山本氏が校長として日川高校に赴任したのは1985年4月。退任したのは翌年1986年3月のことである。戦後の日川の歴史を見ても、在任期間が1年というのは山本校長だけである。
山本氏は赴任した年、『日川図書館だより』(1985年11月11日発行)で校歌に関する所信を述べ日川高校校歌問題」の口火を切った。
「目下私にとって最大の関心事は校歌だ。1、2,4番はいいとして、問題は3番だ。『質実剛毅の 魂を染めたる旗を打ち振りて 天皇の勅もち 勲立てむ 時ぞ今』 これは一体この侭にしておいていいのだろうか。(略)こういう歌を歌って、お国の大事に殉じた時代もあったという歴史的事実を尊重して、歌い継ぐことを積極的に意義づける主張もあった。しかし、校歌には学校の教育方針も盛り込まれる筈だ。戦前、戦中ならいざ知らず、これから未来へ向かって羽ばたこうとする生徒には、それなりに胸を張って歌えるような歌詞でなければ困る。(略)私に課された使命の最たるものは、どうやらこの校歌問題との対決にあるらしい。」(『戦後50年
天皇の勅 シンポジウムの記録』4頁 以下『シンポジウムの記録』)
日川高校には、校歌への否定的な言及をタブー視する戦後の伝統があり、そのことを最も知って いるのが山本校長であった。日川出身の校長でなければ手がつかない問題提起であったと言え
るだろう。
『同窓会誌』上での問題提起
『日川図書館だより』が発行されたのが11月11日。 それより約1週間前の11月3日(文化の日)に恒例の同窓会総会が行われている。そして、総会に合わせて発行される同窓会誌の座談会に山本校長が出席し、問題提起をしている様子が記されている。テーマは「天地の正気の魅力」である。テーマが示すように、座談会は校歌を称える発言で終始するはずであったが、座談が終わるころ、山本校長から「新校歌検討委員会」についての発言がなされたのである。
「3番の『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち』というところです。ここは、今日的にどうつじつま を合わせようと試みても、すっきりしないものが残る箇所なので、この辺でもう一度、検討してみた いと思います。(略)委員会でも作って再検討してみたいと思っているわけです。」(『同窓会誌』 23号・19~20頁)
座談会は、山本校長、有賀茂同窓会常任理事(中25回)、田中勇第23回同窓会実行委員長(高9回)ほか、司会もふくめ8人で行われた。座談会はこの校長発言で終了するかにみえたが、司会者の指名を受けた有賀茂常任理事がまとめを行うかたちで発言を行っている。現職校長が「新校歌検討委員会」構想に触れ、同窓会理事の立場にある人物が校歌擁護の自説を述べ、それが活字なるのはきわめて異例のことであった。校長発言に対し、有賀氏はつぎのような反論を行っている。
「今、校長先生が言った、天皇(すめらみこと)、即天皇(てんのう)という解釈じゃあないんです。 天皇(すめらみこと)ということは、最も高く、最も尊いという意味です。『勅もち』は、その最も尊い 言葉を自分の心にすなおに向けて、一生懸命生きようとしますということであって、天皇という意 味は一つもないです。天皇(すめらみこと)、即天皇(てんのう)ということになったのは、明治以来 の天皇を神格化するための一部の政治家の言うことで、それまであった、日本の天皇(すめらみ こと)という意味は最も尊い、最も美しいものを全部天皇(すめらみこと)と言っていた。だから万 葉集にあるように、天皇(すめらみこと)が野原にもち草をつみに行った、一緒になってもち草をつ んだ、というわけです。最も高い、最も尊いところの人に謙虚な心で従うことが、『天皇(すめらみ こと)の勅もち』となるのです。」(『同誌』20頁)
有賀理事の解釈をすべて引用したのは、いわゆる「校歌擁護派」の人々の論拠を見極める必要があるからだ。彼らはいかなる論法で、何のために、どのような手段で、校歌を擁護してきたのか明らかにしなければならないからである。
議論を封じる有賀理事発言
賛否両論が許される場なら、有意義な座談会になっていたはずだ。しかし、校長の「新校歌検討委員会」発言についてほかの理事たちから何のコメントもなく、有賀理事は一方的に自説を述べたにすぎない。山本発言も提案という形式ではなく、所信を述べただけで、全体として議論が行われたという内容にはなっていない。有賀理事の反論も最終的に非論理的な表現で終わっている。
「校歌の天皇(すめらみこと)がひらがなで、『すめらみこと』と書いておいてあれば、こういう問題がなかった。いろいろな理念があるかもしれませんが、意味はわからなくても、この校歌を聞くと、みんなの気持ちが一つに解け合う、それだけで、ぼくはいいと思うんです。」(『同誌』20頁)
「校歌にはいろいろな理念があるが、意味はわからなくてもいい」という有賀理事の発言は、「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っている」という市川今朝則現校長の発言とも重なる。また、さかのぼれば、「良いものは、良いのだ」という田辺国男前同窓会長の発言(『同窓会誌』1980年)の非論理性にも通底している。そこには「校歌への異論は許さない」という暗黙の了解(日川タブー)があり、その背後に不穏な圧力装置が存在することは、以下の「校長小突き事件」に至る一連の動きが明らかにしている。東京高裁へ提出された「山本証言」から事件の概要を記述する。
「山本証言」によると、山本校長が同窓会の席で校歌改定へ意思を示したのは、11月3日の同窓会総会の約1ヶ月前の理事会だったという。その席で反撃に出たのが前述の有賀茂氏だった。「それは校長の考えなのか、それとも職員の間にそういう考え方があるのか」との有賀理事の質問に対し、校長が「私個人の考えです」と答えると、「校長個人の考えで校歌を変えようとは許さん。同窓会の名において許さん」と、「まなじりを決して」言ったという。同席した他の理事からも「その問題は今までも何回も問題になっている」、「どこまで行っても平行線だ、およしなさいよ」などの忠告がなされたというのだ。結局、山本校長は「先生方のそういうご意向を参考にしまして、もう少しよく考えてみますと、そう引き下がらざるを得ませんでした」と証言している。
小突かれた校長
「山本校長小突き事件」が起こったのは、理事会の日から1ヶ月ほど経った11月3日の同窓会総会当日のことである。事の顛末については、東京高裁に提出された山本元校長の「陳述書」(録音テープ)から引用する。聞き手は原告代理人の遠藤比呂通弁護士である。
代理人「そういう祝辞を述べた11月3日、これは1985年(昭和60年)ということになりますよね。その終わった後何かありましたか。」
証人「その同窓会総会が終わった後です。校庭を歩きながら、平素私の親しくしておる同窓会の理事の一人が、山梨県議会議員をその当時現職でやりましたが、肩を並べながら、いきなり言うのに、『校長、校歌を変えるじゃあねえぞ』、『校歌かえるじゃあないよ』と言ったのかな。もっとまろやかな言葉かな、『校長、校歌変えるじゃあねえよ』という山梨県の方言みたいな、そういう言葉で私の並んで歩いている肩をこうやって、小突いたんです。」
代理人「『こうやって』というのは、ひじ鉄をくらわせるというようなかたちで。」
証人「そうです。ひじ鉄をくらわせるようなかたち。」
代理人「校長先生にそんなことをしたんですか。」
証人「ええ。」(後略)(『山梨県民の会ニュース』第23号)
山本氏の証言から、小突いたのは当時県会議員をしていた同窓会理事であることがわかる。それより1ヶ月前の理事会で「校歌を変えることは許さん。同窓会の名において許さん」と述べた有賀氏と、「校長、校歌かえるじゃあねえよ」と言ってひじ鉄を喰らわせた人物は、同じ同窓会の理事である。校歌に権限をもつ山本校長は、「校歌擁護派」の同窓会から恫喝と暴力を受けたのである。
有賀氏は、「校歌擁護派」の実行部隊長として多くの場面で重要な役割を果たしてきた人物である。『日川高校物語』(214頁)は有賀氏について、「かつて『日本の強さは天皇陛下万歳といって死ぬ軍隊と児玉機関』と評された『児玉機関』の知恵参謀」と紹介している。
「汝が命生けらむ限り、いそしみて、いさをを立てよ。国の為――。民族の為――。
虔々し 勅のまま。」(『日本浪漫派・その周辺』29頁)
これは折口信夫(釈超空)が慶応義塾大学出陣学徒壮行会に寄せたという「出陣歌」である。有賀氏は、学生時代に折口信夫から教えを受けたと自負する人物だ。この歌は、「天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今」と歌う日川高校校歌とうりふたつである。筆者の栗原克丸氏は、「彼(折口)はその超国家主義思想をいささかも変えることなく、戦後の民主主義を全否定しつづけて、先年世を去った」(『同』35頁)と書いている。有賀理事も地元新聞の読者欄(『山梨日日新聞』1980/9/16)に「戦争協力者として自責も矛盾も感じていない」と自説を投稿しているが、恩師である折口信夫の戦後と自らのそれを重ね合わせていたのではないか。「自責も矛盾も感じていない戦争協力者」が自己の免罪と日川高校校歌の免罪とをリンクさせるという正当化の論理は、「昭和天皇の免罪」とどうつながるのであろうか。 (2007/12/7)
4 校歌擁護派のジレンマ
「天皇の勅」に収斂する「質実剛毅の魂」
日川高校生への課題
―― 日川高校校歌は「天地の正気」である。その3番では、「質実剛毅の魂を染めたる旗を打振りて 天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今」と歌われている。「質実剛毅」は校訓である。日川高校生として、校訓の理念について述べよ。――
このような論文形式の問題が出題されたら、生徒はどう回答するだろう。自分の学校の校歌・校訓であるから、平易な問題のように思えるが、じつは難問である。彼らは、校歌の文言について説明を受けたことは入学以来一度もなく、また考えたこともないというだろう。しかし、課題として出されれば、高校生は資料を探し出して答えなければならない。ポイントは、校歌の中の校訓の位置づけを見極めることができるかどうかである。「質実剛毅」という語いのみを取り出して校訓論を展開しても意味がない。力量を試されるのは、「日川高校生として」という部分である。私見をどう取り込むかがむずかしい。出題者が私ならば、校訓である「質実剛毅」とそれにつづく「天皇の勅もち」はセットになっている、そのような主旨が読み取れればマルにしたい。
同種の設問に対し、私たち校歌改定派は「訴状」の中でこう書いた。
「『質実剛毅』や『文武両道』などの校訓あるいは教育方針については、今日ほかの学校でも採用されているのをしばしば見かける。しかし、その用語自体に問題があると主張するわけではない。日川高校の場合『質実剛毅』が問題になるのは、教育勅語の中で、『父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…』という徳目が『一旦緩急アレハ義勇公に奉シ…』に収斂していたように、『質実剛毅の魂を 染めたる旗を打振りて』で始まる校歌の3番は、『天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今』に収斂しているところにある。『質実剛毅』と『天皇の勅もち』は、一体不離の教育理念として切り離すことはできないものとされているのである。」(『訴状』2004年)
「質実剛毅」を校訓と定めている日川高校は、同じ設問に対しどのような答えを用意するのであろうか。校歌擁護派のイデオローグの見解を聞いてみよう。「天地の正気」・「質実剛毅(の魂)」・「天皇の勅」の3点がセットとして扱われているかどうか否かに注目したい。
「校歌は憲法にあたる」
私が校歌擁護派のイデオローグとよぶ雨宮眞也氏(高校第5回〔1953年〕卒)は、「日川高校創立百周年」(2001年)に同窓会副会長をつとめている。それに先立つ1997年には弁護士・駒沢大学副学長の肩書きで、『同窓だよ』(同窓会誌)の特集記事(「日川発、21世紀へのメッセージ」)に「天地の正気の思想を遡る」を載せた。
「日川の卒業生の校歌を愛する心は極めて強い。卒業生の集うところ、必ず『天地の正気』あり、である。校歌は、建学の理念と教育の理想を最も直截に示すものであり、国家でいえば、憲法に該る。校歌の中に日川の教育の真髄を探ることができる。」
雨宮氏は、校歌の中に「日川教育」の真髄があるという。また、校歌は憲法にあたるという。その憲法が大日本帝国憲法なのか日本国憲法なのか明らかにされていないが、書いたのが1997年であることから、日本国憲法であると理解しておくことにする。
冒頭でこう位置づけたあと、雨宮氏は校歌の源流として、南宋の将軍文天祥(1236年~1282年)の「正気歌」と、幕末の儒者で尊王攘夷論者である藤田東湖(1806年~1855年)の「和天地正気歌(天地の正気の歌に和す)」をあげ、日川高校校歌との関係について簡潔に語っている。
「大正五年、旧制日川中学十五周年を迎えて、校歌の制定を依頼された大須賀乙字氏が藤田東湖の「和天地正気歌」の思想を基礎として「天地の正気」を作詞したであろうことは、その構成と文言からみて明らかである。すなわち彼は、校歌一番において、東湖の説く「至大にして至高」の正気が籠る富士ヶ根を理想と賛え、その二番において同じく「至誠」の精神を清き峡東の水に託し、その三番において同じく「至剛」の精神を質実剛毅の旗に示し、もって、日川に学ぶ者たちは、天に満ち地に溢れて森羅万象の根源たる天地の正気を胸一杯に吸い込んで浩然の気を養い、正道を歩むべしと鼓舞したのである。」(『同窓だよ』35号20頁・1997年)
たった2頁の校歌論にすぎないが、校歌擁護派・校歌改定派の双方にとって重要な資料である。校歌擁護派の考えを系統的に拝聴する機会はめったにないからだ。在校中に歌詞の説明を受けたことのない同窓生として、この短い校歌論から「日川教育の真髄」を学ばねばならない。要約すれば、雨宮氏の校歌論の要点はつぎの3点であろう。
校歌は ①建学の理念と教育の理想を示す。
②文天祥と東湖の「正気歌」が校歌の思想を形成している。
③校歌は国家でいえば、憲法にあたり、日川教育の真髄である。
短いが、具体的な説明だ。校歌の1番・2番・3番それぞれに、「至大にして至高」・「至誠」・「至剛」などの東湖の思想が反映されていると論じている。
しかし雨宮氏の文章には「天皇」あるいは「勅」についての言及が見られない。なぜだろう。校歌では「質実剛毅の魂を染めたる旗を打振りて 天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今」と歌われているが、「天地の正気」や「浩然の気」が国(天皇制国家)の制度の中でどう発揮されるべきなのかについてはひと言もふれていない。つまり「至誠」が捧げられるべき対象が描かれていないのである。文天祥や藤田東湖が言いたかったことは「正気」についてだけではなかったはずだ。
文天祥と藤田東湖の「正気歌」
雨宮氏は、文天祥と藤田東湖の時代背景についてこう説明する。
*「今を去る七百数十年の昔、南宗(ママ)の将軍文天祥は、元の大軍との戦いに敗れ、捕らえられて獄中の人となった。宗朝(ママ)滅亡後、文天祥は再三にわたる投降の勧めをしりぞけ、獄中においても意気浩然、「正気歌」を詠んだ。」
*「文天祥から歴史を降ること五百数十年、幕末の儒学者藤田東湖は、幼時から文天祥の正気歌を愛唱していたが、時に感じて「和天地正気歌」(天地の正気の歌に和す)を詠んだ。」
雨宮氏が取り上げた文天祥と藤田東湖の「正気歌」は冒頭部分だけであって、文天祥や東湖がその「正気」を国家の制度の中でどう生かすべきか述べた部分(下記の下線部参照)は省略されている。なお、雨宮氏の校歌論においては「正気歌」の漢文と読み下し文が書かれているが、ここでは他の文献から「概意」と「現代語訳」を引用する。
<文天祥の正気歌> 「概意」
天地有正気 天地には正気というものがある。
雑然賦流刑 いろいろな形となって万物を形造っている。
下即為河嶽 地上にあっては黄河や五嶽となり、
上即為日星 天井にあっては太陽や星となっている。
於人曰浩然 人の身にあっては浩然の気となり、
沛乎塞蒼冥 大海原を塞ぐ程盛大なものである。
皇路當清夷 皇道が正しく平和な世の中に時には、
含和吐明庭 和気あいあいと朝廷に花開く。
時窮節乃見 しかし一旦変事に当っては節操として表われ、
一一垂丹青 その一つ一つが歴史に残されている。
(『陶淵明と文天祥』近代文藝社・173~174頁)
<藤田東湖の正気歌>「現代語訳」
天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。
正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、
流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八州をめぐる。(略)
忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。
神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、
その明らかなる御徳は太陽に等しい。(略)
いつか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。
ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、
おまえと離れることを忍べようか。(略)
生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、
主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。
死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。
(八神邦建訳・ネット情報「正気の歌」で検索)
こうして全体をながめてみると、「天地の正気」の歌は、忠臣がもつべき気概や皇国への忠誠を表現したものであることが理解できる。「正気歌」は主君や天皇への献身を誓う忠臣の歌なのだ。藤田東湖の「正気歌」は幕末の志士を鼓舞したばかりでなく、明治・大正・昭和初期の愛国的な人々に愛唱され、文部省が編集した『国体の本義』(1937年)で引用され、さらに東条英機首相が1943年の学徒出陣壮行会で行った訓示の冒頭でも使われている。
雨宮氏は、なぜ「天地の正気」の収斂部分(下線部)の概要を省略したのであろうか。なぜ日川高校校歌が制度の中で担った役割にふれなかったのだろうか。その手法は、「教育勅語は人間の普遍的な道徳を述べている」という人々が、その道徳が最終的に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ…」に収斂していく部分を意図的に省略するのと同じであろう。日川高校のジレンマとは、「詔勅」の失効排除を定めた日本国憲法と「詔勅(天皇の勅)」を称える日川高校校歌が相克する姿にほかならない。
校歌の作者は国粋主義者
雨宮氏は、「大須賀乙字氏が藤田東湖の『和天地正気歌』の思想を基礎として、日川高校校歌を作詞した」と書く。日川高校校歌を作詞したのは大須賀乙字が東京音楽学校(現東京芸大)教授(35歳)のときであり、作曲を担当した岡野貞一は「春の小川」や「ふるさと」をつくった作曲家として知られている。
1985年の『同窓だよ』23号は、「『天地の正気』の原点を探る」と題して校歌作詞者である「大須賀乙字の周辺」について特集している。この特集にも、乙字の業績や校歌を賛美する記述が多い。その中に一行だけ、「(乙字は)やがて国家主義的思想家になっていった」と書かれた箇所が出てくる。この「国家主義的思想家の周辺」を検証すれば、日川高校校歌が戦前・戦中に果たした役割が見えてくるのだが、同誌はそこに立ち入ってはいない。同窓会誌が書かない部分を補足してくれたのが『大須賀乙字伝』である。
「乙字は厳父が著名な漢学者筠軒だったので、東洋的思想とその倫理観とを多分に継承した。また詩人・評論家の三井甲之を中心とした『人生と表現』派に属していたので、その『表現同人』の日本主義の影響を受け、自ら『宗旨は祖国主義』と言い(『自伝』)、民族主義を標榜し、その思想は極めて国粋的であった。」
『同窓だよ』23号と同様、ここでも乙字は「国粋主義者」だったと書かれている。大須賀乙字と三井甲之をつなぐ糸が少しずつだが見えてくる。『同誌』に「親友の三井甲之」と言う表現が使われているように、大須賀乙字と三井甲之は同じ「人生と表現」という文学の流派に属していたのだ。病気の妻を思い、家族を思い、国家の安寧や平和を願う心のやさしい人物が、その一方で「民族主義を標榜する極めて国粋的な」人物であったことがわかる。
国粋主義と皇国思想
三井甲之は山梨県の出身である。大須賀乙字が「極めて国粋的な人物」であったように、甲之も「極めて国粋的な人物」だった。『日本の歴史』第24巻「ファシズムへの道」362頁では、甲之は、蓑田胸喜とともに「右翼のごろつき学者」と決めつけられている。いわゆる学問的な歴史書において、「ごろつき学者」と名指しされた人物を私は知らない。蓑田(1946年自殺)は甲之の「御製研究」に影響されて激しい日本主義者となり、京大滝川事件(1933年)や天皇機関説問題(1935年)を引き起こした中心的人物であったと書物には書かれている。その甲之が太平洋戦争勃発前の1940年に旧制日川中学を訪れ、大政翼賛会委員の肩書きで講演を行ったという記録が『學友會報』No.41に残されている。
忘れてはならないことは、この甲之と日川高校校歌の関係である。校歌の作詞を乙字に依頼したのが「ごろつき学者」の甲之だったという事実である。山梨県立甲府第一高校『創立百二十周年記念誌』31頁(2001年発行)には、「日川中学校歌(現日川高校歌)は、三井(甲之)のあっせんで東京帝国大学の友人で、同じく『馬酔木』『アカネ』の同人だった大須賀乙字の作詞になる。」と書かれている。「日川教育」が果たしてきた役割と国粋主義との関係は、さらに深く研究されなければならないと思う。
大須賀乙字と三井甲之をつなぐ接点が国粋主義や皇国思想であることは、彼らがつくった歌が参考になるはずだ。「立太子奉祝歌」と日川高校校歌が同じ年につくられていることにも注目したい。
<山梨県立甲府中学校校歌> <立太子奉祝歌>
1928年10月23日制定 1916年制定
三井甲之作詞 大須賀乙字作詞
我等は日本に生れたり 小稲民草うち靡き
神の御代より一系の 思い出多きけふの日に
皇統戴く我國に 皇太子と告らします
生まれしことのうれしさよ 今日の御典をこと祝ぎまつる
御國の榮えは天地と
共に窮りなかるべし
<甲斐市竜王町山県神社内碑文> 三井甲之
ますらおのかなしきいのち
つみかさねつみかさねまもるやまとしまねを
「立太子奉祝歌」の中の「皇太子(ひつぎのみこ)」とは後の昭和天皇である。このふたつの歌について、私はかつて同人誌にこう書いた。
「(日川高校同窓会誌23号によると)、大須賀家には代々伝わる家系図があり、その出自は桓武天皇にまで遡ることができるのだそうだ。一方三井甲之は敷島町の大地主の家に生まれている。皇統の継承者であることを任ずる者と大地主の息子にとって、一般民衆とはその命を『つみかさねつみかさね』てもまだ積み重ねるのに十分ではなく、『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)をもち、勲(いさお)を立てむ』ためだけの民草にすぎなかったのだ。幾重にも積み重ねられた屍の一つ一つが私たちの父やおじたちのものであったのだ。乙字や甲之の国粋主義思想が結局日本を破滅に導く原動力となったことは、誰よりも彼らが神にまつりあげた昭和天皇の最近明らかにされた「皇太子への手紙」において明瞭に語られている。
『…敗因についてひとつ言わせてくれ。我が国人があまりに皇国を信じすぎて英米をあなどったことである。我が軍人は精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである。』(朝日新聞・1986年4月16日)
大須賀乙字の理想や世界観が本当に理解されていたならば、『天地の正気』も敗戦時に時代に殉ずるのが当然の道であった。少なくとも、『現人神』の『人間宣言』に値するものが教育者の間でもはっきり自覚されねばならなかったのだ。」 (『中央線』30号86頁・1986年)
「日川教育」のジレンマ
「『藤田東湖』(日本の名著第29巻)の責任編集者である橋川文三氏は後期水戸学(藤田東湖らの思想)の今日的意義を批判し、『同じ葬るなら手続きをとって葬ったほうがいい。そうでないと亡霊、伝統が出てくる』(同書付録)と警告しています。」
1996年に出版された『シンポジウムの記録』に書いたあとがきの一部である。過去20年余の間、山本校長と歩調を合わせて校歌問題に取り組んで以来、脳裏を離れたことのない一節である。 橋川氏が予見したように、伝統を振りかざした「アナクロニズムの亡霊」はすでにはっきりと姿を現している。しかしその「亡霊」は、公教育という制度の中に取りついているものの、日川高校校歌について明確に主張できないというジレンマに苦しんでいる。戦後の歴代校長の中で、校訓の「質実剛毅」と「天皇の勅」がリンクしている事実を公言した校長は、うっかり本心をもらしてしまった町田校長と、校歌にはっきり異論を唱えた山本校長の二人しかいない。ほとんどの校長は、伝統にしたがって手順どおりに「質実剛毅」をほめ称えるだけで、日本国憲法や国会決議等で廃絶・失効となった「天皇の勅」に言及できないままである。ためしに日川の同窓会誌を見てもらいたい。冒頭の「校長あいさつ」で日本国憲法にふれた校長がいただろうか。憲法の平和の理念を語った校長がいただろうか。現在日本国憲法下に暮らしている雨宮氏は、校歌論の中で皇国思想を削除したが、戦後の校長たちも校歌の「天皇の勅もち」の扱いに悩まされてきたはずだ。皇国思想を宣伝するわけにもいかず、さりとて日本国憲法を遵守するとも明言できないジレンマである。
■「各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ氣風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ」(『青少年学徒に下し賜わりたる勅語』1939年)
■「諸君は宜しく文を修め武を練り心身を練磨し愛國的熱塊を鍛え身をさゝげて皇運を扶翼し奉る皇國民たるべく期する處が無ければならぬ。」(内藤龍助第9代校長・『報告団報』第1号・1942年)
「青少年学徒に下し賜わりたる勅語」はもちろん、戦前・戦中の日川中学の校長には教育の目的に矛盾がなかった。「質実剛健」の気風をもち、「文武両道」に徹し、「愛国的熱魂」を捧げるのは皇国を扶翼するためであり、臣民としてその覚悟がなければならないと、じつにはっきりしている。同様に、敗戦後にできた教育基本法も、「教育の目的」や「方針」は明確である。
*第1条 ― 「教育の目的」― 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
*第2条 ― 「教育の方針」-- 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自主的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」
この教育基本法の精神が「日川教育」にどう反映されているか、校訓である「質実剛毅」についての歴代校長の見解を聞いてみよう。
■「『時移り、姿、形は変わっても、その底に質実剛毅の魂を忘れてはならない。』これが母校をお預りする私どもに課せられた使命だと存じます。」(上島行夫第19代校長・『同窓だよ』13号・1976年)
■「(近年、日川高校の教育の基本的な考え方をまとめた『天地の正気』の中で、この質実剛毅を校訓として中心におき次のように述べています。)『質実剛毅は、本校の理想的な人間像の神髄。すなわち、うわべだけの虚飾ではなく、充実した中身のある強さ、逞しさをいう』と。私もこのことに同感であり、これこそ日川の魂であり、日川高校の生徒を育てる理想的人間像であると考えています。」(清水喜平第20代校長・『同窓だよ』17号・1979年)
■「均質化し、平均化した現在の高校の中で、本校は独特の校風を持ち続けていると思う。この校風の根源はいうまでもなく、質実剛毅の校訓であり、文武両道の教育方針である。…この校風を失ったら日川高校の存立の意義はないともいえる。」(斉藤左文吾第21代校長・『同窓だよ』20号・1982年)
■「日川教育の羅針盤とも言える校訓『質実剛毅』、教育方針『文武両道』の真の意義を再確認し、所期の目標を目指し全職員が一糸乱れず航海できるよう探求している。」(深沢孟雄第25代校長・『同窓だよ』29号・1991年)
■「真に生徒の個性を伸ばすためには、日川高校の個性である『質実剛毅』の精神や『文武両道』の生き方を生徒に要求することが大切であると考えます。」(種田一夫第27代校長・『同窓だよ』32号・1994年)
■「創立100周年を間近に控え、二十一世紀の日川高校の在るべき姿を考える時、今こそ創立時の原点に戻り、『質実剛毅』にして真に『文武両道』の学校を構築していかねばならない。」(手塚光彰第28代校長・『同窓だよ』35号・1997年)
■「心身ともに健全で『質実剛毅』の精神を備えた骨太な生徒を育成してまいりたい。」(鶴田正樹第30代校長『同窓だよ』39号・2001年)
これらの見解には理念もなければ、方向性もない。あるのは「シツジツゴーキ」「ブンブリョウドー」のオンパレードだ。みんなで「赤信号」を渡っている。あちこちで気味のわるいヘラヘラした笑い声が聞こえる。このような心理に支えられた「日川教育」は、批判されれば必ず開き直る。誤りや過ちは認めない。それが「反骨精神」だと誤解している。校長たちは伝統校の名に屈服し、真実を生徒とともに語り合う自主性と勇気を欠いているだけなのだ。
日川高校が編集した『百年誌』には「日川高校詩」が掲載され、「日川教育」の理想が「質実剛毅(校訓)・文武両道(教育方針)・神州第一の高校」であることが記述されている。校長や先生方は、それをそのまま高校生たちに説明したらどうなのか。校歌の中の「質実剛毅」を校訓とするならば、正々堂々と「天皇の勅」を称える校歌を歌えばよい。それが事実に反するというならば、いさぎよく撤回すればいいだけの話である。
市川今朝則現校長は、「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っている」と新聞紙上で述べた。生徒たちは「歌詞の意味を意識していない」のではなく、「歌詞の意味を知らされていない」のである。「亡霊」の跳梁を抑えているのは、日本国憲法98条(最高法規・条約・国際法規の遵守)や99条(憲法尊重擁護義務)、さらには国会決議などの法的規定であり、生徒たちが「歌詞の意味を知らない」理由は、「地獄の一週間」とよばれるオリエンテーションのマインド・コントロールに責任があると考えている。その行事についてもいずれ報告しなければならない。
本稿「4『校歌擁護派のジレンマ』」の最後として、司馬遼太郎の「質実剛健」についての見解を紹介しておこう。参考になると思う。
■「質実剛健とは文化なしという意味であります。戦前の教育を考えますと、日本のどの中学にいっても 質実剛健でした。空念仏のようなものでした。私の経験からいって、熱心に質実剛健を唱える豪傑ぶった人に、ろくな人はいませんでした。かえって、軟弱で先生の目を盗んでサボっているような人が戦時中は勇敢でした。質実剛健は反文化主義であり、今は流行りません。」(『司馬遼太郎が語る日本』144頁・1997年)
(2007/12/23)
5 「天皇の勅」を継承した公人たち
(1)東条首相以後の200万人の戦死者
| 山梨県立日川高等学校校歌 1916年(大正5年)制定 3番 質実剛毅の魂を 染めたる旗を打振りて 天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今 |
私は限りなく祖国を愛する けれど 愛すべき祖国を 私は持たない 深淵をのぞいた魂にとっては… |
中村勇1944年4月 21歳 ニューギニアで戦死 (『きけわだつみの声』159頁)
| 遺書 人生健康第一ナリ 吾モトヨリ言残スコトナシ 唯父母兄弟ノ健在ヲ祈ル 昭和二十年十二月十日 |
上記の「遺書」は敗戦後旧満州で戦病死した私のオジの遺書である。25歳。戦友が祖母に語った話では、「ゆで卵を食べたい」が最後の言葉だったという。1945年12月10日といえば、すでに敗戦から4ヶ月が経っている。この時期に、なぜオジは異国で死ななければならなかったのか。
2005年8月14日、60回目にあたる「終戦記念日」の前日、朝日新聞は「なぜ戦争を続けたか」との社説を掲載し、読者に疑問を投げかけた。
「あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもそ の疑問がわいてくる。…略… 日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本の戦没者は310万にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万人近い人が命を落としているのだ。その1年間に戦線と政治はどう動いたか。」
社説は「東条首相以後の1年間」だけで3分の2にあたる約200万人の戦死者が出たとして、その戦死者と開戦責任を問われた東条英機首相の関係を問おうとしているのだ。社説はこう続いている。
「ようやく1945年2月、近衛文麿・元首相は『敗戦は遺憾ながらも必至』と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲や沖縄戦は防げた。…略… いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。」
この社説で注目したいのは、「約200万人の戦死者」の責任について、昭和天皇と「当時の指導者」とが切り離され、「つまるところ、指導層のふがいなさに行き当たる」と結論付けているところである。大元帥であった昭和天皇を「当時の指導者」から除外して、戦争の実相を知ることができるのだろうか。
大日本帝国憲法第11条では「天皇は陸海軍を統率す」、また13条では「天皇は戦いを宣言し和を講じ及び諸般の条約を締結す」と規定され、開戦と停戦は天皇の命令なしでは行えない仕組みになっていた。1945年2月の「近衛上奏文」で「敗戦は必至」と伝えられた昭和天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と難色を示していたのだ。陸軍の最強硬派と言われた東条首相が去ったこの時期に大元帥の「聖断」(戦闘停止命令)が出ていれば、約200万の戦死者は出なかったのではないか。戦争責任を負うべき「ふがいない指導者」とは、「聖戦」の名の下に「天皇の勅」を出し続けた大元帥と「天皇の勅」に盲目的に従った忠臣たちである。
(2)戦争末期の指導者たち
下記の名簿は戦争末期(1945年3月)にできた大日本政治会(日政会)の支部役員である。『田辺七六』(田辺七六翁頌徳碑建設委員会発行・1954年11月20日発行)の記載(442頁)から日川高校歴代同窓会長の名前を拾い出してみた。顧問が総勢58名、総務が総勢47名という数字を見ると、日政会が山梨県内の政財界の著名人を網羅した組織であることがわかる。
| 大日本政治会 総 裁 南次郎 衆議院部長 田辺七六 支部長 井出鉄蔵 幹事長 野口二郎 顧 問 田辺七六 広瀬久忠 (総勢58名) 総 務 茂手木三郎兵衛(総勢47名) |
甲府空襲(「たなばた空襲」)で県都が破壊される約3週間前の同年6月19日、山梨県議会議事堂で日政会山梨支部の結成式が行われた。衆議院部長・支部長顧問の田辺七六氏は田辺国男第4代同窓会長の父親である。顧問の広瀬久忠氏は第2代同窓会長。さらに総務に茂手木三郎兵衛初代同窓会長の名前も見える。ここには記載されていないが、当時の大日本翼賛壮年団(翼壮)本部総務・山梨県団長であった名取忠彦第3代同窓会長(旧姓広瀬・広瀬久忠第2代会長は実兄)を加えれば、初代から第3代までの日川高校同窓会長が戦争末期の指導者ということになる。上記の役員表を年齢順に並べさらに現在までの同窓会長を加えると、歴代同窓会長の順番になる。
茂手木三郎兵衛 初代同窓会長 (在任 1963年8月~1964年11月)
広瀬久忠 第2代同窓会長(在任 1964年11月~1971年11月)
名取忠彦 第3代同窓会長(在任 1971年11月~1977年2月)
田辺国男 第4代同窓会長 (在任 1977年11月~2003年11月) 名誉会長
加藤正明 第5代同窓会長(在任 2003年11月~)
なお、第4代田辺国男氏は旧制中学28回卒(1932年)、また高校第5回卒(1953年)の加藤氏が会長になったのは2003年のことなので、もちろん日政会の関係者ではなく、両氏は校歌を残した人々というよりも校歌を引き継いだ同窓会長たちと呼ぶべきだろう。
(3)日本国憲法で失効・排除となった詔勅(1947年5月3日施行)
日本国憲法第98条
この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び國務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
日本国憲法第99条
天皇又は摂政及び國務大臣、國会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
教育勅語等排除に関する決議 1948年6月19日 衆議院可決
民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対して疑念を残すもととなる。よって、憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。
教育勅語等の失効確認に関する決議 1948年6月19日 参議院可決
われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定してわが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊辰詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失っている。
しかし、教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保存するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失っている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
わられはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力いたすべきことを期する。
右決議する。
東京高裁判決 2006年5月17日
■本件歌詞(日川高校校歌)が国民主権、象徴天皇制を基本原理とする日本国憲法の精神に沿うものであるかについては異論がありうる。
■本件歌詞(日川高校校歌)を含む本件校歌指導を教育課程に取り入れることの当否については、十分な議論が必要である。
(4)日川高校歴代同窓会長語録
茂手木三郎兵衛 初代同窓会長
【経歴】
日川中学第1回卒 県政特別功労者 山梨県信用組合理事長 勲四等
【語録】
■「今回はからずも私が歴史と伝統に輝く由緒ある本校の同窓会長に就任いたすことになりました。実は同窓会発足以来、いろいろの関係からいたしまして会長は母校校長ということになっておりましたが、先般、卒業生中より会長を推すことに規約の改正をみたのであります。顧みれば私が本校を卒業しましたのは実に明治三十八年の昔でありますが、恰も私が第一回卒業生の故を以て評議員各位の御推挙を得たものと存じます。…略… 本校は創立の当初より、質実剛毅を校是として、勉学に、運動に闘志を燃やし、他校に誇る伝統を築いてまいりましたが、その精神は時代の変遷に拘わりなく脉々として今日に伝えられていることと信じます。…」(『同窓だよ』No.1 1963)
広瀬久忠 第2代同窓会長
【経歴】
三重、埼玉県知事、東京都長官、内務、厚生次官、法制局長官、内閣書記官長、国務大臣、厚生大臣(2回)国会議員(2回)<以上『無我献身』著者紹介より(1965・3・20発行)> 貴族議院議員(勅撰)公職追放 参議院議員(戦後)勲一等
【語録】
■「(東条大将退陣後) 後継内閣首班をきめる重臣会議は、やはり陸軍から出すこととして、朝鮮総督小磯国昭大将の推薦をきめた…略…私は厚相に就任したのだが、何とも心細い内閣であった。こうして私が二度目の厚生大臣になった時の日本は、敗戦の様相覆うべくもなく、惨憺たる状況下におかれていた。前線から悲報は相次ぎ、大本営発表の虚報は、も早、国民に信用されたり、安心を与えるに至らず、国民生活は窮迫のどん底に喘ぎ…」(『無我献身』117~118頁)
■「戦争は敗れた。国政に責任をもつ私は、ただただ謹慎の意を表するほかなかったが、今後の自分はいかにあるべきかを熟慮するため、静寂な下於曽の屋敷で、長い間の疲労を癒やしていた。八月二十日午後二時頃、山梨県知事から電話があった。…略… それによると東久邇首相宮のご希望によって、私に東京都長官になるようにとの命令であった。…略… 私は、これこそ最後のご奉公だと決意して、就任することにしたのである…」(『上掲書』124~126頁)
■「昭和二十六年八月六日、日本政界を覆っていた公職追放という黒い霧が消えた。…略…追放中の生活は、格子なき牢獄とはこのことであろうか、…略…
私はハンメル検事もいったように、戦争挑戦者(ママ)でもなければ、推進者でもなかった。ただ遺憾であったことは、国政の枢機に参与しながら、戦争防止への力の及ばなかったことであった。あのような怒濤の中では、避けられなかったとも自分自身へ弁解はしてみるが、私にとっての大きな反省は、自分の信念に対していかに忠実であったかということで、死をもってしても事に当るべきではなかったかと思った。まさに冷汗三斗というところであった。私は、反省の基盤をここにおいて、痛烈な自己批判をかさねた結果、『政治家は信念によって生き、信念に死すべし。』という結論に達した。そして再び政治的自由を得るに及んで、余生をあげて日本政治のために貢献しようと決意したのである。」(『同』154~156頁)
■「五年前、私は『日本国憲法改正広瀬試案』を発表し、爾来引きつづき憲法改正運動を行って来たのでありますが、今回『再建日本の憲法構想』を発表し、更に憲法改正に微力を捧げることと致しました。」(『再建日本の憲法構想
要旨』1頁 1961年5月20日発行)
■「然らば、わが国独自の国家形態とは何んであるか? わが国の長い歴史を通じて、日本国の姿を見ると、そこには幾多の波乱もあり、動揺もあったけれども、根本に於て一貫不動のものがあったと信じます。それは天皇と国民との関係であり、天皇は徳を以って(権力を以ってではなく)国民に望み(ママ)、国民は敬愛を以って天皇に親しみ、天皇を中心として全国民一体となっていた事実であります。この事実こそ、わが国の歴史と伝統とが形成せしめたわが国独自の国家形態であります。この国家形態は、天皇を含めた日本人全体が一体となって日本国をささえている形態でありまして、これは民主主義体制の国家形態と云うべきであります。…」(『上掲書』14頁)
名取忠彦 第3代同窓会長
【経歴】
貴族議院議員 大日本翼賛壮年団中央本部総務・県団長 義勇隊副本部長 公職追放 勲三等 山梨中央銀行頭取 著書『敗戦以後』(1952・7・15発行)
【語録】
■「正に欝然たる民主政治の胎動である。…略… なまじ戦争に便乗して来た為に、矢張り敗戦の責任を追及されそうで何となくうしろめたい。併し、そんなことを氣にして潔癖なことなどいっていたらそれこそ大変である。『指導力』も、地位も、名誉も、金もどうなるか解ったものではないのだ。ここらで何とか手を打たねばならぬではないか。時の流れが変わったなら変わったなりに、またその流れに便乗する術もあろうし策もあろうというものではないか。
中央に於ける政治の動きはやがて地方へもその民主的な波動を傳えて来るであろう。さすればわれ等とてもこの波に乗りそこねてはならない。早い話が、これからの政治の在り方として当然色々な選挙が行われるであろう。その際、われらは代議士をも獲得し度いし、民選知事などにもあわよくば成って見度い。その上で金儲けもして見度いし権勢を張っても見度い。これが『政治』というものだ。…
民主主義結構、自由主義も亦結構、つまりこれ等の言葉は今どき人寄せをするのに一番重宝な標語だからである――。右のような考え方はつまるところ、如何にして指導力から離れないで済むかということなのである。如何にしてわが立場を『保守』し得るかということなのである。そこには、祖國日本もない、民族もない。唯、転変の中で自己をどうするかという事があるだけである。」(『敗戦以後』58~60頁)
田辺国男 第4代同窓会長
【経歴】
山梨県知事 衆議院議員 勲一等
【語録】
■「わが母校日川は、来年、創立八十周年を迎える、という長い歴史の中で、創立当初から校章・校歌・校風をまったく変えずに通している、全国稀有の存在です。『文武両道』『質実剛毅』という伝統的な教育方針が、今日なお抵抗なく堅持されており、そこには脈々として日川魂が受け継がれてきました。それを、われわれ日川人は、なによりも誇りとしています。…
もし『新しい』ことのみが尊ばれ、『古い』ものが頭から否定される論法からすれば、わが日川は、かたくなに古い伝統を守り続けている、アナクロニズムの権化のそしりをまぬがれないでしょう。しかし、質実剛毅の校風が、八十年の歴史の変遷に耐えて、今日なお生き続けているということは、たとえ時代が如何に変わろうとも、『良いものは良いのだ』という、高い評価と強い支持を得ているからに他ならないと思うのです。真に正しい価値観というものは、時代の推移などに左右されることのない、不動の真理であると思います。…」(『同窓だよ』No.18 1980)」
■「…個性を認めることは大切なことである。画一的な思想統一が、日本の針路を誤らせた時代があったように、例え一個人の意見、主張をもないがしろにしないのがデモクラシイである。」(『同窓だよ』No.24 1986)
■「天皇は象徴であり日の丸、君が代も認められている。校歌の三番の歌詞も問題ないと理事会で結論付けた。」(『山梨日日新聞』1995・11・4――同窓会総会の席上、山本昌昭元校長の質問に答えて)
加藤正明 第5代同窓会長
【経歴】
日川高校教諭 山梨県教育長
【語録】
■「教育勅語ではなく、国民の幸せや世界平和を願う天皇陛下の言葉と考えればいい。校歌を大切にしていきたいというのが、ほとんどのOBの気持ちだと思う。」(『産経新聞』2004・1・23)
■「同窓会は愛着ある母校の校歌を今後も歌い継いで行く立場は変わらない。裁判の結果次第では学校をバックアップする場面も出てくる。」(『山梨新報』2004・1・30)
■「今、藤原正彦著『国家の品格』という本が多くの日本人の関心を呼んでいます。私には『日川高校の品格』が重ね合わせられます。藤原氏は著書の中で品格ある国家の指標として、①独立不羈、②高い道徳、③美しい田園、④優れた人材の輩出を掲げています。これを読み、日川の歴史と伝統を顧みる時、思わず背筋を正して心深く誇りを感じます。…」(『同窓だよ』No.44
2006)
(2008・9・25)
6 歴史の真相 水上源蔵中将は「抗命の指揮官」なのか
【検証】
日川高校の戦後史では、ビルマ戦線で「自決」した水上源蔵中将は「人間尊重の崇高な信念」を示した「抗命の指揮官」として称揚されている。靖国神社に祀られている「軍神」が同時に「抗命の指揮官」であることに矛盾はないか。
著名な軍人を輩出した旧制日川中学校
1901年(明治34年)山梨県第二中学校として発足した旧制日川中学は、著名な軍人を多く輩出した学校として知られている。軍関係への志願が多かった理由について『百年誌』は、(1)1回生(明治38年卒)が日露戦争と重なったこと(2)質実剛毅の校風、蛮カラの気風が軍人志向を促したこと、などを挙げている。日川高校同窓会誌に目を通したことがある卒業生ならば、水上源蔵、山崎保代、庄司元三の名前とともに、その“輝かしい戦績”を知らない人はいないだろう。『百年誌』第一部・「百年の軌跡」の中で、三氏は次のように紹介されている。
■「水上源蔵は、昭和19年8月、ビルマのミートキーナ救援の重命を帯び、第56兵団長として赴任した。15倍の敵の反撃と対峙し、補給が途絶する中、日夜死闘を繰り返した。死守玉砕の命を受けたが、人間尊重の崇高な信念により、自らの責任において将兵千数百名に転進命令を下し、一人従容として自決した。」(『百年誌』85頁)(下線部筆者 以下同じ)
■「水上源蔵。陸軍士官学校、陸軍大学を卒業して大正14年母校の配属軍事教官を勤めた。昭和18年には第56兵団長。昭和19年7月10日『ミイトキーナヲ死守スベシ』という軍司令部からの命令を受けたが、暗雲立ち籠めた太平洋戦争の末期においては、とりもなおさず全員に『戦死せよ』と言うことであった。『死守したとしても戦局にはいささかの利なし』と判断して命令とは逆にミイトキ-ナの全部隊に撤収命令を下した。抗命罪が部下に及ばないよう上申書を残し自身は8月4日イラワジ河畔で自決した。後に『軍神水上中将』と称えられた。」(『百年誌』274頁)(後述の「顕彰碑」では陸士卒)
■「山崎保代は、「昭和18年、北太平洋のアッツ島守備隊長として着任し、米軍の猛攻を20日にわたって防戦した。装備は貧弱で後援物資も送られず、5月30日、守備隊は玉砕した。戦没者は2,638人。生還者はわずかに27人。戦闘詳報に「食ヲ節シ、寝ヲ忘レ有ユル犠牲ヲ忍ビ」とあるくらいの悪条件下の戦いであった。これは、太平洋戦争ではじめての玉砕であった。」(『百年誌』85頁)
■「17回生の庄司元三(東大工航空科、海軍技術大佐)は、ジェットエンジンに関する技術習得の為ドイツに渡った。日本で最初のジェットエンジン「ネ20」の基礎を築いたが、昭和20年3月、ドイツの潜水艦Uボート234号で帰国の途中ドイツが降伏したので、捕虜となる道を選ばずその艦内で自決した。」(『百年誌』85頁)
上記3人の帝国軍人のうち水上源蔵中将が常にトップに扱われるのは、水上が日川中学初の配属将校(当時陸軍大尉)であり、その人柄や言行を知る人々が多いという理由からであろう。その人となりについては、「慈父」「武人の鑑」「高潔な人格」「偉大なる人間」「壮烈なる武人」「時には怖いほど厳格」「愛情で生徒をつつんでくれるような度量の広い人」などの表現をもって称えられている。
素朴な疑問
上記のそれぞれの文章においては、死のかたちが、水上源蔵=抗命・自決(『日川高校物語』では自殺)、山崎保代=玉砕、庄司元三=自決 と異なるものの、全体から受ける印象は帝国軍人を美化するものとなっている。自国の戦争には美化や顕彰がつきものであるとしても、素朴な疑問として払拭できないのは、水上源蔵中将の帝国軍人としての評価である。軍の命令に背いた軍人が今日なぜ「水上中将」の称号をつけたまま顕彰されるのか、なぜ「軍神水上中将」と称え続けられるのかということである。
「水上中将が、太平洋戦争のさなか北ビルマ戦線で死斗の末、生存将兵八百名を玉砕させるにしのびず、本部命令にさからって全員の撤退を命じ、自らは責めを負って自決されたとのこと、人間水上中将ならではの温情の決断であり、武人らしいいさぎよく美事な最期であったと感動いたしました。(中略)郷土が生んだ水上将軍の高潔な精神が、末永く語り継がれることを願ってやみません。」
これは『ビルマの義人水上源蔵』(初版)に寄せた田辺国男同窓会長(当時)の序文である。ここでも「本部命令にさからって」との記述が見られ、抗命を「人間水上中将ならではの温情の決断」と肯定している。この抗命の立場(抗命説)は、水上中将を軍人として正当に評価しているのであろうか。司令部より受けた命令を無視し部下を撤退させるということは重罪のはずである。
軍命令の厳しさについては、横井庄一氏や小野田寛郎氏のことが思い出される。敗戦を信じなかった横井さん、戦闘停止命令がないという理由で戦後30年近くジャングルに潜伏していた小野田さんらのニュースは内外の人々を驚かせた。捜索隊に発見されたあと、かつての上官に敬礼しつつ復命した小野田少尉の姿がテレビに映し出されたが、記憶している人は多いだろう。守備隊長が司令部の命令に背いて部下を転進させることなど、戦陣訓そのままに生きた職業軍人にとってはあり得ないことなのだ。
抗命といえば、インパール作戦における佐藤幸徳中将の事例がよく知られている。佐藤中将は牟田口廉也第15司令官の「コヒマ死守」を無視し、食料・弾薬の補給が途絶した状態の部隊を独断で撤退させた指揮官で、この判断はまったく正しく退却した部隊は助かったにもかかわらず罷免されている。さらに敵前逃亡罪で軍法会議にかけられそうになったが「精神錯乱」を理由に不起訴処分となっている。佐藤中将の事例からみれば、水上中将の死を「抗命」としつつ、同時に「軍神水上中将」と顕彰し続ける日川高校や同窓会に疑義が投げかけられるのは当然であろう。
「抗命説」を支持する顕彰碑文
笛吹市一宮町塩田に立っている「水上源蔵頌徳碑」の碑文も「抗命説」の立場である。高さ3メートル、横1、6メートル、厚さ45センチの黒の巨大な御影石のこの顕彰碑は、1986年11月22日に除幕式が行なわれた。
水上源蔵頌徳碑
義人水上源蔵先生は明治二十一年九月二十六日一宮町塩田七百十二番地に父水上長光母いわの三男として生まれ御代咲小学校旧制日川中学校を経て明治四十四年五月陸軍士官学校を卒業大正十四年四月甲府歩兵第四十九連隊付となり母校日川中学校の初代軍事教官を拝命配属着任された。先生は広量闊達な人柄に加えて人情に厚く母校在勤の四年間慈父を思わせる寛厳時宜を得た薫陶と質実剛毅の校風を旨とした風格豊かな教導により多くの優秀な人材の育成に貢献された。其の後龍山仙台の各連隊北満ハイラル第四地区隊長を経て昭和十六年十月陸軍少将に任ぜられ第五十四師団兵務部長となる。太平洋戦争勃発と共に援蒋ルート封鎖作戦に参画し遠く雲南に転戦昭和十九年五月敵の重囲によって孤立した北ビルマの要衝ミートキーナ救援の重命を帯び寡兵を以て十五倍の敵の反撃と対峙し全補給杜絶の中に日夜死闘を繰り返し守備地の確保に粉骨砕身の努力を傾注したのであるが守兵の損耗弾薬の欠乏甚だしく最後の段階に達した戦局に対し死守玉砕の命を受けるにおよび人間尊重の崇高な信念より部下の玉砕を見るに忍びず自らの責任に於て残存将兵千数百名に転進命令を下し一人従容として自決された。時に昭和十九年八月四日、その壮絶な戦死により南方方面陸軍最高司令官感状を授与されると共に陸軍中将に昇進された。
身を捨てて仁を為す
先生の至高至純の精神を敬仰しその遺徳を偲び以て恒久平和の礎とならんことを願い茲に頌徳碑を 建立する所以である。
昭和六十一年十一月吉日
題額 水上源蔵顕彰会会長・衆議院議員・日川高等学校同窓会長 田辺国男
撰文 山 梨 大 学 学 長 町田正治
元 山 梨 大 学 教 授 荒井碧堂 謹書
「頌徳碑」を作った人々
「頌徳碑」建設の話が具体化されることになったのは、石和町松本の島田駒男氏が編集した『ビルマの義人水上少将』(1983年・初版)の出版がきっかけであったといわれている。その本は、それから2年後の1985年に改訂増補版『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』として再度世に出ている。「頌徳碑」の建立については、『同窓会誌』第24号(1986年11月発行)に掲載された有賀茂氏(旧中25回)の「水上源蔵中将の頌徳碑成る」に引き続いて、第25号に「一宮町日川会・支部だより」として、「水上源蔵頌徳碑建立報告」が掲載され、「水上源蔵頌徳碑建立発起人同建立委員会事務局長」(深山武氏
旧中23回)の報告がなされている。
「(前略)恒久平和の礎として、人間尊重に徹した水上先生の遺徳を後世に伝えるため、昭和60年6月26日、日川高等学校同窓会長田辺国男を会長とし、水上先生の郷土の人々、旧制日川中学校における師弟関係者、郷土史歴史家、関係旧軍人及び親戚等の代表者により水上源蔵頌徳碑建立発起人会を作り…(後略)」
1985年6月26日の「建立発起人会」の設立から1986年11月22日の除幕式まで約1年半。『ビルマの義人水上源蔵』の出版から数えても約3年しか経っていない。十分な論議がないまま、一気に建立してしまったとの感は否めない。
ところで、この顕彰碑建立発起人会のメンバーの名前を聞いて、「日川高校校歌問題」との関連を思い浮かべる人がいるにちがいない。顕彰碑建立当時の校長は山本昌昭校長(第23代
在任1985年4月~1986年3月)であり、校歌改定のための検討委員会の設立に言及した山本校長の前に立ちはだかったのが、「頌徳碑」建立を進めていた有賀茂氏や発起人会会長の田辺国男同窓会長であった。有賀氏が「それはあんた個人の見解か。それは絶対に許さん。同窓会の名によって許さん」と恫喝した事実を、山本昌昭氏は2004年11月28日に行われた「日川高校校歌裁判」学習会の席上で明らかにしている。その他、1996年に行なわれたシンポジウムの席で山本校長は、「古い卒業生の一人・元県議に『校長さん、校歌を変えるじゃあねえよ。いいけ』と、こうやってひじで小突かれました」と在職時の出来事に触れている。水上中将顕彰碑建立の発起人であった人々と「校歌問題」で山本校長を恫喝したのが同じ人々であったことは、見過ごせない事実である。
「抗命」か「冒瀆」か
水上源蔵少将の死の真相は丸山豊、野口省己両氏の論文に詳述されている。両氏の軍歴は改訂増補版『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』より抜粋した。
■「抗命説」――丸山豊(『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』の第2編「月白の道」の筆者)
大東亜戦争従軍、比島・ボルネオ・ジャワ・ビルマ・中国雲南省転戦、水上少将に従い北ビルマ・ミートキーナ守備。少将の自決により遺骨を携えてミートキーナ脱出、ビルマ・タイ国国境にて終戦。軍医大尉。
■「反抗命説」――野口省己(『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』の第4編「水上少将死守命令の真相」
の筆者)第56師団参謀として、ビルマ作戦参加。第56師団にて水上将軍と共に行動。
水上少将と行動を共にした野口省己氏が「抗命説」に異議を唱えたのは、顕彰碑が建立される数年前のことである。野口少佐は水上源蔵少将と同じく当時北ビルマに派遣されていた第56師団(龍師団)・第33軍参謀で、雑誌『丸』(1983年12月号)に「水上少将死守命令の真相」を寄せ、「抗命は、水上少将にたいする大きな冒瀆であろう」と述べた人として知られている。雑誌『丸』が出版されたのは顕彰碑建立の約3年前のことで、顕彰碑設立準備会のメンバーもこの論文が存在することを承知していた。
編者の島田駒男氏は、改訂増補版(『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』)で「抗命」に関する「食い違い」についてつぎのように説明している。
■「本編(「月白の道」―筆者)最後の『抗命』の項は第四篇の元参謀であった野口省己氏の論文の内容と食違があるけれど、混乱した第一線の極限の境地に於いてドラマチックに受けとめた切実な感覚として理解さる可きであろう。執筆者の丸山豊氏もそのように主張されている。」(『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』75頁)
■「初版に収録した文献の中には、将軍が「抗命」を以て部下の救出を意図されたかの様な個所があるけれど、此点に関して其後水上淳氏(水上源蔵中将の御子息―筆者)のご紹介により、第56師団「龍」部隊参謀として直接水上閣下と苦労を共にされた元参謀であった野口省己氏にお目にかかりお話を伺った。野口氏の言によると、『閣下は如何なる際に於ても厳正な軍規に違背するような方ではない』と強く主張され、本書第4篇の『水上少将死守命令の真相』なる論文を発表された。野口氏は後に新編成された第33軍に転属され、辻参謀の下にあって死守命令発信に直接関与されていたので貴重な生き証人である。」(同書・236頁)
「抗命説」をとる島田氏は、野口参謀を水上少将の死の真相を知る「貴重な生き証人」としながらも、結局「抗命説」で押し通した。その論拠について、
「戦場の第一線の急迫した状況下に於ての部下将兵の受けた強烈な印象は、抗命によって転進命令を下したのだと信じておられる。其等の人々の心情も尊重しなければならない。」(同書・236頁)
と説明している。水上少将の死は「抗命」であるとする部下将兵たちの「強烈な印象」は、もちろん尊重しなければならない。しかし、「抗命」は水上少将に対する冒瀆であるとする野口省己参謀の反対証言も存在したことも事実であり、後世の人々は歴史の記述に関してさらに慎重であるべきだったと思う。少なくとも歴史として記述する際、両説が併記されるべきではなかったか。
二人の指揮官
水上源蔵の死の真相に迫るキーワードは、「二人の指揮官」である。このキーワードのもとに、「援蒋ルート」分断のために水上少将がミートキーナに派遣された頃の状況を見てみよう。
1944年(昭和19年)5月当時ミートキーナで戦闘を行なっていたのは、丸山房安大佐(第18師団・歩兵114連隊・菊兵団)を守備隊長とするミートキーナ守備隊である。数の上では1,500名であったが、実際は兵站部隊318名、患者320名、飛行場勤務部隊100名で、戦闘員はわずか700名。この守備隊を15倍から20倍の重慶軍とアメリカ軍が包囲していた。ミートキーナが陥落すれば、北ビルマから中国雲南にかけての日本軍が総崩れになることが予想されたため、丸山大佐の部隊を支援するため謄越(中国雲南地方)にいた水上少将(龍兵団)が歩兵150名とともに派遣されたのである。しかし、ミートキーナの丸山部隊にとって、水上少将は他兵団の歩兵団長で、名前も知らず面識もなかった。しかも引き連れてきた兵員がわずかだったため、実質的な指揮権は丸山大佐(連隊長)に残され、戦いの直接指揮は丸山大佐、命令系統としての、また徳性としての統御者は水上少将という、奇妙なかたちの戦闘指令所ができあがったのである。
水上少将の直属の部下であった丸山豊氏は、「60日のまっくらな地下の生活がはじまった」と述べ、戦闘の指揮を直接とることのできない守備隊長(水上少将)のジレンマについて書いている。
「たたかいの指揮は連隊長(丸山房安大佐)にまかせて、比較的安全なくらい壕のなかで、執行大尉や副官や私たちとたあいもない世間ばなしをして、周囲に小さな美徳をほどこして、つねにやわらかな微笑を示している、小心善意の年長者を想像させるかもしれない。」(同書・61頁)
「60日間」というと、水上少将がミートキーナに到着した5月30日から8月4日の「自決」までの期間にほぼ相当する。その間水上少将は「地下の生活」を余儀なくされたというのである。「戦いの指揮官」である丸山大佐と「徳性の指揮官」である水上少将の間は連絡将校によってつながれているだけで、二人が直接膝を交えて作戦をねるという機会はなく、水上少将が直接戦闘命令を出したという記述もみられない。ミートキーナ守備隊の指揮系統に問題があったことについては、関係者はこれを認めている。 「反抗命説」をとる野口氏も、
「守備隊の将兵の大部分は、他兵団の丸山部隊であったので、実質上の指揮官は丸山大佐で、水上少将は名目上の指揮官にすぎず、統率上おおくの支障が生じた。」(同書・129頁)
と記述している。
野口省己氏の記述
(辻参謀とともに作戦立案に当たった野口氏の論文『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』第4篇「水上少将死守命令の真相」からの抜粋)
【軍司令官】
5・18 当時ナンカンにいた水上少将にミートキーナ救援命令
【水上少将】
「命令は承知した。ミートキーナでは必ず任務を達成する。」(12日を要して5月30日ミートキーナ到着)
7・2 南方軍は大本営の認可をえて、インパール作戦中止を命じる。
7・3 辻政信大佐軍司令部に着任。
印支ルートの遮断は、フーコン方面と雲南方面の2正面があったが、辻参謀によりミートキーナ線放
棄の決定。南部のバーモ・ナンカンの準備が整うまではミートキーナ死守の方針。
【軍司令官】
(1)軍は主力をもって龍陵正面に攻勢を企図しあり
(2)バーモ・ナンカン地区の防備未完なり
(3)水上少将はミートキーナを死守すべし (個人宛の命令は辻参謀が起案)
【水上少将】
「守備隊は死力をつくしてミートキーナを確保す」
7月下旬、敵空軍の大爆撃により残存者は1200名となる。
8・1 水上少将は退却を主張する丸山大佐の意見を入れ、撤収命令を下達
8・3 本田軍司令官に決別の電報
(1)小官の指揮未熟にして、ついにミートキーナを確保する能わず。最後の段階に達したるをお詫び
申し上ぐ。
(2)負傷者は万難を排して筏によりイラワジ河を下航させるにつき、バーモにおいて救助ありたし。
部隊を後退させ、去り行く将兵を見とどけたのち、河岸の密林内でピストル自決。
丸山豊氏の記述
(水上少将直属の部下である丸山氏の手記「月白の道」からの抜粋)
【軍司令官】「重症ニシテ歩行不能ナル患者ヲ筏ニテ後送セヨ」軍はミートキーナ死守方針
【軍司令官】7・10本田軍司令官より水上閣下へミートキーナ守備隊の運命を決める暗号電報
(1)軍ハ主力ヲモッテ竜陵正面ニ攻勢ヲ企図シアリ
(2)バーモ・ナンカン地区ノ防備未完ナリ
(3)水上少将ハミートキーナヲ死守スベシ
【水上少将】
(1)「軍ノ命令ヲ謹ンデ受領ス」 (2)「守備隊ハ死力ヲツクシテミートキーヲ確保ス」
【軍司令官】
「ゴ奮戦ヲ謝ス。一日タリトモ長ク死守サレタシ」「一粒ノ米、一発ノ弾薬モ送ルコトナクテ貴隊ノ玉砕ヲ見ルハ誠ニ断腸ノ思ヒナリ。サレド光輝アル皇軍ノ伝統ト九州男児ノ面目ヲカケテ最後ヲ全ウサレンコトヲ切望ス」
【南方総軍司令官】「貴官ヲ二階級特進セシム」
【水上少将】「妙な香典が届きましたね」(二日後さらに)
【南方総軍司令官】「貴官ヲ軍神ト称セシム」
【水上少将】「へんな弔辞がとどきましたね」
8・2 水上少将は丸山豊大尉ら直属の部下らと月下の宴
8・4 右手ににぎった拳銃の銃口を口にふくんで自決。
【水上少将】「ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ」(起案書)
注:「死守! 知られざる戦場」野呂邦暢(『ビルマの義人水上源蔵閣下』第3篇・100頁)には、「現防衛研究所戦史部長」の話として、「三三軍が水上少将を二階級特進させることはありえない」と否定したこと、さらに発信基地の記録から「二階級特進」は辻参謀の指示であり、「死守命令が少将個人あてになっていることのダメおしと推測できる」と書かれている。水上少将の死に、辻参謀が大きくかかわっていることを示す部分である。
水上少将の最後と直属の部下らの心情
水上少将を隊長とするミートキーナ守備隊は、圧倒的な数の敵に包囲され孤立し、敵は投降をすすめる放送を流した。
「夕方は攻撃がやむ。(米軍の)スピーカーで音楽が流れ始める。『昔恋しい銀座の柳…』。音楽が終わると放送になる。『兵隊さん、食事はすみましたか、握り飯一コでは腹がすくでしょう。こちらにはたっぷり食物も薬もあります。ビラを持って愛されるんだ(原文傍点)と言って投降しなさい。『私は投降する』は英語で
I surrender (アイサレンダー)である。それを知らない日本兵のために『愛されるんだ』と覚えこませようとしたのだった。さまざまなビラが空から降ってきた。(中略)守備隊は外の戦況に精通していた。6月6日に連合軍がフランスのノルマンディ-に上陸したこと、その翌日サイパンに米軍が上陸したことなど、嬉しくないニュースはみな天から降ってきた。」(同書・99頁)
皇軍兵士たちは「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育されていたので、残された選択肢は「玉砕」のみであった。はじめはムスビが三個、それがいつの間にか二個に減ったが、水上少将への分配も例外ではなかった。最終的な局面が近づくにつれ、丸山豊大尉ら側近の語調は次第に軍そのものに対して懐疑的なものになっていく。「ミートキーナを死守することの意義の欠如」を感じ、「この攻防戦の無意味」を考え始め、「軍隊という体質がもつあのみせかけの強がりに、かなりの反発を覚えた」頃であった。さらに、戦友たちとは、「真に敬礼に値する軍人とは? 勇気とは? 義とは? 忠誠とは?」などについて激しい議論を繰り返した。「軍隊の体質そのものを罪である」と考えたときもあった。軍の司令官や師団長から、「ゴ奮闘ヲ謝ス。一日タリトモ長ク死守サレタシ」との「膚ざわりのよい電報」がきたころ、水上少将も、
「勝つことのみを知って、負けることを知らぬ軍隊は危険だよ。」
「みんなの体は、それぞれがご両親のいつくしみをうけて育ちあがった貴重なもの。それを大切にとりあつかわぬ国はほろびます。」
と、直属の部下たちを前に胸の内を語っている。丸山豊氏は「貴官ヲ二階級特進セシム」という暗号電報に対し、水上少将が「さむざむとしたものを見ぬいていた」と書き、「貴官ヲ以後軍神ト称セシム」との電報には「軍神成立の手のうちが見える」と批判を加えた。水上少将自身「へんな弔辞がとどきましたね」と述べたと伝えている。水上少将自身厭戦気分に苛まれていたのかもしれない。しかし、それらが「抗命」であることを示唆する水上少将の言葉は存在しない。33頁にわたる丸山豊氏の手記『月白の道』は、「抗命」と題して次のように締めくくられている。
「『ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ』。水上閣下のこの絶筆は、二階級特進も軍神の名もなげうって、まだ生きのこっている私たち約八百名の延命を策されたものである。」(同書・73頁)
丸山豊大尉の「抗命説」は、「徳性の指揮官」に貶められひとり死守を命じられた水上少将の直属の部下として、軍への怒りから導き出されたものであると思われる。しかし、水上少将の死を抗命とみる見方は、水上少将を「軍人の鑑」として称えることと矛盾するといわなければならない。抗命ということになれば、水上少将は軍服を脱がざるをえず、中将の称号も捨てなければならなくなるのだ。
水上少将「自決」へのシナリオ
「反抗命説」をとる野口氏は、「ミートキーナ死守」の命令はノモンハン事件やガダルカナルの攻防などで知られ、東条英機陸相との齟齬でビルマ戦線にまわされたといわれる辻政信参謀により起案されたと書いている。ある参謀の一人(原文は阿倍参謀〔?〕)は、「水上少将はミートキーナを死守すべし」との命令書の「水上少将は…」の部分を「水上部隊は…」と修正すべきであることを辻参謀に求めた。これに対して辻参謀はこう答えている。
「これでよいのだ。なおすな。(中略)ノモンハン事件の経験からも、戦場ではこぼれる兵があるかもしれない。これらの者が命令違反にならないように、とくに『水上少将は…』としたのだ。謹厳な水上少将のことであるから、軍司令官の真意を了解して、あれで充分目的をたっせられるのだ。」(同書・136頁)
辻参謀のこの命令について、野口氏はこう分析している。
「この命令を起案した辻参謀の心境は、ミートキーナ守備隊には戦況上からみても、さらに困難な犠牲をしいざるをえない。守備隊が全力をつくして敢闘し、最後の段階にたっしたとき、水上少将は殺さねばならないかも知れないが、万一、脱落した将兵があっても、その責任を問わない。この微妙でむずかしい判断は水上少将に一任する、というふくみを残したもので、部下将兵を不幸な死に追いやりたくないという心情と、苛烈な戦況のジレンマにはさまれた苦肉の策であったと思われる。」(同書・136頁)
「水上少将は、全員死をもって任務を達成しようとしたが、丸山大佐は“軍旗の安全”を理由に退却を主張し、死守命令は水上少将個人への命令であると主張し、水上少将も退却を容認するところとなったようである。」(同書・140頁)
野口氏は、「部下将兵を不幸な死に追いやりたくないという心情」に突き動かされたのは辻参謀であり、水上少将自身は命令どおり「玉砕」を決意していたと言っているのである。ここには、「(水上中将は)人間尊重の崇高な信念より部下の玉砕を見るに忍びず自らの責任に於て残存将兵千数百名に転進命令を出し一人従容として自決された」とする顕彰碑の碑文とは異なる見解が述べられている。
軍の査問委員会の設置
軍の死守命令に対しミートキーナ守備隊が撤退したことは軍規に反するものであり、軍は査問委員会を設けた。野口氏は真相には不明の部分があるとしながらも、野口氏自身の見解もまじえてつぎのように述べている。
(1)水上少将は、全員死をもって任務を達成しようとしたが、丸山大佐は“軍旗の安全”を理由に退却を主張し、死守命令は水上少将個人への命令であると主張し、水上少将も退却を容認するところとなったようである。
(2)丸山大佐は、通信紙に鉛筆書きの水上少将の花押(かおう)のある撤退命令を所持しており、大佐以下は水上少将の命令にしたがって行動したものであるとわりきっていた。
(3)ミートキーナ撤退に当たっては、水上少将直属の部隊の犠牲のもとに丸山部隊はイラワジ河を渡河して東岸に撤退したとして、水上少将直属の生き残りの将兵から、丸山大佐につよい非難の声があびせられた。
(4)この時点でミートキーナ守備隊の勇戦敢闘にたいするいままでの感激はうすれ、ミートキーナ部隊の玉砕という一語は、いつしかミートキーナの失陥という言葉におきかえられていった。
(5)戦後書かれた伊藤正徳氏の『軍閥興亡史』には、水上少将の自決は『死をもってする抗命である』とあるが、これは水上少将にたいする大きな冒瀆であろう。
(6)軍人は命令のままに、死力をつくすのが本分である。当時の水上少将の心境は、一死をもって国難に殉ぜんとするもの以外になかったであろう。
ある参謀が辻参謀に、水上少将個人に対する命令を「水上部隊は…」と変更するよう進言したことはすでに述べたが、野口氏はそれが「ウラ目に出た」と書いている。
「多くの者が奇異に感じたように、『水上少将は…』と個人にたいする型破りの命令を出したため、これが字句どおりに解釈されてウラ目に出たことである。死守、玉砕などという人生最大の難関に逢着したとき、やすきにつきたがるのは、人間の弱点である。それゆえにこそ軍刑法などのきびしい軍律が必要なのである。やはり正道どおり『水上部隊は…』と部隊全部に死守を命じておいて、非情のようであるが、玉砕もかくごのうえで、所望の時機まで死守せしめ、目的を達成したとき、はじめて後退を命ずべきであったろう。」(同書・139頁)
この文章を書いた野口氏は、水上少将個人宛の「玉砕命令」を起案した辻参謀について、「辻参謀作の“苦心の電文”」と表現している。「軍旗を奉じて撤退を決めた」丸山連隊長についてであるが、彼の指揮下にあったミートキーナ守備隊は、5月下旬に直轄となった33軍から、「丸山部隊ハミートキーナ付近ノ要地ヲ確保シテ軍将来ノ攻勢ヲ有利ナラシムベシ」(同書・102頁)との命令を受けていることも見落とせない部分である。
「水上少将ハミートキーナヲ死守スベシ」との軍命令はその後部分的に修正され、最終的に「貴官ハミートキーナ付近ヲ死守スベシ」との命令に変わる。「ミートキーナ付近」であるならば「撤収」は命令違反にはならない。水上少将は「付近だな。まちがいないな」と部下に念を押した。丸山連隊長が連隊本部会議を開き「軍旗を奉じての撤退」を決める一方で、水上少将は8月1日に退却を主張する丸山大佐の意見を入れるかたちで「撤収命令」を下達している。丸山連隊長は水上少将の命令に従い、「軍旗を奉じて800名の将兵をひきつれて密林をぬい、敵の妨害をさけつつ後退し、9月15日ごろバーモに着いた」。第56師団と33軍の参謀であった野口省己氏の論文にはそう書かれている。
「名目上の指揮官」から「戦いの指揮官」へ
「抗命説」をめぐる水上少将の動きで注目するのは、「水上少将はミートキーナを死守すべし」との命令を受けた水上少将が、「水上は死力を尽くして…」と個人名ではなく「守備隊は死力を尽くしてミートキーナを確保す」と回答したことである。その裏にはいかなる思いが秘められていたのだろうか。死守命令が送られてきたとき、水上少将は直属の部下にその命令を「一切極秘にしておくように」とかたく戒めている。「戦いの指揮官」である部下の丸山大佐に対して「徳性の指揮官」にすぎない水上少将は、軍司令官に対し守備隊長としてミートキーナ死守の意志を示したのである。
ミートキーナに到着以来水上少将には居場所がなかった。「徳性の指揮官」であることに甘んじ続けていた。命令を出せない指揮官は指揮官ではない。このことは歴戦の武人である水上少将の誇りを深く傷つけていたはずである。しかし、最終局面に至り、水上少将の指揮官としての真価が発揮されるときが近づいていた。「戦いの指揮官」とはいえ丸山大佐は部下である。その丸山大佐が「軍旗を奉じて退却しても軍命令に背くことにはならない」と主張したとき、水上少将は守備隊長としての責任のもとに転進命令を出すのである。命令を出したのは「徳性の司令官」であり、この命令を受けて「転進」して行ったのは「戦いの指揮官」である丸山大佐(連隊長)であった。
「小官の指揮未熟にして、ついにミートキーナを確保すること能わず。」
「負傷者は万難を排して筏によりイラワジ河を下航させるにつき、バーモにおいて救助ありたし。」
「徳性の指揮官」が「戦いの指揮官」に就いた瞬間だった。土壇場で水上少将は自ら指揮官としての名誉を回復し、ミートキーナ守備隊長としての存在を将兵たちに示したのである。
1944年8月2日、直属の部下らと「月下の宴」を行ない、その後去り行く将兵を見送るときの水上少将の心は澄み切って、一点の曇りもなかったであろう。「これでよし」。それが水上少将の最後の独白だったろう。上官の命令は天皇陛下の命令である。水上少将が「東北方」に向かって「自決」したのは、ミートキーナを死守できなかったことを守備隊長として天皇陛下に詫びたものであり、また帝国軍人として天皇陛下に変わらぬ忠誠を誓ったものだと思われる。寺内寿一司令官からは「ミートキーナ守備隊」宛てに「感状」が送られている。
「…是尽忠誠勇武なる守備隊長以下部隊の団結と旺盛なる責任観念とを以て堅忍持久、勇戦奮斗せる結果にして真に皇軍の本領を発揮したるものと謂うべく、その武功抜群全軍の亀鑑たり 仍て茲に感状を授与しこれを全軍に布告す 昭和十九年七月二十三日 南方方面陸軍最高司令官 寺内寿一」
「私が殺したようなもの」
最後は辻政信氏の登場である。1950年に戦犯容疑が解けた後国会議員となった辻氏は、同年4月に『十五対一』を著した。その中で、「この一篇を読まれる未亡人の心や如何に。遺児の胸や如何に。夫を奪い、父を奪ったのは、今こうして生きて筆を取っている著者そのものである」、「高潔な将軍を殺してしまった」と当時を振り返り、「落涙紙面を濡らしている」と慙愧の念を告白している。その辻政信氏は水上少将の死について、次のように述べている。
(1)「軍旗を焼くに忍びずとの理由で撤退の意見を具申した丸山連隊長に対し、少将は遂に一身に責任を負い命令を以て残兵をイラワジ河左岸(東岸)に退却させた。」
(2)「竹の筏に乗って、敵の砲火を潜りながらイラワジ河を渡り、ジャングル内に終結し、南方に血路を開くべき態勢が整うのを見届けてから、最後の戦闘報告を呈出するよう副官に命令し、東北方を遥拝した後、水上少将はミートキーナ放棄の責任を死をもってお詫びしたのである。」(『十五対一』91頁)
野口氏の見解や辻政信氏の記述を重ねれば、水上少将の死が「抗命」ではなかったことは明らかであろう。抗命の軍人が「最後の戦闘報告」を書くはずがない。前述の有賀茂氏は、辻参謀についてつぎのように書いている。
「辻政信参謀がその著『十五対一』の中で水上中将のことにふれて、涙が次から次に流れて原稿用紙がぬれてと言っているが、昭和28年8月7日、塩山から甲府へ向う車の中で、日川高校前で『これが水上中将の卒業された学校です。初めての軍事教練教師として生徒から最も愛された人情豊かな先生でした』と言うと、『閣下は私が殺したようなものです。実に申し訳ない。私の『十五対一』で私の心を知ってください』と言い、日川橋の所で『水上中将の生まれた所はあの部落です』と塩田の部落を指すと、『閣下申し訳ない』と深く頭を垂れていつまでも合掌されていた。」(『同総会誌』19号
56頁)
水上源蔵中将が靖国神社に合祀されたのは、1950年(昭和25年)10月17日のことである。
【追記】
①「水上源蔵頌徳碑」が建立された1986年(昭和61年)当時、水上中将の「自決」の真相について「抗命説」を否定する「生き証人」(野口省己 第56師団参謀)の論文が存在した。しかしながら、田辺国男氏(水上源蔵顕彰会会長)をはじめ日川高校や同窓会関係者が「抗命説」を支持したことにより、「本部命令にさからって全員の撤退を命じた指揮官」としての水上源蔵像が後世に残ることになった。日川高校は2001年に『百年誌』を刊行したが、そこにおいてもその認識に手直しはされていない。靖国神社に祀られている日川の英雄がなぜ「抗命の指揮官」なのかについて、日川高校や同窓会は説明をしなければならない責務がある。
②水上源蔵の手紙(「樋口先生宛の書簡」『百年誌』326頁)
蘇満国境から(『学友会報38号』・昭和14年3月)
「謹んで新年を賀し奉り候…略…
扨第三回卒業生廣瀬久忠大臣となるのニュースを聞き嬉しさの余り雀躍として喜び(中略)
同級生三十九名中第三十九位で卒業したる小生も今は零下四十度の○○○にあり蘇満国境を眺めつヽ○○部隊長として活躍致居候
尚生徒諸士に学科成績が悪いからとて決して落胆せず、正しき道を踏み身体を強健にし剛健なる精神の持主となる事が一番肝要なることを能く能くお教へ下され度候
先には堀内茂礼氏海軍少将に進み、日中も益々発展しつヽあり今も日中魂は旺盛の事と存候、峡東男子として大に支那大陸に進出せられむ事を期待いたし居り候、尚日中生諸子には先輩廣瀬大臣を目標に邁進せられ度時局重大の折而も若い時代に我侭や贅沢をしたり服従の精神に乏しく自分よかれの者は国家の
以上甚だ乱筆に候へ共先生が朝礼の際生徒に御話になる御参考にもと思ひ一筆啓上仕候
一月十五日午後七時半
(『天皇の勅失効確認を求める山梨県民の会ニュース』第15号〔2004・12・8〕所収・「神州の高校」周辺(3)に加筆転載) (2009・1・15)
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