② 問題追及  開き直る学校・同窓会  同窓生・原告 河西久 パートⅡ  パートⅠ(1~11)のつづき 

12 同窓生討論:「天皇を中心とする神の国」の終わりなき報恩戦争(上)

【論点】なぜ戦争は終わらなかったのか
「祖宗への恩返し」、これが「万世一系」の皇統を継承する天皇の宿命だった。臣民は「現人神」の命令に対し常に従順であり、「皇恩の万分の一の恩返し」を合言葉として天皇の報恩戦争を扶翼した。東条首相が政権の座を去り同盟国のイタリア・ドイツが降伏した後も、「神の国」の大元帥は戦闘停止命令を下すことができなかった。なぜか。なぜ戦争は終わらなかったのか。今回は「万分の一の恩返し」をキーワードとして、明治政府がつくった「天皇を中心とする神の国」の終わりなき報恩戦争について討論する。

 明治政府がつくった「恩の国」
(1)メディアが投げかけた疑問
(2)君主国に学んだ伊藤博文
(3)皇室を基軸にすえた「神の国」の構想
(4)「恩は負債である」(ルース・ベネディクト)
(5)個人がいない「恩の国」
(6)「皇恩」を売る軍人勅諭
(7)侵略のイデオロギー
(8)奇襲戦法と海外神社の建立
(9)「亜細亜民族の指導国家たる新日本」(石塚末吉)

10)「国際連盟を脱退せしむ」(昭和天皇)
11)「議会における自由奔放、枝葉末節の議論は許されない」(田辺七六)

 <次回予定> 13 同窓生討論:「天皇を中心とする神の国」の終わりなき報恩戦争(下)

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祖宗(そそう)(おん)(むく)いまゐらする(こと)()るも()さるも…」(「軍人に賜りたる勅諭」明治天皇)
(ちん)(なんぢ)()軍人(ぐんじん)大元帥(だいげんすゐ)なるそされは(ちん)(なんぢ)()股肱(ここう)(たの)(なんぢ)()(ちん)頭首(とうしゅ)(あふ)きてそ(その)(したしみ)(こと)(ふか)かるへき(ちん)国家(こっか)保護(ほご)して上天(じやうてん)(めぐみ)(おう)祖宗(そそう)(おん)(むく)いまゐらする(こと)()るも()さるも(なんぢ)()軍人(ぐんじん)(その)(しょく)(つく)すと(つく)さヽるとに()るそかし…汝等(なんぢら)(みな)其職(そのしょく)(まも)(ちん)一心(ひとつこヽろ)になりて(ちから)(こつ)()保護(ほご)(つく)さは我國(わがくに)蒼生(そうせい)(なが)太平(たいへい)(さいはひ)()我國(わがくに)威烈(ゐれつ)(おほひ)いに世界(せかい)光華(くわうくあ)ともなりぬへし…」(『軍隊手牒』)

「誓文」(『軍隊手牒』)
今般(コンパン)讀聞(ヨミキケ)相成候讀法(トクハフ)條々(デウデウ)(カタ)(アヒ)(マモ)(チカツ)違背(イハイ)仕間敷(ツカマツルマジク)(コト)
(ミギ)
宣誓(センセイ)(ゴトシ)(クダンノ)(如件の間にレ点一筆者)

明治三十八年一月七日  
所管   近衛師国
 
部隊號  野戦砲兵第十五聯隊補充大隊第二中隊
 
兵科   砲兵
 
官等級  補充兵砲兵一等□(□印不明―筆者)
 
本貫族籍 山梨縣平民
 
氏名   ○○○○
 
誕生   明治十七年二月八日

「汝らは朕を頭首と仰げ」(「軍人に賜りたる勅諭」明治天皇 188214日)
1882年(明治1514日に明治天皇が下した勅諭。天皇制下の軍隊の性格を明示したもの。1880年、参議兼参謀本部長の山県有朋(やまがたありとも)が中心となって起案、西周(あまね)が起草し、井上毅(こわし)・福地原一郎らも加筆した。忠節・礼儀・武勇・信義・質素など軍人の徳目と、兵馬の大権を天皇が直接掌握することを示した。自由民権運動の高揚を背景に、軍人の政治不関与をも説く。『朕は汝等を股肱(ここう)と頼み、汝等は朕を頭首と仰』げとのべ、憲法・議会の整備以前に天皇と軍人の直属関係を確立した点に歴史的意義がある。」(「軍人勅諭」『日本史広辞典』山川出版社)

「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」原文(明治278月1日 明治天皇)
「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ賤メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス 朕カ百僚有司ハ宣ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ」(『ウィキペディア』)

「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」原文(明治37212日 明治天皇)
 「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ賤メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス朕茲ニ露国ニ対シテ戦ヲ宣ス…几ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ遺算ナカラムコトヲ期セヨ」(『ウィキペディア』)

「帝國ト()ノ意圖ヲ同ジクスル獨伊兩國トノ提攜(テイケイ)協力ヲ議セシメ…」(「日独伊三国同盟成立の詔書」昭和天皇  1940927日)
「大義ヲ(ハッ)(コウ)ニ宣揚シ(コン)輿()一宇(イチウ)タラシムルハ(ジツ)ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜(シュクヤ)眷々(ケンケン)()カザル所ナリ…朕ハ禍亂ノ戡定(カンテイ)平和ノ克復ノ一日モ速ナランコトニ(シン)(ネン)極メテ切ナリ(スナワ)チ政府ニ命ジテ帝國ト()ノ意圖ヲ同ジクスル獨伊兩國トノ提攜(テイケイ)協力ヲ議セシメ(ココ)ニ三國間ニ()ケル條約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク(ヨロコ)ブ所ナリ…天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」(『天皇と勅語と昭和史』千田夏光311頁~312 汐文社)

「朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス」(昭和天皇 1941128日)
天祐(テンユウ)ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚(コウソ)()メル大日本帝国天皇ハ(アキラカ)ニ忠誠勇武ナル(ナンジ)有衆ニ示ス朕茲ニ米國(オヨビ)英國ニ對シテ戰ヲ宣ス…皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ(ナンジ)有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ偉業ヲ(カイ)(コウ)シ速ニ禍根ヲ芟除(サンジョ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ(モツ)テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス」(『天皇と勅語と昭和史』327329頁 千田夏光 汐文社)

「被害は甚大ですが…断じて恐れることはありません」(高野広島県知事布告 19458月7日)
 「広島県民各位、被害は甚大ですが、私たちは戦争をしていると言うことを忘れてはならないのです。断じて恐れることはありません。…私たちはあらゆる困難と苦痛を克服し、聖戦のために前進すべきであります。」(『「天皇制」論集』163 三一書房)

「神霊に謝るすべがない…これが共同宣言に応じた理由である」(「戦争終結の詔書」1945815日 昭和天皇)
 「…戰局必スシモ好轉(コウテン)セス世界ノ大勢(マタ)我ニ利アラス加之(シカノミナラズ)敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ(シキリ)無辜(ムコ)ヲ殺傷シ慘害ノ(オヨ)フ所眞ニ(ハカ)ルヘカラサルニ至ル(シカ)(ナオ)交戰ヲ繼續(ケイゾク)セムカ(ツイ)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス(ヒイ)テ人類ノ文明ヲモ破却(ハキャク)スヘシ(カク)(ゴト)クムハ朕何ヲ(モツ)テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ()レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ(オウ)セシムルニ至レル所以(ユエン)ナリ…」(『天皇と勅語と昭和史』391頁~392頁 千田夏光 汐文社)

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「日本は天皇を中心とする神の国」(森喜朗首相 2000515日)
 「…最近、村上(正邦参院議員)会長はじめとする努力で、『昭和の日』を制定した。今の天皇ご在位十年のお祝いをしたり、先帝陛下(在位)六十年だとか、政府側が及び腰になるようなことをしっかり前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心とする神の国であるぞということを、国民の皆さんにしっかりと承知していただくというその思いで我々が活動をして三十年になる。…」(『神の国』発言要旨朝日新聞 2000517日)

「空想で作り上げた『善良な父』」(ルース・ベネディクト)
 「日本の政治家たちが、天皇を神聖首長として祭り上げ、俗生活のごたごたから遠ざける計画を立てたのは、まことに当を得た措置であった。日本ではただそうすることによってのみ、天皇は、全国民を統一し、ひたむきに国家に奉仕せしめる手段として役立つことができたからである。…天皇は一切の世俗的考慮から離れた神聖首長でなければならなかった。日本人の最高の徳である天皇に対する忠節、すなわち“チュー”〔忠〕は、空想で作り上げた、俗世間との接触によって汚されない『善良な父』を、随喜しながら仰ぎ望むことにならねばならない。明治初年の政治家たちは、西洋諸国を視察したのち、すべてこれらの国ぐににおいては歴史は支配者と人民との間の争闘によって作られるが、これは日本精神にはふさわしくないと書いている。…」(『菊と刀』146頁~147  社会思想社 1967年)

「一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して…」(『国体の本義』文部省 1937年)
 「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところ がない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」(『天皇制と教育』 久保義三編著 14頁~15頁 三一書房 1991年)

「元来国家とは、詐欺をやる、誤魔化しをやる…滅茶苦茶なもの」(夏目漱石)
 「たヾもう一つ御注意までに申し上げて置きたいのは、国家的道徳といふものは個人的道徳に比べると、ずつと段の低いものの様に見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくつても、道義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考へると、それが大変高くなつて来るのですから考へなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義に矢張重きを置く方が、私にはどうしても当然のやうに思はれます。」(『夏目漱石集』「私の個人主義」486 日本文学全集 筑摩書房)

「神道国家的な妄想の体系を作り上げ、…無茶苦茶なことをしていた」(浅田彰)
 「僕は今回の事件(オウム事件)について、数人の戦中派の人から全く同じことを聞いた。彼らは、あんなものには驚かない、戦中の日本はああだった、と言うんです。完全に情報を遮断した上で、天皇を『現人神』として戴いて国家神道的な妄想の体系を作り上げ、そのために、神風特攻隊で命を捨てるとか、風船爆弾でアメリカを攻撃するとか、無茶苦茶なことをしていたんだから。…そして最終的に、ハルマゲドンとまではいかないにせよ、原爆投下という悲劇を招き寄せてしまった。国家レベルでオウム真理教の妄想を実行してしまったようなものです。」(『「オウム事件」をどう読むか』28 文芸春秋編 1995年)

「利用者の道具にすぎない天皇制」(坂口安吾)
 「いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼等が自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意思ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。」(『堕落論』93 〔初出『新潮』194641日〕新潮文庫2000年)

「世界の最大の歴史的にせもの」(W・J・トマス)
 「…この41歳の人間が、天照大御神(the Sun Goddess Amaterasu)の128代目の子孫にあたる日本の天皇、ヒロヒトである。日本人は、その存在、地球上で最も偉大な民族としての誇り高い地位、および、世界を支配する民族としての聖なる天命等を天皇によって賦与されているのである。ヒロヒトは7000万人の日本国民によって神として崇拝されている。毎日、何百万人もの国民が東京の方向に向かって敬虔に最敬礼をしている。これが彼らの神と呼ぶ天皇への祈りなのである。…天皇は侍従たちによって取りまかれており、宮城は外界と電話連絡もつかない。彼はその助言者たちの言葉によって戦争を宜し、平和を訴える。一言でいえば、彼は世界で最も顕著な囚われ人であり、この見せかけによって日本の天皇は2000 年近い間、単なるパペットだったのである。それにもかかわらず、この天皇の“神性”が日本国民の生命の主要因である。天皇の名において政治的暗殺が栄光化され、残虐行為が正当化され、世界の征服が宗教的信念にまで高められているのである。…」(『日本が神と呼ぶ人間』〔1942にシドニーで公刊されたパンフレット〕第1章「世界の最大の歴史的にせもの」『天皇観の相克』121頁~122  武田清子 岩波書店 1978年)

「彼らは天皇を平和への道の最大の障害と見なしていた」(ハーバート・ビックス)
 「1943年初頭、ソロモン海の敗北から1944年7月のサイパン陥落にいたる間、近衛を中心とした宮中・重臣の小グループは、岡田啓介提督を中心とした海軍のグループに支持されて、ひそかに東条に辞任を追る工作に着手していた。東条の権力がそれよりもはるかに強大な天皇の力に支えられている以上、彼らは昭和天皇が決断さえすれば、いつでも東条を退陣させることができると信じて疑わなかった。実際、彼らは天皇を平和への道の最大の障害と見なしていた。個人的には戦局に失望していた昭和天皇は、結局、東条の支持を撤回した。 1944718日、東条の政敵にとってこれが東条を内閣総辞職へと追い込む決め手となった。東条辞職から二日後、昭和天皇はお気に入りのこの将軍に、その『勲績と勤労』を誉め、『益々(ますます)軍務に精励し以(もつ)て朕が信倚(しんい)に副(そ)はむことを期せよ』と述べて、その労をねぎらう異例の勅語を与えた。」(『昭和天皇(下)』151 講談社学術文庫 2005年)

「内大臣木戸幸一も退位するよう勧告したが、天皇裕仁は従わなかった」(色川大吉)
 「東条英機は東京裁判で、『陛下の御裁可があってこそ開戦したのです。臣下として一天万乗の君の御命令に背いてこの戦争をはじめたなどとウソの証言をして、それで死にきれますか』と弁護人に抗議したという。東条ばかりではない。昭和天皇の最高の側近、敗戦時の内大臣木戸幸一も、もし天皇の責任を否定したら、日本帝国の全軍人の責任も問えないばかりか、国民の道義的責任感さえ失われる。それでは、これから後の日本はだめになってしまうと憂慮して、退位するよう勧告した。だが、天皇裕仁は従わなかった。その結果どうなったかは、無責任国家日本の現状をみれば思い当たるであろう。」(『山梨日日新聞』2000113日)

「純情愚昧な国民は…ひれ伏して謝罪していた」(色川大吉)
 「目本の指導者は原子爆弾が投下された後でも、じつは『国体』(彼らの支配システムの根幹である天皇制)が護持されるかどうかの方を最重要視していたのであって、ヒロシマやナガサキ市民のことを考えていたわけではなかった。ところが純情愚昧な国民は、これほどひどい背信と戦禍に痛めつけられていながらも、痛めつけた『張本人』のいる皇居の二重橋前の玉砂利にひれ伏して、自分たちの努力が足りなかった罪を嗚咽しつつ謝罪していたのである。」(『わだつみの友へ』110 岩波書店 1993年)


明治政府がつくった「恩の国」  

(1)メディアが投げかけた疑問

「昭和天皇が『米英に対する宣戦の詔書』を下したのは194112月8日。米英との開戦時にはドイツ・イタリアという仲間がいたからわかるけど、だれもが悩むのは、独伊が降伏した後なぜ日本は単独で世界を相手に戦いを続けたかということだな。」
「まったく常識では理解できないね。イタリアの降伏は1943年9月3日。ドイツの降伏は1945年5月8日、日本の無条件降伏は4592日だ。」
「勝算がまったくなかったにもかかわらず、『神国日本』は敗戦を受け入れることができなかった。なぜ大元帥は停戦命令を出せなかったのかということだな。これについて、まず朝日新聞が投げかけた疑問から検討してみようよ。」

「あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか」(『朝日新聞』社説 2005814日)
「明日、
60回目の終戦記念日を迎える。あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもその疑問がわいてくる。犠牲者の数を調べてみて、まずそう思う。日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本人の戦役者は310万人にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万近い人が命を落としているのだ。…ようやく45年2月、近衛文麿・元首相は『敗戦は遺憾ながらもはや必至』と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲や沖縄戦は防げた。いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。軍事史に詳しい歴史家大江志乃夫さんは『私にもわからない』と首をかしげる。いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。」

「いろいろな意味で考えさせられる文章だな。」
「そう。この文章を読んで注目するのは、『戦争が終わらない』理由として、『だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の責任のありかがはっきりしない』と書いている部分だよ。ここでは焦点は東条に当てられていて、大元帥である昭和天皇の役割については言及していない。大元帥の責任に触れないまま『もう1年早く終わらせることができたのではないか』という設問は、戦争責任の循環論法に陥るだけだね。」
「やはり背後には、東条首相が最高の戦争責任者であるとする発想があると思うよ。これは、東条をはじめとする強硬派をA級戦犯だとする東京裁判史観の反映だろう。現実には、東条がいなくなっても戦争は終わらなかったからね。そのあたりがはっきりしないうちは『神国日本』が起こした戦争の本質は見えてこないね。」
「オレはね、『神の国日本』の戦争は『天壌無窮の神勅』を奉じる天皇の終わりなき報恩戦争だったと考えているんだ。天皇が率いる皇軍の戦争は、本質的に永久戦争なんだよ。長野県に『松代大本営』が完成していたら、原爆の有無にかかわらず、ほぼまちがいなく本土決戦になっていただろう。『恩の国』の戦争に敗戦の文字はなかったからね。」 

(2)君主国に学んだ伊藤博文

「明治政府と言えば旧千円札の伊藤博文だな。千円札を飾ったということは、日本国が伊藤は近代日本をつくった偉人であると内外に宣伝していることになる。『天皇を中心とする神の国』をつくったのは明治政府だけど、この政府は民主的な国家を目指した政府だったのか、それともその逆だったのか見極めておく必要があるね。」
「伊藤らは一体どういう日本をつくろうとしたのかということだな。人民が主権をもつ国ならば民主的な国、天皇が主権をもつ国なら君主国ということになる。」
「『百姓一揆』の伝統をもつ民衆パワーを恐れる明治の指導者たちは、従順な国民を育てるために何らかの装置が必要だったということだ。その装置の中核に『天壌無窮の神勅』が置かれ、天皇はこの国の祭主とされ、国民はその祭主とともに皇運をお助けするという仕組みがつくられたということだな。」
「なるほどね。フランス革命やアメリカ独立戦争は、明治維新からみて100年も前の話だということを忘れてはならんね。伊藤らはこれらの革命思想から何を学んだのか、そして何を学ばなかったのか、結局元勲たちが選び取ったのは君主国の制度だったということになるな。」
「この資料には、伊藤博文は『君権強大な国に学んだ』と書いてある。」

「プロシア、オーストリアなど君権強大な国の学者に学んだ伊藤博文」(井上清)
 「翌82年(1882年一筆者)3月伊藤博文は憲法取調のために欧洲に行き、スタイン、グナイスト、モッセらプロシヤやオーストリアの君権強大な国の学者の中でも、最も保守的な学者から、いかにして議会、国民の勢力をおさえ、天皇と政府の権を強大に保つかについて詳細ねんごろな教えをうけ、翌年8月にかえった。国内では岩倉具視が井上毅をして、ドイツ人ロスレルらから伊藤と同じことを熱心に学ばせた。」(『「天皇制」論集』99  三一書房)

「帝国憲法第三条は西洋君主国の君主無答責の原則を導入したもの」(家永三郎)
 「帝国憲法第三条の『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』という規定は、西洋君主国の君主無答責、すなわち君主は政治上法律上の責任を負わないという原則を導入して起草されたものであるが、帝国憲法の場合は、『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』という第一条とあわせて、『古事記』『日本書紀』に記されている、天皇の祖先は神であり神の子孫として皇祖神の神勅により授けられた統治権を行使する天皇は神的尊厳を永久に保有する、という、古代的神権君主観念をもふくんでいたのである。したがって天皇は最高権力者である君主として『臣民』を統治するにとどまらず、神聖な権威の源泉として『臣民』の精神的忠誠の対象でもあった。法的拘束力のない教育勅語が国民の思想を規制する、法以上の大きな力をもっていたのもそのためであり、『天壌無窮ノ皇運』の『扶翼』(教育勅語)を中核とする 『国体観念』は、法的権力にまさる強制力を発揮した。」(『戦争責任』46頁~47 岩波書店1985年)

「家永氏の記述で重要なのは、『天皇は最高権力者であると同時に、臣民の精神的忠誠の対象でもあった』という部分だろう。フランスやアメリカは自由や平等の精神を基軸に国をつくったけど、明治政府はこれとは逆に、『現人神』が支配する国をつくろうと考えたわけだ。」
「このアメリカの独立宣言を読んでいると、まるで天皇条項のない日本国憲法を読んでいるような気がしてくるよ。人民には抵抗権があると言っているんだな。」

「すべての人間は平等につくられている」(アメリカ独立宣言)
 「…すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追及を含むある侵すべからざる権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。…事実あらゆる経験の示すところによれば、人類は害悪が忍びうるものである限り、慣れ親しんだ形を廃することによって非を正そうとするよりは、堪え忍ぼうとする傾向がある。しかし、常に変わらず同じ目標を追求しての権力乱用と権利侵害が度重なり、人民を絶対専制のもとに帰せしめようとする企図が明らかとなるとき、そのような政府をなげうち、自らの将来の安定を守る新たな備えをすることは、人民にとっての権利であり、義務である。…。」(『アメリカ独立宣言・全訳』で検索 「『アメリカ独立戦争』(上・下)(学研M文庫)著者のページ」友清理士)                       

「上からの変革を目指す明治の指導者たちは、抵抗権どころか、『朕は大元帥なるぞ』と明治天皇に言わせているからね。日本では『抵抗権』などという発想は生まれようがない。抵抗権をウィキペディアでみたら、こんな説明があったよ。『抵抗権:人民により信託された政府による権力の不当な行使に対して人民が抵抗する権利』。さらにこんな記述も…。『この抵抗権はジョン・ロックにより自然権の一つとして提唱され、アメリカ独立戦争やフランス革命の理論的根拠となった』とね。」
「腐敗した政府に対しては、人民は革命を起こす権利が認められているということだろう。この『人民の抵抗権』というのは『百姓一揆』や『打ちこわし』に似ているけど、明治政府がこれをうまく育てていけば人民の信託を受けた政権の樹立につながった可能性はあるね。少なくとも狂気の戦争はありえなかったな。抵抗権は中国でいえば『易姓革命』だろう。悪政を行う政府は交替するという考えだけど、日本の皇室は名字をもたないからね。名字をもたない天皇家は『易姓革命』は当てはまらないと考えたのかもしれん。古代の日本の指導者たちは中国の『易姓革命』のことを知っていて、この革命理論を逃れるために名字のない王室を作ったとも考えられるな。」 

(3)皇室を基軸にすえた「神の国」の構想

「なるほどね、明治政府の眼目は『革命のない国づくり』にあったわけだ。伊藤らは革命を支える『人民の抵抗権』のような思想が根底にあってはならないと考えたわけだね。」
「そう考えると、大日本帝国下の明治と昭和が連続していることがよくわかるよ。昭和の時代になって突然『国体の本義』や『臣民の道』が頭を出してきたわけではなく、『われを捨て去り、ひたすら天皇に奉仕せよ』との文部省の教えは『軍人勅諭』の精神でもあったということだね。明治国家が何を基軸に国づくりをしたか、伊藤博文の考えを聞いてみよう。」

「我国に在りては…国家の基軸たるべきものなし」(伊藤博文)
 「明治二十一年六月、枢密院の帝国憲法草案審議が天皇臨御の下に厳かに開始された日の劈頭に、議長伊藤博文は憲法制定の根本精神について所信を披歴し、次のようにのべた――『…欧州ニ於テハ憲法政治ノ萌セル事千余年、独リ人民ノ比制度ニ習熟セルノミナラス、又宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ、深ク人心ニ浸潤シテ、人心比ニ帰一セリ。然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ国家ノ基軸タルヘキモノナシ。…』」(『日本の思想』28頁~29 丸山真男 岩波新書1961年)

「我が国に在りて基軸とすべきものは皇室だけである」(伊藤博文)
 「我が国ニ在テ基軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ。是ヲ以テ比憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヒ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサラン事ヲ勉メリ〔中略〕乃チ此草案ニ於テハ君権ヲ機軸トシ、偏ニ之ヲ毀損セサランコトヲ期シ、敢テ彼ノ欧州ノ主権分割ノ精神ニ拠ラス。固ヨリ欧州数国ノ制度ニ於テ君権民権共同スルト其揆ヲ異ニセリ。是レ起案ノ大綱トス」(『同』30 丸山真男)

「決して主権の民衆に移らざる」(伊藤博文)
 「将来如何の事変に遭遇するも…上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざる」(明治22・2・15、全国府県会議長にたいする説示)」(『同』30 丸山真男)

「『決して主権の民衆に移らざる』と伊藤が言ったんだな。」
「それが明治政府の国づくりの核心だったというわけさ。明治政府が目指した国家の形は、自由や平等を原理とする国民主権の国とは全く異質の構造であることがわかるな。」 

「国民主権や自由を原理とする教育は、天皇制国家にはなじまなかった」(久保義三)
 「市民革命期の教育思想に示された、国民主権や自由を原理として、理性的・道徳的・愛国的な市民を形成するという教育の発想には、天皇制国家の教育はなじまなかった。したがって、そこにおいては、天皇制国家の国家統治実現の重要な手段として教育をとらえていたので、市民、いいかえれば民衆のなかからの自発性と主体性とをもった民衆教育の形成という方式をとりえず、権力によって急速に国民意識や愛国心の喚起を、すなわち支配的イデオロギー 国体史観― を国家教育によって教育しなければならなかった。」(『天皇制と教育』12頁~13 三一書房 1991年)

「『否(ノン)』が想定されていない『恩の国』の構造が少しずつ見えてくるね。」
「『百姓一揆』や『打ちこわし』の動きを封じるための方策、その一つが『一大家族国家観』ということだろう。『一大家族国家』の創造に成功すれば、永久に革命が存在しない国家をつくることができるからね。目本の社会的変革はつねに上からの改革だから、明治政府は『大化の改新』にならって『維新』という言葉を使ったんだと思うよ。」

 (4)「恩は負債である」(ルース・ベネディクト)

「『万分の一の恩返し』といえばルース・ベネディクト(18871948)だな。」
「『恩返し』は昔も今も日本人の常用語だけど、彼女は『恩』についていろいろ分析している。『恩は負債』であるとも述べているよ。」

「『恩』は負債であって返済しなければならない」(ルース・ベネディクト)
 「『恩』は負債であって返済しなければならない。…われわれは、日本人の基本的要請である、すべての人間は生まれ落ちるとともに自動的に大きな債務を受けるという観念を欠いているが、何人もその窮乏した両親を憐み助けるべきであるし、妻を打ってはならないし、子供たちを扶養すべきであると考える。しかしながら、これらの事柄は、金銭上の負債のように量では計算されないし、また事業における成功のように酬いられることもない。日本においてはそれらはアメリカにおける債務弁済と全く同様に考えられている。そしてその背後にある強制力は、アメリカにおいて請求書や抵当利子の支払いの背後にある強制力と同様に強大である。」(『菊と刀』第6章「万分の一の恩返し」133頁~134 社会思想社)

「『恩の背後にある強制力』という表現は鋭いね。『恩』を和英辞書(旺文社)で引くと、『恩(施した人から見て)kindnessfavor;(受けた人から見て)obligation』と書かれている。つまり『恩』には二種類あるというわけだ。これによると、kindness(親切)で表現される『恩』は無償だということになるけど、日本では区別がつかないからね。英語ではNo, thank you. とはっきり応えるのはふつうだけど、日本人はここで悩むんだな。『返礼』はどうしたものかとね。でも、何らかの形でお返しするのがふつうだろう。」
「日本には『恩に着せる』という言い方があるけど、これは報恩感情の悪用と言うべきだな。」
「でも、よくある手だよ。『恩を売る人』は必ず計算するからね。意図的に金銭には換算できないほどの重荷を負わせることも可能なんだ。かりに『万分の一の恩』を返済できない場合どうするか、最後に残るのは命を差し出すことしかない。『大恩』のある人のために死んでお詫びをする。日本人は、『一度受けた恩は犬も忘れない』と教えられているけど、これは『恩を売る人』の殺し文句だよ。」
「でも、なぜ『万分の一』なのかね。『千分の一』、『十分の一』、または『二分の一』でもいいように恩うけど…。」
「日本人は何にでも万をつけるからな。『万感胸に迫る』、『万邦無比』、『万骨枯る』、『万策尽きる』、『万難を排して』、『万世不易』…。『万分の一の恩返し』や『万世一系の天皇制』も同じ用法かもしれん。少なくとも『万分の一の恩返し』は明治政府が用いたマインドコントロールであったと考えることは十分可能だよ。日本には『恩』という言葉は昔からあったわけだけど、武士の時代に『万世一系の皇統』だの『皇恩の万分の一の恩返し』なんて民衆に強調するはずはないからね、明治時代になって特別な意味を付け加えられたと、オレはそう思うね。日川中学の『會報』を調べたら、明治38年の号に出ていたよ。」

「皇恩を萬分の一だも報ずべきなり」(○○○○)
「…時恰も明治三十七年二月十日我が叡聖文武にまします天皇陛下の宣戰の詔勅を下し給ふや皇軍連戰連勝殆んど無人境を進むか如くなるは是一ヘに上大元帥陛下の御威力に依るとは云へ…。我々日本臣民たる者は之に頼りて宜しく學を修め武を講じ以て富國強兵の實を擧げ世界無比の我が國をして永久宇内に隆盛ならしめん事を努め心身を投つて以て山海の此の皇恩を萬分の一だも報ずべきなり」(『會報第四號』山梨縣立第二中學校學友會発行 1905年(明治3891日)

「学を修め武を講じるのは『皇恩の万分の一の恩返し』だとはっきり書いてあるな。」
「同じ線上にあるのが『仰げば尊しわが師の恩』だろう。小・中学生ばかりじあない。『帝国大学令』(1888年)の第一条にも帝国大学の目的は『国家ノ須要ニ応ズル』とあったから、研究や学問自体が臣民の天皇に対する恩返し、つまり翼賛義務や輔弼義務だと考えられていたことになるね。」
「『仰げば尊しわが師の恩』と生徒に歌わせる、日本人のこの慣行をベネディクトが聞いたらどう分析するかな。」
「彼女は『軍人勅諭』や『教育勅語』などについても分析しているけど、自分とは何者かと日本人が自問自答するとき、外部の人の目を借りるのは有益だね。」

 (5)個人がいない「恩の国」

「『恩の国』と個人はどうつながるのか、この点についてはどう思う?」
「共和制の思想においては個人が原点だからね。『われ思う。ゆえにわれあり』だよ。個人の自由や平等が保障されてはじめて共和制の思想が可能になるのではないか。問題となるのは、明治時代の人々が個人という言葉についてどう考えていたかだな。少なくとも明治時代前期においては個人という言葉も社会という言葉も存在しなかったという学者がいるんだよ。」

「それ以前にわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかった」(阿部謹也)
 「明治十年(一八七七)頃にsocietyの訳語として社会という言葉がつくられた。そして同十七年頃にindividua1の訳語として個人という言葉が定着した。それ以前にはわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。ということは、我が国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。では現在の社会に当たる言葉がなかったのかと問えばそうではない。世の中、世、世間と言う言葉があり、時代によって意味は異なるが、時には現在の社会に近い意味で用いられることもあったのである。」(『世間とは何か』27頁~28頁 講談社現代新書 1995年)

「考えさせられる分析だな。ふつう戦後生まれのオレたちは、個人は大昔から存在していると考えるよね。テレビドラマなんかもそうだ。平安時代も、弥生時代も、縄文時代にも個人がいて、自分の思いを主張し、周囲と折り合いをつけながら暮らしていたと考える。でも、これは幻想のようだ。個人がいない国とは、生活全般を祭主が支配していた原始共同体と同じではないかね。
「阿部氏はこうも語っている。『社会』ばかりでなく『世間』という言葉さえも外国語の翻訳だとね。『「世間」と言う語は本来サンスクリット語の「ローカ1oka」の訳語であり、壊され、否定されていくものの意』だと言っている。わかりやすい日本語で言えば、さしずめ『苦娑婆』ということかな。昔覚えた言葉で言えばゲマインシャフト(共同社会)だ。それは地縁・血縁でつながる孤立した共同体だから、すべてが祭主のもとに統合されていて、『社会』だの『個人』だのと分析する必要がなかったということだろう。分析する個人もいなければ、分析される社会組織もない。これこそ明治政府が目指した『神の国』の柔構造だろう。」
「つまり個人がいない日本の共同体では、国家対人民という意味でのpeopleという概念が生まれようがないということだな。」
「だからこそ日本の指導者たちは、代わりに『赤子(せきし)』という言葉を使ったんだと思うね。広辞苑をみると、①として『生れてまもない子』、②として『(天子を親と見立てて)人民の称』と書かれている。つまり日本には個人もいなければ、人民という概念もなく、いたのは自我をもたない『赤子』だけだったということになる。漱石は『個人を抑圧する国家は滅茶苦茶なことをする』と書いたけど、実際明治政府がねらったことは『個人の抑圧』ではなく、『個人の抹消』だったと思うね。」

 (6)「皇恩」を売る軍人勅諭

「この『軍隊手牒』は一読して、まるで『報恩教』の経典ように思えるな。『皇恩』とは何かがていねいに説き明かされている。」
「天皇が大元帥として国家を保護するのは『祖宗の恩に報いるため』であるとはっきり書いてあるからな。戦争をやるのも、対外交渉をするのも、すべて『皇祖皇宗の遺訓』だと言うんだ。でも意外な気がするね。『皇恩の万分の一の恩返し』は『赤子』たちからだけのものだと思っていたけど、これを見ると天皇も『皇祖皇宗』に対する恩返しの義務を負っていることがわかるよ。『皇恩』は二重構造なんだ。天皇自身が皇祖に対して恩返しの義務を負い、その天皇を『赤子』が『皇恩の万分の一の恩返し』で扶翼するという構図だよ。」
「たしかに国は臣民に『皇恩』を売っているね。しかも、これは返済不可能な『負債』の押し付けだ。」

「國に報ゆるの務めを盡せ」(『軍人に賜りたる勅論』明治天皇)
 「(なんじ)()軍人(ぐんじん)()(ちん)(をしヘ)(したが)ひて(この)(みち)(まも)(おこな)(くに)(むく)ゆるの(つとめ)めを(つく)さは日本國(にほんこく)蒼生(そうせい)(こぞ)りて(これ)(よろこ)ひなん(ちん)一人(いちにん)(よろこび)のみならんや」(『軍人手牒』)

「ここにある『朕』と帝国軍人の関係は、封建的な主従関係というよりむしろ強い隷属性を感じるね。 『皇恩』というマインドコントロールを使って皇軍兵士を完全に縛りあげている。『尊師』である明治天皇は、『朕の教えに従え』と命令し、『帝国軍人一人ひとりが報国の務めに励むならば国民全部が喜ぶだろうし、それは天皇の悦びでもある』と恩を売りつけている。皇軍の命令が報恩感情でつながれていることがよく理解できるな。」
「でも、明治政府はよく短期間に日本人を躾けたもんだね。明治初期には天皇の存在さえ知らない人が多かったというからね。」
「天皇の存在を民衆にどう知らせるか、それは明治政府が最も苦心したところだろう。天皇と民衆をつなぐことに成功すれば、『天皇を中心とする神の国』の骨格は出来上がったのも同然だ。明治政府はその接着剤として、民衆が伝統的にもつ先祖や地域共同体への報恩感情を利用したということさ。ちょうど家族のささやかな報恩感情が『皇恩』として国家に利用されたように、『水神』・『地神』などに対する古来の民間信仰が国家神道として利用されたというわけだ。」
「民衆支配の巧妙なカラクリが読み取れるね。」

 (7)侵略のイデオロギー

「『軍人勅諭』に書かれている『まつろわぬものども』だけど、はっきりわかるのは強い侵略性だな。」
「というより『まつろわぬもの』の立場から見れば、この『天壌無窮の神勅』は侵略のイデオロギーそのものだよ。」

「中つ國のまつろはぬものともを討ち平け…」(『軍人の賜りたる勅諭』明治天皇)
 「(わが)(くに)軍隊(ぐんたい)世々(よヽ)天皇(てんわう)統率(とうそつ)(たま)(ところ)にそある(むかし)神武天皇(じんむてんわう)()つから大伴物部(おほともものヽべ)(つわもの)ともを(ひき)中國(なかつくに)のまつろはぬものともを()(たいら)(たま)高御座(たかみくら)()かせられて天下(あめがした)しろしめし(たま)ひしより二千五百有餘(いうよ)(ねん)()ぬ…」(『軍人手牒』)

「今考えれば、これは『城外』に往む人たちにとっては噴飯ものだな。まるでマンガか劇画の世界だ。」
「『皇化』に従わない者たちはすべて鬼にされてしまうからね。民話でいえば『桃太郎の鬼征伐』。あれは『まつろわぬものども』を征伐する典型的な話だけど、そのほか『夷(エミシ)征伐』・『蝦夷(エゾ)征伐』・『朝鮮征伐』・『台湾征討』などがあるね。古代から近代まで『神の国』の戦争はすべてが皇化に従わない者たちの征伐だったというわけだ。アメリカもイギリスさえも鬼にされてしまったからね。『鬼畜米英』だよ。」
「『天壌無窮の神勅』や『軍人勅諭』を読んだ明治以降の皇軍兵士たちが、アジア諸国へ出征し、狂気の戦争を戦っても少しもおかしくないな。」

歴代天皇が天照大神から継承した「天壌無窮の神勅」
 「葦原(あしはらの)千五百(ちいほ)(あきの)瑞穂(みずほの)(くに)は、わが子孫が君主たるべき地である。(なんじ)皇孫よ、行って治めなさい。さあ、行きなさい。宝祚(あまつひつぎ)の栄えることは、天地とともに(きわま)ることがないであろう。」(『日本書紀1130 日本古典文学全集 小学館 1994年)

旧図(きゅうと)保持(ほじ)シテ(あえ)失墜(しっつい)スルコト()シ」(明治天皇の皇祖皇宗への誓い「大日本帝国憲法告文」)
 「(すめら)()(つつし)(かしこ)皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)神霊(しんれい)()(もう)サク(すめら)()天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)宏謨(こうぼ)(したが)(かむ)(ながら)宝祚(ほうそ)承継(しょうけい)旧図(きゅうと)保持(ほじ)シテ(あえ)失墜(しっつい)スルコト()シ…」」(『解説教育六法』1032頁 三省堂)

「たしかに、『告文』の中で天皇は『旧図を保持してぜったいに失敗はしません』と皇祖皇宗に誓っている。でも、そう言う一方で、『朕が祖宗の恩に報いることができるか否かは赤子たちの働き次第』だとも言っている。『失敗したらお前らの責任だ』と言うんだな。」
「『無答責』の天皇はつねに責任を臣民に押し付けているけど、結局、昭和天皇自身が『旧図ヲ保持スル』ことに失敗したことになるね。日清・日露で流された皇軍兵士の血はまったく無意味になってしまった。」
「まさに犬死だ。一時はもてはやされた金鵄勲章は見向きもされず、『皇国』が朝鮮半島や満州で得た権益はすべてパーになってしまった。『北方領土』を見ろよ。アイヌ地名がいっぱい残っている『日本の領土』は今もって失われたままだ。天皇は皇祖皇宗に対して『恩返し』ができなかったどころか、皇国の名誉を地に落としてしまったことになる。昭和天皇にしてみれば、国民に詫びる前に、まず皇祖皇宗に詫びるというのが順序だな。皇祖皇宗にどう申し開きをしたのかね。」  

 (8)奇襲戦法と海外神社の建立

「『まつろわぬもの』といえば奇襲戦法だな。」
「神武天皇以来の伝統的な戦術だよ。天皇が思いめぐらす『深謀(しんぼう)』や『遠猷(えんゆう)』は、言葉を換えれば『尊師』が思いめぐらす謀略、計略、はかりごとだね。『八紘一宇』を実現するためには壮大な“大きなはかりごと”が必要だった。『神の国』の戦争は、奇襲攻撃をはじめとして何でもありの戦争だったからね。神武が『夷(エミシ)』を攻撃した時のやり方は、真珠湾への奇襲攻撃とそっくりだよ。だまされるほうが未開民族だ、アホだということになる。古代以来日本の先住民たちは多くの場合『だまし討ち』でやられているからね。古代の天皇軍による『夷(エミシ)征伐』はもちろん、アイヌが蜂起した『シャクシャインの戦い』や『クナシリ・メナシの戦い』なども最後はすべて『だまし討ち』でやられているんだ。」

「敵をだまして討ち取れ」(神武天皇)
 「そこで(神武天皇は)ひそかに道臣命にいわれた。『お前は大来目部(おおくめら)を率いて、大室(おおむろ)を忍坂邑(おさかのむら)に造って、盛んに酒宴を催し、敵をだまして討ち取れ』と。道臣命は密命により、室を忍坂に掘り、味方の強者を選んで、敵と同居させた。ひそかにしめし合わせ『酒宴たけなわになった後、自分は立って舞おう。お前達はわが声を聞いたら、一斉に敵を刺せ』と。みんな座について酒を飲んだ。敵は陰謀があることを知らず、心のままに酒に酔った。そのとき道臣命は立って歌った。…味方の兵はこの歌を聞いて、一斉に頭椎(くぶつつ)の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに悦(よろこ)び天を仰いで笑った。…夷(えみし)を、一人で百人に当る強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった。」(『日本書紀』100頁~102頁 講談社学術文庫 1988年)

「これを昭和時代に当てはめれば、さしずめ陰謀を知らず盛んに酒宴を催しているのは国際連盟だな。この国際組織は『まつろわぬものども』の巣窟ということになる。」
「そう。表面的には『五族協和』などと宣伝していたけど、本心は『まつろわぬものども』の皇化に乗り出す意図を固めていたわけだ。」
「松岡洋右が国際連盟の議場を一人退場する時の写真はよく覚えているけど、彼は昭和天皇の『遠猷(えんゆう)』を知る道臣命(みちのおみのみこと)の心境だったかもしれんな。」
「まさに忠臣の心だよ。そして、天皇軍は『まつろわぬものども』の土地を接収していくわけだ。いい例は北海道だよ。明治政府は蝦夷地併合直後の明治2年に札幌に『北海道神宮』を建てたけど、同じことを海外でもやったんだな。ソウル市内に造った朝鮮神宮、関東州大連市の大連神社、平壌市に建てられた平壌神社。パラオの南洋神社…。その数は半端じゃあない。当然その神社の祭神は天照大神や明治天皇だ。日本の神様が見守っているから皇国民は安心して移住せよ、そして現地人は安心して天皇による同化政策に従いなさいとの指令を出したというわけだ。」
B「なるほどね。『大東亜』の背景には、神社や教育を通して同化政策を押し進め、侵攻した土地を『平和郷』に変えるという計画があったんだな。歴代天皇の最大の任務は『天壌無窮の神勅』を継承すること、そして『まつろわぬものども』の土地を自国のものとして領有しその領地を失墜しないことだったけど、敗戦後の海外神社はどうなったのかね。」
A「台湾にあった神社のように、ほとんどは破壊されたと言われているけど、中には神体を日本に持ち帰り再建した事例もあると聞いているよ。」

 (9)「亜細亜民族の指導國家たる新日本」(石塚末吉)

「今国際連盟脱退の話が出たけど、『世界無比の我が国をして永久宇内に隆盛ならしめん』と日川中學の『會報』に出てきたのは1905年のことだったね。明治時代末にすでに『大東亜』の思想がはっきりと芽ばえていることが重要だな。『大東亜』は世界支配の前段階であって、いずれは『神の国』が世界を支配するという構想がすでにその頃意識されていたということになる。」
「日川中學の校長によって書かれたこの文章には、『亜細亜民族の指導國家たる新日本』という表現が使われているよ.

「光輝ある二千六百年の紀元節に際して…」(石塚末吉 第6代目川中學校長 昭和7年~昭和15年)
 「昭和十四年に於ける最大の感激は、五月二十二日宮城前に擧行せられた全國靑少年學徒代表の御親閲拝受並びに即日勅語御渙發の一事であった。今又昭和十五年を迎へ、光輝ある二千六百年の紀元節に際して畏くも、優詔を拝し彌が上にも感激を増す次第である。…亜細亜民族の指導國家たる新日本を雙肩に擔って立つべき後繼者として雄大なる氣魄と卓越せる實力とを養ひ、以て負荷の大任を遂行するに遺憾なき實行人たることが眞に好個の記念事業であると信ずる。我が學園の健児須く是に思ひを馳せよ。 〔昭和十五年二月十一日稿〕」(「巻頭に題す」山梨縣立日川中學校『學友會報No.401940年)

「東洋の楽土平和郎を建設する為には…」(「陣中便り」日川中學配屬将校 村本貞利)
 「北支も奥地蒙古に近い大同府から、御懐しい故國の皆様に近況を少しく申上げ度いと思ひます。…稀に生き殘れる土民共も親兄弟とは死離滅裂、食ふに食無く、住むに家無き有様にて、辛うじて日章旗を片手に命を惜しみつヽ、彼方此方とさ迷へる様等見るに付け、日本國民の有り難さを染々と痛感せずには、居られない次第であります。…今や北支の土地は一日も早く日本の人々の多數進出されるのを待って居ります。東洋の樂土平和郷を建設する為には何と申しましても大和民族の移住、指導を俟たねばならぬのでありますから、何卒早速その用意に取り掛かり、着々實行して戴き度いと思ひます。…」(『學友會報No.38 361938年)

「『東洋楽土』、『平和郷』が目につくね。『城内平和』の理想郷がアジア諸国に浸透し、いつの日か世界の人々が皇化に浴してその恩恵を受けるという手順だろう。」
「『東洋の樂上平和郷を建設する為には何と申しましても大和民族の移住、指導を俟たねばならぬのであります』と配屬将校も書いているあたり、自信満々だな。」

 (10)「国際連盟を脱退せしむ」(昭和天皇 1933328日)

「満州事変が1931年。連盟脱退が1933年。この二つの出来事は時期がほぼ重なるね。」
「日本が侵略主義国家であることを世界に知らしめた事件だよ。」

「芽ぱえた国際協調、満州事変が崩した」(朝日新聞 199511日)
 「遅まきの(国際政治ゲームヘの)参加だったが、日本は日清戦争、日露戦争に勝って、かなりのゲームの達人になる。だが第一次世界大戦が終わると、国際環境は大きく変化した。国際連盟が生まれ、海軍軍縮などを行ったワシントン会議によって、植民地主義的侵略ゲームはやめようという国際合意ができあがった。しかし、日本はこの変化に鈍感だった。満州事変をとがめられて国際連盟を脱退、孤立した。よちよち歩きの国際協調を、満州事変は破壊してしまった。」

「帝國ト其ノ意圓ヲ同ジクスル獨伊兩國トノ提攜(ていけい)」(昭和天皇 1940927日)
 「…朕ハ禍乱ノ戡定(カンテイ)平和ノ克復ノ一日モ速ナランコトニ(シン)(ネン)極メテ切ナリ(スナワ)チ政府ニ命ジテ帝國ト()ノ意圖ヲ同ジクスル獨伊兩國トノ提攜(ていけい)協力ヲ議セシメ(ココ)ニ三國間ニ()ケル條約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク(ヨロコ)ブ所ナリ」(「日独伊三国同盟成立の詔書」『天皇と勅語と昭和史』千田夏光311頁)

「注目したいことは、独伊について、天皇がはっきりと『帝国と意図を同じくする両国』と言っているところだな。三国同盟の締結について『朕懌ぶ所なり』と言っている。」
「それにしてもひどいもんだね。国際連盟を脱退しておきながら、『平和の回復を願う気持ちには切なるものがある』と言うんだから。原理原則がなく場当たり的な戦術をとる『神の国』の性格がよく表れているよ。わかりにくいのは、独伊と『軍事同盟』を結ぶ理由だな。いったい三国同盟の大義とは何かということだ。」
「天皇が言う『帝国と意図を同じくする独伊』とは、共産主義に対する協力関係のほかに、三国とも拡大路線あるいは侵略主義という点で一致していたということだろう。ちがうところがあるとすれば、ヒトラーやムッソリーニが政治家だったのに対して、日本の大元帥は『神様』だったというところだな。日本の政治家たちは、同盟相手のヒトラーについて、『格』がちがうと見下していたからね。だからイタリアとドイツがいようがいまいが、『天佑(てんゆう)』をもつ日本が最後には勝ち残るという信念があったんだ。同盟は結ぶが、最終的には日本が支配権を握るとね。」

「ハ紘一宇(はっこういちう)」
「太平洋戦争期に用いられた大東亜共栄圈建設の理念を示す用語。『日本書紀』神武天皇即位前紀の言葉から造語され、世界を一つの家となすという意味。 1940年(昭和15)第二次近衛文麿内閣の基本国策要領に『肇国の大精神』として登場して以来広く使用され、第二次大戦後の占領期には字句使用禁止措置がとられた。」(『日本史広辞典』)

「世界を征服する天命(a divine mission)」(J.B.D.ペニンク)
 「日本人のイデオロギーは他の国々にとって決定的に危険である。われわれはそれとたたかうためにいろいろの方策を立てねばならない。さもなければわれわれは永久に奴隷にされるだろう。日本人は世界を征服する天命(a divine mission)をおびていると信じてきた。個人としては日本人は劣等感に苦しんできたが、集団としては、その態度は一変して、外国人を憎み軽蔑するところの著しい優越感となる。軍隊組織と教育制度は緊密に結合されており、日本の若者たちは、始めから兵隊になるべく教育されてきたのである。…」(『Sydney Morning Herald, Nov.6,1944』オーストラリア駐オランダ総領事 『天皇観の相克』125頁 岩波書店)

「この一覧表はすごいな。この昭和天皇語録は『満足』・『喜ぶ』・『嘉す』など、進軍を促す言葉で埋め尽くされている。」
「異論を述べることを禁じられた国民の前では、天皇は言いたい放題、やりたい放題だったということだよ。これに合わせて、日本人全体に『東洋楽土』・『平和郷』と唱えさせていたんだからね。」

昭和天皇語録
・「朕ここに皇位を継承す」(19261228日)― 践祚後朝見の儀での勅語
・「うやうやしく神器を奉じ」(19281110日)― 即位の礼における勅語
・「関東軍の忠烈を嘉す」(193218日)―“満州事変”をひき起こした関東軍将兵を
 ほめたたえた勅語

・「国際連盟を離脱せしむ」(1933年3月27日)― 国際連盟脱退にあたっての詔書
・「中国侵略戦争は中国の責任」(193794日)―“支那事変”開始後の臨時議会開院
 式での勅語

・「首都・南京の占領に深く満足」(19371214日― その前日に南京を占領した攻略部
 隊をほめたたえた「御言葉」

・「軍事同盟を喜ぶ」(1940927日)― 日独伊三国同盟成立にあたっての詔書
・「米、英に宣戦を布告す」(1941128日)
・「戦果が早く挙がり過ぎる」(194239日― 『木戸幸一日記』
・「前途は明るくない」(1943330日)― 『木戸幸一関係文書』
・「神力できりぬけよう」(194536日)―  疎開先の皇太子への手紙
・「敵の非望を粉砕せよ」(194569日)― 戦争中最後の議会の開院式での勅語
・「国体を護持し得て終戦す」(1945814日)― 815日に天皇自身がラジオで放送
 した詔書

・「汝ら軍人は団結を堅持せよ」(1945817日)― 敗戦にあたって陸海軍人への勅語
・「ほうかむりで行くのも方法だ」(1945929日)―『木戸幸一日記』
・「朕は人間である」(194611日)― 年頭にあたっての詔書。「人間宣言」
・「沖縄の軍用占領継続を希望」(19479月)―「赤旗」1979428日付
・「敗戦は私の意志で決定した」(197598日)― NBC放送記者とのインタビュー
・「戦前と戦後の価値観は変わっていない」(1975922日)― 訪米を前にして、外国
 人特派員団のインタビュー。

・「原爆投下やむをえなかった」(19751031日)― アメリカ訪問から帰って、日本記
 者クラブの代表 
50人のインタビュー(『天皇制を問う』404425頁 新日本出版社)

「確認しておきたいけど、軍部強硬派の筆頭と言われていた東条首相は、退陣後どう動いたのかね。」
「辞任後の東条は政界から引退したわけじあない。重臣会議や陸軍大将の会合には出ていたんだよ。」
「重臣会議といえば天皇の諮問会議だろう。そんな重要な会議に辞任後の東条元首相が出席していたというのかね。」
「首相経験者は重臣会議のメンバーだからな。その頃の東条さんは、すでに皇国への貢献者として二度も勲章を受けているんだ。昭和12年には勲一等瑞宝章、昭和15年には勲一等旭日大綬章だよ。彼は東京裁判でA級戦犯となり絞首刑になったけど、その後勲一等を剥奪されたという話は聞かないね。これも『偽造の戦後史』の一部だと思うな。東京裁判で天皇が被告席にいなかった、これが『偽造の戦後史』の原点だからね。」

 (11)「議会における自由奔放、枝葉末節の議論は許されない」(田辺七六)

「議論が成立しない『神の国』のやることは、まったく滅茶苦茶というか支離滅裂だね。議論とは何かがまったくわかってない。天皇臨席の諮問会議の席で議論が成り立たないことはわかるけど、議会においてさえ流通していたのは上意下達だったわけだ。」
「議論が最も必要な時に、衆議院部長だった七六氏は徹底的に議論を封殺していたからね。彼は『議会における枝葉末節の議論は許されない』とはっきり言っている。七六氏の語録をいくつか箇条書きにしてみたよ。」
 ・一個の爆弾と化して…。
 ・議会における自由奔放、枝葉末節の議論は許されない。

 ・当面せる決戦に国家国民の総力を傾注する。
 ・特攻隊の必死体当たり作戦は…血涙を呑んで下す命令だ。
 ・必勝完遂のため、飛行機、軍艦の緊急増産…など必死の努力をする覚悟である。(『田辺七六』437頁~438頁)
「『当面せる決戦に国家国民の総力を傾注する』とも述べているな。」
「天皇がそうであったように、田辺七六氏も最後まで国民を、そして山梨県民を、戦争に向けて煽り続けた政治家だったんだ。徹底した『報恩戦争推進論者』だったとオレは見ているね。その意味では当時厚生大臣を務めた広瀬氏も同じだよ。」

「厚生の仕事は無我の境地で行こう」(広瀬久忠 平沼内閣・小磯内閣厚生大臣 勲一等)
 「こうして、私が二度目の厚生大臣になった時の日本は、敗戦の様相覆うべくもなく、惨憺たる状況下におかれていた。前線から悲報は相次ぎ、大本営発表の虚報は、も早、国民に信用されたり、安心を与えるに至らず、国民生活は窮迫のどん底に喘ぎ、衣、食、住ともことごとく欠乏し、しかも日本全土は、サイパン島を基地とする爆撃圏内に入ってしまった結果、B29の大編隊は人もなげに連日、次々に各都市を爆撃し…、(略)戦災者の救済は厚生省の管轄であるが、手もつけられない有様で、省議を開くごとにみんなで泣きながら善後策を練り、私は宮中へ行って、陸、海両首相とともに傷痍軍人、出征軍人遺家族たちをどうして安定させるべきか、また学徒動員がどしどし進められているが、あれをどういう風に面倒みてやるか、一つとして涙の伴わない事項はないほど、暗い会議をつづけた。それとともに私は、全国の地方長官と連絡をとり、できる限りの措置をとった。『厚生の仕事は無我の境地で行こう。』と呼びかけて、みんなして、文字通り不眠不休で働いたものであった。」(『無我献身』118頁~1201965320日発行)

「大臣の職にある人物が全国の地方長官(知事)に対し、『無我の境地で行こう』と呼びかけたというんだよ。まさに拱手傍観だ。彼らはあの戦争が『やめられない報恩戦争』であることを十分承知していたんだ。そして国民には、『万分一の恩返し』ができなければ死をもってお詫びするしかないとプレッシャーをかけ続けた。たしかに、広瀬氏は自他ともに『至誠の人』を以て任じていたけど、忠臣たちの多くは策士だったからね。本心はわからんよ。広瀬氏の弟の名取氏は『敗戦以後』の中で、『祖国日本もない、民族もない、唯、転変の中で自己をどうするかという事があるだけである』と、利己主義を暴露しているからな。」
「戦後20年の1965年に出されたこの『無我献身』は、たしかに戦争指導者であった広瀬氏の弁解の書にすぎないね。昭和天皇を筆頭に、田辺・広瀬・名取の三氏をはじめとする戦争指導者たちが臣民をどう導いたか、さらに検証を続けようよ。」
「それこそが、狂気の戦争で死んでいった人たちへの、何よりの供養になるね。」
2010225


13 同窓生討論:「天皇を中心とする神の国」の終わりなき報恩戦争(下)

      かしはらにしづまりませる大神のみことのまゝに世は進みつゝ。
    いかならむ事にあふとも國民のたへしのぶべきときぞ來にける。
    日の本のくにを守らむ若人と見ればをゝしき姿なりけり。
    こゝにして學びしをしへ身にしめてをゝしくすゝめ國民の道。     
       山梨縣立日川中學校學友會 會長 藤波國途 

          (『學友會報』No.41  194133日発行)

【論点】「聖断神話」の成立事情 

  戦争末期の194568日、大元帥(昭和天皇)は「第87臨時議会」の開会を命じ、国民に対して「劫火に耐える」ことをほめ称える勅語を下した。この議会は戦時中に開かれた最後の議会であり、以降、徹底抗戦と「本土決戦」を促す大元帥のかけ声とともに、国民は激しい空爆に巻き込まれていく。 

「一億国民ハ戦塵ヲ冒シ劫火ニ耐ヘ善ク銃後ノ責務ニ勵精セリ」(昭和天皇 194568日 )
「朕ハ茲ニ帝國議會開院ノ式ヲ行ヒ貴族院及衆議院ノ各員ニ告ク(略)一億臣民ハ戦塵(センジン)ヲ冒シ劫火(ゴウカ)耐ヘ()銃後ノ責務ニ勵精セリ而シテ友邦トノ締盟益々(マスマス)固キヲ加フ朕深ク之ヲ欣フ…」(「第87臨時議会開院式勅語」『天皇と勅語と昭和史』389 千田夏光 汐文社))

同年623日に沖縄の組織的戦闘が終わり、77日には甲府が空爆にさらされ、8月になると広島と長崎に原子爆弾が投下された。それでも天皇は戦闘停止命令を下すことができなかった。敗戦が明白な状況下で、天皇や戦争指導者たちは何を考えていたのか。前回に引き続き、「天皇を中心とする神の国」の終わりなき報恩戦争について討論する。

                             *******

「大東亜共栄圏」と「八紘一宇」の思想
(1)「八紘一宇ハ皇祖皇宗ノ大訓」(昭和天皇) 
(2)日本書紀から造語された「八紘一宇」
(3)「国柱会」と石橋湛山
(4)「日蓮」と石原莞爾と「世界に未曽有の大戦争」
(5)北一輝も板垣征四郎も日蓮信者
(6)宮沢賢治と「南無妙法蓮華経」
(7)昭和天皇の戦争観

「本土決戦」から「聖断」へ
(1)「大命降下」と元侍従長
(2)「熱火憂国の同志よ! 永遠の大義に生死せよ」(山梨県翼賛壮年団 19437月)
(3)国民義勇隊の結成(19453月)
(4)「敵の本土上陸に備え、大日本政治会は国民義勇隊と一体となり…」(1945619日)
(5)「敵機は思想謀略にも魔手を伸ばし…」(山梨県思想指導委員会)
(6)「焦土から断固起て!」(山梨県知事布告 194577
(7)「松代大本営建設中止」と天皇の体調不良の関係
(8)「できるかぎり、最後まで帝都にとどまるように致したい」(昭和天皇)
(9)日本の原爆開発計画とUボートのナゾ
10)ソ連の仲介に固執する昭和天皇
11)「天皇を救ったグル―」(ねずまさし)
12「アナン(阿南)よ、もういい。…私には確証がある」(昭和天皇 814

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「天皇陛下を國父と仰ぎ、生き神様と崇め奉り…」(芦沢碩純)
 「歴代の天皇陛下は、億兆臣民を御一人の臣民とせられず、皇祖皇宗の臣民の子孫と思召させ給ひ、臣民を視ること子の如く、常に大御心を臣民の上に垂れ給ふのであります。臣民は畏れ多い事ではありますが、天皇陛下を國父と仰ぎ、生き神様と崇め奉り、忠の道を行ずる事を唯一の生きる道と致しまして、海ゆかば水漬くかばね 山行かば 草むすかばね 大皇の 邊にこそ死なめ かへりみはせじ。の赤誠をもって忠誠を勵んで居ります。(略)
 そこで私共は、社會生活改善の基礎を確立する為、毎日次のことを實行致し度いと思ひます。
   一 皇居を遥拝すること。
  一 神前に禮拝すること。
  一 祖先の靈に合掌すること。
  一 父母をはじめ長上に對し朝晩の挨拶と禮をなすこと。
  一 禮儀は何時も尊敬、感謝、報恩の眞心の籠った禮をなすこと。
  一 答禮は愛と誠をもってなすこと。
  一 自分の仕事は必ず愛と誠と熱をもってなす事。
(『日本人と人物養成』1頁~2頁・363頁~364頁 皇学學院 出版部 1938年発行 「国民精神総動員本部」・「大日本産業報国会」・「大政翼賛会」講師 1955年度日川高校PTA会長)

「一億総当たりの決意を以て、根気強く最後まで戦い抜く…」(田辺七六 衆議院議員 1944)
「諸君。我々は彼等の恃む物量、飛行機も戦艦も空母も、素より量に於て及ばないのは覚悟の前であります。乍然、吾国には幸に米英に持たざるものが一つあります。彼等が千億の金を積み、千万の科学技術を動員するも作る事能はざるものがあります。之れ即ち一億国民の忠誠心であり、忠烈万古を貫く盡尽報国の大精神である。之れこそ世界に誇るべき崇高偉大なる吾国独特の尊き武器であります。此の国家危急に際しては、前線将士の一身は一念凝つて已に一個の爆弾と化してをります。飛行機も、魚雷も、潜水艦も此の日本精神が織り込まれ、此の精神で堅めたる精鋭類なき恐るべき新兵器が生まれるのであります。作戦も、兵器も生産も、政治も悉く日本精神の一色に塗りつぶし、一億総当りの決意を以て、根気強く最後迄戦い抜く処に必ずや勝利の途は拓かるるものと確信して疑はざるものであります。諸君、今や国難襲来、国家危急に頻すると雖も、上に聖明の至尊をはしまし、下に義肝忠烈の一億国民があります。古語に曰く『一人死を決すれば十人当るべからず。万夫死を決すれば天下を濶歩すべし』と、況や一億国民が憤激を新にし、鉄火一丸となって突進する時、之れを遮る何物もありません。我々は憂国の至情、殉国の精神、敢闘の気魄に燃えて、此の光輝ある皇国を護持して泰山の安きに置かんがため、一億憤激、英米撃滅に一路邁進せん事を祈って止まざるものであります。」(『田辺七六』436頁~437頁 翼賛政治会主催「一億敢闘演説会における演説草稿」 七六氏は田辺国男第4代日川高校同窓会長の父)

「今や国民は全く総力を挙げて起たざるべからざる時だ」(石橋湛山 1945210日)
「今や国民は全く総力を挙げて起たざるべからざる時だ。この時に政府当局が、あり来たりの形容詞を並べて、安易なる責任回避にふけることが許されうるであろうか。国民は真実を待ち望んでいるのである。国民がこの美しき祖国を絶対的に護りぬかんとする厳粛なる決意は、内閣や政府や官吏やによって与えられたものではない。それは国民の血液の中に何千年の昔から溶け込んでいるものなのである。この愛国の至誠が、議会の報告演説の内容によって動揺すると考うる如きものあらば、それは日本国民自身を侮辱するものだ。」(『石橋湛山評論選集』378頁 東洋経済)

「昨日の正午まではたしかに、死ぬまで戦わなければならぬと思っていた」(名取忠彦 1945816)
「国民の大多数は昨日の正午まではたしかに、死ぬまで戦わねばならぬと思っていた。または、思わされていた。どうせ此の命は無いのだ、と最後的にものを考えていた人々が如何に多かったことか! 沖縄が失われ全國の中小都市が夜毎々々に焼き捨てられるようになってから、国民の誰一人として戦争が海の向こうで結末がつくと考えていた者はない。日本民族の血と肉のかたまりを、敵の精鋭な武器に向けて投げつけ投げつけて戦うより外はない、と真剣に覚悟をきめる人々が日毎にその数を増していたのだ。斯うした『特攻』をとる間に、戦勝の神機は来るかも知れないのだ。――この不思議な戦意の前に千万の犠牲もついに已むを得なかったのではなかったか。もしも昨日の御放送で陛下が、国民よわが後に続いて戦え!と仰せられたならば、国民はそのまま黙って戦い続けたことであろう。そして、屍は山の如く大君の辺に積みかさねられたであろう。

ますらをのかなしきいのち積みかさね
      つみかさね守る大和島根を

 この美しい詩は、ここに於いて戦慄すべき現実となり、全世界の耳目を覆わしめるほどの凄惨な場面は展開され、宇宙は人類の慟哭の声で満たされたことであろう。(略)この一瞬、私は昨日の御放送に示された陛下の御判断は、まさに人間の智能を乗り越えた眞の『聖断』であったことの直覚を得た。神ならで決断し得ぬことを決断したのは、陛下なのだ、との直覚である。」(『敗戦以後』10頁~12  第3代日川高校同窓会長 1971年~1977年)

「日本国民を現在の奴隷状態から解放することがわれわれに与えられた使命」(マッカーサー)
「しかし大統領のあとに登場したマッカーサーの雄弁さは政治家に勝るとも劣らないものだった。『ポツダム宣言の精神に沿って、日本国民を現在の奴隷状態から解放することがわれわれに与えられた使命である…日本国民がその能力を建設的な方向に振り向けるようになれば、日本は現在の悲惨な状態から脱し、誇らしい地位へとみずからを引き上げることができるだろう』こうして正式に占領がはじまった。」(『マッカーサーと吉田茂』上37頁 リチャード・B・フィン 角川文庫 1995年)

「トルーマン大統領が原子爆弾の使用を決定した理由の一つには…」(リチャード・B・フィン)
「戦時下の日本では、国民がパニック状態に陥って混乱したり、無気力になるという現象は見られなかった。日本社会の強固な結束や高い規律は、厳重な警察の監視や緊密な隣組の組織を通じて維持され、たとえ大きな惨事に遭遇してもびくともしないようにさえ見えた。サイパンや沖縄の島民が、アメリカ軍の掃蕩攻撃を受けながら降伏することなく多数死んでいった事実は、本土住民もまた、大殺戮に直面するようなことがあっても、決して降伏しないだろうと思わせるに十分だった。トルーマン大統領が原子爆弾の使用を決定した理由の一つには、戦争をすみやかに終結させ、『できれば日本全土の沖縄化を避けたい』という願望があったのだろう。」(『同上』39頁)

「敗因は我が国人が皇国を信じすぎたこと…」(昭和天皇 194599日)
「敗因についてひとつ言わせてくれ。我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には 山県〔有朋〕 大山〔巌〕 山本〔権兵衛〕等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知って 退くことを知らなかったからです 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(『皇太子への手紙』朝日新聞 1986416日――『昭和天皇』下216頁~217頁 ハーバート・ビックス 講談社学術文庫 2005年)

「大東亜共栄圏」と「八紘一宇」の思想

(1)「八紘一宇ハ皇祖皇宗ノ大訓」(昭和天皇)  

「まず、これを見てくれ。思いつくままに戦前・戦中に“活躍”した人物の名前を挙げてみたよ。まずは昭和天皇。それから近衛文麿・石橋湛山・石原莞爾・北一輝・板垣征四郎、最後は宮沢賢治。彼らに共通するものはと聞かれたらどう答えるかね。」
「うーん。近衛文麿は開戦前の首相だな。石橋は元首相。石原莞爾は満州事変、満州国建設のプランナーだ。北一輝は右翼のイデオローグ。そして…、宮沢賢治といえば『雨ニモマケズ』だな。この詩人を知らない日本人はいないだろう。中学生の頃、彼の詩が教壇の上の壁に貼られていて、みんなで暗誦したことを覚えているよ。『ソンナヒトニワタシハナリタイ』だったな。でも、宮沢だけが文学者で戦争や政治とは無関係のように思えるけど、どうなのかね。」
「実は、オレも同じような見方をしていたんだ。でも調べていくうちにいろいろなことがわかってきたよ。彼らを繋ぐ接点はどうらや日蓮宗という宗教にあるらしいということをね。『大東亜共栄圏』の思想的背景を追っていくと、バックボーンとして『八紘一宇』という言葉に突き当たるんだ。」
「『大東亜共栄圏』の中心的思想が『八紘一宇』ということなんだね。」
「そう。まずこれらの用語が公的に使われた場面から見てみようよ。最初は昭和天皇がいいな。話が分かりやすい。」

「『八紘一宇』ハ皇祖皇宗ノ大訓」(昭和天皇 1940927日)
 「大義ヲ八紘(ハッコウ)ニ宣揚シ坤與(コンヨ)一宇(イチウ)タラシムルハ(ジツ)ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ(シュク)()眷々(ケンケン)()カザル所ナリ(略)天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」(「日独伊三国同盟成立の詔書」『天皇と勅語と昭和史』311頁 千田夏光 汐文社)

19409月といえば、開戦1年前頃の話だ。昭和天皇は『八紘一宇』は『皇祖皇宗ノ大訓』と言っているんだ。そして、神武紀から造語されたという『八紘一宇』が、『三国同盟』締結という世界の舞台で使われているところが大事だよ。」
「これに呼応する形で、第2次近衛文麿内閣が『基本国策要綱』の中で使用したということだな。」

「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神」(「基本国策要綱」1940726日)
 「根本方針 皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先ず皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り 之が為皇国自ら速に新事態に即応する不抜の国家態勢を確立し国家の総力を挙げて右国是の具現に邁進す」(第2次近衛内閣閣議決定 ウィキペディア)

「この閣議決定ではっきりと、『八紘一宇』は国是だと宣言しているね。」
「この『大精神』が発揮された暁に世界平和が訪れ、『大東亜』の玉座に天皇様がご着任なさるというわけだ。」

(2)日本書紀から造語された「八紘一宇」

「知りたいことは、そもそも『八紘一宇』とは何かということだよ。」
「資料には明治時代に田中智学という日蓮宗の元僧侶がつくった言葉だとある。」
「なるほど。創始者は僧侶なのか。」
「元(もと)だよ。在家宗教団体だというから、従来の日蓮宗に新たな解釈を施したということだろう。まず『八紘一宇』の思想と創始者について、辞典にはこう出ている。」

「八紘一宇」
 「太平洋戦争期に用いられた大東亜共栄圏建設の理念を示す用語。『日本書紀』神武天皇即位前紀の言葉から造語され、世界を一つの家となすという意味。1940年〔昭和15〕第二次近衛文麿内閣の基本国策要綱に『肇国の大精神』として登場して以後広く使用され、第二次大戦後の占領期には字句使用禁止措置がとられた。」(『日本史広辞典』山川出版社)

「日蓮聖人の『我れ日本の柱とならん』に由来」(「国柱会」)
 「国柱会は、純正日蓮主義を信奉する在家宗教の模範教団として、明治17年(1884)、田中智学先生によって創められました。創始の当初は会の名を『立正安国会』と称し、大正3年(191411月、全国の組織を新たに統合して国柱会に改めました。その名称は日蓮聖人の『開目抄』に記された、三大誓願の一つである『われ日本の柱とならん』の聖語に由来しています。」(「宗教法人 国柱会」ネット情報)

「興味深いのは、『日本書記からの造語』という部分だよ。日蓮宗が中心になって、宇内つまり世界を霊的に統一するという考えなんだな。日本書記の神武紀の『橿原宮の造営』に出ている。」

「兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(日本書紀)
 「私(神武天皇)は、東方を征討してからここに6年が経過した。(略)中央の大和国(やまとのくに)はもはや風塵(ちり)も立たないほどに平静である。(略)そこで山林を伐(き)り開いて宮殿を造営し、謹んで皇位に即(つ)いて民を安んじ治めなければならない。上(かみ)は皇天二祖の高皇産霊尊と天照大神が国をお授けくださった御徳に答え、下(しも)は皇孫瓊瓊杵尊が正義を育成された御心を弘めて行こう。その後に、我が四方の国々を統合して都を開き、天下を覆って我が家とすることは、はなはだ良いことではないか。」(「日本書紀」230頁~231頁『日本古典文学全集』小学館)

「『我が四方の国々を統合して都を開き、天下を覆って我が家とする』という神武天皇の意図が、昭和天皇の言う『八紘一宇ハ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ』という表現に繋がるわけだ。」
「そういうことなのか。『辺境の地』は未だ沈静していないが、ひとまず『東征』が終了したから神武天皇はここに橿原宮を造営しようと…。」
「忘れてならないのは、神武天皇が東征に出発するときの『東征』の目的だよ。神武天皇の視野にあるのは、『王化に浴していない』未開地の征伐なんだ。そして『東征』を始めて6年後に、その『東方にある美しい国』に橿原宮を建立した。この神武紀は、神武という人物が外来者であることを明らかにしている記述だね。」

(3)「国柱会」と石橋湛山

「石橋湛山と言えば山梨ゆかりの人で、戦中・戦後を通じて自由主義擁護の旗手のように言われているね。戦後は総裁にもなった人物だ。そんな進歩的なはずの人物が、戦後になってなぜ保守政党から選出され首相になれたのかね。考えてみると不思議だな。」
「石橋という政治家はね、基本的に体制内の人なんだよ。資料にも挙げておいたけど、1945210日の文章の中では『今や国民は全く総力を挙げて起たざるべからざる時だ』と言っている。確かに石橋氏自身が『(明治末年には)因習を破り新時代を開くことに夢中であった』とか『ファシズムの台頭の抑止に相当の精力をつぎこんだ』と言っているけど、『城内平和』の信奉者である石橋氏は、天皇制がもつ根本的矛盾には反応しなかったんだ。」
「その『国柱会』の関係者が石橋湛山や北一輝、そして石原莞爾たちだったということだな。湛山が身延山と関係があることについては、山梨県人で年配の人なら知らん人はいないからね。」
「甲府一高関係の本には必ず出てくる“偉人”だよ。」

「湛山は日蓮宗総本山身延山久遠寺法王の長男として生れた」(『石橋湛山評論選集』)
 「湛山は明治171884)年、日蓮宗の僧侶、杉田湛誓(のち日布と改め、日蓮宗総本山身延山久遠寺第81世法王)の長男として、東京都麻布区芝二本榎(現在の港区日本榎)に生れた。(略)湛山は山梨県立第一中学(現甲府一高)を卒業するまで長遠寺から通学した。」(460頁 東洋経済 1990年)

「湛山は身延山久遠寺第81世法王の長男として生れたとあるね。」
「だから、『八紘一宇』を国策の要とした大東亜戦争についても、1941年には『百年戦争の予感』という論文を書き、19452月の『社論』では、『今や国民は全く総力を挙げて起たざるべからざる時だ』と扇動しているんだ。湛山は、日蓮や田中智学と同じく、『日本の柱となり…』というセリフを残しているんだ。」

「及ばずながら日本の柱となり、日本の眼目となり…」(石橋湛山 195211日・425日)
「日蓮門下の末席をけがす一人として今後も私は、これでゆこうと思う。そして及ばずながら日本の柱となり、日本の眼目となり、日本の大船にならんと志すものである。」
「『開目鈔』の『我日本の柱とならむ、我日本の大船とならむ』とは上人の願いであった。」
(『改造は心から』260頁~261頁 東洋経済 1995年)

「これらの言葉は、石橋湛山の思想や信仰が戦前・戦後を通じて変化がないことを示しているね。」
「『我日本の柱となり、日本の眼目となり、日本の大船にならん』という言葉だけど、湛山は戦争開戦の頃、会社の社員会の挨拶でこの一節を紹介したというんだ。 『不退転の決意で難局にとりくむように』と述べて、社員の覚悟を促したというんだよ。『石橋湛山評論選集』の解説を書いた人は、このエピソードについてこう付け足している。『湛山が少年時代に日蓮の影響を少なからず受けていたことを端的に示したもの』だとね。」

(4)「日蓮」と石原莞爾と「世界に未曽有の大戦争」

「つまるところ、『開目鈔』の中で日蓮が言いたかったことは何かね。」
「うん。『開目』とは、言い換えれば『目覚めよ』ということだ。何に目覚めるのかが問われるけど、同書(『開目抄』ネット情報)の冒頭で日蓮は、『衆生が尊敬すべき者』として主・師・親の三つを挙げているんだ。中を見ると『忠の手本』とか『不知恩』などの表現があるから、皇国史観と合体する要素には事欠かないということだな。」
「主・師・親に対する尊敬とか恩という理念は十分わかるけど、もう一つわからないのはそれと英・米との戦争の接点だよ。そもそも対米戦争を最初に主張したのは誰なのかね。」
「日蓮宗の関係で言えば、石原莞爾や北一輝、それに板垣征四郎あたりではないかな。石原莞爾の見方はわかりやすいよ。」

「天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰である」(石原莞爾)
 「そうなって来ると、どうも、ぐうたらのような東亜のわれわれの組と、それから成金のようでキザだけれども若々しい米州、この二つが大体、決勝に残るのではないか。この両者が太平洋を挟んだ人類最後の大決戦、極端な大戦争をやります。その戦争は長くは続きません。至短期間でバタバタと片が付く。そうして天皇が世界の天皇で在らせらるべきものか、アメリカの大統領が世界を統制すべきものかという人類の最も重大な運命が決定するであろうと思うのであります。即ち東洋の王道と西洋の覇道の、いずれが世界統一の指導原理たるべきかが決定するのであります。悠久の昔から東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰であります。」(『最終戦争論』44頁~45頁「1940529 京都義方会に於ける講演」中公文庫 2001年)

「恣意的だね。想像でものを言っている。『天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰であります』と言っている。この『最終戦争論』で気になるのは、なぜ勝てる見込みのない米・英と戦争をやるのかということだよ。」
「同感だね。その点にかかわるのは日蓮上人の予言だろうな。『最終戦争論』の第5章の『仏教の予言』を見ればわかるけど、宗教には予言が必要で、ヒットラーへの国民の信頼も彼の『見通し』に対するするものだと言っている。すべてが空想の産物だ。そして『日蓮上人は将来に対する重大な予言をしている』として、こう付け加えている。『本化上行』とは日蓮のことだよ。」

「世界に未曽有の大戦争が必ず起る」(日蓮上人の予言)
 「そして、日蓮上人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未會有の大戦争が必ず起る。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります。」(『同上』58頁 石原莞爾)

「石原は日米戦を前提とした満蒙の領有を計画した」(「世界最終戦論」)
 「石原はヨーロッパ戦争史の研究と日蓮宗の教義解釈からこれを構想、日米決戦を前提として満蒙の領有を計画した。その思想の原型は1929年(昭和4年)7月の長春での『講話要領』にある。関東軍参謀であった石原はこのイデオロギーに基づいて奉天郊外で柳条湖事件を起こし、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始したことが満州事変となった。石原自身は戦後にはこの思想を捨てている。」(ウィキペディア)

「『最終戦争論』は熱心な日蓮主義者である石原の代表的な著書だったんだね。」
「この論では、核兵器クラスの兵器や航空機の発達によって戦争自身が進化し、やがて絶対平和が到来するという考えのようだ。」

(5)北一輝も板垣征四郎も日蓮信者

「石原莞爾と言えば、北一輝だね。」
「北も熱心な日蓮宗信者だったようだ。彼は、『不肖は日蓮にあらずまた日蓮の奴隷にあらず』(『支那革命外史』12 中公文庫)なんて書いているけど、日蓮宗には相当傾倒していたんだな。」

「『南無妙法連華経』ととなえて神がかりになった」(「北一輝」)
・「思想:日蓮主義 超国家主義 国家社会主義。信教:日蓮宗。影響を受けたもの:田中智学。」
・宗教:『法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、法華経に傾倒し日常大音声にて読経していたこともよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると『南無妙法連華経』と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。」(ウィキペディア)

「北一輝は『支那革命』を書いた人だけど、革命のスローガンは『排満興漢』だね。北一輝がやろうとしたことを要約するとどうなるのかね。」
「ねずまさし氏は、北一輝の『国家改造法案』についてこう書いている。『北一輝の「国家改造法案」に心酔する西田税、管波三郎、藤井斎ら青年将校は天皇のもとに共産主義建設を主張した。しかしこれとても大地主や財閥を承認し、資本主義なり、私有財産制度を一部制限するだけで、革命というものではない』(『天皇と昭和史』86頁)とね。」
「北については、『恐喝屋』などという芳しくない評価もあるな。『三井財閥から現在の金で一億円前後の資金提供を受けるようになり、右翼暴力団を食客として養い…』(ウィキペディア)などと書かれている。」
「桶谷氏のこの文章も、北が日蓮信者であったとはっきり書いているよ。」

「北一輝は皇室中心主義の日蓮信者」(桶谷秀昭)
 「日常生活における約束事や、人と人との関係を律するあらゆる道徳的観念は、北一輝に拘束力をもたず、彼を拘束するものはそれらの圏外にあって法華経の読誦と祈りに没入する時間であったらう。沼波武夫(一高教授――文中より・筆者)は北を評して『皇室中心主義の人で日蓮信者であり信念もかなり強い人であるがむしろ腕の人であります。したがって気品の高い人と交はれば、随分実際的活動の出来る者であるが然らざれば知らず世の中に如何なることをするか判らぬ様になりはせぬかと思はれる胆略の人』といふ。」(『昭和精神史』286頁 文芸春秋 1992年)

「かなり否定的な見方だね。同じ日蓮宗に心酔していた人でも、板垣征四郎は1948年に絞首刑になったとある。板垣は自信たっぷりだったね。教誨師に対して『ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、非常に幸いであり喜びである』(「板垣征四郎」『ウィキペディア』)と心境を述べている。」
「そう、板垣も信仰の人だったんだ。『関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し…』などと書かれているけど、石原莞爾とは『世界最終戦争』の理念と『八紘一宇』の理想が合致していたんだな。彼らの目的が“世界平和”を目標にしたことを考えれば、死刑になるときの喜びは理解できるよ。これが板垣の辞世が句だ。」

板垣征四郎辞世の句 
  ・「ポツダムの宣のまにまにとこしえの 平和のために命捧ぐる」
 ・「今はただ妙法蓮華と唱えつつ
鷲の峰へといさみたつなり」(ウィキペディア)

「宗教を信じるものとして、法悦の境地と言うべきだね。」
「板垣の家の宗旨は日蓮宗だったというからな。彼は、日蓮の教えから仮想現実を創り出し、勝ち目のない英・米戦争を戦ったということになる。」

(6)宮沢賢治と「南無妙法蓮華経」

「つぎは宮沢賢治だ。」
「当時は『日本文学報国会』や『大日本言論報国会』など、いろいろな『報国会』があったんだよね。」
「日本人のほとんどが『皇恩の万分の一でも…』と言っていたから、ジャーナリストも、文学者も、同じセリフを連呼していたと言ってもおかしくはないよ。山梨が生んだ俳人として有名な飯田蛇笏も例外じゃあない。彼は『日本文学報国会』の書記を務めていた時があったというけど、皇国の思想には全く疑問を持っていなかったんだ。『芋の露連山影を正しうす』はよく知られているけど、たくさんの戦争美化の歌も作っているんだよ。」
  ・軍をおもふ秋はふるさとの唐錦   ・御稜威かしこみつ地に伏して泣く
  ・みいくさの大東亜海東風わたる   ・真珠湾年ゆく濤に靈とどむ(『飯田蛇笏全句集』1985年)

「つまり当時の『日本文学報国会』に属していた文学者は、本心はどうであれ、ほとんどが戦争の協力者ということになるな。宮沢賢治が死んだのは1933年とあるけど、満州事変勃発の2年後だ。彼は日蓮宗とどういう関係があるのかね。」
「彼も熱烈な日蓮宗の信者なんだよ。さっき話に出た『国柱会』の会員だったんだ。彼が『国柱会』に入会したのは、1920(大正9)年のことだけど、韮崎に住む盛岡高農時代の友人の保阪嘉内に宛てた手紙に田中智学のことが書いてある。」

「私の身命は日蓮上人の御物です」(宮沢賢治 1920122日)
 「今度私は國柱會信行部に入會致しました。即ち最早私の身命は日蓮聖人の御物です。従って今や私は田中智學先生の御命令の中に丈あるのです。謹んで此事を御知らせ致し恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。」(『宮沢賢治 友への手紙』)155頁 筑摩書房 1968年)

「賢治は熱烈な日蓮宗信者だと君は言ったけど、『東京の国柱会館の下足番をして一生を終ります』なんて書くところを見ると、オレたちが教わった『雨ニモマケズ』にも別の角度からの解釈が必要になってくるな。」
「今改めて読み返すとね、末尾の『サウイフモノニ ワタシハナリタイ』の後に7行の『南無無辺行菩薩』などの経が書かれているんだな(『宮沢賢治〔雨ニモマケズ〕』ネット情報)。オレたちが中学生の頃は、その部分はカットされていたということになる。」
「友人の嘉内を日蓮宗に入信させようとする賢治の言い方には、何か鬼気迫るものさえ感じられるね。」

「大聖人の御威神力があなたに下ってゐる」(宮沢賢治)
 「保阪さん。もしあなたに『信じたい』といふ心があるならそれは実に実に大聖人の御威神力があなたに下ってゐるのです。(略)劔を抜き惡氣を吐いたあの魔王があなたに現はれてゐるのです。この時あなたの爲すべき様はまづは心は兎にもあれ
  甲斐の國駒井村のある路に立ち 數人或は數十人の群の中に 正しく掌を合せ十度高聲に
  南無妙法連華經 と唱へる事です。」(『同上』163頁)

「結局、保阪嘉内は入信しなかったと言うんだな。」
「そのあたりについて、この本の編著者である嘉内の息子の庸夫氏は、解説でこう書いている。」

「賢治が国柱会に傾斜したことは、大きな問題」(保阪庸夫)
 「ところで、嘉内を巻き込もうとし、巻き込みそこねてついに嘉内と遠ざかるも止むなしとまで、賢治が国柱会に傾斜したことは、大きな問題であろう。『参考』に掲げた『天業民報』の広告によってもわかるほど田中智学がすでに国家主義的な傾向を示しているのに、賢治はそのことに何とも感じなかったのだろうか。古い国体観から解放された現在の我々は途惑いさえ感ずるのだが。少なくとも、この時賢治が一宗派に属し、宗派を通して法華経の理想実現の途を探したことは明らかである。この時の賢治をあまりにもファナティックだと感ずる人がいても不思議はない。しかし、このことを以て、賢治一生の宗教的態度と考えては誤りになろう。」(『同上』214頁)

「宮沢賢治にせよ、飯田蛇笏にせよ、戦後に伝えられる人物像は現実とはかなりの隔たりがあるということだね。」
「日本人の戦前・戦中・戦後の精神構造は、基本的に連続していると思うんだ。戦後教育というのは、体制派の人々にとって都合のいいとことろは残し、不都合な部分は削除するという手法で営まれてきたということさ。何が良くて何が悪いのか、戦後生まれの人間たちには判断が出来なくなってしまったんだよ。」

(7)昭和天皇の戦争観

「『八紘一宇』と日蓮宗の関係を見てきたけど、そのような宗教のもたらす戦前・戦中の風潮を、昭和天皇はどう見ていたかだな。」
「戦後の体制派は、明治天皇の『よもの海みなはらからと思うふ世に など波風のたちさわぐらむ』を引用して、天皇家が一貫して平和主義者であったとアピールするけど、彼らが祈念していたのは『城内平和』であって、『城外』の平和は二の次、三の次だったことを忘れてはいかんね。国際連盟や今日の国連のようなグローバルな視点は持ちえなかったということさ。」
「事実、昭和天皇の発言は実に自分本位だね。この新聞記事を読んで思い浮かべるのは、羅針盤のない大型船だ。氷山があろうがなかろうが、悪天候が予想される海域であろうがなかろうが、『天佑』に護られる皇国はつねに勝つと、まるで彼の海図にはそう書かれているみたいだ。これを見ると、天皇の戦争観がよくわかるな。」

「石原莞爾(かんじ)少将らを栄転させる人事の説明のため、板垣征四郎陸相が天皇に拝謁」(『小倉庫次・侍従』日記)
193975日 満州事変を推進した石原莞爾(かんじ)少将らを栄転させる人事の説明のため板垣征四郎陸相が天皇に拝謁した。(以下「天皇語録」筆者)
19401012 「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり」
194119日  「日本は支那を見くびりたり、早く戦争を止めて、10年ばかり国力の充実を計るが尤(もっと)も賢明なるべき」
19411225日 (真珠湾攻撃後、日本の戦況が優勢だった当時)、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処(ところ)なれば支障なからむ」
194212(伊勢神宮参拝のため京都に立ち寄った時)「(戦争は)一旦始めれば、中々中途で押へられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗(な)めて居る。(略)戦争はどこで止めるかが大事なことだ。」「支那事変はやり度くなかった。それは、ソヴィエトがこわいからである。」「戦争はやる迄(まで)は深重に、始めたら徹底的にやらねばならぬ」(『朝日新聞』200739日)

「日々、空爆にさいなまれようとも、日本は勝利できる」(昭和天皇)
 「わが臣民は超人的な努力をして、犠牲をいとわない。だからこそ、石油資源を失い、日々、空爆にさいなまれようとも、日本は勝利できる。日本が最後の決戦で勝利すれば、和平交渉に向けて展望を開くことができる。これが天皇の見解だった。」(『昭和天皇』下164頁 ハーバート・ビックス)

「天皇の唯一最大の仕事は、『皇祖への報恩』、つまり『国体護持』だけのようだな。」
「天皇個人が無責任だとは思わないけど、天皇制が彼を無責任にするんだよ。いつも『国体』に都合のいい発言をするようアドバイスを受けている。」
「『死中活を求める』というのが戦争末期の指導者たちの常套句だったけど、これほどクレージーで無責任な発言はないね。」
「臣下たちの任務は、『天子の宸襟を安んじ奉る』ということだけなんだ。そこには『天機』、つまり天皇のご機嫌を窺う視線はあるけど、今日的意味での責任という言葉は存在しなかったんだね。『宸襟を安んじ奉る』ことに失敗した忠臣たちは腹を切る。ハラキリが武士道の最終的な責任の取り方ということなんだ。」
「日本には、今でもこれを美化する連中がいるから救われないね。」

 「本土決戦」から「聖断」へ

(1)「大命降下」と元侍従長

「いよいよ『本土決戦』だけど、いくつか資料を用意しておいたよ。レジュメに従って、当時首相の地位にいた鈴木貫太郎という人物の話から始めよう。この人がどのようにして政治を行ったか。どのように戦争末期の日本を導いたのかわかるといいけど…。」
「まず驚くのは、鈴木首相の年齢だな。首相になったのは、彼が772か月の時だとある。そもそもどのようにして首相が選ばれるのか、法的にはどうなっているのかね。」
「『大命降下』という言葉があるけど、首相の選ばれ方については資料があるよ。」

「大命降下」(広辞苑第五版)
「明治憲法下で、天皇が内閣総理大臣たるべき候補者を選定し、その者に内閣総理大臣となること、および他の国務大臣たるべき者を奏薦することを命じたこと。」

「大命降下」(ウィキペディア)
「大命降下(たいめいこうか)とは、大日本帝国憲法における憲法慣例の1つ。内閣及び内閣総理大臣の決定方法が明記されていない同憲法下において、天皇が元老や重臣会議などの推挙に基づいて、内閣総理大臣候補者に対して組閣を命じることである。(略)大日本帝国憲法では政党内閣を前提としていないので、政党党首以外の人物でも首相に就任することができた。(略)この方式で成立した最後の内閣は第1次吉田内閣である。」

「注意したいのは、旧憲法には『内閣及び内閣総理大臣の決定方法が明記されていない』と書かれている部分だね。『大命降下』は『大日本帝国憲法における憲法慣例の1つ』だともある。これによると、周囲の推薦はあるにしても、天皇が誰を首相に選ぶかは思いのままだね。」
「オレはね、鈴木首相の元海軍大臣・元連合艦隊司令長官・元侍従長という経歴に注目しているんだよ。このような経歴の人物を首相に迎えれば、日本の政治は天皇の自由裁量となる。軍人を抑えられることはもちろん、大将がおそばについているという安心感を国民に与えることもできるからね。それに半藤一利氏の『聖断』を読むと、鈴木首相の妻は『皇孫御用掛』として、昭和天皇・秩父宮、高松宮3兄弟の養育に当たった女性だとある。昭和天皇が『母のように思っている』女性であったことが書かれているんだ。」
「つまり、鈴木首相の77歳という年齢はともかく、天皇はお気に入りの人物に『大命降下』を行ったということが想像できるな。鈴木首相は、政治には全く関わりのない人だったと書いていたのは石橋湛山だね。」

「(鈴木貫太郎首相は)齢八十に垂(なんな)んとする今日まで、政治方面に関与したこともない人」(石橋湛山 1945421日「社論」)
 「小磯内閣は『時局の重大性に鑑み、更に強力なる内閣の出現を冀(こいねが)い』て退場し、代わって鈴木内閣が登場した。鈴木新首相は48日の放送で自ら言われた如く『齢八十に垂(なんな)んとする今日まで、一意御奉公は申上げて参ったが、未だかつて政治方面に関与したこともなく』現在に至った人である。そもそも首相は、いかなる政治を行おうとして大命を拝受したのか。首相は同じ放送で右に続けて次ぎの如くいう、『併し戦局かくの如く急迫した今日、私に大命が降下した以上、私の最後の御奉公と考えると同時に、まづ私が一億国民諸君の真先に立って、死花を咲かせるならば、国民諸君は私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進することを確信し、謹で御受け致したのである。』と。(略)君国のため、切に成功を祈ってやまざる所である。」(『石橋湛山評論選集』379頁 東洋経済)

「あの石橋湛山が鈴木首相に向って、『君国のため、切に成功を祈ってやまざるところである』と言っているんだね。」
「『聖断』を読むと、鈴木首相という人は実に優柔不断の人のようだ。自分がなく周囲の状況に合わせるから、『本土決戦』や『ポツダム宣言』無視へと崩れて行くんだな。このような天皇や首相を戴く日本帝国が、合理性を重んじる国々との戦争に勝てるはずがない。ため息が出るよ。『本土決戦』から『聖断』への過程をみると、みじめの一言だ。」
「そういう意味では戦後をリードした石橋湛山も、ほとんどの臣下たちと同様、『宸襟を安んじ奉る人々』のうちの一人だったということになるね。」

(2)「熱火憂国の同志よ! 永遠の大義に生死せよ」(山梨県翼賛壮年団 19437

「日川高校の歴代会長は、校歌を歌いながら、さまざまな記憶が浮かんできただろうね。」
「この『檄文』には『翼賛壮年団』という言葉があるけど、『翼壮』といえば名取忠彦氏だな。名取氏が日川の同窓会長を務めたのは197111月から197712月とある。実兄である広瀬忠彦氏の跡を継いで3代目の同窓会長になったんだけど、内心複雑だったと思うよ。オレのやってきたことはほんとうに正しかったのかとね。」
「そうかもね。そうであってほしいな。でも中には開き直る人がいるからね。、開き直れば開き直るほど沈黙する、始末が悪いんだ。この『檄文』は、大政翼賛会・山梨県翼賛壮年団から回覧板として隣保組に回されたものだと書かれている。

    
檄 
   仇敵 アメリカは 俄然 太平洋反抗に組織的大規模の軍力を傾けて 襲ひかゝって来た
  見よ! 獰猛(どうもう)なる 米英は 一寸刻みに われらの身辺に迫りつゝある
  君は今戦ってゐるか 君の戦闘はその持場、職場で、確実に勝ち抜いてゐるか 家族も 郷党も
  君の責任に於て 一絲の乱れを見せては相成らぬ 相済まぬ
  熱火憂国の同志よ! 永遠の大義に生死せよ
  もし 貯蓄の戦が充分でなかったなら!
     食料の増産戦に手落ちがあったなら!
     決戦生活に弛(ゆる)みが見えたなら!
  一体 皇国はどうなるのだ
  聴け! アッツ島玉砕将兵
     護国の歯ぎしりを!
 昭和187月   大政翼賛会山梨県支部
           山梨県翼賛壮年団  (『春日居町誌』1283頁~1284頁)

「昭和187月、つまり1943年のことだね。敗戦の2年前ということになる。」
「『春日居町誌』はこの『檄文』に続けて、かなり辛口のコメントを寄せているよ。」

国内では狂信的と言ってもよいような言辞が吐かれ…」(『春日居町誌』)
 「戦況が日本にとって悪化してくるに従い、国内では狂信的といってよいような言辞が吐かれ、『日本は神国だから絶対に負けない』『いざというときは神風が吹く』などということが、子供たちや一部の大人たに真面目に信じられていた。体力の衰える40歳近いお父さんから年端もゆかぬ145歳くらいの子供まで戦場にひっぱらなくてはならなくなった国が勝利するはずがないことは、考えるまでもないことであるのに、だ。もちろん大っぴらに戦況について云々することは禁じられていた。」(1284頁~1285頁)

「『アッツ島玉砕将兵』とは、日川中卒の『軍神』山崎保代中将のことだな。この『町誌』を書いた人は勇気があるね。『戦況について云々することは禁じられていた』とはっきり書くんだからね。『狂信的』という表現さえ使っている。」
「国民義勇隊の創設を決定したのは小磯内閣だが、それが19453月。それに基づいて名取氏が副隊長を務める『国民義勇隊県支部』が結成されるのは、1945年の6月のことだ。戦争末期の状況を知るためには国民義勇隊の動きもどうしても知っていおかなければならんね。」

(3)国民義勇隊の結成(19453

「広瀬・名取兄弟は戦後も山梨の政治経済を指導した人たちだけど、彼らがもっとも異彩を放っていたのは戦時中だろうな。彼らが県政の足場にしたのが大日本政治会(日政会)と国民義勇隊だ。米軍の本土上陸に備えて『竹やり戦法』を訓練した頃の話だよ。」
「前から不思議に思っていたんだけど、大日本政治会と国民義勇隊が創設されたのは、19453月のことだったよね。まだ小磯首相の時のことだね…。」

国民義勇隊( 小磯内閣が創設を決定 1945年3月)
 「太平洋戦争末期に本土決戦に備えて組織された国民統合組織。1945年(昭和203月小磯内閣が創設を決定。職域・地域ごとに国民学校初等科終了以上で、65歳以下の男子、45歳以下の女子で組織された。内務省の指導の下に都道府県ごとに本部を設置し(本部長は地方長官)、大政翼賛会・翼賛壮年団・大日本婦人会などの国民組織がこれに統合された。軍需品・食料の増産などを任務とし、戦況逼迫の場合には民間戦闘組織に移行することになっていた。」(『日本史広辞典』山川出版社)

「それが鈴木貫太郎首相になって間もない68日に、なぜバタバタと地方支部ができたのか、そのあたりがよくわからなかったんだ。つまり、秦郁彦氏も書いているけど、68日の御前会議が『本土決戦の方針を確定』した結果、これに合わせて大日本政治会と国民義勇隊の県支部が急遽創設されたということなんだな。」
「そう、秦氏はその頃の天皇に深い同情を寄せているんだよ。」

「明敏な天皇は…本土決戦を認可してしまったという悲憤の思いは深かっただろう」(秦郁彦)
 「明敏な天皇はそれまでも陸海軍の無責任な楽観論にたえず裏切られ、幻滅を重ねながら、勝利への期待を捨て切れないできた。そうせざるをえない境地に身を置いていたともいえる。それなのに、相変らずの虚偽と欺瞞に乗せられて、本土決戦を認可してしまったという悲憤の思いは深かっただろう。」(『昭和天皇五つの決断』59頁 文春文庫 1994年)

「『虚偽と欺瞞に乗せられた』のかどうかは今後検証するとして、開戦ばかりでなく、天皇が本土決戦を認可したというのは決定的な事実だな。」
「この『義勇兵法』も『天皇の勅』が下命するという形式をとっているんだ。日付は1945623日。義勇召集を免れるために逃亡したり、身体を傷つけるような行為は2年以下の懲役に処するとも書かれている。天皇は、『忠良なる臣民等勇奮挺身皇土を防衛して国威を発揚せむとするを嘉(よみし)』とご満悦だよ。国民を国土防衛に専心させるために、天皇自ら必死の呼びかけを行っているんだな。」

義勇兵役法(『上諭』1945623
 上諭 朕ハ曠古ノ難局ニ際会シ忠良ナル臣民等勇奮挺身皇土ヲ防衛シテ国威ヲ発揚セムトスルヲ嘉シ帝国議会ノ協賛ヲ経タル義勇兵法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」〔1945623日法律第39号〕」(『義勇兵役法』ネット情報)

「『上諭』は天皇が裁可した法律だね。『義勇兵法ヲ裁可シ茲(ここ)ニ之ヲ公布セシム』と言っている。『一億臣民ハ戦塵ヲ冒シ劫火ニ耐ヘ』と語りかけた言葉もそうだが、昭和天皇の頭には、国民を劫火からいかにして守るかという発想はまったくないんだね。」
「徹頭徹尾、皇室の安泰しか頭になかったんだ。そもそも戦時中の日本の義勇隊とは何かというあたりを見ておこうよ。」

義勇兵の定義(広辞苑「第三版」)
・【義勇軍】戦争・事変に際し、有志人民が自ら組織編成した戦闘部隊。
・【義勇兵】(
volunteer)徴兵によらず、自ら進んで応募する兵。これによって要員を充足する志願兵制度をイギリス・アメリカ・イタリアなどで採用。→徴兵制

「『義勇兵』の本来の意味は志願兵ということだね。日本政府は意図的に誤用しているな。義勇兵の逆が徴兵制とあるけど、日本の場合、義勇兵イコール徴兵だ。ボランティアは強制されてやるもんじゃあない。」
「『義兵』には『国家の危急にさいして、国家の指令を待たずに、自発的に発ちあがる人民の義勇軍』(『朝鮮近代史研究』姜在彦)という定義があるようだね。『国家の指令を待たずに…』というところが大事だな。赤子の心理を手玉に取る日本の指導者の心理的策略は狡猾だと思うね。これを見ると、確かに義勇隊とは国民皆兵の組織だよ。」

義勇兵法公布さる(1945624日付『東京毎日新聞』)
「沖縄の戦闘は陸海軍将兵の鬼神をも哭かしめしる勇戦敢闘にも拘らず、趨勢は我に不利にして、敵米軍はいよいよ本土上陸の野望を逞しうしてゐる。政府はこの戦局の重要性並に沖縄本島における戦闘の体験に鑑み国民の戦闘組織を確立して、国土防衛の万全を期するため去る87臨時議会に『義勇兵役法』を提出、協賛を経たが22日上諭を仰ぎ同日同法施行令、施行規則並に国民義勇隊統率令を公布即日実施した。」(『義勇兵役法』ネット情報)

65歳以下の男子、45歳以下の女子となっているな。足腰が動く者は全員集合ということだ。内務省の指導の下に都道府県ごとに本部を設置とある。」
「学校報国隊ができる、校長が隊長になる、日政会と国民義勇隊がほぼ同時に成立したことで、敗戦直前の段階で『本土決戦』の戦闘態勢ができあがったことになるね。『欲しがりません。勝つまでは』の合言葉はよく知られているけど、神社で戦勝祈願が頻繁に行なわれたのもこの頃の話だよ。」

(4)「敵の本土上陸に備え、大日本政治会は国民義勇隊と一体となり…」(井出鉄蔵 大日本政治会支部長1945619

「日政会山梨支部の結成が619日、義勇兵役法ができたのは1945623。政治と軍事の両輪がほぼ同時に出来上がったんだね。」
「戦争指導者たちは、『本土決戦』と称して見込みのない戦争にどう決着をつけようとしていたのかね。
「資料によると、この頃の指導者たちは勝利を信じているようだな。」

大日本政治会本土決戦段階で結成された」(1945330日)
「(大日本政治会は)1945(昭和20) 330日に結成され、太平洋戦争敗戦後の同年914日に解散した政治団体。本土決戦段階での強力な新党樹立をめざし翼賛政治会を解散して結成されたが、旧翼賛政治会会員のなかから脱落者がでたため強力とはならなかった。総裁南次郎、幹事長松村謙三。あらたに地方支部設置も認められたが、十分な活動のないまま解散。その後身に日本進歩党がある。」(『日本史広辞典』)

「敵の本土上陸に備え…」(井出鉄蔵大日本政治会支部長 結成式挨拶 1945619日)
「民意の暢達、上意下達、吏道刷新などの重大問題の政治的検討及び解決策が日政会の使命であり、努力を盡すべき点である。敵の本土上陸に備え、国民義勇隊と一体となり国民義勇隊の活動に対して政治的支援を送り、常に隊員の声をきき、政治的解決を要するものは、直ちに処理して行く考えで、そこに義勇隊との対立はなく、協調して難局打開に邁進したい。」(『田辺七六』442443頁)

「大日本政治会は各都道府県毎に地方支部連絡会を設置しているんだね。山梨県では、幹事長の野口二郎は山梨日日新聞社社長、顧問の一人の河西豊太郎は民政党所属の国会議員だ。この日政会の役員を務めた日川の関係者が、田辺七六氏・広瀬久忠氏たちだったというわけだな。」
「もう一人いるよ。日川高校同窓会初代会長の茂手木三郎兵衛氏は、総務の一人だ。山梨県の政財界の重鎮が顔を並べている。大日本政治会の結成式については、中島賢蔵知事来賓が祝辞を述べ、『聖寿万歳奉唱』をしたのが田辺顧問だ。」

『顧問は、田辺七六、広瀬久忠ら、東京、県内有力者58名が委嘱され…』(1945619日)
「日政会支部結成式は19日午後1時から県会議事堂で南総裁、島田衆議院議長を迎へ会員1200余名出席して盛大に開かれた。まづ河西貴族院議員を座長に推し、準備委員長川手甫雄氏の経過報告、次いで支部役員として総裁より支部長に井出鉄蔵氏、幹事長に野口二郎氏が指名され、更に顧問には河西豊太郎、田辺七六、広瀬久忠、根津啓吉、川手甫雄氏ら東京、県内有力者58名が委嘱され、総務47名、会計監督3名も指名された。」(『田辺七六』441442頁)

「まさに県内の有力者が勢ぞろいしたという感じだな。」
「米軍の本土上陸に備え、19456月の段階で、日政会も義勇隊も本気であったことを確かめておく必要があるね。『本土決戦』の勝機についてだけど、補給線がさらに伸び、敵は戦争継続が困難になるという読みもあったんだ。」

(5)「敵機は思想謀略にも魔手を伸ばし…」(山梨県思想指導委員会)
 

「東京大空襲は310日。大都市を焼いたあとは中小都市への空爆だ。ビラまきはその頃からだな。」
「最初にビラが散布されたのは、1945216日(『原爆の秘密 昭和天皇は知っていた』42頁)とあるけど、山梨にビラが落とされた日について、これには526 日と書かれている。」
 
「敵機は思想謀略にも魔手を伸ばし…」(山梨県思想指導委員会)
 「既述の県警防課の調査記録によると、すでに526日、B29による宣伝ビラが鰍沢・市川・吉田方面に撒布されている。『敵機が空襲にもあきたらず、思想謀略にも魔手を伸ばし』たものとする県思想指導委員会は、こうした“謀略”が頻度を増すものとみて、『冷静なる態度で職域に挺身せよ』と、国民学校・青年学校・中等学校の児童・生徒を通じて県民に呼びかけていた。ことに疎開者婦女子の中には、都市の被害状況をそのままに県民に恐怖心をひきおこさせるむきもあるとして、県内町村ごとに疎開者の母親学級を開講することが企てられた。一方、県民一般に対しては、次のような“敵謀略撃退”への心構えが出されていた。
一 戦局の推移、敵機襲来等に対し、徒に批評憶測する事なく職域に挺身すること。
二 敵の宣伝ビラを入手した場合は、隠すことなく警察・警防団・学校へ届出る。勿論その内容は謀略であるから、実話として伝えることなきよう厳に戒むること。
三 敵の妥協懐柔には婦女子が乗りやすいから、母親学級を通じて鞏固(きょうこ)なる意思の涵養(かんよう)を図ること。

四 敵は謀略爆弾をも投じ児童の生命をも狙っているから、敵の投弾物には一切手をふれず直ちに警察・警防団へ届け出ること。」
(『甲府空襲の記録』1011 「甲府市戦災誌編さん委員会」編集 甲府市発行 197476日)

「『謀略』という言葉が何度か出てくるね。日本の指導者たちは何を恐れていたのかね。」
「何としてでも、国民の厭戦気分や戦意喪失の蔓延を防ぎたかったんだろう。『敵の妥協懐柔には婦女子が乗りやすいから…』と苦心のほどがうかがえるよ。軍や指導者たちは、全国の同胞に不審の目を向けていたことになる。沖縄では『降伏するより自決を』と迫った結果、わが子とともに自決した人々が多かったというからね。『鬼畜米英』も脅し戦術だったんだよ。山梨県思想指導委員会は『勿論その内容は謀略であるから…』と警告しているんだ。」
「敗戦直前の日本の上空は、アメリカ軍機と日本軍機がビラまき競争をしていたということになるね。これが日本軍機がまいたビラだな。」

「陛下ノ赤子ヨ未ダ軍ニモ國民ニモ停戦ノ御命令ハ発セラレアラズ」(日本軍がまいたビラ)
 全國赤子ニ訴フ(略)
一  陸海軍ハ徹底抗戦ス
一  億國民ハ我等ニ續クヲ信ズ
一  ヤガテ内外攘夷ノ御大詔ハ煥発セラルベシ
一 陛下ノ赤子ヨ未ダ軍ニモ國民ニモ停戦ノ御命令ハ発セラレアラズ
一 独逸ノ惨状ヲ想起セヨ
  婦女子ハ計画的ニ強姦セラレ民族ノ血ノ純潔ハ破壊セラレントシツヽアリ(略)

    大日本皇國萬歳

  天皇陛下萬歳
  皇(すめら)陸海軍
   
手ヨリ手ニ 口ヨリ口ニ (『同上』)

「このビラには、『計画的ニ強姦セラレ…』とある。この言葉も心理的効果をねらったものだな。」
「日本軍がまいたビラの中に『陛下ノ赤子ヨ未ダ軍ニモ國民ニモ停戦ノ御命令ハ発セラレアラズ』という一文があるけど、これは重要だよ。国民に戦闘継続の理由として、『天皇の命令がないからだ』と言っているんだ。」
「逆に読めば、陸軍も国民も、天皇の『戦闘停止命令』さえ下りれば、即停戦もありうることを暗示する一項だな。」

(6)「焦土から断固起て!」(山梨県知事布告 194577日)

「小さい頃、米軍機からビラがまかれたという話はよく聞いたよ。『甲府空襲の記録』を見ると、69日にもまかれたと書いてある。昭和16年生まれのオレの兄は、空襲で甲府の町が焼かれ空が真赤になったことを話してくれたことがあったけど、飛行機からのビラの話はその頃のことだと思うな。」
「この資料には、甲府市の空襲の45日前にもB29からビラがまかれたと書いてある。アメリカ軍がさまざまな警告を出していたことは確かだな。」
「ここには、『日本軍の反抗はまったくなかった』とある。」

1機の戦闘機も飛び立たず、また1発の高射砲の応戦もなかった」(194577日)
 2時間余にわたる無差別爆撃に対して、市郊外にある玉幡飛行場からは1機の戦闘機も飛び立たず、また1発の高射砲の応戦もなかった。まったくの無抵抗のままB29の蹂躙(じゅうりん)にまかせた。竹槍訓練も注水競技も、もとよりなんの役にも立たなかった。」(『同上』14頁)

「こんな時に昭和天皇は『劫火ニ耐ヘ…』と叱咤し、山梨県知事は『焦土から断固起て!』と激を飛ばすわけだ。」
「知事発言は、明らかに1カ月前の『戦塵ヲ冒シ…』の勅語を引き継いでいることがわかるね。」

「焦土から断固起て!」(中島賢蔵山梨県知事布告 194577日)
「(略)縣民諸士今日只今からの食糧その他も萬般の用意あり救護處置についても凡百の對策を講じつつある、この際徒らに興奮しつまらぬ流言に迷ったりかりそめにも戰意をにぶらすやうなことがあってはならない、飽迄必勝の信念を堅持して慌てず騒がずしっかりと大地を踏みしめ灰燼の中から起上がって各々の職任完遂に邁進せられんことを  昭和2077日 山梨県知事 中島賢蔵」(山梨日日新聞 號外〔朝日新聞・讀賣新聞・毎日新聞〕194577『甲府空襲の記録』甲府市発行197476

「山梨県知事のこの対応は噴飯ものだが、仕方がないね。天皇命令を下達しただけだから…。知事は内務省から派遣される国の官吏だったからね、当時の中学校長が国から派遣される文部省の官吏だったのと同じだよ。こういう人たちが国の方針に反論できるはずはない。」
「逆に、こっちの資料は全くの『大本営発表』だ。『損害きわめて軽微なり』と言っている。

「損害極めて軽微なり」東部軍管区司令部の発表)
  「甲府・千葉の両市は敵焼夷弾攻撃により火災発生を見たるも、7日払暁までに概ね鎮火せり。その他23の小都市に対し焼夷弾投下ありたるも、損害極めて軽微なり。」(『同上』18)

敗戦まであと2カ月だ。『戦塵ヲ冒シ劫火ニ耐ヘ』の『天皇の勅』の中に一つ注目したい部分があるんだ。68日の段階で天皇が、『友邦トノ締盟益々固キヲ加フ朕深ク之ヲ欣フ』と言っている部分だよ。ドイツは57日に脱落し、イタリアはそれより早く降伏している。この時期に『友邦』というのはどこなのかね。」
「ソ連のことだろう。この時期に友邦といえば、中立条約を結んでいるソ連しかない。それまでソ連を仮想敵国と見なしてきた日本が、ソ連の仲介を当てにしていたというんだからね。『天佑』を信じる国柄だから、何でも都合よく解釈する悪い癖だ。ソ連はカイロ会談で、ドイツ降伏後3カ月後に参戦すると連合国側と約束していたからね。それを知ってか知らずか、日本はソ連にラブコールを送っているんだよ。」

(7)「松代大本営建設中止」と天皇の体調不良の関係

「ところで君、オウム真理教の教祖が最後に隠れた場所覚えているかい。」
「鮮明に覚えているさ。何とかサティアンの屋根裏部屋だったね。」
「似たような状況が天皇の身にも起こっているんだ。日本教の教祖が逃げ込もうとしたのは、屋根裏部屋ではなく長野県の岩山に掘った地下壕だ。松代へ行ったのは2年前の秋だったけど、当時の天皇が何を考えていたのか、山奥の防空壕で何をどうしようとしていたのか知りたかったのさ。
「赤子に『劫火に耐えなさい』と言う一方で、天皇と側近や軍部は、皇居と大本営を内陸の岩山へ避難させようと計画していたわけだ。」
「そうなんだ。『朕も頑張るから、お前たちもあきらめるな』ということだろう。『松代大本営』の着工は19441111日、敗色が濃くなっていたころの話だよ。」

「松代大本営予定地跡と気象庁地震観測所・象山地下壕」
「太平洋戦争の末期軍部が大本営移転の為極秘裡に構築した大地下壕。9月間に当時の金で約2億円の巨費と延3百万人と言われる朝鮮人と周辺住民が強制的に動員され工事が進められた。地下壕は象山・舞鶴山・皆神山の3所に碁盤の目のように掘り抜かれ延長10キロ余に及んでいる。現在舞鶴山地下壕は東洋一の地震観測所として使用され、象山地下壕はその一部を一般に公開している。」(パンフレット『まつしろぶらぶら』長野商工会議所松代支所・松代観光事業振興会発行)

「『極秘裏に構築した大地下壕』とあるな。300万人の朝鮮人と周辺住民が強制的に動員され』ともある。天皇の『聖断』が出る直前に、大元帥が戦争にどう結末をつけようとしていたのか知るうえで、この皇居・大本営の移転の話は一級の資料だな。」
「この点についてはどうしても明らかにしなければならんよ。このビックス氏の文中で大切なのは、『6月中旬、天皇は建設中だった長野県松代の地下防空壕の現状を聞いて間もなく体調を崩し…』、と指摘される部分だよ。」

「(昭和天皇は) 松代の地下防空壕の現状を聞いて間もなく体調を崩し…」
「足下で大日本帝国が崩壊してゆくにつれ、昭和天皇は強い緊張感とともに鬱々(うつうつ)とした日々を送ることとなった。六月中旬、天皇は木戸から彼自身と大本営が移る予定で建設中だった長野県松代の地下防空壕の現状を聞いて間もなく体調を崩し、予定を取りやめることを余儀なくされた。615日の午後、約束していた母の貞明皇太后の訪問をかろうじて果たしただけだった。622日、この日ついに天皇は最高戦争指導会議に戦争終結のため外交交渉を開始するようにとの要望をみずから伝えた。」(ハーバート・ビックス『昭和天皇(下)』169 講談社学術文庫)

「『松代の地下防空壕の現状を聞いて間もなく体調を崩し…』とあるのは、工事が思い通り進捗していないことを知ったのが原因とも読めるな。」
「下痢なんだよ。『まつしろぶらぶら』には『極秘裡に』と書かれているけど、重要なのは、天皇自身がこの計画を知っていたのかどうかということだ。」
「ここでは、秦氏は、『陸軍は天皇にも知らせず…』と書いているね。天皇は本当に建設中の『御座所』や『賢所』、或いは大本営について知らなかったのかね。大元帥が、毎日『御文庫』で顔を合わせている木戸から『大本営』移転の話を聞かなかったと言うなら、これは事件だな。」

陸軍は天皇にも知らせず前年の秋から長野県松代の山中に、本土決戦用の地下大本営建設工事を進めていた」(秦郁彦)
 「その陸軍は天皇にも知らせず前年の秋から長野県松代の山中に、本土決戦用の地下大本営建設工事を進めていた。檜や秋田杉の銘木を使った天皇の御座所や賢所も概成し、装甲車を改装した特製の御召車も試作を終っていた。外務事務官だった牛場信彦の回想によると、松代にお供せよ、と内示され、移動準備のため、第一生命ビルの事務所に寝泊まりして移動準備を進めていたという(日本経済新聞、昭和581115)。噂を聞き込んだ木戸が陸軍から移転構想の詳細をただして報告すると、天皇は『私は行かないよ』と身を震わせて激怒した。天皇が倒れたのはその翌日に当る。病床の天皇は、輾転反側する思いで悩み、迷ったにちがいないが、2日後に政務室へ復帰したときに決意は定まっていたと思われる。こうして既定の流れを逆転させ、天皇の発意で戦争終結の方向へ切りかえる異例の御前会議が622日、召集された。」(『昭和天皇五つの決断』59頁~60頁 文春文庫)

「確かに秦氏は、『陸軍は天皇にも知らせず前年の秋から…』と書いているね。噂を聞き込んだ木戸が移転構想の詳細をただして報告したとあるから、移転構想は陸軍が勝手に進めたものであって、木戸さえも知らなかったと言っているようにも聞こえるよ。」
「参考のために、『天皇が倒れた日』について、半藤氏の記述も見ておこう。」

天皇は倒れた。胃腸を害し、戦争がはじまっていらい休んだことのない政務を休んだ」(半藤一利)
  「天皇は事実の裏の裏までを見通した。陸海軍の無責任な楽観説にたえず裏切られ、幻滅と失望を重ねながら、勝利への期待を捨てないできた。憲法にだれよりも忠実な天皇は、そうせざるを得ない立場を守りつづけた。しかし、これ以上、兵や国民を栄光へ駆り立てることは望んではならない。にもかかわらず、相も変わらない虚偽と欺瞞にのせられて御前会議で“本土決戦”を認可してしまったのである。614日、天皇は皇后とともに大宮御所に貞明皇太后を訪ねた。(略)宮城へ帰ると、天皇は倒れた。胃腸を害し、戦争はじまっていらい休んだことのない政務を休んだ。翌15日も天皇は病床にあった。『聖上昨日より御不例に渡らせらる』と海軍の侍従武官日記にあり、陸軍の侍従武官も『聖上昨日よりご気分悪く数回下痢遊ばされ、今日は朝よりご休養なり』とある。悲惨な戦闘に尊厳と意味を見いだせなくなったとき、初めて天皇は病んで倒れたのである。このわずかな2日間、天皇は輾転反側(てんてんはんそく)する想いで悩んだと思われる。何を考え何を決意したかは、想像する以外はない。しかし、健康を回復して再び政務室に姿を現したとき、その顔は和平の方へ向けられていた。」(『聖断』274頁~275頁)

「秦氏は、天皇は『既定の流れを逆転させ、天皇の発意で戦争終結の方向へ…』と書き、同じように半藤氏も、『その顔は和平の方へ向けられていた』と肯定的に書いている。でも、この時点で、天皇の顔はどれほど本気で『戦争終結』や『和平』の方向へ向けられていたのかね。」
「『戦争終結』とか『和平』という言葉を使っているけど、アメリカが言う『和平』とは無条件降伏だから、これを天皇が受け入れるはずはない。半藤氏は、輾転反側する天皇について、『何を考え何を決意したかは、想像する以外はない』と言っているけど、オレは『国体護持』・『本土決戦』・『玉砕』などが入り乱れて、宸襟を悩ませたと思っているんだ。元気なはずの天皇が『下痢を起こして寝込んだ』原因について、もう少し考えてみようよ。613日から15日の『木戸日記』には、さまざまなことが書かれている。でもどういうわけか、『天皇御不例』の記述は全くないんだよ。不思議だね。細かい記述はたくさんある中で、目につくのは『御動座』についての記述だな。」

    613(水)晴
                    11時半、武官長来室 信州松代に設備云々の話ありたり。
                    12時半、宮相、次官〔大金益次郎〕、侍従長、皇后宮太夫、余の部屋に参集、御動座の場合の対策につき協議す。
   614(木)晴
   6
15(金)晴 鶴子、昨日より腹痛、下痢を病む。午前7時、宮入博士の診察を受く。

「『御動座の場合の対策』とは、松代への移転話だね。」 
「そう、613日の日記だよ。『木戸の部屋に参集して、御動座の場合の対策について協議す』と書いてあるから、木戸らが信州松代への移転について話し合ったのは確かだ。期待していたほど工事は進捗していない、だから天皇は失望して体調を崩した、そう読めるんだよ。要塞化工事の進捗状況は75パーセントだったといわれているからね。」
「『木戸日記』では、『鶴子、昨日(14日)より腹痛を起し下痢を病む』とあり、診察を受けたのは『鶴子』だと書いてある。“下痢”を起こしたのは天皇なのか、それとも『鶴子』なのか、よくわからんな。」

(8)「できるかぎり、最終まで帝都にとどまるように致したい」(昭和天皇)

「『御動座の場合…』の記述にこだわるけど、君は前に、『松代大本営が完成していたら、「本土決戦」になっていたはずだ』と言っていたよね。」
「そう、アメリカの『天皇利用』という“裏技”がなかったら、そうなっていただろう。天皇の戦闘停止命令については二つの条件が深く関与していたと思うんだ。一つが『松代大本営』の進捗状況。もう一つは『ポツダム宣言』6条だ。」

世界征服の挙にいづるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず」(『ポツダム宣言』六 1945726日)
 「〔軍国主義勢力の除去〕吾等は、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和、安全及正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は、永久に除去せられざるべからず。」(『解説教育六法』三省堂 1038頁)

「天皇はびっくりしただろうね。想像していたとは思うが、『永久に除去する』と言う言葉のインパクトは『国体護持』を使命とする天皇にしかわからんだろう。」
「つまり、天皇の地位はもちろん、『三種の神器』もすべて除去すると読めるよ。これでは天皇は戦争をやめるわけにはいかんさ。敵の手によって『永久に除去される』くらいなら、本土決戦に突入させ、『玉砕』したほうが顔が立つという理屈は説得力があるよ。」
「天皇周辺は、こうなる事態は前から予想していたんだな。アメリカ軍の上陸に合わせて、皇居と大本営をいっしょに山奥へ避難させる意図が当初からあったということなんだ。小磯首相の頃の話だからね。木戸幸一は194411月当時の帝都の様子を書いている。当時の皇室は連日の空襲警報で怯えていたんだよ。」

  11  1(水)晴 1時半、空襲警報突如発令せらる。
 11  5(日)晴 950分警戒警報発令せられ、1010分空襲警報発令せらる。
 11  7(火)午後1時、空襲警報発令せられ、敵機帝都の上空にあり、盛に防空砲火発せらる。
 1124(金)晴 1210分空襲警報発令、御文庫に侍す。B2970機来襲す。
 1127(月)雨 1255分空警、御文庫に侍す。雨天に不拘、敵機約40機来襲。
 1130(木)雨 零時50分、御文庫に出仕す。焼夷弾を多数投下せる模様にて、神田、日本橋通り等大火となる。」(『木戸幸一日記』下)

「よく知られているのは45310日の東京大空襲だけど、その日の記述はこうだ。」
310日(土) 晴風強し
昨晩から今暁にかけて、始めて(ママ)B29百数十機による夜間爆撃に襲はれ、下町は殆ど全部灰燼に帰す。赤坂附近も生長の家に焼夷弾落下、其附近一帯消失す。官舎も焼失せること朝になりて判明す。首相官邸も焼失す。」
「『首相官邸も焼失す』とあるな。帝都をいつ脱出するか、いつまで帝都にとどまるか、まさに喫緊の問題だったんだな。」
「そこで、小磯首相は天皇に、長野県の新防空壕への移転をすすめるわけだ。」

「空襲の心配から、小磯は、天皇に長野県の新防空壕への移転をすすめた(19447月)」(ねずまさし)
 「空襲の心配から、小磯は、天皇に長野県の新防空壕への移転をすすめた。天皇は『自分が帝都をはなれるときは、臣民ことに都民にたいし不安の念をおこさしめ、敗北感をいだかしめるおそれがある故、統帥部において、統帥の必要上これを考慮するも、できるかぎり、最終まで帝都にとどまるように致したい』と木戸に話して、移転を承知しなかった。しかしその言葉にもあるとおり、理由は、東京都民や臣民に敗戦感をもたせないためである。天皇はまだこの時 (昭和197)は敗北を予想していなかったと思われる。」(197頁『天皇と昭和史』ねずまさし 三一書房)

「『小磯首相が、天皇に長野への移転をすすめた』という記述がこれだな。このあたりは、秦氏の見解とちょっと違うようだね。確認するけど、秦氏は、19456月中旬に天皇が倒れるまで、『陸軍は天皇にも知らせず地下大本営建設工事を進めていた』と書いていたよね。」
「そうなんだ。『松代大本営』の着工は19441111日だから、ねず氏の記述によれば、天皇は着工前から『松代大本営』建設について知っていたことになる。さらに秦氏は、『7月末日』の木戸日記について、こう書いているんだ。」

「天皇は東京踏みとどまって玉砕する覚悟だった(19457月末)」(秦郁彦)
 「何よりも天皇の決意は、近衛の思慮とはほど遠いところにあった。松代大本営に御座所が完成し、移動用の特殊戦車も準備を終わっていたのに、天皇は『松代には行かぬ』と宣言し、7月末、木戸が三種の神器だけでも移したいと奏上すると、天皇は『万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思う』(木戸日記)と強い語調で申し渡す。天皇は東京に踏みとどまって玉砕する覚悟だったのだ。(略)天皇が木戸に玉砕の決意を表明してから10日後の昭和2089日、『国体護持』を唯一の条件としてポツダム宣言受諾の聖断が下った。それから約1週間、降伏か抗戦かをめぐって、波乱と激動の日々がつづくのだが、この終戦劇は『国体』という不可視の観念を軸にして展開したと言ってよい。」(『昭和天皇五つの決断』106頁 文春文庫)

「ここにある『7月末の木戸日記』とは、731日のことだよ。その日天皇は確かに、『万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ』と言っているんだ。でも、『天皇は東京に踏みとどまって玉砕する覚悟だった』というのは秦氏の憶測ではないかな。」
「このあたりについて、『聖断』を書いた半藤氏の考えも聞きたいね。」
「半藤氏は、『長野への大本営移転の議論がむしかえされた』と書いているんだ。」

「長野県松代に天皇ともども大本営は移転せよの議論がむしかえされた1945725日)」(半藤一利)
 「同時に、長野県松代に天皇ともども大本営は移転せよの議論がむしかえされた。その天皇は、24日の伊勢大神宮爆撃さるの報に衝撃をうけていた。725日、天皇は木戸をよんで、思いあぐねたように語った。『このままでは、対ソ交渉もうまくいかず、本土決戦となるのであろうか。もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、大本営そのものが捕虜となることも考えられる。そうなれば、皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持し得ないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか。』こうして、日本のトップはじりじりしつつ、和平か抗戦かで再び大きく揺れだした。連合国がカサブランカ会談以来鉄則としている無条件降伏の重圧から逃れ、ソ連の仲介によって、なんとか話し合いによる和平にもちこもうという天皇と政府の切ない意思。だが、それははかない望みなのか。」(半藤一利『聖断』303頁)

「ここには、天皇の松代行きに関する半藤氏の見解は示されていないね。」
「これに対して、松代移転についての纐纈(こうけつ)氏の意見は明確だよ。纐纈氏は、同じ1945731日の『木戸日記』を引用しながら、『天皇は、信州(松代の大本営)への移動を考慮していた』と、秦氏とは違った見方をしているんだ。」

「(1945731日段階で)天皇は、信州(松代の大本営)への移動を考慮していた」(纐纈厚)
 「この時、天皇もひたすらソ連からの回答を待ちわびるだけで、何ら戦争終結への有効な処置をとろうとしなかった。天皇はこの間、木戸に『伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ』(前掲『木戸幸一日記』下巻、昭和20731日の項)と述べ、天皇位の象徴である『三種の神器』を自らの手で守護し、信州(松代の大本営)への移動を考慮していたのである。この天皇の決意は、宣言受諾による早期和平への期待感より、本土決戦準備への意識が依然として強く残っていた証拠でもあった。」(『「聖断」虚構と昭和天皇』133頁~134)

「つまり、731日の『木戸日記』をどう読み解くかだね。」
「これがその日の日記だよ。」

「信州の方へ御移しするとの心組で考えてはどうかと思ふ」(昭和天皇 1945731日)
「お召しにより午後120分御前に伺候す。大要左の如き御語ありたり。先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。自分の考へでは度々御移しするのも如何かと思うふ故、信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。謹んで拝承、直に石渡宮内大臣を其屋に訪ひ、右の思召を伝へ、協議す。宮内大臣は既に内務省側と協議を進め居る趣なりき。」(『木戸幸一日記』下 1221)

「『伊勢と熱田の神器』について、『信州の方へ御移しするとの心組で考えてはどうかと思ふ』とあるから、731日の時点で天皇は、少なくとも『三種の神器』は信州へ移す考えであることは確かだな。」
「『万一の場合、三種の神器と運命を共にする外ない』というのは、最終局面では天皇が信州にいようが帝都にいようが、運命を共にするという意味だろう。その意味では、『天皇は帝都にとどまって玉砕する覚悟』という解釈も、『天皇は、信州(松代の大本営)への移動を考慮していた』という解釈も受け入れることができると思うね。いずれにしても『運命を共にする』という表現は、この時点において『場合によっては玉砕』が天皇の視野にあったことは否定できないな。」


(9)日本の原爆開発計画とUボートのナゾ

「ところで、日本は世界で唯一の原爆被爆国と言われるけど、その日本も原爆開発をやっていたことはあまり知られていないね。」
「オレが注目するのは、日川中卒の庄司元三氏のことだよ。日川の『百年誌』では、庄司氏は写真入りで紹介されている。日川高校史上では英雄なんだ。庄司氏は、敗戦時にドイツのUボート内で自決をした軍人であり、ある年齢以上なら知らない人はいないと思うね。」
「アッツ島で『玉砕』した山崎大佐と同じ扱いだな。彼らの戦績については、『日川高校の校歌が示す校風「質実剛毅の魂を、染めたる旗を打振りて…」の面目躍如たるものがある』(『百年誌』85頁)と称えられている。」

「庄司元三は、捕虜となる道を選ばずその艦内で自決した」(『日川中・高百年誌』)
 17回生の庄司元三(東大工航空科、海軍技術大佐)は、ジェットエンジンに関する技術習得の為ドイツに渡った。日本で最初のジェットエンジン『ネ20』の基礎を築いたが、昭和203月、ドイツの潜水艦Uボート234号で帰国の途中ドイツが降伏したので、捕虜となる道を選ばずその艦内で自決した。(吉村昭『深海の使者』に詳しい)」(85頁)

「オレはね、庄司氏は原爆製造用のウランを運ぶ使命を帯びていたのではないかと考えているんだ。そこで吉村昭の『深海の使者』を読んでみたんだよ。『機密書類』と言う言葉は頻繁に出てくるけど、この本には、Uボートが原爆用のウランを運んでいたという記述はないようだ。」
「行き詰った日本が、起死回生策として原爆製造計画を進めていたということだね。」
「そう、『世界唯一の被爆国の日本にも原爆開発計画があった』と言われれば、オレたちも穏やかではいられないからね。」

「日本陸海軍は別々に原爆開発を開始した」(鳥飼行博)
19411942年、日本陸海軍は別々に原爆開発を開始した。日本の技術、人材、設備、資源では原爆開発は不可能であったが、日本の原爆開発は1945年まで継続された。ドイツからウラン235を譲渡されることになったが、日本派遣潜水艦U-235は、ドイツの敗戦で、米国に降伏。ウラン入手が不可能になった日本は、19456月に原爆開発を放棄した。万が一、日本が原爆を開発したら、戦局挽回のために、原爆の先制使用を躊躇しなかったであろう。」(「鳥飼行博研究室」ネット情報)

「このあたり、もう少し詳しく知りたいね。『深海の使者』では半藤一利氏が解説を書いているけど、560キロのウランについては触れていないな。」
「庄司氏の死はルミナールによる服毒自殺と言われているんだ。自殺する前に庄司は『携行していた機密書類』を処分したとある。さらに、『設計図と機密図書を部屋から運び出すと、鉛の重りをつけて海中に投棄した』ともある。」

「庄司元三技術中佐らは、酸化ウラン560kgを運搬していた」(鳥飼行博)
1945324日、ドイツ海軍は、アジア派遣潜水艦“Monsun Boats” モンスーン・ボートの一隻として、機雷敷設UボートX型B(排水量1760トン)U-234を選んだ。U-234は、酸化ウランUranium Oxide(U235560kg、ジェット戦闘機Me262やジェットエンジンの部品・設計図など機密物資260tを運搬し、日本海軍庄司元三技術中佐と友永英夫技術中佐、ドイツ空軍ウーリッヒ・ケスラー大将、海軍士官4名、ドイツ人技術者2人などを日本に送り届ける任務をうけてキール軍港を出港した。しかし、194558日、日本に向かうU-234は、大西洋上でドイツ無条件降伏の打電を受ける。Uボート乗員たちは討議の末,日本人士官二人を監禁し、洋上で米軍に降伏することを決める。日本人将校2名は既に自決していた。降伏、投降していれば、原爆開発について厳しい尋問を受けたはずだ。しかし、戦後、日本に帰国できたであろう。」(「同上」)

「Uボートが運んでいたのが核物質であることは確認されたのかね。」
「鳥飼氏は、『オッペンハイマー博士が検視した』と書いている。」

U-234 搭載の酸化ウラン235を、オッペンハイマー博士が検視した」(鳥飼行博)
 「ドイツから日本へ派遣されたUボートIXBU -234 搭載のU235酸化ウラン560kgは、日本の原爆開発用であった。しかし、これは濃縮ウラン3.5kg相当に過ぎず、原爆に必要な50kgに到底及ばない。そこでウラン搭載を過小評価し、日本の原爆開発などとるに足らないとする日本人識者が多い。しかし、日本も原爆開発をして、米国を攻撃するつもりであったのであれば、日本に原爆が投下されたのは、原爆開発競争に負けた結果だったとされてしまう。酸化ウランU235は、放射能兵器として利用できた。米国本土空襲のためには、運搬手段として風船爆弾が利用できた。U-234 搭載の酸化ウランU235を、オッペンハイマー博士が検視した。」(「同上」)

「ドイツの潜水艦でウランを運ぶ役目を帯びた庄司氏らが、560キロものウランを勝手に処分できるはずはないからね。」
「その後Uボートは米国ポーツマス基地に抑留され、搭載物質は陸揚げされて米軍の管理下に置かれたとある。庄司氏は仲間と『抱き合って死んだ』という文章が出てくるけど、日川の同じあのボロ校舎で学んだ後輩として涙が出てきたよ。」

10)ソ連の仲介に固執する昭和天皇

「話をちょっとさかのぼっていいかい。ソ連との関係だよ。これはどうしても避けて通るわけにはいかんからね。なぜ日本は最後の最後までソ連の仲介をあてにしたのか、このあたりを整理しておきたいんだ。」
「いいね。天皇は原爆投下後もソ連の仲介をあてにしていた、これは確かなことだな。」
「開戦時の話になるけど、『バスに乗り遅れるな』という言葉があったよね。ドイツが破竹の勢いで侵攻していたころの話だ。ここまでさかのぼらないと日ソ関係は見えてこないよ。」

「バスに乗り遅れるな」(ウィキペディア)
「日本の知識人、特に時の首相、近衛文麿はこれを世界的潮流と認識し、やがて世界は『ソ連』、『ドイツ・イタリア』、『アメリカ』、『大日本帝国』の四大勢力により分割支配されるだろうと予想した。そのため日本では、時流に取り残されることを恐れ、また新体制に諸問題の解決を期待する運動が高まり、『バスに乗り遅れるな』というスローガンが広く使われるようになった。」(「新体制運動」)

「当時は、世界恐慌から脱却するには一党独裁体制がいいということで、それは独伊やソ連には共通する体制だったということだね。だから、全体主義こそが今後の世界の指針となるべきだと考える人たちが出てきてもおかしくないな。」
「満州事件に関与したのは板垣征四郎や石原莞爾たちだったけど、彼らの思想は宗教的に一致していていたことはすでに見たとおりだ。彼らは『天皇が東亜連盟の盟主』となること、そして、石原莞爾については『日米戦を前提とした満蒙の領有を計画した』(「世界最終戦論」『ウィキペディア』)とあるから、膨張主義と世界分割・反英米という点では共通認識を持っていたんな。」
「この路線を引き継いだのが松岡洋右ということになるね。」
「複雑なのは松岡がアメリカ戦を意識して、『大東亜共栄圏構想』にソ連を一枚かませようと計画したことだよ。これを『日独伊ソ4か国同盟』だというんだから、構想としては確かに大きいけど、各国の思惑にねじれが出てくるのは予想できないことではないね。」

「世界を大東亜圏・欧州圏・米州圏・ソ連圏にわけ…」(松岡洋右 19411月)
「(松岡洋右は昭和)161月、『対独伊ソ交渉案要綱』を作成した。(略)世界を大東亜圏・欧州圏・米州圏・ソ連圏にわけ、戦後の講和会議でその実現を主張し、日本は大東亜圏の政治的指導者となること、極力アメリカの参戦を防ぐようドイツ当局と了解を遂(と)げ、独伊をしてソ連を牽制させ、ソ連が日満を攻撃するようなばあいには、独伊はソ連を攻撃することとする、などをあげている。」(『日本の歴史25208頁 中央公論社)

「松岡という人は全く何を考えているかわからんな。『大東亜共栄圏構想』をもくろむ日本の戦略に『日独伊三国同盟』があり、加えて『独伊によるソ連への攻撃』も計算に入れるとなるとわからんね。」
「近衛も『日独ソ』の連携と言っているんだよ。」


「日独ソの連携をつくることにより、対英米を回避することができる」(近衛文麿)
 「近衛も当時の国際情勢、つまり独ソが親善関係にあり、ヨーロッパのほとんど全部をドイツが掌握しているような情勢のもとでは、ドイツと結び、ドイツを仲介としてソ連とも結んで日独ソの連携をつくることは、英米にたいする日本の地位を強固にし、日華事変処理にも有効であり、対英米戦をも回避することができる、と考えていた。」(『日本の歴史25188頁)

「つまり、日本はソ連をなんとか味方に引き込みたいわけだ。しかし、アメリカとの対立構造をつくろうとする19411月の『対独伊ソ交渉案要綱』の試みは、5カ月後の『独ソ戦勃発』で破綻だな。」
「ここが日本にとって決定的な誤算だ。そこで作戦を練り直し、新規まき直しとはいかないところが皇軍だな。ドイツの降伏後でさえ『日ソ中立条約』をテコにソ連頼みだからね。この資料を見てくれよ。」


「やってみるがよい」(昭和天皇 194569日)
「時を同じくして、時局の流れをみるに敏(さと)い木戸内大臣が、重い腰をあげて舞台裏で動きはじめた。まず御前会議のあった翌日の69日、木戸は時局収拾対策試案を天皇に上奏し、具体的方策として、1、天皇の親書を奉じた特使をソ連に派遣し、2、世界平和のため忍び難きを忍んで、3、名誉ある講和を結ぶことにある、とした。天皇はこの内大臣の提案を、即座にして、『やってみるがよい』と承認した。」(『聖断』275頁 半藤一利 PHP研究所 2003年)

「これ以降、89日のソ連参戦まで『ソ連詣』が続くんだ。自分は『真珠湾攻撃』という奇襲を命令しておきながら、ソ連とは『中立条約』があると安心していたんだよ。“道義国家”は約束は守るべきものと、決めつけている。」
「そしてソ連参戦で後がなくなった天皇は、アメリカ側の『国体保証』を“確認”して、やっと降伏を決心するというわけだな。」

11)「天皇を救ったグル―」(ねずまさし)

「ソ連参戦で、天皇に対するアメリカの見方はどう変化したのかね。」
「日本を共産主義の防波堤として使うこと、そこに利用価値を見出したということだろう。米英はヤルタ会談で、ドイツ降伏3カ月後にソ連の参戦を約束していたからね。そのソ連が発言力を強める中で、アメリカはヤバイと思い始めたんだ。いわゆる冷戦構造の始まりだけど、グルーという人物の働きについても触れなければならんよ。ねずまさし氏は、『天皇を救ったグルー』という言い方をしているんだ。」
「彼は元駐日大使だったんだろう。」
「そう、在任したのは1932年から10年間だ。その後国務省の特別顧問に就任したけど、日本人の精神構造を知悉していた人だったと思うね。19438月のことだけど、『日本の降伏と占領実施においてもっとも有効で損害の少ない手段として、天皇を利用すること』を主張したというんだよ。このことは、ねず氏の『天皇と昭和史』(205頁)に書いてある。」
「日本人について深く知る人なら、『天皇利用』の発想は当然浮かぶはずだね。」
「つまりグルーは、『戦後の日本では民主勢力は当分起こらない』との考えなんだ。」

「もし天皇を支持しなかったら…無期限に重荷をせおうことになる」(グルー国務次官)
 「天皇は日本における唯一の安全勢力である、天皇だけが中国に日本軍に(ママ)戦闘停止を強制できる十分な力をもっており、軍首脳だけではこれに完全降伏をもたらすことはできない。もし天皇を支持しなかったら、われわれは人口7,000万人の崩壊しかかった社会を無期限に管理するという重荷をせおうことになる。」(『天皇と昭和史』208頁 ねずまさし 三一書房)

「世界征服の大陰謀の焦点である天皇を、『平和』日本の実現に利用できるかもしれない」(グルー国務次官)
「グルーが国務次官に就任すると、ストーンは『英米の保守派は敗戦日本を、共産主義への防波堤にするため、天皇を存置せねばならぬ、と公言している。』と批判し、『グルーは、日本国家宗教の中心象徴であり、世界征服の大陰謀の焦点である天皇を、「平和」日本の実現に利用できるかもしれないと考えている。われわれは、日本の上層階級が権力を保つために、この見解を利用するのは一層大きい危険ではないか、どうか、を上院が考慮することを要求する』とかき、グルーの考え方は、戦後の日本では民主勢力は当分おこらないと認め、政治は保守派(牧野や重臣派)に握らせ、日本を極東の安定勢力にしようという英米の計画の一環であることをばくろした。」(『同上』208頁~209頁)

「『天皇利用』というけど、連合軍や日本国民のさらなる犠牲を防ぐという意味で、それがベストだとアメリカは考えたんだな。」
「そう、まるでハチの大群を統制するために女王蜂を利用するという手だよ。スチムソンという陸軍長官も、『天皇利用』を支持しているんだ。」

「天皇を利用すべきだ」(スチムソン米陸軍長官 1945810日)
 810日はワシントンでは興奮が渦を巻いた。(略)大統領が意見を求めた時、私は『たとえその問題(天皇の地位)を日本から持ち出されなかったとしても、われわれとしては、もはや他の権威を持たない分散した日本の多数の軍隊を降伏に導くために、天皇自身をわれわれの指図と指令の下におくことを続けるべきであること、また、従来の硫黄島や沖縄その他の物すごい流血の厳然たる事実を回避するためにも天皇をぜひ利用すべきだ』と答えた。」(『日本の歴史25468頁~469頁)

「親日派といわれるグルーにしても、『日本国家宗教の中心象徴であり、世界征服の大陰謀の焦点である天皇』と言っているくらいだから、日本に民主主義が根付く見通しについては否定的だったんだよ。」
「マッカーサーは日本人を『
12歳の少年』に例えているね。」
「『45歳の大人』と『12歳の少年』が妥協点を見出すのは、それほど困難な作業ではなかったということさ。」

12「アナン(阿南)よ、もういい。…私には確証がある」(昭和天皇  814

「これがレジュメの最後だね。」
「まずは、天皇が原爆投下とソ連参戦にどう対応したかだな。」
「『大東亜共栄圏構想』が瓦解し、米・英・ソ・華4国に『ポツダム宣言』受諾を通告するか、あるいはそれを拒否して『三種の神器とともに運命をともにするか』、天皇はまさに崖っぷちに立たされることになる。813日の朝、天皇は阿南陸軍大臣とこんな意味深な会話をしているんだ。」

「阿南よ、もうよい。…私には確証がある」(昭和天皇)
 「(8月)13日の朝が明けた。早くも警戒警報のサイレンが東京の空をかき乱した。そのなかで、この朝の阿南陸相はなお、虎のように屈しなかった。天皇に謁見を願い、広島にある第二総軍総司令官の畑俊六元帥の招致の上奏を行ったさい、天皇その人に天皇の地位存続にたいする心配を訴えたのである。だが天皇は前日にも陸相を諭した言葉をさらに強めて、はっきりといった。『阿南よ、もうよい』 なぜか天皇は、侍従武官時代から阿南(あなみ)をアナンと呼ぶのを常としていた。『心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある』」(『聖断』PHP研究所 348頁)

「このドキュメントがどれほど正確なものかはわからんけど、阿南陸相を説得するのに『私には確証がある』と天皇が言ったのは記憶したいね。」
「この点については、ノンフィクション作家の鬼塚英昭氏も書いている。814日に畑俊六・永野修身・杉山の3元帥が参内し、天皇から次のような言葉を頂戴したというんだよ。」

「皇室の安泰については敵もこれを確約しあり」(昭和天皇)
 「畑、永野(修身〔おさみ〕)、杉山、三人の元帥は奉答のあと、天皇より次のような御言葉をいただいたのである。畑の記している、聖上にして神なる陛下の御言葉は以下の如しである。『更にこのまま戦争を続くるに於ては、形勢益々悪化し、遂に国家を救済することを得ざるべし。皇室の安泰については敵もこれを確約しあり。天皇を武装解除の為に利用するといふ敵の言論は放送なればこれを信ずべからず。皇室の安泰は大丈夫なり、心配なきことと思ふ。』」(『原爆の秘密 昭和天皇は知っていた』9091頁 鬼塚英昭 成甲書房 2008年)

「何らかのルートを通じて、『皇室は安泰』だとのアメリカ側の意図が天皇に伝わっていることは確かだな。」
「これで『本土決戦』はやらなくてもよいことになった、さぞかしホッとしただろうね。軍部を説得する天皇の姿が目に浮かぶよ。『心配無用だ』とね。この後強硬派の阿南陸相がどういう行動をとるかは、日本人ならピンとくるな。東条は拳銃で自殺未遂、近衛は御承知のように服毒自殺をしたけど、阿南という軍人も『宸襟を安んじ奉ること』を信条としてきた者として、はっきりけじめをつけようとしたんだな。」
「ハラキリしかないね。」
「そう、半藤氏は『阿南陸相は敗戦の責任をとって、15日朝まだきに自刃した』と書いた。これを聞いた天皇はこう言ったというんだ。『アナンにはアナンの考えもあったに違いない。気の毒なことをした…』とね。」
「でも、臣民を『天皇の勅』の下にギリギリまで扇動しておきながら、天皇の戦争責任の自覚はなぜこうも薄いんだろうね。」
「資料の中で天皇は、『精神に重きをおきすぎて科学を忘れた我が国人』、と国民に戦争責任を押し付けている。無責任という意味では、戦時中に陸軍大将を務め、戦後最初の内閣総理大臣になった東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)も同じだよ。」
「この発言は、戦死者たちには絶対伝えられないな。」

「パールハーバーを忘れてくれ。私たちも原爆を忘れる。」(東久邇宮)
「東久邇宮が議会か何かで、『アメリカは眞珠灣を忘れて欲しい。日本も亦原子爆彈のことを忘れよう』と、平和を希うの余り演説したことがある。その翌日、ラジオを聴いていると、アメリカの方では『われ等アメリカ人は東久邇宮の提言をハッキリ拒絶する』と言っていると日本放送局が伝えていた。つまり『リメンバー、オヴ、パールハーバー』(ママ)は断じて引っ込めないぞと云うのである。仮借すまじきものが、全米国の空気となっていたのである。」(『敗戦以後』40頁 名取忠彦)

「思い出すのは色川氏の言葉だよ。『ところが純情愚昧な国民は、これほどひどい背信と戦禍に痛めつけられていながらも、痛めつけた「張本人」のいる皇居の二重橋前の玉砂利にひれ伏して、自分たちの努力が足りなかった罪を嗚咽しつつ謝罪していた』とね。」
「歴史学者から『純情愚昧な国民』とお叱りを受けたら、これを正面から受け止める謙虚さが欲しいね。痛めつけられた人間が痛めつけた人間に土下座をして謝罪する、日本人が示したこの心理的メカニズムの解明が待たれるな。」 201158


14 同窓生討論:「恩の国」(上)「現人神(あらひとがみ)」と「大恩人」


【論点】昭和天皇免責と戦後日本の原点

 1945814日、「天皇を中心とする神の国」は御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、「大東亜戦争」は終結した。翌年194623日、D・マッカーサー将軍は「マッカーサー三原則」を明らかにし、戦後日本の民主化はこれを基軸に行なわれることになった。
  1.天皇は国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。
 2.国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。
  3.日本の封建制度は、廃止される。(『日本の歴史2662 中央公論社)
 同年213日、「三原則」に基づくGHQの日本国憲法草案が日本政府に手渡され、194753日に日本国憲法が施行された。「自由の国」アメリカは、社会構造がまったく異なる「恩の国」をどう変えようとしたのか。今回は、「昭和天皇免責」をキーワードとして、戦後日本の原点について討論する。

  1「日本人は精神革命が必要だ」(マッカーサー)
(1)「臣民の命」か、「国体護持」か    
(2)「恩の国」は運命共同体   
(3) 敵は誰だったのか 
(4)「私は全責任を負う者として…」(昭和天皇) 
(5)「日本人は12の少年」(マッカーサー)  
(6)「私は全責任を負う」云々の謎 
(7)「日本人は精神革命が必要だ」(マッカーサー)
(8)「マッカーサー神社」が意図するもの 
(9) 昭和天皇の臣民観
10)「開戦の大命降下をお待ちしております」(永野総長・嶋田海相)

 2 昭和天皇免責への道
11)「一億玉砕」から「一億総懺悔」へ 
12)起訴状にはない天皇の名前
13)大元帥とA級戦犯を分離するキーナン検事
14)「東条は、すべての責任を引きうけることを覚悟した」(吉田裕)
15)「昭和天皇独白録」は「弁明の書」(吉田裕)
16)英語版「昭和天皇独白録」について
17)「昭和天皇独白録」は何のために書かれたか
18)日本政府による憲法改正作業に見切りをつけたGHQ
19)天皇条項と「戦争放棄」       
20)「恩の国」の“リベラリスト”の思想 
21)石橋湛山と斎藤隆夫をつなぐ線
22)「恩の国」の「囚われた民衆」 
23)アメリカの保護下に置かれた「恩の国」

 <次回予定・「同窓生討論」最終回> 15 同窓生討論:「恩の国」(下)「神州第一の高校」とその周辺

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「なぜ戦争は始まったのか、なぜ止められなかったのか」(Japan Times
 「After the war, adults couldn’t provide a clear answer when children asked them why they started the war and why they couldn’t stop it.―― (KATSUMOTO SAOTOME )
(戦後子どもたちから、なぜ戦争は始まったのか、なぜ戦争は止められなかったのかと聞かれた時、明確に答えられる大人はいなかった。)(March 20, 2012

「彼等は何物か見えざる力に駆り立てられ、目をつぶって突き進んだ」(丸山眞男)
 「大東亜共栄圏を確立し八紘一宇の新秩序を建設して、皇道を世界に宣布することは疑いもなく被告らの共通の願望であった。彼らのうち誰一人として、これがドン・キホーテの夢であることを指摘したものはなかった。(略)しかも彼等はみな、何物か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐ろしさにわななきながら目をつぶって突き進んだのである。彼等は戦争を欲したかといえば然りであり、彼等は戦争を避けようとしたかといえばこれまた然りということになる。戦争を欲したにも拘らず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだのが事の実相であった。」(『現代政治の思想と行動』91頁~92 未來社 1964年)

「天皇中心に国民と日本を統一する伊藤のシステム」(久野 収・鶴見俊輔)
 「天皇を歴史と世界の中心(最初は国史と日本の中心、やがて無責任な自己膨張をとげ、世界史やアジアの中心の位置におしあげられる)にたて、天皇中心に国民と日本を統一する伊藤(博文・筆者)のシステムは、天皇への懐疑や批判や反対がどれほど善意のものであっても、システムの根底をおびやかしかねないだけに、これに対する予防措置や禁圧法律は、しゅうとうをきわめた。国民は、外的行動面で天皇の法律の命じる義務からはずれないというだけでは、まだ日本の国民の資格はない。せいぜい国民になるか、非国民になるかわからない状態である。実に内的意識面、無意識面でさえ、天皇の権威と価値を一番大切にしなければ、日本の国民とはいえない。国民は、ほとんどゆりかごの時から、家庭と学校を介して、この考えに条件づけられて育てられた。」(『現代日本の思想』135 岩波新書 1956年)

「忠と孝の『義務』は強制的であって、何びとも免れることはできない」(ルース・ベネディクト)
 「債務に対する無限の返済は“ギム”〔義務〕と呼ばれ、それに関して日本人は、『受けた恩の万分の一も返せない』と言う。『義務』は、両親に対する恩返し、すなわち、“コー”〔孝〕と、天皇に対する恩返し、すなわち、“チュー”〔忠〕と、二種類の義務を一括した名称である。この二つの『義務』は、ともに強制的であって、何びとも免れることができない。日本の初等教育は『ギム教育』と呼ばれているが、これはまことに適切な名称である。」(『菊と刀』135頁 社会思想社1967年)

「国体護持のため、朕は米英ソ中と和を講ず」(昭和天皇1945817日)
 「今ヤ新ニ蘇國ノ參戦ヲ見ルニ至リ内外諸般ノ状勢上今後ニ()ケル戰争ノ繼續ハ(イタズラ)ニ禍害ヲ累加(ルイカ)(ツイ)ニ帝國存立ノ根基ヲ失フノ(オソレ)ナキニシモアラサルヲ察シ帝國陸海軍ノ闘魂(ナオ)烈々(レツレツ)タルモノアルニ(カカワ)ラス光榮アル我國體護持ノ(タメ)朕ハ(ココ)ニ米英蘇(ナラビ)ニ重慶ト和ヲ媾セントス」(「陸海軍人に賜わりたる勅語」『天皇と勅語と昭和史』394 千田夏光 汐文社 1983年)

「戦争責任という言葉のアヤについては、よくわかりません」(昭和天皇 19751031日))
 
「(戦争責任に関する記者からの質問)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。(略)(原爆投下に関する記者からの質問)原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」(「アメリカ訪問から帰って、日本記者クラブの代表50人のインタビュー」(『天皇制を問う』422 新日本出版社 1986年)

「日本国民が天皇の意思に反した行動をすることはない」(東条英機)
 「しかし、オーストラリアのウエッブ裁判長は、こうしたアメリカの動きに反発し、なおも、天皇を証人として召喚することにこだわった。両者の対立が最も緊迫したのは、19471231日の法廷での東条英機被告の証言であった。東条が、日本国民が天皇の意思に反した行動をすることはない、『いわんや日本の高官においてをや』と発言したことが問題とされたのである。ウエッブ裁判長はこの発言を重要視し、天皇を証人として召喚しようとした。天皇の戦争責任に結びつきかねないこの発言を取り消すため、キーナン首席検事官は、田中隆吉や木戸幸一などに工作させ、東条にこの証言を撤回させた。194816日の法廷で、東条は『天皇は東条の進言で開戦にしぶしぶご同意になった』と証言し、ウエッブの天皇召喚の企図は挫折したのである。」(『東条裁判への道』180 粟屋憲太郎 NHK 材班 NHK出版 1994 年)

「占領当局が裕仁の退位を促す方針をとっていたなら、それを妨げるような障害は何も存在しなかった」(ジョン・ダワー)
 「もし占領当局が裕仁の退位を促す方針をとっていたなら、それを妨げるような障害は何も存在しなかったことは明らかである。そのことは天皇の側近にもわかっていた。それがどんなに悲しいことでも、人々は敗戦を受け入れたと時と同じように、あっさりと天皇退位の発表を受け入れたことだろう。保守派も、天皇制の道義的高潔さの再確認として天皇の退位を正当化したであろう。天皇制民主主義は新しい君主の下で発展できたかもしれず、破滅的だった裕仁の昭和時代――この昭和という二文字は、まったく皮肉なことに、『輝きと平和』を意味しているのだが――も幕を閉じ、『戦争責任』の問題も、明るい光のもとに照らし出されていただろう。」(『敗北を抱きしめて』73頁~74 岩波書店 2001年) 

「朝日新聞を焼き打ちしてやろか…」(阿川弘之)
 「俺たちの祖父母、父親母親、伯父さん伯母さんはそんなに悪人揃いだったのか。よその国に色々迷惑かけたかもしれないが、泥棒にも三分の理ということがあるだろ、くどくくどく毎たびそんなにまで言われちゃ不愉快だ、頭へ来た、『日本を守る国民会議』もり立てて朝日新聞焼き打ちしてやろかと、こうなる可能性はあるのです。卑下と自虐の果ての反動は恐ろしいのです。」(『国を思うて何が悪い』132 光文社 1987

「あいつら日本人じゃあないんだ」(石原慎太郎)
 「東京都の石原慎太郎知事は15日、靖国神社を参拝した。石原知事は参拝後、報道陣に対し、首相と全閣僚が靖国神社に参拝しない方針を示したことに『あいつら日本人じゃあないんだ』と厳しく批判した。この日は、都の戦没者追悼式典に出席後、靖国神社に直行。『国を救ってくれって言った』と話した上で、報道陣から管政権による政治の混迷を問われると『自業自得だよ。日本人が堕落したからこんなことになったんだ』と述べた。」(『産経ニュース』2011815 ネット情報) 

「大江健三郎は反日的日本人」(矢沢永一)
 「大江健三郎は、祖国であるわが日本の国家を、そして同朋であるわが国民を口をきわめて貶(おと)しめ蔑(さげす)み罵(ののし)った。大江健三郎は、反国家・反天皇・反国民の言説を弄(ろう)している。彼は日本国民を見下して軽蔑して、ひとり自分だけを別格とし、己(おのれ)だけを高しとしている。大江健三郎は反日的日本人である。」(『こんな日本に誰がした』218 クレスト社 1995

「日本人は情にあふれながらも理に欠ける人々である」(櫻井よしこ)
 「日本人は情にあふれながらも理に欠ける人々である。優しい気持ちは人一倍持ち合わせていながら、惜しむらくはあまりにも理知に欠けるために、物事を成しえないのではないか。(略)私たちの社会は、情にあふれた優しい社会であるかもしれない。だが情を知恵に変え、かたちにして力をもたせるには、理の力が必要なのだ。情とともに理を備えた社会へと育っていくことが大切だ。」(『Voice56頁~57頁「創刊20周年記念特別号」PHP 1998年)

「日露戦争と日米戦争は、独立と生存のため致し方なかった」(藤原正彦)
 「私は日露戦争と日米戦争は、あの期(ご)に及んでは独立と生存のため致し方なかったと思っております。あのような、戦争の他に為す術(すべ)のない状況を作ったのがいけなかったのです。しかし、日中戦争は別です。策士スターリンと毛沢東に誘い込まれたとはいえ、当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯なことです。江戸時代は遠くなり、明治も終わり、武士道精神は衰えていました。」(『国家の品格』120 藤原正彦 新潮社 2005年)

「東京裁判の問題性は、むしろそこで裁かれなかったものの方にある」高橋哲哉)
 「東京裁判の重大な問題性は、そこで裁かれたものよりも、むしろそこで裁かれなかったものの方にある。『勝者の裁き』であるがゆえに、東京大空襲から広島・長崎への原爆投下に至る、米国自身が犯した重大な戦争犯罪が裁かれなかったのはもちろんである。しかし、また『A級戦犯』が裁かれたのに、彼らが仕えた君主であり、一貫して帝国陸海軍『大元帥』すなわち最高司令官であり続けた昭和天皇が不起訴になったのも、ソ連・中国・オーストラリアなどの訴追論を押さえ込んだ米国の意思によるものであったし、731部隊のような日本軍の戦争犯罪が裁かれなかったのも、米国の意思によるものであった。」(『靖国問題』68 ちくま新書 2005年)

「ひとり日本国民のみが『終戦』を天下り式に与えられ…」(家永三郎)
 
「ドイツでも、ナチスを倒すことができなかったとはいうものの、知識人・労働者・主婦等あらゆる階層に属する人々がさまざまな方法でナチス打倒の秘密活動を行ない、多数が死刑台に登った。(略)イタリアでは、労働者がゼネストを行ない、454月の国民総蜂起の際には、いっせいに市民がたちあがって要衝を占拠し、パルチザンもなだれをうってドイツ軍の戦線に殺到した。(略)これらの例と対比するとき、ひとり日本国民のみが、戦争勢力を自らの手で打倒しその主体性において平和を回復することができず、支配層から先手をうたれはじめて『終戦』を天下り式に与えられるという受動的態度に終始したことは、いちじるしい特色を示している。」(『太平洋戦争』278 第二版 岩波書店 1986年)

「連続している戦前・戦後」(加賀乙彦)
 「開戦のとき、国民はお祭りのように興奮した。国中が軍国主義化した状況が確かにあった。しかし、僕の子供たちの教科書を見たとき、日本人は軍国主義に駆り出され、いやいやながら戦争していたかのように書いてある。そんなことはない。日本人は喜んで戦争し、他国を侵略した。戦後には経済的な進出に変わったが、姿勢としては変わっていない。新しいものが戦後に生まれたわけではなく、連続しているんです。」(『朝日新聞』1996717

「日本人の未完な精神構造」(中村正則)
 「『終わった戦後』と『終わらなかった戦後』の二重構造が、いまなお今日の日本を規定している。相次ぐ閣僚の侵略戦争否定の発言も、戦後五十年近くを経てなお、日本人の精神構造の変革が未完であることを示している。」(『朝日新聞』1994124

「天皇制はその形骸を残さず政治の領域からは退くべきである」(村上兵衛)
 「天皇制について、私自身の将来への展望を簡単にスケッチして見るならば、天皇制はその形骸を残さず政治の領域からは退くべきである。これはむろん、現天皇を刑法によって処分せよ、などということではない。天皇は政治の領域から離れ、ひとりの市民として生活されるがよい。その経済的な基盤は、天皇を敬愛する人たちの手で賄われるがよく、国民の税金であってはならないだろう。」(村上兵衛「天皇の戦争責任」『戦争責任と戦後責任』112113 社会評論社 1995年)

「大統領を元首とする共和制の採用」(高野岩三郎)
 「…いわんや軍閥財閥の過去の勢力はすでに芟除(せんじょ)せられたるも、残存の余燃はなお潜在し、再起の機会を狙いつつあるものと覚悟しなければなるまい。殊にわが国民は由来自主独立の気象欠如し、とかく既存勢力に依頼する傾顕著なるをもって、五年十年の後連合軍の威圧力緩減したる暁において、反動的分子が天皇を担(かつ)ぎ上げて、再挙を計ることもけっして絶無なりとは断じ難い。したがって私はこの際あっさりと天皇制を廃止して、主権在民の民主制を確立し、人心の一新帰一に向って勇往邁進、国民の啓蒙に大々的努力を払うをもって得策とすと信ずる。(略)改正憲法私案要綱 根本原則 天皇制ニ代エテ大統領ヲ元首トスル共和制ノ採用(以下略・筆者)」(『「天皇制」論集』7 三一書房 1974年)

   
                             ******

1「日本人は精神革命が必要だ」(マッカーサー)

(1)「臣民の命」か、「国体護持」か     

「『臣民の命』が先か、『国体護持』が先か、敗戦時の天皇がどちらを優先していたか、いつまでたっても議論が止まないね。」
「『国体護持』とか『戦争責任』という言葉は、今でも年配の日本人の体に深く突き刺さったままだ。これらの問題は、天皇が天皇家の長男であるということに深く関係していると思うな。天皇家に限らず日本の長男は、祖先とか、家の名誉とか、家の存続について特別の感情を持っているからね。」
「まず最初に家ありき、これは日本の長男たちがもつ宿命的な報恩感情だろうね。」
「この資料には、祖先を思う明治天皇が『涙ながらに語った話』が書かれている。」

「もし(日露戦争に)敗北すれば、どのように祖先に詫びたらいいか…」(明治天皇 190424日)
 「露に宣戦布告!(略)4日午後140分、御前会議が開かれた。博文(伊藤博文・筆者)は陸海軍両大臣、曾禰荒助(そねあらすけ)蔵相に準備の詳細を問いただした。『開戦は望まないが、ここに至ってしまった。いかんともし難いが、もし敗北すれば、どのように祖先に詫び、国民に対することができようか』 天皇が涙ながらにそう述べて、一同は静まり返ったという。」(『伊藤博文』170 大空ポケット新書 2010年)

「祖先を意識する明治天皇のセリフは、そのまま『どのようにして皇祖皇宗の神靈に詫びたらいいか…』と述べた昭和天皇の『戦争終結の詔書』にもつながるね。やはり底にあるのは皇祖への報恩感情だな。」
「『戦争終結の詔書』の一節をコピーしておいたよ。天皇家の長男にとって、『国体護持』の縛りがどれほどのものか、臣民の想像を超えるものがあるのは確かだな。昭和天皇は、『皇祖皇宗の神霊に対する詫び』という言い方をしている。」

「朕、どのようにして皇祖皇宗の神靈に詫びるべきか」(昭和天皇 1945814日)
 「…戦局必スシモ好轉(コウテン)セス世界ノ大勢(マタ)我ニ利アラス(略)而モ(ナオ)交戰ヲ繼續セムカ(ツイ)ニ我民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス(ヒイ)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ(カク)クノ(ゴト)クムハ朕如何ヲ(モツ)テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ()レ朕か帝國政府ヲシテ共同宣言ニ(オウ)セシムルニ至レル所以(ユエン)ナリ」(「戦争終結の詔書」『天皇と勅語と昭和史』394頁)

「戦争終結を決定した理由についても、もし民族の滅亡を招くようなことになったら、皇祖皇宗に謝るすべがないというんだな。『神の国』が起こす戦争が皇祖皇宗に対する『恩返し』につながっていることがわかるね。」。
「『国体護持』か『臣民の命か』の二者択一を迫られれば、天皇としては『国体護持』を選択するのは当然ということになる。」

「国体護持が出来なければ、戦争継続だ」(昭和天皇 1945 812日)
 12日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか〔と〕質問したから、私は勿論だと答へた。」(『昭和天皇独白録』151 文春文庫 1995年)

「広島・長崎に原爆が投下されたのが86日と9日、ソ連の参戦が89日。その後もまだ『国体護持』にこだわっていたことがよくわかるね。」
「天皇を船長とする『天皇丸』は、退却を知らない戦艦だったということなのさ。」

(2)「恩の国」は運命共同体   

「『国体護持』に関連するけど、もう一つ気になっていることがある。日川高校第3代同窓会長の名取忠彦氏の文章に、『昨日(815日)の正午までは、死ぬまで戦わなければならぬと思っていた』というのがあったよね。あれはどこまでホンネで、どこまでタテマエなのか、ずっと疑問に思っていたんだ。」
「名取発言には、『または、思わされていた』という一言が付け加えられてあるから、両方の感情が交錯していたのかもしれないね。」
「天皇が『神州の不滅を信じ…』などと開き直らずに、『朕の不徳の致すところ』と率直に詫びていたら、戦後の日本人がこれほど長期にわたって苦しむこともなかったと思うね。」
「そうなんだ。天皇がうわべだけではなく、本気で“現人神”の虚像をはぎとる努力をやるべきだったのに、天皇にはそれができなかった。だから国民は、あれほどひどい目に合わされても、『忠・孝』を見分ける目をもつことができなかったんだよ。」
「『天皇陛下にお詫びしなければならない』、敗戦時にはそんな人がいっぱいいたんだね。」

「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」(高見順日記)
 815日 警報 情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。『何事だろう』 明日、戦争終結について発表があるといったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜わるのだろうか。それとも、――或はその逆か。敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに…。『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね。』と妻がいった。私もその気持ちだった。ドタン場になってお言葉を賜わる位なら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。」(『日本の歴史2625 中央公論社1967年)

「これこそが『恩の国』に住む人間にかけられたマインド・コントロールだな。」
「個人を無化するという意味で、『君が代』・『日の丸』が果たした役割は大きいと思うよ。明治以来天皇制国家は、教育を通じて運命共同体意識を徹底して植えつけてきたんだ。敗戦という『重大発表』の時にも、ラジオから『君が代』が流れていたからね。」
「それにしても、『個人であること』の意味を教えなかった教師たちの責任は大きいね。生徒たちに『聖戦』意識を植えつけ、天皇のために死ぬことを美化する教育をやったんだから。この岩沢氏もそんな教師の一人だったんだ。」

「天皇のために身命を捧げて悔いなし」(岩沢良夫)
 「小学校からは、日本人としてのお行儀を評点した『操行』もあったし、忠君愛国の心を育てるための『修身科』などもあった。『読本(とくほん)』と呼ばれる国語の教科書の中には、軍事美談や戦争賛歌が各所に見られ、国史科や地理科では、『神国日本は神の子孫の天皇が永久に統治する』を国柄とする日本の歴史や国土の話しが中心に書かれていた。(略)こうして育てられ、人となり教師になった私は、『国のため天皇のために身命を捧げて悔いなし』を疑うことなく、そのまま教師として戦争遂行に協力する結果を招いてしまった。」(『これが戦争だった』334頁~335 山梨県教職員組合1982年)

「軍人だけに責任をかぶせる、これは戦後の責任転嫁の風潮だけど、まさに噴飯ものだね。若き兵士たちが泣いているよ。天皇を中心とする『城内平和』が日本人の理想郷であることを説いたのは、文部省や教師たち、そして両親たちではなかったかとね。“凛々しい皇軍兵士”を育てたのは一体だれだったのかということだ。」
「この本には、ほかにもいろいろ体験談が載っているよ。満蒙開拓義勇軍と呼ばれた農兵を送り出した経験のある岩沢氏は、『神国日本は神の子孫の天皇が永久に統治する国柄だ』とか、『君恩は重く身は鴻毛より軽し』と教えたとも書いている。『国のために最後まで戦います』、それが生徒たちの返答だったと言うんだよ。」

(3)敵はだれだったのか 

「昭和天皇が、『天皇を以て現御神とするのは架空の観念』と言ったのは、194611日の『年頭、国運振興の詔書』だったね。考えてみると、この天皇発言は、『天皇を現御神』とする明治時代以来の教えは“すべてウソだった”と認めていることにならないかね。」
「そこなんだよ、言い換えれば、『日本国民が他の民族に優越する』とか『日本人が世界を支配する運命にある』などの国策は“全くのデタラメ”だと、天皇自身が認めたことになるね。元来、日本人は、中国人も、アメリカ人も、ソ連人も憎んでなんかいなかった。大人が教えなければ、子どもたちは見たことも話したこともない人たちを憎むはずがない。優越感といっしょに植えつけられたのが劣等感だけど、アメリカ兵が甲府に進駐してきたとき若者たちの反応は興味深いね。米兵に対して、日本の女の子は歓声を上げて迎えたというんだ。」

「米兵来るの報に興奮した局の若い女事務員たちは、熱狂的な歓声を挙げた」(名取忠彦)
 「その直後、このアメリカ兵の一隊が、甲府郵便局の前を通過した時、米兵来るの報に興奮した局の若い女事務員たちは、一齊に二階の窓に立ちあがって熱狂的な歡声を挙げた。これに對し米兵たちも大喜びで車上から手振り身振りで応答した。この『怪しからぬ』交歡風景を見て、真に目を覆いたくなった――と、私にこの事件を告げた人は悲しげに語っていた。考えて見ればしかし、これは戦前の久しい間、アメリカ映画などに心醉した日本の女性が偶発的によみがえっただけの事で、悲しむにも足らぬ事なのだ。これから先き米軍の占領が長引くにつれて、このような事は恐らく日常化するにちがいない。」(『敗戦以後』53 3代日川高校同窓会長 1971年~1977年)


「若い子は正直だからね。これで、『鬼畜米英』が政府のプロパガンダに過ぎないことがはっきりわかるね。明治以来『富国強兵』を国策とした日本国は、世界の一等国になろうとした結果、ただ劣等感ばかりが強い国民性をつくってしまったんだ。『追いつけ追い越せ』は、明治以来使われてきた日本人が大好きな標語だからね。」
「日本人という民族は、明治以来一人舞台を演じてしてきたともいえるな。常人なら、米英ソ中など世界を相手に戦うバカはいないと考える。その異常さに気づかないのが『恩の国』の臣民だったということだな。」
「ここに石川さんの日記があるけど、書かれているのは、赤子としての義務感だけだよ。天皇の『たとえ朕の一身は如何になろうとも、これ以上民草の戦火に斃(たお)れるを見るに忍びない』という言葉を疑っている気配が全くない。」

「畏(かしこ)くも天皇陛下には敵の新型爆弾の残虐、民族滅亡の御懸念おそばされ…」(石川房蔵 1945815日)
<戦時中の日記より 815日 水曜日 晴後曇>
 「空襲警報の為、総員朝礼なし。すぐに現場に行き、又ケーブル線作業を行った。昼食を寮で食べた。12時迄に防空整備班の所へ集合し、重大発表を聞いた。天皇陛下御親(みずか)らマイクの前に立たせられ、詔書(しょうしょ)を御読みになられたのだ。遂に帝国政府は米・英・支・ソ四国の共同宣言を受諾することに決定したのだ。聖断(せいだん)の下、大東亜戦争は終局した。全く、惜しみても、惜しみても足らぬ。我らは勝利の日を目指して、只管(ひたすら)努力して来たのだ。事此処(ここ)に至ってはしかたがない。我等はあくまで国体護持(ごじ)、民族自存の為、帝国の再建をはかり生きてゆかなければならぬのだ。畏(かしこ)くも天皇陛下には敵の新型爆弾の残虐、民族滅亡を御懸念あそばされ、神州不滅(しんしゅうふめつ)、総力建設を御垂示あらせられたのである。最後の御前(ごぜん)会議において『朕(ちん)は国が焼土と化することを思えば、たとえ朕の一身は如何(いかに)になろうとも、これ以上民草(たみくさ)の戦火に斃(たお)れるを見るに忍びない』との畏くもおそれ多い有難いお言葉を承ったのである。(『知っておきたいあの戦争』19 山梨ふるさと文庫 1995年)

「これが815日の感想なんだね。」
「『我等はあくまで国体護持のため』とか『帝国の再建』と言っているから、臣民意識はまだ旺盛だ。依然として『民族自衛の為…』とか『神州不滅』などの官製用語を使われているけど、忠良なる臣民であった石川さんが『帝国の再建』を唱えるのは当然だろうね。『戦争終結の詔書』の中で、天皇自身が『神州不滅を信じ…』と述べているんだから。」
「でも、40年後の1985年の日記では、戦前・戦中の日本を見る石川さんの目はかなり否定的になっているよ。」

「ただ流されていったみじめな青春時代」(石川房蔵 1985年)
「天皇の為に死ぬ事が最高の名誉だと思わされて生きた時代、今にして思えば、暗く悲しいあの頃でした。(略) 国の一部の指導者の考えや思想に反対も出来ず、その流れにただ流されていったみじめな青春時代でした。何でも欲しい物が手に入り、誰に気がねすることもなく何でも言える時代、自由自在に行動出来る現在、こんなすばらしい今を大切に、甘えることなく多くの尊い犠牲者が残してくれた平和の時代をいつまでも続けさせたいものです。」(『同上』1719頁)

「最後の部分ではっきり、自分の青春時代は『天皇の為に死ぬ事が最高の名誉だと思わされて生きた時代』だったと言っている。また、締めくくりの言葉として、『今に甘えることなく、犠牲者が残してくれた平和の時代を大切に』と訴えている。日本人が書く『戦争体験』に共通することだけど、石川さの文章にも、天皇制というシステムに疑問を呈する視点はないようだね。」
「でもね、声にはなっていないけど石川さんの文章は、ニセモノの『現人神』が振り回すニセモノの『天皇の勅』に翻弄された私、そう訴えているようにも聞こえるんだ。『天皇を中心とする神の国』の敵は誰だったかと聞かれれば、オレはこう考えたいね。『恩の国』の敵は、『一等国を夢見た「恩の国」自身』であったとね。ライオンになることを夢見た日本猿がライオンに噛みつき、そしてコテンパンに打ちのめされた、そんな自作自演の臭いがプンプンするんだよ。」

(4)「私は全責任を負う者として…」(昭和天皇 1945927)

「昭和天皇が、『国体護持ができなければ、戦争を継続するのは勿論だ』と皇族たちの前で発言したのは1945812日だったよね。天皇がマッカーサーを訪れたのが1945927日。国民の命より『国体護持』にこだわった天皇が敵将の前でどんな第一声を発するか、日本人としてこれほど注目する瞬間はないね。」
「占領下の日本で重要なことは、1946918日、アメリカの上院本会議が昭和天皇を『戦争犯罪人として裁判に付すること』を決議していたという事実だな。この資料には、リストに天皇の名前があるとマッカーサー自身が書いている。」

「ソ連と英国の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていた」(マッカーサー)
 「連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。」(『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』200頁~201 中公文庫 2003年)

「天皇制については、アメリカ国務省ばかりでなく、アメリカの世論も33パーセントが天皇処刑を支持していたとあるね。マッカーサーの力がなければ、天皇の免罪はありえなかったということだな。」
「マッカーサーは、『ワシントンが英国の意見に見解に傾きそうになった時』とも書いているから、『天皇利用』という選択肢については、それほど自信があったわけではないとも思うな。『ポツダム宣言』には『軍国主義勢力の除去』と明記されているにもかかわらず、天皇だけを免罪にするという芸当をやろうとしたんだからね。でもここには、アメリカ政府の中にさえ天皇処刑の声はあったと書いてある。」

「みんなヒロヒトの処刑を望んでいた」(フォビアン・バワーズ)
 「当時マッカーサーの軍事秘書補佐を務めていたフォビアン・バワーズは、当時をこう振り返る。『国務省からマッカーサーへの圧力は非常に大きかったのです。ディーン・アチソンや、オーエン・ラティモア(中国問題の専門家)など、みんな天皇の処刑を望んでいました。ヒトラーとムッソリーニが死に、残っているのはヒロヒトだけでした。彼らのスローガンは『HH(エイチエイチ)-Hang Hirohito(裕仁を絞首刑にしろ)』でした。しかし最高司令官マッカーサーは、天皇との初会談を終えたあとも、この問題について沈黙を保っていた。フェラーズの晩年の証言によれば、マッカーサーは、天皇の権威を利用すれば、日本国民は自分の指令通りに動き、占領行政はスムーズにいくと当初から考えていた。」(『昭和天皇 二つの「独白録」』33 NHK出版 1998年)

「イラクのフセイン大統領やリビアのカダフィ大佐の最後を見てもわかるけど、アメリカはこれらの独裁者たちを救わなかったし、彼らもアメリカに救われるとは思っていなかった。アメリカはフセインやカダフィを免責して戦後復興に役立てる、そんな戦術は持っていなかったということだな。」
「フセインやカダフィ大佐は神様ではなかったからね。彼らが国民から『現人神』と崇められ、国民が『玉砕』も辞さないほどの『囚われの民』であることがわかったら、これらの独裁者の運命は違ったものになっていたかもしれないよ。つまり、『日本方式』を使う必要があったかもしれないということさ。その意味でも、『天皇免責』という戦後処理がいかに特異なケースだったかがわかるね。」

「天皇が戦争犯罪者として起訴され、絞首刑に処せられることにでもなれば…」(マッカーサー)
 
「ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政をしかなければならなくなり、ゲリラ戦がはじまることは、まず間違いないと私はみていた。」(『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』202頁~203頁)

「日本人が『囚われの民』であるとする見解は理解ができるけど、『天皇が絞首刑になればゲリラ戦が始まる』というマッカーサーの分析に疑問を感じないかい。オレは、天皇を失った日本人が『ゲリラ戦』を始めるとはとても思えないんだ。日本人は伝統的に『損得の計算』にたけ、『長いものには巻かれろ』の生き方を身につけてきた民衆だからね、『ナルヨウニシカナラン』と言って無抵抗のまま敵将の命令に従ったと思うんだよ。」
「そうだね、マッカーサーは『武士道』のイメージをもつ日本人を買いかぶっていたかもね。『武士道』とは無関係の圧倒的多数の貧しき民衆は、敵将を新たな指導者とみなして動き出した可能性は十分あると思うな。『諸君に農地を解放する』と言った『マッカーサー元帥』への農民たちの報恩感情は相当のものだったというからね。ゲリラ戦はやはり考えすぎだろう。」
「こうも考えられるよ。あの戦争が自由や平等を守る正義の戦争であり、戦前・戦中の日本人が自由と民主主義を理解できる国民であったなら、国民は義勇軍を組織し天皇を守ってゲリラ戦に突入したかもしれない。ところが、事情は逆だった。世界の国々から『ならず者国家』とみなされていたのはわが日本だったからね。義勇軍など期待できないフセインやカダフィ大佐が“穴”の中で孤独な死を迎えたように、天皇自身も孤独な最期だったかもしれないね。」

「天皇は、処刑されてもしかたがないと考えている」(フェラーズ)
 1945(昭和20)年927日午前10時過ぎ、天皇は初めて、赤坂にあるアメリカ大使公邸にマッカーサーを訪ねた。このとき天皇を玄関まで出迎えたのが、軍事秘書のボナー・フェラーズである。(略)『フェラーズ文書』の中に、この日の会見にまつわる興味深い資料が残されていた。ワシントンにいる家族にあててフェラーズが書いた手紙である。そこには、会見直後のマッカーサーの言動が次のように記録されていたのである。(略)『天皇は英語がわかり、私の言ったことはすべて直ちに理解した』 私(フラーズ)は言った。『天皇は、あなたから処罰を受けるのではないかと恐れているのですよ』マッカーサーは答えた。『そうだな。彼はその覚悟ができている。処刑されてもしかたがないと考えている』」(〔フェラーズ文書/家族あての手紙 1945927日付〕『昭和天皇二つの「独白録」』27頁~28頁)

「マッカーサーは、天皇との初会談の席で天皇が命乞いでもするのではないかと思っていたようだね。でも、マッカーサーの腹はすでに『天皇利用』で決まっていたというわけだ。『昭和天皇二つの「独白録」』(32頁)には、天皇制は支持はしないが利用するという占領方針は、『マッカーサーが来日する前に決まっていた』と書かれている。」
「『天皇制は支持はしないが利用する』という対日戦略には、『45歳の大人』が『12歳の少年』を手玉に取る老練さを感じるね。」

(5)「日本人は12歳の少年」(マッカーサー)

「マッカーサーに対し天皇は、『私は全責任を負う』と述べたという。これは本当なのかね。この天皇発言について、君は『対外的なメッセージだ』という言い方をしたけど、具体的に言うと?」
「国内的には、天皇は『無答責』で責任は『輔弼』する臣下がとるタテマエだよね。国内的にはそれで通るけど、国際的には通らない話だ。国際的に『天皇無答責』を主張すれば、日本という国は近代国家の体をなしていないと天皇自らが認めることになる。これは天皇を占領統治に利用しようとするアメリカにとっても好ましいことではないはずだよ。天皇の戦争責任を認めなければアメリカの対外関係にも影響するだろうし、逆に責任を認めれば天皇有罪という場合、手は一つしかない。天皇は軍部の圧力によって意に反する開戦命令を出すことを余儀なくされたというストーリーをつくることだ。」
「マッカーサーが果たした役割の中で重要なのは、『無力な天皇』ではあるが『道徳的な天皇』であるとするイメージを作りあげたことだね。マッカーサーは『個人の資格においても日本の最上の紳士である』と天皇を最大限に持ち上げたけど、このマッカーサーの演出はアメリカの利益のために行なわれたということだね。そうなると、昭和天皇が言ったという『私は全責任を負う者』という発言も素直に受け取れなくなるな。」

「私は、国民の決定と行動に対する全責任を負う者である」(昭和天皇)
 「天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。」(『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』202頁~203頁)

「なるほどね。でもこれは、マッカーサーが書いた他の記述とはあまりにかけ離れた天皇観だね。矛盾を承知で日本の改革に着手したんだな。」
「マッカーサーの心にある日本のイメージは、『奴隷の国』、『神話的な狂気じみた信念』、『封建社会』だよ。このような国を民主主義国に変身させようというのだからね。そのためにも天皇は、『日本の最上の紳士』でなければならなかったわけだ。」

「日本は20世紀文明の国とはいうものの、封建社会に近いものであった」(マッカーサー)
 「日本占領に当ってわれわれは、1945年夏の終戦時には想像もしなかったほど大きい問題にぶつかった。日本は20世紀文明の国とはいうものの、実態は西欧諸国がすでに4世紀も前に脱ぎすてた封建社会に近いものであった。日本人の生活のある面は、それよりもっと古風なものだった。神人融合の政治形態は西欧社会では3000年の進歩の間にすっかり信用されなくなったものだが、日本ではまだそれが存在していた。天皇は神とみなされ、一般の国民はまともに天皇を見つめることすらはばかっていた。この神人一体の天皇は絶対君主であって、その言は動かすべからざるものとされた。」(『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』187頁)

「最近テレビで金正恩の姿をみる機会が多いけど、北朝鮮の若き指導者を崇める国民を見て、『北朝鮮は普通の国ではない』と思う日本人は多いだろう。でもあの姿は、オレたちが生まれる前までの日本の姿だったということを忘れてはいけないね。」
「『普通の国ではない日本』、マッカーサー語録から引用すれば『日本人12歳発言』だな。」
「マッカーサーにしてみれば、天皇はこの時点で『利用できるただ一人』の人質なんだ。マッカーサーは、『天皇は日本の最上の紳士』と賛辞する一方で、本心では『日本人は12歳の少年』と考えていたんだからね。」

「日本人は12歳の少年」(マッカーサー)
 「マッカーサーは、日本人の資質の素晴らしさや日本人が遂行した『偉大なる社会革命』についてだけでなく、第二次世界大戦での日本人兵士の最高の戦闘精神についても、高く称賛した。マッカーサーがこういう発言をした意図は、日本人はドイツ人よりも信用できると主張することにあった。日本人は占領軍の下で得た自由を今後も擁護していくのだろうか。日本人はその点で信用できるかと聞かれて、マッカーサーはこう答えた。『そうですね、ドイツの問題は、完全かつ全面的に日本の問題とは違っています。ドイツ人は成熟した人種a mature raceでした。もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか宗教とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところlike a boy of twelveでしょう。』」(『敗北を抱きしめて〔下〕』405頁~406 ジョン・ダワー 岩波書店 2001年)

「『文明の尺度で言えば日本人は12歳』、この比喩は正鵠を得ていると思うかね。マッカーサーは触れていないけど、日本人が12歳に見えたのは、天皇の命令に反論できない『恩の国』というシステムのせいだと思うね。かつての日本にも現在の北朝鮮にも、理性的な人たちはいっぱいいるはずなのに、システムが悪いと国民全体が『12歳の少年』に映ってしまうということだね。」
「そうだと思うよ。現在の北朝鮮と当時の日本の似ているところは、個人崇拝と世襲という国のシステムだ。明治以来、皇室を中心とするこのシステムが軍人や財界の利害と結びつき、天皇を頂点とする『恩の国』をつくり上げた。これは国家的なマインド・コントロール体制ともいえるし、あるいは一種の愚民政策と言ってもいいかもしれない。」

(6)「私は全責任を負う」云々の謎 

「昭和天皇の、『私は全責任を負う』発言にもう少しこだわっていいかい。天皇はほんとうに『国民の戦争責任はすべて私の責任』と言ったのかどうか、これを疑問視する声もあるようだね。」
「通訳をつとめた奥村勝蔵の会見記録には、天皇が『私が責任を負うと言ったという記述はない』、と書いてある。」

「奥村勝蔵の会見録には、『私が責任を負う』云々の記述は全くない」(藤原彰・吉田裕・伊藤 悟・功刀俊洋)
 「(マッカ―サーとの会見の際の天皇発言、)この発言にはいくつか問題がある。まずこの会見で通訳をつとめた奥村勝蔵の会見録(『文藝春秋』197512月号)には、『私が責任を負う』云々の記述は全くない。現場に直接立ち会った奥村がこの発言を記憶していないということは考えられず、本当にそうした発言があったのかということ自体が問題なのである。もうひとつ重要なことは、仮に天皇の発言が事実だとしても、それが天皇の本心なのかということである。言い換えればこの時期天皇が自らの戦争責任を自覚し、責任をとる気でいたかどうか疑わしいということである。同じ時期の他の場所での天皇の発言などをみるとそうした疑いを抱かざるをえない。」(『天皇の昭和史』112 新日本新書1984年)

「『疑わしい』と言っているのは学者たちだね。こっちの資料では『天皇は(国内的には)自らの戦争責任を認めなかった』という言い方をしているけど、どうなのかね。」
「これは十分に理解できることだよ。国内的には『無答責』、対外的には『答責』、つまり『国内向け』と『対外向け』の二面作戦だ。天皇はこれを使い分けていることがわかるよ。」

「天皇は、(国内的には) 自らの戦争責任を認めることは決してなかった」
 (天皇)退位論の背景にあったのは、天皇が自らの責任を認めるなり国民に詫びることを唯の一回もやっていないことに対する国民の割り切れない感情であった。たとえば19485月に三淵忠彦最高裁長官は、『終戦時、天皇が自らをお責めになる詔勅を出されたら、国民はどんなにか感激しただろう』とのべたのであった。(略)しかし天皇はこうした国民の声に一切耳を傾けず、自らの戦争責任を認めることは決してなかったのである。」(『天皇の昭和史』138頁~139 新日本新書1984年)

「天皇が『無答責』を意識しているならば、国内的には天皇が責任を認めるはずがないよね。『天皇は国民の声に一切耳を傾けず、自らの戦争責任を認めることは決してなかった』という指摘は、当然ということになる。」
「マッカーサーとの会談で天皇は、戦時中の大元帥の役割をそのまま引き継いで、日本側代表として発言しているんだよ。これからの若い世代が政府に要求しなければならないことは、天皇・マッカーサー会談の『第一次資料』の公開だな。実はこれが最大の難関だ。昭和天皇のどんな爆弾発言が飛び出てくるかわからないからね。」

「公開されていない『一次資料』」(粟屋憲太郎)
 1945927日の昭和天皇とマッカーサーの会見。この会見の一つの焦点は、昭和天皇の戦争責任である。しかし、会談で、昭和天皇が戦争責任についてどのような発言をしたのかは、アメリカ側からも、日本側からも、会見の一次資料が公開されていないので、はっきりとはわからない。しかも、最近、京都大学助教授の豊下楢彦氏が指摘されているように、会見における天皇の発言は、その後政治的な情報操作が行なわれ、そのため、真実が何かをいまだに探り得ない状況が続いている。」(『東京裁判への道』39 NHK出版 1994年)

「『天皇の昭和史』(111頁)によると、天皇・マッカーサー会談を計画したのは吉田茂外相と宮内省のようだね。日本側からの働きかけということになる。何年後かわからないけど日本人の名誉のために、ぜひとも公開してもらいたいものだね。さもなければ、未来永劫にわたって日本は歴史の偽証を黙認する国の烙印を押されることになる。次世代のために、これだけは避けねばならんね。」
「国民の間から広範な異議申し立てが起こり、公開要求運動につながれば、少なくともアメリカ政府の方は動く可能性はあると思うな。天皇・マッカーサー会談の『一次資料』の公開は、日本の民主化の原点を確認する作業になるはずだよ。」

(7)「日本人は精神革命が必要だ」(マッカーサー)  

「日本人にとってマッカーサーといえば、まず『大恩人』という言葉を思い浮かべるけど、その『大恩人』は、『日本人は精神革命が必要だ』と言っている。マッカーサーが求める精神革命とは何かについて、もう少し検証してみたいね。」
「マッカーサーの日本人観でまず気づくことは、彼は日本をはっきり非民主的な国だと見ていたということだよ。マッカーサーは、『至上の権力をもつ天皇』とか『世襲の独裁制』と明言しているからね。この資料は、『天皇の権力は、軍部、政府機構、財界を支配する少数の家族によって支えられ…』という言い方をしている。」

「日本の政治は、至上の権力をもつ天皇に発する独裁制それも世襲の独裁制である」(マッカーサー) 「天皇の権力は、軍部、政府機構、財界を支配する少数の家族によって支えられ、民権はむろんのこと、人間として権利すら認められていなかった。支配層は一般国民の財産や生産品の全部あるいは一部を思いのままに取り上げることができ、一般国民は国策に反する思想は私的にもつことも許されない状態にあった。1937年から1940年の間に、『危険思想』のかどで秘密警察によって投獄された国民の数は6万人を越えている。まことにアメリカ人から見れば、日本は近代国家というよりは古代スパルタに近い存在であった。」(『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』188頁)

「『日本は近代国家というより古代スパルタに近い存在』というのは、よく理解できるよ。日本の旧制中学では『スパルタ教育』が当たり前だったからね。」
「注意したいことは、マッカーサーは日本を西洋の近代国家とは全く異質の国だと位置づけ、日本人の精神の変革や政治的構造の変化は一朝一夕にはできない、長い時間が必要だと考えていたことだよ。『支配・被支配』や『警察国家』という言葉は、『神の国・日本』の本質を言い当てていると思うよ。」
「ここには、『第二次大戦中、この何千万という国民は勝っている話しか聞かされなかった』とあるけど、これは戦後ウソの代名詞となった『大本営発表』のことだな。」

「日本人は、伝統と伝説と神話と銃剣の完全な奴隷」(マッカーサー)
 「国民の中のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが支配の座にすわり、他の何千万という国民は進んだ意識をもつ者のわずかの例を除いて、伝統と伝説と神話と銃剣の完全な奴隷となった。二次大戦中、この何千万という国民は勝っている話しか聞かされなかった。」(『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』257頁)

「マッカーサーは、『伝統と伝説と神話と銃剣の完全な奴隷』である日本人を文明化するのは自分の使命であると考えていたんだろうね。同時に、占領期間という時間的制約に焦りを感じていたのかもしれない。」
「占領期間は当然意識していただろうけど、『日本人の精神革命は一夜のうちに行われた』と言い切るあたりは自画自賛というか、あせりのようなものを感じてしまうね。」

「日本人の精神革命は、二千年の歴史と伝統の上に築かれた生活の論理と慣習を、一夜のうちにぶち抜いた」(マッカーサー)
 「そこへ突然襲ってきたのが、全面的な敗北という痛烈なショックだった。彼らの世界は根こそぎくずれてしまった。それは単に軍事力がつぶされたことだけではない。それで一つの信仰が崩壊し、日本人が信じて、それによって生き、そのために戦った、一切のものが消滅したのである。(略)続いて起こった日本人の精神革命は、二千年の歴史と伝統と伝説の上に築かれた生活の論理と慣習を、ほとんど一夜のうちにぶち砕いた。封建的な支配者と軍人階級へ向けていた偶像的な崇拝の情は憎しみとさげすみに変り、自分の敵に対して抱いていた憎しみとさげすみはやがて敬意の念へ変っていった。」((『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』257頁~258頁)

「マッカーサーの変革の熱意を感じる一方で、『敵に対して抱いていた憎しみとさげすみはやがて敬意の念へ変っていった』というのは、『恩の国』のねじれた国民感情を軽く見すぎてはいないかね。マッカーサーへの『敬意の念』も額面通りに受け止めるべきではないと思うよ。」
「『二千年の歴史と伝統と伝説の上に築かれた生活の論理と慣習』が『一夜のうちに変化した』、こう考えるのは、マッカーサーの希望的観測だろう。封建的な『恩の国』の精神革命が一朝一夕にできるはずがない。その意味で、『マッカーサー神社』建立構想は、マッカーサーに対する日本人の心理を読み解くうえで検討に値すると思うね。」

(8)「マッカーサー神社」が意図するもの

「これは2002年の『正論』に載った文章だけど、題は『偉大なるマッカーサー」という神話に終止符を』、副題は『“感謝決議”までした恩人は、フィリピン戦線で何をしたのか』となっている。ここでは『マッカーサー神話の呪縛から、もういいかげん解き放たれもいい』と説かれているんだ。」
「筆者の牧野弘道氏は、産経新聞の編集委員を歴任した人とあるね。」

「『偉大なるマッカーサー』という神話に終止符を」(牧野弘道)
 「昭和263月、マッカーサーが『中国本土攻撃も辞さず』と声明を出すに至って、トルーマンは411日ついに彼を罷免した。一方で日本をアジアの防共の砦とするために対日平和条約の締結を急ぐ。マッカーサー離日の416日、日本の衆参両院は彼に対する感謝決議案を可決した。恩に報いたということだろうが、羽田までの沿道に見送りの都民約20万人が群れたことといい、いま思うとあまりにも日本人のお人よしが過ぎる気がする。マッカーサー神話の呪縛から、もういいかげん解き放たれていい。」(『正論』9月号109 産経新聞社2002年)

「日本人に対して『もういいかげん解き放たれもいい』と訴えるのは、マッカーサーに盲従する日本人を叱咤しているようにも聞こえるね。まるで、『日本人よ、目覚めなさい』と背後からせき立てているようだ。牧野氏は、衆参両院で『感謝決議案を可決』と書いているけど、この案はいつ誰が言い出したのかね。」
「まず、『感謝決議を計画した人々』の面々を見てみようよ。ここに、『マッカーサー神社を建立しようとの動き』という資料がある。」

「マッカーサー神社を建立しようとの動き」(十川昌久)
  「マ元帥解任後に『マッカーサー神社』を建立しようとした史実はほぼ忘れ去られている。1951415、天皇、アメリカ大使館にマ元帥を訪問。11回目となる。415、都議会、臨時会議を開催し、感謝決議文を決議する。416、羽田までの沿道に都民20数万人が見送った。国会は感謝決議をし、政府は名誉国民の称号を用意した。並行して、マッカーサー神社を建立しようとの動きがあり、建立の発起人として、秩父宮両殿下、田中耕太郎(最高裁長官)、金森徳次郎(国立図書館長)、野村吉三郎(開戦時駐米大使・大映社長)、本田親男(毎日新聞社長)、長谷部忠(朝日新聞社長)などが名を連ねた。しかし、マ元帥が米議会で、『かりに科学、宗教・文化の点でわれわれを45才とすると、ドイツも同様に成熟しており、ナチスの犯罪は故意である。日本人は、歴史は古いが、現代文明の基準で言えば、12才の少年だろう。…なお柔軟で、新しい考え方を受け入れられる。」と演説を行い、ポシャル。そして、ウヤムヤになった。」(『私の主張』ネット情報)

「『政府は名誉国民の称号を用意し…』とあるね。マッカーサーを『名誉国民』にという発想は、『恩の国』の人間が考えそうなことだな。それにしても、発起人の顔ぶれがすごい。皇室からは秩父宮、その他、法曹界、政界、ジャーナリズムを含む各界からの著名人が並んでいる。」
「『恩の国』の視点から見る場合、『マッカーサー神社』を建立して恩に応えようというのは十分に理解できるよ。もしあの『日本人は12才の少年』発言さえなければ、東京都の最も目立つ場所に『マッカーサー神社』は建てられただろうね。」

「マッカーサー元帥に対する感謝決議」(日経連 1951412
 「われら崇敬と親愛措く能わざるマッカーサー元帥が今般突如として連合国最高司令官の任を退かれたことは、われら経営者にとって誠に感慨無量なるものがある。マッカーサー元帥には連合国最高司令官として終戦以来過去五年有半に亘り敗戦国日本人に対し常に慈愛にみちた好意的援助の手をさし延べらたばかりでなく、個人の自由と尊厳について断乎たる信念を教え、これに基く国主主義(ママ)の真髄による各般の改革を着々と断行せられ、われら経営者またその指導によりこれを経営の新しき理念として心に銘じつつ日本経済の再建に献身することを得たのである。」(『日本労働年鑑 25集』法政大学大原社会問題研究所 ネット情報)

「この資料を読むと、なぜ『感謝決議なのか』については大きくは二つ理由が書かれている。一つは、『敗戦国日本人に対し常に慈愛にみちた好意的援助の手を差し延べられたこと』、二つ目は、『個人の自由と尊厳について教えてくれたこと』とある。」
「しかし、『感謝決議』とはあるものの、肝心の『天皇免責』については全く言及していないね。圧倒的な数の貧農たちにとって重要なのは、『天皇免責』より農地解放だったのではないか。マッカーサーを『大恩人』だと思う民衆は多かったと思うけど、支配階級の多くはマッカーサーの民主化政策を苦々しく思っていた人たちが多かったと思うね。」
「そのあたりについては、マッカーサー自身も心配していたようだ。」

「押しつけた変革は、私がいる間しか続かない」(マッカーサー)
 「そんな形で押しつけた変革は、私がいる間しか続かず、私が日本を去ったとたんに消えてしまうに違いない。こういった事柄は日本人自身の発意で、日本人自身がほんとうにそれを求めて実行すべきものなのだ。私が提案した変革の幾つかは、日本人の性格の根本にふれるものであった。これまでのしきたりや、神話や、従来の政策立案の制度を永久に打破するためには、日本人になぜ新しい制度、現実に即した考え方、新しいやり方が望ましいかを理解してもらわねばならなかった。」(『マッカーサー大戦回顧録〔下〕』220頁)

「こう見てくると、牧野弘道氏には、ぜひともマッカーサーと『天皇免責』の関係についての感想を聞きたくなるね。牧野氏の言説については、一つ指摘したい部分があるんだ。牧野氏は日本国憲法9条について一章を設け、『気まぐれにすぎない戦争放棄論』と書いている。場面は、マッカーサーが53日から上院の軍事・外交合同委員会に呼ばれて質問攻めにあうときの話だよ。」

9条が幣原喜重郎の提案で入れたものか、真相は不明」(牧野弘道)
 「その(上院の軍事・外交合同委員会)中で元帥は、『日本の第9条の戦争放棄の一項は、時の首相幣原喜重郎の提案で入れたものである(略)』という趣旨の発言をした。幣原首相自身はこの発言については何も語らず、間もなく亡くなったので真相は不明だが、あって不思議ない話である。(略)それなのに新憲法が占領軍が一週間でつくったお仕着せ憲法であることを知りながら相変わらず『平和憲法を守れ』と叫ぶ勢力がある。血まみれの過去をもつ将軍の気まぐれ発言から生まれた『戦争放棄』の条項にいつまでもしがみつく愚を知るべきである。(『正論』9月号 117頁~118 産経新聞社2002年)

「ここでは、『第9条の戦争放棄』と『幣原首相の提案』との関係について不明と書いてあるけど、実は真相は明らかになっているんだよ。幣原首相に提案したのが白鳥敏夫元外交官であったことは、朝日新聞が詳しく報じたとおりだね。この件については改めて、『(19)天皇条項と「戦争放棄」』の項で検討することにしよう。」

(9)  昭和天皇の臣民観 

「最初のマッカーサー・天皇会談は927日。その席でマッカーサーは、『天皇は日本国の最大のジェントルマン』だとの感想を持ったというけど、その『日本国の最大のジェントルマン』は臣民をどう見ていたか、これも興味ある視点だね。臣民たちも自分のように“ジェントルマン”に育ってほしいと願っていたのか、それとも『封建社会』に生きる農奴的身分のままにしておきたかったのか、そのあたりだな、ポイントは。」
「それは、ぜひとも知りたいね。占領下の天皇はマッカーサーの代弁者に変身しているから、本心はわからなくなっている。オレが見るところ、天皇が臣民を見る目の色は、『民主化』を命じるマッカーサーの目の色と同じだ。神と崇めた天皇から『教養の低い日本人』と言われても疑問を感じない民衆…、これでは『囚われた民衆』といわれても仕方がない。」

「日本人の教養未だ低く…」(昭和天皇)
 「日本人の教養未だ低く、且宗教心の足らない現在、米国に行われる『ストライキ』を見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思う様な者もすくなからず」(「19461016日、天皇・マッカーサー会見〔第3回〕における天皇発言」(『安保条約の成立』144 豊下楢彦 岩波新書 1996年)

「日本の安全保障を図る為には、米国が其のイニシアチブを執ることを要する」(昭和天皇)
  「日本の安全保障を図る為には、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアチブを執ることを要するのでありまして、此の為元帥の御支援を期待して居ります」(「194756日、天皇・マッカーサー会見(第4回)における天皇発言」(『同上』144頁)

「ここで天皇は、『日本の安全保障を図る為には、米国のイニシアチブが必要』だと言っている。日本の政治の根幹に関わる問題を天皇が直接マッカーサーに訴えているというところは、まさに『大元帥』そのものだね。」
「同じことは、こっちの資料でも言えると思うよ。『沖縄の占領を望む』という天皇発言は、戦前の天皇の政治権力が戦後も続いていることを示していると思うよ。」
 
「沖縄の占領を望む」(昭和天皇)

 「マッカーサーとの第4回会談で天皇は日本の安全保障への懸念、すなわち憲法の前文及び第9条への不信感を表明していたが、19479月に寺崎はシーボルトGHQ外交局長を訪ね、次のような天皇の意向を伝えた。『天皇は、アメリカが沖縄を含む琉球の他の島々を軍事占領しつづけることを希望している。天皇の意見によると、その占領はアメリカの利益になるし、日本を守ることになる』、さらに占領の形態としては。『日本に主権を残す形で25年から50年あるいはそれ以上にわたる長期の貸与と』し、『この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させるだろう。』」(『天皇の昭和史』135頁~136 新日本新書 1984年)

「これらの天皇語録でわかることは、マッカーサーに対してはこれほど明瞭な日本人論を展開できる天皇が、臣民に対しては曖昧な“天皇語”を駆使しているという事実だね。」
「天皇の使う言語は実に恣意的で、神がかりの特殊な言語空間をもっていると思うんだ。短歌に代表される“天皇語”というのは無答責の言語だから、何を言ってもOKだ。時には開戦の命令であったり、時には、国民を暗示にかけるための“呪文”であったりするんだよ。」

10)「開戦の大命降下をお待ちしております」(永野総長・島田海相)

「『昭和天皇独白録』で天皇は、『開戦に反対したらクーデターが起こっただろう』とマッカーサーに語ったというけど、あの発言についての感想は?」
「あれも風見鶏的発言だね。天皇は、『戦った方が良いという考えが決定的になったのは自然の勢いと云わねばならぬ』とも言っているからね。クーデター云々以前に、天皇自身が戦争への方向に向かう動きを肯定的に見ていたことを忘れてはならんよ。」

「戦った方が良いといふ考えが決定的になったのは自然の勢と云わねばならぬ」(昭和天皇)
 「総理になった東条は、96日の御前会議の決定を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であった。() 実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いといふ考が決定的になったのは自然の勢と云わねばならぬ、若しあの時、私が主戦論を抑へたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈すると云ふので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであらう。実に難しい時であった。その内にハルの所謂最后通牒が来たので、外交的にも最后の段階に立至った訳である。」(『昭和天皇独白録』84頁~85 文春文庫1995年)

「最も不可思議に思うのは、石油の輸入国と戦争を始めることの是非だよ。これも“自然の勢”なのかね。」
「開戦時の米軍による石油輸入停止措置について、こんな資料がある。『日本を敗北に追いやったのは誰か』というタイトルで、『撃墜王』と呼ばれた坂井三郎氏がインタビューに応じているんだ。」

「ちゃんとした勝算なんかなにもなかった」(坂井三郎・撃墜王)
 「私は正直のところ、アメリカやイギリスとやって勝てるんだろうかと思いましたね。資源やエネルギーをアメリカから輸入していることは知っていましたから、そんな相手と戦争を始めてもいいんだろうかということです。しかし、下士官の自分がいろいろ考えても仕方がない。まあ、やると言うんだから上の方の人には勝算があるんだろう。それだけが頼りでした。ところが実際には、ちゃんとした勝算なんかなにもなかった。なにがあったかというと、最後の頼りは下士官・兵の勇猛心。体当たりでいけばなんとかなるだろうというわけで、上と下とでお互いに頼りあっていたんですね。」(『地獄の戦場 飢餓戦』24頁~25 人物往来社 1993年)

「『最後の頼りは下士官・兵の勇猛心』…。冷徹な思考が求められる大元帥を含む指導者たちにはそれがなかった。精神主義がはびこり、互いに頼り合い、あげくの果てに、軍人たちは戦地でさえ酒色に明け暮れる日々だ。これで近代戦に勝てるはずはないさ。」
「ここに天皇と国民の間の距離感を示す資料があるけど、天皇は『国民は私のことが非常に好きである』と書いているね。天皇は国民の心を完全に手玉にとっている。天皇にとってこれほど御しやすい国民はいないだろう。」

「戦争に反対したら、国民は私の首をちょんぎってたでしょう」(昭和天皇 1945927日)
 「戦後の昭和20927日、天皇がはじめてマッカーサー元帥と会見したとき、次のような会話がかわされたと、ガンサーは記しているのである。『天皇は今度の戦争に遺憾の意を表し、自分は「これを防止したいと思っていた」といった。するとマッカーサーは相手の顔をじっと見つめながら、「もしそれが本当とするならば、なぜその希望を実行に移すことができなかったか」とたずねた。裕仁の答えは大体次のようなものだった。「わたしの国民はわたしが非常に好きである。わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押し込めておいたにちがいない。また、国民がわたしを愛していなかったらば、彼等は簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう』と」(「ガンサーの記述」『昭和天皇独白録』85 文春文庫1995年)

「天皇は開戦責任を国民のせいにしているんだな。『戦争を防止したいと思っていた』天皇が、それができなかった理由をマッカーサーから聞かれ、『国民は天皇を好きだから、戦争に反対すると精神病院に押し込めるだろう』と答えたというんだ。この発言は英語やったのか、それとも日本語でやったのかはわからないけど、『彼等は簡単に私の首をちょんぎったでしょう』という発言は粗雑な感じを与えるね。『ちょんぎる』という日本語は、実に生々しいよ。」
「天皇との会見で、マッカーサーは日本人をどう扱うべきかについて確信を得たと思うね。西欧的な論理性は日本人には通用しないとね。天皇制はそのまま残し、天皇自身をマッカーサーのパペットとして動かすことがベストだと…。“天皇語”について言えば、もうひとつ重要なことがある。121日の御前会議で、天皇は『無言のまま開戦を決定した』という記述だよ。」

「反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった」(昭和天皇)
 「統帥部の豫想は五分五分の無勝負か、うまく行っても、六分四分で辛うじて勝てるといふ所ださうである。私は敗けはせぬかと思ふと述べた。宮(高松宮)は、それなら今止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きな『クーデター』が起り、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかった。121日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった。」(『昭和天皇独白録』89頁~90頁)

121日の御前会議で天皇は『一言も云はなかった』とあるけど、御前会議の決定事項と天皇の承認はどう関係するのかね。」
「天皇が『一言も云はなかった』、『無言のままだった』という場合、天皇に異論がないものと臣下たちは受け取るのがふつうだろう。この点については、『天皇の大命降下をお待ちする』という開戦時の永野総長と島田海相の記述は注目に値すると思うね。島田繁太郎海相の記録によると、『決意を固めるために海軍の首脳二人をよんだのは天皇だった』と書いているんだ。」

「大命降下をお待ちしております」(永野総長・島田海相)
 「しかし、高松宮との対話のあと、天皇は最後の決意を固めるためか、わざわざ海軍の首脳二人をよんでいる。(略)天皇の憂慮にたいする二人の首脳の返答はこうである。
 永野総長 『計画は万全であります。くわしくは明日の御前会議で奏上いたしますが、大命降下あれば、予定どおり進撃いたします。』
 嶋田海相『物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております』
 さらに天皇は問うた。『ドイツがヨーロッパで戦争をやめるようなことがあったとき、どうするつもりか』 嶋田海相は答えた。『ドイツは真から頼りになる国と思っておりませんぬ。たとえドイツが手を引きましても、まったく関係はありません』この力強い応答をうけて、天皇は翌121日の御前会議で『無言』のまま開戦を決定したのである。」(『昭和天皇独白録』90頁~91頁)

「『憂慮する』天皇によばれた永野と島田は、『くわしくは明日の御前会議で奏上する』と答えている。そして、121日の御前会議で二人が勝利を確信する旨を伝えると、天皇は『無言のまま開戦を決定した』とある。黙認したともとれる内容だ。『大命降下を待っていた』のは永野総長や島田海相だ。そのまま『開戦』が決定したということは、二人を含む臣下たちが『無言のまま』の天皇から『開戦のサイン』を読み取ったということになる。」
「この経緯をみると、『反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった』という『昭和天皇独白録』の記述は、事実と違うことがわかるね。何とか『免罪』を勝ち取ろうする天皇の胸の内が透けて見えるようだ。」


  2 昭和天皇免責への道

11)「一億玉砕」から「一億総懺悔」へ

「討論の後半は、『昭和天皇免責への道』がテーマだね。まず『一億総懺悔』あたりから話してみようよ。この国のお家芸に『一億総動員』・『一億玉砕』・『一億総懺悔』などのスローガンがあるけど、これは『恩の国』独特の国民操縦術だね。少なくとも議会をもつ近代国家にはめずらしい現象だ。日本人は集団主義民族とよく言われるけど、マインド・コントロールにかかっている国民は、外部から見るとまるでメダカやハチの群に見えるんだな。」
「『一億総懺悔』で興味深いのは、東久邇首相が『今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め…』と書いた部分だよ。『一億総懺悔』とは、右翼の頭山秀三あたりの発想のようだ。事実、『現代日本の思想』(189)には、『最後には最も頑強なはずの頭山秀三がさきだって一億総懺悔をとく』と書いてあるからね。戦後初の東久邇首相がそれを引き継いだということだろう。」

我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め…」(東久邇宮 95日)
 「敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ。前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります。」(「国会施政方針演説」『東久邇稔彦王』ウィキペディア)

「東久邇宮は、国民は誰に対して謝罪しろと言っているのか、まずそのあたりを確認したいね。それに、『一億総懺悔』を行う主体には、天皇は含まれていないというところが重要だな。東久邇宮が言う『神の御前』とは、『現人神の御前』とも読める。『神の御前に一切の邪心を洗い清め…』と言っているから、国民全体が昭和天皇に対して敗戦責任をお詫びするという構図が見て取れるね。」
「忘れてはならんことは、国民に『一億総懺悔』の要求をする一方で、内務省情報局が敗戦直前に、『戦争責任の追及はしてはならぬ』と命じる通達を出したことだよ。」

「終戦後も、開戦及び、戦争責任の追及などは許さない」(内務省情報局)
 
「このいわゆる『一億総懺悔論』が東久邇宮首相の主要な政治理念とみなされた。すでに敗戦直前の時期に旧内務省情報局から、各マスコミに対して『終戦後も、開戦及び、戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない』との通達がなされ、敗戦決定後、進駐軍の戦争責任追及の証拠とて押収されるのを防ぐため、関係書類の焼却が横行していた。」(『東久邇宮稔彦王』ウィキぺディア)

「臣民にしてみれば、『万分の一の恩返し』ができなかったという気持ちは強く残っただろうね。責任は天皇にはなく、国民にあると考える人たちがいても不思議はないよ。『一億総懺悔』の正体について、丸山真男氏は、『緊急の場合に直面した支配層の放ったイカの墨』(『戦中と戦後の間』597頁)に例えている。これは『一億総動員』・『一億玉砕』・『一億総懺悔』のすべてについて言えるだろう。」
「ジャーナリズムも政府の路線に迎合しているからね。『天皇は犠牲者なり』と書いたのは読売新聞194665)だけど、そのあたりは東洋経済新報社社長を務めた石橋湛山も、『国民全体の責任』という言葉を使っている。石橋に対しては逆に、ジャーナリズムの責任について聞きたいね。」

「この戦争は国民全体の責任である」(石橋湛山 1013)
 「首相宮殿下の説かれた如く、この戦争は国民全体の責任である。しかしまた世に既に論議の存する如く、国民等しく罪ありとするも、その中には自ずから軽重の差がなければならぬ。少なくとも満州事変以来軍官民の指導的責任の地位に居った者は、その内心はどうあったにしても重罪人たることを免れない。しかるにそれらの者が、依然政府の重要の位地を占めあるいは官民中に指導者顔して平然たる如き事は、仮令連合国の干渉なきも、許し難い。靖国神社の廃止は決して単に神社の廃止に終るべきことではない。」(『石橋湛山評論選集』392 東洋経済 1990)

「石橋は、『靖国神社廃止の儀』と題してこんな文章を書いているけど、天皇の責任には全く触れていないね。石橋が天皇主義者だということはわかるけど、天皇を礼賛する者が『靖国神社廃止論』を唱える、これは論理的に矛盾しないかね。」
「同じ右派でも、靖国派からの反論は出るだろうな。『戦時中の指導者が、戦後も指導者顔をするのは許し難い』とあるけど、そもそもこの指摘に最も該当するのは大元帥、つまり昭和天皇なんだよ。『この戦争は国民全体の責任である』と責任論を展開するなら、必然的に『現人神』が下した開戦の詔勅にも触れなければならなくなる。そのあたりを追及するのがジャーナリストの使命だろう。」

12)起訴状にはない天皇の名前

「『天皇免罪』に関係した中心人物といえばグルーとマッカーサーが浮かぶね。」
「グルーは、敗戦前に10年ほど駐日大使を務めた人だよ。ねずまさし氏はその著書『天皇と昭和史』の中で、『天皇をすくったグルー』(『同』216頁)と『天皇をすくったマッカーサー』(『同』302頁)という二つの項目を設けているんだ。グルーに代表される『天皇免責論』がマッカーサーに引き継がれたということだろう。ねずまさし氏は『天皇免責』についてこんなことを書いている。」

「自分が日本にくる以前に天皇免責は決定していた」(キーナン首席検事)
 「自分やほかの検察官が日本にくる以前、194511月下旬、米英中ソの四国首脳者間で、天皇を戦犯として起訴しないむね、最終決定をみていた。」(『天皇と昭和史』303 三一書房 1974年)

「グルーは天皇を『女王蜂』に例えたけど、マッカーサーはその『女王蜂』を利用する一方で、『無力な女王蜂』というイメージを描き出さなければならなかったわけだ。結局天皇は『免責』ということになるわけだけど、『無罪』ではなかったことは確認しておきたいね。吉田氏はその点について、『GHQの対日占領政策と天皇利用』という側面から説明している。」

「起訴状のなかには天皇の名前が欠けていた(吉田 裕)
 「東京裁判はアメリカの優位性が制度的に保障された裁判だった。(粟屋憲太郎「東京裁判への道⑦」)。この結果、裁判自体がアメリカの国益によって大きく方向づけられることになったのである。このことをよく示しているのは、アメリカの対日占領政策を直接反映する形で、裁判のなかで天皇の免責が意図的に行なわれた事実である。いうまでもなく、GHQとしては、対日占領政策を円滑に実行に移すためには天皇の権威を利用するのが現実的な選択だと判断していたからである。(略)1946429日に発表された起訴状のなかには天皇の名前が欠けていた…」(『現代歴史学と戦争責任』148頁~149頁 青木書店 1997年)

『天皇利用』というアメリカ側の意図がはっきり指摘されているね。」
「同じ視点だけど豊下氏は、天皇とマッカーサーとの会見で“相互確認”が行なわれたと踏み込んだ見解を示しているんだ。」

「天皇の『権威』を利用しようとするマッカーサーの意図」(豊下楢彦)
 「このようにみてくるならば、会見における『天皇発言』がどのようなものであったかに関わりなく、占領の円滑な遂行のための『政治的道具』として天皇の『権威』を利用しようとするマッカーサーの意図と、戦争責任を回避し天皇制の存続をはかるためにマッカーサーの『権力』への全面的協力に活路を求めようとする天皇の意図との“相互確認“がおこなわれたところにこそ、この最初の会見の歴史的な意義が求められるべきであろう。」(『安保条約の成立』152 岩波新書 1996

「免罪と引き換えに、天皇はマッカーサーの“政治的道具”となることに同意するわけだな。」
「天皇は、国体護持ができてすっかり安心しているようだ。天皇は、日本の民主化という意味で『敗軍の将』が免責されることの意味、また、『敗軍の将』が敵軍の“政治的道具”になることの意味がよくわかっていなかったと思うね。実際、『天皇免責』という超法規的措置を受け入れた昭和天皇ほど『万世一系』の天皇制の非合理性を世界に広めた天皇はいないだろう。天皇ばかりでなく、臣下たちもほどなく解放され、政治の中央舞台に戻っている。『天皇免罪』で最も侮辱を受けたのは、ほかならぬ日本国民なんだよ。『あそこで目覚めなかった日本人』、そんな内外の識者たちの声が聞こえてくるよ。」
「不思議なことは、裁判は公開でありながら、なぜこのような芸当ができたのかということだね。検察が機能していないね。」
「『結論ありき』の裁判だったということだな。天皇を戦犯として指名しなかったのはキーナン主席検察官のようだ。裁判長や検察官の任命がマッカーサーの権限だったと聞けば納得がいくよ。」

「裁判長や首席検察官の任命がマッカーサー元帥の権限に属していた」(吉田 裕)
 「実際、裁判の運営原則をみても、ニュルンベルク裁判の場合には、裁判長や検察委員会議長の輪番制の採用など、米英仏ソ四大国の平等という原則が確立されているのに対し、東京裁判の場合には、裁判長や首席検察官の任命自体が連合国最高司令官としてのマッカーサー元帥の権限に属していた。」(『現代歴史学と戦争責任』148 青木書店1997

「ねず氏は、『米英中ソの四国首脳者間で、天皇を戦犯として起訴しないむね、最後的決定をみていた日付』について、194511月下旬と書いている。重要なのは『天皇免責』の定義について、『天皇に法律上、道義上、戦争責任がないということを主張するものではない』とする部分だよ。」

「天皇免責は功利的見地にもとづくもの」(ねずまさし)
 「もちろん元帥やキーナンの考えは、天皇に法律上、道義上、戦争責任がないことを主張するものではなく、終戦時に政治的に利用できたし、さらに米軍の日本支配に当って、政治的に利用できるし、共産主義の蔓延を、とくに米ソ冷戦の時期に入ったいま、防止するのに役にたつという功利的見地にもとづくものであった。」(『天皇と昭和史』303 ねずまさし 三一書房 1974年)

「この点についてねずまさし氏は、『軍事裁判は、天皇にかんする限り、検事側と被告側で巧みに演じた猿芝居だった』(『同』305頁)という表現をしているんだ。この言葉を、天皇の子や孫はどう受け止めるべきなのかね。」
「日本国民がこの国をほんとうに民主主義の国にしたいと願うならば、ねずまさしという学者の“猿芝居発言”をきっかけに議論を始めてもいいかもね。」

13)大元帥とA級戦犯を分離するキーナン検事

「次に『恩の国に個人は存在するのか』という点について考えてみてくれないか。つまり、集団としての『一億総懺悔』と、個人としての『A級戦犯の処刑』という問題。これどう思うかね。東条をはじめとするA級戦犯を個人として絞首刑にして万事決着、これでは誰の目にもあまりに短絡的すぎると思うんだ。」
「確かに、東条らA級戦犯が個人として扱われたことには疑問を感じるね。『恩の国』のシステムの中でどこまで個人の責任を追及できるかが問題になるけど、キーナン首席検事が日本国民を“犠牲者”として位置づけたのは、A級戦犯を個人として突出させ『戦争責任』のすべてを負わせる意図があったからではないかな。」

「日本国民は、軍国主義的な指導者の犠牲者だった」(キーナン検事)
 「(朝日新聞社の社会部記者として東京裁判の取材にあたった野村正男は)『キーナン検事は、ここにいる被告と、国民との分離を巧みにやってのけた。日本国民は、むしろ犠牲者だった、これら支配者こそ責任者だ――というのだ。この論法は、国民の間にヤンヤの喝采をうけるには当時十分だった』と書いている。」(『現代歴史学と戦争責任』161 吉田裕 青木書店 1997年)

「『キーナン検事は、国民との分離を巧みにやってのけた』とある。キーナン検事は明らかに、前年1945年)9月に出された東久邇首相の『一億総懺悔論』を意識していることがわかるね。ニュルンベルグ裁判のように、東条らが個人を主張し天皇命令を抗弁として使っていたら、東京裁判はまったく違った結果になっていただろうね。天皇はもちろん有罪の判決を受けていただろう。」
「それができなかったのが『恩の国』の忠臣たちなんだな。被告たちは天皇から『大命』を受けながら、自らは責任を一身に引きうけて絞首台に上がったというのだからね。そういう意味では、キーナン検事の『個人の或るものは、被告人の犠牲であったと云ふ結論になりました』という表現の中の『個人』とはだれか、はっきりさせておきたいね。」

「個人の或るものは、被告人の犠牲であったと云ふ結論になりました」(ジョセフ・キーナン首席検察官)
 1946429日に発表された起訴状のなかには天皇の名前が欠けていただけではなく、64日のジョセフ・B・キーナン首席検察官の冒頭陳述になかにも次のような意味深長な一節がみられた。
 本検察団ノ見解ニヨレバ、主要被告人等ハ本件ニ関スル起訴状ニ含マレテ居リマシテ、此ノ中ヨリ除外サレタノハ孰レモ利用シ得ベキ事実ニ付細心ナル研究ノ結果デアリマシテ、コノ研究ノ結果ハ起訴状ニ含マルベカリシ個人ノ或ル者ハ真ノ意味ニ於テハ日本国民自身ト同程度ニ是等被告人ノ侵略、権勢、並法律及ビ正義無視ノ犠牲デアツタト云フ結論ニナリマシタノデアリマス。」(『同上』149

「ここにある『個人のあるもの』、これが昭和天皇のことだね。『個人のあるものと日本国民は犠牲者だった』と結論づけている。つまり『天皇と国民は犠牲者だ』と言っていることになる。東条や昭和天皇は東京裁判では個人として扱われたことになるけど、検察官たちは一体『恩の国』の上下関係を理解していたのかと言いたくなるね。」
「ところがこの話には尾ひれがついているんだ。このやり方ではあまりに露骨すぎるというわけで、ウェッブ裁判長はその部分の削除を命じたというんだよ。」

「『個人の或るものは被告人の犠牲であった』の部分を削除せよ」(ウェッブ裁判長)
 「翌65日付の『読売新聞』が『天皇は犠牲者なり、被告らこそ真の支配者』という見出しをつけて冒頭陳述のこの部分を報道しているように、ここでは明らかに天皇に責任がないことが示唆されていたのである。ちなみに、ウィリアム・F・ウェッブ裁判長は、右の箇所を、その前後の部分とあわせて、冒頭陳述から削除するよう命じている。裁判長としては、あまりにあからさまな形で天皇の免責を図ることが裁判の公正さを損なうと判断したのだろう。」(『同上』149

「もしもの話だけど、A級戦犯たちが、『恩の国では個人を裁くことはできない』とか、東条が『臣下としての勅語への絶対服従』の主張を貫いてゐたら、一体どうなったかね。天皇は最高責任者として法廷に引き出され、『恩の国』の意思決定のシステムについて説明を求められたと思うね。」
「現実に、似たような状況が起こりかけたんだよ。」

14)「東条は、すべての責任を引きうけることを覚悟した」(吉田 )

「東条英機の立場から見れば、天皇の『開戦命令があったからこそ』、と抗弁することは可能だったということだね。まっすぐな東条英機は、それをやろうとして、すんでのところで阻止されたというんだよ。」

「日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ない」(東条英機)
 1946428日に公表された東京裁判の起訴状の中に天皇の名前は含まれていなかったとはいえ、法廷の審理が進む中で、天皇の戦争責任問題が再燃する可能性は常に存在したという事実である。19471231日の法廷で東条英機被告が、『日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においてをや』と述べて波紋を広げた…」(『昭和天皇 二つの「独白録」』262頁)

「確かにこの記述は、ニュルンベルグ裁判の『個人を裁く原則』が、『恩の国』にどこまで適用できるかという問いかけをしていると思うな。『恩の国』の『女王蜂』を個人とみるか否かが大きな焦点だけど、結局A級戦犯たちは、『女王蜂』に責任が及ばないよう口裏を合わせることを要求されたんだ。」

「上官の命令を抗弁として主張した被告は、元軍人の被告一名にすぎなかった」(吉田 )
 「東京裁判の場合、上官の命令を抗弁として明確に主張した被告は、元軍人の被告一名にすぎなかった。その理由としては、命令への服従を抗弁として主張すると最終的な責任は『大元帥』としての天皇に及ぶことになり、そうした事態を回避するために、このような抗弁の採用がさしひかえられたと考えられる。」(『現代歴史学と戦争責任』167頁~168頁 青木書店)

「結局、東条らは周囲の説得を受け入れたわけだ。東条らを個人として『恩の国』から切り離したのはマッカーサーということになるけど、逆に言えば彼は、天皇の身代わりに絞首台に上ることを求められたことになるね。」
「東条としては、つい本音を語ってしまったということかもしれないけど、天皇の責任が問われる状況をつくっただけでも『恩の国』の臣下としては失格だからね。繰り返しになるけど、もし被告たちの間から『天皇の勅に従っただけ』と証言する声が複数現れていたら、状況は一変していただろうね。この点について、吉田氏の説明は説得力があるよ。」

「東条は、天皇の訴追を阻止するためにすべての責任を引きうけることを覚悟した」(吉田 )
 「東京裁判に対する国民の反感は、何よりも、『東条人気』となって現われた。東条元首相の自殺未遂事件に対する国民の反応は、すでにふれたように、きわめて冷ややかなものだったが、裁判の進行の過程で東条はかなりの程度『復権』し、一過性のものに過ぎなかったにせよ、一部には『東条人気』がわきおこった。(略)天皇の訴追を阻止するためにすべての責任を引きうけることを覚悟したうえで、自衛戦争論の論陣をはって検察側と正面からわたりあった東条の毅然とした態度が一部国民の共感をよんだのである。」(『同上』165頁)

「『恩の国』の大元帥である天皇は個人として免責され、『恩の国』の忠臣である東条は個人として有罪となり絞首刑になった。これはアメリカ主導の東京裁判の最も不透明な部分だね。」
「東条やA級戦犯が靖国神社に合祀されたのは1978年だけど、A級戦犯として天皇の身代わりになった東条が靖国神社に合祀されると、天皇はそれまでやっていた靖国神社参拝をやめるという出来事が起こった。これを東条が知ったら複雑な思いになるかもね。『開戦命令』を出した天皇が免責となり、『万分の一の恩返し』に命を投げ出した忠臣たちがA級戦犯として断罪される、これとどう関係するかわからないけど、東条が処刑される前に詠んだ歌の中には、天皇という文字はどこにもないんだ。いわく、『さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき』(『東條英機』ウィキペディア)。」
「確かに、東条は『恩の国』の日本人として立派な忠臣だったね。アメリカ人弁護士に依頼する時、天皇を守るためにこんな条件を出したという記述もある。」

「アメリカ人弁護士依頼の3条件」(東条英機)
 「東条は『米人弁護士が、本気で自分を弁護するだろうか。君ひとつそのブルーエットという人に会って、弁護の条件について話してみてくれ。自分には法廷で陳述することが、三つある。これに同意ならば、弁護を受ける。その一つは、大東亜戦争は自衛のための戦争であったということ。その二つは日本の天皇陛下には、戦争についての責任がないということ。その三つは大東亜戦争は東洋民族解放のための戦争であったということである』と述べた。」(『東京裁判』33 清瀬一郎 中公文庫 1986年)

「東条の気持ちがそのようであっただろうことはよくわかるよ。前にも話したけど、東条はすでに昭和12年に勲一等瑞宝章を、昭和15年には勲一等旭日大綬章を受けているからね。東条は開戦時に『時には清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要』と言ったというけど、忠臣として今度は、『清水の舞台から飛び降りる覚悟』で絞首台にのぼったということだろう。」
「まさに、忠臣の鑑だね。」

15)「『昭和天皇独白録』は『弁明の書』」(吉田 裕)

「この『昭和天皇独白録』だけど、戦後出された多くの歴史書の中で、これほど異彩を放っている本はないだろうね。」
「第一級の史料だな。この記録は、元宮内省御用掛の寺崎英成氏の遺族のもとに残されていたというんだ。記録を持っていたのはアメリカに住む寺崎氏の長女で、父親の遺品の中から偶然発見したというんだよ。それが月刊誌『文藝春秋』の19902月号に掲載された、そのような経緯だな。」
「焦点は、『昭和天皇独白録』が何のために書かれたのかということだね。単なる『回顧録』なのか、それとも『裁判対策のための弁明の書』なのか、識者の間で意見は分かれているようだけど…。」
「『弁明の書』だと言うのは吉田裕氏だよ。」

「『独白録』は、アメリカ側に天皇に戦争責任がないことを論証するために作成された『弁明の書』」(吉田 )
 「この『独白録』の性格については、当初は、伊藤隆や児島襄のように、政治的色彩を持たない単なる回顧録とする見解も存在した(「座談会『独白録』を徹底研究する」『文藝春秋』19911月号)。しかし、関連資料との突き合わせが急速に進む中で、秦郁彦『昭和史の謎を追う(下)』(文藝春秋、1993年)が指摘しているように、『作成目的はある種の「東京裁判対策」とみなすコンセンサスが成立した』といえるだろう。私自身も、『昭和天皇の終戦史』(岩波新書、1992)の中で、この『独白録』が東京裁判の開廷を前にして、アメリカ側に、天皇に戦争責任がないことを『論証』するために作成された政治的な『弁明の書』であることを詳しく論じておいた。」(『昭和天皇二つの「独白録」』256頁~257頁)

「吉田氏は、はっきりと『弁明の書』だと言い切っているね。」
「同じく『弁明の色が濃い』と書く保阪正康氏の分析を聞いてみよう。」

「『昭和天皇独白録』は『天皇免責』の資料とされる意図を含んでいた」(保坂正康) 
 318日から、天皇は5人の側近(木下、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛)に、昭和前期の自らの胸中を明かしていく。それをまとめたのが『昭和天皇独白録』である。これは寺崎がまとめたものであり、必ずしも天皇の発言がそのまま収められているわけではない。その発言もときに幾分和らげたり、強めたりしながらまとめていった節がある。これは東京裁判に提出して『天皇免責』の資料とされる意図を含んでいた(法廷では使用されていない)。」(『諸君』180 20082月号)

「ここには、『「昭和天皇回顧録」は東京裁判に提出され、「天皇免責」の資料とされる意図を含んでいた』と書いてある。これまでに『歴史の偽造』という言葉は何度も耳にしたけど、資料の読み方によっては、天皇自身が『歴史の偽造』の発信地である可能性が出てきたとも考えられるね。」
「天皇が自ら『免責工作』に関わっていたとすれば、事は重大だよ。そのあたりについて、まず『昭和天皇独白録』の“聞き取り”が行なわれた経緯から追ってみよう。」

「昭和天皇独白録」が記録された日時
 「昭和21
 318日(月) 午前1015分より午后045分迄
 320日(水) 午后3時より510分迄
 322日(金) 午后220分より330分迄
 4  8日(月) 午后430分より6時迄
          更に夜に入りて8時より9時迄の2回」(『昭和天皇独白録』23頁より抜粋)

「疑問を感じるのは、やはり『独白録』が書かれた時期だな。東京裁判は1946年(昭和21年)53日に始まり、終わるのは19481112日だけど、1946318日に書き始められた『昭和天皇独白録』が裁判と無関係だとはと考えにくいね。」
「オレはこう考えるんだ。まず第一に不可解に思ったのは、風邪気味の天皇のために『ベッドを政務室に持ち込み、仮床のまま話をした』という記述だよ。そのような状態にある天皇が、メモなしにだよ、人間関係が錯綜する近代史を整然と話すということが可能かどうかということだ。」
「『天皇はメモも持たなかった』というあたりは、やはり側近たちの“意図”を感じるね。」

 開始日 昭和21年(1946年)318
 場所  皇居・御文庫の一室/葉山御用邸
 回数 「合計5回、前后8時間余」  
 目的 「大東亜戦争の遠因、近因、経過及終戦の事情等に付、聖上陛下の御記憶を受け承りたる処の記録」
 聞き手「松平宮内大臣(慶民)木下侍従次長〔道雄〕(藤田侍従長は病気引篭中)松平宗秩寮総裁(康昌)稲田内記部長〔周一〕及寺崎御用掛の5人」
 方法 「陛下は何も『メモ』を持たせられなかった。前3回は御風気(ママ)の為御文庫御引篭中特に『ベッド』を御政務室に御持ちしなされ御仮床のまゝお話下され、最后の2回は葉山御用邸に御休養中特に5人が葉山に参内して承つたものである」
 記録 「記録の大体は稲田が作成し、不明瞭な点に付ては木下が折ある毎に伺ひ添削を加へたものである」
  完了日「昭和21年(1946年)61日 本編を書き上ぐ 近衛公日記及迫水久常の手記は本篇を読む上に必要なりと思ひこれを添付す」
     (『昭和天皇独白録』
23頁~24 文春文庫 1995年)

「『独白録』を書き上げたのが194661日、裁判が終了するのが19481112日。アメリカ側が『独白録』の内容を精査するには十分な時間的余裕があったね。」
「『大東亜戦争』の遠因・近因・経過などを記述する人物の全員が宮内省の関係者だ。天皇の体調や8時間という時間的制約、それに『前3回は仮床のままお話しされた』というあたりを考え合わせると、宮内省関係者のメモがつき合わされ、それが仮床にいる天皇に伝えられ、修正しながら書きすすめたと、そんな作業行程が目に浮かぶね。とくに寺崎氏は『英語版「昭和天皇独白録」』にも関係した人物だから、5人の照合作業は微細を極めたと思うよ。」

16)英語版「昭和天皇独白録」について

「『昭和天皇 二つの「独白録」』、この本はまるで謎解きゲームの本だね。とても刺激的な本だ。『昭和天皇独白録』は東京裁判用の『想定問答集』的な役割を果たしたといわれるけど、その英語版とは何かについても知りたいな。」
「『独白録』の英語版については、『昭和天皇 二つの「独白録」』が渾身のレポートを書いている。そこでは『オリジナルの日本語版が上下二巻で、便せんで170枚、英語版は12枚』だとある。
「東野氏は、『寺崎英成が内容の取捨選択を行ってリライトした』と言っているけど、何のためにリライトしたのかということがポイントだな。」

「英語版では、日本語版以上に天皇の無力さが強調されている」(東野 真)
 「第二に指摘することができるのは、NHK取材班が、4653日に東京裁判が開廷する直前に作成されたと推測される新たな英語版『独白録』の存在を探り当てたことである。この英語版は日本語版『独白録』のほぼ四分の一の分量であり、寺崎英成が内容の取捨選択を行ってリライトした形となっている。内容的には、対米開戦に至る経緯に焦点が合わせられ、立憲君主である天皇は開戦決定を拒否できる立場になかったことが説明されたうえで、仮に天皇が開戦を認めなければ恐ろしい混乱が発生し、天皇自身も殺害されるか誘拐されたであろうと結論づけている。この英語版では、日本語版以上に主戦派に対する天皇の無力さが強調されており、それだけ弁明の色が濃くなっている点が注目に値する。」(『昭和天皇 二つの「独白録」』258 東野 NHK出版 1998)

「『昭和天皇二つの「独白録」』(27頁)には、半ページの写真があって、『1945927日、マッカーサーとの会見を終えた昭和天皇を見送るフェラーズ(右)』とのキャプションつきの写真が載っている。寺崎英成とフェラーズは密接な関係にあったんだな。」
「ネット資料(ピュア☆ピュア1949)には、『寺崎英成氏の妻グエンさんの親戚のボナ・フェラーズ准将』とあるよ。フェラーズは寺崎の夫人のいとこだったんだな。」

「フェラーズと寺崎英成、この二人の交渉の中から、日本語と英語、二つの『独白録』が生まれていった」(東野 真)
 「東京裁判において天皇が不訴追となった背景に、アメリカの政治判断と冷戦前夜の国際的政治力学が作用していたことはすでに知られている。しかし、それが決定されるまでの緊迫した時期に、GHQと日本政府との間では、水面下でさまざまな交渉や駆け引きが行なわれていた。GHQ側で最も深くこれに関与した人物がフェラーズであり、日本側で同じ役割を担ったのが寺崎英成であった。この二人の密接な交流の中から、日本語と英語、二つの『独白録』が生まれていったのである。」(『昭和天皇 二つの「独白録」』19)

「フェラーズには、さらに特殊な役割を与えられていた可能性も考えられるね。」
「この資料にある『橋渡し』という表現は、まるで日本側のエイジェントは寺崎で、アメリカ側のエイジェントがフェラーズであると言っているかのようだ。」

「寺崎は、裁判情報の『橋渡し』の役割をはたしていていた人物」(国際検察局の公開文書)
 「国際検察局(IPS)の公開文書によると、アメリカ政府は戦前の寺崎を日本のスパイとしてマークしており、戦後は『極秘の情報提供者』として戦犯捜査に協力させていた。つまり、御用掛としての寺崎は、天皇周辺の情報をアメリカ側に提供する一方で、天皇の訴追に関する裁判情報をアメリカ側から逆に入手するという『橋渡し』の役割を果たしていた人物だというのである。」(『昭和天皇 二つの「独白録」』10頁~11)

「その寺崎が書いたという『英語版「独白録」』には驚くような天皇の発言が載っているね。これにはたまげたね。」
「『茶番発言』だろう。あれには本当にびっくりしたよ。発言の裏を読み取る作業が必要だな。」

すべては民衆の目をごまかすための単なる茶番にすぎない」(昭和天皇 日付なし)
 「御前会議とはおかしなものである。天皇は投票する権利を持たない。(略)御前会議は、陸相、海相、およびその他の軍・政府の首脳から構成され、天皇の前で会議が行われる。御前会議に提出される議案は、すべて全員の意見一致により可決される。(略)天皇はといえば、そこに座って全員一致の議決を聞き、出席者たちと写真に収まる。見かけはまことに厳粛だが、すべては民衆の目をごまかすための単なる茶番にすぎない。」(「英語版『昭和天皇独白録』より」『昭和天皇二つの「独白録」』205頁)

「『昭和天皇独白録』が公開されたのは1990年のことだけど、戦後45年も経ってこのような記録を目にして複雑な感想を持った人は多かっただろうね。」
「日本語版と英語版を比較しようと考えた人はいっぱいいたと思うけど、オレも二つを較べて、やはり『茶番発言』は『天皇免責』に向けての布石だと感じたね。御前会議へ出席していた天皇が『茶番』を意識していたとは考えられないからね。ところが、日本語版では、そのあたりのニュアンスはかなり違ったものになっているんだよ。」

「御前会議といふものは形式的なもので、天皇には決定権はない」(昭和天皇)
  「所謂(いわゆる)御前会議といふものは、おかしなものである。枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席してゐるので、議案に対し反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人であって、多勢に無勢、如何ともなし難い。全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。」(『昭和天皇独白録』56 文春文庫 1995年)

『宸襟(しんきん)を安んじ奉る』という日本式の意思決定プロセスを知らない外国人には、この天皇発言は『A級戦犯』有罪に向けて説得力を持つだろうね。」
「でも、英語版と同様この記述の行間からも、かなりの『弁解』を感じてしまうんだ。『御前会議は全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない』、このような発言が天皇の口から出たと信じる日本人はいるだろうか。」

17)「昭和天皇独白録」は何のために書かれたか

「『昭和天皇の独白録』(文春文庫)の末尾で座談会に出席しているのは、半藤氏をはじめとして、昭和史の研究家として著名な人たちばかりだね。」
「ここで秦郁彦氏がおもしろい見解を述べている。『独白録が裁判対策かどうか』との半藤一利氏の質問に対し秦氏は、『キーナンが活用した』と答えているんだ。つまり秦氏は、『独白録』は裁判対策に使われた可能性を支持しているわけだ。」

「『昭和天皇独白録』を最も必要としたのはキーナン首席検事だろうと思う」(秦 郁彦)
半藤一利「そうすると秦さんは、この文書は英訳されGHQに提出されて、『使われた』と見ますか。」
秦郁彦 「そこを考えるときには、当時の東京裁判の進行状況を振り返っておく必要があると思うんですね。(昭和)211月の末にマッカーサーが昭和天皇は訴追しない方針を決めますね。3月に入りますと、寺崎氏は、夫人のいとこであり、すでに親密な関係が確立しているフェラーズ准将を通じてその内報を受けるわけです。したがって、これを始めた時の天皇には、もう訴追はないという一応の安心感のようなものがあったと思うんです。ところが天皇を訴追しないということになると、今度は日本とアメリカが共同戦線を張って、東京裁判でソ連、中国、英連邦といった国々の天皇戦犯論に対して天皇を擁護しなきゃならなくなります。そのためには昭和天皇のかかわったことをじゅうぶん理解しておく必要がある。したがって、これを最も必要としたのは私はキーナン首席検事だろうと思う。その後のキーナンの日本側との協力ぶりから見ますと、これは彼が手元で読んで活用したんではないかと思うんですね。」(『昭和天皇独白録』225頁~226 文春文庫 1995年)

「『「昭和天皇独白録」は何のために書かれたのか』という問いかけに対して、秦氏はさらにこんな興味深いことを言っている。秦氏は、『裁判対策』であることを認める一方で、責任を取ろうとしない昭和天皇の姿勢について『あれでいいんです』と言っているんだ。」
「出席者のすべてが『国体護持』や『免罪』の方向を向いていることがわかるね。」

「昭和天皇独白録」に関する識者の感想
秦郁彦(拓殖大学教授)「ただ、英米流の法廷対策ということになれば、これは絶対に自分の有罪を認めちゃあいかんのですよ。これは終始弁明しなくちゃあいかん。だから『「私も悪かった」という反省は入れないでもらいたい』といった入れ知恵が横から入ったとも考えられる。マッカーサーとの会見の時のように『責任は私にある』というあのトーンが全然出てこないでしょう。裁判対策と考えれば、あれでいいんですよ。」
児島襄(作家)「まことに忖度だな。(笑)」
伊藤隆(東京大学教授)「ぼくは弁明の書とは全然感じませんでした。」             
児島 「私なんかも弁明書だとは思わんな。秦さんはそう思っているらしいが。」
秦 「いや、私が思うというよりは、一般の反応がそうなんですよ。つまり、みんなが期待していたのは『朕の不徳のいたすところでこういうことになった』と言って、臣下に責任はないという話が延々と出てくるんだと思ったら、そうじゃあなくて、朕に責任があるという話は出てこなくて、だれそれはダメだこれそれはダメだという話になって、結果的には補佐する人間が――だいたい外務大臣が買収されてたなんてことになると、これはいかんともしがたいわけでしょう。」
半藤一利(昭和史研究家)「最後になりますが、一般読者がこの資料を読むときの心構えとして何かあればお聞かせください。」
児島 「私はこれを東京裁判に対する弁明書というふうに受け取ってほしくないですね。(略)」
伊藤 「ぼくもそう思います。これは楽しく読んだ方がよろしい、詮索しないで。」
児島 「かつ、忖度しないで(笑)」(略)
伊藤 「天皇が内輪話をされた、これはおもしろい、と思って読むのが一番素直じゃあないですか。」(『同上』254頁~256頁)

「これが昭和史研究の最先端にいる人たちの感想なんだ。『昭和天皇独白録』について、『東京裁判用の弁明書と受け取ってほしくない』、『詮索せず』、かつ『忖度しないで』、『楽しく読め』と言っている。これは、『御前会議は民衆の目をごまかすための単なる茶番にすぎない』という昭和天皇の発言も、詮索せずに楽しく読めと言っているのと同じではないか。」
「東京大学の伊藤隆氏は、『これはおもしろい、と思って読むのが一番素直』と言っているけど、この先生はかつてこう言っていたはずだよ。」

「英文が出てきたらカブトを脱ぐ」(伊藤 隆)
 「秦が、『独白録』は英訳されてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に提出されたのではないかという推論を述べたのに対し、伊藤は『秦さんのいう英文が出てきたらカブトを脱ぎますがね』と言ってこれを一蹴し、議論は噛み合わぬまま平行線をたどった。」(『昭和天皇 二つの「独白録」』9頁~10頁)

「ところがNHK取材班はこの英文を発見した、偶然見つけたというんだね。」
「伊藤先生は、カブトを脱いだのかね。フェラーズのところに眠っていたというこの文書は、英語版がアメリカで使われた可能性を示すものだね。この本のハイライトだ。とても衝撃的だ。」

「英語版の『独白録』を持っていたのは、ボナー・F・フェラーズ」
 「英語版『独白録』の発見――私たちNHK取材班は、その文書を、取材の中で偶然発見することになった。それは、ワシントンにある元GHQ高官のもとで、半世紀もの間眠り続けていたのである。その文書、英語版の『独白録』を持っていたのは、元アメリカ陸軍准将ボナー・F・フェラーズであった。フェラーズは、1944年(昭和19)年から二年間にわたって、ダグラス・マッカーサー元帥の軍事秘書を務めた。」(『昭和天皇 二つの「独白録」』12頁)

18)日本政府による憲法改正作業に見切りをつけたGHQ

「新憲法とか戦後という言葉を聞くと、オレたち戦後生まれは『よみがえる日本』という標語を思い出すね。子どもの頃はこの言葉をまるで当たり前のように受け入れていたけど、考えてみると実に曖昧模糊とした表現だ。」
「日本国憲法の具体的成り立ちについてはよく教わらなかったし、今もよく知っているとはいえない。でも、最初にアメリカの『天皇利用』の構想があった、これが大筋だろうね。この線に沿ってマッカーサーの動きを振り返ってみよう。」

  憲法制定をめぐる動き 
  19451009 幣原内閣成立(首相:幣原喜重郎)
  19451011 マッカーサー、幣原首相に憲法改正と5大改革を要求
  19451011  近衛文麿、内大臣府御用掛就任
  19451101 GHQ、近衛文麿の憲法改正作業にGHQは関知しないと表明
  19451122 近衛文麿、帝国憲法改正要綱(近衛私案)を天皇に報告
  19451210 巣鴨拘置所から白鳥が吉田に書簡を出す()
  19460101 天皇、人間宣言(神格化否定の詔書)
  19460124 幣原・マッカーサー会談
  19460201 毎日新聞が日本側の憲法草案をスクープ(※)
  19460203 マッカーサー、GHQ民生局に日本憲法草案作成を指示(0210完成)
  19460208 松本試案(憲法改正要綱)をGHQに提出
  19460213 GHQ、松本試案(改正憲法)を拒否、GHQ草案受け入れ要求
  19460221 幣原・マッカーサー会談
  19460222 閣議、GHQ草案(改正憲法)受け入れ決定
  19460306 政府、憲法改正草案要綱を発表 (『クリック20世紀』ネット情報  ※印は『朝日新聞』2005814日)

「『無条件降伏』が815日、天皇・マッカーサー会談が始まるのは927日だけど、憲法改正への具体的な第一歩としては、マッカーサーが幣原首相に与えた『指針』ということになるね。この『指針』の中には、マッカーサーは『元首相』の近衛に憲法改正を示唆したとある。」

「マッカーサーは近衛文麿元首相に憲法改正を示唆」(1945108日)
 1945(昭和20)年108日 アチソンはマッカーサー元帥から憲法改正の示唆を受けた近衛文麿元首相(当時東久邇宮内閣無任所大臣)に、次のような12項目にわたる憲法改正の指針を与えていた。
 ・12項目のうち天皇に関する二つの条項(他10項目は省略・筆者)
   ①天皇の拒否権廃止
   ②天皇の、詔勅、命令による立法権の削減」(『憲法「押しつけ」論の幻』5 小西豊治 講談社現代新書)

「マッカーサーの示唆を受けた政府は、1025日に松本蒸治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置するんだな。その結果、『天皇が統治権を総攬する』という大日本帝国憲法の基本原則を踏襲する『松本試案』が出されたという推移だね。」
「政府としては、まず『松本試案』を基礎として、GHQの意見を聞いたうえで正式な憲法草案を作成する計画だったようだ。でも、この政府案は大日本帝国憲法と大差がなかったんだ。この資料には、政府案は『超保守的な内容であった』と書いてある。」

「総司令部関係者も驚く保守的な日本政府憲法法案」(194621日)
 「翌194621日、さらにアメリカ=総司令部を揺るがす、別の『憲法草案』が突然発表された。『毎日新聞』が、第一面で憲法問題調査委員会の試案(=日本政府憲法案)なるものを掲載したのだ。厳重な機密扱いあった『試案』をすっぱ抜く、大スクープであった。この試案は、『第1条 日本国は君主国とす』『第2条 天皇は君主にして此の憲法の条規に依り統治権を行ふ』ではじまる、超保守的な内容であった。(略)総司令部関係者も『保守的な案が出て来るとは予想していゐたが、これほどまでとは思わなかった』、と後に回顧している。」(『同上』11頁~12頁)

「日本政府による自主的な憲法改正作業に見切り」(GHQ)
 「また、GHQも記事の内容と世論の動向を分析検討した結果、日本政府による自主的な憲法改正作業に見切りをつけ、独自の草案作成に踏み切ることとした。なおこの決定の背後には、日本に対して強硬な主張を行うことが予想され、GHQの権限を大幅に制限する極東委員会の活動開始が、同年226日に迫っていたこともあった。」(『松本試案』Weblio辞書 ネット情報)

「新聞各社が『保守的・現状維持的』という記事を配信したこともあって、GHQは、『日本政府による自主的な憲法改正作業に見切りをつけた』とあるね。また、GHQが起草を決断した理由として、小西氏も、『GHQの上位機関として米英中ソら11ヵ国による極東委員会の成立が予定されていたから』(『憲法「押しつけ」論の幻』12頁)と書いている。」
「そこに急遽出てきたのが、『マッカーサー三原則』だったというわけだ。」

マッカーサー元帥が示した「マッカーサー三原則」
 「マッカーサー元帥は、民政局局長ホイットニー准将の意見を容れ、極東委員会が成立して政策決定をするようになる以前、つまり総司令部に憲法改正の権限があるうちに憲法案を起草することを決断した。そして4623日、『毎日新聞』のスクープからわずか2日後に、マッカーサー元帥は憲法改正の必須条件として、ホイットニー民政局局長に次の三原則を示している。」
  1、天皇は、国の元首の地位にある。皇位は世襲される。
  2、国権の発動たる戦争は、廃止する。
  3、日本の封建制度は廃止される。
  (『憲法「押しつけ」論の幻』
12頁~13 小西豊治 講談社現代新書))

「でも、吉田茂をはじめ、指導者たちの考えは旧態依然としたものだったようだね。」
「現行の第1章は『天皇の象徴的地位』と『国民主権』などを謳っているけど、吉田茂や金森国務大臣らは、新憲法においても『君臣一致』の理念を主張していたからね、『恩の国』の理念は戦後も維持されると考えていたんだよ。」

「皇室の地位は君臣一致、新憲法においてもなんら変更はない」(吉田 )
 「皇室の地位は君臣一致であり、君臣は対立するものではない。日本の国家体制は、新憲法においてもなんら変更はない。」(『天皇の相剋』200 武田清子 1978年〕

「天皇を基礎とする国家体制は、新憲法においても少しも変更もない」(金森国務大臣)
 「民主政治と日本の君主制との間には、なんら破綻もなく、また矛盾もない。天皇はわれわれの心の深処に存在しており、これすなわち日本的特長である。日本の歴史から見ると、日本の国家体制は一貫して天皇を基礎とし、国民との合作によって成されて来た。この点は新憲法でも少しの変更もない。」(『同上』200頁)

19)天皇条項と「戦争放棄」  

「国民主権を謳う現日本国憲法に近い案を提出したのは、高野岩三郎らが属する『憲法研究会』が提出した案だね。『憲法「押しつけ」論の幻』(24頁)は、元東京帝大教授の高野岩三郎が『民間で憲法制定の準備、研究をする必要がある』と問題提起したのが発端だと書いている。」
「この草案をつくった『憲法研究会』のメンバーとして、高野岩三郎、森戸辰男、鈴木安蔵らの名前が書かれているけど、これが発表されたのは19451226日だというから、この案が翌年2月の『マッカーサー三原則』の中に取り入れられた可能性は十分考えられるよ。日本人がつくった『国民主権の宣言規定』と『儀礼的存在としての天皇の規定』、この二つの規定はアメリカに押しつけられたものではなく日本人の発想である――小西氏が訴えたいのはそのあたりだろう。」

「憲法研究会」が提出した「憲法草案綱領 根本原則(統治権)」(19451226日)
  一、日本国ノ統治権ハ日本国民ヨリ発ス
 一、天皇ハ国政ヲ親(みずか)ラセス国政ノ一切ノ最高責任者ハ内閣トス
  一、天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専(もつぱ)ラ国家的儀礼ヲ司(つかさど)ル
(『憲法「押しつけ」論の幻』4 小西豊治 講談社現代新書)

「確かに筆者の小西氏は、『国民主権』はアメリカ政府の主張ではなく、この『憲法研究会』のアイデアだと言っているけど、この部分はとても重要だな。この国民主権論とは反対の立場をとっていたのが21日発表の『日本政府憲法草案』だったというわけだね。」
「憲法改正作業を見ていると、マッカーサーが日本側の示す改革について、かなり絶望的に見ていたことがわかるよ。マッカーサーは『恩の国』という表現は使っていないけど、『世襲の独裁制』とか『基本的人権がない』という表現からわかるように、日本という国は他国には見られない特殊な国であると理解していたことは確かだ。このような国を民主化するためにはどうしたらいいか、アメリカの最終的な考えが、憲法第1条と第9条の組み合わせだったんだ。」
「日本の民主化を進めるために天皇制は残すが、軍隊は許さず、アメリカ軍の保護下に置くということだね。でも、高野氏はあの『囚われた民衆』を書き、その中で『天皇制廃止』を訴えた人だけど、その高野氏がいながら、なぜ天皇制廃止が主張されていないのかね。」
「高野氏は共和制を呼びかけたけど、憲法研究会内部からは同調者は現れなかったという記述もある(『同上』180頁)。マッカーサーの『天皇利用』の壁もあって、天皇制廃止の議論にはつながらなかったけど、天皇から主権を取り去り同時に『戦争放棄条項』を抱き合わせにしようとしたアイデアは、日本人側の発想である可能性が強まってきたね。」

「天皇制存続とセットになっていた戦争放棄条項」(伊藤 悟)
 「戦争放棄という考え方は、マッカーサー草案のもととなった23日のマッカーサー三原則で初めて具体的に示されたものである。三原則はほかに事実上の象徴天皇制の採用と封建制度の廃止を掲げている。天皇制を存続させるかわりに日本が戦争を放棄して非武装国家となるというアイデアは、連合国の中で天皇制に批判的で、その廃止を要求していたソ連やオーストラリア、そして天皇の軍隊の侵略を受けたアジア諸国に対する保証措置であった。天皇の軍隊を否定し、天皇の名による侵略の可能性を根元からつみとることによってこれらの諸国が抱いている天皇制への不安感を払拭し、天皇制の存続を可能とするものであった。戦争放棄条項はかかる意味において対外的な配慮から出てきたのである。」(『日本国憲法を国民はどう迎えたか』87頁~88 歴史教育者協議会編 高文研 1997年)

「『天皇条項と第9条はセットになっていた』、これはとてもわかりやすい説明だね。でも、この発想が日本人から出ているという部分はどこまで証明されているのかね。」
「そのあたりについて、もう少し追ってみようよ。天皇条項と9条の組み合わせはまるで木に竹を継いだ憲法という印象だけど、これは『恩の国』の特殊性がもたらした特殊なケースであることを国民は理解すべきだと思うね。つまり、『国体護持』と『天皇免責』を実現するためには、交換条件として『戦争放棄・戦力の不保持・交戦権の否認』宣言が不可欠だったということさ。重要なことは、だれがそれを提言したのかという点だな。」

 「『戦争放棄』条項は幣原男爵が提案した」(マッカーサー)
 「日本の新憲法にある『戦争放棄』条項は、私の個人的な命令で日本に押しつけたものだという非難が、実情を知らない人々によってしばしば行われている。これは次の事実が示すように、真実ではない。() 幣原男爵は124日(昭和21年)の正午に、私の事務所をおとずれ(た)。() 首相はそこで、新憲法を書き上げる際にいわゆる『戦争放棄』条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意思は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。」『マッカーサー回顧録〔下〕238頁~240頁』)

「幣原の提案にマッカーサーは、『私は腰が抜けるほどおどろいた』と書いているね。そして、長年『戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段である』と考えていたマッカーサーがその気持ちを伝えると、幣原は『顔を涙でくちゃくちゃにしながら』、『百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』と言ったと書かれている。」
「この資料だけ見ると、まるで幣原が『戦争放棄』のアイデアをマッカーサーに提案したかのように読み取れるね。でも、幣原自身の憲法観は『憲法改正の必要はない、大日本帝国憲法だけでいいのだ』(『憲法「押しつけ」論の幻』31頁)という旧態依然としたものだったから、二人のほかに『戦争放棄』を提案した第三者がいることが想像できるんだ。このナゾを解いてくれたのが2005814日の朝日新聞だったよ。新聞記事は、幣原首相に『憲法放棄』を提言したのは日独伊三国同盟を推進し白鳥敏夫元外交官だと報告しているんだ。『戦争放棄』の考えを思いついたのは、当時A級戦犯として禁固刑を受け、巣鴨拘置所にいた白鳥だったというんだよ。」
「日本国憲法の成立過程に関心をもつ者には、とてもビッグなニュースだね。」

「戦争放棄の条項を天皇制条項と結びつけることで、天皇制を守ることができる」(白鳥敏夫)
 『戦争放棄、憲法に』進言 幣原首相に元外交官が書簡――白鳥元大使は外務省内で軍部と近い革新官僚として活躍し、38年にイタリア大使となった。日独伊三国同盟を推進し、衆議院議員も務めた。(略)書簡は451210日付。原文は英文で、戦犯の指名を受けて入所した巣鴨拘置所から吉田外相あてに出された。(略)それによると(略)『天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ(略)憲法のこの部分をして(略)将来とも修正不能ならしむることに依(よ)りてのみこの国民に恒久平和を保証し得べき』と述べ、戦争放棄の条項を天皇制条項と結びつけることで、天皇制を守ることができると強調した。」(『朝日新聞』2005814日)

「吉田首相を通じてマッカーサーとの会談前の幣原首相に届けられた可能性が高い」(朝日新聞)
 「戦争放棄を新憲法に盛り込む発想は46124日のマッカーサー・幣原会談で出たとされる。幣原が言い出したとされるが、どちらから出たのか、あるいは合作かについては論争があり、決着はついていない。120日ごろに検閲が解除され、吉田外相を通じてマッカーサーとの会談前の幣原首相に届けられた可能性が高い。」(『同上』)

「幣原首相から『戦争放棄の条項』を聞いたマッカーサーが、『私は腰が抜けるほどおどろいた』と書いているところから、この話が幣原からマッカーサーに届けられたものであることがわかるね。吉田首相はもちろん、絞首刑となった東条も、服役中に喉頭癌で死んだという白鳥も、『恩の国』の臣下として『国体護持』と『天皇免責』に努力した人々であることがわかるよ。ところが、20067月に日本経済新聞が明らかにした『富田メモ』によると、昭和天皇は第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に不快感を示したというんだね。」

「松岡洋右と白鳥敏夫までが合祀されたことに強い不快感」(昭和天皇)
 「メモは、『私は或る時に、A級が合祀されその上松岡、白鳥までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが』と記している。松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白鳥はこれもA級戦犯で合祀されている元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司筑波藤麿とみられる。昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。」(「富田メモ」『BIGLOBE百科事典』ネット情報)

「『臣下の赤心、天皇知らず』だな。」
「この文章を読んでわかるのは、昭和天皇が『A級戦犯』という言葉を受け入れているという事実だよ。A級戦犯である白鳥は、『天皇免罪』への道を開いた最大の功労者の一人であるにもかかわらず、彼の靖国合祀には天皇が『強い不快感を表明した』というんだからな。」
「『強い不快感』も本心はわからないよ。あの方は、つねに何か口ごもっている人だからね。はっきりしていることは、昭和天皇は『大恩人』に対し、生涯『恩返し』の気持ちを持ち続けたということなのさ。」

20)「恩の国」の“リベラリスト”の思想 

「これまでの話を聞いていると、『恩の国』の国民は、この国のシステムに対して戦後一貫して何の疑問も抱かずに暮らしてきたのではないかと疑いたくなるよ。日本のリベラリストたちは一体何をしていたのかね。リベラリストといえば石橋湛山の名前が浮かぶけど、そもそも『神の国』のリベラリストの定義が曖昧だ。『石橋湛山著作集1』には『リベラリストの警鐘』という表題がつけられているから、石橋イコール・リベラリストと言っていることになるね。」
「石橋のほかには、体制内の人物では桐生悠々・斉藤隆夫らがいるよ。桐生は『関東防空大演習を嗤ふ』で知られている。石橋湛山は『大アジア主義』を否定したジャーナリスト、斎藤隆夫は『反軍演説』だな。いずれも軍拡反対を唱えているけど、彼らは反戦論者じゃあないし、天皇制に疑問を呈しているわけでもない。こういう日本の『穏健派』に厳しい視線を送っているのは吉田裕氏だよ。」

「『穏健派』の黙認や追認がなければ、国策となり得なかった」(吉田 ) 
 
「こうして、『穏健派』の戦争協力や戦争責任の問題は事実上、不問に付されてゆくことになるが、このグループの黙認や追認、あるいは支持や協力がなければ、軍部の推進する路線は決して国策となりえなかったことを考えるならば、このような歴史認識の一面性は否定することができないだろう。」(『現代歴史学と戦争責任』164 青木書店)

「日本の支配層は極端な軍国主義者と、穏健な政治指導者のグループに分けられる」(荒井信一) 
 「その歴史認識によれば、日本の支配層は極端な軍国主義者と、穏健な政治指導者のグループに分けられ、この両者の拮抗と、後者の最終的な敗北によって真珠湾へのドラマが形づくられることになる。前者にはより多くの軍人、右翼的な政治家が分類され、後者にはより多くの外交官、経済官僚、重臣、経済人がふくまれる。」(『同上』162頁)

「『穏健なグループ』に属する桐生悠々・石橋湛山・斎藤隆夫らは、『恩の国』と民主主義は両立するという考えではないのかね。」
「彼らは『恩の国』の軍隊に対して痛烈な批判をしたのは確かだけど、マッカーサーが指摘したような、『天皇が支配する国』を否定的に見る視点は持っていなかったということさ。彼らは天皇制を否定する人々の自由が抑圧され、投獄される国に住んでいながら、その一方で、記者として政治家として中央舞台で活躍していたことになる。桐生悠々はこんな文章を書いているんだよ。」

「我等の戴きまつるは万世一系の天皇である」(桐生悠々)
 「我等の戴きまつるは万世一系の天皇である。封建時代に於ける徳川政府でもなければ、固(もと)より毛利公でもない、旧藩のお殿様でもない。随って我等は明治天皇の忠臣であると同時に、今上陛下の忠臣でなければならぬ。否、我等は明治天皇の忠臣であると同時に、今上陛下の忠臣である。(略)明治天皇の御遺志は炳乎(へいこ)として日月の如し。此御遺志に従って今上陛下に献替(けんたい)するは、やがて明治天皇に献替する所以である。」(『抵抗の新聞人 桐生悠々』112頁~113 岩波新書 2002年)

「献替(けんたい)って何だい?」
「辞書には、『善をすすめ悪をいさめて主君をたすけること』とある。『忠臣たれ』ということだろう。だから、『関東防空大演習を嗤ふ』や『反軍演説』がいかに激烈のように見えても、あくまで体制内の言説なんだ。法に触れたわけでもない。体制内にいるジャーナリストの異論は、ある時には政策論争の中で効果的に利用される場合があるからね。」
「『恩の国』の微妙な政治力学のなかでは、桐生のような“異論”が時には必要というわけか。そういう意味では、『自由主義・小日本主義』で知られている石橋湛山も、立ち位置は同じということになるね。リベラリストを標榜する石橋は、『大日本主義』を批判する一方で『御聖断』とか『天皇は一切の論議を止揚し…』などと公言するジャーナリストだったから、戦後も保守党の幹部として活動できたということだね。」

21)石橋湛山と斎藤隆夫をつなぐ線

「では、『反軍演説』で知られる斎藤隆夫の場合はどうなのかね。」
「まず、石橋と斉藤についての二つの新聞記事を見てくれよ。山梨では『石橋湛山ブーム』が起きているというんだ。投稿者は55歳とある。」

「湛山のブームは静かに日本に浸透している」(増穂町・読者55歳)
 「増穂町で石橋湛山を知る講座が開かれている。甲府一高の同窓会でも、石橋湛山の人と思想をテーマにした講演会が開かれるという。(略)しかし、湛山の偉大さはそんなことではない。戦前から小日本主義を唱えて、植民地主義を非難した。(略)もし湛山が生きていたとしたら、イラク問題、国会議員の体たらく、こうした不透明な現状を前にして何と言うだろうか。湛山のブームは静かに日本に浸透しているのではないか。」(『山梨日日新聞』200453日)

「『妄言』を繰り返す政治家たちは、斎藤演説を読み返せ」(石川真澄)
 「民政党代議士・斉藤隆夫は194022日、有名な『反軍演説』をして翌月議員を除名される。その演説内容は日中戦争で用いられた美しい言葉を攻撃したものだった。(略)斎藤は、反戦の理想を説くのではなく、現実主義に立って国際政治を論じ、空虚な美名を宣伝する政府のうそと無力を批判したのだった。『妄言』を繰り返す政治家たちは、斎藤演説を読み返したほうがいい。」『朝日新聞』論説委員19951114日)

「朝日新聞のこの『現在史ウォッチング』の記事には考えさせられたね。」
「『戦前受け継ぐ「妄言」』と題して、石川氏はまず、日韓併合条約が伊藤博文による『強圧』であったことから書き始め、日本は他国を侵略するたびに『平和』を宣伝したと批判的に書いている。それに続く内容が、斎藤隆夫の『反軍演説』だよ。この記事を読む読者は、斎藤隆夫をあたかも自由主義、反軍国主義、反帝国主義のヒーローのように受け取るだろうな。そこでオレも斎藤隆夫の伝記を読んでみたんだ。思った通りだったね、斎藤は“熱烈な天皇主義者”だったと紹介されていたよ。」

「斎藤隆夫は保守主義者でもあり、熱烈な天皇主義者」(伊藤 隆)
 「こうした史料の不備ということもあろうが、研究の不足は、斎藤を見る視角が定まらないとい点も大きいであろう。戦後の研究の中で、自由主義者、進歩主義者、平和主義者と目される政治家に関心が集まった。その限りで斎藤も注目されなかったわけではない。しかし本回顧録や付録とした二つの議会演説で見られるように、彼は一面当時の『革新』派を批判する保守主義者でもあり、熱烈な愛国者・天皇崇拝者であり、『平和』論に対する烈しい批判者でもあった。」(『回顧七十年』斎藤隆夫 308 中公文庫 1987年)

「斎藤隆夫で興味深いのは、保守主義者であり『熱烈な天皇主義者』である斎藤と戦後民主主義との関係だね。」
「『熱烈な天皇主義者』である斎藤だけど、戦後も立ち位置を変えないまま、『日本はポツダム宣言受諾によって民主化の端緒を切った』と述べているんだ。彼は、日本の民主化と天皇制というシステムがどう関係するか触れていないんだよ。」

「ポツダム宣言によって、民主政治の端緒を開くことができた。」(斎藤隆夫)
 「われわれは、われわれの力によって、軍国主義を打破することができなかった。ポツダム宣言によって、初めてこれが打破せられた。われわれは、われわれの力によって言論、集会、結社の自由すら解放することができなかった。ポツダム宣言によって、初めてその目的を達することができた。なおまたわれわれは、われわれの力によって民主政治を確立することができなかった。ポツダム宣言によって、ようやくその端緒を開くことができた。」(『同上』198頁)

「まるで、『民主政治』が天から降ってきたかのような言い方をしているね。斎藤隆夫のこの主張は、日本の“リベラリスト”の体質と限界を暴露するものだと思うな。天皇制と農地改革、天皇制と女性解放、天皇制と軍国教育など、民衆を奴隷化してきた天皇制とは何かについて、正面から光を与えようとする視点は見当たらないからね。」
「その点では石橋も同じだよ。石橋は『戦争終結』にあたり、個人を抹消しようとした明治国家の体質に触れることもなく『新日本門出の日』と言っている。またこの文章を読む限り、敗戦後の天皇制国家がとるべき変革への理念についても語っていないんだ。」

「上御一人の御聖断は神の如く、一切の論議を止揚し、戦争は終結された」(石橋湛山)
 「辱(かたじけな)くも、上御一人の御聖断は神の如く、一切の論議を止揚し、戦争は終結された而して今や万民心を一にして、更生日本の建設に邁進(まいしん)し得るの恵に浴するに至った。昭和二十年八月十四日は実に日本国民の永遠に記念すべき新日本門出の日である。聖旨に曰く。『挙国一家子孫相伝へ、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏(かた)くして、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後(おく)れざらんことを期すべし』と。これ我が更正日本の進路を示し賜うたものであって、我が国民の一人一人が永く拳々服膺(けんけんふくよう)すべき所である。」(『石橋湛山評論選集』388 東洋経済新報社)

「戦後の石橋は吉田内閣に入閣し、斎藤は進歩党の結成に参加するんだな。」
「日本進歩党は戦争末期の大日本政治会を引き継いだもので、今の自民党の出発点にある政党だよ。その進歩党はマニフェストとして『天皇制の絶対護持』を掲げたからね。」

22)「恩の国」の「囚われた民衆」     

「天皇制の矛盾について指摘する人は多いけど、『囚われた民衆』と言った高野岩三郎の論述を確認しておこうよ。」
「いいね、どのような視野が開けてくるか楽しみだ。高野氏は『改正憲法私案要綱』の根本原則として、『天皇制ニ代エテ大統領制ヲ元首トスル共和制ノ採用』を主張しているんだよ。」

「日本国民は済度し難い囚われた民衆」(高野岩三郎)
 「アメリカ連合軍司令部の眼には、わが国民はほとんど済度し難い囚われた民衆であるように映ずると想像されるのであるが、私自身の眼にもはなはだしく烏滸(おこ)がましい言い分であるが、また同様に写るのである。(略)現下の状勢においてすでに憲法の改正により主権在民の根本原則を容認せしむることができると考うるならば、何が故に単に儀礼的機関に過ぎざる天皇制を残置するの要ありや、むしろただ一歩を進めて紙一重の障害を撤去し、天皇制の維持を放棄するに躊躇せずして可なりとせずやとの点である。しかるにもかかわらずなおかつ天皇制に未練を残して純然たる民主主義の採用に猛進せざるは、依然として天皇制に対する若干の信頼と民主制に対する自信の念の薄弱とによるものではあるまいか。もしはたしてしかりとするならば、このことはわが国における民主制の将来に対してすこぶる憂うべきことといわざるを得ない。」(『「天皇制」論集』7頁~10 久野収 神島二郎 三一書房 1974年)

「高野氏が、天皇制は『民主制の将来にとってすこぶる憂うべきこと』と言うのはよくわかるよ。でも、『囚われた民衆』にとって天皇制から大統領制に移行することの意味について、また日本の特殊事情について、もう少しわかりやすく語ってもらいたかったね。」
「つまり、『恩の国』の中の『囚われた民衆』の位置づけだな。システムと民衆がどう結びつき、両者をどう切り離すかということだよ。そのあたりについて、立花隆氏が日本の特殊性に焦点を当てて語っている。天皇制下の日本人の状況を昨今の北朝鮮と対比させる論法はわかりやすいよ。」

「日本は、北朝鮮以上に異様な国家だった」(立花 隆)
 「最近、北朝鮮という国家の異様な政治体制がさかんに報じられているが、明治時代後半から昭和時代前期までの日本は、あれ以上に異様な国家だった。金正日はほとんど神格化されているとはいえ、まだ『将軍さま』『首領さま』であって、神様ではない。誰も彼を神様とは呼ばないし、礼拝もしない。しかし、かつての日本では、天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、神として礼拝されていたのである。国民は、子供のときから、天皇は神の末裔であると教えこまれ、ことあるごとに儀礼的礼拝が強制されたから、ほとんどの国民はそう信じ込んでいたのである。だから、あの戦争でも、多くの兵士が天皇陛下万歳を叫びながら天皇のために惜しげもなく命を捧げたのである。」(『天皇「神格化」への』35219996月号 文芸春秋)

「現在の北朝鮮の動きを見て、戦前・戦中の日本を思い浮かべる人は多いだろうね。北朝鮮でどのような教育が行われているかは想像するしかないけど、日本がやった『一大家族国家』とか『忠孝一本』に似た教えが行なわれているのではないだろうか。これらは『恩の国』では、『囚われた民衆』を生み出す最強のスローガンだったからね。」
「天皇制から共和制への方向性を打ち出している学者に関曠野(せきひろの)という評論家がいるよ。」

「共和制の方向にいくのは論理的必然的な帰結」(関 曠野(ひろの)
 「つまり大半の国民は象徴天皇制を支持しているとはいえ、それは戦後の人畜無害な皇室ならオーケーというものにすぎず、国民の心の中では皇統連綿はすでに死語になっているのである。(略)何といっても戦後の皇室を矛盾の中に放置してきたのは我々国民なのである。(略)むしろ皇室という存在を公然と議論すればするほど、我々は否応(いやおう)なく共和制の方向に押しやられていくのではあるまいか。それは身分制が清算されたことの論理的必然的な帰結なのである。」(『朝日新聞』2005123日)

「関氏は、『公然と議論すればするほど、共和制の方向へ押しやられていく』と言っている。納得だ。でも、オレは、『恩の国』でどこまで議論が深まるか慎重でありたいね。国民が共和制について議論さえやったことのない状況の中で、『国民の心の中では皇統連綿はすでに死語になっている』という関氏の分析はどうかと思うね。『死語になっている』と思わせるほど、天皇制のカラクリは巧妙なんだよ。『天皇なんて関係ねえ』と考える若者たちが増えれば増えるほど、天皇制というシステムを守る“安全弁”が機能し始めるんだ。『囚われた民衆』とは、自らが『囚われた民衆』であることを意識しない民衆のことだからね。」
「なるほどね。かつての『忠孝一本』は戦後の企業精神の中で生き続けてきたし、今でも『天照皇大神』の掛け軸を床の間に飾っている家は少なくない。神社で遊ぶ子どもたちは、皇室の“遺徳”を称える石碑を眺めながら大きくなるからね。」
「皇室を中心とする日本の指導層は、『恩の国』の『城内平和』を享受する物言わぬ国民をつくり続けるためにあらゆる努力をするだろう。中でも『万分の一の恩返し』、つまり『忠孝一本』の思想はこのシステムを維持するのに最も有効な標語だ。辞典で見ると、『忠孝一本』の思想は『水戸学派に始まる』と書いてある。」

「忠孝一本」(『広辞苑』)
『日本民族はすべて天祖の末裔で、皇室はその直系ゆえ、天皇は日本民族の家長であり、従って忠と孝とは本来一本であるとする説。水戸学派に始まる。」(第五版)

「日川高校の場合を見てもわかるように、水戸学は今日でも日本の教育界で一定の影響力を持っていると思うね。」
「そうだと思う。『天地の正気』の校歌を生徒に歌わせている現在の校長に、水戸学をどう考えているのか聞きたいもんだよ。水戸学といえば藤田東湖だ。藤田は1806年生まれで1855年没。江戸時代末期の人物だな。」

「天皇は天照大神の御子孫であり、臣民は八百万の神々の後裔である」(藤田東湖)
「天地の正気は、かしこで失われればここに現われ、前に滅びるならばうしろに勃興し、このようにして神国の大道を維持するのである。それは何故であろうか。(略)天祖の御神勅は永久にわたり地に落ちることはない。人民が皇大神宮を敬仰することは、太陽を仰ぐのと同じであり、各国にある有名な神社や廟は、あたかも神の霊がさながらにいますかのように崇敬されている。また、上は朝廷の大嘗祭の祭から、下は民間のいわゆる神事・祭礼にいたるまで、古代の祭の風をなおあるいは認めることができる。天皇はすなわち、天照大神の御子孫であり、臣民はすべて八百万の神々の後裔である。したがって神を尊ぶ意味が明らかとなれば、おのずから皇室の尊さも知られ、異端はおのずから衰え、忠孝の教えは確立して、神道は盛んとなるであろう。」(『藤田東湖』130 日本の名著29 中央公論社 1984年)

「藤田東湖は、『恩の国』の屋台骨には神社があると言っているね。『天照大神』を祭神とする日本の神社が『日本固有の伝統文化』の中核であることがよくわかるよ。」
2000年のことだけど、絓(すが)秀美という文芸評論家が天皇制についておもしろいことを書いていたよ。『象徴天皇こそ神』だと言うんだ。」

「象徴天皇こそ神」((すが)秀美)
「戦前も、ある面では『人の国』でした。憲法と議会があり、天皇機関説でやっていたわけだから。戦後も、ある面では『神の国』なのです。天皇は人間宣言によって、神でなくなったと主張する人がいますが、これは違う。象徴天皇こそ、神のようなものです。日本国憲法から見れば、天皇は日本国民ではありません。戸籍もない。生活費は国から出て非課税です。国民にとって文字通り『他者』でありながら、日本国民の象徴だという。人類は昔から、こうした存在を『神』と呼んできたのではないでしょうか。」(『朝日新聞』2000823

「つまり絓氏は、日本国民の心には今でも『現人神思想』が生きていると言いたいようだね。藤田東湖が書いているように、天皇制は神社や祭などの伝統行事と密接不離の関係にあるから、意識するしないにかかわらず、日本人は戦前・戦中・戦後の連続性については違和感がないんだね。」
「見えてくるのは、日本人が直面している大きな矛盾だよ。かつて文部省は、『国体の本義』の中で天皇は天照大神の子孫であると教えたよね。繰り返しになるかもしれないけど、昭和天皇は194611日の詔書でこれを否定している。昭和天皇は、『天皇を現御神(あきつかみ)とするのは架空の観念』と言ったんだ。それにもかかわらずだ、今でも天皇家は皇室行事とて大嘗祭をはじめとする祭祀を続けている。天皇家は相変わらず『天皇を中心とする神の国』を演出していることになると思うね。」

23)アメリカの保護下に置かれた「恩の国」

「きょうの討論の最後は、『アメリカの保護下に置かれた「恩の国」』だな。これまでの話で天皇制の問題点についてはかなり理解できたけど、『囚われた民衆』の解放、つまり、『恩の国』の深層に沈殿する『忠孝一本』の報恩感情からの解放の処方箋となると、これは簡単ではないね。」
「『忠孝一本』のフィクションが断ち切れれば天皇制は自然消滅、つまり無化していく可能性があると思うんだ。この点について山住正己氏や丸山真男氏はこんな提言をしている。『無限の古にさかのぼる縦軸を断ち切れ』と言うんだ。どういうことなのか。まず『縦軸を断ち切る作業』とは何かについて聞いてみよう。」

無限の古にさかのぼるこの縦軸(天壌無窮の皇運)を断ち切らねばならない」(山住正己)
 「そして丸山(真男)は、『天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうした中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである』と書いていた。敗戦後、教育による平和な文化国家の建設こそが、今後の日本の目標であるとされていた。これを根本から実現していくには、無限の古にさかのぼるこの縦軸を断ち切らなければならなかった。教育勅語を中軸にした教育が主役となって、天皇を万民が翼賛するという状態をつくりあげてきたのであるから、この状態の克服が戦後日本の重要な課題であると自覚するとき、再び教育の果たす役割に大きな期待がよせられることになる。」(『教育勅語』238 朝日新聞社 1980年)

「『縦軸(天壌無窮の皇運)を断ち切れ』という処方箋は理解できるね。実際、オレは神社に参拝することはないし、お祭りもテレビで見るだけだ。個人的には、“縦軸”ははるか昔に断ち切っているつもりだよ。結論的に言えば、日本の近代史を知り、さまざまな矛盾を検証して行けば、『アラブの春』ではないが『日本の春』はくると思うね。いつの日かはわからないけど…。」
「日本人に必要なのは精神革命だと言ったのはマッカーサーだけど、まず必要なのは明治以来貶められてきた“個人の復権”だね。遅ればせながら、『われ思う、ゆえにわれあり』の“個の自覚”が期待されるということだな。『出るクギは打たれる』というのは日本人の常套句だけど、『目覚めるクギ』の数が無数に増え続けることによって、日本の天皇制はロウソクが燃え尽きるように無化していくのではないか。世界で起こっている王政から共和制への心理的メカニズムを知っているからこそ、保守層は旧来の『臣民化作業』を手放さないんだよ。天皇の『元首化』をもくろむ保守層が活用するのが『君が代・日の丸』だ。」

「天皇は元首である」(中曽根私案)
 「中曽根元首相が会長を務める世界平和研究所は20日、全116条からなる『憲法改正試案』を発表した。天皇を元首と定めたほか、焦点の9条改正では、『戦争放棄』は維持しつつ、防衛軍の保持を明記、国際貢献活動への防衛軍の参加を認めた。」(2005121 朝日新聞) 

「天皇は元首・憲法改正 自民が原案」(朝日新聞)
 「自民党の憲法改正推進本部(本部長・保利耕輔元政調会長)が作成した憲法改正原案が明らかになった。天皇を『元首』とし、自衛隊を『自衛軍』と明記。有事や大災害を想定して、首相が『緊急事態』を宣言できるとし、国民が国の指示に従う義務も盛り込むなど、保守色の強い内容だ。」(2012228日)

「君が代 斉唱も監視」(朝日新聞)
 「大阪府立和泉高校(中原徹校長)の卒業式で、君が代斉唱の際、教員が起立したかどうかに加え、実際に歌ったかどうかを管理職が口の動きでチェックして府教委に報告していたことがわかった。」2012314日)

「天皇の元首化は、『戦後政治の総決算』をもくろむ保守政治家たちが戦後60余年をかけても実現できなかった夢だからね。彼らは支配装置としての『君が代・日の丸』を手放さないだろうけど、オレはあまり心配していないんだ。天皇家を含む保守層が大恩を感じているアメリカは、これからも『現人神と大恩人』という日米関係の基本を変えないということさ。アメリカは、『マッカーサー三原則』という“三種の神器”を駆使して、これからも日本の『大恩人』であり続けるだろうね。日本人が天皇制の呪縛から目覚め自立できるまでは、この状態が続くだろう。つまり日本は、『米国の従属国』であり続けるということさ。」

「国際的には米国の従属国です」(加藤周一)
1945年までは、変なことをしたけれども、日本は完全な独立国ですよ。外国に植民地にされたことはないし、従属したこともないんですね。だけど、1945年以後は、国際的には米国の従属国です。占領が終わっても半占領みたいな、外国政策に関してはほとんどインシアチブがないわけです。いまでもそうでしょう。善し悪しの問題に入る前に、そもそも、それは全く日本史上初めてのことですよ。」(『論座』5420039月 朝日新聞社)

「アメリカは『恩の国』のカラクリをすっかりお見通しなんだよ。これからも『天皇免責』を暗黙の合意事項として『日米パートナーシップ』の旗を高く掲げ続けるだろう。でもアメリカから見れば、『恩の国』の指導者や国民は風見鶏だからね、状況次第でどう変化するかわからない。日本の不安定化はアメリカの不安材料だから、在日米軍が戦力を持たない日本を防衛する、これが日米安保の本来の精神だ。でも、実態はちがうことがわかってきたね、しばらく前に“ビンのふた論”という言説があったのを覚えているかい。敗戦後『国体護持』と『天皇免罪』を確保した日本は、戦後60余年アメリカが用意した“ビン”の中に閉じ込められてきたのさ。あるいは、『天皇免責』の代償として“ビン”の中で自ら謹慎生活を送ってきたと言ってもいい。戦後日本はアメリカの従属国として経済一本でやってきた結果、一度は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言われるまでになった。でも、その『天皇免罪』がネックとなって、今もって日本は“普通の国”になっていないんだ。日本が『大人の国』・『成熟した民主主義国』として自立するためには、戦後の出発点にある『天皇免責』についての国民的議論が不可欠だと思うね。」
「異議なしだ。狂気の戦争を体験した日本人にとって、そして膨大な数の戦死者にとって、『天皇免責』とはどういう意味なのか、このあたりの議論が十分できないうちは、日本人はいつまでたっても『12才の少年』の壁を打ち破ることができないということだね。『天皇免責』を議論できなかったあの日本人が『天皇元首化』を議論している現状、この日本を見る世界の目は複雑だと思うよ。」201258


15 同窓生討論:「恩の国」()  憲法違反の校歌が山梨県立日川高校で歌い継がれる事情


【論点】「校歌の中には、時代にそぐわぬ表現がある」(『「天地の正気」創立80周年記念誌』1981年)
 山梨県立日川高校の『創立80周年記念誌』(本校の沿革)は、「校歌の中には、時代にそぐわぬ表現があるにせよ、その中に歌われた『質実剛毅』の精神は、時代を超えて引継がれてゆくべき日川のよき伝統であり、先輩・後輩をつなぐ心のきずなとして、継承を志したのであった」と記述している。
  2006517日、東京高裁は校歌の違法性にふれる判断を下し、『十分な議論が必要である』との見解を示した。しかし、伝統校を自負する日川高校は現在に至るも校歌を堅持する姿勢を崩していない。日川高校はなぜ開き直るのか、憲法違反の校歌と認識しつつ、なぜ「天皇の勅」を称える校歌に固執し続けるのか。

目次
(1)「名取君、くには敗れたが気を折っては駄目だ」(田辺七六・大政翼賛会総務・翼賛政治会総務・田辺国男第4代日川高校同窓会長〔勲一等〕の父)
(2)「私が二度目の厚生大臣になった時の日本は、敗戦の様相覆うべくもなく、惨憺たる状況下におかれていた」(広瀬久忠・元国務大臣・勲一等塩山市 名誉市民・2代日川高校同窓会長)
(3)「木戸幸一内大臣は私の恩人」(広瀬久忠)

(4)東条英機を推薦した木戸幸一
(5)「天皇語録」が語る昭和天皇と東条との関係
(6)問われる国家の品格
(7)「戦争完全放棄は天皇制を護り抜く途」(広瀬久忠)
(8)憲法9条の「抜け道」を考えた芦田委員長
(9)「自衛権」を主張した野坂参三
10)「甲府の空襲を語る」―― 座談会で語られなかったこと
11)「昨日まで私は、最先端に立って神洲日本を説いていた」(名取忠彦・元山梨県国民義勇隊副本部長・勲三等・第3代日川高校同窓会長)
12)戦後、日川高校PTA会長になった元大政翼賛会講師(芦沢碩純)
13)「一大家族国家」の源流
14)神社に立つ「慰霊の碑」
15)「正に、日川の知性にかかわる由々しき問題」(山本昌昭・第23代日川高校長)

付記 英字紙(The Japan Times )への手紙

<次回予定> 「16  続・同窓生討論」(2013年7月 更新予定)

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「『日川魂』は、如何なる時代の変動にも耐えて、永劫不滅である」(田辺国男 4代日川高校同窓会長・勲一等)
「私たちが、母校日川に限りない愛着を覚えるのは、他校に見られないその創造的な、強烈な個性ある校風である。何時いかなる時代の風潮にも右顧左眄することなく、主体性をもって独自の教育方針を貫き通して来た、その毅然たる姿勢である。『質実剛毅』『文武両道』の日川精神は、一万八千日川人の心の中に脈々として息づいており、それが何ものにも代え難い魅力なのである。『戦後の総決算』を断行しようとする中曽根総理は、行政改革に次ぐ第二弾として、教育の抜本的改革と取り組むことになった。明治維新、戦後の教育改革に次ぐ『第三の教育改革』を目指すという抜本的な構想である。(略)教育改革が、学校教育を『日川教育』の姿に立戻らせることになるであろうと、私は固く信じて疑わない。『日川魂』は、如何なる時代の変動にも耐えて、永劫不滅であると確信している。」(『同窓だよ!』第22 4頁~51984年)

「日本国民は、戦後は占領軍とアメリカ文化に屈して、マッカーサー憲法を自国の憲法として仰いでいる」(坂本通安・第22代日川高校長)
「戦前、戦中も日本国民は大きな誤ちをおかしてきたが、戦後も重大な誤りをくり返しているのではないでしょうか。戦前、戦中は、軍部や右翼の圧力に屈して、ファシズムの時流に乗り、戦後は占領軍とアメリカ文化に屈して、マッカーサー憲法を自国の憲法として仰いでいるのです。およそ、外国軍隊の占領下において、武力による威圧の下で、外国語で書かれた憲法を、独立後も尚、自国の憲法としている国家が日本国の他、どこにあるでしょうか。内容、条文が如何に立派であっても、国会の議決という立法手続きを経ていても、成立の経過と状況において、日本の憲法に相応しくなく、妥当性のないものであることは、歴史の事実が証明しています。(略)今この年代に戦後日本の総点検と抜本的改革を行なわなかったならば、我々は後世の子孫と歴史によって、時の権力に盲従し、戦前も戦後も誤りを重ねた軟弱な昭和年代の国民と評されるでありましょう。」(『同窓だよ!』第22 71984年)

「われらは、これ(国民主権)に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」(日本国憲法前文)
「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。(略)日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。…」(『解説教育六法』14 三省堂)

日本国憲法第98条(最高法規、条約、国際法規の遵守)
「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」(『解説教育六法』30 三省堂)

日本国憲法第99条(憲法尊重擁護義務)
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(『解説教育六法』30 三省堂)

「現行憲法は、天皇を救い、そして日本復興をたすけた」(廣瀬久忠)
「憲法を改正することは、何から何まで現行憲法を否定するものではない。むしろ私は、現行憲法は、天皇を救い、そして日本復興をたすけた、その功績は大きいもので、私はこれを歴史上価値あるものとして尊重して、いささかもこれを否定するものではないのである。したがって、侵略戦争を放棄して平和主義を堅く守り、また基本的人権を尊重して民主主義を堅持する点においては、現行憲法と全く同じ考えであり、ただ平和の実現ならびに福祉の実現についてのすじ道について、現行憲法の誤まりを指摘し、是正を試みようとするもので、要するにその長をとり短を補うことによって、平和的理想の境地を切り開こうとするものである。」(『無我献身』169頁~170頁 地方書院 1965年)

「私が若し開戦の決定にたいして『ベトー』したとしよう、日本は滅びる事になったであろう」(昭和天皇)
「開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であったのだから、私が若し開戦の決定に対して『ベトー』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつ〔た〕であらうと思ふ。」(『昭和天皇独白録』161 文春文庫〔注〕ベトー veto 拒否権・拒否)

「一億総懺悔論」(東久邇宮稔彦王)
「敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ。前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ。我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります。」(ウィキペディア)

「マッカーサー元帥を惜しむ」(朝日新聞・社説)
「われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。…日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった。」(『敗北を抱きしめて』下 403頁 ジョン・ダワー 岩波書店)

「さようなら、マッカーサー元帥」(NHKアナウンサー)
「NHKは、マッカーサーの離日を生中継で放送した。蛍の光のメロディーが流れる中、アナウンサーは悲痛な声で『さようなら、マッカーサー元帥』と繰り返した。学校は休みになり、マッカーサーによれば200万人が沿道で別れを惜しみ、なかには目に涙をためた人もいた。警視庁の見積もりによると、沿道で見送ったのは約20万人であったが、マッカーサーはものごとをほぼ10倍に誇張する傾向があったから、なかなか数字の辻褄はあっているように思われる。とにかく、相当な人数であった。吉田首相と閣僚たちは羽田空港でマッカーサーを見送った。天皇の代理として侍従長が、衆参両院からも代表が、羽田で見送った。」(『敗北を抱きしめて』404 ジョン・ダワー 岩波書店)

「日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥!」(『毎日新聞』)
「『白い雲を背景に』マッカーサーの専用機バターン号が飛び立つ状景に、『毎日新聞』は異常なほど興奮して次のように号泣した。『ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥! その窓から、青い麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の58ヵ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。』」(『敗北を抱きしめて』404頁~405 ジョン・ダワー 岩波書店)

「タカ派であるが故に親米家として…」(『朝日新聞』)
「米国は戦前的価値観との絶縁、という点について、どうして、西独に対するのと日本に対するのとで、違った態度をとるのか。かつてF・ルーズベルトの憎悪の対象となったような勢力が、今の日本では、タカ派であるが故に親米家として大手を振ってまかりとおるようになった。ナチスに神経質な米国人が、このことを少しも気にしないのはなぜか。」(松山幸雄 論説主幹1985526付『ヴァイツゼッカー演説の精神』230頁~231 永井清彦 岩波書店 1991年)

「反共勢力として役立つ人ならば思想、経歴を問わない」(『朝日新聞』)
「西独との違い 朝鮮戦争で米国の対日政策ががらりと変わり、反共勢力として役立つ人ならば思想、経歴をとわない、ということになった。ナチスと絶縁した西独の場合との著しい違いである。戦前的な非民主的価値観を捨てきれぬ人たちは、これですっかり安心してしまった。」(松山幸雄 論説主幹1990812付『ヴァイツゼッカー演説の精神』231 永井清彦 岩波書店1991年)   

「なぜ日本人は極端に変身するのか」(会田勇次)
 「…したがって、日本人の思考と行動を規定する道徳原理は、神の前の良心といったものではない。他人の前で『恥』をかかねばよいというだけのことになる。世間の目を逃れさえすれば、どんなことをしても自分自身の心になんらやましいことはないということになる。(略)事実、日本の捕虜は自ら希望して米国の爆撃機に乗り、日本軍の爆薬集積所から司令部から、すべてを指摘するということをした。内地爆撃の誘導に努力さえした。一瞬に徹底的な裏切り者に変化し、自分の故郷の同胞を何万と殺すことに献身協力する日本人の心情を、アメリカ人が理解できなかったのは決してふしぎではない。」(『日本人の意識構造』127頁~128 講談社1970年)

「ひとり日本国民のみが『終戦』を天下り式に与えられ…」(家永三郎)
「ドイツでも、ナチスを倒すことができなかったとはいうものの、知識人・労働者・主婦等あらゆる階層に属する人々がさまざまな方法でナチス打倒の秘密活動を行ない、多数が死刑台に登った。(略)イタリアでは、労働者がゼネストを行ない、454月の国民総蜂起の際には、いっせいに市民がたちあがって要衝を占拠し、パルチザンもなだれをうってドイツ軍の戦線に殺到した。(略)これらの例と対比するとき、ひとり日本国民のみが、戦争勢力を自らの手で打倒しその主体性において平和を回復することができず、支配層から先手をうたれはじめて『終戦』を天下り式に与えられるという受動的態度に終始したことは、いちじるしい特色を示している。」(『太平洋戦争』第二版278頁~279 岩波書店 1986年)

「国民は、そこで目がさめなかった」(笹川紀勝)
「国民は、そこで目が醒めなかったのです。国民は、そういう天皇に対して、この間までの支配者が自分たちを抑圧していたのだ、という厳しい目を持てなかった。ほとんどの国民は、それに気づかなかった。政府は、昔の君主を、できるだけ、今の国民主権のもとにおいても、君主のように扱う。それでも国民はやっぱり支持するということを政府は知ったのです。このことは、私は、忘れてはならないことだと思います。それは支配の一つの方法なのです。」(『憲法からみた「即位の礼・大嘗祭」』92頁~93 即位の礼・大嘗祭を考える小金井実行委員会)

「厚顔無恥な天皇」(星野安三郎)
「(昭和)天皇は75年には訪米するのだが、そのときの記者会見では、戦争責任について、『そういう言葉のアヤについては…文学方面はあまり研究していないので…お答えができかねます』とかわし、さらに外人記者との会見では、『戦争終結の決定は私自身でくだしました。…開戦時の場合は、内閣が決定を行いました』と答えている。開戦という都合の悪いことは責任を他に転嫁し、終戦の決定という都合のよいことは、自分がやったというのである。無責任をこえて図々しいといえるだろう。こうした厚顔無恥な天皇をたたえて、中曽根首相は、天皇『在位六十年』を祝うというのである。唖然となり、言うべき言葉もなくなる…。」(「天皇の戦争責任免罪の戦後史」『天皇制を問う』150 新日本出版社 1986年)

日本国憲法は日本人自らの手で!!」(広瀬久忠・憲法調査会委員・前自主憲法期成議員同盟会長・前参議院議員)
 「日本国憲法は自らの手で! と云うのが私の主張であります。わが国で一番大切な法である憲法は、日本人が自由の立場で、自由に考えて作らねばならないのは当然のことであります。然るに現行憲法は、あの大敗戦の後、占領軍の指図でできたものであります。素より占領軍も、民主主義の日本国、平和主義の日本国、を作り上げようとの善意をもってしたことでありますから、現行憲法には多くの長所もありますが、何んといっても、国情の全く異る米国人が、外国人の感覚で日本国に接し、外国人の理解で日本を判断して憲法の草案を作って、日本国政府に示唆したのでありますから、今の憲法がわが国情にピッタリと合わないものがあるのは止むを得ません。しかし、この欠陥がわが国政上に幾多の難問を投げ掛けていることは、想像以上のものがあり、誠に遺憾なことであります。」(『再建日本の憲法構想』要旨 1頁~2頁 非売品 1961年)

「まともな政治家を生み出さないわれわれ国民が最も悪質だ」(広瀬 )
 「わが国は、相次ぐスキャンダルによって泥まみれになってきたが、この最終的な責任が、本書で批判する官僚や政治家や実業家だけにあるのではない、という認識をわれわれ自身が持たなければならないほど、厳しい時代に入ってきた。少なくとも選挙によって政治家を選出し、その政治家が能力さえ持てば、悪質な官僚と実業家の行動を規制できる制度を持っている国である。まともな政治家を生み出さないわれわれ国民が最も悪質だ、という解釈が、アジアだけではなく、アメリカでもヨーロッパでも国際的な常識となっているのである。」(『私物国家』40 光文社 1997年)

「考える日本人に」(『朝日新聞』)
「このような思考停止傾向の背景には伝統的な無責任主義がある。とりわけ、この四半世紀の政官の無責任ぶりは目に余る。(略)私たちは『考える日本人』にならなければいけない。それには、自分とは何か、自分は人生で何をやりたいかをしっかり考えるところから始める必要がある。言い換えれば、自己の確立だ。それがはっきりしてくると、自分と他人、自分と家族、自分と社会、自分と国との関係が見えてくる。もちろん、独りよがりで考えていても意味がない。自ら考え、他の人々と十分に意見を調整し、納得の上で社会システムを構築する――これこそ、本当の民主主義社会の実現である。戦後の日本人の間違いは、自己確立の重要性に気づかず、真の民主主 義社会づくりを怠ったことだ。」(「経済12版」編集委員 早房長治 1998118

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 憲法違反の校歌が山梨県立日川高校で歌い継がれる事情


(1)「名取君、くには敗れたが気を折っては駄目だ」(田辺七六・大政翼賛会総務・翼賛政治会総務・田辺国男第4代日川高校同窓会長〔勲一等〕の父)  

A
「日川中学・高校の関係者で戦時中に活躍した指導者と言えば、田辺七六、広瀬久忠、名取忠彦の3氏が挙げられるね。七六氏は日川高校の直接の関係者ではないが、息子の田辺国男氏が同窓会長だ。彼らの敗戦前後の働きについては詳細な記録が残されているから、それらの本を見れば、日川高校に『天皇の勅』を称える校歌が残された理由がわかってくると思うよ。」
B 「『天皇の勅』を称える校歌が戦後に残されたということは、日川高校には、『天皇を中心とする神の国』が戦後も連続している証拠になるね。昨日まで『一億玉砕』のスローガンを叫んでいた田辺氏が、『くには敗れたが気を折っては駄目だ』と名取氏を激励している。戦中と戦後の思想的な差異が見られないという意味で、注目したい部分だな。このような戦争指導者たちの心理状態を解読するためのキーワードが『恩の国』ということだね。」
A「一言で言えば、『恩の国』の臣下たちの責任とは、『宸襟を安んじ奉る』ことであって、国民に向けられているわけではなかったということだ。これは194511月ごろの資料だけど、田辺七六氏が『マッカーサーが縛ってしまうというなら、その時のことだ』と言っているのをみると、自らの戦争責任など眼中にないことがわかるよ。」

「マッカーサーが縛って仕舞うと云うならその時のことだ」(田辺七六)
 「或る日、田辺七六氏 ―― その時はまだ代議士であり進歩党の最高幹部であり、政局如何では大臣候補の随一であると自他共に許していた ―― が私を訪ねて来た。勿論選挙の話である。鋭く激しい政治家であるだけに、情勢の判断は早く且つ適確である。70に近い年配とは思えぬ若々しい意気を示して(いた)。

田辺七六『名取君、くには敗れたが気を折っては駄目だ。このまゝでは崩れて仕舞うんだ。わしは今度も出て大にやるぞ。よろしく頼む』
『社会党は強いなあ(選挙に)。併し平野君一人で食い止め度いものだ。これと先ず闘わねば
ならない。』
『共産党を徹底的に叩いて廻るんだ。どんな理論であれ等を凹まそうか。良い意見があったら君も言って呉れんか。』
『時に、君は舊翼壮連中に對してはどんな指導精神で行くか』
名取忠彦『戰争に敗れた今日、今更翼壮でもないでしょうから…』
『時に大丈夫ですか。戦争責任の方は? だいぶ翼賛会や翼政会の幹部はねらわれているようですが…』
田辺七六『なあに、マッカーサーが縛って仕舞うと云うならその時のことだ。何しろ此のままでは君崩れて仕舞う! 頑張るのだ。』(略)
 要するに田辺先輩から聞き得たところで判断するに、東京における一流の政治家――舊政党幹部の押しなべての考え方は、戦争責任の問題は一応アチラ様に まかせて置いて、とに角強引に従来の立場を『保守』し度いと言うにあるらしい。」(『敗戦以後』92頁~94

「狂気の戦争を指導した『恩の国』のトップたちは、開き直りだとは思うけど、自ら戦争責任をとろうという意識はまったくなかったことがよくわかるね。加害者であった戦時中の指導者が、『打ちひしがれている国民に希望と活力を与えなければならない』と声を張り上げる。これに疑問を感じない国民の心理の中には、やはり臣民意識があると思うね。」
「『東京裁判』が始まる前に示されたこの文章から読み取れるのは、田辺氏を含む当時の政治的指導者たちには、『国民の生命や財産を守る』という考えはきわめて希薄だったということだ。『共産党を徹底的に叩いて廻るんだ』とあるから、一部国民の動きには警戒感を見せてはいるものの、選挙民は戦後も自分を支持するはずだと信じて疑っていない。『わしは今度も選挙に出て大いにやるぞ』と意気軒高だ。」
「戦争や自然災害でどんなに痛めつけられても、『城内平和』が第一だと考える国民性だね。謀反の心を懐いてはならない、平穏であれ、これが現在も続く『天皇を中心とする神の国』の掟なんだ。人的災害と自然災害を厳密に区別できない国民感情があるから、上からの『一致団結』や『絆』の号令が発せられると、あっという間に復興作業が始まるというわけだ。日本の保守政治家たちにとって、これほど御しやすい国民はいないだろうね。」

(2)「私が二度目の厚生大臣になった時の日本は、敗戦の様相覆うべくもなく、惨憺たる状況下におかれていた」(広瀬久忠・元国務大臣・勲一等塩山市名誉市民・第2代日川高校同窓会長)

「田辺七六氏と広瀬氏は同郷で、親戚筋にあたる関係だね。田辺氏についてはかなり理解できたと思うけど、広瀬氏の敗戦前後の動きについて、もう少し細かく聞いてみたいよ。」 
「『無我献身』は広瀬氏の自伝だけど、読後感を一言で言えば巧妙な『弁解の書』というところだな。まさに『昭和天皇独白録』と同じ読後感を持ったね。」
「『大本営発表』がウソや欺瞞の代名詞であることはだれもが知っているけど、広瀬氏が『国政の枢機』にいたのはその頃だから、広瀬氏自身がウソの片棒を担いでいたという見方もできる。『国政の枢機』そのものがウソの発信源だと言えるのかもしれない。」
「ウソというと品がないから美化という言葉を使うけど、『宸襟を安んじ奉る国』では『全滅』は『散華』、『撤退』は『転進』、『敗戦』は『終戦』だからね。合理性を無視した『神の国』の軍隊が英米との戦争に勝てるはずはないんだ。」

「大本営発表は虚報だった」(広瀬久忠)
「サイパン島の陥落は、太平洋戦争におけるアメリカの優位を決定的なものにした。私たちは、そう判断して米内さんを中心に語り合い、戦争終結への段階であることを確認したわけだが、しかし東条大将は退陣しても、陸軍の勢力はまだ根強く、私たちからみると、勝ち目はないと思うのだが、抗戦派の主張は支配的であった。後継内閣首班をきめる重臣会議は、やはり陸軍から出すこととして、朝鮮総督小磯国昭大将の推薦をきめたが、小磯だけでは少々頼りないとして、同時に米内大将をも推薦することとした。(略)しかし実際には、小磯は首相、米内は海相で、首相は何も相談せず、両者の間には施政方針についてさえ、話し合うこともなかったようだ。私は、米内さんについて石渡君と一緒に入閣し、彼は蔵相、私は厚相に就任したのだが、何とも心細い内閣であった。こうして、私が二度目の厚生大臣になった時の日本は、敗戦の様相覆うべくもなく、惨憺たる状況下におかれていた。前線から悲報は相次ぎ、大本営発表の虚報は、も早、国民に信用されたり、安心を与えるに至らず、国民生活は窮迫のどん底に喘ぎ、衣、食、住ともことごとく欠乏し、しかも日本全土は、サイパン島を基地とする爆撃圏内に入ってしまった結果、B29の大編隊は…」(『無我献身』117頁~119 地方書院 1965)」

「広瀬氏が大臣になったのは何年だったかね。」
「一度目は、国粋主義で知られる平沼騏一郎内閣(1939・1~19398)で厚生大臣。二度目は小磯国昭内閣(1944719454)。その時も厚生大臣だ。」
「その広瀬氏が戦後になって、『大本営発表は虚報だった』と本に書くわけだけど、広瀬氏は、当時大本営発表が『虚報であった』ことを知っていた可能性もあるね。つまり戦後の広瀬氏は、戦時中の『虚報』の実態究明に向かうのではなく、逆に『無我献身』の名を冠する自伝を出版することで、自らの責任と『大本営発表』の実態にフタをしようとしているのではないかな。『無我献身』という題名からは、むしろ責任放棄とか盲従というニュアンスが感じられるよ。」
「資料にあるように、広瀬氏は『公職追放という黒い霧』という表現をしているから、責任を追及しようとするマッカーサーに対しては敵意に近い感情を持っていただろうね。広瀬氏が『試案』として提出した『再建日本の憲法構想』(1961年)の第1原則には、『「天皇が国民統合の中心である」ことを持続発展せしめるよう、天皇に関する憲法上の制度に留意すること』とある。つまり、戦前も戦後も、広瀬氏の政治信条が天皇中心主義であったことは確かだ。『国政の枢機』にいた政治家が、死をもってしても事に当たるべきではなかったかと思った』と書くほどの気概の人物であるならば、戦後はたとえば学者として、政治とは距離を置く道を進むこともできたと思うんだ。ところがだ、選んだ道はやはり政治であり、石橋湛山、岸信介両氏の紹介で自民党へ入党したというから、驚きだよ。」

「私は、石橋湛山、岸信介両氏の紹介で自民党へ入党した」(広瀬久忠)
 「昭和2686日、日本政界を覆っていた公職追放という黒い霧が消えた。(略)追放中の生活は、格子なき牢獄とはこのことであろうか。(略)昭和284月、参議院議員第3回通常選挙の行われるに際し、地方区(山梨県)で、保守派あげての推薦を受けて出馬したが、無所属を標榜した。議員としては貴族院の経験があったが、あれは勅選であったから、選挙にのぞむのはこれが初陣であった。結果は幸いにして県民大多数の支持を得て当選し、はじめて戦後日本の国政に参加する機会を捉えることができた。(略)私はこうしてこの大きな問題(日本国憲法改正広瀬試案)を一存でやってきたが、私としても案を得た以上、緑風会にいたのではこれ以上のことはできないと考え、石橋湛山、岸信介両氏の紹介で自民党へ入党し、今後に処することにした…。」(『無我献身』154頁~160頁)

「再確認してみよう。広瀬久忠氏は、岸信介、石橋湛山の紹介で自民党に入党したと書いている。広瀬氏と石橋湛山が思想的に親密な関係にあったことを示しているね。」
「岸は開戦時の東条内閣の商工大臣、石橋湛山は第一次吉田内閣の大蔵大臣。この布陣を見ただけでも、天皇を頂点とする戦前政治の連続性は明らかだね。広瀬氏が『至誠の人』として知られていたように、岸も石橋も『至誠』という強固な絆でつながれていたということだな。『至誠』という絆とは、言い換えれば血でつながる人間関係が基礎にあると思うけど、広瀬氏と木戸幸一内大臣も血縁という意味で無関係ではなかったようだ。両者は、『ザックバランに話ができる間柄であった』と書いている。

(木戸さんは)個人的にも同じ長州系の家内の祖父、父以来の懇意な関係」(広瀬久忠)
「昭和13111日、厚生省官制の公布によって、ここに画期的な厚生省が発足したわけだが、最初は、大臣官房および体力、衛生、予防、社会、労働の5局をもって組織されたもので、初代大臣には木戸文相が兼任となり、それまで嘱託であった私は一躍、初代厚生次官に就任…(略)。木戸さんは『君、いずれは、君に譲ることになるのだよ、それから僕は兼任だし、厚生省の仕事には暗いわけだから、すべては生みの親の君に任せることにする』と、いわれた。個人的にも同じ長州系の家内の祖父、父以来の懇意な関係があり、こんな風にザクバランに話しができる間柄であったので、何をするにも非常に具合がよかったのである。」(『無我献身』82頁~83頁)

「戦時中の皇室の疎開先として塩山の広瀬氏宅が選ばれたのも、木戸幸一を恩人と考える広瀬氏の提案があったのかもしれないね。」
「昭和20年『木戸日記』には、
315日 『正午、山梨県塩山町廣瀬君方に疎開する舒子、松子、良子を新宿駅に見送る』
324日 『午前9時、廣瀬夫人来訪、鶴子、周嘉と同行、塩山に赴かる。9時半、新宿に至り、1010分発北白川宮大妃の御召列車に陪乗して塩山に赴く。列車まで見送る。』などの記述がある。また、広瀬氏はじつに頻繁に木戸と面談していることがわかるよ。よほど懇意な間柄だったんだな。」

(3)「木戸幸一内大臣は私の恩人」(広瀬久忠)

「『至誠』は、日川高校校歌2番に出てくる歌詞だね。『至誠の泉湧き出でて…』、懐かしいね。」
「そして『至誠の人』と言えば、まず広瀬久忠氏だ。年配の日川出身者なら、広瀬氏が『至誠』をウリにしていた政治家であったことを知らない人はいないと思うよ。そして、『至誠の人』につきものなのが叙勲だよ。事実、公職追放を経験した広瀬氏は、戦後19年が経過した時点で勲一等を受けている。」

「思いがけなくも勲一等に叙され…」(広瀬久忠)
 「昭和3911月、私は、思いがけなくも勲一等に叙され、瑞宝章をいただくの光栄に浴した。(略)この月16日、私は、私が社会福祉立法に貢献したゆかりをもって、福祉厚生関係の山梨県下16団体を中心とし、京浜山梨県人会連合会、日川高等学校同窓会、塩山市および山梨県共同主催による『勲一等叙勲祝賀大会』にお招きをうけ、山梨県民会館大ホールを埋める晴れの席上において、天野山梨県知事はじめ国会議員その他各界代表各位から身に余る祝辞を賜わり、その上、激励の決議までしていただいたのであった。」(『無我献身』172173頁)

「『思いがけなくも…』と言っているね。受章者のセリフはいつも同じだな。」
「平沼内閣の時、広瀬氏を厚生大臣に推薦したのは木戸幸一内大臣だけど、両者の関係を『恩人』をキーワードにして見てみるとどうなるのかね。」

「木戸幸一さんは私の恩人」(広瀬久忠)
 「木戸さんは私が近衛公にたすけられてつくって(ママ)厚生省の初代大臣で、当時、次官であった私を二代目代大臣に推薦してくれた恩人であり、その後も何かと事あるごとに相談相手になっていただいてきたのであるが、そうした接触を通じて畏敬にたえないのは、木戸さんが常に国家社会の将来に思いを寄せ、とくに天皇の行動を誤まらしめず、そのためには毀誉褒貶をよそにして心胆を砕き、わが国の今日あるをあらしめた偉大な功労者であり、不幸、戦犯に問われはしたが、徹底的な平和論者であったという事実である。」(『無我献身』137頁)

「広瀬氏の木戸評は、オレ達の感覚から見ると全く異様に映るね。天皇の側近中の側近である木戸をどう評価するのかということだよ。後述するつもりだけど、木戸は『天皇の行動を誤らしめず』という点では多大な貢献をしたかもしれないけど、『国民の生命と財産を守る』という観点からすると落第だからね。なぜこの人物が『わが国の今日あるをあらしめた偉大な功労者』となるのかということだ。」
「広瀬氏は木戸についてはっきり、『私を推薦してくれた恩人』と評価しているよ。」
「木戸から厚生大臣に推薦を受けたときは、よほどうれしかったようだ。ここにその喜びようが書かれているけど、まるで子どものようなはしゃぎようだな。」

木戸「今度の組閣に当たって、実は大蔵大臣に石渡君、そして、今まで僕の兼任であった厚生大臣に君を推薦しておいた。若い君らに期待するところは大きい。是非とも引き受けてやってくれ給え。」
広瀬 
そういわれているうち私は、自分の体がすうっと宙に浮くような感じで、うれしくて、うれしくて、何とも名状し難い気持であった。(『無我献身』8990頁)

「広瀬氏から見れば木戸は『恩人』だろうが、その恩人は、すれすれのところで絞首刑を免れたと書かれている。資料によると、木戸に対する東京裁判のジャッジは『11人中5人が死刑賛成、わずか一票差で死刑を免れた』(『木戸幸一』ウィキペディア)とあるね。」
「国民の多くは、戦争責任のすべてを東条英機にかぶせて、一件落着だ。あとは知らん顔をしている。でも、その東条を首相の座に推薦したのは木戸だということを知っている人は多くはないと思うよ。注目したいのは、開戦時の木戸・東条・昭和天皇の関係だよ。」

(4)東条英機を推薦した木戸幸一

「東条英機の名は、ヒトラーとイコールのように受け取られているけど、その東条を首相に推したのが天皇の側近の木戸幸一だったと言うんだね。この点はぜひとも確認しておきたいな。」
「A級戦犯として絞首刑になった東条の生みの親が木戸であるならば、木戸はもちろん、天皇の責任も免れないことになる。そして、『木戸さんは徹底的な平和論者であった』と言う広瀬氏の木戸評にも疑問符がつくことになる。東条はたしかに強硬派で開戦論者であったかもしれないが、東条自身が首相になりたくて手を挙げたわけじゃあないんだ。話は逆なんだよ。重臣会議で木戸から首相に推薦された東条本人は、『皇室内閣案』(東久邇案)を推したというからね。ここはとても重要だ。」

東条自身は、木戸に対して後継首相として東久邇宮を推薦していた」(木戸幸一 1017日)
 「(1941年)1017日に開かれた後継首班推薦の重臣会議は、主として木戸内大臣の発議により東条英機陸相を後継首相に推した。東条自身は、近衛の辞意が決定的となった1015日、木戸にたいし後継首相として東久邇宮を推薦していた。理由は、天皇の意向を直接聞けることと、陸海軍をまとめられるという二点にあった(『木戸幸一日記』下)。」(『日本の歴史25244頁 中央公論社)


「①直接天皇の意向を聞けること。②陸海軍をまとめられる、それが理由だと言っている。東条が東久邇宮を推薦した理由は明快だな。」
「東条は、自分よりふさわしい人物がいると逆提案したわけだ。次期内閣として『東久邇内閣案』を推す考えについては、近衛首相もいったんは乗り気になったとある。一方、名指しされた東久邇宮自身は『一皇族の戦争日記』にこんな一節を書き残しているんだよ。」

「戦争を主張する東条陸相をやめさせよ」(東久邇宮)
 「そればかりではなく東久邇宮は、近衛から出馬を要請されたとき反対に近衛に『戦争を主張する東条陸相をやめさせて、日米交渉継続に賛成の陸軍大臣を新たに任命して、第四次近衛内閣を組織』するようすすめ、近衛もいったんは乗り気になっているということもあった。(『一皇族の戦争日記』)」(『日本の歴史25246頁 中央公論社)

「東久邇が『戦争を主張する』東条陸相をやめさせ、日米交渉継続の線で『近衛案』をすすめたところ、近衛は乗り気になったというわけだね。その近衛が木戸を訪ねたのは、1015日のことだとある。そこで木戸が“難問”を突きつけるわけだ。」

「皇族に責任がくるような事態は絶対にさける」(木戸幸一)
 「近衛は東条の意向を容れ、翌15日、木戸を訪ねて東久邇内閣論をとなえた。これにたいし木戸は『東条陸相が陸海軍協調のため政策転回に同意したものなりや』と反問し、『事前に陸海一致の方針、すなわち自重的の方針』が決定されるのでなければ皇族内閣には反対である、と述べた。木戸の皇族内閣反対論には二つの面があった。その一つは、皇族に責任がくるような事態は絶対にさけるということであり、もう一つは、陸軍が自重的方針に同意するならば、96日の御前会議決定の変更は別の方法でも可能であるという判断である。後者は所謂『白紙還元の御諚』となってあらわれるのである。」(『日本の歴史25244頁~245頁)

「『96日の御前会議の決定』とは、『帝国国策遂行要領』のことだね。こう書いてある。
(1)  帝国は自存自衛を全うする為、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す。
(2)  帝国は右に並行して、米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に務む。
(3)  前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。」(『日本の歴史25232頁)

「東条が『自重的方針』をとらない限り『東久邇内閣論』は絶対ノーという結論だけど、最終的に木戸が東条を推薦し、天皇が東条に大命を下したということは、木戸や天皇は『事ここに至っては東条をきるわけにはいかない』と考え始めていたのではないか。あるいは、『収拾できるのは東条しかいない』とね。」
「ここには、『木戸は、東条にいちおう自重的態度があると判断した』と書いてあるけど、あくまで『いちおう』だ。“言質”をとったわけではない。その木戸は、1016日に東条と『腹を割って話し合った』と言うんだよ。整理するとこういう順序になる。『木戸・東条会談』の内容を『日本の歴史25』から、オレなりにまとめてみたよ。」

木戸・東条会談(1016日)
木戸「海軍が自信がなければ対米開戦はできない。96日の御前会議決定は不用意な点もあるから再検討の要がある。」
東条「(東条同感して)この(96日の御前会議の)決定は癌だ。」
 (この会談で木戸は、東条にいちおう自重的態度があると判断した。しかし、決定的に開戦阻止の見通しをもつに至ったというわけでもなかった。翌日の重臣会議での木戸発言はこのことをよく示している。)

木戸「皇室内閣の決定が開戦ということになった場合」、「皇室をして国民の怨府(えんぷ)たらしむる恐れなきにあらず。」
 (一方では〔木戸は〕、開戦になるばあいのあることを予測し、他方では、海軍が戦争に乗り気でないため、現状では96日の御前会議の決定のまま10月中に開戦決意をすることは不可能であることをよく知っている東条が後継首相としては最適である、と主張したのである。けっきょく、木戸の東条推薦の最大理由は、軍部中堅の掌中にある96日決定という『錦の御旗』に抗しうるという判断であった。その判断は116日の東条との会談にもとづくものであったろう。)
木戸(1020日、拝謁)
 「(木戸から天皇へ)今回の内閣の更迭は真に一歩誤れば不用意に戦争に突入する恐れあり、その唯一の打開策として東条を奏請した。」
天皇「いわゆる虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ずということだね。」(『日本の歴史25245頁~246頁)

「皇室内閣の下に『万が一開戦ということになった場合』、皇室が怨府(えんぷ)の的になる、これが木戸の分析なんだね。『虎穴に入らずんば…』のたとえは、実に危険な“賭け”だな。木戸は、開戦準備と外交交渉を天秤にかけている。」
「この木戸・東条会談で何が話し合われたかということだけど、木戸が果たした役割について『日本の歴史25』はこう結論づけている。『木戸が東条を推薦した最大の理由は、軍部中堅の掌中にある96日の決定という「錦の御旗」に抗しうるという判断』であったと。こんな重要な決定を、天皇を中心とする何人かの秘密会議で決めたというのだからね、メチャクチャだ。ここは重要だから、1017日の重臣会議のあたりをもう少していねいに読んでみよう。」

「木戸内大臣のはっきりした東条支持により、天皇は東条に組閣を命じた」(『日本の歴史25』)
 
「東条を推薦した1017日の重臣会議では、皇室内閣案、東条案、宇垣案、及川案の4案が論議された。(略)その他種々の意見も出たが、東条出馬にたいして重臣たちが難色を示していたことがはっきり出ている会議であった。しかし、木戸内大臣のはっきりした東条支持により、けっきょく天皇は東条に組閣を命じたのであった。大命降下と同時に、陸海相にたいして木戸から『国策の大本を決定せられますについては96日の御前会議の決定にとらわれる処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を要す』という天皇の意思が伝えられた。これがいわゆる『白紙還元の御諚』であり、これによって、10月上旬に至っても日米交渉打開の目途がたたないばあいは開戦を決意する、という決定は一応白紙に戻ったのである。」(246頁~248頁)

「この会議の席上浮上していた『宇垣案』の流れを東条に変えたのが木戸なんだね。東条に大命が降下したのは翌1018日だ。」
「気になるのは、17日の重臣会議で、重臣たちが『東条案に難色』を示していたという部分だよ。それにもかかわらず、夕方の号外で東条陸相に大命が降下のニュースが流れ、18日に『東条内閣成立』。これを知った東久邇は疑問と同時に深い憂慮を示したと書いてある。」

「木戸がなぜ東条を推薦し、また陛下がなぜこれを御採用になったか、わからない」(東久邇宮)
 「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ、開戦論者の東条を後継内閣の首班に推薦し、また陛下がなぜこれを御採用になったか、その理由が私にはわからない。私は東条に組閣の大命が降下したことに失望し、国家の前途に不安を感ずる。」(『日本の歴史25248頁)

「重臣会議は『東条案』に否定的であり、東久邇は『東条案』に不安を感じていた、そのような状況下で天皇は東条にかじ取りを命じたというわけだ。考えたいことは、天皇が言った『虎穴に入らずんば…』の“たとえ”は何を意味するのかということだね。」
「当時は『東条人気』が盛り上がっており、東条に追い風が吹いていたという状況を考慮しなければいけないと思うね。思い出すのは、加賀氏の論説だ。」

「開戦のとき、国民はお祭りのように興奮した」(加賀乙彦)
「開戦のとき、国民はお祭りのように興奮した。国中が軍国主義化した状況が確かにあった。しかし、僕の子供たちの教科書を見たとき、日本人は軍国主義に駆り出され、いやいやながら戦争していたかのように書いてある。そんなことはない。日本人は喜んで戦争し、他国を侵略した。戦後には経済的な進出に変わったが、姿勢としては変わっていない。新しいものが戦後に生まれたわけではなく、連続しているんです。」(『朝日新聞』1996717

「木戸と天皇はなぜ東条への大命降下を急いだか、それが見えてくる文章だね。『開戦のとき、国民はお祭りのように興奮した』というこの記録を見ると、木戸周辺にはこの追い風に乗ろうとする考えがあったのかもしれないな。」
「このあたりの事情について、木戸や天皇がなぜ『東条案』にOKのサインを出したのか、今度は天皇側の資料を中心に見てみよう。」

(5)「天皇語録」が語る天皇と東条との関係

「東条内閣誕生の状況について、まずはじめに、東条が推す『東久邇宮案』(皇室内閣案)を拒絶したのは木戸だったということを確認しておこう。『皇室の責任になってはならない』というのがその理由だけど、これは木戸が『天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ』の大日本帝国憲法の条項を再確認していることになる。天皇が『無答責』であることをよく理解した上で行動せよと、木戸は重臣たちに諭していることになるな。」
「『戦争責任』はお前たちがとらなければならない、そう確認しているわけだ。しかし、楽観論を捨てきれない木戸や天皇は、『短期決戦なら勝てる』という一部の軍人たちの希望的推測を過大評価して、『サプライズ・アタック』(奇襲攻撃)に向かって突き進んで行くわけだね。ということは、『虎穴に入らずば…』は東条と軍部を念頭にした“たとえ”であると同時に、『皇国の勝利』をも織り込んだ“たとえ”であったとも言えるのではないかな。」
「そういうことだろう。東条に託すということは、当然のことながら『皇国の勝利』を意識していたはずだよ。東条なら、八方塞がりの現状を突破してくれるかもしれない。運がよければ“神風”が吹いて大勝ちするかもしれない。そのような思惑があったのではないか。東条という『至誠の人』にすべてを丸投げするしか方法がなかったということだね。とにかく、東条が天皇から相当の信頼を受けていた人物だったことは確かのようだ。」

「天皇は忠実に仕える東条英機を誉め…」(ハーバート・ビックス)
 「昭和天皇は、いつの間にか、長く血塗られた第二次世界大戦への道を下り、天皇に忠実に仕える東条を誉め、対米戦争を止めようとしていた近衛を『確たる信念と勇気とを欠』くと評していた。戦後、戦犯容疑者として天皇ではなく、近衛が逮捕されたのは、いかにも皮肉なことであった。」(『昭和天皇』下 81頁)

「東条は、お上への忠節では如何なる軍人よりもぬきんでている」(木戸幸一)
 「天皇は木戸の上奏に対し、『虎穴に入らずんば虎児を得ず、だね』と答えたという。木戸は『あの期に陸軍を押さえられるとすれば、東条しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることはできない。なにしろ現役でもない。東条は、お上への忠節では如何なる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。優諚(ゆうじょう・天皇の厚い思し召し・筆者)を実行する内閣であらねばならなかった』と述べている。」(『東條英機』ウィキペディア)

「木戸は東条について『聖意を実行する逸材』と言っているけど、これは東条が天皇の意のままに動く人物であると言っていることになるね。」
「『聖意を遂行する』ためには、開戦派の東条しかいない、そう言っていることになる。」

「後継の首相は陸軍を抑へ得る力のある者であることを要した」(昭和天皇)
 「確乎たる信念を缼いた近衛は一面96日の御前会議の決定に縛られてこの間の処理に苦しみ、遂に辞表を提出して総辞職となった。(略)そこで後継の首相であるが、96日の御前会議の内容を知ったものでなければならぬし、且又陸軍を抑へ得る力のある者であることを要した。会議の内容は極秘となってゐるから、内容を知った者と云えば、会議に出席した者の中から選ばねばならぬ。東条、及川、豊田が候補に挙がったが海軍は首相を出すことに絶対反対であったので東条が首相に撰ばれることになったのである。」(『昭和天皇独白録』80頁~81 文春文庫 1995年)

「ここには『東条が首相に選ばれることになった』とさりげなく書かれているね。トーンダウンさせた筆致で描いている。激昂した軍部や国民の戦意をおさえ、冷静さを必要とする空気をつくりだすために開戦派である東条の力を必要としたと、受け身の立場であったことを強調しているんだな。」
「この文章では、『この男なら、陸軍を抑えて順調に事を運んで行くだろう』と天皇は書いている。でもね、天皇が本当に戦争に反対だったならば、『東条案』以外の選択肢を選ぶべきだったということだ。」

「この男(東条)ならば、陸軍を抑えて順調に事を運んで行くだろう」(昭和天皇)
 「東条という人物はさきに陸軍大臣時代に、大命に反して北仏印進駐をした責任者を免職して英断を振ったこともあるし(略)、克く陸軍内部の人心を把握したのでこの男ならば、組閣の際に、条件さへ付けて置けば、陸軍を抑えて順調に事を運んで行くだろうと思った。それで東条に組閣の大命を下すに当り、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事及時局は重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事を特に付け加へた。時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思ふと云ふ事は、96日の御前会議の決定を白紙に還して、平和になる様、極力尽力せよと云ふ事なのだが、之は木戸をして東条に説明させた。そしてこの条件書の写を岡〔敬純〕海軍軍務局長に渡させた。又及川を別に呼んで、極力陸海軍協調を頼んだ。東条は私の気持ちを汲んで組閣した。」(『昭和天皇独白録』80頁~81頁)

「『平和を願う天皇』の発言として、『陸軍を抑える』という戦術は理解できるね。」
「そうなんだ。わからないのは、天皇の疑問に対し東条は、『絶対に平和になるとは限らぬ』と答えたというのだ。この発言を聞いた天皇は、まかり間違えば『国民の命を危険にさらすことになる』とは考えなかったのかということなんだ。」

「陸軍の要求(東久邇宮案)は退けて東条に組閣させた」(昭和天皇)
 「近衛の手記に、東久邇宮を総理大臣に奉戴云々の記事があるが、之は陸軍が推薦したもので、私は皇族が政治の責任者になる事は良くないと思った。尤も軍が絶対的に和平保持の方針で進むと云ふなら、必ずしも(東久邇案を・筆者)拒否すべきではないと考へ木戸をして軍に相談させた処、東条の話に依れば、絶対に平和になるとは限らぬと云ふことであった。それで、若し皇族総理の際、万一戦争が起ると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思ったし又東久邇宮も之を欲して居なかったので、陸軍の要求は之を退けて東条に組閣させた次第である。」(『昭和天皇独白録』82頁)

「『陸軍の要求(東久邇宮案)は退けて東条に組閣させた』という昭和天皇の発言はおかしいね。『東久邇宮案』を出したのは東条だからね、つまり天皇は、東条が提出した『東久邇宮案』を拒否し、『お前がやれ』と東条に命令したわけだ。」
「『東久邇宮は之(首相の地位)を欲して居なかった』とある。東久邇は悲観的な見方をしていると書いているから、天皇としては、『窮余の策』として、あるいは『火中のクリを拾ってくれる人物』として、東条を指名したのではないかな。」
「その意味では、『虎穴に…』には、さらに深い意味がありそうだね。天皇やその側近は、東条に単なる軍部間の調整役としてばかりでなく、『膠着状態からの脱出』という“巨大な任務”を期待したのではないだろうかということだ。うまく行けば『大東亜共栄圏』の確立ばかりか、それ以上の成果が期待できるかもしれないと考えたのではないだろうか。」

「予定通り進むるよう首相(東条英機)に伝えよ」(昭和天皇)
 「『11281120分、東郷外相参内、米国の対案を説明言上す。形成逆転なり』と木戸は日記に書いた。のちに木戸は之で万事休すと思ったと書いている。とにかくこのハル・ノートは、戦争を回避せんとしていた勢力には決定的打撃を与えた。心配した天皇の希望によって、29日に重臣が招集されて親しく意見を述べた。(略)30日、天皇は高松宮に会ったが、そのときの話から『どうも海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたいような気持だが、いったいどうなのだろうかね』と木戸に話した。その結果、ただちに海軍大臣と軍司令部総長が呼ばれたが、いずれも『相当の確信』ありと答えたので、天皇は『予定の通り進むるよう首相に伝えよ』と木戸に命じたのであった。」(『日本の歴史25261頁 中央公論社)

「呼ばれたのは、海軍大臣と軍司令部総長だ。彼らの『相当の確信あり』をまともに受け止めたんだな。昭和天皇は『私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云うので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであらう』と『昭和天皇独白録』(84頁~85頁)の中で述べているけど、これも弁解に過ぎないと思うな。」
「結局、昭和天皇は『免罪』、そして東条は絞首刑。かわいそうだが、これは『忠臣』の宿命と言うべきだね。東京裁判での東条の証言も、彼の『忠臣』ぶりを物語る逸話だろう。」

「日本国民が天皇の意思に反した行動をすることはない」(東条英機) 
 「しかし、オーストラリアのウエッブ裁判長は、こうしたアメリカの動きに反発し、なおも、天皇を証人として召喚することにこだわった。両者の対立が最も緊迫したのは、19471231日の法廷での東条英機被告の証言であった。東条が、日本国民が天皇の意思に反した行動をすることはない、『いわんや日本の高官においてをや』と発言したことが問題とされたのである。」(『東京裁判への道』180 粟屋憲太郎 NHK 取材班 NHK出版 1994 年)

「東条は、当たり前のことを言ったにすぎない。それなのに、東京裁判では『天皇免責』を実現するため、この発言の『撤回』が強要され、天皇の身代わりとなって絞首刑になったというわけだ。『木戸の目論見通り』というべきだね。東条の遺書にはこう書いてある。『日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである』(『東条英機の遺書』ネット情報)。」
「東条は遺書の中で、『太平洋戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず戦っただけのことである』と書いている。東条は最後まで『至誠の人』であることを主張しているわけだ。逆に言えば、東条は最後まで、『自己の良心』という高みに到達できなかった人物だったということなのさ。」
「その意味では、東条を利用しつくした昭和天皇も同類だな。」

(6)問われる国家の品格

「ねずまさし氏は、開戦当時の重臣たちは『木戸にだまされたと思った』と書いているけど、そのような批判が出てきて当然だな。ねず氏は、『東条に内閣を組織させたこと自体、天皇の開戦責任は大きい』と述べているけど、これはむしろ常識的な分析だね。」
「オレはこうも考えたよ。木戸は意図的にだましたのではないと思うんだ。木戸の『天皇最優先』の判断は、東条と同じく、『宸襟を安んじ奉る』ことを使命とする者たちの限界なんだよ。彼らにとっては矛盾が合理であり、合理が矛盾であったりするからね、何でもありだ。ねず氏は、『東条の首相推薦は矛盾した論理』と書いている。」

「重臣たちは、開戦になった時、『木戸にだまされた』と思った」(ねずまさし) 
 「1017日の重臣会議で木戸は『東条が陸軍を掌握しており、海軍との協力を考えているから、主戦派だが、開戦を防止できるのではないか』と考えて、東条を首相に推せんした。矛盾した論理である。主戦派として、近衛内閣を倒した東条を、開戦防止のために推せんするというのだ。会議で若槻は開戦反対をのべ、岡田、阿部もと首相(ママ)、清浦も自重論をとなえた。岡田は木戸の主張に対して『今回の政変は軍が倒したとみるべきで、その陸相に大命降下はどんなものか』と強く反対した。それでも木戸は、強引に推せんした。近衛は、木戸が『天皇からお言葉があれば、東条は従う』といったのを信用して、賛成した。ほかの重臣たちは、開戦になった時、『木戸にだまされた』と思った。」(『天皇と昭和史』157頁~158 三一書房 1974年)

「でも、『だまされた重臣たち』はなぜ異議申し立てをしなかったのかが問われるね。たとえ『大命』ではあっても、重臣たちなら対米戦争を回避する方法はあったはずだよ。重臣たちは天皇が東条を信頼していることを知り尽くしていたということだな。」
「戦争初期に、『余り戦火が早く挙がり過ぎるよ』(木戸幸一日記・194239日)と述べた天皇の得意げな顔が浮かぶね。それほど天皇の力は絶対だったということさ。広瀬氏は木戸について、『不幸、戦犯に問われはしたが、徹底的な平和論者であった』と言ったけど、これは責任という言葉の意味を全く理解していない発言だよ。」
「無責任といえば、昭和天皇の『言葉のアヤ』発言、あれほど恥ずかしいことはないね。昭和天皇という人は、この発言が記録され、歴史に残るとは思わなかったのかね。『恩の国』のトップの言いそうなことだけど、これほど『国家の品格』を貶めた発言はないだろう。」

「戦争責任という言葉のアヤについては、よくわかりません」(昭和天皇 19751031日)
 「(戦争責任に関する記者からの質問)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。(略)(原爆投下に関する記者からの質問)原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」(「アメリカ訪問から帰って、日本記者クラブの代表50人のインタビュー」(『天皇制を問う』422 新日本出版社 1986年)

「改めてご感想をどうぞ。このセリフ…。」
「『言葉のアヤ』という発言を聞いて、歴代天皇の御製を思い出したよ。昭和天皇は、開戦時に明治天皇の御製『四方(よも)の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ』を示したというけど、御製は、『恩の国にとって戦争とは何か、平和とは何か』という問題を考えさせるね。戦争中の日本人は、『なぜ対米戦争か』わかっていなかったという。早乙女勝元氏は、『開戦理由さえ明確に説明できる大人はいなかった』とジャパン・タイムズに書いているけど、付け加えれば、天皇自身がわかっていなかったのではないかということなんだ。」
「『戦争責任という言葉のアヤについては、よくわかりません』とは、言い換えれば、人に危害を加えた成人が、取り調べの席で、『なぜなのか、理由はよくわかりません』と言っているのと同じだからね。これは、一般常識では精神的な病人だ。臣民たちは『なぜ』はわからなかったけど、『天皇のご命令なら仕方がない』と、むなしく絶叫しながら死んで行ったということだね。」
「そう、『ジリ貧論』なんていうのは、対米戦争の『戦略論』としては話にならない。軍事力で比較にならないアメリカとの戦争は、結局予想通り、『ジリ貧』から『ドカ貧』に転落してしまった。『宣戦ノ詔書』で天皇はこう言っていたんだよ。『朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス…征戰ノ目的ヲ達スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ』とね。歴史書では『開戦派』だの『和平派』だのと議論をするけど、『神の国・日本』では天皇が起こす戦争はすべて『城内平和』のための『防衛戦争』だったからね。そう言うのは千田夏光氏だ。」

「明治15年以降に日本がはじめた戦争事変は、すべて『防衛戦争』」(千田夏光)
 「この『軍人に賜はりたる勅語』は軍人において憲法をこえる聖典的存在だったが、その聖典が絶対であるかぎり明治15年以降に日本がはじめた戦争事変はすべて『天皇の国を保護する行為』によるものであ(る)。(略)もっといえば、この『天皇の国を保護するお仕事』は朝鮮人や中国人や東南アジアの人々がどううけとめようとも、平和を愛する天皇のお仕事であるかぎり、その命令によるものであるかぎり絶対に『侵略戦争』などという汚い語韻をもった戦争であるはずがないということだ。国家が保護する戦争は防衛戦争であるのだから、ここでも絶対の詭弁ではなくまさに『防衛戦争』であり皇軍将兵はそれに『従軍する栄光』を担ったということであった。」(『天皇と勅語と昭和史』4 汐文社)

「『城内平和』の維持・存続が、『恩の国』の軍隊の基軸だったということだね。『侵略戦争』なのか、『自衛戦争』なのかという話も、『城内平和』の維持発展という大義の前には大差はなくなるわけだ。」
「この議論は、日本国憲法第9条の話につながるね。『再建日本の憲法構想』を著した広瀬久忠氏は、『戦争完全放棄は天皇制を護り抜く途』と書いている。一体敗戦直後の天皇周辺は、この点についてどう考えていたのか調べてみよう。」

(7)「戦争完全放棄は天皇制を護り抜く途」(広瀬久忠)

「前々回の『13 同窓生討論』で、憲法9条の『戦争放棄』の条項はアメリカから押しつけられたものではなく、日本人の発想だとの話があったよね。あれは刺激的だったね。」
「あれは『朝日新聞』の記事だったけど、日本国憲法の『戦争放棄』の発案者が日本人であったことは驚きだったよ。」

「白鳥書簡は、巣鴨拘置所から吉田外相宛てに出された」(朝日新聞 2005814
 「(白鳥)書簡は451210日付。原文は英文で、戦犯の指名を受けて入所した巣鴨拘置所から吉田外相あてに出された。末尾には、検閲のため46120日ごろまでマッカーサー司令部に留め置かれたことが付記されている。それによると、『将来この国民をして再び外戦に赴かしめずとの天皇の厳たる確約、如何なる事態、如何なる政府の下においても(略・原文ママ)国民は兵役に服することを拒むの権利、及び国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべきこと等の条項は、新日本根本法典の礎石』になると位置付け、『憲法史上全く新機軸を出すもの』とした。そのうえで、『天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ(略・原文ママ)憲法のこの部分をして(略・原文ママ)将来とも修正不能ならしむることに依りてのみこの国民に恒久平和を保証し得べき』と述べ、戦争放棄の条項を天皇制条項と結びつけることで、天皇制を守ることもできると強調した。」

「吉田外相を通じてマッカーサーとの会談前の幣原首相に届けられた可能性が高い」(朝日新聞 2005814
 「戦争放棄を新憲法に盛り込む発想は46124日のマッカーサー・幣原会談で出たとされるが、どちらから出たのか、あるいは合作なのか論争があり、決着はついていない。120日ごろに検閲が解除され、吉田外相を通じてマッカーサーとの会談前の幣原首相に届けられた可能性が高い。」

「記事は、『9条に基になる構想が、日本側にあったことになる』と結論づけている。発見者は鈴木昭典さん(76)というドキュメンタリー番組制作者だ。憲法制定にかかわった関係者の証言テープや極東軍事裁判の記録を調査し、一連の経過をまとめたとある。白鳥から吉田外相へ、吉田外相から幣原首相へ、そこからマッカーサーに手渡されたというルートだな。」
「記事には、『9条に基になる考えが日米どちらからでたのかについては議論が分かれているが、非軍事国家を目指すことを憲法に明記する構想が、日本側にあったことになる』と書かれているね。」
「『白鳥書簡』の宛先は吉田外相とあるから、幣原を中心に、天皇を含むごく一部の人間で事を進めたということだろう。巣鴨プリズンにいた白鳥が『天皇制護持』や『天皇免責』を実現させるために日本の非武装化を進言したという事情は、学校で教えられなかったどころか、かつて『国政の中枢』にいて『再建日本の憲法構想』を発表した広瀬氏ですら把握していなかったようだ。」

「幣原首相が独断でマ元帥に9条を発意したとは信じられない」(広瀬久忠)
 「マ元帥は米国上院で、日本国憲法第9条は幣原首相の発意によるものだ、と証言した。この証言は日本国民をびっくりさせた。当時幣原首相の側近には、憲法担当の松本国務大臣もいた。多数の信頼すべき有力閣僚もおった。然るに私の聞く限りにおいては、幣原首相は第9条に該当する発意を、マ司令官にするにつき、閣僚に何らの相談もしていない。独断でマ司令官に対してのみ『絶対平和主義戦争放棄』の発意をしたと云うが如きは、どう考えても信じられないことである。然し元帥が虚偽の証言をなすが如きこともあり得ない。幣原首相は既に故人である。今日ではマ元帥の証言を信ずる外はない。またそれでよいと私は思う。」(『再建日本の憲法構想』89頁)

「なるほどね、この資料から判断すると、確かに広瀬氏はこの一件を知らなかったようだね。疑問に思うことは、広瀬氏は『信じられない』と言いつつ『それでよいと私は思う』と結論づけており、幣原首相の『独断』を解明しようとする姿勢は見せていないところだ。結果的に『国体護持』を達成できたことに満足しているんだな。広瀬氏でさえ“白鳥の一件”を知らなかったということは、この条項が全くの機密扱いにされていたことになるね。」
「天皇を中心とした作戦だとは思うけど、相談を受けなかったという意味では国会議員も一般国民も同じだと思うよ。鈴木昭典さんという人が国立国会図書館にある8000冊に上る『極東国際軍事裁判記録』の中から見つけたとあるから、朝日新聞がこれを配信するまで、日本人は『戦争放棄』に関する裏事情を知らなかったことになる。」
「つまり、この発見で、戦争完全放棄が白鳥というA級戦犯の発想であり、しかもその背後に『天皇制護持』と『天皇免責』が意図されていたということが証明されたというわけだね。憲法第1条に『免責された天皇』を据える一方で、同じ憲法の中に『戦争放棄』の条項をセットする、このストーリーはマッカーサー元帥が期待した日本支配の原則と重なっていたということだね。」
「憲法制定のこの流れについては、大枠では広瀬氏も賛同していたんだよ。」

「戦争完全放棄の憲法明記は、天皇制を護り抜く途であるとの考えではなかったか」(広瀬久忠)
 「従って天皇制を護ろうとすれば、天皇と軍国主義とを切り離すことこそ何ものにも増して重要なことであったにちがいない。そうしなければソ連、中国始めその他極東委員会関係諸国の打倒天皇制の鉾先を抑えることに危険(あぶなげ)を感じたことであろう。以下は全く私の推測であるが、幣原首相の皇室に対する忠誠心は、首相の胸を燃やしたのであろう。それは戦争完全放棄を憲法に明記して、天皇と軍国主義との関係を永久に断つことを世界に宣明することこそが、わが天皇制を護り貫く途である、との考えではなかったか?」(『再建日本の憲法構想』90頁)

「広瀬氏は、『戦争完全放棄』は『幣原首相の皇室に対する忠誠心』から来ていると言っているんだな。そして、これを肯定し、幣原首相の“独断”を認めつつ、『天皇制と戦争放棄』を世界に宣言することこそ天皇制が生き残る道だと考えていたわけだ。」

(8)憲法9条の「抜け道」を考えた芦田委員長

「ところで広瀬氏は、憲法9条に関するもう一つ問題点を指摘しているんだよ。つまり、『戦争放棄』をめぐる9条の解釈についてだけど、『マッカーサー草案』では『完全非武装』であったはずの条文を、日本側が『自衛力まで否定されたわけではない』とする解釈をもぐりこませたとする見方だよ。」
「それをやったのが芦田均委員長だったというわけだね。広瀬氏は『抜け道』とか『復芸』という言葉を何度か使っている。これらの言葉には、何か後ろめたさが感じられるね。」

「両先生(幣原首相・芦田均委員長)の政治的腹芸は、完全に目的を達した」(広瀬久忠)
 「しかも絶対平和主義の名目の下に第9条の目的とする真のねらいが何であったかは、幣原首相その人のほか、何人も知る人は無かったのであろう。マ元帥はじめ政府も国会も、一般国民も第9条、極端な戦争放棄のみに心を奪われてしまったのは当然である。(略)現に議会に於いては自衛戦争も出来ないのでは、日本国の独立は失われるのではなかろうか? との議論もあった。識見高き特別委員長(芦田)は、将来の独立国の為め、抜け道を与える修正を発意するのを忘れなかった。そしてその修正は、そのまま認められて、修正された第9条は議会を通過した。第9条原案には、天皇制護持の幣原首相の腹芸があり、第9条修正には、日本国独立の姿への芦田委員長の腹芸があり、ともに表面化することなくして現行憲法の成立を見るに至ったのである。しかも両先生の政治的腹芸は、完全に目的を達した。天皇制は護持された。自衛戦力としての自衛隊は保持された。ともに堂々たる腹芸であり且つ快心の政治であった。」(『再建日本の憲法構想』100101頁)

「『ともに表面化することなくして現行憲法の成立を見るに至った』とある。幣原首相の『腹芸』とは何かについては概略理解できたから、ここでは『芦田委員長の腹芸』を中心に考えることにしようよ。」
「現行憲法9条についての修正協議は、衆議院の特別委員会において芦田委員長の発議によって修正されたとあるね。その経緯は広瀬氏の『再建日本の憲法構想』に詳しく書かれている。」

『芦田修正』に至る経緯(広瀬久忠) 
 「マ元帥は幣原首相のこの平和主義の態度を絶賛した、そして司令部の憲法担当者に戦争の廃止の条規を指示したのではあるまいか? であるから、マ草案としてわが政府に提示された最初の条文は、完全戦争廃止を明記したこと次の通りであった。

8
 ――『国民の一主権としての戦争は之を廃止す。他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇又は使用は永久にこれを廃棄す。陸軍海軍空軍又はその他の戦力は決して許諾せらること無かる可く又交戦状態の権利は決して国家に授与せらること無かるべし。』
 この条文は明らかに自衛戦をも、自衛戦力保持をも認めないものであった。この条文は政府と司令部と協議を重ねた結果、左の改正案となって帝国議会に提出されるに至った。(『再建日本の憲法構想』
90頁~91頁)

・第9
 ――『国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手としては、永久にこれを放棄する。
陸海空軍その他の戦力はこれを保持してはならない。国の交戦権はこれを認めない。』
 
帝国議会では、この極端な平和主義の戦争放棄に対し多くの質疑が集中された。そのうち特に重大なものは『この憲法は戦争を放棄しているも、自衛の戦争までも放棄するものであればわが国の独立国たるの資格が無くなってしまうのではないか』と云うのであった。独立国は自衛権を持ち、自衛戦力の保持も自衛戦もなし得ると云うことは、世界普遍の通念である。然るに第9条はこの通念に反し、日本国の独立をそこなうものであるから、国の基本を決める日本国憲法としては適当ではない、との意見は立法の当初より深刻であったと云わねばならない。」(『再建日本の憲法構想』91頁)

・第9条政府案の修正(「芦田修正」) 
 現行憲法は第9条は、衆議院の特別委員会において、芦田委員長の発議によって修正された。
 ――『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動による戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』

私(広瀬久忠)は芦田委員長が、第9条第1項に『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』と入れたこと及び、第2項に『前項の目的を達する為め』を入れたことは非常に重大な政治的意義を含ませたものだと推定する。国際紛争解決の手段としての戦争を放棄する、と云うことは、侵略戦争はやらぬ、と云うことは当然であるが、自衛戦までもやらぬと云うことではない、と私は解釈するものである。とくに、修正において『正義と秩序を基調とする平和を希求し』としたことは『緊急不正の侵略に対する自衛戦争』を止むを得ずとすることを強く示唆せんとしたものと解し得るのである。そうすると、第9条第1項は『侵略戦争の放棄』を明定したのと同じであって、第2項に『前項の目的を達する為め』とは侵略戦争放棄と云う目的を達する為め、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない、と云う理論(清瀬理論)が生じ得るのであって、この修正によって、自衛戦力の保持は勿論、自衛戦も出来るのだ、との憲法の文理解釈も可能になるわけである。」(『再建日本の憲法構想』94頁~95頁)

「前の引用の中で広瀬氏は、『識見高き特別委員長(芦田)は、将来の独立国の為、抜け道を与える修正を発意することを忘れなかった』と書いているね。この『抜け道』こそ、『自衛力まで放棄した訳ではない』という解釈につながるわけだ。インターネットで『清瀬理論』を調べたら、『憲法9条の範囲内で再軍備可能とする理論』と書いてあったよ。最初に『抜け道』を探り当てた人は、東条英機の弁護人として知られる清瀬一郎だということだね。」
「広瀬氏の考え方によれば、天皇制護持を可能にするためには、それが『腹芸』であろうと『抜け道』であろうと、大した問題ではないということになる。白鳥元イタリア大使が示した『完全武装放棄』も『芦田修正』も、根底にあるのは『天皇制護持』と『天皇の免責』であることを確認したいね。これには司令部の同意もあったと書いてある。」

「この修正で将来日本は軍をもつことになるであろう。それでよいであろう」(マ司令部の一准将)
 「この修正について、マ司令部の了解を得る為に協議したときに司令部の一准将は『この修正で将来日本は軍をもつことになるであろう。それでよいであろう』とつぶやいたそうである。かくの如き経緯の後司令部の同意をも得て修正は帝国議会を通過して、第9条は現行の通り確定したのである。そして芦田委員長も、政府もこの制憲議会に於ては一貫して『第9条は戦争を放棄するのだ』で押し通したのである。」(『再建日本の憲法構想』95頁~96 広瀬久忠)

(9)「自衛権」を主張した野坂参三

「ここで浮上する疑問は、この一連の流れに再軍備に反対する人々がどう対応したかということだね。」
「そこなんだ。なぜ、何のために『抜け道』とか『復芸』などという陰湿な言葉が使われたかということだ。これについて興味深い観察をしているのがジョン・ダワー氏だ。」

「再軍事化に反対する者たちは『平和憲法』には非武装中立の理念がしっかり埋め込まれていると確信した」(ジョン・ダワー)
 「そのうえ、占領が続いているという状況の下では、自衛の問題は差し迫った関心になることはほとんどなかった。―― 1950年、朝鮮戦争の勃発を契機に再武装が開始された時までは。そしてその時保守派とアメリカは、芦田によるかすみのかかったようにわかりにくい修正文言の中にあった抜け穴を見つけ、逆に再軍事化に反対する者たちは『平和憲法』には非武装中立の理念がしっかりと埋め込まれていると確信し、この理念のもとに結集した。第9条はその後何十年にもわたって国家を苦しめる論争の試金石となったのである。」(『敗北を抱きしめて』下 186頁~187 岩波書店 2001年)

「ダワー氏のこの文章から見ると、『再軍事化に反対する人々』は『芦田によるかすみのかかったようにわかりにくい修正文言』に隠された『抜け穴』に気づかなかったと、そう言っていることになるね。」
9条成立の経緯について、広瀬氏はこんな資料を載せている。広瀬氏は、『当時を顧みて誠に興味ある議会の論議』として、二人の発言を取り上げているんだよ。一人は共産党の野坂参三。もう一人は東大総長で貴族院議員の南原繁だ。野坂は当時東京都選出の参議院議員で、その後共産党議長もした人だからね、関心をもって読んだよ。」

野坂参三(日本共産党) 衆議院本会議(1946628日)
 「偖(さ)て最後の第6番目の問題、これは戦争抛棄の問題です。此処には戦争一般の抛棄と云うことが書かれてありますが、戦争はわれわれの考えでは二つの種類の戦争がある。二つの性質の戦争がある。一つは正しくない不正の戦争である。是は日本の帝国主義者が満州事変以後起したあの戦争、他国征服、侵略の戦争である。是は正しくない(と)同時に侵略された国が自国を護るための戦争は、われわれは正しい戦争と言って差支えないと思う。この意味において過去の戦争において中国或いは英米その他の連合国、これは防衛的な戦争である。是は正しい戦争と云って差支えないと思う。一体この憲法草案に戦争一般抛棄と云う形でなしに、われわれはこれを侵略戦争の抛棄、斯うするのがもっとも的確ではないか、この問題についてわれわれ共産党は、斯ういう風に主張している。日本は総ての平和愛好国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、如何なる侵略戦争をも支持せず、又これに参加しない、私はこう云う風な条項がもっと的確ではないかと思う。」(『再建日本の憲法構想』92頁)

「共産党の野坂は、『自衛権も自衛戦力保持をも認めない』とするマッカーサー草案にはっきり異論を申し立てているんだ。全面的な戦争廃棄ではなく、『侵略戦争の廃棄』、これがもっとも的確ではないかとね。野坂が天皇制をどう見ていたかについては、こう書いてある。」
 一貫して天皇制に融和的であり、天皇制打倒を掲げた党の方針とは異なる立場を表明することが多かった。
 信仰対象としての皇室を容認した中央委員会との共同声明を発表した。
 新憲法の9条一項には賛成したが、自衛のための武力は保持するべきだと主張した。(『野坂参三』ウィキペディア)
「『野坂は、天皇制打倒を掲げた党の方針とは異なる立場を表明することが多かった』とあるね。それに、野坂の考えは『天皇制に融和的』だったとある。戦争を『侵略戦争』と『防衛戦争』に分け、『侵略戦争』は認めないが『防衛戦争』はOKという立場だったんだな。」
「『防衛戦争』は認めるという野坂参三の考えは、南原繁も同じだよ。」

南原繁(無所属) 貴族院本会議 (昭和21827日)
 「… 次に質疑したいことは、第2項目として所謂戦争抛棄の条章に関係してでございます。これは更生しました民主日本が、今次の不法なる戦争に対する贖罪としてでばかりでなく、進んで世界の恒久平和への日本民族の新な理想的努力を捧げるその決意を表明するものとして、われわれの賛同措ざる点でございます。(略)遺憾ながら人類種族が絶えない限り戦争があると云うのは歴史の現実であります。従って私共はこの歴史の現実を直視して少くとも国家としてこの自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考えると云うことは、これは当然のことでございます。吉田総理大臣は衆議院における御説明におきまして、これ迄自衛権と云う名の下に多くの侵略戦争が行なわれて来た、故にこれを一擲するに如かずと云う御説明であるようでありますが、これは客観的にその正当性が認められた場合でも、尚お且つ斯かる国家の自衛権を抛棄せしむとせられる御意志であるのか、即ち国際連合に加入する場合を現在の草案は予想して居ることと考えますが、その国際連合の憲章の中には、斯かる意味の国家の自衛権と云うことは承認されていると存じます。…」(『再建日本の憲法構想』92頁)

「南原は『更生した日本』という表現を使っているけど、『戦争抛棄』の理由について、『今次の不なる戦争に対する贖罪』であると考えているところは注目に値するね。でも結局は、『最小限度の兵備を考えることは当然のこと』と述べている。南原には、もっと『更生日本』の青写真を明確にして、メディアを活用しながら、『生まれかわる日本』のあるべき国家像を国民に語ってほしかったね。『贖罪としての戦争放棄』と『最小限度の軍備』の関係が明確になっていない、そう思うな。」
「興味深いのは、野坂参三や南原繁が『自衛の権利』を主張しているのとは逆に、吉田茂が『自衛権の放棄』を主張しているところだよ。吉田は、『自衛権と云う名の下に多くの侵略戦争が行なわれて来た、故にこれを一擲するに如かず』と説明したとあるけど、この文章で見るかぎり、『天皇免罪』を意識する白鳥の手法と同じだと思うな。要は、当時の日本の政治家たちが、世界の戦後秩序というものについてどう考えていたのかということだ。狂気の侵略戦争と原子爆弾を同時体験した日本の特殊事情をどう認識していたかということだよ。この再検証ができないかぎり、日本は『大恩人』であるアメリカの支配から脱することはできないと思うね。『1945年以後は、日本は国際的にはアメリカの属国だ』と言ったのは加藤周一氏だけど、日本人はそのルーツが『天皇免責』にあることを自覚すべきだね。」

10)「甲府の空襲を語る」―― 座談会で語られなかったこと

「昨今、相変わらず戦争責任を語らない戦争展や原爆展が多いね。被害の話ばかりだ。手記などを見ても、戦争の原因に触れないものがたくさん出版されている。甲府市が発行したこの本のタイトルも『甲府空襲の記録』だよ。」
「編集は『甲府市戦災誌編さん委員会』。一読して、これが被害者の視点から書かれた本だとわかるね。なぜ甲府空襲が発生したのか、日本国民はなぜ塗炭の苦しみを味わねばならかったのか、そのあたりの検証がまったくなされていないね。」
「これほどひどい目に会いながら、大日本国憲法時代の政治体制を否定する発想が生まれてこないんだな。不思議だね。戦争はこりごりだが、当時の政治体制や世相はなつかしむんだよ。戦前・戦中の政治家がそのまま戦後の政権運営を担当する、これは民主主義国では考えられない話だが、日本ではあり得るんだな。過日テレビを見ていたら、大阪の橋下という政治家が『尖閣問題』との関連で、『日本は成熟した民主主義国家』と言うのをはっきり聞いたよ。かなり石原慎太郎に似たところがあるね。でもね、本当の民主主義国家の政治家が『成熟した』などという形容詞を使うと思うかい。民主主義とは固定した概念ではないんだよ。『民主主義とは闘い続けるもの』とはジョン・ダワー氏の言葉だけど、彼らに聞かせてあげたいね。日本にはこの手の政治家が少なくないんだ。戦前の日本がどんな国であったについて、広瀬氏はこんな文章を残している。」

「戦前のわが国は、軍国主義の警察国家であった」(広瀬久忠)
 「戦前のわが国は、軍国主義の警察国家であった。従って国民の権利は不当に抑圧され且つその義務は極度に加重されていたのであった。民主主義を奉ずる占領軍当局は、この事実に対して深い憤りを感じておったことであろう。現行憲法はこの種の反動的感情のうちに作り上げられたのである。」(『再建日本の憲法構想』123頁)

「『戦前の日本は警察国家だった』、広瀬氏のこの発言は興味深いな。自伝には、広瀬自身が警察畑にいた人だと書いてある。ちょっとページをめくるだけでも、『内務省を経て岐阜県警視』、『警視庁警視』、『滋賀県警察部長』、『警視庁保安課長』…。矛盾のある記述だね。」
「戦前の日本は、『天皇の、天皇による、天皇のための国家』だったということさ。仮に広瀬氏自身に自らの戦争責任を問う気持ちがあるにしても、広瀬氏は世襲政治家だからね。もし戦争責任を告白すれば、元政友会県支部幹事長であった父親から受けた『恩』に背くことになり、結局は『皇恩』に背くことになるという筋書きをもつ政治家なんだ。」
「コネとか恩という言葉で思い出すのは、広瀬隆の『私物国家』だよ。あれは日本の政治家の姻戚関係やスキャンダルを洗い出している。」
「『私物国家』の中に『私物県政』があり、その下に『私物町政』があり、さらに『私物地域共同体』があるという構図が見えてくる本だね。『私物国家』は、中央、地方を問わず、日本の保守政治家たちが『ソン・トク』で動いていることを示す本だ。広瀬久忠氏と田辺七六氏が姻戚関係でつながり、両者が政治・経済の分野で時に応じて連携する、つまり、日本の保守政治家の原型は『世襲政治家』だと思うんだよ。『甲州人物風土記』に書かれたこの一節を見てくれよ。」

「久政(広瀬久忠の父)と田辺七六は、政友会県支部の大御所」(雨宮要七) 
「(広瀬)久政は明治358月の第7回総選挙に政友会から立候補して初当選した。続いて8回、9回と3期連続当選し、田辺七六が政友会県支部幹事長となるまで、政友会県支部の大御所としてさい配をふるっていた。」(『甲州人物風土記』75 1973年)

「このような地縁・血縁の網の目については、地方文化研究家やジャーナリストたちも無縁ではないから、どうしても批判精神は育たないことになる。この座談会(『甲府の空襲を語る』)に登場する人々の場合を見てみようよ。3人の司会者のほかに5人の出席者、計8人による座談会だ。」

・とき 1974年(昭和49年)43
 ・ところ 「古名屋別館」
 ・出席者 野口二郎氏(甲府市長)
      
名取忠彦氏(翼賛会県支部長)
      向井房恵氏(甲府市助役)
      河口親賀甲府市長
      木下勝朗甲府市助役
      注( )内の職名は当時のもの     (『甲府空襲の記録』30頁~37 発行甲府市 1974年)

「『座談会』は、戦時中の甲府市長や翼賛会県支部長の話を聞くという形式がとられている。野口氏は山梨日日新聞社社長、名取氏は山梨中央銀行頭取。二人とも戦前・戦中・戦後の山梨県の政財界の重鎮だ。」
3人の司会者の中では、編集委員の飯田文弥氏が郷土史家としてよく知られているね。」
「正直のところ、オレはこれを読んでほんとうにがっかりしたよ。司会者たちは名取氏に『翼賛会県支部長』という肩書をつけながら、なぜ『翼賛会』の果たした役割に言及しなかったのかということなんだ。戦争の真相を知ろうとする姿勢は全く感じられない。西欧のジャーナリズムではあり得ない話だよ。座談会で語られたポイントを追ってみると、八つくらいになりそうだ。」

座談会の経緯
(1)「まず、空襲の日、76日のことからお伺いいたします。」
(2)「(昭和)19年の11月頃から、B29の編隊が本土上空にやって来て、本格的な空襲が始まったわけですが、19年においては、まだ甲府市には、空襲に対する緊迫感はなかったのでしょうか。」
(3)「では空襲の状況を知らせてください。」
(4)「空襲直後の措置についてお話ください。」
(5)「『物資の配給』についてお話ください。」
(6)「名取先生、村松甚蔵さんの蒐集された南塘文庫はこの空襲で焼けたと聞いていますが…。」
(7)「医療対策はどうだったのでしょうか。」
(8)「長時間、貴重な話をありがとうございました。」

「以前、『歴史の偽造』の話が出たけど、この座談会にも『偽造』や『やらせ』の臭いが色濃く漂っているね。出てくるのは被害の話ばかりだ。」
「甲府空襲では人的被害だけでも、194577日現在で死者740人、重傷者345人、軽傷者894人、行方不明35人と報告されている(『甲府空襲の記録』15頁)。このような状況下で当時の中島賢蔵山梨県知事は何と言ったか。知事は、『この際徒らに興奮しつまらぬ流言に迷ったり、かりそめにも戦意をにぶらすようなことがあってはならない』と煽っていたんだからね。司会者には、ぜひともこの発言に切り込んでもらいたかったよ。」

11)「昨日まで私は、最先端に立って神洲日本を説いていた」(名取忠彦・山梨県国民義勇隊副本部長・勲三等・第3代日川高校同窓会長)

「敗戦後の広瀬久忠氏は、東久邇宮から声がかかって東京都長官になったけど、弟の名取氏は、広瀬氏から山梨県知事就任の話を聞かされている。さて、名取氏はどう答えたかだ。」
「名取氏は『翼賛会県支部長』とあるけど、その名取氏が、敗戦直後の山梨県の知事候補として取りざたされていたことを知る県民は少ないと思うね。本の中で名取氏は、知事就任を固辞したと書いている。」

「私が民主日本の表面に立ち現れたならば、嫌悪すべき漫画だ」(名取忠彦) 
「仮に昨日まで最先頭に立って神洲日本を説き、國民意識の昂揚とその結集に大童になっていた私などが、今日から民主がどうの自由がこうのと解り切った理屈を口にして、何の反省する時間もないうちに再び『民主國日本』の表面に立ち現れたならば、それは何という滑稽な、しかも嫌悪すべき漫画であろうか。皇國日本と叫んだ口がほんものか、民主日本を説くその口がほんものか、どちらがどちらなのだ! と問い返してやりたいような人々が、あちらこちらに早くも頭をもたげて来ている。まことに以ていゝ気なものである。少なくともこの連中の仲間入りだけは、私としては死んでも出来ないのだ。」(『敗戦以後』61頁~62頁)

「この部分は、『敗戦以後』の中で最も論理的で説得力のある部分だな。『神洲日本』を説いていた自分が『民主国日本』の表に出ることを、『滑稽』で『嫌悪すべき漫画』と表現している。日本軍ばかりでなく日本人の卑屈さを罵倒しているという意味で、内部告発的要素を秘めた文章だと言えるね。」
「そこなんだ。この論調で書き通していたら、日川高校に『天皇の勅』を称える校歌が残るはずはなかっただろう。そして、日川高校の同窓会長を引受けるにあたり、校歌の是非についての議論の必要性を提起していただろう。しかし、『大政翼賛運動の先頭に立っていた自分が民主日本の地方長官では、辻褄が合わない』と言ったかと思うと、別のところでは理解に苦しむ告白をしているんだ。前に引用したけど、重要だからもう一度引用してみるよ。」

「民選知事などにもあわよくば成って見度い。…これが『政治』というものだ」(名取忠彦)
 「なまじ戦争に便乗して來た爲に矢張り敗戦の責任を追及されそうで何となくうしろめたい。併し、そんなことを氣にして潔癖なことなどいっていたらそれこそ大変である。『指導力』も、地位も、名誉も、金もどうなるか解ったものではないのだ。ここらで何とか手を打たねばならぬではないか。時の流れが変ったなら変ったなりに、またその流れに便乗する術もあろうし策もあろうというものではないか。中央に於ける政治の動きはやがて地方へもその民主的な波動を傳えて来るであろう。さすればわれ等とてもこの波に乗りそこねてはならない。早い話が、これからの政治の在り方として当然色々な選挙が行われるであろう。その際、われらは代議士をも獲得し度いし、民選知事などにもあわよくば成って見度い。その上で金儲けもして見度いし権勢を張っても見度い。これが『政治』というものだ。」(『敗戦以後』59頁~60頁)

「天真爛漫と言ったらいいか、名取氏という同窓会長は実に率直な人だと思うね。これほどストレートに日本軍のこと、自分の周囲の諸悪を明け透けに暴露できる人はいないだろう。『翼壮』や『国民義勇隊』の中枢部にいた名取氏は、知事以下の県政の幹部たちを『腑抜け』とまで罵倒している。」

「こんな、腑抜けたような御連中と手を組んで、今さら何の国民運動ぞ」(名取忠彦)
 「知事以下県の高級役人、司令官、大日本政治会支部長、県農業会長… 等々御歴々の、例によってげっそりした、敗戦後は殊更愚かしくさえなった顔つきを眺めやって、こんな、腑抜けたような御連中と手を組んで、今更何の国民運動ぞ、と内心猛然たる反感が湧くのを私はどうすることも出来なかった。私は義勇隊本部の即時解散を山梨県知事、義勇隊本部長中島賢蔵氏に進言し、委細構わずその日取りを定めた。私は副本部長ではあったが――。中央政府からは未だ何の指令も来ていないと言う知事に對して、そんな事に構っていられるか、と言うのが私の心裡であった。かくて、少数の幹部を集めて私は山梨県国民義勇隊の解散を宣告した。」(『敗戦以後』36頁~37頁)

「大政翼賛会や大日本政治会などは、戦争による利得をおのれに確保せんとしたもの」(名取忠彦) 
 「戦争中、かの翼賛政治会や大日本政治会などは、どんな存在であったろうか。自ら称して『必勝の政治体制』とは言ったものゝ、議会人たちが此の種の獨占的な政治結社を作って、その中に立て篭ろうとしたのは、その多くが(全員とは言わぬが)民族を憂えて必勝を祈ったからでなくして、議会中心の一つの政治勢力を形成して軍や官と巧みに連絡し、時にはこれを牽制しつゝ、戦争による利得をおのれに確保せんとしたものに外ならない。この政治家たちにとっては、議会は民主主義の殿堂でも何でもなく、たゞ自己の為に権勢を保持せんとするボス連の策源地でしかなかったのだ。」〔『敗戦以後』45頁~46頁〕

「名取氏の『敗戦以後』(わが身邊の記)を読んで、オレもいろいろ考えさせられたね。『神国日本』という国の構造についてだけど、皇室の人間はもちろん、国のトップにいる政治家も、知事も軍隊の幹部も、役職につくのにコネが関与していることがよくわかったよ。やはり日本という国は、『報恩』という人間関係で営まれている社会構造なんだな。」
「コネで成り立つ『恩の国』の構造は、お互いを一人の自立した人間として信頼するという原則にはなっていないんだ。この辺りの『無尽(むじん)』の感覚と同じだな。仲良しクラブだよ。山梨県翼賛壮年団は、戦時中に『熱火憂国の同志よ!永遠の大義に生死せよ』などという檄文を配布したけど、その指導的立場にいた名取氏は皇軍の上層部がいかに腐敗したかについて、こうも語っているんだ。」

「日本の軍部は凡そ暴虐の限りをつくした」(名取忠彦)  
 「戦時中、日本の軍部は凡そ暴虐の限りをつくした。軍需会社の管理官と称する軍人たちの如きは饗応されることを当然の役徳(ママ)と心得て公然と酒色を弄んだ。これ等に對して役人や民間の指導者たちは、不甲斐なくも卑屈であった。斯くて日本は敗れたのだ。然るに今度は占領軍が征服者として君臨しよう、としているのだ。指導者たちの卑屈さも輪をかけて甚しくなるのではあるまいか。想えば暗澹たる日本の前途ではある!」(『敗戦以後』54頁~55頁)

「何か奇妙な感じがするね。内部告発をする人は、会社なり行政組織の変革を求めて声を挙げるのがふつうなのに、名取氏は逆に、天皇制という構造は全面的に支持していた人だ。体制の変革という意図は全く持っていなかったことになる。」
「同窓会長として、日川高校に『天皇の勅』の校歌を残したとしても何の不思議もないということさ。『思えば暗澹たる日本の前途である』、この部分だけはまさに同感だよ。」

12)戦後、日川高校PTA会長になった元大政翼賛会講師(芦沢碩純)

「ところで『日川魂』という言葉があるけど、どう思う? 戦後生まれのオレたちが日川高校に学んだところ、オリエンテーションなどを通して注入されたのがこの言葉だ。当時どういう意味かよくわからないまま使っていたけど、君はどう考えていた?」
「『同窓会誌』には頻繁に登場した言葉だね。オレは当時、『反骨精神』と同じではないかと思っていたよ。でも、『日川魂』や『反骨精神』が弱者の視点で語られるなら理解できるけど、日川高校の場合は逆だからね。圧倒的なパワーにあこがれる『ハングリー精神』というところかな。」
「実はね、日川高校史をさかのぼると、『日川魂の権化』と呼ばれた同窓生がいたんだよ。芦沢碩純という人物だ。芦沢氏は日川中卒業と同時にアメリカに渡り、四つの剣道場をもち、『剣道の普及と日本人二世教育に携わった』人だと紹介されている。約20年間の対米生活という異色の経歴も注目を浴びた理由の一つかも知れない。」
「アメリカ帰りの日本人が、非常時に際しての覚悟を促したというわけだな。」

「芦沢は、決戦下の日本人の覚悟について熱弁をふるった」(『日川高校物語』)
 「芦沢は昭和11年に、教育事情の視察を目的に帰国したが、当時の日本国内が外国思想の洗礼を受け、日本の国、日本の良さがそこなわれつつあると発憤して『日本精神と人物養成』という460頁に上る本をあらわした。まず母校日川中で昭和11117日に『海外よりみたる日本精神』と題する講演を皮切りに、10年間にわたる全国講演行脚の生活にはいった。230銭だった芦沢の著書『日本精神と人物養成』は“全国一家一冊必ず備えるべき待望の国民読本”ともてはやされ、時の荒木貞夫文部大臣、広瀬久忠厚生次官(元参院議員、第3回卒)らが推薦文を書いている。芦沢は国民精神総動員本部、大日本産業報国会、それに大政翼賛会の講師として北は樺太から南は沖縄まで講演行脚し、ある時は炭鉱夫を前に、またある時には徴用工に国体の精華や決戦下の日本人の覚悟について熱弁をふるった。」(102 山梨時事新聞社1967年)

「こういう経歴を見れば、芦沢氏がいかなる人物であったかについては多言を要しないと思うね。『日本精神と人物養成』のページをめくってみたけど、芦沢氏は神がかった天皇主義者と言っても言い過ぎではないだろう。『国体の本義』を通じて文部省がやろうとしたことを、個人がやったと考えればいいかも…。言うなれば、『国体の本義』の姉妹編といったところかな。本の推薦者に元警視総監で貴族院議員の丸山鶴吉の名前があり、こんな推薦文を寄せている。」

「尊敬、感謝、報恩は著者(芦沢碩純)のモットー」(丸山鶴吉)
 「序 著者は、明治28年山梨縣東山梨郡日川村に生る。(略)著者は資性温厚篤實の士にして、人情味豊に忠孝の念特に厚し。尊敬、感謝、報恩の念を持ち、愛と誠と熱の生活をなすことは、著者のモットーとするところなり。(略)今や國民精神總動員、國家超非常時局に當り、一個人としての人物教養の為めにも、一家の團欒社會の平和の為めにも、はた又、国家永遠の發展隆昌の為めにも、敢て一般同胞のご愛讀を勸むる所以である。昭和1310月」(『日本精神と人物養成』1頁~4 皇道學院出版部發行 1938年)

「ここにも『尊敬、感謝、報恩』などの言葉が並んでいるね。」
「芦沢氏が言わんとするのは、『一大家族国家観』の強調だ。それを可能にするのは『天皇陛下の御稜威』だと言っている。」

「これ全く、天皇陛下の御稜威の然らしむる処と信じ…」(芦沢碩純)
 「今回の支那事変に遭遇致しまして、戰線に於ける皇軍の忠勇義烈、向ふ處敵なき連戰連勝、鬼神をも泣かしむる盡忠報國の武者振りを目のあたりに観じ、又銃後國民の赤誠、上下心を一にして國難に當りつゝある眞の挙國一致の尊き姿を見ましては、唯々感涙に咽ぶと同時に、これ全く、天皇陛下の御稜威の然らしむる處と信じ、思はず知らず襟を正しうして宮城を遥拝し、明治神宮、靖國神社に合掌しては、皇軍の武運長久と戰捷を祈願し…」(『日本精神と人物養成』「自序」3頁)

「『日本人と人物養成』で目につくのは、この本を推薦する人々のそうそうたる顔ぶれだ。扉を飾るのは明治天皇の御製。続いて『枢密顧問官・伯爵』の金子堅太郎の名前が出てくる。そのほか頭山満、荒木貞夫陸軍大将、加藤寛治海軍大将。そして広瀬久忠氏だ。」
「金子は『至誠報國家』、頭山は『精神報國』、広瀬は『愛國』という文字を揮毫しているね。金子堅太郎はハーバード大学卒のアメリカ通だというけど、日本の『至誠報國家』の精神と西欧的な合理的精神との差異について国民に教えてほしかったね。」

13)「一大家族国家」の源流

「一つ質問してもいいかい。君は『一大家族国家』を支える報恩感情が『恩の国』日本の基本構造だという持論のようだけど、そもそも『家族国家』という考え方はいつごろできたのかね。いわば『家族国家観』の源流だけど…。」
「実は、オレもそのあたりがよくわからなかったんだ。でも、芦沢氏の本を読んで、なるほどと思ったね。芦沢氏は昭和天皇の即位の勅語の中に『家族国家観』があると指摘している。」

「御即位式の勅語に『國ヲ以テ家ト為シ』と仰せられている」(芦沢碩純)
 「今上天皇陛下御即位式の勅語に、『皇祖皇宗國ヲ建テ民ニ臨ムヤ國ヲ以テ家ト為シ民ヲ視ルコト子ノ如シ(略)』と仰せられてあります。是君民一體の一大家族國家である事を明に示し給ふ大御心と拜察し奉るのであります。でありますから、國家の繁榮に盡すことは、即ち、天皇陛下に奉仕する事であり、天皇陛下に忠を盡し奉ることは、即ち國を愛し、國の隆昌を啚(はか)ることに外ならないので、忠君の念なくして愛國の念なく、愛國なくして忠君はないのであります。」(『日本精神と人物養成』2

「天皇の即位式での『国を以て家と為し…』は、『一大家族国家』を意味すると言っているんだね。『民ヲ視ルコト子ノ如シ』という天皇の言葉は、そのまま『赤子』に置き換えられることになるね。」
「この本が書かれたのが1938年(昭和13年)だったこと、それが『国体の本義』(1937年)が出た翌年であることを考えると、『国体の本義』と芦沢氏の『日本精神と人物養成』がダブって見えるよ。明治天皇の御製が巻頭を飾っているところをみると、『一大家族国家観』は明治天皇から下達された思想だと言っていいだろう。『家族国家観』についてだけど、石田雄(たけし)という学者が興味深い論文を書いているんだ。題は『「家族国家」観の形成』。石田氏は『「家族国家」の萌芽の理由』として2点挙げている。」

「『家族国家』観の萌芽的発生」(石田 雄)
 「『万古不易』の国体の礼賛者たちによって悠久の昔から変わらないものとして『家族国家』観が説かれたにも拘らず、現実にそれが観念像として形成されたのは必ずしも古いことではない。(略)しかもそれ(家族国家観)が新しい機能を営むべき要請によって形成されたのは、ようやく20世紀に入ってからのことであった。それ以前にも、1890年(明治23年)の教育勅語において『克ク忠二克ク孝ニ』と教えられ、井上哲次郎の勅語衍義において『国君ノ臣民ニ於ケル、猶ホ父母ノ子孫ニ於ケルガ如シ、即チ一国ハ一家ヲ拡充セルモノニシテ、一国ノ君主ノ臣民ヲ指揮命令スルハ、一家ノ父母ノ慈心ヲ以テ子孫ニ吩咐スルト、以テ相異ナルコトナシ』と説かれているところに、すでに『家族国家』観の萌芽的発生を見ることができる…。」(『「天皇制」論集』125 三一書房 1974年)

「つまり、『家族国家観』の源流は『教育勅語』にあるというわけだな。」
「石田氏は、完全に『家族国家』が現われるのは1911年(明治44年)に修正を終わった修身書だと言っている。論考の最後で、『家族国家観』の成立事情についてこうも述べているんだ。」

「家族に対する感覚的情緒を国家への忠誠のために動員することによって…」(石田 雄)
 「単に権力的に国家への服従を強要しようとしても、それは却って感覚的反撥を惹起して、かりにあからさまな反抗を生まないにしても、国家からの逃避という消極的反抗を招かざるをえない。ここに服従の内面的自発性の要請される所以があるが、わが国のように順調な市民社会の成立による近代国家の自主的集権を期待しえない場合には、権力的集権が、右にのべたような限界に逢着したとき、この服従の内面的自発性に代るべき何らかの自発的要素を必要とする。このようにして先に述べた第一の変化即ち上からの国家絶対主義の強調と共に第二の変化として、下からの家族主義による支えが必要とされるのである。すなわち支配者は、政治的支配服従の関係に家族間の心情を援用することによって、権力的支配によって生ずる抵抗を緩和しようとするばかりでなく、家族に対する感覚的情緒を国家への忠誠のために動員することによって、現象的には国民の自発性を自らの支柱にすることができた。」(『「天皇制」論集』127頁~128 三一書房 1974年)

「『恩の国』という見方に理論的根拠を与えてくれる文章だね。」
「石田氏は、『政治的支配服従の関係に家族間の心情を援用することによって…』と分析しているけど、石田氏のこの文章をみたとき、思わず唸ったよ。説得力がある文章だ。それにしても、『わが国のように順調な市民社会の成立による近代国家の自主的集権を期待しえない場合…』という石田氏の指摘は的を得ていると思うね。日本は自立した個人で成り立つ国ではないと指摘しているんだ。」
「でも、この指摘が現在の日本人にも当てはまる現象であることを理解している人が何人いるかということだね。父や母、祖父母のこと、自分のこと、そして地域共同体のことを言われているのだから…。」
「オレの住む地域の神社の境内には『慰霊の碑』と書かれた黒光りのする石碑が立っているけど、あの碑に刻まれている戦死者と揮毫している人物の関係を見たとき、オレは愕然としたね。『政治的支配服従の関係』に言及する石田氏の指摘が実にリアルに響いてきたんだ。」

14)神社に立つ「慰霊の碑」

「なるほどね、この『慰霊の碑』はいろいろなことを考えさせるな。戦死者の多くは20代だ。これが君のオジさんだね。でも、君のオジさんは家の墓にはいないんだろう?」
「そう、靖国神社に祀られていると言うんだよ。そういうことになっている。2005年に、靖国神社とはどんなところか見に行ってきたけど、あの神社はまるで『家族国家観』を宗旨とする『天皇神社』あるいは『報恩神社』ではないかと思ったね。オレが疑問に思うのは、戦死したオジたちはなぜ家族の墓に眠ることができないのかということさ。オジはわが家の墓地に葬りますから、分祀させてくださいと言っても許可されないんだからね。ここに『靖国神社由緒』があるから、読んでみるよ。」

靖国神社由緒
 「当神社は明治維新の内戦(戊申戦役)において国の為、一命を捧げた人達の霊を慰めようと明治26月(1869年)明治天皇が東京招魂社として現在の位置に建てられたのが起源で、明治121月(1879年)靖国神社として改称され今日に至っている御社です。」

「この『慰霊の碑』にも、靖国神社に通じる天皇制国家の意図を感じるね。田辺七六氏の息子の国男氏が、遺族の依頼を受けて『慰霊の碑』に揮毫する。田辺氏は山梨県民が選んだ知事だけど、この碑に隠された『支配・被支配』の仕掛けを読み解こうとする人はいるのだろうか。」

 正面 慰霊の碑」
    山梨県知事田辺国男書
 裏面 ○○○区・遺族会・軍人恩給会
    昭和53324
    施工者名 〇〇〇〇〇
年令・戦没場所・(氏名省略)
 日露戦争33才 旅順 23才 奉天 25才 203高地 23才 満州
 日支事変 大東亜戦争
25才 満州開城      30才 比島     22才 ノモンハン  25才 レイテ島
26才 東部ニューギニア   20才 ニューギニア  28才 神奈川県秦野  25才 沖縄
23才 ルソン島      28才 中千島     33才 イオウ島   27才 北支那
56才 サイパン島    24才 レイテ島    25才 レイテ島   33才 ウォッチェ嶋
21才 マライ沖      35才 北支那     23才 レイテ島   20才 北支那
19才 横須賀       30才 比島      20才 東京明治ゴム 33才 ビルマ
37才 西部ニューギニア   18才 ミッドウェー   28才 ビルマ     26才 比島
32才 テニアン島    23才 比島      22才 ソ連     35才 牡丹江
22才 北支那       24才 レイテ島    24才 南方洋上   28才 ソロモン諸島

「昭和53年といえば1978年。オレはこの碑の建立の経緯について全く知らなかったね。祖母や母から何も聞いていない。建立に当たってどのような手続きがなされたのか、地元民の間でどのような話し合いが行われたのかも、今となってはわからない。」
「でも、住民がこの碑を立てる意味や意義について語り合ったとは考えられないね。村の有力者が、ある日突然『慰霊の碑』建立の話をもってきたに違いないよ。『みなさん、どうでしょう』、『戦没者たちもきっと喜ぶでしょう』、『異議なし』とね。そんな経緯だったと想像するな。」
「はっきりしていることは、設置者が地域共同体・遺族会・軍人恩給会の三者であること。戦時中の指導者であった田辺七六氏の息子が揮毫していること、この二つだ。設置者が遺族だから、当然設置費用は遺族たちが支出しただろう。オレはこの碑に隠された政治的意図を『免罪のレトリック』と呼んでいるけど、これは『報恩システム』を利用する指導者たちの常套手段だと思うね。石田氏が指摘する『政治的支配服従の関係』がこれなんだよ。遺族たちが自発的に碑の建立を申し立てた形式にして、知事である田辺氏が依頼されてこれに揮毫する。でも、遺族たち、あるいはその子孫は目覚めて欲しいね、戦争指導者の七六氏が息子の田辺氏に、『この戦争は必ず負ける』と言っていたことを…。」

「父は戦争に入る前から『この戦争は必ず負ける…』と言っていた」(田辺国男)
 「昭和208月の終戦時にも、私は東京の東洋製罐に勤めていた。(略)父は長く国の政治に関わってきていたので、簡単に東京を離れることはできなかったのだろう。日本を戦争に導いた東条軍人首相に反対しており、戦争に入る前から『この戦争は必ず負ける。日本陸軍のやり方はでたらめだ。負けたらどうするかを考えておかなければ…』といつも言っていたからなおさらだ。日本の将来を考えながら、空襲で廃墟と化していた東京に残ったと思うが、翌年の昭和21年には公職追放になってしまった。」(『緑陰閑話』107頁~108 『緑陰閑話』刊行会 2001年)

「『この戦争は必ず負ける…』と予言し若者たちを戦地に送り出した政治家が、戦後になって政治の表舞台に復帰し、その選挙地盤を継いだ息子が山梨県知事となり、国会議員となり、勲一等をもらい、そして父親が死地に追いやった兵士たちの『慰霊の碑』に揮毫する。こんな理不尽な話がなぜまかり通るのか。名取氏の言葉を借りれば、まさに『嫌悪すべき漫画』だ。同じ日本人同士でだましたり、だまされたり…、これは、『恩の国症候群』とも呼ぶべき病気だな。」
「戦死者たちは言うだろうね。『必ず負ける戦争になぜオレたちを送り出したんだ』と…。『おまえたちにオレたちを慰霊する資格はない』とね。」
「資格が無いという意味では天皇も同じだよ。天皇が参列する『終戦記念日』はまさに茶番だ。『恩の国』で開戦命令、停戦命令を出せるのは昭和天皇しかいなかったことが理解できるなら、815の『終戦記念日』に天皇が『戦没者慰霊』のために“御言葉”を捧げる欺瞞が見えてくると思うがね。保守政党が政権をたらいまわしにしている日本の政治状況では、『偽造の戦後史』が明らかになる日はいつのことになるかわからんね。」

15)「正に、日川の知性にかかわる由々しき問題」(山本昌昭・第23代日川高校長)

「山本校長が84歳でなくなられたのは昨年12月。山本校長が最初に『日川高校校歌問題』を提起したのは1985年だ。随分長い年月が経っているね。今、君が今一番言いたいことは何かね。」
「山本校長の問題提起は1985年の同窓会誌上だったけど、目に見える行動を起こしたのは、2001の『創立百周年』の年なんだ。山本校長は、『百周年記念誌』に『私が直面した二つの難題』を載せている。一つは『日川高校校歌問題』、二つ目は『白馬事件』だ。後者は日川高校生が起こした長野県白馬村のみやげ物店で起こした『集団万引き事件』だよ。」
「この文章には、『校歌問題』に関する山本校長の思いが集約されているね。校長は、『正に、日川の知性にかかわる由々しき問題』と言っている。言い換えれば『日本人の知性にかかわる由々しき問題』と言っていることにもなるね。」

 一、校歌問題 
 私は、日川高校長在任中から今日まで、2001年の創立百周年を期しての校歌改定を提唱し続けて来た者であるが、その理由をここに明記しておきたい。 日川高校歌3番の歌詞にある「天皇の勅」とは何を指すのかというに、この校歌制定の時代背景からして、「教育勅語」であることは明らかである。  そこで、教育勅語の全体的な構造を見るに、14の徳目はそれぞれみな立派であるが、そのすべてが「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」に収斂するよう位置付けられていた。ここに問題があった。敗戦後3年目の1948619日、衆・参両院は教育勅語そのものの排除・失効を明確にした。次にあげるものは、この日衆議院で可決された「教育勅語等排除に関する決議」の抜粋である。

「教育勅語等排除に関する決議」(衆議院決議)
「(前文略)既に過去の文書となっている教育勅語その他の諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明らかに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。」

 この決議文の趣旨は、まことに明確であり注釈の必要はない。同日、参議院でも「教育勅語等の失効確認に関する決議」を可決している。このようにして、教育勅語は国民の代表である衆・参両院の議員によって排除・失効を決議され、その意義を賞揚する者が、この国に再び現れないよう、法的なとどめを刺されたのである。そのような「勅」を根幹に据えた校歌を、今なお歌い続けていていいのであろうか。時の流れは、これをその侭放置することを許さなくしてしまっている。これを無視する態度は、不遜もしくは怠慢と評されても致し方あるまい。正に、日川の知性にかかわる由々しき問題なのである。

二、白馬事件(省略)
 (『創立百周年記念誌』211 2001113発行)

「この文章から、母校に対する山本校長の強い思いが伝わってくるね。感想は?」
「いろいろあるけど、強調したいのは、日川高校の体質の特異性だな。日川高校は先輩・後輩の『絆』を大切にする校風だといわれるけど、なぜ母校出身の校長提言が無視され、あげくの果てに『小突き事件』に巻き込まれなければならなかったかということだ。オレは山本校長から直接教えを受けたわけではないが、なぜ数多くの教え子の中から、『校長さんを守れ!』という声が上がらなかったのか不思議でならないね。これが前例となって、その後の校長は『日川高校校歌問題』に手がつけにくくなったことは確かだよ。」
「校歌のタブー化が強まったというわけだね。たしかに『山本提言』に耳を傾け、一緒に行動を共にしようと同窓生はまったくと言っていいほど現れなかったな。戦時中の大物政治家が戦後は母校の同窓会長として君臨し続けてきた高校だからね。母校出身の山本校長だからこそできた『日川タブー』への挑戦だったけど、“先輩”たちは聞く耳をもたなかったね。」
「でも、1981年頃の日川高校は校歌の違法性を認めていたんだよね。日川高校の『創立八十周年記念誌』には、はっきりと、『校歌の中には時代にそぐわぬ表現がある』と書かれているんだ。」

「校歌の中には、時代にそぐわぬ表現がある」(『「天地の正気」創立80周年記念誌』)
 「戦局は日増しに敗色を加え、昭和20年(1945815日、生徒たちは戦争終結の『玉音放送』を、それぞれの動員先で聴いた。(略)物心両面にわたる戦後の荒廃から立ち上って、文化国家、平和国家建設の道を歩もうとする国民の願いは、その実現の可能性を、民主的教育の確立に求めていった。(略)こうした学制の変革の中で、本校は『日川』の名称や校章、校歌を従来のままに継承した。校歌の中には、時代にそぐわぬ表現があるにせよ、その中に歌われた『質実剛毅』の精神は、時代を超えて引継がれてゆくべき日川のよき伝統であり、先輩・後輩をつなぐ心のきずなとして、継承を志したのであった。」(「本校の沿革」より 1981年発行)

「なるほど、『創立80周年記念誌』は『時代にそぐわない表現』があることを認めてはいるものの、結局『継承を志した』とあるね。『神州第一の黌』の詩が掲載されたのは2001年発行の『創立百年誌』だったけど、学校はそれより20年前の『80周年記念誌』に、校歌が憲法に違反する事実に気づいていたということだな。知っていて知らん顔をしている。」
「山本校長が一貫して意図していたことは、『創立百周年』(2001年)という節目の年と校歌の改定をリンクさせることにより、日川高校の軌道修正を図る試みだったんだよ。それに向けて山本校長は、二度にわたって同窓会総会の壇上から『校歌改定』の必要性について訴えたけど、この声に賛同した人はほとんどいなかったね。ヤジや怒号の飛び交う同窓会総会だったよ。結局日川高校は、『君が代』・『日の丸』・『天皇の勅』の三種の神器がそろった公立高校ということになる。まさに『神州第一の高校』の復活を目指すインフラ整備が完了したということだ。」
「時代の流れや変化が理解できず、伝統校、名門校という戦前・戦中の栄光に酔っている学校なんだよ。でも、日本が国際社会の一員であるかぎり、やがて『外部の声』を無視できなくなる日はくると思うね。『正に、日川の知性にかかわる由々しき問題』と訴えた山本校長の声が聞き入れられる日は遠からずくる、オレはそう信じている。」
「同感だ。」  (2012928

付記1  英字紙(The Japan Times )への手紙

Yamanashi school song rankles
 (The Japan TimesThursday, September 13, 2012)

Regarding the Korea Times editorial titled “Japan slips into retrograde”, which was reprinted in The Japan Times on Aug. 31: As a Japanese who is a member of the Society for the Annulment of Imperial Rescripts, I want the Japanese people to be courageous enough to confront the past and not be influenced by the voices of those whose minds are still buried in the rubble of war.
 My alma mater, Hikawa Senior High School of Yamanashi Prefecture, was established in 1905, yet the students continue to sing a school song that played a crucial role in sending students into battlefields. The song says, “Now is the time to do meritorious deeds with the rescript of the Emperor”.
 As all Imperial Rescripts have been made null and void since the end of World War under Article 98 of the Japanese Constitution, we think it is irrelevant for school masters and others concerned to force today’s students to sing this unconstitutional school song.
 In 2004, 17 Yamanashi residents, including me, filed a lawsuit with Kofu District Court, and in 2006, the Tokyo High Court ruled tentatively that it is questionable whether the school song conforms to principles of the Japanese Constitution based on the people’s sovereignty and the system of a symbolic Emperor.
 We have been fighting this bellicose school song in many ways for many years, but the situation has not changed. The people in charge have no ears to listen to our questions or the Tokyo High Court ruling. What shall we do, then, to prevent Japan from being perceived historically as “the Galapagos Islands”?                                                                                                     Hisashi Kasai
Koshu, Yamanashi  

(上記英文中の訂正 
1905年→1901年)

<訳>        悩み多き山梨県立日川高校校歌

       ジャパン・タイムズ 2012913日)
 831日付のジャパン・タイムズ紙に転載されたコリア・タイムズの記事、「退化する日本」に関連して、私は「天皇の勅失効確認を求める会」のメンバーとして同胞たちにこう訴えたい。「みなさん、戦争を美化する人々の声に惑わされることなく、過去と向き合う勇気を持ちましょう」と。
 私の母校である山梨県立日川高校は1901年の創立であるが、学校は戦時中に生徒たちを戦場に送り出すのに決定的な役割を果たした校歌を現在の生徒にも歌わせている。歌詞には、「天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今(すめらみことのみこともち いさおしたてむときぞいま)」と書かれている。
 第二次世界大戦後すべての「天皇の勅」は日本国憲法第98条によって失効・排除となっていることから、私たちは校長や学校関係者が憲法違反の校歌を現在の生徒に歌わせることは適切ではないと考えている。
 2004年、私を含む17人の原告は甲府地方裁判所に提訴し、2006年に東京高裁は、「日川高校の校歌の歌詞が国民主権、象徴天皇制を原理とする日本国憲法の精神に沿うものであるかについては異論がありうる」との判決を下した。
 私たちはこの好戦的な校歌と長い間さまざまな方法を通して闘い続けてきたが、状況に何らの変化もみられない。日川高校の運営に責任ある人々は、われわれの質問にも東京高裁の判決にも真摯に向き合う姿勢をみせてはいない。このような状況の下で、この日本が歴史認識上の“ガラパゴス諸島”と呼ばれるのを防ぐために、われわれは今後何をすべきなのだろうか。
                                                     河西 久

  山梨県甲州市




16(最終回)同窓生討論:「クリスチャン校長小突き事件」の背景 
 
【論点】「クリスチャン校長小突き事件」の背景

  山本昌昭第23代日川高校校長はクリスチャンであった。1985年、山本校長は母校日川の校長就任にあたり、「伝統校なるが故に、種々困惑する問題にも出会うだろう」、「私は聖書の神の加護を念じた」と書き残している。山本校長は何に悩み、母校の何を改革しようとしたのか。今回は、「山本校長小突き事件」を引き起こした日川高校や同窓会の思想的背景について討論する

 目次
(1)墓碑銘
(2)山本昌昭校長の「提言」
(3)「リメンバー白馬」
(4)「過去に目を閉ざす者は現実に盲目になる」(山本昌昭)
(5)校歌3番を「当分の間省略した」長田靖麿校長
(6)長田靖麿校長の本心
(7)有賀先生と中村公卿氏
(8)「有賀茂先生の想い出」(河西久)
(9)「児玉誉士夫は私の友人」(有賀茂)
10)「私は戦争協力を恥じていない」(有賀茂)
11)「追放解除の喜びを語る人々」(田辺七六・広瀬久忠・名取忠彦)
12)「翼壮の名取さん」――有賀先生が「慈父」と呼ぶ人の人脈 
13)安岡正篤と伝統的日本主義
14)戦前・戦中・戦後をつなぐ校歌
15)山本校長への手紙と返信
16)「戦後50年」をめぐる日川高校の校内事情(1995年)
17)「公開の質問書」と関係者からの回答(1998年)
18)「争論 日川高校歌は永遠か」(山梨日日新聞2000年)
19)「創立百周年」と「神州第一の高校」宣言(2001年)

    *********

「天皇処刑33%」(ギャラップ世論調査ワシントン・ポスト」1945629日)
処刑               33
裁判で決定            17
終身刑              11
追放                9
軍閥の道具だから何もしない     4
日本を動かすパペットに利用せよ   3
雑、回答なし           23% (『天皇観の相克』21 武田清子 岩波書店)

「天皇は同時に無責任の象徴になった」(ジョン・ダワー)
「確かに天皇を戦犯として処刑せよ、という声はありました。アメリカの議会やオーストラリアから戦争責任を問う強硬意見が出ました。しかし日本の安定、復興のために天皇は必要という意見も多かった。天皇を戦犯にすることは危険だ、天皇は日本国民のよりどころの象徴、とすべしと。これが、天皇の『戦争責任=無責任』という構図となり新たなトラブルの温床となりました。天皇は戦争の最高指揮官なのに、天皇に戦争責任はないとしたので、天皇は同時に『無責任』の象徴になってしまった。」(『潮』2月号75 2004年)

「天皇、キリスト教の国教化を考慮」(1946年〔昭和21年〕6月)
「上智大学には、バチカンとの接触について相談を受けた外国人司祭教授が、つい最近まで在籍したと伝えられる。しかも、バチカンに助けを求める発案は、天皇自身のものであったといわれる。その理由は、大戦下においてナチス・ドイツとカトリック教会との共存方針を出して来た経緯を意識してのものであったろう。事実戦後においても、ナチス党員の逃亡を手助けしたのはバチカンであった。降伏にまつわってキリスト教との縁浅からざる状況にあった日本であったが、連合軍は、好戦的国家主義の背景に国家神道のイデオロギーが在ることを読みとり、それを解体するために、キリスト教をもってしようと考えたようである。(略)天皇とマッカーサーとの会見記録はいまだに公表されていないが、そのなかにカトリック問題が含まれている可能性はきわめて高いとみるべきであろう。」(『戦後史の天皇』40 自由国民社 1986年)

「下等の異民族にわが国土の周辺を狙わせるようなことがあってはならない」(藤田東湖)
「輝かしいわが日本は、天照大神が天孫に命じたもうて以来、皇統連綿として皇位を無窮に伝えており、皇位の尊厳はあたかも日月の侵すべからざるのと同じである。したがって万世にわたって、たとえ徳が舜や禹に比敵し、知が湯王や武王にひとしいものがあらわれようとも、ただひたすら上に奉じてその天業を翼賛するばかりである。万一、禅譲の説を唱えるものがあれば、いやしくも大日本の臣民たるもの、堂々とこれを攻撃してよろしい。まして禅譲・放伐を口実に皇位をねらうものたちは、けっしてこの日本に生かしておいてはならない。ましていわんや下等の異民族にわが国土の周辺を狙わせるようなことがあってはならない。」(「弘道館記述議」『藤田東湖』235 中央公論社 1984年)

「神武天皇東征の神話は、天皇による大和支配の起源を説明するための虚構である」(津田左右吉)
 「… 津田のこの徹底した神話批判は、天皇制を賛美する支配階級や保守的学者に大きなショックを与えた。なぜなら、たとえば、津田によれば、神武天皇東征の説話は、天皇による大和支配の起源を説明するための虚構である。そうすると、日向(ひゅうが)高千穂への天孫降臨(てんそんこうりん)の伝承は作り話となり、天孫降臨に際して、天照大神がホノニニギノミコトに与えたという天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)も、天皇の日本支配を正当化するために机上で述作されたことが明らかになる。この学説が普及すれば、天皇中心主義を強調することでなりたっていた同時の教学の基本線が崩れてしまうのである。約言するならば、津田は日本神話が古代天皇制の産物であることを論証した。それはまさに日本神話の急所をつくものであった。戦前の支配階級がだまってみすごすはずはない。ファシズムの台頭とともに、津田学説は強権によって圧殺されようとした。昭和15年、主要著書4冊は発売を禁止され、津田自身も出版法違反の名によって起訴されたのである。」(『日本神話と古代国家』245頁~246 直木孝次郎 講談社学術文庫 1990年)

「内村鑑三不敬事件」(1891年・明治24年)
 「勅語発布の年の1225日、第一高等中学校(第一高等学校の前身、東京大学教養学部の前身の一つ。以下『一高』と略す)で、天皇の署名した教育勅語を受けとったので、翌年19日、倫理講堂で、教育勅語の捧読式が行なわれた。このとき参列した同校の教員や生徒は、宸書(しんしょ・明治天皇の署名)に拝礼したが、嘱託教員であった内村鑑三は、キリスト教徒としての良心から、他の人たちのように深く拝礼せず、ちょっと頭を下げただけだった。内村のこの行動が、まもなく不敬であるとして、教師・生徒ばかりでなく、多くのジャーナリズムに非難され、一高を依願解嘱となったのである。」(『教育勅語』99 山住正己 朝日選書 1980年)

「天皇への忠誠を拒否するかにみえるこのクリスチャン(内村鑑三)に、暴力団まがいの所行におよんだ」(山住正己)
 「…当時は生徒総代5人が内村宅へ押しかけ、彼を『非国民』とののしり、玄関の三畳間へ小便をして帰るという粗暴なふるまいさえあった(保科孝一『ある国語学者の回想』1952年)。これについて鹿野政直は、『国家の将来のにない手との自負にもえるかれらは、天皇への忠誠を拒否するかにみえるこのクリスチャンに、暴力団まがいの所行におよんだのであった』(西岡虎之助・鹿野政直『日本近代史』1971年)と評していた。一高生たちは、当時国家目的実現の先兵の役割を果たしており、また、それを誇りにしていたのである。」(『教育勅語』103 朝日選書 1980年)

「教育勅語体制に反する者は、キリスト者でなくても教壇から追われた」(山住正己)
 「ここに始まる『教育と宗教の衝突』をめぐっては、多くの人が論議に参加するが、見逃してならぬのは、教育勅語体制に反する者は、キリスト者でなくても、教壇から追われたことである。学問の自由と大学の自治の歴史を論ずる者であれば必ずとりあげる事件に、井上(哲次郎)と同じ帝大文科大学教授の久米邦武の論文『神道は祭天の古俗』をめぐる事件がある。この論文は、はじめ教育勅語発布の翌1891年に『史学会雑誌』に掲載されたが、翌年1月、田口卯吉が自分の主宰する雑誌『史界』に転載した。前者は学術雑誌、後者は大衆向けの歴史雑誌である。論文は、標題からも分かるように、神道の起源論を論じ、神について『我々に禍福を降し給ふならんと信じたる観念』のなかから生じたものとしていた。この論説には、勅語のいう、日本の国の始まりは宏遠であるとの主張と反するところがあった。これに対し神道家たちは久米を責め、早くも34日には彼は非職となった。ここでも久米を守る学生の運動は起こっていない。…」(『教育勅語』104頁~105 朝日選書 1980年)

「天皇陛下、あなた様にも責任がございますぞ」(平沼騏一郎)
 「…810日払暁、平沼は天皇に向かい、静かに口を開いて、『今度の敗戦については、天皇陛下、あなた様にも責任がございますぞ。なんといって皇祖皇宗の英霊に対し奉り申し訳がありますか』と言った。海軍省軍務局長保科善四郎も、『陛下は皇祖皇宗に伝へる責任があり、之に動揺あらんか陛下の責任重大也』と、ほぼ同じことを記録している。このように89日から10日の御前会議で、平沼は昭和天皇に敗戦の償いの問題を提起したようである。天皇の退位問題についても議論しなかったのだろうか。」(『昭和天皇 下』197 ハーバート・ビックス 講談社学術文庫 2005年)

「木戸は原爆とソ連の参戦の双方を『(戦争終結の)お役に立っている』『うまくいく要素となった』と見なしていた」(H・ビックス)
 「政治的に好都合であるとの理由から、近衛もソ連の参戦を『(陸軍を抑えるには)天佑であるかも知れん』と言い、木戸は原爆とソ連参戦の双方を『(戦争終結の)お役に立っている』『うまくいく要素となった』と見なしていた。権力闘争が始まっていたので、それに関与している人間にとっては、民衆が10万人死んでも、20万人死んでも、彼らが望んだ結果が得られれば問題ではなかった。結末とは、君主制がいっさい損なわれることなく、敗戦に不満を持ち暴発する勢力を統制できるようにするような戦争の終結だった。戦争の最後の場面でも、戦争の最初の場面でそうであったように、日本の『穏健派』は自力で戦争終結を積極的に図ることよりも、外圧に屈する方がましであると考えていた。」(『昭和天 下』189 ハーバート・ビックス 講談社学術文庫2005年)

「宣戦の御詔勅に泣き、再びまた終戦の詔勅に泣いた『民』に咎はない」(名取忠彦)
 「敗戦の責任は国民指導の組織自体が負うべきであって、さきに宣戦の御詔勅に泣き、再びまた終戦の御詔勅に泣いた純情そのものゝ如き『民』に何の咎(とが)があろう。道義のたい廃は、国民大衆の末端へまで押しひろげられた戦争指導の組織の中にこそ、甚しかったのだ。反省とざんげは、この組織の中に身を置いた人々のみに向って強要さるべきである。具体的に言えば、軍部、官僚、政治家其の他いかなる末端に於いてゞも、所謂指導者を以つて自ら任じた人々こそ責任を痛感し、進んでその罪を陛下と国民に謝し、率先、自らの身を敗戦の苦難の中へ投げ入れる事によって罪を犢うべきである。責任を明らかにすると言う事を単なる言葉に終わらせない為には、具体的な『行』が示されねばならない。」(『敗戦以後』44頁)

「(北朝鮮の)主体思想こそが最も儒教的な思考を反映している」(重村智計)
「社会政治的生命体論は、いまや主体思想の中心的な理論になっている。そして、この理論こそが最も儒教的な思考を反映しているのである。(略)金正日書記は、首領と党への無条件の忠誠と孝道が要求される理由を、伝統的儒教道徳による父母と子供との関係にたとえ、次のように力説した。『子供たちが父母を尊敬するのは、自分の父母が必ずしもほかの父母よりすぐれているとか、徳を得ることができるからではない。自分を生み育ててくれた恩人であるからだ。革命の義理を守る人であれば、良いときも悪いときも変わりなく、ひたすら自分の生命の母体である首領―党―大衆と、生死と運命を共にしていくものである』 みごとに、儒教道徳と主体思想の論理を連結させている。」(『北朝鮮データーブック』90頁~91 講談社現代新書 1997年)

「キリスト教抜きで、西洋流の自我の確立をはかることは不可能に近い」(河合準雄)
 「西洋人が個人の存在を強調する際に、それはキリスト教という支えをもっている。個人がイエや血筋などによって守られることなく、あくまで個人であることを主張するためには、それは父なる神との結びつきを必要とするのである。一回限りの復活の約束を信じることによってこそ、一回かぎりの個性をもった人の人生が、その存在の基礎をもち得るのである。個人を認める天の父は、従って明確な規範を持ち、それに従わないものに対しては、救済の責をもたない。日本のように、イエの流れの場合は、ただイエに属するか属さないかが大切であり、そこには規範はない。ただ、イエから出ていったものは、よそものになってしまうだけである。日本人は真に自我の確立をするためには、キリスト者にならなくてはならない、などと言う気はない。しかし、キリスト教抜きで、西洋流の自我の確立をはかることは、ほとんど不可能に近いという自覚は必要である。」(『家族関係を考える』31頁~32 講談社現代新書1980年)

         **********

 「山本校長小突き事件」の背景

(1)墓碑銘 

「山本校長が亡くなって一年だね。早いものだ。ところで、山本校長は生前中に甲府に墓地を求めたと聞いたけど、その後どうなっているのかね。」
「実はね、年末(2012年)の128日、ちょっとしたハプニングがあったんだよ。校長の墓地は甲府市内を見下ろす山の中腹にあるけど、妻も行きたいと言ってね、甲府に住む妹夫婦をさそい4人で出かけたんだ。そこはクリスチャンたちの共同墓地でね、妹の義母もその地に葬られているんだ。以前訪れたときには墓石はなかったけど、今度はつつましやかな墓石が立っていたよ。そこには『山本家』の文字はなく、こんな聖書の一節が書かれてあった。」

    我は植え

    彼は水注げり
   
    されど    
    育て給いしは
    神なり
     
     コリント前書 三章六節
 
           山本昌昭


「校長は84歳だったんだ。生まれたのが1927320日、亡くなられたのは20111217日、そう刻まれてあったよ。そのときのハプニングとは、こういうことなんだ。4人でしばらく墓石を眺めていたときのことなんだ。一人の喪服姿の男性が近づいてきたんだよ。一人、また一人とね。『だれかの墓参りだろう』と、その数が67人になるまで気がつかなかったんだ。そしてね、もしやと思う間もなく、坂を登ってくる喪服姿の山本校長夫人が見えるじゃあないか。驚いたね。奥様の方もびっくり。思わず手を取り合ってしまったよ。」
「一周忌だったんだな。」
「そうなんだ。奥様から、『きっと、主人が呼んだんですね』と言われたとき、改めて感じたね、オレはクリスチャンじゃあないけど、山本校長との出会いにはいつも何か運命的なものがあったとね。」
「校長の命日は1217日だろう? 君たちが訪れた128日といえば、パール・ハーバーの日だ。」
「そう、『リメンバー パール・ハーバー』の日だったんだ。全く意識せず出かけたんだけどね。でも、考えてみると不思議なことばかりだ。この墓石をみてくれよ。オレはね、『我は植え、彼は注げり』という字句を読んで、『日川高校校歌問題』にかけてきた校長の気持ちを思い浮かべたんだ。『同窓生討論』は15回で終了するつもりだったけど、この墓碑銘をみて考え直したね。水を注ぎ続けなければならない、校長が植えた木の苗を枯らしてはならないとね。もちろん、この字句にはクリスチャンとしての別の解釈があるにちがいないけど、この字句をみたオレは勝手にそう解釈したというわけさ。オレは1年前の山本校長の葬儀の席で、こう誓ったんだよ。これがその時読んだ弔辞だ。」

■ 弔辞「この校長を孤立させてはならない」(河西久)
「… 山本先生、先生は、歴代の校長先生方が手をつけることができなかったこの問題に初めて立ち向かった校長でした。1985年の同窓会誌に先生はこうお書きになりました。『天皇の勅は、今日的にどうつじつまを合わせようと試みても、しっくりしないものが残る箇所なので、この辺でもう一度、検討してみたいと思います』と。私はこの校長先生を応援しなければならないと思いました。この校長を孤立させてはならないと強く思いました。想像していたとおり、『質実剛毅』を校訓とする日川高校は、校歌に異論をもつ校長を許しませんでした。先生は同窓会の関係者から侮辱され、またあるときは、校歌改変を認めない同窓会の幹部から暴力を受けました。しかし、先生は勇気の人でした。クリスチャンであることが先生を支えていたと考えています。(略)山本先生、私は先生が、まっすぐな愛校心からこの問題を提起したものと思っています。しかし、先生の闘いは常に孤独でしたね。私はその闘いに参加する機会を与えられたことを何よりも誇りにしています。人間はどう生きるべきなのか、また、人間がもつ勇気とは何かについて、これからも先生の教えを学び続けるつもりです。…20111220日」

「なるほどね。そもそも、君が山本校長に初めて出会ったのはいつのことなんだい?」
「不思議な縁でね。その日のことは、まるできのうのことのように覚えているよ。今から27年前の19854月のことさ。山本先生は戦後でただ一人の在任1年の校長だけど、山本校長就任の1985年に、オレは英語講師として日川高校の教壇に立ったんだよ。全くの偶然さ。山本校長がいたからじゃあない。オレはその頃無職でね、ある人の口利きで日川高校で英語を教えることになったというわけだ。4月の初出勤の朝、職員朝礼でオレを紹介してくれたのが山本校長だったんだよ。」

(2)山本昌昭校長の「提言」

1985年といえば、例の『山本校長小突き事件』が起こった年だろう? その年、君は日川で講師を勤めたというわけだな。確かに不思議なめぐり合わせだね。」
「そうなんだ。オレが『同窓だよ!』(No.23)を読んだのはその年の秋のことさ。校歌を伝統と団結のシンボルとしてみなしている教育現場に、校歌改変を公言する校長が現れたというわけだ。オレも母校の校歌には以前から異論をもっていたから、『校長提言』を読んでびっくりしたよ。『伝統を誇る日川にこんな校長がいるのか』という驚きだった。」

「聖書に学ぶ-―校歌問題への提言―」(学校長 山本昌昭)
 「私の読書量はお恥ずかしくて口にも出せないが、私を支えてくれる言葉の多くは聖書から来ているように思う。この三月、名門日川の校長を拝命したとき、感激の中にもある種の心配がよぎった。伝統校なるが故に、種々当惑する問題にも出会うだろう、その時どうしたらよいか。このとき、すぐ頭を突いて出て来た言葉は、旧約聖書イザヤ書30章の21節だった。それはこうだ。『あなたが右に行き、あるいは左に行く時,そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。』 私はこの言葉を信じ、聖書の神の加護を念じた。
 さて、日川に来て種々の問題に直面しているが、目下私にとって最大の関心事は校歌だ。124番はいいとして、問題は3番だ。
 『質実剛毅の魂を 染めたる旗を打ち振りて 天皇の勅もち 勲立てむ 時ぞ今』

 これは一体この侭にしておいていいのだろうか。この歌詞は、敗戦後、軍国主義を鼓吹するものだとして、職員、生徒、同窓会、PTAから非難され、第12代校長、長田靖麿先生は、当分の間3番は省略するという条件で校歌の存続を決断された(同窓会機関誌『同窓だよ!』第4号 長田靖麿『回想』)
 歌詞は残し、歌うのは当分凍結といってもそれは無理だったのだろう。歌う方はお構いなしに勢いで歌うから、そっくりその侭今日まで歌い継がれて来てしまったというのが実体ではなかろうか。
 こういう歌を歌って、お国の大事に殉じた時代もあったという歴史的事実を尊重して、歌い継ぐことを積極的に意義づける主張もあった。しかし、校歌には学校の教育方針も盛り込まれる筈だ。戦前、戦中ならいざ知らず、これから未来へ向かって羽ばたこうとする生徒には、それなりに胸を張って歌えるような歌詞でなければ困る。
 
人類の歴史は、神の宇宙的経綸(りん)の所産とはいえまいか。我々日本人は、敗戦という事実の中に、神の経綸(りん)の意思を読みとる謙虚さが必要なのではあるまいか。
 かつての八紘一宇(はっこういちう)、大東亜共栄圏、王道楽土といった美名をオブラートにした帝国主義・軍国主義的国策は、すべて天皇の勅をもって推進されたものであり、これが神の審判にあって否決されたのだと解釈するなら、今どき、『天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今』などとはとても歌えない。削除か改作かあるいは温存だけして歌わぬか、道は一つだ。
 ニューヨークの国連ビルの前庭の碑文に、
 『彼(神)は、もろもろの国の間に裁きを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国に向かって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。』
 とある。これは旧約聖書イザヤ書24節の言葉だ。私に課された使命の最たるものは、どうやらこの校歌問題との対決にあるらしい。」(「日川図書館だより」19851111日発行/『戦後50 「天皇の勅」山梨県立日川高・校歌問題シンポジウムの記録』4頁「新校歌とともに21世紀を歩む日川同窓の会」発行1996年)

「この『山本提言』で気づくのは、校長を支えていたのが聖書だということだね。」
「ある重大な判断を下すとき、山本校長は人間の判断によらず、聖書にその論拠を求めたということだろう。『右に行くか、左に行くか』の判断を下すとき、『これを歩め』という神の声を聞いたというんだ。オレはクリスチャンではないけど、わかるような気がする。神の遍在を信じ、常に神とともに歩んでいる人は、重大な岐路に差しかかったとき、信頼する“同行者”の横顔を見つめるはずだ。その顔が横に振れるのを見たら立ち止まり、頷いたら一歩を歩み始める、そんな光景が浮かぶね。」
「“同行者”とはいい言葉だね。良心の“同行者”だな。『ニューヨークの国連ビルの前庭の碑文』の言わんとするところも同じだだろう。戦争を放棄するという根拠を人間の判断に置いていないところが重要だな。旧約聖書イザヤ書24節でそう教えていると言っている。良い戦争とか悪い戦争とか人間が判断するのではなく、ただ聖書が、神が、『国は国に向かって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない』と命じているからだと言うんだね。」
「原理・原則の多くを聖書に求めるということは、原理・原則をもたない宗教に生きる日本人には理解できないことかもしれんよ。」

(3)「リメンバー白馬」(1986年)

B「『同窓だよ!』(No.24)が座談会をやったのは、その翌年の1986年のことだね。テーマは『特集1・リメンバー白馬』。今ページを開いても、緊迫感あふれる座談会だったと思うね。」
A「集団万引き事件として知られる『白馬事件』をどう収束させるかは、日川の名誉に関わる大問題だったんだ。この座談会をどう展開させるか、司会者は事件を校歌や校風との関係でとらえようとしていることがわかるね。」

「校歌や校風を将来どう継承するか」(司会者)
 「今回は、この峡東の風土に根ざした天地の正気、質実剛毅の校風が、時の流れの中で、どのように継承されて来たか、そして将来、どのように受けつがれていくのが良いのか、同窓の校長先生方に話し合っていただきたいと思うわけです。」(『同窓だよ!』No.2491986113日)

B「集団万引き事件を『質実剛毅』や『文武両道』との関連で取り上げようとしたのはいいことだと思うな。校訓・教育方針と無関係のはずはないからね。でも、校長に全責任を押しつけて“一件落着”という感じはしないかい?」
A「確かに、周囲からのプレッシャーはあっただろう。状況を察した校長が自ら引責辞任、それが実態だろう。注意したいことは、『白馬事件』と山本校長の『校歌についての提言』がどう絡み合っているのかということだ。事件は山本校長が赴任して1年目に起きている。決して山本校長が辞任すればすむという問題ではないはずだよ。でもこの座談会では、山本校長に対する同情の声はあったが、校長辞任の代案となる意見は一つも出ていないんだ。」
「そのあたりがポイントだね。」
「事件のみに焦点を当てると、校則では『万引きは退学』。山本校長は、『96%進学する時代なので、高校中途退学になったら使ってくれるところなんかありません』と語っている。同席の校長たちが『退学が当然』と発言しているところをみると、山本校長のやり方次第では、規則通り生徒を退学させ、自らは辞任しない方途もあったとも考えられる。そのうえで、日川高校の“中興”を新たなスローガンに掲げてもよかったのではないかということだ。就任1年目の校長としては…。」
B「でも、そういう方向には向かわなかった。校歌擁護派にとってみれば、校長辞任でピンチを回避できる可能性が出てきたというわけか。」
「そのあたりは複雑だよ。山本校長は、同窓会誌にこんなコメントを書いているんだ。とくに、『日川人らしく』という表現に注意したいね。自ら範を垂れようとする校長の、教育者としての矜持のようなものを感じないかい?」

「日川人らしく晩節を全うしたい」(山本昌昭前校長1986113日)
「御承知のとおり、今年1月、日川の輝かしい歴史に泥を塗る事件を起こし、修復措置も不十分なまま1年でその職を辞することになりました。41日付で県教育センターへ転職を命じられましたが、柳宗悦の句、『投げられたところで起きる小法師かな』をモットーに、日川人らしく晩節を全うしたいと考えています。」(『同窓だよ!』No.2491986113日)

B「事件が起こったのは1986 1月のことだから、これはその年の秋の座談会ということになるね。」
A「山本校長辞任の引き金となったこの不祥事についてだけど、学校としてどう対処すべきであったかについて、オレは別の角度から見る必要があると思っているんだ。つまり、『校歌擁護派』と『校歌改定派』という図式からみるとどうなるかということだ。『改定派』からみれば山本校長辞任で芽生えた校歌改定の機運が摘まれることになる一方、『擁護派』の人々にとっては、まるで“神風”が吹いたと感じただろう。」
「そういう見方もできるね。山本校長は県教育センターへ移動させられたけど、もし県当局が『日川高校校歌問題』の本質を知っていたら、別の手立てを講じていたかもしれない。また、もし同窓会や教職員・生徒が『山本提言』を理解していたならば、むしろ山本校長を残し、『白馬問題』をきっかけとして、いろいろな角度から分析してもらってもよかったのではないか。同席した校長たちは、“ウミを出せ”と提言しているのだから。」
「伝統校日川の“ウミ”とは何かということだよ。」

「リメンバー白馬」座談会出席者
  山本昌昭 (中40回)前日川高校校長
       「…私が20 年振りに日川へ戻ってオヤッと思った事だが、体育科の教師の中にその傲りが感じられた。そういう傲りとでも云うものは、生徒にも自然に         伝わるのではないでしょうか。」
   町田茂雄  (中27回)元日川高校校長
        「結果として山本校長のとった措置は正しかったと思います。(略)今ここでウミを出さなければ今後に悔いを残すことになるでしょう。」
  富田佳行 (中42回)現日川高校校長
       「日川がそういう事に目ざめる時期にきていたのです。」
  町田茂雄 「山の話ではないけどね、道に迷ったら元に戻るんですよ。というのは、結局日川の原点にかえる。そして『天地の正気』になり、初代校長の方針にもど        る。それが日川の校歌となって現代に繋ってくるわけだよ。」
   上島行夫 (中35回)元日川高校校長
       「自由をはき違えちゃったので又元に戻るわけだ。」
  司会者  「…これからの国際化時代に活躍できる人材が『天地の正気』のインスピレーションと、峡東の風土に培われた日川教育によって、雲のごとく輩出するこ       とを願ってこの座談会を終らせていただきます。」(『同窓だよ!』No.2416頁~18頁)

「町田元校長は、『白馬事件』のような不祥事を二度と起こさないために、日川の原点に戻ることを提言している。いわく、『校歌・天地の正気』を理解し、『中川太郎初代校長の方針にもどれ』と処方箋を語っている。」
「司会者が『「天地の正気」のインスピレーション』と肯定的に話していることからわかるように、山本校長ととの話は全くかみ合っていないことがわかるね。」
「元校長たちが出席しているこの座談会で、『白馬事件』をきっかけとして『日川教育の原点とは何か』という論点がさらに深められていたら、意義深い座談会になっていただろう。“ウミを出せ”と言ったのは町田茂雄元校長だったけど、町田氏は『校歌に歌われる「天皇の勅」とは教育勅語である』と全校集会の場で生徒に語ったことのある校長さんだからね。この同窓会誌(No.24)を読むと、山本校長が求めていたのはさらに大がかりな精神的な改革であることがわかるよ。山本校長は、『白馬事件』との関連で、当時話題を独占していた中曽根首相と西ドイツのワイツゼッカー大統領の比較をやっているんだ。山本校長の教育理念を知るためには必読の同窓会誌だよ。1年での辞任を余儀なくされた校長の心情があふれ出ているという印象だな。」

「日川の歴史を汚した罪科の償いは、我々自身の手でやろう」(山本昌昭)
 「今度の不祥事は、体育科だけの責任ではなく、現在在籍の教師、生徒全体の責任である。光輝ある日川の歴史を汚した罪科の償いは、後輩にやらせるのではなく、我々自身の手でやろうではないか。そうでないと我々は日川の歴史で永久に戦犯扱いされるぞと(生徒・教職員に)話したわけです。『リメンバー白馬』は、そんな心境の中で使ったことばでした。」(『同窓だよ!』No.24171986年) 

「『罪科の償いは、我々自身の手でやろうではないか』と言っている。不退転の決意でこの難題に立ち向かおうとしている。このような異色の校長に、ぜひとももう1年やってもらいたかったね。その手腕を見届けたかったよ。」
「とくに『光輝ある日川の歴史を汚した罪科』という言葉が、一体どの程度教職員や生徒に届いていたかということだ。」

(4)「過去に目を閉ざす者は現実に盲目になる」(山本昌昭)

A「たしかに、“日川のウミ”と『校歌問題』がどう関連するかは難しい問題だ。しかし、もしかりに山本校長がもう1年いたならば、校長を守りつつ、全校生徒・教職員が力を合わせて新たな『日川の校風』を打ち立てようとする運動に発展していたかもしれない。座談会で窪田勝彦氏(高10回)はこんな発言をしているんだ。」

   学園祭で第二位になった『リメンバー白馬』(窪田勝彦)
 「山本先生が全校生徒を集めて、『リメンバー白馬』という言葉を残されましたね。生徒達にとって、その言葉がすごく印象的で、今年の紫風祭(学園祭)のテーマ投票で第2位だったそうですね。いわゆる自浄能力は、1718歳の子供にもちゃんとあるんですね。それが『日川魂』かなと思っています。」(『同窓だよ!』No.24 161986年)

B「山本校長の訴えが生徒に届いていたことがわかるエピソードだね。」
A「ところが、この司会者の発言を受けて、山本校長はこんな話を始めたんだよ。『リメンバー白馬』が座談会のテーマだから、少しも変ではないんだけど、山本校長が『リメンバー白馬』と『リメンバー ールハーバー』との関連に言及したとき、出席していた元校長たちはびっくりしたと思うよ。まさに『日川高校の歴史認識』を問う発言だったからね。」

「過去に目を閉ざす者は現実に盲目になる」(山本昌昭)
  昨年11月の朝日ジャーナルに『指導者の落差』というタイトルの論文が掲載された。引き合いに出されたのは、片や日本の中曽根首相であり、片や西独のワイツゼッカー大統領でした。一方を『歴史を歪める者』と酷評し、他方を『歴史に学ぶ者』と称賛したのです。
 この論文を読んだ私の友人が、私に、難局に立たされた日川の校長として、指導理念の確立に必ず役立つところがあろうと一読をすすめてくれたわけでした。
 その内容は、西ドイツのワイツゼッカー大統領が、ドイツの敗戦記念日57日に国民に訴えた演説であり、その際、ドイツが第二次大戦にヒットラーを元凶として近隣諸国にどれ程の害悪を及ぼしたか、これに目をつぶってはいかん。目をつぶれば又同じ事をしでかすと説いた。
 『過去に目を閉ざす者は現実に盲目となる。』
 そういうキャッチフレーズが西独国民に非常に受けた。それが演説のモデルにされる位高く評価されたのです。
 一方中曽根総理は軽井沢の自民党研修会で『汚辱を捨て栄光を求めて進む』とぶった。つまり過去の忌まわしいことは忘れ、栄光だけをみつめて前進していこうという主張です。日本は『八紘一宇』だとか『王道楽土』だとか、『大東亜共栄圏』など、手前勝手な理屈を仕立てて、近隣諸国を侵略し、そのためにどの位迷惑をかけたかわからないのに、そういう事には目をつぶろう、そして、戦犯を祭る靖国神社に総理が参拝し、あるいは侵略を進出という言葉でごまかしてしまう。
 あゝいうやり方はよくない。過去は過去で罪は罪でこれを直視するというのと、過去の忌まわしいことは忘れ栄光だけ見つめて進もうというのとでは雲泥の差だと、まあこういう内容のものでした。
 白馬の不祥事件後一週間、沈痛な雰囲気に包まれた侭の全校生徒に、校長から何らかの指針を与えねばならんということで、121日のLHRの時間を全校集会に切り替えました。その際の私の話は、この論文からの示唆のもとにまとめたのですが、両国首脳の比較は差しさわりがあるのでやめました。
 アメリカは日米戦で『リメンバー パール・ハーバー』を合言葉に、日本への敵がい心をあおり、戦争を完遂しました。あれとこれと事情は全く違うかもしれないけれど、われわれはこの白馬事件を絶対に忘れてはならぬ、数か月たてば、世間の人は忘れてくれるかも知れない。しかし君達は絶対忘れてはならん。『リメンバー白馬』で行こう、と考えたわけです。…」(『同窓だよ!』No.24 16頁~171986年)

「気になるのは、『リメンバー白馬』を使った山本校長の意図を、出席していた元校長たちがどう受け止めたかということだね。」
「それも含め、少しずつ山本校長の足跡を追って行くことにしよう。」

(5)校歌3番を「当分の間省略した」長田靖麿校長

「『山本提言』が日川高校の『図書館だより』に掲載されたのは19851111日。同じ年の113日発行の『同窓だよ!』(No.23)で、山本校長は口火を切ったんだ。『長田校長先生の苦悩に起ち返り、委員会でも作って再検討してみたいと思っているわけであります』(20頁)とね。『白馬事件』が起こったのは、それから2カ月後の19861月だ。」
「君が『中央線』(30号)に載せた論文が出たのは、同じ1986年だね。タイトルは?」
「『日川高校歌にみる戦後認識』だよ。日付は1986420日とある。もちろん『山本提言』を意識しての文章だけど、まずこれを見てくれ。」

「日川高校歌にみる戦後認識(その1)」(河西 久)
 「『八紘一宇』の夢を掲げた『神州日本』の野望が挫折して40年経つ。40年の月日は決して短くはない。過去の暗い記憶でさえ、遠い若き日の涙と汗の輝ける日々に脚色されてしまう。戦争で愛する子供を奪われ悲嘆にくれた母は今はなく、夫を失い路頭に迷った若き妻が白髪の老婆となり、『花も蕾の若桜…』の学徒動員の歌と歓呼に胸を弾ませたかつての紅顔の兵士は、もはや還暦を過ぎる年頃だ。敗戦の翌年この世に生を受けた私は、もうすぐ40歳になる。(略)

    安らかに眠って下さい
    過ちは繰り返しませぬから

 広島の平和記念公園内の碑に刻されたこの一文の意味を想うとき、核時代に求められている日本の役割がどのようなものでなければならないか、おのずと理解できるであろう。『戦後政治の総決算を唱える前に戦前政治の総決算を』と呼びかけた工藤氏(朝日新聞編集委員―1986416)に、私はつよく賛同する。また校長という立場にありながら自らの校歌に疑問を投げかけた第12代日川高校校長長田靖麿氏の苦悩は、母校を思う多くの同窓生の苦悩でもあると私は信じているのである。」(『中央線』第30 1986420日)

「『長田校長先生の苦悩』という表現は、今考えれば事実誤認の感があるね。長田氏は、今日では校歌を守り抜いた偉大な校長として評価されている人物だ。」
「確かに、第12代長田靖麿校長は『校歌擁護派』だ。その校長が『校歌3番を当分の間省略することに(した)』というのだからね。これには裏がありそうだ。『校歌を守った校長』として長田校長を称える日川高校や同窓会は、その校長がなぜ校歌3番を『当分の間省略』しなければならなかったのか、その理由を明らかにする必要があると思うな。」

「『回想』-『天皇の勅もち』の第3節を当分の間省略することに…」(第12代長田靖麿校長)
「… 次に校章と校歌についての想出です。高等学校再編成で県下殆んどの高校で之が問題となった時である。日川も又同様でした。創立当時の二中を図案化した校章は、当然改めるべきだとか、『天皇の勅もち』の校歌は軍国主義を鼓吹するものだ、という考え方が職員にも生徒にも、同窓会・PTAにも強かった。校章は勿論学校の歴史的シンボルであり、校歌については『天皇の勅もち』の第3節を当分の間省略することに、各方面の同意を得て今に至るまで、そのままである事は心楽しい想い出です。…」(『同窓だよ』No.441966年)

「最後の部分が難解だ。『校歌については「天皇の勅もち」の第3節を当分の間省略することに、各方面の同意を得て今に至るまで、そのままである事は心楽しい思い出です』と書いている。長田校長の在任期間は1950年(昭和25年)3月から1957年(昭和32年)3月までの7年間だ。」
「まず第一に、『各方面』とは誰なのかね。また、『当分の間』とはどういう意味なのか。『当分の間』とは穿った考えをすれば、“騒ぎ”が収束するまで様子をみようと、そのような決定で『各方面の同意を得た』とも読める。わかりにくいのは、『今に至るまで、そのままである事は心楽しいことである』と述べている部分だ。」
「そこなんだ。『3番を省略したことがそのままであることは、心楽しいことだった』となると、意味不明だ。教職員やPTAなどから校歌改変要求が起ったのは、長田校長が赴任した1950年。そして『同窓だよ』第4号に『回想』を書いたのが1966年。『回想』が正しいとすれば、その間16年間は、校歌の3番は歌われなかったことになる。」
「でも、こうは読めないだろうか。『校歌については「天皇の勅もち」の第3節を当分の間省略することに(し)、各方面の同意を得(た。)(しかし校歌が変わらずに)今に至るまで、そのままである事は心楽しい思い出です』…と。」
「そうなると、『長田靖麿氏の苦悩』は解消されることになるね。」

(6)長田靖麿校長の本心

「長田校長の経歴をみてわかることは、まず第一に、長田氏が神社の宮司であったこと、第二は、戦時中の彼は一兵卒ではなく陸軍中尉であったことだ。」
「国語の先生だったというけど、相当荒っぽい教師だったようだね。『日川高校物語』には『ゲンコツで鳴る長田』とか、『げんこつで腕白小僧をこらしめた』という記述がある。そして、『校歌を守り抜いた校長』としての評価は今日では定着しているようだ。」

「長田校長にして、はじめてなし得る筋金の通った話」(中沢茂隆・元日川高校教頭)
「当時、教師として在籍していた中沢茂隆(第26回卒)はそのときのことについて、『とくに“天皇の勅もち、勲したてん時ぞ今”(ママ)の校歌は軍国調であるし、女子にとって“歌ふ健児”はしっくりこないではないか、他の高校はほとんど改変しているではないか等々の批判があったさい、時の校長長田靖麿先生が、『日川は日川さ、他校をまねる必要はないさ』の鶴の一声でそのままになってしまったのである。げんこつで腕白小僧をこらしめた長田校長にして、はじめてなしうる筋金の通った話である』といっている。」(『日川高校物語』129 1967年)

「中沢氏の記述には『鶴の一声』と書かれているけど、これでは、問題提起をした職員・生徒・同窓会・PTAに対して何の説明もないまま、独断で存続を決定したということになる。」
「論理的に『筋を通した校長』というのではなく、『鶴の一声』で校歌を残したことは『筋金の通った話』であると紹介しているんだよ。校歌改変には『断乎反対』、それが長田校長の真意であったようだ。」

「だから断乎として改変に反対した」(長田靖麿校長)
「当時は、生徒や職員や同窓生の一部にも校章、校歌の改変を主張する声もあったが、長田は当時のことについて『自分が日川で学び、日川で教えてきただけに校章、校歌のよさは人一倍わかっていた。また卒業生や日川の伝統を築いてくださった中川校長以下多くの先生たちに対しても私の校長時代に校章、校歌を改変することはできなかった。だから断乎として改変に反対した』と話している。この長田あってこそ、あの金平糖の徽章も、また卒業生がことあるごとに歌う『天地の正気甲南に…』の校歌も健在だったというわけ。」(『日川高校物語』129 1967年)

「長田校長は、『私の校長時代に校章、校歌を改変することはできなかった』と書いているところに注目してみよう。どういうことなのか。つまり長田校長は、戦後周囲の高校の多くは校歌を改変したが、日川の伝統はその動きを無視したと告白していることになる。『鶴の一声』とは、他の高校が校歌を改変している時代に背を向け、職員会議等で話し合った事実もないことになる。教師たちは、必要なだけ職員会議を重ね、同窓会とも共通認識に至るよう努力をすべきだったと思うけど、残念ながら、『日川教育』はそういう教育環境ではなかったということになるな。」
「長田校長は、『中川初代校長以下の多くの先生方…』と言っているけど、『日川教育』の原点とは何かについて議論してほしかったね。中川校長は札幌農学校出身だから、ウイリアム・クラーク博士の「Boys,be ambitious!」(少年よ、大志を抱け!)や中川校長の教育方針であった『規律ある自由』あたりを出発点として議論してもよかったと思うね。」
「結局『日川高校物語』や『創立百年誌』は、長田校長を『校歌を守り抜いた校長』と描き、教育の場として必要な議論を“鶴の一声”で抑え込んだ校長の“愛校心”を讃えているんだ。長田校長について、こんな文章が載っている同窓会誌を見つけたよ。1996年の『同窓だよ!』だ。」

「(校歌が)危ない時には立派な校長が居てくれた校歌は幸いであった」(庄司元敬・中37回)
 「…田辺国男同窓会長より聞く所では、現在校名・校章・校歌・所在地の昔と変らず伝統を保持する高校は、全国で本校の外に唯一校あるのみとのこと。本校も御多聞に漏れず終戦後の混乱した時代に、『天皇の勅もち…』がよろしくないとか云って、これを廃し改作(改悪)すべしなどと関係者から学校当局に訴えがあったそうであるが、時の校長(第12代)で先輩(中14回)のわが長田靖麿先生少しも騒がず、『日中には日中の校歌があっていいさ…』と平然と言はれてこれを斥け、断乎護持されたと聞く。危ない時に立派な校長が居てくれた校歌は幸いであった。
 そもそも『天皇の勅もち…』とは明治天皇の下し賜うた『教育勅語』を履(ふ)み行なうとの意であり、これは儒教を基にした人間として社会に処する上で当然守るべき普遍的道徳を唱えたものであり、この中には戦争をせよとか他国を侵略せよなどということは一つも書かれていないのである。また『勲したてむ…』とは世の為人の為に尽くしましょうよ…ということであると、当時吾々は日中の教室で教わり今も承知していることである。
なお、冒頭の『天地の正気』は藤田東湖(幕末水戸藩志士)の『正気ノ歌』に『天地正大ノ気粹然トシテ神州ニ鐘(集)マル…』とあり、『甲南に』は我々の時には峡南と記されていた。峡=甲斐の南ゆえ今様に記したのであろう。」(『同窓だよ!』No.3467 1996年)

「『校歌を守った長田校長』と描いている点では、この『同窓だよ!』も『創立百年誌』(2001年)も同じだね。」
「『創立百年誌』にも、『毅然として…』とか『校歌を求める声を一蹴した』と誇らしげに書かれているけど、まさに無定見としか言いようがないな。」

「『天地の正気』を守った毛麿さん」(『百周年記念誌』2001年)
 「『靖麿』と書いてケマロと呼ばれた国語の先生がいた。本名は長田靖麿。(略) 時が経って昭和25年(1950)毛麿さんは、新生日川高校第12代校長として再び赴任することとなる。新旧制度の切り替えにより、日川が男女共学の高校となった時である。折しも、日川中学以来の校歌や金平糖は新時代にはそぐわないと主張する声があちこちから上がる。甲論乙駁、口角泡を飛ばしての議論が続く。そんな中、毛麿さんは、『日川は日川だ。他の真似をすることはない』と毅然として言い放ち、天地の正気の校歌は残ったのであった。」(114頁)

(7)有賀先生と中村公卿氏

「今日では聞くことはほとんどないけど、オレたちが在学していた頃、『日川タブー』という言葉は何度か聞いたことがあるね。校歌は絶対であり、異論は許されないという意味だ。でも、その背景にあったもの、それを今思い返しても何か暴力的なものを感じるよ。事実、日川高校とか『日川高校校歌問題』の背後に右翼的・国粋主義的な人脈を指摘する人は少なくないからね。日川の関係者で、具体的にどのような人物がいたのか知っているかい。」
「オレとの関係で言えば、まず有賀茂先生だな。有賀先生は、校歌改変を示唆する山本校長にがまんできない人物だったんだ。」
「有賀先生ね、あの先生は国粋主義者だ。有賀先生の視点からみれば、『山本提言』は明治34年創立以来の『日川教育』に対する背信行為と映ったのではないか。『城内平和』を乱す者への制裁の気持があったかもね。有賀先生は日本史の先生だったけど、たしかユネスコ部に関係していたな。国粋主義者として自他共に任ずる先生だったけど、一見したところ穏やかな先生という印象は残っているよ。」
「でも『日川高校物語』をみると、有賀先生にはとてつもない“華やかな過去”があったと書かれている。」

「有賀は『児玉機関』の知恵参謀」(『日川高校物語』)
 「…ところがこの有賀、かつて『日本の強さは天皇陛下万歳といって死ぬ軍隊と児玉機関』と評された『児玉機関』の知恵参謀。満蒙の町に、中国大陸に、またあるときは朝鮮にと、情報収集に、宣撫工作に、そして軍対決にとその名を欲しいままにした一人。『児玉機関』は児玉誉士夫をキャップに、有賀とそして終戦のとき、終戦詔勅の録音盤奪取をこころみ、こと敗れて愛宕山で同志とともに自刃した飯島与志夫(ママ)の三人が主軸で動かされた。」(214 1967年)

B「『録音盤奪取』の意図するところは徹底抗戦だね。山本校長に対し『絶対に許せん』と言い放った有賀先生の心情は、徹底抗戦を主張した頃の心情と重なっていたのではないかな。」
「そう。同窓会の中枢にいた有賀先生の存在は、日川高校が戦後も右翼的であったことを示していると思うんだ。有賀先生を中心とする校歌擁護派にとって、日川高校校歌は同窓会と日川教育とをつなぐ“団結のシンボル”だったからね。」

「“天皇の勅もち 勲し立てむ時ぞ今”をそのままに生き抜いてきたのが有賀である」(『日川高校物語』)
「…『児玉機関』では有賀茂ではなく“赤間良助”のペンネームで通っているが、有賀の“赤間理論”は天皇を中心とした徹底した国体護持の思想で、当時は昭和維新をとなえる人たちの一つの理論的な裏づけをもしていた。こうした純粋な日本精神の高揚を叫び『児玉機関』のカゲ参謀としての有賀の前歴を知る人は少なかろう。(略)最近の生徒たちにとっては、この“日本精神”もなじみにくいことばだが、日川の校歌の一節に歌われる“天皇の勅もち
勲立てん時ぞ今”をそのままに生き抜いてきたのが有賀であり、日川史の一時代を代表する一人といえよう。有賀は、同窓会誌『同窓だよ』の名付け親で、戦後は山梨学生ユネスコの育ての親ともいえる人。教員室のデスクに向かう有賀には、往年の“赤間良助”のカゲはみじんも感じられない。」(214 1967年)

A「ここには、『教員室のデスクに向かう有賀には、「児玉機関」時代の“赤間良助”のカゲはみじんも感じられない』と書かれている。ところがだ、有賀先生が最も目を光らせていたのが“校歌改変”の動きだったんだ。日本精神の体現者であることを自認し、背後では自民党の大物政治家たちが同窓会長として見下ろしているなかで、『天皇の勅』を戴く校歌の護持は“日本精神”を発揮する絶好の舞台だったんだよ。有賀先生を見ていると、“日本精神”を理解しないクリスチャン校長に対する怒りが爆発したという感じがするね。オレはね、有賀先生は校歌擁護派の実動部隊だとみていたんだ。」
B「校歌擁護派で当時動きの目立った同窓会理事といえば、1985年の同窓会理事会で山本校長に圧力をかけた有賀先生と中村公卿氏の二人だね。」
「オレ宛てへの手紙の中で、山本校長は名指しでこう書いている。」

・中村公卿氏 校長、それはこれまで何回も議論されて来た事だ。どこまで行っても平行線のまま結論が出ないからお止しなさい。」
・有賀茂氏 それは山本校長個人の意見か、それとも学内の世論か、もし山本個人の思いつきの見解なら許さん。」(後述「15 山本校長への手紙と返信」参照)

「中村公卿氏(中18回)は田辺国男会長(中28回)の恩師なんだ。田辺氏が5期目の山梨県知事に立候補したが落選、衆議院選挙にくら替えした時の後援会幹事長だった人が中村氏だよ。山本校長の動きをチェックする役目を担っていた人物と言ってもいいだろう。」

「(総選挙で立候補予定の)同窓会長田辺国男を、『同窓会長なるが故』をもって『同窓会推薦』に決定した」(中村公卿)
 「老骨非才をも顧みず同窓会田辺国男後援会幹事長を引受けた私は選挙事務所のそのどよめきの中にあって、勝利の歓びをしみじみとかみしめながら、短期間ではあったが、初めて経験した選挙戦を振りかえってみた。去る98日、同窓会館で開かれた同窓会理事会において、かねて今次の総選挙で立候補予定を伝えられている同窓会長田辺国男を『同窓会長なるが故』をもって、『同窓会推薦』に決定し、直ちに、『同窓会田辺後援会』を設立し、同窓会副会長の一人土橋保重を後援会長とし、同月9日及び12日の会議を経て選対組織を整えました。それから約4週間、各市町村同窓会支部はそれぞれ各地の緑友会(田辺選挙母体)支部に溶け込んで、支部所属の同窓諸兄姉に呼びかけ、目的達成にまい進しました。(略)4度議政壇上に立って国政に参与することになった田辺さん! あなたは英知と先見性と清潔さを高く評価されています。…」(『同窓だよ』No.1761979年)

B「日川高校同窓会が、田辺氏の集票マシーンになっていることがわかるね。同窓会員が同窓会長である保守政治家と『ぐるみ選挙』をしているんだな。」
A「これが実態だ。『同窓会長なるが故』をもって『同窓会推薦に決定した』という論理は、やはり『甲州選挙』そのものだ。日川高校と保守政治家が寄り添って歩んでいることがよくわかるよ。」
B「そのシステムの下支えしたのが有賀先生ということだな」

(8)「有賀茂先生の想い出」(河西久)

「君が最初に有賀先生に出会ったのは…?」
「直接話をしたのは高校2年のときだと思う。場所は勝沼の大善寺だ。そのいきさつを雑誌(『中央線』)に発表したのは1995年。主題は『日川高校校歌にみる戦後認識』(その2)、副題として『A先生への手紙』と書いたけど、もちろん有賀先生宛ての手紙だよ。」

「A(有賀茂)先生への手紙」(河西久・19889月記)
 「拝啓 A先生。秋風の渡るさわやかな季節になりました。先生におかれましては、ご壮健にてお過ごしのことと推察申し上げます。私たちのささやかな結婚式に先生のご臨席を賜り、またごていねいなお祝いのお言葉を頂戴して以来14年の月日が経過しました。(略)あれは私が高校2年のときだったでしょうか。私が3歳のとき(昭和24年)に病死した父の法要をしていただけるという連絡を受けました。場所は、勝沼町の大善寺でした。農作業に忙しい母の代理として、在学中の私が出席することになりました。この法要は、同級生の物故者のために昭和4年度の日川中学卒業生(昭四会)たちの手で営まれたものですが、父とともに多感な青春時代を過ごしたはずの方々の横顔を眺めながら、私は深い感動に包まれていました。私はそのときほど、日川の一員であり日川の生徒であることの幸せをかみしめたことはありません。その席で声をかけてくださったのが先生でした。…」(「日川高校校歌にみる戦後認識」(その2)『中央線』第47 151995年)

「なるほど、有賀先生を見るたびに君は、記憶にないお父さんを思い浮かべていたというわけだ。」
「そう。この法要については『同窓だよ!』の第1号に書かれている。趣旨はこうだ。『1963年(昭和38922日。第25回生(昭和4年卒)は勝沼町大善寺に於いて、故水上源蔵中将ならびに同級生の物故者の慰霊祭を行った』とある。この慰霊祭には長田靖麿元校長も招かれていたんだよ。」
「水上中将、長田校長、どちらも一昔前の日川の歴史を作った人たちだね。」
「有賀先生といえばこんな思い出もある。オレの出身校であるT大学は山梨県にある大学だけど、入学早々学園紛争があってね、同盟休校が行われたんだ。その頃のオレは、立て看板に書かれた“打倒帝国主義”のスローガンは理解できなかったし、積極的に理解しようともしない学生だったけど、その当時一つだけ見過ごせない出来事があったんだよ。当時クラス集会ばかりでなく学生集会がしばしば開かれたけど、『山梨県人会』の連中はいわゆる“スト破り”をやったんだな。」
「“スト破り”か。なつかしい響きのする言葉だね。」
「そう、学生集会のさなか、突如一斉に退場するという手なんだ。集会の“ぶち壊し”が目的だったからね。『山梨県人会』の仲間たちに促され、一度これをやったけど、オレは恥ずかしかったね。日川高校出身者が中心となり、最初から集会そのものを破壊する意図で着席していていたんだよ。オレは政治的なことは無知だったけど、これだけはダメだと思ったな。これは学生のやることじゃあないと思った。その頃のことだよ、“スト破り”の背後にいるのが有賀先生だという話を聞いたのは…。」
「“日本精神の体現者”であり“『児玉機関』の知恵参謀”だった有賀先生は、日川高校の卒業生にも影響力を与えていたというわけか。」
「『スト破り』をした学生たちは近くの市民会館へ場所を移し、『学生集会に反対する集会』を開いたんだ。信じられないかもしれないけど、1年生のオレは挙手をし、壇上から訴えたんだよ。『スト破りは学生として恥ずかしい行為だ』とね。非難ごうごうだったよ。そして、こう言われたよ、『オマエに4年生の気持ちがわかるか』ってね。就職を1年後に控えている4年生にしてみれば当然の憤懣かもしれないけど、そうなら最初から自分たちの主張を書いた『申し入れ書』でも渡せばいい、“スト破り”という行為は情けない行為だと言ったんだよ。わかってはもらえたとは思わないけどね。」
「その有賀先生を、君は結婚式に招いたというわけだな。これは驚きだ。」
「複雑な気持ちだよ。祝辞をくださる先生の写真は今でも大事にとってある。ほら、これが証拠写真だ。妻の恩師、オレの恩師、大善寺の思い出、父の同級生…。オレの結婚式は1974年だけど、先生は『山梨市ユネスコ協会』を引っ張っていた人でね、妻の出た高校の教頭先生だったんだ。妻は有賀先生から送られた『万葉集・運命の歌』(小島信一・人物往来社1970年)を大事にしていてね、その裏表紙にはこんな文章が書かれている。三島由紀夫に共感する先生の心情を表現した文章だよ。」

「今後の生きゆく道、死に方などを思いながら終日三島由紀夫に関する雑誌を読む」(有賀 茂)
 「昭和46年(1971年)114日、午后420分、甲府駅発、奈良田行きのバスに乗る。7時半、西山温泉着。慶雲館に入る。18号室。直ちに入浴、身と心を洗う。静かに五体の疲れを思い、混乱の社会に生きることのむづかしさを思い、今後の生きゆく道、死に方など思いながら終日三島由紀夫に関する雑誌読む。久方ぶりに万葉を史的立場より読む。40余年前の武田祐吉、折口信夫先生の講義を思い出す。嗚呼、終に一つの歌、一つの文も成さずして、この人の世を終るかとむやみにさびし。一人風呂にひたり、部屋にこもって万葉人の心を偲ぶ。さびしともさびし。あわれを思い、むやみと人の情の恋しき日々なり。古湯慶雲館にて一人読みつぐ。」

「昭和46114日とあるから、1971年の正月明けだ。有賀先生は自らが『浪漫主義者』あるいは『国粋主義者』であること、そして、その心情をわかってほしいと願いつつ、この本をユネスコ協会員だった妻に贈ったんだと思うね。」
「でも、その有賀先生があの児玉誉士夫の“友人”だとなると、事情はまさに複雑だな。」

(9)「児玉誉士夫は私の友人」(有賀茂)

「そうなんだ。有賀先生という人は、『日川高校物語』に『児玉機関の知恵参謀』とか『天皇の勅も 勲し立てむ時ぞ今”をそのままに生き抜いてきたのが有賀』などと書かれているけど、知れば知るほど右翼的で国粋的な経歴の持ち主だということがわかってきたよ。」
「まず、有賀先生と『児玉機関』の関係、そのあたりからお願いするとしようか。」
1996年のことだけど、オレは南京の『大虐殺紀念館』へ家族旅行をしたんだよ。上海にある『上海大厦』(しゃんはい・だーしゃ)へ行ったのはその旅の帰りだったけど、現在ホテルになっているこのビルの2階に『児玉機関』があったと言われているんだ。まず『児玉機関』とは何か、このあたりからみてみよう。」

「右翼の無法者がそろった児玉機関」(ウィキペディア)
 1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、(児玉誉士夫は)外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川良一が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。(大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。)それにより上海に『児玉機関』と呼ばれる店を出した。これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。(略)右翼団体・大化会の村岡健次(後の暴力団北星会会長・岡村吾一)らが児玉機関で働いていた。中国人や満州人を銃で脅し、恐ろしく安い値で物資を獲得したため略奪と呼ばれた。他の部下には副機関長となった吉田彦太郎や岩田幸雄、藤吉男、許斐氏利ら右翼の無法者がそろった。」(『児玉誉士夫』)

「上海・『児玉機関』・『右翼の無法者』・山梨・有賀先生・日川高校、これらをつなぐ線が少しずつ見えてくるね。タングステンと海軍、さらに『神風特攻隊』の生みの親といわれる大西瀧治郎少将をつなぐ線も見えてくるな。」
「タングステンは『重石』と書くように、『きわめて固い金属』と辞書にはある。海軍はこれに目をつけていたようだ。有賀先生は“『児玉機関』の知恵参謀”と書かれた人物だけど、『右翼の無法者』がそろったと書かれているから、『児玉機関』がどんな団体か想像がつくよ。はっきりしていることは、有賀先生が児玉誉士夫の友人であり、敗戦時の『愛宕山事件』に関与した人物であるということだ。」
「もう一つわかりにくいのは、『愛宕山事件』と有賀先生との関係だな。」
「『日川高校物語』(214頁)のこの一節を読んでみよう。『「児玉機関」は児玉誉士夫をキャップに、有賀とそして終戦のとき、終戦詔勅の録音盤奪取をこころみ、こと敗れて愛宕山で同志とともに自刃した飯島与志夫(ママ)の三人が主軸で動かされた』とある。しかし林雅行氏の本には、『飯島らの説得に山を登ったのが児玉誉士夫だった』と書いてある。児玉親分が実行部隊を“説得”に行ったというかたちのようだ。」

「この飯島らの説得に山を登ったのが児玉誉士夫である」(林 雅行)
 「… 民間では35歳の飯島与志雄を中心とする尊攘同志会会員10名が、徹底抗戦を叫んで木戸幸一内大臣暗殺を企てるが失敗、愛宕山に立てこもった。それを武装警官が包囲した。この飯島らの説得に山を登ったのが児玉誉士夫である。児玉は『わたしにとって多年の親友であり、また、とくに信頼する後輩でもあった』(児玉誉士夫『悪政・銃世・乱世』)飯島を説得した。説得はいったん成功したかに見えたが警官隊の包囲網の縮小の隙に尊攘同志会10名は愛宕山で自爆をとげたのだった。…」(『天皇を愛する子どもたち』96 青木書店 1987年)

「児玉は直接立てこもりには参加していなかったようだね。有賀先生も『尊攘同志会』の会員だったた可能性が考えられるけど、この事件のときの先生の足取りは明らかではないな。」
「その後山梨に帰ってきた有賀先生は、牧丘町にあった児玉誉士夫の経営する会社に身を寄せたとある。あの『乙女鉱山』だ。」
「“乙女”がモッコをかついだといわれる山だな。『乙女鉱山』についてのこの資料は興味深いよ。」

   「タングステン鉱山に執心した児玉誉士夫氏率いる児玉機関が鉱業権者」(ネット情報)
 「乙女鉱山の歴史は、明治政府の水晶山開発推奨政策で盛んに採掘されるようになり、当初は水晶鉱山、その後重石(タングステン)、ガラスに加工する珪石(石英)を産出する鉱山として明治・大正・昭和の約110年間にわたり採掘された。十菱駿武教授の研究によると、太平洋戦争に入ってから敗戦後にかけて日本国土・中国・朝鮮のタングステン鉱山に執心した児玉誉士夫氏率いる児玉機関が鉱業権者になっていた時期もある。昭和34年の『鉱山名簿』には、倉沢鉱山、鉱種珪石、鉱業権者児玉誉士夫、鉱山労働者46人とある。その後乙女鉱山株式会社(塩山市千野)が経営にあたったが、採掘量が減少し、最終期には鉱山長以下45人で操業、倒産により昭和56年に閉山された。」(『児玉誉士夫とは何者であったか 乙女鉱山』で検索)

B「少なくとも昭和34年の時点では、『鉱業権者』として児玉誉士夫が関わった会社だったようだね。『その事務所に住んでいた』と有賀先生自身が語っているから、相当懇意な間柄だったということだな。」
「そう、児玉誉士夫が呼び寄せたと思うけど、『歴史も宗教も否定された占領下の教育に従うわけにもいかない』と考えていた先生は、一時は本気で“一人前の土方”になろうとしていたようだ。」

「児玉誉士夫の経営する乙女鉱山の事務所に住んでいた」(有賀 茂)
 「…朝鮮から引揚げて、友人の児玉誉士夫の経営する乙女鉱山の杣口の事務所に住んでいた時、(母校日川の)小林定雄校長の官舎に呼ばれて、『教壇に起て』と云われた。歴史も宗教も否定された占領下の教育に従うわけにもいかないし、自分の考えの整理のため、乙女鉱山から北巨摩郡武川村に蔦木武士を訪ねて、零下15度の大武川の水をかぶりながら、一人前の土方になるため毎日砂利をふるい、石をかつぎトラックの上乗りをしていた。戦争に敗れても、日本人としての正しいものだけは次の代の青年にしっかりとひき継がねばならぬと感じ、勇気をふるって教壇にかえった。」(日川高校前教頭 『同窓だよ』No.923 1971年)

「残念だけど、日本史専門の有賀先生には、日本の敗戦とは何かがよくわかっていなかったようだね。今の北朝鮮を見ればよくわかる気がする。冒頭の資料にも挙げて置いたけど、北朝鮮の人心掌握術は日本の戦前・戦中のそれと全く同じではないかと思うね。人民と首領様に結びつける接着剤として親子関係を利用するのは、皇国日本のやり方とそっくりだな。」
「北朝鮮版『報恩国家』なんだよ。“首領様”を見て涙を流す国民は、喜んで命を国家に捧げるだろう。『総玉砕』も辞さないだろう。かつての日本の臣民がそうであったようにね。有賀先生は、『戦争に敗れても、日本人としての正しいものだけは次の代の青年にしっかりとひき継がねばならぬ』と書いているけど、普遍の真理に基づかない『日本人としての正しいもの』は世界の笑いものになるだけさ。」

10)「私は戦争協力を恥じていない」(有賀茂)

「有賀先生に『教壇に起て』と勧めたのは、戦後最初の小林定雄校長だったとあるけど、この校長も相当の国粋主義者だったようだね。前にも議論したことがあると思うけど…。」
「そう、『戦争は次の躍進への段階である』などと書いた校長さ。有賀先生は、その校長の下で戦後の第一歩を歩み出したわけだ。『戦争を恥じていない』との有賀先生の新聞投書を読んで、先生が終生国粋主義の信奉者であったことがはっきりしたね。」
「『精神的失格の老人かもしれない』と書いているから、『戦争協力者として自責も矛盾も感じていない私』は強がりかもしれないよ。」

「私は戦争協力を恥じていない」(有賀茂)
「◇ 神州の不滅を信じ、アジア諸民族を救う大使命に血を燃やしたことが『人類の敵』『許し難い罪悪』であるなら、戦争中に生きた者はすべて戦犯である。負けることがわかっていたので戦争に協力しなかったとか、敗戦の日、涙を流して喜んだという“文化人”よりは、必勝を祈りながら職場で働き通した人を尊びたい。
◇歴史の方向を誤り、民族を亡国のふちに投じた責は当然負わなければなるまいが、単に勝敗で理非をいうことは許されまい。私も同じく教壇に在って『聖戦貫徹』『国内攘夷』を訴え、敗戦後ポツダム体制下の教育に抗して教壇に立たなかった。デモクラシーを信仰して目標を失った青年たちと、平和に生きる国際人の心を養い、社会悪と闘う愛国心の発揚に努めた。
◇同級会の招きにも青年の集まりにも進んで出席し、改めるべきは改め、守るべきは守って排他独善を
避け、民族の誇りと責任を完了しようと訴えてきた。教育が政治に利用されたりしてきた反省の上に、青年たちの心に何かを残したい、と真剣に青年たちの中に入っている。戦争協力者として自責も矛盾も感じていない私は、精神的失格の老人になってしまったのだろうか。(一宮町・有賀茂)」(『山梨日日新聞』1980916日)

「有賀先生は混乱しているね。『デモクラシーを信仰して目標を失った青年たち』と言ったかと思うと、『戦争協力者として自責も矛盾も感じていない私は、精神的失格の老人になってしまったのだろうか』とも告白している。これは、きつい言い方をすれば支離滅裂だ。それはともかく、『愛宕山事件』で“自決”した飯島与志雄と有賀先生は国学院時代からの友人だというから、二人が肝胆相照らす間柄であったところは興味深いね。」
「“日本精神”を擁護する有賀先生の思想的経歴は相当古いようだ。『山梨県史』を見ていたら、こんな資料が出てきたよ。先生はあの飯島与志雄を講師として山梨に招いていたんだ。」

「有賀茂ハ、国学院在学当時ノ学友タリシ飯島与志雄ノ影響下ニ在リテ…」(興亜青年運動)
 「東八代郡一宮村出身前県立峡北農学校教諭有賀茂ハ、国学院在学当時ノ学友タリシ在京興亜青年運動飯島与志雄ノ影響下ニ在リテ国家主義思想旺盛ナルモノナルガ、昨夏以来北巨摩郡北部ノ青年層ノ啓蒙ト優秀分子ノ物色獲得ニ努メ、昨年十二月及本年一月、三月ニハ同郡下鳳来、武川、日野春、菅原ノ各村及甲府市、中巨摩郡在家塚村等数回ニ亘リ本部ヨリ国大教授松永材及飯島与志雄ヲ招キ後援会、座談会ヲ開催シ、相当感動ヲ与ヘ一般ノ時局認識昂揚ニ努ムルトコロアリタルガ、4月有賀ハ千葉県長狭中学校ニ出向後ハ、在家塚村峡南農工柔道教師斎藤篤美ガ連絡ノ衝ニ当タルコトヽナリタルモ、本部ノ信頼薄ク現在ハ関係緊密ナラザル模様。」(「95〔昭和4年保安事務概況〕『山梨県史・資料編15275頁~276頁)

「なるほどね。有賀先生と飯島与志雄の関係は理解できるけど、有賀先生・飯島与志雄・児玉誉士夫ら右翼だけに焦点を当てると、事の本質を見誤る可能性があると思うよ。当時は昭和天皇の『勅』の下に、国民全体が国粋的報恩感情で凝り固まっていたことを忘れてはならんね。」
「その意味では、天皇制下でマインド・コントロールを受けた有賀先生が『歴史も宗教も否定された占領下の教育に従うわけにもいかない』と考えたのは理解できないことではない。有賀先生にしてみれば、信奉してきた天皇制教育が戦後そっくり失われるのを恐れたんだろう。」
「マインド・コントロール下の『徹底抗戦』・『一億玉砕』、これらが決して荒唐無稽な作り話ではなかったことを、ぜひとも学校教育の中で教えるべきだね。『国民全部戦死しても…』と書き残したのは、あの平沼騏一郎だ。」

「国体護持は国民全部戦死しても之を守らざる可からず」(平沼騏一郎)
 「…東郷外相は、国体護持の一点のみを降伏の条件として主張すべきであるという姿勢を崩さなかった。この議論を通じて、東郷にとって『国体護持』の意味とは皇室もしくは皇統の護持だけを指し、昭和天皇の治世の継続を意味するものではなかった。しかし、他の出席者にとって国体の意味は異なった。一条件派である平沼は、国体についてこれとはまったく異なり、『天皇統治の大権は国法に依て生ずるものに非ず』と解釈していた。平沼の主張によると、『国体の護持は皇室の御安泰は国民全部戦死しても之を守らざる可(べ)からず』というものだった。」(『昭和天皇 下』193 H.ビックス 講談社学術文庫2005年)

「平沼騏一郎は現在の平沼赳夫国会議員の義父だな。世襲議員ということになる。冒頭の資料にあるように、平沼騏一郎は天皇に向かって『あなた様にも責任がありますぞ』と諌めたというけど、平沼自身が右翼の『国本社』の顧問であった責任はどうなるのかね。」
「戦争責任について言えば、敗戦後の天皇について『天皇は同時に無責任の象徴になった』と言ったのはアメリカのジョン・ダワーだ。戦後の日本の退廃が『天皇免責』にあることを再確認したいね。でも、そこを理解していないのが『世襲政治』を疑わない日本人なんだ。天皇制が世襲制であるように、『臣民』たちの政治感覚も世襲なんだよ。もし有賀先生が『精神的失格の老人』ならば、有賀先生と共に歩んできた同窓会関係者諸氏も『精神的失格者』ということになる。日川高校同窓会と戦争指導者の関係を見ても、彼らは戦前・戦中の意識を引きずったままだからね。」

11)「追放解除の喜びを語る人々」(田辺七六・広瀬久忠・名取忠彦)

「戦後の出来事にはいろいろあるけど、日川同窓会の関係者でいえば、まず公職追放があるな。田辺国男第4代同窓会長の父である七六氏、そして広瀬久忠第2代同窓会長、名取忠彦第3代同窓会長。彼らは戦時中の日本国民、あるいは山梨県民を導いたそうそうたるメンバーだ。」
「昭和天皇は、占領軍とくにアメリカ政府の都合で免責されたけど、昨日までの皇軍の総大将である天皇が、『勅令』でかつての臣下たちを『公職追放』にする、一体こんな無茶苦茶な話を聞いたことがあるかね。これに異議を唱えることができなかったのが“天皇教信者”の精神構造なんだ。ヒトラーやムッソリーニが免責になり、彼らの名の下にかつての部下が処刑され、また公職追放になったと想像してみればいい。アメリカは、日本人が神と崇める天皇の利用を開戦直後に計画していたというから、その読みは深いと思うな。日本人の精神構造はお見通しだったんだ。」

「天皇を『平和の象徴』に」――「開戦直後、米情報機関が計画」(朝日新聞)
 「米国が太平洋戦争開戦からわずか半年後の19426月、情報工作の一環として昭和天皇を『平和のシンボル(象徴)として利用する』との計画を立てていたことが6日までに、CIA(中央情報局)の前身の情報機関であるOSS(戦略情報局)の機密文書で明らかとなった。専門家によると、米国の公文書が天皇を『象徴』と初めて表現したのは、これまで確認された中では同年12月であり、この資料が最も早い時期に当たるという。マッカーサー将軍がこの計画を知っていたことを示す文書も併せて見つかり、戦後日本の象徴天皇制の起源を解明する上で極めて重要な手掛かりとなりそうだ。」(2004117日)

19426月とある。まさに開戦半年後だ。『天皇を平和の象徴』とするとあるけど、間違えてはならんことは、アメリカは『ならず者国家の指導者』をそのまま『平和の象徴』に置き換え、利用したということだよ。そうすることで天皇を『軍当局への批判の正当化に用いることは可能』と指摘している。ここは鋭いね。『開戦の詔勅』を出したのも“現人神”、『終戦の詔勅』を出したのも“現人神”、この一貫性こそアメリカ政府が利用した戦中と戦後をつなぐ日本人の報恩感情だろう。」
「公職追放令だけど、それを命じたのが天皇の『勅令』だということを再確認しておきたいね。公布194614日。『人間宣言』の数日後のことだ。ボツダム宣言の条項を履行するための措置だったけど、臣民たちが『勅令』による『公職追放』を受け入れたのもアメリカ軍の思惑通りだったね。」

「公務従事に適しない者の公職からの除去(公職追放)」(ウィキペディア)
 「1946年(昭和21年)14日附連合国最高司令官覚書『公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件』に基づいた勅令」(「公職に関する就職禁止、退職に関する勅令」で検索)

   「公職追放令下る」(194614日) 
「昭和20年(21年の誤記・筆者)14日を以て、連合軍総司令部から『好ましからぬ人物の公職よりの罷免排除に関する覚書』が発せられた。これはボツダム宣言の条項を履行するための措置として、政府に対して左の各項に該当する人物をすべての公職から罷免し、または政府の役職から排除することを命じたものである。

 A 軍国主義的国家主義及び侵略的代表者たりしもの。
 B 極端な国家主義、テロあるいは愛国秘密団体、乃至その代理機関、関係団体の有力メンバーたりしもの。
 C 大政翼賛会、翼賛政治会、大日本政治会において有力な活動を行ったもの。(『田辺七六』
455456頁)

「C項については、与党進歩党の議員だけで260人、地方政界・言論界・経済界を含めると20万人以上が職場から追放されたようだ。日本進歩党の中では、『反戦演説』の斉藤隆夫らの少数がこれを免れたとある。」
「田辺七六氏は、C項のほとんどすべてに該当しているんだね。彼は『とうとう来たか』と呟いたと書かれているけど、なぜ世界を相手に戦わなければならなかったのか、なぜ“一億玉砕”を叫ぶ必要があったのか、そのあたりについて政治家としての反省は全く書かれていない。『反省がない』という意味では、天皇以下臣民も全く同じだということになるね。」

194611日 年頭、国運振興の詔書」(昭和天皇)
 「… 朕ハ茲(ココ)ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須(スベカ)ラク此(コ)ノ御趣旨(明治天皇ノ五箇條ノ御誓文)ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達(チョウタツ)シ、官民擧(ア)ゲテ平和主義ニ徹シ、敎養豊カニ文化ヲ築キ、以(モツ)テ民政ノ向上ヲ啚(ハカ)リ、新日本ヲ建設スベシ。(略)夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於(オイ)テ特に熱烈ナルヲ見ル、今ヤ實(ジツ)ニ此(コ)ノ心ヲ擴充(カクジュウ)シ、人類愛ノ完成ニ向(ムカ)ヒ、獻身的(ケンシンテキ)努力ヲ效(イタ)スベキノ秋(トキ)ナリ。…」(『天皇と勅語と昭和史』402 千田夏光 汐文社 1983年)

「この部分は何度も読んだよ。日本人としてこれほどしらける文章はないね。『人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的ナ努力ヲ效スベキ秋ナリ』だってさ。大元帥として狂気の戦争に追いやった昭和天皇から『人類愛』という言葉を聞くとはね。一体どういう神経の持ち主なんだといぶかるよ。」
「一つ気になるのは、その前の文章だ。『家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル』という一節だ。これは戦中の『一大家族国観』の理念そのままではないか。天皇は再度この理念を持ち出し、戦後もその上に君臨しようとしていることになる。かつて天皇に『至誠』を誓った戦争責任者たちが、戦争責任に無自覚になるのは当たり前だよ。」
「『追放解除』を喜ぶ広瀬氏たちのコメントもあるね。」

「追放中の作品」(田辺東堂〔七六〕)
  ・「一擲紛々政事繁。 俗塵不倒絶無喧。
   斜陽影裡梅花白。 鄍郁清香満柴門。」
 ・「柴の戸をとざすも庭の梅の花」(『田辺七六』458頁)

「追放解除喜びを語る人々」(山梨日日新聞195187
広瀬久忠――「風邪吹かば門開く/広瀬久忠氏北条時頼の心境語る」
 「【東京支局発】新築の渋谷区緑ガ丘の自宅で広瀬氏は喜びをつぎの通り語った。追放中は故郷で三カ年ほど百姓をやったが、いかに困難かのよい経験をした。反面無言の育成の楽しみも味わった。追放中は謹慎状態であったが、これからは政治、経済、文化あらゆる面で国家再建に役立ちたい。具体的に選挙戦に出るかということはそのときになってみないとわからない。ま既成の事実を尊重して無理をしないつもりだ。さりとて盲従もしない。広瀬氏は庭の碑をさして『春の流れが岸よりも高く雑草は芝よりも青々としげっている。小庵は人は来ないが風が吹いてくると自然に門があく』という北条時頼の文句が私のいまの心境を一ばんよく物語っている。」(『山梨県史』資料編15490頁~491頁)

名取忠彦――「沸々と湧く意欲/名取忠彦氏しばらくは静観」(山梨日日新聞195187
 「終戦後23年はしょく罪的な気持ちで追放も当然のことと考えていた。その後5年もたったのでその罪もつぐない得たものと思うので残る力をなにかに役立たせたいと思っている。しかし直ぐにでも政党に飛込んだり或は政治に関与するということは考えていない。私には銀行の仕事もあるのでしばらく静観していたい。それから民主主義による日本の再建に微力ながら行動してみたいと思う。」(『山梨県史』資料編15491頁)

「公職追放を、『日本を覆っていた黒い霧』(『無我献身』154頁)と形容したのは広瀬氏だったな。一方名取氏は、『5年もたったのでその罪もつぐない得たものと思う』と書いている。『5年もたてば』翼壮幹部の罪は償える性質のものなのかね。やはり、反省なき戦後の出発と言わざるを得ないね。」
「彼らはアメリカが戦後体制を押しつけたと主張する。でもね、違うんだよ。押しつけられたのは『新憲法』ではなく、『大日本帝国体制』の解体なんだ。そこが理解されていない。ところが、解体すべき『大日本帝国』のトップを『シンボル』として再利用したのはアメリカだからね。昭和天皇が旧敵国アメリカの“プードル”になることで、日本人の戦争責任という意識はすべてうやむやになってしまったということさ。むずかしい話ではないよ。」
「名取氏も、同じ皇軍の仲間たちを口汚く罵倒したかと思うと、今度は『贖罪的な気持ち』から『追放も当然と考える』と言ったりする。有賀先生が『慈父』と呼ぶその名取忠彦第3代日川高校同窓会長について、もう少し知りたいな。」

12)「翼壮の名取さん」――有賀先生が「慈父」と呼ぶ人の人脈

「名取同窓会長が亡くなるのは1977年だな。」
「広瀬氏、名取氏が亡くなって、有賀先生の心中は穏やかではなかっただろう。有賀先生は名取氏のことを“慈父”と呼んでいたからね。」

「慈父(名取忠彦第3代同窓会長)の面影」(有賀 茂・中25回)
 52年(1977年)226日、県立体育館に、懿徳院慈祥忠彦日慧居士、政財界の大御所、同窓会長従四位勲三等名取忠彦氏の告別式は、文字通り県内外の人々哀悼の裡に盛大に行われた。(略)私などが到底接することなど許される筈もない、仰げばいよいよ高く尊い至高の人であったが、これも『同窓だよ』と云うただそれだけのことで、いろいろとご指導いただける身となった。
 敗戦、引揚げ、余りに激しい時代の変転に茫然自失の私が、牧丘町の乙女鉱山に住み、武川村の蔦木武士氏の下で、原木をかつぎ、砂利をふるい、トラックの上乗りをしていた頃、東京からの多くの友人や、県内の民族復興を祈る清流脈々の人々からきかされた『翼壮の名取さん』の名であった。
 戦後の狂乱に耐えられず、占領政策や精神の退廃に悲憤の涙を流す時、敗戦の日の陛下の御神慮を思えと霊的に不滅不動の正道を説かれ、誰もがこの変革に処しての生活改革から出直すべきだと云われ、せめて歴史を継ぐ若い人々の心をつなぎ、現代と過去とにしっかりと架橋を作ることこそ将来に生きる道だと教えられて、私の心も漸く決った。…」(『同窓だよ』No.155 1977

「有賀先生を教職の場に引き戻したのが名取氏だったといっていいわけだな。『慈父』という表現には、古い世代の人たちにとって抵抗できないほどのインパクトがあるようだね。その名取氏について、『敗戦の日の陛下の御神慮を思えと霊的に不滅不動の正道を説かれ…』と書くとき、有賀氏には母校の偉大な先輩に対する深い畏敬の念があったのではないか。」
「名取忠彦氏は広瀬久忠氏の実弟だけど、まずこのあたりからみてみよう。お二人が兄弟であることは、オレたち世代の日川関係者では知らない人はいないだろう。名取氏は塩山の広瀬家から甲府の名取家に婿入りしたということだ。『広瀬家の歴史』(『於曽屋敷の人々』2頁)によると、先祖は甲斐源氏の始祖である新羅三郎義光(10451127)に始まる旧家だとある。一方の名取家も旧家だな。義父の名取忠愛氏は第十銀行(現山梨中央銀行の前身)の取締役や甲府貯蓄銀行頭取を務めた人だとある。名取氏自身、『私は養子として八代目に此家を継いだことになる』(『敗戦以後』113頁)と書いている。」
「名取忠愛氏は甲府市長も務めた人だね。」
「広瀬家も名取家も、山梨県の戦前・戦中・戦後をリードしてきた一門であることは確かのようだ。そんな家系を背景にもつ名取忠彦氏が『師と尊敬する人』、それが安岡正篤だったんだ。両氏の関係については、名取氏の追悼文を書いた杉田氏の文章に詳しく書かれている。」

「名取氏の学友であり師と尊敬する、安岡正篤先生」(杉田保信・山梨師友協会・日川中18回)
 「追悼 故名取忠彦氏の純粋心を偲ぶ―― 氏は戦時中翼賛壮年団の団長として、祖国護持にまごころを尽くして挺身され、ついに終戦をむかえたのであった。(略) 昭和38年(1963年)初秋、『国民協会山梨県支部』を発足させて初代支部長に就任、このことは以後山梨の政治に極めて重要なる役割を持つこととなり、特に青壮年層の育成には持ち前の政治的情念を傾けて人間性の純粋と、国体の不滅、祖国の繁栄について教育されたのであった。明治百年を迎える日本の内外の情勢には何か不気味な不安を、国家の前途に感じさせるものがあり、特に反日共系全学連の母校東大に於ける破壊活動はいたく氏の心を悩ました模様であった。このような状勢をうけて、昭和42年春、名取氏の学友であり師と尊敬する、安岡正篤先生(終戦の時『国体護持の詔書』を修理固成されたお方)との道縁に結ばれて、脈々の同志を中核に、山梨県師友協会を結成され、全国の師友の同志と相携えて神州の正気を養心養成し、『一燈照隅、万燈照国』の実践躬行に、祖国の安寧と民族の繁栄を念願されたのであった。敗戦後心ならずも、山梨中央銀行の頭取を引受けられてより、28年の苦難にみちた年月は流れて行った。…」(『同窓だよ!』No.152頁~3 1977年) 

「名取氏は安岡らと相携え、『師友会』を通して『神州の正気を養心養成』しようとしたというわけだな。まさに、日川高校校歌『天地の正気』の“養心養成”と言い換えてもいい表現だね。山梨県の中で、戦中と戦後とを一体化しようとする意図がわかる部分だな。」
「ここに『山梨師友協会』という団体名が出てくるけど、この団体についてはこんな資料があるんだよ。山本校長から送られてきた手紙に『師友』という会報が同封されていたことがあるんだ。一部読んでみるよ。」

「私どもの真意を理解できないか或いは曲解している師友会員がいる」(山本昌昭)
 「河西様 116日(土)、甲府市の『ニュー機山』で開かれた『師友会』総会で、会報『師友』第32号が配られました。日川高校歌問題に触れた小生の一文も掲載されています。一冊余分に貰って来ましたので謹呈致します。この会は、71ページの会則第2条に記されているように、『山梨県高等学校に現職する校長並びに退職した校長をもって組織』されている会です。本年の出席者は例年より多く、現職者19、退職者80、合計99名でした。
 『心友佳信』欄への投稿はかつてはかなり多かったのですが、どうしたことか今は少なくなりました。小生は、日川高校創立百周年記念誌部会が組んだ構想の一つ、現存する歴代校長の『特別寄稿』欄への原稿に一部手を加えて、この『心友佳信』欄へ投稿致しました。それは、日川高校歌改定に執念を燃やす私どもの真意を理解できないか或いは曲解している師友会員がいるやに聞いていたからです。どのような反響があるかはまだ分かりませんが、『あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである』の聖言を信じています。向寒の折御身お大切に。1999118日 山本昌昭」

「まず、安岡正篤と『山梨県師友協会』の関係だ。先ほどの杉田氏の文章をくり返すと、『山梨県師友協会』が結成されたいきさつについて、『昭和42年春、名取氏の学友であり師と尊敬する、安岡正篤先生との道縁に結ばれて…山梨県師友協会を結成され…』とある。これで『山梨師友会』と安岡正篤氏との関係ははっきりしたと思うね。」
「『師友協会』をネット情報でみたら、とこう書かれていたよ。」
 ・創立者  安岡正篤
 ・団体種類 学術団体
 ・設立   1949
 ・起源   師友会
 ・活動内容 政治哲学の研究(『師友協会』ウィキペディア)
「ところで、現職・退職校長は自動的に会員になるということなのかね。」
「山本校長が参加していたのだから、自動的ということだろう。もう一つ、安岡正篤の思想と『山梨県高等学校師友会』の関係についてはっきりさせておきたいことがあるんだ。『山梨師友会』の創立の時期だけど、ネット情報にはこうある。『「全国師友協会」は(安岡の)遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している』(ウィキペディア・「安岡正篤」)とね。『山梨県高等学校師友会』が安岡の死後も影響下にあることは十分考えられるよ。山本校長が送付してくれた号に、『師友会設立の頃を振り返って』と題するこんな文章がある。」

「師友会設立の頃を振り返って」(会長 桜井初太郎)
 「…昭和32年に現職の高校長協会・会長望月善光先生(農林高校)が退職校長を招いて教育懇談会を催したのがこの会の出発でした。爾後、甲府二高(武藤英先生)、甲府高(ママ)(原田忠四郎先生)と毎年各校輪番で継続して参りました。昭和43年には『師友』第1号を発刊しました。…」(『師友』会報第32 2 山梨県高等学校師友会1999年)

「安岡正篤が亡くなってから後は、各支部によって、安岡正篤の講和・著書の伝承を中心事業とする」(ウィキペディア)
 「師友協会(しゆうきょうかい)とは、東洋思想家・安岡正篤の呼びかけによって結成された全国師友協会を嚆矢とする、東洋古典に取材した政治哲学の学術団体。発起人である安岡正篤が亡くなってから後は、関西師友協会を中心に各支部によって、安岡正篤の講和・著書の伝承を中心事業とする。」(『師友協会』で検索)

「山梨の高校長らにより『師友会』ができたのは昭和32年。『師友協会』の動きについてはこう書かれている。」
  ・昭和24年、東洋思想家・安岡正篤の呼びかけによって師友会が設立。
  ・昭和296月、全国の同系諸団体を統合して会名を『全国師友協会』に改名。
  ・昭和338月、第1回全国師道修養会が開催。(『師友協会』ウィキペディア)
「山梨県の『師友会設立』が昭和32年(1957年)。全国規模の『師友協会』による『第1回全国師道修養会』の開催が昭和33年(1958年)。両者の時期はほぼ重なっている。このような状況下で、『天地の正気』の校歌をもつ山梨県立日川高校がいかに注目されていたかは想像できるね。『山梨県高等学校師友会』のメンバーの中には、山本校長の『真意を理解できない師友会員』や『曲解している師友会員』がいても少しも不思議ではないよ。」

13)安岡正篤と伝統的日本主義

「戦前と戦後の連続という意味で、安岡正篤という人物についてもう少し深く知っておきたいね。安岡は、『終戦の時「国体護持の詔書」を修理固成されたお方』とあるから、皇室とは浅からぬ関係にあったということだな。」
「相当の保守派という印象だよ。戦時中の安岡については『大東亜省顧問』とあるほか、『政界・財界の指南役』、『皇室からも厚い信頼を受けていた』などの記述もある。極めつけは『昭和最大の黒幕』という表現だよ。“黒幕”といえば児玉誉士夫や笹川良一を思い浮かべるけど、まだ上がいるということだな。安岡については興味深い資料がいろいろあるけど、23引用してみよう。」

「(安岡は)当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した」(ウィキペディア) 
 「現在の大阪市中央区生まれ。(略)大学(東京帝国大学)卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、『東洋思想研究所』を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により『金鵄学院』を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に『日本農士学校』創設し、教化運動に乗り出した。
 金鵄学院は軍部や官界・財界に支持者を広げて行き、1932年には『日本主義に基づいた国政改革を目指す』として、酒井や後藤文夫、近衛文麿らとともに『国維会』を設立し、新官僚の本山となった。同団体から、斉藤や岡田両内閣に、後藤や吉田茂(後の首相とは別人で同姓同名の厚相・軍需相)、廣田弘毅ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。」(「安岡正篤」で検索)

「(安岡は)『昭和最大の黒幕』と評される」(ウィキペディア)
 「一方で政財界との関係は保ち続け、自民党政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学、帝王学を説き、彼らの『精神的指導者』『陰の御意見番』『首相指南役』の位置にあった他、1958年には安倍源基らとともに『新日本協議会』を結成、安保改定運動や改憲運動などに関わった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、『体制派右翼』の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。また、『平成』の元号の発案者と言われている(1990年に竹下登が記者会見で示唆)。『全国師友協会』は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。
 安岡には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ・近鉄グループ・住友グループ・東京電力など多くの財界人をも指南していたとされる。終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けていた。数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから、『昭和最大の黒幕』と評される。」(「安岡正篤」で検索)

「安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には、吉田茂,池田隼人、佐藤栄作など…」(ウィキペディア)
「戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、『実践的人物学』、『活きた人間学』を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者やご意見番の位置にあった。安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には、吉田茂、池田隼人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など多くの首相が挙げられる。」(「安岡正篤」で検索)

「安岡は『当時の大正デモクラシーに対して日本主義を主張した』とある。また、『北一輝や大川周明の猶存社のメンバーでもあった』というのも穏やかではないよ。『猶存社』は昭和初期の超国家主義の源流をつくった組織だけど、ウィキペディアでみたら、『主な同人』の項に安岡正篤の名前が載っていたよ。安岡が『体制派右翼の長老』であり『自民党政治家のアドバイザー』だという分析もうなずけるね。」
「安岡正篤という人の影響力は相当のものだったようだ。これで、『山本校長小突き事件』を起こしたのが一部同窓会員による行為ではないこと、またその背後には、国家レベルの保守的な力が働いていたということが理解できると思うね。田辺七六氏・広瀬久忠氏・名取忠彦氏、すべて『至誠』という絆でつながる保守派の人たちだからね。」

14)戦前・戦中・戦後をつなぐ校歌

「田辺七六氏が追放解除になるのは、1951年(昭和2686日)。『当選すれば大臣の椅子は間違いなかった』(『田辺七六』(516頁)といわれた七六氏だけど、病気には勝てなかったとある。」
「追放中の七六氏の『影の領袖』として“身代わり候補”となったのが、後の山梨県知事、天野久だな。こんな資料が残されているよ。」

「田辺七六の身替わりに立候補した天野久」(『田辺七六』)
 「昭和214月の総選挙は、終戦後はじめての民意を政治に反映する機会であったが、この時、先生(田辺七六)の身替わりに立候補したものは、北都留郡笹子村に酒造業を営む天野久であった。(略)天野は先生と同じ下於曾の出身であって、その青年時代の約10年間、田辺本家内に起居して、先生と朝夕を共にした関係があり、切っても切れない仲であった。」(458頁~459頁)

「公職追放となった田辺七六氏が、何とかして保守地盤に影響力を残そうとしていたことがわかるね。」
「体調はすぐれなかったようだが、自民党入党の手続きをとったとあるよ。」

「先生(田辺七六)は自民党入党の手續きをとった」(『田辺七六』)
 「先生の病状は、昭和26年の春を迎えてからも、依然として、一進一退というところであった。(略)この年86日、かねて懸案の全面的追放解除が発表となった。先生もまた解除となり、ここに政治的一切の自由を獲得することが出来た。(略)かつて終戦直後、日本進歩党を結成した同志の殆どが、追放によって政治的虐殺を蒙ったのであるが、今やすべて復帰するとに至った。(略)昭和26127日、先生は同郷出身の樋貝詮三、鈴木正文両代議士を紹介者として、自民党入党の手續きをとった。」(501頁~507頁)

「七六氏は亡くなるのは1952年(昭和27年)81日のことだけど、葬儀委員長をつとめたのが広瀬久忠氏だったんだね。」
「その広瀬氏は、戦後再び政界に乗り出すわけだ。広瀬氏は戦後『勲一等』や『塩山市名誉市民』の称号を受けているから、戦時中の公職に関する責任はすべて不問に付されたということになる。」 

広瀬氏、石橋湛山・岸信介の紹介で自民党へ入党
 ・1951年(昭和2686日 公職追放解除
 ・1953年(昭和284月 参議院議員第3回普通選挙当選
 ・1957年(昭和3248日「日本国憲法改正広瀬私案」を参議院緑風会へ研究資料として提出。石橋湛山・岸信介両氏の紹介で自民党へ入党(入党の年月日は不明)。
 ・1964年(昭和3911  勲一等瑞宝章(『無我献身』154頁~172頁)

「戦中の厚生大臣として大東亜戦争を指導し公職追放を受けた人物が、戦後20年も経たずに勲一等を受けることができるんだね、日本という国では…。」
「『勲一等』がいかに政治的な意味をもつか検証するにはいい事例だよ。その広瀬氏が日川高校同窓会長になるのは1965年。ここに『就任の御挨拶』があるけど、もちろん戦中の“汚辱”については一行も書いていない。」

「母校日川の同窓会長の重任をお受けすることになりました」(同窓会長 広瀬久忠)
 「同窓の皆さんの御推薦に依って、私は母校日川の同窓会長の重任をお受けすることとなりました。(略)第3回の卒業生である私が、今母校の過去を顧りみますと誠に感慨深いものがあります。卒業後60年の年が流れたのであります。その間日本の政治、経済一切の文化はめまぐるしいばかりの変化を致しました。然し毅然として、健全の姿を維持しつづけた、母校日川を今ここに仰ぐことを語るのは何んと言う貴といことでありましょう。(略)私は、先般の参議院選挙に於いて『この身を山梨の為に』を標語とし、五つの政策を公約として戦いました。…(第3回卒 参議院議員)」(『同窓だよ』No.3/11965年)

「まったく、よく言えるよね。『日本の政治・経済はめまぐるしい変化をしたが、毅然として健全の姿を維持しつづけた』だとさ。とくに、『毅然として健全の姿を維持しつづけた』の部分は耳を覆いたいくなる発言だ。残念ながら、広瀬同窓会長のこの就任挨拶に疑問を感じた同窓会員はいなかったということだろうね。」
「疑問を感じる人は同窓会へなんか行かないさ。戦中の雰囲気を戦後に引き継いだという意味では広瀬久忠・名取忠彦・田辺国男の3人の同窓会長時代が顕著だったと思うけど、校歌に対する異論はその頃もあったんだよ。同じ『同窓だよ』No.3に載ったこの文章をみてくれ。」

「校歌にひとこと」(生原繁美・高2回卒)
 「私たちが学校時代をすごしたのは戦争中から終戦直後までの大変めまぐるしい時期であった。(略)今回の同窓会の幹事になり多くの会員券を取扱っていて、その裏に印刷してある歌詞を見る事が多く、はじめて『おやっ』と思った。124番は何のひっかかる所はないにしても3番の歌詞は一寸ひどい。つまりこうである。『質実剛毅の魂を染めたる旗を打振りて』までは見送って『天皇(スメラミコト)の勅(ミコト)もち、勲立てむ時ぞ今』となっている。(略)この歌詞の言おうとしていることは『我々日川健児は天皇のため、その命令でどんなことでもして立派に役立ちます。命もおしくありません』と言うことだろう。これじゃあ『木口小平は死んでもラッパをはなしませんでした』と同じ事を誓わせているようなものでナンセンス。ナンセンスよりもおそろしい事になる。(略)私は提案する。校歌の3番の歌詞をかえる事を。…」(『同窓だよ』No.39頁~101965年)

「広瀬氏の同窓会長『就任の御挨拶』が載っている同じ号に、校歌に対する批判文が載っていることは注目に値するね。当然広瀬氏も読んでいただろうが、同窓会としてこの“異論”に対しどう対応したか、同窓会内はもちろん、教師や生徒たちが話し合ったと思えないね。勲一等の同窓会長が手放さない校歌だから、会長の考えに反する意見を言える“日川人”はいなかったということだろう。」
「言いたいやつには言わせておけ、というところかな。そういう校風だから、学校や同窓会は粛々と『校歌碑』の建立計画を進めるわけだ。」
「校歌碑が完成したのは1971113日だとあるね。」

「校歌碑の建立」(名取忠彦)
 「母校日川高等学校は、明治34年に創立せられたのでありますから、今年で満70周年を迎えたわけであります。(略)記念事業の一環として、『校歌碑』を建設することといたしました。(略)日川魂を表徴し永遠に伝えんとするものであります。…」(「創立70周年記念号」『同窓だよ!』No.911971年)

「ここまでくれば、校歌擁護派の動きは勢いを増すばかりだな。」
「そこに現われたのが山本校長の『校歌問題への提言』だったというわけだ。」

15)山本校長への手紙と返信(1995年)

「君が『中央線』に最初に『日川高校校歌にみる戦後認識』を書いたのが1986年。次に山本校長と連絡をとったのはいつのことなの?」
10年後の19956月のことさ。その頃のオレは、アメリカ合州国の先住民やオーストラリアのアボリジニーのルポをやっていたんだよ。だけど、『創立百周年記念』の年が迫っていたからね、これ以上待ってはいられないという気持ちだった。『日川高校校歌問題』に対する山本校長の気持ちを確かめたかったんだ。相手は母校の大校長先生だからね、恐る恐る手紙を出したというのが本音だよ。」

先生は現在も『日川高校校歌は改変すべし』とのお立場に立たれておられるのでしょうか」(河西久 1995年)
拝啓 いよいよ、本格的な夏を思わせる暑さとなりました。御無沙汰でございます。いつぞやは、日川高校で講師を勤める機会をいただき、ありがとうございました。短期間とはいえ、母校の教壇に立つなどということはほんとうに畏れ多いことです。私の父が、オジが、兄弟たちが学んだ学校であり、歴史の重みをしみじみと感じさせられた数か月間でした。校門、図書館、石碑、グラウンドなどは昔のままであり、校舎こそ鉄筋に変わりましたが、日川という名前が呼び起こす独特の雰囲気というものは確実に保たれているのを感じました。(略)
 ところで、先生は現在も「日川高校校歌は改変すべし」とのお立場に立たれておられるのでしょうか。今年は戦後50年の年に当たり、あの大東亜戦争、太平洋戦争の持つ意味を根底から問い直す作業が学界やジャーナリズム、あるいは宗教界を中心に行われています。(略)校歌の中で『天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今』と盲目的に歌い続ける日川はこの潮流にどう対処すべきなのでしょうか。…619日」 

1985年の『山本提言』は、その後議論もされず放置されていたということだね。」
「同窓会誌をみていたけど、残念ながら『校歌問題』という言葉さえ聞かれない状態だったと思うよ。でもね、校長からこの返事をいただいてうれしかったな。」

「もし定年まであと1年が私に与えられたとしたら、校歌改変の機運醸成に大いに情熱を傾けたことでしょう」(山本昌昭)  
「謹啓 お便り、並びに『中央線』第47号及び『教育界にみる戦後認識』なる論文のコピー、有難く拝受致しました。日川高校校歌に対する御意見、種々資料に当たって丹念に調査された上での説得力ある文章に感服致しました。現在の私の日川高校校歌に対する見解や如何に、とのことですが、同窓会誌『同窓だよ!』第23号の校歌特集中の私の座談(コピー同封)、並びに『日川高校図書館だより』第28号に寄稿した私の提言(コビー同封)に、今もって些かの変化もありません。昭和611月、突如勃発した白馬事件という不祥事のために、残念ながら、私はたった1年で日川を去らねばなりませんでしたが、もし定年までのあと1年が私に与えられたとしたら、事の成否はともかくとして、校歌改変の機運の醸成に大いに情熱を傾けたことでしょう。(略)
私の校長在職中、同窓会の理事会に、校歌改変の必要性を訴え意見を求めた事がありました。その席で、二人の理事から発言がありました。一人は中村公卿氏、もう一人は有賀茂氏でありました。中村氏曰く、『校長、それはこれまで何回も議論されて来た事だ。どこまで行っても平行線のまま結論が出ないからお止しなさい』と。有賀氏曰く、『それは山本校長個人の意見か、それとも学内の世論か、もし山本個人の思いつきの見解なら許さん』と。当時、学内にそんな世論があった訳ではなく、校長就任以来、私が秘かに抱いていた一種の使命感みたいなものによるものでしたから、その旨説明したところ、『校長一人の見解で、長いこと歌われて来た校歌を、軽々しく改変するなど絶対に許せん』と、きついお叱りをいただきました。(略)
過日、種田一夫現日川高校長に、文芸雑誌『中央線』所載の大兄の論文について話したところ、まだ拝見してはいないが、今年と言ってもちょっと急過ぎるし、百周年記念事業の一環としてやるのがよいのではないでしょうかね、とのことでした。まあ、それも一理ある考えだと思います。それにしても、同窓に世論の盛り上がりが無ければ事は進展しませんから、時期が良くても悪くても、大兄のような主張が同窓の目に触れることは極めて有意義な事だと思います。…平成7630日」

「校長の意思が不変であることを知って胸をなでおろしたよ。同時に、これで事態はまた動き始めたのだという重圧感にも襲われたな。」
「現職の種田校長から、『(校歌問題は)百周年記念事業の一環としてやるのがよいのではないか』という提言をもらえたのは大きかったね。」
「日川のあの重圧の中で、一人で事を起しても無視されるだけとわかっていたけど、山本校長がいれば何とかなる、元校長が引っ張ってくれるなら千人力だと思ったね。日川高校や同窓会の関係者の間には、2001年の『創立百周年』という節目がすでにはっきりと視界に入っていた頃の話だからね。」

16)「戦後50年」をめぐる日川高校の校内事情(1995年)

B「不幸なことだが、日川高校という言葉を聞くたびに重圧感を覚えるね。個人の信念、あるいは心の自由、そのあたりを大切にする教育環境が望まれるところだな。」
「そういう意味で『山本校長小突き事件』はあってはならない事件だけど、この事件を日川高校の恥だと考えた山本校長は、『小突かれた』事実を2004年に始まる裁判の頃まで明らかにしなかったんだ。でも、その後の裁判の学習会の席で校長は口を開いたんだ、『私は小突かれました』とね。」
「小突いた人物は?」
「校長はこう語っている、『OBで県会議員のO氏が近寄ってきて私と肩を並べ、「校長、校歌を変えるじゃあねえよ、いいけ」と左腕の肘で私を小突きました』(「『天皇の勅』失効確認を求める山梨県民の会ニュース」第1618頁)とね。」
B「その事実を知る日川人はほとんどいないだろう…。ところで話は戻るけど、『種田提言』が掲載されたのは『戦後五十年』の年の『同窓だよ!』だったね。」
ANo.33だよ。種田一夫校長(在任1994~1997年)は、日川の関係者が『校歌問題』が存在することを認めたうえで、『熱い議論と関心を』と訴える一文を書いているんだ。さらに、この問題を『百周年記念準備委員会』で研究することを提言したところはさすがだと思ったね。」

「熱い議論と関心を」(種田一夫 27代日川高校長)
 「…また、校歌の詞をめぐる戦後50年の歴史と現状が、山日新聞の『見た夢 来た道』の中で、『日川 残った校歌上・下』として取り扱われ、さらに、この記事をめぐっての投書の掲載がありました。校歌の問題については、幾度かの検討の歴史を経て現在に至っている経緯がありますので、必要があるならば、本年11月に発足を予定しています『創立100周年記念事業準備委員会』で研究して頂くことが妥当であると考えております。」(『同窓だよ』No.3351995年)

A「『種田提言』を読んだときは本当にうれしかったな。現職校長だから影響大だよ。日川にも理解者がいるんだという気持ちだった。でも、ちょっと落胆した部分もあるんだ。文中に『必要があるならば』いう一言をはさんだことさ。種田校長にしてみれば、自分は日川の出身ではないとう遠慮があったのかもしれん。でも、種田校長は現職だよ。現職校長としての判断を表明する絶好のチャンスだったのにそれを薄めてしまった、そういう感じがしたね。」
B「でも、『種田提言』が同窓会や教師に与えたインパクトは大きいよ。だけど、やはりというか、『種田提言』をフォローする論考が引き継がれないところが日川だな。『種田提言』を読む同窓生は、当然その直前に掲載されている田辺同窓会長の文章と比較しながら読むだろう。」

「戦後50年―日川魂によって結ばれた同志の間には、世代間の断層など存在しない」(田辺国男同窓会長)」
 「今年は戦後50年に当たります。しかし、それは歴史の上の一つの区切りということではなく、わが国日本にとって、また私たち日本国民にとって、誠に重大な意味を持つ50年であったと思います。(略) 私たち日川同窓会は、心から母校を愛し、ひたすら『質実剛毅』『文武両道』の輝かしい伝統を守り、受け継いで参りました。その日川魂によって結ばれた同志の間には、世代間の断層など全く存在しません。それこそが、われらの誇りであると確信するのであります。日本が直面するいかなる困難な課題であろうとも、わが日川魂をもってすれば、不可能なるもの無し、と自負するものであります。」(『同窓だよ!』No.3341995年)

B
「これらを読み比べる同窓会員たちは、同窓会長発言には全く変化がないことに気づくはずだ。毎回『伝統』、『質実剛毅』、『文武両道』とお題目を唱えているだけだからね、現状打破の議論が提起されるはずはないさ。それにしても1995113日の同窓会はもめたようだね。新聞には“騒然とした”と書いてある。」
A「山本校長はその席上で発言を求め、『校歌問題』ついて同窓会の考えを質したんだ。翌日の新聞をみて、オレは打ちひしがれた気分に襲われたね。情けなかったよ。自分の不甲斐なさが…。オレは当然行くべきその総会に行かなかったんだ。同窓会と聞いただけで、オレはアレルギーを起こしていたからね。同窓会にはそれまでも一度も出席したことがないけど、本心を言えば、オレはたくさんの恩師たちや同級生の注視を浴びる中で、校歌に反対する意志を明らかにすることが不愉快だったんだ。別に山本校長と約束していたわけではないけど、『ここは校長にお任せして…』、と勝手な判断をして逃げたんだよ。ところが、新聞で『校歌是非で一時騒然』との記事をを見て、大事な時に山本校長を支えられなかったという慙愧の気持ちに襲われたな。」
「これがその新聞記事だね。」

『天皇は象徴であり日の丸、君が代も認められている。校歌3番の歌詞も問題はないと理事会で結論付けた』(田辺国男第4代同窓会長)
 「… 続いて議事に入り、議案審議をすべて終えて議長団が議事終了を会場に諮ったとき、山本元校長が手を挙げて演壇前に進み出た。山本元校長はマイクで田辺会長に対し『校歌問題に取り合わない理由はどういうことか』とただした。田辺会長は『天皇は象徴であり日の丸、君が代も認められている。校歌3番の歌詞も問題はないと理事会で結論付けた』と答えた。議事団はここで議事を打ち切った。山本元校長の発言時には会場各所からやじが飛んだほか一部から拍手が起き、田辺会長の発言後に出席者の多くが拍手をした。祝宴後に校歌を斉唱して閉会した。」(『山梨日日新聞』1995114日)

17)「公開の質問書」と関係者からの回答(1998年)

B「君たちが文部大臣・山梨県知事・日川高校長ら宛てに『公開の質問書』を出したのは、1998年だったね。」
A「『創立百周年』の直前のことだよ。今考えると、あれも一つの大きなヤマだったと思う。『公開の質問書』は田辺同窓会長を含め、5人の関係者に送付したんだ。」

【公開の質問書】(山本昌昭代表)
「(校歌・省略)…日川高校の校歌『天地の正気』は、1916年(大正5年)につくられました。この校歌のとくに3番は、大日本帝国下の教育理念を表現しています。『校歌の中には、時代にそぐわぬ表現があるにせよ、その中に歌われた『質実剛毅』の精神は、時代を超えて引き継がれていくべき日川のよい伝統であり、先輩・後輩をつなぐ心のきずなとして、継承を志したのであった』と創立80周年記念誌の『本校の沿革』にも書かれているように、日川高校は、3番が明らかに日本国憲法に抵触することを認めながら、戦後の教育を推進してきました。『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)』を戴く校歌『天地の正気』は、戦前的価値をとどめる全国でも稀有の校歌として校歌擁護派の人々に賞揚されています。戦前の日川中の生徒は、質実剛毅の魂(=日川魂)をもち、天皇のために命を捧げる教育を受けました。その戦意高揚の校歌が全く同じ理念のまま、戦後52年間歌い継がれてきたのであります。現在校訓の一つとなっている『質実剛毅』は『天皇の勅もち 勲立てむ時ぞ今』に収斂しており、これらを切り離して考えることはできません。この思想を根源にもつ校風は『日川教育』とよばれ、歴代校長はその校風を何よりの誇りとして堅持すべきことを生徒たちに教えてきました。(略)日本国憲法下の教育機関が天皇主権時代の教育方針を謳う校歌を生徒に強制することは、許されることではありません。ここに資料とともに公開の質問書を送り、再度同窓会の見解を伺いたいと思います。憲法記念日までに回答をいただけますようお願い申し上げます。
  1998420   
       「新校歌とともに21世紀を歩む日川同窓の会」代表  山本昌昭

    山梨県立日川高等学校同窓会会長  田辺国男殿 

【回答】
   田辺国男日川高校同窓会長
  (開封なしに返送)
 町村信孝文部大臣(当時)
 「設置者(山梨県知事)がどう考えているかが問題だ。」(秘書官から山本校長への返電)
■ 天野建山梨県知事(1998年〔平成10年〕514日)
 「各学校の校歌は、各学校が建学の精神や校風、その歩みなどを折り込んで独自に作成し、歌い継がれて来たものであります。従って校歌の改廃等は各学校の自主的な 判断に任さるべきものであると考えます。」
 輿石和雄県教育長(1998年〔平成10年〕513日)
 「校歌については、国の法律、山梨県立学校管理規則や山梨県立高等学校学則等においても、特に定めがなく、各学校が独自に、建学の精神や校風、地域の風景などを 表象して作成し、歌われております。従って、校歌の内容、斉唱の指導等については、各学校の判断において行われるべきものと考えます。」
 手塚光彰日川高校長
 「私にはお答えしようがないので、回答できない。」(山本校長への電話)

「これ以外に、『校歌改定を求める同窓有志の会』や『山梨平和を語る会』が出した公開質問状もあるから、これらもいっしょに読んでいただきたいよ。『校歌改定を求める同窓有志の会』名で出した文書は、同窓会理事会で校歌問題を議題として取り上げるよう要望したものなんだ。『その必要はない』という回答だったけどね。次の二つの文書は、『百周年』の前の年に交わされた文書であることに注意したいよ。日付は2000年とある。」
「これらの質問書や要望書のすべてが、結果的に門前払いとなったということになるね。」

「校歌改定を求める同窓有志の会代表 山本昌昭(旧中40回卒)殿」(田辺国男)
         校歌問題ついて(報告) 
「校歌改定を求める同窓有志の会代表山本昌昭(旧中40回卒)殿から要望のありましたことについて、平成12年度山梨県立日川高等学校同窓会第2回常任理事会・理事会において、議題としてとりあげ、審議いたしました。その結果、平成12年度日川高等学校同窓会総会の議事としては、『とりあげない』ことに、出席された常任理事・理事の満場一致で決定いたしました。また、平成12年度山梨県立日川高等学校同窓会第2回常任理事会・理事会における『校歌問題について』の審議結果を、平成12年度日川高等学校同窓会総会において報告する必要性がないと決定いたしましたので、あわせてご報告申し上げます。
    2000年(平成12年)1023
      山梨県立日川高等学校同窓会 会長 田辺国男」

「創立百周年を、世界に誇れる『日川高校』として迎えるべき」(『山梨平和を語る会』)
 「私たちは毎年8月に、戦争の無い平和な世界を実現するにはどうしたらいいかを考え、話し合う集会を開いている有志の集まりでありますが、今年のテーマの一つとして、県立日川高等学校の校歌の問題を取り上げました。(略) 森総理大臣の『我国は天皇を中心とした神の国である』という発言が大きな問題となったことは御承知のとおりであります。日川高校・校歌の3番にあります『天皇の勅(すめらみことのみこと)もち 勲(いさお)したてむ時ぞ今』はこの総理の言葉に匹敵する問題を含んでいると私達は考えます。(略)
   戦後、日本は民主主義国となり、政党の名にも『民主』をつけたものが多いのは、この体制を維持しようという決意の現われだと思われます。その日本に過去の軍国主義の遺物のような時代錯誤的校歌が残っていて、それを改めることがタブーとなっているというのは何故でしょうか。全く理解できません。今の世界に通用しない『伝統』への郷愁にしては執着が強すぎて、偏屈という印象さえ受けます。日川高校は来年創立百周年を迎えると聞いております。校歌問題を解決し、この一つの大きな節目を、21世紀にふさわしく世界に誇れる『日川高校』として迎えるべきではないのでしょうか。ご教示いただければ幸いです。
         2000
86日」  (代表世話人 小出昭一郎 橘田浜子)

18)「日川高校歌は永遠か」(山梨日日新聞)

【山梨日日新聞】(2000928日)
【争論 日川高校歌は永遠か】改定派の主張省略)
 「県立日川高校(山梨市)の校歌問題が再燃する気配だ。校歌3番の『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち…』という歌詞をめぐって『天皇の勅とは教育勅語を指すものであり、皇国史観の色濃い校歌。公教育の現場で歌うのはなじまない』と主張する一部の声に対し、強固な結束と影響力を持つ同窓会は『伝統ある校歌で改定の必要なし』としてきた。このため改定派は、近く県教委などに対応を促す申し入れを行う構えだ。学校関係者も含め、教育に携わる一人ひとりの歴史観が問われる問題でもあるが、双方の主張は隔たりが大きい。1901年(明治34)年開校の同高は来年創立百周年を迎える。校歌はどうあるべきか。節目の年に向けて、関係者の考えを聞いた。」(文化部・小林弘英記者)

「不変は同窓会『総意』  理屈抜きに郷愁感じる」(回答:田中勇同窓会副会長)
記者「校歌について、日川高同窓会のスタンスをあらためて確認したいのですが。」
回答199511月の同窓会総会で、改定派から動議が出されました。その時に同窓会長(田辺国男元衆院議員)が『現校歌に問題はない』と答弁し、これを受けて議長団が出席者に諮り、万雷の拍手で答弁が承認されました。つまり『校歌は変えるべきではない』というのが同窓会の総意で、すでに決着済みの問題です。」
記者「同窓生は2万人超。うち同窓会出席者は約1,000人。総意として成立しますか。」
回答「同窓会の下には支部や地域別、卒業年次別の組織があります。それを積み上げた同窓会総会は最高の議決機関。当然総意です。」
記者「そもそも校歌をどうするか、決めるのはだれですか」
回答「学校長でしょう。学校裁量ですよ。同窓会が決める問題ではありません。越権行為になります。ただ同窓会の意向を聞かれれば『変えるべきではない』と答えるでしょうね。総意ですから。」
記者「日川の同窓会の力は強大です。学校側もその意向を受け入れざるを得ないのではないですか。」
回答「そんなことはありません。われわれはそんなにうぬぼれてはいません。最終的には校長の考えです。」
記者「仮に将来、校長が校歌を改定すると言ったらどうしますか。」
回答「同窓会としては反対するでしょうね。『変えない』が総意ですから。一度決めた結論が二転三転することはありません。」
記者「校歌擁護派の中にも『すめらみこと』をめぐって『天皇そのものを指すものではない』などさまざまな解釈があります。一方『勅』を教育勅語だと認めている人もいますね。解釈は一本化されていない。」
回答「それはよく分かりません。とにかく変えないと決めたわけですから…」
記者「全面的に変えるのではなく、部分的に変える、3番は省略する、など他にも選択肢があるのではないですか。」
回答「(現校歌を含めて)校歌は2種類あるというのは自然ではないし、あまりよくないことではないでしょうか。」
記者「新しい制服、丸刈りからの解放、選抜方法・学区…。日川はこの数年で劇的に変わりました。なのに校歌だけは侵すべからず、ですか。」
回答「わかりません。でもみんなが変えるなという意見ですよ。」
記者「あらためて聞かせてください。現校歌にこだわるのはなぜですか。」
回答「変える必要がないからですよ。よい歌だと思いますよ。メロディーも歌詞も。歌詞の言葉の一つ一つを厳格に判断して、そんなに杓子(しゃくし)定規に突き詰めることが必要でしょうか。」
記者「伝統であり“団結のシンボル”だからですか。現役の生徒には縁遠いノスタルジアではないでしょうか。」
回答「いい歌だ、ということ。それだけですよ。理論、理屈じゃあないんです。それがノスタルジー、郷愁であってもいいじゃあないですか。現在の生徒にとっては、今から(卒業後に)ノスタルジーを感じる歌になっていくのではないですか。」
記者「同窓会の『総意』は永遠ですか。」
回答「それはわかりません。ただ、わずか5年前に議決したばかりですよ。今、あらためて決めなおすという時期ではないと考えています。」
  (『山梨日日新聞』2000年(平成12年)928 山梨日日新聞記者とのインタビュー)

「聞き終えて」――「生徒自身の問題 議論を」(山梨日日新聞 文化部 小林弘英記者)
 「過去もそうだったが、今も双方の議論はかみ合わない。理論で攻める改定派に対し、擁護派は伝統という概念に拠(よ)って『決着済み』と繰り返し、改定派と同じ土俵には上がらない。田中さんには今回、写真撮影もやんわり断られた。この件に関しては今のところ生徒たちの顔も見えない。私も日川の卒業生だが、在学当時は校歌について自分の考えを問うことをしなかった。忸怩(じくじ)たるものがある。改定するしないの問題以前に、これは生徒自身の問題でもある。殺ばつとした時代に伝統や愛校心は貴重なものだ。だがこの問題に限らずとも、『伝統』という言葉に甘えて改革の気概を失うとしたら、“日高健児”たるものの理想には遠いだろう。校歌に異論がある以上、関係者はあらゆる議論を尽くすべきであり、その作業は『伝統』に反することにはならないはずだ。」

【山梨日日新聞】(20001028日)
【争論 続 日川高校歌は永遠か」改定派の主張省略)
 「『伝統』か『硬直』か、『個性』なのか『頑(かたく)な』なのか。『天皇(すめらみこと)の勅(みこと)もち』の歌詞をめぐる県立日川高校歌の改定是非論議の方向は、まだ一点に向かう兆しがない。だが前回の『争論』後、さまざまな人が、さまざまな声を寄せてくれた。関心は高い。折しも113日は同窓会総会が開かれる。そこで今回は続編として、現職校長と元校長に、それぞれの考えを聞いてみた。『日川高校校歌は永遠ですか』」(文化部・小林弘英記者)

「同窓会の『総意』 尊重 生徒からも異論出ない」(回答:木藤勇興日川高校長)
記者「校歌を変える、変えないを決めるのはだれですか。同窓会は『学校長の裁量』と言いますが。」
回答「わからないですね。しかし校長だとは思いません。(略)」
記者「それなら仮に『変えよう』という話が出てきた時、だれがイニシアチブをとるべきですか。」
回答「もう(同窓会で『変えない』と)決まっているわけですから、そういうことは問題にならないでしょう。仮にみんなが変えたいと考えたとしたら、学校と同窓会の両方が一緒に協議していく問題ではないですか。」
記者「それでは改定を提起するとしたら、どこが窓口になるのでしょうか。」
回答5年前は同窓会総会に動議が出されました。提起するとしたらそういう場所だろう、と思います。」
記者「動議を提出した山本校長は『決定は横暴なやり方であり、総意とはいえない』と今も言っていす。」
回答「多数決の原理というものがあります。しかしだからといって少数意見が抹殺されるわけではないんです。少数意見が多数になっていけば達成される可能性が出てくるのが多数決の原理です。相手側(改定派)に立てば、(そういう手順を)踏んでいくべきではないでしょうか。」
記者「校長として現状では校歌改定是非の検討に着手するつもりはない、と。」
回答「ないです。」
記者「もし検討を始めるとすればどういった時でしょうか。」
回答「将来、同窓会がそういう方向で動けば検討していくことになるでしょう。もっともその時私は(現場に)いないだろうし、仮定の話ですから分かりませんが。私が現職であり、なおかつ同窓会が動かない限り、現場が動くことはありません。ノーアクションです。」
記者「手続きの話から問題の本質に入りたいのですが、過去の同窓会誌には『天皇の勅』は教育勅語を指す、とあります。解釈についてはどう考えますか。」
回答「言葉は一度発すると一人歩きするものです。だから私はコメントしません。総意で変えないと決めたわけだし、字句を突き詰める必要はないでしょう。一つ一つの字句についての話は一切しません。」
記者「それならば『校歌』とはどういうものだと考えているのですか。」
回答「オリンピックでも日の丸が掲揚され、君が代が流れれば、涙が出て感動します。校歌もそういう部類のものだと思います。帰属意識や団結、奮い立つ、涙する。校歌にはそういう良いイフェクト(効果)があると思いますよ。だからどの学校にも校歌があるのです。」
記者「生徒たちは現在の校歌をどう受け止めているのでしょうか。異論はありませんか。」
回答「素直に受け止めて歌っていると思います。生徒の間から異論が出たことはありません。ちゃんと歌詞も覚えて歌っています。歌詞の意味をきかれたこともありません。だから(学校側が)問題として提起することはあり得ないのです。」

   「聞き終えて」――「深く遠い両者の距離」(山梨日日新聞文化部 小林弘英記者)
 「校歌改定に消極的な人も含めた『擁護派』と、『改定派』。これまで双方に話を聞いてみて、互いにかみ合わなかったり、見解が異なる点が少しずつ整理されてきた。本質的な問題としては『「天皇の勅」とは何を指すのか』であり、手続き論としては『校歌を変える最終的な権能をもつのはだれか』『5年前の同窓会での「総意」は有効なのか』で考え方が分かれる。概念としては歴史観の問題も含め『伝統とは何か』が問われようとしている。だが改定派が投げ掛けた問題の全重量を、擁護派は受け止めようとしない。両者の距離は遠く、深い。この問題が解決する時が来るのだろうか。意地や郷愁を捨てて未来に向かうことができるのだろうか。日川高はこのまま、この“アキレス腱(けん)”を抱えてゆくのだろうか。」

 19)「創立百周年」と「神州第一の高校」宣言(2001年)

2000年の同窓会総会も相当荒れたらしいね。実際どうだったの。新聞記事は読んだけど…。」
「生涯に1度出席しただけの、忘れられない同窓会総会になったよ。この総会にどう対処するか、山本校長と話し合ったことがあるんだ。『今回は壇上に上がるつもりです』と言うと、校長はやんわりこう返してきたんだ。『壇上に立つと脚が震えるからね。まあ、任せておいてください、私ががやりますから』とね。」
「新聞の写真を見るかぎり、出席者は圧倒的に男性だな。卒業年次ごとのテーブルにつく決まりのようだけど…。」
「そう。議事は進んで、総会は無事終了寸前というところまできたんだよ。その時山本校長が挙手し、壇上から校歌についての自説を述べたんだ。校長の話が終わり司会者が『校長の提案に賛成の人はご起立ください』と、挙手ではなく起立を促したんだな。オレは起立して周りを見回したけど、起立者は一人もいなかったよ。近くにいた中年男性がオレの方をにらみ付けて、何やらわめいていたな。周囲の人たちになだめられているのが見えたよ。」
「そして、その日から5か月後の2001422日、ついに『創立百周年記念日』となるわけだね。」

「創立百周年記念式典を挙行」(2001422日)
「平成13年(2001422日。創立百周年記念式典が挙行された。この日は、午前中に新体育館において記念式典が行われ、その後、トレーニングセンターで祝賀会を開催し、前庭に移動してモニュメント除幕式・記念植樹を行い、午後から明石康元国連事務総長特別代表による記念講演会が実施された。式典は、職員・生徒約1,000人に来賓300人を迎え、田辺国男創立百周年記念実行委員長会会長(中28)の挨拶のあと、第30代校長鶴田正樹(高14)が式辞を述べ、天野建山梨県知事・一木麗子県教育委員長・横内公明県議会議長・飯室俊一高等学校校長会会長・高田清一山梨市長(中44)が祝辞を述べ、生徒を代表して三井智博生徒会長が挨拶を行なった。…」(『創立百周年記念誌』190頁)

「日川魂は『質実剛毅』の校訓のもと、いついかなる時も、常に誠実に、真っすぐな道を進んでいこうとする姿勢にある」(田辺国男創立百周年記念実行委員会会長)
 「私たちの日川高校は、新緑さわやかな本日、創立百周年を迎えました。この百年は、大きな社会のうねりの中で翻弄された時代でもありました。多くの人々は生活習慣や価値観の変革を求められ、とまどいながらも、自分の道を探し求めて歩いています。そんな激動の中にあっても、常に変わらず受け継がれてきたものがあります。それは、多くの同窓生の、母校日川高校への熱き思いです。そしてそれは、創立以来、先輩から後輩へと、絶えることなく脈々と流れ続けています。日川魂は『質実剛毅』の校訓のもと、いついかなる時も、常に誠実に、真っすぐな道を進んでいこうとする姿勢にあるのだと自負しております。」(『創立百周年記念誌』190頁)

A「聞く耳をもたない日川高校同窓会については、山本校長は心底失望していたようだ。『あれ以来同窓会へは行っていない』という言葉を聞いたことがある。『日川創立百周年』という節目の年に至るまで、まともな議論ができなかったのだから…。」
「その後裁判にもなったけど、校歌に対する日川高校や同窓会の立場は今に至るも不変だね。1995年に田辺会長が『問題ない』と発言したこと、それに同窓会員が同調したというのが同窓会の論拠のようだけど、『問題ない』と判断した“同窓会長の発言ゆえに”同窓会員たちがこれに盲目的に従った可能性はあると思うな。」
「こういう同窓会の雰囲気だから、日川高校がさらに重大なミスを犯したときもこれに対応できなかったんだよ。例の『創立百年誌』に掲載された『日川高校詩』のことさ。この中で日川高校は生徒たちに対し、『須く期すべし 神州第一の黌』と呼びかけているんだ。とにかく、この詩を音読してみよう。聞いていてくれ。」

「須く期すべし 神州第一の黌」(近藤百之第16代日川高校長・在任19661970

       日川高校詩         
         近藤百之作

  文武切磋弟与兄      文武切磋す 弟と兄と
  質実剛毅鉄石盟      質実剛毅 鉄石の盟
  君不見故新脈々伝其粋   君見ずや故新脈々として其の粋を伝ふるを
  須期神州第一黌      須く期すべし 神州第一の黌 
                    (「日川高校詩」『創立百周年記念誌』121頁)

「ここでは、『質実剛毅』と『文武両道』が『神州第一の高校』の教育理念であると述べているけど、現在の日川高校の校訓・教育方針そのままではないか。『百年誌』を編集する過程で、だれかが、この詩は日川高校の将来に禍根を残す可能性があると進言しなかったのかということだ。」
「それができないのが先輩・後輩関係を重視する日川という教育環境なんだよ。『百年誌』にこの『日川高校詩』を載せたことで、日川高校や同窓会のこれまでの“弁明”はすべて破綻したのさ。責任をとることを知らない日川高校や同窓会のできることは、沈黙を保ったり開き直ることしかない。高裁判決出たとき山梨日日新聞は、『原告側は実質勝利したと言ってもよい』と書いたけど、頑なな日川高校はこれさえも無視しているんだ。」

「『十分な議論が必要』と言及したことで、原告側は実質勝利したと言ってもよい」(山梨日日新聞)
「…訴訟で原告側は『違法な歌詞を含む校歌の指導に費やした人件費など』の返還を求めたが、これは結果的に歌詞に対する司法判断を引き出すための戦術的な側面を持つ。今回の判決は返還請求について『支出のうち、校歌指導の部分の特定は不可能』『支出に重大な違法性があるとは言えない』として一審判決を支持し、原告側の敗訴となった。しかし、『天皇の勅』が何を指すかには触れなかったものの、憲法に照らして異論の余地を認めたこと、現行の歌詞の指導を教育課程に取り入れる当否にも『十分な議論が必要』と言及したことで、原告側は実質勝利したと言ってもよい。…」(2006522日)

「『百周年記念式典』には県の役人たちも参加していたんだね。」
「彼らはね、『日川高校校歌問題』が日本の公教育の本質に関わる問題であることを十分理解していたと思うんだ。でも、できないんだな。これは、日本の象徴である天皇に関わる問題だからね。われわれができることはただ一つ、日川高校に『天皇の勅』を称える校歌に『否(ノン)』を突きつけた校長がいたこと、そして、その校長の主張を記録に残すことだと思う。」
「同窓生討論は今回で終了になるけど、また新たなプログラムを立ち上げたいね。今、どんなことを考えている?」
「オレたちは山梨県知事をはじめ、文部大臣にまで、日川高校校歌の是非について質問したからね。また裁判所の判断を仰いだことで、国内の“救済策”はすべてその門を叩いたことになる。これからは近隣諸国が、また世界がこの歴史認識をどう考えるか、一石を投じてみたいね。」
「オレたちに与えられた時間は多くはないけど、もう少しがんばってみよう。」
「いいね。山本校長の『提言』を胸に歩いて行くとしよう。」  (2013225)                                              

 
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