⑤ 問題追及 「2020平和を願う山梨戦争展」出展取りやめの経緯

Ⅰ 本記事掲載について   (HP掲載担当佐野記)

 2020平和を願う山梨戦争展に、日川高校「天皇の勅」校歌訴訟県民の会(以下県民の会という)は実行委員会に参加し展示を行うことにしていた。その内容については、河西久氏が石橋湛山を取り上げたいとしていた。佐野公保は日川校歌問題の主張に関わって取り上げられるのであればということで同意し、案を河西氏が作成し、それを検討した。何回もの話し合い、メールのやりとり、案の修正といった検討の結果であったが、その提案のままではで佐野は同意できないとなった。一方で、河西氏が実行委員会に出した展示項目案について、実行委員会で疑義が出された。佐野は県民の会としての同意が出来ない展示は県民の会の展示として出すことはできないとした。また、それは河西氏個人の意見であるが、県民の会のHPに個人の意見としてなら掲載する方法もあるとした。河西氏も戦争展への展示は取りやめると判断し、いきさつも含めて個人の意見として掲載することとした。同時に会内部の議論として佐野の意見も合わせてHPに掲載することになった。以下に二人の個人としての意見、主張を掲載する。さらなる議論を考えている。また、これは議論を広く公開するのであるから開いた議論を行いたい。多くの人からの意見をお寄せ頂きたい。
 HPトップページにある河西か佐野のEメールアドレスへのメールをお願いしたい。なお、河西、佐野は、このことに寄せられた意見についてはすべて共有することを了解し合っている。その上で頂いた意見については、二人が合意の上でその内容の全てあるいは一部を掲載させて頂くことを了解した上でお寄せ下さるようお願いする。



Ⅱ 日川高校「天皇の勅」校歌問題解決への長い道

                                                     河西 久(日川高校「天皇の勅」校歌訴訟県民の会)

本稿は、2020年8月4日から8日まで山梨県立図書館で開催された「2020 平和を願う山梨戦争展」(パネル展)のために書かれたものである。しかし、「平和主義者・石橋湛山」のパネルをめぐり「県民の会」内に意見の対立があり、最終的に出展を見送ることになった。

「平和を願う山梨戦争展」は甲府市にある「山梨平和ミュージアム(石橋湛山記念館)」が中心となり行われてきた企画であり、石橋湛山を否定的に描くことは「戦争展」の趣旨に合わないという考えが根底にあるようだ。とくに石橋湛山の「国粋主義的言説」のような否定的パネルの展示を疑問視する声は、「戦争展実行委員会」内で多数を占めたという。
 会内で話し合った結果、「戦争展実行委員会」の考え方に賛同する会員から、「戦争展」ではなく私の個人名を明記の上、「県民の会」が運営するインターネット上に掲載すべきだという提案がなされた。「県民の会」内で意見の一致がなければ「戦争展」へ出展はできない。私はこれに同意することを余儀なくされた。
 このような経緯が「日川校歌校歌問題」の解決にどうつながるのか見通すことは容易ではない。この問題は山梨県人・日本人の歴史認識と深く関係するだけに、「解決への長い道」が予想される。本稿は、「平和主義者・石橋湛山」の人物像をさぐるための資料集であることを最初に述べておきたい。


 展示を取りやめたパネル案

               2020平和を願う山梨戦争展                                  
                                                                                  日川高校「天皇の勅」校歌訴訟県民の会  河西久
 


<パネル1             なぜ石橋湛山なのか

  戦前・戦中の公立学校では、国策として皇国史観の校歌が歌われていた。山梨県立日川中学校(日川高校)では「天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち /勲(いさおし)立()てむ/時(とき)ぞ今(いま)」との歌詞をもつ戦意高揚の校歌が歌われた。一方、石橋湛山の出身校である甲府中學校(現在の甲府一高)では、「我等は日本に生れたり/神の御代より一系の/皇統戴く我國に…」で始まる校歌が敗戦直後まで歌われていた。甲府一高では当時の近藤兵庫校長が、「(校歌は)国家主義的すぎる」という理由で職員会議にかけ、この校歌を改変している。1948年(昭和23年)のことである。戦時中に皇国史観の校歌を歌っていた甲府一高では、いかなる変化が起こったのであろうか。

石橋湛山はジャーナリストとして、また、内閣総理大臣経験者として名を残した人物である。「平和主義者」として知られる湛山は、母校である甲府一高旧校歌についてどう考えていたのであろうか。
後述の資料を見ると、湛山は多くの「国粋主義的言説」を残していることがわかる。敗戦時に湛山は、「御一人の聖断は神のごとく‥‥戦争は終結された」と述べたとあるが、これは事実なのか。山梨県人である私は、石橋湛山という「平和主義者」の人物像について考えることは、「天皇の勅」を賛美する「日川高校校歌問題」の解決につながると考えている。


<パネル
         大日本帝国憲法下で作られた戦意高揚の校歌

資料①】 山梨県立日川高校・現校歌 3番 (1916年 〔大正5年〕 大須賀乙字作詞  岡野貞一作曲) (『百周年記念誌』より)

     3   質実剛毅の魂を       
     染めたる旗を打振りて

     天皇の勅もち
     勲立てむ時ぞ今


【資料②】 石橋湛山の母校校歌 1928年〔昭和3年〕 220日校歌制定 三井甲之作詞  19481022日 校歌改変)  (『山梨県立甲府中學・甲府一高 創立百二十周年記念誌』)    

  1  我等は日本に生れたり 
        神の御代より一系の
        皇統戴く我國に           
         生れしことのうれしさよ
        皇國の栄えは天地と
        共に窮りなかるべし 

【資料③】甲府一高旧校歌を改変した近藤兵庫校長 

■ 昭和234月、学制改革により山梨県立甲府第一高校と改称された。校歌改変について職員会議で議論の結果、近藤兵庫校長は旧制中学校の校歌はあまりに国家主義的すぎると判断して改めることにした。 (『同上』)



<パネル3>   「日川高校校歌歌詞が日本国憲法の精神に沿うものであるのかについては異論があり得る」 (東京高裁) 

【資料④】 日川高校校歌訴訟・東京高裁判決 (2006517日)

■ 本件(日川高校校歌)歌詞が国民主権,象徴天皇制を基本原理の一つとする日本国憲法の精神に沿うものであるのかについては異論があり得るところであって,本件歌詞を含む本件校歌指導を教育課程に取り入れることの当否についても,十分な議論が必要であるということはできる。    (『日川高校校歌問題を考える』ネット情報) 


【資料⑤】 遠藤比呂通 弁護士 日川高校校歌訴訟の原告側代理人
      - 強制への「異論」が憲法の精神 ―

■‥‥「憲法の精神」というとき、日川高校校歌訴訟東京高裁判決の一節が浮かびます。「校歌の歌詞の内容については、国民主権、象徴天皇制を基本原理の一つとする憲法の精神に沿うかについては異論があり得る」という言葉です。(…略…)日川高校校歌訴訟と東京高裁が問いかけた「憲法の精神」は、魔人化された「象徴」が再び教育の現場で用いられることへの異論であったことがわかります。判決から13年たった今、この「異論」は色あせるどころか輝きを増しているように思えてなりません  (『山梨日日新聞』 2019113日「時標」)

 

<パネル4      公職追放となった石橋湛山 

【資料⑥】
石橋湛山蔵相の公職追放1)―占領前期の政治的一場面        増田 弘

第一次吉田内閣大蔵大臣石橋湛山は、1947516日付で公職追放に処せられた。東洋経済新報社(以下新報社と略)の戦前における言論が公職追放令付属書A号G項三に該当するとの趣旨であった。しかしながら湛山は、戦前戦中、新報社の編集主幹兼社長として、満州事変・日中戦争・日独伊三国軍事同盟・日米戦争に異議を唱え、自由主義の孤塁を守りぬいた硬骨漢として知られた人物であった。 (「石橋湛山蔵相の公職追放(1)慶應義塾大学学術情報リポジトリ」)

【資料⑦】 「石橋湛山は冤罪である」           石橋湛山記念財団

1946年吉田内閣成立にともない湛山は大蔵大臣に就任します。‥‥しかしその3ヵ月後、517日マッカーサー司令部の命令により公職を追放されました。湛山が責任者であった『東洋経済新報』が日本の帝国主義を擁護、推進したというものでした。湛山ばかりか、彼を知る多くの人々は驚き、これは冤罪であると陳情しましたが、この決定を動かすことはできませんでした。真の理由は、湛山が大蔵大臣として司令部の要求に盲従しなかったことにあるとみられています。 
(『石橋湛山略歴』「石橋湛山記念財団」)


<パネル5
    石橋湛山の国粋主義的言説 

【資料⑧】 「上御一人の聖断は神の如く‥‥戦争は終結された」 石橋湛山       (東洋経済新報社「社論」)

「『日蓮の三大誓願』は石橋湛山の常日頃からの心構え」【資料㉛】
「『有髪の僧』石橋湛山 ― 日蓮の徒であり続けた湛山 ― 世界を一仏土にする平和の教えのほかにはない」資料㉜
世界無双の国体に恵まれた我が国」【資料㉞】
「上司の命令に服さない者たちは、馘首せよ」【資料㉟】
「ヒトラー氏とか、ムッソリーニ氏という人は、百年に一度出るか、二百年に一度出るかという傑出した人物」【資料㊱】
国民がこの美しき祖国を護りぬかんとする厳粛なる国民の決意は、国民の血液の中に溶け込んでいる」【資料㊲】
「天皇の大権の発動を仰ぎ奉れ、軍政を布け、いつでもこれを適用して妨げがない」資料㊴】
「上御一人の聖断は神の如く‥‥戦争は終結された」【資料㊵】
                                                          (『石橋湛山評論選集』1990東洋経済新報社発行)


【検証1
石橋湛山記念館 (「平和の港」) では見られない貴重な資料
上記の資料は湛山の国粋主義的言説を掲載したものだが、いずれ
も『石橋湛山評論選集』(東洋経済新報社 1990年)から引用したものである。しかし、これらの資料を「山梨平和ミュージアム」(甲府市)の館内で目にすることは不可能であろう。石橋湛山記念館は、湛山を顕彰する「平和の港」と位置づけられているからである。
 

<パネル6   石橋湛山・肯定的評価 (1)

【資料⑨】 勲一等を受賞した石橋湛山 (いしばし たんざん
石橋湛山1884年〔明治17年〕925日~1973年〔昭和48年〕425日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。            (「石橋湛山」ウィキペディア

【資料⑩】  「武田信玄公と共に山梨の生んだ偉人」   浅川保   山梨平和ミュージアム 石橋湛山記念館創立者
■ 石橋湛山先生は明治17年東京に生まれた。明治2710歳の時青柳昌福寺師父杉田日布上人(身延山81世)より当山47望月日謙上人に預けられ、爾来7年間当山で修行し得度して湛山と改名し。‥‥先生は武田信玄公と共に山梨の生んだ偉人である。

            
 昭和21年  吉田内閣 大蔵大臣
 昭和27年  立正大学学長
 昭和29年   鳩山内閣 通産大臣
 昭和31年   自民党総裁 第55 代内閣総理大臣
  昭和48   没 謙徳院殿慈光湛山日省大居士 享年89
 湛山没後30年にあたる2003(平成15)年8月、長遠寺境内に、‥‥記念碑が建立された。 (『偉大な言論人 石橋湛山』)

 

<パネル7  石橋湛山・肯定的評価 (2) 

【資料⑪】 「湛山が平和主義者であったことは世の常識」  (『創立百二十周年記念誌』 1372001

湛山が、戦前時流におもねず、軍部に屈せず、徹底した自由主義、民主主義、平和主義を貫いた硬骨のジャーナリストであり、戦後政界において己の哲学と見識をもち、信念と節操を失わなかった稀有のステーツマンであったことは、いまや世の常識である‥‥。(山梨県立甲府中学校・山梨県立甲府第一高等学校発行)
資料⑫】
「骨太の自由主義を貫いた人物・石橋湛山」  北岡伸一 政治学者・東大教授
日本で最高の言論人は誰かと問えば、石橋湛山はまずその有力候補だろう。‥‥時流に流されず、圧力にひるまず,骨太の自由主義を貫いた人物として、石橋の右に出る人はいないだろう     偉大な言論人 石橋湛山』) 

【資料⑬】 「石橋湛山の徹底した平和主義は学ぶべきだ」   浅川保  山梨平和ミュージアム 石橋湛山記念館創立者
石橋湛山 <1884(明治17)年~1973(昭和48)年>生まれは東京だが、山梨の増穂・鏡中条・甲府で育ち、中学時代(現甲府一高)に大島正健校長の感化を受ける。早稲田大学を出て『東洋経済新報』の記者・ジャーナリストとして、大日本主義(帝国主義)に抗して平和・民権・自由主義の論陣を張った。戦後、政治家として第55代首相に就任し、期待されたが、病のため2ヵ月で退陣。徹底した平和主義、リベラルで強烈な個人主義など学ぶべきところ大である。 
(「山梨平和ミュージアム ―石橋湛山記念館―」)


<パネル8
   石橋湛山・懐疑的評価

【資料⑭】 「湛山を論ずる場合、戦後の変貌までの追求が必要だ。‥‥いったいどちらが正当なのか」     松尾尊兊 京都大学名誉教授

■ 「これまで行われてきた湛山あるいは新報(東洋経済新報)の政治思想についての研究は、そのほとんどが、戦前の急進的自由主義論展開期を対象としている
。周知のごとく、湛山は戦後政界に転進し、ついには自由民主党総裁・首相の栄位につく思想家としての湛山を論ずる場合、この戦後の変貌までを追求しなければ、その全容をとらえたことにはなるまい。‥‥いったい湛山は戦時下転向したのか。転向したとすれば、どの方向に、どの程度まで転向したのか
 戦後GHQは、新報を公職追放のG項に該当するもの、すなわち好戦的国家主義及び侵略主義を主唱したものとして、主宰者湛山を追放した。湛山は、新報こそが戦時下「自由主義の本山」であり、好戦的国家主義や侵略主義に徹頭徹尾反対したと弁駁した(「私の公職追放に関する見解」『石橋湛山全集』13 225頁)。いったいどちらが正当なのか。      (「十五年戦争下の石橋湛山」)

【資料⑮】 「(湛山は)
大正デモクラシー期から昭和前期にかけて小日本主義・自由主義を主張した
 大森彌 東京大学名誉教授

■ 石橋湛山は1884年生まれで、大正デモクラシー期から昭和前期にかけて「大日本主義」に対し「小日本主義」を唱え、満州放棄・軍国主義反対の気骨の言論人として活躍した。    (「全国の町村会―地域小にして成り立つ民主政」)

【資料⑯】 「(湛山は)大正から昭和の時期に小日本主義・自由主義の立場で筆を執り続けた言論人」 浅川保 

■ 石橋湛山(
たんざん)は山梨県出身でただ一人の首相経験者として、また、大正から昭和の時期小日本主義・自由主義の立場で筆を執り続けた言論人として知られる人物である。                  (『偉大な言論人 石橋湛山』)

<パネル9  湛山についての松尾教授の疑問 


【検証2】 「いったいどちらが正当なのか」

【資料⑭】で、松尾尊兊(京都大学名誉教授)は石橋湛山の活動期を二つに分けている。

(1) 「戦前の急進的自由主義論展開期」の石橋湛山

(2) 戦後政界に転進し、ついには自由民主党総裁・首相の栄位につく時期」の石橋湛山 

小日本主義者・平和主義者としての湛山について松尾教授は、「これまで行われてきた湛山あるいは新報(東洋経済新報)の政治思想についての研究は、そのほとんどが、戦前の急進的自由主義論展開期を対象としている」と述べている。このことは、戦時中の湛山の思想は戦前のものと同じではないと指摘していることになる。とくに湛山の大東亜戦争勃発以降の「国粋主義的」言辞は、「平和主義」や「小日本主義」で知られる湛山の思想とは異質のものと言わねばならない。
 事実、下記の【資料⑰】では、石橋湛山は「満州事変から敗戦まで小日本主義の旗を降さざるを得なかった」としている。軍部からの圧力があったからなのか、それとも湛山の「平和主義の本音」が露出したのか、どちらなのか。 

 

<パネル10  「小日本主義(平和主義)の旗印を降ろした石橋湛山」  (浅川保) 


【資料⑰】 「湛山は、小日本主義の旗印を降ろさざるを得なかった」 
1931年 
浅川保  

1931年(昭和6)年9月の満州事変から敗戦までの、いわゆる十五年戦争下、言論統制と弾圧が強まる中、湛山は小日本主義の旗印を降ろさざるをえなかったが、大局的、長期的視野から軍部独裁を批判し、戦争拡大に反対。早期終結を要望し続けた  (『偉大な言論人 石橋湛山』) 

【資料⑱】 東条英機を支持する石橋湛山 石橋湛山  1944年 
■ 東條首相が、ここに大に慮(おもんばか)る所あり、「従来の惰性や経緯に捉われることなく」「一切の毀誉褒貶を超越し」強力な政治を行わんと決意したことは、かねて国民の等しく待望した所で、記者はむしろその時機の一層早からざりしを憾(うら)まんとする者である(『石橋威湛山評論選集』194434日号「社論」)
 

【検証3】 石橋湛山のヒトラー、ムッソリーニ賛美

石橋湛山がヒトラー賛美の「社論」(【資料㊱】)を書いたのは1945年(昭和20年)212。A級戦犯で獄死した東郷茂徳外相がヒトラーに対する危機感を書いたのは1937年。ヒトラーを嫌悪していた東郷茂徳は獄死したが、ヒトラーを賛美していた湛山は生き残り、戦後になって自由民主党から首相になった。


<パネル11  湛山は「平和主義」を貫いたのか

【検証4】 湛山は戦前・戦中・戦後をとおして「平和主義」を貫いたのか。湛山が「小日本主義」を訴えた時期は「大正から昭和初期」なのか、それとも「大正から昭和の時期」なのか。 

【資料⑲】(湛山は)大正デモクラシー期から昭和前期にかけて小日本主義・自由主義を主張した 大森彌 東京大学名誉教授

■「石橋湛山は1884年生まれで、大正デモクラシー期から昭和前期にかけて『大日本主義』に対し『小日本主義』を唱え、満州放棄・軍国主義反対の気骨の言論人として活躍した。」   (「全国の町村会―地域小にして成り立つ民主政」) 

【資料⑳】「湛山の平和主義路線は、日本国憲法の制定によって実現した」  浅川保  石橋湛山記念館

(明治以来の日本の歩んできた強兵富国の大国主義路線に対し)湛山の小日本主義路線(平和主義)路線はもう一つの可能性、道であり、アジア太平洋戦争の敗戦、日本国憲法の制定によってようやく実現したものである。   (『偉大な言論人 石橋湛山』」 


<パネル12
  矛盾する湛山の「平和主義」 

《検証5》
【資料⑭】で松尾尊兊は、「思想家としての湛山を論ずる場、「戦後の変貌までの追求」の必要性について述べている。これは湛山が一貫して「平和主義者」であったことを疑問視する見方であろう。戦前・戦中の湛山と戦後の湛山の間には、思想的な乖離があると述べていることになる。湛山は戦前から一貫して平和主義者だったのか、それとも戦後になって右傾化したのか。湛山の「小日本主義」が「大正デモクラシー期から昭和の時期にかけて(浅川【資料⑯】)ならば、戦争末期に集中する湛山の国家主義的・国粋主義的言説は、明らかに「平和主義」や「小日本主義」を逸脱するものと言わねばならない。
 


《検証6》
 矛盾する湛山の「平和主義」と日本国憲法との関係

後述する【資料㊴】の中で湛山は、国家危急の際は「天皇大権の発動を仰ぎ奉れ」と述べている。湛山は、大日本国憲法第三十一条に基づき「強力政治」の発動を進言しており、戦時または国家事変の際の「臣民の権利義務の停止」を提案した人物である。石橋湛山記念館は【資料⑳】で、湛山の平和主義はアジア太平洋戦争の敗戦、日本国憲法の制定によってようやく実現した」と記しているが、この分析は多くの湛山の国粋主義的言説と矛盾している。

 

<パネル13  石橋湛山は右派系のオピニオンりーダーか

《検証7》 公職追放について湛山は、『(私は)好戦的国家主義に徹頭徹尾反対した』と反論している。湛山のこの反論は正しいか。

【資料⑭】(松尾尊兊の資料)の末尾に、石橋湛山の公職追放に関する見解が書かれているが、湛山自身は、好戦的国家主義や侵略主義に徹頭徹尾反対した」と反論している。その一方で、湛山は「御一人の聖断は神の如く‥‥【資料㊵】」と述べている。湛山は国民を扇動した国粋主義者ではなかったのか。

《検証8》 湛山は不条理に立ち向かうジャーナリストか、それとも右派系のオピニオンりーダー

 
戦争末期の湛山は、日本を「世界無双の国体に恵まれた我が国」【資
料㉞】と崇め、敗戦時に「御一人の聖断は神の如く‥‥戦争は終結された」と『東洋経済新報』へ掲載している。湛山はジャーナリストというより、天皇制下の政府に寄り添うオピニオンリーダーではなかったか。


<パネル14  石橋湛山と日蓮宗僧侶・望月日謙との関係

【資料㉑】
「石橋湛山は6人兄弟・姉妹の長男として誕生」

■ 生い立ち 日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)として生まれる。‥‥湛山は33女の6人兄弟のうちの長男である。湛山の兄弟では湛誓の次男の野澤義郎も湛山と同様に甲府中学・早稲田大学を経て東洋経済新報社に入社し、支局長・監査役を務めている。  (「石橋湛山」ウィキペディア) 

【資料㉒信頼する望月日謙に預けられた湛山」      浅川保

■‥‥湛山が10歳から17歳までの少年期から青年期の多感な時期を過ごしたのが、鏡中条村(現在の南アルプス市鏡中条)の長遠寺である。‥‥湛山はここで、鏡中条尋常小学校高等科から山梨県第一中学校卒業までの7年間を過ごした。そのうちの一時期は甲府で過ごしたが、父が昌福寺から静岡市池田の本覚寺の住職に転じたのを機に、信頼する長遠寺住職望月日謙に預けたためである     (『偉大な言論人 石橋湛山』71頁)

【資料㉓】 湛山の育ての親は日蓮宗僧侶・望月日謙      浅川保

■ 後年(1951年)、湛山は『湛山回想』の中で、彼が少年期から青年期にかけて強い影響を受けた人物として、育ての親である日蓮宗の僧侶、望月日謙、クラーク博士の薫陶を受けた山梨県立第一中学校校長・大島正健、そしてシカゴ大学でデューイに学んだ早稲田大学講師の田中王堂(おうどう)をあげている。そして、その3人から、それぞれ、日蓮の「国の柱」たらんとする志に象徴される真正の宗教的精神、アメリカ流の開拓者精神とデモクラシーの思想、そして、プラグマティズム哲学を学んだ。それらが湛山思想の源泉になったことは、周知のとおりである (『偉大な言論人 石橋湛山』162頁)


<パネル15  「望月日謙上人からの薫陶は、私の一生の幸福」 (湛山) 

【資料㉔】 「望月日謙上人からの薫陶は、私の一生の幸福」と語る石橋湛山      浅川保
■(望月日謙住職には)湛山が中学校の月謝を買い食いに使いこんでも、黙って払い、2度の落第にも小言を言わず、無言で反省を促す寛容さがあった。湛山が「私が、望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と記していることも、その何よりの証拠といえよう。
                 (『偉大な言論人 石橋湛山』)


【資料㉕】 望月日謙が展開する「国民精神総動員立正報国運動」 
   大谷栄一

(昭和12年)928日、当時の管長、望月日謙管長名で、次のような論達が出されております
「時局ノ重大性ニ鑑ミ、政府ノ国民精神総動員ノ計画ニ参与シ、茲ニ『日蓮宗臨時報国義会』ヲ結成シ、立正報国ノ一大表語ヲ掲ケテ其ノ嚮フ所ヲ提示ス。‥‥」

10月以降、望月管長が全国各地を回られ、国民精神総動員立正報国運動が展開されます(「戦後日本の宗教者平和運動を再考する」)

 

<パネル16  湛山が現代風に言い換えた立正大学の建学の精神(立正大学) 


【資料㉖】湛山が現代風に言い換えた 立正大学の建学の精神

        一 真実を求め至誠を捧げよう
        一 正義を尊び邪悪を除こう 
        - 和平を願い人類に尽そう 

■ 本学(立正大学)の名称は日蓮上人の『立正安国論』に由来します。日蓮上人が真の仏教者として社会に貢献する生き方を実践できたのは、日本の柱・日本の眼目、日本の大船になるという若き日の誓願に基づくこの『三つの誓い』であったと、流罪地の佐渡で著された『眼目抄』に表現されています。この言葉をもとに第16代学長石橋湛山が現代風に言い換えたものが、立正大学の建学の精神です  (「立正大学 建学の精神」で検索)

【資料㉗】 日蓮宗など宗教右派がつくる「日本会議」     上杉 聡

■ 元号法制化運動が山場を迎えようとしていた19744月、宗教右派の総結集にむけて「日本を守る会」が結成された。これは、一般にはほとんど知られることのない団体だが、現在の「日本会議」へ直結する組織的な団体となった。同会に所属する教団として、神社本庁、成長の家、佛所護念会教団、念法眞教、モラロジー研究所などがあり、これに臨済宗円覚寺派、曹洞宗、日蓮宗などの管長や明治神宮の宮司などが名を連ね、事務局を明治神宮会館に置いた

(『日本会議とは何か』「憲法改正に突き進むカルト集団」 27)

<パネル17 日蓮宗などの管長や明治神宮の宮司が名を連ねた「日本会議」  

【資料㉘】 安倍政権のブレーンの一部としての「日本会議」・「日本会議国会議員懇談会」(289人)のうち活動的なメンバー
   特別顧問  安倍晋三 (総理大臣)
  会  長  平沼赳夫 (自民党)

  副 会 長  古屋圭司 (自民党北朝鮮による拉致問題対策)

  幹 事 長  衛藤晟一 (首相補佐官)

  事務局長  萩生田光一(内閣官房副長官
)

  事務局次長 有村治子 (前女性活躍担当大臣)
  
        菅 義偉 (官房長官)
 
        高市早苗 (総務大臣)
  
        下村博文 (前文部科学大臣)
   
        山谷えり子(前拉致問題担当大臣) 

        稲田朋美 (自民党政調会長)

        松原仁   (民進党)
                      (『日本会議とは何か』上杉聰)
 


<パネル18
  湛山の常日頃からの心構え 

【資料㉙】 日蓮大聖人の「おことば」 ー(日蓮の三大誓願)ー
       
・我日本の柱とならむ
        ・我日本の眼目とならむ

        ・我日本の大船とならむ  
(「法華宗〔陣門流〕」)


【資料㉚】 「念仏の邪法を禁じなければ自界反逆と他国侵略がかならずおこる」 (『立正安国論』 日蓮著 1260年(文応元年)

■ 前執権北条時頼に提出した建白書。『開目』『観心本尊鈔』とならぶ日蓮の三大部の一つ。‥‥あいつぐ天変地異は『法華経』の正法にそむき念仏の邪法に帰依するためで、もし念仏の邪法を禁じなければ自界反逆と他国侵略がかならずおこるとして、『法華経』に帰依するよう勧め、立正安国の理想を述べた(「立正安国論」『日本史広辞典』)

【資料㉛】 「『日蓮の三大誓願』は石橋湛山の常日頃からの心構え」   立正大学 早川誠

幼少時からの教育は、父である杉田湛誓や望月日謙(ともに日蓮宗大学・立正大学の学長経験者であり、身延山久遠寺法主となる)といった日蓮宗の重鎮によって与えられたものである。また、日蓮の『開目抄』に記された三大請願「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」は、石橋の常日頃からの心構えであった。」   (『石橋湛山と現実主義』「立正大学の視点から」)

 

<パネル19  「有髪の僧」石橋湛山ー日蓮の徒であり続けた湛山

【資料㉜】 「『有髪の僧』石橋湛山」―日蓮の徒であり続けた湛山      福永宏 東京大学大学院情報学環非常勤講師 

■ 昨年の1215日、第6回石橋湛山研究学会が東京都品川区の立正大学で行われた。‥‥最初の発表者は、松井慎一郎氏(聖学院大学)。‥‥報告の表題は「『有髪の僧』としての石橋湛山―日蓮仏教からの影響」。概略は次の通り。‥‥湛山は晩年、「心においては、寸時も宗教界を離れたことはありませんでした」「世界を一仏土にする平和の教えのほかにあるまいと思います」(「祝辞」196611月)と蓮の徒であり続けた心中を吐露している。湛山の思想の根底には、人間の可能性・善性を徹底的に信じる楽観的な人間観が存在した。これは師・望月日謙を通じて学んだ日蓮教学に基づくもの、と松井氏は結論した。(「石橋湛山記念財団―第6回石橋湛山研究学会」)

【資料㉝】 「『国民精神総動員立正報国運動』を推進した望月日謙」       石川康明 

■‥‥これより以前、日蓮宗は昭和10813文部省次官通達にもとづいて「国体明徴」の徹底化を図ることを決定していたが、昭和12年の文部省のよびかけにこたえ、開戦後2ヶ月にあたる910日、「支那事変に対処するため」に「臨時報国義会」を組織した。同年(昭和12年)1019日より117日まで、望月日謙官長は「国民精神総動員立正報国運動」を展開するために各地に親教している。‥‥「国民精神総動員」に対応して“日蓮宗総動員”体制の成立を積極的に推進した   (「大東亜戦争下における日蓮宗の動向」)


<パネル20   「大東亜戦争」末期の湛山の言説

【資料㉞】 「世界無双の国体に恵まれた我が国」   石橋湛山   1944年(昭和19年)34日号「社論」

■ 最近の戦局がはなはだ緊迫せる様相を呈せることについては、繰り返して本誌に述べる如く、記者は何らの憂慮も抱かない。戦争は終局の勝利を得ることが目的で、中途の一進一退は問題ではないからである。しかしその終局の勝利は、勿論手を拱(こまね)きて、これを収めることは出来ない。就中(なかんずく今日の総力戦において、最も肝要なることは、国の政治が強力にして、苛烈の戦争の経過に善く勝ち抜くに堪える機能を発揮することだ。陸海将兵の忠勇についていささかの懸念なく、世界無双の国体に恵まれた我が国において、万一にも事を誤る憂ありとすれば、この点のみである。東条(英機)首相が、‥‥強力なる政治を行わんと決意したことは、かねて国民の等しく待望した所で、記者はむしろその時機の一層早からざりしを憾(うら)まんとする者である       (『石橋湛山評論選集』)

【資料㉟】 「上司の命に服さない者たちは、馘首せよ」   石橋湛山   1944年(昭和19年)85日号「社論」 

■‥‥ドイツの如き、集権的組織が整い、その訓練を久しく経た国においても、国家の諸機関を一元的に動かすことは、決して容易でないことが察せられる。我が新内閣は
この点に深く省み、威令を政府のあらゆる末端にまで徹底するため、敢えて大権力を振るうことを躊躇(ちゅうちょ)してはならない。いやしくも上司の命に服せず,専志(せんし)を働く者の如きは、容赦なくこれを馘首(かくしゅ)する覚悟が必要である。         (『石橋湛山評論選集』)


【資料㊱
「ヒトラー氏とか、ムッソリーニ氏とかいう人は、百年に一人出るか、二百年に一人出るかという傑出した人物」 石橋湛山 1945年(昭和20年)210日「社論」

■‥‥ドイツのヒトラー総統もいうているように、民衆という者は無知無力です。故にデモクラシー名の下に、実際の権力は資本家・企業家に帰した。それと同様に、今ソ連ではだれが権力を占めているかと申せば、労働者ではない。スターリン氏らです。これは官僚です。ドイツのヒトラー氏、イタリアのムッソリーニ氏、またやはり官僚にほかなりません。我が国でもしばしば問題になるように、官僚が力を得ております。けれども、ヒトラー氏とか、ムッソリーニ氏とかいう人は、百年に一人出るか、二百年に一人出るかという傑出した人物であるようです。           (『石橋湛山評論選集』)


<パネル21
   「愛国の至誠」を強調する湛山

【資料㊲】 「国民がこの美しき祖国を絶対的に護りぬかんとする厳粛なる決意は‥‥国民の血液の中に溶け込んでいる」  石橋湛山   1945年(昭和20年)210日「社論」

小磯首相以下が他の場合には言っているように、また戦局の実相が示すように、今や国民は全く総力を挙げて起たざるべからざる時だ。‥‥国民がこの美しき祖国を絶対に護りぬかんとする厳粛なる決意は、内閣や政府や官吏やによって与えられたものではない。それは国民の血液の中に何千年の昔から溶け込んでいるものなのである。この愛国の至誠が、議会の報告演説の内容によって動揺すると考うる如きものあらば、それは日本国民自身を侮辱するものだ(『石橋湛山評論選集』

【資料㊳ 「君国のため、成功を祈ってやまない」  石橋湛山  1945年(昭和20年)421日「社論」
■‥‥そもそも80歳の鈴木貫太郎)首相はいかなる政治を行おうとして大命を拝受したか。首相は同じ放送で右に続けて次の如くいう、「併し戦局かくの如く急迫した今日、私に大命が降下した以上、私の最後の御奉公と考えると同時に、まづ私が一億国民諸君の真先に立って、死花を咲かせるならば、国民諸君は私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進することを確信し、謹で御受け致したのである。」と。けだし鈴木新首相は、一億国民がかねて待望ししかも前内閣および前々内閣がついにこれを満たし得なかったいわゆる強力政治を、死を賭して行わんとするものと思われる。その志や真に壮かつ烈なりといわねばならぬ。君国のため、切に成功を祈ってやまざる所である。   (『石橋湛山評論選集』)

<パネル22   「天皇の大権の発動を仰ぎ奉れ」(湛山)

【資料㊴】 「天皇の大権の発動を仰ぎ奉れ―軍政を布けーいつでもこれを適用して妨げがない」  石橋湛山   1945年(昭和20年)421日「社論」

■‥‥さてしからば強力政治は、いかにしたらば具現し得るか。世の中にはその方法として、例えば憲法第31条の大権の発動を仰ぎ奉れと説く者がある。俗にいわゆる軍政を布()けと唱える者もこれであろう。憲法31条は「本章ニ掲ゲタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」というのであって、その本章とは、憲法2章臣民権利義務を指す。即ち憲法第2章に定められたる臣民の権利義務は、戦時または国家事変の際、天皇の大権の発動せられる場合には、一時これを無視し得るというのである。‥‥戦時の今日、本条は、もしそれが唯一必要の方法なりと認められるならば、勿論いつでもこれを適用して妨げがない。  (『石橋湛山評論選集』)

【資料㊵】 「上御一人の御聖断は神の如く、一切の論議を止揚し、戦争は終結された」 石橋湛山   1945年(昭和20年)825日号「社論」

忝(かたじけな)くも、上御一人の御聖断は神の如く、一切の論議を止揚し、戦争は終結された。而して今や万民心を一にして、更生日本の建設に邁進(まいしん)し得るの恵に浴すに至った。昭和20814日は実に日本国民の永遠に記念すべき新日本門出の日である       (『石橋湛山評論選集)』)



<パネル23
   【検証9】 問われ続ける山梨県人・日本人の歴史認識 

(1) 日川高校校歌問題
 日川高校の戦後史上、ただ一人正面から日川高校校歌問題に対峙した校長がいた。第23代山本昌昭校長(19854月~19863)である。校長の「異論」の論拠は『山梨県立日川中学校・日川高等学校百周年記念誌』(2001年発行)に詳しく書かれている。山本校長の「異論」が同窓会誌に残されたことにより、日川高校及びその関係者は、いつの日かこの問題に立ち向かわなければならいことは明白である。

 
「日川の知性にかかわる由々しき問題」 (山本昌昭)
‥‥このようにして、教育勅語は国民の代表である衆・参両院の議員によって排除・失効を決議され、その意義を称揚する者が、この国に再び現れないよう、法的なとどめを刺されたのである。そのような「勅」を根幹に据えた校歌を、今なお歌い続けていいのであろうか。時の流れは、これをその侭放置することを許さなくしてしまっている。これを無視する態度は、不遜もしくは怠慢と評されても致し方あるまい。正に、日川の知性にかかわる由々しき問題なのである
(山本昌昭:第23代日川高校校長〔19854月~19863月〕) 


() 石橋湛山問題 
石橋湛山の国粋主義的言説を『石橋湛山評論選集』(1990628日発行 東洋経済新報社)で読んだのは、今から10年以上前のことである。この本を読む人は、湛山という人物は愛国主義者あるいは国粋主義者であるとの感想をもつだろう。甲府市内に「山梨平和ミュージアム」が建立される頃の話である。「平和ミュージアム」建立の話に「日川高校校歌訴訟の会」の会員たちは感動し、建立に賛同した記憶は鮮やかだ。賛同者の一人として、筆者の名前も「平和ミュージアム」一階に展示されている。しかしその後、その名称が「平和ミュージアム ―石橋湛山記念館―」と改変されたときの驚きは今でも忘れることはできない。最初から「石橋湛山記念館」であったなら論争になっていただろう。今回のような石橋湛山に対する批判的なパネルを、「平和ミュージアム」はどう受け止めるのであろうか。
 


<パネル24
  【検証10】 再考:松尾教授の疑問について 

「いったい湛山は戦時下転向したのか。転向したとすれば、どの方向に、どの程度まで転向したのか」【資料⑭】
 

(3) 松尾尊兊 (京都大学名誉教授)が投げかけた疑問
【資料⑭】で松尾氏は、「いったい湛山は戦時下転向したのか。転向したとすれば、どの方向に、どの程度まで転向したのかと疑問を投げかけた。また湛山が公職追放を受けた理由と湛山自身の反論をくらべ、「どちらが正当なのか」と述べている。この疑問に対し、私はGHQの主張が正しいと考える。資料が私たちにそう教えているのだ 

GHQ ー「戦後GHQは、新報(東洋経済新報社)を公職追放のG項に該当するもの、すなわち好戦的国家主義及び侵略主義を主唱したものとして、主宰者湛山を追放した」

石橋湛山 ー 「湛山は、新報(東洋経済新報社)こそが戦時下『自由の本山』であり、好戦的国家主義や侵略主義に徹頭徹尾反対したと弁駁した。」           (いずれも【資料⑭】) 

湛山は若いころから一貫して日蓮宗の影響下で育てられた。湛山は「湛山育ての親」であり「国民精神総動員運動」を展開した望月日謙(【資料㉔】)について、「日謙上人からの薫陶は、私の一生の幸福」と書き残している。さらに湛山は、次のようにも述べている。 

「心においては、寸時も宗教界を離れたことはありませんでした。」
「世界を一仏土にする平和の教えのほかにあるまいと思います。」  (湛山が196611月に述べたという「祝辞」から。【資料㉜】) 

これらの言葉は松尾教授の疑問に対し、有力な答えを与えるのではないか。戦前に「小日本主義(平和主義)」を唱えていたという湛山が戦時下に「転向」したことを示す資料があるわけではない。また、湛山が信仰を変えたとする資料があるわけでもない。湛山は「転向した」のはなく、一貫して「日蓮宗平和主義者」だったのだ。 

資料には、湛山は生涯を通じて「有髪の僧」であり「日蓮の徒」であったと書かれている。湛山の「平和主義」とは、望月日謙が推進した「国民精神総動員立正報国運動」と連動する、日蓮主義を通しての「世界平和の実現」であった。日蓮の「立正安国の理想」を追い求める湛山が、「平和主義者」として「世界無双の国体に恵まれた我が国」と発言し、戦争を鼓舞したのも不思議ではない。今後私たちは石橋湛山について、「平和主義者」ではなく、「日蓮宗平和主義者」と呼ぶべきだろう                                                             
                                                                                                                                                                                     2020710


Ⅲ 河西さん、間違っている! ー 日川高校校歌問題の追求と戦争展展示取りやめ

                                                                                         佐野公保 (日川高校「天皇の勅」校歌訴訟県民の会)


はじめに 

 河西さんの最終的な掲載内容に正直言って落胆しました。それまでの10数回のやりとりは何だったのかと。そこで示された河西さんの認識や、一方的な思い込みや間違い、いやそれらの指摘について聞いてもらえないことにです。

・〈戦争展は「山梨平和ミュージアム(石橋湛山記念館)」が中心となり行われてきた企画です。〉そうではありません。実行委員会でやってきました。実行委員たちを侮辱しています。
・〈石橋湛山を否定的に描くことは「戦争展」の趣旨に合わないという考えが根底にあるようだ。〉勝手な推測でしょう。
・〈石橋湛山の「国粋主義的言説」のような否定的パネルの展示を疑問視する声は、「戦争展実行委員会」内で多数を占めたという。〉そんなこと言ってませんよ。
・〈会内で話し合った結果、「戦争展実行委員会」の考え方に賛同する会員から、〉とは、私自身が貶められた気分ですが、断固として「実行委員会の考え方に賛同して」言ったのではありません。私がそう思って言ったのです。
・〈「戦争展」ではなく私の個人名を明記の上、「県民の会」が運営するインターネット上に掲載すべきだという提案がなされた。〉掲載すべきとも言っていない。戦争展への出展という方法でなくても、県民の会のHPなら、個人の意見として掲載は出来ると言ったのです。
・〈山梨県人である私は、石橋湛山という「平和主義者」の人物像について考えることは、「天皇の勅」を賛美する「日川高校校歌問題」の解決につながると考えている。〉それだけでわかりますか?
・〈今後私たちは石橋湛山について、「平和主義者」ではなく、「日蓮宗平和主義者」と呼ぶべきだろう。〉それが校歌問題の議論にどう関わりますか?



1 校歌問題の解決に向けて ー 遠藤比呂通さんの「時標」


2006年の東京高裁判決で教育課程に取り入れることについての裁判所の判断が示され確定しています。    
〈本件歌詞(日川高校天皇の勅歌詞)が日本国憲法の精神に沿うものであるかについては異論が有りうるところであって、本件歌詞を含む本件校歌指導を教育課程に取り入れることの当否についても、十分な議論が必要であるということはできる。〉
それから今年で14年目になりますが、昨年の11月3日の日川高校同窓会の広告が掲載された同じ新聞に、「時標」として裁判の代理人弁護士遠藤比呂通さんが書いています。
〈日川高校校歌訴訟と東京高裁判決が問いかけた「憲法の精神」は、魔神化された「象徴」が再び教育の現場で用いられることへの異論であったことがわかります。判決から13年たった今、この「異論」は色あせるどころか輝きをましているように思えてなりません。〉この機に日川高校に議論を進め解決を求める時だと言えます。




2 校歌問題解決に石橋湛山を取り上げるというが

そのようなときの戦争展の展示として、河西さんから今回は「石橋湛山」をとりあげ検証したいと提案がありました。河西さんはかねてから石橋湛山の戦時中の言辞を国粋的と批判していましたが、日川高校校歌問題の解決が進まないのは、日本人、山梨県人の「天皇の勅」に煽られたことへの反省がなされていないこと、それは石橋湛山の評価が関わっているというな意味合いだと理解しました。一定の評価をされている石橋湛山だとしても、そうだというのなら、それはしっかり問題にして、校歌問題の解決につなげられればいいいのです。校歌問題の解決を求める県民の会としての主張の中に位置づくのであればと思っていました。どうつなげられるんだろうとも思いましたが、それはまた話し合えばいいと思っていました。



3 このままでは出せない

最初の案が出されたとき、これは違うんじゃないかと思いました。一番最初に思った事は、河西さんが戦争展は平和ミュージムが主導しているとかの大変な思い違いや、石橋湛山記念館となっている事への個人的な思いが出されていたことだった。そこからの思い込みで書かれているようで、実行委員の一人として不愉快でもあり、県民の会でだすと言うより、個人の思いで言われているように思えました。 
 二つ目に思ったのは、気になっていた日川高校校歌問題と湛山の検証というもののつながりがついていないことでした。問題意識から結論まで、これでは県民の会が何で石橋湛山をとりあげ検証するのかが分からない。どう日川高校校歌問題の解決につながるのかが分かりませんでした。
 そして三つ目に、石橋湛山の検証にも疑問を感じました。私の知らないこともあってどうこう言えない事もありましたが、それでも、こういう取り上げ方ではだめだと思いました。具体的なことについてはここでは多くは言わないことにしますが、そこでは取り上げていなかった「孤高を恐れず石橋湛山の志」という佐高信の本を読んだ時の納得感はありませんでした。その湛山を検証するというのですから、私にはその佐高信の本以上の納得が必要でした。しかし、パネル案からはそれは得られませんでした。例えば、湛山ー日蓮宗ー日本会議、つまり湛山ー日本会議といったような立証もできないような不確かなことを言うのはとても納得が得られることではありませんでした。
 こうした事から、このままでは、「県民の会」として戦争展に出すのはどうか、理解されないだろうと思いました。それどころか、一方的に個人的な不満を戦争展という共同の場に出していると思われ混乱を起こすだろう、それは県民の会の活動への反発や不信となり、日川高校校歌問題解決への悪影響となりかねないと心配になりました。



4 それでも石橋湛山の検証が校歌問題の解決につながるなら

石橋湛山を批判してはならないなどと言うことはありません。日川高校校歌問題の解決をすすめるためにどうしても必要だというのならそれをダメということはないのです。私は繰り返し、思い違いを指摘し、取り上げる必要性、そのつながりについて検討を求めました。検証の内容については違いがあってもいいと思っていました。それはつながりを考える上で自ずと議論となるだろうと思ったからです。
私は、石橋湛山を取り上げ検証することは日川高校校歌問題の解決につながるという主張でなければ県民の会の主張にならないと言い続けました。個人が展示するのではない、県民の会が戦争展に参加して展示するのだからと。
 しかし、最後までこのつながりがわかるようにはなりませんでした。日川高校校歌問題の解決のために石橋湛山を取り上げて検証し、湛山についてこう考えることで、日川高校校歌問題の議論がすすめられ解決をはかることができると語られることが必要なのです。
さらなる検討を求めていた途中で河西さんが展示パネルタイトル案を実行委員会にだしました。「どうして県民の会が石橋湛山をとりあげるのかわからない」と意見が出され、検証内容にも疑念が出されました。私はまだ県民の会の中で検討中だと説明しました。
 そのまま県民の会として同意できないなら、県民の会として出展はできないし、そのようなものを出すことを実行委員会も了解しないだろうと話すしかありませんでした。
 このままなら私は出すことに同意しないと判断し、河西さんも出展を取りやめると判断しました。その経過の中で、県民の会のホームページに個人の意見として掲載することになりました。それに対する私の意見も同時に。これがその意見です。



5 見通すことは容易ではない ー 無責任ではないか

河西さんは、〈このような経緯が「日川高校校歌問題」の解決にどうつながるのか見通すことは容易ではない。この問題は山梨県人・日本人の歴史認識と深く関係するだけに、「解決への長い道」が予想される〉と書いていますが、これでは無責任です。見通せていないということです。日川高校校歌問題と石橋湛山を検証するということは、それは時代として重なりもあり、大きな歴史の中ではつながっていることもあるでしょう。しかし、今ここで石橋湛山の検証をすることが、日川校歌問題の解決にこうつながるのだという仮説すら示せていないということです。
それなのに、パネル案では〈なぜ石橋湛山なのか〉と始め、〈山梨県人である私は、石橋湛山という「平和主義者」の人物像について考えることは、「天皇の勅」を賛美する「日川高校校歌問題」の解決につながると考えている。〉としています。そして最後に、〈今後私たちは石橋湛山について、「平和主義者」ではなく、「日蓮宗平和主義者」と呼ぶべきだろう。〉としているのですが、これが日川校歌問題の解決にどう関わってくるのでしょう。わからないのです。



6 冷静な検証を

パネル23として書かれている中の「石橋湛山問題」という部分があります。ここに書かれていることは、まさに、河西氏の個人的な思いであって、「県民の会」の思いにはなりません。このような個人的な思いが「石橋湛山問題」ということで検証するということになるのでしょうか。それでは、日川高校校歌問題という個人を超えた問題につながりません。石橋湛山を検証するという思いは、何で平和ミュージアムが石橋湛山記念館なのだという個人的な思いからではないでしょうか。そのことで納得の得られない検証内容であり、何より日川高校校歌問題の解決に向かうことに少しもつながっていないのです。
今回のパネル案は、やはり戦争展という場にだすことを取りやめておいてよかったと思います。県民の会として戦争展に出すということは単なる石橋湛山の検証ではありません。日川校歌問題を解決に向かわせるための検証としてどうなのかが共同、公開の場で問われているからです。それがこうして県民の会のHPに個人的な意見として掲載することになりました。戦争展をはなれ、ある意味日川高校校歌問題とも離れ、冷静な石橋湛山の検証ができるといいと思うのですが。


附記 
 石橋湛山の検証ということを具体的には多くに触れませんでした。例えば湛山の公職追放に対する弁駁もありますが、それらを読む前の展示案の提案を受けた時点での私の判断をまず言いたかったからです。今後の検証がなされる中で、日川高校校歌問題とどうつながるのかが明らかになるならそれは期待したい。

                                                                                               2020年8月16日

 
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