⑦ 問題追及   「現人神(あらひとがみ)」の戦争責任

<はじめに>

「天皇の勅もち/勲立てむ時ぞ今」―山梨県立日川高等学校校歌にはこのような一節があります。この校歌は1916年(大正5年)につくられ、現在でも「伝統の校歌」として歌い継がれています。当時、「天皇崇拝」の校歌は日本全国の学校で歌われていました。しかし、敗戦となり憲法が「天皇主権」から「国民主権」に代わるのを機に、ほとんどの学校は時代に沿う新校歌につくりかえましたが、日川高校の関係者はこの時代の流れを無視してきました。なぜなのでしょうか。彼らの多くは政治家であり、元軍人であり、また戦前・戦中からの教育関係者でした。改めて天皇制国家を支持する日本人に問いかけます。この日川高校校歌をこれからも生徒に歌わせていいのしょうか。

「県民の会」は今回、⑦問題追及―「現人神(あらひとがみ)の戦争責任」のタイトルでネット情報として掲載し、日本社会が抱えてきた戦後のひずみについて考えたいと思います。なお、文中の強調(赤字の部分)は「県民の会」の意図によるものあることをご理解ください。

 

(上)「天皇ハ神聖ニシテ犯スへカラス」

 

〈その①〉 大日本帝国憲法 (明治22年2月11日制定)

  第一条   大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

  第三条  天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

  第四条   天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

  第一三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス                 (『解説教育六法2000』1032頁)

 

〈その⓶  「天皇は絶対以上の絶対的存在だっ       千田夏光

■「昭和二十二年五月三日『日本国憲法』がいわゆる“新憲法”として施行されるまでの『大日本帝国憲法』(明治二十二年制定)のもとで、天皇は絶対以上の絶対的存在であった。

‥‥戦争について『天皇ハ戦(
タタカイ)ヲ宣(セン)シ和ヲ講シ及(オヨビ)諸般(ショハン)ノ条約ヲ締結ス』(第十三条)で、天皇の開戦宣言なしでははじめられないものとなっていた。

                                                                                    『天皇と勅語と昭和史』2頁 汐文社)

〈その③〉 山梨県立日川高校校歌      1916年・大正5年制定

                作詞 大須賀乙字  作曲 岡野貞一
    1 天地の正気甲南に
     籠りて聖き富士が根を
     高き理想と仰ぐとき
     吾等が胸に希望あり      

    2 至誠の泉湧き出でて
     流れも清き峡東の
     水に心を澄ましなば
     未来の春は輝かむ

    3 実剛毅の魂を
     染めたる旗を打振りて
     天皇の勅もち
     勲立てむ時ぞ今 
        
    4 猛き進取の調もて
     歌ふ健児の精神は
     白根が嶽にこだまして
     何時の世までも轟かむ
  (『何時の世までも轟かむ』山梨県立日川中学校・日川高等学校百周年記念誌より:発行日2001年11月3日)

 

〈その④〉 青少年学徒に出された勅語

―文を修め武を練り質実剛健の氣風を振勵(しんれい)せよー     昭和天皇  1939年 (昭和14年)    

■ 「勅語: 國本ニ培(ツチカ)ヒ國力ヲ養ヒ以(モツ)テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚(ハナハ)ダ遠シ而(シカ)シテ其()ノ任實(ジツ)ニ繫(カカ)リテ汝等(ナンジラ)青少年學徒ノ双肩(ソウケン)ニ在リ(略)各其ノ本分ヲ恪守(カクシュ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ氣風ヲ振勵(シンレイシ以(モッ)テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ」   (『天皇と勅語と昭和史』千田夏光 297頁~298頁)


その⑤〉 「汝等(ナンジラ)青少年學徒ノ双肩(ソウケン)ニ在リ」   ー当時の文部大臣は荒木貞夫陸軍大将ー  

「全国の中等学校以上の学校で奉読式がおこなわれた
「時の文部大臣は陸軍大将荒木貞夫で、ここで下賜されたのがこの「青少年學徒ニ下シ賜ハリタル勅語」であった。全国の中等学校以上の学校ではただちにその奉読式が、これも武装した学生生徒の前でおこなわれたが、『道タル甚(ハナハ)ダ遠シ而(シカ)シテ其()ノ任實(ジツ)ニ繫(カカ)リテ汝等(ナンジラ)青少年學徒ノ双肩(ソウケン)ニ在リ』のところでどの校長も一段と声をはりあげていた。」 (『天皇と勅語と昭和史』千田夏光298頁~299頁)

 

〈その⑥〉 「朕の深く懌(よろこ)ぶ所なり」   日独伊三国同盟成立の詔書ー   1940年 (昭和15年9月27日)

■ 「・・・朕ハ‥‥政府ニ命ジテ帝國ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両國トノ提携協力ヲ議セシメ茲(ココ)ニ三國間ニ於(オ)ケル條約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌(ヨロコ)ブ所ナリ  
                      
                                                        (天皇と勅語と昭和史』千田夏光 311頁)


 〈その⑦〉 米国、英国にたいする宣戦の詔書      昭和天皇 1941 (昭和16年)12月8日

■「天祐(テンユウ)ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚(コウソ)ヲ踐(フ)メル大日本帝國天皇ハ、昭(アキラカ)ニ忠誠勇武ナル汝(ナンジ)有衆ニ示ス。 
 朕茲ニ米國及(オヨビ)英國ニ對シテ戦ヲ宣ス。(略) 皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ、汝(ナンジ)有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ、祖宗ノ偉業ヲ恢弘(カイコウ)シ、速ニ禍根ヲ芟除(サンジョ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以(モッ)テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス。」(句読点 筆者) 

  御名御璽
   昭和十六年十二月八日
            内閣総理大臣 兼内務大臣 兼陸軍大臣
                         東條 英機
            文部大臣         橋田 邦彦
            國務大臣         鈴木 貞一
            農林大臣 兼拓務大臣   井野 頷哉
            厚生大臣         小泉 親彦
            司法大臣         岩村 通世
            海軍大臣         嶋田繁太郎
            外務大臣         東郷 茂徳
            逓信大臣         寺嶋  健
            大蔵大臣         賀屋 興宣
            商工大臣         岸  信介
            鐡道大臣         八田 嘉明

                        (『天皇と勅語と昭和史』千田夏光 327頁~330頁)

 

〈その⑧〉 開戦の詔勅 「天皇はなんら不安はないご様子」              1941年12月 

■「さらに、十二月一日の御前会議は、最終的に、米・英・オランダに対する開戦を決定した。『杉山メモ』(上)は、この御前会議の場における天皇の様子を、『オ上ハ説明ニ対シ一々頷カレ何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ』と記している。こうして、十二月八日には陸軍の第二十五軍がマレー半島に上陸、海軍機動部隊がハワイの真珠湾を空襲して、ここに太平洋戦争が開始される。」

(『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋 83頁)

 

〈その⑨〉 「東条を首相に据えたことは、天皇の意志だった」       1941年

■「近衛内閣の総辞職後、十月十八日には、東条英機大将を首班とする東条内閣が成立した。日米間の妥協をはかろうとする近衛にかえて、近衛内閣の陸相として対米英開戦を強く主張してきた東条を首相にすえたことは、天皇及び宮中グループが戦争の道を選択したことを意味した。」           (『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋 80頁)

 

〈その⑩〉 「天皇は、東条首相を深く信任しつつ開戦を決定したのである」 

■「東条の組閣後、十日間にわたって開催された大本営政府連絡会議の結論も、やはり、『戦争』であった。これを受けて十一月五日に開催された御前会議は、『武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス』という内容の『帝国国策遂行要領』を決定した。この段階では、もはや天皇自身も開戦を堅く決意していた。(略)天皇は、東条首相を深く信任しつつ開戦を決定したのである。」(『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋82~83頁)

 

〈その⑪〉 「東条が、天皇の意志に反して戦争に持ち込むことは、ありえなかった」  ―東条の忠臣ぶりを示すエピソードー

 ■「同様に、この点については、東条の腹心であった佐藤賢了も次のように指摘している。『陸相、首相になってからの(東条の)施政の根本理念は「お上の御納得を仰ぐこと」であった。‥‥だから上奏する場合まず御納得を仰ぎうるか否かを考える。ついで上奏したとき、「いけない」と仰せられなくても、御気色がくもれば引き退って考えなおすのであった。御納得を仰ぐには正式に上奏すべきことではなくても、よく内奏又は中間報告を申し上げた。それは過度と思われるほどで、私達は「東条さんの内奏癖」とかげ口をきいた。(佐藤賢了「東条英機と太平洋戦争」)』。東条に代表される軍部首脳が、天皇の意志に反してまで、強引に戦争にもちこむことは、ありえなかったのである。」(『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋82頁)

 
〈その⑫〉 「天皇の戦争目的は、南方地域からの資源の略奪にあったことを自認している。」   1942年

 「(一九四二年)二月二十二日には、天皇は、東条首相に、戦争の早期終結に留意するよう指示しつつも、『南方の資源獲得処理についても中途にして能くその成果を挙げ得ない様でも困る』と語っている(『木戸幸一日記』下)。ここでは、天皇は、太平洋戦争が『自存自衛』(宣戦の詔書)の戦争、すなわち、防衛戦争などではなく、その重要な戦争目的が南方地域からの資源の略奪にあったことを自認しているのである。」(『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋85頁)

 
〈その⑬〉 「ノイローゼ気味の天皇」  ー天皇や木戸大臣も東条を見放した― 1944年(昭和19年)

 ■「1944年(昭和19年)615日に米軍がサイパン島に上陸すると、重臣を中心とする倒閣工作が本格化する。こうした中で、ようやく天皇や木戸大臣も東条を見はなし、サイパン島陥落後の七月一八日後、東条内閣は総辞職に困れるである。このころから、打ち続く敗戦によって、天皇もノイローゼ状態になる。七月一五日、賀陽宮恒憲法王は、「陛下は此の頃、神経衰弱御気味で、往々、非常に御興奮遊ばされる」との伝言を近衛文麿に伝えている。」(『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋 88頁)

 

〈その⑭ 「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト・・・・」     昭和天皇    ー戦争継続への天皇の執着― 1945年2月14日

 ■「そうした戦局の急速な悪化の中で天皇の決意も動揺をみせ始めてはいたが、天皇は依然として戦争の継続に執着した。翌一九四五年(昭和二十)の二月十四日には、近衛文麿の有名な上奏が行なわれている。近衛はこの上奏の中で、敗戦はもはや必至である、しかし、降伏は直ちに『国体』の変革を意味しない。むしろ『国体護持』の観点からみた時、敗戦よりも恐るべきは、それに伴って発生する可能性のある『共産革命』である。この最悪の事態を回避するため、いまやなによりも和平交渉を急ぐべきである、という率直な意見を述べた。しかし、この上奏に対し天皇は、『モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ』とのべて近衛の提案に消極的な姿勢を示している(『木戸幸一関係文書』)」  (『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋89頁)

 

〈その⑮〉 「米国は必ずや天皇制廃止を要求して来る」     昭和天皇  1945年2月

 「また、同じ(一九四五年)二月に、天皇は、中村俊久侍従武官に、『この戦争は頑張れば必ず勝つと信じているが、国民がこれに耐えられるだろうか』と語った(秦郁彦)『裕仁天皇五つの聖断』)。この段階での天皇は、大きな不安にさいなまれながらも、未だなんらかの形での戦局の挽回に期待をかけていたのである。
 同時に、和平交渉に対する天皇の姿勢を消極的にさせていたものは、自らの地位と『国体』の将来に対する不安であった。近衛の上奏の際、天皇は、『参謀総長は上奏し、今日日本が和を乞うが如きことがあれば、米国は必ずや天皇制廃止を要求して来るが故に国体も危ない。結局和を乞うとも国体の存続は危く、戦って行けば万一の活路が見出されるかも知れぬと申したが、このことを如何に考えるか』と近衛に下問しているのである。(『失はれし政治―近衛公麿公の手記』)」 『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋 89頁~90頁)

 

〈その⑯〉 「朕は‥‥青少年学徒の奮起を促し…」   「戦時教育令の上諭」 1945年2月22日 

   ―朕は忠誠純真なる青少年学徒の奮起を賀し之を公布せしめる―

 ■「(この戦時教育令)は‥‥各学校ごとに戦闘的組織として『学徒隊』なるものつくり、校長を隊長〟に、いってみれば学校を〝準軍隊〟にするというものだった。隊長になった校長のもと担任教師が軍隊でいう中隊長、小隊長役をつとめ、さらに同一都市の『学徒隊』をまとめ〝連合戦闘部隊〟を構成するというのであった。それは教育の崩壊というより、教育そのものの放棄あった

上諭=明治憲法下で、法律・勅令・条約・予算などを公布する時、その冒頭に付して天皇の裁可を表示した語。『広辞苑』)(『天皇と勅語と昭和史』千田夏光 388頁)

 

〈その⑰〉 「『国体』の危機が感じられるようになって初めて、『終戦』を決意した天皇」   ―天皇は戦争継続に固執した―

 「敗戦に至る政治過程を検討してみる時、らかなことは、天皇が戦争継続に固執したため、『終戦』工作の本格化が大幅に遅れたという事実である。そのことは、徹底抗戦を怒号する軍部の無謀な本土決戦論に道をひらき、戦争そのものを長びかせることによって、無意味な犠牲者を急増させるという悲劇的な結果をもたらした。軍部を押さえつける力は、天皇にしかない以上、その天皇が戦争継続に固執したことの意味は決定的である。(略)結局、天皇自身は、日本の戦争遂行能力が絶望的状態となり、『国体』の危機が感じられるようになって初めて、『終戦』を決意したのである。」 (『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋 98頁~99頁 )

 
〈その⑱〉 「東條内閣最後の閣議で、「松代大本営」への皇居・大本営移転のための施設工事が了承された」

 「太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、大日本帝国陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し、海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。一九四四年七月のサイパン陥落後、本土攻撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月東條内閣最後の閣議で、かねて調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。   「松代大本営跡」『ウィキペディア』)


〈その⑲〉 「天皇も賛成した大本営の松代への移転   青木孝寿 (長野県短期大学紀要 1989年)

 「大本営移転計画の発端は、大本営が『絶対国防圏』としていた太平洋上の拠点(サイパン島・筆者)が陥落または空襲されるという事態が出てきたことから、陸軍省軍事課予算班の井田(のち岩田)正孝少佐(のち中佐)が、一九四四年一月ごろ富永恭次陸軍次官に進言したことがはじまりとされる。
 井田少佐の証言によるとその理由は、天皇・大本営・政府という日本の中枢を空の脅威(空襲)から守って、本土決戦における最後の指揮をとるために大本営を信州に移転する、というものであった。そのためにあらかじめ大本営を建設しておき、そして最終的には『国体の護持』(絶対主義天皇制の維持)という目的を達するというのである。事実、一九四五年七月には、重臣木戸幸一内大臣の信州移動の建言に天皇も賛成し、『国体維持』の一つの方法として決意したのである(実際は移動しなかったけれども)。              (『「松代大本営」の建設に関する研究』)

  
〈その⑳〉 「大本営の松代への移転の建設作業に当たっては、徴用された日本人労働者や朝鮮人労働者が中心となった」

■「建設作業にあたっては、徴用された日本人労働者および日本国内および朝鮮半島から動員された朝鮮人労働者が中心となった。工事は西松組や鹿島組が請け負った。‥‥総計で朝鮮人約七、○○○人と日本人三、○○○人が当初八時間三交代、のち一二時間二交代で工事に当たった。最盛期の一九四五年四月頃は日本人・朝鮮人一万人が作業に従事した。」

     延べ人数 西松組・鹿島組・県土木部・工事関係     120、000人
            勤労奉仕隊                      79、600人
            西松組・鹿島組関係                157、000人
            朝鮮人労務者                    54、000人
             合計延べ                  610、600                 (「松代大本営跡」『ウィキペディア』)

 

〈その㉑〉 「1945年初期には、国民生活の危機的状況に対する関心は、天皇の政治的判断の基底的要因ではなかった」  

■「木戸幸一は、敗戦後の一九四九年(昭和二十四)十二月二十日、GHQ・G2歴史科の質問に答えて、『陛下は実の処一九四五年の初期には、未だ軍備を撤廃される位ならば戦争を継続する外ない位のお考への様であった。武装なき国家となってしまっては国家自体の存続が出来まい、と云うような御心配を往々洩らし居られた』と語っている(『木戸幸一日記 東京裁判期』。(略)
 要するに、戦争の継続に固執する天皇の姿勢に顕著なのは、『不名誉』な降伏に対する忌避と、自らの地位及び『国体』の『護持』に対する強い執着であり、換言すれば、無謀な戦争の中で傷つき、倒れつつあった国民の現状とその将来の運命に対する関心の希薄さであった。戦争の継続か、という重大な岐路にあって、国民生活の危機的状況に対する関心は、天皇の政治的判断の基底的要因ではなかったのである。  (『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋90頁~91頁)

(下) 天皇(あらひとがみ)免罪への道



〈その㉒〉 「神州の不滅を信じ・・・」   昭和天皇 「終戦の詔勅」 8月14日

 「朕、深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
 朕は、帝国政府をして英米支蘇四國に對し、其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。(略)
 惟ふに、今後帝國の受くへき苦難は固より尋常にあらす。爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪え難きを絶え、忍ひ難きをしのひ、以て萬世の為に太平を開かむと欲す。(略)」 挙國一家子孫相傳え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、總力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏し、誓って国體の精華を発揚し、世界の推運に後れざらんことを期すべし。爾臣民、其れ克く朕が意を體せよ。各大臣副署」 (『天皇と勅語と昭和史』千田夏光 390~392頁―ひらがな、句読点筆者)

 

〈その㉓ 「ドイツと違って、日本では天皇をはじめとする政財界の指導者は責任を問われなかった」    藤原 彰

 ■「‥‥ドイツの場合、敗戦にともなって戦時中の体制は完全に解体され、責任者はすべて排除され、戦争犯罪は徹底的に追及された。(略)それに比べると、日本の戦争責任の追及はきわめて不徹底であった。戦争責任者として裁かれたのは、東京裁判の被告だけで、それ以外の天皇をはじめとする政財界の指導者は責任を問われなかった。軍国主義者の公職追及は行われたが、対象は主として軍人で、官僚を筆頭に戦時中の多くの指導者が生き残った。とくに中央、地方を通じる官僚組織は無疵(むきず)のままで、戦前、戦中の支配体制が、そっくり戦後にも温存されたのである。」   (『日本人の戦争意識』「中帰連特集」1999年6月発行)

〈その㉔〉 「朕(ちん=天皇)は・・・・帝国憲法の改正を認可し、ここにこれを公布せしめる」   1946

 御名御璽 昭和二十一年十一月三日
  内閣総理大臣兼外務大臣  吉田  

  国務大臣             幣原喜重郎
  国務大臣             斎藤隆夫
  大蔵大臣             石橋湛山     他 各大臣      (『解説教育六法2000』14頁)

〈その㉕〉 教育勅語等廃絶に関する決議   ー諸詔勅の処理に対する行政上の処置は不十分であるー

1948年6月19日 衆議院決議

「…しかるに過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったためである。 思うに、これら詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明らかに基本的人権を損い,且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よって憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。 右決議する。            (『解説教育六法2000』)

 
〈その㉖〉 「昭和天皇は戦禍に打ちのめされた国民を鼓舞、激励されました」 昭和聖徳記念財団  会長 伊吹文明  201141日設立

ー設立趣旨ー 

 ■「‥‥昭和二十年九月、マッカーサー元帥との会見において、ご一身を投げ出されて国民の救済を求められた大御心が元帥をいたく感動させたことは、今や大方の人の知るところであります。また、昭和天皇は昭和二十一年二月の川崎市を皮切りに、九年間にわたって全国各地をご巡幸され、戦禍に打ちのめされた国民を鼓舞、激励されました。それはご陛下ご自身の強いご意向によるもので、ご健康などは一切斟酌されず、ときにはご料車の中で宿泊されるほどの強行日程の中、鉱山の坑道深く入られたり、赤銅色の顔をほころばす漁師に声をかけられたり、戦災孤児に優しく手を差しのべられるなど、温かくそして力強く国民を励まされました。昭和天皇のもとで『昭和』の時代を生きてきた私たちが、様々な形や方法でご聖徳を永く伝え継いでいくことは誠に意義深いことであり、またそれは私たちに課せられた責務であると考えて、昭和聖徳記念財団を設立いたしました。」 (「昭和聖徳記念財団について(会長挨拶/設立趣旨)で検索」)

 

〈その㉗〉 昭和聖徳記念財団について    ー会長挨拶 「昭和天皇のご聖徳をたたえ・・・」ー

 ■「このたび綿貫前会長の職を引き継ぎ、会長に就任いたしました。財団法人昭和聖徳記念財団は、昭和天皇のご聖徳をたたえ、そのご事績を広くかつ後世に伝えるため、平成三年十二月、文部省(現在の文部科学省)の認可を受けて設立されましたが、平成二十三年三月に内閣府の公益認定を受け同四月に公益法人財団に移行したものです。平成十七年十一月には「昭和天皇記念館」が開館され、間もなく十五周年を迎えようとしています。(後略)  (「昭和聖徳記念財団について」で検索)

 

の㉘〉 「神道政治連盟国会議員懇談会」とは何か    1970年結成  ー現在の会長は、自由民主党衆議院議員の安倍晋三―

日本に誇りと
自信を取り戻すため
さまざまな問題に取り組んでいます     (『神道政治連盟』で検索)

■「神道政治連盟国会議員懇談会しんとうせいじれんめい こっかいぎいんこんだんかい)は、神社本庁の関係団体である『神道政治連盟』(神政連)の理念に賛同する日本の国会議員により構成される議員連盟である。

 概要
 一九七○年(昭和四十五年)五月十一日結成。結成時の『神道政治連盟国会議員懇談会規約』によれば、懇談会は『神道政治連盟の趣旨に賛同する国会議員をもって組織する』と規定されているものの、自身の宗教・信仰について問われることはなく、神道の布教は目的としていない。
 現在の会長は、自由民主党衆議院議員の安倍晋三。会員数は、二○二一年(令和三年)七月二十二日時点で二九五名(衆議院議員:二一八名、参議院議員:七七名)

神政連は日本会議と同じく、自民党の政権運営に強い影響力を行使し、二○一二年(平成二十四年)十二月に発足した第二次安倍内閣以降、入閣した議員の大半が『神道政治連盟国会議員懇談会』もしくは『日本会議国会議員懇談会』いずれかに所属していることが判明している。」 (ウィキペディア『神道政治連盟国会議員懇談会』で検索)


〈その㉙〉 日本会議ー「国外からは超国家主義団体ないし極右団体と見做される」 先の大戦は東アジアを解放するための戦争」―

 「日本会議 (にっぽんかいぎ、英称:Japan Conference)は、一九九七年に設立された日本の政治団体。日本で最大の保守主義・ナショナリズム団体。国外ジャーナリズムからは超国家主義団体ないし極右団体との見解もある
 
 二○一六年現在、会員は約三、八○○○名、四十七都道府県に本部が、また二四一の市町村支部がある。会長は田久保忠衛(二○二一現在)。                             

■「先の大戦は東アジアを解放するための戦争であり、日本政府の謝罪外交は日本国の歴史や戦没者を蔑ろにするものとして、国民から非難されている。「従軍慰安婦は」強制連行ではなく公娼制度であり、『南京大虐殺』も実在しない。」                  (ウィキペディア『日本会議』)

 

〈その㉚〉 「私たちがあるのは246万余柱の英霊のお陰」    三好 達 (元最高裁判所長官)

 ■「‥‥私は、昭和十八年十二月から終戦直後までの二年弱の期間、海軍兵学校に学びました。私共の先輩も多くの方々が靖國神社に合祀されているのですし、現在の私たちがあるのは二四六万余柱の英霊のお陰であるというのが偽らざる気持ちです。最近、論じられております新しい追悼施設とも関連しますが、『追悼、即ち、悼み、悲しむ』というだけでなく、大事なことは、お国のために命を捧げた方の功績を称える、顕彰する気持ちではないかと思います。‥‥」 

小堀圭一郎 (東京大学名誉教授)

■「国民が自分たちが現在享受している平和についての感謝の祈りを捧げる場が靖國神社である。つまり、誰のお陰で戦後の日本がここまで立ち直るだけの土台を護り得たかを考える一種の道徳教育の場が靖國神社であり、この社には教育施設としての意味合いもあるのではないでしょうか。」    (『日本会議の月刊誌「日本の息吹」』(平成14年11月号)

 

〈その㉛〉 戦後に復活した「君が代」・「日の丸」     ―国旗国歌法制定― 1999

      君が代は

      千代に八千代に

      さざれ石の
      いわおとなりて

      こけのむすまで

 〈その㉜〉 「9条の発案者は幣原喜重郎。立証を試みた研究者・笠原十九司」

 「戦争放棄を定めた憲法九条を最初に言い出した人はだれなのか――。東アジア近現代史の研究者で都留文科大学名誉教授の笠原十九司さんは、『発案者は元首相の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)であることを証明する』として昨年四月、『憲法九条と幣原喜重郎』(大月書店)を出版。研究者の間で長年くすぶってきた『幣原説』に光を当てた。憲法施行から三日で七四年になる。(『朝日新聞』2021年5月4日)

――「笠原さんといえば南京事件の研究家として知られています、九条に関心を持った理由は」

「安倍晋三前首相が改憲を公言しことがきっかっけです。戦後憲法で保障された国民主権、平和主義、基本的人権を定着させる努力が必要であると改めて認識しました。その時、『平野文書』を知人の書斎で知り、研究に着手したのです。」 

――「平野文書とは」

元首相の幣原喜重郎から衆院議員だった平野三郎が聞き取った記録です。幣原は連合国軍総司令部(GHQ)と憲法改定の交渉にあたりました。その際に戦争放棄を思い立ち、最高司令官マッカーサーに秘密会談で提案したことを、死の直前、一九五一年に打ち明けています。 (「朝日新聞 DIGITAL」で検索)

 

〈その㉝〉 安倍晋三(自由民主党)が所属する「日本会議」についての国際的評価

=アメリカ=

ニューヨークタイムズ    日本会議は「日本最大のナショナリスト団体」

ショナル・レビュー誌   日本会議は「急進的なナショナリスト団体」

 ■ニュースサイト「デイリービースト」 日本会議は「陰で日本を操る『宗教的カルト集団』」

        =イギリス=

エコノミスト誌  「日本会議は『伝統的価値観』への復帰を主張するナショナル・シンクタンク」

ガーディアン紙  日本会議は「超保守的なロビー団体」 

=フランス=

ル・モンド紙    日本会議は「日本の軍国主義者に対する刑事告発に異議を唱える修正主義組織」

        =アジア・その他=

  香港「サウスチャイナ・モーニング・ポスト紙」  日本会議は「極右のカルト」

  韓国聯合ニュース・中央日報   日本会議は「日本の右翼化の流れに相当な影響力を行使している」

     オーストラリア放送協会(ABC 日本会議は「日本の政治をつくりかえようとしている右翼ロビー団体」

   ドイツの「南ドイツ新聞」       日本会議は「右翼民族主義の懐古的組織」

  ■ベルギーの「デ・モルゲン紙」    日本会議は「民族主義的世界観を持つカルト的ロビーグループ」  (ウィキペディア『日本会議』)

 

〈その㉞〉 「日・独・伊」のうち国旗、国歌を戦後そのまま使っているのは、日本だけ」       鹿田正夫

 「第二次大戦で侵略戦争を起こした日本、ドイツ、イタリアのうち、侵略の象徴として使った『国旗、国歌』を戦後そのまま使っているのは、日本だけである。それも日本の歴代政府は、意図的にそうしていると思われる。ドイツなどは、ポーランドをはじめとする被害国に対し、国として深く謝罪した上に誠意ある賠償を行い、隣国と新たな友好関係を築いている。それに反し日本は戦後半世紀にわたり国民に対し、戦争被害の実態を教えておらず、そのため今では国民の90%に近い人が『日の丸』に染み込んだ消すことのできない『汚れ』を知らない。そして私たちが幼年時代に抱いたような『日の丸』のイメージを再び植えつけようとしているのである。」  (『戦争と日の丸と私』鹿田正夫「中帰連」特集1999年6月号63頁)

 

〈その㉟〉 森喜朗元首相の「神の国発言」    2000年  森 喜朗・元首相

■「神の国発言(かみのくにはつげん)は二○○○年(平成十二年)五月十五日、神道政治連盟国会議員の会において森喜朗内閣総理大臣(当時)が行なった挨拶の中に含まれていた、『日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞよということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た』という発言。」(『神の国発言』ウィキペディア)


〈その㊱〉 「二千年の長きにわたって一つの民族、一つの王朝が続いている国。」    2020年 麻生太郎・元副総理  

「麻生太郎副総理兼財務相は十三日、福岡県直方市で開いた国政報告会で『二千年の長きにわたって一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない』と述べた。政府は昨年五月にアイヌ民族を『先住民族』と明記したアイヌ施策推進法を施行しており、麻生氏の発言は政府方針と矛盾する。       (『朝日新聞』2020年1月14日)

 

2022年2月13日  日川高校「天皇の勅」校歌訴訟県民の会


 
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