⑦ 問題追及 「現人神(あらひとがみ)」の戦争責任
<はじめに>
「天皇の勅もち/勲立てむ時ぞ今」―山梨県立日川高等学校校歌にはこのような一節があります。この校歌は1916年(大正5年)につくられ、現在でも「伝統の校歌」として歌い継がれています。当時、「天皇崇拝」の校歌は日本全国の学校で歌われていました。しかし、敗戦となり憲法が「天皇主権」から「国民主権」に代わるのを機に、ほとんどの学校は時代に沿う新校歌につくりかえましたが、日川高校の関係者はこの時代の流れを無視してきました。なぜなのでしょうか。彼らの多くは政治家であり、元軍人であり、また戦前・戦中からの教育関係者でした。改めて天皇制国家を支持する日本人に問いかけます。この日川高校校歌をこれからも生徒に歌わせていいのしょうか。
「県民の会」は今回、⑦問題追及―「現人神(あらひとがみ)の戦争責任」のタイトルでネット情報として掲載し、日本社会が抱えてきた戦後のひずみについて考えたいと思います。なお、文中の強調(赤字の部分)は「県民の会」の意図によるものあることをご理解ください。
(上)「天皇ハ神聖ニシテ犯スへカラス」
第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ
第一三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
■「昭和二十二年五月三日『日本国憲法』がいわゆる“新憲法”として施行されるまでの『大日本帝国憲法』(明治二十二年制定)のもとで、天皇は絶対以上の絶対的存在であった。
‥‥戦争について『天皇ハ戦(タタカイ)ヲ宣(セン)シ和ヲ講シ及(オヨビ)諸般(ショハン)ノ条約ヲ締結ス』(第十三条)で、天皇の開戦宣言なしでははじめられないものとなっていた。」
1 天地の正気甲南に
籠りて聖き富士が根を
高き理想と仰ぐとき
吾等が胸に希望あり
2 至誠の泉湧き出でて
流れも清き峡東の
水に心を澄ましなば
未来の春は輝かむ
3 質実剛毅の魂を
染めたる旗を打振りて
天皇の勅もち
勲立てむ時ぞ今
4 猛き進取の調もて
歌ふ健児の精神は
白根が嶽にこだまして
何時の世までも轟かむ
〈その④〉 青少年学徒に出された勅語
―文を修め武を練り質実剛健の氣風を振勵(しんれい)せよー
■ 「勅語: 國本ニ培(ツチカ)ヒ國力ヲ養ヒ以(モツ)テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚(ハナハ)ダ遠シ而(シカ)シテ其(ソ)ノ任實(ジツ)ニ繫(カカ)リテ汝等(ナンジラ)青少年學徒ノ双肩(ソウケン)ニ在リ(略)各其ノ本分ヲ恪守(カクシュ)シ文ヲ修メ武ヲ練リ質実剛健ノ氣風ヲ振勵(シンレイ)シ以(モッ)テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ」
〈その⑤〉 「汝等(ナンジラ)青少年學徒ノ双肩(ソウケン)ニ在リ」 ー当時の文部大臣は荒木貞夫陸軍大将ー
■ 「全国の中等学校以上の学校で奉読式がおこなわれた」
「時の文部大臣は陸軍大将荒木貞夫で、ここで下賜されたのがこの「青少年學徒ニ下シ賜ハリタル勅語」であった。全国の中等学校以上の学校ではただちにその奉読式が、これも武装した学生生徒の前でおこなわれたが、『道タル甚(ハナハ)ダ遠シ而(シカ)シテ其(ソ)ノ任實(ジツ)ニ繫(カカ)リテ汝等(ナンジラ)青少年學徒ノ双肩(ソウケン)ニ在リ』のところでどの校長も一段と声をはりあげていた。」 (『天皇と勅語と昭和史』千田夏光298頁~299頁)
〈その⑥〉 「朕の深く懌(よろこ)ぶ所なり」
■ 「・・・・朕ハ‥‥政府ニ命ジテ帝國ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両國トノ提携協力ヲ議セシメ茲(ココ)ニ三國間ニ於(オ)ケル條約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌(ヨロコ)ブ所ナリ」
(『天皇と勅語と昭和史』千田夏光
311頁)
〈その⑦〉 米国、英国にたいする宣戦の詔書 昭和天皇 1941年 (昭和16年)12月8日
■「天祐(テンユウ)ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚(コウソ)ヲ踐(フ)メル大日本帝國天皇ハ、昭(アキラカ)ニ忠誠勇武ナル汝(ナンジ)有衆ニ示ス。
朕茲ニ米國及(オヨビ)英國ニ對シテ戦ヲ宣ス。(略) 皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ、汝(ナンジ)有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ、祖宗ノ偉業ヲ恢弘(カイコウ)シ、速ニ禍根ヲ芟除(サンジョ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以(モッ)テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス。」(句読点 筆者)
昭和十六年十二月八日
内閣総理大臣 兼内務大臣 兼陸軍大臣
東條 英機
文部大臣 橋田 邦彦
國務大臣 鈴木 貞一
農林大臣 兼拓務大臣 井野 頷哉
厚生大臣 小泉 親彦
司法大臣 岩村 通世
海軍大臣 嶋田繁太郎
外務大臣 東郷 茂徳
逓信大臣 寺嶋 健
大蔵大臣 賀屋 興宣
商工大臣 岸 信介
鐡道大臣 八田 嘉明
(『天皇と勅語と昭和史』千田夏光 327頁~330頁)
〈その⑧〉 開戦の詔勅 「天皇はなんら不安はないご様子」
■「さらに、十二月一日の御前会議は、最終的に、米・英・オランダに対する開戦を決定した。『杉山メモ』(上)は、この御前会議の場における天皇の様子を、『オ上ハ説明ニ対シ一々頷カレ何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ』と記している。こうして、十二月八日には陸軍の第二十五軍がマレー半島に上陸、海軍機動部隊がハワイの真珠湾を空襲して、ここに太平洋戦争が開始される。」
(『天皇の昭和史』藤原彰・吉田 裕・伊藤悟・功刀俊洋 83頁)
〈その⑨〉 「東条を首相に据えたことは、天皇の意志だった」
■「近衛内閣の総辞職後、十月十八日には、東条英機大将を首班とする東条内閣が成立した。日米間の妥協をはかろうとする近衛にかえて、近衛内閣の陸相として対米英開戦を強く主張してきた東条を首相にすえたことは、天皇及び宮中グループが戦争の道を選択したことを意味した。」
〈その⑩〉 「天皇は、東条首相を深く信任しつつ開戦を決定したのである」
■「東条の組閣後、十日間にわたって開催された大本営政府連絡会議の結論
〈その⑪〉 「東条が、天皇の意志に反して戦争に持ち込むことは、ありえなかった」 ―東条の忠臣ぶりを示すエピソードー
〈その⑬〉 「ノイローゼ気味の天皇」
〈その⑭〉 「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト・・・・」
〈その⑮〉 「米国は必ずや天皇制廃止を要求して来る」
同時に、和平交渉に対する天皇の姿勢を消極的にさせていたものは、自らの地位と『国体』の将来に対する不安であった。近衛の上奏の際、天皇は、『参謀総長は上奏し、今日日本が和を乞うが如きことがあれば、米国は必ずや天皇制廃止を要求して来るが故に国体も危ない。結局和を乞うとも国体の存続は危く、戦って行けば万一の活路が見出されるかも知れぬと申したが、このことを如何に考えるか』と近衛に下問しているのである。(『失はれし政治―近衛公麿公の手記』)」
〈その⑯〉 「朕は‥‥青少年学徒の奮起を促し…」
―朕は忠誠純真なる青少年学徒の奮起を賀し之を公布せしめる―
(上諭=明治憲法下で、法律・勅令・条約・予算などを公布する時、その冒頭に付して天皇の裁可を表示した語。『広辞苑』)
〈その⑰〉 「『国体』の危機が感じられるようになって初めて、
〈その⑱〉 「東條内閣最後の閣議で、「松代大本営」への皇居・大本営移転のための施設工事が了承された」
〈その⑲〉 「天皇も賛成した大本営の松代への移転」
井田少佐の証言によるとその理由は、天皇・大本営・政府という日本の中枢を空の脅威(空襲)から守って、本土決戦における最後の指揮をとるために大本営を信州に移転する、というものであった。そのためにあらかじめ大本営を建設しておき、そして最終的には『国体の護持』(絶対主義天皇制の維持)という目的を達するというのである。事実、一九四五年七月には、重臣木戸幸一内大臣の信州移動の建言に天皇も賛成し、『国体維持』の一つの方法として決意したのである(実際は移動しなかったけれども)。
〈その⑳〉 「大本営の松代への移転の建設作業に当たっては、徴用された日本人労働者や朝鮮人労働者が中心となった」
■「建設作業にあたっては、徴用された日本人労働者および日本国内および朝鮮半島から動員された朝鮮人労働者が中心となった。工事は西松組や鹿島組が請け負った。‥‥総計で朝鮮人約七、○○○人と日本人三、○○○人が当初八時間三交代、のち一二時間二交代で工事に当たった。最盛期の一九四五年四月頃は日本人・朝鮮人一万人が作業に従事した。」
延べ人数 西松組・鹿島組・県土木部・工事関係 120、000人
勤労奉仕隊 79、600人
西松組・鹿島組関係 157、000人
朝鮮人労務者 254、000人
合計延べ 610、600人
〈その㉑〉 「1945年初期には、国民生活の危機的状況に対する関心は、天皇の政治的判断の基底的要因ではなかった」
■「木戸幸一は、敗戦後の一九四九年(昭和二十四)十二月二十日、GHQ・G2歴史科の質問に答えて、『陛下は実の処一九四五年の初期には、未だ軍備を撤廃される位ならば戦争を継続する外ない位のお考への様であった。武装なき国家となってしまっては国家自体の存続が出来まい、と云うような御心配を往々洩らし居られた』と語っている(『木戸幸一日記 東京裁判期』。(略)
要するに、戦争の継続に固執する天皇の姿勢に顕著なのは、『不名誉』な降伏に対する忌避と、自らの地位及び『国体』の『護持』に対する強い執着であり、換言すれば、無謀な戦争の中で傷つき、倒れつつあった国民の現状とその将来の運命に対する関心の希薄さであった。戦争の継続か、という重大な岐路にあって、国民生活の危機的状況に対する関心は、天皇の政治的判断の基底的要因ではなかったのである。」
(下) 天皇(あらひとがみ)免罪への道
〈その㉒〉 「神州の不滅を信じ・・・」
朕は、帝国政府をして英米支蘇四國に對し、其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。(略)
惟ふに、今後帝國の受くへき苦難は固より尋常にあらす。爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪え難きを絶え、忍ひ難きをしのひ、以て萬世の為に太平を開かむと欲す。(略)」
〈その㉓〉 「ドイツと違って、日本では天皇をはじめとする政財
御名御璽 昭和二十一年十一月三日
内閣総理大臣兼外務大臣 吉田 茂
国務大臣 幣原喜重郎
国務大臣 斎藤隆夫
大蔵大臣 石橋湛山 他 各大臣
1948年6月19日 衆議院決議
■「…しかるに過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったためである。 思うに、これら詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明らかに基本的人権を損い,且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よって憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
〈その㉖〉 「昭和天皇は戦禍に打ちのめされた国民を鼓舞、激励されました」 昭和聖徳記念財団 会長 伊吹文明
ー設立趣旨ー
〈その㉗〉 昭和聖徳記念財団について
日本に誇りと
自信を取り戻すため
さまざまな問題に取り組んでいます
概要
一九七○年(昭和四十五年)五月十一日結成。結成時の『神道政治連盟国会議員懇談会規約』によれば、懇談会は『神道政治連盟の趣旨に賛同する国会議員をもって組織する』と規定されているものの、自身の宗教・信仰について問われることはなく、神道の布教は目的としていない。
現在の会長は、自由民主党衆議院議員の安倍晋三。会員数は、二○二一年(令和三年)七月二十二日時点で二九五名(衆議院議員:二一八名、参議院議員:七七名)
神政連は日本会議と同じく、自民党の政権運営に強い影響力を行使し、二○一二年(平成二十四年)十二月に発足した第二次安倍内閣以降、入閣した議員の大半が『神道政治連盟国会議員懇談会』もしくは『日本会議国会議員懇談会』いずれかに所属していることが判明している。」 (ウィキペディア『神道政治連盟国会議員懇談会』で検索)
〈その㉙〉 日本会議ー「国外からは超国家主義団体ないし極右団体と見做される」
二○一六年現在、会員は約三、八○○○名、四十七都道府県に本部が、また二四一の市町村支部がある。会長は田久保忠衛(二○二一現在)。
■「先の大戦は東アジアを解放するための戦争であり、日本政府の謝罪外交は、日本国の歴史や戦没者を蔑ろにするものとして、国民から非難されている。「従軍慰安婦は」強制連行ではなく公娼制度であり、『南京大虐殺』も実在しない。」 (ウィキペディア『日本会議』)
〈その㉚〉 「私たちがあるのは246万余柱の英霊のお陰」
小堀圭一郎 (東京大学名誉教授)
■「国民が自分たちが現在享受している平和についての感謝の祈りを捧げる場が靖國神社である。つまり、誰のお陰で戦後の日本がここまで立ち直るだけの土台を護り得たかを考える一種の道徳教育の場が靖國神社であり、この社には教育施設としての意味合いもあるのではないでしょうか。」
〈その㉛〉 戦後に復活した「君が代」・「日の丸」
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで
「安倍晋三前首相が改憲を公言しことがきっかっけです。戦後憲法で保障された国民主権、平和主義、基本的人権を定着させる努力が必要であると改めて認識しました。その時、『平野文書』を知人の書斎で知り、研究に着手したのです。」
――「平野文書とは」
「元首相の幣原喜重郎から衆院議員だった平野三郎が聞き取った記録です。幣原は連合国軍総司令部(GHQ)と憲法改定の交渉にあたりました。その際に戦争放棄を思い立ち、最高司令官マッカーサーに秘密会談で提案したことを、死の直前、一九五一年に打ち明けています。」
〈その㉝〉 安倍晋三(自由民主党)が所属する「日本会議」についての国際的評価
=アメリカ=
■ ニューヨークタイムズ
■ナショナル・レビュー誌
■エコノミスト誌 ・「日本会議は『伝統的価値観』への復帰を主張するナショナル・シンクタンク」
■ガーディアン紙
=フランス=
■ル・モンド紙
=アジア・その他=
■ 香港「サウスチャイナ・モーニング・ポスト紙」
■ 韓国聯合ニュース・中央日報
■
オーストラリア放送協会(ABC)
■ ドイツの「南ドイツ新聞」
■ベルギーの「デ・モルゲン紙」
〈その㉞〉 「日・独・伊」のうち国旗、国歌を戦後そのまま使っているのは、日本だけ」 鹿田正夫
〈その㉟〉 森喜朗元首相の「神の国発言」
■「神の国発言(かみのくにはつげん)は二○○○年(平成十二年)五月十五日、神道政治連盟国会議員の会において森喜朗内閣総理大臣(当時)が行なった挨拶の中に含まれていた、『日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞよということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た』という発言。」
■「麻生太郎副総理兼財務相は十三日、福岡県直方市で開いた国政報告会で『二千年の長きにわたって一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない』と述べた。政府は昨年五月にアイヌ民族を『先住民族』と明記したアイヌ施策推進法を施行しており、麻生氏の発言は政府方針と矛盾する。」
2022年2月13日 日川高校「天皇の勅」校歌訴訟県民の会