kitamura

棒道と観音さま(1)

八ヶ岳南麓に今から約450年前の戦国時代、軍道に利用したと伝承のある「棒道」があり、その棒道沿いには300年後の嘉永年間に、西国33ヶ所霊場と坂東33ヶ所霊場を模して札所の御本尊の観音菩薩を彫った石仏がほぼ番号順に鎮座している。
この道、武田信玄が川中島合戦のために造らせたので「信玄の棒道だ!」と言っている向きもあるが、証拠となる史料は見つかっていない。信玄の名をつければ良いと言う時代は過ぎて、「小説・観光用」と「本当の歴史」を分けて見直してもよいのではないだろうか。

この棒道沿いの観音像はこの付近で置かれた中では比較的新しく、一般的には一ヶ所にまとめて安置すべきものを約一丁(109m)離して置き、他村が西国33ヶ所のみに対して、坂東33ヶ所(現存は16番まで)を道沿いに並べて置こうとした意図が何であったか。
長坂町上条区に残る嘉永7年(1854年)の「棒道普請万人助力帳」「道も細くなり旅人も迷うようになったので道幅広くして壱丁ごと百番観世音を建立し馬の一助けを・・・」と募金の趣意書きがある。(百番観世音:西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所)

現存石仏が坂東十六番で止まっていることについて、資金の問題と思われているが、それだけではないと考えている。石仏の施主は小荒間村と谷戸村が多く、信仰心の他に一つには他村への対抗意識、二つには一村だけでは財政的困難から棒道に名をかりての他村からの援助、三つには観音像を置いての地籍の規制事実を意図、この三つ目が一番の目的だったのではなかろうか。

百観音の計画が実際には坂東16番観音で止まり、この場所が隣町小淵沢村との境で三つめの意図を見破れたのではないかと私は推測する。
小淵沢地籍に近いところには個人名ではなく集落の白井沢村中が施主となっているのも気になるところだ。
坂東16番観音(千手観音坐像)は小淵沢地籍に置かれているが、それぞれ発行の「長坂の石造物」「小淵沢町の石造文化財」の片方だけに記載されている。
そしてこの16番観音像は施主等の刻銘はないが右側が削られたように見えるのは私だけの見違いでしょうか。

長坂町郷土資料館発行のブックレット「棒道の本」(200円で買い求めることができます)綴じ込みの「棒道沿いの観音さま」絵図には、西国一番から三十三番、坂東一番から十六番までの場所、観音像スケッチ」、観音さま名、ご詠歌、おおよその距離が描かれています。これを持って昔を偲びながら探索してみては如何でしょうか。

観音像の何体かに刻まれた銘から嘉永元年〜嘉永2年に造られたものと分かっているが裏付ける古文書などは発見されておらず、古老によると一番から順番に置かれていたと聞くが、欠番の観音さまは最初から無かったのか、途中で紛失したものか、また、どのような観音さまで、施主名簿も不明です。

この棒道沿いの観音像を調べ現存しているもっとも古い資料は、長坂町青年会郷土研究グループ六人が昭和52年(1977)調査発表した「棒道と石仏」(長坂町史跡めぐり)と言うガリ版刷のもので、コピーしたものが長坂町図書館にあり大変貴重な資料です。調査当時倒れていた石仏もあったようで、その後のものでは「山梨県歴史の道調査報告書」や「長坂の石造物」がある。

西国九番は「山梨県歴史の道調査報告書」では馬頭観音と書かれていたもので、番号、不空羂索観音、施主名を特定し、西国四番、六番、七番も棒道沿い以外の場所で探し出して、「棒道の本」綴じ込みの「棒道沿いの観音さま」絵図に書きこんだ。

これらの観音さまを調べていくうちに、現在紛失の観音像で西国三番(昭和38年川出兵武氏撮影)、西国十四番(昭和41年品田悦彦氏撮影)の写真がある。西国十四番は置かれていた台座の大石のみが残っている。誰かが持っていったのでしょうか。祀られた場所にあってこそ精霊が宿るものと私は信じている。

近郊の西国33ヶ所観音像が置かれている集落と造立の年代は次の通りで、他村の観音像は欠けることなく現存している。

乙事(富士見町)ーーーー西国33ヶ所観音木像(室内)ーーーー寛政8年(1796)
小六村(富士見町)ーーー西国33ヶ所観音木像(室内)ーーーー寛政年間(1780〜1800)
大井ヶ森村(長坂町)ーー西国33ヶ所観音石像(屋外)ーーーー天保11年(1840)
葛窪村(富士見町)ーーー西国33ヶ所観音石像(屋外)ーーーー弘化3年(1846)
棒道(小荒間・谷戸・白井沢の3ヶ村)ーーーーーーーーーーー嘉永元年〜2年(1848〜1849)

*「棒道普請万人助力帳」は「棒道の本」22頁より引用。

棒道と観音さま(2)

棒道の石仏捜しでは、普通では考えられないような偶然が重なって、石仏が呼んでいるのではないかと感じたことが何度かある。
西国十四番の時もせめて置かれていた場所だけでも特定しようと、長坂町郷土資料館から借りた品田悦彦氏の写した写真を手がかりに旧棒道と鳩川の間の林の中をローラ作戦で探し歩いた。何時間か経ってそれらしい大石を探し当てたが廻りは人の背より高いカヤの中。後日鎌をもって廻りのカヤを刈り始めたら、近くの佐野さんも手伝ってくれ、写真の品田さんは近くに住んでいるよと呼びに行って品田さん本人を連れて戻って来た。昭和四十一年の写真は後の松の高さも低く石仏をバックに八ヶ岳を撮りたくて写したようだが、三十三年も経つと木も高くなり八ヶ岳も見えない。手前に写る石の配置などから、品田さんも「うん。この場所に間違いないよ!」とお墨付きを貰った。

西国四番、七番六番の石仏探しも、大泉村発行「大泉村の石造物」の本に似たような仏があり、最初は地名の確認からはじまり、人家から離れた林の中で「へぼ追い」(地蜂取り)の二人にコピーを見せて尋ねた。なんと、すぐ近くに探していた石仏があった。「前森」の場所を「まえもり」と聞いても分からず、コピーを見せたら「それはめいもりだ」とかなどなど・・・・・・・・・・。

西国九番も西国八番の前に半分以上埋もれ「山梨県歴史の道調査報告書」では単に馬頭観音と書かれていたもので、掘り出して施主名を読み、番号、像は文献の写真や大井ヶ森の西国九番の不空羂索観音像と比較して特定した。

西国十番も台座のみはあったと言う情報もあるが、道路工事の際埋まってしまったようだ。坂東十二番から十五番も防火帯脇の林の中、草の中を探したが見つけられなかった。

(以下、棒道の石仏西国札所番号、観世音菩薩名、刻銘、サイズ(平成十二年一月現在)が番号順に書かれている。省略

西国十一番観音は頭上の馬面に似たものから馬頭観音像と言われているが、三面の形であっても「准てい観音像」の可能性は充分考えられる。

坂東(八番」)聖観音が(五番)と七番の間に置かれているので、坂東六番観音としている書もあるが、坂東六番札所長谷寺のご本尊は十一面観音で、坂東八番札所星谷寺のご本尊が聖観音である。

[なぞ])谷戸村の小宮山瀧右衛門が六体奉納しているのに、小荒間村名主の坂本太郎右衛門のものが一体も見掛けない。「記録なし」中の何体かが太郎衛門が奉納していた可能性が考えられる。

以下、「棒道のやちまた神」「嘉永六年の棒道普請」「棒道沿いの案内板」と続く。省略