大友太陽光発電所、発電開始までの歩み

 20世紀最後の年に確立した太陽光発電技術
 2000年10月に、太陽光発電の業界にちょっとした事件が起きました。それは、太
陽電池製造メーカーである三洋電機の子会社が販売した太陽電池パネルに不良品があった
ことが発覚したのです。そのために社長が辞任して代わりに、取締役で太陽電池の研究者
である桑野氏が社長に就任しました。そのことは1企業にとつては単なる不祥事に過ぎま
せんが、太陽光発電の技術が確立された瞬間だったのです。一方で昨年のJCOの臨界事
故は、死者が出たのにもかかわらず、親会社である住友金属鉱山の経営者は責任を取りま
せんでした。
 大友太陽光発電所、発電開始までの歩み
 1993年11月15日、山梨県北巨摩郡高根町清里の大友宅において、山梨県内では
初めての系統連系方式の太陽光発電所が稼働して、東京電力に初めて電気を売りました。
それまでは、何カ所か太陽電池の電力をバッテリーに充電して使用する、独立型発電所は
ありましたが、東京電力の電線と直接接続して太陽光発電を行う方式は初めてでした。  
 1992年4月に、太陽光発電の電力を個人でも電力会社に売ることが可能となりまし
た。その法改正により実現したのですが、大友が太陽光発電を思い立ってから実現までの
経緯を説明します。
 1974年、国のサンシャイン計画がスタートしました。当時1W1000円以上した
太陽電池の価格を2000年には1W100〜200円にして太陽光発電のコストを既存
の電力コストと同程度に低減させるために通産省主導で実施されました。そして電機メー
カー各社や研究機関で基礎研究が行われました。当時日立製作所中央研究所で管理職であ
った私の父は、サンシャイン計画の担当をしていて、徳山氏の研究室がその研究を行うこ
とになりました。徳山氏は、私が1997年に東京電力の研究助成を受ける際に推薦書を
書いて戴きました。徳山氏はサンシャイン計画に参加した当時、社内で太陽電池の研究の
必要性について説明したそうです。しかし、原発メーカーであった社内ではあまり評判は
良くなかったそうです。その後徳山氏は、筑波大学教授として太陽電池の研究に携わりま
した。そして日立中央研究所でも現在も研究が継続されています。そして父は、本社勤務
をへてカセットテープ等で有名な子会社のM社で定年を迎えました。
 徳山氏夫妻(両端)大友の両親(中央)原村のお宅にて
 徳山さんは、東京から長野県原村に移り住んで、庭造りを楽しまれています。

 今から10年程前のことですが、NHKのテレビで神戸の六甲アイライドにおける太陽
光発電の研究の様子を見ました。そこでは、30棟の住宅に見立てた実験棟に太陽光発電
システムが設置されており、実験棟内部では、各種電気製品により電力消費がされていま
した。そしてその実験棟は、各が電力会社の電力系統と接続されていました。そしてそこ
に設置された電力消費のメーターが逆回転していました。テレビでこの場面を見た瞬間「
この方式だ!」と思いました。その頃は、太陽光発電と言えば、山小屋等で太陽電池から
バッテリーに充電して、照明などに利用していましたが、火力や原子力に代わる大規模な
電源としては、バッテリーの利用は不可能だと思っていました。そして自分が太陽光発電
を行うときは、商用電源と接続してメーターを逆回転させる方式(系統連系方式)と決め
ました。
 1990年6月に電気事業法の一部が改正され、500kW未満の太陽光発電所は、保
守専属の主任技術者をおく必要が無くなりました。そして電気保安協会に点検の委託をす
るだけで良くなりました。また、100kW未満の太陽光発電所は、4年に1回の点検で
良いことになりました。その後、1995年4月からは、低圧20kW未満の太陽光発電
所は、電気用品の扱いとなり、主任技術者への委託の必要性が無くなりました。
 1992年4月より、電力会社による太陽光発電等からの余剰電力買い取りの制度が始
まりました。しかし私が、東京電力韮崎営業所に、太陽光発電を行いたいと相談したとこ
ろ、真剣に取り合ってくれませんでした。その後、新聞記事で三洋電機の桑野氏が個人住
宅としては初めて、関西電力と売電契約を結んで発電を開始したと報道されました。19
92年7月の事です。そこで早速、桑野氏に手紙を書きました。しかし、戴いたご返事
は「まだ市販してない」との事でした。そして近いうちに、三洋電機の子会社から販売す
るとの事でした。お手紙と一緒に桑野氏宅の太陽光発電の写真と説明をパンフレットにし
たものと、著書「太陽電池を使いこなす」が送られて来ました。
 1993年6月頃、甲府の総合市民会館で、反原発に関する集会が開催され原子力資料
情報室の方をお招きして講演会が行われました。そこで配布された反原発新聞に「四国・
高知の龍馬1号、四国電力への売電契約を時間帯別に変更して増収。」と言う記事が出て
いました。そこで、早速原子力資料情報室へ太陽光発電「龍馬1号」の所有者である井口
正俊さんの連絡先を問い合わせて、電話しました。井口さんは大変親切な方で、その当時
入手可能な系統連系用のインバータを詳しく教えてくれました。また、太陽電池パネルの
入手方法も教えてくれました。井口さんは、日本電池製のインバータを使用していました
が、価格が260万円もしていました。その他に富士宮の佐藤電機製のインバータがある
ことを聞きましたが、電力会社の許可が出るか分からないとの事でした。
 1998年5月、井口さんのお宅にて

 太陽光発電の著書で有名な伊豆の小針さんは、昭和シェルの太陽電池の販売代理店をし
ていて、太陽電池の価格について問い合わせをしました。その時佐藤電機のインバータに
ついて話を伺いました。それによると系統連系方式は、「定期的な保守点検に費用がかか
るため現実的でない」と言った意見を戴きました。
 1993年8月頃、佐藤電機に電話をしました。「社長さんいらっしゃいますか」「は
い私ですが」電話に出た佐藤章一氏は、いやそうな愛想の無い口調で答えました。私が小
惑星に名前をつけた人物の中で最悪の第一印象でした。ちなみに最も第一印象が良かった
人は・・・さんです。佐藤電機は、富士宮市内で、製紙工場などを相手に機械の制御機器
をオーターメイドしている従業員数名の小さな町工場です。佐藤電機にはその技術力を頼
って多くの注文が殺到していて、太陽光発電のインバータは収入にならないので出来れば
やりたくないと言うのが本音のようでした。そのような状況の中、地球環境のために太陽
光発電を行いたいという私の熱意が伝わったか、佐藤さんは快く引き受けてくれました。
 9月8日に、東京電力韮崎営業所の担当者3名と佐藤氏と大友宅で打ち合わせを行いま
した。その後書類等のやり取りを何度も営業のHさんと交わしたりしました。また配電課
の技術部門担当のNさんは、富士宮の佐藤電機まで出向いてインバータの試験を行ったり
もしたそうです。このような東京電力韮崎営業所の方々のご苦労のかいあって1993年
11月15日に系統連系の契約が行われることに決まりました。また、佐藤電機が工事を
行った他の太陽光発電所も許可になりました。その当時は、太陽光発電の契約は、東京の
本社が決定して、社長との契約でした。現在は山梨支店長との契約になっています。また
、関東通算局の主任技術者不選任の届け出が受理されました。
 
  1993年11月15日、インバータの試験を行いました

 前日の11月14日の山梨日日新聞に記事が出ました。系統連系当日は、韮崎営業所に
よる技術的な試験が予定されていたので、歯科医院は休診となりました。そしてやじ馬の
方も含めて十数名の東京電力関係者が立ち会いました。午後2時頃、売電のメーターが動
き出すと歓声が上がりました。東京電力の社員の方々は口には出しませんが、原子力発電
に頼らない世の中が来ることをみんな願っているようでした。
 丘の公園の100kW太陽光発電所
   翌年の1994年3月に発電開始
つづく

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