⑥ 問題追求  2021 平和を願う山梨戦争展  展示     

      * 展示をそのまま掲載のため、数字が漢数字になっています。

    戦後七六年目の今、「従軍慰安婦」に訴えられる日本国のなぜ ー 日川中学校歌を歌い、戦病死した木村さんー


〈その①〉
  ソウル中央地方法院の判決 (第三四民事部)

                
原告 裴春姫 (以下一二名)
                被告 日本国
                弁論終結  二〇二〇年一〇月三〇日
                判決宣告  二〇二一年一月八日
       
          主文


一 被告は原告らに各一〇〇、○○○、○○○ウォンを支払え
二 訴訟費用は被告の負担とする。

      理由 「慰安婦」動員過程 ー 慰安所設置

■「『慰安所』は一九三二年の上海事変の時に日本軍兵士による強姦事件が多発し、現地の人々の反発や性病等の問題が続いたため、その防止策として日本海軍が設置したのが始まりであり、中日戦争が全面的に開始された後、日本帝国は前線の拡大に合わせて軍人たちの管理のため『慰安所』を設置する必要性があると判断した。これには軍人たちの精神的安定を提供することにより、いつ終わるとも知れない戦争から逃れようとする軍人たちの士気を高揚し、不満をなだめ、特に日本語を知らない植民地女性を『慰安婦』にすることによって軍の機密が漏洩する可能性を低減しようという意図も含まれていた。(略)」

   本件行為が不法行為であるかについての判断

 ■「(略)十代前半から二○歳に過ぎない未成年や成人になったばかりの原告らは、貧しい家計を助けるため『工場で金を稼げる』などの民間業者又は日本帝国の公務員らの欺罔に騙されて志願したり、強制的に拉致されたり、上記制度を正確に理解できない父母や周囲の人々の勧誘により『慰安婦』として動員された。『慰安婦』として動員されたのち、原告らは日本帝国の組織的で直接的・間接的な統制下に本人の意思とは関係なく強制的に軍人らの性的行為の対象となり、その回数も一日に数十回に及ぶほど悲惨であった。幼い年の原告らとの性行為のため、原告らが収容された部屋に軍人たちが列を作り、そのため利用時間に制限があるほどであった。(略)」                                                                    
                                                                                                                                                                                                                      (「ソウル中央地方法院第三四民事部判決」で検索)

〈その②〉 「国家免除を否定した点で注目に値する判決」 ー  韓国「中央日報」の記事 二○二一・二・三ー

■「(略)こうした中、ソウル地方法院(地裁)第三四民事部(主審キム・ジョンゴン判事)は先月八日、慰安婦被害者が日本政府に対して起こした賠償請求訴訟で日本政府に被害者一人あたり一億ウォン(約九四○万円)を賠償するよう命じる判決を下した。国際法で一般に認められている国家免除(一国は他国の国内裁判権に従わない)を否定した点で注目に値するほどの判決だった。判決は国家免除が慰安婦のような反人道的犯罪に対しては適用されないとした。(略)」   
                                                                                                                                                                                     (「徴用・慰安婦判決と「深まる韓日葛藤ー中央日報日本語版」で検索)

〈その③〉 「慰安婦は軍の要請により設置された」  元内閣官房長官 河野洋平 平成五年(一九九三年)八月四日

■「いわゆる従軍慰安婦については、政府は、一昨年一二月より調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。(略)」

                                                                                                                                                                           (「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」で検索) (ウィキソース)

〈その④〉 「わが国は、国策を誤り戦争への道を歩んだ」  元首相 村山富市 平成一九年(二○○七年)三月

「(略)わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。またこの歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。(略)」 
                                                                                                                                                                                                                            (「外務省―村山内閣総理大臣談話」で検索)

〈その⑤〉 「従軍慰安婦は、当時の軍の関与の下に」   元首相 小泉純一郎 平成一三(二○○一)年

■「このたび、政府と国民が協力して進めている『女性のためのアジア平和国民基金』を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、心身にわたる癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。(略)」     

                                                                                                                                                                                        (外務省ー「アジア女性基金事業実施に際する内閣総理大臣の手紙」で検索)

〈その⑥〉 「私は慰安所をつくってやったこともある」  元首相 中曽根康弘
 
                衆議院ー安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書  提出者 辻元清美  平成一九年三月八日提出

■ 「(略)さらに、米国議会下院では、日本軍当局が慰安所運営に直接関わったことを示す証拠として中曽根康弘元首相の回顧録『終わりなき海軍ー若い世代へ伝えたい残したい』(発行年月日:一九七八年六月一五日、発行所:株式会社文化放送開発センター出版部、編者:松浦敬紀)が提起された。同書中で中曽根元首相は、『三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。』(同書第一刷九八頁)と記述している。‥‥日本政府には早急かつ充分な調査を期待するものである。従って、以下、質問する。(略)」    

                                                                                                                                                                                                        (「安倍首相の『慰安婦』問題への認識に関する質問主意書」で検策)

〈その⑦〉  「性奴隷といった事実はない」  安倍晋三首相 (当時)  ー  『しんぶん 赤旗』 日曜版 二○二一・二・四ー

■「(略)一方、日本政府は二○一五年の日韓合意で『心からのおわびと反省』を表明しました。ところが安倍晋三首相(当時)は、被害者への直接の謝罪を拒否し『性奴隷といった事実はない』と加害と被害の実態を否定しました。これでは被害者は受け入れません。‥‥日本政府には『慰安婦』制度をつくった第一義的責任があります。韓国政府を一方的に責めるではなく、きちんと話し合いにつき、被害者の願いと国際的な人権保障水準にかなう解決に向けた協議が行なわれるべきです。」

〈その⑧〉 「元性奴隷の方々には全く補償はなかった」  ー  一九六五年 日韓基本条約発効  ー  法学館憲法研究所

 ■「(略)結局、終戦から二○年も経過したこの年、日本と大韓民国政府との間で日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)の批准書が交換され、関連する協定とともに発行しました(一二月一八日)。条約は日本の植民地支配が終わっていることを法的に確認し、両国間の国交を正式に樹立するものでした。(略)
 内容は、無償三億ドル、有償二億ドル、民間借款三憶ドルの供与及び貸付です。これによって、国民の請求権に関する問題は、『完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する』とされました。しかし、同時に協定には、『供与及び貸付けは、大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない』と規定され、事実大部分はインフラの整備等軍事政権の基盤の強化に使われました。軍人・軍属・労務者に対する補償は僅か(日本円にして三万円)でした。終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元性奴隷の方々には全く補償がありませんでした。そのため、一九九○年代以降、冷戦体制が崩壊し民主化が進んだ韓国からは、他のアジア諸地域からと同様に、軍事政権の正統性を問うことと並行して、日本の戦争責任の追及・個人からの対日補償要求が台頭し、重大な問題となっています。」

                                                                                                                                                                                                               (法学館憲法研究所 「一九六五年 日韓基本条約発効」で検索)

〈その⑨〉  中国で戦病死した木村正夫さん(仮名)の遺書 ー 木村さんは戦争の加害者なのか 被害者なのか ー


              遺書

      人生健康第一ナリ

      我人生ノ敗残者ナリ

      吾モトヨリ言遺スコトナシ

      唯父母兄弟ノ健在ヲ祈ル

              昭和二○年一二月一○日  本人 木村正夫



〈その⑩〉 木村正夫さんの戦跡

           昭和一八年一○月一日  現役兵として入営
             昭和一九年一二月一九日 入院
             昭和二○年一月九日   病名決定
             昭和二○年八月一四日  関東陸軍第一病院に転入
             昭和二○年一一月一七日 ソ連軍の移駐指示で大連から海城へ移駐
             昭和二○年一二月一○日 遺書を書く
             昭和二一年三月二五日  衰弱極に達す
             昭和二一年四月一○日  死亡

〈その⑪〉 日本の若者を戦争に駆り立てた教育勅語  ー  一旦緩急あれば 義勇公に奉じ  ー  明治天皇

朕惟フニ、我カ皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。(略)爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、(略)常ニ国憲ヲ重シ、国法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。(略)斯ノ道は、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所(略)朕爾臣民ト倶ニ、拳拳服膺シテ、咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。
    明治二三年一○月三○日        御 名 御 璽         
                                                                                                                                                                                                         (「宮城県神社庁 教育勅語」で検索)

〈その⑫〉 木村さんが歌った日川中学校歌   ー  現在も歌われている「天皇の勅」を讃える校歌  ー

  山梨県立日川中学・高校校歌    (一九一六年・大正六年制定)

    一 天地の正気甲南に      
      籠りて聖き富士が根を     
      高き理想と仰ぐとき      
      吾等が胸に希望あり      

    二 至誠の泉湧き出でて
      流れも清き峡東の
     水に心を澄ましなば
     未来の春は輝かむ

    三 質実剛毅の魂を      
      染めたる旗を打振りて     
      天皇の勅もち         
      勲立てむ時ぞ今


    四 猛き進取の調べもて
      歌う健児の精神は
      白根が嶽にこだまして
      何時の世までも轟かむ

〈その⑬〉 「一億同胞の熱い赤心が火のように燃えている」  ー  母から息子・正夫さんへの手紙  ー

■「(略)戰ひ日夜危険にさらされながら御奮戦下さることを思いますと、唯々感謝の泪があふれ来るのみです。(略) 皆様の背後では、一億同胞の熱い赤心が火のように燃えていることをお忘れなく、此の上共々お国の為お働きくださいます様、そして輝かしい凱旋の日が一日も早からんことを心からお祈りし致しております。(略) 出征兵士様」


〈その⑭〉 「大君に對し奉り御恩の萬分の一なりとも御報いしたき覚悟」 ー  妹から兄・正夫さんへの手紙  ー

■「御出征なされて此の方焼くが如くの酷熱の中、息も途絶えるばかりの寒さの内を君の御為め國の御為に重い責務に勵まれ、日毎夜毎の御奮闘にいさヽかの御患ひなく数々の御勲を樹てられた御振舞いに對し、銃後の私達は兄に感謝感激の外御座いません。あの頑迷なる支那軍を撃ち平らげるまでは、まだまだ末永き事を思われます。皇軍兵士の皆々様の御辛勞はいかばかりかを想います時、私共銃後にあるものはますます銃後を固くし、大君に對し奉り御恩の萬分の一なりとも御報いしたき覚悟で御座います。出征兵士様」


〈その⑮〉 「天皇のために死ぬ事が最高の名誉と思わされた」 ー 房造さんの「戦中日記」より ー 石川房蔵
                    
■「夢も希望も思い通りにいかなかった青春時代、不平不満の言えない時代、ただ戦争に勝つことだけを強いられ、人命を国の為にという大義名分だけで、天皇のために死ぬ事が最高の名誉だと思わされて生きた時代、今にして思えば暗く悲しいあの頃でした。(略)とにかく自由のない時代、この日記帳にも戦争批判等一言も書いてありません。書けない時代でした。勉強したくても出来ない、食べるものがない、着るものも履く靴も自由に手に入らない、
自分の考えるように行動出来ない、国の一部の指導者の考えや思想にも反対出来ず、その流れにただ流されていったみじめな青春時代でした。 (略)」

                                                                                                                                                                 (『知ってきたいあの戦争』一七 ー一八頁 山梨ふるさと文庫)

「今年こそ決戦の年だ」 昭和二○年一月一日 月曜日 晴

■「五時半起床。今日は昭和二○年の元旦だ。すぐに顔を洗い朝礼を行い、其の後春日神社へ参拝した。今年こそ決戦の年だ。一同しっかりやることを誓った。其の後寮へ帰り朝食をとる。雑煮で餅が四切れ入っていた。汁と菜ばかりであった。八時五○分に出廠。廠舎前にて九時半より拝賀式を行い、其の後御真影(ごしんえい)奉拝有資格者の中へ学徒も入り、御真影の参拝を行った。(略)」                                                                                                                                                               (『同上』一八頁)

「聖断の下、大東亜戦争は終結した」  昭和二○年八月一五日 水曜日 晴後曇

■「(略)一二時迄に防空整備班の所へ集合し、重大発表を聞いた。天皇陛下御親(みずか)らマイクの前に立たせられ、詔書(しょうしょ)を御読みになられたのだ。遂に帝国政府は米・英・支・ソ四国の共同宣言を受諾することに決定したのだ。聖断(せいだん)の下、大東亜戦争は終局した。全く、惜しみても、惜しみても足らぬ。我らは勝利の日を目指して、只管(ひたすら)努力して来たのだ。事此処(ここ)に至ってはしかたがない。我らはあくまでも国体護持(ごじ)、民族自存の為、帝国の再建をはかり生きてゆかねばならぬのだ。畏(かしこく)も天皇陛下には敵の新型爆弾の残虐、民族滅亡を御懸念あそばされ、神州不滅(しんしゅうふめつ)、総力建設を御垂示あらせられたのである。最後の御前(ごぜん)会議において『朕(ちん)は国が焼土と化することを思えば、たとえ朕の一身は如何(いか)になろうとも、これ以上民草(たみくさ)の戦火に斃(たお)れるを見るに忍びない』との畏くもおそれ多い有難いお言葉を承ったのである。」                                          
                                                                                                                       (『同上』一八頁)


〈その⑯〉 房造さんを皇国臣民に仕立てた 山梨県立甲府一高旧校歌 昭和三年二月二〇日   三井甲之作詞 昭和二一年 廃止

  
一 我等は日本に生まれたり 神の御代より一系の
     皇統戴く我國に 生まれしことのうれしさよ
     皇國の榮えは天地と 共に窮まりなかるべし


  二 大和島根に山めぐる 甲斐の國あり水清き
     郷土の歴史顧みよ 我等の務め輕からず
     見よや南に富士が嶺は 皇國の鎮めと聳えたり

  三 大海原の揺りやまぬ 波をも風をも凌ぎつつ
     護れ皇國を諸共に 國民擧りて國のため
     撓まず萎縮まず辟易がず 進むぞ大和ごころなる


■ 戦後につくられた甲府一高・新校歌 (昭和二三年)    (作詞・上條 馨・神社宮司    選者・飯田蛇笏)

  一 甲斐の國 み中に建ちて 
     古へゆ 雄心つたへ
      新しき 世の鑑とし 
      勉めてむ この學びやに

   二 日に新た また日に新た 
      いや高き のぞみをもちて
      眞なる 理きはめ 
     勵みなむ 若人われら

   三 聳えたつ 芙蓉のたかね 
     清きかな 甲斐の山川
     もろともに 玉と磨きて 
     贊くべし 天地の化育

■ 新校歌の選者・飯田蛇笏の俳句


    ・《皇軍の感謝》
    軍をおもふ 秋はふるさとの唐錦(昭和一五年)

    ・《皇國聖戰》
    おほみことのり四海に霜は暾に溶くる(昭和一七年)

    ・《戰捷と山童》
    聖戰の三寒四温童らそだつ (昭和一七年)

    ・《新嘉坡陥落》
    みいくさの大東亞海東風わたる (昭和一七年)

    ・《雪中盧》
    終戰の秋をかなしき小夜の曲 (昭和二○年)

      (『飯田蛇笏全句集』 角川書店 昭和六〇年


〈その⑰〉  中国の新郷で発病した木村さんの病歴書 ー 第一一七師団所属 ー

       病歴書


   氏名 木村正夫 本籍地 山梨縣○○○○〇
   現住所 本籍地ニ同ジ
   部隊號 第一一七師團獨立歩兵第二○四大隊歩兵中隊
       昭和一八年徴集 陸軍伍長 木村正夫

   一 (文字不明)左第一肋骨カリエス
   二 発病年月日 昭和一九年一二月一九日
   三 発病場所 中華民國河南省新郷縣新郷
   四 原因 別紙事實證明書記載ノ如シ
   五 経過
   (1)昭和一九年一二月一九日全身倦怠肩凝背痛咳嗽喀痰左前胸上部超鶏卵大腫瘤ヲ主訴トシ新卿陸軍病院ニ入院ス
   (2)翌二○年一月九日左第一肋骨カリエスニ病名決定ス
   (3)北京奉天遼陽各陸軍病院ヲ経テ同年八月一四日關東第一陸軍病院ニ轉入ス當時榮養不良ニシテ左鎖骨下ノ手術創肉芽不良ニシテ再手術ヲ施セルモ治癒スルニ至ラズ同年一一月一七日蘇聯軍ノ指示ニヨリ大連出發一    九日海城ニ移駐ス
   (4)爾来咳嗽喀痰劇シク胸部ニ囉音多数聴取スルニ至リ翌二一年三月二五日(文字不明)左第一肋骨カリエスニ轉症ス衰弱ソノ極に達シ四月八日夜半ヨリ喀血多量アリ百般ノ治療看護モソノ効ナク四月一○日午後零時三○分    不幸遂ニ鬼籍ニ入ル
   六 死亡年月日 昭和二一年四月一○日午後零時三○分
   七 死亡ノ場所  満洲奉天省海城關東第一陸軍病院
          調製官 關東第一陸軍病院附 昭和二一年四月一○日  竹村益次郎㊞

■「木村さんの最後の言葉」 (戦友からの伝言)


 「『ゆで卵を食べたい』が木村さんの最後の言葉でした。」

〈その⑱〉 木村さんが所属した第一一七師団(大日本帝国陸軍師団)

 「【沿革】‥‥第一一七師団は、河南省新郷で独立歩兵第一四旅団を基幹に編成された。編成後、第一二軍に編入され、黄河以北の京漢線沿線の警備に当たっていた。師団の編成は、四個独立歩兵大隊から成る歩兵旅団を二個持ち、砲兵を欠いた丙師団である。しかし、一九四五年(昭和二○年)三月に師団迫撃砲隊が新たに編成され師団に編合された。一九四五年(昭和二○年)四月には老河口作戦に参加する予定であったが中止、関東軍第四四軍戦闘序列に編入された。桃南に駐屯していたところ、同年八月九日にソ連対日参戦となったため新京方面に向け後退中、終戦となり、師団主力は吉林省公主嶺で武装解除された。」

 【師団概要】 創設 一九四四年(昭和一九年)七月十日
         編成地 河南省新郷
         歴代師団長 ・鈴木敬久(心得
)一九四四(昭和一九年)七月一四日から
                             一九四五(昭和二○年)四月三○日まで
                 ・鈴木敬久    一九四五(昭和二○年)六月四日ー終戦  
                                                                                    (ウィキペディア 「第一一七師団」で検索)

〈その⑲〉  「私は慰安婦の設置を命じた」   第一一七師団長 鈴木敬久

    資料にある地域情報 新郷
    慰安所があった時期 一九四四年七月
    証言者       鈴木敬久
    証言者属性     日本軍兵士・陸軍第一一七師団長陸軍中将
    部隊名       第一一七師団

      自筆供述書

「(三)一九四四年七月、歩兵第四旅団は第一一七師団に改編せられ、私は第一一七師団長心得を命ぜられました。‥‥(一三)日本侵略軍の蟠居地には、私は所謂慰安婦の設置を命じ、中国並びに朝鮮人民の婦女を誘拐して所謂慰安婦となしたのでありまして、其の婦女の数は約六○名あります。」(一九五四年七月調書)                                      
                                                                                      (「日本軍慰安所マップ」で検索)

〈その⑳〉  第一一七師団長の「供述書」    一九五四年八月八日 鈴木敬久

     私は慰安婦所を設置することを命令した

 ■「私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之を設置せしめ中国人民及朝鮮人民婦女二○名を誘拐して慰安婦となさしめました。
 
    第二七兵団長の時の罪行 (毒ガスの使用)

 ■「(略)魯家峪に於ての洞窟攻撃に際し、毒瓦斯を使用して八路軍の幹部以下百名を惨殺し、又戦火内に引き入れられることを恐れ、魯家峪部落附近の山地に避難せる中国人民の農民二三五名を中にも(ママ)妊婦の腹を割り等の野蛮なる方法を用いて惨殺し、魯家峪部落約八○○戸を焼き尽くし、尚俘虜は玉田に送り、其の中約五名を殺害したのでありまして、尚且つ婦女の強姦百名にも達したのであります。(一九五四年八月八日 撫順)
 日本侵略軍の蟠踞する所には、私は各所(豊潤、砂河鎮其の他二、三)に慰安所を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は約六○名であります。」

 ー婦女誘拐の罪行ー

 一九四五年七月、私は新郷地区より東北に移動を命ぜられたる際、所謂慰安所設備の為、日本人婦女五名を新郷より東北洮南に連行して来ました。」            
         
                                                                             (『中帰連』第6号 『皇軍の性犯罪』一九~二○頁 一九九八年発行) 

〈その㉑〉 「私は第一一七師団病院に所属していた」  ー 太行の麓をしのんで ー 「生体解剖」 野田 実

              【略歴】 旧部隊  第一一七師団野戦病院
                    旧階級  軍医中尉
                    出身県  岐阜県
                    学歴   東京医専卒
                    年齢   一九一五生 四二歳


「連日連夜将校倶楽部に入り、酒と女で官能が麻痺されていた」

■「一九四五年四月のことであった。炭坑で名高いあの河南省焦作鎮(かなんしょうしょうさくちん)に私の所属していた旧第一一七師団野戦病院が駐留していた。(略)一方、沖縄の戦局は、すでに決定的段階にはいったことが報ぜられており、この作戦が終わったら、師団は移動するだろうという噂(うわさ)さえ、どこからともなく伝えられていた。病院には、私を含めて院長以下五名の軍医が残留していたが、新しい入院患者もほとんどなく、病院はひっそりしており、重苦しい不安な空気がただよっていた。連日連夜、将校俱楽部に入り浸り、酒と女で、官能がすでに麻痺されたように荒(す)さんでいた。私は、このような不安と焦燥のなかで、もっと強い刺激を求めていたのだ。」

「軍医たちの手術の練習のための『生体解剖』」

■「ちょうどこうした時期に、私は、突然、病院長軍医少佐丹保司平(たんぽしへい)に呼ばれた。『‥‥憲兵分遣隊から―どうせ殺すのだから、病院で何か試験に使って処分してくれてもよい―という話があり、いい機会だから、軍医たちの手術の練習のために教育をやろうと思っているのだ。戦地に来ている軍医は内科だろうが、外科だろうが、緊急の手術や盲腸の手術は、いつ、どこでもできるようにしておかなければならぬからなあ。』私は病院長のこの話を聞いたとき、しめたとばかり、即座に『承知しました』と引き受けていた。(略)」
                                                                                       (「太行の麓をしのんでー生体解剖ー」で検索』)

〈その㉒〉 「上官の命令は天皇陛下の命令だ」   ー  母子の虐殺  ー 鴨田好司  中国帰還者連絡会会員)

             【略歴】 一九二一年 東京生まれ
              一九九八年 歿
              所属部隊 第五九師団第五四旅団  第一一一大隊
              職務階級 兵長

  ■「『命令だ!』上官の命令は、天皇陛下の命令だ、と絶対服従の天皇を崇拝した『大和魂』をつけた私は、まさに、血に飢えた獣だった。キバを向いて荒れ狂った。私は女の横腹を思い切りけとばした。そして、母の背に、小さくなってふるえ泣き叫ぶ男の子の襟首をわしづかみに、岩石に叩きつけた。『アイヤア‥‥小孩子(シャオハイズ)…小孩子(シャオハイズ!)(略)
 母親は悲しみと憤怒に燃え『鬼子(クイズ)!』と叫んだ。そして血みどろの中でもがき、二人の愛児の屍にしがみついた。私は、呪いのこもった女の目に、ギョッとして、ひとかたまりになった母子の体を蹴とばし、女の腹を深く銃剣で突き刺した。(略)
 私は、今(略)何の理由もなく、ただ『戦争という、公然な理由をつけ』虐殺した、滔天(とうてん)の罪に深い慚愧と悔悟の念でいっぱいです。」                                   
                                                                                                         (『中帰連』第六号 一九九八年・八月)


            二〇二一年八月 
                         日川高校「天皇の勅」校歌訴訟県民の会      山梨教育運動ユニオン(協力)   

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