3 議論の場 
 ① 問題追及
  開き直る学校・同窓会     同窓生・原告 河西久  パートⅠ

  1 日川高校校歌と高裁判決
                           
 「天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち 勲立てむ時ぞ今」― 1916年(大正5年)に制定された山梨県立日川高校校歌3番の歌詞である。国会議員で勲一等の田辺国男同窓会長(在任1977年~2003年・名誉会長・2005年死去)は、1980年の同窓会誌(1頁)にこう書いている。
■「わが母校日川は、来年、創立80周年を迎える、という長い歴史の中で、創立当時から校章・校歌・校風を全く変えずに通している、全国稀有の存在です。『文武両道』『質実剛毅』という伝統的な教育方針が今日なお抵抗なく堅持されており、そこに脈々として日川魂が受け継がれてきました。それを、われわれ日川人は、なによりも誇りとしています。(略)もし『新しい』ことのみが尊ばれ、『古い』ものが頭から否定される論法からすれば、わが日川は、かたくなに古い伝統を守り続けている、アナクロニズムの権化のそしりをまぬがれないでしょう。しかし、質実剛毅の校風が、80年の歴史の変遷に耐えて、今日なお生き続けているということは、たとえ時代が如何に変わろうとも、『良いものは良いのだ』という、高い評価と強い支持を得ているからに他ならないと思うのです。(後略)」
 たとえ「アナクロニズム(時代錯誤)の権化」と言われようとも伝統の校歌・校章・校風を守っていこう、そう同窓会長は呼びかけている。そして、たとえ校歌が日本国憲法と齟齬をきたすにしても「良いものは良い」のであり、これを死守しようと訴えている。これが日川伝統の「反骨精神」らしい。
 ここでは法治国家の公務員としての規範意識は希薄である。同窓会主導の校歌の「死守宣言」ともとれる発言である。山本昌昭第23校長が現職校長として問題提起したのが1985年。その主張に共鳴した私たちの動きが訴訟に発展したのが2004年。その間の約20年という歳月は、田辺同窓会長の在任期間とほぼ重なっている。
 国会議員でもあった同窓会長は、日川高校校歌がアナクロニズムであることを認識していた。また国会議員として、「天皇の勅」(詔勅)が日本国憲法によって失効となり、国会においても、排除・失効の決議がなされていることも知っていた。国会決議は失効・排除の理由として、
■「これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。」
と明記している。
 「日川高校校歌問題」の核心は、日本国憲法をはじめとする法的規定で排除・失効している「天皇の勅」を公立高校の生徒に歌わせることが許されるのかということである。2006年5月17日東京高裁は、校歌指導に支出された公費の損害賠償は棄却したものの、つぎのような判決を下した。
■「本件歌詞が国民主権、象徴天皇制を基本原理の一つとする日本国憲法の精神に沿うものであるのかについては異論がありうる。」
■「本件歌詞を含む本件校歌指導を教育課程に取り入れることの当否についても、十分な議論が必要」
この判決が下されたとき、メディアの多くは簡単に「原告敗訴」の文字を紙面に載せた。しかし、「山梨日日新聞」だけが「実質勝訴」と報じている。「日川高校校歌問題」の本質を知る地元の新聞ならではの分析だった。私たちが最高裁に上告しなかった理由の一つは、この校歌の処遇についてはまず議論が必要だと考えていたからである。国会決議が手続きを経て詔勅の排除・失効を決議したように、「天皇の勅」を称える校歌も手続きを踏み、論理的に公教育の場から排除されなければならないと考えていた。校歌を残すにしても排除するにしても、なぜこの校歌が問題なのか、議論を尽くすことが日本国憲法の精神であると思っていたからだ。
 しかしながら、状況は現校長や新同窓会長の時代になっても変わらない。変えないことが伝統だからである。校長や同窓会長は甲府地裁提訴の段階でこう述べている。
■「教育勅語を歌いこんだという根拠はなく、歌詞は象徴天皇だと解釈している。」 (鶴田正樹第30代校長『朝日新聞』2004・1・24)
■「教育勅語でなく、国民の幸せや世界平和を願う天皇陛下の言葉と考えればいい。」(『産経新聞』2004・1・23 加藤正明同窓会長 在任2003年~ 元山梨県教育長)
 また、市川今朝則現校長は高裁判決が下された後こうも述べている。
■「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っているんです。」 (『朝日新聞〔全国版〕』2006・8・8)
 これらの発言は、校歌改廃の権限をもつ校長や日川教育に強い影響力をもつ同窓会が、校歌問題については「すでに決着済み」(木藤勇興第29代校長の言葉)と言っているように聞こえる。提訴時に新聞紙上で紹介された日川高校2年生女子(17)の言葉は印象的だ。
■「時代にそぐわない表現があるとも思うが、(学校や同窓会など)大人が議論して結論を出すべき問題だ。」(『山梨日日新聞』2004・1・23)
 日本国憲法をはじめとする法的規定が存在するかぎり、日川高校校歌について議論を求める声は、これからも続くだろう。校長や教師を含む関係者たちは、高裁判決を真摯に受け止め議論を始めるべきだ。(2007・10・22)


  2 “神州第一の高校を目指しなさい”

 『百周年記念誌』に掲載された「神州第一の黌」

 戦後の日川高校関係の文献で「神州」の文字はこれが初出であろう。「神州」の文字を含む「日川高校詩」は、2001年11月3日発行の『百周年記念誌』(以下『百年誌』)上に掲載された。近藤百之第16代校長(在任1966・4~1970・3)の作であり、編集長は加藤正明現同窓会長(元山梨県教育長)である。

    日川高校詩   近藤百之                       

文武切磋弟与兄    文武切磋す 弟と兄と               
質実剛毅鉄石盟    質実剛毅 鉄石の盟                
君不見故新脈々伝其粋 君見ずや故新脈々として其の粋を伝ふるを
須期神州第一黌    須く期すべし 神州第一の黌           

『百年誌』は、この詩を書いた近藤校長の「日川の教育方針」あるいは教育論について、「時代を超えた至言」と賛美している。「ここまで書くとは・・・」、それが私の正直な感想だった。この詩がそれから3年後の提訴への引き金であることを明らかにしておきたい。
「日川創立百周年」にあたる2001年は、日川高校が「神州第一の高校」を目指すことを宣言した年として、また、日本国憲法を超える価値をもつ教育機関としての誇りを刻んだ年として記録されるだろう。日川高校の教師たちは、この表現にどう反応したのだろうか。彼らは「神州第一の高校」の教師であることを自認しているのか、それとも反論できない重圧下に置かれているかのどちらかだ。
「創立百周年」前年の2000年5月、森喜朗首相は「日本は天皇を中心とする神の国」だとするいわゆる「神の国発言」を行った。これは「与党内にも懸念」(『朝日新聞』2000・5・17)を生じさせるほどのインパクトを持っていた。しかし、「日川人」たちは動じなかったにちがいない。「懸念」を感じていれば「神州」の表現は自粛していただろう。むしろ「神の国発言」は、「天皇の勅もち・・・」の校歌への追い風とみなされたのではなかったか。

 「校歌改定を求める声を一蹴!」

「日川高校校歌問題」は、『百年誌』上では完全に無視されている。そこには、学校と同窓会の双方が校歌に異論を唱える声を「一蹴した」(42頁)と書かれている。
「明治期まで歴史を遡ることのできる高等学校の中で、戦中戦後を通し校章・校歌をそのまま受け継いでいる高校は、全国で20余校程度はあるようだ。本校では、昭和23年(1948年)4月、新制高校発足後、ときに校歌の改定を求める声もあったが、学校や同窓会はそれを一蹴して今日に至った。」
1985年以来続いている私たちの「議論を求める声」はまったく無視されていることがわかるだろう。「一蹴」の表現は、議論の対極にある表現である。校歌に異論を唱えているのは「ほんの一部の人々」(田辺前同窓会長)ではなく、日本国憲法をはじめとする法的規定である。だから議論すべきだ、という主張は通らない。高裁が「歌詞が憲法の精神に沿うかは異論があり得る」と判決を下しても、「何事に対しても異論はあり得る」(市川今朝則現校長発言)と開き直る校風である。この市川校長発言は、提訴時の校長や同窓会長のコメントと同じ論理であり、あまりに恣意的と言わなければならない。
■「教育勅語を歌いこんだという根拠はなく、歌詞は象徴天皇だと解釈している。」(鶴田正樹第30代校長・『朝日新聞』2004・1・24)
■「教育勅語ではなく、国民の幸せや世界平和を願う天皇陛下のお言葉と考えればいい。」(加藤正明第5代同窓会長・『産経新聞』2004・1・23)

 校歌に歌われる「天皇の勅」は教育勅語である

「日川高校校歌問題」の取り扱いには慎重さが必要だ。校歌改定への意欲を明らかにした現職校長が恫喝される教育環境である。その一件も含め、順次報告したいと考えている。まず必要なのは、日川高校校歌に歌われる「天皇の勅」が教育勅語であるとの証言だ。戦前・戦中に「日川教育」を受けた人々の声である。
■「本校の特色は校歌の示すところの質実剛毅、吾人の使命は教育勅語の趣旨に則って国家有用の材となること、この精神に躍動する本校生徒は今後幾多の歴史的の推移はあろうとも断じて、不健全なる思想に惑はされずに真面目に日本帝国の前途を思ふ覚悟が無ければなるまい。」(教諭 池田哲三・『学友会報』32号・昭和10年3月・『百周年記念誌』318頁)
■「質実剛毅で始まる節の中に出てくる『天皇の勅もち』のところです。(略)私ははっきり言いました。これは具体的には教育勅語の奉戴であると。明治23年発布以来大正昭和にかけて半世紀余り、日本の教育はこれによって体系化され、進展し、日本の発展をみることができた。そして一旦緩急あれば義勇公に奉じて、事実われわれの先輩をはじめ同級生や後輩が血を流してきた。〔後略〕)(町田茂雄第18代校長の回想・旧制日川中27回卒・『同窓会誌』19号26頁・1981年。
町田校長の在任中〔1972年~1974年〕、生徒総会あるいは臨時総会の席上、生徒会長からの校歌に関する質問に答えて)
■「そもそも『天皇の勅もち・・・』とは明治天皇の下し賜うた『教育勅語』を履(ふ)み行うとの意であ(る)。(略)当時吾々は日中の教室で教わり今も承知していることである。」(庄司元敬・旧制日川中37回卒・『同窓会誌』34号 67頁1996年)
■「日川高校歌三番の歌詞にある『天皇の勅』とは何を指すのかというに、この校歌制定の時代背景からして、『教育勅語』であることは明らかである。」(山本昌昭第23代校長・旧制日川中40回卒・『百年誌』211頁)
                                                      (2007・11・15)

3  山本校長提言と「小突き事件」

『日川図書館だより』(1985年)で校歌問題を提言

 
山本昌昭氏(第23代日川高校校長)は旧制日川中学(中40回)の出身である。山本氏にとって、1985年は運命の年と言っても過言ではないだろう。山本氏が校長として日川高校に赴任したのは1985年4月。退任したのは翌年1986年3月のことである。戦後の日川の歴史を見ても、在任期間が1年というのは山本校長だけである。
 山本氏は赴任した年、『日川図書館だより』(1985年11月11日発行)で校歌に関する所信を述べ日川高校校歌問題」の口火を切った。
  「目下私にとって最大の関心事は校歌だ。1、2,4番はいいとして、問題は3番だ。『質実剛毅の 魂を染めたる旗を打ち振りて 天皇の勅もち 勲立てむ 時ぞ今』 これは一体この侭にしておいていいのだろうか。(略)こういう歌を歌って、お国の大事に殉じた時代もあったという歴史的事実を尊重して、歌い継ぐことを積極的に意義づける主張もあった。しかし、校歌には学校の教育方針も盛り込まれる筈だ。戦前、戦中ならいざ知らず、これから未来へ向かって羽ばたこうとする生徒には、それなりに胸を張って歌えるような歌詞でなければ困る。(略)私に課された使命の最たるものは、どうやらこの校歌問題との対決にあるらしい。」(『戦後50年 天皇の勅 シンポジウムの記録』4頁 以下『シンポジウムの記録』)
 日川高校には、校歌への否定的な言及をタブー視する戦後の伝統があり、そのことを最も知って いるのが山本校長であった。日川出身の校長でなければ手がつかない問題提起であったと言え るだろう。


『同窓会誌』上での問題提起

  『日川図書館だより』が発行されたのが11月11日。 それより約1週間前の11月3日(文化の日)に恒例の同窓会総会が行われている。そして、総会に合わせて発行される同窓会誌の座談会に山本校長が出席し、問題提起をしている様子が記されている。テーマは「天地の正気の魅力」である。テーマが示すように、座談会は校歌を称える発言で終始するはずであったが、座談が終わるころ、山本校長から「新校歌検討委員会」についての発言がなされたのである。
 「3番の『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち』というところです。ここは、今日的にどうつじつまを合わせようと試みても、すっきりしないものが残る箇所なので、この辺でもう一度、検討してみたいと思います。(略)委員会でも作って再検討してみたいと思っているわけです。」(『同窓会誌』   23号・19~20頁)
 座談会は、山本校長、有賀茂同窓会常任理事(中25回)、田中勇第23回同窓会実行委員長(高9回)ほか、司会もふくめ8人で行われた。座談会はこの校長発言で終了するかにみえたが、司会者の指名を受けた有賀茂常任理事がまとめを行うかたちで発言を行っている。現職校長が「新校歌検討委員会」構想に触れ、同窓会理事の立場にある人物が校歌擁護の自説を述べ、それが活字なるのはきわめて異例のことであった。校長発言に対し、有賀氏はつぎのような反論を行っている。
 「今、校長先生が言った、天皇(すめらみこと)、即天皇(てんのう)という解釈じゃあないんです。 天皇(すめらみこと)ということは、最も高く、最も尊いという意味です。『勅もち』は、その最も尊い言葉を自分の心にすなおに向けて、一生懸命生きようとしますということであって、天皇という意味は一つもないです。天皇(すめらみこと)、即天皇(てんのう)ということになったのは、明治以来の天皇を神格化するための一部の政治家の言うことで、それまであった、日本の天皇(すめらみこと)という意味は最も尊い、最も美しいものを全部天皇(すめらみこと)と言っていた。だから万葉集にあるように、天皇(すめらみこと)が野原にもち草をつみに行った、一緒になってもち草をつんだ、というわけです。最も高い、最も尊いところの人に謙虚な心で従うことが、『天皇(すめらみこと)の勅もち』となるのです。」(『同誌』20頁)
 有賀理事の解釈をすべて引用したのは、いわゆる「校歌擁護派」の人々の論拠を見極める必要があるからだ。彼らはいかなる論法で、何のために、どのような手段で、校歌を擁護してきたのか明らかにしなければならないからである。

議論を封じる有賀理事発言

 賛否両論が許される場なら、有意義な座談会になっていたはずだ。しかし、校長の「新校歌検討委員会」発言についてほかの理事たちから何のコメントもなく、有賀理事は一方的に自説を述べたにすぎない。山本発言も提案という形式ではなく、所信を述べただけで、全体として議論が行われたという内容にはなっていない。有賀理事の反論も最終的に非論理的な表現で終わっている。
 「校歌の天皇(すめらみこと)がひらがなで、『すめらみこと』と書いておいてあれば、こういう問題がなかった。いろいろな理念があるかもしれませんが、意味はわからなくても、この校歌を聞くと、みんなの気持ちが一つに解け合う、それだけで、ぼくはいいと思うんです。」(『同誌』20頁)
 「校歌にはいろいろな理念があるが、意味はわからなくてもいい」という有賀理事の発言は、「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っている」という市川今朝則現校長の発言とも重なる。また、さかのぼれば、「良いものは、良いのだ」という田辺国男前同窓会長の発言(『同窓会誌』1980年)の非論理性にも通底している。そこには「校歌への異論は許さない」という暗黙の了解(日川タブー)があり、その背後に不穏な圧力装置が存在することは、以下の「校長小突き事件」に至る一連の動きが明らかにしている。東京高裁へ提出された「山本証言」から事件の概要を記述する。
 「山本証言」によると、山本校長が同窓会の席で校歌改定へ意思を示したのは、11月3日の同窓会総会の約1ヶ月前の理事会だったという。その席で反撃に出たのが前述の有賀茂氏だった。「それは校長の考えなのか、それとも職員の間にそういう考え方があるのか」との有賀理事の質問に対し、校長が「私個人の考えです」と答えると、「校長個人の考えで校歌を変えようとは許さん。同窓会の名において許さん」と、「まなじりを決して」言ったという。同席した他の理事からも「その問題は今までも何回も問題になっている」、「どこまで行っても平行線だ、およしなさいよ」などの忠告がなされたというのだ。結局、山本校長は「先生方のそういうご意向を参考にしまして、もう少しよく考えてみますと、そう引き下がらざるを得ませんでした」と証言している。

小突かれた校長

 「山本校長小突き事件」が起こったのは、理事会の日から1ヶ月ほど経った11月3日の同窓会総会当日のことである。事の顛末については、東京高裁に提出された山本元校長の「陳述書」(録音テープ)から引用する。聞き手は原告代理人の遠藤比呂通弁護士である。
  代理人「そういう祝辞を述べた11月3日、これは1985年(昭和60年)ということになりますよね。その終わった後何かありましたか。」
  証人「その同窓会総会が終わった後です。校庭を歩きながら、平素私の親しくしておる同窓会の理事の一人が、山梨県議会議員をその当時現職でやりましたが、肩を並べながら、いきなり言うのに、『校長、校歌を変えるじゃあねえぞ』、『校歌かえるじゃあないよ』と言ったのかな。もっとまろやかな言葉かな、『校長、校歌変えるじゃあねえよ』という山梨県の方言みたいな、そういう言葉で私の並んで歩いている肩をこうやって、小突いたんです。」
  代理人「『こうやって』というのは、ひじ鉄をくらわせるというようなかたちで。」
  証人「そうです。ひじ鉄をくらわせるようなかたち。」
  代理人「校長先生にそんなことをしたんですか。」
  証人「ええ。」(後略)(『山梨県民の会ニュース』第23号)
 山本氏の証言から、小突いたのは当時県会議員をしていた同窓会理事であることがわかる。それより1ヶ月前の理事会で「校歌を変えることは許さん。同窓会の名において許さん」と述べた有賀氏と、「校長、校歌かえるじゃあねえよ」と言ってひじ鉄を喰らわせた人物は、同じ同窓会の理事である。校歌に権限をもつ山本校長は、「校歌擁護派」の同窓会から恫喝と暴力を受けたのである。
 有賀氏は、「校歌擁護派」の実行部隊長として多くの場面で重要な役割を果たしてきた人物である。『日川高校物語』(214頁)は有賀氏について、「かつて『日本の強さは天皇陛下万歳といって死ぬ軍隊と児玉機関』と評された『児玉機関』の知恵参謀」と紹介している。
  「汝が命生けらむ限り、いそしみて、いさをを立てよ。国の為――。民族の為――。
 虔々し 勅のまま。」(『日本浪漫派・その周辺』29頁)
 これは折口信夫(釈超空)が慶応義塾大学出陣学徒壮行会に寄せたという「出陣歌」である。有賀氏は、学生時代に折口信夫から教えを受けたと自負する人物だ。この歌は、「天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今」と歌う日川高校校歌とうりふたつである。筆者の栗原克丸氏は、「彼(折口)はその超国家主義思想をいささかも変えることなく、戦後の民主主義を全否定しつづけて、先年世を去った」(『同』35頁)と書いている。有賀理事も地元新聞の読者欄(『山梨日日新聞』1980/9/16)に「戦争協力者として自責も矛盾も感じていない」と自説を投稿しているが、恩師である折口信夫の戦後と自らのそれを重ね合わせていたのではないか。「自責も矛盾も感じていない戦争協力者」が自己の免罪と日川高校校歌の免罪とをリンクさせるという正当化の論理は、「昭和天皇の免罪」とどうつながるのであろうか。                                 (2007/12/7)


4 校歌擁護派のジレンマ 

「天皇の勅」に収斂する「質実剛毅の魂」


日川高校生への課題
  ―― 日川高校校歌は「天地の正気」である。その3番では、「質実剛毅の魂を染めたる旗を打振りて 天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今」と歌われている。「質実剛毅」は校訓である。日川高校生として、校訓の理念について述べよ。――
 
 このような論文形式の問題が出題されたら、生徒はどう回答するだろう。自分の学校の校歌・校訓であるから、平易な問題のように思えるが、じつは難問である。彼らは、校歌の文言について説明を受けたことは入学以来一度もなく、また考えたこともないというだろう。しかし、課題として出されれば、高校生は資料を探し出して答えなければならない。ポイントは、校歌の中の校訓の位置づけを見極めることができるかどうかである。「質実剛毅」という語いのみを取り出して校訓論を展開しても意味がない。力量を試されるのは、「日川高校生として」という部分である。私見をどう取り込むかがむずかしい。出題者が私ならば、校訓である「質実剛毅」とそれにつづく「天皇の勅もち」はセットになっている、そのような主旨が読み取れればマルにしたい。
 同種の設問に対し、私たち校歌改定派は「訴状」の中でこう書いた。
 「『質実剛毅』や『文武両道』などの校訓あるいは教育方針については、今日ほかの学校でも採用されているのをしばしば見かける。しかし、その用語自体に問題があると主張するわけではない。日川高校の場合『質実剛毅』が問題になるのは、教育勅語の中で、『父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…』という徳目が『一旦緩急アレハ義勇公に奉シ…』に収斂していたように、『質実剛毅の魂を 染めたる旗を打振りて』で始まる校歌の3番は、『天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今』に収斂しているところにある。『質実剛毅』と『天皇の勅もち』は、一体不離の教育理念として切り離すことはできないものとされているのである。」(『訴状』2004年)
 「質実剛毅」を校訓と定めている日川高校は、同じ設問に対しどのような答えを用意するのであろうか。校歌擁護派のイデオローグの見解を聞いてみよう。「天地の正気」・「質実剛毅(の魂)」・「天皇の勅」の3点がセットとして扱われているかどうか否かに注目したい。

 
「校歌は憲法にあたる」

 私が校歌擁護派のイデオローグとよぶ雨宮眞也氏(高校第5回〔1953年〕卒)は、「日川高校創立百周年」(2001年)に同窓会副会長をつとめている。それに先立つ1997年には弁護士・駒沢大学副学長の肩書きで、『同窓だよ』(同窓会誌)の特集記事(「日川発、21世紀へのメッセージ」)に「天地の正気の思想を遡る」を載せた。
 「日川の卒業生の校歌を愛する心は極めて強い。卒業生の集うところ、必ず『天地の正気』あり、である。校歌は、建学の理念と教育の理想を最も直截に示すものであり、国家でいえば、憲法に該る。校歌の中に日川の教育の真髄を探ることができる。」
 雨宮氏は、校歌の中に「日川教育」の真髄があるという。また、校歌は憲法にあたるという。その憲法が大日本帝国憲法なのか日本国憲法なのか明らかにされていないが、書いたのが1997年であることから、日本国憲法であると理解しておくことにする。
 冒頭でこう位置づけたあと、雨宮氏は校歌の源流として、南宋の将軍文天祥(1236年~1282年)の「正気歌」と、幕末の儒者で尊王攘夷論者である藤田東湖(1806年~1855年)の「和天地正気歌(天地の正気の歌に和す)」をあげ、日川高校校歌との関係について簡潔に語っている。
 「大正五年、旧制日川中学十五周年を迎えて、校歌の制定を依頼された大須賀乙字氏が藤田東湖の「和天地正気歌」の思想を基礎として「天地の正気」を作詞したであろうことは、その構成と文言からみて明らかである。すなわち彼は、校歌一番において、東湖の説く「至大にして至高」の正気が籠る富士ヶ根を理想と賛え、その二番において同じく「至誠」の精神を清き峡東の水に託し、その三番において同じく「至剛」の精神を質実剛毅の旗に示し、もって、日川に学ぶ者たちは、天に満ち地に溢れて森羅万象の根源たる天地の正気を胸一杯に吸い込んで浩然の気を養い、正道を歩むべしと鼓舞したのである。」(『同窓だよ』35号20頁・1997年)
 たった2頁の校歌論にすぎないが、校歌擁護派・校歌改定派の双方にとって重要な資料である。校歌擁護派の考えを系統的に拝聴する機会はめったにないからだ。在校中に歌詞の説明を受けたことのない同窓生として、この短い校歌論から「日川教育の真髄」を学ばねばならない。要約すれば、雨宮氏の校歌論の要点はつぎの3点であろう。
 校歌は ①建学の理念と教育の理想を示す。
       ②文天祥と東湖の「正気歌」が校歌の思想を形成している。
       ③校歌は国家でいえば、憲法にあたり、日川教育の真髄である。
 短いが、具体的な説明だ。校歌の1番・2番・3番それぞれに、「至大にして至高」・「至誠」・「至剛」などの東湖の思想が反映されていると論じている。
 しかし雨宮氏の文章には「天皇」あるいは「勅」についての言及が見られない。なぜだろう。校歌では「質実剛毅の魂を染めたる旗を打振りて 天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今」と歌われているが、「天地の正気」や「浩然の気」が国(天皇制国家)の制度の中でどう発揮されるべきなのかについてはひと言もふれていない。つまり「至誠」が捧げられるべき対象が描かれていないのである。文天祥や藤田東湖が言いたかったことは「正気」についてだけではなかったはずだ。

文天祥と藤田東湖の「正気歌」

 雨宮氏は、文天祥と藤田東湖の時代背景についてこう説明する。
 *「今を去る七百数十年の昔、南宗(ママ)の将軍文天祥は、元の大軍との戦いに敗れ、捕らえられて獄中の人となった。宗朝(ママ)滅亡後、文天祥は再三にわたる投降の勧めをしりぞけ、獄中においても意気浩然、「正気歌」を詠んだ。」
 *「文天祥から歴史を降ること五百数十年、幕末の儒学者藤田東湖は、幼時から文天祥の正気歌を愛唱していたが、時に感じて「和天地正気歌」(天地の正気の歌に和す)を詠んだ。」
 雨宮氏が取り上げた文天祥と藤田東湖の「正気歌」は冒頭部分だけであって、文天祥や東湖がその「正気」を国家の制度の中でどう生かすべきか述べた部分(下記の下線部参照)は省略されている。なお、雨宮氏の校歌論においては「正気歌」の漢文と読み下し文が書かれているが、ここでは他の文献から「概意」と「現代語訳」を引用する。

<文天祥の正気歌>   「概意」  
天地有正気     天地には正気というものがある。
雑然賦流刑     いろいろな形となって万物を形造っている。
下即為河嶽     地上にあっては黄河や五嶽となり、
上即為日星     天井にあっては太陽や星となっている。
於人曰浩然     人の身にあっては浩然の気となり、
沛乎塞蒼冥     大海原を塞ぐ程盛大なものである。    
皇路當清夷     皇道が正しく平和な世の中に時には
含和吐明庭     和気あいあいと朝廷に花開く。
時窮節乃見     しかし一旦変事に当っては節操として表われ
一一垂丹青     その一つ一つが歴史に残されている。
(『陶淵明と文天祥』近代文藝社・173~174頁)
      
<藤田東湖の正気歌>「現代語訳」
天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。
正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、
流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八州をめぐる。(略)
忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。
神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。
天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、
その明らかなる御徳は太陽に等しい。(略)
いつか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。
ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、
おまえと離れることを忍べようか。(略)
生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、
主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。
死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう

(八神邦建訳・ネット情報「正気の歌」で検索)

 こうして全体をながめてみると、「天地の正気」の歌は、忠臣がもつべき気概や皇国への忠誠を表現したものであることが理解できる。「正気歌」は主君や天皇への献身を誓う忠臣の歌なのだ。藤田東湖の「正気歌」は幕末の志士を鼓舞したばかりでなく、明治・大正・昭和初期の愛国的な人々に愛唱され、文部省が編集した『国体の本義』(1937年)で引用され、さらに東条英機首相が1943年の学徒出陣壮行会で行った訓示の冒頭でも使われている。
 雨宮氏は、なぜ「天地の正気」の収斂部分(下線部)の概要を省略したのであろうか。なぜ日川高校校歌が制度の中で担った役割にふれなかったのだろうか。その手法は、「教育勅語は人間の普遍的な道徳を述べている」という人々が、その道徳が最終的に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ…」に収斂していく部分を意図的に省略するのと同じであろう。日川高校のジレンマとは、「詔勅」の失効排除を定めた日本国憲法と「詔勅(天皇の勅)」を称える日川高校校歌が相克する姿にほかならない。

校歌の作者は国粋主義者

 雨宮氏は、「大須賀乙字氏が藤田東湖の『和天地正気歌』の思想を基礎として、日川高校校歌を作詞した」と書く。日川高校校歌を作詞したのは大須賀乙字が東京音楽学校(現東京芸大)教授(35歳)のときであり、作曲を担当した岡野貞一は「春の小川」や「ふるさと」をつくった作曲家として知られている。
 1985年の『同窓だよ』23号は、「『天地の正気』の原点を探る」と題して校歌作詞者である「大須賀乙字の周辺」について特集している。この特集にも、乙字の業績や校歌を賛美する記述が多い。その中に一行だけ、「(乙字は)やがて国家主義的思想家になっていった」と書かれた箇所が出てくる。この「国家主義的思想家の周辺」を検証すれば、日川高校校歌が戦前・戦中に果たした役割が見えてくるのだが、同誌はそこに立ち入ってはいない。同窓会誌が書かない部分を補足してくれたのが『大須賀乙字伝』である。
 「乙字は厳父が著名な漢学者筠軒だったので、東洋的思想とその倫理観とを多分に継承した。また詩人・評論家の三井甲之を中心とした『人生と表現』派に属していたので、その『表現同人』の日本主義の影響を受け、自ら『宗旨は祖国主義』と言い(『自伝』)、民族主義を標榜し、その思想は極めて国粋的であった。」
 『同窓だよ』23号と同様、ここでも乙字は「国粋主義者」だったと書かれている。大須賀乙字と三井甲之をつなぐ糸が少しずつだが見えてくる。『同誌』に「親友の三井甲之」と言う表現が使われているように、大須賀乙字と三井甲之は同じ「人生と表現」という文学の流派に属していたのだ。病気の妻を思い、家族を思い、国家の安寧や平和を願う心のやさしい人物が、その一方で「民族主義を標榜する極めて国粋的な」人物であったことがわかる。

国粋主義と皇国思想

 三井甲之は山梨県の出身である。大須賀乙字が「極めて国粋的な人物」であったように、甲之も「極めて国粋的な人物」だった。『日本の歴史』第24巻「ファシズムへの道」362頁では、甲之は、蓑田胸喜とともに「右翼のごろつき学者」と決めつけられている。いわゆる学問的な歴史書において、「ごろつき学者」と名指しされた人物を私は知らない。蓑田(1946年自殺)は甲之の「御製研究」に影響されて激しい日本主義者となり、京大滝川事件(1933年)や天皇機関説問題(1935年)を引き起こした中心的人物であったと書物には書かれている。その甲之が太平洋戦争勃発前の1940年に旧制日川中学を訪れ、大政翼賛会委員の肩書きで講演を行ったという記録が『學友會報』No.41に残されている。
 忘れてはならないことは、この甲之と日川高校校歌の関係である。校歌の作詞を乙字に依頼したのが「ごろつき学者」の甲之だったという事実である。山梨県立甲府第一高校『創立百二十周年記念誌』31頁(2001年発行)には、「日川中学校歌(現日川高校歌)は、三井(甲之)のあっせんで東京帝国大学の友人で、同じく『馬酔木』『アカネ』の同人だった大須賀乙字の作詞になる。」と書かれている。「日川教育」が果たしてきた役割と国粋主義との関係は、さらに深く研究されなければならないと思う。
 大須賀乙字と三井甲之をつなぐ接点が国粋主義や皇国思想であることは、彼らがつくった歌が参考になるはずだ。「立太子奉祝歌」と日川高校校歌が同じ年につくられていることにも注目したい。

 <山梨県立甲府中学校校歌>     <立太子奉祝歌>
    1928年10月23日制定         1916年制定
    三井甲之作詞             大須賀乙字作詞
 我等は日本に生れたり         小稲民草うち靡き
 神の御代より一系の           思い出多きけふの日に 
 皇統戴く我國に              皇太子と告らします
 生まれしことのうれしさよ        今日の御典をこと祝ぎまつる
 御國の榮えは天地と       
 共に窮りなかるべし

 <甲斐市竜王町山県神社内碑文> 三井甲之
ますらおのかなしきいのち
つみかさねつみかさねまもるやまとしまねを

 「立太子奉祝歌」の中の「皇太子(ひつぎのみこ)」とは後の昭和天皇である。このふたつの歌について、私はかつて同人誌にこう書いた。
 「(日川高校同窓会誌23号によると)、大須賀家には代々伝わる家系図があり、その出自は桓武天皇にまで遡ることができるのだそうだ。一方三井甲之は敷島町の大地主の家に生まれている。皇統の継承者であることを任ずる者と大地主の息子にとって、一般民衆とはその命を『つみかさねつみかさね』てもまだ積み重ねるのに十分ではなく、『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)をもち、勲(いさお)を立てむ』ためだけの民草にすぎなかったのだ。幾重にも積み重ねられた屍の一つ一つが私たちの父やおじたちのものであったのだ。乙字や甲之の国粋主義思想が結局日本を破滅に導く原動力となったことは、誰よりも彼らが神にまつりあげた昭和天皇の最近明らかにされた「皇太子への手紙」において明瞭に語られている。
『…敗因についてひとつ言わせてくれ。我が国人があまりに皇国を信じすぎて英米をあなどったことである。我が軍人は精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである。』(朝日新聞・1986年4月16日)
 大須賀乙字の理想や世界観が本当に理解されていたならば、『天地の正気』も敗戦時に時代に殉ずるのが当然の道であった。少なくとも、『現人神』の『人間宣言』に値するものが教育者の間でもはっきり自覚されねばならなかったのだ。」 (『中央線』30号86頁・1986年)

「日川教育」のジレンマ

 「『藤田東湖』(日本の名著第29巻)の責任編集者である橋川文三氏は後期水戸学(藤田東湖らの思想)の今日的意義を批判し、『同じ葬るなら手続きをとって葬ったほうがいい。そうでないと亡霊、伝統が出てくる』(同書付録)と警告しています。」
 1996年に出版された『シンポジウムの記録』に書いたあとがきの一部である。過去20年余の間、山本校長と歩調を合わせて校歌問題に取り組んで以来、脳裏を離れたことのない一節である。   橋川氏が予見したように、伝統を振りかざした「アナクロニズムの亡霊」はすでにはっきりと姿を現している。しかしその「亡霊」は、公教育という制度の中に取りついているものの、日川高校校歌について明確に主張できないというジレンマに苦しんでいる。戦後の歴代校長の中で、校訓の「質実剛毅」と「天皇の勅」がリンクしている事実を公言した校長は、うっかり本心をもらしてしまった町田校長と、校歌にはっきり異論を唱えた山本校長の二人しかいない。ほとんどの校長は、伝統にしたがって手順どおりに「質実剛毅」をほめ称えるだけで、日本国憲法や国会決議等で廃絶・失効となった「天皇の勅」に言及できないままである。ためしに日川の同窓会誌を見てもらいたい。冒頭の「校長あいさつ」で日本国憲法にふれた校長がいただろうか。憲法の平和の理念を語った校長がいただろうか。現在日本国憲法下に暮らしている雨宮氏は、校歌論の中で皇国思想を削除したが、戦後の校長たちも校歌の「天皇の勅もち」の扱いに悩まされてきたはずだ。皇国思想を宣伝するわけにもいかず、さりとて日本国憲法を遵守するとも明言できないジレンマである。
 ■「各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ氣風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ」(『青少年学徒に下し賜わりたる勅語』1939年)
 ■「諸君は宜しく文を修め武を練り心身を練磨し愛國的熱塊を鍛え身をさゝげて皇運を扶翼し奉る皇國民たるべく期する處が無ければならぬ。」(内藤龍助第9代校長・『報告団報』第1号・1942年)
 「青少年学徒に下し賜わりたる勅語」はもちろん、戦前・戦中の日川中学の校長には教育の目的に矛盾がなかった。「質実剛健」の気風をもち、「文武両道」に徹し、「愛国的熱魂」を捧げるのは皇国を扶翼するためであり、臣民としてその覚悟がなければならないと、じつにはっきりしている。同様に、敗戦後にできた教育基本法も、「教育の目的」や「方針」は明確である。
*第1条 ― 「教育の目的」― 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」
 *第2条 ― 「教育の方針」-- 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自主的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」
 この教育基本法の精神が「日川教育」にどう反映されているか、校訓である「質実剛毅」についての歴代校長の見解を聞いてみよう。

 ■「『時移り、姿、形は変わっても、その底に質実剛毅の魂を忘れてはならない。』これが母校をお預りする私どもに課せられた使命だと存じます。」(上島行夫第19代校長・『同窓だよ』13号・1976年)
■「(近年、日川高校の教育の基本的な考え方をまとめた『天地の正気』の中で、この質実剛毅を校訓として中心におき次のように述べています。)『質実剛毅は、本校の理想的な人間像の神髄。すなわち、うわべだけの虚飾ではなく、充実した中身のある強さ、逞しさをいう』と。私もこのことに同感であり、これこそ日川の魂であり、日川高校の生徒を育てる理想的人間像であると考えています。」(清水喜平第20代校長・『同窓だよ』17号・1979年)
■「均質化し、平均化した現在の高校の中で、本校は独特の校風を持ち続けていると思う。この校風の根源はいうまでもなく、質実剛毅の校訓であり、文武両道の教育方針である。…この校風を失ったら日川高校の存立の意義はないともいえる。」(斉藤左文吾第21代校長・『同窓だよ』20号・1982年)
■「日川教育の羅針盤とも言える校訓『質実剛毅』、教育方針『文武両道』の真の意義を再確認し、所期の目標を目指し全職員が一糸乱れず航海できるよう探求している。」(深沢孟雄第25代校長・『同窓だよ』29号・1991年)
■「真に生徒の個性を伸ばすためには、日川高校の個性である『質実剛毅』の精神や『文武両道』の生き方を生徒に要求することが大切であると考えます。」(種田一夫第27代校長・『同窓だよ』32号・1994年)
■「創立100周年を間近に控え、二十一世紀の日川高校の在るべき姿を考える時、今こそ創立時の原点に戻り、『質実剛毅』にして真に『文武両道』の学校を構築していかねばならない。」(手塚光彰第28代校長・『同窓だよ』35号・1997年)
■「心身ともに健全で『質実剛毅』の精神を備えた骨太な生徒を育成してまいりたい。」(鶴田正樹第30代校長『同窓だよ』39号・2001年)
 これらの見解には理念もなければ、方向性もない。あるのは「シツジツゴーキ」「ブンブリョウドー」のオンパレードだ。みんなで「赤信号」を渡っている。あちこちで気味のわるいヘラヘラした笑い声が聞こえる。このような心理に支えられた「日川教育」は、批判されれば必ず開き直る。誤りや過ちは認めない。それが「反骨精神」だと誤解している。校長たちは伝統校の名に屈服し、真実を生徒とともに語り合う自主性と勇気を欠いているだけなのだ。
 日川高校が編集した『百年誌』には「日川高校詩」が掲載され、「日川教育」の理想が「質実剛毅(校訓)・文武両道(教育方針)・神州第一の高校」であることが記述されている。校長や先生方は、それをそのまま高校生たちに説明したらどうなのか。校歌の中の「質実剛毅」を校訓とするならば、正々堂々と「天皇の勅」を称える校歌を歌えばよい。それが事実に反するというならば、いさぎよく撤回すればいいだけの話である。
 市川今朝則現校長は、「生徒は歌詞の意味を意識していない。単なるフレーズとして歌っている」と新聞紙上で述べた。生徒たちは「歌詞の意味を意識していない」のではなく、「歌詞の意味を知らされていない」のである。「亡霊」の跳梁を抑えているのは、日本国憲法98条(最高法規・条約・国際法規の遵守)や99条(憲法尊重擁護義務)、さらには国会決議などの法的規定であり、生徒たちが「歌詞の意味を知らない」理由は、「地獄の一週間」とよばれるオリエンテーションのマインド・コントロールに責任があると考えている。その行事についてもいずれ報告しなければならない。
 本稿「4『校歌擁護派のジレンマ』」の最後として、司馬遼太郎の「質実剛健」についての見解を紹介しておこう。参考になると思う。
■「質実剛健とは文化なしという意味であります。戦前の教育を考えますと、日本のどの中学にいっても 質実剛健でした。空念仏のようなものでした。私の経験からいって、熱心に質実剛健を唱える豪傑ぶった人に、ろくな人はいませんでした。かえって、軟弱で先生の目を盗んでサボっているような人が戦時中は勇敢でした。質実剛健は反文化主義であり、今は流行りません。」(『司馬遼太郎が語る日本』144頁・1997年)                    (2007/12/23)



5 「天皇の勅」を継承した公人たち 

(1)東条首相以後の200万人の戦死者     

山梨県立日川高等学校校歌 1916年(大正5年)制定
      3番  質実剛毅の魂を
          染めたる旗を打振りて
          天皇の勅もち
          勲立てむ時ぞ今

 私は限りなく祖国を愛する
   けれど 愛すべき祖国を
     私は持たない
 深淵をのぞいた魂にとっては…

   中村勇1944年4月 21歳 ニューギニアで戦死 (『きけわだつみの声』159頁)

    遺書
 人生健康第一ナリ
 吾モトヨリ言遺スコトナシ
 唯父母兄弟ノ健在ヲ祈ル 昭和二十年十二月十日

 上記の「遺書」は敗戦後旧満州で戦病死した私のオジの遺書である。25歳。戦友が祖母に語った話では、「ゆで卵を食べたい」が最後の言葉だったという。1945年12月10日といえば、すでに敗戦から4ヶ月が経っている。この時期に、なぜオジは異国で死ななければならなかったのか。
 2005年8月14日、60回目にあたる「終戦記念日」の前日、朝日新聞は「なぜ戦争を続けたか」との社説を掲載し、読者に疑問を投げかけた。
 「あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもそ の疑問がわいてくる。…略… 日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本の戦没者は310万にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万人近い人が命を落としているのだ。その1年間に戦線と政治はどう動いたか。」
 社説は「東条首相以後の1年間」だけで3分の2にあたる約200万人の戦死者が出たとして、その戦死者と開戦責任を問われた東条英機首相の関係を問おうとしているのだ。社説はこう続いている。
 「ようやく1945年2月、近衛文麿・元首相は『敗戦は遺憾ながらも必至』と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲や沖縄戦は防げた。…略… いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。」
 この社説で注目したいのは、「約200万人の戦死者」の責任について、昭和天皇と「当時の指導者」とが切り離され、「つまるところ、指導層のふがいなさに行き当たる」と結論付けているところである。大元帥であった昭和天皇を「当時の指導者」から除外して、戦争の実相を知ることができるのだろうか。
 大日本帝国憲法第11条では「天皇は陸海軍を統率す」、また13条では「天皇は戦いを宣言し和を講じ及び諸般の条約を締結す」と規定され、開戦と停戦は天皇の命令なしでは行えない仕組みになっていた。1945年2月の「近衛上奏文」で「敗戦は必至」と伝えられた昭和天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と難色を示していたのだ。陸軍の最強硬派と言われた東条首相が去ったこの時期に大元帥の「聖断」(戦闘停止命令)が出ていれば、約200万の戦死者は出なかったのではないか。戦争責任を負うべき「ふがいない指導者」とは、「聖戦」の名の下に「天皇の勅」を出し続けた大元帥と「天皇の勅」に盲目的に従った忠臣たちである。

(2)戦争末期の指導者たち

 下記の名簿は戦争末期(1945年3月)にできた大日本政治会(日政会)の支部役員である。『田辺七六』(田辺七六翁頌徳碑建設委員会発行・1954年11月20日発行)の記載(442頁)から日川高校歴代同窓会長の名前を拾い出してみた。顧問が総勢58名、総務が総勢47名という数字を見ると、日政会が山梨県内の政財界の著名人を網羅した組織であることがわかる。

   大日本政治会
      総 裁    南次郎
      衆議院部長 田辺七六
      支部長    井出鉄蔵
      幹事長    野口二郎
      顧 問     田辺七六
               広瀬久忠 (総勢58名)
      総 務     茂手木三郎兵衛(総勢47名)

 甲府空襲(「たなばた空襲」)で県都が破壊される約3週間前の同年6月19日、山梨県議会議事堂で日政会山梨支部の結成式が行われた。衆議院部長・支部長顧問の田辺七六氏は田辺国男第4代同窓会長の父親である。顧問の広瀬久忠氏は第2代同窓会長。さらに総務に茂手木三郎兵衛初代同窓会長の名前も見える。ここには記載されていないが、当時の大日本翼賛壮年団(翼壮)本部総務・山梨県団長であった名取忠彦第3代同窓会長(旧姓広瀬・広瀬久忠第2代会長は実兄)を加えれば、初代から第3代までの日川高校同窓会長が戦争末期の指導者ということになる。上記の役員表を年齢順に並べさらに現在までの同窓会長を加えると、歴代同窓会長の順番になる。
       茂手木三郎兵衛 初代同窓会長 (在任 1963年8月~1964年11月)
       広瀬久忠      第2代同窓会長(在任 1964年11月~1971年11月)
       名取忠彦      第3代同窓会長(在任 1971年11月~1977年2月)
        田辺国男      第4代同窓会長 (在任 1977年11月~2003年11月) 名誉会長
       加藤正明      第5代同窓会長(在任 2003年11月~)
 なお、第4代田辺国男氏は旧制中学28回卒(1932年)、また高校第5回卒(1953年)の加藤氏が会長になったのは2003年のことなので、もちろん日政会の関係者ではなく、両氏は校歌を残した人々というよりも校歌を引き継いだ同窓会長たちと呼ぶべきだろう。

(3)日本国憲法で失効・排除となった詔勅(1947年5月3日施行)

日本国憲法第98条
 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び國務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
日本国憲法第99条
 天皇又は摂政及び國務大臣、國会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

教育勅語等排除に関する決議 1948年6月19日 衆議院可決
 民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対して疑念を残すもととなる。よって、憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
  右決議する。
  
教育勅語等の失効確認に関する決議 1948年6月19日 参議院可決
 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定してわが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊辰詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失っている。
 しかし、教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保存するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失っている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
 わられはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力いたすべきことを期する。
  右決議する。

東京高裁判決 2006年5月17日
■本件歌詞(日川高校校歌)が国民主権、象徴天皇制を基本原理とする日本国憲法の精神に沿うものであるかについては異論がありうる。
■本件歌詞(日川高校校歌)を含む本件校歌指導を教育課程に取り入れることの当否については、十分な議論が必要である。

(4)日川高校歴代同窓会長語録

茂手木三郎兵衛 初代同窓会長 
【経歴】
日川中学第1回卒 県政特別功労者 山梨県信用組合理事長 勲四等
【語録】
■「今回はからずも私が歴史と伝統に輝く由緒ある本校の同窓会長に就任いたすことになりました。実は同窓会発足以来、いろいろの関係からいたしまして会長は母校校長ということになっておりましたが、先般、卒業生中より会長を推すことに規約の改正をみたのであります。顧みれば私が本校を卒業しましたのは実に明治三十八年の昔でありますが、恰も私が第一回卒業生の故を以て評議員各位の御推挙を得たものと存じます。…略… 本校は創立の当初より、質実剛毅を校是として、勉学に、運動に闘志を燃やし、他校に誇る伝統を築いてまいりましたが、その精神は時代の変遷に拘わりなく脉々として今日に伝えられていることと信じます。…」(『同窓だよ』No.1 1963)

広瀬久忠 第2代同窓会長
【経歴】
三重、埼玉県知事、東京都長官、内務、厚生次官、法制局長官、内閣書記官長、国務大臣、厚生大臣(2回)国会議員(2回)<以上『無我献身』著者紹介より(1965・3・20発行)> 貴族議院議員(勅撰)公職追放 参議院議員(戦後)勲一等 
【語録】
■「(東条大将退陣後) 後継内閣首班をきめる重臣会議は、やはり陸軍から出すこととして、朝鮮総督小磯国昭大将の推薦をきめた…略…私は厚相に就任したのだが、何とも心細い内閣であった。こうして私が二度目の厚生大臣になった時の日本は、敗戦の様相覆うべくもなく、惨憺たる状況下におかれていた。前線から悲報は相次ぎ、大本営発表の虚報は、も早、国民に信用されたり、安心を与えるに至らず、国民生活は窮迫のどん底に喘ぎ…」(『無我献身』117~118頁)
■「戦争は敗れた。国政に責任をもつ私は、ただただ謹慎の意を表するほかなかったが、今後の自分はいかにあるべきかを熟慮するため、静寂な下於曽の屋敷で、長い間の疲労を癒やしていた。八月二十日午後二時頃、山梨県知事から電話があった。…略… それによると東久邇首相宮のご希望によって、私に東京都長官になるようにとの命令であった。…略… 私は、これこそ最後のご奉公だと決意して、就任することにしたのである…」(『上掲書』124~126頁)
■「昭和二十六年八月六日、日本政界を覆っていた公職追放という黒い霧が消えた。…略…追放中の生活は、格子なき牢獄とはこのことであろうか、…略… 私はハンメル検事もいったように、戦争挑戦者(ママ)でもなければ、推進者でもなかった。ただ遺憾であったことは、国政の枢機に参与しながら、戦争防止への力の及ばなかったことであった。あのような怒濤の中では、避けられなかったとも自分自身へ弁解はしてみるが、私にとっての大きな反省は、自分の信念に対していかに忠実であったかということで、死をもってしても事に当るべきではなかったかと思った。まさに冷汗三斗というところであった。私は、反省の基盤をここにおいて、痛烈な自己批判をかさねた結果、『政治家は信念によって生き、信念に死すべし。』という結論に達した。そして再び政治的自由を得るに及んで、余生をあげて日本政治のために貢献しようと決意したのである。」(『同』154~156頁)
■「五年前、私は『日本国憲法改正広瀬試案』を発表し、爾来引きつづき憲法改正運動を行って来たのでありますが、今回『再建日本の憲法構想』を発表し、更に憲法改正に微力を捧げることと致しました。」(『再建日本の憲法構想 要旨』1頁 1961年5月20日発行)
■「然らば、わが国独自の国家形態とは何んであるか? わが国の長い歴史を通じて、日本国の姿を見ると、そこには幾多の波乱もあり、動揺もあったけれども、根本に於て一貫不動のものがあったと信じます。それは天皇と国民との関係であり、天皇は徳を以って(権力を以ってではなく)国民に望み(ママ)、国民は敬愛を以って天皇に親しみ、天皇を中心として全国民一体となっていた事実であります。この事実こそ、わが国の歴史と伝統とが形成せしめたわが国独自の国家形態であります。この国家形態は、天皇を含めた日本人全体が一体となって日本国をささえている形態でありまして、これは民主主義体制の国家形態と云うべきであります。…」(『上掲書』14頁)

名取忠彦 第3代同窓会長
【経歴】
貴族議院議員 大日本翼賛壮年団中央本部総務・県団長 義勇隊副本部長 公職追放 勲三等 山梨中央銀行頭取 著書『敗戦以後』(1952・7・15発行)
【語録】
■「正に欝然たる民主政治の胎動である。…略… なまじ戦争に便乗して来た為に、矢張り敗戦の責任を追及されそうで何となくうしろめたい。併し、そんなことを氣にして潔癖なことなどいっていたらそれこそ大変である。『指導力』も、地位も、名誉も、金もどうなるか解ったものではないのだ。ここらで何とか手を打たねばならぬではないか。時の流れが変わったなら変わったなりに、またその流れに便乗する術もあろうし策もあろうというものではないか。
 中央に於ける政治の動きはやがて地方へもその民主的な波動を傳えて来るであろう。さすればわれ等とてもこの波に乗りそこねてはならない。早い話が、これからの政治の在り方として当然色々な選挙が行われるであろう。その際、われらは代議士をも獲得し度いし、民選知事などにもあわよくば成って見度い。その上で金儲けもして見度いし権勢を張っても見度い。これが『政治』というものだ。…
 民主主義結構、自由主義も亦結構、つまりこれ等の言葉は今どき人寄せをするのに一番重宝な標語だからである――。右のような考え方はつまるところ、如何にして指導力から離れないで済むかということなのである。如何にしてわが立場を『保守』し得るかということなのである。そこには、祖國日本もない、民族もない。唯、転変の中で自己をどうするかという事があるだけである。」(『敗戦以後』58~60頁)

田辺国男 第4代同窓会長
【経歴】
山梨県知事 衆議院議員 勲一等
【語録】
■「わが母校日川は、来年、創立八十周年を迎える、という長い歴史の中で、創立当初から校章・校歌・校風をまったく変えずに通している、全国稀有の存在です。『文武両道』『質実剛毅』という伝統的な教育方針が、今日なお抵抗なく堅持されており、そこには脈々として日川魂が受け継がれてきました。それを、われわれ日川人は、なによりも誇りとしています。…
もし『新しい』ことのみが尊ばれ、『古い』ものが頭から否定される論法からすれば、わが日川は、かたくなに古い伝統を守り続けている、アナクロニズムの権化のそしりをまぬがれないでしょう。しかし、質実剛毅の校風が、八十年の歴史の変遷に耐えて、今日なお生き続けているということは、たとえ時代が如何に変わろうとも、『良いものは良いのだ』という、高い評価と強い支持を得ているからに他ならないと思うのです。真に正しい価値観というものは、時代の推移などに左右されることのない、不動の真理であると思います。…」(『同窓だよ』No.18 1980)」
■「…個性を認めることは大切なことである。画一的な思想統一が、日本の針路を誤らせた時代があったように、例え一個人の意見、主張をもないがしろにしないのがデモクラシイである。」(『同窓だよ』No.24 1986)
■「天皇は象徴であり日の丸、君が代も認められている。校歌の三番の歌詞も問題ないと理事会で結論付けた。」(『山梨日日新聞』1995・11・4――同窓会総会の席上、山本昌昭元校長の質問に答えて)

加藤正明 第5代同窓会長 
【経歴】
日川高校教諭 山梨県教育長
【語録】
■「教育勅語ではなく、国民の幸せや世界平和を願う天皇陛下の言葉と考えればいい。校歌を大切にしていきたいというのが、ほとんどのOBの気持ちだと思う。」(『産経新聞』2004・1・23)
■「同窓会は愛着ある母校の校歌を今後も歌い継いで行く立場は変わらない。裁判の結果次第では学校をバックアップする場面も出てくる。」(『山梨新報』2004・1・30)
■「今、藤原正彦著『国家の品格』という本が多くの日本人の関心を呼んでいます。私には『日川高校の品格』が重ね合わせられます。藤原氏は著書の中で品格ある国家の指標として、①独立不羈、②高い道徳、③美しい田園、④優れた人材の輩出を掲げています。これを読み、日川の歴史と伝統を顧みる時、思わず背筋を正して心深く誇りを感じます。…」(『同窓だよ』No.44 2006)
                                                        (2008・9・25)

6 歴史の真相  水上源蔵中将は「抗命の指揮官」なのか

 【検証】
 日川高校の戦後史では、ビルマ戦線で「自決」した水上源蔵中将は「人間尊重の崇高な信念」を示した「抗命の指揮官」として称揚されている。靖国神社に祀られている「軍神」が同時に「抗命の指揮官」であることに矛盾はないか。

 著名な軍人を輩出した旧制日川中学校 
  1901年(明治34年)山梨県第二中学校として発足した旧制日川中学は、著名な軍人を多く輩出した学校として知られている。軍関係への志願が多かった理由について『百年誌』は、(1)1回生(明治38年卒)が日露戦争と重なったこと(2)質実剛毅の校風、蛮カラの気風が軍人志向を促したこと、などを挙げている。日川高校同窓会誌に目を通したことがある卒業生ならば、水上源蔵、山崎保代、庄司元三の名前とともに、その“輝かしい戦績”を知らない人はいないだろう。『百年誌』第一部・「百年の軌跡」の中で、三氏は次のように紹介されている。

■「水上源蔵は、昭和19年8月、ビルマのミートキーナ救援の重命を帯び、第56兵団長として赴任した。15倍の敵の反撃と対峙し、補給が途絶する中、日夜死闘を繰り返した。死守玉砕の命を受けたが、人間尊重の崇高な信念により、自らの責任において将兵千数百名に転進命令を下し、一人従容として自決した。」(『百年誌』85頁)(下線筆者 以下同じ)
■「水上源蔵。陸軍士官学校、陸軍大学を卒業して大正14年母校の配属軍事教官を勤めた。昭和18年には第56兵団長。昭和19年7月10日『ミイトキーナヲ死守スベシ』という軍司令部からの命令を受けたが、暗雲立ち籠めた太平洋戦争の末期においては、とりもなおさず全員に『戦死せよ』と言うことであった。『死守したとしても戦局にはいささかの利なし』と判断して命令とは逆にミイトキ-ナの全部隊に撤収命令を下した。抗命罪が部下に及ばないよう上申書を残し自身は8月4日イラワジ河畔で自決した。後に『軍神水上中将』と称えられた。」(『百年誌』274頁)(後述の「顕彰碑」では陸士卒) 
■「山崎保代は、「昭和18年、北太平洋のアッツ島守備隊長として着任し、米軍の猛攻を20日にわたって防戦した。装備は貧弱で後援物資も送られず、5月30日、守備隊は玉砕した。戦没者は2,638人。生還者はわずかに27人。戦闘詳報に「食ヲ節シ、寝ヲ忘レ有ユル犠牲ヲ忍ビ」とあるくらいの悪条件下の戦いであった。これは、太平洋戦争ではじめての玉砕であった。」(『百年誌』85頁)
■「17回生の庄司元三(東大工航空科、海軍技術大佐)は、ジェットエンジンに関する技術習得の為ドイツに渡った。日本で最初のジェットエンジン「ネ20」の基礎を築いたが、昭和20年3月、ドイツの潜水艦Uボート234号で帰国の途中ドイツが降伏したので、捕虜となる道を選ばずその艦内で自決した。」(『百年誌』85頁)

 上記3人の帝国軍人のうち水上源蔵中将が常にトップに扱われるのは、水上が日川中学初の配属将校(当時陸軍大尉)であり、その人柄や言行を知る人々が多いという理由からであろう。その人となりについては、「慈父」「武人の鑑」「高潔な人格」「偉大なる人間」「壮烈なる武人」「時には怖いほど厳格」「愛情で生徒をつつんでくれるような度量の広い人」などの表現をもって称えられている。

 素朴な疑問 
  上記のそれぞれの文章においては、死のかたちが、水上源蔵=抗命・自決(『日川高校物語』では自殺)、山崎保代=玉砕、庄司元三=自決 と異なるものの、全体から受ける印象は帝国軍人を美化するものとなっている。自国の戦争には美化や顕彰がつきものであるとしても、素朴な疑問として払拭できないのは、水上源蔵中将の帝国軍人としての評価である。軍の命令に背いた軍人が今日なぜ「水上中将」の称号をつけたまま顕彰されるのか、なぜ「軍神水上中将」と称え続けられるのかということである。
 「水上中将が、太平洋戦争のさなか北ビルマ戦線で死斗の末、生存将兵八百名を玉砕させるにしのびず、本部命令にさからって全員の撤退を命じ、自らは責めを負って自決されたとのこと、人間水上中将ならではの温情の決断であり、武人らしいいさぎよく美事な最期であったと感動いたしました。(中略)郷土が生んだ水上将軍の高潔な精神が、末永く語り継がれることを願ってやみません。」
  これは『ビルマの義人水上源蔵』(初版)に寄せた田辺国男同窓会長(当時)の序文である。ここでも「本部命令にさからって」との記述が見られ、抗命を「人間水上中将ならではの温情の決断」と肯定している。この抗命の立場(抗命説)は、水上中将を軍人として正当に評価しているのであろうか。司令部より受けた命令を無視し部下を撤退させるということは重罪のはずである。
 軍命令の厳しさについては、横井庄一氏や小野田寛郎氏のことが思い出される。敗戦を信じなかった横井さん、戦闘停止命令がないという理由で戦後30年近くジャングルに潜伏していた小野田さんらのニュースは内外の人々を驚かせた。捜索隊に発見されたあと、かつての上官に敬礼しつつ復命した小野田少尉の姿がテレビに映し出されたが、記憶している人は多いだろう。守備隊長が司令部の命令に背いて部下を転進させることなど、戦陣訓そのままに生きた職業軍人にとってはあり得ないことなのだ。
 抗命といえば、インパール作戦における佐藤幸徳中将の事例がよく知られている。佐藤中将は牟田口廉也第15司令官の「コヒマ死守」を無視し、食料・弾薬の補給が途絶した状態の部隊を独断で撤退させた指揮官で、この判断はまったく正しく退却した部隊は助かったにもかかわらず罷免されている。さらに敵前逃亡罪で軍法会議にかけられそうになったが「精神錯乱」を理由に不起訴処分となっている。佐藤中将の事例からみれば、水上中将の死を「抗命」としつつ、同時に「軍神水上中将」と顕彰し続ける日川高校や同窓会に疑義が投げかけられるのは当然であろう。

 「抗命説」を支持する顕彰碑文                 
 笛吹市一宮町塩田に立っている「水上源蔵頌徳碑」の碑文も「抗命説」の立場である。高さ3メートル、横1、6メートル、厚さ45センチの黒の巨大な御影石のこの顕彰碑は、1986年11月22日に除幕式が行なわれた。

                     水上源蔵頌徳碑        
 義人水上源蔵先生は明治二十一年九月二十六日一宮町塩田七百十二番地に父水上長光母いわの三男として生まれ御代咲小学校旧制日川中学校を経て明治四十四年五月陸軍士官学校を卒業大正十四年四月甲府歩兵第四十九連隊付となり母校日川中学校の初代軍事教官を拝命配属着任された。先生は広量闊達な人柄に加えて人情に厚く母校在勤の四年間慈父を思わせる寛厳時宜を得た薫陶と質実剛毅の校風を旨とした風格豊かな教導により多くの優秀な人材の育成に貢献された。其の後龍山仙台の各連隊北満ハイラル第四地区隊長を経て昭和十六年十月陸軍少将に任ぜられ第五十四師団兵務部長となる。太平洋戦争勃発と共に援蒋ルート封鎖作戦に参画し遠く雲南に転戦昭和十九年五月敵の重囲によって孤立した北ビルマの要衝ミートキーナ救援の重命を帯び寡兵を以て十五倍の敵の反撃と対峙し全補給杜絶の中に日夜死闘を繰り返し守備地の確保に粉骨砕身の努力を傾注したのであるが守兵の損耗弾薬の欠乏甚だしく最後の段階に達した戦局に対し死守玉砕の命を受けるにおよび人間尊重の崇高な信念より部下の玉砕を見るに忍びず自らの責任に於て残存将兵千数百名に転進命令を下し一人従容として自決された。時に昭和十九年八月四日、その壮絶な戦死により南方方面陸軍最高司令官感状を授与されると共に陸軍中将に昇進された。
   身を捨てて仁を為す
  先生の至高至純の精神を敬仰しその遺徳を偲び以て恒久平和の礎とならんことを願い茲に頌徳碑を建立する所以である。
 昭和六十一年十一月吉日
 題額 水上源蔵顕彰会会長・衆議院議員・日川高等学校同窓会長   田辺国男
 撰文                        山 梨 大 学 学 長    町田正治
                            元 山 梨 大 学 教 授  荒井碧堂 謹書
  
 「頌徳碑」を作った人々 
 「頌徳碑」建設の話が具体化されることになったのは、石和町松本の島田駒男氏が編集した『ビルマの義人水上少将』(1983年・初版)の出版がきっかけであったといわれている。その本は、それから2年後の1985年に改訂増補版『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』として再度世に出ている。「頌徳碑」の建立については、『同窓会誌』第24号(1986年11月発行)に掲載された有賀茂氏(旧中25回)の「水上源蔵中将の頌徳碑成る」に引き続いて、第25号に「一宮町日川会・支部だより」として、「水上源蔵頌徳碑建立報告」が掲載され、「水上源蔵頌徳碑建立発起人同建立委員会事務局長」(深山武氏 旧中23回)の報告がなされている。
  「(前略)恒久平和の礎として、人間尊重に徹した水上先生の遺徳を後世に伝えるため、昭和60年6月26日、日川高等学校同窓会長田辺国男を会長とし、水上先生の郷土の人々、旧制日川中学校における師弟関係者、郷土史歴史家、関係旧軍人及び親戚等の代表者により水上源蔵頌徳碑建立発起人会を作り…(後略)」
  1985年6月26日の「建立発起人会」の設立から1986年11月22日の除幕式まで約1年半。『ビルマの義人水上源蔵』の出版から数えても約3年しか経っていない。十分な論議がないまま、一気に建立してしまったとの感は否めない。
 ところで、この顕彰碑建立発起人会のメンバーの名前を聞いて、「日川高校校歌問題」との関連を思い浮かべる人がいるにちがいない。顕彰碑建立当時の校長は山本昌昭校長(第23代 在任1985年4月~1986年3月)であり、校歌改定のための検討委員会の設立に言及した山本校長の前に立ちはだかったのが、「頌徳碑」建立を進めていた有賀茂氏や発起人会会長の田辺国男同窓会長であった。有賀氏が「それはあんた個人の見解か。それは絶対に許さん。同窓会の名によって許さん」と恫喝した事実を、山本昌昭氏は2004年11月28日に行われた「日川高校校歌裁判」学習会の席上で明らかにしている。その他、1996年に行なわれたシンポジウムの席で山本校長は、「古い卒業生の一人・元県議に『校長さん、校歌を変えるじゃあねえよ。いいけ』と、こうやってひじで小突かれました」と在職時の出来事に触れている。水上中将顕彰碑建立の発起人であった人々と「校歌問題」で山本校長を恫喝したのが同じ人々であったことは、見過ごせない事実である。

 「抗命」か「冒瀆」か 
 水上源蔵少将の死の真相は丸山豊、野口省己両氏の論文に詳述されている。両氏の軍歴は改訂増補版『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』より抜粋した。
■「抗命説」――丸山豊(『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』の第2編「月白の道」の筆者)
大東亜戦争従軍、比島・ボルネオ・ジャワ・ビルマ・中国雲南省転戦、水上少将に従い北ビルマ・ミートキーナ守備。少将の自決により遺骨を携えてミートキーナ脱出、ビルマ・タイ国国境にて終戦。軍医大尉。
■「反抗命説」――野口省己(『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』の第4編「水上少将死守命令の真相」
の筆者)第56師団参謀として、ビルマ作戦参加。第56師団にて水上将軍と共に行動。

 水上少将と行動を共にした野口省己氏が「抗命説」に異議を唱えたのは、顕彰碑が建立される数年前のことである。野口少佐は水上源蔵少将と同じく当時北ビルマに派遣されていた第56師団(龍師団)・第33軍参謀で、雑誌『丸』(1983年12月号)に「水上少将死守命令の真相」を寄せ、「抗命は、水上少将にたいする大きな冒瀆であろう」と述べた人として知られている。雑誌『丸』が出版されたのは顕彰碑建立の約3年前のことで、顕彰碑設立準備会のメンバーもこの論文が存在することを承知していた。
 編者の島田駒男氏は、改訂増補版(『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』)で「抗命」に関する「食い違い」についてつぎのように説明している。
「本編(「月白の道」―筆者)最後の『抗命』の項は第四篇の元参謀であった野口省己氏の論文の内容と食違があるけれど、混乱した第一線の極限の境地に於いてドラマチックに受けとめた切実な感覚として理解さる可きであろう。執筆者の丸山豊氏もそのように主張されている。」(『ビルマ戦場の義人水上源蔵閣下』75頁)
■「初版に収録した文献の中には、将軍が「抗命」を以て部下の救出を意図されたかの様な個所があるけれど、此点に関して其後水上淳氏(水上源蔵中将の御子息―筆者)のご紹介により、第56師団「龍」部隊参謀として直接水上閣下と苦労を共にされた元参謀であった野口省己氏にお目にかかりお話を伺った。野口氏の言によると、『閣下は如何なる際に於ても厳正な軍規に違背するような方ではない』と強く主張され、本書第4篇の『水上少将死守命令の真相』なる論文を発表された。野口氏は後に新編成された第33軍に転属され、辻参謀の下にあって死守命令発信に直接関与されていたので貴重な生き証人である。」(同書・236頁)
 「抗命説」をとる島田氏は、野口参謀を水上少将の死の真相を知る「貴重な生き証人」としながらも、結局「抗命説」で押し通した。その論拠について、
 「戦場の第一線の急迫した状況下に於ての部下将兵の受けた強烈な印象は、抗命によって転進命令を下したのだと信じておられる。其等の人々の心情も尊重しなければならない。」(同書・236頁)
 と説明している。水上少将の死は「抗命」であるとする部下将兵たちの「強烈な印象」は、もちろん尊重しなければならない。しかし、「抗命」は水上少将に対する冒瀆であるとする野口省己参謀の反対証言も存在したことも事実であり、後世の人々は歴史の記述に関してさらに慎重であるべきだったと思う。少なくとも歴史として記述する際、両説が併記されるべきではなかったか。

 二人の指揮官 
 水上源蔵の死の真相に迫るキーワードは、「二人の指揮官」である。このキーワードのもとに、「援蒋ルート」分断のために水上少将がミートキーナに派遣された頃の状況を見てみよう。
 1944年(昭和19年)5月当時ミートキーナで戦闘を行なっていたのは、丸山房安大佐(第18師団・歩兵114連隊・菊兵団)を守備隊長とするミートキーナ守備隊である。数の上では1,500名であったが、実際は兵站部隊318名、患者320名、飛行場勤務部隊100名で、戦闘員はわずか700名。この守備隊を15倍から20倍の重慶軍とアメリカ軍が包囲していた。ミートキーナが陥落すれば、北ビルマから中国雲南にかけての日本軍が総崩れになることが予想されたため、丸山大佐の部隊を支援するため謄越(中国雲南地方)にいた水上少将(龍兵団)が歩兵150名とともに派遣されたのである。しかし、ミートキーナの丸山部隊にとって、水上少将は他兵団の歩兵団長で、名前も知らず面識もなかった。しかも引き連れてきた兵員がわずかだったため、実質的な指揮権は丸山大佐(連隊長)に残され、戦いの直接指揮は丸山大佐、命令系統としての、また徳性としての統御者は水上少将という、奇妙なかたちの戦闘指令所ができあがったのである。
 水上少将の直属の部下であった丸山豊氏は、「60日のまっくらな地下の生活がはじまった」と述べ、戦闘の指揮を直接とることのできない守備隊長(水上少将)のジレンマについて書いている。
 「たたかいの指揮は連隊長(丸山房安大佐)にまかせて、比較的安全なくらい壕のなかで、執行大尉や副官や私たちとたあいもない世間ばなしをして、周囲に小さな美徳をほどこして、つねにやわらかな微笑を示している、小心善意の年長者を想像させるかもしれない。」(同書・61頁)
 「60日間」というと、水上少将がミートキーナに到着した5月30日から8月4日の「自決」までの期間にほぼ相当する。その間水上少将は「地下の生活」を余儀なくされたというのである。「戦いの指揮官」である丸山大佐と「徳性の指揮官」である水上少将の間は連絡将校によってつながれているだけで、二人が直接膝を交えて作戦をねるという機会はなく、水上少将が直接戦闘命令を出したという記述もみられない。ミートキーナ守備隊の指揮系統に問題があったことについては、関係者はこれを認めている。 「反抗命説」をとる野口氏も、
 「守備隊の将兵の大部分は、他兵団の丸山部隊であったので、実質上の指揮官は丸山大佐で、水上少将は名目上の指揮官にすぎず、統率上おおくの支障が生じた。」(同書・129頁)
 と記述している。

 野口省己氏の記述 
 (辻参謀とともに作戦立案に当たった野口氏の論文『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』第4篇「水上少将死守命令の真相」からの抜粋)
【軍司令官】
5・18 当時ナンカンにいた水上少将にミートキーナ救援命令
【水上少将】
「命令は承知した。ミートキーナでは必ず任務を達成する。」(12日を要して5月30日ミートキーナ到着)
7・2 南方軍は大本営の認可をえて、インパール作戦中止を命じる。
7・3 辻政信大佐軍司令部に着任。
印支ルートの遮断は、フーコン方面と雲南方面の2正面があったが、辻参謀によりミートキーナ線放
棄の決定。南部のバーモ・ナンカンの準備が整うまではミートキーナ死守の方針。

【軍司令官】
(1)軍は主力をもって龍陵正面に攻勢を企図しあり
(2)バーモ・ナンカン地区の防備未完なり
(3)水上少将はミートキーナを死守すべし (個人宛の命令は辻参謀が起案)
【水上少将】
  「守備隊は死力をつくしてミートキーナを確保す」
 7月下旬、敵空軍の大爆撃により残存者は1200名となる。
 8・1 水上少将は退却を主張する丸山大佐の意見を入れ、撤収命令を下達
 8・3 本田軍司令官に決別の電報
(1)小官の指揮未熟にして、ついにミートキーナを確保する能わず。最後の段階に達したるをお詫び
申し上ぐ。
(2)負傷者は万難を排して筏によりイラワジ河を下航させるにつき、バーモにおいて救助ありたし。
部隊を後退させ、去り行く将兵を見とどけたのち、河岸の密林内でピストル自決。

 丸山豊氏の記述 
 (水上少将直属の部下である丸山氏の手記「月白の道」からの抜粋)
【軍司令官】「重症ニシテ歩行不能ナル患者ヲ筏ニテ後送セヨ」軍はミートキーナ死守方針
【軍司令官】7・10本田軍司令官より水上閣下へミートキーナ守備隊の運命を決める暗号電報
(1)軍ハ主力ヲモッテ竜陵正面ニ攻勢ヲ企図シアリ
(2)バーモ・ナンカン地区ノ防備未完ナリ
(3)水上少将ハミートキーナヲ死守スベシ
【水上少将】
(1)「軍ノ命令ヲ謹ンデ受領ス」 (2)「守備隊ハ死力ヲツクシテミートキーヲ確保ス」
【軍司令官】
「ゴ奮戦ヲ謝ス。一日タリトモ長ク死守サレタシ」「一粒ノ米、一発ノ弾薬モ送ルコトナクテ貴隊ノ玉砕ヲ見ルハ誠ニ断腸ノ思ヒナリ。サレド光輝アル皇軍ノ伝統ト九州男児ノ面目ヲカケテ最後ヲ全ウサレンコトヲ切望ス」
【南方総軍司令官】「貴官ヲ二階級特進セシム」
【水上少将】「妙な香典が届きましたね」(二日後さらに)
【南方総軍司令官】「貴官ヲ軍神ト称セシム」
【水上少将】「へんな弔辞がとどきましたね」
8・2 水上少将は丸山豊大尉ら直属の部下らと月下の宴
8・4 右手ににぎった拳銃の銃口を口にふくんで自決。
【水上少将】「ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ」(起案書)

 注:「死守! 知られざる戦場」野呂邦暢(『ビルマの義人水上源蔵閣下』第3篇・100頁)には、「現防衛研究所戦史部長」の話として、「三三軍が水上少将を二階級特進させることはありえない」と否定したこと、さらに発信基地の記録から「二階級特進」は辻参謀の指示であり、「死守命令が少将個人あてになっていることのダメおしと推測できる」と書かれている。水上少将の死に、辻参謀が大きくかかわっていることを示す部分である。

 水上少将の最後と直属の部下らの心情 
 水上少将を隊長とするミートキーナ守備隊は、圧倒的な数の敵に包囲され孤立し、敵は投降をすすめる放送を流した。
 「夕方は攻撃がやむ。(米軍の)スピーカーで音楽が流れ始める。『昔恋しい銀座の柳…』。音楽が終わると放送になる。『兵隊さん、食事はすみましたか、握り飯一コでは腹がすくでしょう。こちらにはたっぷり食物も薬もあります。ビラを持って愛されるんだ(原文傍点)と言って投降しなさい。『私は投降する』は英語で I surrender (アイサレンダー)である。それを知らない日本兵のために『愛されるんだ』と覚えこませようとしたのだった。さまざまなビラが空から降ってきた。(中略)守備隊は外の戦況に精通していた。6月6日に連合軍がフランスのノルマンディ-に上陸したこと、その翌日サイパンに米軍が上陸したことなど、嬉しくないニュースはみな天から降ってきた。」(同書・99頁)
 皇軍兵士たちは「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育されていたので、残された選択肢は「玉砕」のみであった。はじめはムスビが三個、それがいつの間にか二個に減ったが、水上少将への分配も例外ではなかった。最終的な局面が近づくにつれ、丸山豊大尉ら側近の語調は次第に軍そのものに対して懐疑的なものになっていく。「ミートキーナを死守することの意義の欠如」を感じ、「この攻防戦の無意味」を考え始め、「軍隊という体質がもつあのみせかけの強がりに、かなりの反発を覚えた」頃であった。さらに、戦友たちとは、「真に敬礼に値する軍人とは? 勇気とは? 義とは? 忠誠とは?」などについて激しい議論を繰り返した。「軍隊の体質そのものを罪である」と考えたときもあった。軍の司令官や師団長から、「ゴ奮闘ヲ謝ス。一日タリトモ長ク死守サレタシ」との「膚ざわりのよい電報」がきたころ、水上少将も、
 「勝つことのみを知って、負けることを知らぬ軍隊は危険だよ。」
 「みんなの体は、それぞれがご両親のいつくしみをうけて育ちあがった貴重なもの。それを大切にとりあつかわぬ国はほろびます。」
 と、直属の部下たちを前に胸の内を語っている。丸山豊氏は「貴官ヲ二階級特進セシム」という暗号電報に対し、水上少将が「さむざむとしたものを見ぬいていた」と書き、「貴官ヲ以後軍神ト称セシム」との電報には「軍神成立の手のうちが見える」と批判を加えた。水上少将自身「へんな弔辞がとどきましたね」と述べたと伝えている。水上少将自身厭戦気分に苛まれていたのかもしれない。しかし、それらが「抗命」であることを示唆する水上少将の言葉は存在しない。33頁にわたる丸山豊氏の手記『月白の道』は、「抗命」と題して次のように締めくくられている。
 「『ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ』。水上閣下のこの絶筆は、二階級特進も軍神の名もなげうって、まだ生きのこっている私たち約八百名の延命を策されたものである。」(同書・73頁)
 丸山豊大尉の「抗命説」は、「徳性の指揮官」に貶められひとり死守を命じられた水上少将の直属の部下として、軍への怒りから導き出されたものであると思われる。しかし、水上少将の死を抗命とみる見方は、水上少将を「軍人の鑑」として称えることと矛盾するといわなければならない。抗命ということになれば、水上少将は軍服を脱がざるをえず、中将の称号も捨てなければならなくなるのだ。

 水上少将「自決」へのシナリオ
 「反抗命説」をとる野口氏は、「ミートキーナ死守」の命令はノモンハン事件やガダルカナルの攻防などで知られ、東条英機陸相との齟齬でビルマ戦線にまわされたといわれる辻政信参謀により起案されたと書いている。ある参謀の一人(原文は阿倍参謀〔?〕)は、「水上少将はミートキーナを死守すべし」との命令書の「水上少将は…」の部分を「水上部隊は…」と修正すべきであることを辻参謀に求めた。これに対して辻参謀はこう答えている。
 「これでよいのだ。なおすな。(中略)ノモンハン事件の経験からも、戦場ではこぼれる兵があるかもしれない。これらの者が命令違反にならないように、とくに『水上少将は…』としたのだ。謹厳な水上少将のことであるから、軍司令官の真意を了解して、あれで充分目的をたっせられるのだ。」(同書・136頁)
 辻参謀のこの命令について、野口氏はこう分析している。
 「この命令を起案した辻参謀の心境は、ミートキーナ守備隊には戦況上からみても、さらに困難な犠牲をしいざるをえない。守備隊が全力をつくして敢闘し、最後の段階にたっしたとき、水上少将は殺さねばならないかも知れないが、万一、脱落した将兵があっても、その責任を問わない。この微妙でむずかしい判断は水上少将に一任する、というふくみを残したもので、部下将兵を不幸な死に追いやりたくないという心情と、苛烈な戦況のジレンマにはさまれた苦肉の策であったと思われる。」(同書・136頁)
 「水上少将は、全員死をもって任務を達成しようとしたが、丸山大佐は“軍旗の安全”を理由に退却を主張し、死守命令は水上少将個人への命令であると主張し、水上少将も退却を容認するところとなったようである。」(同書・140頁)
 野口氏は、「部下将兵を不幸な死に追いやりたくないという心情」に突き動かされたのは辻参謀であり、水上少将自身は命令どおり「玉砕」を決意していたと言っているのである。ここには、「(水上中将は)人間尊重の崇高な信念より部下の玉砕を見るに忍びず自らの責任に於て残存将兵千数百名に転進命令を出し一人従容として自決された」とする顕彰碑の碑文とは異なる見解が述べられている。

 軍の査問委員会の設置
 軍の死守命令に対しミートキーナ守備隊が撤退したことは軍規に反するものであり、軍は査問委員会を設けた。野口氏は真相には不明の部分があるとしながらも、野口氏自身の見解もまじえてつぎのように述べている。
 (1)水上少将は、全員死をもって任務を達成しようとしたが、丸山大佐は“軍旗の安全”を理由に退却を主張し、死守命令は水上少将個人への命令であると主張し、水上少将も退却を容認するところとなったようである。
 (2)丸山大佐は、通信紙に鉛筆書きの水上少将の花押(かおう)のある撤退命令を所持しており、大佐以下は水上少将の命令にしたがって行動したものであるとわりきっていた。
 (3)ミートキーナ撤退に当たっては、水上少将直属の部隊の犠牲のもとに丸山部隊はイラワジ河を渡河して東岸に撤退したとして、水上少将直属の生き残りの将兵から、丸山大佐につよい非難の声があびせられた。
 (4)この時点でミートキーナ守備隊の勇戦敢闘にたいするいままでの感激はうすれ、ミートキーナ部隊の玉砕という一語は、いつしかミートキーナの失陥という言葉におきかえられていった。
 (5)戦後書かれた伊藤正徳氏の『軍閥興亡史』には、水上少将の自決は『死をもってする抗命である』とあるが、これは水上少将にたいする大きな冒瀆であろう。
 (6)軍人は命令のままに、死力をつくすのが本分である。当時の水上少将の心境は、一死をもって国難に殉ぜんとするもの以外になかったであろう。

 ある参謀が辻参謀に、水上少将個人に対する命令を「水上部隊は…」と変更するよう進言したことはすでに述べたが、野口氏はそれが「ウラ目に出た」と書いている。
 「多くの者が奇異に感じたように、『水上少将は…』と個人にたいする型破りの命令を出したため、これが字句どおりに解釈されてウラ目に出たことである。死守、玉砕などという人生最大の難関に逢着したとき、やすきにつきたがるのは、人間の弱点である。それゆえにこそ軍刑法などのきびしい軍律が必要なのである。やはり正道どおり『水上部隊は…』と部隊全部に死守を命じておいて、非情のようであるが、玉砕もかくごのうえで、所望の時機まで死守せしめ、目的を達成したとき、はじめて後退を命ずべきであったろう。」(同書・139頁)
 この文章を書いた野口氏は、水上少将個人宛の「玉砕命令」を起案した辻参謀について、「辻参謀作の“苦心の電文”」と表現している。「軍旗を奉じて撤退を決めた」丸山連隊長についてであるが、彼の指揮下にあったミートキーナ守備隊は、5月下旬に直轄となった33軍から、「丸山部隊ハミートキーナ付近ノ要地ヲ確保シテ軍将来ノ攻勢ヲ有利ナラシムベシ」(同書・102頁)との命令を受けていることも見落とせない部分である。
 「水上少将ハミートキーナヲ死守スベシ」との軍命令はその後部分的に修正され、最終的に「貴官ハミートキーナ付近ヲ死守スベシ」との命令に変わる。「ミートキーナ付近」であるならば「撤収」は命令違反にはならない。水上少将は「付近だな。まちがいないな」と部下に念を押した。丸山連隊長が連隊本部会議を開き「軍旗を奉じての撤退」を決める一方で、水上少将は8月1日に退却を主張する丸山大佐の意見を入れるかたちで「撤収命令」を下達している。丸山連隊長は水上少将の命令に従い、「軍旗を奉じて800名の将兵をひきつれて密林をぬい、敵の妨害をさけつつ後退し、9月15日ごろバーモに着いた」。第56師団と33軍の参謀であった野口省己氏の論文にはそう書かれている。

 「名目上の指揮官」から「戦いの指揮官」へ 
 「抗命説」をめぐる水上少将の動きで注目するのは、「水上少将はミートキーナを死守すべし」との命令を受けた水上少将が、「水上は死力を尽くして…」と個人名ではなく「守備隊は死力を尽くしてミートキーナを確保す」と回答したことである。その裏にはいかなる思いが秘められていたのだろうか。死守命令が送られてきたとき、水上少将は直属の部下にその命令を「一切極秘にしておくように」とかたく戒めている。「戦いの指揮官」である部下の丸山大佐に対して「徳性の指揮官」にすぎない水上少将は、軍司令官に対し守備隊長としてミートキーナ死守の意志を示したのである。 
 ミートキーナに到着以来水上少将には居場所がなかった。「徳性の指揮官」であることに甘んじ続けていた。命令を出せない指揮官は指揮官ではない。このことは歴戦の武人である水上少将の誇りを深く傷つけていたはずである。しかし、最終局面に至り、水上少将の指揮官としての真価が発揮されるときが近づいていた。「戦いの指揮官」とはいえ丸山大佐は部下である。その丸山大佐が「軍旗を奉じて退却しても軍命令に背くことにはならない」と主張したとき、水上少将は守備隊長としての責任のもとに転進命令を出すのである。命令を出したのは「徳性の司令官」であり、この命令を受けて「転進」して行ったのは「戦いの指揮官」である丸山大佐(連隊長)であった。
 「小官の指揮未熟にして、ついにミートキーナを確保すること能わず。」
 「負傷者は万難を排して筏によりイラワジ河を下航させるにつき、バーモにおいて救助ありたし。」
 「徳性の指揮官」が「戦いの指揮官」に就いた瞬間だった。土壇場で水上少将は自ら指揮官としての名誉を回復し、ミートキーナ守備隊長としての存在を将兵たちに示したのである。
 1944年8月2日、直属の部下らと「月下の宴」を行ない、その後去り行く将兵を見送るときの水上少将の心は澄み切って、一点の曇りもなかったであろう。「これでよし」。それが水上少将の最後の独白だったろう。上官の命令は天皇陛下の命令である。水上少将が「東北方」に向かって「自決」したのは、ミートキーナを死守できなかったことを守備隊長として天皇陛下に詫びたものであり、また帝国軍人として天皇陛下に変わらぬ忠誠を誓ったものだと思われる。寺内寿一司令官からは「ミートキーナ守備隊」宛てに「感状」が送られている。
 「…是尽忠誠勇武なる守備隊長以下部隊の団結と旺盛なる責任観念とを以て堅忍持久、勇戦奮斗せる結果にして真に皇軍の本領を発揮したるものと謂うべく、その武功抜群全軍の亀鑑たり 仍て茲に感状を授与しこれを全軍に布告す 昭和十九年七月二十三日 南方方面陸軍最高司令官 寺内寿一」

 「私が殺したようなもの」
 最後は辻政信氏の登場である。1950年に戦犯容疑が解けた後国会議員となった辻氏は、同年4月に『十五対一』を著した。その中で、「この一篇を読まれる未亡人の心や如何に。遺児の胸や如何に。夫を奪い、父を奪ったのは、今こうして生きて筆を取っている著者そのものである」、「高潔な将軍を殺してしまった」と当時を振り返り、「落涙紙面を濡らしている」と慙愧の念を告白している。その辻政信氏は水上少将の死について、次のように述べている。
 (1)「軍旗を焼くに忍びずとの理由で撤退の意見を具申した丸山連隊長に対し、少将は遂に一身に責任を負い命令を以て残兵をイラワジ河左岸(東岸)に退却させた。」
 (2)「竹の筏に乗って、敵の砲火を潜りながらイラワジ河を渡り、ジャングル内に終結し、南方に血路を開くべき態勢が整うのを見届けてから、最後の戦闘報告を呈出するよう副官に命令し、東北方を遥拝した後、水上少将はミートキーナ放棄の責任を死をもってお詫びしたのである。」(『十五対一』91頁)
 野口氏の見解や辻政信氏の記述を重ねれば、水上少将の死が「抗命」ではなかったことは明らかであろう。抗命の軍人が「最後の戦闘報告」を書くはずがない。前述の有賀茂氏は、辻参謀についてつぎのように書いている。
 「辻政信参謀がその著『十五対一』の中で水上中将のことにふれて、涙が次から次に流れて原稿用紙がぬれてと言っているが、昭和28年8月7日、塩山から甲府へ向う車の中で、日川高校前で『これが水上中将の卒業された学校です。初めての軍事教練教師として生徒から最も愛された人情豊かな先生でした』と言うと、『閣下は私が殺したようなものです。実に申し訳ない。私の『十五対一』で私の心を知ってください』と言い、日川橋の所で『水上中将の生まれた所はあの部落です』と塩田の部落を指すと、『閣下申し訳ない』と深く頭を垂れていつまでも合掌されていた。」(『同総会誌』19号 56頁)
 水上源蔵中将が靖国神社に合祀されたのは、1950年(昭和25年)10月17日のことである。

 【追記】
①「水上源蔵頌徳碑」が建立された1986年(昭和61年)当時、水上中将の「自決」の真相について「抗命説」を否定する「生き証人」(野口省己 第56師団参謀)の論文が存在した。しかしながら、田辺国男氏(水上源蔵顕彰会会長)をはじめ日川高校や同窓会関係者が「抗命説」を支持したことにより、「本部命令にさからって全員の撤退を命じた指揮官」としての水上源蔵像が後世に残ることになった。日川高校は2001年に『百年誌』を刊行したが、そこにおいてもその認識に手直しはされていない。靖国神社に祀られている日川の英雄がなぜ「抗命の指揮官」なのかについて、日川高校や同窓会は説明をしなければならない責務がある。

②水上源蔵の手紙(「樋口先生宛の書簡」『百年誌』326頁)
蘇満国境から(『学友会報38号』・昭和14年3月)
 「謹んで新年を賀し奉り候…略…
扨第三回卒業生廣瀬久忠大臣となるのニュースを聞き嬉しさの余り雀躍として喜び(中略)
同級生三十九名中第三十九位で卒業したる小生も今は零下四十度の○○○にあり蘇満国境を眺めつヽ○○部隊長として活躍致居候
 尚生徒諸士に学科成績が悪いからとて決して落胆せず、正しき道を踏み身体を強健にし剛健なる精神の持主となる事が一番肝要なることを能く能くお教へ下され度候
 先には堀内茂礼氏海軍少将に進み、日中も益々発展しつヽあり今も日中魂は旺盛の事と存候、峡東男子として大に支那大陸に進出せられむ事を期待いたし居り候、尚日中生諸子には先輩廣瀬大臣を目標に邁進せられ度時局重大の折而も若い時代に我侭や贅沢をしたり服従の精神に乏しく自分よかれの者は国家の()毒と存じ候 
 以上甚だ乱筆に候へ共先生が朝礼の際生徒に御話になる御参考にもと思ひ一筆啓上仕候
 一月十五日午後七時半

(『天皇の勅失効確認を求める山梨県民の会ニュース』第15号〔2004・12・8〕所収・「神州の高校」周辺(3)に加筆転載) (2009・1・15)


7 消される従軍慰安婦たちの叫び                         

【検証】「人間尊重の崇高な信念」をもつ「軍神」の部隊に従軍慰安婦はいたのか
「正史をめざして」編集された『百年誌』(2001 編集・山梨県立日川高等学校)には、南京大虐殺・朝鮮人強制連行・従軍慰安婦など「正史」と整合しない諸問題は一行も書かれていない。「正義と真理に基づく日川教育」を推進しようとする山梨県立日川高校は、「正史」と整合しない歴史的事実を教育の中にどう位置づけようとするのか。

「日川高校生の信条」(生徒手帳の記述)
「私たち高校生は、次代の形成者であることを自覚し、正義と真理を愛し平和で民主的な明るい日本の社会を建設するために、誇りと勇気をもってこの信条を守ります。」(以下8条の「高校生の信条」略)

この稿では「日川高校生の信条」を想起しながら、校訓「質実剛毅」を体現した先輩として語り継がれる水上源蔵中将の部隊と従軍慰安婦の関係について検証する。

水上少将、雲南省の騰越
 水上源蔵中将は明治21年に山梨県東八代郡一宮町(現笛吹市)に生まれた。旧制日川中学、陸軍士官学校へと進み、大正14年に初の配属将校として旧制日川中学に赴任している。その後1938年(昭和13年)に満州ハイラル第8国境守備隊第4地区隊長を務めた後、19436月、第56師団(龍)の兵団長として雲南に赴いた職業軍人である。水上少将(19416月少将に任官)が「自決」したミートキーナは、中国を連合国から脱落させないことを目的として敷かれた「レド公路」の要衝にあたっており、「援蒋ルート」と呼ばれていた。インドのレドを起点とし、中国の昆明に至る軍事道路である。
 水上少将の直属の部下であり、自決した少将の遺骨を持ち帰った丸山豊氏(元軍医)が書いた「月白の道」には、マラリア熱のためシンガポールで療養していた丸山氏が軍用列車やトラックを乗り継いで雲南の司令部に復帰し、水上少将に出会う場面が描かれている。 「その間に司令部は、くらい竜陵からあかるいトウエツへうつり、司令官は坂口少将から水上少将へ代わっていた。副官に案内されて、かつては英国領事館であったという司令部の庭園をS字のかたちによこぎってゆくと、バラの木のむこうにまえかがみした初老のひとがいる。そのやわらかそうなたなごころにおさまっているのは、うみおとされたばかりと見えるつややかな卵である。泥と糞をきれいにふきとったその卵に、日付けを書きこんでおられる。まなざしが柔和で物腰はおだやかで、どう見ても人のよいお百姓、それが閣下であった。」①
  この光景はインパール作戦(19443月~7月)が開始される約1年前のものであり、騰越守備隊もたっぷり食料を保有しており町は平安であった。その騰越に従軍慰安婦がやってきたのは194310月、水上少将雲南着任の4ヵ月後のことである。

「朝鮮人従軍慰安婦」
  伊藤俊男一等兵は当時23歳。水上少将と同じ第56師団(龍)に属し、騰越にあった司令部で丸山豊軍医中尉らから補助衛生兵の教育を受けた兵士である。野呂邦暢氏の『死守! 知られざる戦場』は、伊藤一等兵の目撃談として、「慰安婦」がやってきた日のことを短く伝えている。
「前年(昭和18年)の10月、伊藤一等兵は騰越に駐屯中慰安婦を迎えた。3500名あまりの師団将兵は城門の両側に整列して出迎え30名の慰安婦に敬意をはらった。女たちはほとんど朝鮮人で、少数の広東省出身者がまざっていた。」②
 日川高校の戦後史において、水上中将は「徳性の人」と称えられている。しかし、中将が従軍慰安婦の存在を非人道的なものとみなしていたとする記述は見当たらない。性奴隷を従えた日本軍の指揮命令系統を明らかにしたのは吉見義明中央大学商学部教授であるが、吉見氏は命令系統の頂点にいたのが昭和天皇であることを明らかにした上で、これを防止する責任がある立場にいた人物として陸軍大臣や派遣軍司令官らをあげている③。
  元従軍慰安婦が声を上げことができるようになったのは冷戦後終結後である。時代は変わり、「天皇の軍隊」と従軍慰安婦の関係が国際的な注視の中で明らかにされる時代がきたのである。つぎの引用は、「軍神」水上源蔵中将が「慰安婦」の存在をどう見ていたかを示すひとつのエピソードである。1938年、まだ大佐として旧満州のハイラルで「第4地区」隊長を務めていたころ、そこでは毎晩のように宴会が開かれていた。酒と女の軍隊生活である。新米の少尉はこう書き残している。
  「閉口したのは、将校たちが、なにかにかこつけて毎晩のように開く宴会であった。(略)町の『入船』という料亭で飽きもせず、来る日も来る日も、芸者をはべらせての宴会が続いていた。私はだまっていたが、そんな私の窮状を見抜いたのが、隊長(水上大佐)であった。『酒もタバコもダメなのか』と、大佐はあきれたような顔つきで言った。」④
  この記述は、「芸者をはべらせての宴会」が続く軍隊生活が、職業軍人・水上源蔵にとって決して居心地の悪いものではなかったことを暗示している。

辻参謀が見た「慰安所」の光景
  「慰安所」は日本軍の軍事作戦が行なわれたほぼ全域に設置されたと言われている。森川万智子氏が現地調査で確認したビルマの「慰安所」は33地域。ラングーンに8、マンダレーに7、ラショーに4、メイミョウに3、ミートキーナに3、などと具体的な数をあげている⑤。
 水上少将にミートキーナ死守の命令を出したのが辻政信参謀であったとは前回述べた。その辻参謀がメイミョウ(ビルマ中部の都市)の軍司令部に着任したときに見た「慰安所」に関する記述を引用してみよう。1944710日、水上少将が「自決」する約1ヵ前のことである。
  「仕事始めに早速その日、メイミョウの周辺の地形を一巡すると、緑滴る林間に色とりどりの和服姿でシャナリシャナリと逍遥する乙女の群れが目についた。中国でもめったに見られない風景だ。森の中に一際目立つ建物には翠明荘と書いた看板がかけられてある。将校専用の慰安所であり、その界隈の下士官兵の慰安所も昼間から大入満員の盛況を呈している。陽が陰を呼ぶのは宇宙の真理である。若い男の群に若い女が必要なことは肯けない訳ではないが、インパールで数万の将兵が餓死しているとき、同じビルマのしかも隣接軍でこのような行状が許されるものであろうか。」⑥
  この文章の中で辻参謀が心配しているのは軍人の士気であり、ビルマに連行された「慰安婦」のことではもちろんない。「和服姿の乙女たち」の多くは後述するように、朴永心(パクヨンシム)さんのような朝鮮人の少女たちや広東出身者だと思われるが、辻参謀の目には、朝鮮や中国の若い女性たちがなぜ日本軍の最前線にいなければならないのか思いは及んでいない。

ミートキーナの「慰安婦」たち
  ナンカンにいた水上少将がミートキーナ救援の命を受けた日は1944518日。33軍司令官本多中将はミートキーナを救うため、第56師団「龍」の師団長松山祐三中将に対して、歩兵団長水上源蔵少将の率いる歩兵一コ大隊、砲兵一コ中隊を派遣するように命じた。兵団長とは師団勢力の中核である三コ歩兵連隊の長であって、師団長につぐ権威を持つ地位にあった。⑦
  少将は車や馬を乗り継いで530日にミートキーナに到着している。宿舎は市のほぼ中央にある木造二階建ての旧英人住宅である。そこからは、これまでミートキーナで戦闘を続けてきた丸山房安大佐が指揮をとる114連隊(菊師団)の屋根が垣根越しに見える距離にあったが、その連隊長の宿舎周辺には「慰安婦」の姿が見られた。前述の森川氏の記述で見るように、ミートキーナの慰安所は3ヵ所が確認されている。存在がはっきりしているのは丸山房安連隊長周辺であり、そこから「垣根越しに見える距離」にある水上少将の司令部周辺に「慰安婦」がいたかどうかについての記述はない。
 ミートキーナの戦況については、戦闘場面に劣らない生々しい記録がある。以下の記録は、1944610日前後の出来事である。
 「『龍』148連隊一大隊の副官、橋本国雄中尉はこわれた慰安所の庭で、広東の姑娘(クーニャン)がはいていたらしい桃色のズボンを見つけて、ボロボロになった自分の軍袴(ズボン)ととりかえた。だれも桃色のズボンをはいた橋本中尉の身なりをあやしまなかった。将校も兵隊もまともな格好をしているのはいなかった。」⑧
 そのころ、食べ物は一人あたり一日一個の握り飯だけになっていた。兵士たちの間には厭戦気分が広まり、地下壕にひそむ丸山大佐はそこに座敷をこしらえさせ、慰安婦に酌をさせて酒をのんでいるとか慰安婦と風呂に入っているとか、戦闘の恐怖を忘れるためにモルヒネを打っているといううわさが広まっていた。
 「水上少将ハミートキーナヲ死守スベシ」との電報が辻政信参謀から水上司令部に入ったのは712日のことである。重要なことは、水上少将はこの命令を極秘にするよう直属の部下たちに厳命していたこと、またこの命令とは別に、丸山連隊長が率いるミートキーナ守備隊は、5月下旬、直轄となった33軍から「丸山部隊ハミートキーナ付近ノ要地ヲ確保シテ軍将来ノ攻勢ヲ有利ナラシムベシ」との命令を受けていたことである。軍は同じミートキーナの守備隊に二つの命令を出していたことになる。丸山連隊長は連隊本部会議を開き、33軍からの命令通り、「軍旗を奉じての撤退」を決めていた。丸山連隊長が撤退命令を出したのは81日である。
  丸山連隊長は慰安婦を連れていた。戦闘中壕に隠れていた連隊長が真っ先にイラワジ河を渡り逃げたことを知り、見捨てられたと感じた兵は少なくなかった。河岸にはおびえた慰安婦の群れがひしめいていた。80日間壕にひそんでいた慰安婦たちは泥まみれになっており、振り乱した髪が兵士(八江中尉)の哀れをさそったという。「死守」を命じられた水上少将が「月下の宴」を行なったのが82日。「ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方へノ転進ヲ命ズ」との起案書を残し「自決」したのは84日の朝である。水上少将は守備隊長として丸山大佐の撤退を追認しなければならなくなり、自らは「死守命令」の証しとして「自決」したのである。
  ミートキーナを脱出した兵の中にバーモに向かって歩き続けた兵士(森崎上等兵)がいた。飢えと疲れでしゃがんでいると、「兵隊さん、しっかりしろよ。バーモはもうすぐだよ」と声をかけられた。竹を杖にしてはだしの「朝鮮人慰安婦」が二人立っていたが、一人は中年で、一人は若かった。兵士はこの二人から、丸山大佐が激戦の最中に壕の中で「慰安婦」とたわむれていたことを聞いている。なおミートキーナの「慰安婦」の数であるが、「60人ほどの慰安婦がいた」とする記述も見られる。⑨

「若春」という名前の「慰安婦」
 ここに一枚の衝撃的な写真がある。194493日に拉孟(ラモウ)で発見された4人の「朝鮮人慰安婦」の写真(「『天皇の勅』失効確認を求める山梨県民の会ニュース16号」26頁に写真掲載)である。
<写真とキャプション>(『「慰安婦」戦時性暴力の実態(1)』263頁より引用)
①拉孟(ラモウ)で発見された4人の朝鮮人「慰安婦」(194493日)
②「水上少将所属第56師団の『慰安婦』たち」(出典=森山康平編著『太平洋写真史 フーコン・雲南の戦い』池宮商会発行)
  筆者にとって衝撃的だったのは、水上少将所属の第56師団(龍)の性奴隷となった「慰安婦」の写真が残されていたという事実のほかに、この写真の右端の女性の身元が半世紀以上も経って確認された事実である。その女性の生涯の克明な記録は、日本人としてまた人間として、羞恥や感動、恐怖と救いの入り混じった感情なしに読み進めることはできないインパクトをもっている。順を追ってみよう。
 上記の写真が日本で注目されるようになったのは、1984年に月刊沖縄社から出版された『太平洋戦争写真史 フーコン・雲南の戦い』の表紙となってからのことだという。右端の妊婦らしい「慰安婦」が当時「若春」と呼ばれていた女性であることがわかったのは、1993年のことである。その写真を見せられた第56師団に属する拉孟からの生還者の元兵士が、西野瑠美子氏とのインタビューの中で明らかにしたのだ。
 その一方で、20008月、写真右端の女性を指差し、それが若き日の自分であるとの証言者が現れた。「2000年女性国際戦犯法廷」に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から被害者証言のため来日した朴永心さんである。

17歳で「慰安婦」にされた朴永心(パクヨンシム)さん
  朴さんは1921年に南浦市に生まれ、14歳の頃南浦市(朝鮮民主主義人民共和国)の南にある村の洋品店へ奉公に出ていた。「工場で働けばもっと稼げる」と言って日本人巡査が若い女性を「募集」しに現れたのは、朴さんが17歳の時のことである。仕事の内容や見知らぬ土地へ行くことの不安はあったが、サーベルを下げた巡査に対する恐怖心があり、拒否できなかったと述べている。朴さんが連れてこられたのは南京の「慰安所」であった。
  「キンスイ楼の各部屋はベッドが一つずつ置かれているだけで窓もなく、外を眺めることすらできない部屋だった。朴さんは二階の19号室に入れられたが、ドアには名前と番号が貼られていた。ここで付けられた名前は『歌丸』である。多くの朝鮮人『慰安婦』たちが、『朝鮮ピー』と蔑まれながらも日本の源氏名が付けられ、衣服も和服にさせられたのである。朴さんもすぐに日本の着物に着替えさせられた。こうして朴さんの『慰安婦』生活がはじまった。輪番制で日本兵の相手をさせられたが、休日は日に10人以上の日本兵がやってきたという。『日本兵は乱暴で、けもののよう』でいつも逃げ出したいと思っていた。…」⑩
  1941128日に太平洋戦争が始まり戦線が拡大するのに伴い、朴さんら8人は二人の日本兵の監視の下に南京の「キンスイ楼」を後にして、上海、シンガポール経由でビルマのラングーンに連行された。朴さんは「南京陥落」後すぐに南京城内の「慰安所」に送られているが、ラングーンに到着した時も「ラングーン陥落」の年だったという。「ラングーン陥落」は194238日、第56師団(龍)がラングーンに上陸したのが326日。ミートキーナ守備隊の中核であった第18師団(菊)が上陸したのは48日のことであるから、朴さんは水上少将が謄越やミートキーナで指揮をとった部隊とほぼ同時期にビルマにやってきたことになる。
  朴さんが乗せられた船の名前は不明だが、同じ19428月の出来事として、上海を出港した「慰安婦」輸送船アトラス号に1300名の「慰安婦」が乗船していたこと、27名の日本人「慰安婦」がいたこと、さらに19427月の出来事として、朝鮮の釜山を出航した4000トンの客船には703名の「朝鮮人慰安婦」が乗っていたという記録もある⑪。ラングーンに着いた彼女らが20名~30名のグループに分けられ、ビルマ各地の連隊や部隊に配属されていったという記述は、謄越、拉孟、あるいはミートキーナにいた「慰安婦」の数がそれぞれ2030人ほどであったという数字と符合している。

56師団と朴さんの「慰安婦」生活
  ラングーンに上陸後の朴さんのその後の足取りについては、2000年に開かれた女性国際戦犯法廷における証言で詳しく述べられている。
 「ラングーンからラシオにある『イッカク楼』へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。
  ラシオには2年ほどいました。私がその時相手をしていた2名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。
  1944年春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れて行きました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山・原注)その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。
  松山にきて間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第56師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め12名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、8名が爆撃で死に私たち4名が残りました。」⑫
 朴さんが「毎日十数名の日本軍から性行為を強いられた」のは、水上少将が所属するビルマ方面軍第56師団(龍兵団)からであり、師団長は松山祐三中将である。19445月当時第56師団は、拉孟(ラモウ)に1300人、謄越(トウエツ)に1500人、竜陵(リュウリョウ)に1400人というように、各地に分散配備されていた。

国際女性戦犯法廷における朴さんの証言
  朴永心さんが拉孟に連行されたのが1944年春。そして、彼女は拉孟守備隊の全滅に伴い連合軍の捕虜となった。兵力差は301で数万人の中国兵に対し日本兵200人といわれ、最後の兵力は80人だったという。守備隊長である金子恵次郎少佐が爆死(96日)したあと指揮をとった真鍋邦人大尉は動けない傷病兵に青酸カリによる自決を命じ、自らは軍旗を体に巻いて敵陣に突っ込んで行ったというから、まさに「玉砕」である。
  以下、女性国際戦犯法廷における朴永心さんのビデオ証言から⑬。
――その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。
――朴証人
 日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性4名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問をしました。
――ここに194493日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。
――朴証人
 これが私です。この服装で裸足で、…髪も編み下げ(おかっぱのことと思われる〔原文注釈〕)にして、確かに私です。連合軍に捕虜になった時、妊娠していました。
――捕虜になった後どうなりましたか。
――朴証人
  トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。収容所には1年ほどいたと記憶しています。
 朴永心さんの証言のあと、黄検事は次のように締めくくっている。
 「以上により私たちは、被害者朴永心が最前線であったビルマにまで連れて行かれ、日本軍性奴隷の生活を強要されたこと、その責任が、当時ビルマ方面軍第56師団長であった、被告松山祐三にあるということを、明白に知ることができます。」⑭

人道に対する罪で「天皇有罪」
  女性国際戦犯法廷は2000128日に東京で開かれ、1年後の200112月4日にオランダのハーグにおいて最終判決が発表された。
Today the judges have found Emperor Hirohito guilty of Crimes Against Humanity’
 (「今日、判事団は天皇裕仁を人道に対する罪について有罪と認定する」)
 戦後日本の最大のタブーであり、アメリカの対日政策に基づく天皇免罪に「ノン(否)」を突きつけたのは民間人がつくる法廷だった。戦後一度も裁かれることのなかった大元帥が断罪されたのである。
  『戦場の「慰安婦」 拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡』などを著し、朴永心さんの証言に道を開いた西野瑠美子氏はこう述べている。
  「私は日本軍の犯した罪の大きさとともに、長い年月、一言の誠意ある謝罪すらも被害者に伝えてこなかった日本政府の姿勢に怒りを抑えることができなかった。永心の深い傷と日本政府の対応のギャップはあまりにも大きい。女性国際戦犯法廷で日本軍の責任者に『有罪』が下されたことを、永心は涙を流して喜んだが、現実には日本政府は永心に対して一言の謝罪も行ってはいない。日本政府は、これほどまでに苦しんでいる永心の存在すら知ろうとしない。」⑯
  従軍慰安婦たちの前に立ちはだかり続けるのは「菊のタブー」である。戦後「お上」が唱えた「一億総懺悔」の掛け声で一件落着を図った日本人にとって、「天皇有罪」を認定したこの法廷は容認できないと考える人は多いだろう。「天皇の勅」を称える校歌を戦後も歌い続けている公立高校を相手に訴訟を起こした人々に対する反発と通低している。論理を超えたこの「開き直り」を支えているのが日本人特有の報恩感情だ。
  女性国際戦犯法廷の最終判決から3年後の2004年、旧日本軍(皇軍)の元従軍慰安婦やその遺族らが日本政府に損害賠償を求めた訴訟で最高裁がこれを棄却したというニュースが新聞(『朝日新聞』20041130)に掲載された。判決後、チョゴリ姿の原告ら数人が傍聴席との仕切りを越えて法廷内に入り、叫び声をあげて抗議し、職員に制止されたと新聞は伝えている。
(『天皇の勅』失効確認を求める山梨県民の会ニュース・第16号〔2005228〕に加筆転載)2009・3・7)

【引用文献】
①『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』4748頁 島田駒男(編者)1983
②『同』81頁            
③『「慰安婦」・戦時性暴力の実態1』4264VAWW-NET Japan 緑風出版2000
④『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』19
⑤『「慰安婦」戦時性暴力の実態〔Ⅱ〕』315VAWW-NET Japan 緑風出版 2000
⑥『十五対一』 57 辻政信 酣燈社 1950
⑦『ビルマ戦場の義人 水上源蔵閣下』8788
⑧『同』95
⑨『従軍慰安婦〈続編〉』50 千田夏光 三一書房 1978
⑩『「慰安婦」戦時性暴力の実態1』267 VAWW-NET Japan 緑風出版 2000
⑪『同』272
⑫『女性国際戦犯法廷の全記録〔1〕』66VAWW-NET Japan 2002
⑬『同』6668
⑭『同』68
⑮『同』253
⑯『戦場の「慰安婦」 拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡』215 西野瑠美子 明石書 店 2003


8 同窓生討論: 元皇軍兵士の「告白」を読む

ふたつの新聞投稿記事
「先日送っておいた新聞記事や資料、読んでくれたかい?」
「うん。いろいろ考えさせられたよ。同じ日本人でも男か女かによって受け取り方はさまざまと思うけど、オレはこういう戦中派もいることを知って救われた気がしたよ。」
「『余生の日々を中国にわびる』なんて、意味深だよなあ。」

①「余生の日々を中国にわびる」 茨城県 桑島節郎 75 (『朝日新聞』1996911) (前略)昭和18年(1943年)120日、私の所属する中隊は中国山東省の村で、八路軍の捕虜九人を残忍な方法でことごとく殺してしまいました。その前日の戦闘で負傷した私らの中隊の軍曹が八路軍の捕虜となり、その奪還に出動したときのことです。ところがそれから四日後、軍曹は八路軍に命令された住民のかつぐ戸板に乗せられ送還されてきました。八路軍は味方が九人も殺され、その無残な死体を見ておそらく怒髪天を衝(つ)く思いではなかったろうかと思います。
  しかし八路軍は報復するどころか、「帰りたい」という軍曹の願いを聞き入れて送還してくれたのです。帰って来た軍曹を見て八路軍の計り知れない寛大さに、一同ことばもありませんでした。
  私らの部隊は討伐(敵をもとめての作戦行動)に出ると略奪は日常茶飯事、ときには強姦(ごうかん)殺人などの悪行を重ねてきました。
  私は余命幾ばくもなく、今はただもう「悪かった、すまなかった」と中国にわびている毎日です。皆さんが読まれて戦争への関心をより一層高めることになれば、これに過ぐる喜びはありません。

②「慰安婦問題は母への裏切り」 塩山市 中村直矢(『山梨日日新聞』200047 私は女性というと私を生み育ててくれた母が真っ先に浮かびます。母は明治20年生まれです。当時の女性はひたすら子供を育て、夫に従い、時には一家の柱となって暮らしを支えていました。この母を思う時、従軍慰安婦問題には身の置き所を失ってしまいます。それは、かつて一兵士として南方戦線で従軍慰安婦とかかわりを持ったからです。
  軍隊の中においては、女性差別とかさげすむなどという言葉さえ頭の中にありませんでした。二十一歳、軍の規律の中でただただ相対する敵に向かって命令のままに動いていたのでした。従軍慰安婦と出会ったのもそんな時でした。慰安婦がそこにいるから慰安所へ足を運ぶ、医務室からコンドームを渡され、それをポケットにねじこみ、大方の兵は慰安所へ行き、受付で二円を払い順番を待つのです。
  何も深いことなど考えていませんでした。生きている、戦争の最前線に立っている、そんなことも日常化されてしまっていたのです。慰安所を建て、慰安婦を招き、その代価をどのようにして支払ったのかは分からない。当時は「軍のやることに間違いはない」という思いだけです。今さら言い訳は通じない。命をくださった母も女性である。その母の愛を裏切ったような思いだけが残ります。

「母を裏切った思い」とは
「何度か読み返したけど、今まで新聞に載っていた体験談とはまったくちがうね。これは告白だよ。こんな元日本兵もいるってことだね。勇気があることは確かだけど、ちょっと違和感も残ったなあ。」
「というと…?」
「投稿者の実直さは疑わないけど、謝っている相手は母親だよね。お母さん、ごめんなさい。オレはバカな息子でした、ってね。謝る相手がちがうと思ったんだよ。元従軍慰安婦がこれらの告白記事を読んだなら、まちがいなく言うだろう。『自分のお母さんに詫びる前に、まず従軍慰安婦に向かって詫びて欲しい』、ってね。」
「そこは一番大事なところだな。でもね、告白したという事実はすごいと思わないかい。署名入りの告白を公表するんだから。何か決意のようなものを感ずるよ。読者としては投稿者の真意を読み取りたいところだね。とくにその真意がオレたちの今の生き様と密接にかかわっている場合には…。オレが瞬間的に思い浮かべたのは、秘話をバラした元皇軍兵士を裏切り者のようにみる戦友たちの視線だよ。日本人はこの種の行為を仲間への裏切りとみるからね。山梨の新聞に中村さんの記事が載ったころ新聞への投稿が相次いで、ちょっとした紙上論争のようになったけど、覚えているかい。多くは『自虐史観』か否かの意見に終始したんだ。とくに『自虐史観』の側からは、なぜ中村さんが告白するに至ったか、その心の動きに迫ろうとする投稿はなかったなあ。」
「中村さんは、『当時の軍隊では、女性差別とかさげすむという言葉は頭になかった』と言っているけど、白昼に集団でやるんだよ、罪悪感や羞恥心はなかったのかなあ。」
「彼らが『順番をまった』のは、みんながやっていること、上官たちもやっていることだからさ。戦争が終わり年月がたち、幸福な家庭生活を手に入れると、記憶の奥底に封印したはずの『慰安婦』の叫びがはっきり聞こえるようになったんだよ。長いこと心を苛んできた記憶が頭をもたげてきたのさ。インドネシアだけで日本人との混血児が3万人以上と言われているからね。アジアのあちらこちらに腹違いの兄弟、姉妹がいるかもしれないと考えるのは気分がよくないけど、ありえない話ではないな。
  元皇軍兵士たちは、戦争から帰ったらいい夫、いい父親になって、加害責任には一切口をつぐんでしまった。彼らの多くは加害責任を感じていたと思うけど、戦友の名誉を守るとか家族の幸福を護るという口実のもとに、みんなで緘口令を敷いたんだと思う。冷戦時代が終わり、かつての従軍慰安婦たちが声を上げ始めてはじめて、家族たちも事態の深刻さに気づき始めたのさ。自分の夫や父親にも同じようなことがあったかもしれない、ってね。それでも99.99パーセントの元皇軍兵士は、忠実な企業戦士として、善良な家庭人として、罪悪感を墓場まで持って行こうと決めていたんだと思う。だから、良心の呵責に耐えられずに告白した0.01パーセントの旧皇軍兵士は、どうしても裏切り者にしなければならなくなるというわけだ。」
「良心の呵責ねえ。世間では、良いことは覚えていても悪いことは忘れるというけど、あれは逆だと思うな。悪行はかならず意識の底にインプットされて、平安な眠りを妨げるのさ。それにしてもこれらの告白は、いまだに戦後・戦後の精神的な切れ目を知らない日本人を救うひとつの手がかりになると思うよ。中村さんは、『今さら言い訳は通じない』と言っているけど、『今』を見つけた中村さんはラッキーだよ。99.99パーセントは靖国神社だの勲章だのという共同体意識にがんじがらめにされて、告白の機会を奪われているんだからな。オレ、桑島さんや中村さんが『告白』にたどり着くまでの長い葛藤の日々を想像してみたよ。投稿する際、家族に相談したかどうか、新聞投稿は基本的に実名だと思うけど、氏名を公表することで苦しむ兄弟や親族はいなかったか、また、相談を受けた家族は投稿の意図を理解し許したのかってね。そんなことを考えてみたのさ。とにかく、勇気のある人たちであることはまちがいないね。」
「オレはこうも考えてみた。『余命幾ばくもない』夫から告白の意思を聞いた妻は、逆に夫に人間的な誠実さや本当の夫を発見したかもしれない、ってね。『そういうお父さんが好きよ』と言って、背中くらいさすってやったかもしれないぞ。今まで数十年いっしょに暮らしてきた夫は偽りの夫で、告白するのが本当の夫であることを発見したかもしれないということさ。そして、そう告白する夫を許し支持するとはっきり伝えたかもしれない。もしかしたら、郵便局に投函しに行ったのは妻だったかもね。」
「その話、悪くないな。今のは仮想の話だと思うけど、オレが息子だったら、だからこそ一層親父を信頼するな。父親が心のしこりから開放されて安らかな生涯を送るということは、子供たちに安らかな人生を保障することと同じだからな。逆に言えば、『余生幾ばくもない』父親の告白をどう受け止めるかは、戦後に生まれたオレたちの責任ということになる。これも仮想だけど、困惑する場面がひとつ浮かんでくるよ。『そんな告白は聞きたくなかった。あんたってバカだね、ひとりで生きている気になって』と、奥さんや家族から責められる場合だよ。」
「仮想の話ではないさ。十分ありうる話だ。日本の世間というところは、本当の自分を出しては生きてはいけないからね。でも、桑島さんや中村さんはもはやそんな段階は越えたのだと思う。世間のしがらみの一切を越えて、本当の自分に向き合うことに成功した人たちだからね。」

「当事者ではないから、反省なんかしない」
「告白という言葉を聞くと『自虐史観』を思い浮かべるね。」
「オレは高市早苗衆議院議員のことを思い出すよ。あれは刺激的な発言だった。『少なくとも私自身は(戦争の)当事者とは言えない世代だから、反省なんかしていない。反省を求められるいわれもないと思う』って国会議員が言い切るんだから、彼女自体が研究対象になるね。ああいう人が国会議員になれる、ああいう人だからこそなれる、彼女のような人物を国会に送り出すたくさんの日本人がいるというところが研究対象なのさ。」
「なるほどね。」
「高市議員という人は、戦後生まれだよ。」
「ほらここに書いてある。1961年に生まれだって。こういう人は、元皇軍兵士の告白からは何の衝撃も受けないだろうな。」
「いや、わからないよ。風見鶏は空気を読むのに巧みだからな。どうにでも変身するさ。」
「多くの日本人は桑島さんや中村さんの告白を自虐と感じるかもしれないけど、そもそも告白や懺悔は自虐とはまったくちがうよね。自虐はどこまで行っても出口はなく闇の世界だが、告白や懺悔には行く先に光が見えている…。」
「うん。だから元皇軍兵士の告白を読んだとき、オレ、もしかしたらこの人たちはクリスチャンかもしれないと思ったよ。」
「クリスチャンではない日本人には告白や懺悔はないと言いたいのかい。」
「いや、あるはずだけど、報恩感情がそれを抑圧するのさ。ふだん自分の良心を信じていると思っている人たちも、報恩感情の中に置かれると、そんなことはほんの些細なことに思えてくるんだな。オレは良心こそ最後の砦と思っているけど、問題は親や恩師に逆らってまで自分の良心を貫けるかどうかだ。日本人にとって良心とは、清明心とか慈悲、あるいは誠や仁のことだろう。その意味では『良心とは神の声である』というクリスチャンたちの理解には説得力があるなあ。懺悔・謝罪などに目をそむけない宗教はいいね。『私心』を捨てて国家に尽くせというのが戦前・戦中の『天皇教』の教えだったけど、その国家もその国家に寄り添ってきた日本の宗教も、懺悔や謝罪をしたことがあるのかと聞きたいね。」
「余命幾ばくもなくなる頃、という元兵士の言葉が重く感じられるなあ。」
「考えたいのは、加害を告白する元皇軍兵士と報恩感情との関係だよ。世間のしがらみを越えて本当の自分に忠実であろうとするとき、いつも壁として立ちはだかるのが報恩感情だ。本当の自分を取りもどす機会を与えられないまま死んでいった若い皇軍兵士たちは、国家が操る報恩感情というマインドコントロールの犠牲者だと思う。いい例が靖国神社だな。国家は靖国神社と組んで皇軍兵士らを祭神に祀り上げ、戦争指導者を憎む臣民の思いを報恩という共同感情で抑え込んできた。『一億総懺悔』がいい例だよ。報恩感情にどっぷりつかっている臣民たちをだますのは簡単だ。日本の首相は『戦没者』のことを『国のために尊い命を投げ出された方々』なんて言い方をするよね。なぜ国民は疑問に思わないのかね、無謀な戦争に引きずり込んだのは誰なんだ、って。それを問えない日本人は西欧的な意味での『市民』ではなくて、相変わらず『臣民』だと言われても反論できないだろう。この国の指導者たちはその心理をお見通しなんだ。オレはその一連のやり方を『免罪のレトリック』と呼んでいるけど、死者と生者を同罪にし、同時に両者に免罪符を与えるという戦争指導者たちの狡猾さには舌を巻くしかないよ。親兄弟がいる墓地に眠ることを許されない戦死者たちにとって、死んでも本当の自分を取り戻すことができない仕組みなんだ。」
「本当の自分を取り戻すってむずかしいね。」
「彼らが苦しみだしたのは、帰還して半世紀が過ぎて、幸福な家庭を築いたあとのことさ。自分に娘ができ、嫁にやってね。自分の人生が幸せであればあるほど、彼らは自分の娘に対して、母に対して、また自分たちが欲望のままに利用した異国の若い娘たちに詫びたいとする気持ちに耐えられなくなったのだと思う。余命幾ばくもなくなるころになってね。」
「本当の自分を取り戻した中村さんは、死んだ母に詫びることによって、女性という存在全体に詫びたのだとも言えるね。」
「考えたいのはそこだよ。『詫びられた母』は母として、同時に女として、それにどう応えるか聞きたいね。母たちにも肉親や地域共同体や国家に対する強い報恩感情があるから、この問題について見て見ぬふりをしてきたのだと思う。日本の女性が慰安婦問題を他人事のように考える背後には、いまだに無意識の差別意識があるためではないか。戦前・戦中の日本人は『チャンコロ』と言って中国人をさげすんでいた。相手が報恩感情の外側にいる『まつろわぬ民』の若い女たちだったから、息子たちがやったあのような残酷な行為に無関係のような顔ができるのさ。日本の女性たちが男性優位の社会と自分たちとの関係を問えないうちは、従軍慰安婦問題は視野に入ってこないと思うよ。だから『2000年女性国際戦犯法廷』についても、朴永心さんの証言についても、他人事のような顔をしているわけだ。いつまで経っても思考停止、判断停止ということになる。『一家を支えるわが家の大黒柱』、『主人に食べさせてもらっている私』という報恩感情があるから、理屈ではわかっていても生理的に受け入れられないんだ。」
「それにしても、女性主導の『法廷』が『天皇有罪』を引き出したことの意味は大きいなあ。」
「日本の女性がつくった巨大な一里塚だよ。」

自虐史観の唱道者たち
「『自虐史観』ついてもう少し君の意見を聞きたいよ。日本人の中には『自虐史観』を支持する人たちが少なくないのが現状だと思うけど。」
「桑島さんや中村さんが書いた告白を、『これは自虐だ』と感じる人は多いと思うな。さっきの高市議員じゃあないけど、詫びることがあると思うヤツは黙って反省していろ、って言うだろうね。靖国の英霊の気持ちを逆立てるようなことはするなというわけだ。『自虐史観』といえば、君が送ってくれた産経新聞の記事は参考になるね。」

産経新聞(主張)慰安婦問題 偽史の放置は禍根を残す2007310
  慰安婦問題に関する過去の官房長官談話が日本の名誉を傷つけ、日米関係にまで影を落としていることは由々しき事態だ。歴史の事実に対しては断固不当な政治解釈を排し、外交的には無用な摩擦を避ける知恵を要する。つまり戦略的対応が求められる。
  その意味で、安倍晋三首相が国会で「官憲による強制連行があったと証明する証拠はない」と答弁したのは、事実に誠実に向き合った結果であろう。米下院公聴会で証言した韓国人女性は、国民服の日本人男性に売春を強要されたと証言したが、日本軍に強制的に連行されたとは述べていない。
  論点は慰安婦問題で国家の強制連行があったのか、あるいは身売りの娘に業者が介在したのかである。
  しかし、「河野談話」が明確な裏付けもなく慰安婦の設置に「旧日本軍の関与」があったと認めたために、彼女らが日本軍の「性の奴隷」であったとの誤った認識を広げてしまった。安倍首相が否定すると、米紙が真意をねじ曲げ、さらに誤解が拡散する。
  首相は自民党の調査、研究に委ねる姿勢を示すことで、これ以上の外交的なマイナスの回避を図った。中国寄りのニューヨーク・タイムズ紙などは、首相の言動を歪曲(わいきょく)すべく虎視眈々(たんたん)と狙っている。彼らに批判材料を提供してしまうと、一般の米国人に間違った認識を与えてしまう。喜ぶのは日米の離間を狙う中韓である。(略)
  米国下院の慰安婦非難決議案と米紙の誤りには、首相が出るまでもなく、その都度、日本政府として訂正を求めるべきだ。歴史事実の誤認や誇張をそのまま放置すると、偽史が独り歩きし後世に禍根を残す。

「この『主張』はじつに興味深いよ。『虎視眈々と狙っている』なんていう表現、これは傑作だ。それに、『偽史』という表現にはもっと慎重さが欲しいね。マスメディアらしからぬ表現だよ。テレビで写し出される北朝鮮テレビのアナウンサーとそっくりだ。だけどね、この間まで『鬼畜米英』を叫んでいた父や母をもつオレたちは、北朝鮮を笑えるかい。『将軍様!』って感極まって泣き出す北朝鮮の人々は、戦時中の日本人をそっくりではないか。大げさな言葉を並べる北朝鮮のアナウンサーたちを見て、『似ているなあ』って、オレ、思わず声を出しちゃったよ。情報を国民に知らせるとき、わかりやすく敵と味方に分ける手法、そして大げさのところはまるで大本営発表だ。」
「たしかに。」
「オレたちは戦後生まれだから、ある意味で戦前・戦後のちがいがはっきりわかるのさ。皇国史観一色の戦前・戦中派には、戦争の実相についてむしろわからないところがあるんじゃあないかな。とくに戦争を押し進めた『至誠一貫』の戦中派は、自分の戦争体験の何がよくて何が悪いかわからない、区別がつかないところがあると思う。脚をまっすぐ突き出して行進する北朝鮮兵士の歩き方やアナウンサーの口ぶりに、郷愁のようなものを感じる戦中派がきっといるはずだよ。『植民地時代に日本人はいいこともした』という問題発言をした政治家がいたけど、彼なんかにぜひとも北朝鮮のメディア戦略について解説してもらいたいところだね。」
「当時の日本人は、新聞やラジオはもちろん、大学教授も学校の先生も、本心はどうであれ『天皇教信者』が多かったからね。まじめな学生や生徒であればあるほど親や地域共同体、それに恩師たちの期待に応えようとした、そして志願し出征して行ったんだ。優秀でまじめであればあるほど、生徒たちは上からの命令に従順だった。『仰げば尊し わが師の恩』を歌って卒業して行った人たちだからな。」
「良識ある青年たちは、徴兵拒否をしたくても逆らえなかったんだ。非国民を出せば家族がやられるからね。それが国家が利用した報恩感情なのさ。今の北朝鮮だって同じではないかなあ。兵役を拒否したら家族がやられるだろうよ。」
「そう思うね。」
「オレが言いたいのは、今の日本には北朝鮮に対して特別なアプローチがあるはずだってことさ。」
「というと?」
「日本人て、今すべての人が民主主義国の国民のような顔をしているけど、きのうまで日本こそアジアの盟主だと言い続けていたこと忘れているんじゃあないか。アジアを解放するために『鬼畜米英』と叫んでいた日本人がだよ、戦争に負けると一夜にして『親米』や『民主主義国』に変化する。カメレオンもびっくりの早業だ。お上から『一億総懺悔』だと号令がかかると、『はい、仰せのままに…』となる。中には、マッカーサーが支配者としてやってくる頃『マッカーサー神社』を作ろうとした戦争指導者もいたというからね。きのうまで『鬼畜米英』を叫んでいた指導者やその末裔が『米帝』を非難する北朝鮮を嘲笑するんだから、これは笑えない話だよ。」
「ブッシュは『ならず者国家(ロ-グ・ネイション)』という言葉を使っていたようだけど、これも我々には耳が痛いね。原理原則のない我々に対する当てこすりのように聞こえるよ。きのうの同盟国がヒトラー、ムッソリーニで、一夜明けたらアメリカが同盟国。日本とはいったいどういう国だって思われているさ。ところで、産経の社説の冒頭に、『慰安婦問題に関する過去の官房長官談話が日本の名誉を傷つける』と書いてあるけど、君はどう思ったの?」
「君といっしょに読みたいと思ったのは、今でもこれが従軍慰安婦問題に対する政府見解だからさ。熟読する必要があるね。」

河野内閣官房長官談話1993年〔平成5年〕84日)
「いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することにした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安婦が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。(略)
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを繰り返さないという固い決意を改めて表明する。(後略)」

「それにしても、なぜ産経新聞は『官房長官談話が日本の名誉を傷つける』なんて言うのかなあ。」
「そこがポイントだ。産経は『名誉を傷つける』と主張しているけど、『日本の名誉を傷つける行為』とは何かについて説明していない。ここにヒントになる資料があるよ。ほら。」

『自由主義史観研究会』公式ホームページ
  自由主義史観研究会は、新しい歴史教育と歴史研究に取り組む団体です。同じ志しを持つ研究者・教師・一般会員が一丸となって、自国の歴史を貶める、いわゆる「自虐史観」から脱却し、健康なナショナリズムにもとづく歴史研究と歴史授業の創造を目指して、日々活動しています。(後略)

『自由主義史観研究会』理事のメッセージ 代表:藤岡信勝氏(拓殖大学教授)
  私たち自由主義史観研究会は、日本の学校で教えられてきた歴史に疑問や不満をもち、それを少しでもよくしていこうとしている者の集まりです。私たちは、日本の国を愛していますが、史実の検証にあたっては、公平なとらわれのない目で見ることにしています。(後略)

「『日本の国を愛しています』か。なるほどね。『自国の歴史を貶める自虐史観から脱却』とはっきり書いてある。このホームページの記述には違和感を持つなあ。『公平でとらわれのない目』で見ることにしている研究者たちが、なぜ一丸にならなければならないのかね。これまでの歴史教育に不満をもつのはかまわない。でも、不満だから『健康なナショナリズム』や『日本を愛する(愛国心)』が必要と訴えるのは恣意的で、ホンモノの研究者のとるべき態度だとは思えないよ。」
「オレが考えているのは、『健康なナショナリズム』と報恩感情との関係なんだ。『自虐史観』の人々は、日本人の泣きどころをしっかり押さえている。『おじいちゃんを守れ』だっけ? 『おじいちゃんを被告席に送るな』だったかな、小林何とかという人はそんなことを言っているよ。」
「そう聞けば、日本人にとたんに縛りがかかるということを知っているんだ。『健康なナショナリズム』って言われれば言われるほど、押し付けや怖さを感じるよ。愛情や恩を上から押し付けられたらたまらんなあ。まさに国民を縛りつける発想だ。」
「家族や地域を守ろうとする感情に操作を加えて、『至誠』につながる国民感情に変換するのさ。報恩感情こそ戦前・戦中に使われたマインドコントロールのための秘薬だと思うよ。『皇恩』を利用しようとする者たちが創り出した目くらましのやり方だ。」
「まるで薬物中毒じゃん。」
「そう、無色・無臭・透明だけど、幻覚作用と激しい高揚感を伴う薬だよ。国家が処方するこの報恩感情にはとくに注意が必要だ。天皇制国家は、いざというとき、必ずこの感情を都合よく利用するからね。」 (200937


9 同窓生討論:「歴史の偽造」とは何か

【論点】田辺国男第4代日川高校同窓会長(元山梨県知事・国会議員・勲一等)は、「天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今」と歌う山梨県立日川高校校歌等について、「アナクロニズムの権化のそしりをまぬがれない」としながらも、「良いものは良いのだ」とこれを擁護した。この後ろめたさや非論理性はどこからくるのか。また、歴代同窓会長や校長は、戦意高揚の校歌を残すことで何を護ろうとしたのか。歴史家たちが日本の戦後史は偽造であると指摘する一方で、郷土史家や地方ジャーナリズムは山梨出身の戦争指導者たちを肯定的に描く事例が多い。なぜなのか。今回は、戦争末期の大日本政治会を指導した田辺国男氏の父七六氏の戦後評価について討論する。

【田辺七六経歴】
〔戦前・戦中〕広田内閣農林政務次官 政友会中島派幹事長 大政翼賛会総務 翼賛政治 会総務 大日本政治会衆議院部長
〔戦後〕公職追放 追放解除 日本進歩党入党
【主な参考文献】
『郷土史にかがやく人々』(『青少年のための山梨県民会議』1974年)
『甲州人物風土記』(著者雨宮要要七〔元山梨時事新聞社編集局長〕1973年)
『田辺七六』(発行「田辺七六翁頌徳碑建設委員会」委員長 河西豊太郎1954年
『緑陰閑話』(田辺国男著 2001年)

「天皇免責は明白な歴史の偽造である」(藤原彰)
 「木戸幸一をはじめとする宮中グループは、開戦責任をもっぱら陸軍統帥派に押しつけることに口裏をあわせたと思われる。そして天皇はつねに平和を希求し、陸軍の横暴に悩みつづけたが、憲法の制約があってその意志を通すことができなかったという、事実に反するフィクションをつくりあげたのである。天皇は立憲君主であり、責任機関である内閣の決定を却下したことはない。天皇自身は平和を望んでいたが、立憲君主の立場を守り、心ならずも開戦の詔書に署名したのである。という論理が、天皇免責論の根拠としてつくりだされたのである。いうまでもなくこのことは、戦前戦中の事実に反するものであり、明白な歴史の偽造である。しかし天皇免責のために、この論理が強弁され、東京裁判でも、天皇を擁護する論理としてこのことが主張された。」(『現代史における戦争責任』125青木書店)

「天皇の免責が意図的に行われた」(吉田裕)
 「東京裁判はアメリカの優位性が制度的に保障された裁判だった。(粟屋憲太郎『東京裁判への道』)。この結果、裁判自体がアメリカの国益によって大きく方向づけられることになったのである。このことをよく示しているのは、アメリカの対日占領政策を直接反映する形で、裁判のなかで天皇の免責が意図的に行なわれた事実である。いうまでもなく、GHQとしては、対日占領政策を円滑に実行するためには天皇の権威を利用するのが現実的な選択だと判断していたからである。」(『現代歴史学と戦争責任』148頁~149 青木書店)

「無責任の体系は戦後にはじまり、現在まで続いている」(柄谷行人)
 「政治学者の丸山真男は、それを『無責任の体系』と呼び、その原因を解明しようとしました。しかし、『無責任の体系』は、日本人の伝統的なメンタリティによるのではなく、また、社会的政治的構造によるのではなく、この時期、天皇が責任を免れたことにこそあるのです。それはむしろ戦後にはじまり、現在に至るまで続いています。それは戦争末期以来顕著になった、米ソ対立の構造に根ざしていたわけです。たとえば、イタリアでは最高権力者ムッソリーニは民衆によって殺され、ドイツでは最高権力者ヒットラーは自殺し、ナチ幹部は糾弾されました。(略)しかし、日本では、最高責任者が免責されており、その上で『一億総懺悔』が進められたのです。」(『倫理21149頁~151 平凡社)

「それも日本民衆のためにではなく、みずからの皇室と皇位のためだった」(ハーバート・ビックス)
 「もちろん、原爆は一発だけという可能性もあった。しかし、すぐにふたつ目のきのこ雲が立ち昇り、別の都市がほとんど壊滅した。ところが、この危機は好機でもあった。いまや昭和天皇は降伏によってさらなる苦難にさらされることから民衆を救い、同時にそのような災禍に民衆を陥れた責任を棚上げにして、大御心を装い、民衆の救済でごまかすことができたのであった。昭和天皇は実に用心深くこれを行った。しかし、それも日本の民衆のためにではなく、みずからの皇室と皇位のためだった。」(『昭和天皇・下』206 講談社学術文庫)

歴史の偽造を告発する研究者たち

「元気そうだね。」
「おかげさまで。還暦を越えると1年があっという間だ。サミエル・ウルマンの言葉が重く響くね。」
「まったくだ。『人は歳月を重ねたから老いるのではなく、理想を失うときに老いる』って言うんだからな。凡人はなかなかそうはいかん。日々生きることで精一杯だ。資料を読ませてもらったよ。ありがとう。」
「さあ、きょうはどんな感想が聞けるかな、この日を楽しみにしていたよ。」
「今回もいろいろ考えさせられたね。中でも田辺会長自らが『かたくなに古い伝統を守り続けている日川高校』について、『アナクロニズムの権化のそしりをまぬがれない』と書き残したことの意味は大きいな。田辺氏が何かを必死で護ろうとしていたことははっきりしている。学校や同窓会は今も同じ路線を歩んでいるけど、問題は彼らが擁護しているのは何かということだ。校歌を中心とする純粋な帰属意識なのか、それとも田辺氏を中心とする政治力結集のシンボルなのか、あるいはその奥に、七六氏を筆頭とする戦争指導者たちの免罪が意図されているのかということだ。まあ、これらが絡み合っていると思うけど、これは君がいつも言っている報恩感情と無関係ではないな。」
「いきなり結論的な話になったね。まあいいか。そう、『天皇の勅』を称える日川の校歌は、戦争指導者たちの免罪に利用されていると言ったらどうだろう。さらに言えば、戦争指導者と同時に、戦争に全面協力し『一億総懺悔』をした一般国民の免罪のシンボルでもあると思うんだ。他の学校の多くは戦後すぐに皇国史観の校歌を変えたけど、日川は事情があって変えることができなかった。その後ろめたさが田辺会長発言の背後にあると思うよ。戦時中に中央ばかりでなく山梨県の政界を指導したのは、旧制日川中学の出身者たちだったと言って過言ではないからね。オレは田辺会長がやってきたことは、父親の戦争責任の隠蔽工作ではないかと思っているんだ。」
「隠蔽工作か。なるほど。田辺氏は世襲政治家だからな。その意味では、『歴史の偽造とは何か』というきょうのテーマはぴったりだ。」
「一事が万事さ。隠蔽工作をやってもいつかは必ずバレるんだ。戦後64年がたち、日本人がさらなる民主化への道を辿ろうとするならば、さまざまなかたちの過去の矛盾点が浮き彫りにされると思うよ。とくに国際的にね。『アナクロニズムの権化発言』は同窓会誌18号(1980年)に出てくる文章で、もう29年前の話だ。田辺氏は、校章・校歌・校風をまったく変えないのが日川の伝統のようなことを言っているけど、1990年代になって男子は伝統のイガグリ頭が長髪になり、徽章をはめ込んだ学帽を被らなくなった。金ボタンの学生服はネクタイ姿に変わったし、女子も制服を変えているからな。残っているのは校訓や校歌だけということになる。」
「日川の関係者は決して口には出さないけど、校歌3番に歌われる『天皇の勅もち…』の一節こそがアナクロニズムの核心だろう。でも、公然の秘密にしてはあまりに公然すぎるよ。『天皇の勅』は日本国憲法で『効力を有しない』とされているが、残念ながら罰則規定がない。でも、だれが見ても『アナクロニズムの校歌』だよ。そこをうまく説明できないもんだから、田辺会長は『良いものは良いのだ』などという迷文句を後世に残してしまったんだ。29年前はうっかりだったかも知れんが、いつからか、意識的にやっているね。今では完全に開き直って、『アナクロニズムの校歌で何が悪い、内政干渉するな』というわけだ。いい例が『百年誌』に掲載された『神州第一の高校』の詩だよ。」
「君が今言った罰則規定だけど、これは今後に残された問題だよ。時代が変わり、政治家の質が変われば、『天皇の勅もち勲立てむ時ぞ今』などと歌わせるアナクロニズムの公立高校に対しては、もっとも重い処分として学校閉鎖もありうるということさ。」
「同窓生として母校の校歌の文言が強制的に排除されるというのは悲しいけど、その際は同窓生全体が総懺悔をしなければならないだろうね。」
「母校を愛する者として、そういう時代がくる前に議論をしなければならないということだよ。ところで、『アナクロニズム』云々の文章は、山本校長をはじめ、校歌に異論をもつ人たちが田辺同窓会長に聞きたかった最大の疑問のひとつだった。まともに答えてくれるとは期待していなかったが、やっぱりだめだったね。『君たちとは考えが根本的にちがう』とだけ言って、後はだんまりさ。都合の悪いことには口をつむぐ。日川人、いや日本人の悪い癖だね。」
「ところで、資料の中に日本の戦後史は『歴史の偽造』だとの藤原彰氏の文章があるけど、あれは迫力があるなあ。」
「発言に迷いがないね。歴史の偽造って言い切っている。さすがホンモノの学者だ。オレたちに求められているのは、ホンモノの学者の指摘をどこまで自分のものにできるかということだ。日本人は学者分析を正論と感じる一方で、報恩感情との間でバランスをとろうとするからどうしても腰が引けてしまう。権力に迎合する著名人が多い中で、自立している学者というのは品格にあふれているよ。」
幸か不幸か、自分も含めて一般人には学者のような信念も度胸もない。自分の書斎に閉じこもり、口裏をあわせる』、『フィクションをつくりあげた』、『明白な歴史の偽造である』などの告発は日本人の感覚にはなじまない、なんてつぶやくだけよ。残念ながら、自分を持たない、持てない一般人は、校やメディアで教えられる戦後史をそのまま受け入れるだけだ。政治家、官僚、学者、そして国民が歴史家たちの指摘に耳を傾ける謙虚さがあったなら、日本人の無責任や批判精神の欠如についてこれほどまで国際的に批判はされることはないと思うな。吉田裕氏や柄谷行人氏の言説にもまったくよどみがないね。」
「戦犯処理についてだが、指導者を使い分けるアメリカ政府の手口は興味深いね。そう、昭和天皇とサダム・フセインのことさ。日本もイラクもアメリカから悪の枢軸国とみなされていたけど、利用価値のないフセインはさっさと見捨てられた。国際情勢如何では、アメリカによるフセインの免責という事態も十分に考えられたと思うよ。フセインは裁判という“公正な手続き”によって抹殺されたけど、日本の天皇は最初から被告リストから外されていたからね。アメリカは昭和天皇に利用価値を見出していたというわけだ。そして、『口裏をあわせて』東条を中心とする一部の人間だけを戦犯とする。これが公正な裁判と言えるかね。柄谷氏は無責任の体系について、天皇が戦争責任を免れたことにあると書いているけど、天皇を免責した日米支配層の責任という視点はどうなっているのかと聞きたいよ。オレはキューバ危機のときの国際的な緊張感や核の恐怖を覚えているから、終戦当時の米ソの対立も理解はしているつもりだよ。でも、今は冷戦の時代ではない。戦後の日米の民主主義がホンモノだと主張するためには、この過去の巨大な歴史の偽造に光を当てようという声がいずれ両国民から上がってこなければならないとオレは思うな。」
「悪の枢軸国を味方に取り込む手っ取り早い方法は、アメリカという“正義の国”の支配下に閉じ込めることだろう。天皇を免責してその忠臣たちを手先として使い、軍備は全廃して日本全土に米軍基地を置くんだ。日本の軍国主義者たちは敗戦後しばらくして放免されたから、アメリカには頭が上がらないのさ。昭和天皇をふくめ、アメリカの正義に守られた日本の戦争指導者という構図から見れば、戦後の保守政治家たちがアメリカにへつらうのは当たり前だよ。」
「日本人がおとなしくアメリカの言うなりになっているかぎり、また、従軍慰安婦問題のように被害者が直接アメリカ議会に乗り込んで訴えないかぎり、アメリカ人たちは自発的に過去に触れることはしないだろう。また、アメリカ人が原爆被害者に詫びることもないだろう。日本の指導層が天皇を免責してくれたアメリカの鼻息をうかがっているかぎり、また日本人がそのような指導層を支持するかぎり、歴史の偽造の戦後体制はこれからも続くということだな。」

それでは、郷土史に偽造はないのか

「歴史の偽造という言葉だが、歴史家たちが日本の戦後史についてそう分析するならば、地方史にも歴史の偽造があると考えても不思議はないよね。日本史と地方史の解釈がまったくちがうということは考えにくい。オレが調べたのは、山梨県内の郷土史家たちが田辺七六氏をどう評価しているかということだ。資料の感想は?」
「歴史家と郷土史家のちがいがよくわかったよ。」

「戦時中東条内閣打倒を提言した」
(田辺七六経歴) 明治12年(1879)31日、東山梨郡七里村(現塩山市)下於曽の酒造業田辺七兵衛の長男として生まれる。()本格的に政治運動に手を染めたのは明治4311月、下於曽青年同志会の結成に始まる。大正410(37)、県議選に出馬して最高点で当選。2年後、政友会県支部の幹事長に就任、同64月の総選挙では、劣勢だった政友会を挽回して多数の議席を獲得、その政治手腕を高く評価されて『カミソリ将軍』と呼ばれる。七里村長のほか、事業面にも手を広げて富士水電、豆相電気、東北電力、東洋モスリン、関東ガス、日軽金などの重役を兼務する。太平洋戦争が終わるまで代議7回当選、中央の政友会幹事長としてめざましい活躍ぶりを示す。戦時中、東条内閣打倒を提言した。戦後は国政と県政をつなぐ重要な役割を果たし、自由党結成に奔走。昭和2781日、東京・上目黒の私邸で74歳の生涯を閉じた。田辺国男県知事のご尊父にあたる。」(『郷土史にかがやく人々』389頁)

「“主権在民”を貫いた稀有の人」
「(田辺七六は)明治・大正・昭和前期の封建社会の中で、政治家として最も重要な“主権在民”の志を貫いた稀有(けう)の人ではなかったろうか。またこれほど県民に慕われた政治家はいない。」(『郷土史にかがやく人々』391頁)

「七六もまた戦争の犠牲者だった」
「昭和16128日、太平洋戦争が始まった。そのころ、七六は、全国で唯一の政治結社である翼賛政治会の幹事をしていた。(略)昭和196月、サイパン島が玉砕、翌720日、東京・永田町の翼賛会本部で時局収拾の協議会が開かれた。ここで七六は『戦争は早急に収拾すべきである。それには戦争責任の東条内閣の退陣要求が先決である』と理路整然と至誠を尽して戦争批判の大演説を打った。ただちに動議として取り上げられ満場一致で東条内閣退陣要求の決議が成立した。かくて翼賛会の強硬な退陣要求の前で武力弾圧で戦争を進めてきた東条内閣は終日後に崩壊した。やがて小磯国昭陸軍大将を首相とする内閣が誕生したが、戦局はますます悪化して泥沼の中にのめり込んでいった。迫害を覚悟で戦争終結を叫んだ七六の至誠も、敗戦に向かって転げ落ちる火だるまを止めようがなかった。『われわれ政治家の責任だ。老骨を捧げるときが来た』
 空襲下の東京に踏みとどまり、昭和
20815日の終戦以後も翼賛会のあと片付けを立派に果たし、後継者たちで結成した戦後初の日本進歩党の結成式を終えたのちに、郷里の塩山へ帰ってきた。七六もまた戦争の犠牲者だった。数少ない子息のうち三男の敬三(陸軍少尉)が満州の安東で戦死した。わが子を失った悲痛な思いを乗り越えて、「よしやるぞ。国が敗れたが気を折っていてはいられない。社会党は伸びた。共産党も初めて世に出てきた。日本の保守戦線を守るためにもう一度がんばらなくちあ…』古希(き)が近づいていたとはいえ、七六の気概は少しも衰えなかった。」(『郷土史にかがやく人々』402~403)

「軍部の横暴化に常に心を痛めていた父」
「父はずっと政党政治家の道を貫いた。昭和初期から敗戦までの日本の官僚主導化、軍部の横暴化には常に心を痛めていたのではなかろうか。小林の伯父(小林一三商工大臣・筆者注)は、開戦直前の内閣で大臣となったが、官僚統制に抗して就任数か月で下野した。父の場合は、同じころ半生を注ぎ込んできた政党が解体されることになった。残念に思ったことだろう。第二次大戦前夜、『この戦争に勝ち目はない』と憮然として語った父の姿が目に浮かぶ。」(『緑陰閑話』6667頁)

「(七六は)政治活動をしていたら、当然大臣になる器だった」
「田辺の異母兄小林一三は戦時中国務大臣や商工大臣になったが、田辺(七六)は農林政務次官をしただけで、ついに大臣にはならなかった。その手腕力量からして、戦後つづけて政治活動をしていたら当然大臣になる器だった。戦後、追放と同時に故天野久に地盤をゆずったが、天野はよく田辺の遺志を体し、県知事として十六年、県政界に偉大な足跡を残した。」(『甲州人物風土記』55頁)

「声望高きわが国政界の長老」(天野久元山梨県知事)
「田辺七六先生は、山梨県が生んだ偉大なる政治家であった。先生は村会議員、県会議員を経て、中央政界に進出し、衆議院議員として当選すること七回、この間、立憲政友会総務、同幹事長、大政翼賛会総務、翼賛政治会常任総務、大日本政治会常任総務等を歴任し、戦後は日本進歩党を創立して常任総務の椅子に就く等、声望たかきわが国政界の長老であった。」(『田辺七六』序文 1954年)

「最後の文章は、『田辺七六』に書かれた天野久山梨県知事の序文だね。七六氏について、『声望たかきわが国政界の長老』などと持ち上げている。これを見てもわかるように、郷土史に共通するのは戦前・戦中・戦後が矛盾なく連続していることだ。天野知事は、そもそもの出発点が追放中の田辺七六氏の『身代わり候補』として政界に登場した人物だ。だから天野知事と、七六氏の息子であり世襲議員でもある田辺国男氏との記述や認識が一致しても何の不思議もない。七六氏は政友会の指導者だったけど、山梨県の戦後の郷土史家で、政友会や大政翼賛会、あるいは戦後の日本進歩党へと続く政治的経緯を批判的に論述した郷土史家はいるのかね。」
「『ファシズムと見まがう政友会内閣』と書く丸山真男のような人物が郷土史家の中にいたら、山梨県人の戦後観はちがったものになっていただろうな。丸山は政友会をファシズム政権になぞらえているんだ。」

「ファシズムと見まがう政友会内閣」(丸山真男)
「日本の既成政党はファッショ化の動向と徹底的に戦う気力も意思もなく、むしろある場合には有力に、ファシズムを推進する役割を果していたのであります。(略)田中義一大将に率いられた政友会内閣は、建て前は純然たる政党内閣であったにも拘らず、(略)その足跡のほとんどはファシズム政権とまがうばかりです。」(『現代政治の思想と行動』85 未来社)

「郷土史研究家も地方の名士だからね。本質的には『美しき日本』の批判なき擁護者だよ。少なくとも、歴史家から日本の戦後史について歴史の偽造との指摘が出た段階で、郷土史家や学校の教師たちはその主張の正当性に関するシンポを開いてもよかったね。そんな広範な動きはあっただろうか。史実に忠実でなければならない人々が、逆に史実に反する地方史や人物誌を書いてきたのではないか。その結果、戦前・戦中・戦後の連続性を問う動きがまったく封印されてしまったのではないかということだな。」
「なるほど。」
「そこで必然的に改ざんや隠ぺいという操作が行われるわけだ。地方には地方の論理があるといういつもの手だよ。『ガクシャさんのおっしゃることは拝聴しました。しかし、地方には地方の微妙な問題でありまして…』ということになる。すべての価値を相対化する報恩感情の登場だよ。この奥の手に郷土史家さえもやられてしまうんだ。専門家が示した歴史の偽造という主張を正論だと認める一方で、これを自論として公表することは報恩感情に反するというわけ。偽造の歴史の闇に葬られた真実を掘り起こす作業は、身辺のタブーを掘り起こす作業なんだよ。それは自立している歴史家でなければできない作業だと思うね。」
「歴史の専門家から歴史の偽造という指摘を受けても、首まで報恩感情につかっている一般人にはわからないことが多いというのが現実だろう。そんなことは考えたこともないと言うかもね。『一億総懺悔』というまやかしと闘わなかった過去をもつ大和民族だよ。だから、資料にあるような歴史の偽造を歴史家から指摘されると、首をすくめてしまうんだな。敗戦直前に内務省情報局からマスコミに対して、『終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない』と述べた事実があるというけど、『許さない』というのは報道規制というより、国家のマスコミや国民に対する脅迫だ。また、敗戦直前の1945812日、内務省が『臣民の努力が足りず敗戦になったことを天皇に対してわびるよう指導すべし、という秘密指令を各都道府県知事に出していた』という記述(『天皇制を問う』140 新日本出版社)も驚きだな。」
「都道府県知事に出された『秘密指令』は、もちろん校長を通して教育の場にも伝えられただろう。つまり、戦争の敗因について国民的な議論が行われないよう、都道府県知事あての指令が秘密裏に出されたというわけだ。戦後になっても発想は戦中と同じだね。」

「いや、すごい話だ。それを聞いただけで、『秘密指令』を通して歴史の偽造や隠ぺいが国家レベルで行われたという疑惑は免れがたいな。」
「いつだったか君に言ったけど、敗戦後間もない時期、読売新聞(1946年6月5日)が『天皇は犠牲者なり、被告ら(東条ら)こそ真の支配者』という記事を配信したのも、この『秘密指令』と無縁ではないだろう。戦時中に大本営発表を垂れ流したメディアは、戦後になっても内務省の上意をそのまま国民に下達したことになる。戦時中に戦争の実相を知りえなかった民衆は、戦後になっても情報を管理する政府のメディア戦略を見抜けなかった姿が浮かび上がってくるね。」

報恩感情が支える歴史の偽造

「資料にある『郷土史にかがやく人々』について、もう少し詳しく教えてくれよ。」
「君はこの本を子ども頃読んだ記憶はないかね。オレは中学の頃読んだのをはっきり覚えている。感銘を受けたというほどではなかったけど、いろいろなえらい人がいるんだなという印象をもったことは覚えているよ。『郷土史にかがやく人々』は『青少年のための山梨県民会議』によって発行された公的刊行物なんだ。そもそもの原点は『明治百年』だ。編集人の斉藤俊章元山梨県教育長を筆頭に、官が総力を結集して展開した事業だったんだな。同書の発行は、新任知事として田辺氏が最初に手がけた事業の一つで、編集責任者の斉藤氏は『はじめに』に、『ときあたかも「明治百年」の記念すべき年にあたり、郷土の建設に偉大な足跡を残した先人を偲び、時代をになう青少年に、より良き郷土建設への奮起を促すには最良の年であったといえましょう』と書いている。田辺知事の積極的な支援に対する感謝の辞も忘れていない。」
「なるほど、『明治百年』の記念事業というわけか。」
「そう、『青少年のための山梨県民会議』が発足したのは1967年。田辺国男氏が山梨県知事に当選した年さ。田辺国男氏は知事選で敗北し国会議員に転進するまでの12年間(1967年~1979年)、3期山梨県知事を務めた人だ。『郷土史にかがやく…』は“郷土の偉人”たちを顕彰する企画だったんだよ。」
1967年といえば、戦後20年近く経って戦争の記憶も薄れ始める頃だね。」
「オレは、『郷土史にかがやく…』の企画を『明治百年』に連動させることで、戦争指導者の責任をチャラにする思惑があったと思うんだ。報恩感情で覆われた善意の歴史の偽造が全県的、全国的に行なわれたというわけさ。もちろんリストに上がった人の中には、顕彰に値する人々が含まれていることは確かだと思うけど、田辺七六氏のような戦時中の指導者を『郷土史にかがやく人々』の中にもぐりこませることができれば思い通りじゃあないか。やはり世襲政治家の政治的意図を感じてならないね。戦争を知らない子どもたちは、登場人物はすべて故郷の偉人だと見なしてしまうよ。」
「それにしても、いろいろな人が収録されているなあ。雨宮敬次郎は塩山の人だ。起業家って書いてある。若尾逸平は事業家で初代甲府市長。山梨日日新聞社社長野口英夫の名もある。山梨県の著名人が集められたという感じだな。」
「今改めてこの本を見て、やはり『正史』という言葉を思い出さないわけにはいかないよ。注目したいことは、郷土史家や県内のジャーナリストたちが戦争指導者を『偉大な指導者』として賞賛することの影響だよ。歴史家たちから歴史の偽造という告発がある以上、これに無関心のままでは日本人の資質がこれからも問われ続けることになるね。それはそのまま日本人の『民度』にもつながっていると思うよ。」
「ほらほら、気をつけたほうがいいぞ。そもそも『民度』なんて言葉は日本人のヴォキャブラリーにはないんだよ。『へ理屈言うな』って非難されるに決まっている。風の動き次第でどうにでも動く日本人は言葉なんか信じてはいないんだ。感性で動いている民族なんだよ。手を上げて異論を発するヤツに対しては、それが学者であろうが誰であろうが本能的に反発するんだ。命令されたわけでもないのに、みんなで徹底的に無視してしまうのさ。」
「思い出すのは、『天皇あやふし』と言って立ち上がった高村光太郎の叫びだな。歴史の専門家たちの忠告は無視しても心は痛まないが、高村光太郎の感性を無視できる日本人は少ないと思うね。だから心優しい穏やかな紳士が、ある日突然こう言うんだ。『日本人なら日本を愛するのが当たり前だ。いやなら出て行け』、とね。恩のシステムの上に成り立つ日本人の『城内平和』は、内部の人間には理想郷なんだよ。外部の人にまったくちがって見えるがね。」(2009512


10 同窓生討論:
   「東条内閣支持が国家の幸福」
(田辺七六

【論点】田辺七六氏は第4代日川高校同窓会長田辺国男氏(元山梨県知事・国会議員・勲一等)の父親である。七六氏は、戦前・戦中は広田内閣政務次官・政友会中島派幹事長・大政翼賛会総務・翼賛政治会総務・大日本政治会衆議院部長を務め、事業面では富士水電・豆相電気・東洋モスリン・東京ガス・日軽金の重役を兼務した政・財界の中心的な指導者であった。前回に引き続き今回も、山梨県内のジャーナリズムや郷土史家によって「戦争の犠牲者」との評価を受ける七六氏の戦時中の発言と動きについて討論する。

タブーへの挑戦

「きょうの話は田辺七六氏と東条首相の関係が中心だな。」
「焦点の置き方はどうだろう。」
「いいと思うね。戦後そんなテーマが山梨県内のメディアで話題になったことは一度もないからね。」
「そんなことができるはずがない。戦時中の指導者たちが誰だったかなんてことは決して取り上げないさ。新聞社や放送局の経営者の父や祖父が戦争指導者であった場合、一体どうするんだね。そんな特集番組を作れるはずがないじゃあないか。今ではインターネットという媒体があるから救われるけど、一昔前まではこうはいかなかった。」
「戦争責任についてメディアはおっかなびっくりだね。NHKの体質は相変わらず国営放送だし、民間放送にそんな企画を求めるほうがそもそも無理だな。メディアは815日の自国の『全国戦没者追悼式』について大々的に報道するけど、同じその815日がお隣の韓国ではどう受け止められているかなぜしっかり伝えないのかね。」
「そう、『終戦記念日』が『敗戦記念日』であることを明らかにし、日本に踏みつけられた人々の心情を同時に紙面に載せてはじめてあの戦争の意味が次世代に伝わるのさ。それは両国ばかりでなく、アジアや世界に向けての平和のヘメッセージとなるはずだよ。国民統合の象徴とされている天皇が韓国の主権回復についてふれ、心からの謝罪を表明したら日韓のムードは一変するだろうね。ドイツがやったように。これは決して政治的な話なんかじゃあない。アジアにおける天皇制の見方が変わる最後の切り札だ。」
「たしかにドイツによる過去の清算がなければ、ヨーロッパ統合は夢物語だったね。」
「侵略者の過去の清算がヨーロッパの共生思想の原点なのさ。」
「そう、今の天皇が正面から戦争責任に言及したら、諸外国の天皇観にも変化が出てくるのは確実だな。天皇はフィギュアヘッド(figurehead)だから政治的な発言はすべきではないという見方があるけど、これは政治の話なんかじゃあない。昭和天皇にはできなかったが、あの狂気の戦争にどう結末をつけるかは天皇家の名誉の問題だよ。民主主義国家統合の象徴であるというならば、天皇は今こそ率先して戦争責任の問題に言及すべきだな。国民は支持すると思うね。」
「いい話だ。それは次世代を生きる天皇の『人間宣言・パート2』になるな。まさにアジア統合への最強の切り札だ。」

軍部と連携する政友会(中島派)と七六氏

「さて、きょうは前回『歴史の偽造』のテーマの続きだけど、資料に目を通してくれたかい。戦時中の『政・官・財・軍の癒着の構造』について考えてみたいね。」
「田辺七六氏の登場だな。」
「そう、七六氏が戦時中にいかなる発言をし、どう動いたかだ。」
「七六氏は政界の人であり、財界人だよね。官界はどうなるの?」
「官界には広瀬久忠氏がいるよ。」
「彼らは親戚関係にある人たちだね。」
「同じ自民党の政治家さ。」
「勲一等の広瀬久忠氏についてはいずれ討論することになると思うけど、今回は七六氏に集中というところだな。」
「まず前回の感想から聞かせてくれよ。」
「前回の討論でもっとも印象深いのは、郷土史に書かれた記述だよ。『迫害を覚悟で戦争終結を叫んだ七六』にはびっくりしたよ。いつ七六氏が『戦争終結』を叫んだのかね。『七六の至誠も、敗戦に向かって転げ落ちる火だるまを止めようがなかった』、これじゃあ戦争はまるで自然災害だ。七六氏は戦争末期の大日本政治会の指導的立場にいた人だよね。その人物を『戦争の犠牲者』とか『戦争終結を叫んだ人』と書くなんて、まさに歴史の偽造じゃあないか。戦時中に議会から除名された政治家として有名なのは『反軍演説』をした立憲民政党の斉藤隆夫議員だけど、君がくれた資料には、その斉藤議員を議会から除名させた旗頭が七六氏の属する『政友会中島派』だったと書かれている。斉藤議員追放の経緯を見れば、七六氏が『軍部の横暴化に常に頭を痛めていた』政治家かどうかはっきりするね。そのまえに君に聞きたいことがある。斉藤議員の『反軍演説』には何度か目を通したけど、君はこれを『反軍演説』だと思ったかね。彼が議会を追われたのは『反軍』というより、むしろ『異論』を吐いたからじゃあないかな。」
「同感だ。オレも斉藤議員が追放に値する演説をしたとは思っていないよ。彼は『優勝劣敗』・『適者生存』を信じる社会進化論者だったからね。でも、流れに迎合せずにしっかり『異論』を述べているところがすごい。ちょっと長めだけど、議事録から削除された一部を読んでみよう。」

斉藤隆夫衆議院議員の「反軍演説」
「国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(拍手)世にそうでないと言うものがあるならばそれは偽りであります。偽善であります。我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何であるか。曰く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。(拍手)
 この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自己本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。(略)この現実を無視して、唯徒(ただいたずら)に聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際主義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯(かく)の如き雲をつかむような文字を列びたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、(野次)国家百年の大計(野次)を誤るようなことがありますならば、(野次、怒号)現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことはできない。」(「反軍演説」で検索)

「たしかに斉藤議員は、国家間の競争は優勝劣敗であるから、『国際主義』・『道義外交』・『共存共栄』・『世界平和』などを『雲をつかむような文字を並べ立て』と軽蔑しているね。そんなことを言っていたら、『国家百年の大計を誤るぞ』って、国家を叱咤激励している。でも、19442月に斉藤隆夫がやった『盧溝橋事件に関する発言』は容赦がない。徹底して軍を叩いているな。」
「その斉藤衆議院議員を除名したのが七六氏が所属する政友会中島派だった。ネット情報にはこうも書いてある。」

斉藤議員除名と政友会(中島派)幹事長
「(斉藤の)反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会『革新派』(中島派)の反発を招き、37日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまった。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲く。」(「斉藤隆夫」で検索・ウィキペディア)

「議員を除名になりながら、再当選を果たしたというから驚くね。なぜ戦時中の日本人が斉藤議員を再度議会に送り出したのか、これは当時の日本人を知るうえで興味深い出来事だよ。それにしても、議会の圧倒的多数により除名されたとあるけど、民政党の同僚議員は彼を助けなかったのかなあ。」
「圧倒的というのは、賛成296、反対、空票144。『反軍演説』が行われたのは、194022日の帝国議会だって書いてあるよ。斉藤議員の除名について七六氏がどう動いたかは重要だと思うな。つまり彼がどのような発言をしていたのかいうことだ。『政友会中島派』は斉藤議員に対する7か条の懲罰理由を提出し、その結果議員の圧倒的多数の投票により斉藤議員が衆議院を除名されたとある。これが37日。七六氏が幹事長に就任したのは前年の1939年に政友会が分裂したときだ。また、幹事長の席を東郷実に譲り政友会本部の総務担当となったのは19403月と資料にはある(『郷土史にかがやく人々』401頁)。だから、「政友会(中島派)」の七六氏が幹事長として、あるいは総務として、37日の斉藤隆夫議員除名に何らかの関与をしたことはまちがいはないだろう。」
「つまり、七六氏は『軍部の横暴化』に悩んだ政治家ではなく、逆に軍部と連携し『反軍演説』を行った斉藤隆夫議員を除名した側にいた政治家だったということになるな。『軍部の横暴化に常に心を痛めていた父』という田辺国男氏の評価も逆じゃあないか。そもそも、七六氏が属していた『政友会(中島派)』と軍部が無関係だとは、戦争の経過をみてもありえない話だね。」
「次の資料を見ればわかると思うよ。」

政友会(中島派)
「【中島知久平】1884.1.11949.10.29 大正・昭和期の実業家・政治家。(略)群馬県太田に日本最初の民間飛行機製作所、中島飛行機研究所を設立。太平洋戦争とともに発展し、軍用機の約3割を生産する大軍需会社となった。この間政界にも進出、30年(昭和5年)衆議院議員に当選。政友会に属し、犬養内閣で商工政務次官。37年総裁を争い、39年の分裂大会で政友会革新派の総裁に就任。近衛新党運動や新体制運動にも積極的に加担し、第一次近衛内閣の鉄道省、東久邇内閣の軍需相・商工相。第二次大戦後はA級戦犯容疑に指定されるが、47年釈放。」(『日本史広辞典』中島知久平の項)

「なるほど、航空機用のアルミニュームやその生産に必要な電力事業にかかわっていた七六氏が、政治家として『中島飛行機』社長の率いる政友会中島派に接近し、行動を共にしたという構図が見えてくるね。中島飛行機というのは、1945年の段階で事実上国営化されていると書いてあるな。」
「当時の田辺七六氏は日本軽金属副社長であると同時に政府の軽金属製造事業委員会委員(『田辺七六』406頁)だったから、ふたりの関係が密であることはたしかだろう。」 

政・財・軍部の癒着


「そこで浮かび上がってくるのが癒着の構造だよ。政界と財界、そして軍の癒着という意味では、つぎの証言は大事だと思うよ。当時たいした事業がなかった七六氏が、いかにして電力事業にかかわるようになったかがわかる資料だ。」
小林一三商工大臣と七六氏は異母兄弟というのがポイントだな。」

「昭和109月、先生(田辺七六)の異母兄小林一三は、故国を後に欧米視察の途に上ったのであるが、同年12月、ソ連領ウクライナに遊び、有名なドニエプル河畔の工業地帯をつぶさに視察し、その着想と行き方に深い関心をよせ、これをわが国に於ても是非とも試みたいと念願したのであった。(略)そこで東電が主体となってアルミニューム工業を起すことに思いついたのである。(略)東電社長の現職にあった小林(一三)は、東電系統に於ける未開発電力を開発しこれに当てることに着想したのである。」(『田辺七六』333~334頁)

「小林(一三)が比較的に採算のとれない富士川水系の本格的開発を決意した動機は、もとより事業上の原則を無視することがあり得ようはずもないが、異母弟たる先生が、多年にわたって富士川電力に関係ふかかったことに思いを寄せ、数すくない肉親の一人である先生の晩年の事業としようとして、これを推進したと思われる節が少なくないのである。」(『同』334335頁)

「田辺君が富士川電力社長となって、富士川水系の本格的開発を行うことには、僕も心から賛成だった。僕と田辺君とは東北電力をはじまりとして、事業的には終始行を共にしたのであるが、最初の東北電力を東電に合併して後、僕は国民新聞副社長等他の事業に関係があったからいいが、田辺君には大した 事業もなかった。」(「河西豊太郎談話」『同』335頁)

「アルミニュームは航空機生産上必須であって、日華事変から太平洋戦争にかけて、これが大量に要求されたのであるが、昭和18年に於ける日本軽金属の年産額は49,500トンに及び、同年の内外地を合わせての全生産高132,800トンの約3割を1社に於て生産したわけであった。(略)なお軽金属設立前後をめぐる先生の繁忙な実業生活は、裏を返せば政友会騒動の真只中であり、中島総裁実現のために超人的活動をつづけた政友会幹事長時代であったのである。」(『同』338頁)

「河西豊太郎・小林一三の他に、資料の中には若尾璋八の名前もあるけど、いずれも山梨の政財界をリードした著名人だよ。河西は若草町十日市場出身の民政党議員。若尾(旧姓広瀬)璋八は広瀬久忠氏のオジさんだ。」
「なるほど、政治に経済に姻戚関係が深く絡まっているね。民政党に所属していた河西豊太郎は、『七六氏と事業家として終始行動を共にしていた』と書いてある。政党はちがっても、そのような馴れ合い政治が結局政治の腐敗をもたらし、政党解散から大政翼賛会の誕生への動きへとつながったんじゃあないか。七六氏と河西は民政党・政友会という今日で言えば民主党と自民党のような関係にあった人たちだと思うけど、事業家としての利害は一致していたんだね。田辺七六・河西豊太郎・若尾璋八・広瀬久忠に小林一三が加われば、政・官・財・軍の癒着という様相がますます深まってくるね。」
「この人脈の中でとくに見逃せないのは、七六氏と小林一三商工大臣との関係だろう。河西豊太郎は『田辺君にはたいした事業もなかった』と書いたけど、伝記『田辺七六』には、七六の晩年の事業として富士川水電を推進したのは小林一三だったとある(『田辺七六』335頁)。七六氏にしてみれば、異母兄の世話で得た事業はどうしても発展させなければならなかったはずだ。」
「日川高校校歌問題から見れば、田辺七六・広瀬久忠・名取忠彦の3氏が血族関係にあるということが改めてポイントになるな。ところで、姻戚関係ということで聞いておきたいけど、財閥の小林一三が田辺七六氏の異母兄だとはどういうこと?」
「そう。七六氏のお父さんの堅一氏(旧姓丹沢)は田辺家の婿養子なんだ。田辺家に来る前に韮崎の小林家に婿養子に入り、そこで小林一三が生まれたわけだが、妻が若くして死んでしまったため堅一氏は小林家を離れて、今度は田辺家に婿養子として入ったというわけだ。この辺は複雑だから、資料に載せておいたよ。」

丹沢家略系図 「二男甚八(堅一)北巨摩郡韮崎町小林小平次二女きくのに入婿し死別後東山梨郡七里村田辺七兵衛長女たつのに入婿しはじめ堅一、のち七兵衛と改む。」(『同』14頁)

「なるほど。」
「つまり、七六氏が戦前・戦中に中央政界で活躍するころ、実業界には異母兄の小林一三をはじめとする財界の大物がおり、官界には広瀬久忠がいたということだな。」
「田辺国男氏が、『日川高校校歌はアナクロニズムの権化のそしりをまぬがれない』という一方で、『良いものは良いのだ』と開き直る裏に、戦時中の指導者たちの戦争責任の問題が絡んでいることが浮かび上がってくるね。彼らが報恩感情の中で身動きが取れなくなっている様相がよく見えるよ。」
「そう。彼らを動かしているのは利害関係でつながる報恩感情なんだ。七六氏の父親七兵衛(堅一)氏も県会議員をしていたから、政治家としても、また事業家としても、七六氏が政界の大物になる素地は十分にあったのさ。政治家であり同時に事業家である七六氏にとって、姻戚関係より委託された事業の発展は国の発展と重なっていた。『やめられなかった戦争』ってよく言われるけど、『世襲議員』という言葉に代表される当時の保守政治家たちは、いわゆる『恩のシステム』の中でがんじがらめになっていたんだ。だから、その『恩のシステム』のトップにいた天皇が『戦争はやめる』と言わないかぎり、忠臣たちに戦争をやめられるはずはなかったということさ。」
「それにしても、不可解なのはこの部分だ。山梨県西八代郡栄村十島地内につくられた富士川第一発電所の着工が昭14年(1939年)5月、竣工が昭16年(1941年)と書いてある(『田辺七六』337~338頁)。『驚異的な短時日』で完成したと書かれているね。発電所の着工から真珠湾攻撃まで残り1年7ヶ月だ。まるで真珠湾攻撃に間に合わせるかのように『当時のわが国における最新、且つ最大の発電所』の建設が完了したと書いてあるけど、このことは戦争の勃発と何か関係があるのかね。」
「それはわからん。要は天皇を中心に、政・官・財・軍が一心同体となった権力構造が真珠湾攻撃を引き起こし、戦争拡大を阻止する方法を知らず、2発の原爆によってとどめを刺されたということだろう。」

東条内閣を支持した七六氏

「ところで『郷土史にかがやく…』には、七六氏は『東条内閣打倒を提言した』人物だと肯定的に書かれているけど、同じ七六氏が『果敢断行の東条内閣を支持する』と述べた人物だとなぜ書かないのかなあ。」
「オレが調べたところでは、郷土史の記述は史実とはまったく逆だな。戦争が始まってからというもの、七六氏は徹底した戦争推進論者だったことがわかる。東条英機を信頼していた昭和天皇が彼に組閣を命じ、それが成立したのは194110月。七六氏は19422月の東条政権下で行われた『翼賛政治体制協議会』の推薦候補者として当選するわけだけど、『田辺七六』には七六氏の東条首相支持の考えが克明に記録されているよ。」

「果敢断行の東条内閣を支持する」(田辺七六)
 「支那事変後、当局の国際関係に処するの態度は不明瞭でありまして、国民は心中頗る陰鬱なるものがあったのであります。然るに東条大将は内閣を組織するや断乎として米英の恫喝圧迫を一蹴して、光輝ある国体を擁護し、米英打倒の戦を始めると同時に、幾度か議会を開き、議会を通じて国民に事態の真相を知らしめ其の決意を促し或は世界の窓たる議会の壇上より東亜の盟主たる帝国の主張を全世界に高調し、其態度勇敢にして然も立憲的であることは全国民の意を強ふする萩であります。」(『田辺七六』400頁)

「東条内閣を支持することが国家の幸福」(田辺七六)
 「国運時賭ける大戦争に突入した以上、この果敢断行の東条内閣を支持して其の手腕を揮はしむる事が国家の幸福であります。従て吾々は飽迄現内閣を支持するものであります。乍然、議会人として吾々議会の運営に当るものは政治結社なくしては民意暢達にも、翼賛議会運営にも非常に困難不便を感ずるものであります。是非共強力なる政治結社の必要を痛感致してをるものであります。」(『同』400)

「南方地域は世界の台所」(田辺七六)
  「我が国の食料対策は内地、朝鮮、台湾、満州を合せて飽く迄自給を確保する事が、我が国不動の国策でなければならぬのであります。(略)皇軍の赫々たる戦果に依って我が勢力範囲内にある南方地域は、世界の台所と云はれるだけ天恵は豊かに、労銀も、生産費も低廉にして農産物も又豊富なる国々であります。」(『同』398頁)

「大東亜建設に余命を捧げる」(田辺七六)
「諸君『万山不重、君恩重』 私は微力を傾けて君恩の万一を奉じ、多年に渉る各位の負託に報ゆるの覚悟を以て、大東亜建設の大業に余命を捧げて渾身の努力を払はんとするものであります。」(『同』401頁)

「東条英機首相に社運と国運をかける七六氏は、『あくまで東条内閣を支持する』、『大東亜建設の大業に余命を捧げる』と言い切っているね。『南方地域は世界の台所』だとも書いてあるけど、これはまさに侵略者の目だ。さらに『強力なる政治結社の必要を痛感』というところには一党独裁国家をねらう野心家の目を感じるね。」
「ねらっていることはたしかだろう。衆議院議員の『推薦制度』は保守系政治家のためにつくられたシステムだよ。『翼賛政治体制協議会』が推薦した候補のうち381名が当選し、当選率は8割を超えていたんだ。総選挙後東条英機首相は貴族院・衆議院両院の有力者や財界・言論界の有力者を招き、大東亜戦争の完遂と翼賛政治体制確立ための政治力の結集を呼びかけている。『強力新党論者』であったという七六氏は当選確定の日、新聞記者にこう語っている。」

「聖戦貫徹に翼賛し奉ることが翼賛議会の本質」(田辺七六)
「ここに7回の当選の栄を得た以上、まず聖戦完遂のための翼賛議会の確立に向って、挺身する覚悟である。これについては早速、強力なる新党の結成が必要となろう。これは勿論、従来のような対立的なものでもなければ、政権目あてのものでもなく、また部分的利益を主張したり、扇動したりすることは許されない。あくまで忠誠愛国の翼賛精神を基調とする正しい民意を暢達し、一面には行政各部門をも監視してその運用をはかり、政府と議会、即ち官民協力して国防力の拡充、生産力の増強、国民最低生活の確保等に関する政府の各般の政策を豊かならしめて、以て聖戦貫徹に翼賛し奉ることが翼賛議会の本質であって、これが早晩実現すべき新党の指標であるわけだ。その意気で、僕は大いに頑張る決心である。新党の総裁としては、それは渾然一体となった強力新党であるからには、先ず阿部信行大将というところは動かないであろう。」(『田辺七六』403頁)

「こうして誕生したのが翼賛政治会というわけだな。七六氏が予言したとおり、陸軍大将の阿部信行が会長に就任した。七六氏はその評議員となって、翌年19435月には常任総務のポストについているね。」
「その後政府は翼賛政治会以外の政治結社を認めない方針をとったから、当然政党は解散だ。国男氏は自著で『父の場合には、同じ頃、半生をつぎ込んできた政党が解体されることになった。残念に思ったことだろう』と述べているけど、政党解散の旗振り役の七六氏が政党の解体を残念に思うのかね。また、『郷土史にかがやく…』は七六氏について、『“主権在民”を貫いた稀有の人』と賞賛しているけど、これにも疑問符が点灯するね。その七六氏は、19431月、山梨日日新聞につぎのような一文を寄せている。勝利に向けて檄を飛ばしている姿がよく見えるよ。」

「東亜10億の解放の日は漸次近づきつつある」(田辺七六)
「畏くも宣戦の大詔を拝してより一年、御陵威の下、皇軍将兵の勇戦奮闘と、一億国民の協心戮力により、未だ嘗つて世界戦史に見ざる赫々の成果を収め、東亜の天地より米英勢力を駆逐して、輝かしき大東亜建設の大業は着々成り、東亜十億の民生解放の日は漸次近づきつつある。(中略)産業戦士は勿論、銃後国民の総てが今年こそ最後の決戦に勝ち抜くの決意を新たにして、断乎、突進し、凡ゆる職場を戦場として奮闘をつづけなければならない。それこそ、全交戦国が国運を賭し戦ひつつある世界指導権争奪の長期決戦に日本が最後の勝利を獲得するの道である。」(『田辺七六』405~406頁)

「こんなことでは戦争は負けてしまうぞ」(田辺七六)
「当時、アルミニュームの生産が減ってしまって、飛行機が造れないという状態であったので、こんなばかなことじゃあいかん、日本は敗けてしまうぞといって、頗る悲憤慷慨して、海軍大臣や陸軍大臣、さらには軍需大臣の藤原銀次郎さんのところなどをぎりぎり舞いに激励して歩かれておられた。」(「松浦周太郎氏談話」『田辺七六』407頁)

「これらの資料はいずれも1943年頃の話だね。七六氏は『このままでは日本は敗けてしまう』と言う一方で、『世界指導権争奪の長期決戦に勝利する道』などという談話を新聞に載せ国民を扇動していたということだね。」
「七六氏は、敗戦によって事業も地位もすべてが崩壊することを知っていたんだ。七六氏は北朝鮮にも工場を持っていた。1943年11月に『アルミューム増産緊急対策補整に関する意見書』という報告を発表し、その中で1945年末までの外地(朝鮮・満州・台湾)におけるアルミニューム増産の新規計画を明らかにしている。しかし、専門家の見解はちがっていたようだ。」

「銃後の最大課題は航空機の増産にかけられていたわけであるが、その基調ともなるべき軽金属アルミニューム部門の生産状況は、まことに寒心にたえないものがあった。即ち昭和18年度に於けるわが国アルミニュームの総生産額は、132800トンに達し、ようやく予定生産量を確保することが出来たのであるが、どうやらこれが生産の最高限界であり、しかもこれを頂点として、翌年度以降は同量を確保する見込みさえつかず、むしろ急激に低下の傾向が濃厚であるというのが、この年度に於ける専門家共通の見解であった。」(『田辺七六』406頁)。

「つまり専門家が『見込みがつかない』と予測するなかで、七六氏は昭和20年末までのアルミニューム増産計画だけは立てていたことになる。当時の七六氏が日本軽金属副社長、また政府の軽金属製造事業委員会委員(『同』406頁)の重職にあったことを考えれば、これは恐ろしい話だよ。無責任極まりないね。七六氏は日本の軍需物資の状況については最もよく知る立場にいた人物だが、その政治家が現実に目を閉じて『至誠一貫』、『聖戦完遂』と国民を煽り続けていたんだからな。」
「死んで行った無数の若者たちは、死んでも死に切れないだろう。『勝つ見込みのない戦争をなぜ続けたんだ』って、あの世でつぶやき続けているにちがいないさ。」
「事業家としての七六氏の野心が、政治家としての七六氏を引きずり回していたという構図だろう。事業家が生産第一を掲げるのは当たり前だけど、政治を事業発展の道具にした七六氏のやり方は、今後しっかり究明されなければならないと思うな。後世の者たちの責任は重大だね。」

東条首相のハシゴをはずした七六氏

「きょうの話の最後として、東条首相の『ハシゴはずし』について話そうよ。」
「そうだな。癒着の構造というのは大体わかったよ。東条英機首相についてだけど、ある意味で東条は悲劇的というか、ピエロのように見えてくるなあ。でもオレは東条首相について、安易に狂信的軍国主義者だとか無責任な指導者だとかという言葉は使いたくないな。狂信的天皇教信者にさせられていたのは国民全体だったんだ。東条に大命を下したのは天皇であり、その決定に従ったのが東条をはじめとする政治指導者たちだった。東条は担ぎ出されたのはいいが形勢が悪くなったとたんに放り出されたというわけだ。」
「当初東条支持を打ち出し、『其の手腕を揮わしむることが国家の幸福である』と言い切っていた七六氏が、戦局が悪化すると東条首相に愛想をつかし放り出したというんだからね。東条を推した自分の責任はどうなるのかと聞きたいよ。」

「戦争批判の大演説」をした七六氏??
 「『戦争を早急に収拾すべきである。それには戦争責任の東条内閣の退陣要求が先決である』と理路整然と至誠を尽して戦争批判の大演説を打った。ただちに動議として取り上げられ満場一致で東条内閣退陣要求の決議が成立した。かくて翼賛会の強硬な退陣要求の前で武力弾圧で戦争を進めてきた東条内閣は数日後に崩壊した。」(『郷土史にかがやく人々』402頁)

「これは1944720日に翼賛会本部で行われたという七六氏の『大演説』に関する資料だよ。郷土史には、七六氏が『戦争は早急に収拾すべきである』と言ったとあり、戦争そのものの早急な終結を願っていた政治家であるかのように書かれている。でも、これは事実じゃあない。『東条内閣打倒を提言した』とは書かれているけど、『戦争を早急に収拾すべきである』と言った事実はないんだ。実際、その後も戦争は激しくなる一方だったからね。」
「つまり郷土史家たちは、翼賛政治会の性格についても、戦争末期の政治についても、批判的に検証する努力を怠ったということだな。」
「怠ったというより、意識的に削除したというほうが適切だろう。削除しなければ肯定的に描く人物描写に一貫性がなくなるからね。伝記として書かれた『田辺七六』を読むと、七六氏が果たした役割がよくわかるよ。要するに翼政会の考えは、『東条では戦争継続ができないから退陣してもらいたい』というものだった。問題は、だれが東条に引導を渡すかだった。相談した結果担ぎ出されたのが当時翼政会の常任総務で、実業界においてアルミニュームの生産増強のために東奔西走していた田辺七六氏だったということのようだ。七六氏は、『東条は遂に国を誤った。この内閣を長く続けることは、国家のため重大事である。多数の将兵の地下に眠る人々に申訳がないではないか』と心配し、『おれなどでよければいつでもお役に立とう』と言って要請を引き受けたというんだよ。」
「つまり七六氏は、東条首相の乗るハシゴの『はずし役』の一人だったということになるね。ところで、彼の東条弾劾のその『大演説』は記録に残っているの?」
「それが『会議の性格上』という理由で残されていないようだ。『田辺七六』には、当時『反東条』で決起した青年議員たちの存在については書かれているけど…。」
「そして、政治はいよいよ東条以降に引き継がれ、200万もの日本人の命が失われていくことになるわけだね。」
「戦争末期から敗戦にかけて、田辺七六・広瀬久忠・名取忠彦の三氏がどう動いたか、今後も報告したいと思っているよ。この3人の『偉大な指導者たち』は終生『至誠の人』であることをウリにしたけど、戦後になって日川高校の同窓会長になった彼らがなぜ『アナクロニズムの権化の校歌』に執着したか、よく理解できると思うね。」
「『天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今』と歌う校歌が無罪なら戦争指導者たちも無罪、戦争指導者たちが無罪なら校歌も無罪というわけだな。」
「そういうことだ。」  2009815


11 同窓生討論:
   「
天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今」

  
                          (山梨県立日川高校校歌3番より 1916年制定)

【論点】「一大家族国家」が操ったマインドコントロールについて

  座敷の鴨居から角帽姿のオジが見下ろしている。20歳代前半の青年はとてもハンサムで健康そうだ。口元には微笑が浮かび、せまり来る過酷な運命を暗示するしるしはない。オジは山梨県立日川中学在学中に徹底した皇国教育を受けた。19413月に卒業後大学に進学し、194310月に中国戦線へ「出征」した。「出征兵士」や銃後の人々の合言葉は、「皇恩の萬分の一なりとも御報いしたき覚悟」であった。今回は、「我を捨て去り、ひたすら天皇に奉仕せよ」(『国体の本義』)と教育した「一大家族国家」のマインドコントロールについて、また、「吾人生ノ敗残者ナリ」の遺書を残したオジの周辺について討論する。

オジの遺書
 
「人生健康第一ナリ
  吾人生ノ敗残者ナリ

   吾モトヨリ言遺スコトナシ
  唯父母親兄弟ノ健在ヲ祈ル」(昭和二十年十二月十日)

「我を捨て去り、ひたすら天皇に奉仕せよ」(「国体の本義」文部省)
 「忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対帰順する道である。絶対帰順は、我を捨て去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御陵意に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。」(第一の三、「臣節」の項)

「我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家である」(「国体の本義」文部省)
 「我が国の孝は、人倫自然の関係を更に高めて、よく国体に合致するところに真の特色が存する。我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。臣民は祖先に対する敬慕の情を以て、宗家たる皇室を崇敬し奉り、天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふのである。雄略天皇の御遺詔に『義は乃ち君臣、情は父子を兼ぬ』と仰せられてあるのは、歴代天皇の大御心によつて結ばれてゐることを宣べさせられたのである。『わたし』に対する『おほやけ』は大家を意味するのであって、国即ち家の意味を現している。」(第一の三、「臣節」の項)

「我等は一家に於いて父母の子であり、親子相率ゐて臣民である」(「臣民の道」文部省)
 「抑々我が國に於いては忠あつての孝であり、忠が大本である。我等は一家に於いて父母の子であり、親子相率ゐて臣民である。我等の家に於ける孝はそのままに忠とならねばならぬ。忠孝は不二一本であり、これ我が國體の然らしむるところであつて、ここに他國に比類なき特色が存する。」(第二章の二、「臣民の道」の項)

 「教育ニ関スル勅語ノ聖意ヲ奉体シ…」(山梨県立日川中學校「生徒心得」第一条) 
「本校生徒タル者ハ能ク教育ニ関スル勅語ノ聖意ヲ奉体シ校則ヲ守リテ師長ニ従ヒ礼節ヲ重ジテ廉恥
ヲ励ミ毫モ学校ノ体面ヲ毀損スルコトナク徳義才能健康ノ三者ヲ円満ニ増進スルコトヲ務ム」(『百周年記念誌』361 2001年)

「大神のみことのまヽに」(藤波國途 7代日川中學校長・在任 1940年~1941
「かしはらにしづまりませる大神のみことのまヽに世は進みつヽ。」
「いかならむ事にあふとも國民のたへしのぶべきときぞ來にける。」
「日の本のくにを守らむ若人と見ればをヽしき姿なりけり。」
「こヽにして學びしをしへ身にしめてをヽしくすヽめ國民の道。」
   (山梨縣立日川中學校『學友會報』No.41「巻頭言にかへて」1941年・3・3発行)

「天皇を現人神とする国家宗教」(「国家神道」広辞苑〔第五版〕)
 「明治維新後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に再編成してつくられた国家宗教。軍国主義・国家主義と結びついて推進され、天皇を現人神(あらひとがみ)とし、天皇制支配の思想的支柱となった。第二次大戦後、神道指令によって解体された。」

「皇恩の万分の一にも報ひず…」(寺嶋力命23 大分県出身)
 「身命を君國に捧げ一死以て悠久の大義に生る事男子の本懐之以上の何ものもありませんしかしながら皇恩の万分の一にも報ひず征途半ばにして斃るを残念に思ふ共に此の世に生を享けて二十有余年間の長い事愛育して下された父母の恩の普通より以上であつた事を思ふ時その恩にも報ひず先に死へ旅立つ罪も自分の報國の赤誠に免じてお許し下さいますやう又自分の事を子供の如く兄弟の如くして呉れた親類の方々 小学校林工学校の諸先生 そして國鉄奉職当時恩をうけた先輩の方々に對しては呉々よろしくお傳へ下さいますやう最後に御両親様の益々御壮健にて御多幸あらん事と唯一人の弟加君の愈々奮勵努力して邦家の為に健闘されん事を祈りつヽ笑つて死に行く否悠久の大義にいきる 昭和十九年三月十八日 出発の前夜」
(ネット情報:靖国神社「今月の社頭掲示」7月・平成1661日更新――昭和20713 フィリピン群島ルソン島にて戦死)

「家族から国家構造を貫通する『和』の理念」(橋川文三)
 「…ところで家族から国家構造を貫通するこの原理(『和の原理』・引用者)はいかなるものと考えられるだろうか。(略)『和』の理念のもっとも顕著な、一般的な表象として、いわゆる『城内平和』の理念を考えることができるであろう。すなわち、『和』が『和』としてその社会的機能をもっとも明らかに実現するのは、単位社会集団が外部からの危機に迫られた場合であり、それが国家レベルでとらえられた場合は、我が国の近代史にしばしばみられるような『挙国一致』体制の原理としてあらわれた。」(「日本近代史における責任の問題」『「天皇制」論集』353 三一書房)

「日本中、オウム真理教だったのではないか」(丸山真男)
 「私の青年時代を思うと、日本中、オウム真理教だったのではないか。外では通用しないことが、内では堂々とまかり通る。違った角度から違った照明を当てることができない。今も昔も『他者感覚のなさ』が問題だ。一人ひとりの知的水準は相当高いのに、判断となるとなぜかおかしい。」(『朝日新聞』1996819

「異様な国であった」(立花隆)
 「最近、北朝鮮という国家の異様な政治体制がさかんに報じられているが、明治時代後半から昭和時代前期までの日本は、あれ以上に異様な国家だった。金正日はほとんど神格化されているとはいえ、まだ『将軍さま』『首領さま』であって、神様ではない。誰も彼を神様とは呼ばないし、礼拝もしない。しかしかつての日本では、天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、神として礼拝されていたのである。国民は、子供のときから、天皇は神の末裔であると教えこまれ、ことあるごとに儀式的礼拝が強制されたから、ほとんどの国民はそう信じ込んでいたのである。だから、あの戦争でも、多くの兵士が天皇陛下万歳を叫びながら天皇のために惜しげもなく命を捧げたのである。」(「天皇『神格化』への道」352頁『文芸春秋』19996月号)

「遺族が感涙にむせんで家族の戦死を喜ぶようになり…」(高橋哲哉)
 「決定的に重要なのは、遺族が感涙にむせんで家族の戦死を喜ぶようになり、それに共感した一般国民は、戦争となれば天皇と国家のために死ぬことを自ら希望するようになるだろう、という点である。遺族の不満をなだめ、家族を戦争に動員した国家に間違っても不満の矛先が向かないようにしなければならないし、何よりも、戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望することになることが必要なのだ。(強調は原文)」(『靖国問題』043~044頁 ちくま新書)

「永久の禍根」(木戸幸一)
 195110月、服役中の木戸は、こうした思いを記した書簡を、再び獄中から天皇に送ったと日記に書いている。退位は『真実に従った』行為となるだろうと、彼は忠告した。それは、処刑された戦犯の家族を含む遺族の慰めとなるであろうし、『皇族を中心とした国民統合にとって重大な貢献となる』だろう。木戸は、もし天皇がこの機会を逃すならば、『皇室丈が遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを畏れ』ていると述べた。」(『敗北を抱きしめて』下 84 ジョン・ダワー 岩波書店)

父母への報恩感情と合体した「家族国家観」

銃後の母から戦地の息子へ送られた手紙

「見てくれよ。これがオジだよ。」
「なるほど。ハンサムな青年だ。」
「この部屋は、子どものころからずっとオレの部屋だったんだ。だから戦死したこのオジとはじつにいろいろな話をしてきたね。昔はね、オジを理想化して眺める時があったんだ。軍人姿は凛としてかっこいいからね。少なくとも高校の頃までは、『御国のために命を捧げた軍人たち』という大人たちの言説をそれとなく受け入れていたと思う。でも、大学に入って『学園紛争』があってね、それ以来いろいろ考えが変わったんだ。」
「どう変わったの?」
「オレはノンポリだったけど、『良心』とか『良心の呵責』という言葉にこだわり始めたのはその頃だよ。ずいぶん長い付き合いだ。」
「なるほどね。これは君のおばあちゃんが書いた手紙だな。」
「そう。宛て先は『出征兵士様』だ。オジが戦病死したのは25歳のときだから、この手紙を書いた祖母はまだ50歳代だったと思うよ。」
「『ゆで卵を食べたい』と言い残して死んだオジさん宛てだな。」
「うん。でも、家族でこの手紙の存在を知っているのは、オレをふくめ兄弟二人だけだ。べつに隠しているわけじゃあないけどね。皇軍兵士の死の真相はちょっとしたタブーになっているんだ。」
「わかる。皇軍兵士の死の真相が明らかになれば、大元帥の責任問題が問われるからね、『御国ために命を捧げてこい』と送り出した親たちの責任にもかかわってくる。」
「これが大事な手紙であることはわかっているよ。でもね、祖母が生きている間はこの手紙の存在さえ誰も知らなかったんだ。奇妙なことだけど、オレは祖母から戦争の話を一度も聞いていない。祖母は『一億総懺悔』の命令を忠実に守ったと思うね。」
「『一億総懺悔』は、戦争責任の追求を封印する命令だったからな。まさに緘口令だ。それは地方の為政者の責任追及の封印にもつながっていたんだね。戦争責任者たちはそのまま戦後政治の舞台に居座ったから、彼らが戦争責任を追求するなと指令したことになる。」
「そのとおり。その一方で、軍人恩給をもらうようになった祖母は国家に対し否定的な発言はできなくなったということさ。戦死者であるオジは天皇に命を捧げ、『皇国日本』を敗北に導いた国家から勲六等をもらい、靖国神社に祭られる。戦死者の慰霊は国がめんどうをみるから安心せよ。これが靖国神社を操る国家の、戦後も続くマインドコントロールだよ。」
「なるほど。政教分離とはいっても精神は昔と変わらないな。そうか、君のおばあちゃんは遺族年金の受給者だったというわけだ。戦争責任を語れない理由がわかるね。」
「祖母はオレたちに戦争について何も語らなかったけど、これらの手紙は、今ではオレの宝になっているよ。」

「一億同胞の熱い赤心が火のように燃へている事をお忘れなく…」(銃後の母から戦地の息子へ)
 「朝夕めっきりお寒くなって参りました。山々は紅葉、たんぼは黄金色の日の光を浴びて美しう御座いいます。今年は干天で苦しみましたが、平年とあまり変りなく實っている様です。もう秋祭りもすみました。こちらは新體制で都も田舎もほんとうに緊張して居ります。大陸は気候が不順の様ですが、戰地ではさぞかし御苦労のここと思います。此の度私共国防婦人と女子青年で慰問袋を作りお送りする事となり、お手紙を差上げております。どの方面に行くのかわかりませんが何にしろ異郷の戰地の御苦勞は私共の想像も及ばぬ所で御座います。たヾお国の為、東洋平和の為に大変な困苦と戰ひ、日夜危険にさらされるなかで御奮戰下さる事を思いますと、唯々感謝の泪があふれくるのみです。本当に私共は戰地の皆様に心から御礼申上げる次第で御座います。どーぞ皆様の背後には一億同胞の熱い赤心が火のように燃へてゐる事をお忘れなく、お國の為にお働き下さいます様に、そして輝かしい凱旋の日が一日も早からん事を心からお祈りいたして居ります。では、ますますお元気の程心よりお祈り申し上げます。出征兵士様 昭和十九年十月二十日」

「御恩の萬分の一なりとも御報いしたき覚悟で御座います」(銃後の妹から中国戦線の兄へ)
 「(前略)御出征なされて此の方、焼くが如き酷熱の中、息も絶えるばかりの寒さの中を君の御為め、國の為めに重い責務に勵まれ、日毎夜毎の御奮闘にいさヽかの御患ひなく数々の武勲を樹てられた御振舞に対し、銃後の私達は兄に感謝感激の外御座いません。あの頑迷な支那軍を撃ち平和になる迄は、まだまだ末永き事と思われます。皇軍将兵の皆々様の御心勞はいかばかりかと想います時、私共銃後にあるものは益々銃後を固くし、御恩の萬分の一なりとも御報いしたき覚悟で御座います。何とぞ御健康にて、重々の御奮闘をお祈り申し上げます 出征兵士様」

「山々は紅葉、田んぼは黄金色、秋祭りもすみました…。祖母はそう書いた。戦地のオジにしてみれば懐かしい『城内平和』の風景だろう。でもいかに懐かしくても、故郷の母から『お國の為にお働き下さいます様に』と背中を押されたのでは弱音は吐けないよ。妹からも『御奮闘をお祈り申し上げます』と念をおされては、前に進むしかないんだ。祖母はいつも仏壇の前にすわり祈りを捧げていたのを覚えているけど、戦時中も同じだったと思うな。」
「この手紙と同じように、日川中学の生徒も『皇恩の萬分の一』に報いることを誓ったのさ。」

「皇恩の萬分の一に報い奉らんの信念に…」(昭和14 ○○○○ 日川中学5年)
 「…やがて玉座の御前に近づけば『頭右』の號令一下、壇上に立たせ給ふ陛下のいとうるはしき龍顔を咫尺の間に拜し奉った。此の瞬間の感激如何にして名状すべきか、只陛下の御馬前に死し以て皇恩の萬分の一に報い奉らんの信念に燃えざるを得なかった。」(『學友会報No.4023頁)

「当時は日本中の人々が仏壇や神社で手を合わせていたと…。」
「全国に『天皇教信者』たちの祈りが響きわたっていたということだろうね。まさにオウム真理教の信者のたちの姿と重なるよ。」

「皇恩」に命を捧げた日川中学卒の皇軍兵士

「天皇への絶対帰順を求める『国体の本義』や『臣民の道』が言っていることは、今から考えればひどいもんだな。近代国家としての理念がまったく欠落している。個人がもつ良心は封殺され、それに不敬罪もあったからな。」
「人間は判断停止や思考停止状態に置かれれば、士気が乱れるのは当たり前だよ。人間であることを否定されていることになるからね。まさにロボットだ。『黙って先生の言うことを聞け』式の教育を小学校から叩き込まれていたんだからな。」
「小学校からといえば、『国民学校令施行規則』にも『教育勅語の奉戴』が出てくるんだよ。」

「教育勅語を奉戴せよ」(国民学校令施行規則1941年(昭和16年)314日公布)
第一条 国民学校ニ於テハ国民学校令第一条ノ趣旨ニ基キ、左記事項ニ留意シテ児童ヲ教育スベシ。
1.教育ニ関スル勅語ノ趣旨ヲ奉戴シテ教育ノ全般ニ亙り皇国ノ道ヲ修練セシメ、特ニ国体ニ対スル信念ヲ深カラシムベシ

「国民学校令第一条は、日川中学の『生徒心得』第一条とまったく同じだな。」
「時の文部省は判断や思考の源である『私』や『個人』を徹底的に攻撃したんだよ。」
「これに反する思考はすべて『非国民』ということになる。人物評価にあたり『絶対随順』を基準にすえ、これに体力・知力に優れた生徒が優等生ということだな。戦後の日川高校も暴力行為はしばしばあったけど、戦時中の日川中学は相当きびしかったんじゃあないかな。」
「昔の日川中では、鉄拳制裁はめずらしいことではなかったと思うよ。鉄拳で守られていた『城内平和』だ。」
「日川中の『生徒心得』第一条には、『教育ニ関スル勅語ノ聖意ヲ奉体シ…』とある。そのあとがすごい。『本校生徒タル者ハ…校則ヲ守リテ師長ニ従ヒ廉恥礼節ヲ重ジテ廉恥ヲ励ミ毫モ学校ノ体面ヲ毀損スコトナク…』と続いている。『学校の体面を毀損することなく』とはどういう意味なのかね。とにかく『国体の本義』が指導するとおりに生きよということだな。日川のこの『生徒心得』には、個人主義思想はかけらも見当たらないね。」
A「幼い頃から皇国教育を受ければ、『城外に住む人』や『異質の人』に対する共感は生まれようがないさ。『生徒心得』には、普遍的な人間的資質の涵養に関する配慮はまったく欠けていると言わざるをえないな。そのあたりを検証しないまま、『伝統、伝統』と言って日川高校は戦後になっても戦前・戦中と同じ校歌を歌い続けているんだから…。『天皇の勅とは、平和を願う天皇のお言葉だと考えればいい』、今の同窓会長はそう公言しているからね。」
B「国レベルでは『解釈改憲』、日川高校は『解釈改変』というわけだな。」
A「そういうわけだ。冒頭、識者たちからの率直な意見・提言を聞いたけど、こういう事態を見ると、まさに皇国という異様な国家形態が生んだ異様な臣民と言わざるを得ないな」
「この資料の『行け 支那へ』を書いた日川中学の生徒の頭には、中国への侵略絵図がはっきり描かれているね。」
「そう、『學友會第27号』というのは1926年、いや昭和元年の号だ。なかなか勇ましい。」

「行け 支那へ」(五ノ一 ○○○○)
 「我國民は濠州に逐はれ、北米に排せられ、加奈陀に容れられず、その向ふ所に迷ふ。或は南米行を唱へ、或はマニラ地方行を説き、以て却下に世界の寶庫支那あるを忘るヽが如き観あり、豈訝しからずや。(略)見よ!! 露國は滿蒙より、英は西藏より、佛は安南地方より、獨も亦、米は其の無限の財力を擁して經濟上より勢力を得んとす。(略)起て!! 國民よ、此の老大國に活動せよ、千古未だ開かれざる世界寶庫の鍵を握れ、小愛國心に捉はる事勿れ。凡そ家を愛する者は先づ其の墻屏を固くす、國を愛する士は四邊の墻屏防備に努めざるべからず。墻屏の備ありて、其の家を安泰にし富裕にす、支那は我墻屏なり。行け!!! 行きて而して其の墻屏を固く築かれよ。」(『學友會報第27号』5頁1927年)

弔辭「君国のために奮戦し、死して護國の神となる」(第廿二回卒業生 ○○○○)
 「學友○○○○君の町葬の末席に列し山梨縣立日川中學校同窓生に代り、一言弔辭せんとす。(略)今回の支那事変も、實に大和民族發展途上に於ける飛躍の一段階にして、吾々は此の事業を通じて、産業國日本の限りなき發展の姿を如實に見る。(略)吾等日川中學校の同級生は、君と同窓にある事五ヶ年學識、徳望すぐれたる君は、吾等一同の最も将來を嘱望せる一人なりき、(略)君天壽を全うせずといへども、君國の為に奮戰し、名を萬世に殘し、家内の譽、郷里の誇となり、死して護國の神となる。男子の本懐之に過ぐるものなからん。」(『學友會報第38号』34頁 1938年)

B「生徒たちにとって、『君国』のために死ぬことは家のため、郷土のためと言っているな。」
「『死して護国の神になる』、はっきりそう書いている。」

山本育勇氏(山本昌昭校長の兄)の母の報恩感情

B「でも皇国教育が行われたのは日川中学ばかりじゃあない。日本中の中学がそうだったというわけだ。『君国のために奮戦すること』、『死して護國の神となる』と繰り返し教えられれば、死を恐れなくなるのは当然だな。」
A「だから、兵士の命は『鴻毛』より軽くなければならなかったんだ。『皇恩』のために喜んで死地に向かうためには、死は鳥の羽一本よりも軽くなければならなかった。国家が巧妙に仕組んだこのマインドコントロールを、庶民は見抜くことができなかったんだ。個人を否定された状況の中で、『皇恩』と父母への恩とを区別する論理を構築できなかったということだな。それに『皇恩』に報いれば、勲位、名誉、遺族年金など、国家は虚栄心を満足させる褒美を用意したからな。この国全体が『報恩システム』というインフラの上に築かれているというわけだ。」
B「だから、この線から外れるということは日本人ではなくなると…。『城内』の人ではなくなると…。」
「そういうことだろう。オレは学生時代に流行った『内なる天皇制』という言葉に今もこだわっているけど、それは日本人が普遍的にもつ『報恩感情』であるというのがオレの結論だよ。『内なる天皇制』とは、一言でいえば『お父さん、お母さん、地域の皆様、そして天皇様ありがとう』ということになる。ところで、山本校長の兄の育勇氏が重慶で『散華』したという話はしたよね。東条さんはじめ、参謀総長らの慰霊の言葉が送られているけど、色紙にはこう書かれていたんだ。
・『人生有限名無盡』東条英機陸軍大臣
・『忠烈鬼神泣』杉山元参謀総長
陸軍大将
・『忠勇壮烈』西尾壽造支那派遣軍司令官
陸軍大将
・『鬼神泣壮烈』井出鉄蔵 陸軍中将
「そうそうたるメンバーだね。」
「戦後日川高校の校長を務めた長田靖磨校長(第12代)も、日川中学教諭の肩書きで追悼文を寄せているよ。題は『久遠の命』だ。『惟ふに皇國の爲に一命を捧ぐることは決して所謂自己を犠牲にする事ではない。小なる自己を捨てヽ大なる眞の自己に生き、皇國民として八紘一宇の一大現想(ママ)を實現する眞生命を發揚する所以であります』と、皇国史観を披瀝しているよ。」
B「『小なる自己を捨て…』というこの表現は、All for one, one for allを思い出させるね。これって自由の意味を知り、自由を享受している民主国家にはふさわしいフレーズだけど、全体主義国家が使ったら大変なことになるな。『個』を全体に奉仕させるための合言葉に変貌するからね。オレ、一つ気がついたんだけど、東条さんは育勇氏の慰霊に『人生有限名無儘』と書くべきところを、なぜ「盡(つくす)」という字を使ったんだろうね。」
「『人生有限名無盡』か。考えさせるね。単純ミスではないかもね。でも、山本育勇氏のお母さんもオレの祖母と同じように、『至誠』を疑わなかった『銃後の母』だったと思うよ。」
「『出征兵士』も母たちも、赤子として『萬恩』の一つでもお返ししたいという気持ちだったのはたしかのようだな。」

「御恩の萬分の一にも報いる事が出来ました戦死でありました」(山本とみ・山本昌昭校長の母)
 「昭和十五年六月十六日は、私達親子にとりましては終生忘れ得ぬ日で御座います。日本帝国は皇紀二千六百年の大祝典に國を擧げて壽いで居りました年、山本家も亦皇國民の一人として歡喜に溢るヽ一方、悲しき記念の年でもあったので御座居ます。併し長男の死、それは決して無意義の死では御座居ませんでした。立派に陛下の御楯として御恩の萬分の一にも報ひる事が出來ました戰死でありました。(略)六月十六日、我が子育勇は敵彈の爲愛機と共に四川の空に散りました。私はその夜まで、國防婦人會の毎日の祈願として、氏神様に、誰よりも早く行って育勇の武運長久を拜殿の軒にかすかに揺ぐ提灯の光の下で一心に祈って居りました。もはやその時は育勇は此の世の何處にも居らなかったのに。(略)私も軍人の母で御座います。此の上は只管育勇の靈を慰め乍ら、後に遺りました子供を成人させる覺悟で居ります。」(『空を征く』山本育勇追悼録 223237頁)

「陛下の御楯として大陸の空に散られた兄」(山本明子)
 「育勇兄様が戰死されて早くも十ヶ月は經ちました。その間一日として兄の事が頭を離れた事はありません。今故人を偲ぶよすがとして、追想録を編するに當りまして、又しても新たな追憶が蘇って參りまして、兄の軍服姿が目の前にちらつくのです。女々しいかも知れません。然し切っても切れぬ肉親の絆です。私にはたつた一人の御兄様でした。(略)古今未曾有の大聖戰に陛下の御楯として大陸の空に散られた兄は、又とない幸福者の一人だったと思ひます。御兄様は今こそ、『人生五十、功無きを恥づ』と慨嘆する人の前に無言の教訓を垂るヽ事と信じて居ります。忠孝兩道に生きた御兄様、こんな兄を持つ事が出來た私は本当に仕合せです。」(『同上』215222頁)

「悲しい話だ。」
「うん、『私も軍人の母で御座います』とはっきり言っているからね。妹さんも、『こんな兄を持つことができて幸せだ』と言い切っている。オレの祖母やオバの心情とまったく同じだよ。」

現役兵として歩兵第220連隊に入営したオジ

「出征前のオジさんは健康だったんだろう。」
「うん。オレがオジの大学時代の友人に電話したのは、2002114日のことだった。その友人はオジのことをよく覚えていてくれて、こんな話をしてくれた。メモが残っているから読んでみるよ。『印象に残っていることがひとつあります。牛久(茨城県)の私の家に泊まったことを覚えていますが、忘れられないのは大洗の海岸を一人歩いている彼の姿です。おとなしい人でしたが、とても芯のある人でした。戦死の報を聞き友人と二人で山梨を訪ね、お母さんにお会いしました。ゆで卵の話はその時お母さんからお聞きしました』。そんな話だった。」
「『ゆで卵を食べたい』が最後の言葉か…。貴重な話を聞くことができたね。とにかく『出征』前のオジさんは健康だったというわけだ。ところで君、子どもの頃オジさんのことを理想化していたと言ったけど、その後オジさんを見る目はどう変わったの?」
「真実を知りたくなったのさ。オジが所属した師団が中国でどのような戦いをやったのか知ってからね。オレが理想とするオジであるならば、そして無事生還していたら、戦地で何が起こったのか真実を語ってくれたと思うんだよ。でも、逆のことも考えられる。オジが頬をひきつらせて、『それがお国のために戦った者への言葉か』なんて開き直る姿を想像することがあるんだよ。祖母やオバが残した手紙をみれば、当時のオジや親兄弟がどのような考えだったのかわかるからね。そこには『お国のため』『天皇陛下のため』という合意事項が厳然とあったんだな。」「『山梨県福祉保健部国保援護課』に手紙を出したのは20021月のことだ。そして、いろいろなことがわかったよ。でも不覚だったね。」
「何が?」
「こ歳になるまで、オジが中国戦線でどのような戦いをしたのか、どのような死に方をしたのかまったく知らなかったことさ。調べようともしなかったんだから、情けない。オジには申し訳ないといつも思っているんだ。『援護課』の記録によると、オジが入営したのは『昭和18101日』だとある。」
・昭和
18年(1943年)101日 二等兵 現役兵として歩兵第220連隊に入営
・昭和
19年(1944年) 21日 一等兵
                310日 独立歩兵第204大隊に編入
・昭和
20年(1945年)81日 上等兵
・昭和
21年(1946年)410日 伍長
・昭和
21年(1946年)410日 関東第一陸軍病院に於て戦病死

「君がオジさんの軍歴を調べていることを、家族や兄弟には伝えたの?」
「うすうすは知っているかもしれないけど、正面から話したことはないね。オレの周囲には保守的な考えの人が多いからね。親族の中には怒り出す人がいるかもしれん。彼らは皇軍兵士の死は名誉の死だと考えているからな。戦死者がどう戦ってどのような死に方をしたかは問題外なんだよ。いつか機会があったら話すつもりではいるけど…。」
「召集令状がきたあと、オジさんはどう動いたの?」
「現役兵として『歩兵第220連隊に入営』したとある。これは甲府で編成された部隊だ。資料には『1945年(昭和20年)8月、敗戦により第220連隊はニューギニアで武装解除された』(『山梨県内の戦争遺跡』ネット情報)とある。でも、オジは中国で死んでいるんだ。つまり、オジは中国大陸で1944年(昭和19年)に軍の改編で別部隊に編入したということだな。『軍歴証明書』をみると、『昭和19310日、独立歩兵第204大隊に編入』と書かれている。」

皇軍兵士の戦闘の実態

「そこで、オジが所属した『独立歩兵第204大隊』について調べてみたんだ。そしたら、この部隊が第117師団所属であることがわかったんだよ。オジの病歴書には『部隊號』として、『第百十七師團獨立歩兵第二百四大隊歩兵砲中隊』と書かれているからね。これにはギョッとしたね。」
「何が?」
「『第百十七師団』という師団名だよ。オレは『中帰連』という雑誌をたまたま読んでいたんだ。『中国帰還者連絡会』が正式な名称だけど、『大東亜戦争』を加害の側面からも検証する元兵士らがつくる機関誌で、20009月発行の『中帰連』14号に、『陸軍第117師団師団長・中将・鈴木啓久』の文字があったんだよ。」
「『第117師団』が君のオジさんの部隊であるということにまちがいはないの?」
「まちがいないと思うね。これが戦犯となった師団長の『自筆供述書』だよ。」

【筆供自述】 陸軍第百十七師団師団長 陸軍中将 鈴木啓久
 「すすきひらく 1890年福島県生まれ。(略)41年少将になり華北の第27師団の第27歩兵団長となり、43年まではじめは冀中地区、次に冀東地区で警備討伐にあたった。この間に長城沿いに無住地区を設定するなど、抗日根拠地や遊撃地区にたいする『三光作戦』の指揮にあたった。441月河南省新郷地区にあった独立歩兵第4旅団長となり、同年7月同旅団を改編して第117師団が新設されると同師団長心得に、454月中将に進むとともに同師団長に任ぜられ、…(略)」(『侵略の証言』中国における日本人戦犯自筆供述書 13頁~29頁 新井利男・藤原彰編 岩波書店 1999年

「河南省新郷という地名がポイントだな。」
「オジの発病場所が新郷だからね。」

「第117師団は、河南省新郷で編成された」(『第117師団』ウィキペディア)
 「第117師団は、河南省新郷で独立歩兵第14旅団を基幹に編成された。編成後、第12軍に編入され、黄河以北の京漢線沿線の警備に当たっていた。師団の編制は、4個独立歩兵大隊から成る歩兵旅団を2個持ち、砲兵を欠いた丙師団である。(略)」
  <師団編成>
   歩兵第87旅団     歩兵第88旅団
   ・独立歩兵第
203大隊  ・独立歩兵第388大隊
   ・独立歩兵第204大隊  ・独立歩兵第389大隊
   ・独立歩兵第205大隊  ・独立歩兵第390大隊
   ・独立歩兵第206大隊  ・独立歩兵第391大隊

「これによると、第204大隊の隊長は上古正樹大尉ということになるね。」
「もう一度、オジの『病歴書』を確認しよう。」

「病歴書」
部隊號  第百十七師團獨立歩兵第二百四大隊歩兵砲中隊
昭和十八年徴集 陸軍兵長
病  名 左第一肋骨カリエス
発病場所 中華民國河南省新郷縣新郷
経  過(1)昭和十九年十二月十九日全身倦怠肩凝背痛咳嗽喀痰左前胸上部超鶏卵大腫瘤ヲ主訴
トシ新郷陸軍病院ニ入院ス
    (2)翌二十年一月九日 左第一肋骨カリエスニ病名決定ス
    (3)北京奉天遼陽各陸軍病院ヲ經テ同年八月十四日關東第一陸軍病院ニ轉入ス當時榮養不良ニシテ左鎖骨下ノ手術創肉芽不良ニシテ再手術ヲ施セルモ治癒スルニ至ラズ(略)
    (4)翌二十一年三月二十五日、衰弱ソノ極ニ達シ四月八日夜半ヨリ喀血多量アリ百般ノ治
療看護モソノ効ナク四月十日午後零時三十分不幸遂ニ鬼籍ニ入ル
死亡年月日時 昭和二十一年四月十日午後零時三十分
死亡ノ場所  満州奉天省海城關東第一陸軍病院 

「発病年月日は19441219日、場所は、『中華民國河南省新郷縣新郷』だ。」
「どうやらオジさんと117師団の関係はまちがいなさそうだね。」
「ところが、この第117師団がじつは問題なんだ。調べてみると、あの731部隊と同じことをしている。この師団がやったことの中には、あの『三光作戦』も含まれているんだよ。」

三光政策
 「三光作戦とも。日中戦争での日本軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称。三光とは、殺しつくす、焼きつくす、略奪しつくすの意味。とくに、華北地方の中国共産軍の百団大戦とよばれる大攻勢に対抗するため、共産軍に協力していると思われる農村・抗日根拠地を日本軍が急襲して徹底的に掃討したことからそのように呼ばれたとみられる。」(『日本史広辞典』)

「ということは、規模の大小はともかく、皇軍兵士は、中国全土で類似の事件を起こした可能性が出てくるね。」
「殺しつくす、焼きつくす、略奪しつくす…。731部隊とまったく同じことがオジの部隊でも起こっていたということだ。ひとつの師団には25,000人ほどの皇軍兵士がいたというけど、この本(日本史広辞典『師団』の項)には、それが敗戦前には189個師団になっていたと書いてある。皇軍兵士がすべて同じような蛮行をしたとは思わないけど、500万近くの皇軍兵士が同じような精神状態にいたということは否定しがたいね。師団長の鈴木啓久中将は戦犯になったけど、この部隊が行なった残虐行為には『豊潤大討伐』や『魯家峪虐殺事件』などがあげられている。ひどい話ばかりだ。師団長の罪状は8件。」

「軍人」戦犯・陸軍第117師団師団長 鈴木啓久
・「424月『豊潤(ほうじゅん)大討伐』を命令し、河北省『魯家峪(ろかよく)虐殺事件』をひきおこした。民家1900余軒を焼き払い、斬り殺す、焼き殺す、毒ガスを放つなどで住民220余名殺害、毒ガスを投げ込まれ、穴から這い出た18歳の娘を輪姦して死亡させた。強姦に抵抗した妊婦が腹を切り裂かれ胎児をえぐり出され殺された。」
・「同年(1942)10月、河北省潘家戴庄(はんかたいしょう)において、民家1000余軒を焼き払い、1280余名を銃剣で突く、生き埋めなどで殺害、63名の妊婦が殺されたが、その多くは強姦され腹を裂かれ胎児をえぐり出された。19名の嬰児が母親の手からもぎ取られ地面にたたきつけられて殺された。」  (『中帰連』1425頁〔特集〕無順戦犯管理所)

「まるで『悪魔の飽食』だな。」
「オジが入営したのは1943年(昭和18年)101日。『豊潤大討伐』や『潘家峪虐殺事件』が起こったのはそれより1年前のことだ。だからオジが直接これらの事件に関係したとは考えられないが、似たような事件は他にもあっただろうということだ。」
731部隊もふくめ、中国全体、あるいはアジア全体で同じような事件が起こったのではないかということの検証は、後世の日本人たちの責任だな。」
「そう、オレはオジに肉親としての強いつながりを感じている。でもね、オジを戦争の被害者としてだけの目で見ていたら真実は見えなくなると思うんだ。オレは戦後生まれの人間として、オジたちをあのような“狂気の戦争”に駆り立てた動機や原因を知りたいんだよ。識者の中にはオウム真理教との関係を指摘している人がいるけど、出征前は素直で穏やかな青年が、他国人の前ではなぜ“悪魔”に変身したかということなんだ。」
「マインドコントロール、思考停止…。キーワードはいっぱいあるね。オウムとの比較で皇軍兵士の精神状態を考えてみることは重要だと思うよ。」
「そのとおり。そこを明らかにすることが、逆にオジの名誉のためだと考えているんだ。この点については改めて討論しようよ。こっちの資料も見てくれ。」
「これは生体解剖をした軍医の告白だな。」

「太行の麓をしのんで 生体解剖」 (第117師団野戦病院軍医 野田実)
 (〔略歴〕1915年岐阜県生まれ。1941年東京医専門卒。軍医中尉) 
「1945
4月のことであった。炭鉱で名高いあの河南省焦作鎮に私の所属していた旧第117師団野戦病院が駐留していた。(略)沖縄の戦局は、すでに決定的段階にはいったことが報ぜられており、この作戦が終ったら、師団は移動するだろうという噂さえ、どこからともなく伝えられていた。病院には、私を含めて院長以下5名の軍医が残留していたが、新しい入院患者もほとんどなく、病院はひっそりとしており、重苦しい不安な空気がただよっていた。連日連夜、将校倶楽部に入り浸り、酒と女で、官能がすでに麻痺されたように荒んでいた。私はこのような焦燥のなかで、もっと強い刺激を求めていたのだ。(略)噂に聞く『生体解剖』を一度やってみたいと思っていたが、去年鄭州のときは、傍で見学していただけで、自分でやれなかったのが残念でたまらなかったからである。(略)一見した私の最初の印象では、25、6歳の淳朴な農民のように思われた。(略)軍人の父を持ち、生まれ落ちたその日から、天皇教と武士道精神を叩き込まれ、日本軍国主義の坩堝の中で育った私には、こうした行為を得意がり、こうしたしぐさが骨の髄まで滲み込んでいた。」                     (『季刊 中帰連』ネット情報)

「ここでも酒、女だよ。そして生体解剖。これが軍医の証言だよ。医者でありながら、中国人をまったく人間だと思っていない。人間としての共感はこれっぽっちも感じられない。でも『うわさに聞く生体解剖』と言っているから、この『医学上の行為』が実際他にもあったということだね。」
「酒、女については、日本軍の上層部はどこも同じだな。ビルマ戦線でもそうだったからね。そしてどういうわけか、みんな気持ちがすさんでいる。」
「皇軍兵士はみんな『ナルヨウニシカナラナイ』と思っていたんだと思うな。何をやっているのか、自分にもわからなかったんだ。ちょっと長いけど、鈴木啓久師団長の供述も聞いておこうよ。」

117師団と慰安婦 (【筆供自述】陸軍第百十七師団師団長 鈴木啓久)
・日本侵略軍の蟠居する所には私は各所(豊潤、砂河鎮其他23)に慰安婦を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は約60名あります。
・「歩兵第四旅団長及第117師団長の時の罪行」
19441月、私は歩兵第4旅団長を命ぜられ新郷に侵入し、独立歩兵第203、第204、第205、第2064大隊を指揮し、新郷開封地区を侵略し、京漢線、隴海線の一部、交通路の警備及其の地方『治安維持』の任務に服したのであります。之が為第203大隊を開封に、第204大隊を汲県に、第205大隊を懐慶に、第206大隊を揚武に蟠居せしめ、各隊に対し、次のような命令を与ヘて、平素に於ける行動の指針を示したのであります。(略)
此の侵略間、私の部下各隊は各所に於て放火、掠奪を行ひました。長垣県に於ては某村を第204大隊(長阿部少佐)は侵略軍に反抗せりとの口実の下に焼き払ひ(約300戸)其の村落の中国人民の農民660名を或は銃殺し、或は刺殺し、或焼殺する等の惨虐にして野蛮極まる方法を以て虐殺したのであります。又私は八路軍の糧穀を略奪することを命じましたので、中国人民の糧穀百噸を掠奪し糧穀倉庫一棟を焼却しました。尚此の侵略中私の部下の各隊で俘虜を惨殺をしましたのは合計30名であります。…」(『侵略の証言』中国における日本人戦犯自筆供述書 1329 新井利男・藤原彰編 岩波書店)

「この資料にもオジの部隊が実際どのような蛮行を犯したかが具体的に書いてある。」
「中国人婦女を誘拐して慰安婦にしたともあるね。」
「その婦女の数は約60名とある。」
「それにしても、長垣県での第204大隊の蛮行はひどいな。銃殺・刺殺・焼殺・惨殺…まさに残虐極まりないね。」
「そのころオジがどのような状況にあったか、想像できるんだよ。鈴木師団長の供述書には、『19441月、私(鈴木師団長)は歩兵第四旅団長を命ぜられ新郷に侵入し、独立歩兵第203、第204、第2052064大隊を指揮し…』とある。新郷で発病後のオジは北京にある関東第一陸軍病院に移送され、そこで遺書を書いたと思うんだ。日付は『昭和二十年十二月十日』となっている。」

極限状態にいた皇軍兵士

「君は前に、君の家族や親戚の人たちは、オジさんがいた戦地の状況は知らないと思うと言ったよね。」
「たぶん、知らないと思う。いや、知っているかもしれんな。わからん。でもね、オレが言いたいことはだな、けっしてオジや銃後の人たちをせめているわけではない。問題は、マインドコントロールのメカニズムなんだ。人間の尊厳について教えなかった天皇制国家、文部省、あるいは日本の伝統的共同体のありようを問題にしているんだよ。人間の尊厳が大切にされる教育が行なわれていたならば起こりえなかった悲劇だと思うんだ。」
「文部省がつくった『国体の本義』はすごいね。『我を捨て去り、ひたすら天皇に奉仕せよ』と教えている。天皇が支配する国家体制の優越性を延々と説いているんだな。」
「君はこれ想像できるかい。つまりだ、君が今皇軍兵士で『支那』にいると仮定する。ぜひ想像してくれたまえ。友人や上官がみんな非道なことをやっている。時には強姦もやっている。いいかね。目の前に『若い女』がいる。戦地では上官たちは酒も女もやりたい放題だ。一兵卒の身でふだんは怒鳴られ殴られ、腹はいつも減っている。いつ死ぬかわからない。年齢は20代前半。そんな状況に置かれた場合、決して強姦などするわけがない、掠奪などするわけがない、人間としてそんな非道なことをするはずがないと、そう断言できるかね。」
「そう言われると自信はないなあ。オレも日本人の血を引いているからね。『一気飲み』の経験もある。個人としてはまともなようでも、集団になると別の思考回路にスイッチが入るからな。行動パターンに変化が起こるというわけだ。戦友たちから、『おい、みんな、いつ死ぬかわからん身だ。今しかねえぞ』と背中を押されたら、何をするかわからんな。」
「オレも中国にいるオジに変身して、いろいろ考えてしまうのさ。ロボット人間なら、何をやってもおかしくはない。『上官の命令は天皇の命令』だったからな。」
「君のオジさんが遺書に書いた『人生の敗残者』、これは考えさせるね。何を言いたかったのかなあ。」
「皇国の勝利に貢献できない体になってしまって、両親や天皇陛下に申し訳ないという気持ちだろう。当時の人々の言説を読めば、そういうことになる。」

「死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」(軍隊手帳)

「君のオジさんは栄養不良の状態にあったというけど、皇軍兵士の死と餓死の関係は一般にはあまり知られていないね。」
「戦時中は、『皇軍兵士の命は鴻毛より軽し』の時代だった。問題は、なぜ近代戦を戦う皇軍兵士が徴発までしなければならなかったのかということだ。『衣食足りて礼節を知る』という言葉があるけど、『衣食足りなかった皇軍兵士』は礼節をまったく知らなかったということだね。」
「餓死といえばガナルカナルは有名だ。なんたって『餓(ガ)島』だもん。」
「ニューギニアもすごかったようだ。」
「ほかに『白骨街道』の話もある。当たり前の話だが、アメリカ軍はどんな辺鄙な地域でも確実に補給が行き届いていたというからね。」
「合理的な軍隊と神がかりの皇軍とのちがいなのさ。戦わずしてすでに敗北していたということだよ。」

「日本軍戦没者の過半数が餓死だった」(藤原彰)
 「日本軍戦没者の過半数が餓死だったという事実に、私はあらためて驚きを感ぜざるを得ない。しかもそれはある戦場の特別な事例なのではなく、全戦場にわたって起こっていたのである。補給の不足または途絶による戦争栄養失調症が常態化し、それによる体力の低下から抵抗力を失って、マラリア、赤痢、脚気などによる病死、つまり広い意味での飢えによる死、餓死を大量発生させたのである。」 (『餓死した英霊たち』233 青木書店)

「君のオジさんの場合も、藤原氏のこの指摘にあてはまるような気がするね。」
「医学的なことはよくわからんが、『カリエス』は辞典(広辞苑 第五版)にはこう出ている。『骨の慢性炎症。殊に結核によって骨質が次第に破壊され、乾酪壊死物が膿状に流出する骨の病気』。『診断書』には『當時榮養不良ニシテ』とあるから、オジも栄養不良と疲労が重なって結核にかかり、それがさらにカリエスに進行したとも想像できないことはないよ。」
「だとすると、『戦病死』した君のオジさんの死の原因については、兵隊を恒常的に『栄養不良』の状態においた軍や大本営の責任が考えられるね。」
「藤原彰氏は、『靖国英霊の実態は華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、餓死地獄の中での野垂れ死にだった』と書き、『その責任を死者に代わって告発したい』と述べているんだ。」
20歳代を中心とする若い皇軍兵士たちは、補給の不備を抗議することもできず、黙々として上官の命令に服したというわけだな。」
「そこがポイントだ。皇軍兵士たちはつねに空腹状態だった。メシを食わねば生きていけない。『徴発』しかない。帰還した兵士たちはさすがに強姦のことについては口を閉ざすけど、『徴発』は平気で使っている。悪いことをしたとは思っていないんだ。『ハラガヘッテイタカラ シカタガナカッタ』。こんなクレージーな戦争はない。藤原氏が言った『野垂れ死』という言葉の中に、天皇制がもたらした“狂気の戦争”を感じるね。」
「オレたちに求められているのは、『日本軍戦没者の過半数が餓死だった』という藤原氏のこの記述を、日本人としてどう受け止めたらいいのかということだ。『出征』前は健康だった若者が栄養不良で餓死する、この実態をどう考えたらいいのかということなんだ。戦後64年経過した今でも答えが出ているとは思われないね。」

「オレたちの無念を晴らしてくれ」

「数年前、オレの妻の従兄弟がこんな話をしてくれたよ。彼の父親はニューギニアで死んだんだが、ある年厚生省が計画した南洋への『慰問団』に参加したというんだな。船の上で引率の係員が遺族たちにこう言ったそうだ。『みなさん、大きな声で、お父さん! と呼びかけましょう』とね。参加者たちは海に向かって絶叫し、だれもが号泣したというんだよ。この話を聞いてオレはショックを受けたね。これでは厚生省の描いたシナリオどおりの光景ではないか。高橋哲哉氏はこの手法を、『靖国信仰を成立させる感情の錬金術』と名づけているね。」
「『日本軍戦没者の過半数が餓死』…。史実がしっかり教えられていれば、戦後生まれの参加者たちはまったく別の対応をしていたはずだよ。オレはね、日本国民が教祖だった人物の責任をはっきり認めないうちは、何年経とうが日本人が国際社会から尊敬を受ける日はこないと思うね。木戸幸一ではないが、まさに『永久の禍根』だよ。」
「『永久の禍根』か。ダワー氏は、天皇の退位によって『歴史を清算すべきであった』とはっきり書いているね。かつて中曽根元首相は『戦後政治の総決算』と言って物議を醸したけど、ほんとうに必要なのは『戦前政治の総決算』であることがよくわかるな。」
「とにかく不思議な国だよ、日本という国は。独裁国家でもないのに戦後64年間も一党支配が続いた国だからね。日本人の『城内平和』とは、外光が差し込むことのないブラックホール内の光景だ。漂流する国家のイメージと言ってもいい。オレはこれまでオジといろいろ討論してきたけど、今ではもっとも親しい友人のうちの一人だよ。そして彼は、いつも耳元でこう囁くんだ。『狂気の戦争で死ななければならなかったオレたちの無念を晴らしてくれ』とね。」 (2009・11・11)

パートⅡ につづく

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