私はこう考えます。
人間にとってもっとも大切なことは、「謙虚に生きること」だと思います。謙虚になる事と、卑屈になることとは根本的に違いますが、自分の周りの人々は、皆さん、自分より優れた能力をお持ちの方々であって、いつかは教えを受けたり、御世話になったりするかも知れないので、不愉快な思いをさせないように気をつけながら生活することだと思います。
また、「目に見える事だけしか信じられない」と言うのは、自分自身の能力の過信です。世の中には、自分が体験していない、知らないことでも、存在するものはたくさんあります。
その一つが、人間の心の中に存在する、宗教というものだと思うのです。仏像のような、偶像を崇拝したり、お経の中身を心の中で噛みしめてみたり、輪廻転生を信じたりする事です。
自分がどんなに抗っても、到底かなわないような、とてつもなく大きな力が存在するという事、畏れ多いものが存在すると信じられる心こそが、「謙虚な心」であり、「宗教心」そのものだと思うのです。
妙法蓮華経は、生きるための、生きていく人のための教えです。ただ、苦しみから逃れる方法を探るだけだったり、究極の目的は、死ぬことだったりしたら、何のために苦労して生きているのか解らなくなってしまいます。
お経の中に、佛様(人)は、永遠に生まれ変わりを繰り返しつつ生活するもの(久遠の命)だから、現在をしっかり生きなければいけないと教え、いくつかのたとえ話や、佛様の永遠性を繰り返し述べて、それを信ずることが生きる力を生み、自らを救う道であることを縷々述べています。
私ども、日蓮宗の僧侶は、この事を見いだして下さった、日蓮大聖人を敬い、その教えを守り、妙法蓮華経の有り難さや素晴らしさを皆様方に伝えようと努力しております。
でも、私は、難しいことばかり言うつもりはありません。本堂に座っているだけで落ち着くとか、線香の匂いを嗅いでいるだけで落ち着くとか、言っていただければ、それで充分だと思っています。もちろん、お望みならば、法話もいたしますが、ただ、お茶を飲んで世間話をするだけでも良いじゃないですか。どうぞご遠慮なくおいで下さい。お待ちしております。



戒名とはなんぞや、という『素朴な』疑問に答えようとしたテレビ番組がありましたが、訳の分からないことを言って終わってしまいました。
永遠に生まれ変わり(輪廻転生)を繰り返す事を信じ、死後、より高いステージでの修行が始められるように徳を積み、善行を積み重ねる生き方をするように戒める為の名前、また、亡くなった後で、こういう生き方をした人です、と、佛様に報告するための名前が、「戒名」です。したがって、より良い戒名をいただけるように望むのは、そのためなのです。
そんな話とか、いかに優れた教典の教えであっても、盲目的な信仰は大変危険だ(オウム真理教等)とか、日蓮聖人が他宗を厳しく論破し、妙法蓮華経の優位性を述べたことと、前述の拙僧の考え方との、一見矛盾することがらについてのこととか、お話ししたいことは山ほどあります。
でも、私はしゃべりません。お聞きします。即座に否定して、いやな思いをさせるようなことは決してしませんので、素人なりに感じていることをありのまま、飾る必要もありませんので、御遠慮なく話してみて下さい。
特に話してほしいのは、悩んでいることです。誰かに話すことで、ずいぶん気持ちが軽くなりますよ。「ホッ」をだしませんか・・・・・。


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昔の話をすれば

粟(あわ)飯?

お大黒様?

歴史を語るもの・・・

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正慶寺付近の名所旧跡

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