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武田信玄を輩出した武田家の始祖,武田太郎信義が自らの領地で収穫されるお米に【武川米】と名づけたのが始まりです。
武川村周辺で収穫されるお米は、江戸時代から武川米と称されて、高品質が評価されていました。
寛文年間に,徳島兵左衛門の通水事業の際(通称徳島堰、現在でも存在しています),新田開発がなされ,武川米はその美味しさを
理由に名前が近隣に知れ渡るようになりました。
地理的には,北は白州町の一部から南は御勅使川(みだいがわ)までの釜無川右岸一帯です。通称 武川筋(むかわすじ)と言います。
昭和10年頃,旭町上條北割地区にある田圃は,【献穀田】と呼ばれ,昭和天皇が召し上がるお米を作る場所に指定されていました。
池田氏と中込氏が毎年,丹精こめてお米を作り,宮内庁へ納めていました。当時作っていたお米の品種は<高砂>という品種です。
当時はこの<高砂>という品種が一番おいしいとされていたお米です。しかし,作り方が非常に困難ですぐに倒伏してしまい、一般にはあまり普及しなかったようです。
第二次世界大戦が始まるまでは,この【献穀田】は存在しましたが,大戦後は消滅してしまいました。
また,<高砂>という品種も自然消滅してしまいました。
昭和24年に新品種<農林48号>がこの<高砂>に取って代りました。以来【武川米】といえば,この<農林48号>を指すようになりました。
しかし,この<農林48号>という品種は,病気や冷害に弱い事が災いして,殆どの生産者が昭和31年に登場した<コシヒカリ>を作付けするようになりました。武川村内でも、<農林48号>を作る生産者は、ごく一部となってしまいました。
一般的には,【武川米】といえば,武川筋で収穫された<コシヒカリ>を指しますが,当店では,あくまでも武川村内でのみ収穫された
<農林48号> <コシヒカリ>を【武川米】と定義しています。現在,JAS法の基では,【武川米】の厳密な定義は、存在しません。
産地がかなり拡大解釈されて、販売されているのが現状です。
上記の定義は、当店のこだわりです。
平成19年度、当店の武川48【農林48号】は、全国米食味分析鑑定コンクールで、特別優秀賞を受賞しました。
さらに、2008年3月28日、講談社発行の『日本ブランド食材』にも掲載されました。
武川米コシヒカリは、平成17年度、平成18年度、平成19年度、平成20年度、平成21年度、5年連続で、財)日本穀物検定協会の食味ランク特Aを獲得しました。
冬の田園風景 甲斐駒ケ岳を望む
では,何故,武川米が美味しいのでしょうか?