
ある宗教学者の話を聞く機会がありました。
世界中の、あらゆる宗教を見てみると、それはほとんど「死への恐れ」から出ている、という語りかけで始まりました。
以下は、その方の説をそのまま、メモ通りに書き綴ります。
そもそも、死というものを恐れる感覚を持つためには、「死」を認識できなければならない。
「死」を認識する?
最も人間に近いとされる、チンパンジーの母親が、死んだ子供を抱えて、その子が腐り始め、形が崩れだすまで、生きている時と同じ行動で、愛しむ姿があります。
つまり、チンパンジーでさえも、動物には「死」という概念はないのです。
「死」という概念がなければ、それは「恐れ」の対象にはなりません。
人間が、死を認識し始めたのは、何十万年も前の、旧人から新人と呼ばれるようになってからだと言われています。
さっきまで元気にしていた人が、今は、冷たくなって息をしない、呼びかけにも答えない、時には苦悶の末に動かなくなる。
そういう姿を見たり聞いたりしたときに、また、自分より年上の人が、徐々に、次々にそうなっていくのを見たりしていると、やがては自分も・・・・・と思うようになるのは、自然の摂理でしょう。
やがて来る、自分の死を想像して、「苦しいのか、痛いのか、あの瞬間は、どうなんだろうか」また、「息をしなくなって、冷たくなってやがて腐っていく人間は、その後はどうなるのだろうか」
このような疑問が出てくるのも自然の摂理です。
この、やがて来る事を予測、予想出来る能力こそが、人が人である条件である。
その、人である我々が、誰しも抱く不安・恐れの解消が人類の命題になっていく。
そこに生まれて来るのが、その不安や恐れを和ませる、あるいは解消する教え(宗教)である。
その、誰しも抱く、もちろん自分も持っていた不安や恐れを、解消できた偉人が、人々に、「こう考えたらどうだろうか」と問いかけたのが教典なのである。
苦しいかもしれない、怖いかもしれない、死を、「いや、そんなことはないよ、死後の世界は、こうなっていて、あなたが死んだ後は、あなたの魂はこうなるのだよ、だから、なんの心配も要らないよ」と教え導く人々も現れてくる。
その考えが、だんだん進んでくると、様々な死後の世界が形作られてきて、世界各地に、その土地柄に合った宗教が生まれてくる。
そして、動かなくなった人は、又生まれ変わってこの世に戻るとか、理想郷があって、そこに安住するとか、肉体は腐って消滅するが、魂は滅びることなく、永遠に生き続けるとか、いろんな教えとなって、人々に安心を与えている。
これが、宗教である。
その、究極の目的である「死に対する恐怖からの救い」の前段階を様々に議論するのが、宗教論争であり、時には、戦争にまで発展することもある。
それだけ、人々にとって、重要な課題であることの証拠でもあるといえる。
死に臨んだとき、だれか(教祖)に救いを求めるか、或いは、生きている時の行状が死後の世界の行く先を決めるのだから、とか、いろんな説が出てきて、ただ単に、死後の世界を論じるだけではないくなってきている。
生きている、今をどう過ごすか、どういう精神生活をすることが、死後の救いにつながるのかという、道徳観にまで高まってくるのが、真の宗教であろうと思う。