これからはスローライフな生き方を    リストマーク戻る



 我が家の象徴である父が亡くなった。私が定年退職して5年目の秋、平成21年9月14日だった。
脳梗塞を起こし、長年リハビリと入退院を繰り返しながら家で生活していたが、長期の入院生活、2年と3ヶ月闘病の末、家族の手厚い看護の甲斐もなく、遂に旅立っていった。

入院中、私の長男が結婚、お嫁さんが妊娠して曾孫が生まれるのをとても楽しみにしていた。「お腹の中で元気に育っているよ!。」と言うと「早く曾孫の顔をみたいなあ!。」と、歯のない口を精一杯開げ待ち望んでいた笑顔が思い出される。

 翌年の4月のことである。私にとっては孫、父にとっては曾孫、我が家にとっては6代目の男子が大勢の人の愛情と応援の中で、大きな声で産声を上げた。

  私は父の死後、4代目の当主となり、父の遺言通り忠実に、賑やかな葬儀にすること、49日の法要、1周期等の仏事や家業の観光農園の経営、併せて、相続に関する法的手続きを経て今日に至った。もうすぐ定年退職後、7年目を迎える。

 退職時は満60才、以後、無我夢中で家業を継ぎ、専業で観光農園の経営に励んできた。
昨年の暮れのことである。年内中に桃や葡萄の施肥、剪定、後かたづけをすべて終えた翌日の26日、12月後半から顔をを出していた座骨神経痛(脊髄ヘルニア)が悪化して激痛で病院に行くも、年末と新年の休診日が重なり治療をしてもらえず、12月31日の年末、救急病院としての専門病院の最終受診日に飛び込み、何とか投薬を受け、年明けの1月5日、再度受診、脊椎にブロック注射の応急措置を受け、手術を前提として調整を重ね、検査入院等を経た後の1月30日に脊髄管狭窄症の大手術をした。
 
 激痛で、手術の可否を検討する余裕すらなかった。手術の経過も良く8日に退院、骨がしっかり着くように家で寝たり起きたりの療養とリハビリの生活をしていたが、足が弱り歩行もままならない。3月になりぼつぼつ畑にて軽作業で慣らし運転をしていた。

 3月8日、顔だけ出すつもりで集落の無尽に出席して、帰宅後の9時過ぎ突然腹痛を起こした。 救急病院に行き点滴を受けたが、帰宅後も痛みが治まらず、再び受診、MRI等の検査の結果、胆嚢炎と判明、即入院となった。

 翌日の9日、内視鏡による治療を試みるも成果が出ず、内科から外科に変更して治療計画を検討、10日に内視鏡により再度治療、胆嚢出口が詰まっていたのを解放、胆嚢から胃、食道、鼻を経てパイプで病原菌に感染した胆汁液を排出する治療とともに抗生物質や高カロリーの点滴を受け6日間の絶食後、胆汁が薄き色に済んで感染が収まったのを機会に徐々に粥から普通食に移行、入院してから8日目に無事退院することができた。

 平成24年も、3分の1が過ぎ4月になった。今年は幸い春が遅く、梅の花も2週間は遅れており、桃も葡萄もまだ蕾は堅い。
体を労りながら、まずは桃の消毒や除草を始めた。

 我武者羅に働いてきた今までの年月、私はもうすぐ67才、前期高齢者との自分を自覚しつつ、健やかに老いるため、年相応の<スローライフ>な人生計画を進めていかなければならないと思うようになった。

 母は今88才、妻も65才の前期高齢者に仲間入りした。 長男夫婦には2番目の子宝が差受かり、娘も職場が変わり新生活が4月から始まつた。
政治の混乱や経済の不況、周辺農家や環境の変化、我が家の変化、いずれをとっても難問ばかりが山積している。
 
 しかし、欲張りせず、一つ一つ確実に実行、スローライフな生活を送るべく毎日を過ごそうと思っている。

まだまだ腰も痛い、足も充分に回復していない。が、もう入院はこりごりだ、点滴等チュウブで何カ所も固定され自由を奪われたくはない。健康を取り戻し、元気で仕事や生活を送りたい。楽しんでいただける観光農園を継続して経営したく思う。
 
 酒も何十年間よく飲み続けた。たくさん飲んだ。断酒3ヶ月、そんな生活が無理なく過ごせるようになった。油断せず、頑張りすぎず、平凡に生きれることを理想の生活として日々研鑽、歩んで行こうと思う。

 偉大な父、お世話になった父、安らかにお眠り下さい。私は父を始めとする先祖代々に感謝しつつ、家を守り母を大事にしながら、当主としての責任を果たして行きます。決して焦らず、家族を守り、自分の人生をしっかり見つめながら、スローライフな生き方で!。

平成24年3月23日