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2005年1月1日「北村宏氏の八ヶ岳周辺諸事検証」ページに「棒道(2)」を追加。

2005年1月1日「北村宏氏の八ヶ岳周辺諸事検証」に下記販売冊子を追加

21.『八ヶ岳の石神仏と境筋のかかわり』

22.『権現岳への参道(小荒間編)』A5x27頁
23.『権現岳への参道(小淵澤編』A5x27頁
24.『棒道シリーズ(三部作)棒道と石仏』
25.『棒道シリーズ(三部作)観音造立の挫折、なぜ十六番で終わったか』
26.『棒道シリーズ(三部作)棒道の古道説』
27.『葛窪の史蹟めぐり』

風の三郎信仰--風三郎神社--

風の三郎伝説は福島・新潟・長野・山梨地方に言い伝えがあり、いずれも二百十日などの風水害から農作物を守ろうとする信仰です。風祭りと言うのは東北、北陸以外九州の佐賀をはじめ各地にある。風は稲作に欠かせない雨を運んでくれるが、一方では暴風として昔から人々に恐れられ、記紀神話では風の神は級長戸辺神(またの名は級長津彦命)といわれ、この風の神を祀った神社も多い。伊勢神宮の摂社の風の宮、奈良生駒の竜田大社、北海道積丹町の神威神社などがそうである。ところで、神社の名前を「風の三郎」とした社がありこれらについて紹介し、宮沢賢治の風の又三郎、法隆寺の風切り鎌など風にまつわる話についても触れてみたい。

長野県上伊那郡中川村「風三郎神社」

中川村は養命酒発祥の地として知られていて、中川村ガイドマップにも「風三郎神社」の碑があり、高さ2.5mほどで「下平雅夫外黒牛耕地十五人 紀元二千六百一年建之」(1941)と刻まれ、横の川を黒牛沢にかかる橋を「風三郎橋」と言い、橋の脇から狭い道を登り杉林の石垣が崩れた石段をあがると境内になり、自然石や木の根が段々になるところを登ると風三郎神社と言う。南向村誌(昭和41年発行)には、この風三郎神社の祭神は級長津彦命と級長戸辺神となっている。これは昭和60年(1985)に現地を調べた塩澤一郎さんが長野県民俗の会会報に記載されているが、しかし、平成13年(2001)中川村観光協会からは現在は跡地に碑があるだけと回答をもらっている。風三郎神社の「奥の院」と呼ばれる風穴がその先の山の中腹にあり、風の神が黒い牛に乗ってきて風穴にこもったと言う。そして風の神は獅子が嫌いで、神楽獅子や越後獅子が宮の入坂より奥へ上がったことがなく、坂から上に登れば暴風を起こすと言う。明治5年のこと、岩穴に入り粗末に扱ったため大暴風になったと伝えられている。

福島県会津若松市大戸岳「風の三郎社」

会津盆地の南にある会津若松市の最高峰標高1416m山で、登山口から頂上までは約3時間を要し、風の三郎は登山口から約2時間40分の痩せ尾根にでて展望の良い岩場で、「頂上まで15分」と書かれた標識があり、風の通り路なのか「風の三郎」と呼ばれる場所ガあり石の祠が鎮座していると言う。ホームページ「福島の山々」の塩崎慎治さんは「この場所がいつも風が強いために、風神=風の三郎がいる又は通る場所として昔から拝されている」 と問い合わせに回答を寄せてくれた。また、大戸岳の由来が大きな扉で台風から盆地を遮ってくれる山の意で、地元の森沢賢次さんによると修験道の山だったと言う。地元ではこの山を中飯山とも言い、盆地の丁度南方角に位置し、山の上に太陽が来ると昼飯の時間だからと言う。登山口の案内板やガイドブックに「風の又三郎」は宮沢賢治の造語なことを知らずか、風の三郎の場所を風の又三郎と間違って書いてあるのもあるそうだ。山と渓谷社・渡辺徳仁著の「分県登山ガイド(6)福島県の山(1997.7.15.改定第二版)」の大戸岳ガイドでは、この位置を「風の又三郎」としており、以前から「風の三郎」と言われてきた場所で地元闇川集落の案内板の表記に従ったとことわり書きしている。そのうちに間違いの表記が一人歩きしてしまうかもしれない。

山梨県北巨摩郡高根町「風の三郎社」

高根町といってもピンとこないが、八ヶ岳山麓の清里地区には「風きり」と言われる赤松を植えた防風林が今でも残っていて、八ヶ岳からの吹き降ろしを防いでいる。この防風林の中に造年「明和元年申八月日」と刻まれた八ヶ岳権現社が祀られている。そして樫山・東原集落の利根川マキの氏神を祀っている利根神社の鳥居をくぐった境内に、昔は上原にあった高さ46mの「風の三郎社」を移祀したという石祠があり造年は定かではないが尾根の右側に「風」とも読める痕が付いている。高根町誌民間信仰と石造物編によると、「清里地区では三社参りと言って、八ヶ岳権現社に雨乞いを、日吉神社に晴天を、風の三郎社に暴風雨除けを」祈ったという。

長野県南佐久郡南牧村「風の三郎社」

高根町隣の長野県南牧村の平沢でも風の三郎と呼ばれる風の通り路の谷間があり、平沢山稜線沿い標高約1500m地点で岩がオーバーハングした斜面を背に、高さ42mの「風の三郎」を祀った石祠には銘など何も無く造年は不祥だが、平沢村は建武2年(1335)に初見で、生保4年(1647)の郷帳にも書かれている村だ。その右そばにも祠が置かれてあったと思われる台座だけが二基と尾根を支える柱一本が残っている。この石祠は地元の渡辺さんが子供たちとさがし当てたと言い、風の三郎を研究している田中智さんが「げんちゃんのホームページ」で詳しく紹介している。祠のある近くに立つとこの平沢山は飯盛山と並び、佐久側から見る八ヶ岳の展望には絶好のビューポイントで、八ヶ岳おろしを遮ってくれた尾根だことがわかる。

風ノ三郎ガ嶽

甲斐(山梨県)の地誌「甲斐国志」や「甲斐叢書」に八ヶ岳の中に「風ノ三郎ガ岳」の記載があり、これは現在の権現岳ではないかと推測されているがどの峰か確たる史料はない。

「甲斐国志」(文化11年)
「・・・権現ガ嶽、小岳、赤岳、麻姑岩、風の三郎ガ岳、編笠山、三ツ頭其ノ余種々ノ称呼アリトイフ・・・」

「甲斐叢書」(嘉永4年)
「・・・諸村ノ北ニ崎立テ檜峰権現岳トモイフ、小岳、三ツ頭、赤岳、箕蒙岳、気無岳、風ノ三郎岳、編笠岳等ハ稜ニ分ルルユエ・・・」

「日本山嶽誌」(明治39年)
「八ヶ嶽ハ峰中ニ小嶽、麻姑岩(阿弥陀嶽岳)、風三郎ガ岳、編笠岳、三ツ頭、檜峰の八峰」八ヶ岳の山麓も現在のように樹林がなかった昔は、八ヶ岳おろし凄ましいものだったようで、諏訪湖水面から蒸発した水蒸気が上昇し冷えて下降するとき、国境を越えて吹き降ろす諏訪風と称する突風は何にも防げられず山麓を吹きまき、樫山地区の農家の西北側には必ず竹垣があり明治以降植林が完成し竹垣が少なくなり「風切り松」と呼ばれるようになった。

風の三郎の言われ

「風の神」を何故「三郎」と呼ぶのか、吉野裕子氏は著書「陰陽五行と日本の民族」第五節「対風呪術」の中で、(風の三郎)とは「木気三合における三番目、墓気の未」を擬人化した名称にほかならないとしている。それによると、「木気」は亥(十月)に生じ<生>、卯(二月)に壮んに<旺>、末(六月)に死ぬ<墓>ことで、木気三合の三番目は、木気の「墓」であり、「死」であるから「風の三郎」が風送りに登場する、と解説している。もっと 内容を知りたい方は吉野裕子氏の著書を読んでください。平安朝以降すべての祭り事等は陰陽道を理解することで説明できるとしている。私は、「三郎」はやんちゃ坊主で、きかん坊と言うイメージから吹き荒れる風と結びついて「風の三郎」と呼ばれるようになったのではなかろうかと思う。

[風にまつわる話]

宮沢賢治の「風の又三郎」
宮沢賢治(1896〜1933)の童話「風の又三郎」は賢治の死後に発表された未完成作品と言われ自筆草稿には題名として風野又三郎と書かれていたと言う。物語の中では風野又三郎の表記がなく、風の又三郎になっている事から、題名に「風の又三郎」として発表されたと言う。書き出しは「どっどど どどうと どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんもふきばせ・・・」嘉助の「ああわかった。あいつは風の又三郎だぞ。」で始まる皆さんもよくご存知物語。この「風の又三郎」は初期の作品「風野又三郎」を土台に「種山ケ原」「さいかち淵」などを組み込んで書かれたと言われているが、初期の童話「ひかりの素足」にも「風の又三郎」が出てくるし、中期の作品「イーハトーヴ農学校の春」」にも「風野又三郎」がでてくる。宮沢賢治は岩手県花巻に生まれ東北のきびしい風土の中に生活し、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・・・」など、いろいろな作品のなかで「風」が重要な要素になっていて、「風の三郎」伝承は知っていたのではないだろうか。しかしどうして「又三郎」でなければならなかったのかは宮沢賢治の研究者にお任せしよう。 

宮沢賢治著「ひかりの素足」

宮沢賢治の著書では「風の又三郎」が有名だが、「ひかりの素足」のなかにも「風の又三郎」が出てくる場面がある。フィーとするどい笛のような声が聞こえてきたあと楢夫が泣き出して「風の又三郎ぁいったか(風の又三郎は言ったんだ)」「何ていった。風の又三郎など、怖っかなぐない。何て行った。」と言う文章が出てくる。

宮沢賢治と甲州八ヶ岳

宮沢賢治の初期の作品「風野又三郎」には「サイクルホール(竜巻)をつくった思い出にーー甲州で始めたときなんかネ、はじめ僕が八ヶ岳の麓で休んでいたろう・・・・」とあり、岩手県生まれの賢治に突如として甲州の八ヶ岳が文章の中にでてくる。江戸時代後期に編纂された書物には八ヶ岳の中に「風ノ三郎ガ嶽」と呼ばれる峰も登場している。宮沢賢治の作品解説や研究で誰も書いていないようだが「なめとこ山の熊」でも熊捕り名人 の名前に小淵沢十郎ではなく、淵沢小十郎が登場するが、これも山梨県と長野県をまたぐ高原鉄道小海線の山梨県側接続駅「小淵沢」をもじったとも思われるし、「風野又三郎」「風の又三郎」に登場する地付きの子供「嘉助」の名前も山梨県韮崎生まれの友人・保坂嘉内の一文字が用いられていたり、賢治は甲州に興味をもっていたことはたしかなようだ。菅原千恵子著「宮沢賢治の青春」(宝島社発行)と合わせて読むと今までとは違った宮沢賢治が見えてくる。

風神・諏訪大明神

この項は吉野裕子著「陰陽五行思想からみた日本の祭り」より抜粋。「日本書紀」に持統天皇五年八月二十三日「使者を遣わして、竜田風神、信濃の須波(諏訪)水内等の神を祭らしむ」とあり、8月末の台風の季節に持統天皇が風神・竜田神社と信濃諏訪神に使いを派して祭らせて風封じをしていると言う。諏訪神の本質は蛇神で、「蛇即風」で風神でもあり諏訪大社の「風祝」にもつながると言う。そして陰陽五行で風は「四録木気、東南、巽」で風の仲間は細くて長いもの、蛇、髪、反物などで、この「木気」に勝つもので「金気」・金物、刃物に通じ、風祭呪術として薙鎌の古木への打ち込みや風切り鎌に現れていると言う。

風神の石像

こしひかりの名産地として名高い新潟県南魚沼郡湯沢町には、風袋を背負った風神の石像が2体もあると言う。問い合わせに湯沢町史編纂室から平成13年の調査カード(写真付き)を送っていただいた。いずれも風袋を肩にかけ髪をなびかせている。(・神立地区小原不動尊の風神は58cmの高さで文政12年造年・湯沢地区熊野神社参道の風神は高さ73cm)

風祭りのこと

いままで風祭りと言うと新暦で9月はじめの二百十日前に行われる祭りと思っていたが、柳田国男監修「民俗学辞典」で「風祭」の項には「作物を風害から守るために祈願する祭りをいう。群馬県利根郡片品村では二百十日前のある日、各戸から若干の金を出し法印様(行者)に御幣を切って貰い、鎮守の風の神に供え、後で酒を飲む風習がある。富山県下にはふかぬ堂と称する風神堂が十数箇所ある。おそらく大風が吹かぬように願う意から出たものであろう。各地の例祭日を月別に見ると旧六月が最も多い。新暦ではおよそ七月に当たり、そろそろ台風襲来の時期である。・・・」とあり、旧暦六月に行われるのが正しいようで、吉野裕子氏のいう 陰陽五行との関連がありそうだ。

奈良生駒の龍田大社

風神を祠った神社で奈良県生駒郡三郷町の龍田大社は、7月第一日曜日の風鎮際のクライマックスは、人の捧げた筒から炎が出る「風鎮(神)花火」が有名だ。この神社の前を流れる川は大和川の一部で、百人一首の「千早ぶる 神代も聞かず 龍田川 唐くれないに 水くぐるとは」の龍田川とは旧称とのこと。お守りにも龍が刺繍され風神と文字が描かれている。

風切り鎌

風を鎮めるために各地で「風切り鎌」がある。風を鎌が切って風の力を弱めると言う民間信仰で、奈良法隆寺の五重の塔の最上部の九つの相輪のなか下の一つ目と二つ目の間に、4本の鎌がさしてあるのが写真などで法隆寺の五重の塔の写真などでも見ることができる。これは中世頃から付けられたと言う。一度、図書館などで法隆寺の五重の塔の写真を探してみては如何ですか。

風祭りの地名

風祭りと言うと一般的には風の害を恐れ、無事に通り過ぎることを祈る祭りであるが、神奈川県小田原市に「風祭」と言う地名があり小田急線の駅名にもなっている。語源は昔は海岸だったこの辺りで漁にでなければならない時帆掛け舟だったのか、「お祭りをして風を呼び起こしたと言う説が有力だ」と言う。(まぐまぐメールマガジンvol.53「鈴廣かまぼこ博物館」編による)

越中おわら風の盆

富山県婦負郡八尾町に元禄ころから伝わる「おわら風の盆」が毎年9月1日から3日にかけて、二百十日の大風をおさめ、五穀豊穣と繁栄を祈るために、叙情豊かに、気品高く唄い踊りが繰り広げられ、近年は多くの観光客が集まると言う。風の盆とは、立春から数えて210日に当たる日が台風の厄日とされてきたことから、風の災害が起こらないことを祈る行事として「風の盆」と言う名が付けられ、豊作を祈ると共に風災害の無事を願いこの時期に行われるようになったと言う。

樫山の風の三郎社

八ヶ岳山麓で現在「風ノ三郎」の伝説があるのは高根町樫山と南牧村平沢の集落だけで、次のようにいわれを推測する人もいる。「むかし、山火事があって火が集落に迫ってきたと。そのとき反対の山の方から風が吹いてきて集落は全滅しないでまぬがれたと。村の人々はお礼に山に向かって社を祀ったと。」その山が八嶽で「風ノ三郎嶽」と呼んだそうな。平沢の飯盛山の頂に立つと八ヶ岳とその山麓が一望でき、この推測も当たっているような気がする。また、権現岳(太郎)、三ツ頭(次郎)、前三ツ頭(三郎)と言うのではないかという人もいたり、権現岳を奥三ツ頭と書いている紀行記もある。
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