皆様方からのご質問お答えを載せてみました。No 2




お訊ね。お葬式って、何のためにするんでしょうか?

お答え。
散骨とか、お葬式はしない、という人が増えています。
その理由は、人が(私が)死んだといって、たくさんのお金を使ったり、大勢の人に足を運んでもらう迷惑をかけたくない、という事だそうです。
仏教に限らず、多くの宗教は、死を恐れる人々の心を慰める目的で、死後の世界を作り、神や仏に縋る事で、死後の安心を求めることが目的のひとつに挙げられております。
仏教では、死後の世界で通用する名前(戒名と言います)をつけて、この世との別れを認識していただくための儀式が、葬式です。
ですから、本来は、死ぬ事への恐怖から逃れ、死後の安心を求めるという、弱い人間の心を慰めるための本当に基本的なものであったのです。
いつからか、派手な葬儀を営むことが、ステイタスであるかのような風潮や、地獄の沙汰も金次第ということから、死者にお金を送るという目的での「香典」に大金がかかるこの頃の葬儀を見て、嫌気がさしているのかなと思います。
また、戒名料が高すぎて払えないという声も聞きます。
そもそも、葬式は、遺族が死者の安心を求めて行うべきものです。死者への優しさの発露です。
遺族だけで、戒名をもらって、心から冥福を祈ってあげる「葬式」ができないものだろうか、とつくづく思います。
 

お訊ね。家でブラブラしていて困る息子・・・・。 ?

お答え。
ある、ご婦人からのご相談です。
その子を妊娠中、夫をはじめ、姑、舅、その嫁いだ家等、周囲に対して不平不満の連続でした。
出産後も、それはおさまらず、自分自身の心が不安定で、子供に対して本当の愛情で接してはいませんでした。
きっと、子供に、「愛情」のエネルギーが入っていなかったのかも知れません。
反省して、夫を尊敬し、周囲に対して感謝の心を持ち、「但行礼拝(常不軽菩薩の生き方)」を教えていただいた通りに実行した結果、息子の心も安定し、現在は就職し、元気に働いています。
常不軽菩薩につきましては、項を改めお知らせいたしますが、彼の、宮沢賢治先生の生き方を変えた経文として有名です。妙法蓮華経の20番目に出てくるお経です。
  
 

お訊ね。私のどこが気に入らないんでしょうか?

お答え。
ある老婦人がこんなことを呟かれました。
「私が家族のことを心配して、あれこれ言うと、”よけいな心配しないでよ!”と怒られるんです」「こんなに家族のことを心配しているのに、悲しいですよ・・・・」
距離を置いてみませんか?
これが私の答えでした。
自分のことのように心配する、一見、聞こえは良いのですが、他人???のプライバシーまで土足で踏み込んでいるようなことが結構あるのです。
家族といっても、皆、一人の人間です。それぞれにそれぞれが属する社会を持っているのです。
いつまでも親、子、兄弟、という血の繋がりを優先せずに、社会人としての立場を尊重してあげること、つまり、自分との距離を置く我慢をすることも必要だと思うのですが・・・・・。
まるで近い親戚関係のような・・・・・・。
  
 

お訊ね。他宗のお寺でも「南無妙法蓮華経」でいいの?

お答え。
原則は「はい」です。
原則は、と言いましたが、日蓮宗や、法華宗系の宗派はもちろん、南無妙法蓮華経ですが、禅宗、曹洞宗や臨済宗も読むお経は「妙法蓮華経」ですので、妙法蓮華経に帰依します、と南無妙法蓮華経で差し支えありません。
ただし、浄土系の宗派は、「南無阿弥陀仏」で、妙法蓮華経は用いていませんので、堂内で「南無妙法蓮華経」と唱えてしまうと、まずいかも知れませんね。
それから、神仏に対して、どのようなお参りの仕方が正しいのか、という趣旨のお尋ねもあります。
法華経擁護の諸天善神という言い方がありますが、私たちは、日本国内に勧請されている神々は、ほとんど(全部ではありませんが)南無妙法蓮華経と唱えて合掌することが望ましいと考えています。
ただし、神社によっては、2拍手2礼等を指導するところもありますので、その場合は、それに従う方が良いと思います。
我が国の宗教観は、多神教であり、唯、唯一のものを崇拝するという考え方はなじまないと考えます。
大聖人だけが唯一信仰の対象だという考えも否定はしませんが、法華経あっての大聖人であり、大聖人も八幡様にも詣でています。
ゆったりと構えて、おおらかに信仰生活を送りませんか・・・・・・。
 

お訊ね。殺される人って、前世の報いなの?

お答え。
NO!と言いたいです。
法華経では、お釈迦様をはじめとして、久遠の命があり、現世の姿など仮の姿でしかない、人は皆、輪廻転生を繰り返すのだ、と述べています。
その、法華経を信じよ!と諭された日蓮大聖人様のお弟子の末席にいる私ですから、もちろん、前世の因縁という事は信じないといけません。
しかし、悪業を積んだ成人が、その怨念で死を与えられたとしたら、何となく、納得もできるのですが、幼い子が、命を奪われる事件を見るとき、彼らは決して、まだ、自分の積み上げた業によって報いを受けたわけではないのです。
そうすると、前世の因縁が、彼の命の灯を奪ったことになるのでしょうか。
生まれて間もない幼子が、親からの虐待で亡くなるなど、因縁だ、と切り捨てるのでは、その子が可哀相すぎます。
また、前世の悪業の因縁で、事業が巧くいかないとするなら、努力は無駄だ、ということになりはしないでしょうか。
自分のあずかり知らない所で、自分の運命が定められているなんて、一生懸命に努力せよ、と子供たちに教えられなくなってしまいます。
法華経の経文には、自分の人生は自分の力で切り開くのだ、だから、めげずに頑張れ!と衆生を励ますお釈迦様がいらっしゃいます。
いかがでしょうか。
信念は不滅です。身は滅びようとも、心は未来際までも身延山に住むべく候、と日蓮聖人もおっしゃっておいでです。
輪廻転生を否定するものではありませんが、過去世の因縁で現世の運命が左右されるという事は、いかがなものでしょうか。





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お答え。














 

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