開き直る学校・同窓会     同窓生・原告 河西久

4 校歌擁護派のジレンマ 

「天皇の勅」に収斂する「質実剛毅の魂」


日川高校生への課題
  ―― 日川高校校歌は「天地の正気」である。その3番では、「質実剛毅の魂を染めたる旗を打振りて 天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今」と歌われている。「質実剛毅」は校訓である。日川高校生として、校訓の理念について述べよ。――
 
 このような論文形式の問題が出題されたら、生徒はどう回答するだろう。自分の学校の校歌・校訓であるから、平易な問題のように思えるが、じつは難問である。彼らは、校歌の文言について説明を受けたことは入学以来一度もなく、また考えたこともないというだろう。しかし、課題として出されれば、高校生は資料を探し出して答えなければならない。ポイントは、校歌の中の校訓の位置づけを見極めることができるかどうかである。「質実剛毅」という語いのみを取り出して校訓論を展開しても意味がない。力量を試されるのは、「日川高校生として」という部分である。私見をどう取り込むかがむずかしい。出題者が私ならば、校訓である「質実剛毅」とそれにつづく「天皇の勅もち」はセットになっている、そのような主旨が読み取れればマルにしたい。
 同種の設問に対し、私たち校歌改定派は「訴状」の中でこう書いた。
 「『質実剛毅』や『文武両道』などの校訓あるいは教育方針については、今日ほかの学校でも採用されているのをしばしば見かける。しかし、その用語自体に問題があると主張するわけではない。日川高校の場合『質実剛毅』が問題になるのは、教育勅語の中で、『父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…』という徳目が『一旦緩急アレハ義勇公に奉シ…』に収斂していたように、『質実剛毅の魂を 染めたる旗を打振りて』で始まる校歌の3番は、『天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今』に収斂しているところにある。『質実剛毅』と『天皇の勅もち』は、一体不離の教育理念として切り離すことはできないものとされているのである。」(『訴状』2004年)
 「質実剛毅」を校訓と定めている日川高校は、同じ設問に対しどのような答えを用意するのであろうか。校歌擁護派のイデオローグの見解を聞いてみよう。「天地の正気」・「質実剛毅(の魂)」・「天皇の勅」の3点がセットとして扱われているかどうか否かに注目したい。

 
「校歌は憲法にあたる」

 私が校歌擁護派のイデオローグとよぶ雨宮眞也氏(高校第5回〔1953年〕卒)は、「日川高校創立百周年」(2001年)に同窓会副会長をつとめている。それに先立つ1997年には弁護士・駒沢大学副学長の肩書きで、『同窓だよ』(同窓会誌)の特集記事(「日川発、21世紀へのメッセージ」)に「天地の正気の思想を遡る」を載せた。
 「日川の卒業生の校歌を愛する心は極めて強い。卒業生の集うところ、必ず『天地の正気』あり、である。校歌は、建学の理念と教育の理想を最も直截に示すものであり、国家でいえば、憲法に該る。校歌の中に日川の教育の真髄を探ることができる。」
 雨宮氏は、校歌の中に「日川教育」の真髄があるという。また、校歌は憲法にあたるという。その憲法が大日本帝国憲法なのか日本国憲法なのか明らかにされていないが、書いたのが1997年であることから、日本国憲法であると理解しておくことにする。
 冒頭でこう位置づけたあと、雨宮氏は校歌の源流として、南宋の将軍文天祥(1236年~1282年)の「正気歌」と、幕末の儒者で尊王攘夷論者である藤田東湖(1806年~1855年)の「和天地正気歌(天地の正気の歌に和す)」をあげ、日川高校校歌との関係について簡潔に語っている。
 「大正五年、旧制日川中学十五周年を迎えて、校歌の制定を依頼された大須賀乙字氏が藤田東湖の「和天地正気歌」の思想を基礎として「天地の正気」を作詞したであろうことは、その構成と文言からみて明らかである。すなわち彼は、校歌一番において、東湖の説く「至大にして至高」の正気が籠る富士ヶ根を理想と賛え、その二番において同じく「至誠」の精神を清き峡東の水に託し、その三番において同じく「至剛」の精神を質実剛毅の旗に示し、もって、日川に学ぶ者たちは、天に満ち地に溢れて森羅万象の根源たる天地の正気を胸一杯に吸い込んで浩然の気を養い、正道を歩むべしと鼓舞したのである。」(『同窓だよ』35号20頁・1997年)
 たった2頁の校歌論にすぎないが、校歌擁護派・校歌改定派の双方にとって重要な資料である。校歌擁護派の考えを系統的に拝聴する機会はめったにないからだ。在校中に歌詞の説明を受けたことのない同窓生として、この短い校歌論から「日川教育の真髄」を学ばねばならない。要約すれば、雨宮氏の校歌論の要点はつぎの3点であろう。
 校歌は ①建学の理念と教育の理想を示す。
       ②文天祥と東湖の「正気歌」が校歌の思想を形成している。
       ③校歌は国家でいえば、憲法にあたり、日川教育の真髄である。
 短いが、具体的な説明だ。校歌の1番・2番・3番それぞれに、「至大にして至高」・「至誠」・「至剛」などの東湖の思想が反映されていると論じている。
 しかし雨宮氏の文章には「天皇」あるいは「勅」についての言及が見られない。なぜだろう。校歌では「質実剛毅の魂を染めたる旗を打振りて 天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今」と歌われているが、「天地の正気」や「浩然の気」が国(天皇制国家)の制度の中でどう発揮されるべきなのかについてはひと言もふれていない。つまり「至誠」が捧げられるべき対象が描かれていないのである。文天祥や藤田東湖が言いたかったことは「正気」についてだけではなかったはずだ。

文天祥と藤田東湖の「正気歌」

 雨宮氏は、文天祥と藤田東湖の時代背景についてこう説明する。
 *「今を去る七百数十年の昔、南宗(ママ)の将軍文天祥は、元の大軍との戦いに敗れ、捕らえられて獄中の人となった。宗朝(ママ)滅亡後、文天祥は再三にわたる投降の勧めをしりぞけ、獄中においても意気浩然、「正気歌」を詠んだ。」
 *「文天祥から歴史を降ること五百数十年、幕末の儒学者藤田東湖は、幼時から文天祥の正気歌を愛唱していたが、時に感じて「和天地正気歌」(天地の正気の歌に和す)を詠んだ。」
 雨宮氏が取り上げた文天祥と藤田東湖の「正気歌」は冒頭部分だけであって、文天祥や東湖がその「正気」を国家の制度の中でどう生かすべきか述べた部分(下記の下線部参照)は省略されている。なお、雨宮氏の校歌論においては「正気歌」の漢文と読み下し文が書かれているが、ここでは他の文献から「概意」と「現代語訳」を引用する。

<文天祥の正気歌>   「概意」  
天地有正気     天地には正気というものがある。
雑然賦流刑     いろいろな形となって万物を形造っている。
下即為河嶽     地上にあっては黄河や五嶽となり、
上即為日星     天井にあっては太陽や星となっている。
於人曰浩然     人の身にあっては浩然の気となり、
沛乎塞蒼冥     大海原を塞ぐ程盛大なものである。    
皇路當清夷     皇道が正しく平和な世の中に時には、
含和吐明庭     和気あいあいと朝廷に花開く。
時窮節乃見     しかし一旦変事に当っては節操として表われ、
一一垂丹青     その一つ一つが歴史に残されている。
(『陶淵明と文天祥』近代文藝社・173~174頁)
      
<藤田東湖の正気歌>「現代語訳」
天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。
正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、
流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八州をめぐる。(略)
忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。
神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、
その明らかなる御徳は太陽に等しい。(略)
いつか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。
ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、
おまえと離れることを忍べようか。(略)
生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、
主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。
死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。
(八神邦建訳・ネット情報「正気の歌」で検索)

 こうして全体をながめてみると、「天地の正気」の歌は、忠臣がもつべき気概や皇国への忠誠を表現したものであることが理解できる。「正気歌」は主君や天皇への献身を誓う忠臣の歌なのだ。藤田東湖の「正気歌」は幕末の志士を鼓舞したばかりでなく、明治・大正・昭和初期の愛国的な人々に愛唱され、文部省が編集した『国体の本義』(1937年)で引用され、さらに東条英機首相が1943年の学徒出陣壮行会で行った訓示の冒頭でも使われている。
 雨宮氏は、なぜ「天地の正気」の収斂部分(下線部)の概要を省略したのであろうか。なぜ日川高校校歌が制度の中で担った役割にふれなかったのだろうか。その手法は、「教育勅語は人間の普遍的な道徳を述べている」という人々が、その道徳が最終的に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ…」に収斂していく部分を意図的に省略するのと同じであろう。日川高校のジレンマとは、「詔勅」の失効排除を定めた日本国憲法と「詔勅(天皇の勅)」を称える日川高校校歌が相克する姿にほかならない。

校歌の作者は国粋主義者

 雨宮氏は、「大須賀乙字氏が藤田東湖の『和天地正気歌』の思想を基礎として、日川高校校歌を作詞した」と書く。日川高校校歌を作詞したのは大須賀乙字が東京音楽学校(現東京芸大)教授(35歳)のときであり、作曲を担当した岡野貞一は「春の小川」や「ふるさと」をつくった作曲家として知られている。
 1985年の『同窓だよ』23号は、「『天地の正気』の原点を探る」と題して校歌作詞者である「大須賀乙字の周辺」について特集している。この特集にも、乙字の業績や校歌を賛美する記述が多い。その中に一行だけ、「(乙字は)やがて国家主義的思想家になっていった」と書かれた箇所が出てくる。この「国家主義的思想家の周辺」を検証すれば、日川高校校歌が戦前・戦中に果たした役割が見えてくるのだが、同誌はそこに立ち入ってはいない。同窓会誌が書かない部分を補足してくれたのが『大須賀乙字伝』である。
 「乙字は厳父が著名な漢学者筠軒だったので、東洋的思想とその倫理観とを多分に継承した。また詩人・評論家の三井甲之を中心とした『人生と表現』派に属していたので、その『表現同人』の日本主義の影響を受け、自ら『宗旨は祖国主義』と言い(『自伝』)、民族主義を標榜し、その思想は極めて国粋的であった。」
 『同窓だよ』23号と同様、ここでも乙字は「国粋主義者」だったと書かれている。大須賀乙字と三井甲之をつなぐ糸が少しずつだが見えてくる。『同誌』に「親友の三井甲之」と言う表現が使われているように、大須賀乙字と三井甲之は同じ「人生と表現」という文学の流派に属していたのだ。病気の妻を思い、家族を思い、国家の安寧や平和を願う心のやさしい人物が、その一方で「民族主義を標榜する極めて国粋的な」人物であったことがわかる。

国粋主義と皇国思想

 三井甲之は山梨県の出身である。大須賀乙字が「極めて国粋的な人物」であったように、甲之も「極めて国粋的な人物」だった。『日本の歴史』第24巻「ファシズムへの道」362頁では、甲之は、蓑田胸喜とともに「右翼のごろつき学者」と決めつけられている。いわゆる学問的な歴史書において、「ごろつき学者」と名指しされた人物を私は知らない。蓑田(1946年自殺)は甲之の「御製研究」に影響されて激しい日本主義者となり、京大滝川事件(1933年)や天皇機関説問題(1935年)を引き起こした中心的人物であったと書物には書かれている。その甲之が太平洋戦争勃発前の1940年に旧制日川中学を訪れ、大政翼賛会委員の肩書きで講演を行ったという記録が『學友會報』No.41に残されている。
 忘れてはならないことは、この甲之と日川高校校歌の関係である。校歌の作詞を乙字に依頼したのが「ごろつき学者」の甲之だったという事実である。山梨県立甲府第一高校『創立百二十周年記念誌』31頁(2001年発行)には、「日川中学校歌(現日川高校歌)は、三井(甲之)のあっせんで東京帝国大学の友人で、同じく『馬酔木』『アカネ』の同人だった大須賀乙字の作詞になる。」と書かれている。「日川教育」が果たしてきた役割と国粋主義との関係は、さらに深く研究されなければならないと思う。
 大須賀乙字と三井甲之をつなぐ接点が国粋主義や皇国思想であることは、彼らがつくった歌が参考になるはずだ。「立太子奉祝歌」と日川高校校歌が同じ年につくられていることにも注目したい。

 <山梨県立甲府中学校校歌>     <立太子奉祝歌>
    1928年10月23日制定         1916年制定
    三井甲之作詞             大須賀乙字作詞
 我等は日本に生れたり         小稲民草うち靡き
 神の御代より一系の           思い出多きけふの日に 
 皇統戴く我國に              皇太子と告らします
 生まれしことのうれしさよ        今日の御典をこと祝ぎまつる
 御國の榮えは天地と       
 共に窮りなかるべし

 <甲斐市竜王町山県神社内碑文> 三井甲之
ますらおのかなしきいのち
つみかさねつみかさねまもるやまとしまねを

 「立太子奉祝歌」の中の「皇太子(ひつぎのみこ)」とは後の昭和天皇である。このふたつの歌について、私はかつて同人誌にこう書いた。
 「(日川高校同窓会誌23号によると)、大須賀家には代々伝わる家系図があり、その出自は桓武天皇にまで遡ることができるのだそうだ。一方三井甲之は敷島町の大地主の家に生まれている。皇統の継承者であることを任ずる者と大地主の息子にとって、一般民衆とはその命を『つみかさねつみかさね』てもまだ積み重ねるのに十分ではなく、『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)をもち、勲(いさお)を立てむ』ためだけの民草にすぎなかったのだ。幾重にも積み重ねられた屍の一つ一つが私たちの父やおじたちのものであったのだ。乙字や甲之の国粋主義思想が結局日本を破滅に導く原動力となったことは、誰よりも彼らが神にまつりあげた昭和天皇の最近明らかにされた「皇太子への手紙」において明瞭に語られている。
『…敗因についてひとつ言わせてくれ。我が国人があまりに皇国を信じすぎて英米をあなどったことである。我が軍人は精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである。』(朝日新聞・1986年4月16日)
 大須賀乙字の理想や世界観が本当に理解されていたならば、『天地の正気』も敗戦時に時代に殉ずるのが当然の道であった。少なくとも、『現人神』の『人間宣言』に値するものが教育者の間でもはっきり自覚されねばならなかったのだ。」 (『中央線』30号86頁・1986年)

「日川教育」のジレンマ

 「『藤田東湖』(日本の名著第29巻)の責任編集者である橋川文三氏は後期水戸学(藤田東湖らの思想)の今日的意義を批判し、『同じ葬るなら手続きをとって葬ったほうがいい。そうでないと亡霊、伝統が出てくる』(同書付録)と警告しています。」
 1996年に出版された『シンポジウムの記録』に書いたあとがきの一部である。過去20年余の間、山本校長と歩調を合わせて校歌問題に取り組んで以来、脳裏を離れたことのない一節である。   橋川氏が予見したように、伝統を振りかざした「アナクロニズムの亡霊」はすでにはっきりと姿を現している。しかしその「亡霊」は、公教育という制度の中に取りついているものの、日川高校校歌について明確に主張できないというジレンマに苦しんでいる。戦後の歴代校長の中で、校訓の「質実剛毅」と「天皇の勅」がリンクしている事実を公言した校長は、うっかり本心をもらしてしまった町田校長と、校歌にはっきり異論を唱えた山本校長の二人しかいない。ほとんどの校長は、伝統にしたがって手順どおりに「質実剛毅」をほめ称えるだけで、日本国憲法や国会決議等で廃絶・失効となった「天皇の勅」に言及できないままである。ためしに日川の同窓会誌を見てもらいたい。冒頭の「校長あいさつ」で日本国憲法にふれた校長がいただろうか。憲法の平和の理念を語った校長がいただろうか。現在日本国憲法下に暮らしている雨宮氏は、校歌論の中で皇国思想を削除したが、戦後の校長たちも校歌の「天皇の勅もち」の扱いに悩まされてきたはずだ。皇国思想を宣伝するわけにもいかず、さりとて日本国憲法を遵守するとも明言できないジレンマである。
 ■「各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ氣風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ」(『青少年学徒に下し賜わりたる勅語』1939年)
 ■「諸君は宜しく文を修め武を練り心身を練磨し愛國的熱塊を鍛え身をさゝげて皇運を扶翼し奉る皇國民たるべく期する處が無ければならぬ。」(内藤龍助第9代校長・『報告団報』第1号・1942年)
 「青少年学徒に下し賜わりたる勅語」はもちろん、戦前・戦中の日川中学の校長には教育の目的に矛盾がなかった。「質実剛健」の気風をもち、「文武両道」に徹し、「愛国的熱魂」を捧げるのは皇国を扶翼するためであり、臣民としてその覚悟がなければならないと、じつにはっきりしている。同様に、敗戦後にできた教育基本法も、「教育の目的」や「方針」は明確である。
*第1条 ― 「教育の目的」― 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
 *第2条 ― 「教育の方針」-- 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自主的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」
 この教育基本法の精神が「日川教育」にどう反映されているか、校訓である「質実剛毅」についての歴代校長の見解を聞いてみよう。

 ■「『時移り、姿、形は変わっても、その底に質実剛毅の魂を忘れてはならない。』これが母校をお預りする私どもに課せられた使命だと存じます。」(上島行夫第19代校長・『同窓だよ』13号・1976年)
■「(近年、日川高校の教育の基本的な考え方をまとめた『天地の正気』の中で、この質実剛毅を校訓として中心におき次のように述べています。)『質実剛毅は、本校の理想的な人間像の神髄。すなわち、うわべだけの虚飾ではなく、充実した中身のある強さ、逞しさをいう』と。私もこのことに同感であり、これこそ日川の魂であり、日川高校の生徒を育てる理想的人間像であると考えています。」(清水喜平第20代校長・『同窓だよ』17号・1979年)
■「均質化し、平均化した現在の高校の中で、本校は独特の校風を持ち続けていると思う。この校風の根源はいうまでもなく、質実剛毅の校訓であり、文武両道の教育方針である。…この校風を失ったら日川高校の存立の意義はないともいえる。」(斉藤左文吾第21代校長・『同窓だよ』20号・1982年)
■「日川教育の羅針盤とも言える校訓『質実剛毅』、教育方針『文武両道』の真の意義を再確認し、所期の目標を目指し全職員が一糸乱れず航海できるよう探求している。」(深沢孟雄第25代校長・『同窓だよ』29号・1991年)
■「真に生徒の個性を伸ばすためには、日川高校の個性である『質実剛毅』の精神や『文武両道』の生き方を生徒に要求することが大切であると考えます。」(種田一夫第27代校長・『同窓だよ』32号・1994年)
■「創立100周年を間近に控え、二十一世紀の日川高校の在るべき姿を考える時、今こそ創立時の原点に戻り、『質実剛毅』にして真に『文武両道』の学校を構築していかねばならない。」(手塚光彰第28代校長・『同窓だよ』35号・1997年)
■「心身ともに健全で『質実剛毅』の精神を備えた骨太な生徒を育成してまいりたい。」(鶴田正樹第30代校長『同窓だよ』39号・2001年)
 これらの見解には理念もなければ、方向性もない。あるのは「シツジツゴーキ」「ブンブリョウドー」のオンパレードだ。みんなで「赤信号」を渡っている。あちこちで気味のわるいヘラヘラした笑い声が聞こえる。このような心理に支えられた「日川教育」は、批判されれば必ず開き直る。誤りや過ちは認めない。それが「反骨精神」だと誤解している。校長たちは伝統校の名に屈服し、真実を生徒とともに語り合う自主性と勇気を欠いているだけなのだ。
 日川高校が編集した『百年誌』には「日川高校詩」が掲載され、「日川教育」の理想が「質実剛毅(校訓)・文武両道(教育方針)・神州第一の高校」であることが記述されている。校長や先生方は、それをそのまま高校生たちに説明したらどうなのか。校歌の中の「質実剛毅」を校訓とするならば、正々堂々と「天皇の勅」を称える校歌を歌えばよい。それが事実に反するというならば、いさぎよく撤回すればいいだけの話である。
 市川今朝則現校長は、「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っている」と新聞紙上で述べた。生徒たちは「歌詞の意味を意識していない」のではなく、「歌詞の意味を知らされていない」のである。「亡霊」の跳梁を抑えているのは、日本国憲法98条(最高法規・条約・国際法規の遵守)や99条(憲法尊重擁護義務)、さらには国会決議などの法的規定であり、生徒たちが「歌詞の意味を知らない」理由は、「地獄の一週間」とよばれるオリエンテーションのマインド・コントロールに責任があると考えている。その行事についてもいずれ報告しなければならない。
 本稿「4『校歌擁護派のジレンマ』」の最後として、司馬遼太郎の「質実剛健」についての見解を紹介しておこう。参考になると思う。
■「質実剛健とは文化なしという意味であります。戦前の教育を考えますと、日本のどの中学にいっても 質実剛健でした。空念仏のようなものでした。私の経験からいって、熱心に質実剛健を唱える豪傑ぶった人に、ろくな人はいませんでした。かえって、軟弱で先生の目を盗んでサボっているような人が戦時中は勇敢でした。質実剛健は反文化主義であり、今は流行りません。」(『司馬遼太郎が語る日本』144頁・1997年)                    (2007/12/23)

トップページに戻る