「・・・小遣い貰ったら、すぐに返すからよ。」
「利子を付けたりなんかしないから、慌てなくったって大丈夫よ。」
「・・・利子が付かねェって所が、おっかなかったりしてな。」
乱馬は音をたてないようにドアを閉め、借りた五千円札をポケットの上から押さえた。
第一章 金曜日
ごく普通の初春の金曜日の午後半ば、呆れる程の上天気の下で、騒ぎは始まった。
それぞれがそれぞれの事をしていた。 かすみは居間の床の間の前に新聞紙を敷いて、花を生け代えていた。 なびきは、かすみに頼まれたのだろう、洗濯物を取り入れている。 あかねは道場の裏で、一人稽古をはじめていた。
いつもと同じ、いつもと変わらない金曜日。
「にーはお、乱馬ァ!」
その日の朝早く、食事中の天道家の居間にいきなりわいて出たシャンプーは、乗って来た自転車ごとほっかほかの肉マン、シューマイ、小龍包を、山程乱馬に押し付けて言った。
「わたしとひぃばぁちゃん、骨休みに温泉行てくるね。これ、留守的挨拶。乱馬 食べるね?わかたか?」
「ほう、温泉かね、い〜な〜。なぁ、乱馬君。」
「わしも行きたいぞ、なぁ、乱馬。」
「いいわねぇ、行ってらっしゃい、シャンプーちゃん。」
「あ、おいしそー、それ♪」
「さっさと行きなさいよ!シャンプー!!」
シャンプーごと自転車と中華料理に乗り掛かられて食卓の上に押し倒された乱馬、以外の面々は、かすみの作った朝食を器用に救出していた。
「わたし、一週間留守ね。」
自転車と料理をほっぱらかして乱馬に抱き着きながら、シャンプーは言った。
「会えなくて寂しいね、乱馬? 一緒に行く、一番いいね。」
「おりゃあ、学校があるんでぃ!」むせながら、乱馬は言った。
「一週間?そんなに猫飯店閉めてていいの?」
なびきが、かすみを手伝って自転車と食卓を片づけながら言った。ちゃっかりと、シャンプーの持って来た中華料理も置いている。シャンプーに抱き着かれて身動きとれない乱馬以外は、食卓の上に空き場所ができるのを待って、辛抱強く食器を支えていた。
「お客さんが離れちゃわない?」
「大丈夫、大丈夫ね、猫飯店的味、そんなもの違う。」
シャンプーは言った。
「たまに休む。ありがたさ、判るね。わたしの言う事わかるか?」
「そうね、シャンプーちゃんのところ、おいしいものね。」
かすみが微笑みながら言った。
「時々、とんでもないものが入ってたりするけどね。」
あかねが、茶わんを置きながら言った。
「そうだ、あかねか乱馬くん、お使いをお願いできるかしら?」
シャンプーも帰り、とんだ邪魔のおかげで一気に慌ただしくなってしまった朝食も終わろうかと言う時、かすみがあかねに言った。
「東風先生に、本を返して来て欲しいんだけど・・・」
「東風先生? 東風先生は、なんか医療の研究会とかで留守にするはずだぜ?」
乱馬は、先日小乃接骨院で世話になった時に東風と話した事を思い出しながら答えた。
「えーと、今朝早く出発して、土曜と日曜はついでに観光をして、それから来週のはじめに会に出るとか、じゃなかったっけかな。親孝行も兼ねてくるとか言ってたけど。」
「あら、そうなの?」
「そうよ、おねえちゃん。先生もう出かけちゃってるわよ。」
あかねが、お椀を片付けながら言った。
「それに、自分が借りたんなら、ちゃんと自分で返した方がいいんじゃない? その方が先生も喜ぶわよ。」
「・・・患者さんが居ない時にね。」
先に片づけを済ませて廊下に出ようとしていたなびきが、ボソッと言った。
「え? なぁに、なびき?」
「いって来まぁす。」
かすみは、床の間の前に大きくひろげた新聞紙の上の平鉢の水の中で、剪定鋏を器用に扱って梅の枝を切った。剣山の鋭い穂先にも怖じない慣れた様子で、繊細な角度に差してゆく。
春の日が斜めに差し込んでいる縁側に腰を下ろし、取り入れた洗濯物の山を片付け始めたなびきは、その長姉の手さばきを見て言った。
「結構力がいるのよねー、お花って。」
「そうね・・・」
よいしょっと言いそうな動きで、太めの枝を切りながら、かすみはあいづちを打った。パチン、パチンと、切り口に十文字に切れ目を入れてから剣山の上に斜めにかかげ、先に差した枝との具合を試している。
「・・・どうかしら、なびき?」
「ん〜、いーんじゃない?」
なびきは適当に洗濯物をたたみながら、平鉢の上に突っ立っている枝に目をやって答えた。
「でも、今頃生けるなんて珍しいね? いつもなら、お昼前に生けちゃってるのに。」
「だって、さっき頂いたんですもの。」
かすみは、すぐ下の妹の意見をよしとし、すこし体を浮かせて、指を濡らしながら剣山に枝を差し込んだ。
「すぐに生けてやらないとかわいそうでしょ。」
あかねは、ひと通り体を慣らした後、近所の取り壊された家から引き取って来た瓦を、ふたつのブロックの上に何枚か重ねて渡し、その上に畳んだタオルを敷いた。 両腕を腰だめにし、ゆっくりと息を吐いてゆく。 試し割りはいつものことだが、このようなものは、例え腕がよくてどんなに割り慣れていたとしても、気を抜くと怪我をしてしまう。最初は特にそうだ。 景気の良い音がして、次々と瓦は割られていった。
「快調 快調〜♪」
「そっか? 」
いきなり頭の上から、からかいぎみの声が聞こえた。
「小出しに割ってかないで、もっといっぺんにドカッとやっちまえよ。」
あかねは、あわてて顔を上げた。
「あ、わりー、そんなに出来ねーんだったっけー」
「なによー! 帰って来るなりいきなり!」
あかねは、土塀の上にちょこんと乗っかっている乱馬に向かって言った。
「大体、なんで玄関からちゃんと入んないのよ! お行儀の悪い!!」
「へっへっ、かったるくって、いちいち廻ってられっかよ!」
ひょいっと土塀の瓦屋根の上から飛び下りた乱馬は、かすみに頼まれた夕飯用の買い物をあかねに押し付け、ささっと瓦をブロックの上に積み上げた。あかねが割っていた分の、ほとんど倍は高さがある。
「見てな、」
乱馬は少し下がり、軽く調子を取ってから、すっと瓦に身を寄せた。かすかにピシッッと音がし、一瞬の後に総ての瓦はまっ二つに割れ崩れ落ちた。
「な? はでな音がするってのは・だ、力が無駄になっちまってるって事なんだぜ?」
乱馬はあかねの方に向き直りながら続けて言った。
「ま、修行すりゃぁ、そのうち・・・・・・・」
「・・・せっかく・・・」
「え?・・・」
「せっかくーーーあたしがーーー苦労してーーー」
あかねは、ゆっくりとしゃがみ込んで、割れた瓦をつかんだ。
「集めて来たのにーーーーーーっ!!!」
「〆〜♂$‰¢〒〓‡▽◎☆★!!!!!!」
雨霰と降り注がれる瓦のカケラに追われ、乱馬は大慌てで母屋の方へと突っ走った。
「よけいなちょっかいなんか出してないで、さっさとおねえちゃんに渡しに行きなさいってのよ、 まったく!」
乱馬が屋根に飛び上がって視界から消えてしまうと、あかねは夕飯の材料を持って台所に向かった。
「あ、お刺身だ♪」
屋根の上であかねの攻撃から逃れた 乱馬は、幾つか瓦をくらってしまった背中と頭を押さえていた。
「隙ありじゃーぃ!」
その声と同時に突然背中をどつかれ、乱馬は母屋の二階の屋根からまっ逆さまに庭の池に墜落した。 こじんまりとした日本庭園一面に水しぶきが広がって常緑樹の葉が一斉にざわめき、石灯籠や樹の幹の色が変わった。
「なにしやがんでー!! じじいっ!」
空中に舞い上がった水滴がまだ落下を始めないうちに、らんまと化した乱馬は池から飛び出し、時代錯誤の盗人のなりで屋根の上で高笑いをしている八宝斎に向かって突進した。
「・・・洗濯物、取り込んどいて、良かったわ。」
なびきの低い声が、らんまの後を追った。
「今ので全部洗い直しになるとこだったわね。」
なびきは、畳み終わった洗濯物を、ばかでかい洗濯物用の籐の編み籠に入れながら言った。
「暖かくなって、乾くのが早くなってて良かったわよ、まったく!」
屋根の上で八宝斎とらんまが跳ね回っている気配が、ここまで伝わってくる。
「おじいちゃんも乱馬君も、ちょっとは考えて欲しいもんよねー。」
かすみは、生け花の様子を試しながら、黙ったまま微笑んだ。
「あ〜あ、縁側までしぶきが届いちゃってる。」
なびきは、かすみが花を生けた後に使おうと持って来ていた雑巾で、そこらを拭い始めた。
「あ〜んな所で隙だらけになっとる方が、わ〜るいーんじゃ〜い!」
軽々とらんまの攻撃を避けながら、八宝斎は陽気に言った。
「ホ〜レ、つ〜かまえーてみー?!」
「こんの、えろじじー!またそんなに盗んで来やがって!」
甍をガタガタ言わせながら、らんまはわめいた。
「どんだけ天道のおじさんに迷惑かけりゃぁ、気が済むんでぃ!!」
「・・・迷惑で言ったら、乱馬も相当なもんだと思うけどー・・・」
八宝斎とらんまの騒ぎの下、あかねは台所で、買い物籠に入っていたメモと照らし合わせながら、品物をテーブルに並べていた。
「・・・うん、買い忘れ無し、ね。」
「あ・・・あかね?! なななななにか、作っているのかイィ?」
冷蔵庫にあれこれと入れていたあかねは、勝手口に顔を向けた。
「お帰りなさい、おとうさん。」
あかねは、冷蔵庫を閉めながらにこやかに答えた。
「ううん、片付けてただけ。あ、お腹がすいてるんなら、何か作ろうっか?」
「い・いやぁ、おとうさん、お腹いっぱいだからぁああはははははー。早乙女君はどうかね?」
「な・・・なにを天道君・・・やーわしも、今はなーんも入らんからっ! ありがとう、あかねくん!」
「そう?」
「ど〜れ、庭にでもまわって、乱馬君とお師匠さまの修行を見せてもらうとするかな〜♪」
「そうだね、天道君♪」
二人は大急ぎで勝手口を閉め、一目散に池のある庭目ざして駆け出した。
「どうしたー?もう息があがってしもうたかー?」
屋根から庭木に向かって飛び下りながら八宝斎は言った。
「若いのに、だーらしなぁいーのー♪」「な、なんの〜」
すっかり頭に血が上ってしまったらんまも、後を追って跳ねた。 虫が入っていたのか、いつも飛び跳ねる時の足場にされている為に痛んで皮が剥がれでもしていたのか、あるいは先ほどの水しぶきで濡れていた為か、八宝斎は、体重を掛けようとした松の幹で足を滑らせた。
「し、しもうたっ・・」
「もらったー!!」
らんまの拳が八宝斎の顔めがけて飛び込んでくる。が、その拳は、いつの間にか取り出されていた八宝斎の煙管でからめ取られ、らんまの身体は弾き飛ばされた。 それは、いつもならば、天空高く舞い上がるはずだった。
なびきは雑巾を姉の手許に戻すと、両手をいっぱいに広げ、畳んだ洗濯物満載の籠を抱えて立ち上がった。
「・・・よいせっ」
それほど重くは無いが、何しろかさばっていて持ちにくい。
「おじいちゃんも乱馬くんも、いいかげんにー・・・」
ふたりが屋根から庭に向かって飛んだ気配に、そう言いかけた時。
「どけー!!!」
らんまが叫んだ。 一瞬だけ、少なくとも直撃を避けるだけの間はあったはずであった。
掛け軸は弾き飛ばされ、畳まれていた洗濯物の多くは宙を舞い、籐の籠は潰れた。
「な、なんでよけね・・」
すぐそばで、大きく息を吸い込む音が、悲鳴の様に聞こえた。 洗濯物がクッションとなり、思いのほか衝撃の少なかったらんまは、言いかけた言葉を飲み込んだ。 今の今まで、そこにかすみが居る事に、まったく気付いていなかったのだ。
かすみの手から剪定鋏が滑り落ち、一瞬だけ畳に突き刺ささり、それを切り裂きながら横に倒れた。らんまの手の下になった洗濯物が濡れはじめているのは、かすみの生け花が倒されていたからだった。 平鉢はまっ二つに割れ、そのそばで、鈍く光る剣山が、折れた梅の枝を差したままゴロンと転がった。
らんまの手の下で、洗濯物を冷たく濡らしてる水に、異様な暖かみを持つ朱の色が加わって来た。 らんまは、急いで潰れた大きな籠を持ち上げ放り出し、砕けて崩れた床の間の壁に突っ込んでいる天道家の次女の身体に手を掛けようとした。
「動かさないで・・・!」
押し出す様なかすみの声が、廻りの空気を押さえ付けた様に感じられた。
壁に押し付けられた頭から溢れ出す血は、顔の半分を覆い広がりながら流れ落ち、肩から手、脇、そして床を赤く染め広げてゆく。