心理学者の解釈とは。


ある心理学者と話す機会がありました。
宗教心(信仰心)を「心理学的に」研究してみましたら、次のような仮説が出来上がりましたが、いかがでしょうか、というお話でした。
私は、そもそも、宗教というものを科学的に解明しようというのは、不遜な態度と思っておりましたので、最初は反発心で聞いておりましたが、なかなかおもしろく引き込まれてしまいました。さすがは心理学者ですね。
曰く、信仰というものは「安心」を求めるものだと云われて来たが、現世の安心と来世(死後)の安心があるのではないか。現世の安心とは、御利益を求める心であり、死後の安心とは、死に際して(臨死体験)苦しまないように、極楽へ行ける保証を求めるものであると。
臨死体験をした人が語る、奇麗な花園があって、河が流れていて、対岸の知り合いに招かれて、まさにその河を渡ろうとした瞬間に呼び戻された、という話も、心理学的に解明できるというのです。
生前に、極楽とはどういうところで、死ぬとは「三途の川」を渡ることだ、と聞かされていたものが、深層心理となって、無意識の時に夢として認識されるものだというのです。
だから、生きているときに、自分は悪いことはしてきていないから、極楽へ行けると自己暗示をかけることが大切だとも言っていました。
極楽へ行けると自己暗示をかけるとは、神佛に対して恥じない生活をすること、つまり、宗教が道徳観を作り上げなければならないと、現在の世相を対比して宗教界を批判しておりました。
キリスト教でも、天国へ行けるという言葉で、暗示をかけているし、イスラムも、アラーの神が守ってくれるという言葉で導いている。
世が乱れた鎌倉時代の日蓮のように、もっと人々に宗教の大切さを熱心に説く必要があるのではないか。
極楽や、天国、お釈迦様の膝元に行くこと等を知らされないで死に臨んでしまった人は、真っ暗な世界に墜ちていく自分を見て、恐怖に震えながら、苦悶の表情を浮かべて虚空を掴んで臨終することになるから、是非とも、宗教の必要性を説くべきである。
そのお話を聞いていて思ったことは、あまりに熱心すぎて凝り固まってしまっても困るけれども、常に法華経を読誦し法華経の世界に浸っていると、もしかすると、死に際して走馬燈の如く法華経の経文が甦り、壮大な法華経の世界が眼前に広がるかも知れないということでした。
お釈迦様が御説法をなさっている、霊鷲山で自分もその一座に加わっている姿を想像してみると、愉快ではありませんか。
その時のために、お互いに信仰してみませんか?

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