(その一) 
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   家の始祖 興隆 終戦 そして現在
波江の短歌 
 この詩集は、母が嫁いでから今日までの出来事を、農業をする傍ら日記代わりにつづった、つたない歌集です。
 今から十年位前になるでしょうか、山梨市の「ひうが」でワープロスクールの広告を出しました。何を思ったのか母は新機種の「キャノワードミニα10」を二十数万円を投資して買い込み、石和駅から電車で数日そのワープロ教室に通ったものでした。私たちはその目的も解らないまま見守っていたのですが、やがて家族の目から隠れるように、新兵器を使っての詩集作りが始まったのです。何日か経ちはずかしげに差し出す短歌の一遍をみて、家族一同思わず感嘆の声を上げてしまったのです。父を助け汗まみれになりながら農業を営み、子供三人を育て上げたあの忙しさの中で、季節の移り変わりや人々との出会いを、このように美しくしかも素直に表現する目がいつ育まれていたたのでしょうか。また、いつ短歌を学んだのでしょうか。
 あれから十年、ずいぶん短歌も増えました。フロッピーに蓄積しないまま打ち出された短歌はA四判で百枚、三千編にもなるでしょう。追憶有り、日記有り、いつ書かれたのか解らないものも多いのですが、系統別に幾つかのグループに分けてその一部三百七十五編余りをピックアップして編集しました。三浦家にゆかりのある皆様にご一読いただき、昔話に花を添えて頂きたく存じます。
 母はいま七十才、私は四十八才、はじめての親孝行になったら幸いです。
 
                   平成六年元旦                         長男 光 宏
 三浦波江略歴
 
 大正十三年一月十五日、山梨市に生まれる。日下部小学校卒業後、山梨高等女学校(現在の山梨高校)を卒業。昭和十九年十一月嫁ぐ。(二十才)夫 久宜の出征、空襲、終戦を経て養蚕から果樹へ転換、更に観光葡萄園を営んで現在に至る。
 
朝稽古
 
   明けの星 未だ輝くを 起き出でて 急ぐ学びや 白き霜道
 
   真っ白の ユニホーム着て ブルーマー 薙刀持ちて 朝稽古かな
 
   風起こす 白鉢巻の りりしさよ 折り敷きをして 最敬礼す
 
   振りかぶり 横に薙いだり 突き出して 汗ばむ程の 猛稽古なす
 
   仰ぎ見る 西の空には 朝の月 赤く大きく 去りやらず居り
 
 
日の丸弁当
 
   戦える 兵士思いて梅干しを 真ん中にいれ おかず無し
 
   節約の お金出します 一銭の 銅貨に託す 国の繁栄
 
 
戦勝祈願
 
   奥山の 神に詣でん 草分けて 長い道のり 崖の道
 
   手を合せ 無心に祈る 拝殿の 奥に祭れる 大嶽権現
 
   草履履き 足袋にからさん 国民服 カーキ色は 色褪せて
 
   野菊摘み 髪に飾れば 愛くるし 乙女の祈り 神に届けと
 
   日曜日 氏神様を 掃き清め 拭き掃除なす 小学生
 
   八丈の 天神様の 上り坂 ぐるぐる回り 息きれぎれに
 
   頂上の 天神様に 詣でれば 下界に雲の 影がうつりて
 
   身延山 霊顕新たの 高き山 石段の数 遥かかなたに
 
 
墓参り
 
   荒鷲と 讃えて手柄 立てし人 航空兵の 墓は大きく
 
   戦いに 生きて帰らぬ 人々の 御魂安かれと 祈りて止まず
 
   線香を 皆手向ければ 棚びける 煙に曇る 献花かな
 
 ラジオ
空 襲 (昭和二十年七月七日)
 
   高き空 編隊組んで 飛行雲 B二十九は 爆弾落し
 
   モロゾフの 「バン籠」という 名前かな 三十六本 ケース入り
 
   空中で 開いて広がり 付ける布 燃えて落ちくる 悪魔のように
 
   落ちて来て 空に広がり ちょうちんの ゆらりゆらりと 舞うような
 
   細長く 六角型の筒のよう 屋根にめり込み 田に落ちて
 
   家燃えて 林も燃えて 田畑燃え 逃げ惑う人 犬猫までも
 
   焼け出され 食料も無く 衣服無く 焼けぼっくいの 堀立小屋で
 
 
知らせ
 
   九十九里 守る戦車壕 中隊長 受けた知らせは 家屋全焼
 
   役場より 電報届き 覚悟して 葬儀を覚悟に 帰郷なす
 
   鉄橋は 壊れ汽車をば 乗り継いで 急ぎて帰る もどかしきかな
 
   のろい汽車 勝沼駅で 望遠鏡 探せど家は 跡形もなく
 
   石和駅 やっとの思い たどり着く 見れば畑に 家族の姿 
 
   畑の隅 ほったて小屋に 家族無事 赤子は無心に 笑みていじらし
 
   轟くは 敵の攻撃 艦砲射撃 私事は 許されずなり
 
   家族等に 心残して 帰隊する 身は天子様 捧げた命
 
   子の為に 父の形見の 軍服を 託して心 戦いの庭
 
   父病みて 残す心の やるせ無さ 幼き妻子 別れを告げて
 
   男の子 生まれて未だ 七十日 無事で良かった 我が血引き継ぐ
 
 
残されて
 
   残されし 家族は肩を 寄せあいて 慰め合いて 焼け跡に住む
 
   儘成らぬ 田の草取りや 収穫や 汗流しても 年寄り子持ち
 
   児は元気 笑顔は勇気 涌き立たせ 慣れない鍬を 振るいて暮す 
 
 
終 戦 (昭和二十年八月)
 
   空襲の 日毎激しさ 増す内に 長崎広島 原子爆弾
 
   人はみな 草木までもが 焼けただれ 民族破滅 目前に見ゆ
 
   天皇は 国民憶い 心痛す 成さぬ堪忍 するが堪忍
 
   我が身をば 捨てるお覚悟 降伏す 国始まりし よりの出来事
 
   終戦の詔勅に泣く 民草や 張り詰めた心 一気に破れ
 
   空襲を 恐れて消した 電灯も 夜の家々 明るく照らす
 
   家無くて 暗きわが家の 夕べかな 無念に暮らす 日々は切なし
 
   真夜中に 響く軍靴 帰還兵 耳そばだてて 夜も寝られず
 
   時九月 終戦整理 終えければ やっと帰れし 感慨無量
 
   仮住まい 冬に備えて 補修する それでも嬉し 家族そろいて
 
   男手の 有りて嬉しや 喜ばし 千人の味方 涌き出す勇気
 
   幼子の 日々の成長 楽しみに この児のために 努力惜しまず
 
 
昔の我家(追憶) 明治年間
 
   祖父祖母が 初めて家を成し 三浦家の元 開き賜いし
 
   第一代 豊次郎翁 妻はそう 八田 三九七番地
 
   一代で 県下第一 養蚕業 業績讃え 掛け軸に記す
 
   恩賜なる 香ろう飾り 喜寿迎え 記念の写真 輝きており
 
   敷き詰めし 赤じゅうたんを 進み出て 閑院の宮 手ずから渡され
 
   華やけき 写真掲げし 床の間や 恩賜の銀の カップ輝き
 
 
建 物
 
   広き母屋 囲み建てる 棟数は 十三有りて お城のごとし
 
   二階建て 白く映える 倉の壁 東の倉に 西の倉かな
 
   味噌倉は 東に有りて 低温室 風呂場と続き 城囲いかな
 
   西側は 倉に続きて オンドル棟 燃せば床下 温まりゆく
 
   北角に 蚕種貯蔵の 冷蔵庫 倉造りなり 地下広くして
 
   中庭を 隔てて建つは 三階の 養蚕棟に 新館二階建て
 
   建物の 二階を繋ぐ 渡り廊下 母屋と通じ 新館旧館
 
   中庭の井戸は新式 かたことと 押せばタンクに 高く注がれ
 
   風呂汲みは せずとも井戸を 煽りならば 水は満ち満ち 改良釜
 
   低温と 新館地下室 広々と 桑を入れます 鮮度を保ち
 
   冷蔵庫 側に聳える 柿の木や 孟そう竹の 広き薮
 
   鶏小屋も 裏に在ります 豚小屋も 山羊も飼います 乳をば出して
 
   庭の池 大きな鯉の 群れをなし つつじの咲けば 紅影映し
 
   家屋は皆 戦火に会いて 焼けたれど 常盤の松や 床梅残る
 
   供出し 大きな門扉は 無けれども 残る石垣 いちょうの樹
 
   すみずみに 植えし柿の木 年古りて 太る根本や 日陰を作り
 
   戦災で 建物全て 失えど 今に残るは 倉の石畳
 
   半世紀 経ちてようやく 整備する 地下室の跡 冷蔵庫跡
 
   変わりたり 時は移れり 世の中も 変わらぬものは 古き思い出
 
   仏の間 ご先祖様の 遺影見て 尽きぬ思いや 安らけくあれ
 
   家族皆 線香あげて 手を合わす 朝のお勤め 日課となりぬ
 
   ご意志をば 守りて行かん いや栄え 家族和みて いついつ迄も
 
 
堀立小屋 (昭和二十年九月頃)
 
   焼けトタン 焼けぼっくいの 柱立て 回りを囲む 丈低き小屋
 
   敷きつめた 麦藁畳み ごそごそと 馬の住むよな 情け無さ
 
   一万貫 氷を詰めた 冷蔵庫 二重の壁は 焼け残り
 
   断熱材 壁の間は 木引き糟 一週間も 燻りていたり
 
   水掛けてやっと消えたる 壁の中 焼けトタン屋根 冬を越す
 
   凍り付き 雪は降る降る 無情にも 外の炊事の 辛きかな
 
   焼け残る 母屋の跡の 風呂場かな 残り湯の中 土壁埋まり
 
   野天風呂 星は瞬き 月もさゆ 外囲い無き 虫の声
 
   赤煉瓦 残る竃で まま炊けば 顔写りそな 代用食
 
   年重ね 喜寿を迎えし 祖父居ます 寒い北風 雪空暗く
 
   冷蔵庫 おだれを掛けて 障子立て 電灯つけば 影法師
 
   屋根裏に かえる雫よ 朝の露 ぽたりぽたりと 畳を濡らし
 
   収穫の お芋仕舞う 所無し 土に埋めては 焼けトタン掛け
 
   小麦をば 大事に大事に 納うれば 底が湿りて 芽の萌え出しぬ
 
   里芋を 俵に積めて 外に置く 一晩経てば 凍みて口惜し
 
 
仮住まい(昭和二十一年)
 
   木材も 釘も大工の 賃金も お金では駄目 すべて食料
 
   お建前 済んでやれやれ 秋の空 台風が来て 飛ばされそうに
 
   二階つけ 八畳四間に 土間一間 お勝手付けて 風呂場つけ
 
   堀り炬燵 座敷にありて 暖きかな 納戸にもあり 祖父の専用
 
   仮住まい 床の下みな貯蔵場所 馬鈴薯は 畳を上げて 芽が出るを欠く
 
   お勝手の 床の下には 瓶や壷 地下室は 水の差し込み 除くに辛苦
 
   涼し場所 東おだれは 味噌の桶 醤油玉やら 漬物桶や
 
   子宝も二人となりて すくすくと 賑しきかな 忙しきかな
 
 
父宇太郎大病す(昭和二十三年)
 
   兼ねてより 胃痛ありにき 胃潰瘍 生活変わり 心痛はげし
 
   主治医なる 小林先生 勧められ 東大病院 手術を受くる
 
   運びたり 物資不足の 時なれば お米に炭に 火鉢までも
 
   麻酔薬 効果薄くて 苦しみし 身体動けず 首動かして
 
   病院に 詰める家族や 親戚や 生きた心地の 無かりし憶い
 
   汽車に乗り 通う家族や うろたえて 眠る暇も 無かりけるかも
 
   退院の 帰る車の 無き儘に 進駐軍の 汽車の中なる
 
   頼み込み 乗らせて貰う 車中には IP姿の 大男達
 
   傷癒えて 帰るわが家は 喜びに 湧くなり命 尊くありて 
 
   手術後は 長き療養 大切と 湯村温泉 母付き添いて
 
   釣りをして 身体慣らして 居るほどに 元に戻れる 胃の広さかな
 
   拾年も 弐拾年でも 生きてよと おっしゃる医師の 励ます言葉
 
   運強し 質が良いのか 良き看護 生き長らえて 八拾六才
 
 
 
食料増産
 
   養蚕し 五穀を作り 芋作る 汗をかきかき 日に焼けし顔
 
   小麦打ち 暑き真昼間 捗ると 長き真夏に 昼休みせず
 
   大きかな 稲束担ぐ 苦しさよ 目に入る汗に 向こうは見えず
 
   芋堀や 土の中より まろび出る 喜びに湧き 痛みも忘れ
 
   緑畑 ごろりごろりと かほちゃかな もろこし畑 菜の畑
 
   スコップで 掘るはごぼうに とろろ芋 顔に土つけ 砂ぼこり
 
   豆打てば 高く飛び散り 弾む玉 醤油のもとや 煮豆味噌
 
 
祖母の逝去(そう)  昭和十五年二月七日没(春光院祥室宗喜大姉)
                       (母佳子よりの語り伝え)
 
   祖母そうは 肺炎になり 戦時中 熱を取るのに 馬肉貼る
 
   春待たず 二月七日の 逝去なり 北風寒し 涙止まらず
 
   春近し 梢に停まる 鳥一羽 空に重き 雲の流れて
 
   梅の花 綻び初めて ほの匂う 美しき人生 送り賜いし
 
   昭和の 厳しき時に 老年を 迎えて我が子 国に捧げし
 
   大勢の 孫侍らせて よみの国 逝かせ賜いし 気丈なる祖母
 
   墓参り 凍てつく道を 踏み締めて 早朝詣ず 線香の煙り
 
 
清三叔父様戦死    昭和二十年八月十三日没(松老院雲間清隠大居士)
 
   終戦を 待てずに戦死 二日前 満州の地で あえなき最後
 
   満軍の 将校なりし 叔父様は 情けの深く 馬上豊かに
 
   若妻は 遺骨抱きて うらぶれて 帰る姿の 痛ましきかな
 
   葬式は 華やかなれど もの悲し 町長弔辞 弔電の数
 
   葬儀終え 故郷に帰る 後ろ影 子供も無きに その後は如何に
 
   大居士の 石塔建てて 供養して 若き命の 惜しみて止まず
 
   父母と 仏間に並ぶ 若き顔 何時の世迄も うら若き姿
 
 
駒が岳蚕種分場 (昭和三年)
 
   六十才 還暦迎えし 我が宗祖 台が原に 分場建てる
 
   高台は 井戸を掘るのに 大懸り 機械文明 未だ無ければ
 
   台が原 今に残れる 堀抜きの 井戸は偉業を 讃えて止まず
 
   台が原 昔に変わる 広き道 桑の畑に 昔を忍ぶ
 
   その昔 古老に聞ける 話かな 不屈の心 敬い深し
 
 
統制される(戦時中)
 
   戦時中 統制された 蚕種業 郡下に一つと 決められるれば
 
   現在の モンテ酒造の 道北に 建てる事務所に 父の通える
 
   東角 農協在りて 配給米 受に行きしぞ 行列並び
 
   称号は 施設組合 蚕種業 戦時下生産は 統制されたる
 
   我が家の 大きな建物 休みいる 蚕具眺める 日々の続く
 
 
桑畑開墾さる
 
   農民は 食料自給を 旨として 桃の木も切り 桑の木も切る
 
   作っても まだまだ続く 食糧難 山も開墾 川原も起こし
 
   食べれれば 草も木の実も 根っこ迄 蕨たらの芽 ご馳走の内
 
   ごぼう堀り スコップ一本 奮闘す 甲府の市場へ リヤカーを引き
 
   籠の中 子供を入れて 麦の草 取れば春風 未だ冷たく
 
   薩摩芋 床を作りて 苗までも 自家生産や 苦労の多き
 
   庭の隅 実る甘柿 なつかしや 渋柿剥いて 軒すだれ嬉し
 
   もろこしの 茎を絞りて 蜜作り 鍋の底なる 甘き香りや
 
   大麦を 笑ませて食べる 麦ご飯 つなぎに馬鈴薯 薩摩芋
 
 
祭 り(昭和二十三年〜)
 
   豆御飯 美味しく食べる 祭の日 空もうららか 心も浮きて
 
   売っている ヒヨコの雄に お縁起飾り 振って喜ぶ 幼子の瞳
 
   桜咲く 国は良い国 華やかに ハッピ姿も 日本晴れ
 
   嬉しくて 疲れて眠る 幼子や 昔に戻れ 栄えし御代よ
 
 
しろした造り(昭和二十四年頃)
 
   静岡で 砂糖黍苗 求めて来て 畑に植えて 育てて見たる
 
   夏の日の 陽の照りつけば 黍の苗 めきめき長く 成長を成す
 
   竹薮の 中に居るよな 眺めかな 秋風吹けば さやさやと鳴り
 
   葉を落とし 刈り取り終る 黍畑 小束にしても 長くて重し
 
   ローラーに かけて圧せば 液の出て ぺったんこなる 長い幹
 
   煮つめれば 良き香りかな 甘味かな 桶に移せば 結晶をなし
 
   炊き口の 大きな竈 煙突も 高く建てたり 煙もくもく
 
   川崎で 買いたる竈 大きな鍋 二つ並んで 火力抜群
 
   熱帯の 植物なれば 冬囲い 春は電気の 温床育苗
 
 
飴つくり
 
   薩摩芋 薄切りにして 炊き上げて 麦芽加えて 一晩寝かす
 
   麻袋 汁をしぼって 煮つめれば 黒い色した 薩摩飴
 
   粟黍を 乾燥させて 膨らまし 薩摩の飴で 粟おこし
 
   薩摩飴 冷めないうちに 細長く 伸ばして切れば 飴の玉
 
 
鳩麦つくり
 
   数珠玉に 良く似た実なる 鳩麦は 煎りて香ばし 健康食品
 
   甘茶の実 小豆に良く似て 鞘に入る お釈迦様には 頭にかけて
 
 
 
みぶよもぎ
 
   駆虫剤 手に入らねば 種求め 畑に蒔いて 自家生産す
 
 
すいか作り
 
   麦畑 畝の間に 穴堀りて 堆肥をいれて ビニールかけて
 
   ちさき玉 やがてゴム鞠 大き玉 縦模様して ごろりごろりと
 
   子供達 頬輝かし しゃぶりつく 黒き種おば 吹き飛ばしつつ
 
   夜な夜なに 荒らす畑や すいか泥棒 あまり憎くて 寝ずの番する
 
   すいか泥 捕えて見れば 食べ盛り しょげた姿の 中学生
 
   夜の闇 許して帰す 子らの姿 思い出すだろ 今夜のことを
 
 
祖父豊次郎の逝去   昭和二十四年一月十九日没(秋光院壽山永豊居士)
 
   終戦の 痛手残れる 二十四年 仮の住まいに 横たわりたる
 
   葡萄酒と 呼んで 酸味の強かりき 喉潤せず 咳くぞ痛まし
 
   下男引く リヤカーに乗り 床屋にて 身仕舞い正す 清廉のひと
 
   繭玉の 飾れるを見て 笑みながら この世を去りし 人の尊く
 
   水害や 震災はては 戦災と 雄々しく逆境乗り越えし祖よ
 
   華やけき 写真掲げし 恩賜なる 香ろうもろとも 家屋消失
 
   いにしえの 歴史伝えん 軒の堀 常盤の松は 石垣に映ゆ
 
   祖父逝きて 既に半世紀 山々の 影変わらねど 世は変遷す
 
   朝な夕 仰ぐ高峰 駒が岳 台が原には 足跡残り
 
   御教えを 守りて行かん 永遠に 子孫の栄え 祈りて止まず
 
 
養蚕から果樹への順次切り替え
 
   埼玉へ 果樹苗求め 買い来たる 桃の苗をば 裏の畑に
 
   草取りて 消毒をして 待ち遠し 早く実がなれ 畑一杯に
 
   木箱打ち 詰めて出荷や 嬉しかる 神田の市場 見学に行き
 
   葡萄園 豆の代金 針金に 杭は手製よ セメント練りて
 
   デラ葡萄 二十世紀に 清玉に 手押しポンプで 消毒をなし
 
   こめ縄を なうは夜なべの 仕事なり 明日になれば 枝を縛りて
 
   ジベレリン 発明されて デラ葡萄 種を無くして 出荷をされし
 
 
養 蚕
 
   冬仕事 桑苗ついで 植え込みて 本格的に 養蚕をなす
 
   寄りつきの 八畳の間を 仕切りして 棚しつらえて 稚蚕なす
 
   弐棟なる テントを庭に 建て増して 掛かる飛沫も 影響せずに
 
   絹を縦 配給毛糸 横糸に 父の着物や 主人の背広
 
   毛糸にて 編んで貰いし 子ども服 勿体なくて 普段着せずに
 
 
柿の木を育てる
 
   桃栗三年 柿八年 畑に植えし 柿の苗 実れば嬉し 父母の小遣い
 
   色ずきて 枝もたわわに 柿の実や 子供喜び 良く食べにけり
 
 
父母の隠居所建てる (昭和三十三年)
 
   思い立ち 造る隠居所 瓦屋根 天井高く しゃれた家
 
   お玄関に 寄り付き二畳 八畳間 床の間付いて 縁を巡らす
 
   外観は 棟数多く しゃれていて 福ようしいと 人の言うなり
 
 
 
温泉湧き出す (昭和三十六年)
 
   ボーリング 温泉湧き出す 田圃から 開発会社 堀当てて
 
   豊富なる 高温温泉 吹き出て 田圃は忽ち 露天風呂なる
 
   木の枝に 風呂敷衣類 縛り付け 雪の降る日も 寒き夜まで
 
   テレビ局 撮影に来て ニュースなり 名所になりし 石和温泉
 
   乱立す 温泉旅館 百を越え 夕ともなれば 芸者行き交う
 
 
デラ葡萄枝梢キャップ栽培 (昭和三十八年)
 
   透明で 薄くて軽く 紙のよう これで覆って 枝暖めて
 
   太陽熱 利用し葡萄 発芽させ 収穫早め 経済効果
 
   東京の NHK本社にて 「朝のひととき」 全国放送
 
   記念にと 三越に寄り 金指輪 あがない呉れし 妻の私に
 
   完成す 八郎潟の 全国発表 関東東山地区 代表に
 
   ベリーA 甲州葡萄 種無しや 改良挑む 不屈の心
 
   甲斐路あり 巨峰もありて 葡萄棚 尚新しき 品種に挑む
 
 
県農業祭で表彰される(昭和三十七年四月)久宜四十二才
 
   一しおに 脇目もせずに 打ち込みし 努力が遂に 認められたる
 
   壇上に 上りて受くる 表彰の 輝く姿 五人並びて
 
   若さかな ハードの仕事 努力して 朝は明星 夕べは月影
 
   NHK 「小さな旅」の 録画撮り 桃の収穫 姉さんかぶり
 
 
母屋の建築(昭和三十七年)
 
   かねてより 心掛け居し 鉄筋の 母屋建築 思い叶いて
 
   先駆けて 造る鉄筋 住宅は 未だ県下に 三軒目なる
 
   親戚の 泊り来くれる 嬉しさよ 湯船も広し 洗い場も
 
   溢れ出る 温泉熱く 夜昼も 何度も入浴 飽きる事なし
 
 
県下婦人部見学に来る
 
   大型の バスを仕立てて 見に来たる 押入の中 トイレまでも
 
雑誌「家の光」に写真掲載
 
   雑誌記者 一日かかり 撮影し 載るや記事やら 写真数枚
 
機械化導入
 
   世は進み 機械化文化の 到来す 発動機など 消毒も機械化
 
   立ちかんな 汗を流して 除草なす 今じゃスイスイ エンジンの音
 
   得意気に テーラー運転 農協に 出荷も軽ろし 晴れやかな顔
 
 
観光園始める(昭和四十二年〜)
 
   湯治客 良く来て葡萄 購えば これをヒントの 観光園
 
   バス二台 最初の来客 嬉しくて 頼みて花火 打ち上げるなり
 
   電話引き 形整う 観光園 売店も出来 座席もゆっくり
 
 
バーベーキューを始める
 
   屋根の下 ブロック並べ 火を入れて 網を載せれば バーベーキュー
 
   炉を並べ 敷物延べて 団体客 座れば匂う 焼き肉の煙
 
   歌も出る クイズも出ます ワインまで 賑えるかな 葡萄の畑
 
 
ボーリング 池を掘る
 
   駐車場 東南の地に ボーリング 百三十メートル 二十四度湧く
 
   前の畑 コンクリートの 池を掘り 錦鯉やら いずみ鯛飼う
 
   スッポンは 鍋物によし 精力剤 色々学ぶ 機会多くて
 
   三枚に おろして刺身 山女かな 程良いものは バーベーキュー
 
 
父宇太郎の逝去  昭和五十一年六月二十三日没 
                  享年八十六才(慈泉院徳宇玄亮居士)
入 院
 
   春彼岸 八十六才の 時なりし 国立病院 入院をなす
 
   もうすぐに 八十八才 そのときを 心身健康 祝わんものと
 
   相談を 院長先生 成ししかば いとも簡単 引き受けくれて
 
   前立腺の 手術なり 高齢者 みな元気にて 退院せしと
 
   意を固め 手続きをして 家族に話す 意見を挟む 余地もなし
 
   ほてんがん 綿入れ着物 半纏を 寝室の壁 かけて入院
 
   元気よく 希望の胸に 輝きて 我が家を後に なししなれども
 
   我が家では デラウエア ホース掛けの 真っ最中なり
 
 
 
手 術
 
   その朝は 父自らの 電話なり 元気な声の 聞き納めなり
 
   早速に 主人共々 駆けつけし 今まさに手術室に 入らんとしており
 
   「しっかり」と 声を掛けれど 麻酔され 頭の白布 目に焼き付きて
 
   ひきつけて 震え止まらぬ 患者なり 苦しさに点滴針も宙に飛び
 
   医師の指示 看護婦二つの 湯たんぽを 右の手の甲 火傷をなせり
 
   両三日 個室に移れど 病状は 一向に改善されず 危篤状態
 
   親戚の 駆けつけ来れど 会えなくて 右の手足の 麻痺をなしいて
 
 
闘 病
 
   母と嫁 毎日二人 付き添いて 医者も医療 最善尽くし
 
   新しき薬 取り寄せ 点滴の 止まることなし 手足を握り
 
   手術後は 話しの出来ず 食物を 飲み込むことの 出来なくなりて
 
   春三月 未だ木の梢 北風寒く 耐え居しが 花咲き緑濃くなりて
 
   桜咲き 桜散り 緑芽生え 葉の茂る 入院生活三か月なる
 
   如何にせん 日々を医療に 勤めれど 薬石効なし 家族の嘆く
 
   体力の 日々に衰え 行く姿 見るに忍びず さりとて離れず
 
   心配し 兄弟寄りては 又帰る 機へる如く 足繁くして
 
   曾孫つれ 見舞いに來れば 大き口 開けて喜ぶ 声にならぬに
 
   体の動き 止まりゆき 目を開け居るも 少なくなりて
 
   夜昼を 只側にいる だけなりて 用事もなくて 考えごとし
 
   血圧の 下がりて 息遣い 荒く成り來る 終りなりける
 
   帰りたし 帰りたかりし 懐かしの 我が家へ 無言の帰還なり
 
 
県政功績者表彰受賞 (昭和五十四年十一月十六日 久宜五十九才)
 
   二度までも 揃いて受ける 重き賞 後の宴は 常盤ホテルで
 
   親戚や 知人を招き 祝賀会 記念の品は 菊の花瓶
 
   招かれた 県の祝賀会 冥土の土産にと 夫は母を 連れて行くなり
 
 
黄綬褒章受賞 (昭和五十八年十一月三日 久宜六十三才)
 
   早朝に 衣服整え 光宏の 付き添い受けて 農水省
 
   晴やかに 厳粛なるかな きらめきて 静かに居並ぶ 受賞者の姿
 
   壇降りて 手ずから渡す 大臣の 祝辞胸に 篤く染み入る
 
   新宮殿 威儀正し 居並び居れば 天皇陛下 壇の上
 
   胸にしむ お言葉下す 有り難さ 静かな玉音 胸に篤く
 
 
母の入院(佳子) 平成元年九月六日没 享年九十二才(佳月院宇室妙順大姉)
 
入 院 (平成元年三月二十八日)
 
   入院す 三月二十八日 峡東病院へ 特別室に 入れていただく
 
 
退 院 (平成元年四月四日)
 
   退院す 四月四日 体調も整いて 自宅療養 許可下りる
 
   桜咲く のどけき季節 うらはらに 心ばかりが 急きたてられて
 
   親も老い 子も老いて見る 姥桜 夕べの雨に しとど散りゆく
 
   コルセット 巻いてはみても 只きつく 嫌いやをして 外したくて
 
   老いの坂 一足一足 づつ歩む 苦痛無ければ 心休むに
 
   飲み慣れし 薬器用に 口含む 仕草痛まし 九十おうな
 
   丹精の じゃがいもの芽の 出でにけり 一葉一葉を 撫で回りぬ
 
   門に立ち 御幸様を 拝みけり 病みにし母は 手をぞ合わせて
 
 
再入院(平成元年四月二十日)
 
   再入院 四月二十日なり お腹張りて 苦しくなりて
 
   迫り來る 老いの誘いに 立ち向かう けなげなるかな 九十おうな
 
   昼はよし 夜が訪れ 悩ましく 時を刻みて 長くつれなし
 
   母病みて 仕事ぞ手には つかざりき 気を引き締めど 空しくあり
 
   もう一夜 頼みましたと 口のなか 家にてあれば しばし忘却
 
   今日こそは 尿管抜けし 節目にて 退院望み 心踊りぬ
 
   身の軽く なれば散歩も 出来ようと 廊下の彼方 外など眺め
 
   身体中 拭いて呉たる 手際よさ 衣服も替えて すがやかに居る
 
   これからは トレーニングも 必要と 先ず手始めに 靴下を履く
 
   尿管の 取れて嬉しく 先生の 後ろ姿を 拝む心地す
 
   頭髪に 良い香りする ヘヤコロン つけて嬉しき 病院の朝
 
   病床に 過ごせば人の 懐かしく 訪れし人と 別れを惜しむ
 
退 院(平成元年五月二十一日)
 
   退院す 五月二十一日 お世話になった 方々へ ご挨拶の電話をする
 
   何事も なれれば苦無く 出来るもの 介護になれて 余裕を感ず
 
   一日の サイクルつとに 定まりて 看られる人も 看る人も良く
 
   一番に 苦になることは トイレだと 一生懸命 努力し疲れる
 
   窓開けて 青葉風受け すがすがし 回復の肌 くすぐられ居り
 
 
再々入院(平成元年七月二十一日)
 
   歳故の 機能低下と 教えられ 医薬の効を 只祈るのみ
 
   夏の日の 西に傾き 窓差して 空しく刻む 病院の時
 
   夏の夜を 静かなりせば 尚更に 胸の起伏や 寝息窺い
 
   手作りの 寿司を携え 呉れにけり 深き心の 嬉しくありて
 
   少しでも 手伝いますよと いい呉れし 人の好意の 有り難きかな
 
   ポッツリと 落ちる点滴 遅くして じりじり過ぎる 夏の暑さに
 
   三十五度 越えし真夏日 暫くに 日暮れて赤き 夕月のあり
 
   又来ます 細き手握り 別れ行く 人の情けの 淵ぞ深くも
 
   寝静まる 病棟の床 コツコツと 優しく歩む 白衣の天使
 
   如何です 耳の遠きに 語り掛け 声励ましし 清き白衣ぞ
 
   真夜中に ブザーを押せば 駆けて來し 白衣の天使 有り難くして
 
   清拭と 丸めたタオル 幾筋も 厭わず拭う 隅々迄も
 
   一夜明け 又戻り來る 病院の ベットで母は 仮眠しており
 
   夜明けから 体温徐々に 上がり来て 手当をすれど もどかしくて
 
   腹温器 掛ければ嫌々 すがりつき 子供のように 聞き分けの無く
 
   夜中過ぎ 点滴の液 少なくて 灯をつけて じっと見守る
 
   蒸し暑く 静かに過ぎる 病室の 午前一時は 頼り無きかな
 
   心電図 不安に揺れて 痛ましく 再入院の 母衰弱す
 
   吸入の 持つ手震えて 小刻みに 骨ばかりなる 血管青く
 
   美味しいと 飲み干す梨の 生ジュース 香り豊かに 喉を潤す
 
   聞き伝え 伝え聞いては おとないで 慰め呉れる 人の情けぞ
 
   一日に 四往復も したる孫 疲れいようと 後ろ見送り
 
   年取りて 付き添い替わり 呉れる人 孫嫁ですと 問われるままに
 
   ばば如何 顔覗き込む 曾孫は はや高校生と 中学生
   
   真夜中に 便意催す 老いしき母 大仕事終え 安けき寝息
 
   遅ればせ 乍ら悟りし 人の世は 持ちつ持たれつ 家族より添い
 
   洗髪の 夢を見たよと せがまれて 車椅子にて 床屋に向かう
 
   この頃は 茶碗に盛れる ご飯をば 執ることしばし 忘れいるかな
 
   母の許 今日も通いぬ 顔と顔 近く寄せ合い 懇に語る
 
   握り合う 手と手に心 通わせて 長く生きてと 切に願う
 
   母の顔 臥せるをじっと 眺むれば 受けし情けの 限無くして
 
   年取て 細くなられし 手と体 我等を支えて あまりしありを
 
   あそこにも 此処にも連れて 行くものを 負うて遣りたし 病む母悲し
 
   甘えし母に 甘えられ なだめて笑みぬ 涙かくして
 
   父に仕え 良き子育てし 母は今 病に臥せて 静かに居わす
 
   気丈に生きし 母なれば 病みて尚 教え諭しぬ 人の道
 
   我も又 何時かは老いん その時の 心掛けをば 身を持てしめす
 
   我も又 励まん母の 足跡を 良き手本とし なぞらえ乍ら
勲六等単光旭日章受賞  (平成三年四月二十九日 久宜七十才)
 
   夕食を 済ませし後に 突然と 知事様よりの 内示の御沙汰
 
   慶びを じっと噛みしむ 胸の内 流れる想い 走馬燈
 
   感激に 打ち震えつつ 仏壇の 前に座りて しばし瞑想
 
   松が枝は 月に浮かびて 千代の世の 星空仰ぐ 今宵めでたく
 
   晴れやかに 喜び分かつ 家族あり 親子三代 ともに住み居て
 
 
孫大学入学(平成四年四月)
 
   柔らかき 芽吹きの如し 新鮮な ほのぼの匂う 若者の顔
 
   身の回り 調度の品を 積み終えて 下宿に向かう 親子連れ
 
   健やかに 我が家巣立つ 青年の 高き理想の 何時何時迄も
 
 
新春を迎えて(平成六年元旦)
 
   除夜の鐘 響きわたりて 我古稀の 年を迎えり いと厳かに
 
   日の御旗 高く門辺に はためきて 清く明くる 平成の御代
 
   初日さす 空に舞うなり 鳩の群れ 我が家廻りて 翼輝き
 
   苔むしぬ 梅のつぼみは 紅さして 膨らむ春の 日差し待たるる
 
   大いてふ 空にむかいて すくすくと たぎる力の 我が家守れと
 
 
祖父の足跡を辿り駒が岳分場跡を訪ねる(平成六年元旦)
 
   初日さす 駒のお山は 輝きて 棚びく雲の 上に聳ゆる
 
   高速道 乗りて車は 長坂へ 鄙びた田舎 山裾廻り
 
   標識に 竹宇の文字の 表れて 左に曲がり 山懐に
 
   木立道 深々入れば 暗くして 雪の凍りて 車危うし
 
   山道を 行きつ戻りつ 探しゆく 薄き記憶を 辿る時過ぐ
 
   凸凹の 古き瓦の 里の家 門を叩きて 訪ない聞けり
 
   閃いて 走り出したる 泥畠 こんもり見える 井戸はあそこか
 
   見い出しぬ セメントの淵 掘り抜きの 井戸は枯れ草 覆われていし
 
   山裾に 広く拡がる この大地 先駆者の祖父 偉業を偲ぶ
 
   眺むれば 行き届きたる 手入れかな 桑畠有り 懐かしきかな
 
   持ち主は いくたび替わり 代われども 変わらぬ大地 台が原
 
   そよと吹く 風の身にしむ 枯れ草や 原蚕飼育 年一度なる
 
   その辺り 桑の大木 ありしとか 初日輝く 祖父の住みにし
 
   名残をば 惜しみて帰る 道すがら 刻む心よ 道しるべ
 
   国道に 出でれば左 連れる グランドキャニオン 七里が岩よ
 
   この角を 入れば薮の湯 宗祖父母 体憩いし 山里にして
 
   新雪や アイスバーンは 輝きて そそりてたてる 駒が岳かな
  
 
三浦豊次郎略歴
 
  父豊次郎は明治元年七月二十七日八田村末木三良兵衛次男に生まれ資性沈毅
 
  事に当りて 実直明治二十一年鵜飼村老舗三浦左右輔の養子となり三浦家を
 
  継ぐ 夙に養蚕業に志し八田達也翁に師事し同二十三年豊盛館蚕種製造所を
 
  創設す爾來刻苦精励斯業の改良進歩に尽くす 殊に県内外より派遣の養蚕実
 
  習生に其の薀畜を伝授し多数の資格者を養成す等業績愈々上がり名声全国に
 
  著し 大正十四年十月大日本蚕糸会蚕糸品評会に於いて蚕種特別優等賞に擬
 
  せられ総裁閑院宮殿下より恩賜賞御親綬の光栄に浴す 昭和三年駒が嶽山麓
 
  菅原村に夏秋蚕不作対策のため全国に魁け高冷地原蚕飼育場を設置し研鑽十
 
  余年全国蚕種業者大会に其の成績を発表し蚕作安定に至大の貢献を為す 閑
 
  院宮載仁親王厚く之を賞せられ紅綬功績章を授与せらる 昭和十五年二月七
  
  日母そう逝去止むを得ず同場を閉鎖帰郷して晩節を送る 同二十四年一月十
  
  九日天寿を全うす 時に齢八十二 茲に三浦家興隆の偉業を顕彰し以て之を
 
  子々孫々に伝う
 
       昭和三十七年秋彼岸
                            嗣子 宇太郎 誌